Coolier - 新生・東方創想話

風神太平記 第五話

2013/02/27 00:02:50
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「どこまで行かれるのですか諏訪子さま。明かりもなく、他にお供も連れず……」
「良いから、黙って手を引かれていよ」

 晩秋の諏訪にしては幾らかあたたかな晩だった。
 いや、酒が入ったために諏訪子ひとりの身体が火照っていて、あまり寒さを感じないのかもしれない。現に、宴のはじめに儀礼的にしか酒を飲まなかったモレヤは、ときおり空手で肩を抱くような仕草を見せる。

 あるいは諏訪子に寒さを感じさせぬさいわいは、人の肌の熱が彼女の手のひらを温めていたおかげでもあっただろうか。諏訪御所の奥に通じる廊下を、諏訪子は夫の手を引いて歩く。酒気を帯びているとも思われない、明瞭で明晰な足取りである。とはいえ、ここは諏訪子の『家』なのだ。勝手を知らぬ方がおかしい。

 しかし、モレヤにとってはそうではないはずだ。
 未だろくに間取りも解っていない諏訪の御所を連れ回されるということは、今日の宴の疲れもあろう九つの子供には、結構な重労働に近いものがある。それは――諏訪子もよく理解しているつもりだった。人の姿をして生きていくというのは、快楽もあれどことのほか疲れるものなのだ。遠くで神人たちの灯す篝火の明かりが方々を照らし、いま彼女たちがどこに居るのかを遠回しに教えてくれているようである。その明かりが諏訪子の眼をちかちかと刺激し、薄らとした眠気を喚起させていく。

 今宵、ようやくにしてお開きになった酒宴の空気の残滓すら、今ふたりの進む道を押し包む闇また闇には一片たりとも在りはしない。ひたすらの沈黙は厳粛さに似る。死のごとく濃い暗みだけが静謐へと変わっている。だというのに諏訪子の心は虚無ではなかった。むしろ、何か異様とも思える期待が彼女を突き動かす。すでに自分にあてがわれた部屋へ戻った、八坂神奈子の顔がちらついた。彼女が、トライコに侮辱されたモレヤを慰めんとした言葉の在りようもまた、はっきりと思い出されてくる。舌打ちを――諏訪子はしなかった。いら立ちは、彼女が抱える八坂神奈子への敗北に相違ない。代わりに、ぎゅうと夫の手を強く握った。

「しっかりとついて来ておるか、モレヤ」
「はい。諏訪子さまに手を引かれて、迷うはずがあるでしょうか」

 良い、子だ。
 モレヤが自分の手を力強く握り返してくれることを、諏訪子は心のどこかで望んでいたのかもしれない。しかし当ては外れた。少年は少女に手を引かれることで精一杯で、自分からその手に力を込めることを知らなかった。

「ざわついております」
「何が、」
「御所の夜が。ミシャグジさまの御心が、私たちふたりを見ておりまする」
「おお、それは……気づかなんだわ」

 わずかにモレヤの手が“こわばる”。
 白々しい嘘は、聡くもすでに見抜かれているのである。夜闇のさなかに蛇神たちが這いまわり、諏訪子とモレヤを遠巻きに眺めている。しゅうしゅうと、蛇の息する音は実体を持たない神霊のそれだ。身を潜めた彼らは幼い子供みたいなものである。“諏訪さま”の意が自分たち以外の誰かに向けられていることを、ひどく訝しんでいる気配があった。

「気に病むことはない」

 モレヤとミシャグジたちと。
 いったいどちらに語った言葉だったのかは、諏訪子にもきっと解らなかった。
 ただ、そのひとことで――ようやく、少年は少女の手を強く握り返した。

 ふたりが暗闇を踏み越え、長々とした廊下を抜けると、諏訪御所の奥の奥にはいよいよ人の気配はなくなった。魑魅魍魎や神霊の類まで、髪の毛の先に触れるほど小さなものさえ存在していない。今ここに居るのは、洩矢諏訪子とモレヤだけなのだ。延々続いた廊下の先がひとつの扉に突き当たるとき、そこが短い旅路の終わりだった。吹き放しの渡殿(わたどの)で拝殿を貫く回廊と結ばれたそこは、一種の『堂』だった。諏訪御所の建物全体の構成から見れば、広大な敷地の大半を占める拝殿こそが中心のようにも見受けられるはずである。けれどいざ実際に眼の前に立ってみると、やはり切妻の屋根を備えたこの『堂』は、常にある程度の人の気配が行き交う拝殿とは、一線を画した“ざわつき”を持っている。

「ミシャグジさま方のお声が、高くなっております」
「いかようにか」
「この“堂”の周りをあまねく取り巻き、――人の溜め息のごとき声を、しきりに」

 モレヤから、ごくりと唾を飲む音がした。
 諏訪子にもよく解る。ミシャグジたちも自らの夫も、通底しているのは聖所に対する本能的な忌避感であろう。極度に清潔なものは、汚穢(おわい)と同じほどに心を怯ませる。しかし忌避の感情が高まれば高まるだけ、それを乗り越えたがる欲求は次第に不可避の度を増していく。

 いつかモレヤの手が、諏訪子の手からするりと離れた。
そして誰の許しを得ることもなく、神人も神官も禰宜(ねぎ)の類も、誰ひとり居ない『堂』の扉にツと触れる。微笑み、諏訪子は夫の横顔を確かめた。木製の扉の表面に、綻びひとつもない様を綿密に見つけ出そうとするかのような、表情と手つきだ。「ここは……、」と彼が訊く。その問いがすべて発されるより早く、「わたしの、“家”だよ」と、諏訪子は答える。秋風を受けてかすかに軋む扉。その縁、枠をなぞることを新たにするモレヤを制するごとく、諏訪子は彼の手にまた己の手を重ねる。驚きに、その身は震えたようだった。「ここが、諏訪御所の本殿だ」。

「本殿。ということは、」
「そうだ。洩矢諏訪子の神としての本位はこの本殿のなかにある。拝殿よりも、もっとずっと小さなこの本殿のなかに。だから、この場所こそがわたしの家なのだよ。いちど、おまえにだけは見せねばならぬと思うていた」
「そのために、宴の後にモレヤをお連れになったのですか?」
「夫婦であろう。何もおかしなことはない」

 モレヤの手に自らの手を重ねたまま、諏訪子は本殿の扉を押し開いた。
 ちょうど、ふたりの力が同時に掛かったのだ。ぎいい、と、扉は音を立てて内側に開く。闇また闇が、本殿のなかにも絶えることなく広がり続けていた。躊躇するモレヤを尻目に、諏訪子は身を翻して夫を追い抜かしていく。ひと足早く本殿の暗さに沈む彼女の後ろ姿を、モレヤもまた追いかけた。闇のなかから諏訪子が彼を見ていると、軽くうなずいているのが解った。

「ここは、正真、わたしの場なのだ。ミシャグジたちも、ここにだけは立ち入れぬ。そういうことになっている」

 どうにか夜目が利いてきたか、モレヤは諏訪子のその言を合図に彼女の場所に気づき、過つことなく隣に立った。頭ひとつも、小さかったはずの少年だった。少なくとも一年前までは。それが今では幾らか背も伸び、互いに見上げ見下ろすことも、それほどの労とは言えなくなっている。暗闇をかき分けるみたいにして、諏訪子の足取りはきわめて緩慢だった。いま自分がどこに居るのかをモレヤの眼のなかに、刻々、焼きつけんという望みがあったのかもしれなかった。家と称せど本殿のなかには、種々の武器や生活の用具、調度も何も置かれていなかった。蔀や格子窓も備えられていない。昼夜を分かつことなく凝集されたこの闇だけが、本殿を守護する最大にして最後の防壁であると言えるかもしれない。

 そして、暗闇の底にくぼんだ穴を埋めるごとく、ただひとつばかり鎮座するものがある。壁際にぴたりと寄り添った四角い木箱は、おおよそ産まれて数月の赤ん坊といったほどの大きさであろうか。さして有意に装飾や紋様が施されているわけでもない、ごくごく簡素な、やはり木製の台座の上に備えつけられた“それ”は、開き戸のかたちに造られた蓋を麻の紐で結わえ、厳重に封印が為されているのである。
 
「神さまというものは……」

 と、モレヤが箱をまじまじと見つめながら呟いた。

「眼を凝らし耳かたむければ、山河木石(さんがぼくせき)の別を問わず、ありとあらゆる場所にお住まいであると、承っております」
「そうだな。そのように、人はよく言うておる」
「しかし、神々が人々に御自らの意をお伝えせんと欲されるとき、そこには“依代”が要る。神籬(ひもろぎ)、磐座(いわくら)といった諸々が。そしてそのお声を、お姿を、われわれ依巫(よりまし)がお伝えする」

 諏訪子は、深々とうなずいた。
 そうして一歩前に進み出、改めて夫を振り返る。何かに気づいたような顔を、モレヤはしていた。再び、彼はごくりと唾を飲み込んだ。「この諏訪という土地こそが、洩矢諏訪子さまの依り代と、そう思っていました」。少年の声は震えている。曖昧に笑って、諏訪子は箱の扉を封じる麻紐に指先を触れた。「確かに、そうだ。わたしは“諏訪さま”の名の通り、諏訪の地を依り代のひとつに生じた神」。

 固く“こぶ”をつくっていた結び目は、もう幾年も解かれていなかったのだろう、指先で触れてざらつきに気づくほど、ごみか埃のようなものが溜まっているのがよく解る。神人たちも、本殿の内側までは畏れ多さのあまり易々と整備に入ることはできなかったに違いない。けれどその汚れさえも、愛おしげに諏訪子は撫でた。自然と、口の端に笑みが漏れる。そうだ、“ここ”なのだ。“ここ”こそが、わたしの場所なのだからと。

 よく慣れた手つきで、諏訪子は麻紐の結び目を解いていく。
 そしてモレヤを振り返らず、彼女は夫の言葉に答えることをした。

「だが、神などはしょせん、人がそれを用いると決めたときにこそ強き力発する者に過ぎぬ。神が人を御しているのではない。人が、自らの心を御するために神をつくったのだ。山野のいななきに、大河のうねりに、畏れ抱かぬ者はない。人が畏れれば畏れるほど、其はいつか神霊となる。古き神霊はまるで獣だ。獣を御するためには、首に縄が必要になる。狼を飼い慣らし、いずれは犬へと化さしめるごとく、『縄』は人の言葉だ、人の意なのだ」

 モレヤは、何か言いたがっているようである。
 自らを卑下するごとき諏訪子の口ぶりに、それは違うと返したいのだろうか。その推測の是非を云々することもなく、諏訪子は間髪入れずに続けた。

「諏訪子はな、モレヤ。諏訪に人がその身を置いたときから、人のための神でしかなかった。古き獣たる神霊たちを御するために、縄の一方を神霊たちの首に繋ぎ、もう一方を人々に握られた神にして王」

 箱を封じていた、紐が解ける。

 紐は力なく垂れ下がり、いつ蓋が開けられてもまったくおかしくない状態になっていた。諏訪子は、再び夫の手を取った。抵抗することもなく、モレヤは諏訪子に導かれる。箱の正面に立った彼は、諏訪子の声をかたわらにしながら箱の蓋へと指先を触れた。そこまで、ためらう様子は見られなかった。だが、あえて蓋を開けようと決める気配もない。彼も未だ、迷っているのだ。

「人々の思いは決して朽ちぬ。老いても、朽ちぬ。人が神を畏れるだけ、自らの心――すなわち神を御するための神が要るからだ。石の刃が青銅の刃に、青銅の刃が鉄の刃に変わっても、物を断ち切らんとするところは変わらぬ。神とても、その望まれしは同じこと。人の望みを神の御業とし、自らの意に沿うべきものへと捧げ奉ってきた。土着の神の頂点に立つのは、常にその時々の人の意志だ。幾代か、この諏訪の地に入れ替わり住まうことしてきた人々の志すもの。自ら求むるところのかたちなき神が、古き神霊を御し得ること。言葉が、唄が、祈りが違えど、ゆえに諏訪子は、人の化身である。人の化身でしかない」

 恐る恐るか、モレヤはついに蓋にかけた指へと力を込めた。
 音もなく、神体の納まるものにしてはずいぶん軽々と蓋は開く。本殿を貫く暗闇の、さらにいっとう押し隠された暗闇の中心を、諏訪子とモレヤは目の当たりにした。

「見よ、モレヤ。これなるわが神体を」

 千余のつるぎと、そこに塗り込められた血のようなにおい。
 あたかもそれは、この諏訪の地にくり返されてきた数多の闘争の記憶と歴史とを、ひとつの箱のなかに封じ込めていたごとく思わせる。朽ちかけた錆の香は、しかし、虚無にさえ沈んでいきそうな夜のなかにあっては、ただひとつだけ生命の存在を思い出させかねない皮肉を孕んでいる。

「これは……、この鉄でできた小さな輪が、」
「そうだ。永代に自らの尾を食む蛇。これこそが“わたし”なのだ。人々の終わりなき願いと望みの器だ。――“洩矢の鉄の輪”と、今は称すべきか」

 一瞬、モレヤは後ずさる。
 本殿に納められた御神体というから、何かもっと仰々しい神器や祭器を連想していたのかもしれない。とすれば、それはいささか拍子抜けでもある。だが諏訪子は何も咎めようとしなかった。得てして、信仰の正体とはそういうものである。魔であれ聖であれ、人の心のなかで膨れあがった存在は、小石一個にさえも必要以上に大きく投影され、正邪の価値を発揮してしまう。未だ、諏訪に製鉄の技術が流入してより日の浅かったころ、職人たちはその稚拙な鍛冶の腕を振るい、武器をつくり農具をつくった。新たな技術に慣れぬながらも、人々はあるひとつの鉄の祭器をつくり上げ、諏訪の神なるものの依代と決めた。依代はその聖性ゆえに秘されてゆき、やがて小さく素朴な信仰は、人の言葉によって天地のあいだを仲介する姿ある神を産み出したのだ。

 鱗も、眼も、牙も、舌も、上手く彫り込まれているとは言いがたい――かろうじて口が尾の先を咥え込み、一個の輪を形成しているのが解る程度の鉄製の蛇を見るにつけ、諏訪子は自らの来歴を思い出さずにはいられない。もう幾百年、誰にも明かしてはこなかったことである。利益(りやく)と祟りの調和をもって、王として君臨さえしていれば、誰も彼女のことを疑う意味はなかったのだから。きっと、――鉄が産まれるより以前の『諏訪子』もこうだったのだろうと彼女は確信している。諏訪という土地柄は、それこそ人々の生活の基盤が狩猟採集を中心していた時代より、黒曜石の産地として繁栄していた場所とされる。石器であれ青銅であれ、そして鉄であれ、人は自らの技術と思想が天地自然を御することを期待して、同じように祭器をつくり、初代の諏訪子を、その次の諏訪子を、その次の次の諏訪子を……幾代にも渡って育て上げてきたのだ。

 人の願いという揺籃のなかで、人の望みという幾万もの父母の声を、諏訪子は耳聡く聞き取ってきた。そうしなければならなかった。そうしなければ――彼女は神には成り得ない。人のための神には、決して。

 大人の握り拳ほどの大きさをした、鉄製の蛇の輪を前に、モレヤはしばし沈黙し続けていた。彼には、何かが見えているのかもしれない。諏訪子にはもう見えることのない、過去の何かが。

「畏れているか、諏訪子を」

 モレヤは、首を横に振った。

「では幻滅したか。神の本体が、このような薄汚れ錆びかけた鉄の輪であって」

 また、モレヤは首を横に振る。
 呆れたごとく、諏訪子は言った。

「諏訪子がな。今こうして肉の身体を得ておるは、人がそう望んだからよ。人が望まねば、モレヤの妻となることもなかった」
「しかし、私を夫とするとお決めなされたのは諏訪子さまです」
「そうだ。だが、その意すらも他人(ひと)に動かされていると、時おり怖ろしうもなる」

 そのときだった。
 鉄の輪に眼を釘づけにされたままになっていたモレヤの手を――、諏訪子は唐突に引っ張った。突然のことにモレヤは体勢を崩し、勢いのままに諏訪子の元へと倒れ込む。少年の息遣いが着物に触れ、代わりに諏訪子の拍動の音が少年へと伝わっていく。尋常の人のものと何も変わりがない、心の臓の生きる音が。

「諏訪子、さま、これは」

 モレヤは、急ぎ諏訪子の元から離れようとする。
 嫌がって、ではなかった。諏訪子のせいとはいえ、相手に倒れ込む非礼を一刻も早く雪ぎたいという一念からであろう。だがもう一方の手を回し、諏訪子は夫の小さな身体を自らのうちへと抱き留める。少年の抵抗は直ぐに消えた。代わりに浮かび上がってきた微小な悔恨をどうにか抑え込みながら、諏訪子は、なお強く夫の手を握り締める。

「モレヤ。わが手を握れ」
「握っておりまする。先ほどから」
「わが身体に触れよ」
「それも、また」
「では、誓うて欲しい。洩矢諏訪子は幾万の人々に望まれてではなく、ただおまえひとりが望んだからこそ、ここに居るのだと。だからこうして、わが祖たる鉄の輪を明かしたのだと」

 苦笑をしいしい、ようやく諏訪子は力を緩めた。
 洟を啜り上げるようなか細い息をしながら、モレヤは上目を遣ってくる。
 悔恨は、罪悪感に代わりつつあった。
 だが彼女はためらわない。ためらってはいけないのだと思った。
 モレヤの身体を少しだけ遠ざけ、彼の両肩に手を置いて語る。――――。

「おまえの熱が、諏訪子は欲しい。今ここにわたしが在るということが、単なる妄念の産物ではないということを、わたし自身に教えて欲しい」
「諏訪子さま、それは、」
「モレヤの隣に立つということが、おまえが望んだことであるということを。おまえに望まれた諏訪子自身が望んだことであるということを、確かめたいのだ」

 ――――脳裏に、神奈子の姿がちらついた。
 舌の奥に謝罪の言葉がよぎる。友人にか、それとも夫にか。しょせん諏訪子は、己の存在が消え入らぬよう策しているだけなのかもしれないのだから。その怖れを、彼女はあえて恋と呼びたがっているだけなのかもしれなかった。憐れみが必要なのは、父母のない祝の少年ではない。自分なのだと、どこかで彼女も解っている。

 再び、諏訪子はモレヤの手を取る。
 そして幾たりかの逡巡の後、自らの着物の襟元をにわかに押し広げ、その隙間に少年の手を導いた。滑り込んだ手は、子供らしい熱を持っている。酒の熱も失せ冷たく冷え切った諏訪子の肌には、それは焼け火箸を肌身に突き刺す痛みのようにも感ぜられる。着物のうちでモレヤの手は、決して諏訪子の乳房を這い回りはしなかった。しかし、あえて離れたがるようなこともない。怖々と、胸の膨らみがそこにあるということだけ、確かめているようであった。

「諏訪子さま、これは……。斯様なことは、幼子が母にすべきこと、か、と……」
「諏訪子は人の化身に過ぎぬと言うたであろう。これが“わたし”だ。“わたし自身”なのだ。肉も骨もある。肌の温かみも感ずる。そして、」

 他人を妬く思いも、また。……!

 諏訪子が最後まで言い終らなかったのは、自分を見つめるモレヤの眼が、涙を流すこともなく無様に濡れ光っていたからだ。それに彼の股座もまた、生の証からの逃れがたさそのものであるように、ひどく膨れ上がっている。済まぬ、と、諏訪子は言った。許せ、とは、決して言わなかった。また、彼女は夫を抱き留める。空手の方を伸ばし、モレヤの股に触れた。う、という呻きは、快楽よりもむしろ苦痛のそれである。今度こそ確かに泣いていた彼は、諏訪子の衣に頭を埋める。涙の跡がそこに這う。
 
「おまえが母と思うなら母で良い。姉と感ずるのなら姉でも良い。だがわたしは、諏訪子としてモレヤのそばに居たい」

 モレヤの息は荒くなり、泣き声は少しずつ高まりの度を増していく。
 苦痛が少しずつ快楽に変換されていくに連れ、しかし、少年のなかにはこみ上げる恐怖と闘う色が強くなっていく。諏訪子も、いつか涙を流していた。自分の乳房に触れさせていた夫の手を導き、唇から頬、頬から目尻に触れさせる。夫は、もうそろそろ限界が近づいているらしかった。飢えた魚のように唇を震わせ、言葉にならぬ小さな声ばかり発している。

「他の誰かのもとになど、行ってはくれるな」

 瞬間、……。
 着物の裾を踵が踏んで、ふたりはどたりと倒れ込む。
 いよいよ大きく露わになった諏訪子の乳房に頬を触れながら、モレヤはかすかにうなずいた。彼の着物の帯を解かんと、試みる諏訪子の手は震えていた。今、ふたりのあいだを繋いでいるものは、快楽よりも畏れであるのかもしれない。夜は黒々と染まっていく。息遣いだけが、鮮明さを研ぎ澄ましていく。

その夜の別れまで、諏訪子とモレヤは、もう声も上げなかった。


――――――


 忍ぶ足取りで廊下を進んでいくと、途中には神奈子の宿所がある。

 あ、マズいな。
 と、諏訪子は眉根を寄せる。
 いつもの諏訪子なら何と焦ることもないはずだった。ただ神奈子を起こさぬよう、足音ひとつ立てずに進んでいけば良い話だ。けれど、今の彼女は違う。頭蓋の真裏を擦り上げるしつこい頭痛のように、快楽と苦痛の一緒くたになった、ほんの少し前までの記憶が洩矢諏訪子の意識を苛む。本殿のなかでのことは、むろん、鮮明に記憶に残っている。乱れた服を直し、モレヤを彼の宿所まで送ってやった。名残を惜しむかのような顔を少年はしていたが、きっと自分も同じであったのだろうと諏訪子は直ぐに思い当たった。

 じん、と、手のひらが熱い。
 いやそれは、今は熱というよりは痛みに近いものだったのかもしれなかった。
 自分の体温か、モレヤの体温か。己が肌身を責め苛むその痛みがある限り、神奈子の部屋の前を通ることさえご免こうむりたいものはある。だが、それでも諏訪子は友人の部屋の前を通りかかることをしてしまう。自分の部屋に通ずる、道なら他に幾らでもある。それでも――、いささか心中に焦りを覚えながらも、ほとんど無意識のうちにか、諏訪子は神奈子の部屋の前を横切ることになる道筋を辿っている。

 件の宿所が近づいてくるたび、諏訪子は足取りを緩慢なものに変えていった。
 裸足の爪先を廊下の板目に擦らせるごとく、可能な限り音を立てずに進んでいく。神奈子の部屋と廊下とを分かつ扉の前を通るときには、息さえ殺して歩みを進めた。その代わり、消し去った気配のすべてが集中してしまったみたいに、心の臓は鼓動を速めていった。鼓動のみが夜気を震わし、誰かに伝わってしまいそうなほど。

 とはいえ、諏訪子の心配は概ね杞憂に終わった。
 神奈子の部屋の前を無事に通り過ぎると、少しずつ足取りを元の自然なものに戻していく。大きくひとつ、溜め息を吐き、かいてもいない汗に額を拭う仕草をする。だが『概ね杞憂』というのは、諏訪子の心配が半分ばかりも的中してしまったからに他ならない。広い拝殿を進み行くと、やがて梅の林の植わった中庭に差し掛かり、廊下は拝殿に変わっていく。夜にはミシャグジの蛇神たちでさえ、眠りを求めて姿をくらまして、まっさらの沈黙だけが降りている。

 その場所を、八坂神奈子がじいと見つめていたのだ。
 眠気も何もかもどこかに置き忘れてしまったかのように、廊下に胡坐(あぐら)をかき、背筋をピンと伸ばして。これから矢を射るときのように、曇りのない眼(まなこ)をきらめかせながら。

「枕が変わると、眠れぬ性質(たち)でな」

 と、神奈子は言った。
 むろん、ひとりごとではあり得ない。
 直ぐそばにまで諏訪子が近づいていることを察したがゆえの言葉に違いなかった。ふふ、と、諏訪子は苦笑する。それから――自分の焦りとか心配とか、あとはせいぜい一分二分の気遣いや何かがぜんぶ無駄になったことに気がついて、いつも通りの足取りをする。とたとたと、彼女の足音に生気が戻ってくる。

「嘘でしょう」
「嘘だ」

 やはり、と。
 許しを得るまでもなく、諏訪子は神奈子の隣に腰を下ろしてしまった。神奈子は特に嫌がるような素振りも見せない。厚かましいまでの振る舞いだったが、神奈子自身、ここが諏訪子の御所だと知って遠慮しているのかもしれなかった。

「十余年、諸国でいくさを続けてきた御方が、今さらになって枕が変わるの変わらぬので眠れぬようになるなどとは、到底、思われませぬ」
「まあ、な。しかし眠れぬというのはまことの話。妙な弱気と思われるかもしれぬが、私が眠れぬときは、何かの胸騒ぎがするときだ。そういうときは大抵、次のいくさの結果は芳しくない」

 にッ、と、神奈子も笑む。
 彼女の手元には酒も水もない。珍しいことだ。白湯(さゆ)でも持ってこさせようかと諏訪子は提案しかかるが、直ぐに言葉を飲み込んだ。どうしてか、今は何をしても要らぬ気遣いであるような感があったからである。未だ花も実もつけぬ梅の木を前に、ふたりはしばし無言であった。吐息の音さえ夜に吸われて聞こえもしない。諏訪子は、唇を噛んだ。神奈子に対する責を、何らか負っている自分。そういう感情が、今はある。「宴の際は、その……、ありがとうございました」と、諏訪子は頭を下げる。訝しげに、神奈子は横目だけくれてやった。

「何が」
「トライコとガトの諍いのことにございまする。モレヤへの辱めを、雪ぐ言葉をあの子にかけた」
「ああ、あのことか」
「其は、諏訪子には直ぐにできかねることにございました。それで、」
「なあ諏訪子よ」

 諏訪子の、どこか言い訳がましい礼を遮り、神奈子はことさらに大きな声で彼女の名を呼ぶ。静かな夜にいくさ神の声はよく通り、諏訪子は思わず“びくり”と肩を震わせた。その様子を見、神奈子はさも可笑しそうにくつくつ笑う。次の彼女の言葉は、幾らか声がすぼめられていた。

「諏訪子よ」
「何で、ございましょうか」
「そなた、さっきモレヤと共寝をしたな」

 図星、である。
 思わず神奈子の顔から眼を逸らしながら、

「いや、まさか。何を! そんなことが……」

 諏訪子はごまかしを試みる。
 けれど神奈子は頬杖を突きながら彼女の姿をまじましと眺め、「ほう」と合点がいったように数度うなずく。

「隠しても無駄だ。着物の襟元が不自然に乱れて、皺が残っておる。ひとりで着つけたから上手くできなかったのであろう」
「えっ!」

 思わず、声に出してしまった。
 そんなはずはない。あの後、確かに乱れないよう整えたはずだ。
 慌てて襟元に手を遣って、襲が狂っていないか指でなぞって確認する。が、神奈子はその様子さえも可笑しそうに見据えながら、

「嘘だ」

 と、言い放つのであった。

「八坂さま! ……あまり。あまりお人が悪うございまする」
「済まぬ。だが、その慌てぶり。此度の“鎌掛け”は、どうにも成功してしまったらしい」

 拗ねるように、諏訪子は神奈子から顔を背けてしまう。
 相手もまた申しわけないと思ったか、身体ごと別の方向へと背けるのが解る。二者の衣擦れの音が、やけに高く響いていた。

「お責めになりまするか。われらの交わり」
「責めて何になろうか。其は夫婦のことだ。むしろ、私としてもようやく思いきってくれたかと安堵しておるわ」

 背けていた顔を、諏訪子は再び神奈子へと向ける。
 だが神奈子はすでに諏訪子へと背を向ける格好になっていた。彼女の表情は、いっさいうかがい知れない。ただ、溜め息まじりの声ばかりが在った。

「これで子ができれば、洩矢の家はより安泰となる」
「寝たかと問われれば其は肯うにも値しましょうが、……やはり子供は子供。“花は咲こうが、種も実も未だ生ってはおりませぬ”。ましてこの身が懐妊を見るは、いったいいつになることか」
「種が実を結び次の花となることに、望みを懸けるは悪しきことではあるまい。この御所の庭に植わった、梅の花を待つごとく」

 望み、か――――。
 今度は、諏訪子の方が深々と溜め息を吐く番だった。
 咳払いをしながら、神奈子はとうとうと向き直る。困ったような顔が、諏訪子をじいと見下ろしていた。

「この身は幾百年、幾千年にも渡りて、諏訪の人々の望みを受けし神の身体。その洩矢諏訪子が今日という日は、何を迷うたか九つの少年に自らの望みを託したのです」

 そして、神奈子からの望みは遠ざけた。
 ようやくはっきりと、諏訪子のなかにも罪悪感が蘇ってきた。
 神奈子からの思慕を受け容れなかったこと、モレヤの心を引きつけるごときその度量を羨み妬んで止まなかったことを。自分の隣に立つ者は、八坂神奈子ではないと洩矢諏訪子は決めてしまったのだ。そして、――――。

「折に触れ、あの子の手を握るたびに、諏訪子は人の肌の温かさを知りましてございます」

 神奈子は、何も言わずにうなずいた。

「人の願いの器、望みの受け皿として、供される血の熱さしか知らなかった諏訪子は、はじめて、自分のために生きてみたいと思うてしまった」

 顎に手を遣り、神奈子は思案の態である。
 諏訪子は、もう何も言えなかった。言葉が詰まってかたちになってくれないのである。だが、言わなければならなかった。はっきりとその意を口にすることが、何より自分のなかの罪悪と妬みと、何より友人への信義に報いる『標』に他ならないからだ。両の手を握り込み、拳で弱々しく膝を叩く。何度も溜め息を吐き、庭と夜空とを交互に見上げた。

「八坂さま、お許しください。わたしは」
「ああ」
「わが夫を、モレヤを。あなたさまに養子として差し出すことは、たとえ何を申されようとも、できかねまする」

 それだけ、絞り出すのがやっとだった。
 われ知らず、諏訪子は頭を下げている。枯れて萎れた花のように、しかし未だ死んではいない茎が、かろうじて力を保っているように。

「解った。やはり胸騒ぎ起き眠れぬ晩は、負けいくさの兆しなのだ、八坂にとっては」

 そう神奈子は言って、微笑とともにうなずいた。
 その静けさが諏訪子には何よりありがたく、そして、手酷い罰であったのかもしれない。

「やれやれ! すっかり振られてしまったわ。」

 そんな芝居がかった台詞と共に、神奈子はすッくと立ち上がる。
 顔を上げて、諏訪子は相手の表情を確かめる。皮肉や嫌味の類を弄するにしてはいやに爽やかで、一片の恨みもない。そんな顔を神奈子はしている、不思議にも。

「申しわけございませぬ。一度ならず、二度までも八坂さまの思いを無碍にし……」
「そう謝るな。惜しいが、そなたが決めたこと。私は、もう何も申さぬ」
「では、振られたとは?」
「モレヤのことだ」
「はあ……」

 梅の林に眼を遣りながら、神奈子は、どこかばつが悪そうに言を継ぐ。

「“昼間の独楽遊びはな、甚だ不調に終わったわ”」

 独楽遊び……?
 一見、意味の取りにくい謎かけのような言葉であった。今日一日にあった出来事を頭のなかからひっくり返し、神奈子が何を言わんとしているのかを、諏訪子は懸命に思案する。数瞬ののち、それほど難しくもなくひとつの結論にたどり着く。『昼間の独楽遊び』というのは、まさか。

「八坂さま、もしや。昼間、独楽遊びと称してモレヤの宿所にお入りになっていたのは」
「そういうことよ。モレヤ自身が、八坂の子になるということに否と言った。あれも男だ、男には男の護るべき領分があろう。何から何まで他人の意に従うて生きるは、モレヤの沽券に関わることだったのだと思う」

 一気に、肩の力が抜けていく。
 身体のなかから骨だけがすっぽりとなくなってしまったかのように、諏訪子はぱったりと廊下に寝転んだ。仰向けになった顔を、ぬるい風が撫でていくのが解った。気がつくと、神奈子はしゃがみ込んで諏訪子の顔を間近く覗き込んでいる。「実はな」と、彼女は言った。寝転んだまま、諏訪子は無言にうなずいた。

「そなたが人の妻であるごとく、私もまたあの場にては、人の親になってみたかった」
「それが、八坂さまのお望みであったと申されまするか」
「おお。……叶う(かのう)ものであれば、だが」

 腰に力を入れ直して、諏訪子はぐいと身を起こした。
 ゆっくりとその挙動を避けた神奈子を振り返りながら、「叶えば良うございますね」と、諏訪子は可笑しがる。

「叶うとは言うてくれぬのだな」
「モレヤは、私のモレヤにございますゆえ」
「そうであったわ、そうであった」

 神奈子の苦笑を背にしながら、諏訪子もまた立ち上がる。
 背伸びをすると、肩か背の骨がぱきりと軋みを立てる。何か、総身に淀んでいた澱が一気に抜け出て洗われてしまったかのように爽快な気分だった。もう、神奈子に遠慮をする必要もないのだな。そう考えると肩の荷が下りたと思える反面、またどこか友人が遠くに行ってしまったような気もしてしまう。だが、神奈子はそれでも許すのだろう。許してくれるのだろう。結局、洩矢諏訪子は八坂神奈子に勝てないのだ。八坂神奈子が、洩矢諏訪子に負け続けるごとく。ふたりの均衡は、こうして痛みを分け合うことでだけ保たれていく。

「ひと、ふた、み、よ。いつ、む、なな、や。ここの、たり。ふるべ、ゆらゆらと、ふるべ……」

 モレヤから教わった戯れ歌を、何ということもなく諏訪子は口ずさんだ。
 正しい節回しは知らぬながら、かの少年が口にした限りを真似しながら。

「その歌……」

 ――しかし神奈子が戯れ歌に興味を示したのは、諏訪子にとっては意外の感があった。
 背後から掛けられた疑問の声に、「どうかされましたか、この歌が」と、ふと彼女は神奈子の方を振り返る。

「いや、何処(いずこ)で耳にしたものかと思うたのだが」
「モレヤから、教わったものにございます。何でも、母御からよく聞かされていた戯れ歌だとか」

 瞬間、神奈子の顔にかすかな驚きが張りついた。
 震えた唇の奥から、彼女は何か重大な事実を口にせんと欲しているらしい。だが、結局は何も言えずに再び黙り込んでしまう。否、言わなかったとした方が正しいだろうか。「諏訪子、それは戯れ歌ではないぞ」。それだけ、神奈子は絞り出す。

「戯れ歌ではない……? とは、いかに」
「それはな。その歌を知っているのは、倭国中にて、ある血を受けし氏族だけのはずなのだ。その氏族は――」

 ここまで言って、しかし、神奈子は再び黙り込んだ。
 真相を自らのうちにのみ封じ込む構えで。

「否。この話は止そう。洩矢氏が諏訪を治むるにあたり、別の血筋だの氏族だのの話を持ち出しても意味はない。誰が父母であってもモレヤはモレヤ。諏訪子の夫であり、八坂の後継者よ」

 引き留めるような真似をして済まなかった、もう寝る。
 最後にそれだけ言い残すと、神奈子は諏訪子に背を向けた。そして自分にあてがわれた宿所へ向け、何の迷いもなく踵を返していくのである。後にはただ、諏訪子ひとりだけが残された。

「モレヤが、……ある氏族の子かもしれぬ、と?」

 諏訪子の問いに答えてくれる者は、もう、どこにも居ない。


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