Coolier - 新生・東方創想話

風神太平記 第六話

2013/05/01 23:51:19
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『伊那騒動・一』



「蕨手刀?」

“つるぎ”から照り返される鈍い光を顔に受けながら、八坂神奈子は問い返した。

「この不可思議な形状をした夷狄(いてき)の剣は、そのように呼び習わされておるのか」
「左様にございまする。柄頭をご覧なされませ。早蕨(さわらび)の伸びるがごとく曲がった形をしているのが、ひと目見てもお判りかと。ために、世人はこれを“蕨手刀”と」

 ふうん、と、唸り、神奈子は再び手のなかのつるぎに眼を戻す。
 刃渡りは三尺に少々足らぬほど。装飾は少なく、あくまで簡素。柄そのものは、刃から伸びた茎(なかご)の部分を直接加工して糸を幾重にも巻き、人の指が上手く引っ掛かるように設計されているようである。思わば、蕨(わらび)の若芽がごとくくるりと巻いた形状の柄頭も、使用の際に手から抜け落ちぬようにした工夫であるとも考えられる。これが夷狄の好む風であろうか。概して、今この場にもたらされた『蕨手刀』は、祭祀や儀礼よりも実戦を想定して生産された剣であるように見受けられた。

 しかし、この夷狄の刀剣のうちもっとも神奈子の眼を引いたのは――。

「刃が片方にしかなく、刀身は風を受けてしなる木の枝のように反り返っておる。……よもや、これなるつるぎは“馬上において”使うものか」

 さも得心がいったというように片目を吊り上げると、神奈子と対座するふたりの男のうちのひとりは、小さく息を吐きながら称賛の構えである。追従ではなく、本心からの驚きの混じる声であった。

「御明察。さすがは十余年の長征を戦い抜かれたいくさ神。四隣の敵を打ち破りたる、その妙(たえ)なる霊力と御慧眼とは、未だ衰えてはおられぬご様子。御身が手のうちに渡り御披見をあそばさるることにより、夷狄のつるぎとても、もし人がごとくに声を発することあらば、これぞ本望と申し上ぐることでしょう」

 二、三度の深い呼吸ののち、男は再び神奈子を見据える。
 豊かな黒髪が、格子窓から差し込む冬近い諏訪の日を受けてきらめいた。よく整えられた口髭には、無精の跡など微塵もない。水内郡の豪族たる、ギジチその人であった。相も変わらずつるぎの光をわが目に宿すことに夢中な様子の神奈子からは、一時も視線を外さぬまま。彼は、大仰な身振りを見せて説き始める。

「まさしく蕨手刀は馬上の刀。科野以北は良馬名馬の産地にて、当地に棲まう者たちもよく騎馬のいくさには慣れておるとか。湾曲した片刃のつるぎは、馬の背から地上の敵を斬りつける際、直刀と違い、刃を余すところなく敵の身体に喰わすことができまする」

 腕を大きく振り上げ、ギジチは馬上からの斬撃を真似る仕草である。
 笑みもせずに、神奈子は蕨手刀を膝の上に置いていた鞘に戻す。直刀とは違う、滑るような挙動で刃は鞘のなかに飲み込まれていった。

『蕨手刀』(わらびてとう)というのは古代の日本において、東国に居住していた蝦夷たちが用いていたとされる片刃の湾曲刀のことである。読んで字のごとく蕨のように曲がった柄を持つこの刀は、時代が下るほど馬上からの斬撃を考慮に入れて設計されるようになり、湾曲した刀身を持つようになっていったとされる。一説に拠れば――蕨手刀の『馬上からの斬撃に適した湾曲刀』という発想こそが、後の日本刀の源流になったとさえ言われているのである。材質の面からいえば、蕨手刀は倭人の刀剣に比べて決して質が良いと言える鉄器ではなかったという。しかし、騎兵戦術においてある程度の有利をもたらすこの湾曲刀を、むざむざ蛮族の武器として棄て置かないほどには、古代人の見識も合理性に富んでいたのだろう。そして八坂神奈子もまた、蕨手刀に興味をそそられぬほどには、いくさする者として暗愚ではない。

「趙の武霊王は、胡人の風を採り入れて騎兵を育成し、いくさに役立てることをしたと、……ものの本には書いてある」
「“胡服騎射”。確か、そのような故事でございましたな」
「水内の人たるギジチも、武霊王のことは知っていたか」
「出雲人と交わるうえは、彼らの知りたるものを学ばねばなりませぬ」

 と、ギジチは一礼を見せる。
 彼の手元には、神奈子の持つものと同様の形状をした蕨手刀がひと振りあった。
 自分のものとギジチのもの。互いの刀を交互に見比べながら、神奈子はようやくかすかに笑った。

「いくさの趨勢を決するは――兵の多寡、その士気、その腹を満たすこと。小さな勝利を幾重にも積むより、軍略を駆使して大局の勝利を得ること。加うるに良き馬、良き鉄。つまりは優れた武器兵器。倭(やまと)にも、武霊王がごとき先見の明持つ者がなければならぬ」
「仰せの通りにございまする」
「ギジチ。そなたが持つ、そのもうひと振りも我は欲しい。譲ってはくれぬか」
「御意に。むろん、最初から蕨手刀ふた振りを献上し奉るつもりで、此度(こたび)は参上を願い出たのです」

 立ち上がるギジチを、神奈子は無礼と制さなかった。
 誰に命ぜられるまでもなく彼は神奈子へ近づいて、もうひと振りの蕨手刀を差し出した。にゅうと伸びた神奈子の手が、もう他の誰にも渡すまいとでも言うかのように、ギジチの手からつるぎを受け取る。防寒用に、上から一枚羽織った袖なしの長衣の裾を翻し、ギジチはまた元の座に復する。風というほどもないほどかすかな空気の揺らめきが、二者のあいだに残された。

 さて、“懸想”の相手である刀剣を手に入れた神奈子は、王としての威厳を演ずることを忘れてしまったかのように、頬のうちから漏れだす笑みを抑えることもできないようである。われ知らず吊り上がる唇の両端には、疑いようのない喜色が在る。嬉しやという一語さえ発さぬながら、やがて声さえも浮かれ調子になっているのだった。

「戦勝祝いの貢納としては、もはや十分なものを受け取った。いくさ神の身にして、自ら加護を与うる者たちが勝利を手にすることほど嬉しきこともない。……何よりクジャン。高井郡を預かる、そなたの働きあってこそよ」

 蕨手刀を抱えたまま、神奈子はギジチの傍らに座する男に声を掛ける。
 体躯は、大きい。決していくさすることを生業にしているわけではない、細身のギジチの真横に座しているのだから、余計に大きく見えるのだ。

「過分なお言葉。クジャンは、ただ荒蝦夷どもが去った後の陣場から、連中の残した刀剣を拾い上げてきただけにござる」

 このクジャンという男は声を精一杯に細めながら――もう何度目になろうか――、額で床を削らんとするかのごとく深々と頭を下げてみせる。元来、彼の声はひどく野太いものがある。その分だけ、王の御前では声を絞ることが礼節の一種であるとでも解釈しているのだろうか。そうだとしたら、少し滑稽ではあった。

 クジャンの着物の袖から覗く腕は毛深く、織り束ねられた布からいきなり猿の手がにゅっと生えでもしているみたいだった。縮れた髪の毛の生え際には矢傷か刀傷か、とにかく無数の傷が残っている。よく見ると手の甲の方でも、傷跡のせいで肌が潰れて毛の生えていない部分がある。頑強そうな骨相を持つ顔つきは四十路を明らかに超えているが、髭を剃られてつるつるになった頬は存外と若々しいものがあった。だが、その髭の剃り後にはもう青々と産毛めいたものが生え始めているところを見ると、やはり、産まれついての毛深い体質(たち)らしい。

 毛人(えみし)――という語が、神奈子の頭のなかに浮かぶ。
 はるか北辺に住まう異人たちを示すそうした称は、読んで字のごとく、その毛深い身体を表しているともいう。また蝦夷(えみし)の語は、倭人が東国の異民族を総称して呼んだ侮蔑の言葉であると同時に、『強き者』を意味する二字でもある。このいくさ慣れしているらしいクジャンという男も、その蝦夷の系統から科野人の血へと混じってきた者たちの末裔ではないだろうか。そんな取りとめのない考えが、神奈子のなかに現れては消える。

 その、どこか蝦夷めいたクジャンが、謁見のためギジチを伴って八坂神奈子に頭を下げたのは、諏訪の柵の評定堂である。が、今のこの場には出雲人の評定衆も、亜相の洩矢諏訪子も、祐筆や舎人さえも居らなかった。完全に、八坂神とふたりの科野豪族の会見である。クジャンによる『戦勝報告』の場は、まずもって貢納品の披見を神奈子自身に求めることになった。……“ご機嫌取り”であろう。それが解らぬ神奈子ではない。だが、自らを奉じてくれる相手を邪険に扱う理由もない。宿命的に、八坂神奈子は人に祀られる神であった。

「今こうして、荒蝦夷の用いる珍しきつるぎを献上し奉ることができるのも、すべては八坂さまがこのクジャンのいくさに戦勝あれと、そのように思し召されたがため」

 クジャンが、再び面を上げるのさえもどかしいとばかりに声を張り上げた。豪放で、なおかつ屈託のない、とはこういうことを言うのだろうと思わされるくらい、大人の男にしては邪気も黒さもないように笑んでいる。美男子とは言いがたいが、少なくともその笑みのおかげで醜男(ぶおとこ)という謗り(そしり)だけは免れているのではないだろうか。

「ひと月前の行幸の折、高井郡にて八坂神を祀るお許しを頂いたことが、さっそく効き目を現したということにございましょう。此度あらためて、厚く厚く、御礼を申し上げ奉りまする!」

 指先で顎の線をなぞり、神奈子はしっかりとほくそ笑んでいる様子。勝ちいくさほどに、軍神の自尊を高めることも世にはあるまい。「大船に乗ったつもりであるが良い。この八坂神が、今後は永久(とこしえ)に高井郡を護ることになる」。さらに続けて、「で、クジャンたちは如何様に戦うたのか。差し障りなくば、申してみよ」と神奈子は訊く。八坂神の反応は上々――と見たクジャンは再び一礼を見せると、また改めて言葉を述べ始める。

「わが郷里たる高井郡は上州(上野国。現在の群馬県)や、それよりさらに北国(ほっこく)に住まう荒蝦夷たちとのいくさのさなか、国境(くにざかい)も定かならず、勝ってはその地の限りを押し広げ、負ければ境を押し込められる、そういういくさが長く続いておりました」

 もはや、あえて声を細めることも忘れたのか、クジャンは元通りの太い声を発していた。熱心に話すクジャンと、身を乗り出す素振りのある神奈子。しかしギジチひとりは真っ直ぐに背を伸ばしたまま、特に興味がないとでもいうことなのか、横目にその様子を観察しているだけである。

「わけても近年は、上州の荒蝦夷どもは越州(えっしゅう。現在の福井県である越後、富山県である越中、新潟県である越後の三国の総称)北限を根城とする諸族と語ろうては手を結び、われらが父祖伝来の地を侵すことたびたびにございました。ために高井郡の民人は、安堵して田畑を耕すことさえも叶わぬ有り様。……なれど」

 クジャンの声が、ひときわ大きく、明るくなる。

「ここに居られまするは、われら高井郡を郷里とする者たちにとっては僥倖ともいうべき御方。諏訪を中心に科野州の諸豪族を糾合し、一国の王として政の府を開かれたいくさの神、猛々しき武神、八坂神にございまする。もってわれら高井郡の者たちも八坂神の武威にあやからんと、田舎者なりの不作法ながら祠を建て、八坂神を祀り、戦勝と武運長久を祈願し、いくさに赴きましたところが、」

 ほとんど立ち上がらんばかりに、クジャンは身を乗り出した。
 神奈子の目尻は、隠しようもなく嬉しげに細められている。

「勝ちも勝ったり! わが方の大勝利でございました。鼻息荒く攻め込んできた荒蝦夷どもは、馬も武具も棄て去って一目散に逃散。われらは勝ちいくさをものにして笑い、背を向けて逃げ出す敵の情けなき姿を見物して、またまた大笑いにございましたわ」
「おお、左様か! ふ、ふ。良き話を聞いた。今宵の酒は、一段と美味くもなろうな」

 もはや自らの喜びに対していっさいの隠しだてをする様子も神奈子にはなかった。
 自分を信仰し、その加護を求め、結果として戦勝を得た者が眼の前に居る。八坂神奈子のいくさ神としての権能が、確かに支持されている証であった。信頼と信仰を得て喜ばぬ神など居るはずもない。「では勝ちいくさの風、此度、確かに諏訪から高井に吹いたのだな」と、神奈子は改めてクジャンに問う。

「むろんにございまする。荒蝦夷どもに侵され押し込められていた高井郡の北限が、数年ぶりに前進したは、ひとえに八坂神の御加護によるものと申さずして何の結果と申せましょうや。八坂さまは、御身、常日頃ご多忙かとは思われましたが、しかし、礼は礼として急ぎ述べねばなりませぬ。ゆえに、諏訪との繋がりあるギジチどのに口利きをお願いいたし、今日、こうして諏訪にまで参りました次第」

 ちらと、クジャンはギジチに眼を遣った。
 こくりとうなずき、彼はクジャンの話を引き取った。

「高井郡は言うに及ばず。水内郡もまた越州と境を接しておりますゆえ、蝦夷たちのうち科野と対立する諸族は、これ、早急にその脅威を除かねばなりませぬ。かくのごとき荒蝦夷の勢力が、北方には数多割拠しておりまする。彼らは、やがて倭国がその領土を拡げていくに連れ、必ずや王権の前に立ちはだかる敵となりましょう」
「おお。……この葦原中ツ国に倭国一統の世をもたらすことが、大御心(おおみこころ。天皇の意思)の思し召される国家のかたちよ」

 神奈子はパンと膝を打った。
 懸念する事項のうち、大きなひとつがすでに伝わっていることへの安心感であったろう。

「さいわいというべきか、諏訪を中心とするこの科野は、今やその蝦夷たちと相対する北辺の地のひとつとなっているのです。ならば今のうち、国と兵を富まし、来たるべきいくさに備えることが肝要かと心得まする」
「商いする者が語るいくさがいかなるものか、申してみよ」
「では、愚考ながらに。八坂さまの率いる出雲人の将兵一万は、確かに強い。しかし人が居るだけではいくさにはなりませぬ。いくさには、先ほど八坂さまご自身がまず仰せになったごとく、将兵に加えて武器兵器、鎧兜、馬、糧食が要る。それらをすべて実際のいくさ場で手に入れることは、至難の業。ということは、いくさには事前に凝らす用意こそがまことの肝要。すなわち戦費、つまりは金」

 あまり感情を表に出すことのないギジチの眼が、一瞬ばかり細められた。
 そのせいか、彼の表情はどこか笑んでいるような影を湛えた。とはいえ、すべてはいちどの瞬きのうちに終わるような現象だった。またいつものように、ギジチは無表情な怜悧さに戻る。

「科野国中に商いの道を張り巡らせ、人と物と金が容易に行き来できるようにするのです。さすれば、各所各地で必要なるものを直ぐさま買い上げ、いくさある地にまで運び込むことできましょう」

 こめかみを、神奈子は指先で幾度か掻いた。
 そしてそれと同じほどに、もはや自分の触覚の一部に取り込まれてしまっているのだとでも言いたげに、生物的な印象さえ与える形をした、蕨手刀の柄頭をじりじりと撫でた。熟考の態であった。商業を富ませるは――鉄資源の獲得と同等と言えるほど、諏訪を中心に政を敷いた八坂神奈子の宿願である。ために、ギジチの言うことは、いちいち神奈子の意思を貫く道理とその色を同じくしているのである。商いごとは、しなければならぬ。だが与えるべき特権と、そこから自ら吸い上げるための益。その配分は、やはり『賭け』というより他にない。

「クジャン。いくさにおいて人が採るべきものは何だ」
「飯、水、それに何より塩。科野は四方に陸(おか)を臨む山国、わけても塩こそ肝要」
「その通りだ。……ギジチよ、八坂は塩が欲しい。海を知らざる科野の地にては、塩は宝。そなた、塩を調達することはできるか」
「御意のままに、行うてみましょう。しかし塩商いを含め、科野での商業を育たすには条件が三つ、ございまする」
「条件だと。申してみよ」

 そのとき初めて、ギジチは大きく身を乗り出した。
 お、……! と、クジャンも思わず息を吐く。一方の神奈子は、何か疑わしげなものに相対したような顔つきをする。ふたりの顔を交互に見比べて、改めて大きく息を吸ったギジチ。万が一にも言い間違ってはならないと、彼は努めているかのようだった。

 ギジチは言う。

「ひとつ。科野国中を巡る行商人に対し、王権により特別の保護を与うべきこと」

 神奈子は、こくりとうなずきを返した。

「道々を行きて商う者どもは、東と西、南や北を行き来し、本来であれば交わることなき土地同士を品物と品物という鎹(かすがい)で結びつけるのが仕事。王権によりてその地位を護ること明確に打ち出せば、行商人たちは、神によって商いの“お墨つき”を得た神奴(しんど。神に仕え、神に直属する者)となる。各地の領主が八坂神に従うて、科野諸州がひとつの国として固まった今、神奴となった行商人たちこそ、他に何らのものに縛られることなく、各地でより良き品物を求めることができまする」
「なるほど。して、次は」
「ひとつ。各々の郡に向け、市の立つ日を公に定むべきこと」

 科野国の各郡を示しているつもりなのであろう、ギジチは手振りで空中を点々と指した。

「いかに行商人たちに強き特権与えたところで、各々が細々と商いを続けていたのでは何処(いずこ)にも富は溜まりませぬ。そこで、各地から人と物が集まるにふさわしき場――つまりは市を科野各郡に設けるのです。そしてその市は公の御名のもと、常に日取りを決めて営まれることとする。また市に参ずる者たちからは、常に品物の幾らかを上前として差し出させることとする」

 いちいち、神奈子は深々とうなずいた。
 商業を生業とするギジチの意見は、なかなか的を射ているように思われた。餅は餅屋、商いのことは商いする者の話を容れるのもまた一理だ。「最後は?」と、彼女は先を促す。ギジチの献策を、重みある言として耳にするための構えなのだ。しかし、当のギジチはついさっきまで見せていた流暢な弁舌を、一瞬だけだが詰まらせるような素振りを見せる。最初にそれを不審がったのは、彼の隣で神奈子と同じく感心していたクジャンだった。「ギジチどの、いかがなされた」。彼がそう訊いても、ギジチは直ぐに答えない。ごく小さな溜め息を吐き、そして、彼は最後の献策を行った。

「そして、最後のひとつ。科野国中での商業の司(つかさ)に、洩矢の神を任ずべきこと」

 言うなれば、と、ギジチがつけ加えたのはその後だ。

「行商人を神奴と為す任命の権、各々の市場からの貢納品の徴収の権はじめ、およそあらゆる商業の権を八坂さまは手放すことをされ、洩矢亜相お一柱に委ねるべきこと」

 笑みさえ滲ませていた神奈子の目尻が、急に厳しいものになった。
 いら立ちでもなく、怒りでもなかった。いまの彼女に湧きあがってきたのはただ大きすぎる驚愕と、そして針で肌をなぞるような失望なのかもしれない。今の今までこちらの意を酌んだうえで、最良の献策をしてくれていると思っていた相手が――こともあろうに、八坂神自身が志向する『商業の振興』、その運営の権利を洩矢諏訪子に渡せとは。いったい、いかなる了見であろうかと。

 歯噛みしながら、神奈子は改めて問う。

「そなた、正気か」
「あいにくと、まったくもって正気の沙汰にございまする」

 トントン、と、彼女は蕨手刀の柄を指先で叩いた。「返答によっては、首と胴が離れることになろう」……そういう意味の、威圧であった。だがギジチもまた、びりりと空気をささくれ立たせるような神奈子の昂ぶりに耐えに耐えた。しばし睨み合う王と豪族、神と人。根負けしたのは、どうやら神奈子の方である。ぎゅうと両の拳を握り締め「いかなることか」と、ぽつり、呟く。

「商いで国富ませるは、この八坂神の王権を貫かしめんと欲する一本の柱ぞ。それを、あえて諏訪子に譲れというのか」
「その一本の柱があまりに強すぎるからこそ、あなたさまの政は均衡を欠く恐れあり」

 ぴしりと言い放つギジチの声は、ほとんどたしなめるような響きである。
 驚いたのは神奈子よりも、ギジチの横で話の流れを見守っていたクジャンの方だ。
 戦勝報告と戦利品の貢納のためにやってきた今日だというのに、今しも君臣のあいだで口論さえ始まりそうな空気になりつつあるのだから。「ギジチどの、お控えなされませ……!」と、毛むくじゃらの大男はその豪放な見た目にも似合わぬ気弱な声を上げた。が、「いや、いい。ギジチの頭の中身が正気か狂気か、吐き出す言葉からこの八坂神が見極める」と、彼の諌めを拒絶したのは他ならぬ神奈子であった。顎でギジチの方を指すと、彼は改めて辞儀を見せた上で口を開く。

「俚諺(りげん)に曰く、“悪事千里を走る”と。科野行幸におけるご還幸の途上、モレヤ王が怨霊に憑かれ一悶着あったは、すでに科野諸州の衆人のあいだでは領主から奴婢(ぬひ)に至るまで、皆、これよく聞き知っておりまする。斯様(かよう)に悪しき事態の起こりしはいかなる由によるものか? ギジチ愚考致しまするに、八坂さまの御力甚だしく強きゆえ、古き神霊たちのうちにはこれを受け容れがたき者ありと。ならば――、ここで必要なのはまず妥協」

 妥協っ!?
 ……素っ頓狂な声をクジャンが上げた。
 構わず続く、ギジチの弁舌。

「洩矢諏訪子さまに商業を一任するは……諏訪を中心とする科野州の政が決して八坂神一辺倒のものではなく、軍権の司たる八坂神と、商権の司たる洩矢神という二本の柱によりて支えられしものであるという事実を揺るぎなきものとして、この天地(あめつち)に示すという策にございまする」
「つまり……政における実権の半分を、八坂さまが洩矢さまにお譲りすべきと。そういうことにございまするか?」
「いかにも」

 ようやく話の根幹を悟ったクジャンに、ギジチははっきりとうなずいた。
 一方で、神奈子は眉根に寄る皺を一瞬ごとに深くしていく。眼のなかの光はいつもの彼女らしく澄んだものではあったのだが、その色はあたかも怒気に塗り潰されて存在を違えていくかのごときものだ。だが、ここでギジチの策にただ否と叫んで喚き散らすほど、むろん、八坂神奈子という神にして王は短慮ではない。彼女にも、ものの道理は解っているつもりだ。科野行幸からの還幸の途上、後継者たる少年のモレヤに憑依した諏訪の古き怨霊は、御霊として奉ぜられることさえ拒み、あくまで諏訪の天地から出雲人と、出雲人に奉ぜられた神である神奈子を除くことを訴え続けた。そして件の怨霊が断末魔に発したのは、

「祟りあれかし」

 という明確な呪詛である。

 つまりは――諏訪には、科野には、八坂神奈子の治世を快く思わぬ『反動勢力』が、未だ根強く存在し続けているということが衆目に晒されてしまったのだ。信仰という心性が、すなわち為政者への信義を意味するような政体においては、現今の王たる神への信仰の失墜は、ほとんど政権運営上の致命傷とも成り得る事態なのである。そこでか、ギジチの策はその反動勢力に譲歩するかたちで、彼らが本来の主と目する洩矢諏訪子へと、実権の幾許(いくばく)かを譲り渡せということなのだ。そこまでは、解る。妥協のための一案としては、道理に照らして理解できる範疇である。

 しかし、である。
 商業は、ただ商業としてあるわけではない。
 そこには必然、国家の財政や経済に繋がる要素が密接に絡みあってくる。物を買うにせよ、人を雇うにせよ――いわんや、出雲人の国是たる倭国一統をもたらすための軍事の発動にしてもそうだ。武器、甲冑、兵糧、軍馬など……戦争という極大の公共事業を貫徹するには人命と時間を費やすのはもちろんのこと、まずもって金がかかる。さらに突きつめて考えるのなら、国家があらゆる事業を行うには、『国庫』という財産が満たされていなければならない。商業や経済は、その財産の“起点”である。すなわち今回のギジチの献策は、その起点にまつわる大きな権限を、八坂神奈子から洩矢諏訪子に譲り渡せということに他ならなかった。

 それはつまり――国家運営の半身ともいうべきものが、八坂神奈子の元からもぎ取られかねない事態を意味している。賭けとするには、あまり大きすぎるものがあろう。

「……そなたの言うことには、いちいち一片の理がある」

 短い溜め息混じりに、神奈子は重々しく口を開いた。

「行商人を神奴と為して各地の行き来と品物の買いつけを容易にし、各郡に人と物の集積する市を立たしめる。それで国家の金の廻りが良うなるのであれば、幾らでも行うてみせよう。しかし、最後のひとつよ」

 ぎりと、彼女は歯を軋らせる。

「亜相諏訪子に王権の半分、商業の権限を譲り渡す。これだけは断じて容れられぬ! この地の王は、あくまで八坂神ぞ。しかるに、先般現れたるかの怨霊は、御霊として奉ぜらるることすら拒んだ旧弊の塊。その怨霊たちに阿り(おもねり)、大王の御叡慮を蔑ろにするようなことあらば、わが主上と東国の怨霊とのあいだで右顧左眄(うこさべん)するにも等しき事態。其は、まず何よりも恥辱! 神としての沽券にも関わることではないか?」

 ギジチは、何も言えなかった。
 否、本当は言わなかったのかもしれない。諫言に値する言葉を探しているのか、いつも物静かな彼が、今はよりいっそうに沈鬱な眼を神奈子へと向けている。侮蔑かあるいは軽蔑か。いずれにせよ、落胆に刺された心が彼のうちを占めているのは相違ないことであっただろう。

「ご無礼の段、平にご容赦のほどを」

 そう言って、ギジチは深々と頭を下げた。

「三つ目の献策について。八坂さまが狂気と断ずるのであれば、私はそれでも構いませぬ。ただ、依然として諏訪はじめ科野の天地には古き神霊、また怨霊の跋扈せるところ、今や明らかにございまする。王権の転覆を目論む不埒者どもが、その神霊を祀り上げ、八坂神に対抗せんとする。そのような怖れ、無きにしも非ずと……」
「案ずるな!」

 叩きつけるかのごとく、神奈子はギジチの言葉を遮った。言葉の途中で口を開いたまま、ギジチは上目を遣って、神奈子を見つめた。わずかな驚きに、眉根に小さな皺が寄る。怒気あるを怖れていた相手が、急に自信をみなぎらせた余裕ある態度に服していたせいであろう。八坂神奈子は、そんなギジチの訝しげな姿を見てさえ含み笑いを続けるのだった。

「三つ目の策だけは容れられぬが。ひとつ目とふたつ目は大いに採りあげるに値しよう。それにだ、」

 膝の上の蕨手刀を持ち上げると、神奈子は鞘から刀身を引き抜かぬまま、剣尖に当たる部分をギジチに、それからクジャンへと順々に向けた。

「怨霊どもへの対処はすでに思案のうちよ。科野という国家は、わが王権によって生まれ変わったのだ。進取の風を吹かせ、旧弊は打ち砕く。祟ることを頼みにするばかりの古き神々に、譲る道など残す気はない」
 
 さも恐縮げに――ふたりの豪族は、神奈子の前に頭を下げた。



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