Coolier - 新生・東方創想話

風神太平記 第五話

2013/02/27 00:02:50
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『凶つ兆』



「これすべて、行幸の際の軍装に使われるのですか!?」

 絶え間なく運び込まれる武器兵器や甲冑の山を前にして、モレヤは無邪気な喚声を上げた。やはり彼もまた、弓馬を知ったという意味ではひとかどの少年なのだ。今は未だいくさに直接の関わりなき身とはいえ、戦いと、戦いに関わるものにまったく憧れを抱かないというわけにはいかない。誰が見てもそれがよく解るかのように、車のうえに山と積まれたつるぎや矛に眼を輝かせているのだった。

「八坂による政の始まりを、科野国中に知らしめるための総勢五百の軍装であるからな。兵らの装いひとつにしても、手は抜けぬのだ」

 城中への物資搬入の様子を、腕組みしながら自慢げに見渡す八坂神奈子。
 普段と変わらず傲然とした格好ではあったが、口ぶりと同時に目元には微笑をも湛えている。

 かたわらではしゃぐモレヤを制するかのようなその視線は、いよいよもって行うべき諸々の事業が、皆すべて足並みを揃え始めていることに対する安堵が滲んでいるようでもある。目一杯に開け放たれた門を経、諏訪の柵に運び込まれる真新しい武器の山。荷として台車に積み上げられたそれらを解き、所定の蔵にまで運び込んでいくのは兵や舎人たちの仕事だ。そして、あれこれと指図を下していくのは八坂神奈子の仕事。武具の様式も、飾りも、数も、搬入の日取りも、すべて彼女が考えた。鎧をかたちづくる鉄の板に打つ、鋲の数や、紐の細かな組み方までもだ。もちろん発注のために文書をしたためることも、祐筆の手を通さずに神奈子がぜんぶ自分でやった。搬入の際の細かな指示でさえそうだ。彼女が指し示した方向へと、出雲人たちの足取りは進んでいく。足跡ひとつ残すことさえも、すべて彼女の意の中であるかのようだった。

 数日来、多少なりとも忙しそうである神奈子の姿は、しかし、洩矢諏訪子にとってはごく小さな眠気を誘うものにさえなり得なかった。神々もまた退屈を感じることはあれど、むしろそれは毛色を異とする永い生の暇つぶしみたいなものである。しかし、やがてその退屈にすら倦んでくると、眠りに落ちて時間を浪費することさえも億劫になる。少なくとも今の諏訪子にやるべきことは何もない。科野行幸は八坂神奈子の悲願である。だからこそ、将兵が身につける武具の調達からして、全部と言って良いほど彼女が主導しなければならなかった。諏訪子にとっては元から入れるつもりもないくちばしだったが、いざとなってもその彼女がくちばしを入れることすらためらわれるほどの妙な執念と凝り性を、今日の神奈子は発揮していると思う。

 廊下と地面とを繋ぐ階(きざはし)に腰かけて、頬杖を突きながら城中への物資搬入をぼんやりと眺めているだけの、諏訪子。

 新しいつるぎに矛、よく磨かれた鏃(やじり)、傷ひとつない鎧……およそ五百の将兵が、それら新たな軍装を身にまとって科野諸州を経巡る(へめぐる)八坂神の行幸(みゆき)は、もう三日の向こうと迫っている。新政の始まりと神奈子の王権の威光を科野諸州にあまねく誇示するための儀式でもあるし、民衆の暮らしぶりや方々の土地の情勢を王自ら確かめるための視察の旅でもある。むろん、諏訪子とモレヤも同道が決まっていた。それを思えばこそ、神奈子がこの仕事に駆ける張り切り様も解る気がする。だから、除目から数日と空けることなく、こうして慌ただしく準備が行われているのだといえる。

 ……が、それでわが身の退屈が納得できても、何か重大な意味を見出すことができるわけではない。ここ数日、諏訪子のなかで大きな比重を占めるものは、神奈子の体面に関わる行幸事業ではなく、その神奈子からの『モレヤをわが養子に』という提案の方がもっぱらなのだ。

「あのふたりが、親子にか……」

 よもや、他の誰かに聞かれているのではあるまいか。
 何度も心中でくり返した言葉がついと口から出かかって、少々、慌て気味に周りに眼を遣った。――直ぐ近くを行き過ぎても、諏訪子の独語に気づく者などひとりも居ない。いちいち他愛もない独りごとにつき合っているほどには、今日の諸々は悠長ではないであろうからだ。

 だが何だか、ひどく耐えきれなくなる。
 膨張しきった袋を針でつつくと、穴の大小に関わりなく一挙に破裂してしまうように。
 つい言葉にしたかたちで口からまろび出てしまったのは、諏訪子のなかの何かが堪え切れないと悲鳴を上げている証でさえあるのかもしれないのだ。奇妙に懐かしい感覚ではあった。久しく忘れてはいたが、これは人質として諏訪の柵に留め置かれてから未だ日が浅かったころにはよくあった焦燥である。自分は、八坂神奈子の手のひらの上に置かれ続けているに過ぎないのではないか。

 いや、まさか。
 今になって、そんなこともあるものか。

 浮かび上がる疑念がただの幻であるのを確かめたいがためか、諏訪子は階を下りて神奈子とモレヤの方へ向かうことにする。眼のなかに入るふたりの姿は師弟のそれでありながら、確かに親と子の関わりとして考えても何の遜色もないような仲とも見えた。

 モレヤは無邪気に神奈子を奉じ、神奈子はモレヤの身を案じている。
 それが誰にとっても良いことであるのなら、諏訪子もまたふたつ返事でモレヤを神奈子の養子としよう。だが、根の部分の感情がいつまでもそれを拒絶していた。神奈子とモレヤが義理の親子となれば、ふたりがふたりともに自分の元から離れて行ってしまうのではないかと、そんな根拠のない不安がある。神奈子にはそれだけの力があるのではないかと、疑うだけの嫉妬もある。距離の隔てという以上のものが、諏訪子の足取りを鈍らせていた。

 諏訪の天候は今朝方から気難しく、曇り空から吹き下ろす風は旋風(つむじ)を巻いて城内の砂や土埃をさらっていく。とっさに着物の袖で口元を覆った諏訪子は砂一粒も吸い込まずに済んだようであったが、物資の搬入を続ける兵たちのなかには、咳き込む者も数名ほど見られる。

「稗田阿仁(ひえだのあひと)。荷は、あとどのくらいある」

 神奈子にもモレヤにも、いきなり声を掛けるのは相変わらずはばかられて仕方がなかった。ならばかたちだけでも、仕事に参加する“ふり”を今はした方が良いのだとも思う。辺りに眼を転ずれば、竹簡――新調された軍装品の目録だが――を、あらためている祐筆が居た。阿仁と呼ばれた彼は、尋ねられた事柄を答えるよりも早く「その名で呼ばれるは、未だ少しむず痒きものがございまする」とはにかんだ様子である。なおも巻きあがる土埃を思いきり吸い込んでしまった彼は、腹のうちから何か吐き出さんばかりにひときわ烈しく咳き込んでから、「これはご無礼を……」と頭を下げた。

「何を言うておる、稗田舎人阿仁(ひえだのとねりあひと)。そなたは別に儒者ではないが多年の奉公に報いる意味で、八坂は除目の席にて“阿仁”の名を与えたのだ。そういう賜り物は、おとなしう受け取っておくが良い」

 諏訪子の声が聞こえたことに気づきながらも、神奈子は先に稗田の方へと向き直る。称揚ともからかいともつかない言葉を稗田に送る神奈子に、稗田の応えよりも早く苦笑したのはなぜか諏訪子の方だった。モレヤは、ただ無言に諏訪子へ辞儀を向けるだけだ。

「良き名ではないか。諏訪の神に“諏訪子”という適当な名前をつけたお方の命名にしては。稗田、其許(そこ)の出はどの辺りだったか」
「は。大陸から倭国に渡って来た父祖が移り住み、当地の人々と交わったのが勢州(せいしゅう。伊勢国。現在の三重県)であると聞き及んでおりまするが、それがしは、和州(わしゅう。大和国。現在の奈良県)は添上郡(そふのかみのこおり)、稗田村の出。要は分家も分家にて」
「その分家の男子が、王の直々に名を賜ったのではないか」
「むろん、それがしには身に過ぐる誉れであると思うておりまする。思えば、“稗田は昔から女の力が強き家”。男はおまけのごときもの。そこにおいてわが身は、特にものを覚えることに秀でているという一事にのみおいて、八坂神よりのお引き立てを得て参りました。そのような男が、何ぞ新たな名を賜りしを喜ばざることありましょうや」
「だからであろ。名づけの上手くないお方に賜った名といえ、稗田、其許の郷里にとっても家にとっても、“阿仁”の名は言祝ぎ(ことほぎ)に値しこそすれ恥ずるものではないと思うぞ。……それに。諏訪子、諏訪子と呼ばれ続けて、下手な名でもいずれ慣れてしまった奴(の)が其許の眼の前には居るではないか」

 神奈子への不安みたいなものを努めて覆い隠しながら、諏訪子は笑う。ただひとり、事情が飲み込めぬモレヤだけは眼を白黒させていた。名づけが下手とはっきり言われてしまった神奈子は、溜め息まじりにうつむきながらも、それが諏訪子なりの冗談だと解したらしい。相変わらず竹簡を掌中とする稗田に、「まあ良いわ。で、荷はあとどれくらいという話であったな」と早口に言った。

三人にちらと目礼を返し、稗田の応え。

「土蜘蛛衆に命じて調達させた分は……鉄剣百二十、完了。矛が二百五十四、完了。鏃が八百五十、完了。後は物具が六十ばかりにございまするな」

 ふうむ、と、鼻の頭を掻いて思案をしたのは諏訪子だった。

「稗田の目録にある通りのものは、今日中に運び入れる予定だと聞いておりましたが……間に合うのでございましょうか」
「間に合わすつもりで土蜘蛛衆には声を掛けた。なに、あれらにとっても利と益が絡みさえすれば、できぬ仕事ではあるまいよ」

 腕組みを崩し、神奈子は顎をひと撫でした。
 普段通りに余裕綽々といったところか、息遣いも深々と落ち着いている。が、その眼がわずかばかりも泳ぎ始めているのを見逃すような諏訪子でもなかった。やはり、物資の搬入は少し遅れ気味であるらしい。爪先を整えるようにして土を蹴りながら「どうせ行幸の時が巡ってくるまで、諏訪子も暇を持て余しているのです。もしよければ、人を遣って催促する手伝いでも、」と言いかけたときだった。

 所在なさげに物資搬入の様子を眺めていたモレヤが、急に驚いた様子で視線を巡らす。「どうした」。怪訝に声を向けた諏訪子に、「たくさんの人が近づいてくる気配がいたします。出雲人とも諏訪人とも違う、たくさんの人が」と、彼は妻の顔を振り返ることもなく答えた。少年の眼は、城門のある方向へと一心に注がれているのだった。


――――――


 城中の蔵にまで武器を運搬するのは出雲人の兵と舎人の仕事だったが、台車に積まれた肝心の荷を引き、門を越える者たちは城の外の人々だった。

 所定の位置まで運び込まれた荷が出雲人たちにまで引き継がれ、あらためて蔵まで運ばれるのだ。いま諏訪に居る出雲人は概ねいくさに関わりある者たちだから、装いも一軍のそれとしてあるていど統一を見ている。けれど、荷を運びこむ城外の者たちはみなそれぞれに思い思いの格好をし、何らの統一も為されている様子がなかった。鹿や熊の皮を繋ぎ合わせたものを着て頬一面に不精髭を生やし、いかにも山出しの狩人といった風貌の者も居れば、男というのに着物は女物、髪の結い方もまるっきり女のそれで、顔に白粉、唇には紅まで引いた女装者も居る。白い頭巾で顔を隠している数名の男は、裾や袖先の擦り切れた柿色の衣のあいだから強固な鉄の甲冑を覗かせており、日の光を鈍く黒々と反射する様は、まるで鎧と肉体が融けてひとつになっているみたいである。輸送の一団に護衛役としてつき従っているらしい大男たちは、矛を担がぬばかりか弓矢もつるぎも身につけず、先端にでこぼこの鉄塊を備えた棍棒でのみ武装をしていた。

 ひと言でいえば、誰を見ても不揃いな『彼ら』の姿は異常であり、そして郷里こそ違えど平地民という出自そのものは同一である諏訪人と出雲人、その双方の眼に明らかな異形の集団として映っていたに違いない。

 声も発さず、息遣いさえ錆びた針の先で突くほども感じさせず、彼らはただ粛々と、己が身を育んだ山野に対する敬意だけを身にまとうことをしながら、進み続けてきたのだろうか。彼らの能くする沈黙の前では、馬のごく短いいななきでさえも、格別の騒擾(そうじょう)に転じてしまう余地があった。異装の集団である彼らが、唯一、同じものを身につけているとすれば、確かに、その粛然たる様が在るのみ。

「何だァ、あいつら……諏訪の妖怪が、もしかして昼間っからさまよい出てきたのか」
「違うぞ、あれは。あいつらは、人間だろう」

 兵は、みなそうやって脅威と驚異のない交ぜになった声を交わす。

「何とまあ、下品な装いよ。かの者どもは八坂神の王権に屈しながら、未だ王化(おうか)にも出雲人の風にも染まぬ、紛れもなき化外(けがい)の民。己らの化け物のごとき姿を、むしろ誇るかのごとく歩いておる」
「斯様な蛮族が、当たり前のように城に出入りするようになってしまうとはのう。あれ、見よ。あの頭巾で顔を隠した兵の目元。目蓋が溶け崩れ、黒目までも白く濁っておるやにも見受けられる。よもや癩(らい)を病んだ者ではないのか」
「怖ろしや! いかに東国平定の大事業に連中のつくる鉄が必要とはいえ、何も直接に誼(よしみ)を結ぶ必要もあるまいに……」

 高官たちは、みなそうやって蔑視の情を剥き出しにする。

 それ自体が八坂神を祀る場でもある諏訪の柵という城は、“穢れ”とされたものを寄せつけないための浄域でもある。神と、神を信奉する人々を護るための装置だ。そこにいかなる蛮族が踏み込むとはいえ、未だしも彼らを、属する世界観こそ違えど同じ人間として考えるだけの余地はあった。だが、城のなかの多くの人々が『彼ら』に向ける意識は、蛮族を相手にしたものとは明らかに異なっているのである。

 誰かが「忌み嫌われた妖怪……」と呟いた。たとえ相手が人のかたちをしていても、そういうことを平気で口走る者たちの意識のなかにおいて、すでに『彼ら』の存在は分かちがたく怖れと、そして何より蔑みに結びついてしまっている。世に『土蜘蛛』と呼び習わされる、あらゆる権威と束縛に従うことのない、王化を拒む山野の民が。

「ふふン。口では好き勝手なことを言いながら、土蜘蛛の技だけは何としても欲しいと見えるね。……ま、良いさ。そのおかげで、こっちァ、大儲けってところなんだ」

 依然として無言を貫く土蜘蛛たちのなかから、にわかな人声であった。何も語らぬ者も陰口を囁き合う者たちも、声に気づいた人々はみな一斉に振り返る。蔑む者には同じだけの嘲笑を。そんな意を誇るみたいな高い声が、彼らの注意を否応なしに引きつけた。聞けば、疑いようもなく女の声である。涼やかではあるが、灰の舞うを介したごとき掠れた様も、幾らかは混じっているだろう響き。

 その源は土蜘蛛の人足たちが引く、他ならぬ一台の荷車の上であった。
武具がひときわ高々と積み上げられ、それを固定するために幌(ほろ)が掛けられている。巨人のための椅子みたいになったその山のいちばん上に、ひとりの女が腰掛けていた。

「王化に染まぬ化外の者の分際で、われら出雲人をはるか高きより見下ろすは何者ぞ! 早急に車から降り、名を名乗れ!」

 立ち働いていた官吏のひとりが、女に向けて問いかける。
だが彼女は要求に従わなかった。「嫌なこった! 世の中のぜんぶが出雲人に従ってやる道理がどこにある! そんなにアタシの名が知りたいんなら、よくよくこっちを見上げてることだ!」。そして、ひときわ声を高めて叫んだのである。

「アタシは山女(ヤマメ)だ! 土蜘蛛衆が棟梁、黒谷山女(くろだにのヤマメ)! 八坂の神さんからの最後の頼まれもの、きっちりと届けに来てやった!」

 その音声(おんじょう)に耳をそばだてることをし、そして次には数十の視線が、よりいっそう黒谷山女へと注がれた。将兵はただ呆気に取られ、高官たちは狼狽し、眼を白黒させている。

 その瞬間、意地悪げに山女の顔がにいと笑んだことを、地上に居る者たちのうちでいちばん早く気づいたのは、おそらく諏訪子であったろう。出雲人たちが向ける蔑みと等価と言えるだけの嘲りを、山女の笑みは確かに持ち得ていたのだと思う。だが、そこに被差別者が抱えるいら立ちや屈辱はない。自らの属する集団への純真なまでの誇りが、彼女の笑みをそんなものに昇華させているのかもしれない。

 満を辞して客の前に姿を現す役者のごとく、威風堂々たる様子さえ感じさせながら、山女はすッくと立ち上がる。

 そして軽々と武具の山から身を跳ばすと、まるで鹿が自在に山肌を駆け回るように、瞬く間に地上まで下りてきたのである。彼女が乗っていた台車は、未だ人足たちに引っ張られていたために進むことを止めていない。そのうえ数十人分の武具を満載した小山の“頂上”から飛び降りるなど、身のこなしの軽さがなければ足場を踏み外してしまうほどに危険なはずである。だというのに、山女はそれを意にも介している様子がなかった。そればかりか棟梁である彼女が台車から下りてから、ようやく台車の方が進むのを止めたくらいだ。

 とッ、とッ、……と、勢いづいた足取りを地上に踊らせながら、それでも転んでしまう気配すらない山女。自分を取り巻く城中の人々の顔々を順繰りに眺める彼女の顔は、疑いようもなく値踏みをするそれなのだ。飢えた犬にも似てふんふんと鳴らされる鼻先は、山のなかや蹈鞴(たたら)の場とは違う空気のにおいを諏訪の柵に感じているせいであろうか。それとも山の民の嗅覚は、相対した人の値打ちを見定めることにも聡いのであろうか。いずれにせよ城中の人々の、呆気に取られてポカンとした顔を見、土蜘蛛たちは失笑を漏らし、かすかながらも初めて声を上げた。

 薄まる笑いを背に負いながら、誰に対しても、黒谷山女は怪訝な表情を崩さない。
 ただひとり、洩矢諏訪子を除いては。

「そっちに居るのが、……洩矢諏訪子さんだね」
「儂のことを知っているのか」
「稲穂の群れによく似た、ぴかぴかしたにおいがするんだ、アンタのその黄金色の髪からはね。諏訪の国に昔ッから棲みついてる神さんなんだろう。だったら、諏訪の神さんに諏訪のにおいがするのは道理だ」

 鼻に染みついた“諏訪子のにおい”を消し去ろうと試みるかのように、山女は手のひらで鼻を拭った。だが不思議と、諏訪子の方で不快の情はない。山女の仕草が、幼い子供がふとした拍子に、自分の鼻先をあれこれと触ってみるところに似ているせいだと思った。穢いものを忌むよりも、また新たなものを知るための行為とも思える。そして、そうする黒谷山女の破顔は朗らかであった。

「解ったような、解らぬような。麓のにおいは、やはり山のなかとは違うものか」
「“におい”……ってのは、ものの喩えだよ。要は、女の勘ってやつ」

 山女が辺りを見回すと、彼女の頭の後ろでは、束ねられた金色の髪もまたよく踊る。

 黒谷山女の容姿は、どこか人離れしたものを持っている。
 髪の毛が金色であることは諏訪子とてもそうだったが、諏訪子の髪が秋の田に垂れる稲穂の色だとするのなら、後ろ頭で団子をつくるようにして結い上げられた山女の髪の金色は、後から色の抜け落ちた薄暗い金色である。白い肌はその皮一枚の下にどうしようもなくどす黒い毒があるのを感じさせ、そのせいで山女は決して痩せすぎてはいないのに、実際以上にやつれて見える。長く山々を歩き、洞(ほら)を穿って鉄をつくる暮らしをしているせいであろうか。未だ三十年を生きるか生きぬかといった顔つきを山女はしているのだったけれど、大人というには背丈が低い。諏訪子より、指の一本分も上回っていれば良い方か。

 そして、その歳をごまかそうとするかのごとく、着物は幾重もの色を襲ね(かさね)られていた。浅葱(あさぎ)、梔子(くちなし)、紅梅(こうばい)、檜皮(ひわだ)、紫苑(しおん)、青丹(あおに)……。色の調和などまるで考えられている様子のないめちゃくちゃな組み合わせは、見る者の眼を撹乱し、黒谷山女がいったい幾つの歳月を生きているのか、よく解らなくさせてしまうのだった。

 畢竟(ひっきょう)、黒谷山女の外見(そとみ)なるものは、まさに異形の集団たる土蜘蛛を率いるのにちょうど良い。いつの間にか、そう思わされている諏訪子が居る。

「土蜘蛛の長は稀に見る烈女なるかな。では、この我にはいかなるにおいするものか」

 そう言って、最初に山女に近づいた出雲人は、他ならぬ八坂神奈子である。
 おおかたの出雲人が、みな土蜘蛛たちの装いを不気味がって近づかないなか、さすがに神奈子は剛胆だった。声も足も震えておらず、蛮夷の穢れを改めて怖れる様子もない。諏訪子ばかりが山女から興味を示されることがよほどに悔しかったか、ずいと諏訪子の前を塞ぐみたいにして山女の前に進み出る。まるで「ここの主は私だ!」とでも言いたげだ。

「ん、アンタは」
「此度、そなたたち土蜘蛛に武器をつくるよう依頼をした者だ。諏訪の柵が主、八坂の神」
「ああ……アンタが八坂の神さんか」

 唇を歪め、山女はにィと笑う。
 威嚇を連想させる不気味な色を持つ笑みだったが、反面、明瞭な敵意は感じられない。

「色んな土地の、土のにおいがアンタからはする。諏訪だけじゃない。出雲や、倭(やまと)、その途中の色んな国々のね。あっちこっちでいくさを仕掛けてきたんだろう、血と鉄のにおいだって」
「さても山野を馳せ巡り、決まった家持たぬ土蜘蛛たちの鼻の良さよ。土地ごとの色やにおいも、よう見知っているのであろう」
「ふン。アンタたち出雲人みたいに自分の住む“家”をどこまでも広げて、同じにおいで諸国を満たそうっていう連中とは違うんでね。たどり着いた場所が、土蜘蛛にとってはその時ごとの家なのさ」

 そう言うと、山女は得意気に胸を反らす。
 ますますもって、子供じみた無邪気な態度だった。だがその言葉尻からは、彼女が『土蜘蛛』たる己に何よりも誇りを抱いている様が読み取れる。技は売れども魂は売らず。黒谷山女と彼女に率いられた土蜘蛛たちもまた、ただ蛮夷と蔑まれるのみの者ではない。諏訪子には、そう思えた。

「だが、今はこの諏訪を家とするのであろう? 八坂さまの求めに応じて鉄を産し、武器をつくるといううえは」
「まあ、ねえ。儲けが見込めるうちは。だから、アタシらはあくまで出雲人に従ってるって体(てい)で商いをするというだけだ。何せ腹を空かした犬は、まともに働けやしない。……そうそう、払いの方は米で頼むよ。冬は諏訪(こっち)で過ごす気だからね」

 何が面白いのかけらけらと笑う山女を見ながら、今度は神奈子が言った。

「犬にも、諸々ある。土蜘蛛が八坂の飼い犬として王化に染むことをすれば、そなたたちの暮らしも良くなろうものを」
「それだけは、まっぴら御免だよ。八坂さんにばかり飼われるってことは、政を喰わされてぶくぶくと肥え太らされるってことだろう。それよりも、アタシたちは野良犬として生きる方が良い。飼い犬のふりができる、器用な野良犬としてね」

 自らを犬と称しつつ、諏訪子と神奈子を順繰りに見回し、山女は片方の眉を吊り上げた。

 ここに来て、いささか自分を卑下しすぎ――というわけでもないのだろう。つまりは、うまく繋ぎ止めねば縄を引きちぎって逃げ出すぞ、という遠回しな脅しである。それでも、諸所方々の豪族たちよりは、幾分、安全な存在ではなかっただろうか。笑裏蔵刀(しょうりぞうとう)、面従腹背。諏訪はじめ科野諸州の豪族たちは、今は時局に従って八坂政権に恭順を誓う素振りを見せてはいるが、それはあくまで恭順という選択肢がもっとも自分に害が少ないと判断してのことであろう。元より、政のためには王や神の首をすげ替えることも決してはばからぬ者たちだ。そんな連中に比べれば、自らの自由と儲けを第一とし、生ぐさい権力闘争をするよりはその国を躊躇なく離れことを選ぶという土蜘蛛たちの方が、諏訪子と神奈子にとってははるかに信用に足る相手かもしれなかった。

「で、だ。御託はもう良いだろうよ。頼まれものは、あの車に積んである武具で最後。しっかりと検めといてくれよ」
「解っておる。土蜘蛛の仕事ぶりも、その優れたることもな」
「まったくね。アンタがいくさン時に錆びさせたっていう百姓連中の農具をつくるのまで、アタシたち土蜘蛛にお鉢が回ってきてるんだ。儲けが増し増しになるのは良いけど、人使いが荒いってものさ」

 眼の端で土蜘蛛たちの運んできた荷を見、それから神奈子は兵らに顎でそれを示した。化外にして異形。出雲人たちはそんな土蜘蛛たちに対して及び腰ながらも、命ぜられたままに台車に掛かり、幌を解き荷物を運び出していく。錆止めの黒色は鉄の武具へと、実際以上の屈強さをもたらしているかのように、重々しく染みついていた。物資の受け渡しは、むろん、何の妨害も障害もなく円滑に進む。土蜘蛛たちが突然襲い掛かってくるということも、彼らが発した瘴気に出雲人が中(あ)てられるということもない。出雲人が抱く蔑みや怖れの念のことごとくが単なる思い過ごしであると、示しているかのようにであった。

 城の蔵に運び込まれる武具と引き換えに、食物庫からは幾つかの俵が運ばれてくる。今回の仕事に対する、八坂神奈子からの土蜘蛛たちへの報酬だ。およそ三、四俵と半分ほどはあっただろうか。今度は土蜘蛛たちが出雲人からそれを受け取り、器用に台車へと積み込んでいった。米を運び出す作業が列をつくることはなかったが、その次にやって来たものには、ごく短い列ができあがる。また別の蔵から持ち出されてきた翡翠の玉が数十個や、絹布(けんぷ)が数疋(すうひき)。台車の上に俵を縄で結わえた土蜘蛛たちは、しかし、それらの品々を眼に入れると途端に怪訝な顔をつくった。

「……んん。儲けはたったこれだけか。それに何だ、その翡翠や絹は」
「此度の報酬は、米に加えて玉石や絹とした」

 平然と言い放つ神奈子。
 が、山女は今までの陽気さが嘘だったかのように眉を吊り上げ「ふざけんじゃないよ!」といら立ち始める。爪先を地面にこすりつけ、地団太めいた行為を見せるところもまた、どこか子供らしい色がある。

「払いは米でって、そう言ったばっかりだったろうが! それが、翡翠や何だって足下見やがって。アタシらに、たったこれだけで冬まで過ごせってえのか!」

 期待していただけのものが得られず、契約を反故にされたと感じたのであろう、山女はずんずんと神奈子の元まで歩み寄り、きッ! と相手の顔をにらみつける。彼女の赤い眼はその容姿のひとつとして、やはり人離れした輝きを持っている。そして山女のあまりの剣幕に、さすがの八坂神奈子も半歩ほど後ずさったのを諏訪子はふと見つけてしまった。珍しいものだと思う。あの方がああやって他人に押されるところを見るのは、たぶん初めてだと。

「……そう怒るな。山にも事情があるように、麓にも事情はある。方々の土地で今年の刈り入れが未だ済んでおらぬゆえ、払いへ回せるだけの米は今はそれで一杯なのだ。だから不足分は、翡翠の玉や絹布で許して欲しい」
「翡翠や絹で腹が膨れるかい」
「ただ押しつけるわけではない。土蜘蛛は鉄つくりや狩りと同じほど、旅のなかで行商をも生業とする者たちと聞いた。手元に置いておく品物は多い方が、いずれ諏訪を離れるにせよ、麓の者たちと取引をするにせよ、話は通り易いであろう。どうだ」

 決死の弁明に追われる神奈子であった。
 彼女が嘘をついているわけではない。諏訪の秋も十月に入っていっそう深くなり、今年も稲の刈り入れを行う農繁期は直ぐそこまで差し迫っている。いかに八坂神とても、未だ刈り入れも徴税もしていない米を「はい、どうぞ」とばかりに払いに回すわけには当然、いかない。それは神通力の範疇にあらず、単なる横暴である。だから、報酬として土蜘蛛たちに支払うことのできるほど備蓄米の量は、必然的に少なくなってしまうのだった。

 だが、それ以上に。

「稗田、あの翡翠と絹布。確か豪族たちから八坂さまへの進物だったと思うのだが……」
「それがしも記憶にございまする。おおかた八坂さまも処置に困って、ちょうど良い相手が来たとばかりに払い下げたというところにございましょう」

 蔵を占領するばかりで使い道のない品物を、これ幸いと土蜘蛛への払いに利用している神奈子なのだった。ああでもしないと、せっかく手に入れた諸々の品々を死蔵させるだけであろうと諏訪子も思う。物持ちが良いというのは、いざというときに身を助けるらしい。

「ちッ、しょうがないねェ。……解ったよ。八坂の神さんは大口の客だ、縁を切るのも未だ惜しいしね。今回はこれで許してあげるよ」

 神奈子に説得され、渋々ながらも山女は納得したらしい。
 部下たちに命じて台車へ翡翠と絹布を積みこませると、金色の髪を掻き上げついでに、思いきり背伸びをして、言った。

「よし、今日の用事は終わりだ。忌み嫌われた妖怪は、さっさと巣穴に帰るとするよ」

 おおっ! と、屈強な土蜘蛛たちは一斉に応じた。
 先ほどまでの無口さからは想像もできぬほど、野太い声の連なりである。そしていざ帰るとなると、彼らに麓への執着はさほど存在しないらしかった。山には帰る家がある。それを何より証するかのようにくるりと背を向け、その場の誰もが知らぬ山の民の歌を口ずさみながら、黒谷山女たちは諏訪の柵を後にしようとする。

「これで必要な武具はすべて揃ったのでしょう、稗田どの」

 兵たちが武具を蔵に運び、その足取りが巻き起こす土埃に顔をしかめながら、モレヤが問うた。尋ねられた稗田はあらためて竹簡に眼を通しながら「ええ、確かに」と簡潔に答える。項目の一個ごとに指でたどって確かめ終えると、稗田は竹簡を畳んだ。過ぎ去った嵐の痕を見渡すかのように、彼の眼には安堵が滲んでいた。額には、一滴の汗まで奔っている。

「あれが、土蜘蛛。黒谷山女」

 呟く諏訪子のなかにも、稗田のそれとよく似た気持ちが宿っていた。
 数月前の夏、神奈子の王権が土蜘蛛たちの協力を引き出したときのことを思い出す。忌み嫌われた妖怪と呼ばれる山野の民の性情は、彼らより献上された氷室(ひむろ)のごとき冷たさとはほど遠い。むしろ、槌音をよく食みつくられる鉄のつるぎの熱さなのだ。麓の民にも、鍛冶を生業とする者たちは居る。諏訪の鉄は彼らがつくる。だけれど土蜘蛛の鉄は、尋常の鉄とは違う魔力みたいなものを持っているのではないかと――そんな空想にとらわれもする。

 土蜘蛛たちが行き去った後には、不思議と足跡はほとんど残されていなかった。
 まるで、尋常の世のなかからは乖離した不可思議の存在とでもいうみたいに。ただ、帰り支度を整えて山へと帰っていったその背だけが、確かに土蜘蛛という種族が居たことを証明しているかのように。

 彼らの痕跡を洗うかのように、生ぬるい風が一陣、吹いたか。
 土を踏んだその足跡もやはり旋風で消し飛ばされ、舞いあがった砂は人々のあいだを遠慮なしに駆け抜けて行った。やはり土埃を吸い込んだ稗田阿仁は直ぐには咳を止めることができず、しばらく身体を折り曲げて苦しむ態(てい)。

「不思議なことが……ございまするな。この烈風はかくのごとき荒々しき民どもに併せ、風までもが色を変えてしまったものか」

 未だ肩で息をする稗田をちらと振り返り、諏訪子はただ苦笑をした。


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