「狩りに出ようと思うのだが」
「はい。お気をつけくだされませ」
「いや、モレヤ。そなたも伴うてな」
箸を止めて少年に眼を向けると、相手は何も言わず、ただ困惑した表情だけを神奈子に向ける。「なぜ」と、困惑の混じった顔で訊いてくるモレヤの声は、周りでがやがやと騒がしい出雲勢の将士、舎人、官吏たちのざわめきのなかにたちどころに吸収され、消え去ってしまうのだった。
別に、モレヤの声が特別に小さかったわけではない。
諏訪の柵に訪れる朝餉の時間は、いつだってこんな風にやかましいというだけだ。
現に、神奈子の声は普段よく通って実に聞き取りやすいのだが、百数十人から成る人々がひとつの場に集結して同時に飯を食らっている状況では、方々で交わされる雑談のせいで、下手をすれば近くに居る者でも聞き取れないこともあるというだけ。
地位や身分の上下に関わりなく食事の時間だけは共にするというのが、八坂神奈子の率いる軍勢ではときおり見られる習慣だった。とりわけ朝方の練兵場で早朝の調練に参加した者たちは、ほぼ確実と言っていいほど、自分たちにとっての主上である神奈子と共に朝餉を取ることになる。神奈子自身も練兵場で毎朝の弓の稽古をするわけで、彼女もまた毎日誰かしらに囲まれながら、目覚めた直後の空腹を満たす。
彼らがすする粥は、質素ながら塩気が強い。
何はなくとも兵糧に塩は欠かせないとでも言いたげな、『急ごしらえの野戦食』といった趣の強い食事だった。無意味な奢侈や贅沢に慣れることなく、戦場での粗食には普段から慣れておく。神奈子のそういう気持ちが反映されていると言えなくもない。その朝餉の席に、いつの間にやら諏訪子やモレヤもまた同席するようになっていた。
神奈子がモレヤの方を朝餉に呼び寄せるようになったのは、やはり粗食に慣れさせておきたいと考えたからである。が、いつの間にかふたりの様子を案じた諏訪子までもがちょくちょくと顔を出し始め、稽古はせずとも飯だけは相伴にあずかるようになっていたという事情があった。まあ、それも良かろうと神奈子は思う。いずれ、自分ひとりでモレヤを育てると決めたわけではない。後見役になってほしい――と、そのように頼み込んできたのは諏訪子の方なのだ。彼女なりに、何がしかの責任を果たそうと思ってくれているのだろうとは思う。飯を食いに来ることが何の責任を果たすことになるのかは、よく解らなかったけれど。
ともかくもその朝、神奈子と諏訪子とモレヤ、それに給仕役の舎人が鍋を囲んでいた場所は、練兵場のちょうど真ん中ほどであった。方々で飯を食う将氏が、まるで人の渦のように神奈子たちを取り囲むかたちになっている。
半分ほど中身を啜った器を手に、神奈子は向かい合うモレヤをじいと見据えた。
どこかやるかたない様子で、モレヤは「なぜ、私もまた狩りに……」とつぶやいた。年のころから言えば食べ盛りの彼だったが、男にしては食の細い方である。周りの将士連中が下品なまでにやかましい雑談に興じ、誰に遠慮することもなく笑い声を立てながら二杯目、三杯目と粥を器によそっているなか、モレヤだけは一杯食べきるのがせいぜいだった。その割には稽古の甲斐あってか、最初のころよりは華奢ではなくなってきていると神奈子は見る。
「なぜも何も。動かぬ的だけ狙っていても、弓の達者にはなれぬものよ。そなた、いくさにおいて、敵はこちらの矢が当たるよう、その場から動かずにいてくれると思うのか」
「もちろん、思いませんが」
「そういうことだ。つまりはな、」
「狩りとは、馬を駆って野を馳せ、弓をあやつり獲物を仕留めるもの。己が意思もて動き回り、ときには牙や爪を閃かせてこちらに襲いかからんとする獣を討ち取るもの。それすなわち平時にありながら、何よりのいくさの稽古なり」
そう、神奈子の言葉に割って入ったのは、モレヤの横で黙々と食事に勤しんでいた諏訪子の方だった。ゆっくりとではあるが確実に食事をかっ込む彼女は、唇の端に残った米粒を舐め取りながら、無言のまま舎人に自分の器を差し出す。少女の見た目に似合わず、意外と大食の彼女であった。舎人の手から彼女に器が返ってきたとき、そこになみなみと盛られた粥は、もうこれで三杯目だ。
「それを言うのは我の仕事ではないか、諏訪子」
「伝うる意味は同じなのですから、誰が申しても同じことではございませぬか」
「それもそうだがな……」
気を取り直して粥を口に運び、じっくりと噛み締め、飲み込んだ。
塩の辛さに喉が焼けるような思いがし、つい酒が欲しくなる。他の地域との交易でしか塩を手に入れることのできない山国の諏訪にあって、塩を無駄に多く使用することはゆるやかな自殺行為である。だが、軍が発すればそれだけ汗をかく。方々に普請の用もあろう。それを思えば、塩気の強さはささやかな贅沢でもある。
「ふうむ。粥の塩辛さは滋味多き証。これも鍛錬と思うて、もっとたくさん食うてみよ」
と、発破のような言葉をモレヤへかける神奈子。
「軍勢は物にあらず、人の集まりだ。多くの人が動けば、それだけ多く腹を満たす用ができる。むろん、己自身も。それが“いくさ”というものよ。……モレヤにも、そろそろその手の稽古を積ませる必要があると思うたからな。だから、ほら、もっと食べよ」
箸の進みはやはり遅い。
が、促された通りモレヤは器に半分だけ塩粥をもらうと、ゆっくりとすすり始めるのだった。それを食べ終わる頃合いを見て、神奈子は再び言葉を継ぐ。
「さいわいと言うべきか、諏訪の柵は周りを山野に囲まれておる。少し眼を走らせれば禽獣(きんじゅう)まことに多く、この辺りは野駆けをするには格好の場所よ。馬の乗り方も、もう習うているのであろう」
「はい。神薙比(カムナビ)の将軍よりご教授を賜っておりまする」
「うん。ならば良い」
モレヤからの明瞭な答えを聞き届けると、神奈子は満足げににィと笑む。
そして、空になった自身の器と箸とを弄びながら、
「稗田! 稗田舎人よ!」
と、自らの部下のひとりを大声で呼びつけた。
「は。何か急なる御用でありましょうか、八坂神」
神奈子たちの座からは少し離れた場所で、甕(かめ)から水を飲んでいた八坂神の祐筆(ゆうひつ)、稗田舎人は、突然の指名に驚いて咳き込みつつも、小走りでこちらに駆けてきた。純粋な文官ゆえ、武芸の調練に参加することはない彼だが、人の多さに惹かれてつい水でも求めにやってきていたといったところだろうか。頬まで飛び散った水の滴をさりげなく袖口で拭き取ろうとする様が、一応は美男子ということで通っている彼にしては可笑しくて、神奈子はつい噴き出しそうになってしまう。
態度そのものは少しも変化させず、しかし頬の真裏に笑みを含ませたまま、粥をすすりながら考えていた今日の予定を稗田に伝える彼女である。
「本日は評定を終え、昼過ぎたらモレヤと共に野駆けに行こうと思う。他の舎人どもにも伝えて城中に触れ、神薙比将軍や評定衆の面々にその間の留守を守らせよ」
「承知つかまつりましてございまする」
最近になって生やし始めたせいで未だ薄い口髭を撫でながら、稗田は頭を下げた。
無礼とも思える仕草だったが、それをいちいち咎め立てしないだけの度量の大きさというものが八坂神奈子という人である。で、続いて、舌先で唇にくっついた米を舐め取ろうと腐心する諏訪子に向かっては、
「諏訪子には八坂が居らぬあいだ、諏訪国主の名代となってもらう。周辺の領主どもが尋ねてくるようなことあらば、適当にあいさつを返して進物の受け取りでもやっておいてくれ」
と、そんな風に早口で命じた。
結局、頬に近いところにくっついた米粒が舌先では取れなくて、諦めて指先で拭うことにした諏訪子は、横目でちらと神奈子を見遣る。
「はい、はい。面倒なことは、何もかもみな、この諏訪子に押しつけるのでございますから」
「何を申す。概ねいつも通りのことではないか」
誰が初めということもなく、その場の全員が何となく笑みを浮かべていた。
こうなってくると、もう食事も終いに近い。飯を口に運ぶ以外にやること、考える余裕が現れてきた証拠なのだから。つい笑い過ぎてむせてしまったモレヤが、稗田から水を一杯受け取って飲み干そうとした。「良いな、モレヤ」と神奈子はあらためて彼の意を確かめる。
「そなたは武門の生まれではない。だが、男子(おのこ)だ。王の座にある男子だ。男が男の責を全うすべきとき、力なきことは意味なきことよ。政や所領を己が物として護ること、その力の一端は紛れもなくいくさのものである。此度のことは、その力を見る稽古だ。そなたの力量、見極めさせてもらうぞ」
「は、はい! ……突然のお申し出には驚きましたが。これも立派な王になるためとの仰せであれば、八坂さまの仰る通りに。鹿だろうと熊だろうと、この場の誰にも負けぬ大物を仕留めて参ります」
勇躍した風な口振りと、声の震えはどこかちぐはぐである。
だが、涙を見せないだけ上等だと神奈子は確信する。だが、それはさして珍しくもなく、ありふれた表情でもあった。いくさ神をまがりなりにも稼業として長くやっていると、未だ少年と言いうる歳の男たちが初めて戦いに赴くところを、何度も見るような羽目になる。その初陣に向かう男たちの顔は、今のモレヤとそっくりなのだったと思う。期待と楽しみとを、ためらいや怖れといったどうしようもなく暗い感情と、上手く区別できていない若者の顔。
彼もまた、強い憧れをその身に宿す少年であるのかもしれない。
そのことにはっきりと気がつきながらも、満足げな顔をして神奈子はうなずいた。
けれど、傍から見ればその仕草は、モレヤが自分の提案を承認してくれたことに対する満足であると、そのように受け取られたことだろう。
事実――稗田舎人も給仕役の舎人も、最大の当事者たるモレヤでさえも、期待と不安が一緒くたになって区別のついていない眼をしているのだ。今回の野駆けの提案が主たる八坂神の突飛な思いつきによるものだと、呑気に信じ切っているに違いなかった。
器にひっついた米粒の残りを箸で掻き取るふりをしながら、心ひそかにほくそ笑まずにはいられない神奈子であった。そして、その笑みがどんな意味を持っているのかに気づいているのはこの場において、諏訪子ただひとり。彼女もまた油断なく周囲に目配せをしながら、神奈子に送る視線の色だけは明らかに違う。
互いに眼を見合せて、しかし微笑を交換するほどのうかつなことは決してなく、――あたかも、すべてが手筈通りに進んだことを無言のうちに確認し合うといったところであろうか。意思においてだけは雄弁なふたりの心は、雑多な将士の声が混じり合う練兵場にあっては、雑音にすら成り得ないほどの『謀議』であったのかもしれない。
「ともかくも、だ!」
ほんの数瞬、停滞した場のにぎやかさを回復させるように、神奈子は努めて張りきった様子の大声を出した。いつも通りよく通る王の声に、何ごとかと思った周囲の兵が首を回しては、神奈子たちの座に視線を遣る。が、それが王さまたちの私用の話であるらしいことに気がつくと、直ぐに手元の器に眼を戻して食事と雑談の続きを始めるのだった。結局、神奈子を取り巻く視線の持ち主は諏訪子やモレヤ、稗田といったところになる。
「野駆けは本物のいくさではないが、弓と馬を用いて行われる以上、わが手にて紛れもなく武力を行使しているのだという事実がある。これまでの稽古ほど甘いものでもない。解っていよう、モレヤ」
「はい。重々に承知のうえでございます」
「ま、何か。詳しきことは、実際に狩りをしながら追々と教えるとして……仕留めた獲物は、今宵の夕餉にでも供しようではないか。祭祀に捧げる供物とするのも良いな」
神奈子がそのように提案すると、モレヤは無言で大きくうなずいた。
が、一方で諏訪子の方が眼を丸くして口を開く。
「おや。八坂さまが諏訪人の祭祀を絶やさぬお考えであったとは、意外な」
空になった器と箸とを給仕の舎人に押し遣りながら、神奈子は眼を細めた。
「茶々を入れるなよ、諏訪子。モレヤ王のそもそもの努めは、神を祀ること。そしてモレヤが祀る神とはそなたとそなたが統べるミシャグジ蛇神ではないか」
いかにもわざとらしく、諏訪子は「ああ、そういえばそうでございました」と返答する。そして、これもまたわざとらしくモレヤの肩に手を置いてにわかに顔を近づけながら、「いくさで兜首を上げてくるは未だ先のこととしても、此度の狩りにては、そなたの供物で諏訪子の神威が八坂さまのそれを上回ることできるよう、たっぷりと良き成果を上げてくるよう、頼むぞ」と、ささやいた。まるで、息を吹きかけるような笑みであった。
その態度は、どう見ても大人が子供をからかっているようにしか思えないものだ。けれどモレヤにしてみれば、わが主上と頼んだ人から直々の『命令』である。おまけに年上の異性相手のことでもあった。向こうでは神奈子が苦笑しているのも気づかずに、何度も何度も首を縦に振っている。
「これで、やることは決まった。後は、さっさと政の方を片づけてしまわねばならぬ」
大げさにあくびを吐きだすと、直ぐにまた、思いきり背伸びをする神奈子であった。大柄なその肢体から天に向けて両腕が差し伸ばされると、まるでひとりの女性(にょしょう)が空を支えているかのようにも思われる。彼女が、清澄な心で空を見上げると、諏訪という国にやってきて以来、今まで見たこともないようなほど蒼く、鮮やかな空が広がっていた。
だが、直ぐにこうも思い直す。
いくさ場で血の色を見慣れた私がこうして穏やかに空の蒼さを見上げたことなど、神としての生のさなか、いったい何度あっただろうかと。
――――――
「いけませぬ、八坂神! 未だ政情定まらぬ諏訪の地において、そう軽々しく野駆けに出られるなど!」
老臣の諌めはいつでも神奈子のやり方に対して“否”の色を伴って行われた。
六十も近い老いゆえに、若々しい神奈子の足取りが城の廊下をずんずんと突き進むのにも満足についてはこれないが、よく研いだ針みたいな声だけは、神奈子が東征の任についた十余年前から少しも変わっていなかった。
「なぜ、いけない」
「われら出雲人の手になる諏訪新政を快く思わぬ諏訪人、また当地にうごめく神霊や魑魅魍魎どもが、これを機として八坂神を害し奉らんと目論んでいるかも解りませぬ」
「此度の野駆けは朝餉を食んでいるときに思いついた、われながら唐突なもの。いかに在地でわれらに敵対する者あるかもしれぬとはいえ、直ぐに襲いかかれるほど迅速に情報をつかんでいるとも思われぬ」
「たとえそのように楽観できるにせよ、人質たるモレヤ王の御玉体が危険に晒されるということもございましょう」
「もし万が一(まんがいつ)、モレヤの身が狙われるとしても、事実となれば出雲諏訪の談判をいたずらにこじれさせるだけに過ぎぬ。それを考えれば、彼の身に累が及ぶことは少ないであろう。それよりかは、この八坂とモレヤとが共に狩りに出るというところ示せば、出雲人と諏訪人の融和の証として、衆目に訴えることもできよう」
しかし――! と、老臣はなおも食い下がる素振りを見せた。
少しばかりいら立ちを覚えないでもない神奈子だったが、これがこの老臣の『仕事』なのだと考えると、ことさらに突き放す態度を見せる気にもなれなかった。少しでも足を止めると、背中につかみかからんばかりの勢いで、老臣は彼女の背中に新たな声を投げかけてくる。
若いころは、鎮西(ちんぜい)の地で隼人(はやと)、熊襲(くまそ)といった蛮族と戦い、功績を上げた男だったという。それが何の因果か因縁か、今や出雲本国での地位を喪って、左遷同然に東国平定の任に追いやられている男でもある。老いてなお、これ以上、自らの居場所を失いたくはないという権勢欲――というよりも、一抹の寂しさのようなものがこの老臣を突き動かしているのであろう。それに十余年、逃げ出すこともなく自分に従い、よく戦ってくれた。それが解っているから、神奈子の方でも適当にあしらう気にもなれず、つい真剣に反論をしてしまう。
評定はもう、とうに終わっていて、モレヤ王と狩りに出かけるということにも他の連中は反対などしなかったのだが、この老臣だけは執拗に神奈子を諌めようと試みていた。さっさと“撒いて”しまいたいのも山々ではある。が、ひとりの部下に対して真剣に話を聞いてやらなければならないのも王者の務めだと思っている辺りが、八坂神奈子の難儀な真面目さであった。
「威播摩令(いわまれ)、そこまでわが身を案ずるのであれば、そなたも一緒に野駆けをするが良かろうに。若き日に鎮西の西戎(せいじゅう)相手に鳴らしたその武勇、衰えてはおらぬところを見せてみよ」
「いくらおだてても、ならぬものはなりませぬ。強いて申し上ぐれば、匹夫(ひっぷ)の勇とも言うべきものを防ぐことが、わが武勇の第一にござる!」
こうなってしまうと、この威播摩令という男は岩よりも固く、頑固なのだ。十年に余るつき合いなのだから、それくらいは知らずにいる方がおかしい。そして、そうなったときのうっとうしさも、だが。
だから、自分の弓を取りに、私室のある諏訪の柵城中の行宮に向かう途上、神奈子の足取りはどんどん早まっていった。後ろでは、少しずつ距離を離されながらも威播摩令がなおもついてくる。「いいかげん、諦めてはくれぬものであろうかな」。ある曲がり角で、そんな気持ちが顔に出ていないかを案じながら、神奈子はさらに歩みを進める。そのときであった。
「おや、威播摩令どのか。どうされた、そのように血相を変えて……」
小さな少女の影が、神奈子の真横をするりと通り抜けていった。
かと思うと、それは猫撫で声を発しながら威播摩令の真ん前に立ちはだかり、袖で口元を覆いながらにいと微笑をつくって見せた。すでに角の向こうまで歩んでいた神奈子は、ほんのわずかだけ顔を出して向こうの様子をうかがった。少女の声からしてすでに当たりをつけていたが、出てきたのはやっぱり、
「諏訪子……か」
その諏訪子が、威播摩令の行く手を阻むかのように、彼の正面に立っていた。
突然に姿を現した諏訪新政の重鎮に、自らもまた評定衆のひとりに列せられる威播摩令とはいえ、驚きを隠せない様子でいる。そのあまり、神奈子が角の向こうからこちらを覗いていることなど、気づきもしないみたいだった。
「どうされたもこうされたも、ございませぬぞ。どうか、諏訪子どのも亜相としてのお立場から、八坂神をお諌めくだされませ!」
「ふむ。先ほど、向こうの廊下ですれ違ったような気がしたが、何か悪しき振る舞いに及ぶことでもあったのかな、八坂さまが」
薄くなった白髪のゆえに、頭の両脇に結った角髪(みずら)もどこか萎んだようになっている威播摩令。人離れした黄金色の髪の毛を赤い飾り紐で結った少女・諏訪子とは、月と太陽と言っても足りないような、奇妙な対比と神奈子には見えた。
「悪しきことではございませぬが。甚だ軽はずみなる、お振る舞いにござる。新政の行く末定かならぬこのときに、モレヤ王を伴うて、よりによって城の外の森まで野駆けに出られるなど」
敵する勢力の刺客、あるいは魑魅魍魎や妖怪たちが襲いかかってくるかもしれぬものを! そんな風に、神奈子に対して何度もくり返した言葉を、今度は諏訪子にも向ける威播摩令であった。
「なるほど。其許(そこ)の言い分ももっともであるなあ、威播摩令どの。もっともではあるけれど、八坂さまとて偉大なるいくさ神とはいえ、人の身に化身しているうえは疲れも溜まるし気が滅入るということもある。まして、ここ最近は本来の権能であるところのいくさより離れ、政に専念されてこられた身。武神軍神として、気散じのおつもりで狩りに野駆けにお出になることが、とくべつ短慮なお振る舞いとも思われない」
ぺらぺらと、よくもまあ口が回るものだなあ……と、自分に関わることながら、神奈子はつい感心してしまった。そういえば、諏訪豪族どもとの利害調整や折衝を任せたのも諏訪子であった。それは案外と適任だったのかもしれないと、よりにもよってこんなところで感じる彼女であった。
が、それ以上に厄介なのは、むしろ威播摩令の頑固さである。
諏訪子もまた神奈子と意を同じくする者であると知った彼は、とたんに目つきを険しくし、
「八坂さまも八坂さまなら、諏訪子どのも諏訪子どのだ。おふたりとも、少し呑気がすぎる!」
と、喚き始めてしまう。老人特有の頑なさというものだろうか。
それにはさすがの諏訪子も口をつぐみ、半歩も後ずさって苦笑している風だった。
「んん。威播摩令どのの忠臣ぶりには、諏訪子もよう感じ入る。では、こうしよう。儂(み)が、其許から八坂さまが野駆けにお出になることへの許しを買い上げ、それをわが手から八坂さまに捧げるということで」
「はあ!? いったい何を申されて……」
わけが解らない、といったような威播摩令の言を遮るかのようにすばやく、その動作は行われた。呆気に取られた老臣の手を取って自分の胸元近くまで引き寄せると、諏訪子は革袋をひとつ、彼の手のひらに渡したのである。出所は、彼女の懐の中からであった。
わずかばかり威播摩令の手が下がるところを見ると、袋の中身はずしりと“重み”が詰まっているらしいところが想像される。
「い、いったい何のおつもりか、諏訪子どの。この袋は」
「ああ、もう。察しの良くないお方。すべては先ほど申し上げた通り。威播摩令どのからの許しを、この諏訪子が“買い上げる”。そのために、その袋の中身を差し上げましょう」
ここまで語られては、諏訪子の意図に気づかないわけにもいかなかった。
思わず、「何をやっているのだ!」と、神奈子の方では飛び出してしまいたい気分にもなる。諏訪子が渡したのは、つまりは賂(まいない)――賄賂に違いなかった。それで頑固な威播摩令を籠絡(ろうらく)し、神奈子が狩りに行くことを見逃せと言っているのである。そして、当の革袋の中身の方は……。
「科野諸州の河々にては、砂金の採れる場所が幾つか在る。諏訪子が治める御料のうちにも、そのような土地がないでもない。出雲の風(ふう)がいかなるものか、儂のごとき田舎者に詳しくは解りませぬが、金というものの値打ちがすばらしきものであるのは、諏訪出雲を問わず諸国共通の理に違いないことでしょう。ここはどうか諏訪子の顔を立てるとでも思うて、おとなしう八坂さまが狩りにお出になる許しをお売りなさいませ」
どこか蟲惑の色を持ちながら、砂金の詰まった袋を押しつける諏訪子。
その腹黒い手腕に眉根を寄せながらも、神奈子は感嘆の念さえ覚えずにはいられなかった。肥沃な土地と鉄器の掌握で諏訪の地が栄えていたことはすでにして承知しており、ために東国経営の拠点として諏訪を手中に収めた彼女ではあったが、科野州全域に渡って検地が完了していない以上、どこの川でどれほどの砂金の採れるかまでは完全に把握しているとは言いがたかった。その神奈子が知らぬ規模のほどを、諏訪子は当地の旧主として知悉(ちしつ)しているのであろう。砂金そのものや、砂金の採れる土地を所有するというより以上に、その知識自体が諏訪子という王が持つひとつの大きな財産、いやあるいは、まがりなりにも諏訪王たるの基盤と言えるのかもしれない。
「見くびりなさいますな、亜相どの。この威播摩令、そのような賂で心動かされるほど安き男ではない」
が、しかし、金品を与えるなど賂としては『初歩の初歩』、懐柔の策としては下策と言っても良いものだ。現に、威播摩令はあまりにもあからさまにそんな話を持ちかけられたせいで、余計に態度を硬化させている様子である。見ている神奈子の方でも、気が気でない。
「おや、一袋ではご不満かな。では、もう一袋」
そんな神奈子の心配など露知らず――というよりも、知っているのを見越してさらなるいたずらを仕掛けるかのように、諏訪子は懐からさらに砂金の袋を取り出し、威播摩令の手に積み上げてしまう。重みを増した賂に、老臣が持つさすがの頑なさも明らかにその色を変えた様子だった。確実に、何がしかの逡巡が生まれているのが見て取れる。眼の前にただ積み上げられる以上に、自らの手に金品の重みを感じてなお一片の欲心も抱かずにおれる者など、そう多くはない。
「自ら口にするのもおこがましいことではありまするが、これはまことに質良き金。わが諏訪王権が盛んなりしときは、商いや取引を介するのは米や絹の他に砂金もまた同様ということがあった。当然、質良きものであればあるほど値打ちは高くなり、商いも円滑に進む」
「いや」とか「しかし……」とか、ぶつぶつと呟き始める威播摩令。
ここまでくると、あと一押しというところであろうか。
「此度、威播摩令どのに差し上げる砂金なれば……おそらく二袋もあれば、一袋と半分で“女のひとりやふたりを楽々と囲えるだけの館が建てられましょう。さらにもう半分は、釣りとして手元に残るほど」
それが、まさに“ダメ押し”の一言であった。
つい欲望に負けて陥落した……というのは、どう見ても適当ではなかった。
威播摩令は諏訪子の言葉を聞いた瞬間、遠くからでも直ぐに解るほど、ぎょッ! とした様子を見せ、当たりを見回し始める。で、自分と諏訪子以外には誰も居ないのを見て取ると、
「お、怖ろしき御方にござる。そこまで見越しておられたか」
と、耳打ちの素振りを見せたのであった。
「ことが公になれば、色々と都合が悪いこともあるでしょう。それが嫌というならば、今日のところはおとなしく袋を受け取って引き下がりなさるが賢明ですよ」
袖で口元を隠しながら、くすくすと笑う諏訪子。
彼女から押しつけられたふたつの革袋を大急ぎで懐にしまい込みながら、威播摩令は元来た道をすごすごと引き返して行ってしまうのだった。まるで、彼は諏訪子という御者が振るう鞭で尻を叩かれる、牛か馬であるかのようだ。
「……八坂さま。その辺で見物しておられたのでしょう。もう誰も居りませぬから、お姿をお見せになるがよろしい」
やがて、周りに誰の気配もなくなると、諏訪子は虚空に神奈子を呼ぶ。
本当は諏訪子を『防壁』にしてさっさと逃げ出せば良かったのだが、つい好奇心が勝ってその場から動けなかった彼女である。威播摩令と同じくらいばつが悪そうに、廊下の曲がり角から姿を現した。
「いや、しかし……面白かった! ああして他人(ひと)をやり込めるのは、ときに何にも勝る最上の娯楽にござりまする!」
にしし……と、歯を見せて、諏訪子は無邪気そうに笑う、笑う。
が、神奈子は苦笑いを浮かべる余裕さえ忘れていた。
「諏訪子、そなたはな……」
「おっと、不正を糺すおつもりなのでございましょうが、何も悪しきことはしておりませぬ。わが直轄する御料より上がりし税を、公正な取引にて砂金に換えたものを渡したまでのこと。人民からの苛烈な取り立てや、不正な商いなどはいっさい行っておりませぬ」
「いや、そういうことではなく。そなたまで、そういう賂めいたものを使うてしまうのは」
「元が、臣下に政を壟断(ろうだん)されていたわが身のこと。腹黒きやり方は、少しくらいなら見知り、また心得ておりまする」
己の信念には反するところもあるが、法のうえで何もないなら咎めだてを行うには足らぬところがある。法令や綸旨を受けて動く出雲人の習慣に慣れきった八坂神奈子には、いささか詭弁めいた諏訪子の言葉にも、そのような考えが先に立ってしまうのだった。
それよりも、と。
髪の毛の生え際を指先で掻きながら、少し、湧いてきた疑問を問うことにした。
「しかし、威播摩令のやつめが諏訪で女子(おなご)を囲っておるらしいと、かくのごとき醜聞めいた話をいかにして調べ上げた。そなた、諏訪のことならミシャグジ蛇神の眼を通して何でも解るとか言うていたこともあったが、八坂の知らぬ間に、その力を取り戻しでもしたのか」
「まさか。単なる“鎌かけ”にござりまする。心にやましき隠しごとを持つ者ほど、こうした他愛もない策には簡単に引っ掛かるものゆえ」
賂だけでなく、“脅し”までも使う諏訪子。
われながら、どうして彼女が臣下輩(しんかばら)に政を奪われたり、出雲勢との戦争で負けたのか、解らなくなってきた神奈子であった。
「――――まあ、今回ばかりは、何もかも見なかったことにしておこう。廷臣どもの気が緩んでおるのも、太平の証だと考えてな」
「むろん。諏訪子も口外は致しませぬ。それよりも、」
こほん、と、小さな咳払いをして息を整える諏訪子。
その眼は神奈子ではなく、神奈子の行宮がある廊下の向こう側に向けられていた。
「お早く弓の用意をしなければ、モレヤとの野駆けの約束には間に合いますまい。先ほど、散歩がてらに厩(うまや)の前を通りかかったら、もうすでに彼が八坂さまのことを待っておりましたゆえ」
――――――
軍馬たちの息づかいや密かないななきが、獣のにおいと共に厩を満たしていた。
馬の世話番を仰せつかった雑役の舎人たちが、黙々と秣(まぐさ)をかき集めるかたわら、さほど距離の隔てを経ているわけでもない練兵場の方からは、回り持ちで昼の調練を始めた組の将兵たちの掛け声が、かすかに響き渡っていた。
諏訪の柵の東側は、水や糧食、武器兵器を貯蔵する蔵の連なりによって占められている。軍馬を繋ぎ置く厩舎の群れもまたこの蔵の群れに接するようにして存在しており、それはつまり、東側の一角が諏訪の柵という城の軍事施設としての生命線であり、心臓部であるということを意味していた。しかしながらその日、厩の周辺は“いくさの寝床”とも思えないくらい静かな空気で満たされていた。ために、調練の掛け声もいっとう大きく響いてくる。馬たちにも、いっとき動物としての本能を忘れたかと思うほど静まり返る一瞬が現れる。まるで、これから何か特別なことが始まるのだと、どういうわけか獣の身でありながら解りきっているかのように。
世話番の舎人たちの他に在る人影も、見ればあるにはある。
彼らは誰にそうせよと命ぜられたわけでもなく、みな寄り集まってひとかたまりになっていた。
神奈子から野駆けの供奉(ぐぶ)を命じられ、待機している二十名近くの将兵たちであった。各々に弓の弦の具合を確かめたり、森で獣を追い立てるための鉦(かね)や太鼓といった鳴り物を指で弾いて遊んだりしている。矛を肩にし、地面に腰を下ろしているのも居る。もう一方を顧みれば、やはり供奉を命じられた犬養部(いぬかいべ)――猟犬の調教や飼育、管理を司る部署の舎人たちが、数匹の猟犬を相手に戯れとも何かの訓練ともつかない追いかけっこに興じていた。
しかし、彼らもまた言葉というものを振り棄てたみたいに黙り込んでいたのは確かなのだ。飼い主にはよく懐く猟犬たちでさえ、クンクンと鼻を鳴らしこそすれ、ほとんど吠え声を上げることはない。厩とその周りだけが、その日に訪れる分のすべての沈黙を集めたのかとさえ、思われるほどの様子だった。あるいはこれから現れるべき人のために、ひと足早い畏敬をさえ保っていたのであろうか。
その供奉の将兵たちから忘れ去られたようにして、八坂神奈子を待つモレヤは高い柵に身を預けていた。弓を引く際に腕を動かしやすいよう、脇の部分が縫い閉じられていない狩りのための装束を身につけている。
子供の小さな背に真新しい矢で満たした箙(えびら)を負い、弓を片手にした彼は、自分の道具を誰に預けるということもなかった。それに、どこか上の空といった調子でもある。ときおり何かの歌らしい、小さな声がその口からこぼれ落ちているせいかもしれなかった。けれど、モレヤの声に耳を傾ける素振りさえ見せる者は、彼を取り巻く舎人や将兵たちのなかにはひとりさえ居ない。彼の歌が、出雲人の耳に馴染まないせいか。あるといえばモレヤの身辺に侍る諏訪人の舎人が、ときおり気紛れに鼻歌を合わせるくらいのものである。
「イゼリ」
「はい」
傍らに侍る犬養部の舎人のうち、そのひとりにモレヤは声をかけた。
硬い毛並みをした猟犬の背を撫でてやっていたイゼリは、歳の頃およそ十二、三。モレヤとは二、三歳ほどしか違わないようである。子供特有の高い声を未だ持っているモレヤに比べ、イゼリの方はもう思春期らしい低く落ち着いた声をしていた。後ろ頭に結った長い髪を振り立てるように、少年はモレヤを振り返る。
「八坂さまの方の用意は、未だ終わらないのかな」
「さあ。先ほど、厩の辺りで諏訪子さまにお会いしましたが、あともう少しとの仰せでしたよ」
そうか、と、イゼリから視線を外すモレヤ。イゼリの方は、相変わらず犬の背を撫でてやるばかりである。そんな彼が、モレヤの方を横目で見ながらふと呟いた。
「今日のモレヤさまは、何かいつもよりそわそわとしておいでです」
「そ、そうかな」
苦笑するような、モレヤ。
「きっと初めての狩りということで、緊張をしておられるのでしょう。しかし、犬たちにはそれが解ります。きっと馬もです。獣たちは人の心を人以上に察することができる力があると、イゼリはそんな風に思うことがあります。……あまりびくびくとし過ぎると、猟犬たちから侮られますよ」
どこか冗談めいた言葉に、「そうならぬよう、努める。モレヤは男子だからと、八坂さまも仰っておられた。男子は、常にどんと構えて強くいなければならない」とだけ、早口にモレヤは返すのだった。「その息です。きっと良き獲物に巡り合えましょう」と、イゼリは微笑んだ。そのうち、どちらからともなく口から歌が紡がれ始めた。腕利きの狩人を称える、勇ましい俗謡(ぞくよう)。唇の脇にある黒子を恥ずかしがるように、イゼリはうつむきがちになって声を出している。次いで、初めにモレヤが歌っていた歌を再び口にする。連鎖するようにして他の諏訪人の舎人たちも、鼻歌くらいは合わせてくる。しばし厩舎の周りには、モレヤと諏訪人たちの細い歌声が響いていたのであった。
やがて。
その小さく、か細い歌のあいだを縫うようにして、悠々とやってきた者がひとり。
糸の綻びに向けるほど他愛のないものではあったが、その人の眼は少年たちが歌う口元に対して、確かに吸い寄せられていた。柵から身を離し非礼を取り繕うように、モレヤとイゼリは直ぐに歌うのを止めてしまう。
「……珍しき歌を耳にした。諏訪の、歌か」
「はい。諏訪子さまが、ときおり口ずさんでおいででしたから。少しだけ、憶えてしまったのです」
「やけに明るい節回しと聞こゆる。斯様に身をすくませることもあるまい。歌いたいなら、歌えばよい」
眼を細めて、八坂神奈子は諌めるような口調である。
専用の強弓と箙を身につけ、やはり狩りの装いを整えた彼女がやって来ると、半歩も身を引いてモレヤは頭を下げる。それに倣うかのごとく、舎人たちや供奉の将兵たちも、さも恐れがましいという風に深々と頭を下げた。
「諸国諸州には各々の土地に根づきし数多の歌があろうよ。元は旅の祝(はふり)であったそなたも、出雲より来たりしこの八坂も、いずれは耳にせねばならなかった歌だったかも知れぬ」
彼女の言葉に感じ入ったらしいのは、モレヤよりも、彼に侍るイゼリの方であった。
科野州の人間ゆえ、当地の人々に対する温情とも取れる神奈子の意を知り、彼はますます深く頭を下げるのであった。
一方で厩舎に繋がれた馬たちは、人々の様子を見て殊勝になることもない。
本能たるのざわめきか、何かの“気”に当てられたようにして、にわかにいななきの度を強めていくのである。あるいは、人ならぬ身がまとう“におい”のごときものが獣にだけははっきりと解ってしまうのだろうか。いずれにせよ、畏れにも似た様子で喚き始めたはずの軍馬たちは、神奈子の怜悧な視線に一瞥(いちべつ)されると、人間たち同様、瞬く間に落ち着きを取り戻していく。まるで、ぎらついた抜き身のつるぎを大急ぎで鞘に戻す様子にも似ていた。
一歩進み出、モレヤはあらためて神奈子に向き直って顔をほころばせた。
神奈子もまた、初陣に赴く若い兵士に向けるときの笑顔をつくって、モレヤに向けることをした。少年にとって、今回のことは紛れもない『初陣』だったのであろうから。
「馬の用意は、済んでおるのか」
「はあ。モレヤさまの御馬と共に、すでに」
そう答えたのは、モレヤではなく世話番の舎人の方だ。
初老の彼がそう答える間に、他の舎人が厩舎まで駆け、神奈子とモレヤの乗るべき馬を引き出してくる。おそらく二十歳前後であろう、よく日焼けした舎人たちに轡(くつわ)を引かれてやって来る二頭の馬の背には、確かに、すでに鞍(くら)が取りつけられていた。鐙(あぶみ)もひと揃い、しっかりと在る。いつでも出られるという、そんな体勢であった。
子犬のようについて来るモレヤのことは振り返ることなく、神奈子はしばし顔も見ていなかったわが愛馬に歩み寄り、いっそう笑みを深くして、栗色をしたそのたてがみを撫でてやる。馬の、白い斑点を宿した額が神奈子の方へと向けられるたび、暖かな吐息が彼女の髪を揺り動かした。
「久しく見ぬうちに、そなた、少し肥えたか。以前のようにいくさを駆け回らせてやることはできぬが、此度は野駆けに出るのだ。馬とても無聊(ぶりょう)を感ずることがもしあるなら、それを慰むる助けともなろう」
わしわしとたてがみに触れられ、神奈子の愛馬は嬉しそうに声を上げる。
その背に彼女を乗せて倭国各地を転戦してきた『彼』は、八坂神奈子にとっては弓や剣と同じくらい頼みとする武器でもあるし、数多の将士にさえ劣らぬほどの歴戦の忠臣でもある。いっとう愉しげに愛馬が眼を細めたところを見計らって鐙に足を駆け、直ぐさま神奈子は馬上の人となる。身に剣を帯びることの多い彼女がさらに弓を負って馬に乗ると、その勇ましさは、地面に落ちる影ですら傑出した武人の一部とさえ思しいものがある。単純な称賛とは色を異にする視線が神奈子を取り巻く様は、自分たちの主上たるいくさ神に対する尊崇と畏怖の両面を、雄弁に物語っているのかもしれなかった。
かたわらで神奈子を見つめていたモレヤも、これまで見てきた自らの師とは違う姿に、思わず唾を飲み込んでいるらしかった。無理もない、と、神奈子は思う。これまで彼と相対するときには、部屋で話をするときか、練兵場で弓の稽古をするときくらいだったのだ。彼は、馬をあやつって戦場を駆け巡る『本物』の八坂神を知らない。神とはいえ人のなかに交わる以上、神奈子にもどこか人間くさい自尊心というものは芽生えている。畏怖と尊崇の入り混じった眼を向けてくる弟子に対して、得意気に微笑を返さずにはいられない彼女であった。
手綱をさばいて馬首を巡らせ、神奈子は馬で辺りを二、三周ほど闊歩してみせる。馬上の感覚をわが身に取り戻すための練習みたいなものだったが、蹄が土を叩く律動にも似た音と振動とを感じていると、どこか、ひどくきりりとした覚醒で心のうちが満たされていくのがよく解った。
「何をしておる。モレヤも早う、馬に乗れ。供奉の者らも」
「は。承知しました」
他の者たちにも騎乗を促し、神奈子は皆の用意が完了するまで自らの馬を制する構えとなる。
厩の舎人から轡を引き受け、舎人に自らの弓を預けたモレヤは、たどたどしい手つきで馬に触れ、鐙に足を掛けようとした。しかし、できない。鐙の位置が高すぎたのか、足が上手く掛からずに滑ってしまうのである。
馬に乗るということは、まず鐙に足を掛けてわが身を浮かせるということ、そして、馬の大きな背を挟み込むことができるまで両脚を開き、鞍に腰を下ろすということだった。いくら馬具による支えがあったとはいえ未だ小柄な、まして馬に乗ることを覚えてから日の浅いモレヤでは、不慣れなためか緊張のせいか、鐙に足を掛け、鞍に腰を下ろすという一連の動作が、なかなか成功させられない。二度、三度。ずるりと鐙を踏み外し、そのたびに乾いた土だけが鐙の上に残っていく。どたり、と少年の足音が響くたび、猟犬が退屈そうに吠え声を上げる。それを制して、犬養部のイゼリは心配そうな眼ばかり向ける。
すでに、供奉の将士のうち馬の使用を許される身分の者は、神奈子同様に騎乗を行っている。徒歩(かち)の兵たちも、今か今かと出発の下知(げじ)を待つかのようにそわそわとしていた。飼い主たちの気持ちを感じ取ったのか、尻尾を振ることもなく吠え始める猟犬たちが居た。彼らからの期待と不安、そしてわずかに混じり始めたいら立ち。それらのもので塗り込められた視線を一身にその背に受け、モレヤは依然として馬に乗りきることができぬまま、悪戦苦闘を続けている。
だが、いつか冷ややかなものの混じり始めた兵らのさなかにあって――神奈子だけは、何も言わず、何も顔に出すことなく、ただ冷徹なまでにその様子を眺めているだけだ。ひたすらに、モレヤという少年が持つ“値打ち”のようなものを見定めようとしているかのごとく。否、彼女は、モレヤのなかに在るらしい決然とした何かを、いま懸命に探し求めているのかもしれなかった
何度目かの挑戦でようやく鞍に身が届きそうになったとき、馬がわずかに身震いをしたせいでモレヤは体勢を崩し、そして落馬してしまった。がらがらと、騒々しい音が鳴る。彼の箙を満たしていた矢が、みな、こぼれ落ちてしまったのだった。よろよろと立ち上がって、着物を汚した土を払いもせぬままモレヤは矢を拾い上げる。周囲から、にわかに失笑らしいものが漏れたように思われた。哄笑というほどに烈しい笑いでなかったのは、仮にも自らより立場が上の者を大っぴらに笑ってはならないという気持ちが、将士たちにどうにか歯止めを掛けていたからであろう。
頬についた秣のかけらだけを指で払い、矢を箙に戻す少年は、唇をぎりと噛み締めていた。モレヤがそこでどんな思いを味わっていようとも神奈子は助けにも行かなかったし、しかし、侮蔑の言葉を吐き出すことも、他の者たちのように笑いだすこともなかった。ただ彼女は何も言わず、事態が無事に終わるだろう瞬間を、馬上から探し続けるだけであった。
事実、それは神奈子にとっての挑戦でもあった。
モレヤという少年を見極めることの、第一歩としての。
狩りは、実戦とは違う。が、そこには実戦にも通ずる幾つかの要素が詰まっている。急な出陣の際、迅速な騎乗ができない者は、一兵として役立たないばかりか一将としても頼りにならない。兵たちの笑いものになるだけだ。
ことは、王の格に関わってくる問題である。
そう考えると、モレヤは神奈子にとっては幾らか不出来な弟子であったかもしれない。しかし、直ぐにでも彼を見捨てて自分たちだけで出発してしまうほど、八坂神奈子は冷たくなりきることができない性分でもあった。嘲ることも助けることもせず、ただ成功のときを待ち続けることだけが、彼女にできる庇護者としての選択に他ならない。
――――臆したか、私は。
彼女は心中、己に問う。
――――直ぐにでも馬を下りて、モレヤに手を差し伸べたいと思うている。
それが優しさなのか、単なる甘えに過ぎないのか。
軋るように疑念を噛み締めながら、弟子を見つめる視線だけが鋭くなる。
それから、もう十幾度目かのことだったかもしれない。
矢をすべて箙に戻し、再び鐙に足を掛けるモレヤ。
だが、やはり体勢を崩し、泣きそうな顔で馬から滑り落ちてしまう。
眼の端で神奈子を見ることも、一度や二度ではきかなかった。
そのたびに神奈子からの冷厳な視線に気づき、再び自力での騎乗を試みる。
そしてまた姿勢を崩し、彼の身体が地面に向けて無様に崩れ落ちようとするそのときであった。
「モレヤ王よ。緊張のあまり、いつもほど迅速な騎乗ができておりませぬぞ!」
人々のあいだを大きな影が俊敏に駆け抜け、あっという間にモレヤの元まで近づいていく。そして筋肉のかたまりのような大きな腕で、今にも地面にぶつかろうとしていた彼の身体を支え上げた。すべては流れるような挙動であった。影は、再び鐙に足を掛けたモレヤの尻を、また彼が騎乗を失敗しないよう、鞍に腰を落ち着けることができるだろう位置までぐいと押し上げてやったのである。
「う、わわっ!」
「は、は……。驚かれましたか、モレヤさま。神薙比の将軍にございまする」
いちど成功してしまえば、後は何ということもない。
鞍の上に落ち着いたモレヤは、もう何年も馬を乗りこなしているとでもいったように、馬上での姿勢を安定させていた。万が一にも取り落とすことがないよう、手綱をしっかりとつかんだ彼は、自分を馬の背まで押し上げてくれた相手――戦場における八坂神が副将たる神薙比を、どこか安堵の眼で見つめていた。これで、笑いものにならずに済んだ。そんな、ごく小さな自尊心が護られたことを感謝するような眼であった。
一方、顎を濃い髭で覆われた神薙比は、「他人の眼の多さに緊張をしたのかもしれませぬが、よう落ち着きなされませ。馬は賢く聡き獣。主が怖れれば、それを感じ取って自分もまた上手く動けなくなる」と説くのである。
モレヤは、ゆっくりとうなずいてみせる。
少しばかりの笑みさえ浮かべられるようになったその様子に、つい先ほどまでの焦りはもうなかった。
「イゼリにも……犬養部の舎人にも同じようなことを言われた。それを今また伝えにやって来たということは、神薙比の将軍も、此度の狩りについてきてくれることになったのか」
「いいえ。これはモレヤさまにとっての初の“実戦”にて、御指導を行うは八坂さまより直々ということにござる」
ふたりの眼が、同時に神奈子の方へ向けられる。
もう、そろそろ頃合いであろう。
最初に為すべき“品定め”のひとつは終えた。
そう思いながら、神奈子は馬首をふたりの方へと向けていく。われ知らず口中に舌を打っていたことを、ついに彼女は気づかない。その代わり、ようやく鎮まってくれた不安を押し隠すようにして「馬子にも衣装と余人は言うが、祝の子に弓馬というのも、思いのほか様になるもの」と、うそぶいてみせる。声は、馬の蹄が柔らかな土を踏む、小さな音に重なり合っていた。
その冗談にもならぬ冗談がなぜだか無性に可笑しくなって、つい、ひとりで大笑をする神奈子であった。モレヤも神薙比も供奉の将士もみな“ぽかん”とその様子を見つめている。馬たちだけが何かの異変を察知したかのように、短いいななきをくり返した。
「いや、笑うてしまって済まぬとは思う。しかし神薙比、そなたもまた律儀な男。直弟子の“初陣”にわざわざ現れるなど。モレヤに花を持たせにでもきたか」
「八坂さまはお人が悪い。幸先の悪さなるものは、未だ芽のうちに潰しておくに限りまする。……何せ、それがし、少年の時分に初めて行うた野駆けの際は、騎乗をしくじり、地面にしたたか頭を打ちましたゆえ」
小声でひっそりと取り交わされる話に、モレヤのなかに残っていた最後の緊張が、ようやく解きほぐされたようであった。いつの間にか屈託のない子供らしい笑みが浮かんだ彼の身体には、もう馬を怯えさせるほどの動揺はなく、そんなものは汗と一緒に流れ出てしまったものとも思うことができた。“ここでの”必要な備えは、ひとまずすべて終えられた。そういう確信が神奈子にも満ちあふれてくる。いくさに赴く際の、必ずや勝ちを手にしてくれようという意気込みにも似た、無邪気な昂揚である。
「ようし。これで皆の用意が整ったな。そろそろ行こうではないか。……いざ!」
『出陣』の宣言とともに右手を高々と掲げると、「おおッ!」と将士たちより鬨(とき)の声が湧きあがった。少年というものが抜けきっていない若い兵も、髭に白いものが混じり始めた初老の将も、みな例外なくその顔つきは溌剌としている。そのなかから、命ぜられるまでもなく数人の舎人が前に進み出、出発する馬たちの轡を取って先導の役を務め始める。
「では、神薙比。事前の触れ通り、諏訪子らと共に、野駆けより帰り着くまで城を頼む」
「は。お任せください」
もっとも先頭を行く騎馬の武将と徒歩の兵に続き、神奈子とモレヤも馬首を巡らせる。
神薙比に声を掛ける遠くでは、伝令の舎人が城門の衛兵に「八坂神、ならびにモレヤ王、御出座! 門を開けよ!」と開門の命令を伝えているのが聞き取れる。それをも踏み潰すかのごとく、間近く聞かれる小さな軍勢の足音の群れ。各々の箙を満たす矢の束ががちゃがちゃと小さな音を立て、幾本かの矛が日の光を浴びて鈍い輝きを保っていた。
そのなかで、隊列を乱さぬよう注意を払って馬を御しつつ、モレヤは眼下で一行を見送る神薙比をまじまじと見つめていた。もうすでに、着物の汚れは払い落されている。
「あ、あのう! 神薙比の将軍!」
「どうされました、モレヤさま!」
少年の精一杯の声に負けぬよう、将軍もまた声を上げた。
「モレヤの騎乗を助けてくれたこと、礼を言います!」
ぺこりとすばやく頭を下げ、隊列からはぐれぬようモレヤは馬の歩みを速めていく。
返事こそ返さなかった神薙比だが、その豊かな顎髭をただ撫でまわす彼である。
彼らのあいだに交わされたものを何とも見ぬまま、馬上の神奈子は、苦笑いのまま城門に向かっていくのであった。
――――――
矢の尾羽が風を切る一瞬の音は、山野に吹き荒れるどんな烈風よりも鋭いのだ。
とりわけ、それが殺気を乗せ、獲物に向かって一直線に突き進むものであるなら、なおさらのこと。
八坂神奈子はその権能のひとつに天候や気象――とりわけ風をあやつる神であった。
しかし、その神奈子とても、放たれた一本の矢が大気を裂いて、標的に向かっていくときの勢いを凌駕する……そんな鋭さを持った風を吹かせたことは未だなかったような気がする。彼女のうちに存するいくさ神としての本能が、風の神としての意義を知らぬ間に上回っているせいかもしれない。もっとも強き風は、いくさの場に吹き下ろす矢の嵐によるそれであると。
しかし血の香を孕む風を吹かすことに、狩りといくさの別はない。
剣も振るえば弓を射るのも好きだったけれど、狩りもまた劣らぬくらいに、その嗜好の一部をはっきりとかたちづくっていた彼女だったのである。だから今日は、久方ぶりに自身の意思で主催した狩りを純粋に楽しんでいたい気持ちがあった。
猟犬を鼓舞すべく打ち鳴らされる鳴り物の音を背に、馬上で弓を引き絞る。
狙いはすでに決まっていた。
鬱蒼とした木々の向こう、緑色の影が密集しているように見えるさなかに、一頭の鹿が迷い出ている。さほど発達している様子でもない角を見ると、未だ成長途上の若い獣であろうと思われた。しかし、よく肥った四肢はさすがに山野を駆け回るにふさわしい、頑健さを持つそれであろう。だのに、妙に脚を縮こまらせているようにも見えるのは、人間が用いる鳴り物の、聞いたこともないようなやかましさに打たれ、思わず棲みかを飛び出してきたせいといったところか。
きょろきょろと辺りを見回し、その黒い眼と鼻先であちこちを探ろうとする鹿の様子は、よく調教されたこちら側の猟犬たちが、身を低く伏せて命令を待っているのとはまるで反対だ。その奇妙な対照に思い至り、神奈子は誰に向けるでもなく快活な笑みを見せた。
夏の光を食べて生い茂る無数の葉の色のなかで、その緑を泳ぎ回るように、鹿は気弱げに歩く。未だ、ひとつの鏃(やじり)に狙われていることに気がついていない。棲みかである森に異様な騒音、そして異物のにおいが大挙して混じり込んでいることは察知しているが、己を殺す者がさほど遠くない場所に居るということには、野生の鋭い感覚とはいえついぞ注意が及んでいないのだ。それは、あたかも獣の野生よりも、武器を振るう神奈子の昂揚の方が勝っているということの証のようでさえあった。
ひゅう、と。
矢が標的へと飛ぶその音が周りに聞かれたとき、次に在るのは沈黙で、最後にやってくるのは快哉でも歓声でもなく、ただ感嘆の連なりだけである。神奈子の矢が、殺気に気づいて駆けだそうとした鹿の首を過たず射抜き、森の獣はいっさいの抵抗もできぬまますべての動作を硬直させた。ほどなくして動くことを取り戻すと、近くにそびえていた巨木の幹に、ずるずると滑り込むみたいにして倒れ込む。かくん、と、首は垂れ、地面に触れた角の先が土の塊を細く浅くえぐっていく。
びくびくと末期(まつご)の震えを見せ始めたその身体に、狩りの一隊から放たれた数頭の猟犬は容赦なく襲いかかった。犬養部に命じ、念入りに猟犬としての調教を施した犬たちだ。余計な傷を与えることなく的確に首筋の急所だけを噛み破り、鹿が完全に息絶えたと見るや、尻尾を振り振り、大喜びで飼い主たちに『勝ちいくさ』を知らせる吠え声を発したのである。
一頭の獣を仕留めるとき、一本目の矢を射った神奈子が、二本目の矢をつがえることはない。一本目を仕損じるということがまずなかったし、傷を負わせた獣を狩り出してくる猟犬たちもまた、優秀にして有用な武器たり得たからである。
犬の皮の内側に、大小の岩石を詰め込んだような立派な体躯をした、大型の猟犬たち。この犬たちは、諏訪新政に帰順した科野州のとある小豪族が、科野よりもさらに果て、ヤマトの王権が『蝦夷』の字を当てて呼ぶ辺境の狩猟民からのツテを辿って手に入れたという、北方の犬だった。
進物として土地や絹や金を贈ってくる豪族はたくさん居たが、神奈子が狩りを好きなのを知って、そのための猟犬を贈って寄こしたのはこの豪族だけである。“探り”を入れたところによると、件の豪族はここ十数年のうちに勢力を伸張してきた新興勢力で、養蚕と絹を商うことで成功をした商人的な人物であるらしい。“ツテ”というのも、商業における流通網や情報網を活用してのことであろうと思われた。
ちょっとやそっとの賂や進物では、心の動かない八坂神奈子ではあった。
王としての面子もある、周囲に示さねばならぬ面目もある。
だけれどこればかりは嬉しさのあまり――むろん、科野州内で新興勢力を味方につけ、守旧の豪族層を牽制するという意図もあったにせよ――土地の配分に関してこっそり件の豪族を優遇してしまったことは、諏訪子にさえ打ち明けていない秘密である。
しかし、当の犬たちがそんな政治の事情を知っているわけがない。
飼い犬は飼い犬らしく、大喜びで主人のために働くのみであった。
今また、早く早くと急かすように、盛んに吠え声を立てる猟犬たち。草いきれの充満する森のなかで、狩りの一団の息づかいはその吠え声を耳にするだけで、少しずつ興奮に染まっていく。
「おお……っ!」
と、猟犬だけではなく供奉の者たちからも、感嘆を新たにした声が上がる。
神奈子の弓の腕、猟犬たちのすばやい仕事ぶり、それらに対する気持ちが半々ずつといった声色だ。犬の吠え声に紛れてはいたが直ぐに聞き取ることができたのは、それだけ畏怖と称賛とが上乗せされていたせいかもしれない。
誰に命じられるわけでもなく、矛を手にした徒歩の数人と、犬養部の舎人が鹿のもとまで歩み寄っていく。
飼い主に頭を撫でられて機嫌も良さげな猟犬たちを尻目に、将兵もまた自らの仕事に取りかかる。彼らは人の眼でもういちど獲物の生死を検めると、慣れた手つきで手早く鹿を縄でくくり、神奈子の面前まで引きだしてきた。首を強弓から放たれた矢で一撃、さらに急所を犬に二、三度噛まれて絶命した鹿の毛には、ほとんど血の流れ出た跡が見受けられない。むだのない、上手いやり方の証ででもあるかのようだった。
「相変わらず、お見事にござりまする。いくさより離れてなお、決して衰えの見受けられぬ、その弓の腕」
「殺気まとわぬ獣の一頭や二頭、今さら肩慣らしにしかならぬとも思うが……しかし、此度だけは、八坂もその世辞を素直に受け取っておくことと致そうよ。どうにか脾肉の歎のかなしさからは免れたと思うてな」
すばやく下馬し、神奈子は先ほどの成果を自らの眼でも確認することにした。
どさりと眼の前に置かれた鹿は、まどろみのさなかにあるごとく、目蓋を半分だけ開いている。自分の身に何が起こったか、命を失ったあとまでも理解していない。そんな顔にも見える。
歩みを進めるたび――、薄い苔の生えた地面は、履き物を介した足の裏にぬるりとした感触を与えてくる。際限なく吹き出てくる緑色の泥の上を歩いているみたいなものだ。苔を踏んで削られた地面に、輪郭の崩れた足跡が残るのにちらと気づきつつ、「みな、大義。犬たちもな」と宣することをした。将兵も舎人も、満足げに頭を下げる。猟犬たちまでも、心なしか嬉しげに頭を低くしているかのように見えた。
「今日は、これで野兎が二羽、そして鹿一頭」
「なかなかの上首尾」
「そう思うか」
「これらすべて、八坂さまおひとりで仕留められたからこそ」
武将のひとりのおべっかを、神奈子は適当に笑って受け流す。
いちいち阿諛にいら立ちを覚えずに済むほど、そのときの彼女は機嫌が良かったのだ。
どうやって獲物を持ち運べばよいかとか、そういう相談を部下たちがしているのを耳にするだけでも、何だか鼻高々といったところだ。
「しかし、八坂ひとりが上首尾でも意味はない。此度はモレヤを鍛えるための野駆けぞ。して、そのモレヤはどこに行ったかな」
「先ほど、向こうの茂みに……おや」
と、武将が応え(いらえ)を見せようとしたとき、向かい合って話をしていたふたりのあいだ、その足下を、一羽の野兎が跳ねていった。夏の毛をした灰色の兎。よく肥っているが、姿に似合わずすばしっこいのは兎の本分をよく果たしているとでもいうべきか。これは……と、神奈子は直感する。この兎の慌てようは、何かに追い立てられているときの逃げ方だな、と。
「で、モレヤは」
「は、はあ。西の向こうの茂みに、供奉の将兵や舎人といった一隊を引き連れ、お入りになられたようでうおおッ!?」
その、モレヤが入ったという西側の茂みを神奈子に示す意味で件の方角に眼を遣っていた武将は、突如として大きく身をのけ反らし、そのせいで思いきり地面に尻餅をついてしまった。鋭い風切りの音を発する何かを、とっさに回避しようとしてのことである。あまりのことに説明をするという仕事さえ全うできなかったが、舌を噛んだりしなかったのは幸いだったかもしれない。ガツン、と、軽装とはいえ物具(もののぐ)が、地表に露出した木の根にぶち当たる音がする。他の将兵は何ごとかと思って振り返るし、猟犬たちはクンクンと不安げに鼻を鳴らし始める。
その、風切り音が尽きた方角に、おそるおそる顔を向けてみれば――。
向こう側の巨木の幹に、武将がすんでのところで回避した矢が一本、深々と突き刺さっているのである。あと少し気づくのが遅ければ、彼はそのこめかみを確実に射抜かれていたはずであった。肝心の野兎の方は、後ろも振り返らずにさらに山深くに逃げ込んでいく。
そして。
この状況に苦笑いとはいえ笑みを見せていたのは、神奈子ひとりだけである。
「……おうい、モレヤ! 矢を射るときは、周りに味方が居らぬか、よう確かめてからにせよ!」
そう大声で呼ばわると――彼女の呼びかけに答えるように、西の茂みがざわめき出した。大勢の人の足音が近づいてくる気配がし、しかし、先頭を切って飛び出したのは一頭の馬である。そして、その背で弓を握る少年の姿だった。
「申しわけございません! 野兎を逃がすまいと夢中になって、つい!」
「さいわい誰にも当たらずに済んだから良かったがな。味方の流れ矢に当たって死ぬなど、いくさ場では恥の極みぞ。自分がそうならぬよう、味方をそうさせぬよう、気をつけるのだ」
さっきは、モレヤが野兎を狙って放った矢が、危うく供奉の武将を誤射するところだったのだ。馬上で大きく頭を下げ、少年は手綱を握り直す。理解と謝罪を同時に示す仕草といったところか。
「八坂さま!」
「ん、どうした」
「モレヤも、狩りの場で八坂さまに負けるつもりはございません! 私とて、弓馬を能くするいっぱしの男であるというのを、雉でも鹿でも兎でも、見事、獲物を仕留めることで、そのお目にご覧に入れます!」
それだけ言うとあいさつもそこそこに、馬に鞭をくれてやるモレヤ。
瞬く間に少年を乗せて駆けだす馬を追いかけて、彼に供奉する将兵と舎人、そして猟犬の一隊も、急いで神奈子たちのあいだを駆け抜けていった。しばし、まばらな人波が森を騒がした。ひどく熱に浮かされた愉しげなモレヤの顔つきだけが、そのときの彼らの心には強く強く焼きついていた。
「は、はは……。いや、さきほどは危ういところでしたが。しかし、それもまたあのモレヤ王がご健勝であられということ。また少年らしう快活なお振る舞い、心すこやかなる証と見受けられるまする。八坂神と神薙比将軍による御教授の賜物か、弓も馬もだいぶ上達されておいでですな」
尻を濡らす泥を手のひらで払い落しながら、さっきの武将が立ち上がる。
引きつった笑みを顔面に張りつかせていながらもお追従を忘れないのは、彼なりの避けがたい職掌か。
「そうであればな。そうであれば、良いのだがな」
「いや、なに。モレヤ王は、前国主(さきのこくしゅ)であらせられる亜相諏訪子さまと、そして八坂さまの薫陶を受け、日々、成長しておられます。もし彼に危急のことあらば、われら将兵一丸となってお支えするが第一の務めにて」
「……おう。そなたたちは、それで良い。そなたたちはな」
言葉を濁す様子の神奈子に、武将は「はあ?」と怪訝そうにわずか眼を見開いた。郷里に残してきた嫡男ももう直ぐ二十歳になろうかという四十がらみの彼であったが、歳に似合わず無邪気な色をした視線ではないかと神奈子は思う。この分では、彼の言葉は追従ではなく本当の称賛、あるいは気づかいであるかのようにさえ感じられる。そして、将兵たちから向けられるであろう、そのささやかな思いやりこそが、彼女がもっとも疎んじていたものでもあった。
「八坂さまがご心配なさるのも、よう解りまする。私も、わが妻と子を出雲に残して遠征の途についたばかりの頃は、不安で仕方がありませんでした。東国の蛮夷、また蛮夷に奉じられた異神や妖怪。それらとの果てしなき戦い。――が、ご覧くだされませ」
言うと武将は手を差し伸べて、神奈子に森のなかを示そうとした。決して無礼にはならぬよう、恭しさを心得た仕草である。顔を向けることなく横目だけ走らせて、神奈子はその先に在るものを垣間見た。“それ”は――樹木の枝葉のあいだから差し込んでくる光の網に包まれて、諏訪の森のまったき一部であるかのごとく混じり込んでいる。けれどよく見れば、本来、自然のなかにはないはずの、人の手が入った人工物としての存在であった。
巨木の幹に一匹の蛇体がごとく巻きついた太い縄。
そして柱を赤く塗り、ごく小さな門のごとく組み上げたもの。
その奥には、さまで貴き縁起や由来があるとも聞いていないが、間に合わせの御座(みくら)として置かれた苔むした岩石。
出雲人が諏訪の神霊の勢力を削ぎ、また出雲の神々の神威を知らしめるために設置した、注連縄と鳥居。そして御神体の役を担わせた御岩であった。
「あれらを……否、あれら神々の御座所とも申し上ぐるべき“もの”を土地ごとに打ち立て、高天原よりの神々と主上たる大王、そしていくさ神たる八坂さまの御力を奉じて参ったからこそ、われらはあらゆる戦いに勝ち残ってくることができたのです」
「そうか。……そうであったよ。“それが、われら出雲人のやり方であったな”」
「その通りにございまする。神のご加護さえあれば、モレヤさまの御身にも、よもや傷のひとつもつくことありますまい」
どこか別の意図を含んだ神奈子の言を、武将は疑うことをしない。
敬虔な彼は満足げに、御岩へ向けて深々と一礼を見せた。
小さな溜め息と共に、神奈子もまた同じように遥拝(ようはい)をする。
だが、その心のうちでは、高天原の神々や主上たる大王を敬っているのか、それとも諏訪王としての自分を誇っているのか。あるいは、神にさえ忘れられた単なる古ぼけた石を拝んでいるのか、すでに区別は難しくなりつつあるのだった。
注連縄だの鳥居だの、そしてその奥に当地の石を用意するなどは、言うなれば方便である。つまりは、出雲人が征服地において自らの正当性を示すための象徴なのだ。出雲人が『天照大神を頂点とする世界観』に生きているのと同じくらい、諸国人にもまたそれぞれの神を奉ずる仕方が数限りなくあったはずである。神奈子たちは、ときにその仕方を滅ぼし、ときに懐柔し取り込んできた。そして旧き神々のかつての居場所には、必ず鳥居や注連縄を残して『浄域』を築いてきたのだ。その『縛り』こそが倭国一統の安寧をもたらすと、解っていたからである。
そして今また――この『縛り』がなければ、諏訪の森なる神域を穢した罰として、八坂神奈子とその軍勢は、森の神霊たちと一戦を交えることになっていたであろう。それが、もはや無いのだ。つまり、今やこの森は神奈子の箱庭のごときもの。そのなかで、出雲人たる自分が諏訪人のモレヤを走らせている。出雲の神々がモレヤを護り、出雲の将士がモレヤを支えんとする。たとえばあの諏訪子のごとく荒ぶり祟る旧き神々ではなく、人の言葉にて語り、人の姿をした神がモレヤのそばに居るというのである。
神奈子は、それが怖ろしい。
血煙の吹きすさぶいくさの場は、まして卑劣が最良の武器ともなる政の場は、誰かの加護を願ってばかりでは決して生き残ることのできない場所であるというのを、八坂神奈子は知っている。あちこちで戦いを続けてきたいくさ神としての、そしてまた出雲本国での権力の奪い合いから放逐された敗残者としての経験が、それを雄弁に彼女に教えていたのだった。信ずれば、神々は人を助けるのだ。が、人が人であることを怠けてはいけないのだ。戦うことを忘れ、ただ安穏と強者の庇護ばかり求める者は、人でもけだものない。骨と皮のあいだに臆病と怯懦(きょうだ)という穢れた泥ばかりこびりついた、ただの屑の袋なのだ。
でなければ――自ら戦うことをしなければ、神でさえも叩き落される。
誰よりもまず、この八坂神奈子のように。
否、出雲人を罵るつもりは彼女にもない。
ただ本当には怖いのは、モレヤが未だ幼いということだったのかもしれない。王という自らの立場に溺れ、他人に頼り護られることばかりが、あの小さな心身に染みついてしまうことが。
「われら奉ずる神々のご加護もありましょうが、しかし、モレヤ王は未だご幼少。八坂神よ、私に兵数人をお預けください。直ぐにモレヤさまの隊に追いついてみせ、危うきことなきよう、露払いして参ります」
「――いや。いい」
「いい、とは。いかなることで」
「要らぬ、ということよ。モレヤたちだけ先に行かせておけ。新たに供を増やすはまかりならぬ」
自らの献策を跳ねつけられ、彼は少しばかり困惑の態を見せた。
けれど、直ぐにまた気を取り直し「そういうことであるなら、われらも狩りの続きとまいりましょう」と高らかに声を上げた。真面目で、善良な男であった。そんな彼だからこそ、供奉のひとりに任じた甲斐があったと神奈子は少しだけ思う。
「良いな。きっと、申しつけたぞ」
早口に言うと、彼女はまた愛馬の背に身を置いた。
政のために用意されたものでしかない、偽りの御神体を見つめる眼差しは、いつしか忌々しげなものに染まっていた。神奈子自身も、周りの将兵も、だれひとりそんなことには気づきさえしていなかった。
――――――
鳶を射ようと矢をつがえたのは、ほんの気まぐれであった。
神奈子が自分自身の弓の腕前に抱いている思いは、侮りでも油断でもない。日々の鍛練と戦いの経験とに裏打ちされた、確かな自負と言うべきものである。そこから発する気まぐれは、たとえそれがただの遊びや戯れでしかないのだとはいえ、万にひとつも失敗するなどはあり得ないはずである。気ままに人里の上空を周回し、山あいのねぐらに飛び帰る鳶一羽くらい、容易に射落とせるのだと思っていた。
だが、彼女はそのとき矢を外した。
決して手を抜いていたわけではない。
狙いあやまたず、弓弦にかける膂力も十分のはずであった。
いつも通りに矢をつがえ、疑うことなく放ってしまえば、また直ぐ誇らしく獲物の列に加えることができる。それだけの話だったのに。
空中の鳶を目指して一直線に突き進んでいた神奈子の矢は、野鳥の翼が巻き起こしたわずかな大気の壁に阻まれるようにして、にわかに推力を失った。情けなくふらつき、山なりの軌道を描きながら、いずことも知れない樹木の群れの向こう側に埋没していった一本の矢。鳶は、何があったのかも気づかない様子で呑気に旋回すると、軍勢の視界から悠々と消え失せていく。後に残ったのは、びィんと残響を見せる弓弦の気配と、中空で制止させた弓手(ゆんで)の先を、まじまじと見つめることしかできない神奈子の眼差し。
供奉の将兵誰もが眼を疑い、溜め息を吐いた。猟犬たちまでもが、世界に何かの異変があったみたいにして訝しげに細く鳴いた。鞍の上で伝わってくる馬の体温が、まるで生ぬるい嘲りのようだった。そんなばかげた錯覚さえ催すほど、いちばん動揺していたのは他ならぬ、神奈子自身であったのだが。
悔しさと怒りとどちらが先行していたのか、彼女自身にも知れない。
だが、いつの間にやら小さな舌打ちをしていたことは、その心がいつまでもざわついたままでいて、なかなか落ちついてはくれないことの証拠ででもあるかのようである。
「やはりご心配ですか。モレヤさまのこと」
その心情の機微を目ざとく見るごとく、部将が小走りに駆けてきた。
背伸びをして耳打ちをする彼に、馬上の神奈子も、身を傾いで応じてやる。
「なぜ、そう思う」
少し、いら立って答えてしまったのは矢を外したせいなのか、心のうちに踏み入られることへの憤りなのか。かたわらの舎人にいったん弓を預けながら、彼女は小声で話を続ける。
「矢の飛ぶ筋、とでも申すべきものが、乱れているやに見受けられましたゆえ」
「ほう。……そなた、いつからこの八坂神に弓矢を指南する立場になったのだ」
「私のような一部将の身で、いくさ神に弓矢を御指南し奉るとはおこがましうございまする。ただ、心に迷いあれば弓に迷い生まれると、昔、私は他ならぬ八坂さまよりお話を賜った憶えがあるのです」
無精髭をなで回す男みたいな仕草で、神奈子は己の唇に手をやった。
なるほど、確かに昔、将兵にはそんな助言を授けたような気がしないでもない。今まで必中の矢のみ放って得意になっていたことが、神にして、よもや自分の傲慢ぶりであったかとも思われる。あるいは、これもまたひとつの舌禍のごときものか、と、口元を覆う手の下で苦笑をする。
確かに、心配事といえば、モレヤのことであった。
モレヤを、彼の率いる隊だけで森の中に踏み入らせたのは神奈子の意思だ。
むろん、今日この場において庇護を与えるべき少年を、あえて自分のもとから引き離すことをするのだから、彼女にもある“考え”というものが腹のうちにないではない。だけれど、頭のなかで考えを能くすることと、心のうちで己が感情を御するということは、神なる神奈子にとっても決して同じものではないのである。
馬首を巡らせ、揚々と自分の前を横切っていったモレヤの表情を思い出す。良い顔をしていたように思う。男の顔だ。初めて手にする『力』に浮き立つ男の顔だったのだ。馬と弓矢は、いくさと力の証である。祝の子とても、男という生き物に備わっているのかもしれない本能を呼び覚ますに、肌で感ずることのできる武力はよほどに十分すぎる。
唇を拭う神奈子の手は、それこそ自らの顔に貼りついた苦笑そのものをきれいさっぱい拭い去ろうとするかのごとく。その次には、もういつものいくさの神としての威厳を取り戻していた。
「少年とはいえあれも男よ。供回りを増やせば増やすだけ、恥になるという気持ちもあろう。つるぎや弓を手にして気を昂ぶらせているときは、特にな」
合点がいかないとでも言いたげな顔をして、部将は眉根に皺を寄せた。
彼に対して、ふッ、と、煙に巻くような笑いをしていることに、神奈子は自分を褒めてしまいたい気分に駆られている。少なくとも、“たかだか”子供ひとりの行方に気を揉んでいるのだと心配されることを恥じる自尊が、彼女にはある。
「あの子への心配など、するだけ無粋なのだとは思う。ひとりだけで走らせたわけでもなし。まこと案じておるのは、“別のところ”よ」
「別のところ、とは」
「いや、なに。いずれ解ろう」
主上にそう言われては、部下にとっては形なしである。
それはそうだと飲み込んで、ひとまず話を打ち切る構えを見せたのは、神奈子も部将も同じであった。
「しかし、モレヤには十数名から成る将兵を供奉させてある。豪族から献じられし、優れた猟犬も連れているのだ。八坂神が気を揉むだけ杞憂、心配のし損ねというものであろう」
「は。まことに、結構なことにございます」
馬の轡を取る舎人に命じ、神奈子たちの一隊はまたいずこともなく歩きはじめていた。
はっ、はっ! ……と、猟犬たちも鮮やかな桃色の舌を垂らし、息を吐きながら軍勢を構成している。犬たちを鼓舞する鳴り物の隊は、今は静かであった。木の根と苔と、柔らかな土を踏み越える湿った足音とが幾つも連なって続いていた。ただ、将兵たちが額や顎を伝う汗の珠を懸命に手の甲で拭い取っているのに比して、犬養部の舎人たちは、ほとんど汗をかいていない。どこか微笑にさえ似た顔つきで、山野に狩りの彷徨をするということを、愉しんでいるようにも見て取れた。
猟犬の番を仰せつかった犬養部の者たちは、その大半が出雲人ではなかった。
彼らの多くは科野州人、諏訪人なのである。
神奈子たち出雲勢が諏訪に新政権を打ち立てる動きを見せ始めた頃から、科野人や諏訪人たちが、「八坂の神さまにお仕えしたい」とたびたび申し出るようになっていた。彼らは、諏訪人たちのなかでも決して高い身分の出身というわけではない。それが、何を思ってかしきりに八坂の神の御名を慕ってくる。各々の地域を支配する領主や豪族たちの政についていけなくなったか、郷里で騒動でも起こして地元に居られなくなったか、あるいは貧しさゆえに飯がきちんと食べられる所を求めてのことなのか。理由は様々であろうと思われた。
だがいずれにせよ。
諏訪新政が豪族たちの力を完全に無視するというわけにもいかないように、神奈子の政には諏訪に住まう諏訪人の力が欠かせなかった。彼らを上手く囲い込めば、八坂神の名声は高まって人民の統治がやり易くなる。それに、彼らは地元の人々ゆえ諏訪の地勢や情勢には詳しい。味方に引き入れておけば、その知識や技能は決して無駄にはなるまいと思われたのである。
「しかし、まあ、何と言いますかな。諏訪人たちは元気が良うございますな。われら出雲勢、多年に渡りてあちこちで戦って参りましたが、こうも真っ正直に山歩きを致しますと、正直、疲れが溜まりまする」
「それは、そなたの歳のせいもあろうよ。……だが、諏訪の山に諏訪人が慣れておるは道理と申せよう。今日、供奉させているあれらは、確か狩人の出だったか」
「は。それゆえ、山歩きには慣れておるのでしょう。猟には犬が欠かせませぬから、猟犬の扱いにも慣れている。おかげで、犬の世話を任すこともできる」
馬上より、神奈子は諏訪人たちを振り向いた。
それぞれに事情こそあれ、元は食い詰めて諏訪の柵に押しかけて来た者たちだ。
彼らは、信心と飯の種とが直ぐさま結びつきはしないことを悟りきっているのである。神奈子への信仰というやつも、本心からではないのであろう。だが、その卑しいまでの生への執着が、神奈子にとっては必要なものだ。死にたくないからこそ、彼らは新しい主である神奈子のもとで、懸命に働くのだから。
「ときに。此度、犬は何頭ほど連れて来ていたかな」
「六頭にございます。三頭をわが隊に残し、残り三頭をモレヤさまがお借り遊ばしておいでです」
ふうん、と、神奈子はわずか首をひねる。
「犬養部の舎人、何と言ったか。……ああ、そうだ。イゼリが居らぬ」
「イゼリが、ですか」
馬の足を止めさせ、神奈子は改めて周囲を見回した。
出雲人も諏訪人も、供奉の者たちはこの数時間ですっかり頭に入っているはずであった。けれど、目当ての人物であるイゼリだけは、どこを見回してもその気配さえ見えなかった。犬養部のひとりである彼は、おそらく三頭の犬と共にモレヤの隊に加わったのだと、直ぐに予測された。
首周りの汗を掻き取るような仕草を見せながら、部将は再び神奈子に歩み寄る。
事実をあらためることが必要だと、彼の眼は訴えかけているようであった。
「イゼリ……あの少年もやはり、科野州人の舎人ですな。確か、八坂さまに猟犬を献じた小豪族の縁者とか」
「弟よ。かのイゼリというやつは、件の豪族の弟でな。犬の世話をさせよと、その豪族の方から送り込んできたのだ。モレヤと歳近きゆえ、遊び相手になればとでも思うて受け容れてみたのだが」
「なるほど。子供同士で、何の歯止めがかかりましょうや」
と、部将は苦笑いを見せる。
モレヤとイゼリ、意気投合をしたふたりの少年が、仲良く狩りに興じているところでも想像しているのだろう。
「モレヤは弓矢、イゼリは猟犬。面白きもの手にした子供の心ほど、御しがたいものはない」
そして、戦いに初めて赴く少年や青年の昂揚もまた、同じものだ。
そんな言葉を、神奈子は自分のうちにだけ留め置いた。
ふと気がついてしまったひとつの『厄介ごと』が、彼女の心に兆したせいであった。
笑みの消えた顔で、部将に醒めた視線をくれてやる。
「そなた、よもやイゼリが本当にモレヤの友となるべく歩んでいると思うているのか」
「そうであるのが、何よりかとは思いますが」
相も変わらず人の好い男であった。
だが、素直に「はい」と宣しなかっただけ、まともなものの考えができていると思えなくもない。
「“八坂神のもとに仕えさすことで、わが弟に研鑽を積ませたい”と、かの豪族は言うていたが」
いつしか汗で湿っていた指先をこすり合わせ、忌々しげに呟く神奈子。
「だがイゼリという少年。いわばモレヤ王と同じく、諏訪豪族が自らの誠意示すために送り込んできた人質に過ぎぬ」
手綱を引いて馬を止めると、彼女の愛馬は小さくいなないた。
その息づかいに隠れるように、部将を見遣って言を継ぐ。
「相手は小豪族。だが絹を産し、それを糧として北方の地より屈強な猟犬を手に入れ、献ずることができるほどの力持つ者。商いに長けた者だ。その威を失うはあまりに惜しい。
「では、八坂さまがイゼリの身柄をお受け入れなされたのは」
「ただの慈善で政ができるものかよ。もしイゼリを死なせたと考えてもみよ。と、すれば、少し面倒なことになるやも知れぬ」
真実を告げられて、とっさに部将は黙り込んだ。
政の核心に触れてしまったらしいことに、多少の怯みを見せながら、それでも小声で神奈子に問うことをする。
「その豪族、いったいどこの土地の者でしたかな」
「確か科野諸州のなかでも北側の地、水内(みぬち)の郡(こおり)に一角を占める領主。名を、ギジチと」
名のみ呟くことで、特段の言祝ぎや呪詛が行われるわけではない。
けれどその領主の名を口にすることは、そのときの神奈子にとって、思考に占める比重の大半を――瞬間的なことだったとはいえ――支配されずにはおかないような、ただならぬ感覚があった。つまりは、彼女の焦りにも似た思いがそうさせてしまっているのかもしれない。
「そなた、先ほど我に“モレヤが心配か”と訊いたな」
「はい。確かにそのようなことを」
「要は、卑しくも八坂神は自らの政を護りたいだけであるのよ。モレヤやイゼリを生かすの死なすのは」
その言葉が自嘲であることには、未だ気づいていなかった。
否、もしかしたら単に認めたくはないだけであるのかもしれない。
自分が政のために、人の命を弄ぶにも似たやり方をしようとしていることが。
いくさ神として数千数万の命を屠り去ってきた者が、今さら……と、諏訪子なれば冷笑をするであろうと容易に思う。
「二兎を追う者、一兎をも得ずという。ふたつの事柄、同時に射抜かんと欲するは、わが神の身とても愚かの極み。斯様なことに心乱されれば、弓矢の狙いとて、外れぬはずがよもやあるまい」
数瞬ばかり風が猛り、ざわざわと木々より葉を打ち鳴らす。
その奥底に紛れるようにして、明らかな人工のそれと思しき音々が軍勢の耳には入ってきた。
「おお。モレヤさまの隊も、盛んに駆けておられるご様子」
部将が、どこか名残惜しそうに森の中を見回した。
鳴り物の気配は複雑に反響し、そう簡単に方向を読み切ることができなかった。
「この身は難儀なものでな。何をするにも政の良し悪しを左右することになってしまう。猟犬を連れ歩くことも、その犬どもを誰に世話させるかも。モレヤを狩りに連れ歩くことも」
舎人からまた弓を受け取り、しばし矢をつがえることなく、指先で鳴弦をのみ弄んでいた。弓弦を弾くことは、辟邪(へきじゃ)の者たちが能くする破邪の法である。出雲の神権を示す注連縄や鳥居が立てられた諏訪の森にあっては無意味とも言いうる行為だった。だが、神奈子は、自らの内なる何かと対峙するためなのか、鳴弦をくり返す。そのたび、呼応するかのごとく、モレヤ隊の鳴り物の音がかすかに耳に入ってくる。
遠く離れたモレヤたちの気配を視ようとでもするかのように、神奈子は弓弦を弄ぶ指を止めた。音のした方や風向きを確かめずにはいられなかった。弓引くことをくり返してすっかり皮の固くなった弓手の先を、髪の生え際に滲む汗で濡らし、風を読む。西から東への微風であった。これでは土も砂も巻きあがるまい。
しかし人のにおいがその風に乗って流れた方向に、飢えた獣が居たらどうなるだろうかと、その手の想像力をはたらかすことが必要であった。神なくも、獣は飢え猛る。飢えた獣は強い。強く、おそろしいのだ。それは、つまり自身が生き残るために選択した強さだからだった。戦場で死に物狂いに矛を振り回す兵たちがそうであるように、生きることに飢えた者は、人であれ獣であれ、この天地(あめつち)においてもっともおそろしい生き物となる。
だが、真なる脅威と敵とはもっと別のものであるということも、むろん神奈子は知っている。神ながら彼女が願っていたのは、モレヤその“本当の敵”に出くわさずに済むこと、それだけであった。つまりは、人の“慢心”そのものである。
初めて武力を手にした者は、自らの手の内にある『他者を容易に殺傷せしめる武力』に畏れを抱きつつも、同時にそれを行使することに強い憧れを抱かざるを得ないのだ。
戦場に出て未だ日の浅い若者が、自分が思っていた以上の手柄を上げ、さらなる大手柄を求めて分不相応に勇敢な働きをしようとする。だがしょせん新兵に過ぎない彼は、自らが取り返しのつかない危地に足を踏み入れていることに気づかぬまま、あっけなく討たれてしまう。油断のために、危地が死地に変じてしまったというわけだ。そんなことは、どこのいくさでも決して珍しい話ではない。戦いの昂揚が魂を駆け巡る速度たるや、匹夫の勇という諌めなど一瞬にして遠ざけてしまうほどのものであるのだから。
弓馬に慣れてきたとはいえまだまだ未熟なモレヤが、己の力を過信して獣を深追いし、逆に襲われてしまうような事態になったとしたら。手綱さばきを誤り馬の脚をつまづかせ、落馬して首を折りでもしたら。そして神奈子と諏訪子、多数の兵士や舎人にその身を護られるがゆえ、どんな苦境に立たされても必ず誰かが助けてくれると思い込んで、何の対処もできぬままあっけなく死を迎えてしまったら。
それは、かなしい。
かなしいが、モレヤはしょせん、そこまでの天運しか持たなかったと納得したがる神奈子が居る。自分の実力を過信した新兵が、結局は己の首を絞める結果に終わるように。ならば、そうなる前に――他の何者かに殺されるより早く、神奈子自身が殺した方がましだとさえ思う。神が下す最期なのだから、これもまたひとつの天運であろうと。
それこそが彼女の目論むうちの、確かなひとつであった。
自らのつくり上げる政を人の世で百年も二百年も続かせるためには、後代に無用な権力争いを残さぬよう、後継者をしっかりと定めておかなければならない。だからこそモレヤが王にふさわしくないと解ったら、他の誰かにその命を奪われる前に殺すのだ。王権の定かならぬ状況で後を継がせても、諏訪は、王を僭称する者たちの争いの場となりかねないのである。だから狩りの場を選択したのは、もし本当にモレヤを排することになったとしても、不慮の事故や誤殺といった言い分を押し通しやすいからであった。それなら、諏訪の豪族たちへの言いわけも立つ。
だというのに今日のことは、彼女の心に芽生え始めていた『何か』を傷つけて止まないものがある。
――――臆したか、私は。
諏訪の柵からの出発前、騎乗に手こずるモレヤを見て思ったことを、いま再び神奈子はくり返した。いったい、何をためらっているというのだろうか。あの少年に次代の王としてふさわしからざる振る舞いあるときは、山野に駆ける獣たちの牙と爪とに頼り、その肉体を引き裂かせてでも殺す。それが、諏訪の未来における憂いを取り除くための方策だ。巧言の裏側には常に利剣が隠されているように、実践の場でモレヤを鍛えるという名目には、神奈子と諏訪子の計略を秘めておく。確かに、ふたりで約したではないかと。
「なんたる、暴論!」
と、諏訪子は膨れて言っていた。
「それでは……いったい何のために、八坂さまにモレヤの後見をお願い申し上げているのか!」
城の一室。
モレヤを神奈子にけしかける理由(わけ)を明かした埃舞う暗い部屋にて、その小さな身体に満腔(まんこう)の怒りと動揺を込めて、彼女は懸命に抗議をした。そのときの情景が、いま狩りの場にある神奈子の脳裏には、奇妙に可笑しいものとして、にわかに閃きだしていた。
「落ちつけ。それとも、その怒り顔も得意の謀(はかりごと)か」
「謀などではございませぬ! 八坂さまは、先ほどモレヤを御自らの王位を継ぐ子とするおつもりであると、そう仰せになったばかりではございませぬか。その舌の根も乾かぬうちから、王にふさわしい者でなくば殺せなどと!」
「よう聞け、諏訪子! ……私も考えなしにこんなことを言うておるのではない。ひと口にモレヤを王に就けるとは言うても、あの子は王の子として産まれ、王たるべき者として育ったわけではない。諏訪豪族どもの策動によりて、むりやりに諏訪王として祭り上げられ今日に至っておる。そこいらの凡人が名のみを王と僭(せん)しても王者にも覇者にも成れぬごとく、ただ漫然と時を過ごしていたところで、モレヤは名だけの諏訪王に終わる。そうは思わぬか」
諏訪子の華奢な両肩に手を置き、神奈子は言った。
「あれが名のみの王として、われらふたりの庇護を受けるだけ受けて……ただそれだけで生きていくなら、たとえ成長ののちに、神奈子と諏訪子の力添えで後継者として擁立されたところで、政もいくさもできぬ弱き男としか成り得ない。それとも諏訪子は、モレヤにそうなって欲しいと願うのか」
「それは……そのようなこと、元より願うはずもありませぬ」
「八坂も同じぞ。だから、なのだ。だから、いずれモレヤが王としてふさわしき子であるのか、その資質を見極めねばならぬと思う。神に庇護を受ける惰弱さと、王ゆえの過剰な慢心と。そのふたつに殺されぬだけの“いくさ”を、あの子が見せることできるのか。見せることできねば、いかなる手を打ってでもモレヤを政の場より排さねばならぬ。……惨たらしき策ではあるが、あれが愚者として余人より謗り(そしり)を受くることを先立って防いでやることしか、この私にはできぬ。いずれ来たる、諏訪という国の未来のために」
渋々ながらも、諏訪子は首を縦に振ったのである。
だからこその今日という日であった。
朝餉の際に神奈子と諏訪子がモレヤにかけた言葉も、狩りという危険のつきまとう催しを行うと決めたのも、神奈子があえて部将に追わせずモレヤ隊だけを専行させたのも、すべては彼という少年に王としての資質が在るのか、それを見極めるための演出に他ならなかった。誰の力にも頼ることなく、己の慢心にさえ打ち勝って無事に帰ってくることができるのかという。
「ならば、諏訪子にも策がひとつ」
「なんだと」
「先ごろ、ギジチと申す水内郡の豪族から遣わされたイゼリという子。野駆けの際には、あの者も供奉させることをお約束くだされませ」
「なぜ、そのようなこと言い出す。ギジチは商いに通ずる者にて、イゼリはその縁者ぞ。あれにもしものことあらば……」
「ギジチへの背信となり、彼が掌握する商いの力を利用できぬ」
「そうだ。解っているのなら、なぜ」
「だからこそです。モレヤと共にイゼリをも供奉させることで、八坂さまがわざわざ自らの用事に連れ歩く人質とは、昵懇(じっこん)の間柄であるように人の目には見受けられましょう。すなわちあなたの行われる政がギジチと近しきものであり、さらにはその繋がりが、次代となるモレヤにもまた受け継がれる余地があると示すため」
なるほど、と、神奈子は暗闇で膝を打ったのであった。
確かに諏訪子の言い出すことにはいちいち理があった。
狩りの場にてモレヤを試すことが政のためというなら、供奉に誰を選ぶかというのも政のひとつではあろう。が、神奈子の眼と思考とは、直ぐさま諾々と諏訪子の考えを受け容れるほど曇ってはいない。彼女の理知は――諏訪子の言い出した策なるものが、その実は、もしもモレヤひとりだけが死ぬようなことになったとしたら、それはあまりに哀れに過ぎることなのだと言っているるのを、敏感に察していたのである。
思えば、諏訪子というやつは祟り神だ。
人の姿を取り、人の言葉を発し、人に交わり、人に近しい考え方をする。
人に祀られるならば、人に理解できる神でなければならないのだから。
だが、やはり。心の内にあっては人と同じとは言い難い。
燃え盛る激情と湿った願望が濁流となって、彼女のなかに在ることを神奈子は見抜いていた。自然のさなかに発する存在ゆえ、人のそれより烈しい心を持ちたがる。さながら、獣のごとくにだ。ために諏訪子は、ただモレヤだけを死地にも近い場所に追いやることに納得できていないのであろう。王の死に命を捧げる殉死者がごとく、モレヤが死んだときには、同じ人質であるイゼリもまた死ななければならないと――そういう、どこか歪んだ願望を抱いている。それは、八坂神奈子もまた神なる身だからこそ、理解できた切実さなのだった。
それを思えばこそ、今日のすべてであった。
結局、諏訪子の策を採ったのは、彼女に惚れた弱みというものでもあったのかもしれなかった。
諏訪子が策を弄するなら、神奈子もまた策を弄する。
モレヤの熱に浮かされた表情をも、いつもと変わらないいくさ神の面貌(かお)で取り繕うことが十分にできた。できたはずであった。
だが、遠くから鳴り物の音を浴びながら、いま彼女の箙は空(から)に近くなっていく。
雉の風にも、猪の影にも、鹿の跳躍にも、野兎の俊足にも、彼女の放つ矢は、何度弓を引いても決して命中することはなかったのである。鳥にも獣にも、自分の心の浮つく様が読みきられてしまっているようではないか。風下に立ってにおいが相手に流れるを防ぎ、物音ひとつ立てずに弓に矢をつがえている。だというのに、放つ矢という矢は一本も獲物を仕留めることができなかった。猟犬たちも、いつしか退屈そうにあくびを見せ始めている。
わずか数本のみにまで減ってしまった矢の束が、箙のなかでからからと鳴る。
その音を耳にしながら、諏訪の森を見回していた。
今度こそ、と思いながら、獲物を探しているのでは、本当はなかったのかもしれなかった。加護を賜う人の神、それが確かに存在する証が欲しかったのかもしれない。政のために『居る』ということにされた、この場には未だはっきりと居もしない“出雲人の奉ずる権威”という得体の知れぬ神を、自己の眼によってえぐり出そうと努めるかのごとく。そしてもしそんなものが在るのなら、酷薄な試練を課した自らの代わりに、モレヤたちを護りたまえと祈るかのごとく。
幾つかの起伏を越え、山の空気は少しばかり冷たくなっていた。
よもや雨が降ろうか。未だ晴れてはいるが、山頂の付近には糸を幾重かより合わせたような雲がたなびき、空気が湿り気を帯び始めている。頃合いを見て、城に戻ることも考えなければならなかった。神奈子は、いつでも何かを考えている。傍目から見れば、それがひどく不安げな顔つきをしているとも思われてしまうほどに。
「どうされました。八坂神」
彼女の轡を引いていた兵が、心配そうに訊いてきた。
はッ、と、させられて馬上から彼を見下ろすと、さっきまでいったい何を考えていたのか、その大半があっという間に消し飛んでしまっていた。ただ、何となく頭に残っていた景色がひとつある。あらゆる不安をその景色で塗り潰そうと決め込む腹で、ぽつりと言葉を返す神奈子だった。
「……見とれていただけよ」
「山の中に、見とれるものがおありですか」
「山にではない。麓向こうに遠く見渡す、諏訪の湖(うみ)」
手綱を引き、馬を制する。
轡の兵も足を止め、神奈子と同じものを見ようとした。
急峻な崖となだらかな丘を継ぎはいだかのような山野の麓、翡翠色に輝く夏の田のずっと向こうに、諏訪の湖がきらめいていた。
「見とれるものとは、あの湖のことにございますか」
「そうとも。いま、急に“あれ”がうつくしいと思えるようになった気がした。その近くで田畑を耕す民百姓も、湖上に舟を浮かべて魚を取る猟師たちも、みなうつくしいと思えるような気がしたのだ」
湖面に浮かぶ漁民たちの舟の幾艘かは、山上からでは水たまりに浮かぶ葉にも似て見えた。片方の手のひらで“つかみ取ることができる”ほど、いま諏訪の湖は神奈子のものであった。だが、そんな感覚はしょせん幻想だったのかもしれない。山上から見下ろす諏訪の風景が彼女の箱庭だとしても、八坂神奈子はそのすべてを完全に手に入れたわけではなかった。権威も信望も次代の王も、己が心の次第でさえも、ままならない今の彼女だ。それでも、倭国を取り巻きはるか遠国たる大陸に通じる海原とも、東征の途上で通りかかった近淡海(ちかつあわうみ。琵琶湖の古名)とも異なるきらめきを、諏訪の湖は保ち続けているのである。
――――他人は他人だ。よその神はよその神。
“ここ”から見える諏訪人民は、神さまが自分たちをまじまじと睥睨(へいげい)しているなどとは、よもや思ってもいないだろう。王が民の生活のすべてを知らないように、民もまた王の何もかもを見ることはできない。民は民で、王は王だった。彼らに信ずる神があるごとく、出雲人にも広めるべき神があった。奉ずるべき権威がそこにあるのと同じくらい、八坂神奈子が棄てたくない一念もまた、あったのかもしれなかった。
――――八坂の考え、甘いかも知れぬ。
――――師とはなれても、私は父とも母とも成れぬ性分か。
「諏訪の湖(うみ)には魚(うお)多し……か」
「は……? それは、いったい何の歌で」
「我もちょっと聞きかじっただけに過ぎぬ。そこだけしか憶えてはおらぬのだ」
眼を丸くする兵に何の遠慮もすることなく、神奈子は下馬した。
そして、周囲の将兵が「何をなさるか」と注意を向け始めるより早くひざまずき、地面に耳をくっつけたのである。
「いかがされました。不穏の気配でもお察しにござりまするか」
「しっ! ……皆、少し黙っていよ。モレヤたちの足音が伝わってはこぬか、測っておる」
指先ほどの長さの草が神奈子の目蓋に触れ、それを疎んじてか彼女は眼を細める。どこかまどろみにも似た顔のなかで感じていたものは、十数人から成る『行軍』の気配。それから、粘ついた山の大気を闊歩する鳴り物の音の残骸だ。それらがかすかにこちらの聴覚を刺激するところは、群れなした音が土中に張られた木の根をかいくぐって、おそるおそる浮上する。そんなものを想像させる。
最後に別れたときから、少しばかり北寄りに移動したらしいモレヤ隊の気配を聞き、地面に直に耳をつけて行軍の気配を探っているというのは――まるで何かにひざまずき祈っているみたいだと、神奈子は妙に皮肉っぽい気分になる。自分はモレヤたちの死ばかり願っているわけではない。だが、必要とあらば今日この狩りの場で殺す覚悟も、確かにあるはずだった。モレヤを我に殺させたまえ、しかし、その命を護りたまえ。神が祈るというのは甚だ滑稽だったけれど、それが、今の八坂神奈子の気持ちをかたちづくる真摯な矛盾と言えるのかもしれない。
「眼飛等を呼べ」
すッくと立ち上がると、神奈子は供奉の将兵に命じる。
兵たちは直ぐさま、さして多くもない人波のなかから、命じられた人物を主のもとまで連れだしてきた。背が低く、鏡を埋め込んだようにぎらついた眼をした男であった。その眼光の生々しさや、地面を這う様子を連想させるべったりとした歩き方は、彼という人間の端々に、ぬめぬめとした爬虫動物の色を想起させずにはおかない不気味さがある。
「眼飛等舎人(まなひとのとねり)」
「へえ」
「そなた、東国鎮撫のいくさの折はこの八坂の帷幕(いばく)に在りて、よう物見の仕事を任されていた。そうであったな」
「へえ。おれは、剣も振れないし馬にも乗れませんがね、この眼の良いのだけが取り柄の男なもんで……」
じろりと眼飛等を値踏みしながら、神奈子は諏訪の湖を指し示した。
「あの湖に浮かぶ、漁民たちの舟が見えるであろう」
「へえ。今日は五艘ほど、浮かんでおりますね」
「では、これから彼らの捕る魚がいかなるものか、我に教えてみせてくれ」
そう命ぜられた言葉が終わるよりも早く、眼飛等は湖を望む崖の際まで駆け寄っていく。わざとらしく首を伸ばし、眼を細めたり開けたりする彼の動きは、今まさに与えられた仕事をしているのだと示すための仕草であるのかもしれなかった。
投網をたぐり寄せて、捕れた物を魚籠(びく)に放り込んでいく猟師たち。
その小さな姿までは神奈子や将兵たちにもかすかに見えるが、手元にどんな魚が捕れているのかまでは、さすがに解らないのである。やがて、眼飛等はわざとらしく咳払いのような音を立てた。すばやく神奈子を振り返ると、どこか“湿った”感じを与える笑みを見せ、
「ねえ、神さま。何を仰いますか。ありゃ魚じゃありませんよ。あの猟師どもが捕ってるのは、みな海老のようですよ。赤茶けた色した、海老がたくさん」
と、言った。
その言葉が発されたとき、将兵たちから湧き出てきたのは感嘆や称賛ではなかった。むしろ、呆れとか嘲りに近い感情だ。
「まことか。まことにおまえの申す通りのもの、捕れておるのか」
「生まれも位も高くない貴様を八坂神がお使いくださるのは、ひとえにその眼の良さゆえのこと。褒められたいがためにデタラメを申すようなら、承知せぬぞ」
言葉こそ怒っている風だったが、声音の方ではまるっきり笑いが滲んでいた。
眼飛等舎人という男の能力はともかく、決して美男子とは言えないその容貌やら出自の卑賎さやら、彼のそういう諸々が、将兵たちの出雲人らしい自尊心をくすぐってやまないのかもしれなかった。
が、自尊心なら眼飛等にだってある。
見た目に似合わず勇ましい声を張り上げると、彼は身に武器を帯びた将兵たちにも何ら怯むことなく食ってかかる。
「何ァにを言うんですか! おれは親父やお袋から、正直こそ人の宝だと昔っから教えられてきたんですぜ。だいいち、この眼飛等が今まで、いくさであんた方に嘘を申したことがありましたかね。おれの物見がなけりゃあ、敵が直ぐ近くにやって来るまで気がつかないってことも……」
「落ち着け、眼飛等」
制したのは、将兵の方ではない。
部下同士の無意味な喧嘩を見咎めた八坂神奈子、その人である。
「そなたの正直と眼の良さは八坂神がよう心得ておる。此度も嘘など申しようはずもないとな。そなたが、あの湖から海老が捕れるというのであれば、確かにそうなのであろう」
「へへ。やっぱり神さまってのは話が解るお方なんですね。ところで神さま。今回のこれで、御褒美はいかほどもらえるんで……」
現金なやつよ、と、笑いが漏れる。
いやらしいというよりは子供がそのまま大人になったごとき性格の男だと、神奈子は眼飛等舎人のことを見ていた。幼い子供が食欲のまま菓子をねだるように、彼は自分の仕事ぶりに見合った褒美を、無邪気なまでに欲しているのである。
「解った、解った。後であの湖で何がよく捕れるか、調べてからな。見事に言い当てていたなら、諏訪の砂金でも後でくれてやる。……と言いたいところだが、まず今日のところの仕事を受けて欲しい」
再び騎乗すると、弓の端を指先の代わりにし、北の方角を指し示す神奈子。
横目で眼飛等を、それから他の将兵や舎人を見渡しつつ、どこかわざとらしさの残る様子で声を継ぐ。
「モレヤたちは、北側に進んでいるものと見える。土のさなかに行軍の足音を辿ってはみたが、この耳ひとつだけでは信用に値せぬ」
言い終わる前に、その視線は眼飛等だけに注がれている。
「そこで、眼飛等。そなた、われら一隊より少し先に立ちて、モレヤたちがいかなる方向に進んだのかを見極めよ。ある程度まで見定めることできれば、そこから先は八坂がひとりで参る」
途端、眼飛等はじめ、その場の将兵や舎人の一同が一斉に眼をむいた。
八坂神のご直々に、下賤な身分の舎人に特別らしい仕事を与えたからではない。問題はその先であった。神奈子の御自らが、途中まで眼飛等の先導を受けはするが、その後はたったひとりで森に分け入ると言い出したことだ。神奈子の突飛な思いつきややり方に慣れている部下たちも、これにはさすがに開いた口がふさがらないものと見える。
「あ、危のうございます! せめて猟犬ども、いや当地の地勢に詳しい諏訪人の舎人どもをお連れになってくださりませ」
「そうです。モレヤさま方を眼飛等の眼力でもって探させるおつもりなのでしょうが、矛も弓も“もの”にならない男を連れていっても、足手まといになるだけでしょう」
将兵も舎人も身分の上下に関わりなく、神奈子への諌めなのか眼飛等舎人への悪口なのか、よく解らないようなことを口々に叫びはじめる。彼らなりに八坂神の身を案じる忠節のつもりではある。けれど、神奈子がいちど言い出したことは滅多なことではねじ曲げない性格であるというのを、彼らもまた十二分に思い知っているのだ。含み笑いを見せる神奈子のかたわらには、もう『神さまのお気に入り』になったつもりらしい眼飛等が、得意気に顎をしゃくっていた。
「そう早合点するな。何もここにそなたたちを棄てていくのでなし。八坂神が、そなたたちを置いたまま帰って来ぬはずはない。それは、元の異神の地にても同じこと。少しだけ、この場にて待っていよと命ずるだけぞ」
冗談めかした声ではあったけれど、言ったこと自体は本心からの神奈子の思いだった。いくさ神として将兵をなだめる立場からの心であり、そして、王として人々を見下ろす立場からの心でもある。そうなのだ。神にして王である自分は、誰をもひとりで死なすわけにはいかないのだ。それは将兵たちに対してであり、後継者になるかもしれないモレヤという少年に対してのことでもあった。
だから、彼女は決めた。
少しのあいだ部下たちを残し、モレヤたちを探しに行くことにした。
あるいは、それは自ら諏訪子に向けた提案に対して、最大級の背信となるかもしれない行為である。けれど、やはりどこかで神奈子は臆していたのかもしれない。狩りの場にて同じく死ぬなら、獣に喰い殺されるよりも、自分自身の手でモレヤを殺した方がより良い選択だったのではないかと。
もしあの子が慢心の果てにたったひとり森で迷い、そして死んでしまうのなら、せめてその最期を自分がもたらしてやることが神としての責任ではないのだろうかと、神奈子は考えていたのである。信じて待つということが、できないらしい性分の彼女であった。自分にできるのは、やはり力を頼み、それでもって人を起(た)たしめるということだと。それが、八坂神奈子がいくさ神たる所以(ゆえん)であるのかもしれなかった。
「では、参る。半刻より経ってわれらが再び姿現さぬようなら、城に戻りて兵を率い、山狩りをさせよ」
部将はじめ、兵や舎人たちもみな矛を天に向けて不動に立ち、深々と頭を下げた。
馬の轡を引き受ける者さえ、神奈子は連れて行こうとはしなかった。
猟犬たちが、次第に遠ざかっていく神奈子と眼飛等を見、訝しげに吠え声を立てる。
ごく短い時間で終わるはずのいくさまで、道のりはそう遠くもないのだと、神奈子は予測を新たにしていた。
――――――
山野の北側はより鬱蒼と森深くなり、人の通った跡さえ稀である。
人の通る場所なら、踏み固められて土が変質し、道らしいものもいつかできるだろう。
が、いま神奈子と眼飛等が歩む森のなかにはそんなものはない。太陽でさえ照らすのを忘れたかのような緑色の薄闇が、嗅覚を乱しにかかる強烈な土のにおいと共に、無尽に辺りを取り巻いていた。
「神さまあ。いったい、おれたちゃ、どこまで行くんです。人の足跡とか馬の蹄の跡らしいのを追っかけて歩いてきましたけど、いっこう人間らしい連中には出会わねえや」
「人間だけでなく、虫魚禽獣(ちゅうぎょきんじゅう)いずれにも、取り立てて気がつくほどのものには出会うておらぬ。むろん、飢えた熊や狼にもな。というのも眼飛等舎人、そなたが獣に出くわすことなき道筋を見つけ、案内(あない)をしてくれるおかげではないか」
そう褒めてやると、神奈子を先導する眼飛等はにやにやと笑いだす。特に謙遜をすることもない。本当に子供みたいな男である。とはいえ、安易におべっかを口にしたわけでもなかった。眼飛等の眼の良さは本物だ。大勢の人間や動物が通っていき、未だそれほど長い時間が経っていないのなら、道らしい道はなくても必ずや森のなかには足跡はじめ、土や泥が不自然に削れたり、草が踏み潰されていたりするなど、何かが通った形跡が残っているはず。彼は実に器用にそれを見つけ出す。そして、小躍りさえしながら神奈子を呼ぶのであった。仕事をすればするほど、褒美がたくさんもらえると思っているのだろう。見知らぬ森を歩く不安より、そういう欲心の方が彼は勝っているのだ。眼飛等舎人という男のそんな単純さが、今の神奈子にはありがたい。
「眼が良かろうと耳が利こうと、敏く(さとく)においを嗅ぎ分ける獣のごとき力がわれらにはない。ゆえに、地道に味方の足跡を探してゆかねばならぬ。眼飛等、頼りに思うぞ」
ときおり素直に部下を褒めてやるのも、上に立つ者が人を使う大事なすべだと重んじている神奈子なのだった。
そんな風にして――ときおりぐちぐちと文句を口にする眼飛等を、神奈子がなだめすかして先導役に集中させるということが、しばし続いた。森の奥深くに進めば進むほど人の形跡は細く薄くなっていき、代わりにいずこからとも知れない禽獣の息吹のようなものが、そこかしこから押し寄せてくるような気配があった。
あるいは、いわゆる『獣道』とでもいうべきものに踏みこんでいるのであろうか。
ちらと周囲に眼を遣れば、狼か山犬か、それとも狐か穴熊かは知れないが、ときおり、土の上に小さな足跡が連なっていたり、真新しくにおいの強い糞が転がっていたりする。獣が自らの縄張りであることを示しているのか、樹皮に身体をこすりつけた跡として毛のかたまりが残っていたり、尿を引っかけたような場所もある。それに灰色をした影たちが群れを成し、瞳を金色に輝かせながら、木々のあいだを陽炎じみてすり抜けていくところを見たような気がした。人の姿をした理知ある神々とは違う、それよりさらに原始的な思考の産物である、生の熱と本能そのものの化身たる動物神たちの気配を、神奈子は否応なく感じさせられる。
あるいは、ここはすでに出雲の神威およばぬ領域であるのかもしれないと、ふと兆した危惧がひとつ。諏訪の山々は、元をただせば神域の森である。それを諏訪攻略の戦略上の必要性から鳥居を立て注連縄を飾り、掌握しなければならなかったのだ。だが、その『縛り』があと一歩及ばぬ領域が残っていたとしたら。
国が変われば人が変わるごとく、そこに存する神もまた変わる。神が変われば、その存在の基盤たる思想や世界観もまた変わるのだ。異神たちの領域にあっては、今こうして無遠慮に歩きまわる出雲人、出雲の神の方が、愚かで野蛮な者たちに過ぎないのかもしれないではないか。そしてこの場において“値踏み”をする権利を持っているのは諏訪の動物神たちの方で、縄張りのなかに踏みこんでもなお自分たちが襲われることがないのは、そのための情けのゆえなのだとしたら。
けたけた……と、急にどこかで笑い声が響き渡った。
だがよく耳を澄ますと、それは山犬たちの遠吠えが幾つにも連なり、反響した音というだけだった気もする。深く深く歩くごとに、神奈子は神や王としての覆いを削ぎ落され、自分が人に化身しただけの一個の生き物でしかないような、そんな慄然たる思いにとらわれていく。
「ちょ、ちょっと神さま! いま、あっちの茂みで狼がおれたちを睨んで……」
「よく眼を凝らせ。あれは、ただの木の虚(うろ)の暗みではないか。眼の良いそなたが見間違えたのでは、八坂は何を頼りに進んでいけば良い」
傍目にも解るほど「ごくり」と唾を飲み込む、臆病な眼飛等である。
そんな彼を勇気づけながらも、神奈子の心もまた不安のためにざらついていた。
今の今まで、持ってきた矢をむだに使い過ぎたような気がするのだ。
それで獲物を仕留めることができていたのであれば、慰みにもなる。
けれど、箙のなかで矢があとわずか数本となった原因は、モレヤ隊の行方を案ずるあまり弓矢の狙いをことごとく外してきてしまったことである。これが矢のむだでなくて何であろうか。このようなありさまでは、もし眼飛等の怖れるごとく急に獣が襲いかかってきても、彼と自分の身を守れるかどうかは解らない。眼飛等舎人にしてもどうやら鉈(なた)の一本ぐらいは下げているらしかったが、見ればそこまで大きな刃ぶりでもない。そのうえ取り立てて武勇に秀でているわけでもない彼が、その程度の武器を手にしたところでどれほどの戦力になってくれるのかは、むろん怪しいものがある。ならば他に役に立ちそうなものは、せいぜい、神奈子自身が持つ鉄剣くらいか。
「安心するが良い。昔、丹州愛宕の山に棲み、出会う者に石の雨を降らす怪鳥(けちょう)とひといくさ交えたこともあったが、そやつも物の数ではなかった。この八坂神がついている限り、少なくとも今日の道行きを案ずることはない」
と、眼飛等が恐怖のあまり逃げ出さないよう、そんな風にして彼の心を鼓舞するのが、今の神奈子の精一杯なのである。せめて、この、飲料水を溜めて腰に下げる竹筒が、矢の束かつるぎのもうひと振りであったならと、思わずにはいられない。
ともかくも、ふたりは歩いた。歩き続けた。
人の残したものと思しき一隊の足跡をたどり、森の奥深くへと進んでいった。日の光が届きにくくなった気がするのは、山が深くなってきたせいではなく、日そのものが少し傾いてきたせいだろう。半刻ほども歩いただろうか。足跡に眼を凝らして探し、それを追いかけているのだから、普通に進むよりどうしても歩みは遅くなる。おまけに、山歩きは起伏や傾斜、滑りやすい場所やつまづきやすい所も多い。そんな諸々にかかずらわっているうちに感覚は乱される。
今さらにして、馬は部下たちに預けて徒歩(かち)で歩けば良かったと神奈子は後悔した。気の急くあまり、馬の蹄には山を進むのはときに難しいことすら、彼女は失念していたみたいだった。もっとも、疲労の度合いでは鞍の上でも土の上でも大した違いはないのかもしれない。たぶん、距離にしてそこまで長々と進んできたわけではないはずである。けれどもう頭のなかでは、もう十里も二十里も強行軍を続けてきた気分を味わっている。
が、そのようななかでも、ふと何か気がつくときがあった。
神奈子が、
「待て、進むな」
と、眼飛等を制したのは、ふたりの道行きが鉛を抱いたように遅々とし始めた頃合いのことである。
遠景に、諏訪の湖が小指の爪先ほどにまで縮んで見える森のなか。
その辺りで、ふたりは立ち止まっていた。
今まである程度の感覚と規律を保った風にして続いてた足跡が、ここにきてにわかに乱れはじめていたのである。大きく地面を踏み込み土を抉る物、蛇行してどこかに消えてしまう物など、それぞれの足跡の行方はまばらであった。破れ剥がれた太鼓の皮や、草の汁で汚れた鉦が落ちているのまで見た。馬のものとは様相の違う蹄が、人間の足跡を踏みにじったような跡もある。ここで、何かが起こったらしいのだが。
「へっ! な、何かありましたか。まさか、今度こそ熊とか狼が……」
眼飛等が、素っ頓狂な声を上げる。
対する神奈子はあくまで冷静だ。
「かも知れぬ。狐狸(こり)の類が化かしにかかっているというのなら、まだしも笑うて許せるが……何か、うめき声のようなものが聞こえはせぬか」
「うめき声ですって!? そりゃ、今度こそ本当に獣が居るってことですよお。こ、今回のところは諦めて、諏訪のお城に帰りましょうよお……! ンで、神薙比の将軍さん方と一緒に山狩りすれば、きっとモレヤの王さまも見つかりますってば!」
「しぃッ。少し、口をつぐんでいてくれ」
半分べそをかきながら泣き言を並び立てる眼飛等を黙らせると、神奈子は下馬する。
かすかな風で辺りの草々が擦れ合う音や、大小さまざまの鳥どもの羽音や鳴き声が乱れ交わっていた。いななきさえせず山の草を食む愛馬のたてがみを撫でながら、確かに彼女が感じ取っていたものは、単なる自然の風音や獣のうなり声とは違う、はっきりとした意志持つ人の声だ。――否、耳を澄ませば澄ますほど、烈しい苦痛のあまり意味を成さずに、言葉としての姿を失くしてしまった声だというの解ってしまう。それが、かすかに聞こえてくる。
「人だ……。人の声がするではないか! 眼飛等!」
「はいっ!」
「そなた、もいちどよく辺りを探せ。絶え間なき草と土のにおいに混じりて、おびただしい血のにおいが、わずかだが風に乗って感じられる気もする。眼飛等の眼力なれば、いずこかに人の姿あっても見つけられよう」
尻を引っぱたかれたように眼飛等は飛びあがった。
ついさっきまで怖がってへっぴり腰だった彼だが、途端に勢い込む神奈子の姿に対しては、泣き言をぶつけるだけの余裕もなくなったらしい。樹木のあいだを縫って群生する植物たちはいやに背が高かった。直ぐさま腰から鉈を抜き払い、辺りの草叢(くさむら)を切り払い始める眼飛等。やがて草の切り口からこぼれた汁で、錆止めに塗った鉈の黒色が染まり始めたころ。
「かッ、かッ! かかか神さまァ!」
「どうした。何か見つけたか」
「人ですよ。人が倒れてます! こ、この人は、確か犬養部の――」
犬養部。
そこまで耳にしたとき、眼飛等の報告を最後まで待つことなく神奈子は駆けだしていた。
こちらに背中を見せている舎人を、ほとんど突き飛ばさんばかりの勢いで脇に下がらせると、倒れているという者が誰なのか、その姿を覗きこむ。嫌な予感が心中に広がっていた。そして、何かことを構えるときの八坂神奈子の予感というものは、いつもだいたい当たってしまうのであった。それが良くない事柄であれば、なおさらのこと。
「誰か……居るの、か。助けて、くれぇ……」
声の源は、少年であった。
声変わりをしながらも、未だ歳若さが抜けきっていない少年だ。
彼の額は、地面に埋まっていた岩にぶつけてしまったためか、浅く割れてしまっていた。傷口から流れ出た血の筋は左目に差し掛かり、やがて凝固し、膠(にかわ)のように粘ついて彼の目蓋を閉じさせていた。長い髪の毛を後ろ頭に束ね結っていた紐はいつしか解けているらしく、髪の毛がばらばらと地面にこぼれてしまっている。もはや悲惨な面相だが、神奈子にはそれが誰であるのかはっきりと解った。唇の脇にある大きな黒子は、彼が諏訪の柵に人質としてやってきたときからひときわ目を引く特徴として、よく自分の記憶に刻まれていたからであった。
「そなた、イゼリではないか。諏訪の柵の犬養部、イゼリではないか!」
直ぐさま少年を抱き起こし、神奈子はその名を何度も呼んだ。
少年――イゼリは自分を呼ぶ者の声に懸命に反応を返そうとする。唇が呼吸だけでなく言葉を探すために震えていた。彼の身体は冷たかった。生命の熱が、止めどなく流れ去ろうとしているみたいだった。やがて自らの手に伝う生ぬるい温度に気づき、神奈子はその原因を悟る。彼女の手は、未だ凝固しきることのない真新しい血液で濡れている。イゼリの横腹辺りから流れ出る血のためだ。彼の着物と皮膚は引き裂かれ、傷口から漏れ出かかった薄桃色の腸(はらわた)が、体内の脈動を伝えながら、神奈子の手を真っ赤に染めていたのである。
何か、鋭く複雑な形状をした物で貫かれたか――。
いくさする者としての眼で、イゼリを傷つけた武器らしいものが何であるかの見当をつけようとする。だが彼女の知識のなかに、人の肉体に斯様な傷を与え得る『武器』はひとつとして存在しない。イゼリの傷口は、幾層にも渡ってあまりに複雑である。喩えるなら岸辺に打ち寄せる潮の形なさというものが、そのまま刃と化したのかと思うほど。剣や矛で斬られ突かれたのなら、ある程度は真っ直ぐな傷跡となろう。鏃(やじり)であれば小さく、しかし鋭利で深々とした傷跡だろう。しかし、イゼリの傷はそのいずれでもない。人の手になる武器の仕業とは思えなかった。ならばあるいは、容赦を知らぬ獣の所業か。それが暫定の結論であった。
「しっかり致せ! 何があったのだ。モレヤ王はどうした。供奉の将兵たちはどこに行った。……答えよ!」
傷口を地面に触れさせぬよう、慎重にイゼリの体勢を入れ替えさせながら、彼女は鋭く問う。イゼリとても、豪族から預けられた人質である。彼にもしものことあらば、政に何らかの差し障りがあることは必定であった。だが、事態は彼ひとりの生命を最優先すべきものではないらしいのである。瞬時にそう判断した神奈子は、何度も何度も問いかけ続ける。
やがて、イゼリが何か口にする気配が見えた。
彼の唇に耳を近づけ、荒い息からその意を聞き取ろうと試みる。
「や、八坂の、神さま……」
「何か。――いや、焦ることはない。傷に障らぬよう、ゆっくりと申せ」
「み、ず。みず。水を、ください。……お、願いで、す。み、ずを…………」
ほんの少しだけ覗いたイゼリの口内は、渇きのために粘ついて見えた。
「水だな。待っておれ」
言うと、腰に下げていた竹筒の蓋を開き、筒先をイゼリの口元にあてがってやる。
が、重傷で体力を消耗した彼に、上手く水を飲み込むことはできなかった。
あえなく咳き込み、神奈子の与えた水の大半が吐き出され、イゼリ自身の顔を濡らすだけの結果に終わってしまう。
「眼飛等!」
「は、は、はい!」
「そなたの持っている水も寄こせ!」
「え、ええ! おれなんぞの水で良かったら幾らでも!」
眼飛等の投げ渡したのは瓢箪(ひょうたん)であった。
蓋を開き、先ほど以上の慎重さで、神奈子はイゼリの口に水を含ませてやる。
喉がかすかにこくこくと蠢く。今度こそは、彼も上手く飲み込むことができた。
「少し落ち着いたか、どうか。さあ申せ、イゼリ。そなたたち、何があった」
深い焦りをできる限りの沈着さで覆い包みながら、再び問う。
血でかたまっていた左目をゆっくりと開き、イゼリは神奈子の顔を見た。
彼の左の瞳はもはや白く濁りかけ、見るべきものを失ったかのように中空へと視線をさまよわせていた。負傷の際にどこかに左目を衝突させてしまったものらしい。視力は、とうに無くなってしまったのであろうと思われた。「八坂さま……」と、健在な方の右目で、彼はようやく神奈子を捉える。
「お、お聞きください。われら、モレヤさまの一隊、獲物を追いかけて山深くにまで入りましたが、途上にて、ひときわ巨大なる鹿に出くわしました。……モレヤさまはその鹿を射止めて、八坂さまと、諏訪子さまへの、捧げものにしてご覧に入れると、そのように……仰せられ、ました」
「それで、どうなったのだ」
「かの鹿、われらの帯びた武器を見るや、天に雷火の轟くごとく、怒り狂ったのです。兵たちの矛、将たちのつるぎ、猟犬の爪と牙……いずれも怖れることなく、われらに挑みかかり、角にて突き刺し、また崖下に弾き飛ばし……そのために、みな散り散りに逃げ去りました。他の、者たち、どこに行ったのか、もう、解りませぬ」
「モレヤはどうした」
「逃げ去った鹿を、今度こそ射止めんと、おひとりで森深くへと」
何を考えているのだ! あの、愚か者めがッ!
八坂神奈子はそのとき初めて、わが弟子モレヤを本気で罵倒したい衝動に駆られていた。
自ら求めた獲物を狩りだすため、戦いを挑む意気は男として悪くない。しかし、そのために失敗して供奉の者たちに傷を負わせ、一隊を壊滅させ、あろうことかそれでもなお逃げ去ろうとする手柄に眼が眩んで、たったひとりで獲物を追いかけ始めてしまったのだ。これを愚かと言わずして何を愚かと言うべきであろう。
――やはり、あの子はわが手で殺すべきなのだな。
――他の者に愚者との謗りを受ける前にだ。
イゼリの血に濡れた手を握り締め、神奈子は何度もその思いを反芻することになる。
止むを得まい、とは言わぬ決意だった。殺すのならば、正義によってつるぎ振り上げ、正義によって息の根を止めなければならない。いくさには、常に大義と正義が必要である。それはいわば常に奉ずる『正義』のために戦ってきた八坂神奈子だからこその思考であった。
一度はわが弟子と呼んだ少年を、今日このときに殺してしまうのだ。
初めて持った弟子らしい弟子なのである。彼のことが可愛くないわけはない。
しかし、だからこそ、――八坂神がモレヤに眼をかけるという事実があるからこそ、自らの手で彼を誅さなければならないと思った。でなければ彼は愚か者のまま政に殺され、時代に殺され、人々の侮蔑によって、永劫、穢され殺され続けるではないか。ならば、勇躍、狩りに赴いて不幸な事故で死んでしまった、そんなひとりの少年として死なせてしまった方が、よほどに彼を慈しむことになるのではないか。
「イゼリを頼む、眼飛等」
「はあ!? 頼むって、いったい何を!」
「後詰として森の向こうに残してきた味方が到着するまで、彼の具合を見てやってくれ。さいわい、辺りには鉦や太鼓が散らばっている。それを力の限り叩きまくるのだ。そうすれば、向こうの方で異変に気づいてくれるはず」
「そうしろって仰るンなら、幾らだってそうしますけど、でも!」
「何か。今は褒美を云々しているときではないのだぞ」
「そうじゃないです。こんな怪我人をおれなんかに預けちまって、神さまはいったい、どこに行かれるおつもりなんですかァ!?」
さっそく自身の手に預けられたイゼリに、眼飛等は瓢箪のなかに残っていた水を少しずつ飲ませてやっていた。が、それとても焼け石に水だろう。薬師も居なければ薬もない野山のなかで、腹を裂かれて臓物を飛びださせた人間に、気休め程度にも治療を施せるわけがない。飲ませるそばから、喉を通った水分が血となって傷口から流れ出るかと思えるほど、悲惨がその眼に焼きつけられていくだけだ。
十全に解っていながらも、神奈子はゆっくりと立ち上がった。
それは、一刻も早くこの場から離れて、自分の在るべき場所を目指すという決意の現れに他ならない。イゼリの血で濡れた手のひらを拭いすらすることなく、再び馬の手綱を握り、彼女だけの『いくさ』へ赴こうとする。
「八坂はモレヤを探す。此度、このままでは埒が明かぬゆえ」
すでに今日の野駆けの趨勢は決した。
そのように、神奈子は信じ込みたい眼をしていた。
「では、任すぞ。血のにおいの強さゆえ、放っておけば今度こそ獣たちに眼をつけられるやも知れぬ。そうならぬよう、力の限り鉦や太鼓を叩くのだ。良いな」
「あ、ああ、もう! 解りましたよ! 後はぜーんぶ、この眼飛等舎人が引き受けますから、神さまはお好きなとこへ行っちまってください!」
イゼリの身体を木の幹にもたせかけながら、やけくそ気味に眼飛等は叫ぶ。
耳も聞こえづらくなっているのか、彼の大声はイゼリの傷に障るようなことももはやないらしかった。血でぬめる手で手綱をぎりと握り締め、再びの馬上の人たる八坂神奈子は、後に残したふたりの部下を振り返ることなく、さらなる森のなかへと突き進んでいく。
――済まぬな、迷惑をかける。
心中でしたその独白が自分の判断のことか、それともモレヤの行いのことを差しているのか。それすらもよく解らぬまま。
すでに神奈子の背後では、力の限り打ち鳴らされる鉦や太鼓の音が、やかましく響き渡っていた。
――――――
山中、独力でひとりの人間を探し出すことは、いかに神奈子でも困難を極めた。
無理からぬことではある。
異邦の山中に共はなく、わずかに人か馬が通った跡を追って進んでいく。探索の役を任せていた眼飛等舎人は、とうに向こうに置いてきた。神とても、今は人間と同じ『かたち』だ。その権能は言うまでもなく超常のものとはいえ、人の姿である以上、疲労もすれば見間違いもする。判断を誤ることもある。柔らかな土を跳ねあげて進む馬の足が、いつか進みあぐねるようになったのを見かねて下馬し、その轡を自ら取って神奈子は歩いた。馬の歩みに頼ること自体がまどろっこしいとさえ、今は思えている。ならば自分自身の足で進んだ方が良いという焦りもまた、人間の考えに似通っていた。
「風。風が吹いている。諏訪の山に、諏訪の風が」
眉間を垂れ落ちる汗を指先で拭いながら、彼女はそう独語した。
風はどこでも同じである。出雲であっても諏訪であっても。ただ、今この山のなかに在る風は、獣のにおいを孕んでいる。出雲人の祀りによって神性を抑えられた城近くの森とは違う。原始的な風のにおい。それはあたかも、神や霊といったものさえ未だこの地上に存在していなかったころの、旧い息吹であるようにさえ感じられた。
八坂神奈子は、未だ何もしていない。風神である彼女は、未だ風を吹かせていないのだった。けれど、その力が風神のそれであるからこそ、神奈子はつぶさに風を読む。そこには彼女以外の人や神には決して解らない色みたいなものがある。ミシャグジたちや諏訪子とて、決して気づくことはないだろう風の色をだ。大気が乱れているのだと、吹き渡る風が怯えていた。森のなかに久しく訪れることのなかった騒擾(そうじょう)が、風を千々(ちぢ)に乱れた色に染め上げていた。
神奈子には解る。よく解る。
たとえ異神棲まう地であっても、風を操ることにおいて臆するには及ばずと。
「諏訪なる風が、もし、この八坂神に味方してくれるのならば」
風神としての権能を発揮すべきときが来たと、にわかに彼女は直感する。
誰に聞かせることもない独り言は、その実、自身の『力』に向けたものであったのかもしれない。崖から木の根が飛び出した道のりの狭隘(きょうあい)さも、好奇心のまま人のにおいのするものへ視線を投げかけてくる森の獣たちも、今の神奈子にとっては何の興味も湧くことはない、雑然とした風景に過ぎなかった。“ここ”は人の意思、人の思考が入り込むべき場所ではない。ただ獣たちと、獣たちに発する旧き神々の都なのだ。人のための力、人のための神が歩くべき場所ではなかったのかもしれない。
だけれど、そのような場所だからこそ。
人の理知およばぬ深山だからこそ、神の権能を思う存分に振るうこともできるはずであった。山を歩く者は獣であり、暑さであり寒さであり、雨であり水であり、そして大気であり風である。人のいくさ場に吹く風も、山肌を吹き下ろす寒風も、元はといえば同じ空に根を持つ存在なのである。風吹くことは、空が吠えること。神奈子は、唇を噛みながら空を見上げた。すでに見飽きるほど見てきた諏訪の空が、枝葉のあいだから彼女を見下ろしている。風神としての八坂神奈子を産んだ天空が、乾(けん)の力でかすかな風を吹かせている。
「諏訪の風もまた同じく乾の力なれば。八坂が風吹かすことで、モレヤの居場所を伝えてくれるかも知れぬ」
急に立ち止まった主の様子に面食らったのか、神奈子の愛馬は弱々しくいなないた。
汗で溶け落ちかかったイゼリの血にも構わずに、その首を撫でて馬の驚きをなだめてやる。その一方、もう片方の手は中空にゆっくりと差し伸べられた。まるで、その先に探すべきものが何か浮かんでいようにである。
ここより先は人の領域ではないのだな。
あらゆる意味での、“神います”地か。
呪詛も言祝ぎ(ことほぎ)もなく、祈りであるかどうかさえ、『それ』は曖昧な思考であった。己と周りとの境目もはっきりとはしない力の奔流が、自分の全身を駆け抜けていくのを神奈子は否応なしに感じている。それは交感であった。霊と肉の交感である。諏訪人との緒戦、矢いくさのために国境の川で風を吹かせたときとも違う、至高の快楽であったのかもしれない。神奈子のなかの女神と男神とが交わって、いま限りなくひとつのものに融け合おうとしていた。女でもあり男でもある山々の胎(はら)のなかで、無数の子らが喘いでいる。神奈子であり、モレヤである子らが。それが、神奈子が風のなかに見た幻だった。諏訪の山に彼女が吹かせた、神気まとう風の姿だった。
「解った」
誰に向けるともなく呟くと、神奈子は再び騎乗する。
にわかに馬へ鞭をくれると、慎重に、しかし急ぎながら山中をさらに踏破していく。
突き出た木の根や枯れ葉の影の大岩、足取りを絡め取る苔の滑りなどないかのように、脇目もふらずに突き進んだ。彼女自身が、風に後押しされた一条の矢にも似ている。が、矢などはしょせん、森にあっては異物に過ぎない。その異物が――自らと同じ異物がはるか向こうに居る。そのことをようやく見つけ、神奈子は突き進んでいた。大気を揺り動かす乾の風が、彼女の感覚を倍加させている。弓弦を弾く音が聞こえていた。自ら駆る馬の、蹄の音のあいだを縫うようにして。確かに、拙い弓弦の音であった。そして、未だ勝利の自信が胸中にみなぎる驕慢を秘めた音であった。
ひときわ強く鞭を振るい、馬を鼓舞して小さな沢を跳び越える。
すると、その向こうへついに目指すものがあった。
周辺の樹木に真新しい矢が突き刺さっていた。そのなかの幾本かが折れ飛んでいる様からは、事態の烈しさが読み取れぬこともない。帳(とばり)を成すごとく重なり合う木々の境を縫って、神奈子は進む。大気の流れが変わる。においが変わる、色も変わる。直感したのは、本来人が踏み入るべき場所ではない地にモレヤが踏み込んでいるということである。なぜなら、この地は神在る浄域という以上に、人の論理では図りがたいだけの野生が未だ生き残っている――そんな予感がしたからだ。
だから、必然。
人が祀り、人のための神たる八坂神奈子にとっても、踏み入るべき場所ではない。
弓弦鳴り響く気配がし、しばし陶酔さえしていた感覚を神奈子は引き戻される。
すぐさま下馬し、箙に残った数少ない矢の一本に指を掛けながら、油断なく人と獣の気配を探る。
……居た。確かに居た。
巨人の脚が生えたような木々の向こうに、懸命に騎射を試みるひとりの少年。モレヤ。そして、彼に相対するものが――。
「あれが、鹿か。かくのごとき巨大な獣を鹿と申すこと、世にあるか!」
独語とともに、思わず神奈子は舌打ちまで漏らしそうになる。
が、すんでのところで思いとどまった。山に入る者、口笛を吹いてはならぬ。ある種の狩人には、そのような掟が伝わっていると聞いたことがあるのをとっさに思い出したせいだ。むろん、この期に及んでそんな知識など何の役にも立ちはしないだろう。が、それでも、斯様に無意味な思考に彼女が及んでいたのは、神奈子がそれだけ冷静な自分を取り戻さんと、懸命に努めていた証なのかもしれなかった。
威播摩令の諌めも、“じじい”の小言とばかにはできぬわ。
狩りへの出発前に聞かされた老臣の忠告を、嫌でも思い出してしまう。
箙から矢を抜き取ろうとするのを止め、手指を開いてモレヤと相対する鹿に当てはめた。その体躯の大きさについて、おおよその目測をしようというのである。
なぜなら、野駆けに慣れた身の神奈子でさえあらためて慎重にならざるを得ないほど、その鹿が大きかったからである。まさに、『異様』な巨躯にして『威容』を湛えるという言葉が似合う獣であった。肥った、というよりも、鹿という生き物の骨格に対して、不釣り合いなまでに過剰な筋肉を搭載しているとしか言いようのないほど、見るだにその脚は巨大であり、固く引き締まっている。
尋常の鹿のそれよりも長い、白くふさふさとした毛は、髭のように顎を覆い、長の年月を過ごしてきた生命であるということを容易に想起させる。歌舞か神楽の舞い踊るごとく、その白く長い毛を盛んに振り立てる様は、烈しい怒りを孕んでいるようでありながらも、いかなる人も獣も右に出る者のないほど優美であるとさえ言えた。鋸(のこぎり)を十重(とえ)も二十重(はたえ)も束ねたように頭部を飾り立てる赤茶けた角の巨大さも、かの獣が余人の未だ知らぬ、神性をも取り込んだ野生の権化であると無言に主張している。神奈子にはそう思える。
目算においての全長は、角を除いて考えてもおおよそ八尺に余る。
普通の鹿に倍するといったほどであり、これに角の巨大さを含めれば、八尺半を超えるか否かといったところ。件の鹿と、馬上で弓を構えるモレヤとを同時に視界に収めるなら、彼のごとき少年は――否、大概の人間は、それこそ野兎の矮躯がごとき弱者としか成り得ない。それほどまでに鹿は巨大であり、そして神々しかった。
老いた神鹿(しんろく)。
そのような言葉が、自然と神奈子のなかには湧きあがって来る。
だがいくさ神としての本能なのか、自然と心湧きたつ思いもあった。武装した一隊をたった一頭で壊滅させる獣である。“あれ”と闘いたいという願いも確かにある。そういう意味では、今日の野駆けにおいて、自分より早くこの神鹿に遭遇したモレヤに妬く気持ちもあったかもしれない。が、しかし今は。
「未だあの神鹿に勝てるつもりか、モレヤ!」
再び弓弦を鳴らすモレヤの『いくさ』を見極めることが先決であった。
少年と神鹿。どちらを先に討つにしても、軽はずみに予断を許す状況ではないと思う。
拙いながらも、少年の騎射はすばやかった。
狙いを正確につけることよりも、続けざまに矢を放って鹿を動揺させ、浮き足立ったところで止めの矢を放つ作戦であったのだろう。神奈子の眼は捉える、モレヤが焦りからぎりと歯を軋っている様を。彼の眼には鹿に殺された供奉の者たちへの憐れみもなく、獣への怒りもなかった。眼前にそびえ立つ巨大な『手柄』を射止めんと、ただ遮二無二、突っ込んでいこうとしている若い闘気だけが燃えている。
その闘気のまま、彼は何度目かになる矢を放つ。
だが当たらない。神鹿が寸前で地を蹴り、身を翻したのだった。
舌打ちをする少年に向かい、獣の瞳はあくまで涼やかであり、落ち着き払っている。深い洞察を絶えず行っているようにも見える。
モレヤの箙に眼を移せば、神奈子同様、彼の矢もほとんど尽きかけていた。
モレヤは鹿を射止めることできず、鹿の方でも無傷である。一進一退、互角の攻防といったところ。並の見識であれば、そう判断するだろう。だが、神奈子の直感は違った。追い詰められているのは、モレヤの方だ。矢が尽きかけているからだろうか。否であった。このいくさは、彼我の格の違いを認識できず、モレヤの方から先に手を出した時点で負けていた。
モレヤの矢は『外れている』のではない。神鹿が自らの意思で『避けている』のである。根拠などなかった。だが神奈子には、すぐにそれと解る自信があった。これは警告だ。神域にモレヤたちが踏み込んでも、今ならば未だ供奉の者の命を召し上げるだけで赦してやるという警告だ。だというのに、彼は気づかない。自分が禁を犯してしまったことを。神にも等しい獣が、ついに巨大な角を振り立て咆哮を始めるまで、決して気づくことはない。
――ばか者が。確かにあの神鹿という手柄は大きかろう。
――だが、その大きさは重みとなって、今にそなたを押し潰すのだぞ。
神奈子は、そう大声で告げたい衝動に駆られる。
けれど喉が動かない。代わりに、身を隠す樹木の陰から踏み出そうとする。しかし、足がすくんで進めない。なぜであろうか。これは怖れか、それとも畏れか。怯えているのか? いくさ神たる自分が、あの鹿にか!
せめても箙に手を伸ばし、緩慢な動作で一矢を弓弦につがえんとする。
だが、それだけだ。直ぐに射ようとすることはできない。心臓が鼓動を強めていた。まるで本当の人間であるように、意気は高鳴っていた。恐怖と快楽が一体と成し、興奮がひたすらにその色を濃くしていく。
興奮をしているのは、神鹿もまた同じ。
容赦は終わりと言いたげに、その眼は大きく見開かれる。
蹄が地を削り、苔を踏み砕く。
甲高い鳴き声は千余の将士がいっせいに鬨(とき)の声を上げるのにも似て、神奈子の聴覚をぎんぎんと聾していく。おそらくはモレヤも同様である。さっきまで、焦りながらも勝利の自信に満ち満ちていた少年の表情は、一瞬にして蒼ざめていく。彼もまた、祝なのである。神鹿の咆哮のさなかにある烈しい神威を、感じ取らないわけにはいかなかった。
声を潜めて、神奈子は眼を剥く。
引いた弓弦に込めた力が、一瞬とはいえ萎えていく。
もはや何の躊躇もなく角を前面に押し出して、神鹿はモレヤへの突撃を開始した。
少年からは恐怖がありありと見えた。箙に伸ばしていた手を引っ込め、直ぐさま彼は手綱をつかむ。鞭を振るうか、馬腹を蹴るか。いずれにせよ彼は馬を動かして、とっさに鹿の突撃を避けようと試みる。力強く操っていた弓は放り出され、猛進する神鹿の蹄に踏み潰された。馬は恐怖にいななき、身を翻そうとする。鐙に掛けたモレヤの足が、数瞬、空中に跳ね上がり、後に残ったのは馬の柔らかな横腹だけ。
「う、ああッ……!」
小さな身体を地面にぶつけ、声というより肺のなかにあった空気を不器用に吐き出すように、モレヤは悲鳴を上げてしまう。がらがらと残った弓が箙からこぼれ落ちる。落馬であった。
神鹿の巨大な角はモレヤの身体をこそ傷つけることはなかった。
しかし、馬首を巡らしてその攻撃を避けようとしたがために、馬の横腹を鹿の正面に晒すことになり――結果として、角の直撃を受けたのは、馬の方となる。突如の激痛に動揺した馬はあっという間に制御を失い、鞍の上のモレヤを振り落としていずこかへ逃げ出してしまう。点々と、血の跡が残されていた。
ふうう、うううん。
いささか間の抜けた鼻息の音が、神奈子の耳にまでも届いてくる。馬を斃した神鹿の息だ。馬一頭を除いたところで、かの獣の怒りは収まる気配をまったく見せない。それどころか武器も馬も失った『敵』に対して、ずんずんと歩み寄っていく。
ひい、と、おののいて、モレヤは後ずさった。
見たところ、怪我らしい怪我はない。落馬した地点が分厚い苔に覆われていたおかげで、落下時の衝撃を吸収してくれたのかもしれなかった。が、今やそんなものは幸運とは言いがたかった。馬もない、弓もない。少年は丸裸も同然である。武装した将兵をたやすく殺傷せしめるほどの巨大な角が、ひとりの少年を突き殺すことの容易さなど、あえて云々するまでもない。あ、ああ、と、飢えた魚のようにモレヤは唇をぱくぱくとさせた。死にたくない、という言葉さえ、動転しきった心からは漏れ出る気配がなかった。
「た、……助けてください! 諏訪子さま、神奈子さま! どうかモレヤをお助けください! 私はおふたりの加護を信じ奉っているのです! どうか、お見捨てにならないでください!」
事ここに至って――ようやく神奈子の身体は動く。
戦いの趨勢は決した。モレヤは鹿に負けたのだ。予期されていたこととはいえ、少年は自らの傲慢さに屈した。彼女の心に広がったのは、黒く深い失望だった。怒りはなかった。在るのは、みっともなく諏訪子と自分とに助けを乞う、無様なモレヤへの哀れみだけであった。
――――他の誰かに殺されるくらいなら、この八坂神奈子が殺した方が未だましだ。
もう何度も唱えてきたその言葉を再びくり返し、強く強く、矢を握り直す。
――――他の誰かに殺されるくらいなら、この八坂神奈子が殺した方が未だましだ。
弦を引き、鏃の先を、腰を抜かして立ち上がれぬモレヤに向ける。
――――他の誰かに殺されるくらいなら、この八坂神奈子が殺した方が未だましだ。
いちどだけ大きく瞬きをし、見るべきものと見るべきではないものとを明確に峻別せんと試みる。神にして王、八坂神奈子が見据えるべきは、諏訪の地の政にして永代の弥栄(いやさか)。ひとりの少年が政に踏み潰されることを阻止し、さらにまた、彼を無意味に溺愛することなく、その誉れを保ったまま若き王者として死なせてやること。それが、自分にできる最大の温情であること。
肩と腕を通じた膂力は、今まさに攻撃性の権化として解き放たれようとしていた。
もはや神奈子の眼に映っているのは愛弟子モレヤではない。
諏訪の未来に泥を塗る悪しき先例であった。
モレヤの声は聞こえない。
聞こえるはずがない。
恐怖に刺されたか細い意思は、虫の翅音ほども神奈子に届くことはないのだ。
「八坂さま……!」
だというのに、ためらってしまう。
力も狙いもそのままで、神奈子は矢を放つことをためらってしまう。鏃の先は鈍く光り、今かと獲物を待っているというのに。いちど狙いを定めたら、早く矢を放たなければ自分がやられると解りきっているというのにだ。
彼女はとっさに思い出していた。
諏訪の柵の練兵場で、モレヤが的の真ん中を射ぬいたとき、無邪気に喜ぶその姿を。
そして、今ようやく気がついた。
助けを求めて自分を呼ぶのは、そのときと同じ声なのだと。
おお――――ッ。
肺腑の奥から息という息を吐き出して、ついに神奈子は矢を放つ。
風神の権能もいくさ神としての武威も、そこにはなかった。ただ、矢を持てるひとりの『彼女』が闘っていた。森を押し包む分厚い神気を幾重も突き破り、八坂神奈子の矢は十数間の先を突き進む。雷撃にも比される一撃は、しかし、誰をも射ぬくことはなかった。鏃は、蔓に巻かれた樹木の真中に突き立って、びいィィんと震えを残している。
モレヤが、眼の端だけでこちらを向く。
笑顔も涙もなく、ただ静かな安堵だけがじわりと横たわっていく顔をして。
白髭を揺らす神鹿は、蹄を打ち鳴らしてなおも苔を削りながら、自分の背をかすめていった一条の矢と、それを放った張本人とを交互に見比べている。
八坂神奈子はついに身を隠すことをやめ、神なる獣の前にその姿を現した。
「遅うなったな」
早口で、それだけ向こうのモレヤに言うと――、神奈子はまた箙に手を伸ばす。
あと三本か、と、当たりをつけ、再び鹿へと対峙した。
あと三本で、あの神とも化生(けしょう)ともつかぬ鹿と戦わねばならぬ。
圧倒的に不利な条件である。矢が尽きれば腰の御剣もあるにはある。だが、異神の地に棲む八尺半もの巨躯持つ獣相手にどれだけ立ち回れるかは、いくさ神とて甚だ未知数なのだと言えた。
それでもなお、神奈子のうちにはみなぎるものがある。
勝利の自信でも、厄介ごとを引き込んでしまったいら立ちでもなかった。
いま彼女の意志を鳴動させ虚空を揺り動かしているもの。迷いを確かに射落としたもの。
戦争ともいえないほどただ純然と闘争を望む戦士の意識、そして、モレヤをこの場で死なせてしまうことへの悔いであった。
いつの日にか、あの子も命を終えよう。
それは、あるいはいくさの場にて死んでしまうのかもしれぬ。
自分は神だ。モレヤにその運命を授けたいくさ神だ。ならば。
いくさで死する運命ならば、今日、このいくさで死なねばならぬという道理もない。
「見ていよ」
モレヤの方には顔を向けることなく、言い放つ。
肚(はら)はもう決まっていた。モレヤを殺さぬと決めたのなら、今この場で討たなければならない脅威は神鹿だ。箙から新たに矢を一本取り出し、ぎりりと弓弦を軋らせる。澄明なまでの眼をした神鹿が、じいと神奈子を見つめていた。反面、ぶるぶると震え逆立つ毛並みからは、『彼』が怒りを新たにしてこちらに対峙しようとしているのだということが容易に読み取れた。
それでこそ、良い。
口の端だけで、にいと神奈子はほくそ笑む。
それでこそ、“いくさ”だ。
まことの意気にてぶつかり合うことしなければ、戦いなど何とままごとじみた戯れよ!
もはや両者にいっさいの容赦もなかった。
決闘はすでに始まっている。
機微を読み取り動いたのは、神鹿の方がわずかに早い。
やつめが後ろ脚を屈めた……と神奈子が見た瞬間には、半身に込めたありったけの力を解放し、地をも縮めんとするほどの跳躍をした。それは突進であり、進撃であった。また攻撃であり、爆発でもあったかもしれない。
まさしく、獣のかたちをした雷火!
いくさ慣れした神奈子でさえ、さすがに臆する気持ちが兆す。
だが、負けも引き分けもこの手に要らぬ。
八坂神に必要なのは、勝利することただひとつである。
鉄の鎧を突き破り、人や馬の腹を裂く角の一撃。
直撃すれば、神の身体持つ神奈子でさえも、決してただでは済むまい。
むろん、彼女もそれは解っていた。土を踏み砕き樹木さえ粉微塵にしかねない破壊力と、まともに渡り合うのは狂気の沙汰。だが逃げるわけにはいかぬ。これは自ら仕掛けた闘いなのだから、いくさする者としてなおのことその責を全うしなければならない。とはいっても、正面からぶつかれば危ういのはこちらの方。追い詰められれば追い詰められるほど、戦士としての闘争本能と、いくさ神としての理知はせめぎ合う。ならば、単純。ふたつの意思が導きだした答えは。
「やられる前に、やるだけよ!」
此度また、鏃の閃きに迷いなし。
箙から抜き取った矢をほとんど瞬間的とも言えるすばやさで、神奈子はこちらに角を向ける神鹿へ向けて、一条、射かけたのである。力の“溜め”はほとんどなかった。だが特製の強弓より、いくさ神の膂力で放たれる一矢は、並の使い手など敵わぬほどの高速で空中を突き進んでいく。
突撃する神鹿と宙を裂く矢。彼我の距離は瞬く間に縮まっていく。
やがて、鏃は確かに鹿の左目へ向けてその切っ先を突き刺すかに見えた。
やったぞ、と、さすがの神奈子も一瞬とはいえ勝利の予感に気が緩む。
だが、当たらない。
ばかな、狙いを誤ったか。
この八坂神奈子がか!?
否、正確には鹿の身体まで神奈子の矢は“届くことなく”、途中で失速を始めてしまう。ゆえに相手には危急を察知するだけの余裕が生まれた。神鹿が大きく首を振るったかと思うと、その角が矢にぶち当てられ、あえなく叩き落とされてしまう。
なぜと問うまでの思考の間もなく、神鹿は見る間に神奈子との距離を縮めていく。
残りの矢は二本。たったこれだけで雌雄を決しなければならない。
手数はひとつ損じたが、むしろ神奈子の胸中にはある種の冷静さが生まれてもいた。最初の失敗が軒昂な意気のなかにあるよけいな闘争心を上手く削ぎ落とし、少しばかり落ち着いて事態に対処する眼力が、戻ってきてくれたのかもしれなかった。
それに、矢を弾き落としたとはいえ、神鹿の方には真正面から攻められたことへの動揺がありありと浮かんでいるように見えた。有り体にいえば、『彼』にはこのまま神奈子を突き殺すことへの躊躇がほんのわずかに滲んでいるかのようだったのである。鹿は獣ゆえ、人のようにそれと判る表情らしい表情はない。だが、ほんのわずかな間だけとはいえ矢を怖れてか、鹿が突撃を止めて蹈鞴を踏んだことは、神奈子にとっては僥倖といえた。
対峙することを新たにし、神奈子と神鹿は再びにらみ合う。
すでに二者の距離は最初よりも大幅に縮まっている。
両者ともに深々と息を吸い、吐き、懸命に互いの弱点を探り出そうとしている。
底なしの深遠に通じでもしているかのような、神鹿の蒼い瞳を神奈子は見た。相対するものの一切を拒むかのような――否、その実は何の隔てもなく吸い込んで封じ込めてしまうかのような、奇妙なうつくしさが宿っている。これを今から殺さねばならない。この眼持つ神を。
箙より二本目の矢を抜き取り弓につがえると、鹿もまた闘争を思い出したようである。何をか反芻する素振りであろう、『彼』が口元をしきりに動かすと、顔中を覆う白い体毛がその息でふわりと浮かび上がった。鏃を向けられれば、猛る。それは人も獣もさして変わりがないのだと思える。
再びの突撃は、低く重々しい咆哮と同時に行われた。
鋸を束ねたような形状の角が、純然な闘争心の暴風としてまたも突き進んでくる。
が、今度のそれには距離の長きに支えられた“溜め”がない。跳躍のための助走、あるいは膂力を後ろ脚に注力することがほとんど叶わぬまま、鹿はなまなかの速度で神奈子めがけて突っ込んできた。けれど、それはあくまで“最初に比べれば”というだけの話でしかない。まともに受ければ間違いなく腹が裂かれる。
だというのに、神奈子はほくそ笑んでいた。
今度こそ、勝利の確信を得た気がしたからであった。
十分な助走を得られぬままの跳躍ゆえ、神鹿の二度目の突撃は、一度目ほどの速度を出しきれていない。凡人ならば、それでもやはり突き殺されてしまっていたのだろう、しかし相手がいくさ神――八坂神奈子であることこそが、鹿にとっては最大の不幸であったかもしれない。二度目の突撃の際に生じたほんのわずかな一瞬の隙。その一瞬のあいだに神奈子は十全に弦を引き絞って矢を構え、そして思考を巡らすことができた。どうすればこの獣に勝てるのか。そして、一本目の矢がなぜ通用しなかったかを。
未だはっきりとした勝利への道筋を見つけることができたわけではない。
神奈子がやろうとしていることは一種の賭けであった。
とはいえ投ぜられた一擲の石でさえ、ともすれば人を打ち殺すことがあるかもしれぬ。
決断という行為は、戦いの華でもある。
やってみるよりほか、あるまいよ!
ぎりと歯を食いしばった神奈子が矢を放つ直前、突撃する鹿の蹄が地面に転がっていた石を思いきり蹴飛ばした。ひゅうう、と、この闘争の場には甚だ似合わぬ間抜けた音を立て、石は神奈子の真横をすっ飛んでいく。大きさ一尺ほどかと見えたその石は、しかし、こちらに近づけば近づいてくるほど“大きくなっていく。”さては、神鹿の神通力であろうか。だが、大きくなり続けるかとも思えた石は、せいぜい一尺と半分ほどにまででかくなるとそれきり巨大化を止め、ごとりと地面に落ちてしまう。
神奈子が矢を放ったのは、石が地面に落下するのとほぼ同時であった。
岩石が地面を叩く鈍い音、矢が弦を離れる鋭い音、どちらが早かったのかは神奈子にもよく解らない。
それでも、ただひとつだけはっきりとしていることは。
神奈子が放った二本目の矢が、神鹿の左脚へと深々と突き刺さっていることであった。
しばしのあいだ事態を正確に認識できなかったか、鹿は血の筋を毛並みに埋もれさせながら辺りを見回すばかりだった。弓矢によって突撃を阻止されながら、それでも転ばされなかったのはさすがに神の獣とでも呼ぶべきか。ささやかながら、神奈子は感嘆する。とはいえ驚いてばかりもいられない。三本目の矢を取り出し、再び射撃の体勢に入る。
鹿は、相変わらず大きかった。
だがその巨躯にも似合わず、今やその眼は怯えを宿してしまっている。
負けを知らぬ者が、初めての負けに震える眼をしていると思った。
……いや、傷や痛みというものさえ知らなかった者の眼だ。
獣として長く生き、いつしかその身に神性を宿す道筋のなかで、傷も痛みも知らなかったことの幸福が、神鹿を神鹿たらしめていたのかもしれない。
ぶ、るる、と、荒い息を吐き、鹿は萎れかかる全身の白毛をむりやりに逆立てようとしている。だが、もはやすっかり意気を阻喪した『彼』とっては、どんな勇ましい行動でさえ威嚇にも成り得ぬ虚勢なのである。あんなにも脅威的であった八尺半の体躯も、こうして落ち着いて見られるようになれば、鹿として巨大ではあるが、決して天突くほどのものではない。
『神通力』は解けたのだな、と、神奈子は嘆息する。
この神鹿は巨大である。その巨大さと凝縮された質量そのものが武器であり、そして神通力の正体であったのだ。
三本目の矢をつがえた弦を引き、神奈子は自らの“賭け”の正体を思う。
彼女が一本目の矢を放ったとき、鹿が角を振るってこちらの矢を叩き落としたのは、その身体に矢が『届かなかった』からだ。
つまり、鹿はこちらの矢が届く前にその軌道を見極めて防御をした。
瞬時のことではない、ほんのわずかだが鹿の側には余裕があった。
矢の飛ぶ速度が、途中で衰えたからである。
となると、鹿の元まで矢が届くほど、こちらは弓に力を込められていなかったということになろう。だが、神奈子は十分な威力を込めた矢を放ったつもりであった。相対した神鹿を射殺すには、それだけで事足りると判断したからである。が、その判断が最初の失策だったのだ。
神鹿は、尋常の鹿に倍する巨体。
その巨体が、いつ果てるともなく続く諏訪の山野のなかに居たのだ。
際限なく続く山と森の風景はいつかこちらの知覚を擦り減らし、正常な認識を難しくしていたに違いない。気づいてしまえば何のことはない、つまらない事実である。鹿に神奈子の矢が届かなかったのは、山野の風景に混じり込む神鹿の姿があまりに巨体ゆえ、本来の位置より近くに居ると錯覚させられていたせいだ。とっさのことで距離を見誤ったまま矢を射たのだから、上手く命中させられるわけもなかったというわけである。途中、偶然に鹿の蹴りあげた石が神奈子に近づけば近づくほど“巨大化して見えた“のも、鹿の大きさのせいで相対的に石が過剰に小さく思え、神奈子の目算が狂わされていたせいであった。
勝ちを確信しながらも、神奈子は手を緩めない。
神鹿の方には、虚勢とはいえ未だ戦意が完全に失われたわけではない。
絶え間なく流れる血の跡は白い毛並みにじわと広がり続け、それでもなお鹿の方では脚を引きずりながら、敵たる神奈子の非礼を咎めるように咆哮を上げ続けていた。
八尺半の巨体に比すれば、いかに強弓からの一撃といえども、矢の一本ていどの傷で戦闘不能に陥るのは甚だ不合理であるかもしれない。だが、負け知らずの者ほど心は脆く、いちど心折れれば戦うことができなくなる。いくさの要点は肉よりも霊、身体よりも心を攻めて屈服させ、敗北を認めさせることにある。神奈子にはそれがよく解る。そして、おそらくはその生涯で初めてのことであろう己が敗北を、この神鹿が認めたがらないでいることも。
「名も知らぬ諏訪の神鹿よ」
と、神奈子はごくりと唾を飲み込みつつ、束の間の強敵に語りかける。
「百年か、千年か。その生涯のうちにそなたが戦うてきた勝負、踏んできた場数、如何ほどのものがあるか、想像もできぬ。だが、」
他の誰にも聞かれることなく、自分と獣とのあいだにだけ伝わるための声であった。
「そなたの勝負に勝ちしかなかったとしても、私のいくさには負けがつきものでな。負けを知る者の方が、ときとして強いこともある」
引き絞った弓弦を解き放ち、三本目の矢を射った。
尾羽が風を孕み、鏃は鋭さに任せて鹿の首筋に直撃した。
かろうじて立ち上がっているに過ぎなかった鹿は途端に倒れ込み、呼吸は少しずつか細くなっていく。瞳は死のまどろみにとらわれ始め、何もない虚空ばかりを見つめていた。しばし全身の痙攣を経ると、やがて弛緩しきった四肢をだらりと伸ばし、ついに神鹿は動かなくなる。絶命であった。
「わが名は八坂。八坂神奈子。そなたの一生に最初で最後の敗北を刻みつける者である。その御霊(みたま)、こののちも諏訪の野を駆け巡ることあらば、ようわが名を見知り置き、そして語り継ぐが良いよ」
手傷を負った鹿を見逃さず、確実に殺してしまったこと。
それは八坂神奈子が払うことのできる、この神鹿に対する最大限の敬意であった。
互いに全力を出し切って“いくさ”をしたからこそ、傷を負ったまま無様に生き延びさせてやることは忍びない。……神鹿がどう思っているのかは、むろん最期の瞬間まで解らないままだ。獣は言葉を話せない。だからこそ神奈子は、己が知る限りの世界の条理のなかで、名も知らぬ神鹿へ、自らと同じ誇りを手向けることしかできなかったのかもしれない。そんな思いが、たとえ異邦より踏み込んできた異神の傲慢と謗られようとも、それが勝者が敗者に対して負うべき責であり、何よりも敗者の面目を護るためなのだと信じていたいからであった。
いつしかすっかり荒くなっていた息のもと、空になった箙の軽さを思うと、ざァざァとかすかな風が吹き渡った。神奈子が吹かせたものではない。諏訪の山野がこの度の戦いを悲しんでいるのか、それとも怒っているのか。どんな思いを抱くにせよ、少なくとも褒められはすまいとつい笑う。甚だ血生臭く在り続けることしかできない己自身への、皮肉とも取れる笑みであった。
「モレヤ」
ことが終わってしまえば、残るのは後始末だけである。
遠くでただ事態を眺めているしかできなかったモレヤに、神奈子はようやく声をかけた。おそらくは神奈子と神鹿との一騎討ちを、始終腰を抜かして眺めていることしかできなかったに違いない。未だ力の戻りきらない足腰をどうにか立たせ、着物を濡らす苔と泥を払い落とす。鹿に踏み砕かれた自分の弓を一瞥しながら、彼はゆっくりと神奈子のもとまで歩み寄ってくる。はにかんだような表情のうちに本当にあるものは、疑いようもなく『敗戦』を恥じる気持ちであっただろう。あるいは、ろくに手柄を上げられなかったことへのばつの悪さか。
「八坂さま。先ほどは……ありがとうございます。八坂さまが居られなければ、モレヤはあの鹿に突き殺されていたことでしょう」
そう言うと、少年はゆっくり頭を下げる。
眼を細め、神奈子はその様子をただ見つめていた。
だが、同時に気づいてもいた。モレヤは心から感謝を表明しているわけではない。彼は、この八坂神の顔色を窺っているのだと。
「モレヤ」
「はい」
にわかに明るみの差す微笑で、神奈子を見上げるモレヤ。
平気でいつも通りの振る舞いができるその心が、神奈子には気にくわなかった。
「この……愚か者がッ!」
モレヤの華奢な身体は、再び諏訪の野に倒れ伏してしまう。
神奈子がその拳で、少年の頬を殴りつけたせいだ。
八坂神は女神である。だけれど、いくさ慣れして場数を踏んだ彼女の拳に殴られれば、言うまでもなく痛い。まして子供の身体が吹っ飛ぶほどの力なれば。むろん、神奈子とて加減はしているつもりである。生半可に叱りつけるだけでは意味がないと確信していたのだから。殴ってでも覚えさせなければ、モレヤは何度でも今日と同じ『過ち』をくり返すだろうからと。
「立て」
モレヤは何も答えない。立ち上がりもしない。
いや、答えられないのであろう。
彼は甘えている眼をしていた。いつも通りにしていれば、神奈子もまたいつも通りに自分に接し、いつも通りに慰めてくれるだろう。そんな風に思い込んでいる眼をしていた。神奈子にはそれが我慢ならなかった。そして、殴られた後とあってはもう眼を合わすことさえしない少年の心根が、何より腑抜けたものに思えて仕方がなかった。
「立て。……立てと言うておる!」
相手の腕をつかみ、むりやり彼を立ち上がらせる。
ようやくモレヤは神奈子の顔を見た。甘えている眼ではもうなかった。ただ、怖れている眼でもない。自分がなぜ殴られたか、その理由(わけ)を懸命に探り出そうとしてる眼だ。
「そなたは弓馬を扱えるようになり、騎射を覚え、ただの祝の子であるよりもずっと強うなった。確かに、それは認めよう」
モレヤの腕を烈しい力でつかんだまま――しかし、声音だけはどこか優しく、神奈子は告げる。
「だが、未だ己が身が“それだけ”の者にしか過ぎぬということがなぜ解らぬ。馬は人の足をはるかに超えて数里の隔てを走り、弓矢は顔さえ見えぬほど遠くの敵を射殺すことできる。武器兵器は人を強くする。だが、モレヤは弱い。未だ弱いのだ」
「このモレヤが強いのか弱いのか、斯様な言説では解りませぬ!」
突然の抗弁であった。
彼にも、やはり矜持みたいなものは芽生え始めているらしい。
「そなたは強いわ。だが、それゆえに弱い。負けを知らぬ者はみな弱い。負けを知らぬ者はただ勝つことだけ貪る。そうして、やがては“負け方を知らぬ”ゆえ、もっとも悪しき負け方として命まで失う。己が力を過信すること、いくさ場ではまかりならんのだ。身のほどを知らぬ者ほど、戦いでは早死にし、そして――」
ようやく、神奈子はモレヤの腕を離した。
少年の身体を握り締めていた手のひらが、焼け爛れたごとく熱く、痛かった。
「兵どもをむだに死なすことになる」
神奈子の言葉が、最後の一押しになったらしい。
それきり、モレヤが抗弁するようなことはもうなかった。
鹿と一対一になるより前、供奉していた一隊の将兵が壊滅させられた情景は、やはり彼自身の脳裏にも刻みつけられているはずであった。そしてその凄惨さが、今さらながらに思い出されてしまったのか。
「私は、……私はただ、あの鹿を射止めれば、八坂さまや諏訪子さまへの捧げものとして適当であろうと思って、それで……」
「敗戦の言い訳など、誰であろうが幾らでもつく。ならば今は、そなたが功を焦ったゆえ死んでしまった者どもに報いるべく、モレヤがそうまでして欲した勝ちとやらを、手に取るのだ」
言うと神奈子はすらりと腰の御剣を抜き放ち、勢いよく地面に切っ先を突き刺した。
金属(かね)の震える音がし、砕けた土と苔が舞いあがる。それから、視線だけで自ら射殺した神鹿の骸を差すと、「あの鹿は大きすぎる。われらだけでは、せいぜい首から上だけしか持ち帰ることできまい」と、呟いた。
「どういう、ことにございますか」
「あの神鹿はモレヤの獲物。勝者の権として、そなた、わがつるぎにて“あれ”の首を斬れ」
今の今まで眼を合わせもしなかった少年が、途端に神奈子の顔を見つめた。
きッと真一文字に引き結んだ唇は、肌の下に流れる血潮の赤みを増しているかのようである。両の眼には、はっきりと神奈子に対する反発の意思が見て取れた。自分のなかに存する最後の誇りを護る。そういう思いが。
「モレヤは、確かに弱いかもしれません。しかし、私は男です。弱くともいっぱしの男なのです! 男には、男の誇りがあります! ……他人に情けをかけられて、その手柄を譲られ己が名誉とするなど、たとえそれが八坂さまよりの御下命といえど、ただの一度でも認めることができましょうか!」
ふうッ……、と、神奈子は笑う。
どうしてか、彼女自身にも理由の解らない笑みだ。
自身が笑んでいることに気づいたのは、一瞬、自分を見るモレヤの顔が、不思議なものを見る眼をしていたせいだった。
「自らを男と思うのなら、なおさらのこと」
束の間の笑みも、直ぐにいつもの厳格な武人の顔つきに戻ってしまう。
努めて厳かに見えるように、神奈子は続けた。
「あれなる鹿は、そなたに供奉した者たちを殺したのだ。だが同時に、己が誇りと命とを懸けて戦うた者でもある」
再び神奈子はモレヤの手を取る。
もう怯えも恐れも少年はしなかった。
彼は、ただ彼の護るべき矜持に従ってこの場に居る。
そこに、逃げるとか怖れるといった上品な選択肢は、無きに等しい。
「だからこそ。だからこそ憎き敵と思うてあの首を落とせ。だからこそ誇りある死を手向けるためあの首を落とせ。命と誇りとを懸けて戦うた者の骸が、雨ざらしとなりて朽ちるに任せること、この八坂神の名において断じてまかりならん」
深手を負い血まみれになっていたイゼリの姿が、はっきりと神奈子の脳裏には浮かび上がっていた。彼と同じように、いや彼以上の傷を負い、この山のどこかで死んでしまった将兵と同じように、自らの仕留めた神鹿もまた、等しく誇りある戦士であった。戦士だからこそ勝者は勝者の責を負い、それを全うしなければならない。敗者をしてただ敗者と断ずるのではなく、その誉れだけはせめて留め置くために。
そのための決意を、モレヤは未だ知らない。
男の誇りだけでは、戦いは立ち行かぬのだ。
だから八坂神奈子にできることは――地に突き立てた自らのつるぎの柄へと、少年の手を導くことだけである。
「自ら手を下すと下さざるとに関わらず、いくさする者は敵を殺さねばならぬ」
ごくり、と、モレヤが唾を飲み込む音が聞こえた。
怖れはなくとも躊躇はあろう。
つるぎの柄に手を掛けながら、少年は未だ握り締めることだけできずにいる。
「できぬか。モレヤの言う“男”とやらは、かほどに腰抜けか。手柄を相手に譲ることで、今日の事態を招いた己が責からも、無残に残された骸の群れからも逃げまわる。それがモレヤの言う男の行いか」
かッ、と、少年は眼を見開いた。
引き結んでいた唇がわずか開かれ、その向こうで真白い歯をぎりと噛み締めてみるのが見えた気がした。苦渋に過ぎるのかもしれなかった、十にもならぬ子供に闘争の決断を促すのは。けれど、八坂神奈子にはこんなことしか伝えられない。神としての意識に目覚めてから、いくさ場のさなかでのみ風を吹かせてきた彼女にとっては、こんな酷薄な形でしか、次代に何ものをも残すことが叶わない。
八坂神の思いなど知ることもなく。
しかし、モレヤは自らの意思に従って、つるぎの柄を握り締める。
実戦で使われるような、重々しく大ぶりな刃をした両刃の直刀である。子供の腕力で軽々と扱えるような代物ではない。事実、地面から引き抜くだけでもモレヤにとっては大仕事であった。いつか息が上がり、ぼやりと頬に赤みが差している。それでも彼は諦めなかった。どれくらいたっぷりと時間をかけたのかは解らない。あるいは、意外とたやすく引き抜いてしまったのかもしれない。いずれにせよ、モレヤは神奈子の鉄剣を地面から引き抜いた。小さな両手で懸命に柄を握り締め、切っ先に残った土を振り払う。刃の銀色を、森に差し込む緑色の光が果てなく洗っている。
「できます」
ぽつりと呟く声でも、神奈子にははっきりと聞こえている。
「神鹿の首を斬ること、モレヤにはできます。やってみせます」
ゆっくりとうなずいた神奈子に同調して、モレヤもまたうなずきを返す。
そこからは、もう何の指図も要らなかった。
ふらついた足取りながら、少年はつるぎを握り締め、倒れ伏した巨大な神鹿のもとまで歩み寄っていく。腰を落として鉄剣の切っ先を思いきり振り上げると、真白く豊かな毛並みに包まれた鹿の首へ向けて、刃は一挙に打ち下ろされた。
獣の首とて、一度では斬れない。
何度もつるぎを振り上げては鹿の首に叩きつけ、ときには鋸の要領で柄を前後させ、肉を断ちかける刃をさらに奥まで喰い込ませた。中途で行き当たる骨の硬さに戸惑い、獣の体内に残った血が吹き出て着物を汚されながらも、少年は決して諦めなかった。ごりごりと骨を断ち割る音、ふつりふつりと筋肉の繊維が千切れていく感触。敗者のみが理解する苦痛こそ死であるのなら、命を自らの手で叩き潰されなければならないことは、勝者の負うべき自嘲であった。モレヤもまた、きっと解ってくれるだろう。いつか、そう確信している神奈子が居た。王は驕っていても良いのかもしれない。ただ、自ら踏みつける屍のさなかには、無数の死と痛みが在るということを知っていれば。
――――斯様な温情。
――――まるで諏訪子の言うことのようだ。
城に残してきた彼女のことを考えると、しかし、彼女には苦笑しか浮かばないのである。
諏訪の地を侵されたのは、確かに諏訪子の方であった。
けれど今となっては、自ら心を差し出したのは八坂神奈子の方ではないか。
“いくさ”の果てに心折られているのは、いったいどちらが先だったのだろう。
「成し遂げねばならぬのだ。王は常に勝者であり、勝者の責を全うすること成し遂げねばならぬ。それが、“われら”に課せられた逃れがたい天命であるうえは」
顔に浴びた血の跡を拭い拭い……ようやく事をし遂げたモレヤが、巨大な角を天にかざすかのごとく神鹿の首を持ち上げて見せる。神奈子のつるぎは、最初と同じように地面に突き立てられていた。濃い血と泥のにおいが、諏訪の森を洗っていく。だが、それは清浄ではない。生きるということは清浄ではありえない。神奈子がいくさ神である限りは、血と闘争とにどうしようもなく悦びを見出してしまうようにである。モレヤもまた、そうならないという保証はなかった。男たちがいくさに掲げる誇りなるものは、ときおり、ひどく血なまぐさいものであるのだから。
「八坂さま。神鹿の首、落としました」
「ようやった。ようやったわ」
「モレヤも。モレヤも、これで恥を雪ぐことこと、少しはできたでしょうか」
神奈子は何も答えない。
代わりに、ただぼやりと笑むだけだ。
その顔を見てモレヤもまた、茫洋として疲れきった笑みを浮かべる。
――――諏訪子よ。“いくさは続くぞ”。
――――人の世がある限り、永代に続く。
心中で諏訪子に向けたその言葉と皮肉の笑みを、モレヤが自分に向けられたものだと思い込んでくれることが、どうしてか嬉しかった。
山に落ちかかった日が、少し昏いものだと思えてくる。
草叢と樹木の群れの向こうから、出雲人たちの鉦と太鼓の音が響き渡り、それが段々と大きくなってくるのが解った。