「あわれなものよな」
神奈子が、ぽつりと呟いた。
沈黙ばかりが泰然と居座る今の評定堂に、その言葉は重々しく響いた。
居並ぶ評定衆も、神奈子の横に在る洩矢諏訪子も、みな一様に黙りこんでいる。自分たちが破滅に追い遣ったひとりの死者へ、せめても悼む気持ちがあったからだろう。
強い塩気のにおいと、それに紛れるかたちでかすかな血のにおいが漂ってくる。
神奈子はいちど堂の皆を見渡し、においの“源”を両手で首桶から持ち上げた。
ジクイの軍勢によって討たれた、商人オンゾの首を。
腐敗を避けるべく塩に漬けられたがため、『彼』の髪や眉にはすっかり塩の塊がこびりついてしまっている。神奈子はオンゾの死に顔をまじまじと見つめていたかと思うと、塩の塊を剥がすことを始めた。ゆっくりと、ていねいに、慎重に。その手つきは、貴い宝物を扱う様を連想させる。そこには勝ち鬨や嘲りなどない。戦いの果てに分かれてしまった勝敗のうえで、敗者を「よくやった」と慰める愛おしみの気持ちだけがあるのだった。オンゾの首に流れる、敗北の屈辱に泣き腫らしたような涙の跡も、それでようやく救われていくように見える。
「生きて戦うが愚かなら、死ぬるはあわれ。すべからく神と人との隔てとは、愚かであるか、あわれであるかの違いしかなかろうよ。そしてオンゾ、そなたは人の身でありながら神に立ち向こうてきた。その誇り高きを今や何人(なんぴと)が穢せようか。その誇り高きが神に等しからずと、どうして言い得ることができようか」
畢竟(ひっきょう)、諏訪子はこれが勇者(ゆうじゃ)の姿かと羨望する。
死したる以上、敵であってもその誉れを護り、決して辱めを与えはせぬという勇者の姿。
それは、自分にはないものだとも。
しばし、神奈子は自ら“死化粧”を施したオンゾの首と見つめ合っていたが。
やがて哀悼も済んだ心地か、再び『彼』を首桶へと納めた。
そのとき。ぱさり、と、古い血を吸った赤黒い塩塊が、桶の縁から床に落ちる。それに気づき、小さな怖れの声が聞こえた。評定衆のいずれかであろう。その声など端から聞こえてなどおらぬかのように、首桶の蓋を閉める神奈子。再び、重い沈黙が訪れた。
「この者の胴を探し出し、首とともに埋めてやれ。塚を築き、丁重に弔うのだ。決して粗略に扱うてはならぬと、そう兵たちに厳命せよ」
手のひらにこびりついた塩を拭うことなく、神奈子は命じた。
一同はひれ伏し、あくまで厳かに拝命の態。
諏訪子もまた頭を下げながら、横目ではちらと友人の姿を見ていた。膝の上に置かれた神奈子の両手は血と塩とを抱いたまま、何の躊躇もなく、ぎゅうと握り締められていた。出雲の神ゆえ、血や死にまつわる存在は触穢として厭うべきであるにもかかわらず。まして塩漬けにされた人の首など、死穢(しえ)の最たるものなのに。
「それもまた、将の器かな。神奈子……」
誰にも気取られることなきよう、頬の真裏で呟く諏訪子。
――――――
「南科野よりオンゾを除いて……」
威播摩令が、老いて乾いた声を張り上げながら言上する。
血や塩気のにおいがすでになくなった評定堂に、その声はひときわ清澄であるごとく響き渡った。オンゾの首を納めた桶は、とうに運び出された後なのだ。ただしその後、祓えによって堂の死穢を除く必要があったため、少しのあいだ評定は中断していたのだが。政を議するに触穢の続くは甚だ不吉というのである。直にオンゾの首に触れた神奈子もまた両の手をよく洗い、着物さえ替えて再び評定に臨んでいる。しかしこの度の祓えは簡便のもの、正式には後で数日の潔斎を要するという。まことに難儀な出雲人の習慣であった。
とは申せ、いつまでも穢れのことに汲々としている暇もなし。
論議は、何ごともなかったかのように再開されていた。
まずは威播摩令の言葉がなお続く。
「伊那辰野のユグルの叛乱を支える三つの柱――すなわち“オンゾ”“豪族”“水運商人”のうち、先のふたつまでは取り除かれた」
そう彼が改めて現状を説明すると、神奈子はゆっくりとうなずいた。
一同、上も下もなく威播摩令へと視線を傾注している。皆の注意がしっかり自分に集まっていることをよく確かめると、老臣は再び口を開く。
「もはや論議の用もなし。辰野は糧食の備えを断たれ始め、日干しとなっておろう。向こうの兵はたかだが四百。一方、諏訪には北科野三千の兵がなお健在。かくなるえは、一挙に辰野を攻むるべきかと存ずる」
自信たっぷりに息を吐く威播摩令。
年齢(とし)とともに積み重ねてきたものの重さを、示さんとするかのような余裕である。彼の隣に座る者も「右に同じく」と同調した。他の数人も首を縦に振る。賛同者を得て、いよいよ威播摩令は自信たっぷりの笑みを深くした。特に議論を深めるまでのこともなく、評定の論調は威播摩令の説く主戦論に傾きかけているように見えた。しかし。
「わが方に、異論あり」
さッと挙手をし、異を唱える者が出たのである。
皆の視線がその者に移った。威播摩令は話の腰を折られたと感じたのか、少し不満げなかたちに表情を曇らせている。じりと膝を進み出、刺すかのように威播摩令と睨み合った者は、渟足(ぬたり)である。
威播摩令に比べれば若々しく張りもある声で、彼は告げる。
「威播摩令どのの策は尚早なり。未だ兵三千を動かすに及ばず」
「なに?」
眉間に不快げな皺を寄せ、威播摩令は改めて渟足を睨みつけた。
「尚早と申されるが、渟足どの。では、いま攻めずしていつ攻めるおつもりか? 叩ける敵は早いうちに叩いておかねば、諏訪王権の威信に関わろうものを」
すでに伊那辰野でユグルが籠城を始めてから数月が経っている。年をまたいでなおこの問題を解決できぬとなれば、由々しき事態というほかはなし。滔々と、威播摩令はそうしたことを渟足に説いた。しかしながら、いま王権が置かれている状況は当の渟足とて重々に承知しているであろう。「そのようなことは改めて問われるまでもなく、ようく解っておる。……」としたうえで、彼は自らの言葉を次いだ。
「私は、ユグルを除いた後のことまでも見据えて動くべきだと考える。南科野の豪族がオンゾの首を差し出して恭順を誓ったとはいえ、王権は南科野の水運までも手に入れたわけではなし。そもそも南科野の豪族輩がその権勢を誇れるは、水運商人から河手を取り立てて財の源としていたのが大きい。つまりこれを掌中に収むればこそ、名実ともに南科野を手にしたことになる」
「話の筋は通っておる。しかし、いま行うべきことであるようには思えぬ。まずは叛逆者を討伐し、王権の威をあらためて科野の天下へと示すが肝要」
「そのために三千の兵を動かすと申されるか」
渟足の声は、少し呆れ気味である。
彼の声音を嘲笑と感じたのか、威播摩令はさらに険しい顔になった。堂のなかへとにわかに動揺が走る。幾人かが、渟足の言葉にいちいちうなずく素振りを見せ始めた。論調は威播摩令と渟足、ふたりの主導に任せられた二極対立の様相になりつつある。
「北科野各郡の諸豪族は、冬の寒きを押して兵を出しておる。しかもそのための費用は自前でまかなっておるのだ。先の狩競に伴う出費に加え、今また南科野に兵を動かせば、さらに費用が嵩むことになろう。されば、北の豪族たちにとってはその負担重きゆえ、多かれ少なかれ諏訪への不満募るは必定のこと。それがために南方ばかりでなく北方の者まで諏訪に叛くとなれば、次のユグル、次の次のユグルの芽を、われらが自らの手で育ててしまうということ。そうなっては、元も子もない」
「そこまで申すなら、渟足どの。おぬしの策を詳らかにしていただきたい」
「まず三千の兵は解散せしめて各々の郷里へと帰させ、諏訪では南科野の水運の掌握に力を注ぐ。ユグルの討伐はその後に。場合によっては年をまたぎ、春を待つことも止むなしと」
「それでは遅すぎる!」
があと叫ばんばかり、威播摩令は床に拳を叩きつけての反駁であった。
「多額の出費を重ねて三千もの兵を集めさせておきながら、それを今になって解散するなど何としたことか。それならば軍費をむだにせぬため、南科野へ出兵した方がはるかに良いわ。何より渟足どののの策なら確かに北科野をなだめることはできようが、代わりに諸方から諏訪への嘲りを招くことになる。其はひとえにわれら出雲人の名に傷がつくのみにあらず。われらが戴ける八坂さまの神威、ひいては本国におわす大王(おおきみ)の御稜威(みいつ)にまで累が及ぶのだぞ! 斯様に悠長なやり方で、いくさに勝てるものか!」
「兵は拙速を尊ぶとは申せ、されど政には巧遅こそが要ということもある! 土台築かぬまま城を建てんとすれば、少しの揺れでも崩れてしまう。まず事態に根をしっかりと張る。兵を派するはそれからでも遅くはなかろう!」
威播摩令と渟足のふたりは立ち上がって乱闘に発展するようなことこそなかったが、舌鋒鋭く互いへの批判を交わし合った。まるで、眼には見えぬ剣で斬り合いを演じているかのようだ。
確かに辰野攻略と南科野の完全掌握は、どちらを先にも後にもできぬような重要な懸案である。そういう極めて厄介な議題だったからこそ、互いの主張の落としどころには容易にたどり着けそうもなかった。『主戦論』の威播摩令と『慎重論』の渟足を中心に、それぞれの支持者は「そうだ!」「否、それは間違っている!」とばかり、烈しく意見をぶつかり合わせる。末座の嶋発(しまたつ)が「お控えあれ。八坂さまと洩矢さまの御前というに!」と口を差し挟んでも、だれひとり怯む気配もなし。驚いて、嶋発は直ぐに口を引っ込めてしまった。
あまりの烈しさに面食らったのは嶋発だけではない。
上座に在る神奈子と諏訪子でさえも同様だった。久しくなかったような烈しい論議はいささか口論じみた色を帯び始め、千軍万馬の長たるいくさ神も、海千山千の祟り神も、さすがに動揺してしまったのである。
論議はその後もしばし続いたが、やがて威播摩令も渟足も息切れしたか、言葉が乏しくなりはじめた。互いに互いの粗を探すばかりの論議が、何らか有意義な結論にたどり着くということはあり得ない。神奈子はそれを見透かすごとく、「ふうむ……」と大げさに息を吐いた。
「威播摩令と渟足の意見はよう解った。王権の威を示す、係争の地たる南科野を掌握する。どちらも大事なること。大事なることゆえ、この八坂神もそうそう直ぐに結論は出せぬな」
と、神奈子は言った。
なにひとつ偽らざる心境であったことだろう。
実に冷静なこの神の言葉を受け、威播摩令も渟足も軽く頭を下げた。彼らは互いにちらと視線を交わし合い、とりあえず口をつぐむことを選んだようだった。
「他に、何か案のある者は?」
再びの沈黙を容れ、神奈子は堂を見回した。
しかし、挙手や発言はひとつもない。
腹のなかでは――たぶん、威播摩令と渟足のどちらかに同心しているのであろうが、今は未だはっきりとしたかたちでどちらかを支持するには、自信が足りな過ぎるのだと見えた。八坂神奈子でさえもそうなのだから。彼女はまた堂の人々を見渡すと、ある一点に視線を落とす。評定衆のなかにである。興味深げに、神奈子は彼を見つめた。白熱、狂騒する議論のなかにあって、この者だけはどうしてか、威播摩令と渟足のどちらの意見にも賛同を表明することがなかったからだ。
ややあって。
彼は、神奈子に見られていることに気がついたらしい。
すると、にやと笑ってようやく挙手をしたのである。あたかも満を持してといったように。暗中に灯った篝火(かがりび)の明るさに驚くかのように、人々の眼が彼に集まった。
「出都留(いづる)か。そなたは、どう思う」
出都留と呼ばれた出雲人は神奈子の方に向き直ると、一瞬ばかり笑みを深くしてから語り始める。鷲鼻に、加えて猛禽を思わす鋭い眼つきをした男。やれやれ、おれにお鉢が回ってしまったか……とでも言いたげに肩をすくめて。
「私は威播摩令どのと渟足どの、いずれの策にもはっきりとは同心を致しかねまする」
さきほどまで烈しく論じあっていた威播摩令と渟足を、じろりと睨む出都留の目つきは、まるでそのふたりの男に挑戦を挑むかのような光を湛えている。その妖しげなるものへと面白げに笑みながら、神奈子は「なれば、どうする」とさらに問う。
「畏れながら。南科野への仕置を議するより先に、行う(おこのう)べきものありかと存じ上げ奉りまする」
わざとらしく、出都留は咳払いの仕草を見せた。
「すなわち。ただいま病と称して登城を拒んでおられる水内郡の豪族ギジチどのと、此方(こなた)におわす洩矢諏訪子さまの詮議のこと」
彼がそう言い終るか終わらぬかのうちに、渟足が「ばかな……」と呟く声が聞こえてくる。
「出都留どの、もうお忘れか。其は先に論じつつも、八坂さま御自身のお考えによりいったんは保留すると定められしこと」
「左様。それこそ今この場にて議するに及ばず。尚早じゃ」
ついさっきまでの論敵同士だった渟足と威播摩令が、出都留への批判という点でようやく意見を同じくした。出都留はふたりに“挟み撃ち”にされ、いささか苦笑の態である。しかし、何ら取り乱したりすることもなく、
「各々、お忘れにござるか」
と、反論する。
「ギジチどのが南科野に武器を供給せるという一点を糺せば、其はつまりジクイたち当地の豪族とも結びついていたということに他ならず。そして諏訪子さまもまた、御身(おんみ)、亜相の官を賜り国政に参与する立場でありながら、この不正を見逃しておいでだ。確かに八坂さまは、その広大無辺の御厚情に拠りて、二者の咎責むるをいったんはお取り下げあそばされた。なれど、王権に叛き奉りし者たちと裏で手を握り合うていたとは、どう考えてもただごとならぬ仕儀。この問題こそいっとう早く解決せねば、南科野は八坂神の神威に基づく御国(みくに)の一部として、真実(まこと)の平らかさに至ることは決してないと言わざるを得ぬ」
幾度目か、評定は沈黙に包まれた。
否、その実は――出都留が提示した第三の選択肢らしきものに圧され、言葉を失ってしまったといった方が正しかったのかもしれない。そのうち、やがて神奈子が長い思案から醒めた。醒めて、そして「出都留」と、三つ目の意見の持ち主を呼んだ。
「そなたは南科野への備えを後回しにし、まずギジチと諏訪子への詮議を再開せよと申すのだな?」
「……畏れながら。そのお言葉には“否”と」
意外の感に打たれ、神奈子はくわと眼を剥いた。
その隣で出都留からの遠回しな糾弾を聞いていた諏訪子はといえば、退屈げに頬杖を突くばかり。しかし内心では、いったい何が始まるかと興味津津であるには違いない。じろと彼女に向けられる出都留の眼。人の身の分際で神を値踏みするようなその態度。実に不快である。不快であるが、面白い。そう思えるだけ、今の彼女の余裕みたいなものは、それなりに大きかった。
「では、此度の論議にどう決着をつける」
神奈子が問う。
問われた出都留は大きく息を吸い込み、答えた。
「毒の矢を二本、放ってみとうございまする」
「毒の矢?」
「ギジチどのを天竜川の水運商人のもとへお遣わしになり、そしてまたユグルの元へは、」
ちらと、やはり諏訪子を射ぬく出都留の視線。
「……洩矢諏訪子さまを」
「どうするというのだ」
「毒の矢とは、すなわち扱いを違えれば己自身をも殺す危うき武器。毒の矢のごとき力持つお二方には、それぞれに調略を行っていただきたく。水運の商人とユグル、その両方を諏訪に従わすべく」
そこまで言って、出都留は頭を下げた。
すると話の切れ目を待っていたかのように、威播摩令が身を乗り出して言葉を浴びせる。
「諏訪の軍勢三千はいかが致す。むざむざと遊ばしておくは時を空費するにも等しきことぞ」
「実際に刃(やいば)手に取るばかりが軍兵(ぐんぴょう)の能には非ず。懐に秘めたる刃の怖ろしきを、鞘から抜かずして相手に思い知らせてこそいくさの上手なり。三千の軍勢は、あくまで備えとして諏訪に残せばよろしい。直ぐそばに大兵力が残されていると知れば、金勘定を気にしながら出兵をせずとも、何よりの威圧になり申す」
淀みない出都留の答えに、威播摩令はすんなりと引っ込んだ。
すると老臣の切れ目を補うように、今度は渟足が問うてくる。
「調略とは申せど……。仮にもギジチどのは、黒き疑いのある人物。そのような者に任せて良いものか。在地の不逞な輩どもと語らい、何かただならぬことを仕出かすのでは」
「疑わしき者だからこそ良い。疑わしき者だからこそ、此度、素直に従うかどうかを見極むることができよう。諏訪への叛意あれば、今度こそ南科野の豪族輩を焚きつけて一戦に及ばんと目論むかもしれず。そうなれば、われらははっきりと南科野攻略の大義名分を手に入れることができ申す。逆にギジチどのに叛意なくば、何ごともなく仕事をし遂げてくれようぞ」
「ギジチどのが……もし、調略をし損ずれば?」
「それは、そのとき。水運商人もまた八坂神に叛き奉る者どもとして、国家の権にて水運を接収、掌握する口実が見えるという寸法」
なるほど……という声が、威播摩令と渟足、どちらに与する者たちからも上がった。出都留が自らの策を説いたことで、論議の形勢は一気に彼の元へと引き寄せられたのである。実際のところ、出都留の提案した第三の策は『軍事力を背景にした交渉』という極めて基本的といえる部類のやり方でしかない。されど彼が手に取った二本の“毒矢”は、それ以前に問われるべきものの答えを射抜かんとすることで、今ここでこそ真価を発揮したのかもしれなかった。すなわち、ギジチと諏訪子の処遇ということを。
今度こそはっきりと首をめぐらし、出都留は諏訪子をじろりと見た。
思わず“ぞくり”とさせられる諏訪子。挑発に挑発を返す心地で、彼女はいつの間にか奇妙な笑みをつくっている。それには何ら反応を示すことなく出都留はなお述べる。
「御同様にて問われるべき責は、諏訪子さまにおいても在り。もって出都留は洩矢亜相諏訪子さまが示せる王権への忠心の真偽、検めるべきかと存じ上げ奉りまする」
神奈子に続き、今度は諏訪子が眼を見開いた。
はっきりと――出都留は言ったのだ。『諏訪子の忠心は疑わしい』ということを。なかなかに豪胆な男である。煥発なる才気のゆえか、それとも身のほどわきまえぬ阿呆の極みか。仮にも諏訪一帯の支配者だった神に対し、まさに祟りをも怖れぬ振る舞いと言うほかはない。もしこの評定をミシャグジ蛇神たちが見物していたら、そのあまりの言い分に呆れ果て、牙を剥くさえ忘れてしまうことだろう。
「猛き獣の身のうちを食い荒らす虫は、早いうちに取り除かねば。なれば、まことに虫かどうかを見極める必要ありかと」
わざとらしく、出都留は溜め息を吐いた。
「ま、むろん。洩矢諏訪子さまが獣の臓腑を食い荒らす虫などではないと、出都留はよくよく承知の上ではございまするが……?」
にやりと笑い、出都留は自らの主張を終えた。
最後に深々と一礼をすると、また最初の寡黙な彼に戻ってしまう。
一方の諏訪子は、心中穏やかならざるものがあった。
幾つかの越権行為にギジチとの関わり。南科野を鎮めるためにしたこととはいえ、睨まれる要素は確かに揃い過ぎていよう。今まで神奈子の目こぼしを受けていたのは、神の身ながらに『運が良かったから』でしかない。袖で口元を覆い思案の態を演じつつ、諏訪子はその眼で出都留を見る。かの男は神を疑うほどふてぶてしいようでいて、実はもっとも神奈子への忠誠篤い人物であるのだろう。そしてその忠誠のままに、洩矢亜相諏訪子が王権にとって敵か味方かを真に見極めようと試みている。
「どうした。震えておるぞ」
諏訪子を横目に見遣り、神奈子はくッく……と、笑っている。
諏訪子と出都留のふたりが、まるで自分の手のひらでやり合っているように思えて、面白くてたまらないといったところであろうか。確かに、諏訪子は震えていた。身のうちから止めどもなく湧きあがってくる強い力を抑えきれず、その肩は、手は、小さいながらもぶるりと震えていた。
「出都留の申す“毒矢”とやらにも、放つだけの値打ちはあると我は思う。怖いか。その毒矢で自らを傷つけてしまうことが」
「なに。今この身に在るは武者ぶるいと申すもの」
武神でも武者でもないというのに、自然と諏訪子は“いくさの顔”をつくっている。
――――――
冬の黄昏はことに短い。
夕陽のぬるさも感じ取れぬまま、夜が降りつつあった下諏訪の別邸のなかで、ギジチは相も変わらず仮病を装っていた。偽りのもとに引きこもりを初めて幾日経ったか、さすがに寝巻を身につけているのも億劫になり、今はしっかりと平常の衣服に袖を通している。とはいえ、やっていたことといったら文机に寄りかかって、起きるとも眠るとも判然とはせぬ“まどろみ”に遊ぶことばかりではあったけれど。
しかし、そのとき。
「ギジチさま」
と、彼を呼ぶ者があった。
部屋の妻戸をそおっと開けて、入って来たのは、この下諏訪の別邸で召使っている老僕である。年のわりには毛の量の減らぬ豊かな白髪を後ろ頭に結った彼は、その手に竹簡をひとつ捧げ持ち、うやうやしくギジチのそばに進み出てきた。あくびを喉の奥で噛み殺し、老僕へと振り返るギジチ。
「御苦労。また、諏訪の柵から出仕の催促か」
「そのようにございまする。先ほど、お使者の方がこちらを」
いささか面倒くさそうに、老僕の手から竹簡を引ったくるギジチである。
一瞬ばかり逡巡してから中身を読み始めたのは、「どうせいつもと同じ文面であろう……」と考えたからだが、しかし。文章の末尾までさらりと眼を通し終えた彼は、「病は癒えたな」と呟くと、竹簡を丸めて直ぐさま老僕の手に戻した。
そして、ばッ、と立ち上がり、
「諏訪を出る。しばらく、世話になった」
と、早口に告げたのである。
「はあ……? いったい何が」
「病は癒えたと申したぞ。――明日に向けて馬の仕度をしておけ。朝には岡谷に向けて発つ」
訝る部下に、用件だけをごく簡便に伝えるギジチ。
老僕は主の真意が解らぬながらも、御意のままにと承った。
妻戸を抜けて仕度にかかった部下を見送りながら、ギジチは薄闇のなかでほくそ笑んだ。部屋のなかには灯明はじめ、灯りのたぐいは一切ない。彼の顔に浮かんだ冷たい笑みを明らかにしてくれるものは、何ひとつ存在しなかったのだ。
「“南科野をくれてやる”か……やはり神の仰せになること。諏訪子さまのお言葉も、当てにならぬということもなしか」
かつて下諏訪御所で洩矢諏訪子と密議を凝らしたときのことを、ギジチは思い出していた。其許に南科野をくれてやると、確かに諏訪子はそう言ったのだ。あれは、自分を懐柔するための甘言でしかないとは思いつつ、オンゾを潰すためにあえて乗ってやったのだが。
しかし、案外と運が向いてきた。
“毒矢”を射るのは、このおれだ。
そしてその“毒矢”は、最後に諏訪へと突き刺さるのだ。
数日の無精ですっかり薄い髭に覆われた頬を撫でながら、誰にも聞かれぬ野心の声を、ギジチは漏らしていたのである。