「この阿呆が! その頭のなかには、牛馬の糞でも詰まっておるのか!」
早朝から、評定堂に八坂神奈子の手厳しい叱責がこだまする。
思わず自らの座から立ち上がらんばかりの剣幕を見せる彼女の面前で、嶋発は、怖れをなして縮こまっていることしかできなかった。すでに物具(もののぐ)を脱いではいるが、よほど急いで諏訪まで退却をしてきたのであろう、兜を被るためにいちど解いて垂らされていた髪の毛は、しっかりと結われることなく所々がほつれっ放しになっている。怯えるあまり神奈子に対して上げることさえできないその眼に在るのは、激昂する八坂神への畏れなのか、それとも敵の奇襲にはまって死にかけたことの恐怖なのか。
いずれを問うても今は詮無いことであろう。
嶋発は、神奈子に何を言われても「申しわけございませぬ……!」とひれ伏して謝罪をくり返すだけだった。胡坐をかいたまま、いら立たしげに膝を叩く神奈子の姿を、諏訪子も他の評定衆も、額に薄らと冷や汗を滲ませながら見つめている。
「ユグルを出頭させることに失敗したばかりか、敵の策にまんまと乗せられての負けいくさとはいったいどういうことなのだ! それに安和麻呂はどうした? 一緒に退いてきたのではなかったのか!?」
ぴくりと、床に突いた嶋発の手が震えた。
「は、それが……。安和麻呂どのは退却の途中で落伍されたか、あるいは敵方に取り囲まれて戦死なされたか……」
今にも消え入りそうな声であった。
「自分だけで退却してきたのか、味方を見捨てて……!?」
ちッ、と、これ見よがしに舌打ちをする神奈子。
傍近くに控えていた稗田舎人に眼を遣ると、彼女はかろうじて冷静さに手を伸ばすかのように祐筆へ尋ねた。
「稗田、此度、死傷者の数はいかほどか」
「は。……報告に上がっている限りによりますれば、およそ三百。悪くすればそれ以上と」
「三百以上。八百の兵をくり出して、死傷した者三百以上とは」
握り締めた両の拳をぶるぶると震わせながら、敗北の事実を噛み締めるかのように神奈子は呟く。派遣した八百の兵のうち三割強、あるいはそれより多くの者が死傷したのが今回の戦いなのだ。一般的に、戦争においてある戦場に投入した戦力のうち二割から三割が減損すると、組織的戦闘はほぼ不可能になると言われているのだという。加えて、このいくさでは指揮官のうちひとりが戦死、ひとりが退却をした。眼を覆わずにはいられないほどの、惨憺たる敗北であった。いくさ神として、東征の任に就くこと十余年の神奈子にとってすれば――自分の身も誇りも、ことごとく傷をつけられたに等しい事態であると言わざるを得ない。
「お、畏れながら、八坂さま……」
「何だ」
おずおずと、嶋発は顔を上げた。
もはや、この敗将の無能さに対する軽蔑の念を隠しもせぬ顔だったが、一応ながら神奈子は応じる。だが、嶋発の顔に浮かんだご機嫌取りじみた薄笑いを見るにつけ、眉根のしわがいっそう深くなっていくのである。
「此度の負けいくさは、戦力が少なすぎたゆえ。それゆえに、ユグルもこちらに怖れを抱くことなく手向かってきたのではないかと。ふたたび嶋発に軍兵をお預けくだされませ。今度は一千ほどの」
「ええッ、黙れ! 言いわけなど聞きたくもない! きさまごときに、一郡の駐屯軍団に匹敵する数の将兵を預けられるものか! またいたずらに無駄死にをさせる気かッ!」
瞬間、神奈子の怒りは最高潮に昂ぶった。
未だ叱責の言を発し終らぬうちに自らの座より立ち上がり、ほとんど跳びつかんばかりの勢いで嶋発の方までずんずんと歩いてく。そして、呆気に取られて口をぱくぱくと動かすしかできない彼の肩口を、力の限り蹴りつけたのである。
「お許しくだされませ! どうか……」
受け身も取れずに後ろに吹っ飛ばされた嶋発。
恐怖のあまりか、眼の端に涙を浮かべながら声を嗄らして謝り続けるのだった。
驚いたのは、さすがに評定に参ずる他の者たちも同様だった。ある者は神奈子の身体に取りすがり、またある者は「どうかお静まりを」と懸命に彼女をなだめようとする。そこまでされて、ようやく神奈子も怒りに任せて暴れ過ぎたことに気づいたらしい。再び小さく舌打ちをすると、おとなしく自らの座に戻る。
「……正直なところ、ユグルをしょせん小豪族と侮っておったは、この我とても同じであったかも知れぬ。あえて幾度も同じことを見せて相手に慣れさせ、そのために警戒の薄れた頃合いを見て一気に攻めに転ずる――ユグルが採ったのは、兵法にて“天ヲ瞞キテ海ヲ過ル”と称される計略だ。こうなれば、別の策を講じねばならぬわ」
大きくいちど溜め息を吐き、神奈子は堂を見回した。
次にこの件を任せるに足る者が誰か、思案をしているのであろう。彼女の隣に座する諏訪子もまた、一緒になってちらと眼ばかり動かし皆の顔を窺っている。と、そのうち、ふたりの視線は互いにぶつかり合った。気がつくと、神奈子はじいと諏訪子の顔を見つめていた。そして一瞬ばかり眼を逸らし――口のなかで二言三言呟くと、「諏訪子」と声を掛ける。
「諏訪亜相のそなたに兵権の一端を委ねる。伊那辰野に赴きてユグルの館を開城せしめ、かの者を諏訪まで出頭させよ」
来るべきものが、来てしまったか。
と、諏訪子は唇を噛んだ。彼女にとっては、直ぐには肯いかねる事案である。しばし眼を泳がせてから、どこかためらいがちな声で応じた。
「お忘れにございまするか、八坂さま。そもそも諏訪子は此度の所領替えには反対であると。そのような者に……」
「解っておる。だが、そなたをおいて他に任せられる者が居ない。諏訪子には亜相の官もある。人望もある。異邦の者とて王権に従えば栄達の道が開けるということを示す、恰好の一例でもある」
「さりとても、」
「頼む。この一件を棄て置かば、必ずや後にもっと大きな災いの種になろう。事態をいつまでも解決できぬようでは、それを王権の隙と見て叛旗を翻す者が出るかも知れぬ。そうすると、またいくさになる。土地が荒れ、多くの民人が死ぬ。それは、諏訪子とても本意ではあるまい」
神奈子が最後に口にした言葉に、ついと諏訪子の眉根にしわが現れる。
それでは、まるで“脅し”のようではないかと。確かに、いくさをして土地や人心が荒廃することは、土着の神の頂に立つ諏訪子にとっては憂慮すべき事態である。反面、政治的立場からは神奈子の施策に賛同しかねるのも確かだ。とは言うものの……大局を見据えてふたつの考えを秤に掛けるなら、前者の方がより重みを伴って心の底に響いてくるのも本当だった。
「わたしは…………」
言いかけて、諏訪子はまた口ごもる。
どちらの意見に対しても、明確に是非を与える材料や言葉を、彼女は持っていなかった。その間にも、堂に参ずる者たちの注目はじりじりと集まってくる。緊張のあまり喉がひりつく。そのときである。
「最初の出兵が失敗に終わったことで、糧食の備蓄が少なくなっておりまする」
唐突に、進言ともつかぬ進言をする男があった。
にわかに皆の眼が彼に集まる。評定衆のひとり、渟足であった。
「此度また兵を派するというのであれば、その分だけ糧食を確保することが先決かと、この渟足は愚行を致しまするが……」
意味ありげな薄笑いを浮かべる渟足に、皆々、いっせいに怪訝な顔つきである。
神奈子でさえも「それはそうだが?」と少し困惑の気味を見せるだけだ。だが、諏訪子だけは違っていた。渟足が、自分に何を言わんとしているのかを瞬時に察した。ちらと彼の方に眼を遣る諏訪子に、渟足はごく小さなうなずきを返す。すべての事情を呑み込んで、あらためて神奈子の方へと向き直る諏訪子。
「解りました。ユグルへの糾問の使者の任、洩矢諏訪子が承りまする。また一応の備えとして、兵も連れていくことと致します」
「おお、行ってくれるか」
「ただし。……糧食を。将兵の糧食をまずは確保しなければなりませぬ。それゆえ、すべての備えが終わるまではご猶予を」
にいと笑い、諏訪子は神奈子に拝跪した。
事の天秤をどちらに傾かせるのか、彼女もようやく見出した。
ひとまず、いくさだけは何としても避けなければならぬ。そのためには、言うまでもなくユグル方の無血開城が絶対条件であった。渟足の小さな手助けが、開城の策を整えるための時間稼ぎをすると――そんな決心を諏訪子にさせたのである。時に、十月十九日のことだった。
――――――
「八坂さまが伊那辰野に二度目のご出兵。それで、突然の御訪問」
「うん。急な話で済まぬとは思うがな」
「お案じなされますな。将兵の糧食はじめ、ご要望の品はそれほど時をおかずにご用意できるものと思われまする」
奴婢(ぬひ)の人足たちが忙しく立ち働くなかをかき分けるように、諏訪子とギジチは歩いていた。神奈子の許しを得て上諏訪に設置されたギジチの商館には、雪深い科野の地勢を反映した冬期の備えに及ぶためか、両諏訪だけでなく科野各地から無数の品物が集積され、またそれを求める商人たちでよく賑わっている。
この商館ができてから未だそれほど時は経っていないはずだったが、やはり商機と見たものの機微に商人たちはまことに聡いようである。諸々の産品を買いつけに、また売りさばきにやって来た者たちが競りを展開し、その威勢の良い声があちらと言わずこちらと言わず、絶えず響いてくる。真剣そのものである彼らの眼には、商館の長であるギジチや、王である諏訪子の姿さえも入っていないに違いなかった。それほどの熱気に包まれた空間だから、下手をすればふたりの声など、あっという間に喧騒に呑み込まれて聞こえなくなってしまう。
ギジチは、先に諏訪子から受け取った竹簡――このたび必要となる軍需物資の台帳だ――を、幾度目かよく確認する。商館の敷地内を諏訪子に案内する、彼の足取りに澱みはない。注文の品がいずれも揃っているというのを、顧客に不足なくはっきりと示すためであろう。まさしくギジチの意思どおりに、いずれの場所にも多種多様の商材が所狭しと積み上げられていた。米、布、材木、乾肉、乾魚、防寒用の獣の皮、終いは鉄器に至るまで、科野中の産品がこの商館に集中しているのではないかと諏訪子には思われたほど。そして、それらの品物が馬や台車に負わせられたり、人が直に荷駄として背にする光景もまた、商館内のどこに行っても見ることができるのである。
「思うた以上に賑わっておるのだな。ここを砦につくり替えれば、それだけでいくさにも堪え得るだけの品物が揃うているやもしれぬ」
「恐悦に存じ上げ奉ります。これも、ひとえに王権のお引き立てによるものかと」
思わず、諏訪子も感嘆の言を漏らした。
衒い(てらい)のない正直な感想であった。
けれど――。
方々を見て回るうち、諏訪子はふと気づいたことがある。
雪で各地の道が塞がれるあいだは交易が困難となるので、元より冬が来る前に、冬期の保存食として干物や干飯(ほしいい)の類の流通が増えるのは容易に想像がつく。が、もう幾つか、商館の敷地内において数多く集められているものがあったのだ。剣や矛、甲冑などの武具である。鏃(やじり)は鉄製のものに加え、代用品となる黒曜石製のものまでが大量に集まっていた。武器防具の量だけなら、十分に一軍を形成して余りある規模である。しかもいずれも真新しい。ある武器商が積み上げた木箱のなかを覗き込み、諏訪子は試しにひと振りのつるぎを手に取る。鞘から刃を引き抜くと、黒光りする鉄の刀身は冬の日を鈍く反射する。そこには錆びひとつの気配もない。つい最近になってから生産された品が流通していると見て、まず間違いはなかろうと思われる。怪訝な顔を、諏訪子はギジチへと向けた。
「ギジチ」
「は」
「其許は、まことにこの商館を砦としていくさを始めるつもりか」
「武器の類も、御所望とあらば直ぐさま揃えることできまするが」
「そうではない、とぼけるな」
ぴしゃりと、諏訪子は言い放つ。
「此度、其許に渡した竹簡ではまずもって糧食の確保を第一に命じてある。然るに、今、この商館には、亜相たる諏訪子が命じるより以上に大量の武器防具が揃うておるではないか。儂がギジチに物資の調達を依頼したは、ちょうど今日、十月二十一日。科野は雪深き土地柄。冬のあいだはいくさができぬ。それだというのに、なぜあらかじめ申し合わせたかのように武器防具が集められているのだ。此は、いくさの仕度を調えようとしているようにも見受けられる」
彼女の疑問は、辺りで立ち働く奴婢たちの掛け声に呑み込まれて、ギジチ以外の者には決して聞こえていなかった。無言で竹簡を畳みながら、ギジチは自分の後ろについて来ていた諏訪子に向き直る。いやに真剣な目つきであった。問いただす諏訪子も、一歩も引くことなく相手の顔を見つめていた。喧騒の中心に置かれた、静かな対決がしばし続く。
すると、根負けしたのはギジチの方であったらしい。
竹簡を片手にしながら、再び諏訪子に背を向ける。
「そのことに関しましては、別の場所にてお話しを。まずは館まで案内(あない)を致します」
――――――
招かれたのは、敷地の北に位置する小さな建物だ。
つくりはごく簡素だが――諏訪子が通された客間の他に、取引の際に交わされた文書類を保管する書庫のようなものが併設されているようである。ここで諸々の商談を取りまとめるための署名をしたりもするという話であった。つまりは、ギジチの執務の場のようなものらしい。
諏訪における彼の別邸をも兼ねているというこの館の客間は、諏訪の柵や諏訪子の御所に比べればさすがに狭い。大勢を呼び集めて宴などするには向かないであろう。が、男ひとりと少女ひとりが向き合って話をするには、少なくとも不足ない程度の広さではある。諏訪子とギジチは、膝を突き合わせて向かい合った。
「そろそろ科野も冬近うございまする。まずはお身体を温められるがよろしいでしょう」
板張りの客間には火鉢すらなかったが、その代わりとしてか、ギジチは邸内の召使に命じて酒を用意させた。酔えば身体が火照り、寒くなくなるという理屈だろうか。この男にしては単純な考え方だと諏訪子は苦笑した。瓶子から土器(かわらけ)の杯に注いだ濁酒は、ほの温かかった。あらかじめ、人肌ほどの温度になるよう調えられていたようである。遠慮なく、諏訪子は口をつける。
「……甘いなっ!」
「温めた酒に、蜂の蜜を混ぜたものにございます。お口には合いませんでしたか」
「いや、美味い。もっともらおう」
ふうわりとした蜂蜜の甘みが酒の苦みを抑え、その温かさをよく引き立てている。
最初の一杯目を直ぐに飲み干すと、諏訪子は二杯目を杯に次ぐ。
が、今度は直ぐ飲み干してしまうようなことはしなかった。この度はギジチのもとまで酒を飲みにきたのではないのである。ぎらりとした視線を、諏訪子は蘇らせる。
「ではギジチ。先ほどの問いに答えよ。なぜ冬近いにもかかわらず、この商館にはいくさの道具が多数売り買いされておるのか?」
自らは杯の酒に口をつけることなく、ギジチはゆっくりと口を開いた。
「いつ何どき、どこから武器を欲する依頼がやって来ても迅速に応ずるためにございまする」
「とぼけるなと、儂は申した。武器防具はつくった後も手入れが欠かせぬ。斯様に大量に揃えたものを館のうちに保っていては、逆に金がかかろうものをよ」
ギジチは、閉じかけた唇をそのまま静止させた。
とはいえ、ほんの一瞬のことではあったのだが――そのかすかな表情の変化は、諏訪子にとって何らかの動揺を悟らせるに十分なものだ。
「あくまで其許が口を割らぬのであれば、あれなる武器防具がいったいどこに運び出されておるものか、亜相の権限を使うて取引の帳簿を検めることもできる。……いや、奸智に長けた者は、自らに不利となる証拠はあらかじめ破却しておくものか?」
薄笑いを浮かべながら、諏訪子は言った。
あくまで、ただの“はったり”である。ギジチの武器取引のあらましを彼女が知っているわけはない。が、単なる嘘でも相手の弱味に針を突き刺すことができるなら、むしろ有効ではあろう。痛みに音を上げさせてみれば、それが一端の真実だということも十分にあり得る。
膝の上で軽く握っていた片方の手のひらに、ギジチはさらなる力を込めた。
「私は、腐っても商いに糧を得る男。新しき報せには常に接しておらねば、他の商人に出し抜かれてしまいまする」
「それで?」
「それは他の者たちとて同じこと。科野国内で情勢の変わることあらば、その先に何があるかを見越して動いておくが商人というもの」
ようやく、ギジチは自分の杯に口をつけた。
「すなわち――情勢不穏にしていくさの気配あらば、方々の領主豪族たちは我先にと武器防具を求めまする。商人は、それに応じて商いをする」
「何が言いたい、ギジチ」
何とはなしに、諏訪子にも解っているところがあった。
だが、それでも相手自身から言葉を引き出そうと、あえて新たに問いかける。
「では、はっきりと申し上げ奉りまする。伊那情勢の不穏なりし今このとき、各地の豪族たちは再びのいくさが“飛び火”するような事態に備え、武器防具の調達を急いでいるのです」
「しかし冬のあいだはいくさも交易もできぬゆえ、初冬である今のうちに売り買いを済ませておこうというわけか」
「御明察にございます」
大きく、ギジチはうなずいた。
「とはいえ、それも瞬きほどのことにございましょう。八坂さまが本腰を入れて伊那征伐の軍勢を発すれば、急ごしらえの小城などひとたまりもなく陥ちるはず。此度、取引の多きは、しょせん吹けば飛ぶようなものにございまする」
「確かにそうかもしれぬが……」
溜め息まじりに、諏訪子はかぶりを振る仕草。
「何よりも八坂さまが怖れておいでなのは、いくさそのものよりも王権の隙を天下(あめのした)に晒すこと。ユグルの抵抗が長く続けば続くほど、あのお方は国家の不手際を諸人に見せてしまうことになる」
二杯目の酒を、ゆっくりと飲み干した。
「いたずらにいくさをすれば、結局また力ずくでしか解決できぬ王だと衆目には見られよう。さすれば人心は荒れる」
「しかし、此度は諏訪子さまもご出兵の用意のため、このギジチのもとにお出でくだされた」
からかうようにギジチが笑った。
冷徹な顔ばかりする彼でも、面白いと思うことはあるようである。
時を稼ぐためだ、と、諏訪子は明かす。
「少なくとも糧食はじめ、物資の調達に数日を要するお許しは八坂さまより直々に得ておる。せいぜい、三、四日が良いところであろうが……その間、今度はどうにか無血でユグルを諏訪まで連れてくる策を考える必要がある」
「はあ、それで」
とは言ったものの、未だ解せぬという眼を彼はしていた。
フと口の端に笑い、諏訪子は杯を握る手を突き出した。指差す代わりに、丸い土器の縁でギジチを指す。
「そのために、其許の狡さを借りる」
「何を仰せられまする。私は王権の庇護を得る立場とはいえ、一介の商人に過ぎませぬ」
「いや、ギジチ。其許は何か――ひどく大それた目論見をその胸に秘めておる。諏訪子はそのように見る」
「なぜ」
視線同士が、見えない火焔をそのあいだに生ずるごとく。
いつか始まった腹の探り合いのごとき空気は、次第にその鋭さを増していく。
「八坂さまより聞いたぞ。其許は科野州での商業の司に、この諏訪子を推挙したそうではないか」
「あなたさまを推挙し奉ったは、物事の道理に照らし合わせて考えたまでのこと」
何を当たり前のことを……とでも言いたげに、ギジチはいっとう明瞭な笑いを見せた。
しかしあからさまに、相手の注目を逸らしたがるような顔つきではあった。それでも諏訪子は黙っている。彼がどんな口説を弄してこちら側の眼をごまかそうとするかを、興味深げに見守っている。
「八坂さまの権限が巨大なものになりすぎれば、きっと諸州にて大きな反発は避けられませぬゆえ。されば、元の王たる諏訪子さまに国権の一部を委譲せしむるは、むしろ政の正道なりと」
「その正道とやらを口にする男が、裏ではいくさを見越して武器の取引をしておる。それではいくさを煽り立てているも同然であり、前後の辻褄、甚だ合わぬ」
皮肉げな笑みを湛え、諏訪子はさらに言を継いだ。
「ギジチは先に、此度、武器の取引多きはいくさの気配に乗じた、吹けば飛ぶようなものと言うた。だが、そもそも官衙(かんが)の眼とても、この商館にまでは届くことがない。八坂さまは元をただせば外来の王、御自ら科野国内における商業の道筋を把握しておられぬ。まずは水内の大商人たる其許に仲立ちをしてもらうことで、商業の振興を図るおつもりだ。そして、――有り体に申さば、上前さえきっちりと納められておれば、商いの中身までとやかく探るつもりはない。あまり絞めつけが過ぎれば、商人たちにそっぽを向かれようからな」
二杯目の杯が空になった。
長話はひどく喉を渇かせる。少しずつ軽くなっていく瓶子の感触を寂しがりながら、未だ諏訪子は話を続ける。
「それを踏まえて考えれば、やはり其許の行っていることは辻褄が合わぬのだ。あるいは大きないくさが起きた方が、それだけ武器防具は多く商いの場で捌くことできるはず。その方がより大きな利得となるはず。しかし、ギジチはその利得に背を向けるかのごとき進言をもした。其はなぜか? 王権に仕える豪族として特権を享受し得る立場でもあるからか?」
睨みつけるようなギジチの視線。
が、彼はあえて反論をするようなこともない。ただ、焦っているようにも見えなかった。努めて冷静であろうとし、ゆっくりと酒を飲むだけである。それならばそれで良いと、諏訪子も思う。
「ギジチはもしや、洩矢諏訪子を八坂神と相対し、国家を二分するもうひとりの王として、祭り上げんとしておるのではないか?」
「何を仰せられまする。其は、まったく何の証もなきこと。すべては諏訪子さまの予断に過ぎぬこと」
「まあ聞け。商業……金繰りの権を得るは、政やいくさにかかる諸々の出費について、その財布の紐に手をつける権の大部分を得たということでもある。其許はこの諏訪子を擁立することで八坂さまの権限を半ば削ぎ取り、儂を間に置くことで臣下の立場から国政の中枢に深く食い込む。そして、商人として得た特権を隠れ蓑に諸州に武器を流通させ、機を見て王権に反旗を翻す。諏訪子がもしもギジチなら、そうする。自らの浅ましさを試みるごとくに」
「やはり、あなたさまの仰せになることは、いちいち予断の類であると申し上げざるを得ませぬ」
呆れらしいものの混じる溜め息を吐き、ギジチは眼を細めた。
「そもそも、商業の司に諏訪子さまを任じていただくという案、これを八坂さまはお認めになりませんでした。それだというのに痛くもない腹を探られるは、ギジチとて甚だ不快というもの」
「ずいぶんはっきりと言う」
だが、――諏訪子には元より大きな切り札がある。
杯を床に置き、彼女は言った。
「確かに予断よ、儂の言うたことは……。しかし。ギジチが腹のうちにてまことに何を企んでいようが、八坂神の膝元たる上諏訪へ、各郡から続々と武器防具が運び込まれているという事実。また、その武器防具が各郡に運び出されてもいるという事実。これらの取引がこうもおおっぴらに行われるを見過ごすことは、諏訪亜相の身としてはできかねる。その腹のうちに何らかの野心在るを疑わざるを得ぬ」
「見くびりなされますな! ……腹のうちにもし野心が在ったとして。それを、むざむざと他言する愚か者はそうは居りますまい」
「ふ、ふ。そうか。そうだな」
こちらの話に乗ったな、――そう諏訪子は悟った。
不正とまでは言えなくとも、情勢不安に乗じてギジチが武器売買を進めていたのは限りなく事実である。これを明るみに出されれば、彼が神奈子の怒りに触れ、諏訪周辺での活動から手を引かざるを得なくなる公算は強いのだ。ギジチとは、互いに利用し合う関係でなければならぬと諏訪子は思った。神奈子の政を諌めるためには、多少強い毒も隠し持っておく必要がある。そして、その秘密裏の毒を薬へと変じさせるために、諏訪子は最後の矢を放つ。
「今はその理由(わけ)とか、何かの責を問うつもりはない。ただ、この洩矢諏訪子のやり方に手を貸してくれさえすれば良い。洩矢王とも商いをすると思うてな」(続く)
言いたい事は色々有りますが取り敢えず一点だけ、
>「人ひとりの命と国家の大事と、どちらがより重いと申すつもりか!」
モレヤが古き神々の呪いにより病没。これは国体に係わる事だと思う。
今話が弓が引き絞られ、放たれる迄の緊張(不安)を目指したのだとしたら矢張りエピソードの不足を感じる。
えーと…すみません、応援してます!(本当ですよ?)
表現細かく描いてるし丁寧だし面白いしでカナーリ気にいってるのさ!
頑張っては酷かもしれないけど応援しているよ!
ここまで見て、ギジチの動機が本当に弟イゼリの仇討ちなのか疑わしく思えてもきた。
モレヤは今回の件にあまり関わらないのかな。そこも気になるところ。
>>この渟足は愚行を致しまするが……」
愚考?
この作品の主旨だと思っています。
次回で漸く追い付けそうです。
雲行きはさらに怪しくなってきました。
今後の展開に、不安です。
>いち地方豪族との小競り合いなど、あっという間に鎮圧できてしまうのだという揺るがぬ自身が、確かにある。
自身→自信
賢い、強い、策を見抜かれ内心かなり動揺するが頑張って取り繕う。
そういう意味である意味噛ませ的策士ポジにも見える。
しかし心の底へは家族への純粋な愛情。それ故の固い心が彼の強み。
かっこよすぎる。