Coolier - 新生・東方創想話

十字架に花束を

2013/03/14 20:35:39
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 煌々と灯る『手術中』のランプが、薄暗い待合室の中、三人の少女の顔を仄かに赤く照らしている。
 ばらばらに陣取った各々の位置がそのまま心理的な距離を示しているようで、そこに生じた隙間はただ少女の漏らす嗚咽のみによって埋められていた。

「ふ、ふぇ…ひく、んきゅっ…ぐしゅっ…ゆ、ひきゅっ…ひっ、ずずっ」

 その扉が閉ざされてからどれほどの時間が経過しただろう。手術室の重厚な扉は冷たい沈黙を保ち続けており、それに縋り付くように膝を折り、組んだ両手に眉間を預けた橙の涙もまた涸れる事がない。いつも元気良く彼女の感情を代弁していた二本の尻尾は力無く床に横たわり、両の耳は伏せられて時折ぴくりと震えるのみ。

「んくっ、ぐじゅっ…ゆ、ゆきゅっ、ゆかりしゃまぁ…ひくっ、ぐしゅっ」

 橙は扉の向こうの主の主の為にひたすら祈っていた。懇願していた。
 敬愛する主が重態の床に伏せ、可愛い式が悲嘆に暮れているこの場に、当然光より速く駆けつけているはずの九尾の狐は、いなかった。紫が結界の維持管理の為に普段片手間に処理している莫大な量の演算を、代わりに行う事が出来るのは藍だけであった。今この瞬間も、藍は幻想郷の外れの八雲邸で脂汗を流しながら必死に孤独な戦いを続けているのである。

 華奢な肩を震わせ、泣き続ける橙とは対照的に、待合室の最前列の長椅子に腰掛けた霊夢は、背筋をしゃんと伸ばし、微動だにしなかった。その瞳は真っ直ぐに正面を睨み、揺れる事は無い。胸中を推し量ろうにも彼女は一切の動揺を外に表さず、固く引き結ばれた唇だけが悲壮、決然、という印象を見る者に与える。
 霊夢は祈らない。霊夢には祈る資格は無く、祈る前に懺悔をするべきだったからである。そして、懺悔すべき相手は扉の向こうにいる。ならば、待つしかない。霊夢は待っている。

 そして、三人目。魔理沙は待合室入り口脇の壁にもたれかかって、腕を組んでいた。帽子を目深にかぶり、うつむいた彼女の表情を窺う事は出来ない。しきりに唾を飲み込んでいるのか、喉が何度も何度も動いているのが見える。
 実際、魔理沙はこみ上げてくる酸っぱい唾を繰り返し繰り返し飲み下していた。酷く吐き気がする。今ここでうずくまって嘔吐してしまえば、どれだけ楽になる事か。しかし、そんな事が許されるはずは無かった。そんな痛々しい惨めな振る舞いで、自分もまた被害者であるかのような面をするなんて。
 決して、決して、許されはしない。
 被害者側に立って嘆き祈る事はもちろん、加害者側に立って責を背負い、罪をそそぐ事すら、魔理沙には許されなかった。
 魔理沙はこの場においていかなるロールも与えられず、ただ全てを受け止め続ける事しか出来なかった。己の内を焼く、確かな呵責を抱えながら。

 霊夢をそそのかし、紫を意識不明に追いやらせたのは、他ならぬ魔理沙だったのであるから。

 不幸な事故だった。悪意を持った者など一人もいなかったのだ。

 子供が振り回して遊んでいた棒の先端が、遊び相手の目に偶然入ってしまい、運の無い事に失明させてしまった。悲しいかな、そんな事は割と世の中に溢れているものだ。
 故意ではなかった。示談も成立するだろう。それでも、やはりその子供は、失明させた相手との間に罪と罰を背負わねばならない。社会や法律が定義するものではない、身の丈相応の罪と罰を。そして、それはいつの日か、償われるべきものである。赦されるべきものである。
 では、その悪意無き戯れを教唆した第三の子供はどうすればいい? 原因でありながら、その事象から隔離され、背負うべき罪と罰、償い、赦しを請うべき相手を持たぬ子供は、どうすればいい?

 直接に手を下した霊夢は、相応の罪と罰を背負う事になるだろう。しかし、それを背負わせた魔理沙の罪と罰とは何なのか?
 償う? 誰に? 紫にか? 霊夢にか? 償う事など出来るのか? 償う事が出来る罪なのか?
 その答えは、魔理沙の手の中には無かった。十字架を背負う権利すら、魔理沙には無い。
 
 魔理沙は無性に苛立たしかった。正直に言って、橙の嗚咽すら、耳障りと感じる。そして、そんな自分が到底許し難く、なお苛々は募るばかりだった。どこにも持っていきようの無い憤りは、胸の中で手負いの大蛇のように滅茶苦茶に暴れている。そいつがのたうつ度に執拗にこみ上げる吐き気。幾度も舌打ちをしそうになるのを堪えながら、魔理沙は唾を飲み込み続けた。

 依然手術室の扉は開かず、ランプは消えず、嗚咽は止まず、少女達は動かなかった。

 ふいにばたばたと廊下から慌しい足音が響いて来た。待合室に現れたのは文だった。早速どこでやら聞きつけて来たものと見える。魔理沙はついに小さく舌打ちを漏らした。

「あ、あの、紫さんの容態は」

 余程急いで来たのだろう、息せき切って尋ねる文の問いに、しかし答える者はいなかった。文は呼吸を整えながら、自身の存在をテーブルクロスの染みのように感じ始めていたが、それでもジャーナリスト魂に鞭を打った。これは紛れも無い大事件であり、幻想郷の危機であり、そこに暮らす者共らには知る権利がある。

「いったい何があったんですか」

 またも言葉は虚空を滑る。文は眉根を寄せて、すぐ斜め後ろに寄り掛かっている魔理沙の方を振り返り、そのうつむいた顔を覗き込むようにした。

「魔理沙さん」
「帰ってくれよ!!!」

 わーんと響く残響を聞きながら、魔理沙は、あー、最悪だ、と思った。マジで最悪だ。

「…悪い」

 頬を張られたように顔をそむけた文は、ゆるゆるとかぶりを振り、「失礼しました」と言い残して駆け去った。

 ランプの赤い光線の中を埃が漂っている。
 魔理沙はいつの間にか思い切りスカートを握り締めていた右の拳をほどくと、それを固め直し、渾身の力で壁を殴った。叫び声は歯を食いしばって必死に抑えた。何もかもが悪夢のような世界の中、じんじんと痛みを訴える自分の手の甲だけに現実味がある。今の自分はどうしようもないくらい醜い顔をしているに違いない、と魔理沙は思った。


 ふ、と待合室の闇が濃くなった。忌々しい『手術中』のランプがついに消えたのだ。弾かれたように立ち上がった橙が、扉から二、三歩後ずさり、よろめいて尻餅をついた。足に力が入らないのだろう。にわかに扉の向こう側で慌しく人の動く気配が伝わって来た。ややあって、錠の外れる硬質な音が待合室に響いた。

「え、永琳さんっ! ゆ、紫様は、紫様はっ!?」

 左手で帽子を取りながら、分厚い扉を肩で押すようにして現れた永琳に、橙は飛びかかった。永琳は珍しく憔悴した表情をしていたが、自らのスカートを両手で握り締めて震えている幼い猫又の頭にそっと掌を乗せ、眉を緩めた。

「手術は成功。貴女のご主人様のご主人様は無事よ」
「…う」

 橙はずるずると膝を折り、床にぺたんとあひる座りをすると、大声を上げて泣き始めた。

「うわあああん」

 永琳は長く息を吐き、頭の上でおさげをまとめていたピンを引き抜いた。彼女をして隠せぬほどの色濃い疲労が、先刻までの戦いの苛烈さをありありと物語っていた。

「うわあああん」

 涙はおろか鼻水も垂れ流しに泣き続ける橙。淡く微笑みながら永琳は橙の側に屈み込んで、自らの袖でぐしぐしと橙の顔を拭いてやった。

「ん、ぐじゅっ、んきゅう」
「貴女、むかあしの姫様みたいだわ」

 そう言う永琳の声音は驚くほど深く、柔らかだった。

「さあ、今日はもう帰りなさい。明日から貴女にも看病のお手伝いをしてもらわなくちゃいけないのだし」

 両手で橙の頬を軽く挟んで顔を覗き込んだ永琳に、橙は何度もしゃくり上げながら、それでもきちんと永琳の目を見て「はい」と返事をした。いい子ね、と永琳は頷いたが、立ち上がろうとする橙の脚はその返事の三分の一程も頼れそうになかった。

「魔理沙。この子を家まで送ってあげてくれる?」

 永琳の声に、魔理沙は肩をびくりと震わせてから、ゆっくりと顔を上げた。何で私が、そう声を上げるのを魔理沙はすんでのところで堪えたのであった。
 実際、魔理沙は橙を送っていくのに好ましい状況にない。それは魔理沙自身はもちろん、橙にとってもそうだ。しかしそれ以上に、その役割は魔理沙が果たさなければならないものであり、その事は魔理沙自身が一番良くわかっていた。

「…立てるか」

 魔理沙が側まで行って肩を貸してやると、橙は魔理沙と目を合わせないまま頷き、震える足でどうにか立ち上がった。

「よろしくね」

 永琳の言葉にああ、と答えて魔理沙は橙と共に待合室を後にし、そこに残されたのは永琳と、霊夢だけになった。

 相変わらず霊夢は時が止まったように身じろぎ一つせず、正面の虚空を睨んでいる。永琳は暗い待合室の中を静かに歩み寄ると、霊夢の隣にそっと腰を下ろした。 

「…大動脈破裂」

 ぽつりと、独り言を漏らすように永琳は口を開いた。

「後頭骨陥没骨折及び脳挫傷・脳内出血。第二・第三頚椎骨折及び脊髄損傷。右第一・第二肋骨骨折及び肺挫傷。右鎖骨複雑骨折。腹腔内及び胸膜下出血等による大量失血」

 無機質な言葉が無感情に羅列される中、無表情なままの霊夢。

「普通の人間だったら楽に四、五回は死ねるわね。八雲紫が何だかよくわからない妖怪だから死にはしなかっただけで」
「……」

 永琳は小さく溜息をついてから、霊夢の白い横顔へ目を向けた。

「いったい、何があったのかしら」

 霊夢は、初めて少し首を折って視線を落とした。そして、ゆっくりとまばたきをしたが、それだけだった。

「…一命は取り留めた。でも、意識がいつ戻るのかはわからない。正直に言って、戻るのかどうかも」

 紫の持つ精神構造はまず間違いなく高次で複雑なものであろう。身体こそ修復されたものの、一度強制切断された紫の自我が再び齟齬無く正常に起動するのかどうか、永琳の目からすれば悲観的にならざるを得なかった。 
 しばしあってから霊夢は顔を上げ、永琳の目を正面からしっかりと捉えた。

「わかった。紫を助けてくれて、どうもありがとう」

 そうして、最後まで決然として霊夢は去っていった。


 彼女の残した眼差しと言葉の鮮烈な苦味を噛み締めながら、永琳は長椅子に深く身を沈めた。嗜む身であったら、きっと煙草を喫んでいたろうと思う。疲労をくるくるとかき回してやるせなさを垂らしたような夜に、生をひりひりと実感している。そんな皮肉に歪んだ自身のありようをも眺めつつ、永琳は独り暗がりの中じっと座っている。久しぶりに輝夜の髪を指に絡めながら泥のように眠りたいと思うが、おそらく自分はそうしないだろうし、そうしない事さえが永琳にとっては愉しみなのであった。



 * * *



 部屋の四隅には行灯があり、時折ちらちらと瞬きながら心細げに薄明かりを周囲に投げかけて、伸ばした手がぽうと浮かび上がる程度には夜の闇を薄めている。もう半刻もすれば油が切れてしまうだろう。意識の片隅でそれを思いながら、藍は面倒に感じていた。別に部屋が暗闇に没しても仔細無いのだが、「灯が消える」事は忌むべきであったし、何より紫は妖の癖に帰った時に家が暗いのを非常に嫌う。そんな下らぬ事で主に叱られるのも馬鹿馬鹿しいから、紫が戻るまでは灯を絶やさぬように気を付けねばならない。実に面倒だし、備蓄の油が飛ぶように無くなるので、さっさと紫には帰って来てもらいたいところだ。
 じわりとした行灯の明かりに照らされて、大量の符だの何だので布かれた複雑怪奇な陣がかろうじて見える。細部に至るまで矛盾無く精緻に組み上げられたそれは、その中心に胡坐する九尾の傑出した能力を示していたが、当の藍本人にとっては、自身の不甲斐無さを眼前に突き付けるものでしかなかった。式としての力を持たぬ今、こうして持てる限りの知識と経験と力を尽くし、身動きすら取れぬままに全精力を傾けて、ようやく為すべきを果たせる。八雲の名のあまりの重さは、支えるだけで精一杯であった。

「…霊夢かい」

 座って目を閉じたまま藍が問うと、障子の向こう側のごくわずかな身じろぎが伝わって来た。

「少し待ってもらおう。今、処理容量を空ける」

 現状のタスクの総量及び増加速度と自身の演算能力を引き比べて、藍は意識の内の幾ばくかを解放する。

「入っておいで」

 静かに障子を開けて入って来た霊夢は、室内一杯に陣が布かれているのでほぼその場に座した。そこからは、わずかにぼおっと照らし出されている藍の姿は随分と遠くに見える。

「ここまでよく迷わずに来れたね」
「……」

 あまり容易くたどり着かれても沽券に関わるのだが、霊夢にとってはどうという事も無かったようだった。意識すらせずに真っ直ぐここまでやって来たのだろう。
 屹と背を伸ばして座っている霊夢の心の強さは感嘆すべきものだったが、藍はその余裕の無さにむしろ人間の少女らしいものを見て慈しみを覚えた。

「お茶くらい出してあげたいのだけどね。見ての通り手が放せないものだから」
「……」

 藍の柔和で迂遠な態度は、優しさに見えてその実霊夢を苦しめるだけだが、その程度の意地悪は許されてもいいだろう。紫と霊夢の間でいずれ出来事は清算されるのだから、藍の被る迷惑に比べれば安いものだ。

「では、紫様の容態を教えてもらおうか」

 霊夢は口を開き、淀みなく簡潔に状況を述べた。事態は藍の想定の範疇であった。

「ひとまず、紫様がご無事で良かった。あとは早く起きていただきたいものだが、あの方は寝汚いからなあ」

 そう言って、藍は頭を掻いた。

「藍は、怒ってないの? こんな事になって」
「ん」

 ふと霊夢がそう問うのに、藍は手を下ろして霊夢を見た。静かに藍を見つめる霊夢の目は、怯えていたり媚びていたりする風ではなかった。

「怒っているさ。自分でも少し意外に思うくらい、怒っている」

 実際この怒りはどこから来るのだろう。抱え切れぬほどの面倒事を押し付けられたからか。では何故それを放り出してしまわないのだろう。今や式としての頸木からは解き放たれているというのに。この幻想郷を失う事を恐れているのか。何故恐れる。何に執着している。
 藍の思考は中心にあるごく単純な正解の周りを迂回しながらぐるぐると回っている。勿論そんな事は当人が一番よくわかっている。今その中心にあるものを見つめたら最後、藍の心は千々に乱れてしまう。

「でも私は狡猾で老獪な化け狐だからね。怒りに任せてお前に怒鳴り散らすような事をしないだけだよ」
「……」
「私が叱れば、お前は謝るだろう。謝れば、少し気持ちが楽になる。私はそうやって楽にさせたくないだけ。お前が謝るべき相手は紫様なのだから、その日まで呵責を抱えていればいい。そんな考えよ」
「…ありがとう」

 藍は霊夢が口にした感謝の意味を少し考えて、改めて感心した。霊夢自身、自らの罪を一滴も漏らさぬように紫以外の誰にも謝るつもりは無いのだ。例え何を言われ、どう詰られようとも。

「でも、あんたが今必死に紫の代わりをやってる事はわかってる。それを手伝う権利はあるわよね」
「ああ、それならば是非お願いしたいね。橙がもう少し頼りになればいいんだけど」
「さし当たって、私は何をすればいいのかしら」

 藍の尻尾の一本が、我が意を得たりとばかりにはたと畳を打った。

「では、まず行灯の皿に油を差してもらえるかい?」



 * * *



 箒に跨り夜空を疾駆しながら、魔理沙は腰に巻き付いた細い腕から伝わって来る震えを絶え間無く感じていた。何か声をかけるべきだろうかと逡巡しては、自分が橙に言える言葉など何も無いのだと思い知る。そんな堂々巡りを幾度も繰り返しながら、結局箒は沈黙を乗せて星の下を滑っていく。
 魔理沙達はマヨヒガへと向かっていた。出来る事ならば藍のいる八雲の家へ送ってやった方がいいのだろうが、現在式が剥がれてしまっている橙ではたどり着けないのだと言う。藍の方から出て来てもらわねば式も打ち直せず、そして今の藍にはそれだけの余裕がないのだから、紫が目を覚ますまで橙はひとりぼっちなのだ。
 もう鼻をすすり上げる事もなく、ただ橙は魔理沙にしがみ付いている。思いの外強いその力に少し魔理沙はほっとする。腕の力まで抜けた挙句、箒から振り落とされてしまったら。想像するだに恐ろしい。

「……」
「……」

 橙の震えは、紫が無事だった事への安堵で腰が抜けてしまった為のものではなくなっていた。事態がそう単純ではない事は、橙にもよくわかっているのだろう。あんなにも慕っていた二人の母から切り離され、ただ独り祈りながら待つ事しか出来ない橙の不安はいかばかりであろうか。そんな状況に追いやった張本人とも言うべき自分の背に、それでもきゅっと力を込めて抱き付き顔を埋めている橙。こいつを夜のマヨヒガに落っことして行くのは正しいだろうか? 魔理沙は唇を噛み締める。そんなの、駄目だ。

 箒は進路を変えて、魔法の森を目指した。



「誰かしら」

 こんな夜更けに訪ねて来る知己など一人しか心当たりが無いのだが、彼女にしては随分と遠慮がちなノックだったのでアリスは首を傾げた。

「はい」

 アリスが戸を開けると、案の定そこには魔理沙が立っていた。しかし、帽子のつばに目元を隠して所在無げにしている魔理沙と、その服の裾を右手の親指と人差し指でつまむようにしている橙の青白い顔の組み合わせには、流石に意表をつかれた。ふさわしい言葉もとっさには思いつかず、アリスは黙って腕を組んだ。

「あー、アリス」

 空咳をしてから、魔理沙はためらいがちに切り出した。

「何?」
「橙を、一晩泊めてやって欲しいんだ。…頼む」

 アリスの目を見ないまま、魔理沙は頭を下げた。顔を見られたくないのだろう、とアリスは思った。そして、そんな魔理沙の顔をアリスも見たくはなかった。

「橙」

 アリスがそっと橙の左手を取ってやると、冷たい小さな手が軽く握り返してくる感触があった。

「悪い、恩に着る」
「魔理沙にお礼を言われる筋合いは無いわ。貴女、橙の何なのよ」

 軽い冗談だったが、確かに魔理沙と橙の間には何も無かった。魔理沙には返す言葉さえ無く、アリスは軽く溜息をついてから橙を伴って踵を返した。

「おやすみ、魔理沙」

 背後で箒の飛び立つ気配があったがアリスは振り返らずに屋内へ消え、玄関の戸を人形が閉めた。



「……」

 アリスの家から目と鼻の先にある自分の家を遥か置き去りにして、常軌を逸した速度で魔理沙は箒を駆る。当て所は無い。

「…くそっ」

 アリスなら、何も聞かずに橙を一晩泊めてくれる。そして橙を暖かくもてなしてくれるだろうし、余計な詮索をして橙を苦しめる事も無いだろう。わかっていた。
 打算ずくだった。打算ずくな事を承知の上でアリスは何も言わないのだ。自分が酷く惨めだった。

 ――橙と一晩を過ごす事から逃げたんだ、私は。その程度の咎めと禊ぎにすら、正対出来なかった。
 ――でも、橙だって私と一晩過ごすなんて嫌だったろう。それに家は散らかっているし、布団も一組しか無い。橙にとってはこれが一番良かったんだ。

 あまりに下手糞な言い訳に魔理沙は顔を歪めて笑った。結果がどうあれ、自分は服の裾をおずおずと掴む橙の手を振り払ったのだ。それが全てだった。

「…あああっ! 何なんだよ! 何でなんだよ!」

 魔理沙はいつだって自分自身を好きだった。どれほど落ち込む事があっても、それが必ず根っこにはあったのだ。こんなにも自己嫌悪に苛まれるのは初めてだった。
 何も考えたくなかった。このまま風になってしまいたい、そんな子供じみた自暴自棄が馬鹿馬鹿しくもあったが、目的地の無い飛行を止められなかった。
 ごうごうと夜の空気を切り裂いて飛び続けていると、意識が身体から引き剥がされていくような気がする。視界が小さく遠く萎んでいく。はあ、と吐息を漏らしてから、魔理沙はゆっくりと目蓋を閉じた。

「お止しなさい。死にたいんですか」

 突然凄まじい力で魔理沙は現実に引き戻された。実際、文が箒の穂を後ろから掴んで無理矢理に減速させたのであった。

「――ああ、くそっ、そうかよ。永遠亭を出たところからずっと尾けてたってわけか」
「魔理沙さん」
「やめろよ、撮るな! 撮らないでくれ。撮られたくないんだよ、こんな顔!」

 魔理沙は帽子を顔の前に引き下ろしながら喚いた。

「馬鹿にするな!!」

 文に一喝されて魔理沙ははっと身を竦めた。文の手が帽子を押さえている腕をぎゅっと握って来る。

「私は、くだらなくても、読んだ人がちょっと笑って元気になってくれるような、そんな新聞を書いてるつもり」

 帽子が奪われた。文と視線を合わせる。――なんで、お前がそんなに辛そうな顔をしてるんだ?
 文は、そのまま帽子を再び魔理沙の頭の上に乗せた。

「貴女の顔なんか新聞に載っけた日には、売り上げがガタ落ちですよ」
「…馬鹿言え。落ちるほどの売り上げがないだろうが」
「でも、ゼロじゃない」

 そう言って、文はにっと笑った。

「読んでくれる人はゼロじゃないんです。ゼロとイチは、全然違う。そう思いませんか?」
「……」

 無言の魔理沙の額を、文は万年筆のキャップでこんこんと叩いた。

「あのね、尾けちゃいませんよ。自意識過剰。だいたい、あんな猛スピードで妖怪の山の上空を突っ切っていくから、天狗達もちょっとした騒ぎです」
「…悪かった。何も考えてなかった」
「貴女、疲れてるんですよ。さっさと帰って寝たほうがいいですよ」

 夜更かしをして汚い顔が余計汚くなっても知りませんよ、と言い残して文は飛び去って行った。
 まさしく風のような奴だ、と魔理沙は思った。ぽつんと満天の星空に浮かんで、先程までの自分を振り返る。あれで風になりたいだなんて笑わせるぜ。あんなのは、ただのヤケクソだ。酷い虚脱感に襲われ、とても同じ事を続ける気はしなかった。

「…どうしよう」

 ぐじゃぐじゃにこんがらがった頭の中身を整理する気力も無くて、魔理沙は途方に暮れる。
 問題すらよくわかっていないのだから、気の利いた回答が浮かんで来る気配は全く無かった。



 * * *



 翌日、紫は集中治療室と呼ばれる部屋から、一般の患者が逗留する個室に移された。

 それと共に、紫が昏睡状態にあり、永遠亭にて伏せっている事実は公にされた。事の大きさから元々隠しおおせようはずもなく、それならば変に騒がれたり嗅ぎ回られるよりは、把握している限りの情報を正確に開示した方がマシであろうという判断であった。
 それでもやはり、永琳は望まぬごたごたに永遠亭が巻き込まれる事を憂えて、警戒態勢を整えさせた。
 何者かが好機とばかりに紫の寝首を掻きにやって来るやも知れぬ。しかし、それが私怨であろうとイデオロギーに基づくものであろうと、許す気は無かった。輝夜達と暮らす上で幻想郷の環境とその結界を失う事は大きな痛手であり、そしてそれは紫なくして維持する事が出来ないだろう。また、ここで紫に恩を売っておくのも悪くないし、患者として引き受けたものを放逐するのは永琳の信条に反した。

「――というように対応をいたしました」
「全部手配した後に言われてもねえ」

 永琳が輝夜に形ばかりの報告を済ませると、輝夜はそう言って茶を点てながらころころと笑った。

「だって言わなきゃ言わないで拗ねるじゃない」
「やる前に相談するって選択肢はないのかしら。はい」
「相談したって『えーりんに全部任せる』しか言わないでしょう」

 そう言いながら永琳は輝夜の差し出す茶碗を直接受け取って、口を付けた。

「でも今回は永琳の思ってるようにはならないと思うわ。美味しい?」
「まあまあね。思ってるようにならないってどういう事?」
「きっと、騒々しくはなっても剣呑な事にはならないわ。まだまだ永琳も幻想郷慣れしてないのよ」
「あら。そう仰る姫様は随分とお慣れあそばしたようですわね」

 永琳が少しむっとしながら茶碗を戻すと、輝夜は再び笑う。

「淋しいの?」
「かも知れません」
「その淋しいのが、いいのでしょう?」
「かも知れません」
「業の深いこと」

 小さく欠伸をしてから、輝夜はす、と立ち上がった。

「寝るわ。お茶のお道具、片付けさせておいて」
「かしこまりました」

 そうして、輝夜は寝所に行きかけて、振り返りつつ「貴女も来る?」と問うた。永琳は「いえ」と短く答え、輝夜はまた笑いながら姿を消した。


 実際、永遠亭は大変な騒ぎになった。連日大量に紫の見舞い客が押し寄せた為である。しかも物の怪の類であるから昼夜を問わない。仕方無く面会時間に制限を設けると、今度は順番待ちの長蛇の列が凄まじい事になった。この辺りになってくると、全く関係の無いその辺の妖精なぞまで、何かのアトラクションでもあるのかと列に加わり始めるのだから、なるほど自分は幻想郷の事を全然わかっていなかったに等しいのだと永琳は苦笑した。不逞の輩などもとよりおらず、万が一いたとしても、これでは紫に害意を持って近付く事は不可能であった。
 整理券を配りつつ、番号から予想される面会予定日時を表に起こし、見舞い客同士で都合の合う整理券を交換させる仲介業をてゐが始めるに至って、永琳はあれこれと心配をするのをすっかり止めてしまった。幻想郷の暢気さ、逞しさに改めて脱帽したとも言えるし、呆れ返ったとも言える。

 紫は目を覚まさなかった。
 見舞い客達は紫と言葉を交わす事は叶わず、それならばと何かしら見舞いの品を置いていくのであった。その為に、紫の病室の隣の部屋をお見舞い品倉庫として充てなければならなかった。

 桜をあしらった白檀の扇。いつのものか見当もつかぬ古酒。紫色を基調としてとりどりの色を散りばめた花束。白黒二色に彩られた手鏡。
 ヴィンテージのワイン。ステンドグラスのスタンド。銀のペーパーナイフ。盆栽。「はやくよくなってね」と達筆で書かれた掛け軸。謎の壷。薬莢のキーホルダー。屋台の水風船。巨大な柱。珍妙な帽子。蛇と蛙のぬいぐるみ。狸の置物。動物の写真集。哲学書。温泉卵。巻物。正体不明の何か。宝塔。ヘッドホン。葉っぱ。などなど。

 とにかく高価なものからがらくたまで、大量の見舞い品の数々。蝉の抜け殻だの凍った蛙だの、何故こんなものを持参するのか理解に苦しむものも多いのだが、その一つ一つに、橙は丁寧に御礼を述べて頭を下げるのだった。
 山と積まれた品々を前に、橙は嬉しいような、誇らしいような、何とも言えない気持ちに胸がじんわりと暖かくなって、泣きそうになる。紫様がお目覚めになったら、どんなに驚かれる事だろう。どんなに喜ばれる事だろう。紫がどんな心の機微も決して無下にしない事は橙にはよくわかっていたから、どんな品であっても心から感謝を伝えた。紫と藍の代理として、どれだけきちんと出来ているかはわからないけど、誠心誠意の挨拶と、謝辞を。
 そして、こうして抱え切れないほどの期待に、あの八雲紫が応えないなどという事は絶対にあり得ないのだから、いずれ紫が目を覚ます事も橙にはよくわかっていたので、もう不安は無かった。ただ早く愛する紫が目覚めて、愛する藍と共に喜びを分かち合いたい、そんな期待で橙はむしろわくわくしてさえいた。

 紫が今の病室に移ると同時に、橙は永遠亭にやって来て、それからずっと紫の病室で暮らしている。紫の体を拭いたり、体位を入れ替えたり、部屋の掃除をしたり、見舞い客に挨拶をしたり、片時も紫の側を離れない。
 鈴仙が「代わってあげるからたまには休んでもいいのよ」と一度声をかけたが、少し困ったような顔をして橙は答えた。

「今の私、これしかする事が無いんです。これしか出来る事がないんです。そして、一番やりたい事なんです」

 鈴仙は、そっか、と答えて、後はただ見守る事にしたのだった。

 面会も無く、特にやらなければならない事も無い時には、橙はじっと紫の側に座って、その手を握っている。絹のように滑らかで白い、この世の物とも思えぬような美しい手だ。普段は畏れ多くて自分から触れるだなんて考えもしなかったので、少し悪い事をしているような胸の高鳴りと共に、橙はそっと紫の手を撫でる。
 そうして手を取りながら、紫の顔を見る。紫の顔は陶器のようだ。綺麗で、冷たく、触れ難い。壊れてしまいそう。こんなに近くでじっくりと紫の顔を見た事も無かった。橙の頬を涙が伝う。それは不安や悲しみによるものではなく、言わば崇高な芸術に触れた感動によるものに近い。こんな方を愛し、愛される事を当たり前のように許されていたのだと思うと、涙が溢れてしまうのだ。

「紫様」

 ささやくように名前を呼んでみる。答えて欲しい。名前を呼んで欲しい。この美しい手で頭を撫でて欲しい。
 何て自分は無知な子供だったのだろうと橙は思う。自分は世界で一番贅沢で幸せな妖怪だったのだ。それを知って、少しだけ大人になった自分を、紫と藍に見て欲しかった。でも、きっとその時にはただただ甘える子供に戻ってしまうに違いなかった。

 いつか改めてアリスにも礼を言わなければならない、と橙は思う。あの晩、急に訪れた自分を何も言わずに受け入れて、温かい食事と寝床を与えてくれた。そわそわとして朝早くに目が覚めた時にはもうアリスは朝食の準備をしていた。居ても立ってもいられずに永遠亭へと向かう時には、いってらっしゃい、気をつけてね、と送り出してくれた。
 先日、アリスが見舞いにやって来た。見舞いの品として持って来た紫と藍と橙の可愛い人形とは別に、橙に菓子の包みを置いていった。ビスケットはほんのりと甘く、美味しかった。

 そして、あの時橙をアリスの家へ送り届けて以来、魔理沙の行方が知れない。
 橙は非常に心を痛めていた。普通に考えれば、魔理沙だって霊夢だって悪意で紫を陥れて痛めつけるはずは無いのに、自分が子供だったせいで酷い態度を取ったから、魔理沙はとても傷付いたに決まっている。紫があんな事になって悲しみ、傷付き、きっと自分を責めていただろう。それでもあれほど私の事を気遣ってくれたのに、私が魔理沙の心をずたずたにしたんだ。

 紫は目覚めず、藍は八雲の家から出られない。霊夢は藍を手伝ってほうぼうを飛び回り多忙極まりない。たまに誰かが霊夢を捕まえても、一切何も答えないのだという。そして、相変わらず魔理沙は見つかっていない。
 あの日、紫達の間で何が起こったのか、誰にもわからないままだった。


 橙は紫の手を握ったまま、何があったんですか、と尋ねてみるのだが、紫は答えない。



 * * *



 魔理沙と霊夢の弾幕ごっこの対戦成績は、少し霊夢が勝ち越している。
 やはり純粋な腕前では若干霊夢の方が上なのだろう。そして、霊夢は調子の波が小さい。だいたいいつでも同じように実力を発揮する。
 では何故魔理沙は霊夢にそこそこの割合では勝てるのか。それは、魔理沙の調子がいい時、モチベーションの高い時には、本来の実力以上の力を発揮する事があるからだ。
 魔理沙は考えた。ならば、自分のモチベーションを高めつつ、霊夢の調子を狂わすような仕掛けがあれば、霊夢に確実に勝てるのではないかと。

「よう、来たぜ」
「そう。さよなら」

 勇んで魔理沙が博麗神社に降り立つと、霊夢はぼーっとしていた。暇そうだ。

「そう言うなよ。久しぶりにちょっくらやろうじゃないか」
「そうねえ。ま、やる事も無いし付き合ってあげてもいいわよ」

 魔理沙がスペルカードを見せると、霊夢はやれやれといった具合に腰を上げた。

「おっと、ただやるんじゃつまらないだろ。今回は、罰ゲームを考えてきた」
「は? 罰ゲーム?」
「そうだ。この勝負に負けた方は」

 罰ゲームの内容を告げられた霊夢は血相を変えた。

「馬鹿じゃないの? そんなの絶対嫌よ!」
「そんなに嫌だったら私に勝つんだな。さ、行くぜ」
「ちょっと! 待ちなさいよ!」

 なし崩しに弾幕ごっこが始まった。全ては魔理沙の目論見通りだった。霊夢の罰ゲームを見たいという強いモチベーションに突き動かされ、いつになく調子がいい。そして、霊夢も罰ゲームの内容に動揺しているらしく明らかにいつもの調子ではなかった。
 誤算があったとすれば、調子の狂った霊夢だ。冷静さを欠いている霊夢は、むしろいつもより強かった。

「おらおらおらおらっ! 墜ちろ! 墜ちやがれ!!」
「こんな霊夢さん、はじめてなんだぜ…」

 あからさまに霊夢は必死だった。いつも澄ましたアイツのこんな面が拝めるなんて、これだけでもナイスアイディアだったな、と魔理沙はほくそ笑んだが、しかし負けてやるわけにはいかなかった。勝負は熾烈を極めた。

「よっしゃあ!! 勝ったっ!!」
「嘘…」

 結局、霊夢の怒涛の猛攻を凌ぎ切った魔理沙に軍配が上がった。

「さあさあ、巫女に二言は無いな? 罰ゲームをやってもらおうじゃないか」
「え? やるなんて一言も言った覚え無いけど」
「あ、逃げるんだ? 博麗の巫女ともあろうお方が? 逃げるんだ? 負けたくせに?」
「うぎぎ…」
「ま、いいですけど? 逃げても。その場合、私は死ぬまでこのネタでお前にまとわりつくがな」
「あーわかったわかった。やればいいんでしょやれば!」


 母屋の居間で、魔理沙と霊夢は茶を飲んでいる。ちゃぶ台の上には魔理沙の持参した桃饅頭が八つ乗っているが、それに手を伸ばすことも無く二人はそわそわとしていた。

「本当に来るかしら。多分、来ないわ。来ないで」
「アイツはこの桃まんが大好きなんだとよ。藍しゃま情報だから間違いない。必ず来るはずだぜ」
「いーやー…」

 じりじりと待つ事おおよそ四半刻。突如、ちゃぶ台の上ににゅっと腕が現れて、桃饅頭を鷲掴みにした。

(来たっっ!!!)

 魔理沙は必死で笑いを堪え、霊夢はすっかり気が動転して、魔理沙の服を引っ掴んで背後に隠れようとする。

(馬鹿、何やってんだよ…!)
(ちょ、やっぱり無理無理! 出来ないって!)

 罵声を浴びるか、パスウェイジョンニードルを撃ち込まれる程度の覚悟はしていたので、特に何のお咎めも無い事に不審を抱いて紫が全身を現すと、霊夢と魔理沙は何だか小さく固まってこそこそやっていた。

(ほら、霊夢、早く行けよ!)
(ちょっと待ってよ! 自分のタイミングってものがあるでしょ!)

 その様は、憧れの先輩にラブレターを書いたものの渡そうか渡すまいか逡巡している女子と、それを面白半分に焚き付けている友人にそっくりであった。

「あのー、二人とも? おまんじゅう、食べちゃうわよ?」

 どうも二人の様子はおかしかったが、別にこいつらがおかしいのはいつもの事なのでいいや、と思い紫は桃饅頭を口に運んだ。ふんわりとした皮はほのかに甘く、中の白餡には実際に桃の果肉が練り込んであり、瑞々しい香りが口いっぱいに広がる。

「おいふぃ~…」

 至福にうっとりと目を閉じて、もっきゅもっきゅと味わいながら咀嚼する。ごくん、と喉を鳴らして飲み込んでから目を開けると、そこにはいきなり霊夢の顔があった。

「んひい! な、なに!?」

 霊夢は顔を紅潮させて唇を震わせている。何かを言いたいのだが躊躇っているらしい。突然驚かされた事もあり紫の動悸は収まらない。何なのよこの吊橋効果は。

 意を決したように霊夢が口を開く。



「おかあさん、だーいすきっ!」



 ふわ、と霊夢の両腕が紫の体を抱き締める。



 紫の反応は、劇的であった。

 ぼむ、とくぐもった破裂音が紫の左胸で炸裂すると共に鮮血が両の鼻孔から噴き出し、同時に凄まじい勢いで紫の上体は後方に傾ぎ、後頭部が箪笥に激突し木片が周囲に飛び散った。バウンドした紫の体はうつ伏せに床に叩きつけられ、血溜まりの中でぴくりとも動かなくなった。


「紫いいいいいいいいいいいいいいいいい!!?」
「えらいこっちゃあああああああああああ!!!」




 ――これが、『あの日』の真実である。

 不幸な事故だった。悪意を持った者など一人もいなかったのだ。




 * * *




 こんなくたばり方があってたまるものですか。




 * * *




 だって、私、まだ一つしか桃饅頭を食べていないのに。




 * * *



 障子を通す日の光が赤みを帯び、部屋の隅からじわりと暗がりが染み出すような夕暮れに、紫の手を握ったままうつら、うつらとしていた橙の耳が、ぴくりと動いた。

「…紫様?」

 確かに今、この手に伝わる脈動があった。橙は両手で紫の手を握り込み、頬を寄せるようにして必死で語りかけた。

「紫様。紫様。橙でございます。橙がここにおります。紫様」

 紫のガラス細工のような長く儚げな睫毛が、僅かに震えた。どうして橙がそれを見逃すはずがあろう。
 ああなんて畏れ多い事を! ああなんて畏れ多い事を! 私の涙で紫様の頬を汚してしまうなんて! 

 橙が握り締めていたのと反対の紫の手が、ゆるりと弧を描いて、橙の頭を穏やかに撫でた。

「あっ、あ、ああっ」

 稲穂を渡る風のように、はっきりと目に見えて白磁の如き紫の肌に生気が走ってゆく。
 
 あの日の手術室の扉のように冷たく重く閉ざされていた紫の目蓋が音も無く持ち上がり、美しい、美しい瞳が、橙を見た。


「――橙」


「あっ、あっ! あっ! ゆ、ゆ、ゆ、ゆかっ、んひゅぅ、んくっ」

 喉がかあっと熱くなって、震えて、声が出ない。こんなにも祝福と、感謝を伝えたいのに。橙はもどかしくて何度も首を振った。
 その健気な仕草は、痛いほどに紫に伝わる。

(優しい子ね。言葉はいらないのよ)

 橙が握り締めていた手をゆっくりと引くと、ごく微かに名残惜しそうな表情を浮かべる橙が、たまらなくいとおしい。そのまま、すっぽりと抱き締めてしまう。一片の隙間だって許さずに。


「……びゃあああああああああああああああああああああああっ!!」


 赤子を抱く母親とはこのような心持ちであるのだろうか。自らの腕の中で到底泣き止む気配の無い、この愛しさのかたまり。
 そして。

「ぁぁぁああああああああああああああああああいさぁぁぁぁ!!!」

 障子を突き破り桟をバッキバッキに砕いて超高速で回転しながら室内に飛び込んで来た藍が、畳との摩擦熱で煙を上げる。見晴らしの良くなった病室の外で、無残に薙ぎ倒された永遠亭の外壁と無数の竹が夕日に照らし出されている。

「ぐじゅじゅっ、ゆ、ゆかりしゃまあ、ゆかりしゃまあ、よくぞ、よくぞ」

 ここ最近はずっと澄ましてばかりいた藍のよれよれの姿となさけない泣き顔を見て、紫は吹き出してしまう。てんで成長なんてしていないのだ。本当に手のかかる娘達なのだ。笑いながら、ちょいと手招きしてやる。ちぎれんばかりに尻尾を振りながら藍が飛び付いて来た。

「びゃあああああああ!!」「びゃあああああああ!!」「ゆかりしゃまあああ!!」「ゆかりしゃまあああ!!」「ら、らんしゃま!?」「ちぇえん!!」「らんしゃまああああ!!」「ちぇええええええん!!」「びゃあああああああ!!」「びゃあああああああ!!」


 やがて月の光が差し込むに至ってもなお八雲家の愛の再確認は続いており、永琳に手術費用・入院費用及び破損箇所の修繕費の請求を命ぜられた鈴仙は、いつまで待てばいいのかもわからぬまま、廊下にずっと立ち尽くしているのであった。



 * * *



 八雲紫の意識、回復すの報は、瞬く間に幻想郷を駆け巡った。
 勿論喜ばしい知らせであるから、文も大手を振って号外を撒きまくった。
 幻想郷はちょっとしたお祭り騒ぎになった。紫の事が余程の慶事としてとられたと見るか、何か理由があれば騒ぎたい輩ばかりなのだと見るかは難しいところである。

 再び永遠亭はお見舞いラッシュに沸き立ち、てゐの財布もまた随分と潤った。
 見舞い客達は紫に祝いの言葉を述べ、紫達はお見舞いに頂いた品の御礼も合わせて、丁重に、心を込めて謝辞を返した。
 実際に紫が目覚めてから見舞いに訪れた客の数は、伏せっている間に比べるとある程度減っていた。紫の事を本気で心配していても、回復したとなれば面と向かって言葉を交わすのは恥ずかしいという厄介な性格の者も相当数いたのである。いずれ、そういった者達にもきちんと御礼をしに行こうと紫は考える。それをネタにからかうのもまた一興である。


 数日が経過し、ようやく客足も途絶え、紫の体力も半ば回復して、いよいよ近日中には永遠亭を出られるかという具合になってきた。今では橙に加えて藍まで紫の病室に住み着いており、流石にいつまでも厄介になっているわけにもいかない。
 ぽつぽつと訪れる来客の合間に、藍と鈴仙で諸々の費用の清算について改めて相談をした。ほぼ原価ままの請求額に対して、藍のもっと出そう、鈴仙のいえ結構ですの押し合いへし合いがあったが、最終的にはてゐの利得も勘案して八雲側が折れた。支払いには、世知辛い話ではあるが、見舞いの品々の中にいくらか寄与するものもある見込みであった。

 支払いの話も一段落し、今は病室で紫と藍と橙は水入らずである。藍は紫の傍らに座って林檎を剥いており、橙はそんな二人の姿を嬉しそうに見つめていた。

「しかし、疲れましたね。紫様がこれほどに慕われていらっしゃるから、仕方の無い事とは言え」

 と、藍が言った。

「でも、紫様がお目覚めになってから、楽しかったです。皆さんも優しくて」

 と、橙が言った。
 どちらも偽らざる本心であろう。そうね、ちょっぴり疲れたけれども、そんなのは贅沢過ぎる悩みね、と言って、紫は藍の差し出す林檎を受け取って齧った。酸味のやや強い締まった実は、紫の好みだった。

「後はいよいよお家へ帰るだけですね。永遠亭にもすっかり慣れたけど、やっぱり私は紫様達のお家が好きです」

 にっこりと橙が笑う。そうだね、と藍は答えたが、ちらと紫に目をやった。紫は藍だけにわかるように頷き返した。

 一番肝心な清算が終わっていないのだ。

「さあ橙、私達は先に家に帰って、紫様のお帰りに備えて掃除をしておこうか」
「え、今からですか? 明日すぐ帰るわけでもないんですよね? もう少し、紫様と一緒にいませんか?」
「駄目だ。それは、ただ紫様に甘えているだけだろう。私達には私達のなすべき事がある」

 橙はきちんと得心したようではなかったが、「はい」と元気良く答えた。

「では紫様、お先に失礼しますね。お帰りになった時に喜んで頂けるよう、お家をぴかぴかにしておきます!」
「ありがとう橙。よろしくお願いね」

 去り際に目礼する際、ほんの一瞬藍が咎める視線をよこした。――紫様は、お優しいから。
 紫は微笑を返す。――ありがとう。貴女のその気持ちだけでいいの。


 独り病室に残された紫は、自分の歯形のついた林檎を皿の上でくるくると回して弄んだ。
 林檎を食べると罪に問われるのだったかしら。では、一口だけ齧って玩具にして遊んだりしたら、きっととんでもない重罪ね。



「お入りなさい」

 紫がそう言うと、静かに障子が開き、霊夢が入って来た。霊夢は振り返って障子を閉めると、座らずに紫に向き直った。
 真っ直ぐに伸びた霊夢の影が、布団から上半身を起こして座っている紫の、丁度足の辺りにかかっている。

「具合は、どう?」

 そう尋ねた霊夢の声は、普段に輪をかけて酷くぶっきらぼうだった。感情を滲ませるのは、アンフェアだと考えているのだろう。全く少女らしくなく、またとても少女らしい覚悟だと、紫は思った。

「おかげさまで。すっかり大丈夫よ」
「そう。良かった」

 それぎり、霊夢は押し黙った。無論、紫から発するべき言葉は無いから、紫も黙っている。
 霊夢は息を吸い、息を吐き、そして息を吸った。

「ごめんなさい!」

 そう言って、ばっと霊夢は頭を下げた。背筋を伸ばしたまま、腰を基点に体を綺麗に折り畳み、頭を垂れている。

「何を、謝るの?」

 紫は問うた。

「紫に怪我をさせて、人事不省にさせた事」

 頭を下げたまま、霊夢は答えた。

「それに対する謝罪、でいいのね?」

 紫がそう確認すると、霊夢はぴくり、と体を震わせて、それからゆっくりと頭を上げて、紫を見た。紫がそれに何かを答えてやる事は無い。

「それから、」

 霊夢は搾り出すように言葉を繋いだ。

「悪ふざけで、紫の気持ちをおもちゃにした事。紫は、本当に、私の事を、愛してくれてたんだと思うから…」

 語尾が震えた。目の縁が真っ赤になっているが、涙は堪えていた。

「本当にごめんなさい…」

 もう一度、霊夢は頭を下げた。

「今回の事で、少しお金がかかってしまったのね。その内、こちらで治療して頂くのにかかった費用は、貴女に出してもらいます」

 紫がそう言うと、霊夢はそのままの姿勢で「はい」と答えた。
 ほんの僅かに息をついてから、紫はまた口を開いた。

「最後に聞かせてもらうわ。貴女は『悪ふざけ』と言ったけど、あれは心にも無い嘘だったのね?」
「違う!!!」

 霊夢がはっと顔を上げて叫んだ。激しく首を左右に振ってから、ついに霊夢は顔を覆って泣き崩れてしまった。

「違うの…」

 紫は、ふーっと大きく息をついてから、「霊夢」と呼びかけた。霊夢はいやいやをしながら泣き続けている。

「これで、清算はおしまいよ。貴女の気持ちは、よくわかりました。こっちへおいでなさい」

 霊夢が鼻を啜りながら紫の側へいざり寄ると、紫は霊夢の手を取り、顔を覗き込むようにしてはっきりと言った。

「貴女を赦します」

 しばらく霊夢は紫の顔をじっと見つめてから、こくんと頷いた。
 紫は我慢出来ずに笑みを漏らしてしまう。皆一緒だ。手のかかる娘ばかりなのだ。
 霊夢の頬にそっと手を伸ばして、親指で涙を拭ってやった。

「大変だったでしょう。藍の手伝いもしてくれてありがとう」
「それは、当たり前の事だから…」
「偉かったわね。さあ、にっこり笑ってお帰りなさい」

 霊夢は袖で顔をごしごしやってから、まだにっこりとはしなかったけれど、再び綺麗な礼を残して部屋を出て行った。



 すっかり夜も更けた。紫は障子を開け放って月を眺めながら、親指に残った霊夢の涙の味を思い返していた。妖怪も人間も、大した違いなどありはしない。そう思った。
 それにしても、閻魔様というのはやはりとてつもないお方なのだな、と改めて紫は感心する。人の罪を見つめ、裁く事の重さは、容易に抱えられるものではない。ただ感情を持たずに処理出来ればいいのだろうが、紫の知るあの方は、決してそこから目をそむける事はしないのだから。そう言えば、あの方からもお見舞いの品を頂戴したままお会いしていなかった。ご多忙だろうから、こちらからしかるべき手土産と共にお伺いしなくては。

 ただ愛する事は容易い。見返りさえ求めなければ。しかし、世の中も自分自身も、そう上手くはいかないのだった。

「まあ、鼠だわ」

 警備をかいくぐって来たのか、あるいは永琳あたりが泳がせたのか。
 ふらりと月明かりを遮って、魔理沙は現れた。

「うちの猫が随分と探していたのに。どこの穴ぐらに隠れていたのかしら」

 魔理沙は何も言わずに立っている。よく眠れていないのか、少しやつれた顔の中で、黒い瞳だけがじっと紫を見つめていた。血の気の失せるほど握った拳がスカートの横で小刻みに震える。
 どうしてこの子達は皆、楽に生きようとはしないのだろう。真っ直ぐに真っ直ぐに伸びてゆこうとする。夜の闇の中で、紫は眩しいような気持ちでいた。少女は多感で、大人になりたくて背伸びをして、でもまだまだ子供なのだ。そしてやはり、紫はどうしても少女ではいられないのである。

 畳縁を魔理沙の帽子の影の先端が渡り切る間、沈黙は続いた。

「何を言えばいいのか、わからないのでしょう?」

 紫がそう言うと、少し間を置いて魔理沙が頷いた。

「貴女が今考えている事、悩んでいる事を全部そのまま口に出せばいいと思うわ」

 魔理沙は何度か躊躇ってから、かすれた声で語り出した。

「…ほんとに、軽い遊びのつもりだったんだ。でもそのせいで紫は酷い怪我を負った。こんな事になってみれば、紫の気持ちも考えてなかったし、霊夢の気持ちも考えてなかった。そして、色んな人を悲しませて、迷惑をかけた。全部私が悪かったんだ。…でも、霊夢は私のせいにしない。いっこも私のせいにしないんだよ。私は、こんなに罪の意識に苛まれてるのに、全部霊夢が独りで背負い込んじまう」
「…あの時だって、霊夢は永琳に『私が、紫を』って言ったんだ。それで話は終わっちまったんだ。あいつが良かれと思ってやってる事はわかってる。でも、私はどうすればいいんだ? 多分霊夢は紫に謝ったんだろう。それで、多分紫は霊夢を赦したんだろう。清算は終わりだ。じゃあ、私はどうすればいい? 私の罪はどこで清算されるんだ?」
「…霊夢は私の謝罪を受け取らない。紫は、私が謝れば最終的にはきっと赦してくれるだろう。でも、紫はもう霊夢を赦したんだ。プラマイゼロだ。二重に紫から赦しを引き出すのはフェアじゃない。私の罪は罰を受けられない。赦しを得られない」
「…こうして苦しむ事が私に与えられた罰ならば、それはそれでいい。でも、この罪は、赦される事はないのか?」
「…私の罪は、赦されない罪なのか?」

 魔理沙は口をつぐんだ。紫は「なるほど」と言ってから、少し首を傾げた。

「それで、どうして、魔理沙は私のところへ来たのかしらね?」

 魔理沙は、数度まばたきをした。

「顔を出すべきだと思ったんだ。紫が良くなったと聞いたから。でも、誰かと顔を合わせるのは嫌だった」
「それで?」

 紫の追及に、魔理沙は目を閉じて、頭を掻いた。

「…やっぱり、無意識にお前に裁いて欲しかったのか? 私は。赦されたかったのか」

 紫は、傍らの皿の上で、すっかり乾いてしまった齧りかけの林檎を眺めた。

「外の世界で大人気の宗教があるのよ」
「…?」

 魔理沙も紫の視線を追って、林檎を見つめる。

「その宗教ではね、とっても偉いお父さんが、世界中の人間全員の罪を一人でかぶって、全員分の罰を一人で受けて、そのおかげで世界中の人間全員が全ての罪を赦されたんですって。その代わりに、みんな悪いことはしないで仲良くしなさいっていうお父さんの遺言をきちんと守りましょう、って教えなんだそうよ。とっても都合のいい話よね」
「…そりゃあ、親父が丸損だな」
「どうかしら。私は、お父さんはとても幸せだったんじゃないかと思うわ。きっと、世界中の人間全員を、愛していたのだと思うから。ただただ人を愛する事は、尊くて、悦びに溢れた事だから」
「……」
「愛だの赦しだのを、貴女の齢で算盤を弾いて勘定するものじゃないわ」
「…私は、お前に謝ってもいいのか?」
「さて、どうかしら。私は、お父さんではないものね」

 紫は悪戯っぽく微笑みながらそう言って、畳を軽く打って手招きした。魔理沙はぎくしゃくとした動きで帽子を脱いで歩み寄り、紫の側に座った。

「本当に、貴女の言いたい言葉を言いなさい。貴女の、言いたかった言葉を」
「私の、言いたかった言葉…?」
「そう。よく思い出して。そこに、貴女の思いも、霊夢に抱いているわだかまりもあるはずよ」

 月光が紫の横顔を照らしている。白く、彫像のような顔立ちには、淡く笑みが浮かんでいる。ごく幽かな甘い香り。林檎と、そして紫の匂いだ。
 ああ、こいつは妖怪じゃないか、と魔理沙は思った。私は、魅入られてしまったのだ。そうに決まってる。


 いつの間にか魔理沙はそっと紫の懐に身を寄せて、両の腕を背中に回しているのだった。


「――おかあさん、だいすき…」


 紫の手が優しく背中をさするのを止めて欲しかった。何故か涙が止まらなくなってしまうのだ。

「馬鹿な子ね。貴女は、本当のお母さんがいるでしょうに」

 魔理沙の頭のてっぺんに頬を寄せながら、紫が歌うように言った。

「…ばかいえ、おふくろに、こんなすがたなんて、みせられるもんか」


 何も変わりはしない。紫は思う。皆々、手のかかる娘ばかりで。いとおしさは、汲めど尽きぬ。


「今日は、藍も橙も帰したから。独り占めして好きなだけお泣きなさい」
「…いやだ」
「泣く子を抱っこしてあやすのは上手なのよ。最近いっぱい練習したもの」
「子供じゃない」
「子供よ」



 魔理沙が身じろぎして顔を上げた。不恰好に腫らした目で腕の中から紫を見上げる。

「あら、もうおしまいでいいの? 残念だわ」
「あー、くそ。頼むから誰にも言わないでくれよ」
「どうしようかしら」

 身を離してそそくさと帽子をかぶる魔理沙を見つめながら、紫はわざとらしく思案顔になった。

「そういえば、あの時、私一つしか桃まんを食べていないわ。美味しかったのに」
「わかった。わかった」

 魔理沙は苦笑いしつつ、廊下に立てかけてあった箒に手をかけた。

「ああ、お待ちなさい、魔理沙」

 魔理沙が振り返ると、紫は立ち上がって床の間にあった口広の花瓶を手に取った。
 そこには、何本もの紫色の花が生けてあった。よく見れば、その中にぽつぽつと他の色が混じっている。同種の別色の花のようであった。

「これはね、私のとても大切なお友達からお見舞いに頂いたお花なのだけど」

 そう言ってから、くすりと紫は笑った。

「失礼よね、紫色はもちろんいいけれど、白は随分きわどいわ。果ては、黄色まで混ぜるなんて」

 魔理沙がきょとんとしていると、紫は呆れた、という顔をした。

「貴女ねえ、女の子なんだから少しは花言葉くらいお勉強した方がいいと思うわ」
「茸言葉なら詳しいんだが」
「茸なんて嫌だわ。全然趣がないもの」

 紫は花瓶から何本か花を選んで抜き出すと、魔理沙に手渡した。

「赤いのを持ってお行きなさい。意味がわからないのだったら、魔法の森の貴女のお友達に聞くといいわ。あの子はきっと詳しいでしょうから」
「何かわからんが、わかった」

 
 あっという間に魔理沙は姿を消し、紫は廊下に立ったまま月を眺めている。もう半ば以上は折り重なる竹の群れの影に隠れて、室内は暗い。

「どうかなさって?」

 廊下の奥からそう声をかけて来たのは、永琳であった。

「いえね、ちょっと鼠が出たものですから」
「あら。それは行き届きませんで」
「もしかしたら、お宅で飼ってらした鼠だったのかしら」
「まさか。兎と鼠が仲良くするなんて聞いたこともありませんわ」

 そう言って永琳はにこりと笑った。

「よもや一時住み着いたとして、逃げてしまったのならもう戻っては来ないでしょう」
「そうね。戻っては来ないのね」

 紫は、水分を吸って少し重くなった寝巻きの前を合わせ直した。

「…眠れないのなら、ご一緒に珈琲でもいかがですか」
「ええ。お呼ばれいたしますわ」
 

 連れ立って歩きながら、永琳が「古酒でなくてよろしかったかしら」とおどけるのに、紫は「古酒はたまに頂くから美味しいのですわ。また、千年程寝かせるのも悪くないでしょう」と答えてやった。




 * * *




 霧雨道具店の朝は早い。
 霧雨のおかみさんは、毎日靄の残る内には表を開けて、店の内外を丹念に掃除をする。
 丁稚にやらせても良いのだが、清掃は商いの基本にして極意であり、そうした意識を怠らなかったが故に、霧雨道具店は人里でも大店と呼ばれるだけの道具屋になったのだ。

 今朝もまた、おかみさんは最近重くなって来た表の戸をがたがたと開ける。そろそろ油を差さねば、と思いつつ、じきに忘れてしまうのだ。

 ふと見ると、足元に、数本の赤い花が落ちていた。
 落ちていたというよりは、根元が和紙で包んであり、重石がしてあったのだから、これは誰かがこの店にあてて置いていったものであろう。

 おかみさんは、花を拾い上げる。香りは、あまり無い。すっとした茎の先端に、一輪、細やかな花弁の赤い花が広がっている様は、可憐であった。近頃は少し小皺の出てきた往年の別嬪さんの頬に、笑くぼが出来る。



 やがて人の往来も賑やかになる頃には、おかみさんは店の切り盛りでてんてこ舞い。

 きっと、今は霧雨道具店の母屋の何処かで、赤いカーネーションは咲き誇っているだろう。













              御請求書

 八雲 紫 様
                         永遠亭 八意医院

  御請求額        零円

  内訳
   御手術代       零円(八意院長の趣味による施術の為)
   御薬代        零円(八意院長の実験を含む投薬の為)
   御入院代      十五円(御食事等雑費を含む)
   御値引      ▲十五円(永遠亭一同より御見舞金)

   計          零円





              御請求書

 橙    様
                         永遠亭 八意医院

  御請求額        零円

  内訳
   御宿泊代       十円(御食事等雑費を含む)
   御値引       ▲十円(看護・清掃・来客対応等への御報酬)

   計          零円





              御請求書

 八雲 藍 様
                         永遠亭 八意医院

  御請求額    五百五十一円

  内訳
   御宿泊代       五円(御食事等雑費を含む)
   修繕代(外壁) 三百五十円(資材費のみ)
   修繕代(居室)  百五十円(資材費のみ)
   修理代(建具)    五円(資材費のみ)
   植樹代       四十円(苗費のみ)
   手間代        一円
   御値引        零円

   計      五百五十一円







 十四作目です。

 私がこのお話を書きながら最も強く感じたのは、泣いている橙は可愛いという事です。

青茄子
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コメント



0.1740簡易評価
1.100名前が無い程度の能力削除
なんかひたすら良いお話だったなぁ…
綺麗な幻想郷を見せてもらいました。
3.100機械仕掛けの神削除
 いい話しだった。
 けど、八雲ゆかりの急死に一生の原因はしょぼ過ぎる。
 後書きの請求書は全て八雲藍の仕業は面白かった。
4.70名前が無い程度の能力削除
がちがちのゆかれいむでない話で紫のこの反応は違和感というかドン引きでした
怪我の原因がギャグ調であろうことは疑う余地もなくタグと合わせて予想外もなく
綺麗に流れたと思います
5.80奇声を発する程度の能力削除
良い雰囲気で良かったです
6.100名前が無い程度の能力削除
個人的に紫まりがぐっときました。
8.100名前が無い程度の能力削除
唐突なギャグ部分は笑うべきか白けるべきか少々迷いましたが
大変面白うございました。お見舞い品だけでキャラが分かる辺りはまさに愛。
お見舞い品の順番も紫好きには堪らなかったです。
9.90名前が無い程度の能力削除
感動の涙なのか笑い泣きの涙なのかわからないよ。
置いてっちゃいけないものを置いてってるドジッ虎さんがいませんかね・・・。
10.90名前が無い程度の能力削除
最後の方までシリアスで通してたけど流石に無理があるw
これは100%紫が悪い、耐性無さ過ぎ、2人が深刻に悩んでたのも分からない
まあギャグなんでしょうけど噛み合ってなくて違和感凄かった
それを除けばゆかれいむ、ゆかまりは良かったです
14.100もんてまん削除
取り敢えず、思った事を一つ。
藍足はやっ! 紫起きてから数秒で駆け付けてるよこいつ!
これも、愛の為せる技か……。

文章のレベルも高くて、面白かったです。
17.100白銀狼削除
重い雰囲気だったのに…
ものすごく良い話だったのに…
怪我の原因で台無しだwwwwwww

橙かわいいよ橙
18.70名前が無い程度の能力削除
最期に突っ込みが入ると思ったのにそのまま流れた。
21.60名前が無い程度の能力削除
あ、ああ。
うーん、反応に困るな。
22.100名前が無い程度の能力削除
いい話でした。とてもいいお話でした。

でも怪我の原因がひどすぎるwww
24.60名前が無い程度の能力削除
うまくて素晴らしいSSでした。重いから読むのやめとこう、と思いつつ結局最後まで引っ張られてしまいました。
でもツッコミがないと気持ちの持って行き場がわからないよ!いや、それを狙ったんだろうけど!あくまで私はギャグ路線で締めてもらうと助かりました。
25.100名前が無い程度の能力削除
お見舞い品の中になんか落とし物が含まれてやしませんかね?
29.70名前が無い程度の能力削除
潔癖ってわけじゃないんだけど、どうも不謹慎だなぁと思わずにはいられなかった
32.90名前が無い程度の能力削除
序盤のドシリアスな流れの時点で、ことの原因はギャグだろうな。それが落ちなのかな。さて、どんな落ちかな……と待ち構えておりましたが、確かにギャグは待っていたが、まさかのそこは通過点。単なるギャグ落ちではなく、そこからの真剣な物語。アップダウンのある構成で良かったと感じました。まぁ、その高低差を良いと感じるか、悪いと感じるかの評価は別れそうですね。
33.90名前が無い程度の能力削除
GJ
39.100名前が無い程度の能力削除
実は本気出せば最後まで重いテーマで全部書けたけど、原因の部分もシリアスにするともっと長くなりそうだし今回メインで書きたいのはそこじゃないからいいや的な?そしたらもはや原因は伏せたままでも問題なかったかも…。 読みやすく細微な心情描写についつい引き込まれてしまいました。
41.100名前が無い程度の能力削除
橙の健気さに惚れました
いや、でも、紫様ったら・・・
47.100みなも削除
とても心温まるお話でした。

カーネーション赤の花言葉を調べて
傷心・愛を信じる・あなたを熱愛します・母への愛
「貴方を熱愛します」という所が出てきたのは、胸が一杯になりました。

この作品の中で温かさがたくさんあって、心満たされました。
48.100名前が無い程度の能力削除
最初の重い空気と中盤からの落差は流石。
続きが気になる!と本気で思う展開の作品でした。
49.50名前が無い程度の能力削除
シリアスで貫いてほしかったですね、ぼく的には何となくしらけてしまったので
51.80非現実世界に棲む者削除
とても良い話ですね。
ただ、幽々子様との会話シーンがなかったのが残念極まります。
幽々子様にとって紫は大切な友人なのですから、まっすぐに駆けつけるべきお方ですから。
本当に残念でしたが、心暖まるエピソードでした。
54.1003削除
コメディじゃねーか!!!! もしくはハートフル!!!!
くっそ完全にしてやられました。
読んでる途中まで「こいつはヘヴィな話だぜ……」とか思ってたのを返して下さい。まじで。