Coolier - 新生・東方創想話

風神太平記 第三話

2012/11/16 23:34:05
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「見慣れぬものを連れているではないか、モレヤ」

 はや、晩夏の諏訪も夜であった。
 評定堂に近く、幾本かの篝火(かがりび)を暗闇に抱いた廊下でのことである。周りに人は居ない。否、衛兵たちはそこかしこに立ってはいるが、夜を介して遠目に見れば、田畑の案山子(かかし)ほどの存在感しか持ってはいない。手にした矛のぎらつきだけが、どういうわけか雄弁である。そんな静寂のなかでひとりの少年がぼうっとしているというのは、諏訪子としても気持ちの端に引っ掛かる。

 何の気なしに廊下の縁に腰かけたモレヤに声をかけると、彼はすばやく頭を下げ、

「神奈子さまとの野駆けの際に、見つけてきたのです」

 と答えた。
 屈託のない笑み。実に子供らしいと微笑みたい気にもなる。

 少年の膝の上は言うまでもなく水場ではあるまいに、蛟(みずち)とも見える小さな白蛇がとぐろを巻いていた。蛇は篝火の明かりに鱗をきらめかせながら、ときおり人間がそうするかのように、あくびに似た仕草で口を開ける。赤銅色の口中ととぼけた顔つきがこちらに向けられるたび、何だかひどく可笑しい気持ちになってくる。そうして、諏訪子は再び笑みを浮かべそうになる。

「狩りの獲物と称するものは、此度、その白蛇か」
「違いますよ。……帰りがけにわれら野駆けの一隊、道を見失いそうになるということがございました。しかし、そのとき。この白蛇が私の足下に現れて、行く先を導いてくれたのです」
「それで、日が暮れる前に帰って来られたと」
「その通りにございます」

 ふうん。
 と、そんな風に諏訪子は鼻を鳴らした。

「で、なぜその蛇がいま城に居る」
「森を出る際、わが着物の袂(たもと)に入り込み、逃れたり噛みついたりする素振りを見せなかったものですから。われらを導いてくれた瑞獣と思うて、連れ帰ることにしたのです」

 ほおう。
 と、今度もまた鼻を鳴らす諏訪子。
 この、どこか間の抜けた顔つきの蛇一匹がな、と、そんな思いもないではない。

 確かに、山野の神霊が人に手を貸したという話はたびたび耳にすることがある。
しかし、深山にさきわう神霊や魑魅魍魎のなかには人の言葉を知らず、人とは違う言葉で世界を視ようとする、剥き出しの獣の感覚を持った者たちも居ないではない。瑞獣と見えた生き物が、その腹には何を秘めているか。疑いの眼を向けたくなることもある。いかに諏訪の地に土着の存在であり、神霊ミシャグジたちを統御する諏訪子とはいえ、その権能のうちより“こぼれ落ちる”者たちも少なからず居るということなのだ。

 ミシャグジ諸神もまた烈しき激情持つ祟り神の集まりではあるが、諏訪子による仲介を通し、根底において人との対話が可能な『言葉』は知っている。そして、いまモレヤが連れているのは確かに神気まとう蛇ではある。だが、より高次の霊的言語の操り手とも言うべきミシャグジにはあるかすかな理知までも、未だこの蛟からは感じ取れなかった。祟りを撒き散らすのが本義の存在といえど、諏訪子もまた、未だ人のための神でしかあり得ないということか。自嘲し、蛇とモレヤとを交互に見比べるのである。

「モレヤは、その蛇を飼(こ)うておくつもりか」
「飼うとは言わぬまでも……床の下にでも放り込んでおけば、きっと良きことあると八坂さまが」
「八坂さまが? 何と申された」
「私以上の大喜びでした。“きっと、諏訪の獣たちもわが威に服した証に違いない”と」
「なるほど、あの方らしい」

 概ね、予想のつく物言いをしていた神奈子であった。
 そう思うと、今度こそ素直な笑いでついと噴き出してしまう。何が起こっているのか解らないというように、肝心の蛇は二又の舌をしきりに動かしていた。

「だがな、モレヤ。益賜うということと信ずるに値するということは、時として、同じであるとは言いがたいこともあるのだよ」
「それは、王なる者が持つべき疑いの心なのですか」

 突然の問いに、諏訪子は答えを失くしてしまった。
 さては――野駆けに何かあったかな。
 閉じきった口中、頬の真裏を舌で撫でながら、次に繰るべき言を思案する。

「……ま。正しき眼で正しきもの見極めよ、ということだ。疑い始めれば世に敵は尽きることなく、盲いたごとく片端から信じ続ければ、自らに迫る刃から逃れるすべはない」

 そう言ってはぐらかすと、モレヤを不安がらせぬよう、再び笑みをつくろうとした。
 が、どうしてか顔が変に引きつって、上手くいかない。
笑みを繕うことにはよく慣れていたつもりの諏訪子だったというのに、このときばかりはつくり笑いでしかないことがひと目で見抜かれてしまうような、ぎこちない表情になってしまっていた。着物の袖で、口元を覆いながら眼を逸らす。まあ、しかし。……無理もあるまいと今度こそ本心からの苦笑であった。眼の前の少年が、何か幼い猜疑のような思いにとらわれていても。

 今日の野駆けでは、何があったかモレヤに供奉した一隊がほとんど全滅に近い状態であったと聞いた。唯一、犬養部のイゼリだけが重傷を負って帰って来、今は薬師に手当てを受けているという惨状である。残りの連中は、いずこに消えたかも判然としない。神奈子の言では、夜明けを待って山狩りを行うという話であった。出雲人の薬師は有能ではあるが、それとて命の消えたものを蘇らすことなどできるはずもなかろう。生死(しょうし)という天地自然の理(ことわり)を逆転させることは、自らもまたその天地自然のさなかより生まれた神とても、甚だしく難儀である。その、小さな“いくさ”のさなかを駆けてきた少年が、今までと同じだけの感覚で周りを見ることができるものか。答えは、きっと否だと諏訪子は思う。

「ともかくも……儂がモレヤに申したいのは、“奉ずる神を誤るな”ということよ」
「私が命と信仰を捧ぐる覚悟持つのは、諏訪子さまと八坂さまだけです!」
「は、は。そう言えているうちは、安泰であろ」

 やはり袖で口元を覆いながら、諏訪子はモレヤのもとを去った。
 たん、たん、……と、舞踏の足取りかのごとき、軽快な足音だけ残して。

 ――――だが、あの蛇よ。

 すでに灯明と人いきれで熱の気配に満ち満ちた評定堂の扉の前で、諏訪子はふと立ち止まった。扉の開閉を仰せつかった雑掌(ざっしょう)の舎人が諏訪亜相の登場に畏まり、深々と頭を下げている。が、諏訪子の方ではそんな景色には蟻の一匹に対するほどの注意も払うことはなく、自らの思案に耽っている。

 あの蛇は、わたしが人々とのあいだを仲介するミシャグジたちとは違うものを感ずる。
 ゆめ、危うきは見逃さぬようにしなければ……。

「のう、扉番の舎人」
「は、はあ……」

 突如、亜相という諏訪の柵第二の地位にある相手に話しかけられ、舎人はいささか驚いてしまったらしかった。扉のかたわらでひざまずいたまま、篝火で赤く照らし出された床の木目と、諏訪子の顔とを交互に見比べている。

「人というやつは、己が信ずる神持たねば生きては行かれぬ。たとえ、その信ずるものがまことの神ではなかったとしても」
「それは……謎かけにございまするか」
「いいや、違う。己の信ずるものあらば、かなしいかな、それが神でなくとも生きてはいけるということよ」
「あ、なるほど。亜相どのは、人がそれぞれに持つ己が信条のようなものを、神と呼んでおられるのでございますね」

 そうかも知れぬ、と、諏訪子は微笑した。

「んん。立ち話ばかりしていては、評定に遅れる。そろそろ扉を開けてくれ」
「はいっ」

 未だ二十歳にもならぬだろう若い舎人は、元気よく答えて扉を開けた。
 灯明の明かりでぼやりと照らされた評定堂のうちには、十人から成る出雲人の評定衆と、そして八坂神奈子が諏訪子を待ち受けている。

 同床異夢、という言葉がある。

 たとえ立場を同じくしたところで、思い描く未来や理想は違うもの。
 それは、男女が共寝の縁を持ったところで、床のなかでふたりが同じ夢を見ることは決してできぬのと似たようなものだ。ともすれば諏訪と出雲和合の暁に、この諏訪子と神奈子の思惑よりこぼれ落ちた者どもをどうなだめるというのだ。それが、人であれ神であれ。

 ――――諏訪の地には、わが手に余る者どもがあまりに多く跳梁している。

 唇の端から端までぺろりと舌舐めずりをしながら、諏訪子は堂の上座、神奈子の左席に腰を下ろした。

「全員、揃ったか」

 亜相諏訪子の出座を見、評定衆はあらためて二柱の神に深々と頭を下げる。
 面(おもて)を上げた評定衆、そして諏訪子の顔を順繰りに見つめながら、神奈子は朗々と宣したのである。

「では、今宵の評定と致そうよ」


――――――


 発端は、諏訪子が客人(まろうど)の応対をしたことであった。神奈子やモレヤが野駆けのために城を明けていたことによる、名代としての仕事だった。否、より正確にはその客人が書状として持ちこんできた、竹簡一条から成るごく単純な内容の書状こそ、発端であった。

 狩りの一隊が城を出てから、それほど時が経ってからのことではなかったと諏訪子は記憶している。自分と同じく神奈子から留守居を仰せつかった稗田舎人の、その似合いもしない口髭をからかったりしながら、いつものように自室で彼が持ちこんだ大陸の典籍に依った『講義』を受けていたのだった。いかに政の場では高位の立場とはいえ、いちばん上に立つ神奈子が居ないでは滞る物事もあるということだ。そのため、その日は半日ばかり諏訪子にとっても休暇みたいなものだった。

 竹簡の束を幾重にもめくりめくり、――ちょうど劉邦が項羽に対し、天下簒奪にまつわる十カ条の罪悪を糾弾するくだりを読み進めていたところである。毎日飽きもせずに響いてくる練兵場からの掛け声に穴を空けるかのように、どたどたとした足音が扉の向こうから近づいてくるではないか。耳聡くそれに気づいたのは、諏訪子と稗田、いったいどちらが先だっただろうか。ふたり揃って、足音のする方向に首をひねる。

「八坂さまの居られぬだけで、斯様に落ち着きのない歩みを見せる者が出てくるものかな。……稗田よ」
「は」
「済まぬが、見てきてくれ」
「承知つかまつりました」

 と、いつも通りの涼やかな声つきで竹簡をいちど折り畳み、稗田が扉の向こうに駆けてきた舎人からの報せを取り継がんとした。扉を開けたところ、駆けてきたのは逸勢舎人であるようだった。俊足をもって神奈子に仕える彼だったが、同時に、普段なら落ち着きをも併せ持った男のはず。その彼が肩で息をしながら諏訪子の居室に駆けこんでくるなど、礼儀作法を度外視しても一大事と言って良い。

「逸勢か。どうした、そのように大慌てで」
「亜相どの、一大事にございます」
「その一大事とやらを、落ち着いて申すのが其許の役目ではないか」
「解っております。……」

 少しもったいぶっているようにも、逸勢の顔は見えた。
 未だわずか口ごもる気配を見せる彼に、しかし、諏訪子は焦って先を促すようなことはしない。また、何か“ろくでもない”事態が出来したに違いない。彼女の直感は、なにはばかることなくそう告げている。おそらくは、稗田舎人とて同様の思いだっただろう。汗に濡れた口髭を指先で撫でながら、難しい顔つきばかりしていたのだから。

「先ほど――諏訪豪族が筆頭、トムァクさまの御名代と称する御使者が諏訪の柵を訪れましてございます。モレヤ王にお目通りを致し、そのご健勝ぶりを直に確かめるように、また八坂さまへのごあいさつを致すように。そのようにトムァクさまより仰せつかって参られたと、御使者は申しておりまする」
「モレヤの……」

 はた、と、見えない壁にぶち当たったような気持ちの悪さが、諏訪子にはしていた。

「なるほど、解った。だが八坂さまもモレヤも今は居られぬ。使者どのには、しばしお待ちあれとお伝えせよ」
「すでに、御意がごとくにお伝えしておりまする。されど御使者は、ならば亜相どのにお取り次ぎを、……と」

 なるほど、それで逸勢が諏訪子のもとに駆けこんで来たわけである。
 だが、彼が大慌てでやってきたのは、神奈子の名代としての役目が諏訪子に回って来たという、ただそれだけを伝えるためではあり得なかった。

 諏訪はじめ、科野諸州の豪族たちが神奈子や諏訪子のもとにやって来るというのは、大抵が本領安堵の陳情か、あるいは賂(まいない)や進物を伴ったご機嫌取りだ。ふたりの神とてあれこれと忙しい身である。大抵は出先の役人か舎人が適当に相手をして、型通りのあいさつを適当に聞き流しつつ進物を受け取って、その手から神奈子と諏訪子にあらためて陳情を伝えたり、進物を献上したりするという手続きを踏む。それもこれも、政の大勢(たいせい)にさして影響しないであろう多くの訪問を、いちいち一顧だにするほどふたりとも暇ではないからだ。

 が、今日のそれは少しばかり事情が違うのであった。
 トムァクという男は――今の諏訪情勢の元をただせば。

 諏訪子を王として祀り上げておきながら、民からの信任や信仰なくば王や神は成り立たないという権力者の脆弱性を逆手に取って、本来なら諏訪子が持つべき実権を奪い取り、思うさま諏訪の政を壟断していた男である。諏訪子が出雲人の人質となってからも、しばらくはいくさを主導して止まなかった男である。

 そして何より。
 諏訪新政にて己が権勢を手に入れるため、モレヤを人質として諏訪の柵に送り込み、出雲人との婚儀を通じて縁戚関係の構築を目論んでいる男なのである。

 そんな小狡いやつが、モレヤと神奈子のご機嫌取りごときでわざわざ使者を寄こしてくるはずはない。それは、トムァクたち諏訪豪族に政を奪われていた諏訪子だからこその予想であったのかもしれなかった。否、ひょっとすると、王が自らの政を守るために必要不可欠な武装としての猜疑であっただろうか。いずれにせよ、

「向こうが儂で良いというのならやむを得まい。会おう。逸勢は使者どのを評定堂まで呼びに遣れ。稗田、其許も来るのだ。何かあらば、祐筆の其許に働いてもらわなければならぬ」

 と、そのときの諏訪子はふたりの舎人に命じた。

「ご心配なく。それも、すでに御意がごとくに手配しておりまする」

 微笑むこともなく淡々と伝える逸勢に感嘆した素振りを見せながら、もう一方の稗田は

「は」

 と、諏訪子の命に短く応じたのであった。


――――――


「……で、それが此度“これ”を突きつけに、連中がやって来た口実であったというわけかよ」

 灯明の朧な明かりに照らされながら、一条の竹簡を忌々しげに“ねめつける”神奈子の呟き。あたかも、眼前で狂うどうしようもない愚者を嘲るかのような声ぶりであった。ともすれば、またいつかのように評定の途中で堂より退出するのではないかと、彼女の行動を不安がる諏訪子は「その通り」とだけ手短に同意する。しかし、その響きには神奈子への強い諌めが混じっている様子であった。舎人たちを通して神奈子たちに声をかけ、当夜における評定の招集を促した張本人として、責任を感じないでもないのである。

 ふん!

 と、神奈子は諏訪子の心配をよそに鼻で笑う。
 諏訪子の気づかいをではない。竹簡に記された内容――トムァクからの使者が携えてきた、書状の中身をである。それほどまでにトムァクが神奈子にあらためて問うてきたことは、彼女の激情を逆なでするには十分なものだったのかもしれない。

「だが、まあ。この八坂神も少し“引き延ばしすぎた”感はある。諏訪の豪族どもの腹積もりに諾々と従うことの愚かしさが解っていたからこそ、今日(こんにち)まであえて無視か黙殺かと決め込んでいたが、……かくなるうえは、結論を出しかねている場合ではないのかもしれぬ」

「さようにございます」

 目蓋を細めながら、諏訪子は答えた。
 われ知らず、唇の端さえ噛み締めながら。

「モレヤの婚儀を、いざ進めるか否か」

 評定堂が、瞬間、どよめいた。
 緊急の召集がために少しばかり沈滞していた空気は、神奈子のいら立ちと諏訪子の言葉で否が応にも覚醒していくのであった。……というよりも、どよめきの大半は「やはり、そうきたか」という確信が混じっていたものではある。政の意思決定を担う評定衆の地位を与えられる以上、王たる神と肩を並べて当座に席を閉める出雲人たちも、決して愚かではありえない。ふたりの神が抱くのと同じ懸念を、常に心のどこかに残していたのだろう。

「では此度、諏訪豪族からの使者が持ちこんだという書状。モレヤ王のご婚儀を早く進めよと催促する、そんな内容でよろしいのですな」

 評定衆のなかでもっとも若い出雲人が、神奈子にとも諏訪子にとも取れる風に尋ねてくる。どちらが先ということもなく、ふたりはめいめいにうなずいた。だが、それに加えて再び口を開いたのは神奈子の方であった。

「概ねは、そうだ」
「概ね、とは……」
「概ねは概ねよ。つまりは、こういうことなのだ」

 言うと、神奈子は竹簡を乱暴に丸め、一列ずつ向かい合って座る評定衆のところへ書状を投げつけた。ほとんど投げ捨てたようにさえ見えるその動作は、彼女の怒りの度合いをそのまま表しているように見えなくもない。空気が動き、灯明の灯をわずかに揺らしていく。仮にも神が投げてよこしたもの、直に手で触れるのは畏れ多いと思ってか、出雲人たちはなかなか床に放られた竹簡を拾おうとしない。ややあってようやく竹簡を拾い上げ、最初に中身に眼を通したのは、老臣にして神奈子の諌め役である威播摩令であった。

「何ということか……。八坂さま!」
「おう」

 ぶっきらぼうに、神奈子は応じた。
 あぐらをかき、頬杖を突いて座をぼうっと眺めている。
 その膝がいら立ちに突き動かされるままわずか震えていることに、諏訪子は横目だけ遣って気がついていた。

「これは催促などではない! 単なる恫喝にござる! 連中、われら出雲人の政を完全に愚弄しておりまするぞ!」 

 声を荒げる威播摩令の剣幕に、静観していた出雲人たちも思わず眼を剥いた。
 我先にと争うようにして威播摩令から書状を受け取り、眼を通し、それがまた次の者に巡っていく。結局、件の竹簡一条が神奈子の手元に戻って来るまでのあいだに、評定衆全員の眉根には傷跡のような深い皺が寄っている始末であった。

 神奈子の手から書状を受け取り、諏訪子もまた再びその内容に眼を通す。
 書かれた内容のあまりの傲岸さに、それがかつて諏訪の政を思うさまにしていた臣下たちの意であるといえ、何度目かの溜め息を吐き出さざるを得なかった。

 トムァクの名代たる使者が神奈子と諏訪子に奉ったところの書状には、第一に

『モレヤ王の御婚儀に関して迅速に意思決定をして頂くべきこと』

 という意味の催促の文言があり、続いて

『婚儀成らずば、八坂神には諏訪と出雲和合の意なしとし、モレヤ王の身柄を不当に束縛していると見なさざるを得ないこと』

 それから最後に、

『諏訪豪族もまた、この期に及びていちどの争いとて欲せざるものであるが、御婚儀の由(よし)に納得いただけないとなれば、こちらから八坂神の御前に罷り出、直に“談判”に及ぶ用意がある。すべては、諏訪出雲和合の障りを取り除きたいと願うがゆえのことである。そもそも、そのためにわれわれはモレヤ王を人質として出雲人の元に差し出したのであり、それでもなお底なしの欲にて利と権とを出雲人が欲するのであれば、諏訪の大地と政とを献上しても未だ足らぬというその分を、諏訪の地で鍛えられし幾本ものつるぎを進物として、捧げ補うであろうこと』

 という旨が記されていた。

 竹簡を丸めて紐で括る諏訪子の手は、いつか蒼白になっていたようである。
 要するにこの書状は威播摩令の指摘した通り、諏訪豪族から八坂神奈子の体制に対する「こちらが提案したモレヤの婚儀の話を進める気がないのなら、武力に訴えてでも認めさせる」という意を示した、紛れもない『恫喝』であった。
 
 差し出し人こそトムァクの名が使われてはいるものの、実際にはこの書状に書かれていることこそが、かつて諏訪子を王と戴いていた諏訪の大豪族たちの偽らざる野心の表出、むしろ総意としても過言ではなかろう。自ら利を取らんと思うところは隠しつつ、己が正当を主張し、神奈子のやり方の不誠実を糾弾しながら、新たなるいくさが起こる可能性をほのめかす。なんど思いめぐらしても、恫喝以外の何ものでもない。

 神奈子が抱える出雲人の兵力とて、無限ではないのだ。

 神道の神々に対する信仰が未だ本格的に根づいていない諏訪の地では、八坂神奈子の名のもと新たに諏訪人を兵として徴集することもできまい。諏訪子の名とても同様である。いかに“諏訪さま”の名を使うにしても、兵の行き先は出雲勢のもとだ。民衆とて、学がなくとも道理にはよく通じていよう。そうそう直ぐに、政が振りかざす大義名分の美々しさを呑んでくれるとも思えない。

 兵力規模の根幹となる土地の大小を切り分けたのは、神奈子と諏訪子の権限だ。
 ふたりの引き立てで新たな土地を得た科野諸州の中小豪族ならば、では力を貸してくれるだろうか。推測としては、それもはっきりとは肯定できない。新政が未だ本格的に動き始めているわけではない以上、土地配分の件は単なる『お墨付き』を与えたに過ぎない段階である。諏訪の中央政庁と各地の豪族たちとの結びつきは、利害が一致する“かもしれない”という仮定の段階でしかない。だから、土地ごとの領主に任じられた在地豪族たちが新体制に従うべきという根拠も、実は未だそこまではっきりとはしない。ともすれば、有事の際には西国よりやって来た新たな王権より、長年の地縁を主とするトムァクたち大豪族の側に、諏訪はじめ科野諸州の勢力が参じないとも限らないのである。

 いわば、諏訪の地に創立された『八坂政権』とでもいうべきものには、時間をかけて積み上げられるはずの恩顧、極言すれば“政治的権威”という名の武器が、今は未だ決定的に欠けている段階にあった。権力ならある。大王の名代たる八坂神奈子を頂点とし、科野州を統治するための王権とその機構を、一年近くかけて少しずつ形にしてきたのだ。だが権力があっても権威がないことには、人は政に従わない。権力とは王が王たるを機能させる方便であり、権威とは王を王たると人々に認めさせる根拠のことだからである。それを、トムァクたち諏訪豪族ははっきりと見抜いている。さすがは諏訪子を――“諏訪さま”を、王権とそこに宿る権威そのものとして祀り上げ、その神の言葉を根拠にして諏訪の政治を欲しいままにしてきた者たちであった。

 そして、一朝(いっちょう)ことあらば直ぐにでも即応できる戦力を神奈子が用意できるのかといえば、可とも不可とも言いがたい。健軍と出雲本国からの大新発以来、十余年という長きに渡る諸国でのいくさで、いかに練度の高い出雲勢とはいえ少なからず疲弊していると諏訪子は聞いた。ただし、戦力が疲弊しているのは豪族たちの側も同じことだ。だからこそ八坂神奈子は諏訪子を懐柔し、その名を利用しつつ諏訪人の民心を宣撫し、ついには豪族たちと和睦を取り結ぶ必要があった。いわば、モレヤを人質として築かれた今日の平穏は、ふたつの勢力間で取り結ばれた、政治的妥協の産物に過ぎない。トムァクは、その均衡を自ら崩そうとしているということである。諏訪子は、はっきりとそれを憂える。

 よもや、和睦が結ばれたときから、豪族たちはこうなる可能性を見越していたのだろうか。事態を冷静に観察しつつ、“いざ”というときのために懐に戦力を温存しておく。それが兵法の基本であると、稗田舎人から借りて読んだ大陸の書物には記されていた。その原理原則に忠実でなければ、戦力の再建に努めなければならない時期である出雲勢に対して、こうも攻撃的な態度に出られるものではないだろうから。

 もうひとつ考えられるのは、双方の戦力が疲弊しきっていることは百も承知で「いくさを起こすぞ」と恫喝紛いの言説を弄し、出雲人からの譲歩を引き出そうとしているのではないか、ということだ。上手くいけば、豪族側は自陣営の戦力困窮を棚上げしたままで、政治的な旨味だけがまんまと手に入るという寸法である。だが、これも確証はない。結局は、闇のなかで手探りを続けるにも等しい予測であった。

 だが、いずれにせよ。
 このようなときに再び戦争を起こされては、たまったものではない。
 その思いは、諏訪子も神奈子も同じだったのである。

「皆々。今現在において諏訪新政が取り得る方策は、“ふたつ”ある」

 竹簡を再び神奈子の元まで返しながら、諏訪子は堂をぐるりと見回した。

「あくまで八坂さまの王権と政を死守すべく、豪族たちと一戦交えるか。科野人士にわれらの意地というものを見せつけるのであれば、これが最良。たとえ負けて死したところで、名と誇りとは示すことできる。それから、」

 と諏訪子が続きを語ろうとしたとき、神奈子が言葉を引き取って、

「わが王権の護持と戦力再建を第一とし、諏訪豪族の要求を飲むか。波風立てずに当座を凌ごうと思うのなら、これが最良。われら出雲人の御いくさにて傷ついた諏訪の大地に、さらなる血を流すことなく事態を収拾できよう」

 と、言った。

 評定衆は、それぞれにうなずいた。
 ふたりの王のかたわらで、祐筆役の稗田舎人が議論の推移を記録すべく、無言に筆を滑らせていく。彼の磨る墨のにおいが、晩夏の夜に際限なく沈んでいく。

「……どちらを選びても、利あるごとくに害もございまする」

 評定衆の幾人かが、沈黙を破って口を開いた。

「十余年も戦い続けたわれら、今さらに新たな戦い起ころうとも幾らでも耐え抜いてみせましょう。なれど、兵や人民はそれを受け入れますまい。将兵たちは、ようやく長きいくさが終わったと安堵しておるのです。それに、なかにはすでに諏訪人と縁(えにし)を結び、夫婦(めおと)の約を交わした者まで居ると聞き及んでおりまする。その諏訪人にしても、当地にてまた新たないくさ起これば農事に差し障りがありましょうし、何より戦いにて暮らしを壊す者に、諏訪豪族と出雲人の別はありませぬ。いくさ起こりて新たに血が流されれば、豪族たちと同様、われら出雲人までも、際限なき怨嗟の的となりましょう。それを考えればこそ、いくさだけは何としても避ける必要がございます」
「此度の卑劣なる恫喝に屈してモレヤと出雲人の女子(おなご)を娶(めあ)わせれば、確かにいくさは起こるまいが……しかし八坂さまによる政の弱き所、柔らかな横腹とも言うべきものを、科野諸州の人心に晒すことになる。それもまた、避けねばなりませぬ」
「何を申す。モレヤ王の御婚儀を先延ばしにしてきた“ツケ”こそ此度のことよ。いくさをせぬと言うて、しかし、その一方で御婚儀のことを蔑ろにすることもできまい」

 少しずつ活発になっていく議論のなか、血気盛んな何人かは、口々に諏訪豪族を非難し始める色であった。

「それにつけても奸物どもの驕り、ここに極まれりといったところにござる。自らの手で自らの王を敵方たるわれら出雲勢に押しつけておきながら、思い通りにならぬとなれば、王を掠め取ったとあらぬ疑いをかけ、ためにいくさを仕掛けるなど」
「やつらもそれほど焦れておるというわけよ。飢えた獣が山を下りて麓をうろつくごとくにな」
「されど、獣ならば狩人なりをくり出して狩りだしてしまえば済む話。このトムァクという男、虎狼というにしても、ちと性質(たち)の悪すぎる獣にござるぞ」
「おまけにこちらの狩人となるべき軍勢は、長きいくさにて手負いときておりまする。今の時点で新たに戦いを仕掛けられれば、いかに百戦錬磨の出雲勢といえど、勝てるかどうか」
「そのような事態を防ぐために、亜相どのが急ぎわれらを集められたのではないか」
「さよう、さよう。……」

 やはり、事態は堂々巡りである。
 前回の評定も、やはりこんな風にして議論は汲々とし、そして結論が出なかったのだ。

「それで、八坂神に亜相どの。当の御使者はいま何処(いずこ)に」

 額に脂汗を浮かべながら、威播摩令が尋ねる。

「いったん、トムァクさまのもとにお帰りになりました。十日と余日の後に、あらためて返答をうかがうべく、再び参られると」

 代わりに答えたのは、稗田舎人だった。
 なるほど、と、評定衆は各々にうなずく。

 誰も結論を引き取ることのできない議論のなか、神奈子はようやく頬杖を解いた。
 諏訪子も評定衆も、何があるかと視線を注ぐ。短く息を吐き、彼女は「この件に関しては、我より申しておくこと、ひとつある」と宣した。もしや、という諏訪子の疑いは、こちらを見て眼だけでにィと笑んだ神奈子の顔つきをみて、確信に変わった。数日前、ふたりの間だけで約したこと――モレヤの処遇についてのことを、八坂神奈子はいま発表するつもりなのだと。

「良き折と申すには率爾(そつじ)に過ぎるが、今のうち皆には伝えておく。我は――八坂神は、あのモレヤという男子を出雲と諏訪和合の鎹(かすがい)として、妹(いも)の力持つ子を産ますだけの者として使おうとは、思うておらぬ」

 ざわめきの度合いが、堂のなかでひときわ強くなる。
 稗田でさえ、一瞬ばかり筆を止めて神奈子の言に括目する様子であった。

「とは……いかに」

 誰ともなく、出雲人の声が響く。「うん」と返し、神奈子は評定衆を、稗田舎人を、そして諏訪子を見回していく。腹の奥底から宣言されるその声は、これがこの人の戦場での声なのかもしれないと、漠然と諏訪子に思わせた。

「大王より東国の地における名代、そしていくさと政の一切の権を賜った者として、八坂神がここに言明致す。旧主諏訪子、現王八坂に次ぐ第三の諏訪王として、モレヤを指名することを。いずれ、あの子を我のつくり上げた王権を受け継ぐ正式な王として立たせしめ、この国の政を担わせるのだ」

 幾年かに及ぶ、時間稼ぎにございますか――と、稗田舎人が呟いた。
 確かにその通りではあろう。
 単なる王権相続の道具ではなくモレヤ自身を王に就かせるということは、その間、一時的とはいえ、彼(か)の少年が父となることだけ求める諏訪豪族の野心を、しばしくじくことができる。その期間は数年か十数年か、あるいは数十年か。少なくともモレヤ王の在位中だけは、神奈子の築く諏訪王権に横から口を差し挟む邪魔者がひとつ、退けられることになる策なのだ。

 ごくり、と、誰かが息を呑むような気配がする。
 誰が発した気配なのかは、誰にも判らなかった。

 評定衆が発すべき感嘆が上手く声として表れてくれなかったせいかもしれないし、諏訪子自身も大いに関与する策とはいえ、ついにこの場で披露することへの緊張のせいだったかもしれない。もしかしたら、神奈子自身もまた自分が口にした言葉で、不用意に己の気持ちを勇ましく煽ってしまっている部分があったのかもしれない。いずれにせよ、あらためて宣言するということは、この場に満ちる空気を一変させるに十分すぎた。『モレヤを諏訪の王にする』ということは。

 皆それぞれに思案げな顔をして何も言えずにいるなか、重々しく口を開いたのは、やはり諌め役の威播摩令であった。今度もまた、彼の顔つきは神奈子の独断専行を咎めるような色を持っていた。

「…………確かに、当面はそれで波風が収まるやもしれませぬ。しかし、モレヤさまとてやはり人の子。やがて諏訪子さま八坂さまに次ぐ王として、諏訪の政をお継ぎあそばされたとしても、いつの日にかやって来る老いや死からは逃れようもありませぬ。それを見越して、政を然るべき血を受け継ぎし御子にお譲りするために行われるが、一国を統べる王という方のご婚儀であり、なおまた奥方にお世継ぎを産んでいただくということにございまする」

 その場の全員がうなずいた。
 諏訪子もまた、そして神奈子でさえも承知しきった事柄である。

「それを蔑ろにすることあれば、王を取り巻いていた者たちのあいだで政の権を巡る争いが起きることは必定。ものの本には次のようにある。斉の恒公は初めのうち名君と称えられながら、忠臣管仲を失うてからは政を忘れて放蕩に明け暮れ、挙句の果てに世継ぎが定まらぬまま没したために子らのあいだで政を巡って争いが起き、その間、公の骸は葬儀さえ挙げてもらえず腐るに任せたと。そして内輪の争いで衰えた斉の国は、かつて諸侯の盟主と仰がれるほどの強国であったにもかかわらず、それ以後は二度と天下に立つことができなかったと。そのような悲惨な話を諏訪の地にまで呼び込むおつもりにございまするか。モレヤさまとて、長じて愚物とならぬという保証はございませぬ。ならば、せめて世継ぎのことだけでもはっきりとさせ、王権の継承から万難を排す。それが政の正道というものでございましょう」

 シン、と静まり返ってしまったのは、威播摩令が語る歴史のなかの凄惨な先例が、そのまま倭国の辺境であるこの諏訪の地にもまた当てはまるかもしれないのだという、そんな醜悪な想像力が否応なしにはたらいてしまったからに違いない。まして、相手は未だ少年のモレヤである。溌剌とした歳若い彼が死に、肉溶け骨が突き出、蛆の巣となった少年の屍体。……そんな想像は、いかにあちこちを転戦していくさ慣れした者たちといえど、不快を催さずにはいられなかったはずである。

 その悲痛に思い及ばせることを知っているからこそとでもいうように、威播摩令はなおも説いた。評定衆は、彼の言葉を遮るようなことはしない。序列とか礼儀とかの問題ではない。自分たちの言いたいと思っていることを、この老臣が王に向かって代弁してくれる。そんなことを期待する眼を各人がしていた。

「畏れながら。八坂さまは御自らが老いを知らぬ神の身の上であるがため、人という生き物の脆さをお忘れになっておられるのではと」

 瞬間。
 神奈子の手が腰の御剣に伸びたかのように、諏訪子には察せられる。
 だが、直ぐにそれは単なる錯覚だと気づいた。
 きッと見開かれた神奈子の両眼が、感情の読めぬ光で威播摩令を射抜いている。
 弓の稽古をするときの眼に似ていた。どこまでも澄明であり、しかしその奥底には怒りによく似た烈しいものを抱えた眼である。その眼光が発する見えない刃のようなものが、諏訪子の観測を誤らせたのかもしれなかった。神奈子は、何も言わない。つるぎの柄に触れることもなく、膝の上で両の拳を握りしめている。

「威播摩令どの、さすがに。さすがに口が過ぎましょう。八坂さまの御裁断は、出雲におわす主上が御聖断と同義というに!」

 そうした咎めを、神奈子はどこか上の空に見つめている。
 かなしみも喜びもしなかった。
 何せ、彼女は聡い人なのだからと諏訪子は思う。『モレヤを諏訪の王にする』……この策がいかに良案であり、しかしながらしょせんは単なるその場しのぎの浅知恵に過ぎないか。矛盾したふたつの事実を誰よりもよく解っているのは、紛れもなく八坂神奈子その人のはずだからである。

「いや、良いのだ。確かに、我の跡を襲うのがモレヤであるというだけでは、まことに諏訪の政を慮っているということにはならぬ。まったくと言っていいほどな」

 珍しく苦笑を見せ、神奈子は答えた。
 頬を掻き、思いきり溜め息を吐く。
 済まぬ、と、彼女は小さく呟いていた。場当たり的な策しか行えなかったことを評定衆に謝っているのか。ふたりで考えた策が通用しないかもしれないことを諏訪子に謝っているのか。どちらであろうと、八坂神奈子が素直に謝るのは珍しいことである。

「人が王に成る以上、そして人には生き死にの営みが常について回る以上、世継ぎの問題を避けて通ることはできませぬ」

 今までの沈黙を破るかたちの、諏訪子の言葉。

「要は、諏訪豪族たちがわれわれの政に噛むのを防ぐことできれば良いのです。……なるべく、つるぎを振り上げることなく」
「解っておる。決断という行為は、王者にも覇者にも避けて通れぬことよ」

 盛大な溜め息を吐き、神奈子は立ちあがった。

 これで今夜の評定は終わりという合図らしい。
 前回のこともあり、評定衆の面々もさすがに身構える。だが、諏訪子ひとりだけは奇妙に落ち着き払っていた。どうしてかは彼女自身にもよく解らない。今回の神奈子は、すべてに嫌気が差して逃げ出そうとしているわけではない、そんな確信が不思議と湧きあがっていた。

「十余日。あと十余日の末に、結論だけは出そう。それが出雲と諏訪の双方に対して、いかに厳しきものになろうとも」

 神妙というにしてはあまりに悲痛な面持ちを、その場の誰もが見せていた。
 神奈子も諏訪子も、稗田も、評定衆もである。戦うにせよ、豪族たちの要求を呑むにせよ、かならず何かひとつは犠牲になる。神奈子が行う政、諏訪人民の生命、そしてモレヤの尊厳だ。そのすべてを何ひとつとして喪いたくはないからこそ、神奈子は真摯なのだと諏訪子は思う。その真摯さゆえ結論を出せずにいるのだと、よく解る。

「皆には幾度目か迷惑をかけることになろうよ。郷里を棄てるも同然に、そなたたちと共に東国へ向けて新発したときのように。だが、八坂にはこうすることしかできぬ。“矢を放てばいつか敵を討つことはできよう。しかし、放てば放つほどに手持ちの矢は尽きていく。”それと同じことなのだ。何かを成そうと思えば、同時に何かを喪わねばならぬ。それが世の道理だ、逃れること叶わぬものなのだ。誇りか命か、それ以上の何ものか。棄てさすことを、八坂神はそなたたちに強いるかも知れぬぞ。それでもなお、そなたたちは我につき従うてくれるか」

 再び、腹から力を込めた声で、神奈子は堂のなかの人々に言い渡した。
 つるぎの柄に添えた片手に力が籠っている。今度は錯覚ではなく、眼に入った厳粛な事実として受け取ることができるのである。今あらゆるものを、自らの前に立ちふさがるものを、斬り砕き乗り越えようと決めた人こそが、彼女であるはずだ。諏訪子をして、この者にならしばし自分の身を託しても良いかという気になった、八坂神奈子こそが。

「いかなる裁断を下したところで、われら進む先に茨が生い茂ること、これまでと変わらることはない。否、むしろ。出雲にての健軍以来、この場の皆がひとりも欠けることなく諏訪の地に在ること自体が、邯鄲(かんたん)の夢であるのかもしれぬではないか。どうせ夢と思うなら、我は自分の好きな夢を見る。この期に及びて出雲本国も主上大王も、いささかの関わりさえあるものか。我が夢は、そなたたちが夢としたい。同じ夢を見、醒めれば同じく茨の道歩む」

 稗田舎人は筆を止め、ただ、じいと神奈子を見つめていた。
 文官の彼でさえ、八坂神の持つ勇ましさは伝わらぬはずがない。まして、戦場でも政所(まんどころ)でも常に彼女と共に在った評定衆たちに、神奈子の心が解らないはずはない。出雲人たちのあいだに在るのだろう絆は、諏訪子に立ち入ることが許される類のものではないのかもしれなかった。熱を孕んだ出雲人たちの眼は、それをよく証している。

「出雲人たちよ。そなたたちの天命、すべて八坂がもらい受けるぞ。皆の肉をわが御盾とし、皆の霊をわが御剣とする。だが、その御盾と御剣はこの天下にふたつとなき輝き持つものであることを信じておる。否、信じさせてくれ。そなたたちが、我を信じてここまでついて来てくれたのと同じほどに。いま我に言えるのは、これだけだ。ここまで……八坂の“わがまま”に従うてくれた、そなたたちだ。いかなる裁断下そうとも、今度もまた聞き入れてくれるなら、これに勝る喜びはない」

 御意のままに――と、人々はひざまずき、八坂神奈子へ向けてひれ伏した。
 それが最後の合図であった。
 神奈子はゆっくりとした歩みで評定堂を退出する。扉を押し開いた向こうに広がる暗闇のなかへ、彼女の大きな背中が吸い込まれていく様を、諏訪子はしばし無言に見送ることしかできはしない。ややあって彼女もまた、その黄金(こがね)の髪を揺らしながら、神奈子へ向けてひれ伏すことをしたのである。


――――――


「出雲人は」
「うん」
「最初、性情苛烈にして情けも憐れみも介さぬ、獣のごとき軍勢だと思うておりました」
「は、は。よう言うてくれる」

 何だか正直な物言いになってしまったのは、少しばかり酔いが回ってきているせいかもしれなかった。東国の米からつくる酒は、よく酔えると神奈子は言う。それがどうしてなのかは諏訪子にはよく解らない。東国と西国では米の質が違うのかもしれないし、製法にもまた種類の別があるのかもしれなかった。だが甘くて口当たりの良い西国の酒よりは、いささか辛口である東国の酒の方が諏訪子は好きだ。ひょっとしたら、飲み慣れた郷里の酒という贔屓目もあるのかもしれないが。だが、酒が美味いぶんには理由などどうでも良い。直ぐに解決しない問題に気を揉んでいる夜は、ふたりで諏訪の酒を飲むのが、ここ最近の習慣になりつつあった。

「獣にでも成りきらねば、戦うことできぬ。諏訪子の眼に、われら出雲人が獣として映ったのも道理であろう」
「しかし、政は違う。政は人の御業、人の所業。人を慈しむ心なければ、国は滅びまする」
「なァにが、言いたい」

 土器(かわらけ)に注いだ濁酒をぐいとあおりながら、神奈子は開け放たれた蔀戸(しとみど)の向こうに眼を向け、夜空を見上げていた。諏訪子はただ、星明かりで明度を増した鏡のような酒の面(おもて)に、自分の顔を映すばかりである。

 当夜は神奈子の行宮でのことで、最初に誘ったのも彼女の方だった。
 どこぞの豪族から酒を献上されたので、さっそく飲(や)ってみぬかと。相も変わらぬ“うわばみ”ぶりのようには見えたけれど、トムァクからのあの恫喝の書状が届いてから二、三日しか経っていない。むろん、のっぴきならない状況のさなかにあって、他の政務を棚上げしてもまず評定は連日に渡って続けられていた。だというのに仕事を抜け出すみたいにして酒を飲むなど、傍目には、いやに呑気だ。だが、その実。もっとも思い悩んでいるのは八坂神奈子自身であるということが、諏訪子にはよく解っている。憔悴して、痩せ細るということもない神の身体。ただ不安を解消するためには、酒をあおりでもしなければ。そのための相手を仰せつかっているのだろうと、何となく思っていた。

 瓶子から新たに酒を注ぎながら、神奈子は諏訪子の言葉を待っていた。
 料理とかつまみとかはない。本当に、ただ酒を飲むということだけが、今はふたりを結びつける鎹に等しかった。

「わたしは、嬉しいのです。八坂さまと、八坂さまにつき従う出雲人たちが、心底からにこの諏訪の行く末を案じてくださっているということが。諏訪子の郷里である諏訪の地を、決して無意味な争いの場とさせぬと努めてくれていることが」

 はッ……!
 と、神奈子は鼻で笑う。
 だが、どこか諧謔の色を伴っていた。
 酒に唇をつけながら、苦笑するしかできない諏訪子。

「それもまた、とんだ見誤りであるかもしれぬぞ。心根において私は依然、諏訪子が言う最初の見立て通り、獣にも等しい者であるかも知れぬ。ただ自らの欲に従いいくさをし、ただ自らの利だけを求めて政をする。そなたを傍に置いておくのも、恋情のゆえか劣情のせいか。それと思えばつるぎを抜き放ち、今すぐにでもその細首を断ち落とすこともできる。衣を剥ぎ取り、世の男がそうするようにそなたの“女”を辱めることもできる」
「たとえそれがまことの話だとしても、今こうしてわたしたちは一緒に居る」

 なぜならそれをせぬのが、八坂神奈子という方だからだ。
 そこまでのことは、諏訪子には口にできなかった。できぬ、とまで神奈子を買い被っているつもりもない。つもりもないが、ちらと神奈子自身の装いに眼を走らせれば、いま御剣をその身に帯びることがないくらいには、彼女は自分を信頼している。その誠実さに少しでも報いたいと、諏訪子は心のどこかで願っていた。

「だが、そうなのです。諏訪子は、“女”だ。諏訪人に奉られた、諏訪人の神としての、諏訪人の女だ。あなたとは、違う。出雲人である八坂神奈子とは」

 いつか、諏訪子は悲痛な顔になっていたのかもしれなかった。
 泣くなよ、と神奈子が呟く。「われらの道が交わっておるのは、互いの利害が同じゆえだ。それは、初めから解っていたことではないか」。諏訪子は、泣いてなどいない。ただそれでも、初めてふたりが相まみえた晩、神奈子が言ったことを思い出さずにはいられない。そなたの心まで、我がもとに服せしめて見せるのだと。心を折られたのは、いったいどちらが初めだったのだろうか。神奈子の頬が赤いのは、本当に酔いが総身に回っているせいだったのだろうか。

「いっそこの身が出雲の者なら、」

 酒を一杯。
 飲み干して諏訪子は言う。

「あなたと同じ、出雲の天と地に育まれた者であったならば。こうして針で肌を傷つけるごとき疑いの痛みを、知らずに済んでいたのかもしれませぬ。ましてモレヤの婚儀のことにても、私があの子の妻になり、子を産むことできれば――」
「やめよ!」

 神奈子をも救うことができるのに。
 夢想めいた言葉は、その神奈子の叫びによって断ち切られる。
 叫んだ拍子に、神奈子の手にした杯からは酒がこぼれ、彼女の手を濡らしていた。

「誰かひとりの面目に、泥を被せれば済むという話ではない! そなた自身にしても、モレヤにしても。本当なら、王である私が何もかも引き受けねばならぬ事態だったはずなのだ。諏訪子をもモレヤをも損ねることなく、すべてを処断すべきだったのだ。……形だけでもあの子を夫とし、世継ぎを産んで、その子への譲位を促すことできれば、それですべてが済む話だったのだ」

 ごくり、ごくりと神奈子の喉がうごめいている。
 その身に吸収されていく諏訪の酒は、いまどんなに辛い味であったことか。
「男神(おがみ)という建前で過ごしている以上、それも叶わぬ」と、彼女は苦笑した。

「私は、そなたが好きだ。モレヤのことも。これまでつき従うてくれた臣下たちも。いずれわが民となる諏訪の人々もまた、好きであらねばならない。だが、皆を等しく好きであろうとするほどに、互いに刃、突きつけ合う羽目になる。八坂神奈子が自らの女を封じておるばかりに、斯様な事態となっている。どうすれば良いのだ。私は、どうすれば!」

 空になった杯をいら立たしげに床に叩きつけ、神奈子は激昂の気配であった。
 少し、酔いが過ぎてもいよう。酒は色々なものの箍(たが)を外すものである。
 溜め息ひとつつき、なだめるような声で諏訪子は問う。どうしてか、今晩、彼女の方は、そこまで酔える気もしない。

「なぜ八坂さまは……神として強きお力をお持ちでありながら、女神であることを世に隠されるのです」

 新たに瓶子に手を伸ばすこともなく、神奈子は眠たげな眼をしていた。
 舌で唇を湿らせると、胡乱な口振りで語り出す。

「出雲人の王権がな、女子に手を貸されることを嫌うておるからよ」

 うつむき、諏訪子は耳を傾ける。

「神話の昔まで遡れば、決してそうではなかったと聞いている。天を統べるは天照大神であり、その天照大神が岩戸隠れのみぎり、歌舞を披露して外に誘いだしたは天宇受賣(アメノウズメ)であった。その命を賭して地に五穀を生ぜしめたはやはり女神たる大宣都比売(オオゲツヒメ)なのだし、そもそも国産みの御業の片割れとして、男神の伊邪那岐(イザナギ)とその身を重ねたは伊邪那美(イザナミ)という女神であった。男だけでは子がつくれぬごとく、女の力もまた欠かせぬものだったのだ」

 人の子たる女たちは巫女として霊感を発揮し、鬼道をもって国を治めた。
 大王という存在が生まれるよりもずっと前、使者に海を渡らせ魏国と交わりを持ったほどの女王さえ居る。

 神奈子の語る『過去』は、神話と歴史という似て非なるふたつの概念が未分化だったころより伝わる流伝か、あるいは伝説の類であった。神奈子自身が伝聞のかたちで語っているごとく、諏訪子にもまたその話が真実であるか否かを確かめるだけのすべはない。

 だが古代の日本に男性優位の価値観念が普及し始めたのは、はるか海を越え、中国大陸から当時の先進的な文化文明を輸入した後のことであったとも言われている。東夷の女王として卑弥呼の存在が魏志倭人伝に記されているように、あるいは、妹の力を持つ女たちがはるか昔は一国をも動かし、時代が下るに連れてその地位を低下させ、やがては民間の霊能者や巫女といった形でその名残を留めるに過ぎなくなったということも、もしかしたら実際にあったことなのではないだろうか。何よりも、今こうして向かい合っている古代のふたりの王が、どちらも女であることがひとつの傍証でさえあるのかもしれない。

 いや、真実がどうであれ……八坂神奈子の郷里である出雲の政が、女に口を差し挟まれることを嫌うのは事実なのだろう。少なくとも諏訪子はそう思って聞いている。だからこそ神奈子という人は、出雲からの放逐も同然に東征を命じられたのではなかっただろうかと。

「けれど。女が国を動かすことできたのも、天や地や人の心が、未だ素朴であった時代のことだ。今やどこの大地に眼を向けても民は満ち満ちて、幾つもの国がひしめき合うている。そのようななかで民を束ね、国家としてまとめ上げるためには、神がかりの女たちが発する言葉だけではまかないきれなくなってしまったのだろうよ。……だから、男たちのなかで理知に優れた連中が現れ、法をつくり、令を発し、国を整えた。出雲の国もそうだ。神々の威徳を身にまとい、なおかつ人に発した叡智によって国の政を担う者が必要になった。それがわれらの主上であり……実際に王に就けてみたら、女たちを通じて神々にうかがいを立てるよりはるかに“やり易かった”。きっと、そんなところだろうと思う」

 神奈子が、腰の真横をまさぐるみたいな手つきを見せる。
 剣の柄に触れたがるのは彼女の癖みたいなものだっただろうが、今そのつるぎは近くにはない。そんなことさえ忘れるほどに、神奈子は酔い始めているのであろうか。

「だが私は、天地が何の理に則った結果なのか。女神でありながらこの身に武と戦いの司(つかさ)としての力を宿して生を享けてしまってな。難儀なことよ。わが本来の権能を発揮するためには、常に男として振る舞わねばならぬのだから」

 かッかと、神奈子は大笑する。
 乱暴な手つきで杯に次の一杯を注ぐと、直ぐまたぐいと飲み干した。
 ちびちびと口をつける神奈子とは、まるで対照だ。

「もし、八坂さまが男子(おのこ)であったならば」

 酒で濡れた唇の端に舌を這わせ、諏訪子は問う。

「八坂神奈子がまことに男子なれば、あなたは諏訪子の身を思うさま凌辱していたのでございますか。御身、宿っているかもしれぬという、恋情と劣情のままに」

 杯を弄ぶ神奈子の手が止まった。
 しばし思案気にうつむきながら、彼女はまた微笑する。
 諏訪子の顔を見てはいなかった。酒の水面に映った自分の顔すら見てはいなかったのかもしれない。彼女は、ただ己自身に言い聞かせていたのであろう。

「さあなあ。年端も行かぬ女子(おなご)と見えても、その実、諏訪子は烈女であろう。……きっと指一本も、触れられはせぬさ」


――――――


 指一本も、触れられはせぬか。

 思い出すほど、奇妙な気持ちである。
 八坂神奈子は諏訪子に惚れていると、常々、自分で言っている。

 今まで、それは神奈子が自分に恋をしているのだと思っていた。
 世のなかの道理に沿っているとは言いがたい感情だが、女と女が結びつくという話をそれまでまったく聞いたことがないわけではない。御所の内側に閉じこもっていても、世の噂話くらいは頻繁に耳に入ってくるものだ。だが当人同士が良ければ、それで何の問題もなかろう。それだとて、いざわが身のことを考えると、不思議な気分になってくるのも本当のことだった。

 神奈子は諏訪子を好きだという。
 諏訪子もまた、神奈子のことが嫌いではない。
 諏訪子にとって、八坂神奈子は盟友だ。
 だけれど同じ城のなかで一年近くを過ごしていると、神奈子の言う惚れたとかいう言葉が本当に恋のそれであったのか、解らなくなってくるというのが正直なところであった。ふたりだけのとき、神奈子は“弱い”。まるで子供のように気弱になり、臣下たちの前では決して見せぬ感情を吐露する。神であるのに神でないごとく、王であるのに王を棄てたごとく。もちろん、嬉しくないわけではない。優越の感情もあった、神奈子の本当の姿を知っているのは自分だけなのだという。だからこその疑念だ。八坂神奈子の感情は、本当に諏訪子への恋なのかという。

 解らない、解らない……。
 考えても考えても、酔った頭では結論など出るはずもない。

 結局、神奈子の酒には東の空が白み始めるまでつき合うことになっていた。
 諏訪子が考えごとをしていたのは、彼女が行宮を出て自分の部屋に向かうなかでのことだ。神奈子のやつめ、と、誰にも聞こえぬよう諏訪子は独語する。遠くには、不寝番として城中を守護する衛兵たちの影。あくびひとつも見せぬほどの男たちの耳に、もしかしたらこの無礼ないたずらが聞こえたりしないだろうか。もし聞こえていれば、きっと愉しい。神奈子のやつめ、と、再び諏訪子は独語した。自分よりたくさん何杯となく飲んでいたくせに、結局、朝まで潰れなかった。対してこちらは少し頭がくらくらする。千鳥足というほどのこともないが、思考がわずか鈍るには十分なほど。

 暁天の眩しさに眼を細めつつ、諏訪子は顎を撫でまわした。
 われらの仲が恋であれ何であれ、共に酒を飲むなら一緒に居て愉しい相手が良い。
「だけれど」。つい、そんなことが口をついて出る「あの人は、何かをひどく怖れておいでなのだ」。

 立ち止まり、奥歯をかちりと打ち鳴らす。
 神奈子が怖れていること。諏訪子にだけ打ち明けることのできる何か。
 いったい自分は彼女に何を期待されているのだろう。やはり、酔いの醒めぬ頭ではよく解らないことだらけだ。いやもしかしたら、酔っているせいで普段なら気にもならぬことが気になっているだけなのだろうか。もしそうだとするのなら、自分はひどく薄情な『友人』ではないのだろうか。

 再開された歩みは、初めよりどこか緩慢である。
 後ろ髪を引かれるかのように、諏訪子の裸足は廊下を滑る。
 道々――城壁の連なりだとか点在する物見櫓だとか、火の気を失いかけて燻ぶっている篝火だとか、色々なものが彼女の視界を焼いていった。思い悩むとき、世界というやつはいつも烈火だ。何もかもが眼を介して身体に入り込み、骨肉の内側を焼き尽くさんと目論んでいる。こうして神奈子のことを考えているときでさえ、かの友人を苦悩の立場に追い込んだ政情のことが、否応なく思い出されてくるのであった。

 やがてまた、歩みは別の場所に差し掛かる。

 将兵が行き交う土埃のさなかにあって、申しわけ程度に存在を主張している小さな庭は、人質生活を送るモレヤの無聊が少しでも慰められるようにと、諏訪子が命じて整えさせたものであった。秋の近きに当たり、ちょうど何か新しい花を植え替えようとしている折のことで、土は掘り返され、所々に雑草が顔を覗かせている。ちらと視界のなかに入った何気ない景色のはずだったが、見慣れぬ影がそのなかに踊っていた。

 つい立ち止まり、眼を凝らす。
 にょろりとした矮躯、それに朝の光を受けてきらめく鱗は、真白い蛇のそれである。

「蛇、か……」

 ミシャグジではあるまい。
“あれ”らは出雲人の観念によれば穢れのかたまりゆえ、浄域として結界を施された諏訪の柵に入り込むことができないのだ。で、あるとするならば。

「私の。私の白蛇です」

 やはり、と思う間もなく、廊下の向こう側から少年の声が聞こえてきた。
 いま現在の政の渦中にして焦点――モレヤその人である。

「八坂さまのお言葉通り、試しに蛇を床下に放ってみたのですが。朝になると必ずああして外に這い出、草花のあいだに身を横たえているのです。もしかしたら、喉が渇いたゆえ朝露を飲みに出ているのかも」
「蛇とても、確かに喉の渇きを覚えることもあろう。けれど、モレヤ」

 酔った頭にどうにか冷静さを取り戻そうと、いつもの威厳を装いつつ、諏訪子は訊いた。
 ちらと庭に眼を遣れば、喉の渇きも癒えたのか、白蛇は再び床下に潜り込んだ後であった。

「今は、未だ夜も明けきってはおらぬ時分。何ゆえ、斯様に早く――いや、夜更かしをしているとでも言うべきかな――から起き出している」

 諏訪子にはいま気づいたことだが、モレヤは寝巻さえ着てはいなかった。
 モレヤが身につけていたのは、普段着として彼に与えられた、出雲人の様式の着物である。だが両の袖を引き絞る括り紐は緩み、少しばかり布がたるんでしまっている。そのうえかすかな朝の明かりに照らしてみれば、着物にはどことも言わずあちこちに皺が寄っていたりするではないか。着替えもせずに一晩中、起きていたせいであるように思われた。

「夜更かしも程々にせねば身体に障ろう。……腹が空いて眠れぬのであれば、儂が命じて何か持ってこさせようか」

 モレヤの肩に手を置こうとした諏訪子だったが、瞬間、その行為はためらわれた。
 かすかに残っている篝火と、少しずつ強まっていく暁光のさなかで、モレヤの顔が良く見えたせいだ。彼は、泣いていた。否、より正確には、目蓋を真っ赤に泣き腫らした跡があった。

 ついと、諏訪子は後ずさってしまう。
 それを見て、気取られまいとしていた涙の跡を悟られたことに、モレヤの方でも気づいてしまったのであろう。隠していたのは、彼なりに意地を貫こうとしていたからかもしれない。だが、それも今や意味のないものだ。たるんだ袖で、モレヤは再びこぼれ落ちそうな涙を拭いた。

「何があったのだ」

 努めて、優しいつもりの声を諏訪子は出そうとする。
 こんなとき、酒が入ってちょっと息が臭くなっているかもしれないことが、恨めしい。

「差し障りがなければ、申してみよ。諏訪子で良ければ聞いてやろう」

 あらためて一歩を踏みこみ、モレヤの肩に手を置いた。
 少年は嬉しがる素振りもない。かといって嫌がるところも振り払うようでもない。淡々と、自分の身体に染む重みだけを感覚して、それを支えにして次の言葉を掘りだそうとするしかない。そんなようにしか、諏訪子の眼には見えなかった。

「イゼリが、たったいま死にました。犬養部のイゼリが」

 ぽつり、ぽつり、と途切れ気味な言葉。
 それでも、はっきりと意味を取れるだけのものではあった。
 目蓋を細め、諏訪子はかすかに息を吐いた。
 数日前の野駆けの日――諏訪豪族が恫喝の書状を送りつけた日のことだ。あれから以後、諏訪の柵のうちにおいて政に携わる人々は、諏訪の行く末とモレヤの身柄をいかにすべきかということに汲々としていた。それが彼らの、つまりは諏訪子たちの戦いだったからである。だが、モレヤにはモレヤの『戦い』があったのかもしれなかった。いま初めて、諏訪子はそのことに気づかされる。モレヤと神奈子が神鹿を狩り、その一方でモレヤに従った供奉の将兵が多数死傷したという惨事。それが、モレヤという少年がその身に体験した“初陣”である。

 すでに終わったこと。――政を旨とする諏訪子たちには、そう察せられてもおかしくはなかった。現に、諏訪子はいま少しそのことを忘れかけている部分が少なからずあった。だけれど、決して事態は終息などしていない。そればかりか、今もなお続いている。少なくとも、モレヤという少年のなかにあっては。彼が自分のために傷を負わせてしまった、イゼリという犬養部の舎人とのあいだにあっては。

「そうか。……其許とは歳も近く、よう話をしていることもあったようだが。最期を看取ったのか」

 諏訪子の声に、「はい」とモレヤは答える。

「しかし野駆けの日に傷を負うた者たちのうち、私が最期に立ち会うことができたのは、イゼリだけなのです」

 野駆けの日には鹿の角に突かれて腹を裂かれた者、崖から追い落とされて行方知れずになった者、数多の犠牲者が出たという。未だその骸さえ見つかっていない者も居るのだと聞いている。城に担ぎ込まれて、治療を受けることができた者は未だしもさいわいと言わねばならない。まして、数日のあいだ生き延びることができた者は。腹を裂かれ片目を潰され、それでもなおかろうじて命を繋いでいたイゼリの最期に、モレヤは立ち会ったということであった。

「彼は、最後に何か申しておったか。縁者への遺言とか、われらへのあいさつだとか」
「礼を」
「礼?」
「礼です。ただ礼だけを、イゼリは申しておりました」

 モレヤは口ごもる素振りである。
 ややあって、意を決したように、

「今まで、私と共に過ごすことができて愉しかったと」

 それから……と、再び言葉を継ぐ。

「私が――このモレヤが“たったひとりで鹿を追いかけ森の奥深くまで踏み入ったのは、鹿に傷を負わされた、われわれ供奉の者たちの仇を討たんがためでしょう”と。そのように」

 ひときわ、少年は声を詰まらせる。
 泣き腫らした眼が、さらにまた濡れていた。拭っても拭っても、彼の着物の袖だけでは足りぬかと思えるほどに、彼は涙を流すことをやめなかった。

「ならば、良いではないか。モレヤは己が部下たちのために戦うたのではないのか」
「違うのです。私がやったことは、そんなにも彼から褒められるようなことではなかった!」

 肩に置かれた諏訪子の手を振り払い、今度はモレヤの方が後ずさる。
 なだめるような諏訪子の言葉自体が、いま自分にとっては何より汚らわしいものなのだと、考えでもしているかのように。床に足を擦るみたいにして、諏訪子は再びモレヤに近づいた。彼が身を退かせるようなことはなかった。ただ、再びぽつりぽつりと呟くような言葉だけがあった。

「諏訪の森であの巨大なる神鹿と相まみえたとき、モレヤの心にあったものは、ただ功名心だけでした。あの鹿を射止めれば、神奈子さまにも諏訪子さまにもお褒めを頂けるだろうという、ただそれだけだったのです。供回りが鹿に殺されてもなおその思い変わらず、傷を負った者たちのことなど顧みず、たったひとりで森深くへ入っていった。その醜き心根が供奉の者たちを死地に追いやり、ついに今日、イゼリを死なす羽目になった」

 縷々(るる)と流れる涙は幾筋も重なって、少年の頬から顎を伝っていく。
 彼は、涙を拭うことさえもう忘れていた。懺悔とも弁解とも見えない言葉だけが、今のモレヤである。そのさなかには、幼いながらも深い悔恨の念が在るのだろうことを、諏訪子はいつか見抜いている。

「余人(ひと)はモレヤを王と呼びました。モレヤは余人に求められ、王とされた者でした。ですが私は、本当に諏訪の王として人々を率いるにふさわしいだけの男なのでしょうか。自らの誉れを得ることにのみ汲々とし、仮にも親しいと言えた者の死に際しても、彼が私を庇ってくれるのを良いことに、自分はイゼリに嘘をついたまま死なせてしまった。モレヤは、イゼリが言ったようなことなど、何ひとつしてはいないのです。仇を討とうという気持ちなどなかった。私は供奉した者たちのことなど何ひとつ考えぬまま、あの鹿を追い掛けていっただけだというのに」

 泣くなよ、と、諏訪子は言った。

 再び手を伸ばし、いつ果てるともなく涙を流し続けるモレヤの頬に触れ、その指先で涙を拭ってやった。「泣くなよ。ただ自分のためだけに泣くことは、決して許さぬ」。自分の声は、昨晩の神奈子が掛けてくれた、あの声に似てはいなかっただろうか。そうだとしたら、きっとその方が良かったはずである。八坂神奈子が世のために自らを男と偽るごとく、人が人を偽ることも、いつか必要になるはずだから。

「死したる者を悼むべく、泣きたいのなら思うさま泣けば良いのだ。だが、その涙が死者の尊厳を傷つけることがあってはならぬ。良いか、モレヤ。嘘をつくことが、時にはまことを告げるより道理に適うこともある」

 身を屈め、諏訪子は目線の高さをモレヤと同じくした。
 両手で包みこむようにして少年の顔に触れ、笑ってみせる。
 酒のにおいだとか、酔いが回っているだとか、そういうことはもう関係がなかった。
 今もなおたったひとりで戦うことを続けている眼の前の少年を、救わなければならないと彼女は思っている。

「イゼリがどのような気持ちで死んでいったか、諏訪子には解らぬ。むろん、モレヤにだってそうであろう。だが、彼が確かに其許のいくさぶりを自らの誉れとして死んでいったのなら、それこそがイゼリが最期のときに抱いた尊厳ではないか。ならば、其許が彼にそう信じさせたままで死なせてやったが、実は正しかったのではないか。まことを告げて、その所業に絶望させたまま一生を終えさせるよりは、はるかに」

 詭弁に近しいものだというのは、むろん諏訪子にだって解っている。
 犬養部からモレヤに供奉する舎人として、イゼリを選べと神奈子に言ったのは、他ならぬ諏訪子自身だったからである。確かに、あのイゼリという少年は、モレヤの軽はずみな行動を原因として命を落としたのかもしれない。だが、その発端をつくったのは間違いなく諏訪子であった。モレヤをただ死なすには惜しいと思うあまり、他の誰かを巻きこまねば遣りきれぬと――そんな酷薄なことを思っていた諏訪子だったのである。

 そんな彼女が死者の尊厳を云々したところで、それはやはり、詭弁であろう。
 いかに口でモレヤを慮ろうと、イゼリは痛み苦しみに喘ぎながら死んでいったはずなのだから。モレヤに罪があるなら、諏訪子にも大きな罪がある。それを禊ぐことは、決してできまい。だが、重荷を分け合うことは、もしかしたらできるのではなかったか。

 葬送は死者のためと言いながら、その実において生者のための儀式である。遺された人々が、その心に区切りをつけるための。そうであるなら諏訪子の言葉は、正しく葬送のためのそれであった。生者は、死者のことを想像することしかできない。それは、ことによっては単なる空想でしかないのかもしれない。だからこそ生者は、せめて空想のなかのことであったとしても、死者の尊厳を護り通さねばならないのではなかったか。それがいま生きている者たちに示すことのできる、死者への真摯さというものではなかったか。

「イゼリは、いつか私を赦してくれるでしょうか」
「それは、何についてなのだ」
「その身に深い苦しみを与えてしまったこと。それから、今なお彼の心を騙し続けていることを」

 モレヤは、もう泣きやんでいた。
 荒い呼吸のもとで諏訪子を真っ直ぐに見据える少年の眼は、誰かに、何かに、似通っている。少なくとも自らの無軌道な欲心で、ひとりの少年を死に追いやった自分よりははるかにうつくしい眼をしていると、そう諏訪子は思った。

「それは、モレヤ次第。イゼリに嘘をついたことを、彼から赦されるような男にならねばならないよ。死者が生前と同じように生者と共に在ることは、もうできぬ。ならば生者はそののちの生き方で、精一杯、死者の思いに報いることしかできはしない」

 それが、嘘をつくということであれ――――。

「諏訪子さま、私は怖い。……怖いのです。生きるということが怖い。ときにそう思えることがあるのです。然るにモレヤはまことの王として、神奈子さま諏訪子さまと共に在ることが、本当に認められるべきなのでしょうか」
「生きるのが怖くない者など、この世にはひとりもおるまいよ。ときにそれは、死ぬことよりも怖ろしいことだ」
「諏訪子さまも、怖ろしいと思うことがおありですが」
「もちろん」
「数々のいくさを切り抜けてきた、八坂さまでさえも?」
「ああ。きっと、そうだよ。八坂さまとて、人一倍に怖れを知っておられる。だからこそ、其許をお見捨てになることなく、今日に至っておるではないか。誰かから見捨てられること、誰かを見捨てなければならぬことは、生きるにおいて何より怖ろしきことのひとつなのだから」

 そうなのだ、と、諏訪子は気づく。
 幼いモレヤは王としての重圧を怖れている。
 神奈子はあまねくあらゆる人々を好きでいたいがために、自らの策でその人々を喪うことを怖れている。

 そして諏訪子は、誰とも交われぬ孤独を怖れている。
 形ばかりの王として御所のうちに奉られながら、心許せる臣下など誰ひとりもなかった寂しさを。恋も友も知ることなく、淡々と人々の望むままの綸旨(りんじ)を発するだけの虚しさを。孤独を孤独と知ることもできぬまま、神として王として信仰だけを糧とし、ただ長き時間のさなかを生き続けるだけのかなしさを。

 人が神になることはできる。
 けれど、神が人になることはできない。
 ならばせめてその手に余るほどの孤独だけを、他人(ひと)と分かち合うことができはしないのか。

 神奈子は、諏訪子にとってその相手になってくれる。
 モレヤは、心より自分を慕ってくれた初めての人だった。
 そんな夢を見ることが、誰かに咎められることだろうか。

 モレヤの眼が誰に似ているのかを、ようやく諏訪子は思い出した。
 少年の眼の光はあの傲岸で自信家のいくさ神に、八坂神奈子にそっくりなのだと。
 強き力を持ちながら、優しさと弱さを棄て去ることができない、あの神奈子に。

「見捨てるものかよ。“わたし”が、絶対に“おまえ”を見捨てるものかよ。諏訪子は、必ずモレヤを護ると約したではないか。そのこと、決して忘れたことはない」

 ふわり、と、諏訪子は袖をひるがえした。
 そうして、その小さな少女の身体の奥深くに、自分よりもさらに小さなモレヤの身を、ひしと抱き締めていた。少年は、自分の背に回された諏訪子の両腕に、少しも抵抗する気配を見せなかった。自分が諏訪子に対して苦しみを吐露したように、諏訪子の苦しみをも受け止めなければならないのだと。……その努めを懸命に果たそうとするかのように、彼の身体は小さく震えている。おずおずと、モレヤの手もまた諏訪子の背にまで回された。おかあさん、と、そんな呟きが聞こえた気がした。諏訪子が誰かを思いきり抱き締めたことは、彼女の生が経験してきた数千年もの時間のなかで、たぶん、これが初めてだった。

 嘘をつき通さねばならないのだと、悟った諏訪子がそこには居る。
 王は、自らを信じてくれる人々の思いに報いるため、彼らが期待する役目を演じるというかたちで、死ぬまで嘘をつき通さねばならない。

 モレヤを護るということが、その実は誰にも見捨てられたくないという独善の裏返しというのなら、自分は最後まで嘘をつき続けてみせる。それがひとりの少年を、ひいては諏訪の行く末を案じるということであるのなら。子供の熱い体温を感じながら、諏訪子は固く決意していた。そして共に八坂神奈子をも、彼女の志をも護ってみせるのだと。


――――――


 鉄の金具で補強された大扉は、まるで異界への道を封じているかのごとくに見える。
 事実上の意味としては、戦闘で火を掛けられたりした際を見越して、火除けのために金属を貼ったということなのだろうが。しかし扉の全面を覆い尽くした黒光りする鉄の板は、その色味からしてどこか凶悪な印象を覚えてしまう。

「それにしても急なことではないか。いつぞや、われらが野駆けで狩ってきた神鹿の御頭が見たいなどと」
「いつも城に閉じこもってばかりでは気が滅入りますゆえ。未だ結論の出ぬ評定のこともある。それに八坂さまとモレヤの手柄話というやつを、実際の手柄を肴に伺うて(うかごうて)みるのも悪くないと思うたのです」

 要は憂さ晴らしかよ! 
 と、衛兵数人が大扉を押し開こうとする前で、神奈子は苦笑した。

 神鹿の御頭は、武器兵器を収めるための庫(くら)のひとつに収蔵されているという。なにぶん、普通の鹿に比べてあまりにでかすぎるゆえ、他に置いておける場所がなかったという事情からの処置であった。まさか評定堂にぽんと飾っておくわけにもいくまい。だが、結果としてその“間に合わせ”とも言うべき処置は、功を奏している面もあった。血なまぐさいにおいを封じておくには、強固な扉をもって隔てられた武器庫がもっとも都合が良かったのだという。

「では、どうぞ」

 扉を開き終えた衛兵たちが、ふたりに一礼してその場を立ち去っていく。
 よく手入れの行き届いた矛の輝きは、それこそ当の武器庫からいま持っていたばかりという風にも感じられた。

「立ち話もつまらん。では、参ろうか」

 神奈子の先導で、諏訪子も武器庫へと足を踏み入れる。
 押し開かれた大扉の向こうには薄闇ばかりが延々と続いていたが、一歩進むごとに、むわりと血のにおいが濃くなっていく。最初、それは大扉の防御のために貼られた鉄のにおい、それに庫のなかに満ち満ちた刃のにおいだと諏訪子は思った。鉄と血のにおいはよく似通っているものだから。だが、どうにも実際は違うようである。闇のなかですんすんと鼻を鳴らしてにおいの源を探ろうとするほどに、庫のなかを満たすものは無機質な鉄のそれにも増して、生き物だけが発することのできる、生死を越境した血液のにおいであるというのがよく解るのだ。

「八坂さま。この薄暗きなかを、よく迷わずに歩けるものにございますね」
「かの鹿の首は、もう何度も見に行っているからな」

 矢束が収められたと思しき木箱が幾山にも重なり、その隙間に馬具が眠っている。
 矛と盾とは恋人同士であるように寄り添って、剣はそのあいだに産まれた子でもあるかのよう。いつ果てるともない武器兵器の山、山、山。薄闇をみっしりと埋め尽くすそれらの道具の向こうに、ぽっかりと開けた空間がある。「あそこだ」と神奈子が言った。火災を防ぐため、紙燭(しそく)や松明といった照明はない。だというのに神奈子が指し示す先に鎮座する物を、諏訪子も確かに見定めていた。まるで“そこ”だけが、闇の種類を違えたようにさえ思われた。

「これが、神鹿の御頭」
「そうだ。モレヤが遭遇し、八坂が射た。そしてまた、モレヤがわがつるぎにて胴より断ち落とした御頭よ」

 一歩、二歩と歩み寄りながら、ごくりと唾を飲み込んでしまう。
 供犠(くぎ)を見慣れた神の眼なれど、こうまでの威容を持った獣を諏訪子は初めて見た気がする。数頭の鹿の首をまとめてくくり、その上によく精妙に縫い合わせた皮を被せて、仕上げに角を束ねて飾り立てている。そんな「よもや作り物ではないか」という錯覚につい囚われてしまうほど、御頭だけでも神鹿は巨大であった。目測だが、諏訪子の体格では両手を一杯に広げて持ち上げようと試みても未だ余るほどの大きさだ。

「どうしてか、この御頭は血を流しこそすれ腐ること知らぬ。尋常の鹿に倍する獣ゆえ、その骸まで強靭なのか。あるいは、自らの命奪ったこの八坂に恨み持つゆえ、形を留めたままなのか……」

 神奈子の言葉は自らの手柄を誇るよりも、疑問の方が第一に立っている風である。
 そんなこともあるものか、と、諏訪子は思う。見るほどに御頭の眼は闇と融け合い、その存在感を無間に広げようとしているかのようだった。急ごしらえとはいえ祭壇めいた台の上に乗せられ、絶えず流れ出る血を幾つも桶に受けながら、腐るはおろかいっこうに干からびる様子すら見せるものではない。死してなお、八坂神奈子の勝利を認めようとしない。鹿の皮一枚剥ぎ取れば、この獣はそんな情念に燃えているようにさえ感じられるのであった。

「この鹿もまた、諏訪の地に棲みし者であったのだ。つまりは当地の山川草木(さんせんそうもく)にさきわう神霊ミシャグジと等しく、諏訪子の臣民であったかも知れぬということ。――どうだ、“こやつ”は、恨みのひとつでも持っているか」

 問われるままに、諏訪子はじいと御頭に眼を凝らす。
 耳を澄まし、肌の感覚を鋭敏にしていく。
 久しく交感を得ていないとはいえ、神霊たちの声を聞く諏訪子の神通力が衰えたわけではない。衰えていないと信じたかったが、いま眼前で血を垂れ流す神鹿の御頭からは、統御を知らない漠然とした獣の思考の、そのさらに残骸が貼りついているだけで、まともに話をすることのできる理性らしいものはひとつも残っていなかった。喩えて言うならば、深酒をしてひどく酔っぱらった相手を筋道立てて諭そうとしても、到底、叶わないのと同じようなものだ。

 ふうむ。
 そんな風に、わざとらしく諏訪子は呻いた。

「諏訪子に解ることは、人にも解ることでなければなりませぬ。なぜならば、それこそがわが神としての託宣であり、王としての綸旨であるからにございます。なれど人に解らぬことは、諏訪子にも解らぬときがある。……この神鹿、今やまどろみのごとき迷妄のさなかにて、諏訪子の力をもってしても声を聞くこと叶いませぬ」
「そうか。やはり、血とともに霊までも抜け落ちてしまったのかな」
「元より、獣たちの思うところは人の心にて理解しがたき部分がございまする。わが諏訪の神霊という意味では紛れもなくミシャグジたちと意味を同じうしましょうが、諏訪子もまた人に推戴されねば神ではない以上、人の心、人の言葉にて山野の意思と相対しなければならぬところがございます。もし仮にこの神鹿が生きていたとしても、その意のすべてを汲み取ることは、やはり難しかったのではないかと」

 そうか……と、神奈子は残念そうに肩を落としたように見えた。
 たとえ言葉の通じぬ獣であっても、互いに命の遣り取りをした相手といううえは、最低限の礼節をわきまえておきたいと思っている彼女なのかもしれなかった。

「わが大王の軍勢は、かつて鎮西の地にて隼人と称する民と矛を交えたことがあった。勝利ののち、その隼人たちの怨霊を鎮めるため、大王は塚を立てて死人(しびと)の御霊(みたま)を弔った。……そんなことが、昔にあったと聞いている」

 諏訪子は、口角をクイと上げて首を傾げる。

「では、八坂さまもまた先例に倣いて、この神鹿に塚を築くおつもりにございまするか」
「できることなら、そうしたいものだが」

 くッ、くッ、……! と、肩を揺らして神奈子が笑った。

「思うてみれば、こやつを討つにあたって供奉の者たちを死地に向かわせたは、この八坂神も同然でな。元をただせば、私がモレヤの資質を見極めるためと称してあの子の専行を許したのだ。その分際で、……今さらに鹿を祀るなどというのは、少し虫が良すぎるとは思わぬか」

 喉の奥に引っ掛かっていた笑いは、やがて肺まで下り、最後には腹の底にまで達してしまったようだった。あ、は、は、は! と、神奈子はただひたすらに大笑し続けた。呆気に取られて、傍らの諏訪子はそれを見届けることしかできなかった。おもむろに視線を御頭に戻る。心なしか、鹿の口元までクイと上がり、神奈子と一緒に笑っているかとさえ思われた。

「罪人(つみびと)なのだ」

 と、ようやく落ち着きを取り戻した神奈子が言う。

「権力は、罪人を生み出す。巡り巡って、犯した罪が人々のためになるか、否か。しょせん、王とはそういうことだ」
「そんな戯れをお話になりたいがために、諏訪子が御頭を引見することをお許しになったのか」
「違うさ」

 顎をなで回し、神奈子は歯を軋らせた。
 
「なぜと言えば、私もまた憂さ晴らしがしたかったのかもしれぬ。モレヤのことについて自ら犯すかもしれぬ罪から、しばし。何かを選べば、もうひとつの何かを潰すことになる罪から。諏訪子と話ができれば、逃れられると思うたのかもしれぬ」

 ごくり、と。
 今度、唾を飲み込んだのは諏訪子ではない。神奈子の方だ。
 薄闇のなかでふたりの視線がかち合い、どちらからとも笑ってみせる。
 だけれど、神奈子の笑みは悲痛である。おそらく諏訪子自身も、同じ顔をしていたのだと思った。

「そういえば、そなたには未だ訊いていなかった」
「何を」
「こないだの晩の評定のこと。“いかなる裁断であろうとも、この八坂につき従うてくれるか”とな」

 両の拳を開いたり握り締めたりしながら、思案することしかできなかった。
 このあいだの問いは、確かに諏訪子に向けられたものではなかった。出雲人に向けられたものだ。出雲人たちが、己が関係に存するであろう絆を確認するための……そんな問いであったはずだった。そこに、諏訪子の姿はない。彼らの関わりと連なりのなかに、諏訪人たる諏訪子は居てはいけなかった。だから、彼女は評定の場でも「御意のままに」とひれ伏すこと叶わず、ただ堂から出ていく神奈子の背を見送ることしかできはしなかった。

その穴埋めをするごとく、いま神奈子は問うている。
諏訪子という人の意思は、自分と一緒に在ることができるのかということを。

「罪人にございます」

 それだけ、諏訪子は呟いた。
 ん、と、神奈子は口走る。「諏訪子が、何の罪を犯したのだ」と。

「わたしは、嘘をついておりまする」
「嘘だと。誰に、どんな」
「八坂さまに。それから、モレヤに」

 眉根を寄せた神奈子は、飢えた魚みたいに口をぱくぱくとさせている。
 その様子が可笑しくて、諏訪子は少しだけ微笑ができた。

「諏訪子は、ずっとひとりでした。“諏訪さま”なる王として諏訪の豪族たちに奉られているあいだ、それが民百姓のためであるとして、豪族たちからの奏聞(そうもん)に対し次々と実行を命じていた。実際には、彼らが政を意のままにし、私腹を肥やすための手段に過ぎぬと解っていながら、豪族たちに祀られなければ存在さえできない神にして王のかなしさで、ただ諾々とその意に従うていたのです」

 思うさま背伸びをするように、神奈子の眼を見据えている。
 相手は無言のまま、じいと諏訪子に見入っていた。

「けれど、それでも良かった。それまでのわたしはひとりの友もなく、恋というものさえ侍女たちの話から窺われる、色々の噂話でしか知らなかった。ただ、世には愉しきこと苦しきことがそれぞれに満ち満ちておりながら、人々が在る限り、それを護り続けるのが王たる自分の責務であると、そのように信じておりました」

 諏訪子、そなたは。
 そう言う神奈子の言葉から逃れるように、諏訪子はなおも話し続ける。

「それが、“諏訪さま”のたどるべき運命だったのでしょう。幾千年か、幾万年か。いつの日か諏訪とそこに住まう人も神霊も滅び去り、神としてのわが身が消え去るときまでの。けれど、それを変えてしまった人が居た。はるか遠き西の果て、高天原とか申す地より天下りし神の子孫と自らを称する、傲岸不遜ないくさ神」

 そこまで言って、ようやく神奈子は眼を見開いた。
 少しずつだが、諏訪子が何を言わんとしているのかを悟っているのかもしれなかった。

「かの神はわが身を好いていると称し、新たに“諏訪子”という名まで与えました。まったく、何といういいかげんな名づけなのかと、今でもたまに可笑しくなるのですよ。諏訪の神だから、諏訪子などとは。だけれど。だけれどわたしは、」

 声が詰まり、息もできなくなる。
 もう良い。もう良いのだ。何度神奈子が言っていても、無視して諏訪子は語り続けた。

「あなたから――八坂神奈子さまより賜ったこの諏訪子という名を人に呼ばれるたび、今ではどうしようもなく嬉しくなるのです。あなたと話をするたび、夜ごと酒を酌み交わすたび、ただ“諏訪さま”に過ぎなかったこのわたしが、心底から愉しいと思える相手は、八坂さまが初めてでした」

 眼を閉じ、神奈子は後ずさる。
 それを追い詰めるかのようにして諏訪子は歩みを進めた。
『告白』はなおも続く。「斯様に御自らをお責めなさるな」と。

「それは、きっとモレヤも同じこと。八坂さまに弓の稽古をつけて頂いているときのあの子の顔を、諸国諸州でのいくさの手柄話を聞いているときの眼の輝きを、八坂さま御自身もとうに御承知のはず。実の親を喪うた身寄りのないあの子にとって、親代わりとなっておられる八坂さまが、いかに大きな存在となりつつあるか」

 見開かれた相手の眼を、じっと諏訪子は見つめていた。
 逃げるわけにはいかなかった。ここが自分の勝負どころなのだから。
 神奈子にもいくさ神として初陣があったように、モレヤもまた痛みを残した初陣を経験したように。自分だけが逃げ回っているわけにはいかないと思っていた。

「だから。あなたがわたしに与えてくれたものに報いるために、今こそ諏訪子は八坂さまの自らの力を貸すときなのだと思いまする。罪を負うて生きるは、諏訪子も同じ。モレヤの友を――イゼリという少年を、諏訪出雲融和の証として供奉に加えよと命じた罪が、わたしにはある。その実は自らの孤独を厭うがゆえに、あの子を誰にも奪わせまいとする情念の産物であったのかもしれませぬ。斯様にわたしは、八坂さまともモレヤとも、離れることがもうできませぬ。ひとりになるということが、嫌いになってしまったのです」

 はっ……と、神奈子が息を吐いた。
 諏訪子が何を言わんとしているのか、そのすべてにようやく気づいたのである。
 だめだ、それだけはやめるのだ。うわごとのようにくり返される制止にも構わず、諏訪子は笑んで、自分の意志を打ち明ける。

「わたしこそは、諏訪の行く末がためにモレヤの妻となるべき女。あの少年を憐れみ、同時に八坂さまの志をもお守りすることのできる、唯一の者」

 神奈子が、ゆっくりとこちらに手を差し伸ばす。
 けれど諏訪子は、それを取るようなことはしなかった。
「お許しあれ」と、ただそう言って微笑むだけなのである。

「なぜだ」
「それだけが、此度の厄介ごとを片づけるための最善の策であるからにございまする」
「そうではない、そういうことではない。第一、豪族どもが望んでおるのは、モレヤが出雲人と婚儀を結ぶこと。そなたは……諏訪子は、出雲人ではないではないか!」
「この身、諏訪人であろうと、此度ばかりは八坂さまの言うことを聞き入れることできませぬ」
「認めぬ」
「聞きませぬ」
「ならぬ」
「絶対に、聞きませぬ!」
「どうして、そう意固地なのだ! 確かに言うたではないか。誰かひとりの面目に泥を被せて済む話ではないのだと。そなたがあの豪族たちの腹に取り込まれる仕儀となる意味が、いったいどこにあるいうのだ!」
「意味があるから、こうして申し上げているのです! ……それがこの諏訪を、ひいては八坂さまとモレヤとを同時に救う手立てと思うからこそ」

 深い深い息を吐き、諏訪子は告げた。

「まずモレヤの身を、八坂さまの養子ということにでもしていただく。そののち、八坂さまの子たるモレヤとこの諏訪子が婚儀を取り結び、そのあいだに子が産まれる。そして八坂さまからはモレヤへ、モレヤからはその子へ、譲位をしていただくのです。しかし八坂さまには次代の諏訪王になるべき者の後見役として政に関わっていただく。そうすればあなたの面目も十分に立つし、出雲本国へも十分に諏訪統治の言いわけが立ちましょう。何より、出雲人と縁戚の間柄となろうという諏訪豪族の目論見も潰せましょうし、なおまた、豪族たちの王であるモレヤは八坂さまの子なのだから、完全に連中との関わりを断ち切っていくさの芽を育たせてしまうわけでもない。そしてこれなる策の最後においては、諏訪子とモレヤのあいだから、この諏訪の地を治めるに足るだけの新たな王統、新たな血脈を生み出すことができる」

 これが、どの方面を向いても事態が丸く収まる策なのです。
 そう言って、にッと笑ってみせる。

「先ほどの問い。……八坂さまの御裁断に従うかどうかという問い。諏訪子からの答えは“否”にございまする。諏訪子は諏訪子の志で、この国の行く末を切り拓いてみせる」

わたしたちの、歩むべき道を。
 
 両の拳を握り締め、瞠目する神奈子は無言だった。
 諏訪子の進言した策を退けるべきか、受け入れるべきか、懸命に思案をしているのだろう。彼女にとっても、己が王権の次第を左右する選択である。このような密談の場で、そう軽はずみに決定して良いことでもない。だが諏訪子には、政について考えている以外の気持ちが、神奈子の姿からは感じ取れる。何か自分と似て非なるところがあると、直感的に彼女は思う。孤独を怖れるから、こうして自分自身を政略結婚の手駒として使おうという諏訪子とはまるで対照のものだ。政と自分の思い、どちらを優先させれば良いのかと、決めあぐねる色を神奈子はしている。

「確かに、此度はその策を採ることですべて収まるかも知れぬ。諏訪子の言う通り、八坂神の王権も安定しよう」
「では、やはり」
「しかし。それで収まらぬものがひとつだけある」

 拳を開くと、再び彼女は諏訪子を見据えた。

「私は――八坂神奈子は、諏訪子のことが好きなのだ。心底、そなたに惚れぬいておる。ただひとりで敵の首領を討ちに来るそなたの豪胆さが。郷里たる諏訪を思う心根が。敵の懐深くに飛び込んでまで、政を担おうとするその気概が。……だというのに、そなたは。ついに私の思いには、応えてくれないのだな。そなたは、いつまでも諏訪の地に生きる諏訪子であろうとし、わが傍らに在ってくれる諏訪子とは、決してなってはくれぬのだ」

 しばし、ふたりは黙り込んだ。
 やがて、諏訪子の方から深々と頭を下げる。
 そうまで自分を好いてくれていた神奈子への感謝と、彼女の思いに応えることのできぬことへの謝罪。その両方が、混じり合っていた。

「八坂さまのことは、生涯得がたい無二の友だと思うておりまする。されど友情が愛に劣るということが、どうして許されることでしょうか。ましてわれらは、共に諏訪の国を永代に栄えさせていこうと、そのように誓い合うたふたりではありませぬか。諏訪子は確かに、八坂さまの諏訪子となることはできませぬ。しかし、八坂さまが諏訪の地の八坂さまである限り、諏訪子もまた、八坂さまと共に在ることはできる」

 ふ、ふ……。と、そんな風に神奈子は笑った。
 辛いもの、かなしいものが流れ出さないよう、懸命に覆い隠している。
 ぎこちない笑い方だった。

「ひとりの人に対し、過ぎたる愛は祟りと同じよ。水を多く得すぎた草花の根が、やがては腐れてしまうように。斯様に人を滅ぼしてなお余りある祟りこそ、また愛というものの別の名ではないか」
「はい」
「諏訪子。そなた、あの子を。モレヤという少年を、腐らせず愛するという自信があるのか」
「必ずや。必ずや、やってみせまする」

 それが、この親友に対する対する償いと思うからだ。
「そうか!」と、いやにすっぱりとした神奈子の声。

「他の誰に取られたのでもなし、あのモレヤに諏訪子を取られたのだと思えばこそ、私の気持ちも妬かずに済むわ」

 だが、ひとつだけ。
 ……と、神奈子は呟く。

「ひとつだけ、最後に頼まれてくれぬか」
「頼みごとにございますか」
「うん」

 小首を傾げる諏訪子に対し、神奈子は少しためらいがちな様子を見せていた。
 生娘(きむすめ)のようにわずか顔を赤らめながら、彼女は「せめて、」と口を開く。

「せめて、いちど私を呼び捨てにしてはくれまいか。まこと、わが身がそなたの友として在ることができるのであれば。“八坂様”などという他人行儀はやめ、ただ“神奈子”と」

 思わぬ頼みごとに、諏訪子はつい噴き出してしまった。
 神奈子も釣られて笑いだし、武器庫の薄闇は、場に似合いもしない愉しげな空気に満ちていく。

「神奈子。おまえは諏訪子にとって初めての、そして無二の友達だよ。だけれど、わたしはモレヤの妻になるのだ。それを、許してほしい。神奈子」

 ばか! と、何度か神奈子はくり返していた。
 彼女の顔に、もう恋を失ったかなしみはなかった。嫉妬も、なかったようだと諏訪子は見た。良かったと思う。それでこそ、諏訪子が認めた神奈子なのだからと。

「ばか! ……あらためてそんなことを言われたら、諦めきれぬかもしれないではないか。また私は、諏訪子に惚れ直してしまうかもしれないではないか」


――――――


「このでっかい祭壇、いったい何に使うっての、おまえ知ってるか」
「さあなあ……でも、噂で聞いた話だけどよう」
「ん。おう」
「少し前に、八坂さまとモレヤさまが、森で鹿を狩ってきたじゃないか」
「ああ。あの武器庫に置いてあるでかい御頭な」
「あの御頭を祀って、何かしらの儀式をやるらしいって話」
「儀式か。……じゃあさ、その後で宴会とか酒盛りか何かがあったりすんのかね」
「詳しいことはおれも知んねえよ。けどここ数日、ずっと方々で色んな準備をしたり、城の外からも客を招いたりするみたいだし、まあ、何かしら大きな行事をやるんだろうな」
「なるほど。じゃ、宴会に備えて腹でも減らしとくとしようや」

 ……兵たちの口さがない噂話は、城を歩けば嫌でも耳に入ってくる。

 戦場にあっては八坂神を奉じ、名のみ惜しめど命は惜しまぬ勇猛果敢な男たちだが、こうして日常の営みのなかならば、笑いもすれば愚痴もこぼすし、卑猥な話題に花を咲かせもする、ごく普通の青年たちであるに過ぎない。神奈子と連れだって城のあちこちを歩いてみても、こちらの顔を見れば畏まって頭を下げていたりするが、ふたりの姿が遠くなるに連れて、また愉しげに話を再会する。賭け事で勝ったの負けたの、弓の腕比べでは誰が強いの、どこの女の“具合”が良いの悪いの、……下品かつ下世話ではあるが、どこに行ってもみな愉しげだ。城のなかには、兵たちの変わらぬ日常がある。

「だいぶ、形になって参りました。急な決定ではありましたが、出雲人たちは八坂さまの命に従うて、よく働いてくれる」
「当地より諏訪人の匠たちも招聘したからな。諏訪の柵も改装に次ぐ改装だが、これもわれらが諏訪に根を下ろすに当たっては必要欠くべからざることだ。諏訪子の名がなければ、諏訪人の匠たちは手を貸してはくれなかったことであろうよ」

 あらためて、礼を言う。
 そう言うと、廊下の途上で神奈子は諏訪子に頭を下げた。
 あちこちから普請の槌音が響いてくるなか、突然にそんなことをされてはこちらの方が緊張してしまうと諏訪子は畏まる。

「面をお上げくだされませ、八坂さま。……元より、あの神鹿は諏訪の地のもの。仮にかの御頭が恨み抱くことあらば、それを受け止めるは諏訪子の役目。せめて名こそ貸さねば、こちらの面目が立ちませぬゆえ」

 出会ったころに比べると、神奈子は少しだけ素直になったと諏訪子は思った。
 否、それは自分も同じほどに、だろうか。モレヤとの婚儀を決意した胸を打ち明けてより数日、自分を慕ってくれる神奈子の好意を裏切ってしまったという思いもないではなかった。が、互いに腹のうちを見せ合ったからこそ、真に忌憚のない関係を築けるのではないかと――今では、そう信じたい諏訪子が居るのだった。

「しかし、謀にはやはり諏訪子の方が一枚上手という気もするな。そなたとモレヤとの婚儀だけでは事態を鎮めること叶わぬのではと、八坂も薄々と不安に思ってはいたが……神鹿の首を使うとまでは、さすがに思いつかなかったわ」
「先ほども申し上げたこと。塚を立てて弔うのは、あくまで出雲人の流儀。諏訪には諏訪の流儀にて、この地に新たな鎹を打ち立てること必要だったのでございまする」

 鑿(のみ)が材木を這い、鋸が絶えずぎりぎりと刃に唄う。
 諏訪の柵はいくさのための城にして、諏訪新政の政所でもあり――そして、祭祀のための神殿ともなる。それが、モレヤとの婚儀に併せて諏訪子が発案した策だった。木の香が漂うなかを視察しながら、ことの次第を何度目か彼女は思い返す。

 要は神奈子が諏訪にやって来た当時と同じような、諏訪人民の民心をなだめるための政策なのである。言うまでもなく、諏訪の柵は神道の神を祀る神殿だ。そこに諏訪の神霊を奉るための祭壇をこしらえ、諏訪の作法に則った祭儀を行う。その際の供犠のひとつとしては出雲人が狩ってきた獣、つまりは神奈子とモレヤとの手柄である、あの神鹿の御頭を使用する手はずであった。

 出雲人の神が住まう城において、諏訪人の神を奉る儀式を行う。
 これをもって、二者の融和を内外に示すという計画である。
 それに併せて諏訪の柵も、より諏訪という土地の風土や文化を反映したつくりに改装が始まっている。冬のあいだの雪に耐えるため、屋根に対し鏃のように鋭い斜面を加える。様々の儀礼に際して多くの人を呼び集めることができるよう、可能な限り練兵場を拡張する。諏訪の柵はまず第一に、戦いのことを考えて建設された山城ゆえ、今あるものを最大限に利用しての普請が行われていたのだった。

 それにしても、事態は本当に急転していた。

 武器庫での告白から数日、諏訪豪族への回答を行う期日が来るよりも早く、神奈子はモレヤの婚儀に関しての返事を書状に託していた。正直なところ、諏訪子もやはり不安があった。豪族たちが、そう易々と自分とモレヤとの婚儀に首を縦に振ってくれるものだろうかと。だが、早くも届いた返答は、こちらからの提案をよく首肯するものであった。いったい何を目論んでいるのか、今でも諏訪子には解らない。が、今はそれでも良いのだ。諏訪の地に太平を呼び込むことができれば、今はそれで。

 ふたりの足取りは、やがて練兵場に差し掛かる。
 さすがに普請が行われているあいだ、軍事訓練にまでは手が回らないと見え、将兵は身分の別なく忙しく立ち働き、槌音を響かせている。すでにそこでは、森から切り出してきた四つの巨木が枝葉を払われて幹だけになり、よく表面を磨かれた柱として、それぞれ四角形の頂点を成すようなかたちで屹立している。四つすべてに、等しく注連縄が飾られていた。

「見よ、諏訪子。あれが、御柱(おんばしら)というもの。わが身を表す神体ぞ」

 呟く神奈子は、どこか得意気だ。

「あの御柱こそは、この八坂神奈子の欲する“力”を示すもの。わが女性(にょしょう)としての肉体にはなき、男たちだけが持つ“力”をな」
「男たちの、力……」
「おうさ。男だけが持つ、天にそびえる命と力の象徴だ」

 どこか持って回ったような言い方である。
 意味が解らずにしばし思案していた諏訪子だったが……神奈子が何を言わんとしているのかに気づいて、途端に顔を赤くした。

「そ、それは。それはさすがに、ちょっと、その、……“あからさま過ぎる”のでは」

 しどろもどろになりながら、小声で呟く諏訪子であった。
 要するに――神奈子が言う『御柱』なるものは、勃起した男根とそこに宿る生命力の比喩であるというのを、彼女はようやく気がついたのである。

 男根崇拝、というと甚だしく奇異なものとわれわれの眼には映る。

 けれど、古代宗教にあっては男根崇拝を含む性器崇拝は、世界的に見ても決して珍しいものではなく、そればかりか日本国内にあっては近世の頃まで存続していたともされる。勃起した男根という存在は、女とのあいだに子を成すことのできる烈しい生命力の凝縮されたものとして、古くから人々に神秘的な象徴と考えられていたのである。だからわが国において男根崇拝が風化し始めたのは、明治維新後の神仏分離、廃仏毀釈の政策に合わせ、国家神道の確立にそぐわないとされた民間の性器崇拝思想が『淫祀邪教』(いんしじゃきょう)として弾圧されてからのことだという。しかし少数ながら、日本国内で男根崇拝の名残と見られる信仰は、弾圧を逃れてなお地方や地域の文化として存続しているらしい。あるいは今日、長野県は諏訪地方の祭祀に見られる御柱なるものも、古代から連綿と続くこうした生命力への称賛が、今なお人々の信仰として受け継がれている証であるのかもしれない。

 真実のところが、どうであれ。
 少なくとも、いま諏訪の柵の練兵場に打ち立てられた四つの御柱は、紛れもなく神奈子の意思によるものであり、かつ、男性原理の持つ“力”の比喩であった。

「な、何を申す! 女たちを烈しき欲のままに穢そうとする、男たちのそういう気持ちを汲み取り、昇華していくさに向けさすのが私の仕事だ! ……かなしきことだが、八坂神奈子は女の神だ。逆立ちしても、男には成れぬ。だからせめて、ああして男が持つ“力”を祀り、わが身にいくさ神としての権能を注ぎ足すのよ」

 何を恥ずかしいことがあるものか! 
 と、しきりに強弁する神奈子であった。

「それに。男というもののどうしようもなさを受け止めることができるのは、いつの時代も女だけだからな。男どもが際限なくその威を昂ぶらせることあらば、この世は瞬く間に滅びよう。口惜しいが、その力を単なる暴虐から意味あるいくさに組み替える女性(にょしょう)こそが、この私ということさ」

 それから少し思案した風の神奈子は、

「モレヤなる男を受け止めるのは、八坂ではなく諏訪子という女だ」

 と言った。

「あの子のこと、頼んだぞ」
「承知いたしておりますよ」
「ま、ともかくだな。私の方の準備は、見ての通り着々と進んでおる。諏訪子はどうなのだ」
「ご心配なく。私の方も、着々と進んでおりますゆえ」

 言って、諏訪子は含み笑った。
 別に隠し事をしているわけではない。
 何もかも神奈子と、そしてモレヤとのあいだでは話し合いが済んでいた。
 評定衆の説得も、概ね成功している。後は、本当に今度の儀式を成功させられるか否かであった。それには諏訪子の――諏訪子自身の『仕事』の成否が何よりの鍵であった。それが解らない彼女であるはずがない。

「諏訪の地より生まれしものは、諏訪の地に帰る。あの神鹿の恨みを引き受けるは、本来なればわたしの、諏訪子の役目だった。しかし八坂さまが、御身、当地に土着なさるおつもりであれば、やはり“罪”のことは皆で引き受けねばなりますまい」

 御柱の注連縄が、風に揺れるのを見ながら言う。

「罪、か。思えば、とんでもないことをしでしかしてしまったものだよ。あの鹿もまた、山野に住まう一柱の神でなかったはずはない。いわば、わが同胞(はらから)となるはずだったかも知れぬ者なのだ」
「誉れを同じくするほどに、背負うた罪を同じくすることもまた同胞たるの条件と申せましょう。八坂さまは、いつものように傲岸にお振る舞いあれ。それが、あなたを王らしく見せる」

 神奈子より先に数歩進み、諏訪子はふいと振りかえった。

「つるぎを振り上げることなく、しかしつるぎにて此度のこと、確かに収めて見せましょう」


――――――


 時は、すでに秋口であった。

 田の稲穂は頭を垂れ始め、それを揺らす風も冬の気配をほんのわずかに含み始めている。
 夏はもうとうに過ぎ去り、民百姓たちも、これからやってくる農繁期が平穏たれ、そして前年にも増して豊作たれと、一途に祈り始める季節なのだ。

 その日の諏訪の柵は、当地にこの城が築かれてからかつてなかったほどの賑わいを見せていた。とは言っても、しばし続いていた改築の普請はみなすべて終了し、諏訪子の名のもと招聘されていた諏訪人の匠や職人たちも、みな相応の褒美を賜って家に帰されている。では、賑わいの源とは何であっただろうか。朝から、ずっと絶えず城のなかに静かな熱気を振りまいていたものは。

「おおー! あれが今日の儀式で使われる生贄ってやつか。あれがみんな、諏訪の獣なんだろう」
「何でも諏訪の領主や豪族たちが、競うみたいにして八坂さまや諏訪子さまに献上したものらしい」
「生贄に捧げる動物なら、おれたちが狩ってくるのでも良かったんじゃないのか」
「ばか。そこは、ほら、お偉方の考える“政の事情”ってやつがあンだよ。諏訪人から献上された獣を、おれたち出雲人の城で生贄にするだろ。そうすると、“これからは仲良くやりましょう”っていう意味合いができあがる。今日のはさ、そういう儀式なわけだ」
「ふうん。難しいことはわかんねえけど、美味い酒が飲めればそれで良いか……」

 続々と城中に運び込まれる諏訪の獣たちを見、いずれの将兵も今までとはまるで違う『儀式』が始まろうとしていることに、多くの期待と少しの不安を隠しきれない様子であった。

 無理もあるまい、と、諏訪子は思っていた。
 かつては矛をぶつけ合う敵同士だった諏訪人と出雲人が、政治的な利害調整の意味合いを帯びたものであるとはいえ、二者の融和を示すべく共に祭儀を催すのだ。宴会や酒盛りは、その愉しさで参加した者たちのわだかまりを解きほぐしてくれるだろう。だが、儀式そのものに関しては未だ未知数だ。宗教と政治が一体となった政体において、ふたつの異なる祭儀を合流させるということは、互いの思想と世界観を融和させると同時に、政治的な妥協をも孕んだ意味合いを帯びているはずである。

 直接、政に関わる者たち――諏訪子に神奈子、それに諏訪豪族たちが承知しているとはいえ、末端の将兵や人民までその意識が行き届くかどうかは、やってみなければ解らない。

「空駆ける秋津(アキツ)たちよ。おまえたちもまた、異邦からやって来た虫たちと交わること、あるものか」

 秋津、というのは蜻蛉(とんぼ)の古名のことである。

 誰も居ない物見櫓の上に登り、黄金色に染まり始めた田のあいだを縫うようにして、次々と城にやってくる諏訪の豪族や領主たちの列。彼らが献上する生贄の獣たち。そして今晩の儀式――というよりはその後の宴会を楽しみにしてそわそわとしている将兵たち。

 秋津はそのいずれの者たちにもかかずらわることなく空を飛び、交わり、子を残しては死んでいく。秋になれば秋津が姿を見せるのは、諏訪だけではなくどこの国でも同じだと神奈子は言っていた。ならば、人も神も知らぬ二者融和の先例を、虫たちが語り継いではいないだろうかと諏訪子は思う。つまるところ、彼女もまた不安が十全には拭えていないひとりであった。指先に止まった一匹の秋津の、ぴんと張ったその若々しい翅を見ていると、むだなこととはいえ、つい語りかけたくもなってくる。

「こんなところにおられたのですか、諏訪子さま」

 櫓の壁に寄りかかりながら、うとうととしかけていたところに、聞き慣れた少年の声が響いてきた。モレヤである。

「八坂さまが探しておられましたよ。最後の準備をしようというときに、いったいどこに行ったのかと」
「ちょっとした休憩なのだ。……此度の儀式、概ねにおいては諏訪の作法通りだが、細かなところでは出雲人のそれが混じっておる。さすがのわたしも、ここ数日は稽古のし通しで疲れているのだよ」

 指先から逃げ出した秋津を眼で追いながら、諏訪子は梯子を上って櫓の上までやって来たモレヤに答える。

 わが夫、と、彼女は心中に呟いた。

 彼のことを嫌っているわけではない。いやむしろ憎からず思っているからこそ、諏訪子は彼の妻となることを決めたのだった。未だ子供とはいえ、やがて長ずれば背丈は諏訪子を凌ぎ、喉仏が出っ張って声も低くなる。武威は神奈子に、謀は諏訪子に及ぶものにさえなってくれるかもしれない。彼を愛することができるのかもまた、諏訪子にとってはやはり未知数であった。だからこそ年少のうちに彼という人を、見続けていなければならないとも思える。

「そのようではいけませぬ。今宵の儀式のために、着物を替える用もあるではありませぬか。時は矢のように過ぎ去ります。諏訪子さまがこうしてひと眠りしている間に、もう儀式が始まってしまうかも」

 そうなれば、恥をかくのは諏訪子さまなのですよ!
 梯子の先から顔だけ出して、そうモレヤは諌めた。
 しゃがんで彼と視線を近づけ「杞憂だよ、それは」と、諏訪子は答えた。

「おまえに申されずとも、すぐに八坂さまのもとには参ずるつもりでいた。……まあ、今度のはモレヤがことの次第を案じ、諏訪子を探しに来ただけでも良しとしよう」

 どういう意味です、と、モレヤは怪訝な顔をする。

「モレヤという男にも、少しずつ王らしい振る舞いが板についてきた、ということさ」

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