黒き海に紅く、漂う者が一人いた。
ぱっつんぱっつんな服と、天女を連想させる羽衣。
人は彼女を、リュウグウノツカイと呼ぶ。
「衣玖!衣玖ーーーー!!」
卑猥に聞こえる言葉を大声で叫ぶ比那名居天子に、永江衣玖は雷を落とした。
「まぁ私じめんタイプだから効かないんだけどね」
「無念無想の境地でしょう……して、何の用ですか」
衣玖はげんなりした様子で言った。
最近大型の台風が多く、衣玖は疲れていたため休養中である。
雲の中は気持ちがいいのだ。まるでプールの水面に浮かぶような心地よさがある。
その平穏なプールに大岩(要石とも言う)を落として荒らす不届き者がいた。
天のように蒼い髪、地のように薄い胸板。座右の銘は唯我独占。
人は彼女を、天人と呼ぶ。もしくはまな板。
「ちょっと聞いてよ衣玖!私もうびっくりしちゃったのよ!」
「ドッキリですか?」
「違うわよ!有頂天より高いところがあるらしいのよ!」
「……ドッキリですか?」
「だから違うっちゅーに」
衣玖は思考する。
有頂天より高い所?それってどういう事なんだろうか。
有頂天。非想天。非想非非想天。非想非非想処天。
それはつまり、三界の中で最も高い無色界の中で最も高い所である。要するにこの世でもっとも高い所。
尤も、三界の一番下である欲界すら抜けたように思えない天子個人より高いものなら幾らでもいるだろうが。
それより高い所。……それってひょっとして。
「太陽ですか……?」
「太陽に生物が住めるか!」
そりゃそうだ。
「有頂天より高い所、それは……月よ!!」
似たようなものだった。確かに兎は住んでいると聞くが……。
実際のところそれってどうなのだろうか?
有頂天と月。仏教的には有頂天は世界で一番高いところではあるが、この場合の世界とはどの程度の規模を示すのか。
世界大戦に月は参戦しなかった。つまり、月は世界には含まないのか。いやしかしこれは暴論な気がする。
そもそも高いの方向はどうなっているんだろうか?高いならば当然低いもあり、それは対称な方向をとるのが一般的だ。
一般的には地面から垂直に高さという概念を測るが、ならば地球の周囲をまわる月は上だったり下だったりする事になる。
基準となる地面も動くと考えるか?いやそもそも宇宙規模で考えると上と下の基準すら分からない。月の地面からしてみれば地球の地面は上だ。
やはり世界とは地球の事という事でいいのか。いやだがそれでもやっぱり異世界と異星は違うと思うし、星という言葉の意味が……。
「ってなわけで、月に行こうと思うの!!」
衣玖のよくよく考えてみればどうでもいい考察は一言で消し飛んだ。
「5W1H!?」
「中々斬新な切り返し方ね衣玖……何ヶ月か前から暖めてたネタという訳じゃないなら誉めてあげるわ」
「10年くらい前に暖めてたまま忘れてたネタです」
「……whereは月ってもう決まってるでしょ?」
「what wrongのWです。頭大丈夫ですか?という意味です」
「微妙に間違ってるわね。よし、表出ろ」
永江衣玖は割と毒舌である。英語の自信はあまりない。
「というか、一番大事なところなんですが、どうやって行くんですか?聞けば、吸血鬼たちはそれはそれは大きなロケットを作り、さらに神を降ろしてやっとたどり着いたそうですが」
「ぬかりはないわ!ちゃんと準備してあるのよ」
「準備……?」
まさか。
本当にロケットを作ったとでも言うのだろうか。
衣玖は思わず唾を飲む。
「私はこの日の為に剣の稽古場の人形を毎日叩き続けた!!」
「修行!?」
あの比那名居天子が修行というのはとても驚きではあるが、それが月へ行くのと何の関係があるのか。
「おかげで私のカードゲージは3万よ!!」
「え?」
一瞬、イヤな予感が衣玖の頭をよぎった。
だが、まさかそんなはずはあるまい。彼女はそこまでバカではない。
衣玖はそう自分を暗示した。でなけりゃやってられなかった。
かくして、その暗示は無駄に終わるのである。
「天符「天道是非の剣」を一万回くらい使ったら月までいけるはずよ」
「馬鹿ですか!?アホですか!?頭おかしいんですか!?what's wrong!?」
「馬鹿でもアホでもないわよこの馬鹿!!あとその使い方は微妙に違うって言ってるでしょ!」
天符「天道是非の剣」
緋想の剣を斜め上に構えてすっ飛んでいく3ゲージのスペルカードである。
外したときの隙こそ絶大だが、無敵や発生など切り返し技としては一通りの性能が揃っており、固め脱出や、起き攻め見てからリバサでカウンター等助けられた人も多いのではないだろうか。また、相手の「ガード反撃」を見てから潰せたりするのも地味に便利である。グレイズもあるので空中で射撃を蒔く相手を落とすことも可能だ。
が、月旅行に使うのは流石に発想がぶっとびすぎてる
「そもそも天道是非は空中発動不可でしょう!」
「要石を踏み台にするのよ!」
「出来るんですか!?」
「普通の対戦で使ったら卑怯でしょうが!」
「ぐぬぬ……」
確かにそうかもしれないと衣玖は押し黙る。天子の技全部が空中発動可になるなんてむちゃくちゃだ。エリアルコンボの締めにバラバラに引き裂かれてはかなわない。ダメージ効率が空並になる。
「とにかく、行くわよ!」
「何で私も行くんですか!」
「一人じゃつまんないじゃない」
「だからってーーーーーー」
天地「世界を見下ろす遙かなる大地よ」
「さあ逃げ場はないわ」
「……………………」
遙か空高くまで地面が隆起し、空は青さを通り越して夜空のような黒である。
空と言うより、宙なのである。
「……分かりました」
衣玖は天子の腰に手を回した。
飛べるんだから逃げ場は普通にある訳だが、逃げた背中に全人類の緋想天を6000回されるのは勘弁である。
「あ、遺書書いた方がいいですかね……」
「いらないわよ!大丈夫絶対いけるから!」
「このまま足場を伸ばして行くことは出来ないんですか?」
「足場が自分の重さで崩れて地上に降り注ぐことになるわ」
「じゃあいいです……」
「さーぁ行くわよ!いざ、月へ!!」
天子は地面を蹴った。
天符「天道是非の剣」
「始めっ!」
凛々しい声に合わせて、銃剣を打ちならす音が聞こえた。
銃剣を振るう小さな兎は筋があるようには見えないが、教えたとおりの型にはなんとかはめたというような動きになっている。
対してそれに対峙する小さな兎は型など原型しか残っておらず、驚くほど豪快に銃剣を振るう。
冷静になれば、後者の兎は隙だらけで前者の兎が隙だらけで、勝てる道理がない。
だが、
「勝負あり!」
二人の動きが止まる。いや、片方はもう止まっていた。
だから止めた。
前者の兎は小心者で、力任せに銃剣を振るう後者の兎に近づけなかったわけだ。
その後者の兎も、闇雲の言葉が似合う様子という有様だ。
彼女らには驚くほど度胸がなかった。以前、吸血鬼の進行があったときも即、隠れてしまう始末である。
無謀は愚かだ。しかし、勇気がなければそもそも何もできない。
元来、どれほど実力で勝っていても心で負けていれば勝てはしないのだ。それで敗北したものも勝利したものも依姫は知っていた。
「今日はここまで。解散」
月の都を統べる綿月姉妹の妹、綿月依姫はそう言って、自身も帰宅の途についた。
「おかえりなさい。最近稽古長くなったかしら?」
宮廷に戻ると、依姫の姉である豊姫が桃を片手に出迎えた。
「ええ。幻想郷の妖怪にあの様では外の世界の人間が来た時どうなるやら分かったもんじゃありません」
「それはそうだけど、休憩も必要じゃないかしら?」
「休息は挟みつつやっています」
「貴女のことよ」
「……大丈夫です」
「もう」と、豊姫は小さくぼやいて桃をかじった。
ちょうどその時である。
「依姫様!」
門番兎が慌ただしい様子で部屋に入ってきた。
「どうしたの?」
「静かの海に怪しげな人影が二つと!」
「……………………」
依姫は脳裏にあの吸血鬼の顔がフラッシュバックし、思わず額を押さえる。
(本当、勘弁してほしいのだけど……)
「分かったわ」
依姫は稽古用の模造刀をその場に置き、愛用の長物を手に取った。
「いってらっしゃい」
豊姫は苦笑して依姫を見送った。
波の打つ音が聞こえる。
海の音。
幻想郷にはない音。
「………………」
ここは明らかに幻想郷じゃない。
「着いたわね」
「着いちゃいましたね」
(本当に来ちゃったぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?)
衣玖は本当にこれた驚きと宇宙に漂うカ○ズにならずに済んだ安心とこれからどうするのかという焦りで頭がパンクしそうになっていた。
今つつかれたら、割れる。
「ほら言ったでしょ?いけるって」
「あと三回しか撃てないとか言われたときは肝が冷えましたよ……」
天子のカードゲージは0である。
本当にぎりぎりで月の重力下に入って落下したのだ。
ちなみに下は砂だったので特にけが等はない。
「これからどうするんですか?」
「決まってるじゃない。とりあえず第一村人探し……の必要はないわね」
「へ?」
天子が左に見える森に視線を向ける。衣玖もそれを追った。
そこには、小さな兎耳の少女がいた。
手には銃剣。その銃口と剣先は間違いなく自分たちに向けられている。
(もうやだ帰りたい……)
衣玖はパニックを通り越してもう泣きそうになっている。
が、天子は余裕そうな顔で言った。
「月の兵隊さんかしら?兎なのね」
天子は堂々と銃剣を構えた兎に近寄る。ぶっちゃけ剣も銃弾も効くような体ではないのだ。
銃剣の剣のリーチも意味をなくす距離まで肉薄する。小兎は恐慌状態なのか体がかちかちに固まって身動きしない。
兎は小心者と言うが、月も例外ではないということなのかもしれない。
「かわいい耳。本物なのかしら?」
天子はその兎の耳へ手を伸ばす。物珍しくて、その好奇心の赴くままに。
が、天子はとっさに手を引いた。
気づけば、小兎の後ろからやや長めの刀の切っ先が天子の額へ伸びていたのだ。
小兎は小走りで森に消えていった。
「そこまでよ」
森の奥から現れた少女は短く告げる。少女に耳はない。
天子は彼女が何者なのかを大まかには理解し、一歩後ろに下がって丁寧にお辞儀をしてみせた。
その姿を見て衣玖が少し驚く。
「初めまして。有頂天より参りました。天人の比那名居天子と申します」
「天人?成る程、道理で穢れが感じられないわけです」
刀を持った少女の言葉に天子が胸を張って言った。
その表情はすでにいつもの彼女である。
「そうよ、天人はお風呂に入らなくても体が清潔なの。まあ入浴は気持ちいいからするけどね」
「穢れとは汚れのことではありません。地上に住まう者にすべからく存在する罪の証。すなわち、寿命です。そして────」
少女はゆっくりと剣先を動かし、それを衣玖に向けた。
「貴方からは、穢れを感じる」
衣玖は半歩後ずさり、しかし瞬時に場を読み、適切な言葉を紡ぐ。
「申し訳ありません。この度は──」
「衣玖は私の大事な部下なの。大目に見てもらえないかしら」
「…………」
思わぬ天子のフォローに衣玖は閉口する。
だが刀の少女も退かない。
「そうしてあげる義理はない」
「…………」
「…………」
しばしの沈黙。
ここが自分の知る土地であったならば、衣玖はすでに逃げ出していただろう。
というか、天子のフォローは特に何の意味もないものだ。
衣玖の言い訳もなにか効果があったかは分からないとはいえ。
「まあ、いいわ。この月の都になんの用かしら」
「観光」
「それだけ?」
「まぁ、知的好奇心ってやつね」
「お帰りください」
「せっかく来たのにてぶらで帰れと!?」
「まぁ、ご希望であれば土産もおつけするわ」
「何?月の石とかいったらしばくわよ?」
「まさか。桃です。もぎたてですよ」
「腐るほどあるわ!むしろ土産に持ってきてやったわ!」
天子が桃を取り出した。どこに持っていたのだろうか。
「月の桃は腐らないわよ?穢れがないから」
「そういう問題じゃない!あんたら客人の扱いという物を知らないの!?」
「貴方たちは客人とは呼ばずに不法侵入者と言う」
「なにおう!なんだったら不法侵入者らしく力ずくで決めてもいいのよ!」
「分かりやすくて結構よ。貴方達をふんじばってやればいいって話ね」
「まぁまぁ」
ひょいっ、と、天子の手にしていた桃が後ろから現れた何者かにすれ違い様に取り上げられる。
そして皮をむき、さらされた果肉を一口。
「ふぅん、これが天界の桃」
数秒咀嚼して、飲み込む。
桃を手にした少女が振り帰った。
「そして貴方が天人」
天子は戸惑ったように相づちをうつ。
少女は衣玖に目を向ける。
「そこのお方は天女と言ったところかしら?」
衣玖も空気を呼んでとりあえず相づちを打っておく。直感的にヤバイと思った。
目の前で自分に刀を突きつける少女より、おそらくはずっと恐ろしい存在だ。
「妖怪ですお姉様」
「そう、天女の妖怪なのね。地上の妖怪はバラエティ豊かだわ」
「お姉様」
「いいのよ」
お姉様と呼ばれた少女が刀の少女を手で制す。
刀の少女はため息をつき、ゆっくりと刀を下ろした。しかし鞘には納めない。
「歓迎するわ、天人。月の都へようこそ。私は綿月豊姫」
そう言って豊姫は手を伸ばす。
天子はその手をとって握手をした。
「比那名居天子よ。話の通じる人が居て助かったわ」
二人は笑った。
そして残り二人が、その光景を唖然と見ていた。
「お姉様は地上が嫌いだったのではないのですか」
天人達を宮殿の客室に案内したあと、使用人を呼びに行こうとした豊姫を捕まえて依姫は訪ねた。
「ええ。嫌いだけど、それが?」
「ついこの間地上からの進撃やら私たちの謀反の疑いやらがあってピリピリしているというのに気まぐれで降りてきた地上の民を月の都に入れるなど正気の沙汰かと言っているのです!!」
「彼女らは天人、そして天女。月の民にはそう言えば分かってくれるでしょう。地上ではなく天界から来たと言えば混乱も避けられる」
「天人について教養を持ってる人物は少ないです」
「ならば尚更、意識操作がしやすいわ」
「ですが」と、依姫は言葉に詰まった。
豊姫が、妙に真剣な顔をしていたからだ。
「……なぜあの天人を月の都に入れるのですか」
「そう……、知的好奇心ってやつね。地上に居ながらその罪から逃れ、生きながらにして穢れを知らぬ天人という存在に興味があったのよ」
「ただの好奇心でこんなことを……」
「だからこれは私の独断。私の勝手。だから、貴方は何も気に病む必要はない」
「それが出来れば苦労しません!」
「なら、出来るようになりなさい。これも修行よ」
「……………………」
豊姫は「それじゃ」と去っていった。
その背中を見ながら、依姫は思う。
(明らかにおかしいわ。地上嫌いのお姉様がこんなことをするなんて。……もしかしたら、これも何か考えての事なの?いや、きっとそうだなんわ。うん……)
依姫はそういう事にしておいた。
聡明な自分の姉があの天人もどきと同じ思考回路でこんな愚行に走るなど考えたくなかったのである。
客室の広さはなかなかだった。10人くらいいても窮屈な思いはしないだろう。
物珍しく部屋を見渡す天子はふと窓に目を留めた。桃の木が見える。
「月にも桃しかないのかしら?月料理と称して桃のフルコースとか出てきたらやだなぁ」
「総領娘様」
椅子に座って少し縮こまってる衣玖が天子に声をかける。
「これからどうするつもりですか?」
「何それ。衣玖はなんかしたいこととかあんの?」
「いや、そういうわけでは……」
「はぁ〜」と、天子がため息をつき、どかっと勢いよく椅子に腰掛ける。
「せっかく向こうが好意的に迎えてくれたんだから細かいことはいいじゃない。あるがままを受け入れて楽しめばいいのよ。やりたいことがない訳ではないんだけど、私も月に何があるかなんて知らないしね」
「……あの豊姫という方、何か考えてます。私たちを受け入れると言ったときのあの顔、なにか企んでますよ絶対」
「そん時はそん時よ。楽しけりゃそれでいいし、楽しくなけりゃ、ぶっ飛ばしてやるわ」
「なにやら物騒な話をしていますね」
その声と同時に、衣玖が肩をビクッと奮わせて振り返る。
豊姫が客室に入ってくる。後ろにはティーセットの用意をもつ兎がいる。
「粗茶ですが」
と、豊姫が言うと、兎はてきぱきとした動きでコップを並べ紅茶を注いだ。
天子は紅茶に手を伸ばす。警戒している様子の衣玖が小さく「ちょっと」と言ったが天子は手を留めず、紅茶を口へ持っていく。
「ふぅん……桃のお茶じゃないのね」
「あら、桃の方がよかったかしら」
「いや、安心したわ。桃は飽きてたもの」
妙に薄味だが、それなりに味はうまい。
「そうですか。桃、こんなにおいしいのに」
「おいしい物って飽きるのも早いのよねぇ」
「天人なのに欲が深いのね。月の文献で読んだのとは随分違うわ」
「まぁね」と、なぜか得意げな顔をする天子。
豊姫は「さて」と前置きし天子の向かいの席に座る。
「こちらに来たのは観光のようですが、なにか目的のものはあるのかしら」
「いや、暇をつぶしにきただけだし」
「そう。まぁ月があなたの期待に添えるか分からないけれど、楽しんでいってください」
「そういえば依姫は?」
「依姫は稽古の時間です。地上人が攻めてきたときに備えるために、兎達の訓練をしているのです」
天子の脳裏に海で出会った兎を思い出す。
手に銃剣を持っていたとはいえ、完全に怯え腰で、とても実践で使えるようには見えない。
「ふぅん、あいつも苦労してそうね」
「ええ。少し悪いくらいに。なんだったら遊びに誘ってあげても結構よ」
「ま、気が向いたらね」
天子は紅茶を飲み干した。
「よし、それじゃあ観光ね。どこか案内してよ」
「私もここに用事があるから、離れるわけにはいかないの。宮殿内ではご自由にしてくれて結構よ。」
「ふーん……」
宛もなく綿月の宮廷を歩き回る天子。衣玖には穢れとやらがあるらしいので自由には動けないらしい。よく分からない。
(それにしても)
外から見た時も思ったが、こうして歩いてみると本当に広い。
比那名居家の屋敷より広い。
もっとも、こうして未知の場所を練り歩くというのは楽しくて非常に結構だ。
一つ気になるとすれば、すれ違う奴らが物珍しそうな顔でこちらを見てくるということか。まるで見せ物だ。
周りの視線を気にして生きるほど天子は器用でもなかったのでそこまで嫌になると言うわけでもないが。
「ん」
聞き覚えのある声が聞こえた。
「踏み込みが甘い!もっと力強く、貫通させるつもりで突きなさい!相手の向こうを狙いなさい!」
依姫の声だ。
声のほうへ行くと、整列してヘルメットをかぶり、銃剣で空間を指し続ける兎達を率いるように依姫が立っていた。
あの兎達の訓練をしているようだ。指導約の依姫は釣り目も手伝ってなかなか様にはなっている。
しばらく見ていると兎と目があった。
それまでのと違いなく、兎は物珍しそうな表情でこちらを見てくる。
天子は笑って手を振ってみた。すると手を留めて数回まばたき。反応に困っているようだ。
それがなんとなく可笑しくて、天子は「ふふっ」と小さく笑った。
ガンッ!
「ったぁ!」
天子は頭を抱えてしゃがみ込んだ。依姫の模造刀の峰で殴られたのだ。
「なにすんのよ!」
「あんたがなにしてんのよ」
「見学」
「邪魔だから帰りなさい」
「それは悪かったわね」
天子はそう言ってちょうど近くにあった椅子に腰掛ける。
「悪かったなら帰りなさいと言ってるの」
「そうしてあげる義理はない」
天子はにやにやと笑った。
依姫は「もう」と、いらだたしげに頭をかいた。
「依姫様、そちらの方は……?」
兎の一人が代表するように尋ねる。
「ああ、こいつは」
「私は天人、比那名居天子よ」
と依姫が解説しようとしたところを天子が割り込んだ。
「天人?」
兎が首をかしげた。そういう概念のない月では聞き慣れない言葉だったのだろう。
依姫が慌てて口を開く。
「て、天人というのは」
「天人とは、地上でもっとも高いがふっ!?」
「しばらく自主練習!!」
またも割って入って説明を入れようとした天子を依姫がボディーに一撃入れ、素早い動きで近くの桃園の向こうへさらっていった。
残った兎達は天子のはなった「地上」という言葉に反応して、ただ事ではないような表情で互いに顔を見合わせていた。
「だぁもう!依姫の暴力女!こんなところに連れてきて私をどうするつもりよ!」
「あんたの方こそなにを考えているのよ!」
「別に依姫事なんか考えてないわよ!」
「その言い方は実際そうでなくてもそう聞こえるからやめなさい!」
鼻孔をくすぐる桃の香りが濃くなり、先の訓練場も見えなくなる頃に、ようやく依姫はかついだ天子を乱雑に下ろす。
「いい?月では地上人が持つ穢れは恐怖の対象なの」
「私に穢れとやらは無いんでしょ?」
「それでも、地上という言葉には皆敏感なの。ついこの間地上から侵攻があったばかりなのだから」
「ああ、吸血鬼がやってたやつね」
天子もロケットの完成記念パーティーに参加していたからそれは知っていた。
思えば、このあたりからである。カードゲージ溜めを始めたのは。
「あと、その時に私は裏切りの容疑をかけられてたのよ。だから地上人と一緒に居るなんてバレたらまた面倒なことになりかねないの」
「ふーん」
天子は話半分の聞き方である。が、言っていることは大体わかった。
「はいはい分かったわよ。言わなきゃいいんでしょ言わなきゃ」
「はぁ……これだから地上人は……」
「私は天人よ。地上人とは文字通り天と地ほどの差があるわ!」
「上手いこと言ったみたいな顔すんな。戻るわよ」
戻った依姫は兎達になるべく地上の話を出さないように天人のことを説明した。天子は彼女にくそが付くほどまじめなイメージがあったが嘘でごまかす甲斐性はあったようだ。
とりあえず天子は椅子に腰掛けて兎達の訓練を眺めることにした。
十分もせずに、依姫は「あーもう」と頭をかいた。
「って……だから帰りなさいって」
「退屈なのよ」
「ここ以外にも退屈をしのげる場所はあるだろうに!」
「だって宮殿から出るなって言われたしー」
「私に退屈しのぎを求められても困る」
「分かったわよ。"見て"なけりゃいいんでしょ」
天子はすっと立ち上がり、側にあった予備の銃剣を手に取り兎達と一緒に並んで構えた。
「これで文句無いでしょ」
「…………好きにしなさいよ、もう」
依姫は額を押さえた。とんだ苦労の種が現れたものである。
たまにだらしないところはあれどやはり姉は尊敬の対象ではあった依姫だが、この時ばかりは姉の狂行に非難の一つもしたくなる。
しかして、そんなわけ無いのは承知だが、依姫はどうにも押さえられない姉の行動への不満を思わず冗談という形で口にしてしまったわけなのである。
「お姉様も年なのかしら」
刹那、どこからか飛来した桃が依姫のこめかみに炸裂した。
どこで見ていた。
「…………自主訓練してなさい」
ハンカチで拭きながら手洗い場に向かう依姫の背中をさして天子がゲラゲラ笑っていた。
訓練を一通り終えると、最後は組み手である。実際に銃剣を交えて直接的に実力を磨く分かりやすい行程だ。
「それじゃ、二人一組み作って」
「……………………」
余った。
天子は冷や汗を一つ。
兎達は偶数だったので、一人余るのは必然だ。
(それが、なぜによりにもよって私!?)
これではまるで自分がぼっちのようじゃないか!
そういうイメージをもたれる前に、天子は依姫に声をかけた。
「わ、私の相手は依姫よね?」
「ええ」
予想以上に早かった肯定の返事天子は安堵した。一瞬だけ。
依姫の持った武器を見て天子が声をあらげた。
「まてぇい!なんであんたは刀なのよ!」
「予備の銃剣はお前が持っているからね。大丈夫、加減はするわよ。それじゃ全員……」
「か…………」
余裕しゃくしゃくにそう言い放つ依姫にカチンときた天子は銃剣をまっすぐに構えて言った。
「上等だわ!後で吠え面かかないでよね!」
依姫は「ふん」と鼻を鳴らして言った。
「始め!」
始まりの声と同時、天子は切っ先をまっすぐ向けて依姫にかけよる。
初手は豪快に、天子は銃剣を凪いだ。
依姫はそれを難なくいなし、反撃にでる
隙だらけになったわき腹めがけて刃を突き出す。無論、本当に刺すつもりはない。
しかしその切っ先は突如として上を向いた。刀を膝で蹴りあげた天子は返し刃で再び依姫を狙う。
刀は上にある。天子の狙いは腹だ。依姫は指先で刀を回し逆手持ちにして斬撃の軌道をずらし、半歩下がる。
天子は追い打ちに出た。依姫の顔めがけて振り抜いた銃剣の尻を伸ばす。
しかしそれは失策だ。半歩引いた依姫は、その追い打ちを待っていた。
逆手持ちから順手持ちへ。刀を回す勢いに、腕を振りあげる勢いを合わせて峰を天子の手首にぶつける。
天子から「あっ」という短い言葉が漏れ、銃剣は空を舞う。兎達からも「おお」という声があがった。
依姫の勝ち。の、ように見えた。
「な!?」
天子はそのまま勢いを止めない。依姫の懐に飛び込み、刀のリーチよりも内側へ入り込む。
そして、懐から自分の愛剣を取り出した。
「…………」
「…………」
二人の動きが止まった。天子は緋想の剣を依姫の首にあてがっている。
天子が勝ち誇った様に言った。
「実践なら、あんた死んでるわよ」
「……どうかしらね」
天子は依姫その言葉で、自分の首筋にも剣がある事に気が付いた。
「須佐之男命。彼より早く私の首を跳ねられるかしら?」
「スサノオ!?まさかこれ天叢雲剣!?」
「あら、教養はあるのね」
「これでも天人よ」
「そうだったわね」
「援軍なんて卑怯だわ」
「卑怯なのはお互い様」
「むう」
天子が剣を納めると、依姫も須佐之男命を下げた。
同時、兎達から拍手があがった。
負けたとはいえ悪い気はしないのか天子は軽く手を振っていた。
その姿を見て依姫は思う
(天人、ねぇ……)
依姫は地上に関する文献も少なくなく読んでいる。天人ももちろん知っていた。
だが、少なくとも目の前の彼女が天人には見えなかった。
。依姫の知る天人とはもっと欲や俗といったものから浮いた存在である。
本当に彼女は天人なのか?確かに、彼女に穢れは無かった。それに、穢れを持った妖怪を連れていたことからやはり彼女が地上から来たのも間違いない。そして、地上に居て穢れを持たない存在とくればそれこそ天人や仙人、それに浄土の住人しか知らない。
それでも彼女が天人だというのが、依姫にとってにわかには信じがたいことだった。
好くなくとも依姫の知っている天人は、気まぐれで月までこない。
そういえばどうやって月まで来たのだろう?
……いや、それより。
「拍手喝采痛みいる。ところで、稽古はどうしましたか?」
拍手がピタリとやんだ。
「なっ…………た、対空技を連打して飛んできたぁ!?」
依姫はテーブルを叩いて立ち上がった。
豊姫は呆れた声で注意する。
「依姫、食事中に立ち上がるなんて不作法よ」
「……申し訳ありません」
依姫は腰を下ろした。
天子が食事を飲み込んで言う。
「見た目豪華だと思ったけど薄味ねぇ」
「総領娘様」
衣玖が天子のわき腹を肘で突いた。
こいつも不作法だ。
「これが月の食事です。ご容赦を」
「まあいいわよ。今日もなんか楽しかったし」
「無視しないで!」
依姫が割って入った。
「確かに地上から上に行けば月があるけど、途方もない距離よ。それを直接飛んできたって……」
「地上でもっとも高いところから出発したからじゃない?」
「いや、だからってああもう……地上人って常識のないというかなんというか……」
「誉め言葉と受け取っておくわ」
「もうお好きにどうぞ……」
依姫は残る汁物を素早くかきこんで席を立った。
「御馳走様。お風呂入ってきます」
「私も入ろっと」
天子も残りの夕食を平らげて席を立つ。
「ちょっと。天人は体清潔でお風呂入らなくてもいいとか言ってなかったかしら」
「そういえば言ったわね。よく覚えてたわね」
「はぐらかさないで。お前、本当は天人じゃないんじゃ────」
「お風呂はいると気持ちいいでしょ?」
「…………」
ひょっとしたら、そうやって揺さぶればボロが出るんじゃないかとかそんなことを思ったが、こんないい加減な理由でもこいつならやりかねないから困ったものだ。
(まあいいわ。体を洗い出したら天人もどき確定ね)
ざっぱーん
水面に、勢いよく異物が飛び込んだ。
「なかなか広くていいじゃないの!うちのとどっちが大きいかしらね!多分うちのだけど!」
依姫はぽかーんというような疑音がよく似合う表情でその光景を見ていた。
それはまさに一瞬である。
衣服を脱ぎ、風呂の扉を開けた瞬間、彼女は湯船へ猛ダッシュだ。私がなにか言う前に彼女は湯船の水しぶきに消えた。
そして水面から顔を出してあの台詞だ。
(何才児よ!?)
しかも、体を洗うことなくリラックス全開である。
たしかに、彼女が天人なら洗う必要性はないだろう。
だが、湯船に飛び込むというもはや人としてあるまじき行為に依姫はますます彼女が天人には見えなくなった。
あれでは天人というより、子供である。精神年齢(地上の人間の年齢にして)5歳の子供だ。
子供ならば、体を洗わずに湯船に飛び込むところもあるだろう。穢れが無いのは幽霊の可能性も有りうる。
依姫は悩んだ。彼女が天人なのか。五歳児なのか。
(ふざけたニ択だわっ……)
よもや天人と5歳児を並べて扱うなど思わないだろう。
そしてもう一つ問題がある。
彼女が天人でなかった場合、彼女は体も洗わずに湯船に入っていることになる。
最悪だ。
「…………体は」
「あんた頭悪いのやらいいのやらわっかんないわねー。私は洗わないつったでしょ。洗う必要がないって」
天人なら、そうなのだろう。
だが依姫は彼女を天人と未だ信じていなかった。
ゆえに、体を洗わず入る天子を認めるわけにはいかない。
依姫は綺麗好きなのである。
依姫は悩んだ。数分。
天子が依姫に声をかけた。
「何してんの?裸でそんなとこ突っ立てると風邪引くわよ」
「天人」
「何」
「来なさい」
依姫は洗い場へ向かう。
「へ?」
「早く来なさい!」
「ちょ、ちょっと何よ。」
依姫がいきなり大きな声を出したので、天子は慌てる。
「だから私は体を洗わなくても」
「それでも体を洗っていない者を湯船につからせるのは気分が悪いから私が洗ってやる言うのよ!!」
湯船にも使ってないのに顔が真っ赤な依姫を見て天子は唖然とした。
天子の顔も赤かったのは湯船に使っているせいじゃないかもしれない。
「汚された……」
依姫が机に突っ伏していた。
「お風呂入ったのに?」
豊姫が訪ねたが、依姫はなおも低い声で呻いた。
「ケガされた…………」
豊姫は首を傾げた。
「あの天人には穢れはないはずだけど……」
寝室に入った天子はそのままベッドへフラフラと歩いていき、どかっ!と、倒れるように身を預けた。
「ああー、…………疲れた」
「お風呂入ってきたのでは?」
天子の背中に衣玖が尋ねると、上半身を持ち上げて足をおろし、ベッドに座った。
「そうよ!ちょっと聞いてよ衣玖!依姫がさ…………」
そこで言葉に詰まる。やっぱり、ちょっとこれを話すのは恥ずかしい。
「いや…………なんでもない」
衣玖はなぜそこで顔が赤くなるのか聞こうとしたが、それより聞かねばならないことがあった。
「ところで、ここからどうやって帰るのですか?」
行きと同じ方法を使うこともできるが、もう一度ゲージを溜めるとなると随分ここでお世話になることになる。
「んー、まぁ行きと同じ方法でもいいんだけどね」
「……あのゲージって溜めるのどれくらいかかるんですか」
「根つめてやれば一週間くらいかな?」
「…………」
つまりはもっとかかるということだ。
「ま、最初に依姫に会った時あいつ言ってたでしょ?私たちをふんじばるって。私の勘も入ってるけど、多分あいつ等は私たちを地球に送る術を持ってるわ。それがなんなのかは私が月の都に飽きたときに聞きましょ」
天子は再びベッドにはいり、毛布を引き寄せた。
衣玖も同じようにベッドに入る。
「ちなみに、今日はどうでしたか?」
「楽しかったわ」
天子は即答だった。
「やっほー依姫、遊びに来てやったわよ」
どこからでも目立つ青髪を振りまいて、これまた訓練の時間にやってきた天子を、依姫は指を指して言った。
「……それではこれより多数対少数を想定した訓練を行います。総員、あの天人を纖滅しなさい」
「ちょwwwwwおまwwww」
「「「ヤー!!」」」
「本当に来たし!?」
数分の乱闘の後。
「…………というのは冗談だけど、来るなって言ったわよね」
「"冗談"じゃないでしょ!もっと早く止めなさいよ!」
天子は地面に倒され、両手両足を押さえられた上で馬乗りにされて銃剣を大量に突きつけられていた。
多勢に無勢である。
「しかし、この天人一人押さえるのに12人がかりで2分54秒かかるとは。まだまだ鍛え直す必要が有りそうね」
「聞いてんのか!というか早くどきなさいよ!」
天子はじたばたともがこうとするが、押さえられたまま動けない。
多勢に無勢である。
「さて、訓練に戻りましょう」
「「「はーい」」」
兎たちは元気に答えた。
その声の数、13。
「お前は違うだろっ!」
依姫は天子を蹴飛ばした。
が、天子は宙返りをうって華麗に着地。
「いいでしょ?」
「いいわけあるか。遊びじゃないのよ」
「私にとっては遊びなの。それに、あんたとの決着もつけたいしね」
「決着も何も、もう勝負はついたでしょうに」
「援軍呼んどいて何よ!サシで勝負よ!」
「私の力は神を降ろす力。援軍という言い方は少々語弊があるけど、お前がそう思うならそう思ってくれていい。なんならそっちも誰か呼ぶ?」
「上等よ!超強い奴呼んでやるわ!」
そう言って天子は息を大きく吸い込み。
「ゆっかりぃーーーーんっ!!」
その頃の八雲邸。
「はぁ〜い☆ ゆかゆり、はっじまーるよー!」
「何ですかそれ」
「説明しよう!ゆかゆりとはゆかれいむ、ゆゆゆか、ゆからんに代表される私のカップリングの総称よ。いつか「ゆかりんは総受け」「ゆかりんは幻想郷の嫁」の時代がくるわ」
「(紫様は攻めだろJK……)それより例の彼女の件ですが」
「なによぅ、他の女の話ぃ?」
「うざっ」
「…………」
「来ないわね」
当たり前だ。月から地球まで届く声がだせるか。
来られたら来られたで困るが。
天子はもう一度息を吸った。
「衣玖ぅぅぅぅぅぅぅーーーーーーーー!!!」
その頃、天子達の客室。
「くっ……こ、これは…………」
衣玖はガクリと膝をついた。
「総領娘様……申し訳……ありません……」
ふらふらと衣玖は立ち上がる。
「しかし…………しかしッ…………!」
震える手を伸ばし、ソレを手に取った。
「読まずには…………いられないッ…………!!」
衣玖の手にした本には、「わがままなお姫様をしつける100の方法 著:八意XX」と書かれてあった。
「…………恥ずかしくない?」
「ちっくしょぉぉぉぉぉ!!何度この名前でいじられれば気が済むんだあいつはぁぁぁぁぁぁぁ!!」
天子は恥ずかしさと怒りが入り交じりになったよく分からない気持ちを帽子にこめて地面に叩きつけた。
「さて、いい加減訓練を」
「こうなったら奥の手!」
「…………奥の手?」
「とよひめぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」
「呼んだ?」
「本当に来たああああああああああああ!?」
いつからそこにいたのか、物陰から豊姫が顔を出して依姫が絶句した。
まさか前の桃もそこから投げたのか。
「ちょっ……お姉様、そんな所で何して」
「「「豊姫様〜!!」」」
「あっ、こら!」
兎達がこぞって豊姫に駆け寄った。豊姫は「あらあらうふふ」とは言ってないものの、そういった表情だ。
豊姫は兎達に優しく(依姫的には甘く)桃の差し入れを持ってきたりもするので兎達に人気である。
天子はその光景を指してなぜか得意げに笑った。
「な、何よ」
「私の勝ちね」
「いや、何の勝負」
「あんたが困ってるから私の勝ち」
「ほぅ……上等」
依姫は小さく呟いて前に出た。
そして、すぅ……と息を吸い
「貴様等ァッ!!」
きぃぃぃぃん…………と、周囲に耳鳴りが響きわたった。
場が凍り付く。木にとまっていた鳥だけが、羽ばたきとと木の揺れる音を残して空の向こうへ消えていった。
そして、次に動いたのは依姫の口だった。
「戻れ」
「「「サー、イエッサー!!」」」
兎達は瞬く間に豊姫の元を離れ、依姫の前に整列した。
「だらけた奴には喝を入れないとね」
「…………うん」
天子も少し縮こまっていた。
かくして訓練は再開された。
兎達が号令に合わせて銃剣を振るうたび、風きり音がなる。
椅子に腰掛けた天子がその様子を見て言う。
「つまんないわね」
「なら帰りなさい」
即座に依姫がそう返した。
思えばこの台詞も何度目か。
「組み手しましょうよ組み手」
「組み手は確かにより実践的に力を付ける大事な行程。けど、それはこういった基礎的な所の集大成なのだからこれを怠ってはいけない」
「強けりゃいいのよ強けりゃ。だって負けた奴が何言っても無駄でしょ?そして強くあるためには実践あるのみよ。実戦では相手は教科書どおりになんて動いてくれないんだから」
「…………」
これも何度目か。
依姫は改めて彼女が天人であることを疑った。
これが天人の言う事なのか。
(天人……他ならぬ人自身の力で地上の呪縛を逃れた地上人としては確かに私も興味はあったけどねぇ…………)
幻滅もいいところだった。所詮、地上人には違いないという事か。
まぁ確かに、そう言う天子の実力は確かだった。
以前手合わせしたときはそれで少し驚いた。
天子が剣術を誰に教わったのか、それとも誰にも教わっていないのかは定かではないが、一つ確信を持っていえるのは天子の剣はよく言えば臨機応変という言葉がよく当てはまると言うことだ。剣は水にならえというが、はかってかはからずか彼女はそれを地でいっている。
実戦の経験とセンスだけで構成された技。いわゆる喧嘩殺法という言い方もあるかもしれない。
それであの実力なのだから、本人にその気があればその道で生きてもいけるだろうに。そっちのほうが余程天人らしい。
だからこそ、先の彼女の言葉にもそれなりの説得力があるといえる。
(けれど)
依姫はそれだけで強くなった存在をやはり知らない。
それだけに、彼女の力が惜しい。
その時、依姫に一つ案が浮かんだ。
それは果たして、ただの好奇心か、散々振り回された彼女への恨みかは分からないが、それは依姫にとって名案だった。
(もしも前者なら、私もお姉様のことも、この天人のことお言えないかしら?)
ならばきっと後者だ。依姫はそう自分に思いこませることにした。
そして、そうすると俄然やる気がわいてくるのだった。
わずかに笑みを作る自分の口元に、依姫は気づかない。
「そこまで。これより組み手を始めるわ」
その言葉を聞いて兎達は相手と組んで整列する。
「待ってました!」
天子もまた意気揚々と予備の銃剣を手に立ち上がった。
「さぁ、依姫!」
「天人」
依姫は模造刀を構えて言う。
「貴方にも剣があったでしょう。使いなさい」
「あら、いいの?」
「いいも何もこの前不意打ちに使ってたでしょう」
「それもそうね」
天子は銃剣をその場に置いて緋想の剣を手にした。
「ところで、なんで敬語?」
気まぐれに天子がそう訪ねると、依姫はふっ、と笑って言った。
「私が貴方に剣を教えてあげます、天人。さあ、どこからでも打ってきなさい」
天子もその言葉を聞いて同じように笑って見せた。
「……ふんっ、感謝するわよ、おかげで存分に剣を振るえる。私ね、そういう態度されるのがいっちばん嫌いなのよ!!」
「全員─────始め!」
「退屈ですか」
客室に入った豊姫は開口一番そう言った。
衣玖は本から目を離し。
「別に。なんともありません」
と、答えた。
「そう。それはよかった。彼女も楽しんでいただけているようでなにより」
「総領…………天子様は今は何を?」
「依姫と訓練に混ざっていたわ」
「はぁ……そうですか」
衣玖はあらためて豊姫の顔を見た。
なんとなく、なんとなくではあるが、あの彼女にはあの妖怪の面影を感じる。
八雲紫。彼女と同じような、何を考えているかわかりずらいような…………。
「貴方は薄々気付いているようですが」
豊姫がおもむろにそんな事を言った。
「私が貴方達をここに招き入れたのには理由があります」
「……………………」
もちろん分かっていた。
ただ、いきなりこの場でそれを明かされるとは考えていなかった。
衣玖は息をのんだ。
「それは…………?」
「それは、依姫のため」
依姫。豊姫の妹。
天子も昨日は彼女といたらしい。そして、どうやら今日も。
しかし、衣玖達を追いだそうとしていたのも彼女。
「ほら、あの子忙しそうでしょう」
「ええ、そうですね」
苦労人のような、そんなオーラがある。
天子が迷惑をかけていないか少し心配でもあった。
「私たちは、かつて月を納めていた八意様の弟子です。八意様は地上に降りた後、私たちに月を任せたのです」
八意様とは、竹林の八意永琳の事だろう。
彼女が月から来たというのは有名な話だ。
「八意様は月にとって裏切り者です。その弟子が月を納めることになったので、民の反発が酷くて。少し前も裏切り疑惑が浮上してひと悶着あったばかりです」
衣玖は豊姫の顔を見た。
その時確かに、彼女の顔は一人の姉の顔だった。
そして、衣玖は理解した。彼女の意図を
「依姫に友達と呼べる者はいません。それどころか、多くの人物から疑いの目で見られる毎日です。それは依姫に近ければ近い者ほどに、より一層」
「だから、事情を知らない地上人にして穢れを持たない天子様を依姫さんにぶつけてみたのですね。穢れが無ければ周囲も地上人と思わない」
「そういう事。まぁ、目に見えて効果がないのならさっさと送り返していたわ」
豊姫から送り返すという言葉が出た。昨晩の天子の予想は当たりだったようだ。
しかし、まさか彼女の思惑がそんな事だっととは。
衣玖は疑っていた事に少しばかり罪悪感を覚えた。
「そして、その効果のほどは」
「いい二人じゃないかしら。あなたも、なかなか面白い子を連れてきたものね」
「連れてこられたのは私です」
「ますます面白いわ。そして、そういう子だから依姫と気が合うのかもしれない」
「そんなに仲がいいのですか?」
そういえば、昨日お風呂でなにかあったようなそぶりだったが、何があったのだろう。
案外、嫌なことがあったわけではない気がするからいいけど。
「私から見れば十分なほどに。今日は剣を教えていましたよ」
「剣を……ですか」
確かに天子は剣の心得が少なからずあった。
幼い頃に教育の一環として教わっていたが、長続きしなかったとか聞いた。
その彼女が今また、弾幕ごっこ以外の目的で剣を振っているとは。
(案外、総領娘様も依姫から影響を受けているのかもしれませんね)
「ただいま戻りました。お姉様」
「ただいまー」
そんな時、丁度二人が帰ってきた。天子には服や体の汚れが見える。依姫にも少しあるが、天子ほどではなかった。
手には剣を持っているし、どうやら剣術を教わっていたのは本当らしい。
「お風呂入ってきます」
「私も!」
「入らなくていい割に毎日入るわね」
「いいでしょ。それに入ったら依姫、またしてくれるんでしょ?」
そういうどこか含みのある言い方に、依姫がいっそ面白いほどに顔が赤くなる。
「しません!」
「え、あ、そう。まぁいいや。入るし」
「もう」
そんな事を言いながら二人は奥へ消えていった。
「あんなふうに話せる人が、依姫には必要だと私は思うのよ」
「そうですね」
「…………」
「…………」
どういうわけか、何か違和感を感じる沈黙。
「ところで、お宅の娘さんがうちの依姫と一緒にお風呂でただならぬ事をしているんじゃないかという疑惑があるのですが」
「申し訳ありません後で言って聞かせます!!」
即土下座。流石あの八雲紫を土下座させた存在だった。
別に衣玖の娘では当然なく、どっちかというと他人な気もしないでもない程度の関係だが、今は全力で謝った。
なによりただならないのは豊姫の顔である。
「あんたら似てないわよね、ぶっちゃけ」
服を脱ぎながら天子が言う。
「私と姉上ですか?」
「そ」
「そうね。私もお姉様から学ぶべき部分があるし、……まぁ、お姉様にも私から学んでほしい部分もあるわね」
「髪の色まで違う」
「私たちはそういう風に生まれたからとしか言いようがないわ」
「そんなもんなの?」
「そんなもんよ」
「ふーん」
一糸纏わぬ姿になった天子が浴場へ入る。向かう先はまっすぐ浴槽だ。依姫は結局洗ってくれないらしい。
(なんか、私が地上にいた頃を思い出すみたいで嫌じゃなかったんだけど)
天子は体を洗う依姫の背中に問う。
「明日は何するの?」
「訓練」
依姫は短く答えた。
「毎日訓練してるの?」
「状況が状況なので。地上人と戦争になった時、私たちが勝てる保証なんてどこにもないのです」
「へぇ〜、大変そうね」
天子は間延びした返事を返した。
少しの間の後、天子は思いついたように言う。
「そうだ、明日遊びにいかない?」
「話聞いてた!?」
あははと天子は笑って続ける。
「聞いてた。で、どこ行く?」
「聞いてないじゃないの。訓練が忙しいって言ってるの」
「訓練なんかいいじゃない。たまには遊びに行ったりしないわけ?」
「行きません」
「じゃあ行こうよ」
「行きません」
「つまんない」
「つまんなくて結構」
「ほんっとツレないの。いいもん。衣玖と行ってくるから」
「ちょ、それは」
「何よ。まだなにか文句あるの?」
「彼女は穢れをもった地上の妖怪。なまじ連れ歩けば街は混乱状態になりかねない」
「知ってるわよー」
「なっ」
にやりと天子が笑った。
「さぁ選んで!私と一緒に遊びに行くか!街にテロを起こすか!」
「そんなふざけた選択肢……!貴方一人で行けばいいでしょうに!」
「やだ。一人じゃつまんないもの」
「じゃあお姉様を」
「私は依姫がいいの」
「どうして!」
「………………」
「………………」
ふと、天子の表情が固まる。
顎に手を当てて、何かを考えるように頭を捻りだした。
「なんでだろ?やっぱつきあいの長さかな?」
「まだ会って二日程度ですが?」
「もう、なんでもいいわよ。依姫が来てくれないと、衣玖を連れていく。決めた」
「勝手に決められても困ります。…………そちらがその気なら、こっちにだって手がある」
「何よ、それ」
「幽閉でもなんでもしてあげましょうって話よ!!」
次の日、天子と依姫は月の都にいた。
(お姉様はこの天人派だったぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!)
依姫は頭を抱えた
事の顛末は簡単だ。天子が豊姫にその話をすれば「いいじゃない。行ってらっしゃい」である。周到なことに訓練がないことを朝には訓練兎中にも知れ渡っていた。
もう完全に”行く”ムードだった。
「さーてどこ行こっかな。私は月ってよく知らないから依姫が案内してよ。なんか名所とかある?」
「…………綿月の宮殿」
「あ、なにあれ!行こ、依姫!」
「こらっ!」
依姫が天子の口をふさぐ。
「私の名前を出さない!」
依姫は月の姫が都に散歩なんていったら視線がしんどいので変装済みである。
服を変え、髪をおろし、眼鏡をかける。
変装としてはメジャーだが、これで案外何とかなるものだ。
「…………はぁ」
依姫は深くため息をついた。
「お代はちゃっかり私持ちですか……」
「いいじゃない。私持ってないし」
天子はそう言って桃の饅頭をほおばる。
「……薄味」
「月の食べ物はみんなそうです。嫌なら帰りましょう」
「別に。楽しいし」
薄味の饅頭をもう一口。
しかし、ふだんからこんなものを食べているとは、地上の食べ物を食べさせたらギャップで舌がおかしくなるんじゃないだろうかと天子は思った。
適当に歩いているとまた、気になるものが目に入る。
「あれ、何?」
「本屋ね」
「本。なんか土産に買って帰ろうかしら」
「買うのは私よ」
「そうね。ありがと」
「…………」
そう素直にお礼を言われると文句を言いづらい。
「うわ。なにこれ文字がちっちゃい。読めないじゃない」
「ああ、これは」
依姫が天子が手に取った本に指を二本つけて動かした。
すると
「おお!?すごい!」
本の文字が大きくなった。端っこが本からはみ出して消えているくらいだ。
「これどうなってるの!?」
「この紙は量子繊維を織り込んだ特殊な紙で、一枚の紙でありながらコンピューターのように命令を書き込むことが」
「なるほど分からん。どうでもいいや」
「そっちから聞いておいて!」
依り姫は気のせいか、訓練の時より疲れる気がした。
天子は本を元に戻し、また別の本を取る。
そんな動作を幾度か繰り返し、ぽつりと言った。
「おすすめとかない?」
「私の?」
ふと、依姫は思考を巡らせた。
本と言われても、ここ最近本らしい本を呼んだことがない。
そう、一番新しく遡るなら……。
(……ここまで戻るかぁ)
目を閉じた依姫が脳裏に浮かぶのは一冊の教科書だった。
その著作は八意××、かつて依姫が姉と共に八意様の教えをもらっていた頃に使っていた教本だ。
だが、
(あるわけもない……か)
本屋を見渡せど、裏切り者の教本など、あるわけもない。
もはやあの本は、依姫と豊姫の部屋にしかないのだろう。
「どうしたの?」
はっ、と、天子が依姫を見上げていることに気がついた。
「別に、なんでもない」
「……疲れてる?」
「まあね。誰かさんのせいでね」
反射的にそう答えてから、依姫は異変に気付いた。
天子の声が妙にしおらしい。
「えと、ごめん」
「は?」
「どっか休憩できるところ探そう。あんたの息抜きも兼ねてるもんね」
「ああ、あれ本気だったの」
「私は冗談は言うけど嘘は言わないわ。基本的に」
「ふーん……」
依姫が「人が多いと見つかりやすくなる」と言うので、喫茶店ではなくベンチに腰をかけた。
天子が買ったジュースに口を付ける。
「ジュースまで薄いのね」
「……地上人はよほど濃い味が好きと見える。しかも私は天人は欲から逃れた所にいると聞いていたのですが、貴方からはまるでそれを感じない」
これもいい機会だと、兼ねてより半信半疑であった質問を天子に投げかけた。
「貴方、本当に天人?」
「何を今更」
あっけないほど単純で簡素な答えが帰ってきて、依姫は拍子抜けする。
「本当に……本当?」
「疑り深いわね……有頂天より高いところがあるくらい広い世界だもの。人並みに欲のある天人がいてもいいじゃない」
「欲があるのに天人になれるの?天人ってそういうものなのかしら?」
「生憎、親の七光りでしかないわよ。親が天人になったから私も天人になっただけ」
「なんて事……私が少なからずの幻想を抱いていた存在って……」
額を押さえて依姫がうなだれる。
「ああ、大丈夫。こんな天人私だけだから」
「貴方だけ?」
「でなきゃこんな所来ないわ。天人がみんなあんたの言うようなやつらばっかりだから……だから私は天界にない、何か楽しいものを探しに来たの」
「…………本当にそれだけで月まで来たのね」
「悪い?」
「良いか悪いかなら、圧倒的に悪い」
「何よもう。まぁ自覚はあるんだけどね」
依姫はため息を一つつく。彼女と出会ってから少なくない回数をついてると思う。
ああ、彼女には穢れは無いのに、なんだか精神的な老化を感じる気がする。ストレスによる老化か。
なんて無責任。なんて勝手。なんて恥知らず。なんて。なんて。
それが、依姫が天子に抱いた感想だった。
「あなたは、親の七光りと言うならば、せめてその光を大切にしようと思わないのですか」
そして、依姫は今、彼女に苛立ちを覚える理由が分かった。
(同じなんだ。私も)
八意様が裏切り者になったから、その教え子である自分たちが、成り上がり式に月を納めることとなった。自分たちが、八意様の後を継ぐことになった。
だから依姫は託されたその地位を、名誉を汚さないために。八意様が守ってきた都のために。そして他ならぬ八意様のためにこの都に尽くしてきた。
皮肉にも八意様の裏切りという行為が足を引っ張り、民からの信用を得るのはまだまだ先になるだろうが。
それでも依姫と豊姫が八意様から受け継いだものを諦めるには遙か遠く及ばないのだ。
それをこの天人は、その地位を与えてもらった両親に背いている。反抗ではなく、反旗を翻している。
両親から受けた光を真っ向から否定しているのだ。
天子の事情は知らない。赤の他人の家族のいざこざなど依姫にはまるで関係がない。しかし、それでも苛立つのだ。彼女の親不孝には。
「思わない」
それでも天子が返すのはあっけらかんとした答えだった。
「両親が嫌いなの?」
「嫌い。だけど感謝はしてる。私を育ててくれたし、私を天人にしてくれた。天人なんてって思うけど、天人になってよかったこともたくさんあるもの。時間に急かされない永遠の命が手に入ったし、天人の力がなければこうして月に来ることも出来なかった。実際、私には数え切れないほどの恩があるのは理解してるつもり」
「なら」
「それでも私ワガママだから我慢できないのよ。退屈が、平穏の名を借りた虚無な天界がさ」
「貴方の親は貴方を心配している。それはとっても親不孝だわ」
「そうかもしれない。けど、もう叱ってもくれなくなったからそうでもないかもしれない」
「呆れらたのね」
「それでもよ」
天子は立ち上がって、空を見上げた。そして、地球を見下ろした。
「それでも私は、欲しい。自分の欲しいものが欲しい。私はそういう奴なの。悪い?」
「……強欲は罪です。その欲のために、犠牲になったものがあるのならば、なおさら」
そう言う依姫から、天子がどんな表情をしているのかは見えない。
「……………………そうよね」
小さく呟いて、天子は歩き始めた。
依姫はまた歩き回るのだろうと思い、その後ろについた。
が、向いている方向が逆だった。
「……そちらは今来た方向だけど」
「ええ、もう帰るわ」
「えっ」
依姫は天子の思わぬ発言に驚きを隠せなかった。
まだ、昼も過ぎていないというのに。
あれほど強引に誘った割にはえらくあっさりではないか。
それとも…………いや、依姫は自分は間違ったことを言っていない自負があった。
きつい言い方にはなっただろう。個人的な干渉で彼女につらく当たった所もあるだろう。だが、それでも正しいことを言ったはずだと。
依姫は自分にそう言い聞かせ、ただ、静かになった天子の背中の後を着いていった。
酷く居心地が悪い帰り道。
彼女に怒りを覚えること、呆れを覚えること、疲れを覚えること、そんなことは多々あったが、こんな気持ちになるのは依姫は初めてだった。
二人の間に一切の言葉はない。
綿月の宮殿が、遠く思えた。
豊姫は悲しげに、寂しげに、息を吐いた。
どうして、こうなったのだろうか。
今朝、(豊姫から見て)仲良く出ていった二人が、どうしてこうも暗い空気を纏って帰ってくるのか。
豊姫は依姫に何があったのか尋ね、真相を聞き出した。
依姫には非はない。それは分かった。いや、少しばかり言い方がきつかったのは不味かったといえるだろう。
しかし豊姫には分かる。依姫はどうしてもそういうタイプだったということ。
そして、だからこそ、失敗であるという事実だけがそこに残ることとなる。
天子は月を十分堪能したから帰ると言った。
豊姫はそれを止めない。彼女らにもう用はない。
ただ、残念と思う気持ちだけが豊姫に残っていた。
(あと、もう少しだったと思うんだけどなぁ)
豊姫は憂鬱に息を吐いた。
「失礼します」
突然、帰ると言い出した天子に事情を聞いたが、天子は「なんでもない」と言うばかりだった。
この手合いには何を言っても仕方がないということを理解していた衣玖は黙って部屋から出た。
と、衣玖は動きを止める。部屋の外にいた依姫と目が合う。
「あの」と、声をかける前に依姫は衣玖を見なかったことにし、廊下を歩き去ろうとした。
不器用だ。部屋から出てきた私と目があったとき、顔だけならまだしも体が向いていた。何もなかったかのように去るには難しい。
そして彼女は随分と、優しい。
「依姫さん」
「わた、私は悪くはないですよ!?」
(そう思うならもっと毅然としていればいいのに)
別に衣玖は依姫を疑っていない。あの依姫と、あの天子だ。
客観的に考えて天子が何かしたと思うのが自然だといえる。逆だとしても何か事情があるに違いないだろう。
衣玖は依姫から事情を聞き出す。
(……成る程)
衣玖は思う。
誰が悪い?
依姫か?
天子か?
いや、おそらくはきっと、誰が悪いわけでもない。
ただ、二人の意見の食い違っただけにすぎない。
そもそも似たもの同士の言うのはぶつかり合うのだ。そしてぶつかり合うからこそ通じあう。
衣玖はそう思っている。そう思っているから、まだ彼女らはどこかで繋がっていると信じられた。
何より、不器用な天子のことだ。そう、なんでも欲するのに、中途半端に自分を戒めて拒絶してしまう。自分は不良天人という自覚があるばかりに、否定されたときには開き直るか、こうやって拗ねるしかないのだ。
彼女、依姫もきっと不器用だ。周りが見えなくって、必要以上に気負って、でも自分を見ない。自分が心のどこかで欲しているものに気づかない。
もちろん、それは衣玖の想像に過ぎない。
でも、もし本当にそうなら。衣玖が読んだ空気に狂いがなければ。
彼女らは、終わってなんかいない。
「依姫さん」
「……何でしょうか」
「私は豊姫さんからある事を聞かされて、ここに居ます」
「ある事?」
一瞬、言っていいのかという疑問が湧いたが、口止めをされたわけでもない。
遠慮なく言う。
「総領……天子様を月の都に、この宮殿に招いたのは、依姫さんの為だという事です」
「お姉様が私に嫌がらせをしていたとでも?」
「それは、果たしてどうでしょうかね。余計なお世話という気もしますが、理由を話す豊姫さんは本気の目でしたよ」
「一体あんな奴が私の何のために!」
「簡単な話です。友達を作って欲しかったのですよ」
「…………友達ですって?」
呆けたような表情で言う依姫に、衣玖は首肯。
「地上での友達っていうのはああいう人に迷惑面倒をかけてケラケラ笑ってる奴の事を言うのかしら」
「さぁ、それは知りません」
「な」
依姫が意表を突かれて口をあける。
「友達って言うのは人それぞれなものです。ですが、絶対に共通してることならば結局、一緒にいて楽しいかですね。それさえ満たしていれば友達と呼べると私は信じています」
「……満たしてなんか」
「今はそう思うでしょう。ですが、以前までは?」
「…………」
依姫は口をつぐむ。
そこで言葉が出ないのが、きっと証拠なのだと衣玖は思った。
「仲直りしてみればどうですか?総領……天子様もきっとそれを願っているでしょう。いや、あなたもそれを望んでここに来たのではないのですか?」
「っ……私は」
いったい、何のために? あんな不良天人に何を言うつもりでここに来たのか。依姫は自分の行為に戸惑った。
仲直り? まさか。追い打ち? そこまで陰湿ではない。
そもそも自分はなんのためにここに来たのか依姫は思い返す。
(……そうとも。私はただ、正論を言ったにすぎないのに勝手に拗ねられてはこっちが悪いみたいで嫌だったからだ。その勘違いを正したかっただけだ)
ああ。そうとも。それで?
依姫は、もう一つ自分に問うた。
それで……なぜ?
よく考えれば天子は帰ると言ったのだ。なら、それでいいじゃないか。関係ないじゃないか。
だのに、どうして天子を気遣う必要がある?もう二度と会うこともないであろう他人を。それどころか天子の調子が元に戻ればまた月に居座るだろう。
(…………私は)
依姫はどういうわけか、そうすることで天子が元に戻るんじゃないかという期待を抱いていたのだ。
悔しくも、依姫にとって天子のいる日々はあまりにも新鮮だった。
綿月の任の事や稽古のこと、地上の脅威のこと。そんなことばかりが渦巻いていた依姫の中に、突如として乱入した比那名居天子という存在。
それがあまりにも新鮮で、楽しかったんだ。
だから、それが壊れたことが嫌でここに来たのだ。
(どうして)
依姫の目が変わったのを、衣玖は感じた。
ああ、気づいたのだろう。本当の自分の気持ちに。
「一つ、お話をしてあげます」
「?」
衣玖はゆっくりと語りだした。
「地上のとある所に少女がいました。少女は元気一杯の天真爛漫で、青空のように澄んだ少女でした。ですが、ある日少女の環境はガラリと変わってしまうのです。酒を飲み、桃を食べ、歌い、踊りを楽しむ。ただそれだけの世界。そこには確かな平穏がありました。しかし、平穏しかありませんでした。少女の両親はすぐにその平穏の一部になりました。ですが少女だけはどうしても平穏に混ざることができなかったのです」
衣玖は一息おいて、寂しそうに言った。
「……まだ10ほどの少女が、どうして悟りを開けるでしょうか」
依姫ははっとした。そして、自分の過ちに気付く。
以前、依姫は彼女を天人かただの子供かと悩んだが、詰まるところ彼女は天人であり、子供だったのだ。
結局の所、依姫は天子を"天人でありながら天人らしくない天人"という目で見ていた。
「天人でありながら少女は天人たれませんでした。周囲は少女に失望していきます。そして少女は一人になりました。だから、開き直ったのです。彼女は天人を嫌い、不良天人を名乗り、天人から逸脱した行動を取るようになりました。不器用な彼女は、そうやって自分を表現するしかなかったのです。彼女は不良天人になりたかったわけではありません。ましてや、天人になることだって望んでいません」
ああ、そうだ。彼女が望んでいたのは。
望んでいたのは、きっと
「彼女はただ、見てほしかった。他ならぬ自分自身を。天人としてではなく、不良天人としてでもなく、一つの存在として」
それが自分の過ちだったと、依姫は気付いた。
彼女に不良天人というレッテルを張り、失望の眼差しで見ていたのは他ならぬ自分自信だと。
「一人になった少女は、それでも笑っていました。天人になるくらいなら一人の方がマシだと自分に言い聞かせて、自分の楽しみだけを探すようになりました。わがままぶって、自分勝手ぶって、それもすべて、自分を誰かに見てもらうために。自分にとっての本当の願いは押し殺して」
「もっとも、退屈や、じっとしているのを嫌うのは素の彼女なんですがね」と衣玖は付け足した。
依姫は一つ息を吐いた。人を見る目にはそれなり自信があったが、そうやらまだまだ修行不足らしい。
天人と聞いて密かに期待して、しかし天人らしくない彼女に失望して、それで依姫は彼女につらく当たったんだ。
依姫がやったのは、天子にとっての天人像をなぞること。
天子の望みは、本当の彼女の願いは、ありのままの自分を見て、それを受け入れてくれる人が欲しかったんだ。
完全に子供じゃないか。好きな子にいたずらするのと大して変わらない。構って欲しいから迷惑をかけるのだ。
私はそんな彼女を「迷惑だ」と切り捨てた。私もまた、そんな迷惑を少し楽しむ自分に嘘をついて。
「……あとは任せます。私は急用を思いだしたのでこれにて」
そう言って衣玖が立ち去った後、
「あっ……」
衣玖が居た場所の後ろ。柱の影に、青い髪が見えた。
本当に、どこからでも目立つ。
「……」
一体、なんと声をかければいいのか。
こういうのは経験がないからよく分からない。
「天人」
「馬鹿じゃないの?」
依姫が何かを言う前に、天子は口を開いた。
「あんな話ホイホイ信じて、こんな私に謝ろうって? 馬鹿馬鹿しい。あんたは間違ってないんだからそれでいいでしょうが」
「……なんですって?」
「情けはいらないって言ったの。勝手に人を哀れんでんじゃないわよ」
依姫の額に、青筋が走った。
「天子!!」
初めて依姫は彼女の名前を呼んだ。
天子の髪が揺れる。髪を揺らす僅かな体の動きが証拠。
まだ、彼女に声は届く。
「……そうね。ええ、確かに私は今の一瞬お前に哀れみにもにた感情を抱いた。それはきっとその場に心が流されていたのね。我ながら情けない話だわ」
確かに、確かに成り上がりの幼き子供に突然悟りを開けと言うのもどだい無理な話だ。それを責めるのは酷だ。
だが今は違う。今の彼女はもはや幼き子供ではない。心ばかりがあの時から止まってしまっているだけだ。
だからといって彼女に天人であることを強いるつもりはない。彼女に天人であることを求めたのが依姫の失敗。
天子は、天人である前に天子でなければならないのだから。
「貴方にかけるべきは哀れみではない」
依姫はあくまで彼女を天子として、言う。
「貴方にどれだけの過去があろうと、貴方の行いが正当化されるわけではない。強欲、傲慢、嫉妬、暴食、憤怒、色欲、怠惰……これらは全て、いかなる時も等しく罪なの。そしてこれをわざとやっているというのなら、それもまた罪」
「そうね」
天子の声には色もなく、無機質で、簡潔。
「貴方は天人であれなかった。それがどうして不良天人のように振る舞う理由になる? 出来ない自分を棚に上げて、好きなように振る舞って、それで貴方はどうなるの?」
「そうね」
「出来ないから終わりにするのか。無理だと諦めれば全て無に帰するのか。貴方は、本当にそれでいいのかしら?」
「……もういい。聞き飽きた」
天子はその場を去ろうとした。
依姫が、一際大きな声で言った。
「天人らしくなくても、貴方は貴方です。なら、貴方は貴方らしくあるべきではないのですか」
天子は足を止めた。
そして言った。
「これが……私よ」
天子は振り返った。依姫と目があう。
「何? 実は素直でいい子でした〜とでも言うと思ったの? あいにく私は昔からこうよ。わがままなの。退屈が嫌いで、自分勝手なの」
「はぁ、そうですか。だがその事を"自分は不良天人だから"などというくだらない言い訳で誤魔化そうとするなッ!!」
天子は突然大声を上げた依姫に体をすくませる。
「逃げるな! 不良品だと言えば許されるとでも思ったの? それとも見放されれば楽になるとでも? 貴方自身はそれで許された気になっているのかもしれない。楽になっているのかもしれない。だがそれではまるで救われていない!」
「あんたには関係ないでしょうが!」
「逃げるなと言った! 私からも!」
依姫は早歩きで天子に近づき、その手をとる。
「あれだけ自分の勝手で私を引っ張り回しておいて今更関係ないなんて通るとでも?」
「っ……」
天子が顔を背ける。
「こっちを見なさい」
「なんで」
「私が貴方を見たいから」
「な……何よそれ」
「いいですか? 人間、いや、それ以外も、善き心のみの存在などそうはいない。だが、悪しき心のみの存在は絶対に居ない」
「どうしようもないやつが居るじゃない。ここに」
「確かにそうですね。ですが私は一つだけ知っています」
「何を知ってるって言うのよ!」
天子が依姫の目を見返す。
依姫もまた、その寂しげな目に向かって言った。
「貴方は剣術に関して天性の勘がある」
その言葉に天子が一瞬呆気にとられた顔をし、すぐに呆れに変わる。
「……期待して損した。喧嘩の腕っ節だけはいっちょ前ってわけね。それだけが取り柄で、なにをどうしろって言うのよ」
「まぁ、生憎と私はそれしか見つけられませんでしたが、それしかないと決まったわけではない」
一息あけて、依姫は言った。
「だから、私はこれから貴方を天人ではなく比那名居天子として見ようと思います。そうする事できっと見えてくるものがあるでしょう。本当の貴方自身というものが。それは時に自分自身さえ知らないものが見えたりもする」
依姫はまっすぐと天子の目を見据える。
天子は思わず目をそらした。
「馬鹿馬鹿しい。その理屈だと、私はずっとここに居ることになるわよ? あんたは私に帰って欲しかったんじゃないの?」
「いいえ? 言ったでしょう、貴方に剣を教えると。なら、私は貴方を歓迎するわ。天人だからじゃない。私の……」
依姫は言葉に詰まった。
勢いに任せて自分はなにやらとんでもないことを言おうとしていることに気がついた。
……だが、それでも依姫は言った。
「私の……その…………友達として」
それも案外悪くないかもしれない。そう思って。
天子はうつむいて、かすかに声を出した。
「…………そう」
前髪に隠れ、その目は見えない。
その次の瞬間であった。
「っ!?」
反射的に、依姫は天子から手を離して大きく後に飛んだ。
あの至近距離から緋想の剣の斬撃をかわしたのは依姫の反射神経だけではなく、うつむく天子を見下ろす際に見えた一瞬の重心の動き、そして直感によるものもあるだろう。
剣を手にし、面を上げた天子。
依姫の目をまっすぐに見つめるその目はすでに依姫がよく知る彼女の目だった。
「外しちゃった。最高の不意打ちだと思ったのに」
「……不意打ちだけで一本とれると思ったらお間違いよ」
天子がフッと笑って言った。
「台無しになったわ。この一撃ために一芝居打ってやったのにさ」
「芝居……ねぇ」
依姫は得意げな天子の顔を指さして言う。
「目端に涙の跡が見えるんだけど」
「え、演出に力を入れすぎただけよ!」
天子が目端を拭った。
その光景がおかしくて、依姫は思わず笑った。
「……笑ってる」
「え……?」
それに依姫自身が気付いたのは天子に指摘されてからであった。
依姫は自分の頬にふれた。
「……あら本当」
「あんたでも笑えるのね」
「その言い方は流石に失礼だわ」
「ごめんごめん。でも笑ってると結構かわいいわよ?」
キングクリム○ンッ!!
そう誰かが叫んだ気がした。
「か……かわ……」
「ま、待って! 今の無し! ああいや依姫がかわいくないとかそういう意味じゃなくてえーとえーとああああああ」
天子が目に見えてパニックに陥っていた。
「と、とにかく!依姫はもう少し笑った方がいいと思う!うん!」
「別に滅多に笑わないというわけではないつもりなんだけど……」
と言いつつ、そういえば確かに笑うのは久しぶりだと気付く。
第二次月面戦争の一件からすっかり気を張っていて、兎達への訓練もすっかり増えていたわけで。
(……なんだ、息抜きしてるじゃない)
今の笑みは、間違いなく天子がくれたもの。
(そうか)
これが、姉が自分に与えたかったもの。
これが、自分にとって必要だったもの。
友達。
ならば、流れで言ってしまったあの言葉にもきっと嘘はないのだ。
そう思えた時、依姫はまた笑った。
「お礼を言わないといけないわね」
その光景を廊下の角から覗いていた豊姫が、同じく覗いていた衣玖に言った。
「こちらこそ、ですね」
「おあいこでよろしいかしら?」
「ええ。きっと、あちらにとっても」
数日後、改めて天子と依姫は都に来ていた。
「やっぱいい所ね、月の都は」
「そう思って頂けてなにより」
しばらく都を練り歩いていると、やがて見覚えのある場所が見えた。
「ここは……」
「静かの海ね」
「そう、私はここから来たのね」
天子は砂浜に歩きだし、空を見上げた。
月の空に映る地球を眺めてつぶやく。
「思えばこっちに来てから結構たったわね。地上はどうなってるかなぁ」
「月と地上の時間の流れは違う。月で過ごした以上の時間が地上では過ぎているわ」
「…………」
「安心しなさい。別に浦島太郎ほどの差ははないから」
「そ、そう。よかった」
安堵する天子に依姫は問うた。
「地上が恋しい?」
「んー、ちょっとだけ。地上は地上で面白い奴が居るからね。巫女とか」
「霊夢のこと?」
「知ってるんだ。そっか、一時期こっちにいたもんね」
「確かに面白い子ではあったわね。面白いと言うより、独特言うべきかしら」
「でしょ?」
「なんであんたが得意げなの」
「友達だもん、私の」
「…………」
依姫はぽかんと。
「なによその顔。私に友達が居るのがそんなにおかしいの? というか、依姫だって私の友達でしょ」
「え、ああ、そうね」
依姫は一つ、勘違いをしていた。
天子は一人じゃない。だからあの時地上に帰ると言ったのだ。
いや、別に自分がただ一人の友達なんてポジションである事に酔っていたわけじゃない。
ただ、そこに考えが行っていなかっただけというわけで。
だが、天子が地上の誰かを友達というのは複雑なところもあった。
嫉妬? そんな馬鹿な話があるものか。
(…………)
だが、似たような話かもしれない。
依姫にとっては、天子はただ一人の友達だから。
「霊夢は貴方の理解者なの?」
「違うと思う。懐が深いのよ、あいつは。底なしにね。私にとっての一番の理解者は……依姫、かな」
「っ……」
照れくさそうに言う天子に、依姫もまたこっぱずかしくなって額を押さえた。
「あくまで予定よ。もっと私を知ってね!」
「誤解を招きそうな言い方をしない。そういえば天女の妖怪はどうなの? 彼女もすごく貴方を慕っているようだけど」
「うん。一応衣玖も。文句も言うけど気にかけてくれるもんね」
「そう。たまには労ってやりなさい」
「恥ずかしいわよ。なんだか」
「そう言わずに。きっと喜ぶわよ」
「うーん、なんか気が向いたらでいいや」
「まったく……」
そんな言葉を交わしていた時である。
海の方をみて天子が呟いた。
「……月の海の魚って飛ぶの?」
「静かの海に生命なんて……」
依姫が天子の見る方へ顔を向けた。
遠くに影が見えた。
「でもあれ、水面から出てきて……」
「…………」
依姫はとんでもなく嫌な予感がした。
次の瞬間影は消え。
「やっと見つけた」
「わひゃぁう!?」
後ろ襟をつかまれた天子の体が浮き上がった。
依姫は刀に手をかけて、気づいた。
「八雲紫……?」
「はぁ〜い、馬鹿を一匹回収しに来たの。見逃してくれない?」
紫は依姫に手を振った。
「ちょっと!離しなさいよ!」
「静かになさい。まったく迷惑をかけてくれる……」
天子が暴れるがまるで甲斐はない。
紫はスッと指で空間に一本線を引くと、そこから空間が割れて衣玖が落ちてきた。
「な、何事ですかっ!?」
衣玖があわてて周囲の状況を確認し、紫の姿を見つけた瞬間全てを悟ったように両手を上げた。
「私は無理矢理連れてこられました」
「分かってる」
「衣玖ぅぅぅぅぅぅぅぅ!? ちょっとは私のことかばってくれてもいいんじゃないの!?」
衣玖はつーんとそっぽを向いた。慕ってる……?
天子ががくりとうなだれた。諦めたようだ。
「ちぇー。いい所だったんだけどなぁ」
「勝手なことをされると困るのは私なの。次にこんな事があったら」
「いいや、ドタバタしてたし一旦帰るわ。また来るわね依姫」
「話を聞きなさい!」
「そうですか。ええ、月の都は貴方をいつでも歓迎するわよ、比那名居天子」
「…………えー」
紫が依姫の言葉に呆気にとられていた。
あの紫の貴重な唖然顔である。貴重だ。
天子と依姫は紫の表情を見て笑った。
「何かあったの?」
「いろいろ。ね? 依姫」
「ええ。いろいろ」
「むぅ……」
紫の表情は不満げだ。
「なにがあったのかは知らないけど、そっちがいいならそれでいいわよ。まったく。でも今は帰りなさい。貴方の両親も心配してるわよ」
「どうせ私の心配じゃないわよ」
「天子」
むくれる天子に依姫は声をかけた。
「これを」
依姫は懐から布を取り出す。
天子は手に取ったそれを広げてみる。
「綺麗ね。おみやげ? どうせまたすぐに来るけど」
「これを持っていれば確実に月へ来ることが出来ます。どうせまた飛んでくるのでしょう?」
「ふぅん。月って本当、便利なものが多いわね。これで料理もおいしかったら言うこと無しなんだけど」
「まったく……そんなに不味いですか、月の料理は」
「はいはいおしゃべりそれまで」
紫が会話に割り込んだ。
無粋な奴だ。
「ほら、早く行くわよ」
「もう。またね、依姫」
紫に手を引っ張られるまま、天子は手を振る。
「ええ、また」
依姫も手を振った。
「貴方の姉上にもよろしく言っておいてください。それと、これからも彼女をお願いしますね」
「貴方も」
「もちろんです」
衣玖は笑った。
天子は最後まで手を振って、水面に浮かぶ地球へ消えていった。
それを見届けた依姫もまた、綿月の宮殿へときびすを返す。
二人は在るべき場所へ帰っていく。再会の時に想いを馳せながら。
数ヶ月はたった頃。
「ただいま帰りました、お姉様」
「おかえりなさい。最近なんだか憂鬱そうね」
宮廷に戻ると、豊姫が桃を片手に出迎えた。
「そう見えますか?」
「寂しいの?」
「何の事ですか」
あの天人が帰ってからしばらく。
もとの日々に帰ってきて、稽古もちゃんと出来るようになった。
かつての天子とくれば、天子は天子で稽古時間をもうけてやったというのにわざわざ月兎の訓練に混じろうとしてきたものだ。
月兎達にもだんだん認知されつつあって、挙げ句どういう訳か依姫より慕われてる有様だった。
月兎から「天子様まだこないの?」と言われるのも正直もう飽きた。
(今頃何をしているのやら……)
「寂しそうね」
「断じてそんなことありません。友達が何ですか、所詮彼女は遠く離れた住人、そう何度も会えるものなんて思っていません」
「もう」と、豊姫は小さくぼやいて桃をかじった。
依姫は早い話拗ねていた。本人は否定するが、ようするにいつまでたっても天子が月にこないことに腹を立てていたのだ。
(実は寂しがり屋だったなんてね。知らなかったわ)
天子だけじゃない。依姫の新しい面もまた、彼女と居ることで見ることが出来るようになった。
いいことだ。姉としても喜ばしいことだと豊姫は思った
ちょうどその時である
「依姫様!」
門番兎が慌ただしい様子で……されど、どこかうれしそうな顔で部屋に入ってきた。
「どうしたの?」
「静かの海に怪しげな人影が一つと!」
「……………………」
依姫は脳裏にあの天人の顔がフラッシュバックし、思わず額を押さえる。
それで目は隠せても、嬉しそうにゆるむ口元は隠せない。
(本当、遅いのよ……)
「いってらっしゃい」
豊姫は苦笑して依姫に言った。
依姫は急くように宮殿を飛び出す。
豊姫は腰に模造刀を下げたままだとツッコミを入れたくもなったが無粋だろう。
「行ってきます!」
依姫の声には明るさが戻っていた。
天子も、依姫も、きっと変わっていく。二人の出会いがそれぞれを変えていく。
そしてそれはいい方向に。
それがいつか月の都のためにもなるように、豊姫は静かに祈るのであった。
ぱっつんぱっつんな服と、天女を連想させる羽衣。
人は彼女を、リュウグウノツカイと呼ぶ。
「衣玖!衣玖ーーーー!!」
卑猥に聞こえる言葉を大声で叫ぶ比那名居天子に、永江衣玖は雷を落とした。
「まぁ私じめんタイプだから効かないんだけどね」
「無念無想の境地でしょう……して、何の用ですか」
衣玖はげんなりした様子で言った。
最近大型の台風が多く、衣玖は疲れていたため休養中である。
雲の中は気持ちがいいのだ。まるでプールの水面に浮かぶような心地よさがある。
その平穏なプールに大岩(要石とも言う)を落として荒らす不届き者がいた。
天のように蒼い髪、地のように薄い胸板。座右の銘は唯我独占。
人は彼女を、天人と呼ぶ。もしくはまな板。
「ちょっと聞いてよ衣玖!私もうびっくりしちゃったのよ!」
「ドッキリですか?」
「違うわよ!有頂天より高いところがあるらしいのよ!」
「……ドッキリですか?」
「だから違うっちゅーに」
衣玖は思考する。
有頂天より高い所?それってどういう事なんだろうか。
有頂天。非想天。非想非非想天。非想非非想処天。
それはつまり、三界の中で最も高い無色界の中で最も高い所である。要するにこの世でもっとも高い所。
尤も、三界の一番下である欲界すら抜けたように思えない天子個人より高いものなら幾らでもいるだろうが。
それより高い所。……それってひょっとして。
「太陽ですか……?」
「太陽に生物が住めるか!」
そりゃそうだ。
「有頂天より高い所、それは……月よ!!」
似たようなものだった。確かに兎は住んでいると聞くが……。
実際のところそれってどうなのだろうか?
有頂天と月。仏教的には有頂天は世界で一番高いところではあるが、この場合の世界とはどの程度の規模を示すのか。
世界大戦に月は参戦しなかった。つまり、月は世界には含まないのか。いやしかしこれは暴論な気がする。
そもそも高いの方向はどうなっているんだろうか?高いならば当然低いもあり、それは対称な方向をとるのが一般的だ。
一般的には地面から垂直に高さという概念を測るが、ならば地球の周囲をまわる月は上だったり下だったりする事になる。
基準となる地面も動くと考えるか?いやそもそも宇宙規模で考えると上と下の基準すら分からない。月の地面からしてみれば地球の地面は上だ。
やはり世界とは地球の事という事でいいのか。いやだがそれでもやっぱり異世界と異星は違うと思うし、星という言葉の意味が……。
「ってなわけで、月に行こうと思うの!!」
衣玖のよくよく考えてみればどうでもいい考察は一言で消し飛んだ。
「5W1H!?」
「中々斬新な切り返し方ね衣玖……何ヶ月か前から暖めてたネタという訳じゃないなら誉めてあげるわ」
「10年くらい前に暖めてたまま忘れてたネタです」
「……whereは月ってもう決まってるでしょ?」
「what wrongのWです。頭大丈夫ですか?という意味です」
「微妙に間違ってるわね。よし、表出ろ」
永江衣玖は割と毒舌である。英語の自信はあまりない。
「というか、一番大事なところなんですが、どうやって行くんですか?聞けば、吸血鬼たちはそれはそれは大きなロケットを作り、さらに神を降ろしてやっとたどり着いたそうですが」
「ぬかりはないわ!ちゃんと準備してあるのよ」
「準備……?」
まさか。
本当にロケットを作ったとでも言うのだろうか。
衣玖は思わず唾を飲む。
「私はこの日の為に剣の稽古場の人形を毎日叩き続けた!!」
「修行!?」
あの比那名居天子が修行というのはとても驚きではあるが、それが月へ行くのと何の関係があるのか。
「おかげで私のカードゲージは3万よ!!」
「え?」
一瞬、イヤな予感が衣玖の頭をよぎった。
だが、まさかそんなはずはあるまい。彼女はそこまでバカではない。
衣玖はそう自分を暗示した。でなけりゃやってられなかった。
かくして、その暗示は無駄に終わるのである。
「天符「天道是非の剣」を一万回くらい使ったら月までいけるはずよ」
「馬鹿ですか!?アホですか!?頭おかしいんですか!?what's wrong!?」
「馬鹿でもアホでもないわよこの馬鹿!!あとその使い方は微妙に違うって言ってるでしょ!」
天符「天道是非の剣」
緋想の剣を斜め上に構えてすっ飛んでいく3ゲージのスペルカードである。
外したときの隙こそ絶大だが、無敵や発生など切り返し技としては一通りの性能が揃っており、固め脱出や、起き攻め見てからリバサでカウンター等助けられた人も多いのではないだろうか。また、相手の「ガード反撃」を見てから潰せたりするのも地味に便利である。グレイズもあるので空中で射撃を蒔く相手を落とすことも可能だ。
が、月旅行に使うのは流石に発想がぶっとびすぎてる
「そもそも天道是非は空中発動不可でしょう!」
「要石を踏み台にするのよ!」
「出来るんですか!?」
「普通の対戦で使ったら卑怯でしょうが!」
「ぐぬぬ……」
確かにそうかもしれないと衣玖は押し黙る。天子の技全部が空中発動可になるなんてむちゃくちゃだ。エリアルコンボの締めにバラバラに引き裂かれてはかなわない。ダメージ効率が空並になる。
「とにかく、行くわよ!」
「何で私も行くんですか!」
「一人じゃつまんないじゃない」
「だからってーーーーーー」
天地「世界を見下ろす遙かなる大地よ」
「さあ逃げ場はないわ」
「……………………」
遙か空高くまで地面が隆起し、空は青さを通り越して夜空のような黒である。
空と言うより、宙なのである。
「……分かりました」
衣玖は天子の腰に手を回した。
飛べるんだから逃げ場は普通にある訳だが、逃げた背中に全人類の緋想天を6000回されるのは勘弁である。
「あ、遺書書いた方がいいですかね……」
「いらないわよ!大丈夫絶対いけるから!」
「このまま足場を伸ばして行くことは出来ないんですか?」
「足場が自分の重さで崩れて地上に降り注ぐことになるわ」
「じゃあいいです……」
「さーぁ行くわよ!いざ、月へ!!」
天子は地面を蹴った。
天符「天道是非の剣」
「始めっ!」
凛々しい声に合わせて、銃剣を打ちならす音が聞こえた。
銃剣を振るう小さな兎は筋があるようには見えないが、教えたとおりの型にはなんとかはめたというような動きになっている。
対してそれに対峙する小さな兎は型など原型しか残っておらず、驚くほど豪快に銃剣を振るう。
冷静になれば、後者の兎は隙だらけで前者の兎が隙だらけで、勝てる道理がない。
だが、
「勝負あり!」
二人の動きが止まる。いや、片方はもう止まっていた。
だから止めた。
前者の兎は小心者で、力任せに銃剣を振るう後者の兎に近づけなかったわけだ。
その後者の兎も、闇雲の言葉が似合う様子という有様だ。
彼女らには驚くほど度胸がなかった。以前、吸血鬼の進行があったときも即、隠れてしまう始末である。
無謀は愚かだ。しかし、勇気がなければそもそも何もできない。
元来、どれほど実力で勝っていても心で負けていれば勝てはしないのだ。それで敗北したものも勝利したものも依姫は知っていた。
「今日はここまで。解散」
月の都を統べる綿月姉妹の妹、綿月依姫はそう言って、自身も帰宅の途についた。
「おかえりなさい。最近稽古長くなったかしら?」
宮廷に戻ると、依姫の姉である豊姫が桃を片手に出迎えた。
「ええ。幻想郷の妖怪にあの様では外の世界の人間が来た時どうなるやら分かったもんじゃありません」
「それはそうだけど、休憩も必要じゃないかしら?」
「休息は挟みつつやっています」
「貴女のことよ」
「……大丈夫です」
「もう」と、豊姫は小さくぼやいて桃をかじった。
ちょうどその時である。
「依姫様!」
門番兎が慌ただしい様子で部屋に入ってきた。
「どうしたの?」
「静かの海に怪しげな人影が二つと!」
「……………………」
依姫は脳裏にあの吸血鬼の顔がフラッシュバックし、思わず額を押さえる。
(本当、勘弁してほしいのだけど……)
「分かったわ」
依姫は稽古用の模造刀をその場に置き、愛用の長物を手に取った。
「いってらっしゃい」
豊姫は苦笑して依姫を見送った。
波の打つ音が聞こえる。
海の音。
幻想郷にはない音。
「………………」
ここは明らかに幻想郷じゃない。
「着いたわね」
「着いちゃいましたね」
(本当に来ちゃったぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?)
衣玖は本当にこれた驚きと宇宙に漂うカ○ズにならずに済んだ安心とこれからどうするのかという焦りで頭がパンクしそうになっていた。
今つつかれたら、割れる。
「ほら言ったでしょ?いけるって」
「あと三回しか撃てないとか言われたときは肝が冷えましたよ……」
天子のカードゲージは0である。
本当にぎりぎりで月の重力下に入って落下したのだ。
ちなみに下は砂だったので特にけが等はない。
「これからどうするんですか?」
「決まってるじゃない。とりあえず第一村人探し……の必要はないわね」
「へ?」
天子が左に見える森に視線を向ける。衣玖もそれを追った。
そこには、小さな兎耳の少女がいた。
手には銃剣。その銃口と剣先は間違いなく自分たちに向けられている。
(もうやだ帰りたい……)
衣玖はパニックを通り越してもう泣きそうになっている。
が、天子は余裕そうな顔で言った。
「月の兵隊さんかしら?兎なのね」
天子は堂々と銃剣を構えた兎に近寄る。ぶっちゃけ剣も銃弾も効くような体ではないのだ。
銃剣の剣のリーチも意味をなくす距離まで肉薄する。小兎は恐慌状態なのか体がかちかちに固まって身動きしない。
兎は小心者と言うが、月も例外ではないということなのかもしれない。
「かわいい耳。本物なのかしら?」
天子はその兎の耳へ手を伸ばす。物珍しくて、その好奇心の赴くままに。
が、天子はとっさに手を引いた。
気づけば、小兎の後ろからやや長めの刀の切っ先が天子の額へ伸びていたのだ。
小兎は小走りで森に消えていった。
「そこまでよ」
森の奥から現れた少女は短く告げる。少女に耳はない。
天子は彼女が何者なのかを大まかには理解し、一歩後ろに下がって丁寧にお辞儀をしてみせた。
その姿を見て衣玖が少し驚く。
「初めまして。有頂天より参りました。天人の比那名居天子と申します」
「天人?成る程、道理で穢れが感じられないわけです」
刀を持った少女の言葉に天子が胸を張って言った。
その表情はすでにいつもの彼女である。
「そうよ、天人はお風呂に入らなくても体が清潔なの。まあ入浴は気持ちいいからするけどね」
「穢れとは汚れのことではありません。地上に住まう者にすべからく存在する罪の証。すなわち、寿命です。そして────」
少女はゆっくりと剣先を動かし、それを衣玖に向けた。
「貴方からは、穢れを感じる」
衣玖は半歩後ずさり、しかし瞬時に場を読み、適切な言葉を紡ぐ。
「申し訳ありません。この度は──」
「衣玖は私の大事な部下なの。大目に見てもらえないかしら」
「…………」
思わぬ天子のフォローに衣玖は閉口する。
だが刀の少女も退かない。
「そうしてあげる義理はない」
「…………」
「…………」
しばしの沈黙。
ここが自分の知る土地であったならば、衣玖はすでに逃げ出していただろう。
というか、天子のフォローは特に何の意味もないものだ。
衣玖の言い訳もなにか効果があったかは分からないとはいえ。
「まあ、いいわ。この月の都になんの用かしら」
「観光」
「それだけ?」
「まぁ、知的好奇心ってやつね」
「お帰りください」
「せっかく来たのにてぶらで帰れと!?」
「まぁ、ご希望であれば土産もおつけするわ」
「何?月の石とかいったらしばくわよ?」
「まさか。桃です。もぎたてですよ」
「腐るほどあるわ!むしろ土産に持ってきてやったわ!」
天子が桃を取り出した。どこに持っていたのだろうか。
「月の桃は腐らないわよ?穢れがないから」
「そういう問題じゃない!あんたら客人の扱いという物を知らないの!?」
「貴方たちは客人とは呼ばずに不法侵入者と言う」
「なにおう!なんだったら不法侵入者らしく力ずくで決めてもいいのよ!」
「分かりやすくて結構よ。貴方達をふんじばってやればいいって話ね」
「まぁまぁ」
ひょいっ、と、天子の手にしていた桃が後ろから現れた何者かにすれ違い様に取り上げられる。
そして皮をむき、さらされた果肉を一口。
「ふぅん、これが天界の桃」
数秒咀嚼して、飲み込む。
桃を手にした少女が振り帰った。
「そして貴方が天人」
天子は戸惑ったように相づちをうつ。
少女は衣玖に目を向ける。
「そこのお方は天女と言ったところかしら?」
衣玖も空気を呼んでとりあえず相づちを打っておく。直感的にヤバイと思った。
目の前で自分に刀を突きつける少女より、おそらくはずっと恐ろしい存在だ。
「妖怪ですお姉様」
「そう、天女の妖怪なのね。地上の妖怪はバラエティ豊かだわ」
「お姉様」
「いいのよ」
お姉様と呼ばれた少女が刀の少女を手で制す。
刀の少女はため息をつき、ゆっくりと刀を下ろした。しかし鞘には納めない。
「歓迎するわ、天人。月の都へようこそ。私は綿月豊姫」
そう言って豊姫は手を伸ばす。
天子はその手をとって握手をした。
「比那名居天子よ。話の通じる人が居て助かったわ」
二人は笑った。
そして残り二人が、その光景を唖然と見ていた。
「お姉様は地上が嫌いだったのではないのですか」
天人達を宮殿の客室に案内したあと、使用人を呼びに行こうとした豊姫を捕まえて依姫は訪ねた。
「ええ。嫌いだけど、それが?」
「ついこの間地上からの進撃やら私たちの謀反の疑いやらがあってピリピリしているというのに気まぐれで降りてきた地上の民を月の都に入れるなど正気の沙汰かと言っているのです!!」
「彼女らは天人、そして天女。月の民にはそう言えば分かってくれるでしょう。地上ではなく天界から来たと言えば混乱も避けられる」
「天人について教養を持ってる人物は少ないです」
「ならば尚更、意識操作がしやすいわ」
「ですが」と、依姫は言葉に詰まった。
豊姫が、妙に真剣な顔をしていたからだ。
「……なぜあの天人を月の都に入れるのですか」
「そう……、知的好奇心ってやつね。地上に居ながらその罪から逃れ、生きながらにして穢れを知らぬ天人という存在に興味があったのよ」
「ただの好奇心でこんなことを……」
「だからこれは私の独断。私の勝手。だから、貴方は何も気に病む必要はない」
「それが出来れば苦労しません!」
「なら、出来るようになりなさい。これも修行よ」
「……………………」
豊姫は「それじゃ」と去っていった。
その背中を見ながら、依姫は思う。
(明らかにおかしいわ。地上嫌いのお姉様がこんなことをするなんて。……もしかしたら、これも何か考えての事なの?いや、きっとそうだなんわ。うん……)
依姫はそういう事にしておいた。
聡明な自分の姉があの天人もどきと同じ思考回路でこんな愚行に走るなど考えたくなかったのである。
客室の広さはなかなかだった。10人くらいいても窮屈な思いはしないだろう。
物珍しく部屋を見渡す天子はふと窓に目を留めた。桃の木が見える。
「月にも桃しかないのかしら?月料理と称して桃のフルコースとか出てきたらやだなぁ」
「総領娘様」
椅子に座って少し縮こまってる衣玖が天子に声をかける。
「これからどうするつもりですか?」
「何それ。衣玖はなんかしたいこととかあんの?」
「いや、そういうわけでは……」
「はぁ〜」と、天子がため息をつき、どかっと勢いよく椅子に腰掛ける。
「せっかく向こうが好意的に迎えてくれたんだから細かいことはいいじゃない。あるがままを受け入れて楽しめばいいのよ。やりたいことがない訳ではないんだけど、私も月に何があるかなんて知らないしね」
「……あの豊姫という方、何か考えてます。私たちを受け入れると言ったときのあの顔、なにか企んでますよ絶対」
「そん時はそん時よ。楽しけりゃそれでいいし、楽しくなけりゃ、ぶっ飛ばしてやるわ」
「なにやら物騒な話をしていますね」
その声と同時に、衣玖が肩をビクッと奮わせて振り返る。
豊姫が客室に入ってくる。後ろにはティーセットの用意をもつ兎がいる。
「粗茶ですが」
と、豊姫が言うと、兎はてきぱきとした動きでコップを並べ紅茶を注いだ。
天子は紅茶に手を伸ばす。警戒している様子の衣玖が小さく「ちょっと」と言ったが天子は手を留めず、紅茶を口へ持っていく。
「ふぅん……桃のお茶じゃないのね」
「あら、桃の方がよかったかしら」
「いや、安心したわ。桃は飽きてたもの」
妙に薄味だが、それなりに味はうまい。
「そうですか。桃、こんなにおいしいのに」
「おいしい物って飽きるのも早いのよねぇ」
「天人なのに欲が深いのね。月の文献で読んだのとは随分違うわ」
「まぁね」と、なぜか得意げな顔をする天子。
豊姫は「さて」と前置きし天子の向かいの席に座る。
「こちらに来たのは観光のようですが、なにか目的のものはあるのかしら」
「いや、暇をつぶしにきただけだし」
「そう。まぁ月があなたの期待に添えるか分からないけれど、楽しんでいってください」
「そういえば依姫は?」
「依姫は稽古の時間です。地上人が攻めてきたときに備えるために、兎達の訓練をしているのです」
天子の脳裏に海で出会った兎を思い出す。
手に銃剣を持っていたとはいえ、完全に怯え腰で、とても実践で使えるようには見えない。
「ふぅん、あいつも苦労してそうね」
「ええ。少し悪いくらいに。なんだったら遊びに誘ってあげても結構よ」
「ま、気が向いたらね」
天子は紅茶を飲み干した。
「よし、それじゃあ観光ね。どこか案内してよ」
「私もここに用事があるから、離れるわけにはいかないの。宮殿内ではご自由にしてくれて結構よ。」
「ふーん……」
宛もなく綿月の宮廷を歩き回る天子。衣玖には穢れとやらがあるらしいので自由には動けないらしい。よく分からない。
(それにしても)
外から見た時も思ったが、こうして歩いてみると本当に広い。
比那名居家の屋敷より広い。
もっとも、こうして未知の場所を練り歩くというのは楽しくて非常に結構だ。
一つ気になるとすれば、すれ違う奴らが物珍しそうな顔でこちらを見てくるということか。まるで見せ物だ。
周りの視線を気にして生きるほど天子は器用でもなかったのでそこまで嫌になると言うわけでもないが。
「ん」
聞き覚えのある声が聞こえた。
「踏み込みが甘い!もっと力強く、貫通させるつもりで突きなさい!相手の向こうを狙いなさい!」
依姫の声だ。
声のほうへ行くと、整列してヘルメットをかぶり、銃剣で空間を指し続ける兎達を率いるように依姫が立っていた。
あの兎達の訓練をしているようだ。指導約の依姫は釣り目も手伝ってなかなか様にはなっている。
しばらく見ていると兎と目があった。
それまでのと違いなく、兎は物珍しそうな表情でこちらを見てくる。
天子は笑って手を振ってみた。すると手を留めて数回まばたき。反応に困っているようだ。
それがなんとなく可笑しくて、天子は「ふふっ」と小さく笑った。
ガンッ!
「ったぁ!」
天子は頭を抱えてしゃがみ込んだ。依姫の模造刀の峰で殴られたのだ。
「なにすんのよ!」
「あんたがなにしてんのよ」
「見学」
「邪魔だから帰りなさい」
「それは悪かったわね」
天子はそう言ってちょうど近くにあった椅子に腰掛ける。
「悪かったなら帰りなさいと言ってるの」
「そうしてあげる義理はない」
天子はにやにやと笑った。
依姫は「もう」と、いらだたしげに頭をかいた。
「依姫様、そちらの方は……?」
兎の一人が代表するように尋ねる。
「ああ、こいつは」
「私は天人、比那名居天子よ」
と依姫が解説しようとしたところを天子が割り込んだ。
「天人?」
兎が首をかしげた。そういう概念のない月では聞き慣れない言葉だったのだろう。
依姫が慌てて口を開く。
「て、天人というのは」
「天人とは、地上でもっとも高いがふっ!?」
「しばらく自主練習!!」
またも割って入って説明を入れようとした天子を依姫がボディーに一撃入れ、素早い動きで近くの桃園の向こうへさらっていった。
残った兎達は天子のはなった「地上」という言葉に反応して、ただ事ではないような表情で互いに顔を見合わせていた。
「だぁもう!依姫の暴力女!こんなところに連れてきて私をどうするつもりよ!」
「あんたの方こそなにを考えているのよ!」
「別に依姫事なんか考えてないわよ!」
「その言い方は実際そうでなくてもそう聞こえるからやめなさい!」
鼻孔をくすぐる桃の香りが濃くなり、先の訓練場も見えなくなる頃に、ようやく依姫はかついだ天子を乱雑に下ろす。
「いい?月では地上人が持つ穢れは恐怖の対象なの」
「私に穢れとやらは無いんでしょ?」
「それでも、地上という言葉には皆敏感なの。ついこの間地上から侵攻があったばかりなのだから」
「ああ、吸血鬼がやってたやつね」
天子もロケットの完成記念パーティーに参加していたからそれは知っていた。
思えば、このあたりからである。カードゲージ溜めを始めたのは。
「あと、その時に私は裏切りの容疑をかけられてたのよ。だから地上人と一緒に居るなんてバレたらまた面倒なことになりかねないの」
「ふーん」
天子は話半分の聞き方である。が、言っていることは大体わかった。
「はいはい分かったわよ。言わなきゃいいんでしょ言わなきゃ」
「はぁ……これだから地上人は……」
「私は天人よ。地上人とは文字通り天と地ほどの差があるわ!」
「上手いこと言ったみたいな顔すんな。戻るわよ」
戻った依姫は兎達になるべく地上の話を出さないように天人のことを説明した。天子は彼女にくそが付くほどまじめなイメージがあったが嘘でごまかす甲斐性はあったようだ。
とりあえず天子は椅子に腰掛けて兎達の訓練を眺めることにした。
十分もせずに、依姫は「あーもう」と頭をかいた。
「って……だから帰りなさいって」
「退屈なのよ」
「ここ以外にも退屈をしのげる場所はあるだろうに!」
「だって宮殿から出るなって言われたしー」
「私に退屈しのぎを求められても困る」
「分かったわよ。"見て"なけりゃいいんでしょ」
天子はすっと立ち上がり、側にあった予備の銃剣を手に取り兎達と一緒に並んで構えた。
「これで文句無いでしょ」
「…………好きにしなさいよ、もう」
依姫は額を押さえた。とんだ苦労の種が現れたものである。
たまにだらしないところはあれどやはり姉は尊敬の対象ではあった依姫だが、この時ばかりは姉の狂行に非難の一つもしたくなる。
しかして、そんなわけ無いのは承知だが、依姫はどうにも押さえられない姉の行動への不満を思わず冗談という形で口にしてしまったわけなのである。
「お姉様も年なのかしら」
刹那、どこからか飛来した桃が依姫のこめかみに炸裂した。
どこで見ていた。
「…………自主訓練してなさい」
ハンカチで拭きながら手洗い場に向かう依姫の背中をさして天子がゲラゲラ笑っていた。
訓練を一通り終えると、最後は組み手である。実際に銃剣を交えて直接的に実力を磨く分かりやすい行程だ。
「それじゃ、二人一組み作って」
「……………………」
余った。
天子は冷や汗を一つ。
兎達は偶数だったので、一人余るのは必然だ。
(それが、なぜによりにもよって私!?)
これではまるで自分がぼっちのようじゃないか!
そういうイメージをもたれる前に、天子は依姫に声をかけた。
「わ、私の相手は依姫よね?」
「ええ」
予想以上に早かった肯定の返事天子は安堵した。一瞬だけ。
依姫の持った武器を見て天子が声をあらげた。
「まてぇい!なんであんたは刀なのよ!」
「予備の銃剣はお前が持っているからね。大丈夫、加減はするわよ。それじゃ全員……」
「か…………」
余裕しゃくしゃくにそう言い放つ依姫にカチンときた天子は銃剣をまっすぐに構えて言った。
「上等だわ!後で吠え面かかないでよね!」
依姫は「ふん」と鼻を鳴らして言った。
「始め!」
始まりの声と同時、天子は切っ先をまっすぐ向けて依姫にかけよる。
初手は豪快に、天子は銃剣を凪いだ。
依姫はそれを難なくいなし、反撃にでる
隙だらけになったわき腹めがけて刃を突き出す。無論、本当に刺すつもりはない。
しかしその切っ先は突如として上を向いた。刀を膝で蹴りあげた天子は返し刃で再び依姫を狙う。
刀は上にある。天子の狙いは腹だ。依姫は指先で刀を回し逆手持ちにして斬撃の軌道をずらし、半歩下がる。
天子は追い打ちに出た。依姫の顔めがけて振り抜いた銃剣の尻を伸ばす。
しかしそれは失策だ。半歩引いた依姫は、その追い打ちを待っていた。
逆手持ちから順手持ちへ。刀を回す勢いに、腕を振りあげる勢いを合わせて峰を天子の手首にぶつける。
天子から「あっ」という短い言葉が漏れ、銃剣は空を舞う。兎達からも「おお」という声があがった。
依姫の勝ち。の、ように見えた。
「な!?」
天子はそのまま勢いを止めない。依姫の懐に飛び込み、刀のリーチよりも内側へ入り込む。
そして、懐から自分の愛剣を取り出した。
「…………」
「…………」
二人の動きが止まった。天子は緋想の剣を依姫の首にあてがっている。
天子が勝ち誇った様に言った。
「実践なら、あんた死んでるわよ」
「……どうかしらね」
天子は依姫その言葉で、自分の首筋にも剣がある事に気が付いた。
「須佐之男命。彼より早く私の首を跳ねられるかしら?」
「スサノオ!?まさかこれ天叢雲剣!?」
「あら、教養はあるのね」
「これでも天人よ」
「そうだったわね」
「援軍なんて卑怯だわ」
「卑怯なのはお互い様」
「むう」
天子が剣を納めると、依姫も須佐之男命を下げた。
同時、兎達から拍手があがった。
負けたとはいえ悪い気はしないのか天子は軽く手を振っていた。
その姿を見て依姫は思う
(天人、ねぇ……)
依姫は地上に関する文献も少なくなく読んでいる。天人ももちろん知っていた。
だが、少なくとも目の前の彼女が天人には見えなかった。
。依姫の知る天人とはもっと欲や俗といったものから浮いた存在である。
本当に彼女は天人なのか?確かに、彼女に穢れは無かった。それに、穢れを持った妖怪を連れていたことからやはり彼女が地上から来たのも間違いない。そして、地上に居て穢れを持たない存在とくればそれこそ天人や仙人、それに浄土の住人しか知らない。
それでも彼女が天人だというのが、依姫にとってにわかには信じがたいことだった。
好くなくとも依姫の知っている天人は、気まぐれで月までこない。
そういえばどうやって月まで来たのだろう?
……いや、それより。
「拍手喝采痛みいる。ところで、稽古はどうしましたか?」
拍手がピタリとやんだ。
「なっ…………た、対空技を連打して飛んできたぁ!?」
依姫はテーブルを叩いて立ち上がった。
豊姫は呆れた声で注意する。
「依姫、食事中に立ち上がるなんて不作法よ」
「……申し訳ありません」
依姫は腰を下ろした。
天子が食事を飲み込んで言う。
「見た目豪華だと思ったけど薄味ねぇ」
「総領娘様」
衣玖が天子のわき腹を肘で突いた。
こいつも不作法だ。
「これが月の食事です。ご容赦を」
「まあいいわよ。今日もなんか楽しかったし」
「無視しないで!」
依姫が割って入った。
「確かに地上から上に行けば月があるけど、途方もない距離よ。それを直接飛んできたって……」
「地上でもっとも高いところから出発したからじゃない?」
「いや、だからってああもう……地上人って常識のないというかなんというか……」
「誉め言葉と受け取っておくわ」
「もうお好きにどうぞ……」
依姫は残る汁物を素早くかきこんで席を立った。
「御馳走様。お風呂入ってきます」
「私も入ろっと」
天子も残りの夕食を平らげて席を立つ。
「ちょっと。天人は体清潔でお風呂入らなくてもいいとか言ってなかったかしら」
「そういえば言ったわね。よく覚えてたわね」
「はぐらかさないで。お前、本当は天人じゃないんじゃ────」
「お風呂はいると気持ちいいでしょ?」
「…………」
ひょっとしたら、そうやって揺さぶればボロが出るんじゃないかとかそんなことを思ったが、こんないい加減な理由でもこいつならやりかねないから困ったものだ。
(まあいいわ。体を洗い出したら天人もどき確定ね)
ざっぱーん
水面に、勢いよく異物が飛び込んだ。
「なかなか広くていいじゃないの!うちのとどっちが大きいかしらね!多分うちのだけど!」
依姫はぽかーんというような疑音がよく似合う表情でその光景を見ていた。
それはまさに一瞬である。
衣服を脱ぎ、風呂の扉を開けた瞬間、彼女は湯船へ猛ダッシュだ。私がなにか言う前に彼女は湯船の水しぶきに消えた。
そして水面から顔を出してあの台詞だ。
(何才児よ!?)
しかも、体を洗うことなくリラックス全開である。
たしかに、彼女が天人なら洗う必要性はないだろう。
だが、湯船に飛び込むというもはや人としてあるまじき行為に依姫はますます彼女が天人には見えなくなった。
あれでは天人というより、子供である。精神年齢(地上の人間の年齢にして)5歳の子供だ。
子供ならば、体を洗わずに湯船に飛び込むところもあるだろう。穢れが無いのは幽霊の可能性も有りうる。
依姫は悩んだ。彼女が天人なのか。五歳児なのか。
(ふざけたニ択だわっ……)
よもや天人と5歳児を並べて扱うなど思わないだろう。
そしてもう一つ問題がある。
彼女が天人でなかった場合、彼女は体も洗わずに湯船に入っていることになる。
最悪だ。
「…………体は」
「あんた頭悪いのやらいいのやらわっかんないわねー。私は洗わないつったでしょ。洗う必要がないって」
天人なら、そうなのだろう。
だが依姫は彼女を天人と未だ信じていなかった。
ゆえに、体を洗わず入る天子を認めるわけにはいかない。
依姫は綺麗好きなのである。
依姫は悩んだ。数分。
天子が依姫に声をかけた。
「何してんの?裸でそんなとこ突っ立てると風邪引くわよ」
「天人」
「何」
「来なさい」
依姫は洗い場へ向かう。
「へ?」
「早く来なさい!」
「ちょ、ちょっと何よ。」
依姫がいきなり大きな声を出したので、天子は慌てる。
「だから私は体を洗わなくても」
「それでも体を洗っていない者を湯船につからせるのは気分が悪いから私が洗ってやる言うのよ!!」
湯船にも使ってないのに顔が真っ赤な依姫を見て天子は唖然とした。
天子の顔も赤かったのは湯船に使っているせいじゃないかもしれない。
「汚された……」
依姫が机に突っ伏していた。
「お風呂入ったのに?」
豊姫が訪ねたが、依姫はなおも低い声で呻いた。
「ケガされた…………」
豊姫は首を傾げた。
「あの天人には穢れはないはずだけど……」
寝室に入った天子はそのままベッドへフラフラと歩いていき、どかっ!と、倒れるように身を預けた。
「ああー、…………疲れた」
「お風呂入ってきたのでは?」
天子の背中に衣玖が尋ねると、上半身を持ち上げて足をおろし、ベッドに座った。
「そうよ!ちょっと聞いてよ衣玖!依姫がさ…………」
そこで言葉に詰まる。やっぱり、ちょっとこれを話すのは恥ずかしい。
「いや…………なんでもない」
衣玖はなぜそこで顔が赤くなるのか聞こうとしたが、それより聞かねばならないことがあった。
「ところで、ここからどうやって帰るのですか?」
行きと同じ方法を使うこともできるが、もう一度ゲージを溜めるとなると随分ここでお世話になることになる。
「んー、まぁ行きと同じ方法でもいいんだけどね」
「……あのゲージって溜めるのどれくらいかかるんですか」
「根つめてやれば一週間くらいかな?」
「…………」
つまりはもっとかかるということだ。
「ま、最初に依姫に会った時あいつ言ってたでしょ?私たちをふんじばるって。私の勘も入ってるけど、多分あいつ等は私たちを地球に送る術を持ってるわ。それがなんなのかは私が月の都に飽きたときに聞きましょ」
天子は再びベッドにはいり、毛布を引き寄せた。
衣玖も同じようにベッドに入る。
「ちなみに、今日はどうでしたか?」
「楽しかったわ」
天子は即答だった。
「やっほー依姫、遊びに来てやったわよ」
どこからでも目立つ青髪を振りまいて、これまた訓練の時間にやってきた天子を、依姫は指を指して言った。
「……それではこれより多数対少数を想定した訓練を行います。総員、あの天人を纖滅しなさい」
「ちょwwwwwおまwwww」
「「「ヤー!!」」」
「本当に来たし!?」
数分の乱闘の後。
「…………というのは冗談だけど、来るなって言ったわよね」
「"冗談"じゃないでしょ!もっと早く止めなさいよ!」
天子は地面に倒され、両手両足を押さえられた上で馬乗りにされて銃剣を大量に突きつけられていた。
多勢に無勢である。
「しかし、この天人一人押さえるのに12人がかりで2分54秒かかるとは。まだまだ鍛え直す必要が有りそうね」
「聞いてんのか!というか早くどきなさいよ!」
天子はじたばたともがこうとするが、押さえられたまま動けない。
多勢に無勢である。
「さて、訓練に戻りましょう」
「「「はーい」」」
兎たちは元気に答えた。
その声の数、13。
「お前は違うだろっ!」
依姫は天子を蹴飛ばした。
が、天子は宙返りをうって華麗に着地。
「いいでしょ?」
「いいわけあるか。遊びじゃないのよ」
「私にとっては遊びなの。それに、あんたとの決着もつけたいしね」
「決着も何も、もう勝負はついたでしょうに」
「援軍呼んどいて何よ!サシで勝負よ!」
「私の力は神を降ろす力。援軍という言い方は少々語弊があるけど、お前がそう思うならそう思ってくれていい。なんならそっちも誰か呼ぶ?」
「上等よ!超強い奴呼んでやるわ!」
そう言って天子は息を大きく吸い込み。
「ゆっかりぃーーーーんっ!!」
その頃の八雲邸。
「はぁ〜い☆ ゆかゆり、はっじまーるよー!」
「何ですかそれ」
「説明しよう!ゆかゆりとはゆかれいむ、ゆゆゆか、ゆからんに代表される私のカップリングの総称よ。いつか「ゆかりんは総受け」「ゆかりんは幻想郷の嫁」の時代がくるわ」
「(紫様は攻めだろJK……)それより例の彼女の件ですが」
「なによぅ、他の女の話ぃ?」
「うざっ」
「…………」
「来ないわね」
当たり前だ。月から地球まで届く声がだせるか。
来られたら来られたで困るが。
天子はもう一度息を吸った。
「衣玖ぅぅぅぅぅぅぅーーーーーーーー!!!」
その頃、天子達の客室。
「くっ……こ、これは…………」
衣玖はガクリと膝をついた。
「総領娘様……申し訳……ありません……」
ふらふらと衣玖は立ち上がる。
「しかし…………しかしッ…………!」
震える手を伸ばし、ソレを手に取った。
「読まずには…………いられないッ…………!!」
衣玖の手にした本には、「わがままなお姫様をしつける100の方法 著:八意XX」と書かれてあった。
「…………恥ずかしくない?」
「ちっくしょぉぉぉぉぉ!!何度この名前でいじられれば気が済むんだあいつはぁぁぁぁぁぁぁ!!」
天子は恥ずかしさと怒りが入り交じりになったよく分からない気持ちを帽子にこめて地面に叩きつけた。
「さて、いい加減訓練を」
「こうなったら奥の手!」
「…………奥の手?」
「とよひめぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」
「呼んだ?」
「本当に来たああああああああああああ!?」
いつからそこにいたのか、物陰から豊姫が顔を出して依姫が絶句した。
まさか前の桃もそこから投げたのか。
「ちょっ……お姉様、そんな所で何して」
「「「豊姫様〜!!」」」
「あっ、こら!」
兎達がこぞって豊姫に駆け寄った。豊姫は「あらあらうふふ」とは言ってないものの、そういった表情だ。
豊姫は兎達に優しく(依姫的には甘く)桃の差し入れを持ってきたりもするので兎達に人気である。
天子はその光景を指してなぜか得意げに笑った。
「な、何よ」
「私の勝ちね」
「いや、何の勝負」
「あんたが困ってるから私の勝ち」
「ほぅ……上等」
依姫は小さく呟いて前に出た。
そして、すぅ……と息を吸い
「貴様等ァッ!!」
きぃぃぃぃん…………と、周囲に耳鳴りが響きわたった。
場が凍り付く。木にとまっていた鳥だけが、羽ばたきとと木の揺れる音を残して空の向こうへ消えていった。
そして、次に動いたのは依姫の口だった。
「戻れ」
「「「サー、イエッサー!!」」」
兎達は瞬く間に豊姫の元を離れ、依姫の前に整列した。
「だらけた奴には喝を入れないとね」
「…………うん」
天子も少し縮こまっていた。
かくして訓練は再開された。
兎達が号令に合わせて銃剣を振るうたび、風きり音がなる。
椅子に腰掛けた天子がその様子を見て言う。
「つまんないわね」
「なら帰りなさい」
即座に依姫がそう返した。
思えばこの台詞も何度目か。
「組み手しましょうよ組み手」
「組み手は確かにより実践的に力を付ける大事な行程。けど、それはこういった基礎的な所の集大成なのだからこれを怠ってはいけない」
「強けりゃいいのよ強けりゃ。だって負けた奴が何言っても無駄でしょ?そして強くあるためには実践あるのみよ。実戦では相手は教科書どおりになんて動いてくれないんだから」
「…………」
これも何度目か。
依姫は改めて彼女が天人であることを疑った。
これが天人の言う事なのか。
(天人……他ならぬ人自身の力で地上の呪縛を逃れた地上人としては確かに私も興味はあったけどねぇ…………)
幻滅もいいところだった。所詮、地上人には違いないという事か。
まぁ確かに、そう言う天子の実力は確かだった。
以前手合わせしたときはそれで少し驚いた。
天子が剣術を誰に教わったのか、それとも誰にも教わっていないのかは定かではないが、一つ確信を持っていえるのは天子の剣はよく言えば臨機応変という言葉がよく当てはまると言うことだ。剣は水にならえというが、はかってかはからずか彼女はそれを地でいっている。
実戦の経験とセンスだけで構成された技。いわゆる喧嘩殺法という言い方もあるかもしれない。
それであの実力なのだから、本人にその気があればその道で生きてもいけるだろうに。そっちのほうが余程天人らしい。
だからこそ、先の彼女の言葉にもそれなりの説得力があるといえる。
(けれど)
依姫はそれだけで強くなった存在をやはり知らない。
それだけに、彼女の力が惜しい。
その時、依姫に一つ案が浮かんだ。
それは果たして、ただの好奇心か、散々振り回された彼女への恨みかは分からないが、それは依姫にとって名案だった。
(もしも前者なら、私もお姉様のことも、この天人のことお言えないかしら?)
ならばきっと後者だ。依姫はそう自分に思いこませることにした。
そして、そうすると俄然やる気がわいてくるのだった。
わずかに笑みを作る自分の口元に、依姫は気づかない。
「そこまで。これより組み手を始めるわ」
その言葉を聞いて兎達は相手と組んで整列する。
「待ってました!」
天子もまた意気揚々と予備の銃剣を手に立ち上がった。
「さぁ、依姫!」
「天人」
依姫は模造刀を構えて言う。
「貴方にも剣があったでしょう。使いなさい」
「あら、いいの?」
「いいも何もこの前不意打ちに使ってたでしょう」
「それもそうね」
天子は銃剣をその場に置いて緋想の剣を手にした。
「ところで、なんで敬語?」
気まぐれに天子がそう訪ねると、依姫はふっ、と笑って言った。
「私が貴方に剣を教えてあげます、天人。さあ、どこからでも打ってきなさい」
天子もその言葉を聞いて同じように笑って見せた。
「……ふんっ、感謝するわよ、おかげで存分に剣を振るえる。私ね、そういう態度されるのがいっちばん嫌いなのよ!!」
「全員─────始め!」
「退屈ですか」
客室に入った豊姫は開口一番そう言った。
衣玖は本から目を離し。
「別に。なんともありません」
と、答えた。
「そう。それはよかった。彼女も楽しんでいただけているようでなにより」
「総領…………天子様は今は何を?」
「依姫と訓練に混ざっていたわ」
「はぁ……そうですか」
衣玖はあらためて豊姫の顔を見た。
なんとなく、なんとなくではあるが、あの彼女にはあの妖怪の面影を感じる。
八雲紫。彼女と同じような、何を考えているかわかりずらいような…………。
「貴方は薄々気付いているようですが」
豊姫がおもむろにそんな事を言った。
「私が貴方達をここに招き入れたのには理由があります」
「……………………」
もちろん分かっていた。
ただ、いきなりこの場でそれを明かされるとは考えていなかった。
衣玖は息をのんだ。
「それは…………?」
「それは、依姫のため」
依姫。豊姫の妹。
天子も昨日は彼女といたらしい。そして、どうやら今日も。
しかし、衣玖達を追いだそうとしていたのも彼女。
「ほら、あの子忙しそうでしょう」
「ええ、そうですね」
苦労人のような、そんなオーラがある。
天子が迷惑をかけていないか少し心配でもあった。
「私たちは、かつて月を納めていた八意様の弟子です。八意様は地上に降りた後、私たちに月を任せたのです」
八意様とは、竹林の八意永琳の事だろう。
彼女が月から来たというのは有名な話だ。
「八意様は月にとって裏切り者です。その弟子が月を納めることになったので、民の反発が酷くて。少し前も裏切り疑惑が浮上してひと悶着あったばかりです」
衣玖は豊姫の顔を見た。
その時確かに、彼女の顔は一人の姉の顔だった。
そして、衣玖は理解した。彼女の意図を
「依姫に友達と呼べる者はいません。それどころか、多くの人物から疑いの目で見られる毎日です。それは依姫に近ければ近い者ほどに、より一層」
「だから、事情を知らない地上人にして穢れを持たない天子様を依姫さんにぶつけてみたのですね。穢れが無ければ周囲も地上人と思わない」
「そういう事。まぁ、目に見えて効果がないのならさっさと送り返していたわ」
豊姫から送り返すという言葉が出た。昨晩の天子の予想は当たりだったようだ。
しかし、まさか彼女の思惑がそんな事だっととは。
衣玖は疑っていた事に少しばかり罪悪感を覚えた。
「そして、その効果のほどは」
「いい二人じゃないかしら。あなたも、なかなか面白い子を連れてきたものね」
「連れてこられたのは私です」
「ますます面白いわ。そして、そういう子だから依姫と気が合うのかもしれない」
「そんなに仲がいいのですか?」
そういえば、昨日お風呂でなにかあったようなそぶりだったが、何があったのだろう。
案外、嫌なことがあったわけではない気がするからいいけど。
「私から見れば十分なほどに。今日は剣を教えていましたよ」
「剣を……ですか」
確かに天子は剣の心得が少なからずあった。
幼い頃に教育の一環として教わっていたが、長続きしなかったとか聞いた。
その彼女が今また、弾幕ごっこ以外の目的で剣を振っているとは。
(案外、総領娘様も依姫から影響を受けているのかもしれませんね)
「ただいま戻りました。お姉様」
「ただいまー」
そんな時、丁度二人が帰ってきた。天子には服や体の汚れが見える。依姫にも少しあるが、天子ほどではなかった。
手には剣を持っているし、どうやら剣術を教わっていたのは本当らしい。
「お風呂入ってきます」
「私も!」
「入らなくていい割に毎日入るわね」
「いいでしょ。それに入ったら依姫、またしてくれるんでしょ?」
そういうどこか含みのある言い方に、依姫がいっそ面白いほどに顔が赤くなる。
「しません!」
「え、あ、そう。まぁいいや。入るし」
「もう」
そんな事を言いながら二人は奥へ消えていった。
「あんなふうに話せる人が、依姫には必要だと私は思うのよ」
「そうですね」
「…………」
「…………」
どういうわけか、何か違和感を感じる沈黙。
「ところで、お宅の娘さんがうちの依姫と一緒にお風呂でただならぬ事をしているんじゃないかという疑惑があるのですが」
「申し訳ありません後で言って聞かせます!!」
即土下座。流石あの八雲紫を土下座させた存在だった。
別に衣玖の娘では当然なく、どっちかというと他人な気もしないでもない程度の関係だが、今は全力で謝った。
なによりただならないのは豊姫の顔である。
「あんたら似てないわよね、ぶっちゃけ」
服を脱ぎながら天子が言う。
「私と姉上ですか?」
「そ」
「そうね。私もお姉様から学ぶべき部分があるし、……まぁ、お姉様にも私から学んでほしい部分もあるわね」
「髪の色まで違う」
「私たちはそういう風に生まれたからとしか言いようがないわ」
「そんなもんなの?」
「そんなもんよ」
「ふーん」
一糸纏わぬ姿になった天子が浴場へ入る。向かう先はまっすぐ浴槽だ。依姫は結局洗ってくれないらしい。
(なんか、私が地上にいた頃を思い出すみたいで嫌じゃなかったんだけど)
天子は体を洗う依姫の背中に問う。
「明日は何するの?」
「訓練」
依姫は短く答えた。
「毎日訓練してるの?」
「状況が状況なので。地上人と戦争になった時、私たちが勝てる保証なんてどこにもないのです」
「へぇ〜、大変そうね」
天子は間延びした返事を返した。
少しの間の後、天子は思いついたように言う。
「そうだ、明日遊びにいかない?」
「話聞いてた!?」
あははと天子は笑って続ける。
「聞いてた。で、どこ行く?」
「聞いてないじゃないの。訓練が忙しいって言ってるの」
「訓練なんかいいじゃない。たまには遊びに行ったりしないわけ?」
「行きません」
「じゃあ行こうよ」
「行きません」
「つまんない」
「つまんなくて結構」
「ほんっとツレないの。いいもん。衣玖と行ってくるから」
「ちょ、それは」
「何よ。まだなにか文句あるの?」
「彼女は穢れをもった地上の妖怪。なまじ連れ歩けば街は混乱状態になりかねない」
「知ってるわよー」
「なっ」
にやりと天子が笑った。
「さぁ選んで!私と一緒に遊びに行くか!街にテロを起こすか!」
「そんなふざけた選択肢……!貴方一人で行けばいいでしょうに!」
「やだ。一人じゃつまんないもの」
「じゃあお姉様を」
「私は依姫がいいの」
「どうして!」
「………………」
「………………」
ふと、天子の表情が固まる。
顎に手を当てて、何かを考えるように頭を捻りだした。
「なんでだろ?やっぱつきあいの長さかな?」
「まだ会って二日程度ですが?」
「もう、なんでもいいわよ。依姫が来てくれないと、衣玖を連れていく。決めた」
「勝手に決められても困ります。…………そちらがその気なら、こっちにだって手がある」
「何よ、それ」
「幽閉でもなんでもしてあげましょうって話よ!!」
次の日、天子と依姫は月の都にいた。
(お姉様はこの天人派だったぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!)
依姫は頭を抱えた
事の顛末は簡単だ。天子が豊姫にその話をすれば「いいじゃない。行ってらっしゃい」である。周到なことに訓練がないことを朝には訓練兎中にも知れ渡っていた。
もう完全に”行く”ムードだった。
「さーてどこ行こっかな。私は月ってよく知らないから依姫が案内してよ。なんか名所とかある?」
「…………綿月の宮殿」
「あ、なにあれ!行こ、依姫!」
「こらっ!」
依姫が天子の口をふさぐ。
「私の名前を出さない!」
依姫は月の姫が都に散歩なんていったら視線がしんどいので変装済みである。
服を変え、髪をおろし、眼鏡をかける。
変装としてはメジャーだが、これで案外何とかなるものだ。
「…………はぁ」
依姫は深くため息をついた。
「お代はちゃっかり私持ちですか……」
「いいじゃない。私持ってないし」
天子はそう言って桃の饅頭をほおばる。
「……薄味」
「月の食べ物はみんなそうです。嫌なら帰りましょう」
「別に。楽しいし」
薄味の饅頭をもう一口。
しかし、ふだんからこんなものを食べているとは、地上の食べ物を食べさせたらギャップで舌がおかしくなるんじゃないだろうかと天子は思った。
適当に歩いているとまた、気になるものが目に入る。
「あれ、何?」
「本屋ね」
「本。なんか土産に買って帰ろうかしら」
「買うのは私よ」
「そうね。ありがと」
「…………」
そう素直にお礼を言われると文句を言いづらい。
「うわ。なにこれ文字がちっちゃい。読めないじゃない」
「ああ、これは」
依姫が天子が手に取った本に指を二本つけて動かした。
すると
「おお!?すごい!」
本の文字が大きくなった。端っこが本からはみ出して消えているくらいだ。
「これどうなってるの!?」
「この紙は量子繊維を織り込んだ特殊な紙で、一枚の紙でありながらコンピューターのように命令を書き込むことが」
「なるほど分からん。どうでもいいや」
「そっちから聞いておいて!」
依り姫は気のせいか、訓練の時より疲れる気がした。
天子は本を元に戻し、また別の本を取る。
そんな動作を幾度か繰り返し、ぽつりと言った。
「おすすめとかない?」
「私の?」
ふと、依姫は思考を巡らせた。
本と言われても、ここ最近本らしい本を呼んだことがない。
そう、一番新しく遡るなら……。
(……ここまで戻るかぁ)
目を閉じた依姫が脳裏に浮かぶのは一冊の教科書だった。
その著作は八意××、かつて依姫が姉と共に八意様の教えをもらっていた頃に使っていた教本だ。
だが、
(あるわけもない……か)
本屋を見渡せど、裏切り者の教本など、あるわけもない。
もはやあの本は、依姫と豊姫の部屋にしかないのだろう。
「どうしたの?」
はっ、と、天子が依姫を見上げていることに気がついた。
「別に、なんでもない」
「……疲れてる?」
「まあね。誰かさんのせいでね」
反射的にそう答えてから、依姫は異変に気付いた。
天子の声が妙にしおらしい。
「えと、ごめん」
「は?」
「どっか休憩できるところ探そう。あんたの息抜きも兼ねてるもんね」
「ああ、あれ本気だったの」
「私は冗談は言うけど嘘は言わないわ。基本的に」
「ふーん……」
依姫が「人が多いと見つかりやすくなる」と言うので、喫茶店ではなくベンチに腰をかけた。
天子が買ったジュースに口を付ける。
「ジュースまで薄いのね」
「……地上人はよほど濃い味が好きと見える。しかも私は天人は欲から逃れた所にいると聞いていたのですが、貴方からはまるでそれを感じない」
これもいい機会だと、兼ねてより半信半疑であった質問を天子に投げかけた。
「貴方、本当に天人?」
「何を今更」
あっけないほど単純で簡素な答えが帰ってきて、依姫は拍子抜けする。
「本当に……本当?」
「疑り深いわね……有頂天より高いところがあるくらい広い世界だもの。人並みに欲のある天人がいてもいいじゃない」
「欲があるのに天人になれるの?天人ってそういうものなのかしら?」
「生憎、親の七光りでしかないわよ。親が天人になったから私も天人になっただけ」
「なんて事……私が少なからずの幻想を抱いていた存在って……」
額を押さえて依姫がうなだれる。
「ああ、大丈夫。こんな天人私だけだから」
「貴方だけ?」
「でなきゃこんな所来ないわ。天人がみんなあんたの言うようなやつらばっかりだから……だから私は天界にない、何か楽しいものを探しに来たの」
「…………本当にそれだけで月まで来たのね」
「悪い?」
「良いか悪いかなら、圧倒的に悪い」
「何よもう。まぁ自覚はあるんだけどね」
依姫はため息を一つつく。彼女と出会ってから少なくない回数をついてると思う。
ああ、彼女には穢れは無いのに、なんだか精神的な老化を感じる気がする。ストレスによる老化か。
なんて無責任。なんて勝手。なんて恥知らず。なんて。なんて。
それが、依姫が天子に抱いた感想だった。
「あなたは、親の七光りと言うならば、せめてその光を大切にしようと思わないのですか」
そして、依姫は今、彼女に苛立ちを覚える理由が分かった。
(同じなんだ。私も)
八意様が裏切り者になったから、その教え子である自分たちが、成り上がり式に月を納めることとなった。自分たちが、八意様の後を継ぐことになった。
だから依姫は託されたその地位を、名誉を汚さないために。八意様が守ってきた都のために。そして他ならぬ八意様のためにこの都に尽くしてきた。
皮肉にも八意様の裏切りという行為が足を引っ張り、民からの信用を得るのはまだまだ先になるだろうが。
それでも依姫と豊姫が八意様から受け継いだものを諦めるには遙か遠く及ばないのだ。
それをこの天人は、その地位を与えてもらった両親に背いている。反抗ではなく、反旗を翻している。
両親から受けた光を真っ向から否定しているのだ。
天子の事情は知らない。赤の他人の家族のいざこざなど依姫にはまるで関係がない。しかし、それでも苛立つのだ。彼女の親不孝には。
「思わない」
それでも天子が返すのはあっけらかんとした答えだった。
「両親が嫌いなの?」
「嫌い。だけど感謝はしてる。私を育ててくれたし、私を天人にしてくれた。天人なんてって思うけど、天人になってよかったこともたくさんあるもの。時間に急かされない永遠の命が手に入ったし、天人の力がなければこうして月に来ることも出来なかった。実際、私には数え切れないほどの恩があるのは理解してるつもり」
「なら」
「それでも私ワガママだから我慢できないのよ。退屈が、平穏の名を借りた虚無な天界がさ」
「貴方の親は貴方を心配している。それはとっても親不孝だわ」
「そうかもしれない。けど、もう叱ってもくれなくなったからそうでもないかもしれない」
「呆れらたのね」
「それでもよ」
天子は立ち上がって、空を見上げた。そして、地球を見下ろした。
「それでも私は、欲しい。自分の欲しいものが欲しい。私はそういう奴なの。悪い?」
「……強欲は罪です。その欲のために、犠牲になったものがあるのならば、なおさら」
そう言う依姫から、天子がどんな表情をしているのかは見えない。
「……………………そうよね」
小さく呟いて、天子は歩き始めた。
依姫はまた歩き回るのだろうと思い、その後ろについた。
が、向いている方向が逆だった。
「……そちらは今来た方向だけど」
「ええ、もう帰るわ」
「えっ」
依姫は天子の思わぬ発言に驚きを隠せなかった。
まだ、昼も過ぎていないというのに。
あれほど強引に誘った割にはえらくあっさりではないか。
それとも…………いや、依姫は自分は間違ったことを言っていない自負があった。
きつい言い方にはなっただろう。個人的な干渉で彼女につらく当たった所もあるだろう。だが、それでも正しいことを言ったはずだと。
依姫は自分にそう言い聞かせ、ただ、静かになった天子の背中の後を着いていった。
酷く居心地が悪い帰り道。
彼女に怒りを覚えること、呆れを覚えること、疲れを覚えること、そんなことは多々あったが、こんな気持ちになるのは依姫は初めてだった。
二人の間に一切の言葉はない。
綿月の宮殿が、遠く思えた。
豊姫は悲しげに、寂しげに、息を吐いた。
どうして、こうなったのだろうか。
今朝、(豊姫から見て)仲良く出ていった二人が、どうしてこうも暗い空気を纏って帰ってくるのか。
豊姫は依姫に何があったのか尋ね、真相を聞き出した。
依姫には非はない。それは分かった。いや、少しばかり言い方がきつかったのは不味かったといえるだろう。
しかし豊姫には分かる。依姫はどうしてもそういうタイプだったということ。
そして、だからこそ、失敗であるという事実だけがそこに残ることとなる。
天子は月を十分堪能したから帰ると言った。
豊姫はそれを止めない。彼女らにもう用はない。
ただ、残念と思う気持ちだけが豊姫に残っていた。
(あと、もう少しだったと思うんだけどなぁ)
豊姫は憂鬱に息を吐いた。
「失礼します」
突然、帰ると言い出した天子に事情を聞いたが、天子は「なんでもない」と言うばかりだった。
この手合いには何を言っても仕方がないということを理解していた衣玖は黙って部屋から出た。
と、衣玖は動きを止める。部屋の外にいた依姫と目が合う。
「あの」と、声をかける前に依姫は衣玖を見なかったことにし、廊下を歩き去ろうとした。
不器用だ。部屋から出てきた私と目があったとき、顔だけならまだしも体が向いていた。何もなかったかのように去るには難しい。
そして彼女は随分と、優しい。
「依姫さん」
「わた、私は悪くはないですよ!?」
(そう思うならもっと毅然としていればいいのに)
別に衣玖は依姫を疑っていない。あの依姫と、あの天子だ。
客観的に考えて天子が何かしたと思うのが自然だといえる。逆だとしても何か事情があるに違いないだろう。
衣玖は依姫から事情を聞き出す。
(……成る程)
衣玖は思う。
誰が悪い?
依姫か?
天子か?
いや、おそらくはきっと、誰が悪いわけでもない。
ただ、二人の意見の食い違っただけにすぎない。
そもそも似たもの同士の言うのはぶつかり合うのだ。そしてぶつかり合うからこそ通じあう。
衣玖はそう思っている。そう思っているから、まだ彼女らはどこかで繋がっていると信じられた。
何より、不器用な天子のことだ。そう、なんでも欲するのに、中途半端に自分を戒めて拒絶してしまう。自分は不良天人という自覚があるばかりに、否定されたときには開き直るか、こうやって拗ねるしかないのだ。
彼女、依姫もきっと不器用だ。周りが見えなくって、必要以上に気負って、でも自分を見ない。自分が心のどこかで欲しているものに気づかない。
もちろん、それは衣玖の想像に過ぎない。
でも、もし本当にそうなら。衣玖が読んだ空気に狂いがなければ。
彼女らは、終わってなんかいない。
「依姫さん」
「……何でしょうか」
「私は豊姫さんからある事を聞かされて、ここに居ます」
「ある事?」
一瞬、言っていいのかという疑問が湧いたが、口止めをされたわけでもない。
遠慮なく言う。
「総領……天子様を月の都に、この宮殿に招いたのは、依姫さんの為だという事です」
「お姉様が私に嫌がらせをしていたとでも?」
「それは、果たしてどうでしょうかね。余計なお世話という気もしますが、理由を話す豊姫さんは本気の目でしたよ」
「一体あんな奴が私の何のために!」
「簡単な話です。友達を作って欲しかったのですよ」
「…………友達ですって?」
呆けたような表情で言う依姫に、衣玖は首肯。
「地上での友達っていうのはああいう人に迷惑面倒をかけてケラケラ笑ってる奴の事を言うのかしら」
「さぁ、それは知りません」
「な」
依姫が意表を突かれて口をあける。
「友達って言うのは人それぞれなものです。ですが、絶対に共通してることならば結局、一緒にいて楽しいかですね。それさえ満たしていれば友達と呼べると私は信じています」
「……満たしてなんか」
「今はそう思うでしょう。ですが、以前までは?」
「…………」
依姫は口をつぐむ。
そこで言葉が出ないのが、きっと証拠なのだと衣玖は思った。
「仲直りしてみればどうですか?総領……天子様もきっとそれを願っているでしょう。いや、あなたもそれを望んでここに来たのではないのですか?」
「っ……私は」
いったい、何のために? あんな不良天人に何を言うつもりでここに来たのか。依姫は自分の行為に戸惑った。
仲直り? まさか。追い打ち? そこまで陰湿ではない。
そもそも自分はなんのためにここに来たのか依姫は思い返す。
(……そうとも。私はただ、正論を言ったにすぎないのに勝手に拗ねられてはこっちが悪いみたいで嫌だったからだ。その勘違いを正したかっただけだ)
ああ。そうとも。それで?
依姫は、もう一つ自分に問うた。
それで……なぜ?
よく考えれば天子は帰ると言ったのだ。なら、それでいいじゃないか。関係ないじゃないか。
だのに、どうして天子を気遣う必要がある?もう二度と会うこともないであろう他人を。それどころか天子の調子が元に戻ればまた月に居座るだろう。
(…………私は)
依姫はどういうわけか、そうすることで天子が元に戻るんじゃないかという期待を抱いていたのだ。
悔しくも、依姫にとって天子のいる日々はあまりにも新鮮だった。
綿月の任の事や稽古のこと、地上の脅威のこと。そんなことばかりが渦巻いていた依姫の中に、突如として乱入した比那名居天子という存在。
それがあまりにも新鮮で、楽しかったんだ。
だから、それが壊れたことが嫌でここに来たのだ。
(どうして)
依姫の目が変わったのを、衣玖は感じた。
ああ、気づいたのだろう。本当の自分の気持ちに。
「一つ、お話をしてあげます」
「?」
衣玖はゆっくりと語りだした。
「地上のとある所に少女がいました。少女は元気一杯の天真爛漫で、青空のように澄んだ少女でした。ですが、ある日少女の環境はガラリと変わってしまうのです。酒を飲み、桃を食べ、歌い、踊りを楽しむ。ただそれだけの世界。そこには確かな平穏がありました。しかし、平穏しかありませんでした。少女の両親はすぐにその平穏の一部になりました。ですが少女だけはどうしても平穏に混ざることができなかったのです」
衣玖は一息おいて、寂しそうに言った。
「……まだ10ほどの少女が、どうして悟りを開けるでしょうか」
依姫ははっとした。そして、自分の過ちに気付く。
以前、依姫は彼女を天人かただの子供かと悩んだが、詰まるところ彼女は天人であり、子供だったのだ。
結局の所、依姫は天子を"天人でありながら天人らしくない天人"という目で見ていた。
「天人でありながら少女は天人たれませんでした。周囲は少女に失望していきます。そして少女は一人になりました。だから、開き直ったのです。彼女は天人を嫌い、不良天人を名乗り、天人から逸脱した行動を取るようになりました。不器用な彼女は、そうやって自分を表現するしかなかったのです。彼女は不良天人になりたかったわけではありません。ましてや、天人になることだって望んでいません」
ああ、そうだ。彼女が望んでいたのは。
望んでいたのは、きっと
「彼女はただ、見てほしかった。他ならぬ自分自身を。天人としてではなく、不良天人としてでもなく、一つの存在として」
それが自分の過ちだったと、依姫は気付いた。
彼女に不良天人というレッテルを張り、失望の眼差しで見ていたのは他ならぬ自分自信だと。
「一人になった少女は、それでも笑っていました。天人になるくらいなら一人の方がマシだと自分に言い聞かせて、自分の楽しみだけを探すようになりました。わがままぶって、自分勝手ぶって、それもすべて、自分を誰かに見てもらうために。自分にとっての本当の願いは押し殺して」
「もっとも、退屈や、じっとしているのを嫌うのは素の彼女なんですがね」と衣玖は付け足した。
依姫は一つ息を吐いた。人を見る目にはそれなり自信があったが、そうやらまだまだ修行不足らしい。
天人と聞いて密かに期待して、しかし天人らしくない彼女に失望して、それで依姫は彼女につらく当たったんだ。
依姫がやったのは、天子にとっての天人像をなぞること。
天子の望みは、本当の彼女の願いは、ありのままの自分を見て、それを受け入れてくれる人が欲しかったんだ。
完全に子供じゃないか。好きな子にいたずらするのと大して変わらない。構って欲しいから迷惑をかけるのだ。
私はそんな彼女を「迷惑だ」と切り捨てた。私もまた、そんな迷惑を少し楽しむ自分に嘘をついて。
「……あとは任せます。私は急用を思いだしたのでこれにて」
そう言って衣玖が立ち去った後、
「あっ……」
衣玖が居た場所の後ろ。柱の影に、青い髪が見えた。
本当に、どこからでも目立つ。
「……」
一体、なんと声をかければいいのか。
こういうのは経験がないからよく分からない。
「天人」
「馬鹿じゃないの?」
依姫が何かを言う前に、天子は口を開いた。
「あんな話ホイホイ信じて、こんな私に謝ろうって? 馬鹿馬鹿しい。あんたは間違ってないんだからそれでいいでしょうが」
「……なんですって?」
「情けはいらないって言ったの。勝手に人を哀れんでんじゃないわよ」
依姫の額に、青筋が走った。
「天子!!」
初めて依姫は彼女の名前を呼んだ。
天子の髪が揺れる。髪を揺らす僅かな体の動きが証拠。
まだ、彼女に声は届く。
「……そうね。ええ、確かに私は今の一瞬お前に哀れみにもにた感情を抱いた。それはきっとその場に心が流されていたのね。我ながら情けない話だわ」
確かに、確かに成り上がりの幼き子供に突然悟りを開けと言うのもどだい無理な話だ。それを責めるのは酷だ。
だが今は違う。今の彼女はもはや幼き子供ではない。心ばかりがあの時から止まってしまっているだけだ。
だからといって彼女に天人であることを強いるつもりはない。彼女に天人であることを求めたのが依姫の失敗。
天子は、天人である前に天子でなければならないのだから。
「貴方にかけるべきは哀れみではない」
依姫はあくまで彼女を天子として、言う。
「貴方にどれだけの過去があろうと、貴方の行いが正当化されるわけではない。強欲、傲慢、嫉妬、暴食、憤怒、色欲、怠惰……これらは全て、いかなる時も等しく罪なの。そしてこれをわざとやっているというのなら、それもまた罪」
「そうね」
天子の声には色もなく、無機質で、簡潔。
「貴方は天人であれなかった。それがどうして不良天人のように振る舞う理由になる? 出来ない自分を棚に上げて、好きなように振る舞って、それで貴方はどうなるの?」
「そうね」
「出来ないから終わりにするのか。無理だと諦めれば全て無に帰するのか。貴方は、本当にそれでいいのかしら?」
「……もういい。聞き飽きた」
天子はその場を去ろうとした。
依姫が、一際大きな声で言った。
「天人らしくなくても、貴方は貴方です。なら、貴方は貴方らしくあるべきではないのですか」
天子は足を止めた。
そして言った。
「これが……私よ」
天子は振り返った。依姫と目があう。
「何? 実は素直でいい子でした〜とでも言うと思ったの? あいにく私は昔からこうよ。わがままなの。退屈が嫌いで、自分勝手なの」
「はぁ、そうですか。だがその事を"自分は不良天人だから"などというくだらない言い訳で誤魔化そうとするなッ!!」
天子は突然大声を上げた依姫に体をすくませる。
「逃げるな! 不良品だと言えば許されるとでも思ったの? それとも見放されれば楽になるとでも? 貴方自身はそれで許された気になっているのかもしれない。楽になっているのかもしれない。だがそれではまるで救われていない!」
「あんたには関係ないでしょうが!」
「逃げるなと言った! 私からも!」
依姫は早歩きで天子に近づき、その手をとる。
「あれだけ自分の勝手で私を引っ張り回しておいて今更関係ないなんて通るとでも?」
「っ……」
天子が顔を背ける。
「こっちを見なさい」
「なんで」
「私が貴方を見たいから」
「な……何よそれ」
「いいですか? 人間、いや、それ以外も、善き心のみの存在などそうはいない。だが、悪しき心のみの存在は絶対に居ない」
「どうしようもないやつが居るじゃない。ここに」
「確かにそうですね。ですが私は一つだけ知っています」
「何を知ってるって言うのよ!」
天子が依姫の目を見返す。
依姫もまた、その寂しげな目に向かって言った。
「貴方は剣術に関して天性の勘がある」
その言葉に天子が一瞬呆気にとられた顔をし、すぐに呆れに変わる。
「……期待して損した。喧嘩の腕っ節だけはいっちょ前ってわけね。それだけが取り柄で、なにをどうしろって言うのよ」
「まぁ、生憎と私はそれしか見つけられませんでしたが、それしかないと決まったわけではない」
一息あけて、依姫は言った。
「だから、私はこれから貴方を天人ではなく比那名居天子として見ようと思います。そうする事できっと見えてくるものがあるでしょう。本当の貴方自身というものが。それは時に自分自身さえ知らないものが見えたりもする」
依姫はまっすぐと天子の目を見据える。
天子は思わず目をそらした。
「馬鹿馬鹿しい。その理屈だと、私はずっとここに居ることになるわよ? あんたは私に帰って欲しかったんじゃないの?」
「いいえ? 言ったでしょう、貴方に剣を教えると。なら、私は貴方を歓迎するわ。天人だからじゃない。私の……」
依姫は言葉に詰まった。
勢いに任せて自分はなにやらとんでもないことを言おうとしていることに気がついた。
……だが、それでも依姫は言った。
「私の……その…………友達として」
それも案外悪くないかもしれない。そう思って。
天子はうつむいて、かすかに声を出した。
「…………そう」
前髪に隠れ、その目は見えない。
その次の瞬間であった。
「っ!?」
反射的に、依姫は天子から手を離して大きく後に飛んだ。
あの至近距離から緋想の剣の斬撃をかわしたのは依姫の反射神経だけではなく、うつむく天子を見下ろす際に見えた一瞬の重心の動き、そして直感によるものもあるだろう。
剣を手にし、面を上げた天子。
依姫の目をまっすぐに見つめるその目はすでに依姫がよく知る彼女の目だった。
「外しちゃった。最高の不意打ちだと思ったのに」
「……不意打ちだけで一本とれると思ったらお間違いよ」
天子がフッと笑って言った。
「台無しになったわ。この一撃ために一芝居打ってやったのにさ」
「芝居……ねぇ」
依姫は得意げな天子の顔を指さして言う。
「目端に涙の跡が見えるんだけど」
「え、演出に力を入れすぎただけよ!」
天子が目端を拭った。
その光景がおかしくて、依姫は思わず笑った。
「……笑ってる」
「え……?」
それに依姫自身が気付いたのは天子に指摘されてからであった。
依姫は自分の頬にふれた。
「……あら本当」
「あんたでも笑えるのね」
「その言い方は流石に失礼だわ」
「ごめんごめん。でも笑ってると結構かわいいわよ?」
キングクリム○ンッ!!
そう誰かが叫んだ気がした。
「か……かわ……」
「ま、待って! 今の無し! ああいや依姫がかわいくないとかそういう意味じゃなくてえーとえーとああああああ」
天子が目に見えてパニックに陥っていた。
「と、とにかく!依姫はもう少し笑った方がいいと思う!うん!」
「別に滅多に笑わないというわけではないつもりなんだけど……」
と言いつつ、そういえば確かに笑うのは久しぶりだと気付く。
第二次月面戦争の一件からすっかり気を張っていて、兎達への訓練もすっかり増えていたわけで。
(……なんだ、息抜きしてるじゃない)
今の笑みは、間違いなく天子がくれたもの。
(そうか)
これが、姉が自分に与えたかったもの。
これが、自分にとって必要だったもの。
友達。
ならば、流れで言ってしまったあの言葉にもきっと嘘はないのだ。
そう思えた時、依姫はまた笑った。
「お礼を言わないといけないわね」
その光景を廊下の角から覗いていた豊姫が、同じく覗いていた衣玖に言った。
「こちらこそ、ですね」
「おあいこでよろしいかしら?」
「ええ。きっと、あちらにとっても」
数日後、改めて天子と依姫は都に来ていた。
「やっぱいい所ね、月の都は」
「そう思って頂けてなにより」
しばらく都を練り歩いていると、やがて見覚えのある場所が見えた。
「ここは……」
「静かの海ね」
「そう、私はここから来たのね」
天子は砂浜に歩きだし、空を見上げた。
月の空に映る地球を眺めてつぶやく。
「思えばこっちに来てから結構たったわね。地上はどうなってるかなぁ」
「月と地上の時間の流れは違う。月で過ごした以上の時間が地上では過ぎているわ」
「…………」
「安心しなさい。別に浦島太郎ほどの差ははないから」
「そ、そう。よかった」
安堵する天子に依姫は問うた。
「地上が恋しい?」
「んー、ちょっとだけ。地上は地上で面白い奴が居るからね。巫女とか」
「霊夢のこと?」
「知ってるんだ。そっか、一時期こっちにいたもんね」
「確かに面白い子ではあったわね。面白いと言うより、独特言うべきかしら」
「でしょ?」
「なんであんたが得意げなの」
「友達だもん、私の」
「…………」
依姫はぽかんと。
「なによその顔。私に友達が居るのがそんなにおかしいの? というか、依姫だって私の友達でしょ」
「え、ああ、そうね」
依姫は一つ、勘違いをしていた。
天子は一人じゃない。だからあの時地上に帰ると言ったのだ。
いや、別に自分がただ一人の友達なんてポジションである事に酔っていたわけじゃない。
ただ、そこに考えが行っていなかっただけというわけで。
だが、天子が地上の誰かを友達というのは複雑なところもあった。
嫉妬? そんな馬鹿な話があるものか。
(…………)
だが、似たような話かもしれない。
依姫にとっては、天子はただ一人の友達だから。
「霊夢は貴方の理解者なの?」
「違うと思う。懐が深いのよ、あいつは。底なしにね。私にとっての一番の理解者は……依姫、かな」
「っ……」
照れくさそうに言う天子に、依姫もまたこっぱずかしくなって額を押さえた。
「あくまで予定よ。もっと私を知ってね!」
「誤解を招きそうな言い方をしない。そういえば天女の妖怪はどうなの? 彼女もすごく貴方を慕っているようだけど」
「うん。一応衣玖も。文句も言うけど気にかけてくれるもんね」
「そう。たまには労ってやりなさい」
「恥ずかしいわよ。なんだか」
「そう言わずに。きっと喜ぶわよ」
「うーん、なんか気が向いたらでいいや」
「まったく……」
そんな言葉を交わしていた時である。
海の方をみて天子が呟いた。
「……月の海の魚って飛ぶの?」
「静かの海に生命なんて……」
依姫が天子の見る方へ顔を向けた。
遠くに影が見えた。
「でもあれ、水面から出てきて……」
「…………」
依姫はとんでもなく嫌な予感がした。
次の瞬間影は消え。
「やっと見つけた」
「わひゃぁう!?」
後ろ襟をつかまれた天子の体が浮き上がった。
依姫は刀に手をかけて、気づいた。
「八雲紫……?」
「はぁ〜い、馬鹿を一匹回収しに来たの。見逃してくれない?」
紫は依姫に手を振った。
「ちょっと!離しなさいよ!」
「静かになさい。まったく迷惑をかけてくれる……」
天子が暴れるがまるで甲斐はない。
紫はスッと指で空間に一本線を引くと、そこから空間が割れて衣玖が落ちてきた。
「な、何事ですかっ!?」
衣玖があわてて周囲の状況を確認し、紫の姿を見つけた瞬間全てを悟ったように両手を上げた。
「私は無理矢理連れてこられました」
「分かってる」
「衣玖ぅぅぅぅぅぅぅぅ!? ちょっとは私のことかばってくれてもいいんじゃないの!?」
衣玖はつーんとそっぽを向いた。慕ってる……?
天子ががくりとうなだれた。諦めたようだ。
「ちぇー。いい所だったんだけどなぁ」
「勝手なことをされると困るのは私なの。次にこんな事があったら」
「いいや、ドタバタしてたし一旦帰るわ。また来るわね依姫」
「話を聞きなさい!」
「そうですか。ええ、月の都は貴方をいつでも歓迎するわよ、比那名居天子」
「…………えー」
紫が依姫の言葉に呆気にとられていた。
あの紫の貴重な唖然顔である。貴重だ。
天子と依姫は紫の表情を見て笑った。
「何かあったの?」
「いろいろ。ね? 依姫」
「ええ。いろいろ」
「むぅ……」
紫の表情は不満げだ。
「なにがあったのかは知らないけど、そっちがいいならそれでいいわよ。まったく。でも今は帰りなさい。貴方の両親も心配してるわよ」
「どうせ私の心配じゃないわよ」
「天子」
むくれる天子に依姫は声をかけた。
「これを」
依姫は懐から布を取り出す。
天子は手に取ったそれを広げてみる。
「綺麗ね。おみやげ? どうせまたすぐに来るけど」
「これを持っていれば確実に月へ来ることが出来ます。どうせまた飛んでくるのでしょう?」
「ふぅん。月って本当、便利なものが多いわね。これで料理もおいしかったら言うこと無しなんだけど」
「まったく……そんなに不味いですか、月の料理は」
「はいはいおしゃべりそれまで」
紫が会話に割り込んだ。
無粋な奴だ。
「ほら、早く行くわよ」
「もう。またね、依姫」
紫に手を引っ張られるまま、天子は手を振る。
「ええ、また」
依姫も手を振った。
「貴方の姉上にもよろしく言っておいてください。それと、これからも彼女をお願いしますね」
「貴方も」
「もちろんです」
衣玖は笑った。
天子は最後まで手を振って、水面に浮かぶ地球へ消えていった。
それを見届けた依姫もまた、綿月の宮殿へときびすを返す。
二人は在るべき場所へ帰っていく。再会の時に想いを馳せながら。
数ヶ月はたった頃。
「ただいま帰りました、お姉様」
「おかえりなさい。最近なんだか憂鬱そうね」
宮廷に戻ると、豊姫が桃を片手に出迎えた。
「そう見えますか?」
「寂しいの?」
「何の事ですか」
あの天人が帰ってからしばらく。
もとの日々に帰ってきて、稽古もちゃんと出来るようになった。
かつての天子とくれば、天子は天子で稽古時間をもうけてやったというのにわざわざ月兎の訓練に混じろうとしてきたものだ。
月兎達にもだんだん認知されつつあって、挙げ句どういう訳か依姫より慕われてる有様だった。
月兎から「天子様まだこないの?」と言われるのも正直もう飽きた。
(今頃何をしているのやら……)
「寂しそうね」
「断じてそんなことありません。友達が何ですか、所詮彼女は遠く離れた住人、そう何度も会えるものなんて思っていません」
「もう」と、豊姫は小さくぼやいて桃をかじった。
依姫は早い話拗ねていた。本人は否定するが、ようするにいつまでたっても天子が月にこないことに腹を立てていたのだ。
(実は寂しがり屋だったなんてね。知らなかったわ)
天子だけじゃない。依姫の新しい面もまた、彼女と居ることで見ることが出来るようになった。
いいことだ。姉としても喜ばしいことだと豊姫は思った
ちょうどその時である
「依姫様!」
門番兎が慌ただしい様子で……されど、どこかうれしそうな顔で部屋に入ってきた。
「どうしたの?」
「静かの海に怪しげな人影が一つと!」
「……………………」
依姫は脳裏にあの天人の顔がフラッシュバックし、思わず額を押さえる。
それで目は隠せても、嬉しそうにゆるむ口元は隠せない。
(本当、遅いのよ……)
「いってらっしゃい」
豊姫は苦笑して依姫に言った。
依姫は急くように宮殿を飛び出す。
豊姫は腰に模造刀を下げたままだとツッコミを入れたくもなったが無粋だろう。
「行ってきます!」
依姫の声には明るさが戻っていた。
天子も、依姫も、きっと変わっていく。二人の出会いがそれぞれを変えていく。
そしてそれはいい方向に。
それがいつか月の都のためにもなるように、豊姫は静かに祈るのであった。
天子のゴーゴーっぷりやボケが面白くとても良かったです
そしてこの天依も素晴らしい
ちょっと依姫が堅物すぎるきらいがありましたが(本来もっと柔軟なキャラだと思います)、天子の造形はすごくよかったです。
ただ、この話においては紫は別に登場させる必要なかったかなと思いました。
すばらしい作品を本当にありがとう。
でも天子の事をあれだけ理解してる衣玖さんより依姫の方が理解者とは・・・
まあ衣玖さんあまり踏み込んでこなさそうだから真っ直ぐ向き合ってくれる依姫の方が合うのかも?
しかし依姫というか月が真っ当に扱われてるSSなんて初めて見た、それだけでも嬉しくて泣きそう。
その間の食料もありませんし、体力的にも無理でしょう。
ですから天符「天道是非の剣」を使って天子が月に行くなんて不可能だと思います。
※幻想の宇宙は空気がある。
※妖怪は体だけは頑強。
※天人も体ばかり頑強。
神の加護を受けていない天子では月に行く前に死んでしまうと思います。
レイセン2号の場合は月の羽衣を使ったからだと思いますよ。
それにpixivのあの漫画は原作設定無視の塊ですよ。
本来月と地上は行き来がとても難しいのに
天子が簡単に且つ頻繁に行っているという内容でした。
はっきり行って有り得なかったです。
その方法だと一回につき十三キロ進まないといけません。
はっきり言って天符「天道是非の剣」一回で十三キロも進めるとは思えません
その方法では絶対無理です。
流行れ天依!
しゃァないよう分かるようにキミらの長さで教えたげるわ
13kmや
名作じゃない…