八坂神より正式に出兵を命ずる宣下(せんげ)を賜った安和麻呂と嶋発が、二百の軍勢を率いて諏訪の柵を発したのは、十月六日のことだった。進発に際しては景気よく軍鼓が打ち鳴らされ、併せて将兵みな鬨の声を数度も上げた。久方ぶりのいくさらしさに、逸る気持ちを抑えられないものと見えた。
彼らがまず目指したのは、当初の計画通り……伊那郡は箕輪に設置された伊那郡衙である。神奈子は王権の発足に伴い、科野十郡に、自ら任じた被官が在地豪族への目付として政務を執る政庁たる『郡衙』を設置していたのであった。そして各地の郡衙周辺には、出雲からの東征より彼女に突き従ってきたおよそ一万の軍勢を、一郡につき一個の軍団、およそ千人ずつに分割して駐屯させるという体制が採られていた。いざ八坂神の命令あらば、各地の駐屯軍団は作戦計画に合わせて召集・編制が行われ、直ぐさま動員されるようになっている。いわば、科野のどこで何が起こっても政府の意思で迅速に対応できるよう編制された、有事即応の直属軍だった。
そして安和麻呂と嶋発は、箕輪に駐屯せる軍団のうち六百と合流。総勢八百の軍勢となり、一路、ユグルが根城を構える辰野の地まで軍を進めたのである。
伊那郡辰野という地は、古来より中信地方や諏訪などの諸地域を結ぶ交通の要衝として発展をしていたという。ために道々に人の往来は元より多い。軍路としての整備こそ未発達なれど、人々によって拓かれ、踏みならされてきた道を軍勢八百の人馬が突き進むことにさしたる苦労はなかった。加えて、周辺一帯に形成された盆地である伊那谷は、肥沃の大地と言っても良かった。初冬を迎えて秋の実りも寂れてしまったとはいえ、甲冑を着込み矛と盾を担いで進軍する完全武装の兵らの疲れと緊張感を、豊かな広さを持つ田畑の風景は程よく解きほぐしてくれていた。
諏訪からの進発を経てより数日して。
彼らが辰野に入った頃には、日取りは十月九日を迎えていたのである。
「そろそろじゃの」
と、嶋発は馬上から安和麻呂に問う。
「おお」、と応じた安和麻呂もまた、やはり馬上の人である。
鈍く光る鉄の甲冑の黒味のなかで、兜の額部分を飾る、赤く染められた鳥の羽が、ふたりがこの軍勢の指揮官であるというのを鮮やかに示していた。
馬の背で絶え間なく揺られながら、数百の兵らに護られたふたりは、どちらからともなくこれから辿る道筋を顎で示し合った。押し合いへし合いして密集するかのように存在する田畑に、ぽつぽつと小村や小集落が点在する土地だった。交通の要衝とはいえ、どこに行っても常に人が居るわけでもないだろう。普段であれば市場など立つと思われる広場にも、猫の子一匹歩いてはいない。あるいは大規模な軍勢の移動を見て、もう直ぐいくさが始まるということを触れまわった者が居るのかもしれない。そんな推測が本当だとするのなら、なるほど、交通が多いということは情報の伝達も早いということだ。辺りの住民は、みなすでにどこかへ逃げたか隠れたか。目指すユグルの根城は、もうあと一里ほど先という話である。
馬の手綱を握っていた手の片方を離し、鼻の頭を掻きながら、安和麻呂が言った。
「しかし、八坂さま直属の軍を動かすのであれば、郡衙に令旨(りょうじ)を発して当地の者に率いさせた方が手っ取り早かったのではないか」
横目でその様子を眺めていた嶋発は、薄笑って首を横に振った。
「いいや。此度の出兵は、いわば王権の御威光を示さんがためのもの。同じく直属の兵を動かすとはいえ、直々に令を受けたわれらと文書のみで命じられた郡衙の者とで比べれば、天下(あめのした)に示される権威は段違いじゃ」
なるほどな、と、安和麻呂がうなずく。
嶋発と同じほどに笑みながら、彼は再び手綱を握る。
多分に、楽観の混じった顔つきであった。ただし、それも無理もないものではあろう。相手はしょせん辰野を支配するだけの小豪族。今回のことでいくさの備えくらいは間違いなくしているだろうが、正面切って八坂神に叛き奉る兆候もないところを見ると、さほど潤沢な戦力を保持しているわけでもないと思われる。そして安和麻呂も嶋発も、いざ辰野に足を踏み入れればユグル方との小競り合いか、あるいは奇襲攻撃くらいはあるものと覚悟をしていた。だが、今までのところその気配すらまったくないのだ。油断をすべきでは、もちろんなかった。しかし、その一方で、自然と警戒も緩んでくるのもまた真実だ。出雲勢の勝利――出雲人の軍勢八百を目の当たりにしたユグルが、怖れをなして決断所での交渉の席に参ずる様子が、眼に見えるようではないか。
それを思えばこそ安和麻呂と嶋発は、このたびの出兵を苦役どころか、むしろ八坂神から自分たちに対する褒賞のようなものだとさえ感じ始めていた。いくさなどまともに起こるはずもない。起こったところで、軍神八坂の加護のもと、十余年を戦ってきたふたりである。いち地方豪族との小競り合いなど、あっという間に鎮圧できてしまうのだという揺るがぬ自身が、確かにある。
一里先のユグルの根城へ至る道は、だから、ふたりにとっては勝利に向かって駆け上がる階(きざはし)と、さして意味を違えるはずのないものであった――――。
――――――
ユグルの館は、小高い丘に拠って建てられた砦と言っても良い。
辰野の盆地を取り囲む山のごく切れ端、とでもいうべき場所に据えられた山野の城である。館の周りには城壁――丸太を幾重にも束ねた急ごしらえのものではあったが――と空堀が巡らされ、当然のことではあるが防御に気を配っているのが見て取れる。大地が波打ったかのような起伏ある地形は、天然の土塁として敵の侵攻を阻害する役にも立とう。
加えて城門に通ずる唯一の道が、急峻かつ狭隘(きょうあい)な上り坂を形成している。さらに、その坂には矢盾と逆茂木(さかもぎ。茨など棘のある樹木でつくった防御用の柵。バリケード)が所狭しと配置されていた。寄せ手がまともに攻めかかろうと思えば、正面にあるこの坂から進むよりほかない。そうなると幾ら兵力が多くても、多少の犠牲は覚悟する必要があるように思われる。
そんなユグルの城の様子をまじましと、安和麻呂と嶋発は観察した。
すでに城を間近く臨む場所に布陣し、兵らも次の下知を今や遅しと待っている。このまま待機か、それとも攻めてかかって力押しで開城をさせ、諏訪までユグルを連行するのか。皆の心は揺れる。その様子をちらと確かめながら、安和麻呂は「ふうむ」と息を吐いた。本陣にてすでに馬から下り、彼は嶋発ら味方の諸将と共に在る。
「方々に眼を向けることのできる、見晴らしの良い台地の城。加えて、唯一の道であるあの坂の守りも固い。正面から軍を進めて無理に破ろうとすれば、上方からの弓矢で狙い射ちにされて、こちらは屍の山を築くことになろう」
「左様。たかが小豪族とはいえ、まずまず兵法を知っていると見える。急ごしらえでつくった砦であるにしては、出来が良いのではないか……」
安和麻呂と嶋発の会話に、他の将たちも各々にうなずいた。
いくさ自体が本来の目的でないとはいえ、いきなりの攻撃はためらわれて然るべき。そういう空気が、いつの間にか本陣では醸成されていく。
「では、いかに致しまするか。八坂さまの御命令は、武威による威圧で城を開かせ、ユグルを諏訪での交渉の席に着かしむること。いたずらな城攻めは本来の目的ではございませぬ」
「解っておるわ、そんなことは」
ひとりの部将の言葉を嶋発はたしなめた。
「こちらは、八坂神という公の権威より公式に軍を託された側。まずはそれを伝え、降伏を促す。さいわい、諏訪への出頭を命ずる文書もあるのだ」
嶋発が言うと、兵のひとりがすばやく竹簡を差し出した。
稗田舎人阿仁が筆を執り、八坂神奈子の署名が為された公文書である。いわば、このたびの出兵の正当性を裏づける『証明書』のようなものである。安和麻呂がそれを受け取り、手のなかで弄びながら言う。
「と、なれば、軍使を立てねばなるまいの」
すると、剣の柄を指で叩きながら嶋発が応じた。
「誰か騎馬の者に命じようではないか」
「うむ、そのように」
すばやくうなずき、安和麻呂は再びユグルの館を仰ぎ見た。
ちょうど食事どきなのか、竈の煙らしいものが幾つか立ちのぼっている。軍使の遣り取りをしたら、次はこちらの将兵にも食事と休息を与えなければなるまい。頭のなかで後々の段取りを考えながら、安和麻呂は呟く。
「……箕輪の郡衙に立ち寄った際に得た報せでは、ユグルはよほどの急ごしらえでいくさの準備を進めたという。一族郎党を呼び集め、館の備えを固めるにそれほど時があったわけではない。糧食の貯えも底が見えかけておるはず。この勝負、勝ったな」
奥歯をぎりと噛み締めながら、不敵に笑う安和麻呂であった。
未だいくさは始まっていないゆえ、本陣では兜を脱いでいる。兜の顎紐で締めつけられていた顔の肉を掻き掻き、同意を求めるように彼は嶋発に眼を配った。
「まったく、安和麻呂どのの言う通りよ。物見からの報せによれば、城の一面からさほど隔てられてもいない場所に川が流れているという。つまり、ユグルは川を背にして館を構えているということ。水の手が切れるのを怖れてのことであろうが、自ら川で退路を塞ぐなど、其は兵法の愚策ではないか」
「いいや、背水の陣で勝利した韓信の故事もあろうが。だが、見様によってはわざわざそうせねばならぬほど切羽詰まっているとも取れる。いずれにせよ、われらの有利は揺るがぬであろう」
余裕の笑みを見せる二将の会話に、部将たちも釣られて笑った。
いくさと呼ぶほどのこともなく、あっという間に事態は終息する。そういう確信によって支えられた笑いであった。
――――――
程なくして、安和麻呂と嶋発は騎馬の兵のひとりを軍使と定めた。
軍使は神奈子から預けられた出頭命令の書状を携え、一路、出雲勢の陣からユグルの館へと疾駆する。その手に握られた矛には、大きな白旗が結わえられていた。戦意はない、ということを示すための合図だ。
「止まれ、そこの騎馬! ここより先は、辰野の豪族ユグルさまの館であるぞ! これ以上近づかば、たとえ何人(なんぴと)であろうと矢を放つ!」
駒音の接近を聞き咎めたか、館の門に通ずる坂道から、同地を預かる守将と思しき男が姿を現した。薄い鉄板を繋ぎ合わせた鎧に、防寒のためであろう、鹿の皮をまとっている。佩いたつるぎの柄に手を掛けながら、彼は周囲の矢盾や逆茂木に幾度か眼を遣る仕草を見せた。殊更に、どこに兵が居るかを相手に示すようにだ。伏兵――ということもあるまいが、防御設備の裏側にはすでに弓兵が配置されているのであろう。軍使は、自ら身を置く馬上にて、キリキリという弓弦の軋む音を聞いた。すでに、つがえられた矢は彼を狙っているらしい。警告というには、もはや十分すぎる。
「射るな、射るな!」
片手にした白旗を掲げ、宙で幾度も振り回す軍使である。
旗は風を孕み、ばさばさとやかましい音を立てた。
「それがしは、安和麻呂さまと嶋発さま率いる出雲勢の遣わした軍使なり! われらは、八坂神の意を受けて諏訪より参った者である! 矢を射るな!」
「八坂の神の領袖が、此度、いったい何用か!」
「八坂神は、豪族ユグルと豪族ダラハドのあいだに、辰野の土地をめぐる諍いの起こるを御懸念召され、この二者が王権の御名のもと、諏訪での交渉に及ぶべきと思し召されておいでである。然るにユグル方は、八坂神による度重なる出頭の令にも従わず、館を砦と化し、いくさの準備を進めて参った。ために八坂神は、此度、あらためて諏訪への出頭を命ずる令を発するとともに、八百の軍勢を動員し、ユグルの館を取り巻かしめんとするものである!」
いったん白旗を下げると、今度は持参した竹簡を高々と掲げた。
「なれど、いくさにて双方の血を流すは八坂神の本意にあらず。それがしが持参せるは、王権の発したる八坂神の書状なり。件の書状を受け取り、急ぎ諏訪へ出頭されるべしとユグルに伝えよ。これを呑まぬ場合、出雲勢はユグルの館を攻め落としてでも彼の者を諏訪まで連行する所存!」
手綱を引いて馬を捌きつつ、軍使は懸命に大声を張り上げる。
相手に伝わってはいるのだろう、兜で顔が見えにくくなっているものの、主将はいちいち彼の言葉にうなずいていた。決して、険悪な反応が返ってくるわけではない。
「まずは書状を受け取るか否か。返答や、いかに!?」
乗り手の興奮を察したのか、馬がいちど大きくいなないた。
それを境に、辺りは水を打ったような沈黙に包まれる。ユグルの館と出雲勢の陣。両勢力が、端と端から引っ張り合い、そのためにピンと張られた見えない糸が在るかのようだ。軍使は、思わず生唾を飲み込む。ごくりという生々しい音が、喉や胃や肺腑まで通して、全身にまで浸透していく。そのときであった。
「出雲勢の軍使、わが方の答えは単純ぞ」
ユグル方の守将がひときわ大きな声を発し、肩を震わす勢いの返答を行った。
「八坂の神の王権に従う者が、いくらこの館にやって来ようが、」
守将の言葉を聞く軍使の全身に、悪寒が走った。
馬も異変に気づいたのか、土を踏む蹄の音がいやに不揃いになり始めている。
交渉は失敗だ――そのことに気づき、彼は急ぎ馬腹を蹴る。だが不安がった馬が、その場に立ちすくんでまともに首を巡らせてくれようとしない。
「力をもって追い返せと、其はユグルさまの仰せである」
弓弦の引き絞られる音が、数十もいちどに耳を弄した。
初冬の乾いた空気が、その不気味な鋭さを幾層倍にも増幅して軍使の耳に届かせているのだ。白旗を投げ捨てて、彼はようやく退却を開始する。怯える馬もどうにか正気を取り戻して、手綱に従う素振りを見せている。くそッ、と、軍使は小さな声で吐き捨てた。悔しさのあまり、彼はユグルを罵倒する言葉の二、三でも吐いてやろうかと考えた。しかし。
「放てえ――ッ!」
守将の号令一下、弓弦の軋みから解放された矢の尾羽、その風切り音。
自分に向かって飛来してくる数十の殺意のうちのひとつが、彼の眉間を貫いてしまうまでのあいだに、罵倒らしい罵倒はひとつも思い浮かんではくれなかった。
――――――
「おのれ、どういうことなのだッ!? 白旗を掲げた軍使を射殺すとは!」
「しょせんは蛮地の頭目か……その心は虎狼と同じよの」
射殺された軍使の遺骸から回収してきた竹簡を、安和麻呂は怒りのあまり地面に叩きつけようとした。と、隣の嶋発が直ぐに片手を上げてそれを制する。そこまでしてようやく、安和麻呂は冷静さを取り戻した様子である。受け取りを拒絶された挙句、使者を殺害されたとはいえ王自身が署名をした直書であることには変わりがない。粗略に扱って良いものではないのであった。
「どうするのだ嶋発どの。軍使を殺されたとて、このままおめおめと引き下がるなど出雲豪族の名折れぞ」
幾度か、努めて深呼吸をして、心のなかから余計な熱を追い出そうとする安和麻呂である。一方の嶋発は思案しながら目蓋を細める。
本陣のなか、ふたりの腰かける床几(しょうぎ)が冷たく乾いた風を受け、みしりと軋む。彼らを取り巻く部将たちは、地位や階級の違いによって床几を使ったり立っていたりとまちまちであったが――、皆一様に、いったいどうすれば良いのかという焦りと不安をその眼に宿している。何せ、軍勢を率いる安和麻呂と嶋発でさえ未だに今後の方針を決めかねているのだ。軍使が殺されてから、すでに半刻近くの時間が経過したであろうか。指揮官の動揺が近しい部将たちに伝わるまでには、十分すぎる時間と言えた。
「向こうははっきりと敵意を持っておる。こうなったら数で圧倒して攻め潰し、強引に開城させるという手もあるが……より確実な手を選ぶのであればいったん箕輪まで引き返して、当地に駐屯せる軍団からさらに戦力を引き抜く許しを得るよう、八坂さまに奏上し奉るが最善であろうな」
「否。せっかくだが、それはご免被るわ。八坂さまのご直々に宣下を受け、大口叩いて出陣しておきながら、後になって不手際を晒して戦力の不足を申し立てるなど、王権の御名に傷がつく。われらふたりの沽券にも関わろうぞ。何より、いちいち諏訪にお伺いを立てていては時が掛かりすぎる。兵らの士気にも障りがあるはず」
「では、何とする。戦うとしても、正面から攻めかかったのでは犠牲が大きい。今はいたずらに兵力を損ずるべきではないと思うが」
む、……と、安和麻呂は黙り込み、嶋発の方から眼を逸らした。
「そうじゃ、川を遡るという手があろう。ユグルの館は川を背にしておる。急ぎ舟を調達し、兵を乗せて移動させる。元から逃げ場なき場所、攻め込むのは容易と見るが、いかに」
「畏れながら、そのやり方では……」
申し訳なさそうに、床几に腰かけていた部将のひとりが声を上げる。
自信満々の作戦に異議を挟まれた安和麻呂は、いささか不機嫌そうな顔を向けた。
「先ほど、あらためて川の周辺を探って来た物見からの報せに拠りますれば――かの川は流れ極めて烈しく、にわか仕込みの操船ではとても遡上できるものにあらずと。何でも、土地の船乗りたちからは“暴れ天竜”とまで称されておるとか」
「くそッ。川からも攻め込めぬか」
安和麻呂も嶋発も、思わず舌打ちをしてしまった。
一説によると――城攻めを行うには寄せ手は守り手の十倍、ないしは三倍の戦力を投入する必要があるという。要塞化された施設を攻略するのはそれだけ大変だ、ということだ。よほどに上手くやらなければ、兵も時間も失うだけの無為ないくさに終わってしまう。安和麻呂も嶋発も、ユグルを諏訪まで出頭させよという八坂神の命令という以上に、そうした城攻めの原則が解っているからこそ、眼前にそびえる砦には手を出しかねているのであろう。だからこそ、幾つもの案が浮かんでは消えをくり返している。
堂々巡りになりかけている議論のなか、苛立たしげにつるぎの鍔をがちゃがちゃと揺らしながら、安和麻呂は部将のひとりに尋ねた。
「いざ戦うとなると……ユグル方の兵力はいかほどであったか?」
「箕輪の伊那郡衙からは、どんなに多く見積もっても四百ほどと」
「四百! われらの半分!」
と、甲冑で覆われた膝を叩いたのは嶋発であった。
冷徹な声で、彼は思案のほどを呟いた。
「降伏は拒まれた。正面切ってのいくさも、もってのほか。川は流れが激しく遡れぬ。援軍の要請もならぬ。ただし、こちらの戦力は敵に倍するもの。ならばこのまま対陣し、相手の戦意を削いで開城を待つが上策と心得るが」
安和麻呂と部将たちは、渋々といった風に幾度かうなずくより他なかった。
採り得る作戦のことごとくが有為ではないと解ってしまった今、実行可能で現実的な策は、もはや互いに睨み合ってどちらが先に根を上げるかを待つ、根比べだけであった。
「いずれにせよ、干戈(かんか)を交えずに事を収むるが八坂さまの御命令。戦えば犠牲を免れぬのは敵とて同じじゃ。急ごしらえの城に籠城すれば、いずれ糧食も尽きようからの」
己のなかの屈辱を必死になだめようするかのごとき口ぶり。
安和麻呂は居並ぶ部将たちをかき分けながら、忌々しげにユグルの館を睨みつけた。
――――――
夜半の盛りもだいぶ過ぎたかという、遅い刻限である。
いや、遅いと言っては少し語弊があるだろうか。あと一刻も過ぎれば東の空を太陽が染める、そんな時間だ。夜と朝のあいだに、人も獣もみな暗みのうちへ向けて眠りを煙らせる。日の昇るを未だ知らぬ早朝である。
そんなときに、突如として何の前触れもなく、巨大な吠え声が響き渡った。
まるで大地の底から怪獣でも這い出てきたのではないかと思えるほど、吠え声は深く、重々しい。夜の闇を一刻早く吹き飛ばそうとするかのように、五度、六度とくり返され、空々に“こだま”した。声は山肌に反響し、やがて無遠慮に麓を突き刺す時が来る。
声の突き刺さる先は、出雲勢が展開する陣所であった。
驚いた野鳥が群れを成して樹上から飛び立つと、その羽音と混じるようにして吠え声はさらに鮮烈になっていく。数日間の行軍に疲労して熟睡していた八百の将兵は、眠い目をこする間もなく自らの意識を叩き起こす羽目になってしまう。
「な、何ごとか。この騒ぎは、この声は……」
簡易の寝所から起き出してきた嶋発が、鎧も着ぬまま周囲の兵たちに問いただす。しかし唐突に響き渡ってきた吠え声は、兵たちにとっても謎のままだ。誰ひとり、その正体を心得ている者は居ない。誰に尋ねても解りませぬと首を横に振られ、その間にも声は絶えず出雲勢の陣所に向けて叩きつけられてくる。
「嶋発どの」
「おお、安和麻呂どの。いったい、この声は何であろうか? 獣の群れが移動しているようにも思われぬが」
嶋発の前に、すでに鎧を着込んだ安和麻呂が現れる。
もはや、あくびひとつの気配もない。
「おそらく、ユグルの館から響いてくる将兵たちの声と見て間違いはあるまい。つまりは、鬨の声(ときのこえ)」
「鬨の声だと」
兵たちに自らの甲冑の着付けを手伝わせながら、嶋発は闇のなかに屹立する敵城の威容に眼を遣った。所々に篝火が焚かれてはいるが、その大部分は夜の暗さに埋没しきっている。その暗闇のなか、城のどこからともなく無数の男たちの声が発されているのである。おう、おう、……! と、ひとつひとつの声は短くとも、それらが連鎖的に響き渡っているせいで、絶え間ない雄叫びであるかのように出雲勢の耳を打ちつけているのであろう。
「鬨の声ということは、門を開いて一戦交えるつもりか」
「夜襲であるにしては静寂を自ら棄てるような不可解な振る舞いであるが、その線は捨てきれまい」
「よし、――急ぎ全軍に“敵の攻撃に備えよ”と通達を送るべし。構うまいな、安和麻呂どの」
「むろん」
二将がうなずき合うと、程なくして伝令が各部隊へと飛ぶ。
すっかり寝こけていたとはいえ、さすがに命令あらば直ぐさま戦いの備えを整える出雲勢である。各々が矛と盾を持ち弓に矢をつがえ、迅速に持ち場についた。展開した陣形は魚鱗の形、山野での戦闘に適しているとされるものだ。唐突ともいえる敵方からの鬨の声の連続に、矛を構え弓弦を引くいずれの者たちの手にも汗が滲んでいる。ユグル方が城門を開いて突撃してくるのを、あるいは迎撃の下知を今か今かと待っている。巨大な緊張感が、眼には見えない怒涛となって八百の将兵を押し包んでいた。しかし……。
「攻めて……来ぬ」
本陣に在って、安和麻呂がぽつりと呟いた。
その晩の出来事は、まさにそのひと言に集約されるものでしかなかった。
ユグル方は城内にこもり、しばらくのあいだ鬨の声を上げはしたが――。
結局、城門を開いて攻めてかかってくることはなかった。矢の一本とても射られはしなかった。ひたすらに獣じみた雄叫び、鬨の声を放ち続けているばかりで、実際に戦おうという素振りすら、出雲勢に対して見せはしなかったのである。八百の将兵は、拍子抜けというよりも呆気に取られた。一応、朝方になっても警戒体勢が取られ続けはした。だが、元より寝ているところをむりやりに叩き起こされたのだ。兵のなかには眠気のあまり、矛を持つ手が少しずつ下がり始める者まで出ている。結局、昼近くなってようやく各隊に陣形を解くよう伝令が走った。
安和麻呂も嶋発も、配下の諸将も、さすがに眼を白黒させて軍議に及ぶほかはなかった。
いずれの者も、必ずいちどはあくびをしながら議論に参じている始末。
「鬨の声ばかり上げながら、いっこうに攻めてこぬとはいかなる了見であろうか」
「こちらの眠りを妨げるべく、姦策を弄しておるのではございますまいか」
「なるほど。その隙に乗じて攻めるつもりか」
「なかなか考えたもの。だが、やはり穴はある。夜襲なれば、物音を立てぬのが普通。そこまで思い及ばぬとは敵の底も知れましたな」
「われらの数が多きを見て、怖気づいて威嚇するよりほかなかったのやも知れぬ」
幾つかの仮説が飛び交った。
が、むろん敵が何を思っているかまでは解らない。いずれの意見も憶測の域を出るものではなかった。それでも彼らのなかには、敵の頭目であるユグルが直接の戦闘を避けなければならぬ『何かの理由』があるはずだという共通の認識が存在していたのである。そして、それは自分たちの軍勢を怖れているせいだということを、無邪気とも言えるほどに信じ切っていた。
彼らの、そんな楽観を裏書きするかのごとく。
ユグルの館より響き渡ってくる雄叫びは、幾夜も続くこととなった。出雲勢八百が辰野に陣を置いてより二日経ち、三日が過ぎても、ユグルの軍勢は城に籠ったままいっこうに姿を現す気配がない。その代わり、夜中になると巨大な雄叫びで出雲人たちの眠りを妨げようと試みてくる。しかし、人間は慣れるものである。一日また一日と過ぎるごとに、将兵たちは城方の雄叫びを気にも留めなくなっていった。ほんの数日ばかりなら、絶え間ない大声には未だ怖れる余地もあろう。安和麻呂も嶋発も、鬨の声が丘から麓へと響いてくるたび寝所から跳ね起き、将兵に警戒を促していた。が、それも最初のうちだけ。四日、五日とくり返されれば「またか」と苦笑いするばかりで、やがてあえて警戒を命ずることもなくなっていったのだ。なまじ各地を転戦し、肝の据わったところのある出雲人の軍勢だ。蛮地の小豪族ごときの威嚇に屈しはせぬと、そんな矜持もあったに違いなかった。
そして六日目の晩。
いつもの通り城方の雄叫びが響いて来ても、あえて寝床から身を起こそうとする者は居なかった。彼らはみなまどろみのなかで、この雄叫びは敗北寸前の敵が、最後の悪あがきとして発しているものだと――大なり小なり信じ切っていたのである。
やがて、七日目の晩がやって来た。
この頃になると、やがて兵たちのなかには精神的に余裕を取り戻した者が少なからず出始めてきた。飯を食い、日が沈み、皆が眠りにつき始めたのを見計らってから、辺りの草叢をかき分けて近くを流れる川まで歩いて行く。暴れ天竜――天竜川に流れ込む、名前も定かではないようなごく小さな川である。不精髭に覆われて薄黒くなった頬を撫でながら、重々しい鉄の甲冑と着物を解き、下帯一枚になる。用意しておいた適当な手拭いを川の水に浸し、ごしごしと手早く身体を拭いた。初冬とはいえ、幾日も風呂に入れぬ不快の方が寒さを厭う気持ちよりも勝っていた。兵のひとりが周りを見回せば、自分と同じように身体を拭きにやって来た者の影がたくさん在る。皆、こっそり陣を抜け出しているのだった。
とはいえ、道中、獣にでも襲われれば大変である。
どの者も、矛や剣などそれぞれの得物をしっかりと持参している。
身体を拭き終えたある兵が、ふとユグルの館の方に眼を遣った。
今日も飽かず敵は雄叫びを上げ続けている。ふふ、と、思わず苦笑を漏らさずにはいられない。幾らがんばって威嚇をしようとも、自分たちはこうしてこっそりと身体を拭きに来るほどの余裕があるのだ。それなら、やはり今の時点で勝敗は決まったようなものではないかと。
着物と甲冑を身に着けた兵たちの一団は、再び草叢を踏み分けながら味方の陣まで戻るところであった。冷え切った空気のなか、灯りがあれば吐く息が少しは白くなって見えるかもしれない。そんなときである。
「痛っ。……!」
兵のひとりが、呟いた。
残りの者たちは、何があったかと怪訝な顔で声のした方に眼を走らせる。
「どうした。葉っぱの先で指でも切ったか」
「いや。それよりも、どこからか飛んできた何かにぶつかられたような、」
彼の言葉は、続けざまに飛んできた『音』に遮られた。
ぎゃッ! ……と、短い悲鳴を上げ、幾人かがその場に倒れ込む。ひゅン、ひゅン、と小気味良くすらある音が風を巻きこみ、闇を切る。そのたびに、兵たちが悲鳴を上げてどうと倒れ込んだ。急ぎ仲間を抱き起こせば、彼らに突き立っている物は数本の矢であった。ぬるりとした生温かい感触が兵たちの手を濡らす。血のにおい、その熱さ。そうこうしているあいだにも、闇のなかから矢は絶えず飛翔してくる。見えない攻撃が確実に殺しにかかってくる。
「……敵だ! 敵の夜襲だッ――――!」
誰かが、震える声で力の限り叫んだ。
兵たちの脇の下に、厭な冷たさを持った汗が染み出てくる。この数日、すっかり頭から抜け落ちていた事実が、急速に彼らの正気を苛んだ。そうだ、いま相対しているのははっきりとした害意を持っている『敵』なのだと。敵である以上、いつ戦端が開かれてもおかしくはないはずだったのだと。そして、いくさはもう始まっているのだと。
見ろ、と、怯えた声でユグルの館を指し示す者がある。
かすかな篝火で照らされた丸太造りの城門が、飢えに歯を軋らせる巨獣のごとき不気味な音を立てて開いていた。十、二十……二百近くの将兵が転がり出るように城門を発し、麓に展開する出雲勢の陣へとまっしぐらに逆落としを仕掛けようとしているではないか。軍鼓も鉦もなく、ただ自らの恐れをぎゃあぎゃあと喚き立てるだけの声で掻き消そうとするほどの咆哮が、見えぬ鎧のようにユグルの軍勢を包み込んでいる。今まで鬨の声を上げ続けるだけだった城方が、ついに新たな動きを見せたのだ。敵はいま、確かに出雲勢に攻めかかろうと激しい突進を開始した。
「おい、まずいぞ! 早く味方の所に戻るんだよ!」
矢の雨からどうにか生き残った数十の兵たちは、誰からともなく味方に向けて一散に駆け出していた。一時的に陣から離れていた自分たちにまで矢が射掛けられたということは、本隊にはさらに容赦のない攻撃が仕掛けられているに違いない。負傷した者、すでに死んだ者に構っている暇はない。それぞれの武器とともに、木の枝に手足を擦って傷ができるのも構わず疾駆する。そうして、ようやく味方の状況が見える場所にまで戻ってくる。
だが、戦場の有り様は悲惨そのものであった。
六日間もの沈黙を破って突如として攻撃を仕掛けてきた城方に、今夜も戦いは起きぬものと安堵しきっていた出雲勢は、完全に突き崩されてしまっていた。鎧を脱いで眠っていた者たちは、盾に手を伸ばすより早く寝床の中で針鼠と化して死んでいく。かろうじて矛を引っ掴み応戦を試みる者たちも、すでに自陣の奥深くにまで入り込んだ敵たちには為すすべもなかった。ひとりの味方に数人の敵が群がり、確実に仕留めていくという光景があちこちに展開された。恐怖と混乱をないまぜにした兵たちの悲鳴、どうにか態勢を立て直せと命ずる将らの怒号。それらをよそに出雲勢の陣幕には火が掛けられ、次々と討ち取られていく将兵の血しぶきを、暗中、酷くも照らし出す。そのうえ、なまじ兵の数で城方に勝っていたことが出雲勢にとっての仇となった。大軍ゆえに、いちど混乱した指揮の立て直しが困難だったのである。出雲勢の各部隊は、自軍よりもはるかに少数のはずのユグル方の奇襲部隊に取り囲まれ、各隊の連携が成らぬよう分断され、ずたずたに切り刻まれて壊滅し始めていた。
これが昼間の戦いであれば、尋常の野戦であれば、勝利は数で勝る出雲勢のものとなっていたはずだ。あるいは夜間の警戒を続けていれば、斯様な夜襲ごときは即座に跳ね返せたに違いない。が、今ここにあるのは『戦い』ですらなかった。肥え太った浅ましい豚に、あたかも飢狼の群れが襲い掛かるかのような、一方的な『虐殺』である。
ひとことで言うなら――出雲勢は、油断しきっていたのである。
城方による連日連夜の鬨の声にすっかり慣れ切ってしまい、日を経るうちに、攻撃を伴わない単なる威嚇としてしか考えぬようになっていた。まんまと敵の策に乗せられたうえでの騙し討ちであった。
「各隊、どうなっておるのだ! ええい、敵はどこまで入り込んだ!? 伝令は未だ戻らぬのかッ」
矛を片手に味方のもとまで戻ってきた兵たちは、指揮官である安和麻呂の声を耳にした。
嶋発の姿は見えない。別の場所で指揮を執っているのかもしれなかったが、この混乱のなかでは何の意味もないことである。いつも馬上から威厳たっぷりに将兵を睥睨していた男が、今は為すすべもなくうろたえ、いたずらにつるぎを振り回しているばかりだ。彼の身を護ろうとする数人の兵たちは盾を掲げて、敵の放つ矢や、放火された陣幕の切れ端を防いでいる。が、そんな忠良な者たちも、次々と押し寄せる敵兵にひとりまたひとりと殺されていった。まるで、包丁で果実の皮を少しずつ剥いていくかのように、かろうじて展開されていた防御としての戦力の層は、確実に薄くなっていく。
「安和麻呂さま、どうかお立ち退きを! もはや負けいくさです。いったん退いて体勢を立て直しましょうぞ! 嶋発さまは、すでに健在の将兵たちとともに退却を開始しておりまする」
兜を失い、髪の毛の生え際に傷を負った部将のひとりが、安和麻呂に迫る敵兵ふたりを斬殺しながら進言をした。が、安和麻呂は彼を一瞥すると、すばやく首を横に振る。
「何を申しておるのだ! 敵が兵をくり出してきた今こそ、こちらにとっても好機。何としても敵勢を跳ね返し、ユグルを捕らえねばならぬ。逃げ出した者など放っておけ!」
自らに向けて突き出された敵の矛をかわし、相手の腹をがむしゃらに蹴り飛ばしながら安和麻呂は叫ぶ。部将は、そんな彼の強情さに何も言えなくなったのか、ただいちどうなずくと、幾つもの層をかたちづくる敵兵の群れに突撃し、それきり姿を消してしまった。
急がなければならぬ、と、戻って来た兵たちはただ思った。勝ちを得ることよりも、味方とはぐれたままむざむざと殺されるのがひたすら怖ろしかった。安和麻呂を中心とする一場は、かろうじて城方による一方的な虐殺よりは、未だ乱戦と呼べるだけの状況を保っている戦場だ。そこに帰還しようと、矛を、つるぎを振りかざし、急ぎ駆けつける。しかし、である。
「おい、新手ぞ! 向こうの茂みから新手の敵が現れたぞ!」
彼らに襲いかかって来たものは、敵ではなく味方であるはずの出雲勢の矢であった。
城方の夜襲によって混乱の極みに達した出雲勢に、もはや誰が敵で誰が味方かを瞬時に判別するほどの冷静さはほとんど残されてはいなかった。その先に待ち受けているものは、味方同士による凄惨な同士討ちだけである。