- この作品は、作品集124「ミステリーの楽しみ方」の続きとなっておりますが、
そちらを読んでいなくともほとんど問題ありません。
- この作品はミステリーですが、人が死んだりはしませんので、
そういった話が苦手な方も安心してご覧ください。
「まさかあなた、もう真相がわかったっていうの?」
目を剥いて尋ねると、魔理沙はあっさり告げた。
「だいたいな。だが真相かどうかはわからないし、何度も言うように別問題さ。もっとも個人的評価としては、肉薄してるとは思うがね」
- Ⅰ -
外の夕暮れに気づいたのは、手元の文庫本を閉じた直後だった。
赤剥けた夕焼けが、淡く自らを訴えかけている。私、アリス・マーガトロイドは、ほんの少しだけ目を細めた。
……もう夕方、か。早いものね。
首を部屋に移す。壁に据えられた年代物の鳩時計は、午後四時をかなり過ぎていた。
ん……? 四時、ということは……。
私が読書を始めたのは、朝食を過ぎてすぐのことだ。時計は見ていないけれど、たぶん八時ぐらいだったと思う。そして、我に返ったのがつい先ほど。となれば、私が何時間ここで本を読んでいたかなんて、引き算できる程度の頭があればすぐにわかる。
…………。
は、八時間……。
とりあえず、軽く頭を掻いた。
我ながら、自分の集中力には感服せざるを得ない。それはもう、呆れるぐらいの感服だけれど。
ううん、と大きく伸びをする。その弾みで、アンティークの揺り椅子が身体を揺らした。
昼食はおろか、憩いのアフタヌーンティーまで失念してしまうなんて。まったく、これほど読書に、それも小説に没頭したのなんていつぶりだろう。呆れ半分、意外な自分を見た気がしないでもない。
読んでいたのは、霧雨魔理沙から借りた文庫本だった。もっとも借りたといっても、あいつが勝手に置いていっただけなので、燃やそうが折り紙にしようが私の勝手なんだけど。
先日の一件で紅魔館から命からがら戻ってきた私は、その際負った手傷を癒すためにしばらく寝込んでいた。といっても、それほど大した怪我じゃない。頬に引っ掻かれたみたいなかすり傷がついただけだ。レミリアとやりあったにしては奇跡的な被害で、囚われていた上海人形も無事取り返すことができた。
とはいえ、頬の傷は鏡で見るとかなり目立つものだったため、この三日ほどは外には出なかった――なにせ、万が一魔理沙にでもあったら、指を差して馬鹿にするに決まっている。
この魔族の肉体ならば、二、三日もすればこんな傷は治る。人払いができるのをいいことに、ベッドでゴロゴロ過ごしていた。
そんなわけで三日目の今日、やはり三日ぶりにこのリビングに足を踏み入れた。そこで思い出したかのように見つけたのが、この本だった。
魔理沙が置いていった、推理小説。後で読んでみようかと思い、すっかり忘れていた。そして軽い気持ちで手に取り開いてみたら、あれよあれよ、こんな時間にまでなってしまったらしい。
久しぶりに読んだ推理小説……。素直に認めるのはちょっと癪だけど、面白かった。
この小説は長編シリーズものの一冊で、安楽椅子探偵のところに語り手の人物が事件を持ち込むことで始まる。ミステリとしては王道とも言える類のものだ。
今回の事件は、いわゆる密室殺人だった。私からすれば、密室殺人と聞くと、ミステリの中でも特に退廃的な分野であるという印象が強い。ミステリを久しく読まない私でも、現在において密室殺人トリックというのは使い古され、すでに独創性は失われつつあることぐらい知っている。きっとこの話も、過去に見たことがあるトリックの範疇なのだろう。ならば大して頭を使わずとも解けるに違いない。そう踏んで読み進めた。
しかしいざ謎が提示されると、私はその難解さに頭を抱えることとなった。もはや人外である私が、人間如きとの知恵比べで後塵を拝すなどあるはずがない。謎解きの手前で進む手を止め、ヒントらしきものがないかとムキになって何度か前後を読み返した――今考えれば、読了に八時間もかかったのもそのせいなんだけど。
ようやく自分の中でもっともらしい推理を組み立て、これに間違いないと意気揚々に謎解きの章へと進んだ。しかし、探偵が暴いたトリックと犯人はまったく予想外のものだった。私の推理は、初っ端にばっさりと否定された。用意周到に埋め込まれた伏線が、実は読者を煙に巻くミスディレクションだった。今にして思えば、なんてこんなことに気づかなかったのかと不思議でならない。
しかしながら、こうして読み終わると謎が解けなかった悔しさよりも、トリックの見事さに清々しさを覚える。がんじがらめだった謎が一気にほどけていく様は、まさに痛快の一言。加えて、叙述トリックの素晴らしさに巧みなストーリーテリング。もはや見事と賞賛を送るほかない。
ふう、と息をついて、椅子に身体を沈める。
頭の中には、青空の下、春風に吹かれたような清涼感が残っていた。
ボリュームの厚さが苦にならない、エンタテインメントとしての面白さ。メイントリックの素晴らしさ。読後の満足感。なるほど……これが魔理沙の言う、ミステリーの醍醐味。久しぶりに、濃密な時間を過ごせた気がする。
……たまには、感謝してもいいかしらね。あいつにも。
まあ、これだけ時間を費やしてしまったのだから、礼を言えばいいのか文句を言えばいいのかなにやらだけど。
とにかく、礼にせよ文句にせよ、この本を返す時にでもいいだろう。どうせ今日は、後で魔理沙と落ち合う約束をしている。待ち合わせは四時だったはずだから、まだ紅茶を飲むぐらい……。
…………。
四時?
「……あ」
そんなこんなで、時計から四時半の鳩が飛び出したのは、呟きが漏れると同時だった。
- Ⅱ -
「……それが遅れた理由か?」
「そんなところね」
告げられた霧雨魔理沙は、呆れるやら怒りを通り越したのやら、へらりと笑って肩をすくめた。
「十歳児でももっとマシな言い訳ができるってもんだぜ」
「あなた私の話聞いてたの? 言い訳じゃなくて、れっきとした事実なんだけど」
「言い訳ぐらいしろって話だよ。丸一時間も遅れといて、なんでそんな偉そうなんだ。少しは反省しろ」
「だから、悪かったって言ってるじゃないの」
「言ってるけど、お前は言ってるだけじゃないか」
「まあまあ、いいじゃないの。そりゃアリスも元人間なんだし、待ち合わせに遅刻ぐらいするわよ」
と、横から心の広い発言をくれたのは、博麗神社の巫女、博麗霊夢だ。といっても、彼女とはついさっき偶然玄関で会ったばかりで、私が実際に待ち合わせたのは魔理沙だけ。ようするに、そんな寛大なことが言えるのも、他人事だからなのだった。
魔理沙の方はというと、ここまで開き直られると、糾弾するのも馬鹿らしくなってきたらしい。フンと吐き捨てると、今度は据わった目を向けてきた。
「で、どうだったんだよ?」
「どうだったって?」
「わたしの貸した文庫。全部読んだんだろ?」
本の感想を求めているらしい。あー……と私は少し口ごもる。
今二人にした話は、本日盛大に待ち合わせに遅刻した理由、その一部始終なのだけど、全てをありのままというわけじゃない。久しぶりに読んだ……のくだりは、今になって気恥ずかしくなったので伏せた。というかいざ魔理沙を前にすると、素直に面白いと認めるのはなんとなく癪な気がした。
「ええと、その……まあ、悪くはなかったわ。はい、返す」
例の文庫本を取り出し、手渡す。受け取った魔理沙は、なんだかにやついた視線になっていた。
「悪くなかった、ねぇ。して、どう悪くなかったんだ?」
……しつこい奴。私は視線を外して答える。
「悪くないって言ったら、悪くないのよ。それ以上も以下でも未満でも超でもないわ」
「もはやいいのか悪いのかわからないわね」
霊夢の戯言はさておき……尚も頬に魔理沙の視線を感じる。
うう……憎たらしい。こいつは、わたしがあの本を読んだら、気に入るであろうことを踏んで家に置いていったのだ。そして、わかっていて意地の悪い質問をする。これだからこいつはデリカシーが無いというのだ。
しばらくこちらの反応を眺めて、どうやらこいつは満足したらしい。ふっと笑うと、隣の霊夢にぼそりと呟いた。
「ま、このへんにしとくか。にしても、面白かったんならそう素直に言えばいいのになぁ」
「そりゃ無理な相談じゃないの。というか、素直なアリスなんて逆に気持ち悪いわ」
どういう意味よ……と、つっかかりたかったけど、丸く収まりそうだったので我慢してやった。代わりに、お猪口をあおって口を塞ぐ。
私達がお酒を飲んでいるのは、永遠亭の一室。『旬風の間』と呼ばれる大きな一室だった。なんでも宴会などの催し物をするための部屋らしく、やたらと広さがある。見た目は簡素で、造りは剣道場にそっくり。天井も高いし……その気になれば室内サッカーもできるんじゃないかしら。
ちら、と入り口の方を見る。落語の演目立てみたいなものが立っていた。そこにはえらい達筆な筆捌きで、こう書いてある。
『八意永琳主催、第一回蓬莱山輝夜生誕記念感謝祭』。
……何に感謝するのか知らないけど、平たくいえば大袈裟な誕生日パーティーらしい。
といっても、今日が輝夜の本当の誕生日というわけじゃないという。永遠亭の主である蓬莱山輝夜は、月の追っ手から逃れるために、数百年の砌を邸内でひっそりと生きてきた。しかし、永夜の異変をきっかけに、もうすでに自分らが姿を隠す必要は無いと知った。陰気な引き篭もり生活から解放されたことで、もともと陽気だった輝夜は底抜けに明るくなったという。そんなわけで、新しい自分として生まれ変わった日ということで、この日を新たな誕生日とした。その一周年目が、今日だったというわけ。
ちなみに主催が輝夜じゃなくて永琳となっているのは、自分の誕生日会を自分で企画したら、そいつはただの寂しい奴だから、ということらしい。まあ、誕生日だなんだと勝手に決め付けたところで、結局ただ大騒ぎしたいだけというのが本音なんだろうけど……まあとにかく私達三人も、このお祭りにお呼ばれされていた。といっても、輝夜なんかに感謝する筋合いなんてさらさらないので、ほとんどタダで酒盛りをしに来たようなものだった。そういう意味では、タダでお酒を飲ませてやるから感謝しろということなのかもしれないけど。
この旬風の間には、私達を除いても七十人近い人数が集まっていた。部屋は畳ではなく木床で、お酒や料理もそのまま床に並べられている。テーブルの類がまったく無いのは、人数を鑑みてのことだろう。皆座布団を下に、気の合う者同士輪になり、自由気ままな宴会風景が広がっている。
見たところ里の人間が大半で、私のような人外は少ない。見知った妖怪は、ハクタクの上白沢慧音か、一応生物学上は人間の藤原妹紅くらいだろうか。いずれも里の人間達と談笑している。あとは、鈴仙・優曇華院・イナバとその部下の妖怪兎達約二十名――というか匹――が、酒や料理の配膳で忙しなく立ち回っていた。
もともと輝夜達永遠亭の連中は、永琳の作った薬などを里で売って生計を立てている。人間との付き合いも多いのだろう。で、これだけ人間を呼ぶとなると、あんまり危険な妖怪を呼ぶわけにもいかない。この人間と妖怪の人口の比率は、つまりそういうことらしい。
当の輝夜はというと……まあ、その辺でそれらしき笑い声が弾けているから、すでに楽しんでいるのだろう。
くちゃくちゃと口の端で乾物を咀嚼しながら、霊夢はつまらなそうに辺りに目をやった。
「にしても、感謝祭だのなんだの言っといて、結局いつもの宴会と変わらないじゃない」
同感。誕生パーティーなのに、ケーキの一つも出てこないのはどういうことかしら――まあ、幻想郷にケーキ屋なんて、そんな気の利いた店は聞いたことないけれど。
「人間だらけな分、いつもより盛り上がりに欠けるぐらいかしらね」
「退屈だってんなら、自分で盛り上げたらどうだ? お前のびっくり人形喜劇なら、皆喜ぶだろ」
魔理沙の目は明らかにこちらを馬鹿にしていたので、無視を決め込むことにした。フンと横に顔を反らしたところで……。
「っ……!?」
いきなりだった。ふいに瞬いた光が、目を焼いた。
「どうもどうも~、お歴々の方々。相変わらずシケた顔が並んでますね」
うう、目が……。いたたたた。
今の陽気な声は……。視界が眩んでいるので、発声源が誰かはわからない。
でも、挨拶代わりにこんな無礼な真似をするやつは……。思い当たるのは、この幻想郷じゃあいつしかいない。
「文。あんたもいたの」
先に霊夢に口を出された。声の主、射命丸文は、いつも以上にご機嫌な調子で答える。
「いないはずがないでしょう。わたしは新聞記者ですよ? 社会在るところに法在り。愛在るところに神在り。イベント在るところに、射命丸在りです」
「自分を愛やら社会やらと並べて例えるあたり、自意識過剰にも程があるな」
先ほどの光はカメラのフラッシュだったようだ。魔理沙も平然と会話しているのを聞くに、どうやら目をやられたのは私だけらしい――なんだか納得がいかない……。
「にしても、よくあんたみたいな危険人物が招かれたもんね。天狗なんて、危ない妖怪の筆頭みたいなもんだと思ってたわ」
どうでもよさげに霊夢が告げると、尚も文は上機嫌に答えた。
「招かれたわけじゃありませんけどね。こちらから取材をお願いして申し上げたのです。そしたらさすが、輝夜さんは寛大です。条件一つで、後は二つ返事でしたよ~」
条件を出されたら二つ返事とはいえないような気がするけど……まあ、ご機嫌なこいつに何を言っても無駄だろう。
それより、ようやく視界が回復してきた。腹立ちに任せて、強めに訊ねてやる。
「なによ、条件って」
「これです」
突然くるりと振り返り、背中を見せてくる。
私はぎょっとした。その背中は、なんだか妙に膨れていたのだ。
「風船でも入ってるの?」
訊き返す霊夢の顔は、なんだかひどいしかめっ面だった。まあ、たぶん私も似たような表情になってるんだろうけど。
またくるりとターンを決め、文はスマイルで向き直った。
「翼を畳んで、上から服を着ただけです。会に参加したいならば、天狗だと悟られないようにしてくれということでしたので。人間の方々が怖がるとかでね。やむなく、その場で処置をしました」
もうすでにそちらこちらから訝しげな視線をもらっていることを、こいつは気づいているのかしら……。この背中ときたら、どう見ても普通の人間の体型じゃない。後ろだけが餅みたいに膨れているので、余計に目立っている。
でもまあ冷静に考えて、この天狗も自分の異様さに気づかないほど馬鹿じゃないはず。気味が悪かろうがなんだろうが、輝夜が適当にオーケーしてくれたのでこれでいいと見做したのだろう。まったく、大雑把なことだ。
もはや処置無しというように、魔理沙が首を横に振る。
「そこまでやって、まったく商魂たくましいこったな。ま、最近のお前の新聞はろくなもんじゃなかったし、ネタ探しに必死なるのもわかるが」
文の新聞といえば、無論、文々。新聞のことだ。幻想郷唯一のエキサイティング新聞として、それなりに名を馳せている。
エキサイティングと呼ばれるくらいなので、読み手は情報を得るためというより、どちらかといえば娯楽的な感覚を得るために手に取ることが多い。要するに言ってしまえば、新聞としては三流だった。
魔理沙に痛いところを突かれた三流記者は、スマイルのままヒクリとこめかみを震わせた――うーん、器用なことをする。
「それは申し訳ありませんでしたね。まあ、最近はひどく平和なもので、おかげで仰るとおりネタも日照り続きでした。今日の集まりだって大した記事にはなりませんが、文句は言ってられないんですよ。近いうちに、我々の寄合いの方で新聞大会もありますしね」
「大変なのね。お疲れ様」
霊夢は労いの言葉をかけたけど、労う気持ちがこれっぽっちも無かったので火に油だった――なにせお疲れ様の後に、ヘッと余計な鼻笑いまで飛ばしてくれた。
フン、と文は一発盛大な鼻息を返す。
「ま、せいぜい取材の邪魔だけはしないようにお願いしますよ。ただでさえあなた方は有名人なんですから、スキャンダルで更に知名度を上げることになっても知りませんからね」
すっかり気を悪くしたらしく、文はどこぞの別の輪に溶け込んでいった。
ひょい、と魔理沙は霊夢の方へ肩をすくめる。
「ほとんど脅迫だったな、最後のは」
「新聞記者の風上にも置けない奴ね。マスメディアを盾にするなんて」
まあ、ごもっともなんだけど……。散々な言い様の割には、こいつらは怒らせたのが自分らだということをすっかり棚に上げている。どいつもこいつも、まったくやれやれだわ。
ま、それはともかく……。
「あんな奴どうだっていいわ。呑みなおしましょうよ」
感謝祭だかなんだか知らないけれど、せっかくの宴の席。楽しんでおかないと損というものだろう。
だな。そうね。二人も同感ということで、お猪口に酒を汲みなおす。
「……おや。無くなったか。おーい」
酒瓶の中身が切れたらしく、魔理沙はそこらに手を振って叫んだ。呼ばれた鈴仙・優曇華院・イナバが、ああんとこちらに寄ってくる。
「何か?」
「酒が切れた。次持ってきてくれ」
鈴仙の両手には、すでに大小の皿が平積みに積み重なっている。そして憮然とする視線はどうやら、そんなことで私を呼ぶなと言っていた。
「あのね。見てわからないかしら? わたしは客の世話で忙しいのよ」
「お前こそわからないのか? そのお客様が言ってんだよ。おかわりだ、お・か・わ・り」
口惜しげに睨み付ける鈴仙。まったく、かわいそうに。素直な性格の彼女が、口でこの屁理屈魔神の魔理沙に敵うわけがない。しばらく頑張っていた鈴仙だったけど、やがて盛大に溜め息をつくと奥の酒蔵へと引っ込んでしまった。「ちょっと待ってて」と、言い残して。
その寂しげな背中に、魔理沙はさらに後ろから声を浴びせる。
「なんなら、早いとこ〝アレ〟持ってきてくれてもいいんだぜ~」
……ん? アレって何のことかしら?
気になったのは霊夢も同じらしく、ぐるりと魔理沙の方に首を向けた。「ちょっと」
「ん?」
「アレってなんのことよ」
おや、とわざとらしく目を丸くする魔理沙。
「知らなかったのか? てっきり、お前らもアレが目的なのかと思ってたが」
「タダ酒飲めるから来ただけだけど」
「お前は?」
と、無礼なこいつは、人を箸の先で指してくる。右に同じ、と私は肩をすくめた。
仕方ないとばかりに、魔理沙はあぐらを組み直す。説明してくれるらしい。
「その〝アレ〟っていうのが、今日のメインイベントだからさ。気づいてたか? 今日は、まだ乾杯の挨拶してないことに」
「乾杯の挨拶?」
霊夢が訊き返す。そういえば、してなかったかもしれない。というより、私達がこの部屋に到着した頃には、すでにそちらこちらで酒盛りが始まっていたような気がしないでもないけど。
「ああ。今日に限っては最後にやるんだとさ」
乾杯を最後に行うなんて。またなんだか変わった趣向だ。この捻くれた提案も、輝夜のお遊びなのかしら。
霊夢が小首を捻り返した。「最後? なんでまた」
「それでしたら、私からご説明いたしますわ」
いたしますわ、なんて、当然こんな女らしい台詞を魔理沙が吐くわけがなく、その後ろにいた人物からだった。
八意永琳。今宵の宴の主催者は、いつもの楚々とした挙動で一礼した。
おう、と首だけで応じてから、魔理沙が告げる。
「責任者のお出ましか。そういや挨拶もしてなかったな」
「ご足労感謝するわ。今日はこんな場だけど、まあ最後まで楽しんでいってちょうだい」
フランス人形顔負けの、完璧な笑顔が向けられる。この永琳は妖怪じゃなくて人間だけど、地上の生まれではない。いわゆる宇宙人だ。千年以上生きているという話らしいけど、その割には彼女の肌は、最先端の化粧品でも塗りたくっているみたいにプリプリだった――ちっともうらやましくなんてないけど……うん。
ちなみに、霊夢はまだ首を傾げたままだった。その角度のまま永琳に尋ねる。
「それで、なんで最後なの?」
「あなたは乾杯の起源というものを知っているかしら?」
知るわけないだろ、という霊夢のむくれ面は、どうやら永琳の涼しげな顔に受け流された。
「もともと、乾杯の儀礼は紀元前の西洋から始まったとされているわ。国王の毒殺を防ぐために、毒が入っていないことを証明するために、従者らが杯を高くかかげ飲み干し、続いてゲストが干す。この習慣が共に意味合いが変化し、やがて宗教的儀礼として意味が転じてきた。生者ではなく、死者や神のために、文字通り空のグラスに祈りを注いで捧げる。今のように慶事の挨拶になったのは、それからすぐ後のことだけどね」
ふうん、と魔理沙は意外にも、考察深げに顎を撫でる。
「しかし、死者のためってことは慶事じゃなくて弔事だろう。だったらそれは、乾杯じゃなくて献杯に当たるんじゃないのか?」
確かに、言われてみれば。こいつにしては、面白いところを指摘する――というか、こいつが献杯なんて言葉を知ってるのも意外なんだけど。
「鋭いわね。そう、もともと乾杯と献杯は同義で、起源は同じだったのよ。ただ、盃を掲げる対象が生者か死者か、その違いで派生されたの」
「はあ。なるほどね。で、それがどう関係あるの?」
と、気の抜けた返事をするあたり、霊夢はどうやら話を半分も理解してなさそうなんだけど……。仕方ないので横から教えてやる。
「わからない? 乾杯は会食の初めにやることだけど、献杯は普通説法の後に行うのよ」
なるほどな。と、魔理沙。「今回乾杯を後にした理由は、乾杯ではなく献杯だからってことか」
正解。そう永琳は、察しの良さを喜ぶように微笑する。
「本日の会……名目は生誕感謝祭としたけど、本来は法要、つまり法事なのよ。こう言うと辛気臭いから、呼び方を変えたけどね。今より一年前、あの永夜の夜が終わると共に、姫様も過去の自分と決別することができた。だから今日はその一周忌なの」
一周忌……。なんだか回りくどい例えね。
でも、生まれ変わる、とまで表現するということは、もう追われる心配が無くなったという事実は彼女らの生き方を変えるぐらい、相当のことなのだろう。ただ馬鹿騒ぎをしたいだけかと思っていたけれど、本人達にとっては本当に記念すべき喜ばしい日なのかもしれない。
「なに? じゃあ、わたし達は法事に呼ばれてたってこと?」
霊夢が眉をひそめると、魔理沙が苦笑した。
「ま、そういうことだな。せっかくだから読経でもしてやったらどうだ? 一応お前巫女なんだし」
「巫女はそういう職業じゃないわよっ」
むきになって否定する霊夢。正直、私も似たようなものだと思っていた。
まあ……それはいいとして。とにかく、乾杯が後でという理由はわかった。でも、まだ肝心なことを聞いていない。
「で、アレって結局なんなの?」
訊ねたのは永琳の方にだったけど、先に横から魔理沙が答えた。
「そういや、まだ言ってなかったか。今日のメインの高級酒さ」
「高級酒?」と、これは霊夢。
「ああ。名前ぐらい聞いたことはあるだろ? 守矢神社伝統の銘酒。幻の純米大吟醸、その名も『神奈子一発』」
……えらくパンチの効いたネーミングだけど、一応私も知っている。
山の上にある守矢神社。あそこの本殿の裏には酒蔵があり、そこでは実は日本酒の酒造をしている――ちなみに外の世界だと、日本酒の無断での製造は法律違反らしい。難儀なことだ。
できた自家製の日本酒は、里の酒屋で委託販売されている。「旨い地酒造りは、良い米作りから」を信条に、原料である酒米にも責任を持つべく、室町元年より自然農法にて、酒米最高峰の酒造好適米、〝諏訪子錦〟を育てている。採れる諏訪子錦の量は決まっているので、造られる大吟醸無ろ過原酒、純米大吟醸、純米吟醸、純米などの地酒販売数量もわずか無い。注文の際はお早めに……。
……まあ、お早めだかなんだか知らないけど、そんな謳い文句が新聞の広告欄に載っていた記憶がある。
私は実際に味わったことはないけれど、守矢神社の造る酒は思いのほか本格的らしく、相当の評判らしい。中でも『神奈子一発』は、神社の主である八坂神奈子が自ら精気を込めて醗酵、貯蔵、熟成させた一品だという。数百年の桁違いの時間をかけて熟成させた大古酒で、ゆえに幻の大吟醸と評されているのだそうだ。
そういえば……魔理沙もいつだったか飲んでみたいなんてことを言っていた気がする。うちに来てカタログの写真を勝手に広げて、これだこれ、とはしゃいでいた。真っ黒な黒瓶に、でかでかとした丸い黄金のラベルシールだった。そんなえらいけったいなデザインだったので、よく覚えている。なんでも噂では、一口すれば、脳天から一発柱でも喰らったような鮮烈な衝撃が舌の上を云々……。
「何それ。頭の悪そうな名前ね」
……霊夢は知らなかったらしい。いつものことだけど、こいつはいちいち無知にも程がある。
「ま、後のお楽しみってわけだ。乾杯の時に飲めるって聞いてたんだが?」
そのまま魔理沙は永琳に問い返す。
「その予定よ。といっても、一升瓶で一本しか手に入らなかったから、悪いけどあんまり期待はしないで頂戴」
一升瓶一つ分ということは……ここには七十人近くいるから、全員に行き渡らせるとなれば、一人頭はせいぜいお猪口一杯分程度のものだろう。確かに、あまり期待しない方がよさそうだ。
ちぇっ。と、そうぼやきつつも、それくらいのことは魔理沙もわかっていたらしい。さして残念そうでもなく笑う。
「いやしかし、本当に手に入れてくるとはな。なにせ数百年ものの幻の吟醸だ。一本だけにしても、実際入手できたのは奇跡に近いぜ。一体どうやって調達したんだ?」
「あら。やっぱりアレ、なかなか手に入らないものなの?」
「ちょっと前にわたしが探した時は、幻想郷のどこの酒屋にも置いてなかったぜ? ついでにどこも入荷は未定だった。できれば、どこでどうやって仕入れたか参考にさせてほしいんだが」
……まったく、今訊くことかしら。現金な奴。
でもまあ、こいつもずっと前から探してたお酒らしいし。気が逸るのも当然なのかもしれない。
しかし訊かれた永琳の方は、なぜだかうーんと軽く唸った。
「里の酒屋から買ってきたって言ってたけど……実際探したのはうどんげだから、わたしはよくわからないのよね」
「店に売ってないんなら、直接守矢神社で買ったんじゃないの?」
霊夢が横から口を挟むと、即座に魔理沙が切り返す。
「あそこは委託販売しかしてないんだよ。神社で直接販売すると、ひっきりなしに客がきて対応できないらしくてな。わたしも以前直接かけあってみたが、えらい剣幕で追い返されたぜ。最後には柱まで投げつけられた」
そいつは災難だこと。あそこが委託でしか酒を売っていないのは、私も知っている。私はその件で訪ねたことはないけれど、直接かけあっても絶対に売ってもらえないらしい。なにせ、あそこには住人が三人しかいない。どう考えても手が回らないから、そういった制限を加えるしかなかったのだろう。過去に何かトラブルでもあったのかもしれない。どうでもいいけど。
ふうん、と永琳はさして驚いた様子も無く告げる。
「そうなのね。じゃあ、あの娘も結構大変だったのかしら。なにせ姫様が、誕生日なんだから物に糸目をつけるなって譲らなかったからねぇ。うどんげには、持ってくるまで屋敷には出禁って命令したのよ。それがつい昨日の話」
出禁って……一応自分の家なのに。ムチャクチャじゃないの。
永琳は平気で笑っているけれど、命令された鈴仙からしたらたまったものではなかったろう。幻のお酒を見つけるまで、家の敷居をまたがせないなんて。本人がどれだけ苦労をしたかは知らないけれど、話を聞いていると同情したい気が湧いてこないでもない。
ふ~ん、と横で魔理沙が鼻を鳴らす。「昨日の話ってことは、一日で探し当てたのか?」
「そうそう。ハードル上げといて正解だったわ。くすくす」
「そりゃ凄いな。じゃあ、後で本人に訊いてみるかな」
こいつはこいつで、すっかり他人事らしい。ますます鈴仙が救われないわね……と、同じく他人事していたところで、当の本人が戻ってきた。
先ほどの魔理沙の注文通り、小脇に一升瓶を丸ごと抱えている。こうして見ると、なるほど確かに、トレードマークの長耳が賞味期限切れのネギみたいにくたびれていた。
「あ……師匠。こちらにいらしたんですか」
「お疲れ様、うどんげ。よく立ち回っているようね」
はぁ、と嘆息して鈴仙は瓶を置く。
「てゐの兎達が全然使えなくて……。自然とわたしに皺寄せがきてるんですよ。正直指示だけで手一杯なのに」
永琳はふうん、と少し考えるように、顎に人差し指を添えた。
「人員は調理担当に割いてるからねぇ。まあ、見た感じちゃんと回ってるから、問題無いんじゃないかしら。宴が終わるまでの辛抱だし、任せたわよ」
鈴仙は、任せられたというより見放されたような顔をしていた。かわいそうに――まあ……何よりかわいそうなのは、肝心の永琳が毛ほどもかわいそうだと思ってないことだけど。ああかわいそう、かわいそう。
「あ、それと。例の酒はきちんとまだとっておいてあるわよね? 兎が間違えて出しちゃったりしてない?」
「『神奈子一発』ですか? 大丈夫ですよ。あのお酒の瓶はラベルがえらい目立ちますし。酒蔵は薄暗いですが、いくらうちの兎が馬鹿でも、間違えやしません」
鈴仙は視線で、ちらり、それらしき場所を示す。広い室内の隅っこに、申し訳なさげに扉の無い入り口が見える。酒蔵とはあそこのことだろう。今もお酒を持った兎達が、ひっきりなしに出入りしている。
「あと……それに、買う時に酒屋の店員さんに言われたんです。保存の際は、日の当たらない冷暗所に置いてくださいって。紫外線は日光だけじゃなく照明から出ている場合もあるそうですので、ずっとあそこに置いてあります。酒蔵は灯りの類は一切ありませんから」
確かに、入り口しか見えないけど、中は薄暗いことがわかる。日本酒に紫外線が悪いということは私も知っていたけど、念入りなことだ。数百年も熟成した古酒という話だから、状態もデリケートなのだろうか。
「冷暗所、ねえ」
……なんだかわからないけれど、魔理沙はにやにやしていた。
ったく、気持ち悪い奴。なにが面白いのだろう。こいつはときたま、何が面白いのか一人で笑っている時がある。それが傍目にもよくわからないタイミングなので、私はかねてから、こいつを多幸症の気でもあるのかと疑わないでもなかった。
「あんたは何笑ってんのよ」
にやにや、尚もにやつきながら、「お前さ、『神奈子一発』って見た目どういうのだったか、覚えてるか?」
「見た目? 確か、黒瓶でしょ。その上に、金ぴかの派手なラベルが張ってあったのは知ってるけど」
「なんだ、ほんとに覚えてたのか。じゃあ、黒瓶ってのはなんで黒いのか、当然知ってるよな?」
「悪いけど、私は洋酒派なの。日本酒なんて数えるほどしか口にしたことないわ」
「ふうん。そりゃ、人生の三割は損してるな。同情するぜ」
「勝手に同情してんじゃないわよ。結局何が言いたいの」
「別に。というか、日本酒に馴染みが薄かったとしても、訊かなくてもわかるはずだけどな。少し考えれば」
……ああそう。相変わらず、嫌味な言い方だこと。
訊いて損した。少し考えればわかるらしいけど、言われるまま考えるのも馬鹿らしい。というか、癪だわ。
二人の会話に目を戻す。にこり、と永琳が微笑していたところだった。
「そう。まあ、それなら心配無いわね。宴が終わるまでの辛抱だし、任せたわよ」
ポン、と鈴仙の肩に手が置かれた。傍からみれば労っているように見えるけど、要はつべこべ言わずに働けということらしい。ほんと、かわいそうかわいそう。
置かれた肩をがっくりと落とすと、鈴仙の背中は、また気持ち一回り小さく見えた。そんな背中に……よせばいいのに、魔理沙は容赦なく声をかけた。
「ヘイ。お前が仕入れ担当なんだってな。どうやってあの酒を手に入れたんだ?」
あん? と据わった目で鈴仙が睨む。ほとんど徹夜明けの迫力だった。
「なんであんたなんかにそんなこと教えなきゃならないんですか。筋合いが無いわね、筋合いが」
「そりゃ無いかもしれんが。だが、別にいいじゃないか。今日は宴、それもお前のご主人様のめでたい日だろ。そのためにわざわざ集まってやったお客様に、尽くす誠意ってものはないのか?」
「忙しいので。では、ごゆっくり」
誠意どころか、ハンと一発悪意に満ちた鼻笑いをして、鈴仙は去っていった。
「なんだあいつ。兎のくせに、根暗な奴だな」
ひょっこり肩をすくめる魔理沙。まあ、あれぐらいで鬱憤が晴れたとも思えないけれど。去り行く鈴仙の背中はやっぱりなんだか涙を誘うようで……――というか、あれだけこき使われちゃ、主人の誕生日に感謝する気もおきないんじゃないかしら。
そんな背中を見届けると、くるり、と永琳がこちらに向き直る。
「そういうわけだから、最後までゆっくり楽しんでいってくださいね。料理もお酒も、好きなだけ食べていって構いませんから」
「ありがとう。せっかくだし、楽しませてもらうわ」
「それと、もうわかってると思うけど、物が欲しい時はその辺の兎達に言ってね。酒蔵に直接行っても、そもそも関係者以外入れないから。代わりに料理でも何でも、大概は言うことを聞いてくれるはずだから。こいつらを遠慮なく使っちゃって」
「そうさせてもらうぜ」
酒瓶を手に取り、魔理沙はフリフリと左右に揺らして了解する。確認すると、永琳は微笑のまま席を離れた。
「楽しんでいってください、ですって。法事に来てそんなこと言われたの初めてだわ」
呆れたように、霊夢が苦笑する。まったくもって同感だ。そこそこ愉快な冗談に、三人でくすくすと笑いあう。
ひとしきり談笑したところで、さて、と魔理沙が切り出した。
「来るものも来たことだし、続きといくか」
そのままお銚子に酒を移すと、三人分のお猪口に注いだ。それぞれ全員の右手に行き渡り、霊夢が魔理沙に提案する。
「でも、やっぱり乾杯から始まらないとしまらないわよね。わたし達だけでも初めにやっとく?」
「だな」
うん、と私も頷く。頷いたところで、一つ気になって訊ねた。
「何に乾杯する?」
「そうだなぁ……」
小首を捻る魔理沙。その首が水平に近づいたところでようやく、「じゃあ、アリスの遅刻に」
がく、と私は前につんのめる。
「なんでそうなるのよ……」
「今日のは一応、乾杯じゃなくて献杯なんだろ? すなわち、死者、過去の事柄を荼毘に付すための酒だ。この献杯で、お前の失態も水に流してやろうって言ってるのさ。不満か?」
にやにや、いつもの意地悪な笑顔が向けられる。
まったく……。本当にこいつは口が達者なんだから。
「……わかったわよ。好きにすれば?」
「んじゃ、決まりだな」
お猪口を軽く掲げる。霊夢も私も、それに習った。
「アリスの遅参を祝して、乾杯……もとい、献杯!」
杯と杯が触れ合う小気味よい音色が、私の気分を昂揚させた。
*
「……だぁーかぁーらぁー。従来の力学的魔法体系じゃ、出力の規定閾値に限度があるわけ。何度も言ってるじゃないの」
「あ~? そりゃこっちの台詞だっての。お前は魔術方程式が理解できないのか? 八卦路の計算式は二乗の逐次処理。座布団ぐらいの大きさのものなら、成層圏突破なんてわけないってんだ」
フン、と魔理沙はそっぽを向く。
ああ、駄目だ。この出力馬鹿はわかってない。本当に、何もわかっちゃいない。
この私がこんなに言っているのに。こんなに言っているのに……。
あれから三時間近くが経っていた。宴も佳境に差し掛かってくるにつれ――あるいは酒がまわっていくにつれ、私と魔理沙のどうでもいい議論もヒートアップしていった。
つい今も、魔法でロケットを月まで飛ばすならばどうするかという議題で喧々諤々としていた。どういう経緯でそんな話になったのかは、ちっとも、さっぱり、これっぽっちも覚えていない。どうでもいいことなのはわかっているのだけれど、酒の勢いも手伝って引き下がる気は起きない。お互いほとんど呂律が回っていないのも、まるで構わなかった。
……ちなみに、霊夢は早々に潰れてしまった。今はそこでへそを出して転がっている。
「くだらないわ。だいたい前時代的にも程があるのよ。八卦路なんてあんなもの、要素の抽出と魔力の筋道だけ見ても、何一つ特徴的な波形が感じられない。よくあんな旧石器レベルの魔導具使ってられるわね」
「よく言うぜ。お前の魔法なんてただのびっくり人形喜劇じゃないか。そんなんで喜ぶのはその辺のガキだけだぜ」
「やれやれだわ。科学に疎い奴ってかわいそうね。ただ糸で繋いだ玩具なわけがないでしょ」
ずい、と顔を近づけてやる。
「いい? 聞きなさい。あれは私の魔力を媒介に神経系を通して、より高次的な処理のもと支配下に置いているのよ。魔力と動力が密接に絡み合いながら発生する複雑系。それ自体がマルチなフラクタル的世界観を構築し、有機生物の脳波に酷似した特徴的な波形を生み出す。この状況下に限定すれば、人形はいち生命体と科学的に同義といえる状態にシフトするの。ただの無機物に、前頭葉と後頭葉フィードバック回路の賦活と同等の、逆説的に精神運動興奮が認められるのよ」
「フラクタル? フィードバックだと?」
ケッ、と魔理沙は吐き捨てる。
「日本語で言えってんだ」
「貧弱な語彙力を棚上げしたいだけでしょ、あんたは」
「クソくだらない恋愛小説しか読まない奴に語彙がどうたら言われたくないね」
「なによ」
「なんだよ」
凄んでくる魔理沙。負けじと睨み返す。ほとんどキスでもしてしまうような距離で、額をこすり合わせた。
このわからず屋め。あんたが引き下がれ。あんたが。あんたが。あんたが……。
…………。
……ハァ。
疲れた。
「……やめようぜ。体力の無駄だ」
「そうね……。正直もうどうでもいいわ」
ほとんど同時に、お互いぐったり身体を戻す。
まったく……さっきから、ずっとこんなことの繰り返しだ。
どうしてこうも、私と魔理沙は反りが合わないのだろう。なにか決定的に、噛みあう事のない星の下にある気がする。
ちらり、と横目で魔理沙を見やる。
……本心じゃ、こいつのことはそんなに嫌いじゃないとは思う。たぶん、思うのだけれど……。酒が入っている時ぐらい肩でも組んでよさそうなものなのに……。
でも逆に言えば、こんなふうに感情を露にしてムキになれるのも、こいつぐらいのものかもしれない。そういう相手がいるというのは、まあなんていうか、きっと悪いことじゃないのだろう。
なんて……ね。
我ながら、変なことを考えてしまった。柄じゃないにもほどがある。
どうやら少し、飲みすぎたみたい……。
「……だよな」
ぼそり、と魔理沙が何かを口にした。
「え? なんか言った?」
「平和だよな。なーんか最近、さ」
どこかの天井を、なんともつかぬ面持ちで仰いでいる。台詞だけ聞けばなんだか感慨深いけれど……こいつの発言は、平和であることが不満みたいな口ぶりだった。
「平和で結構じゃない。なにがいけないのよ」
いやいや、と魔理沙は苦笑する。
「なにもわたしは、平和な幻想郷に虫唾が走るなんてことは言ってないさ。これでも、平穏の価値は知っているつもりだしな。でも、やっぱり退屈なんだよなー。何も起こらないってのは」
……結局それなのね。私は溜め息をつく。
「なによ。また事件が起きてほしいとか言うの?」
「またっていうか、わたしは常にそうなるよう願ってるぜ? 一日六回。食前食後に欠かさずな」
「あなたみたいなのを犯罪予備軍っていうのよ」
「お前に言われんでも、現実ぐらいわきまえてるさ。とはいえ、いい加減部屋でミステリを読んで過ごすのも限界でさぁ」
「結局その話じゃないの。前と同じね」
「だからさー。もう家のミステリーも読みつくしたし、だから最近は妄想してばかりなのさ」
「妄想~?」
声色を捻りあげてやると、魔理沙はムッと睨み返す。
「何だ、その病人でも蔑むような目は」
「違うの? 脳の病の大半は器質的なものらしいわね。大変だわ」
フンと魔理沙はそっぽを向く。だけど酔いがまわっているせいで、横からぶん殴られたみたいな勢いだった。
「お前は都会派魔法使いを気取る割には偏見に満ちてるんだよ」
「いやね。冗談なのに」
「その冗談が悪質って言ってるんだぜ」
こいつはアルコールが入ると、ご覧の通り、ちょっとからかうだけで拗ねるようになる。いつもはどちらかというと私がからかわれる事が多いので、ついつい口出しに調子が乗ってしまう。これだから、お酒の席は楽しい。
「で、何を妄想するの?」
「もういいよ、別に」
覗き込まれた魔理沙は、顎を立てて視線を拒否する。ぷっ、と私は噴きだした。
「やだ、怒った?」
「……わたしが怒ってるなんてことは、わたしにしかわからんはずだが?」
「んなこと言って、顔が赤いじゃない」
「酒のせいに決まってるだろ」
「蛸みたいね。茹でた蛸。八本足」
「ああもうしつこいな。誰が蛸だ」
魔理沙は蝿でも追っ払うみたいに腕を振った。そんな仕草もまた子供っぽい。
「ったく、こんな酔っ払いと同席なんかするから、せっかくの酒もただの水だぜ」
「あなたも酔っ払ってるんだから、他人に文句言える立場じゃないでしょ。いわば同罪ね」
だからもういいって。そんな具合に魔理沙は肩を落とす。
「妄想ってのはだな……。まあ大したことじゃない。この前やった、ゲームみたいなことさ」
ゲーム……というと、記憶に新しい。
それも当然。つい三日前のことであり、私が魔理沙のミステリを読むきっかけでもあった出来事だ。
新聞の一文から、どれだけの事を推理できるかというゲームをした。推理ゲーム――というか、今考えればほとんどムチャ振りだったのだけれど、魔理沙は客観的な論理と推理の構築だけで、よもやの真実まで辿り着いてみせた。まあ出来事というほど何か起きたわけじゃないけれど、私はちょっとばかり驚かされたのだ。
あの時は、こいつの意外な才能に少しばかりびっくりしたけれど……。でもあの一回だけでは、ただのまぐれということも捨てきれない。
もし、またあんな推理をして見せたなら、あの才能を信じてもいいかもしれないけど……。
「あん? どうかしたか?」
ふいに、魔理沙の赤ら顔がこちらを向く。なんだか心の中を見透かされたようなタイミングだったので、私は思わず顔を背けてしまう。
「なんでもないわよ。で、なに。また新聞でも読んでるっての?」
「まあね。でもろくなことが書かれてないし、それもすぐに飽きたからさ。いろいろ応用を利かせてるのさ」
「応用?」
また変なことを言い出してからに。一体、なんのことだろう。
「ああ。あらゆる物事、事象に意味を求めるとすれば、究極的には〝そこに在る〟というだけにすら意味を求めることができる。言ってしまえば、その辺に転がっている石ころにだって当てはまるわけだ」
「つまり、その石ころがそこに落ちているのにも、なんらかの理由があるってこと?」
頷く代わりに、魔理沙はくい、と満足げにお猪口を傾ける。
「そして理由がある以上、痕跡が残る。因果は道をつくるのさ。物質的なものか、状況的なものか、精神的なものか……そしていずれも必然的だ。明らかなことさ。でも……」
今日はいつになく饒舌だ。いつも飄々として口が達者な魔理沙だけど、こんな哲学染みた持論を語るのは珍しい。いつもなら、ここらで横槍でも入れて馬鹿にしてやるところだけど……なんとなく、今チャチャを入れるのは無粋な気がした。
「……でも?」
少しだけ、神妙に聞き返してみる。
「この前みたいな、なかなか面白い素材は無くてね。推論……もとい、妄想のし甲斐が無いっていうかさ」
それはそうだ。なぜなら、こいつは本気で信じちゃいないだろうけど――先日の一件は事実に基づいているのだから。あんなことがそうそう起きる世の中だったら、そもそもこいつは退屈だのと嘆いたりはしない。
「でも、推論には違いないでしょう。論理的に考察することはできるんじゃないの?」
「ん。そりゃあ、できるよ? でもやっぱり素材は重要だよ。ありふれているものばかり考察しても、面白くない。石ころのルールなんぞ推測してもつまらないだろ。やっぱり、その辺は推理小説も同じだよな。作品の良し悪しってのがあると思う」
くい、とお猪口を傾ける。ぷはぁとたっぷり息を吐く様は、見ているこちらが気持ちいいくらいだ。
追懐するように、魔理沙は視線を虚空に置いた。
「その点、この前の新聞記事はよかったな。やっぱり石ころじゃなくて、出来事や状況じゃないと論理は働かない」
「呆れた。だから事件が起こって欲しいなんていうのね」
そうさ。そう魔理沙は臆面も無く、むしろ胸を張るぐらいに堂々と語る。
「だからわたしは、ミステリに出てくる探偵は皆幸せだと思うね。労せず最高の素材に巡りあえて、おまけにご丁寧に、解答とそれに辿り着くための証拠の存在が約束されてるんだから。やつらはまったくもって恵まれてる。羨むばかりの境遇ってやつだぜ」
最後に、冗談めかしたように肩をすくめる。つられて、くすくす。私も笑ってしまう。
言い分はわからなくもない。推理小説の謎は、パズルと同じだ。謎を解くピースと、ピースを組み合わせることで出来上がる最終形が用意されている。求められるのは出来上がるまでの過程の解法だけで、それすらも最後には探偵の口から語られてしまう。
何もかもが、嫌になるほど思い通りにならないこの現実となんて、秤にかけるまでもない。つまりはそういうことなのだろう。そういう意味じゃ、同感しなくもないけれど……。
「馬鹿ね。推理小説の探偵が、皆が皆喜んで事件を解決してるわけじゃないでしょ。巻き込まれたり、偶然そこに居合わせたり。あるいは自分の命がかかっていたり。そんな状況下で、いやいや推理する探偵も多いでしょ」
「もちろんその通りさ。それでも、わたしは羨ましいね」
……ふうん。やっぱり、珍しいわね。
いつも飄々とした魔理沙が、こうもきっぱりとものを語る。お酒が入っているとはいえ、普段はないことだ。
もうそれなりに長い付き合いだからだろうか。魔理沙の言葉が本心であることは、なんとなくわかる。そして、こいつが今何を考えているかも。
とどのつまり……こいつは憧れているのだ。物語の主人公に。推理小説の探偵に。
でも、現実は作り物とは違う。例えあらゆる超常が日常としてまかり通るこの幻想郷に至っても、それは変わらない。
当然、魔理沙も重々承知している。だからこそ、こいつの言う妄想という手段で紛らわせようとする。
…………。
くす、と私は笑みを漏らす。
「そういうことなら、わかったわ。いい方法がある」
「いい方法?」
魔理沙は眉をぴくりと動かす。私は頷いた。
「ええ」
「急になんだよ。まさか、お前が事件を起こしてくれるってんじゃないだろうな?」
ハハハ、と魔理沙は笑う。私もつられて笑う振りをしたけど、実際にすでに少し前に本当にやらかしてしまった身としては、さすがに心からというわけにはいかなかった。
まあ、それは置いといて……。
「あなたが現状に物足りなさを感じているのはね。現実を現実として扱っているからよ」
「ほう?」
こちらが真面目だということを察したのか、魔理沙の目にも少し興味の光が宿る。
「お前がそんな抽象的な言い回しをするのは珍しいな。して、それはどういう意味だ?」
「わかりやすいのが好みなら、簡潔に言ってあげる。あなたはただ、想像して、論理を組み立てるだけに留めているからなの。推理小説は、それだけじゃないでしょう?」
あんまり簡潔には聞こえなかったらしい。魔理沙は訝しげに片眉を吊り上げる。
「何が言いたい?」
「あなたこの前、言ってたわよね。ミステリーの楽しみ方は結果ではなく過程であって、推理すること自体が醍醐味だって」
一瞬、魔理沙は目線を右上にさまよわせ、「言ったかな、そんなこと」
「言ったのよ」
ここはふざけるところではない。一発睨みつけてやると、魔理沙は軽く首をすぼめた。
「悪かった。だが、それがどうしたんだ?」
「それって要するに、究極的に言えば、推理小説には答えは必要無いってことよね?」
「そうだよ」お酒を口にしながら、魔理沙はこともなげに答える。「実際わたしはそう思うね」
「どうして? 正解が無いとすっきりしないじゃない」
「正解なんてものはつまるところただの結果であって、価値があるかは別問題なのさ」
「価値?」
「そう、価値だ。ミステリーにおける価値は、答えじゃない。〝謎〟そのものさ。mysteryの名の通り、未解明、不可解、謎の事柄であることに価値があるんだ」
「それは、そうかもしれないけど……」
「正解っていうのは真実。真実は、唯一無二のものだ。つまりいくら推論を展開させたところで、正解を知った時点でその広がりは帰結する。答えなんてなければいくらでも思考できるのに、正解があるというだけで、他の全てが否定されてしまうんだ。例え推論の方が、正解よりも素晴らしい場合でもな。わたしはその帰結ってやつが好きじゃなくてね。実際、この書斎にある本棚。一つはミステリ専用の棚だが、そこには完結の部分だけ未読の作品が少なからずある」
「謎解きの部分を読んでないっていうの?」
「そうだって言ってるだろ」
呆れた。何度も推理を楽しむために、わざと解答パートを読まないなんて。
本当に、こいつは筋金入りのミステリマニアなのね……。
「でも……答えがわからないなんて」
「人間ってのはすべからく、謎ってものに惹かれるもんさ。最終定理がなぜ、三百六十年もの間挑まれ続けていたかわかるか? それは、答えが見つからなかったからだ。見つからなかったってのは、単に難易度の事を言ってるんじゃない。本当に、解答の所在が定かでなかったからなのさ。解答が用意されているのか、あったとしてもそれが本当に正しいのか偽なのか。それすらもわからないからこそ、星の数ほどの数学者達を魅了したんだ」
魅了……ね。まあ、言いたいことはわからなくもないけど。
実際、ミステリというジャンルで、最終的に答えが明示されない作品はたくさんある。それはつまり、魔理沙のように解答よりも過程がミステリの本質であると考える人々が少なからずいるからだ。
だけど……。
「そう。よくわかったわ」
私は一度言葉を切る。
「でも、やっぱり私には難しいかな。そういう楽しみ方は」
「なんだって?」
魔理沙は目を丸くする。傍目から見て、大袈裟すぎるぐらいに。
「だって、私はあなたみたくミステリを読めないから。あなたに借りた本を読んで、余計にそう思ったわ。いくらページを手繰って読み返しても、自分だけじゃ解けない謎もあったわよ。そういう時は、やっぱり、なんていうのかしら。わからないことが、苦しいって言えばいいかな。もどかしくなって、どうしても先に答えが気になっちゃうの」
考えてみれば、当然だと思う。私が話しているのは一般論だ。
誰だって、決して答えの用意されていない問題に、理不尽を感じないはずがない。私だって、推理小説を読んでいよいよ謎解きの章のところまできて取り上げられたら、その日は真相が気になって眠れないだろう。
「もちろん、推理すること自体は楽しいわよ。でもやっぱり、問題があってそれに挑んだなら、答えを知りたくてたまらなくなるものじゃない?」
珍しいことに、魔理沙は大人しく人の話に耳を傾けている。その様子を横目で伺いながら、続けた。
「だから、この現実でも同じ。あなたもたまには、その正解にも目を向けてみるのよ。それが、私の言いたかった方法。要因と結果が因果で繋がれている以上、現実にも正解は必ず存在するでしょう? だから帰結じゃなくて、目指すべき目標として、常に在り続けなければならないのよ。言わばシンボルね」
「それが……お前の楽しみ方ってわけか」
「まあ、そうね。私のっていうか……全ての人にとって、それぞれ楽しみ方ってあると思うのよ。だって、誰もがあなたみたいに推論を組み立てられるわけじゃないもの。過程じゃなくて、結論の意外さ。結果の素晴らしさを楽しむってことも重要だと思うわ。机上論はそもそも何の為にあるかっていうと、よりよい結果を模索する為でしょう? 結果、すなわち現実という、顕在化された世界よ。ときに空想から現実に逸脱する可能性があるからこそ、机上論は机上論足りえる。私はそう思うわ」
ちらり、と目配せしてみる。
魔理沙は……たぶん、驚いているのだと思う。身じろぎせず、手元にあるお猪口を――あるいは、水面に切り取られた自分を――凝視している。
少し、言い過ぎたかしら……。
お酒のせいで普段言わないような、小難しいことまで語ってしまった。でも、前々から自分なりに思っていたことではある。魔理沙の意見の全てを否定したいわけじゃない。現実を舞台に机上論を展開するとしても、まったく切り離して考えるには限度があるのだ。
だから、こいつも……考えることだけじゃなくて、考えた結果を追い求めるようになれば。あるいは、こいつにとっての新しい境地が見つけられるかもしれない。ミステリに対する考え方も、少しは広がるかもしれない。そう考えるのは、私のわがままなのだろうか。
やがて魔理沙は、小物でも置くみたいに、ぽつりと呟いた。
「そうか。少々押し付けがましかったかな」
ふいに表情に影が差したような気がして、私は慌てた。
「そのっ、違うの。あなたの価値観を否定したいわけじゃない。ただ、こういう考え方も、私みたいにミステリに不慣れな人の楽しみ方もあるってことが言いたくて……」
気づくと、魔理沙がこちらをじっと見つめていた。
はっと、顔の皮膚が一気に充血していくのを感じる。
……しまった。あまりに慌てて訴えたので、気を使ったのが丸わかりだ。
唐突に、魔理沙ははじけるように笑い声をあげた。
「よもやあのアリスが仏心起こす日が来るとはっ。明日の天気が雪だったら、まちがいなく原因はお前だな。だいたい、顔が真っ赤なのはどっちなんだよ」
ううう……。こ、こいつ……。
は……はずかしい。消えてなくなりたい。なにもこいつも、そんなに笑うことないじゃないの。お腹を抱えてまで……。
「いいわよ、もうっ。勝手にしたら」
嫌気がさした。付き合ってられない。
席を立とうとしたところ、ぐいとスカートの裾が引っ張られる。
「待てって。悪かったってば。そう怒るなよ」
怒るな。そこにまたカチンときた。
「怒ってないわよっ」
「顔が蛸じゃないか」
「蛸かもしれないけど怒ってないのっ」
「怒ってないって言う奴はたいてい怒ってるもんさ」
魔理沙は涼しげだった。「まあ座れよ」と、手で促すと、無理やり器を持たせてお酒を注いでくる。
「噴気だろうがなんだろうが、アルコールで蒸発できないものはないからな。それに、もう宴もいい時間だ。ここで帰っちゃ最後の献杯ができないだろ。あの酒が飲めないのはもったいないぜ」
ぬぬぬ……。なんだか納得がいかない。
でも、ここでまた席を立ったら、やっぱり怒ってましたって言うようなものだし。
なにより……こういう魔理沙の笑顔は、どういうわけか憎めないからまた腹立たしい――憎めないから腹立たしいというのも妙な話だけど。
「調子のいいことを言わせたら幻想郷一よね。あんたって」
元の座布団に着席すると、器を魔理沙の手からひったくる。
「一番であることに越したことはないよな。何事も」
楽しげに魔理沙は笑う。私も思わず表情をゆるめた。
まったく……。
でも、結局……私の提案はうやむやになってしまった。
だけど、もう今の魔理沙には、さっき一瞬差した影は見当たらない。どの程度聞き入れてくれたのかはわからないけれど、とりあえずはこれでいいのかもしれない。
魔理沙は目頭を抑えていた。笑ったはずみで、目に涙が溜まっていたらしい。
「でも……まあ、そうだな。たまには、悪くないかもしれないな」
「えっ?」
悪くないって……。
「参考にさせてもらうってことさ。今後にね」
「参考……?」
それって、どういう意味……と、そう続けようとした時だった。
ふと気づく。直後の魔理沙の視線が、何か遠くの一点をとらえていた。
*
「どうかした?」
訊きながら、同じ方角へ首を向けてみる。
あれは……。
部屋の隅っこだった。人だかりを回避するように、そこにいたのは……鈴仙と、永琳だ。
二人は並んで立って、何かを話して……いや、話しているというよりは、人目を気にして密談しているように見える。
ここからだと永琳は背中しか見えないけど……。でも正面の鈴仙はどういうわけか、悲痛な顔でペコペコ頭を下げていた。
「何あれ?」
さあ? と魔理沙は首を傾げて返す。
「ま、宴だってのにちっとも楽しそうな雰囲気じゃないのは確かだな」
鈴仙はひたすら平謝りしている。あの頭の下げようからすると……何かヘマでもやらかしたのかな?
「客に料理でもぶちまけたのかしらね」
「いや、だったらもう少し騒ぎがあってもいいはずだ」
……冗談のつもりで言ったのに。何こいつは真顔で返してんのよ。
これじゃ、私だけが馬鹿みたい……と、そうこうしているうちに、二人が場を離れるのが見えた。
ちょうど永琳がこちらに向かってくる。そのまま通り過ぎようとしたところを、魔理沙が呼び止めた。
「よお。なんだか浮かない様子だったな。なんかあったか?」
こちらに目を留めるや、ああ、と溜め息ともつかない声を漏らす。
「後でどうせわかることだけど、あなた方には先に話しておこうかしらね」
あれま。どうやら、本当に何かあったらしい。
「どうしたの?」
永琳は基本ポーカーフェイスだ。だから表情こそ変えなかったけど、残念そうな声色で告げる。
「言いにくいんだけど……ごめんなさい。さっき話してた、神奈子一発なんだけど。あれ、出せなくなったみたいなの」
私たちは顔を見合わせる。先に魔理沙が口を開き、「出せなくなった?」
「ええ。〝無くなった〟のよ」
……無くなった?
どういうことだろう。私は尋ねた。
「何かあったの?」
「何かあったというほどじゃないわ。手違いで、うちの兎が間違えてもうお客に出しちゃったらしくて」
あれま。
「本当にごめんなさいね……。せっかく楽しみにしてきてもらったのに」
楚々とした挙動で、永琳は慇懃に頭を下げる。
うーん……確かに、残念。幻って聞いたから、ちょっと口にしてみたかったのに。
噂のお酒を飲めないのはがっかりだけど……手違いならば仕方が無い。これだけ丁寧に詫びられれば、頭ごなしに罵倒するわけにもいかないし……。
ちらりと隣の魔理沙を窺う。
でも……こいつは随分楽しみにしてたみたいだから、腹いせに怒鳴り散らしたりするのかしら――まあ、それはそれで面白いけど……。
ところが、魔理沙は淡々とツマミを口に運んでいた。
「そいつは災難だったな。ま、そういうことなら仕方ないさ」
……あれま。
これは意外。魔理沙の口から、仕方ないだなんて。
てっきり……怒鳴らないまでも、嫌味な小言の一つぐらいくれてやると思ったのに。
「幸いだったのは、一番楽しみにしてた姫様がもう酔い潰れて寝ちゃってることね。おかげで雷が落ちずに済んだわ。まああの方には目覚めた後で、姫様抜きで献杯しちゃったって言っておくつもり。まあ、それでも機嫌を損ねるのは一緒だから、兎の一匹や二匹縊り殺しちゃうかもしれないけどね」
「喉下を過ぎたかの問題ってことだな」
そんな気取った冗談まで……。ちっとも面白くないけど。
少なくとも、『神奈子一発』が飲めなくて機嫌が悪いなんてことはないみたい。でも、どうなんだろう。
続けて魔理沙は永琳に尋ねる。
「手違いで出しちまったってことは、その辺で空瓶が見つかったのか?」
「いいえ。うどんげが言ってたのよ。部下の兎がやらかしたみたいだってね。だから、瓶はまだ見つかってないの。一応今探させてるけど……」
話しているうちに鈴仙が近づいてきたので、永琳はそちらに向き直った。
「どう? 発見できた?」
「そのう……申し訳ありません、師匠。会場はひとおおり当たらせましたが……」
「空の瓶すら無かったの?」
うつむき、鈴仙は横に首を振る。
「見当たりませんでした。念のため、間違えて飲んだというお客がいないか聞き込みもさせましたが、そういった情報も皆目……」
「うーん。それだけ高くておいしいお酒なら、口に入れれば違いに気づきそうなものだけど。会場の外は?」
「……近い部屋から捜索中です。てゐの部下を総動員して捜索してますが……」
「ふぅん。そう」
永琳の低い返答に、おっかなびっくり、鈴仙は上目遣いする。
怒っているのかどうなのか、永琳は薄く微笑んでいただけだったけれど、それはかえって妙な迫力があった――まあ怒っているんだろうけど。
「とりあえずはわかったわ。でも、すぐに見つからなければ意味無いから、別に急がなくてもいいわよ。さすがにもうお開きの時間だもの。里の方々は帰さなきゃならないわ。お酒が見つかるまで待ってくれだなんて、そんなこと言っていつまでも引き止めるわけにもいかないしね。それに、どうせあなたの責任であることに変わりは無いのだから。せめて事に気づくのが、もう少し早ければよかったのに」
「はい……すみません」
意気消沈する鈴仙の耳は、かけすぎたストレートパーマみたいに根元から垂れていた。あまりの落ち込みように、見てて笑いを誘う佇まいではあったけれど……ああいや、ここはさすがに我慢しておく。
「ふふふ……。くくく」
と思っていたら……隣の奴はくすくす笑っていた。
「……ちょっと」
「ん?」
「あんたには少しは堪え性ってものが無いの?」
「あー? なんのことだ堪え性って?」
聞き返す魔理沙は、罪悪感のザの字もイの字も、ひょっとしたらどういう意味だったかと辞書でもひきかねない顔だった。ようするに、これでもかというくらいとぼけていた。
「何って……目の前で笑ったらかわいそうじゃないの。さすがに」
はあ? と魔理沙は小首を捻る。
「お前、なんか勘違いしてるぜ。わたしはただ、なんだか楽しいことになったなって思っただけさ」
……まーたこいつは、変なことを言い出した。
「何が楽しいってのよ。楽しみしてたお酒は飲めないみたいだし、あなたは相変わらず一緒に飲んでもくだらないし、おまけに帰りは潰れた霊夢を担いでいかなきゃならないし……。いいことなんて何一つないじゃない。あーあ、憂鬱だわ~」
「おや。なんだお前、やっぱり飲みたかったのか? 『神奈子一発』」
魔理沙は意外そうな顔を向ける。馬鹿にしているのではなく、本当に少し驚いているようだ。
「なによ、悪い?」
「誰も悪いなんて言ってないだろ。なんでお前はそう、いちいち否定的にとるんだ」
「相手があんただから、言葉に裏が無いか疑っちゃうのよ」
「裏以前に、身も蓋も無いっての。ったく。別に、あんまり気の無い感じだったから意外だっただけだよ。さっき『神奈子一発』の話が出た時も、リアクション薄かったし」
「まあ、確かに吟醸は好きってほどじゃないけどね。でも、そんなに名のあるお酒なら、ちょっと口にしたかったって、そう思っただけよ」
なにせ最も古いワインだって、長期熟成はせいぜい四百年だし。それ以上のものともなれば、味を別にしても、歴史的に価値がある。
ふうん、と魔理沙は鼻を鳴らす。鳴らしたきり、また料理に手をつけ始めた。
いったいこいつは、どれだけ食べるつもりなのだろう――そして、それだけ食べてどうしてまったく太らないのだろう。
呆れたので、また視線を二人の方に戻す。永琳は頭痛でも気にするように、額に指を置いていた。
「とにかく、無くなったものはもう仕方がないわ。わたしは今から、皆さんに事情を説明して回る。あなたはとりあえず、部下達に捜索を続けさせなさい」
「はい」
「まあ、見つからなかったら見つからなかったで構わないけどね。席に出してしまったのなら、どうせ中身が残ってはいないだろうし。それに、どっちにしろあなたの失態が軽くなることはないしね」
「……はい」
しゅんと鈴仙は背中を丸めた。気の毒に。なんだかまた一回り小さくなった気がする。この調子で収縮していったら、そのうち消滅してしまうんじゃないかしら。
「そんなわけだから、探すのは皆さん全員にお帰りいただくまででいいわ。その後は、後片付けをさせていいから」
「あっ、師匠」
去ろうとする永琳を、慌てて鈴仙が呼び止める。
「あの新聞記者はどうします? この事を知ったら、きっと記事にする可能性が……」
文のことを言っているらしい。見回して探すと、遠くで人間達と談笑しているのが見えた。
あいつがこのことを明日の朝刊の記事にするかどうか。可能性で語るなら、百パーセント記事にするだろう。ただでさえ、最近記事らしい記事が書けてないらしいし。むしろあいつからしたら、願ったりなんじゃないかしら。
見出しはどんな感じになるだろう? 『待ちに待った生誕祭。待てども待てども献杯ならず』。こんなところだろうか。いずれにせよ、盛大にこき落とした書き方をするのは間違いない。
似たようなことを想像したのか、はぁと永琳は嘆息した。
「それも仕方ないでしょうね。彼女にはわたしが直接話します。記事にするなというのは無理な相談でしょうから、せめて永遠亭の品位が下がらない程度の内容にしてもらうよう、頼んでみましょう。じゃあそういうことで、あとよろしくね」
言うことは済んだらしい。永琳は一度こちらに向き直りお辞儀をすると、またどこかの人ごみに加わっていった。
取り残された鈴仙は、しばらくしんみりとその場に留まっていた。しかしやがて一発盛大に溜め息を放つと、彼女もまた酒蔵の方に戻っていった。
永琳もだけど、やはり大変そうなのは鈴仙の方だ。おそらく必死の思いで探してきたにも関わらず、そのお酒は部下の手違いで誰かの食道に消えてしまった。おまけにその責任までとらされるとなれば、踏んだり蹴ったりどころか、ついでに殴られて引っ叩かれたうえに交通事故にでも遭ったような心地だろう。
さて……スポーツでも観戦するみたいに、適当にやりとりを眺めていたわけだけれど……これで肴も終わった。
しばらくすれば、宴そのものも終わるわけだけど……。
「そろそろお開きかしら」
「ああ」
「料理も、今ある分で最後みたいだし」
「ああ」
「それにしても、兎も気苦労を背負って生きてるのね。大変だわ」
「ああ」
「…………」
ようやく隣を見る。魔理沙はお酒を口につけながら、また遠くを眺めていた。
「ああ」
「……まだ何も言ってないんだけど」
「ああ。そうだな」
「聞いてるのか聞いてないのかどっちなのよっ」
「聞いてるよ、ちゃんと。考え事をしてただけだ」
やっぱり聞いていないんじゃない……。
……まあいいや。こいつももう見た目はひどく赤いし、酔っ払って朦朧とでもしているのだろう。あんまり真面目に付き合ってると、こちらの頭が痛くなってくる。とっととおうちに戻って寝よう……。
「さ。帰るわよ。もういい時間じゃないの」
「あー、そうだな」
腕を引き、強引に立ち上がらせる。魔理沙は尚も名残惜しげに、遠くを見つめていた。
さっきから何をそんなに……と同じ方に目を向けたけど、そこには相変わらず鈴仙が突っ立っているだけだった。酒蔵の入り口の縁に、憔悴した背中を預けている。さっきからずっと動かないのを見ると、どうやらあそこで待機して、部下達に指示を出している気らしい。
「あいつがどうかしたの?」
「いや……まあ、そうだな。もういいだろう。帰るか」
もういいですって? またこいつはわけのわからないことを……。
ああ、ひょっとしたら、すでに脳がアルコールで溶けているのかもしれない。十代の身空で、かわいそうに。
立ち上がり、ううんと伸びをしたところで、魔理沙はこちらに向き直った。
「しかしそうなると……差しあたって、決めなきゃならないことがあるな」
……そうだった。
それなりに長かった今日一日を締めくくる、最重要案件……。
ごくりと喉を鳴らし、正面から魔理沙を見据える。
「酔い潰れた霊夢を、どっちが背負って帰るか……」
不敵に笑い、魔理沙は後ろに振りかぶった。
「……じゃんけんで勝負だ!」
*
…………。
……納得いかないわ。
「あああ~、もう……」
すぐ横にあるのは、霊夢ののんきな寝顔。私の気もまるで知らずに、肩口で幸せそうに寝息を立てている。
こいつは、人間としてはさして重い方ではないのだろう。実際、人外の私にとって、この程度の重量を背負うのはまったく苦にはならない。
だけど、問題はその酒臭さだった。これだけはどうにも我慢し難い。背中におんぶしている形なので、自然、霊夢の顔はすぐ肩口に置かれることになる。こいつの口から私の鼻腔までわずか数十センチの、素晴らしいくらいダイレクトな距離だ。口が半開きだったので、私はいつよだれが服に垂れないかと気が気でなかった。単に持ち方を変えればいいことなんだけど、首根っこ掴んで引き摺って帰るわけにもいかないし、お姫様だっこなんて気色が悪くて狂気の沙汰だった。
「……ふんふふんふふ~ん♪」
で、魔理沙の馬鹿はというと……人の気をよそに、ご機嫌に口笛なんぞ吹いていた。
「ねえ……ちょっと」
魔理沙は帽子の後ろで腕を組んで、前を歩いていた。ちら、とこちらを振り返る。
「あん? なんだよ。霊夢、目を覚ましたのか?」
覚ますわけがないわよ。さっきあんなにほっぺたつねっても、平気な顔してたんだから……。
「そうじゃなくて」
「なくて?」
「交代」
は? と魔理沙は抜けた声で応じる。
私は更にイライラしながら、「交代して」
「後退?」
「なんで戻んなきゃいけないのよ。持つのを代わってって言ってるの」
魔理沙はすでに前を向いていた。ハッと一発笑い飛ばして、「冗談だろ」
「いい加減疲れたのよ。もうずっと私が背負ってるんだから、代わって」
「疲れたねぇ。あんまりそうは見えないがなぁ」
「精神的に疲れたのよっ」
「ま、精神的だろうが体力的だろうが、負けは負けなんだから仕方ないよな。残念だぜ、わたしも手伝えなくて」
「私が許すわ。肩貸して」
「お前が許しても、わたしが許せないんだよ。主に、わたしのプライドが」
台詞だけ聞けば劇画の主人公でもとり憑いてるみたいなのだけど、当の魔理沙はへらへら笑っていた。ようするに、まともに会話するつもりはさらさら無いらしかった。
私は一つ、長い溜め息を吐く。
「納得いかないわ……」
……そもそもこいつは、さっきのじゃんけんでも卑怯だったのだ。
右腕を大袈裟に振りかぶって、「じゃんけん」の発声よりも若干早出し気味に振り下ろしてきた。一瞬早く、それがチョキだということがわかり、私は余裕でグーを出した。しかし寸前、魔理沙は右手を引っ込め、隠していた左手を突き出してきた。気づいた時には、すでに遅し。左手の形は、どうみてもパーだった。十分にアルコールの回っていた私の頭には、魔理沙の姑息な姦計を見破る術は無かった。
「いい加減機嫌直せよ。少々大人気なかったのは認めるさ」
魔理沙は並んで歩調を合わせてくる。
「直してほしかったら、肩貸して」
「それはできないな。わざわざ大人気ない真似した意味が無くなる」
「今のうちに言っておくけど、私の服によだれなんか垂らしたら殺すから」
「そんなことは垂らした本人に言ってくれよ。そして殺すのも霊夢だけにするんだな」
「……だいたいあんたは、なんでさっきからそんなにご機嫌なのよ。結局、あのお酒は飲めなかったのに。『神奈子一発』」
「ああー。改めて聞くと、酒っていうより滋養強壮剤だよな」
「答えになってないわよ」
「答えるまでもないと思ってたのさ。お前もわたしの貸したミステリ読んだんだから、それぐらいわかるだろ。少しは推理してみちゃいいじゃないか」
「はぁ? 何をよ」
「だから、わたしが機嫌がいい理由だよ。ちょっとは考えてからものを言えよな」
こいつ……。
でも、言われっぱなしなのも癪だ。ならばと、少しだけ考えてみる。
今日、魔理沙が喜ぶことなんてあっただろうか?
まあ途中までは普通に馬鹿言い合って飲んでただけだから、楽しかったと言えば楽しかったんだろうけど……。でも、結局肝心のお酒にはありつけなかったんだし。だったら……。
「まさか、私にまんまと霊夢を運ばせる作戦が成功したから、とか言わないわよね? だったらあなたの性格疑うわよ」
すでに疑っているような視線をくれてやると、魔理沙は呆れたように目を伏せた。
「お前なぁ~。推理って言ってるじゃんか。お前の先入観を語ってどうする」
「違うの? 違わないわよね」
「ま、確かにおかげで楽な帰り道になったわけだが……いやいや。それは別として、だ。じゃあ、質問を変えてやろうか」
ちら、とこちらに目配せする。
「お前、〝あの酒がどこに消えた〟と思う?」
「えっ……? いきなり何よ」
質問を変えると言われた手前だけど……なるほど確かに、まったく斜め上からの問いかけだった。想定外だったので、さすがに言葉に詰まる。
「いいから。どこに消えたと思う?」
「どこって……間違えて客に出しちゃったんでしょ? だったら、誰かの胃袋の中に決まってるじゃない」
私はさらりと言ってのける。当然のことだ。
しかし、どういうわけか、魔理沙は落胆したように息をついた。
「……ったく、理論派魔法使いが聞いて呆れるな。他には?」
「他って?」
「今のとは別に、他思いついた推論はないかって訊いてるんだよ」
「別も何も、それしかないでしょ。胃袋の中。イン・ザ・ストマック」
「言っとくが、横文字だろうが関係ないからな」
「もう、じゃあどう言えばいいのよ。他に何があるっていうの」
「だからさぁ」ポリポリ、と頭を掻きながら、「〝誰かに盗まれた〟とか」
「へっ?」
一体誰のすっとんきょうな声なのか――私だろうけど――、とにかく私は意表を衝かれて、軽く転びそうにすらなってしまった。体勢を戻してから、改めて訊き返す。
「盗まれたって、何で?」
「そんなことは知らんし、まだそうと決まったわけでもない。だが本当に盗られたのなら、盗った犯人がいるんだろう。そいつに訊けばいいんじゃないか」
「そうじゃなくて!」
ぶんぶんとかぶりを振る。私が訊きたいのは、そういうことじゃない。
「何で盗まれたなんて発想が出てくるのよ。永琳は、お酒は兎が間違えてお客に出しちゃったって言ってたじゃない」
「言ったのは鈴仙だけどな。だがその証言が本当だとするなら、妙なことがあるだろ。本当に何も気づかなかったのか?」
そんなこと言われても……。妙なことなんて、何かあったかしら。
酔いのせいもあって、まだうまく思考がまとまらない。酩酊中の記憶力は、わりといい方だと思ってたけど……。いくらお酒を飲んでも呑まれないのが、七色の人形遣いの売りなのに……うーん。
やがて、待つだけ無駄だと思ったらしい。魔理沙は続けた。
「簡単なことなんだけどな。ついさっきのことだし、永琳と鈴仙が話してたのを覚えてるだろ?」
「ああ、それなら……。確か、無くなった瓶を探すようにって」
「そうそう、それだよ。〝瓶は無くなった〟んだ。空瓶すら見つかってないんだぜ? 少なくとも、あの会場ではな。妙じゃないか? 間違って配膳されたのなら、少なくとも空の瓶はどこかにあるはずだろう」
言われてみれば、確かに……。
どうして気にも留めなかったのだろう。間違ってお客に出したのなら、空瓶がどこかに残っていなければならない。少なくとも、あの『旬風の間』のどこかには。
それなのに、見つからないということは……。
「じゃあ、本当に盗まれた?」
「さてね。そういう推論もあるってだけさ」
ここまできておいて、そっけない言い方をする魔理沙。相変わらず、意地の悪い奴。
でも、そういう推論もある……ということは、他の可能性を示唆しているのかしら?
いや、だとしても、まず気になる事がある。
「でも、盗まれたんだとしたら、何で永琳は間違えて出したなんて言ったの? それって、あいつが私たちに嘘をついたってことじゃない」
「そうなるな。ま、さっきも言ったように、言ってたのは永琳ってか鈴仙だが。二人が共謀している可能性を別とすれば」
共謀……。言葉だけ聞くと、ちょっとばかり不穏な響きだ。
まさか、お酒を出さないのはわざとだったというのだろうか。結局自分達で飲みたいから、適当な言い訳をしてあの場を締めたとでも……。
いつの間にか、最後の坂道に差し掛かっていた。博麗神社は、この坂の階段を登ったところにある。
てっきり魔理沙は途中で別れるものだと思っていたけど、霊夢を届けるまでは付き合ってくれるらしい。まあ、ただ話に夢中だっただけかもしれないけど。
ははは、と魔理沙は笑った。「そう怖い顔するなよ。それに永琳達が嘘をついているからといって、酒を盗んだ犯人もあいつらってことにはならないぜ?」
「そうなの?」
「たとえシロでも、嘘をつく場合があるってことさ。あいつらの気持ちになって考えてみればいい。さっきはただ間違えて配膳してしまったと言っていたが、盗まれたとなれば大事だ。一人一人、参加している人間に問いたださなきゃならないし、そんなことしたら雰囲気もぶち壊し、宴も台無しになる。最悪の場合、中止も考えなければならない。奴らにとって、今回の祭りはえらく意義のあるものらしいからな。それだけは避けたかった。ようするに、その為の方便って可能性もあるってことさ」
「なるほどね……」
「そんなわけで、もし永遠亭の奴らがシロだった場合、だ。まあもちろん、実際にわたし達は『神奈子一発』を見たわけじゃないが、永琳たちの自作自演でないとしたら、ちゃんと本物を用意していたんだろう。〝生誕祭開始時、酒はちゃんとあの酒蔵にあった〟。これは前提と定めて差し支えない事項だと思う」
コホン、と魔理沙は一息入れてから続ける。
「問題はここからだ。あったはずの酒が消えた。盗まれたのか、自然に消滅したのか、それとも誰かがどこかに隠したのか。いずれにせよ今回の出来事は、普通に飲み会を開いただけじゃ、ちょっと起こりそうにないことだ。となれば今回の件は、実に推理のし甲斐のある素材ってわけさ」
ふふん、と魔理沙は楽しげに鼻を鳴らす。
ああ……そうか。こいつがえらくご機嫌な理由。やっとわかった。
「……なるほどね。よかったわね。いい〝素材〟が手に入って」
笑いかけてやると、魔理沙もまたニカッと相好を崩した。
この見てて気持ちよくなるぐらいの笑顔は、例え機嫌がよくても私には真似できないだろう。呆れ半分、そう思う。
階段を登りきったところで、ようやく神社が見えた。正面の第一拝殿はダークブルーを背景に、月影と厳かな静謐を纏っていた。
境内を歩く。真っ暗でどこがどうなっているかもわからないけれど、通い慣れている魔理沙は土地鑑があるらしく、スイスイ進んでいく。素直に後ろをついていくと、霊夢が実際に寝泊りしている宿舎に着いた。
「部屋まで行くのも面倒だし、この辺に放置していってもいいかしら?」
玄関の引き戸を開けたところで、後ろの魔理沙に尋ねる。放置したいものとは、当然この背中の酔っ払いのことだ。
「雪こそ降ってないが、もう十二月だ。さすがに玄関に野晒しじゃ風邪引くだろうし、布団まで運んでやろうぜ」
「面倒ね。馬鹿だから風邪引かないんじゃないの?」
「馬鹿だから体調管理を怠るのさ」
なるほど、一理ある。
「こいつが風邪で伏せるのは一向に構わないけど、引かせたことで恨みを買うのも煩わしいわね。そうするわ」
私は軽く嘆息する。どうせここまで運んだのだから、玄関だろうが寝室まで行こうが同じことだ。
部屋に入ると、布団はすでに敷かれていた。霊夢の寝室に入るのは初めてだったけれど、こいつは十代にあるまじきずぼらな性格なのは知っていたので、万年布団であろうことは容易に想像がついた。
横たわらせ、毛布をかけてやったところで、声をかけられる。
「さて、帰るか」
私は軽くなった肩をすくめた。
「ようやくシャワーが浴びれるわ。この服も洗濯しないと駄目ね。酒臭さが移っちゃった」
実は、さっきからずっとこの『すくめ』を我慢していた。こいつらと一緒にいると、いちいち肩がすくめたくてすくめたくてしょうがないのだ。
*
夜道を歩いたおかげで、だいぶ酒気が抜けてきた気がする。もう大丈夫だろうということで、帰りは空を飛んで行くことにした――飲酒飛行はモラルに反するし。
さて……ようやく頭もすっきりしてきたわけだけれど。
「それにしても、本当に無くなったのかしらね」
「ん? 『神奈子一発』のことか?」
当然、と私は腕を組む。
「案外、消えたんでも盗まれたんでもないのかもしれないわよ。今頃どこかの部屋で、あっさり見つかってたりして」
隣で箒にまたがる魔理沙は、気流に飛ばされないように帽子を右手で押さえていた。
「もちろんその可能性もあるだろうな。ま、それは明日の朝刊を見ればわかるはずさ。この件を、文は間違いなく新聞に載せる。もう他の客達は全員帰った時間だが、文の奴は取材のために残るだろう。その新聞でもまだ発見できずってあったら、確定だってわけだな」
「……自信満々に言う辺り、あなたの中では確定してるみたいだけど?」
「そりゃ、そうしておかないと推理は始まらないからな」
推理……か。
「一つ、気になってたんだけど」
「ん? 事件のことか?」
「いや、まあそっちも気になるけどね。違うくて、あなたのことよ」
「わたしの……血液型か?」
「んなもん訊かなくてもB型だってまるわかりよ」
「あっ。今のはわたしっていうより、B型を馬鹿にしてたぜ」
「そんなことはどうでもいいの。あなたは随分前から、これが事件かもしれないって感づいてたんでしょう?」
何でそんなことを訊くのか、魔理沙はちょっと不思議そうな顔をしつつも、「まあね」
「いつから?」
「酔っ払ったお前が、鼻から焼酎飲んでた頃からさ」
「面倒だから真面目に答えて」
睨みつけてやると、魔理沙はひょっこら肩をすくめる。片手で帽子を抑えながら、変なところで器用な奴だった。
「そりゃ、永琳から話を聞いた時からさ」
そういえば……。
せっかく楽しみにしてた『神奈子一発』が飲めないっていうのに、こいつは逆に上機嫌だった。ということは、あの時点ですでに魔理沙は感づいていた。そういうことになる。
でも、だったら余計に気になることがある。私はその疑問をぶつけた。
「事件だってわかってたのなら、どうして現場に残っていろいろ調べなかったの? 推理小説の探偵みたいなことがしたいんじゃなかったの?」
ふふん、と魔理沙は鼻にかけたように笑う。
「そこ、ちょっと勘違いしてるな」
「勘違い?」
「確かにわたしは奴ら探偵が羨ましいし、同じ立場になりたいとも思う。だが、探偵になりたいわけじゃない。あくまで、ただ推理がしたいのさ」
またよくわからない屁理屈だ。こちらが本気で訊いている時は、直裁に言ってもらいたいのだけれど。
「なにそれ。どう違うのよ」
「わざわざ自分で証拠を探したり、証人に聞き込みして足を棒にするのはごめんってことさ。それに足を棒にして探し回ったところで、本当に事件に繋がるものが見つかるかはわからないだろ」
つまり、あくまで現実は現実ということね……。ま、その割り切り方は魔理沙らしいけど。
結局のところ、こいつはリアリストなのだ。だから推理小説が好きだし、いつもはふざけていても、思考は常に論理的で無駄が無い。事実は小説より奇なり、なんて言うけれど、現実は所詮現実なのだ。その辺魔理沙は、出来ることと出来ないことの区別がついているし、決断にはとことんドライになれる。三日前の件で、そういう奴だと知ることが出来た。
「でも……じゃあ、また机上論だけで推理しようってわけ?」
それ以外に何がある? とでも言うように、魔理沙は軽く肩をすくめる。
また、こいつは……。そのすくめ方がまたあっさりしたものだったので、思わずつっかかりたくなった。
「本気なの? 確かにこの前のはそれっぽく考えられたけど、毎回そんな都合よく考えられるわけないでしょう」
そもそも……『神奈子一発』が消えたことと除けば、今日は何の変哲も無い、ただの宴会だ。お酒のせいではっきり鮮明に覚えているわけじゃないけれど、別段何もたいしたことのない、言うならよくある普通の日常の一ページだったと断言できる。怪しいものも、注目すべき点も何もなかった。
「いくら論理を飛躍させようにも、何一つ推理材料が無ければ、推論なんてできるはずがないわ」
自分としては、ばっさり斬り捨ててやったつもりだった。だけど……。
「お前の言うとおり、決定的な証拠なんてものは無いさ。だが、推理するだけなら、素材はいくらでも転がってる。素材さえありゃ、いくらでも料理できるってもんだろ。むしろ確かなものが無いからこそ、腕の見せ所ってやつだな」
どうしてここまで自信満々に断言できるのだろう。こいつがリアリストなのは間違いないはずなのに……。
……でも、不思議。
魔理沙の自信に曝されていると、どういうわけか疑えなくなる。
なんて言えばいいのかしら……。もしこれが推理小説の中で、私達が事件に巻き込まれている最中だったとしたら……。例えどんな凄惨な現場であっても、凄く勇気付けられるような……そんな気がする。
なんだか、力が抜ける。ふっ、と私は微笑を漏らしていた。
「それは楽しみね。どんな具合に見せてくれるのか」
「なんなら、今すぐにでもいいんだぜ?」
「えっ……?」
今すぐって……それって。
「まさかあなた、もう真相がわかったっていうの?」
目を剥いて尋ねると、魔理沙はあっさり告げた。
「だいたいな。だが真相かどうかはわからないし、何度も言うように別問題さ。もっとも個人的評価としては、肉薄してるとは思うがね」
肉薄……。
じゃあ、本当に、もう見当はついているってことに……。
「……ほんとに? なんだか胡散臭いんだけど」
「わたしは嘘はつくが、それは主にどうでもいい嘘だ。今はこの時は別さ」
冗談めかしているけど……言ってることは本当らしい。
信じられない……。
「あのお酒がどうなったかも、全部察しがついてるっていうの? 誰かに盗まれたのか、それとも……」
言いかけたのは、目の前の魔理沙の手の平に遮られたからだった。
「おっと、それを簡単に言ったら、さすがに面白くないだろ? まずはお前も、自分で推理してみろよ。そうだなー、まずは今日一晩、じっくり」
突き出された手の平がグーになり、一晩、のところで人差し指を立てられる。
まあ……推理するのは別にいいんだけど。
私も考えること自体は嫌いじゃないし、後でもう一度考えてみようと思っていた。それに何より、こいつに先を越されたままなのはちょっとばかし気に食わない。
「一晩……ね。わかったわ。じゃあ明日、あなたの屋敷で改めてってことでいいかしら?」
「わたしの家か? まあ、それは構わないが……そうだな。じゃあ代わりに一つだけ、要望を聞いてくれるか?」
「要望?」
「ああ。時間は日が沈んでからにしてくれ。午前中とか昼間に来ても、わたしはいないからな」
……また珍しいわね。ずぼらなこいつが時間指定なんてするのも。
こいつは基本的に暇だから、家に行けば大概ぐうたらこいている。明日に限って、何か予定でもあるのかしら。
「昼は用事? 暇人のくせに」
「お前ほどじゃないけどな。まあそんなとこだ」
「言い草は気に入らないけど、わかったわ。じゃあ、五時ぐらいでいいかしら」
「あー、そうだなぁ。うーん……いや、やっぱり八時にしてくれ。そのくらいだとちょうどいい」
ちょうどいいといえば……ようやく魔法の森が見えてきた。
私の館はまだまだだけど、魔理沙の家は森に入ってすぐにある。そろそろ別れる頃合だ。
「じゃあ、明日な」
くるり、と魔理沙はターンして箒の体勢を変える。
「うん。わかった」
「まあ、お前も一晩、ベッドの上でじっくり考えてみることだ。ほろ酔い気分も手伝って、いい具合に脳細胞も働いてくれるだろうぜ」
「わかってるわよ。それがミステリーの楽しみ方、なんでしょ?」
正解、と魔理沙は去り際に白い歯をこぼした。
「〝わたしの〟ミステリーの楽しみ方、さ」
・・・・・・Leading to the true part
ありがとうございます。そうさせていただきます。
前編後編共に良かったです。
アリスが割を食ってしまうのは仕方ないが可哀想。
前回と同様に、これも元ネタとかあるのかねぇ。
取りあえずアリスみたく一晩じっくり考えるとします。
黒瓶がなぜ黒いのか、ここら辺が重要な気がします。