「諏訪子、ちょっと良いか」
神奈子の大きな手が肩口をつかみ、なかば強引に諏訪子を自分の方へと振り向かせた。諏訪の柵城内での廊下でのことだ。わっ……とばかり、諏訪子は小さな声を発して足取りをよろめかせ、蹈鞴を踏んでしまった。その拍子に神奈子の身体へと倒れ込み、懐にしまっていた薬の包みがぽろりとこぼれ落ちてしまう。
「いったい何用にございまするか八坂さま」
「や、済まぬ。そなたを探していた。これから緊急に評定をやる。急ぎ、評定堂まで参上致せ」
廊下から拾い上げた薬を諏訪子に手渡して言う、神奈子の顔には表情がない。
怒っているのか……と問うことも、一瞬ばかりの思考で「否、すべきではない」と諏訪子は結論づける。一年も同じ城のなかで過ごしてきた友人だ。今さら怒っているのいら立っているのの区別がつかないほどの他人同士でもない。だからこそ端的に言えば、「触れるべきではないのだ」と直ぐに悟ってしまった。神奈子の心は今、ひどくざわついているに違いないのだと。
「解ったな。直ぐに来るのだ」
腰に佩いた早蕨形をした柄の曲刀――ギジチから献上された蕨手刀の柄を親指でなぞりながら、神奈子は諏訪子から視線を外す。彼女らしくもない、神経質そうな仕草に見える。しかし、どこかぎこちない。否、違うか? 最初は新しい剣を持つことへの恥ずかしさが混じっているのかと思ったが、どうにも的を外しているのではないか。何かこちらに遠慮しているというか、よそよそしい感じがする。むくむくと、諏訪子の胸に灰色じみた疑念が湧きあがってくる気がした。
「あの、八坂さま」
そして廊下の向こう、評定堂のある方へと踵を返しかけた神奈子へ向かい、諏訪子は急ぎ声を張る。早くしなければ声が届かない場所に行ってしまう。そんなことを思ったせいだ。けれど同時に――距離の遠さという物理的の事情に加え、なぜだかかたちの判らない妙な焦燥もある。
「何だ」
と、神奈子はあらためて諏訪子に振り向いた。
今度は、わずか細められた目尻にはっきりといら立ちが宿っているのが見て取れる。つい気圧されそうになりながらも、諏訪子は“きッ”とした顔で相対する。
「わたしはただいまに、モレヤの咳病の薬を薬師から受け取ったばかり。それでなくとも、あの子の具合を看てやる者は必要にございまする。斯様に急を申されても、」
「そうは言ってくれるな。火急であるのは八坂も同じ。薬を届けさせるとかモレヤの世話とかは、誰か別の者に任せれば良い」
「しかし、モレヤを苛むはひと月に渡る病。快方に向かいつつあるとはいえ、もっともよくあの子の具合を知るわたしこそ付き添わねば……」
諏訪子が、そう言いかけた瞬間だった。
「人ひとりの命と国家の大事と、どちらがより重いと申すつもりか!」
決して大きくはない自身の身体が、急にがくりと揺さぶられたことに気づき、諏訪子の意識は動転した。神奈子が、その大きな手で力いっぱい諏訪子の両肩をつかみ、喝(かッ)とばかりに鋭い叱責をぶつけていたのである。声にならない声が喉の奥から漏れ出てくる。手のひらに、厭な冷たさを持つ汗が噴き出す気がする。どうして良いか判らず、しきりに唇を舐めていた。さっき懐にしまい込んだはずの薬包みが、再び廊下に落ちてしまう。それを直ぐに拾おうとすることもできないくらい、諏訪子は、怖いと思った。眼の前で激昂した八坂神奈子のことを、心底から怖いと思った。初めて話をした晩、脅しのために首筋に鉄剣を突きつけられたときでさえ感じたことのなかった恐怖――いま諏訪子は、それを神奈子に感じていた。
諏訪子を見つめる神奈子のその眼。
そこには、どこか敵意に似た影が宿っているようにさえ感じられてしまう。
熱い怒りに燃える明瞭な敵意ではなく、侮蔑と嫉妬がまだら模様をかたちづくる、渾然とした敵意めいた何かが。突き詰めるなら不気味さ、腹の底が知れないことによる不気味さだ。
八坂神奈子は、自分に何を言いたいのだ?
だが、今の諏訪子には自問自答をするしかない。何より神奈子自身が、直ぐに冷静さを取り戻したせいだった。ぱッ、と、諏訪子の肩をつかんでいた両手を放し、神奈子は「済まぬ……」と口走る。まるで、悪いものが落ちたみたいに。
「仮にも、夫が生き死にの境をさ迷うていた相手に言うべき言葉ではなかった。許してくれ」
「いえ、構いませぬ。諏訪子も、自らが政に関わる責を負うているという事実を蔑ろにしておりました。……モレヤの世話は、侍女に頼むことと致しまする。ただ、せめて薬だけは諏訪子自身の手で届けさせてはくださいませぬか」
「解った。それは認めよう。だが、くれぐれも急げよ。私は、先に評定堂で待っておる」
再び刀の柄に手を置いて、不安げな様子で神奈子は溜め息をついた。
なに惑うこともなく、今度こそ彼女は諏訪子に背を向けることをした。床に取り落とした薬の包みを拾ってくれるだけの気遣いも、今はもう彼女は忘れてしまっているのだ。床の上に落ちた薬包みを今度は自分で拾い上げ、無言で神奈子の後ろ姿を見つめ続けることだけしか、今の諏訪子にはできそうになかった。
――――――
モレヤの寝室にまで薬を届け、適当な侍女に夫の具合を看ているよう言いつけてから、諏訪子は舎人のひとりも伴うことなく足早に城の評定堂へと赴いた。彼女が到着したころには、すでに神奈子はじめ十人から成る評定衆、それから祐筆(ゆうひつ)の稗田阿仁(ひえだのあひと)まで全員が居並んでいる。どうやら、後は諏訪子ひとりを待つばかりの状態だったらしい。
「全員、これで揃うたな」
初冬の寒さで底冷えのする堂のなか、隣に諏訪子が腰を下ろしたのを確かめた神奈子は、座の端から端まで眼を走らせる。
「さて、急な話ではあるが。此度、そなたらを集めたは喫緊の課題が持ち上がりしゆえのこと」
「喫緊の課題とは……?」
諏訪子はじめ、座のうちで幾人かの出雲人が首を傾げた。
集まった面子のうち、事態を未だ把握していない者たちである。何の話かを知っている者と知らない者。評定堂は、この二派にはっきりと分かれていた。が、神奈子は直ぐに彼らの疑問に答えることはしない。堂の端に控えていた舎人に対して「あの男を召し出せ」と命じるだけだ。どうやら、その男とやらに話をさせることで回答と説明に代えようということらしい。
さほども時間を掛けることなく、先ほどの舎人はひとりの男を伴って戻ってきた。舎人は再び評定堂の端に控え、男の方だけが静々と堂の中央――上座たる神奈子と諏訪子の正面の位置に腰を下ろす。五人ずつ左右に別れて着座している評定衆の面々からは、ちょうど挟まれた場所となる。古ぼけた鞘に覆われた剣をがちゃがちゃと揺らしながら、男は恭しく八坂神に拝跪(はいき)の礼を取る。背骨が変形しているのではないかと思えるほど、ひどい猫背をした人物であった。
「あらためて、名を申せ」
朗々と、神奈子の問い。
男は頭を下げたまま鷹揚に、しかし一座の誰にも伝わるよう、声を張り上げる。
「もと諏訪郡の豪族、ダラハドにございまする」
ダラハド……薄い声で、諏訪子は男の名を呟いた。
どこかで耳に憶えのある名だったからだ。“もと”諏訪郡の豪族という言葉も気にかかる。諏訪の豪族であるのなら、きっとどこかで諏訪子とは何らかの関係があったはずだ。神奈子が次の問いを発するより早く、彼女が代わりに二の矢を継いで質問をした。神奈子は、特にそれを制する素振りもない。
「ダラハド、と申したか」
「は……」
「儂は――洩矢諏訪子は、何処(いずこ)かで其許に会うたことはなかったか。そのダラハドという名、諏訪の豪族輩(ごうぞくばら)のうちに、ツと憶えがあったような気がするが、」
「“ウヅロ”という名を、かつて御存知にございましょうか」
ウヅロ、という名を耳にしたとき、彼女は眼を見開いた。
久しく忘れ去っていた古傷の痛みが、今さらになって思い出されてきたような感触に。
「ウヅロ、ウヅロか! 憶えておる、ようく憶えておる。諏訪の豪族ウヅロ。やつは、かつてこの諏訪子を代々に渡りて祭祀していた家の者。そして、」
「他の豪族との諍いに負け、諏訪の地を追われた……他ならぬわが父にござる」
真一文字に引き結んだ唇の裏側で、諏訪子はきゅッと苦々しさを噛み潰す。
ようやく、すべてが繋がったと思った。出雲人の進出以前、豪族たちが“諏訪さま”を祀り上げて神権政治を執っていた頃から、彼らはみな一枚岩だったわけではない。しょせんは同じ王を推戴してまとまっただけの『連合政権』である。政局によっては勢力間、一族間で離合集散を繰り返すことも珍しくはなかった。なかには権力闘争に敗れ、実権を喪う者たちとて数多あった。ウヅロという名前の男、かつて諏訪に居たその豪族もまた、そのなかのひとりということだ。そのウヅロの子――ダラハドという男が、何の因果因縁によって結びつけられてしまったものか、再び諏訪子の面前にやって来たのだ。
「諏訪子に、ダラハド。そなたたちふたりのあいだにも積もる話は多々あろうが、今は本題に立ち戻るぞ」
「御意に」
「ダラハド、面を上げて良い」
神奈子に命じられたダラハドだったが――どういうわけか、なかなか顔を上げる素振りがない。正しくは、逡巡しているというべきか。「ダラハドどの、八坂さまの御面前にござるぞ!」と、老臣の威播摩令(いわまれ)がきつい口調でたしなめる。ちらとダラハドは神奈子を、それからその横に座する諏訪子を見た。ぞくり、としたものを、諏訪子は感じた。さっき廊下で神奈子に感じたものとはまた違った、別種のおぞましさ。
またしばし、ダラハドは無言のうちに躊躇と逡巡をくり返して、それからようやく一同に見せつけるごとく、自らの顔を上げたのである。ひどい猫背をした体格が少しだけ真っ直ぐに近くなる。皆の眼がいっせいにダラハドの顔へと注がれる。同時に、はっきりと不快を感じ、各々に表情を顰めて(しかめて)しまっていた。
ダラハドという男の顔の、その右半分。
右目を中心とした半分は、包帯を幾重にも巻かれ、厳重にその下の肌を隠されていた。だが分厚い包帯の層によってもまるで隠しきれないのは、その真白い布の下から絶えず染み出る薄黄色い膿と、濁った血液。それに、生きながら身を食まんとする不断の腐敗が発するかすかな腐臭、悪臭であった。
「崇り、に、ございまする。このダラハド、この世に生を享けてより三十四年、生きながらにして右の眼の珠が腐る病に蝕まれておりまする。わが父ウヅロが、神権を侵す大逆の徒として諏訪郡を追われしその日から続く、“諏訪さま”の祟りによりて。いずれはこの病、眼窩を突き抜けて脳まで達し、苦悶のうちに死に至るとの由」
誰に問われるまでもなく、ダラハドは一同を見回しながら言う。
彼が首を動かして方々を見るたび、右目から流れ出る悪臭が評定衆の嗅覚に不快感を残していく。自らの容姿の醜悪さを隠すかのように伸ばされた彼の髪の毛は、若さの証たる黒い輝きをほぼ喪失し、そのほとんどが白髪と成り果てていた。三十四という年齢が嘘に思えるほどである。床に突いた手指はそれぞれの関節が“虫こぶ”のごとく腫れあがり、ときおり不自然な震えが走っている。概してダラハドの見た目は、実際の年齢より一回りも二回りも上に見えてしまう。それほど、彼は病み荒んだ身体をしていた。
そして、その荒んだ肉体を彼に与えたのは、他ならぬ洩矢諏訪子の崇りなのだ。
かつて諏訪豪族同士の権力闘争に担ぎ上げられ、敗者を悪人として呪ったときの“諏訪さま”自身なのだ。昔のことであるとはいえ――自らの処断で生まれながらに生涯を破綻させられた男が、いま眼の前に居る。それは、決して気持ちの良い話ではない。
「ダラハドを諏訪に呼び返して、八坂さまは何をなさるおつもりにございますか」
「この男は、かつて諏訪においては祭祀の権持つ家の出。なれば諸方の神や祭祀にも通暁しておろう。ダラハドには、わが王権の威光をあらためて科野国中に広めさせる。なおかつ、旧き神霊とその宿るところの祠、神籬(ひもろぎ)、磐座(いわくら)、それから霊をその身に下ろす依代(よりまし)や依巫(よりまし)といったものへの目付。そのような役目を担わすつもりだ」
ほお……とばかりにうなずいたのは、諏訪子だけでなく評定衆の者たちまでもだ。国家として、祭祀を政治の柱石として組み込んでいくのであれば、当然、そのための管理者とでもいうべき役職は必要となろう。いわば、ダラハドという男は八坂神奈子から『宗教統制』『宗教顧問』という二つの大役を任されることになる。祭祀の政治においてその手の重要な仕事を与えるということは――すなわち、神奈子はダラハドを自らの領袖(りょうしゅう)として取り込むつもりだということに他ならない。
「諏訪を追い出されてから幾星霜か。一族みな散り散りになり、このダラハドも病んだ身体を衆目に晒すを厭うて隠者のごとき暮らしを営んでおりましたなれど、此度、八坂さまのお慈悲によりて伊那郡(いなごおり)に新たな所領を賜ることと相成りました」
「だが、それには厄介な問題がひとつ出来(しゅったい)した」
ダラハドの世辞めいた言葉を遮るように、神奈子が引き取る。
そして、無言のままダラハドに顎で指図する。「は……」とつぶやいて、彼は礼服――おそらくは今日この日のために、神奈子が気を回してあつらえさせたものだ――の懐に手を入れる。
ややあって、取り出したのは一条の竹簡である。
束ねたり畳んだりすると、紙よりもはるかにかさばってしまうという欠点が竹簡にはある。が、ダラハドが取り出したそれは巻物状に束ねて紐でくくられてはいたが、さほど分厚さを生じさせているようにも見えなかった。どうやら、そこまで長い文章が記されているわけではないらしい。
「皆々さま方、よくご覧なされませ。問題とは、“こちら”にございまする」
紐を解いて竹簡を開き、文面が評定堂の全員に見えるよう、ぱっと裏返したダラハド。
諏訪子と、それから評定衆のうちの幾人か――未だ事態の詳細を知らぬ者たちが、そこに記載されている内容に眼を剥いた。ごくりと、唾を飲み込む音さえどこからか聞こえてきた。反対に神奈子と稗田、残った評定衆たちは、冷ややかな視線ばかり竹簡へ向ける。
『八坂神の王権において、伊那郡辰野(いなごおり たつの)に豪族ダラハドの所領を賜う。ために現今、当地を支配せる豪族ユグルは、急ぎ立ち退き小県郡(ちいさがたごおり)に移るべきこと』
そういう主旨の言葉が、竹簡には文書として記されていた。
筆跡からすれば、神奈子の意思を祐筆の稗田が代筆したものである。文書の最後にだけ、神奈子の自筆による彼女の名が記されている。しかし一同が驚愕したのは、そんなありきたりの公文書を見せられたからではなかった。それぞれの視線が、開かれた竹簡の右からから左へと幾度も移動する。かと思えば、今度は左から右の道筋をもぎこちなくなぞっていた。
「何と、恐るべきことを……!」
誰かが声を震わせる。
諏訪子は何も言わなかったが代わりに眉根にしわを寄せ、苦々しげに文書を見つめているばかりであった。
ダラハドの持参した竹簡――伊那の豪族ユグルに所領替えを命ずる文書には、全体に、大きく『×』の形をした傷がつけられていたのである。傷跡にはいっさいの揺れやぶれもない。思わず見とれてしまうほど真っ直ぐの傷だ。あたかも、刃物を手に取った者の怒りの深さをよくよく裏書きするかのように、幾重にも重ねて切りつけられた傷でもある。よほど鋭利な刃物で、念入りに何度も切り裂いたとしか思えない。
「喧嘩を売ってきた……にしては、いささか趣味が悪い」
思わず、諏訪子もつぶやいてしまう。
「先般、箕輪(みのわ)に置いた伊那の郡衙(ぐんが。郡の役所)を通して発行せる領地替えのこの文書。帰ってきた返事は“否”でも“応”でもなく、元の竹簡に傷をつけて送り返された斯様なものだ。どうやら、こちらの意図を容れるつもりは断固としてないらしい」
「まさか、それを理由に征伐のいくさをなさるおつもりでは?」
「普通ならば、そうなる。だが、今の科野には法がある。訴訟沙汰を処理するための決断所(けつだんどこ)がある。ダラハドもそれは知っておる」
「今の私には存分にいくさ支度を整えるだけの資力もなければ、兵らを集める土地もございませぬ。何より、土地の問題は訴訟として決断所の沙汰を待つが今時分の決まりとか」
ダラハドの説明に、神奈子は大きくうなずいた。
「しかし、よ」と、直ぐ後につけ加えながらではあったが。
「ダラハドの訴えを受ける形で此は訴訟と見、決断所の方でも土地の帰属について審議を行うべく、伊那辰野の豪族ユグル方へ諏訪への参上を命ずる沙汰を下したが、先方、いっこうに応ずる気配がない。此度の決定について異論あるなら、堂々と訴え出れば良いのにだ」
評定衆のうち、また幾人かがうなずいた。
見れば、それは決断所で訴訟処理の役に関わる者たちだ。なるほど、そういう絡みで事情をすでに把握していたのであろう。
「ユグルはこちらがいくら命じても、件の竹簡を送り返してきたぎり、いつまでも経っても次の返答を寄越さぬのだ。よほどに重きその腰は、よもや甲冑を身にまとっているゆえではあるまいか……と、八坂はそのように考える」
「はっきりとした返答を先延ばしにするは、時を稼いでいるということにございまするか? 決断所で訴訟を処理すべきという法があるのを隠れ蓑に、いくさ支度を整えるための?」
「そういう予断も成り立つ、十分にな」
神奈子は、横目でちらと諏訪子を見遣る。
「国家を営むは法による。大陸に栄える大国を範とするなら、まず法の遵守を政の第一に据えねばならぬ。だからこそ、いたずらに国家の法を犯す者を棄て置くわけにもいくまい。兵をくり出し、仕置に訴えることまで含めて」
決意のようなものに満ちた神奈子の声が響く。
すると、直ぐに評定衆のひとりが向き直り、声を上げた。
「八坂さま、兵をくり出すは尚早と思われまする」
ちらと、皆の視線が声の主に集まっていく。
「渟足(ぬたり)か。いかなる意見やある?」
渟足と呼ばれた男――越州(えっしゅう)は渟足の地に源を発する一族の出身ゆえ、そのように名乗っているのだが――は、一礼をして己の意見を述べた。
「いくさをやるには、単純に時期が悪うございます。十月を迎え、地には霜が降りておりまする。霜が降りたとあれば、冬近い証に他なりませぬ。科野は雪深き地であるゆえ、雪が積もればいかにわれら出雲勢が強けれど、身動きが取れなくなりまするぞ。加えて、この時期に兵を動かす糧食は、冬に備えて満たしたはずの庫(くら)より捻出をしなければなりませぬ。高くつきまするぞ、あまりにも」
ひと呼吸を置き、渟足は結論に達する。
「早くて雪解け、遅くとも来春(らいはる)の四月頃を目途とした出兵が良いものと心得まする」
「いや、それでは遅すぎる。八坂の神は土地争いをいたずらに長引かせるばかりなりと、世間から嘲りを受けよう。悪くすれば、この機に乗じて各地の逆徒が叛乱に訴えることもあるかもしれぬ。事は国家の権威に関わるのだ、解決は早いほど良い。何としても冬の到来までには片づける」
渟足の策を退けつつ、神奈子は舌先で唇を舐めた。
一方の諏訪子は、膝の上で両手を握り締めている。
爪が手のひらに食い込むのではないかと思えるほどの力で。
「再び、血が流れるのですね」
不安げに訴える諏訪子だったが、神奈子は泣く子をなだめる母親のように微笑した。
「否、そうはなるまい。此度は軍勢にて辰野にあるユグルの根城を取り巻かせ、威圧をすることで交渉の場に引きずり出すつもりだ。つるぎのひと振りも抜くことなく、矢の一本も放つことなく。こちらの命令を拒みながらも直ぐに力押しで攻めかからぬということは、向こうもばかではないということ。戦いに備えつつも、同時にこちらの出方を探ってもいるということだと思う。ゆえに正面からわれらの戦力とぶつかるより、おとなしく話し合いに応ずるが上策だと気づくはず」
満々の自信が、神奈子の声や言葉の端々にはみなぎっている。
この『事件』を処理にするに当たり、自らの策によほどの自信があるのだろうと、誰が見ても直ぐに解るくらいだ。笑みさえ浮かべながら、神奈子は評定衆の末座に加わっているふたりの出雲人に眼を走らせた。視線に気づいたふたりは、鷹揚に威儀を正す。
「安和麻呂(あわまろ)」
「は!」
「嶋発(しまたつ)」
「ははッ」
名を呼ばれた出雲人ふたり、床に手を突いて一礼をした。
満座のなかで、他の人々の注目が安和麻呂と嶋発に集まっていく。
「ふたりは、神武大王(じんむのおおきみ)の長髄彦(ながすねひこ)討伐に従うた勇者(ゆうじゃ)の後裔。此度はそなたらに軍兵を預け、ユグルの説得に当たらせることとする」
安和麻呂と嶋発は、同時に頭を垂れた。
「とはいえ、諏訪での備えに穴は開けられぬ。まずは二百の兵を率いて諏訪を発ち、伊那箕輪の郡衙に駐屯する兵のうち六百ほどと合流せよ。その後、辰野に入ってユグルの元に赴き、その根城を取り囲め。ただし、いたずらに戦いを行おうとは思うな。あくまで、相手を諏訪での交渉に応じさせるのが目的ゆえ」
神奈子の示した作戦の概略に、ふたりの出雲人は「お任せ下さいませ!」「必ずや、御期待に沿うてご覧に入れまする!」と間髪入れずに答えて見せた。神奈子に負けないほどの意気軒高さだ。諏訪子は、思わず溜め息を吐く。この作戦の成功を疑っているわけではない。ただ、あまりの意気の昂ぶりに気持ちがついていけないのである。
「果たして、そう上手くいきまするかな」
「成功はさせる。つるぎは、抜くべきときをわきまえねばならぬからな」
力強い、神奈子の声。
十余年も自らの軍を率いてきた神の、耳にするだけで多くの人々を安心させる力を感じさせる。けれど今の諏訪子には、さっき廊下で激昂した、あの瞬間の神奈子が未だどこかに宿っているように思えて仕方がなかった。反対する者のことごとくを圧する、強大で鮮烈な、そして傲慢な意志の力が。
「皆々さま方は……、このままいくさ評定に移るのでございましょうか」
ややあって弱々しい声を上げたのは、竹簡を再び懐に戻したダラハドだった。
「おお。今後の詳しい方針に関しては、これから急ぎ詰めるが」
「なれば、この病身が評定の場に居ってもお邪魔になるだけ。わが身の病が発する臭きにおいが堂から取れなくなる前に、退散を願いとうございまする」
「もう、か? 病苦、それほどに堪えるか」
「はい。また、右目がじんじんと疼き痛んでおりまするゆえ」
猫背をよりいっそうに丸めて、ダラハドは神奈子に懇願する。
こうまで言われては、彼女の方でも拒む理由はない。神奈子から適当に身体の具合をいたわる言葉を掛けられると、やはり舎人に付き添われ、猫背の病者は堂から退出していった。
「では、八坂神よ。ダラハドはこれにて。どうか、吉報をお待ち申し上げておりまする」
最後にそう言ったダラハドの笑みは、どこか歪んでいたのである。
そして彼はいちども――、“洩矢諏訪子に対して敬意を表するということがなかった”。
そのことに気づいて、なぜか諏訪子は、背筋にぞくりとしたものを感じないわけにはいかなかった。
――――――
「これほどの大事、なぜ今まで諏訪子に黙って話を進めておられたのです!」
評定を終えた後。
諏訪子が声を張り上げたのは、評定堂から幾らも離れていない廊下の途中でのことだった。巡邏の衛兵の姿がない場所を見計らって彼女は抗議の声を上げたのだが、それでも大きな声を出せば気配くらいは周りに知れるだろう。むろん、諏訪子もそんな当たり前のことは十分に承知している。承知していても、声を張り上げざるを得なかったのだ。それだけ、彼女は神奈子の独断に腹を据えかねるところがあった。
「諏訪子、何を――そなたは何を怒っておる」
「八坂さまが、わたしに何の断りもなくあのダラハドを諏訪に呼び戻したこと。加えて、伊那辰野の豪族ユグルに所領替えを命じたこと」
抗議の種である二点を諏訪子は口にしたが、その言葉の最後の方はどんどん声が小さくなってしまう。まるで、悪いことをごまかすために嘘をつく幼い子供のようだった。こちらの態度を見て、神奈子は呆れるに違いない。はじめのうち、諏訪子はそう思った。次に、自分と同じくらい怒るのではないかとも考えた。だが、結果は違った。ふう、と、心に溜まった熱を排気するごとく、神奈子はゆっくりと息を吐き出したのだ。予想に反して、拍子抜けするほど落ち着き払ったものでしかない。
こうなると、調子が狂うのは諏訪子の方である。
評定の前、やはり廊下で顔を合わせた時とはまるで立場が逆転している。神奈子の怒りが、代わりに自分に宿ってしまったみたいではないかとさえ思う。
「いったい何が不満なのだ、そなたは」
「元をただせば、あのダラハドとのこと」
奥歯をぎりと噛み締めて、努めて冷静であろうと諏訪子は言葉を選んでいた。
「評定の際も、少しだけ話に上りましたが。ダラハドという男の父は、かつてこの諏訪子に仕えながら、豪族同士での権力争いに負けて諏訪を追われたウヅロなる者。大逆の徒とされたウヅロへの罰と称し、わたしはその一族に祟りをもたらした。その結果が、ダラハドの身を蝕む病に他なりませぬ。往時の権勢を喪い一族は離散、自身も病身。斯様な者がどうしてこの諏訪子を憎まずにおれましょうか。わたしに――諏訪勢の政に怨み持つ者を王権の中枢に据えるなら、きっと遠からず災いの種となりまする」
ひと呼吸を置き、諏訪子はさらに続けた。
「否、すでに災いの火の手は上がっているとも申せましょう。ユグルとやらを立ち退かせ、代わりにダラハドを当地に据えるなど言語道断。先に各領主へ配分する所領とその境を公にしておきながら、今になって配置替えを命ずるなど、朝令暮改との謗り(そしり)とて免れるものではございませぬ」
できる限り、論理と整合性を重んじた諫言を行ったつもりであった。
半ばダラハドに関する個人的な遺恨の混じった経緯と言葉は、しかし、いつしか彼女の心を再び熱くさせていく。いったんは冷静になったと思えど、それでもやはり諏訪子のうちから激昂の度は完全に消えてはくれなかったようなのである。袖のなかで両手を握り締め、目一杯に背伸びをしながら自分より大柄な神奈子を睨む。神奈子は、しばらく何も言わなかった。同意も反論もしなかった。そのうち困ったように指先でうなじを掻くと、もう片方の手を諏訪子の頭に乗せ、ぐしぐしと撫でるような仕草をする。急に子供扱いをされたような違和のせいで、諏訪子の顔はほの赤くなる。
「そなたと話し合うても、きっとそうやって反対されると思うた。だから、諏訪子には言い出せなかった」
もう二、三度、諏訪子の頭を撫でると……彼女の両肩に手を置き、頭の高さを下げる神奈子。両者の目線の高さが一致する。どうしてこんなにも、穏やかな眼をしている。そんな疑問に諏訪子は気づいてしまった。それから、神奈子のその穏やかな眼そのものが、小さな恐怖で凝り固まっているということにも。洩矢諏訪子が八坂神奈子を恐れているからそう見えてしまうのか、八坂神奈子が洩矢諏訪子を恐れているからなのか。それともその両方か。とっさの判断は利かなかった。諾々と、相手の口から滑り出す言葉を彼女は耳にするだけだ。
「諏訪子、良く聞け。ダラハドの諏訪招聘(しょうへい)と、それに所領替えのことは、何も昨日今日の思いつきにあらず。ひと月前の行幸の折、モレヤに白蛇の怨霊が憑いたことは、そなたも憶えておろう」
「それは、確かに」
はっきりと、憶えている。
以来、モレヤは咳病で病床に棲む羽目になっているのだ。自らの夫が病苦に追い込まれるきっかけのような事件を、忘れろという方が無理というものだ。諏訪子が鷹揚にうなずくのを見届けると、神奈子は話を続けた。
「件の騒ぎあってからというもの、科野諸州では悪しき噂が這い回っておる」
「悪しき、噂?」
「“八坂神は旧き神々の怒りを買うておるゆえ、その政は近く滅びる”と」
わずかに、諏訪子の眼が泳ぐ。
まさにその噂なるものは――あの怨霊が吐いた呪詛の言葉と似通っている。
八坂神と出雲人に祟りと滅びあれかし。モレヤの肉体を依巫としたおぞましい声が、今でも彼女の脳裏にははっきりと記憶されている。その言葉が今や衆人の噂となって、科野諸方を駆け巡っているというのか。
「それは……しかし、しょせんは噂。いずれ忘れられ、誰の口の端にも上らなくなるほど根も葉もないものにございましょう」
諏訪子は、努めてつくり笑いを神奈子へ返した。
彼女自身、よく考えるまでもなくひどくぎこちない笑みだ。
しかし、不安を無理矢理に振り払うかのごとく見せたこちらの表情を苦もなく退けるみたいにして、神奈子はかぶりを振って応じるだけだ。
「私も最初はそう思うておった。だが、この初冬はどうだ。方々で咳病が流行り、貴賎を問わず死人が出ておる。これを怨霊の祟りと見なす風説の多きを、ただの噂と遠ざけることができようか。似たような噂は、各郡の郡衙を通じて幾らも報せが上がっている。何よりもまず、そなたの夫たるモレヤ自身がひと月ものあいだ病に伏せっておるではないか。事は八坂神奈子ひとりの体面の問題にあらず。諏訪を中心として科野に国を築いた、この王権がまことに正当か否かにも関わる事態」
「旧き神霊の言に従うておるかのごとく凶事起き、民人がそれを信ずれば、それはわれらとても計りかねる天意によるものであると、そういう仰せにございまするか?」
「要はな……旧き神霊たちの声をこそ正しきものと考える者たちが、依然として多すぎるのだ。そんなものを拠り所として八坂の王権に“否”を突きつけられれば、――八坂の神は天地(あめつち)の理に叛き奉る者とでも思われてしまえば、この私は王としての資質を欠くと言われているも同じこと」
諏訪子の両肩に置いていた手を離すと、神奈子は廊下の端に歩み寄って、昼過ぎた空をぼうと見つめ始める。天から吹き寄せる『風』が、自らの意思にてもままならぬものであることに、ひどく焦れているみたいにも見えた。
「旧弊はあくまで除く。私はすでに決めた。民人が旧き神霊の声を信ずるのであれば、それは蒙昧さに浴せし行いであるというのを断固として知らしめねばならぬ。この八坂こそ新たな神、その言葉こそまこと正しきものであるということまで含めて。それで、あのダラハドだ。王権の御名の下に善き祭祀、悪しき祭祀をはっきりとさせるのだ。怨霊の声を頼みとしてわれらが王権の隙を窺うような、不埒な企てを潰すためによ」
振り返りもせぬ神奈子に駆け寄り、諏訪子は彼女の着物の袖を指先でつかんだ。
「そのためなら急な所領替えをお命じになり、余計な火種を抱き込むことも辞さぬと仰るのでございまするか」
何ごとかと思ってか、神奈子が振り向く。
まさか、ここで反論されるとは思わなかった。そんな顔をしている。唇を尖らせるままの諏訪子を説き伏せるようにして、神奈子は話を続ける。
「こちらはあくまでダラハドとユグル、この二者のあいだで起こった訴訟としておきたかった。訴訟とするからには、両人の言い分をよく聞いてやる必要がある。しかし、それを頑なに拒むはユグルの方だ。法に逆らう者には仕置をせねばならぬではないか。盗人や人殺しが相応の罰を受けるのと同じように、武威による威嚇をもってしてでも、ユグルめを交渉の場に引きずり出さねばならぬ」
再び、神奈子は駄々っ子を落ち着かせるかのように諏訪子を撫でようと手を伸ばす。けれど諏訪子が一瞬早く、自らに向かって伸びてきた相手の手を握り締めた。無用、と、凛たる声で神奈子を制したのだ。そっくりそのまま、神奈子の政策に対する抗議の表明でもあった。
「諏訪子は此度の処断、あくまで反対であると申し上げまする。市井(しせい)の噂に惑わされ、いたずらに祭祀の引き締めを行うはそれこそ愚策。ダラハドごときにいたずらに国家の一翼を委ねれば、やがては政の骨子までも操られかねませぬ」
「其は、諏訪子があの男とのあいだに遺恨あるがゆえの思いであろう。そなたは、昔の出来事に引きずられて激しておるだけではないのか。冷静になれ、わが友」
自分の手を握る諏訪子の手に、神奈子は空いていたもう一方の手を重ねる。剣の柄、弓の弦、馬の手綱――およそあらゆるいくさの経験でつくられた、八坂神奈子の手の皮の固さが、ほのあたたかいものと一緒に諏訪子にはよく伝わってくる。誠心であると、察せざるを得なかった。今回のことは、神奈子による国家への誠心なのだ。だからこそ、友人は友人に対して理解をしてもらいたがっている。いじらしいまでにだ。
「八坂神奈子が洩矢諏訪子を友と称するおつもりなら、どうか、私の言をもういちどよくお聞き届けくださいませ」
「申せ。……八坂も、元は諏訪子に惚れていたこともあったのだ。話なら幾らでも聞く」
「では、申し上げまする。八坂神奈子が王であるなら、洩矢諏訪子もまた王にございまする。よもや、そのことをお忘れかと」
神奈子の手に、今度は諏訪子からもう片方の手を重ねた。
結果としてできあがったふたりの王の固い握手は、両者のあいだには確かな絆があり、それは未だ傷ひとつもなく――“傷ついてもいけないもの”だというのを、手さぐりで確かめるようなものだったのかもしれない。神奈子が、諏訪子に応えて見せた薄い笑いは、どこか儚げな色で塗られている。その表情を見るにつけ、なぜか諏訪子の方が奇妙な罪悪感を覚えずにはいれらなかった。
「だからこそだ。洩矢諏訪子は腐っても諏訪の王、科野の神だ。先にも言うたが、一から十までそなたとの談合に及べば、きっとどこかで反対されると思うていた。其は、わが本意にあらず」
いやに、かなしそうな声だった。
諏訪子には、そのときの神奈子を“押し留める”ことはできなかった。乾いた大地に傷をつけていく鮮烈な雨の跡のごとき余韻で、いくさ神の弱気は諏訪子の心をかき乱していく。
「神奈子」
友人の身を案ずることに、もはや君臣の礼などなかったのである。
握手を解き、諏訪子はあらためて手を伸ばす。さっき神奈子が自分にしたことのように、相手の両の頬をこちらの両手で抱え込んで、目線の高さまで引き寄せるのだ。
「君臣ではなく、あくまでひとりの友としてわたしはあなたに問いたい。神奈子は、いったい何を焦っているのだ? 洩矢諏訪子に、何の遠慮があると?」
しばし口ごもり、神奈子は意を決したように言葉を発する。
「ギジチがな。商業の司に諏訪子を任じ、同時にその権限の一切までもそなたに譲り渡せと言うておった。だが、私は否と言うた」
ゆっくりと、諏訪子の眼が見開かれる。
「本音を申せば、私はそなたに嫉妬をしておる。八坂神奈子は洩矢諏訪子とのいくさに勝った。自らの国をつくった。……だが、今はそれだけだ。民人の信望も、旧き神霊どもからの畏れも、八坂の元からは離れかけておる。自らの理想と頼む政の姿すらも、そなたの元に渡ってしまったら――――後はこの八坂に何が残ろう? ただ、神という薄皮のみを身にまとった、意味なき抜け殻ではないか」
絶句して、諏訪子は神奈子の頬から手を離そうとした。
指先が、彼女の耳の際(きわ)からするりと動きかけたとき。それを強く拒んだのは、諏訪子の手をぎゅっと握り締めた神奈子だった。友人は、もう笑っていなかった。
「諏訪子、私は。自分の足でたどり着き、自分の手でつくり上げたものを喪いとうはない。それだけだ。ただそれだけなのだ。どこぞの下らぬ神霊だの怨霊だのに私の夢を、私の理想を、私の国を、踏みにじられとうはない。しかし友としてのそなたもまた、喪いとうはない。八坂の理想とそなたとを同時に手元に残しておくには、此度の事案はすべて黙って話を進めるより他なかったのだ。解ってくれ」
「…………解らぬ。何ひとつ、あなたの言うことが理解できぬ」
「今はそれでも良い。きっと……きっとすべてが収まる時が来よう。その時を、私がつくって見せるのだ。科野は私の国だからだ」
そしてようやく、神奈子は諏訪子の手を解き放った。
触れるものを失った手には、しかし、未だ神奈子のあたたかな体温がはっきりと残っている。たどたどしい仕草で、諏訪子は自らの手をぎゅっと握り締めた。不思議と名残が惜しい感じがする。それは、体温と体温が触れあうことの安心感を求める、子供じみた憧れだったのか。それとも、神奈子がどこか遠くの、決して諏訪子には手の届かない世界に入り込もうとしているように見えることへの、本能的な危機感だったのだろうか。
「済まなかった。今のは忘れよ。これもまた、悪しき噂と思うて」
最後に力なく笑うと、神奈子は諏訪子に背を向けた。
そして足早に自らの居所へと引き上げていく。その後を追おうとする諏訪子ではない。追ってまで、伝えることはもうなかった。幾色にも混じり合った色彩をした思いや感情が、身のうちで渾然と渦を巻き、まったく意味らしい意味を見出すことができない。かろうじて自覚できていた心は、ひどく悔しく、かなしいということなのだ。掛ける言葉を、――八坂神奈子という友人の焦りと不安を癒すことのできる言葉を、そのときの諏訪子が持てなかったことへの。