◆ 幕間 【中編 Prologue】
この国では、足跡のついていない真っ新な雪原のことを称して「処女雪」と呼ぶ。
さくさくと、真新しい雪原に足跡を刻みつけ、目的の屋敷を目指して一人歩く。香霖堂の店主・森近霖之助は、典雅な万葉文化の産物にしてはやや異質なその「処女雪」という日本語をふと思い出して、それから遙か木深い行く手を眺め、思わず苦笑いして頬を掻いた。微かに孕まれた性的な背徳。その語感さえ、未踏の雪原が身に纏う清楚さにはとても似つかわしい。
儚く、脆い。
必要がなければ、平面にならされたこの銀毛布を汚してしまいたくはない。その気持ちは、とても尊いものだと思う。
まさしく儚い乙女のように、壊れやすい美しさに霖之助は魅了されていた。正午を過ぎた冬晴れの太陽が、眩しい木漏れ日を降らせて雪原をきらきら輝かせていたからだ。
新年早々に稗田の一族から注文を受けたのは――現在幻想郷で入手出来る、もっとも古い、高級な墨。量はさほど多くなくても良いとのこと。ただ、相応に「格」のある墨が必要だから、是非手配してもらえないだろうか――と。
さて。
まったく同じ注文内容を、実のところ霖之助は、遠い昔に一度受けたことがある。あの頃はまだ丁稚だったか、駆け出しだったか。
その依頼主も、今回と同じように稗田の一族。
思い出す。当時と今とでは、たった一点だけ、稗田家において異なる点がある。
依頼主の少女は、名前を稗田阿弥といった。
頬が白くそれこそ雪のようで、可憐な顔立ちの少女だった。それまでにあまり直接の対面も無く、顔を合わせた回数では、何かと縁の多い今代阿礼乙女の稗田阿求に遠く及ばない。その阿求とは裏腹にどちらかと言えば内向的で、おっとりした少女だった。
少し丸みを帯びた、近代文字に近い、珍しい筆運びの書き文字が印象に深い。普段おとなしい分か、お酒を呑むと途端に明るくなった。器量の良い子だった。酔った時には色んな人にからかわれて人気者になり、しかしそれを自ら恥ずかしがったり嫌がったりするでもなく、大人の酒の席に現れては顔を赤らめてよくはしゃぎ回っていた。それは、ややもすると、自ら望んですすんで酒に酔おうとしていたようにも見えた。
前回の注文をくれた少女――稗田阿弥。ひとつ前の代の幻想郷縁起を担った、八代目の阿礼乙女だ。
その頃は霖之助も、まだ右も左も分からかった。
格の高い古墨を手に入れるのは、猫の額の幻想郷において決して容易ではない。まして由緒正しい稗田の家に納められるとなると、中途半端な代物を用意する訳にはいかない。入手の困難さに拍車が掛かる。
それでも、霖之助は今日、こうして懐に注文の品を忍ばせて約束通り客先へ向かっている。約束は果たされる見込みである。もちろん、安易な妥協もしていない。丹念に郷の隅々までを探し歩き、目を利かせ、最終的に胸を張って当代阿礼乙女に差し出すことの出来る墨を選んだつもりだ。
その墨が何に使われるのか、霖之助は知っている。
輝く真っ白な処女雪を踏みしめ、古めかしい茅葺きの屋根を目指す。
八代目阿礼乙女稗田阿弥は、あの日霖之助から受け取った最高級の墨を、幻想郷縁起の目次を書き上げるのに使った。阿礼乙女というのは、いつもその時代に残る最も古い墨で、幻想郷縁起の目次を書き上げるのが風習として定着しているのだそうだ。
それがもう、百五十年ほども昔のことになるだろうか。
目次の完成からほんの間もなくして――稗田阿弥は、亡くなった。
*
……行きましょうよ。
俯いた少女の頬を、風に舞いひとひらの花びらが打つ。ここに居るのに気づけとばかりに、無数の春が警告する。同じように風に遊ばれて弧を描いて落ちてゆく花びらには、同じ形、同じ軌道を描くものなど一枚も無いだろう。すごく希望に溢れた話だ
力なく垂れ下がった、少し大人びた少女の右手には、一本の筆が握られている。その先はどういうわけかまだ墨が乾いておらず、舞う花びらを不意に一枚ぴたりと吸いつけた。薄紅色の花びらに、じわりじわりと、裏側から黒が滲んでいった。
さりっ、と、草鞋の音が聞こえる。
沓底の噛む砂の音は降り積もった花びらに和らげられて、優しく、まるく、尖りの無い音に変わる。さりっ、さりっ、さりっ――
俯いた少女が気付かない内に、巫女さんは、その近くまで来た。
行きましょうよ。
はっ、とそこで気付いた少女は、驚いた瞳を相手に向けた。不意に話し掛けた巫女も、少女と呼べる年頃だった。
筆持つ少女が浅葱色の和服であるのに対して彼女は真っ赤な巫女装束を身に纏い、射干玉の黒髪を桜風に舞わせて、華やかに少し頷いた。薄い唇に浮かべたほんの少しの笑みは、年端以上に艶めいていた。
赤紫色の髪が、まるで少女の心をそのまま表すように――風を受け、ふわりと大きく広がる。
行こうよ。
大人びた仕草で髪に手櫛を通して、うら若い巫女は和服の少女に声を掛けた。もう一度、きちんと相手の耳に声音が届くように。
筆を持った少女は、筆先で真っ黒く染まってしまった可哀想な花びらにふと気づくと、指ではがして、ふい、と宙に落とした。
黒い花びらが、くらりと舞う。
――私には、やはりこれしかないのですよ。大丈夫です、楽しいですよ。
筆をひらひら振って、少女は笑った。心の言葉を確かめるように、淡く年頃に膨らんだ自分の胸の前に、もう片手を添えながら。少し意識しておどけたらしい、その仕草で巫女は、「そっか」と一言だけ呟く。
無表情の中に、落胆を押し込めきれなかった。
無造作に振られた彼女の筆……さらり、まるで、文字を書いたように見えた。
透明な墨で、「さようなら」と。
巫女は、そのまま、踵を返して場を後にした。
風の中に囁いている。
……それでも、行きましょうよ。
いつでも、舞ってる。
いつまでも、待ってるから。
◆ 3
「色合いについては保証しな。、ただ墨としては血統書付きだ」
「墨にも血統書ってあるのかしら?」
「それにしても黒い血ですねぇ」
「何なら赤くしても良いよ」
こたつの天板の上で、霖之助は依頼の物を披露した。蒼い服の懐から取り出した紫の袱紗――霖之助はそれを、神経質なほど慎重に置いた。分厚い袱紗の布地に遮られ、着地には音も立たない。
その指に押されて天板の上を辷り、約束の品はまるで将軍への献上物のように恭しく、阿求の前へと差し出さた。
か細い女の子らしい指が、宝ものを開けるみたにそっと袱紗を開く。霊夢と霖之助が、固唾を呑まされるように、この仕草を見つめていた。
「ふむ……」
やがて、一見には墨というよりも炭のような、長細く、匂い立つような膠に固められた黒い棒が姿を現わす。
「……うん。疑いなく良いお品です」
「はは。さすがに阿礼乙女だね。墨の善し悪しを解してくれる人間はそう多くない、嬉しいよ」
「あーいやよく分かんないですけど、たぶん良い墨だろうなーって」
「…………」
ぷち、と何だか音が聞こえたが、聞こえないことにする。荘厳な雰囲気は物の見事に消し飛んでしまい、それに気付いていないのは当の阿礼乙女一人、という具合。
つるが曲がりそうな勢いで眼鏡を直し、霖之助は正座していた足を崩してこたつに突っ込んだ。阿求から取り返した商売道具の袱紗を受け取り、わざとぱぁんっと音を立てて皺を伸ばす。何かしらの当てつけである。
正方形に畳んで懐に仕舞った。すらりと長い霖之助の足先が、こたつの中で、阿求のちょうどスカートと靴下の中間にある素肌に触れた。
「ひゃっ、冷たっ!?」
「――当たり前だ。君は自宅配達を他人に頼んでおいて、外の気温には気を配らなかったのか?」
「も、もしかして霖之助さん、幽霊だったりして……」
「ありうる……こんなに冷たいなんて……」
「馬鹿を言え」
霊夢と阿求は、ここぞとばかりに男を前にして、二人してくすくす笑い合う。――さすがに少女二人と青年一人では、勝負するには些か分が悪かった。
寄り添い合い、肩を縮める二人の仲良し少女に、霖之助は憮然として告げる。
「……幽霊ならそもそも足がない」
*
敷地内の湧水から水を汲む伝統的な作法で、阿求が古い墨を丁寧に伸ばしてゆく。硯の海の方にゆっくりと溜まってゆく黒い液体は、深く、他の何色にもまつろわず異様な気高さがある。墨の善し悪しがろくに分からないというのは本当なのだが、名品だと言われたら、なるほど信じられるだろう。霖之助が呟く探幽(たんゆう)だ竹田(ちくでん)だという名前はさすがに眉唾だが、彼らも愛用したとか言う挿話、まあそれくらいの夢は抱いても良い。
霊夢はその間一度神社へ引き返し、帰ってきた時には手に荘厳な蒔絵の箱を持っていた。硯箱とほぼ同じ大きさのそれは、霊夢が開けると同時に黴臭い匂いを周囲にまき散らした。
迷惑そうな顔をしながら、霖之助は一人何をするでもなくのんびりとくつろぎ、ふたつめの蜜柑に手を伸ばす。霊夢は造作もない手つきで、荘厳な箱の中身をこたつの上に広げる。霖之助がむき終えた蜜柑の皮の死骸を、その横に置いた。
蒔絵の箱からお目見えしたのは、
「わあ……すごい」
金色に装飾を施された、立派な印綬だった。
「……金印ですね」
「あのね、私は巫女だけど卑弥呼じゃないわ。これはね」
はた、と霊夢は横に視線を転じ、阿求が墨を伸ばすのに天板の上へ敷いていた、書き損じの半紙を一枚取った。手にした印で大きな朱肉を二度ほど叩くと、霊夢はどん! と、勢いよく半紙に印をついた。
霖之助は、蜜柑の皮の、白い部分のを一本も残すまじと丁寧に剥いている。
ぐぐ、にじにじ…………と、力を籠めていた霊夢。ふっと弛緩し、おもむろに印綬を持ち上げた。ぺりっと言い残し、印面にくっついた紙が剥がれ落ちた。
上下逆さまだった。
咳払いの霊夢。ぐるり、と紙を半回転して阿求に指し示した。
「……『博、麗、神、主』」
「そう」
何とか阿求は読み取った。時代物の印章に独特の、肥満糸みみずの群れみたいな文字が、黒ずんだ赤で正方形に四つ寿司詰め状態でそこに打刻されている。右上から読んでゆけば、しかし極めて分かりやすいその印綬の正体。博麗霊夢がわざわざ取りに戻っただけの、大切な代物であることが分かる。
博麗神社の、いわば公印。
幻想郷縁起にこの印章をつく場所は、二カ所ある。巻末の一頁、そして製本を終えた後に周囲を裁断して平らにし、その上につくのがもう一つだ。
「……ってこの印、勝手に持ち出して良いんですか?」
「私がダメなら誰が持ち出すのよ」
「ですが」
「構やしないって――どうせ向こうの世界でいっつも麦酒抱えて、滅多にこっちにゃ顔出してこないからあの宴会好き神主」
ぬけぬけと霊夢は言った。何だか面白そうな人である。もしかして、幻想郷縁起に博麗神社の神主も収録した方が良かったのだろうか――?
まぁその辺はさておき、霊夢の言うとおり博麗神主の名を刻む印綬は、彼女をさしおいて他につけるものなど居ない。今回ついてもらうのは、二カ所の内の一カ所――巻末の一頁の方だった。正確な用語で言えば、奥付の部分ということになる。
幻想郷縁起の完成までにはまだ間があるが、ひとまず目処がついたからである。ここから項目が増える事もなければ、いたずらに頁の数が増えることもない。この本に以後、新しい妖怪を収録することは無いからだ。
あと、頁を割る印章については、今はつかない。
それは稗田阿求の役目ではないからだ。
その印を押すのは、眼前に居る、当代博麗の巫女の役割というふうにされている。今までの転生で、その印を押される瞬間を阿礼乙女は見たことがない。見たことがある筈が無いのだ。
押さないのではなく、押せないという方が正しい印鑑だから。
それを押すということは、もう間違っても、頁が増えないことを意味するから。
目次の執筆を仮完成とするならば、ふたつめの印は、本物の完成の印。
――稗田阿求が亡くなってから押される、これでもうおしまいという、時空の封緘印だった。
*
……行かないの?
問い掛けられて、阿礼乙女はにこりと笑い、振り返る。このとき、年端は十一歳だった。代を遡っても相変わらず華奢な肩で、色白で、やはりどこか顔つきも似ている。七代目の少女は、腰のあたりまである長い髪が特徴だった。そしてやはり目の前に現れた博麗の巫女を、春の中でじっと見ている。
……行かないの?
少し臆病そうな博麗の巫女が、少女に声を掛けた。
少女はしおらしく春風の中に立ちつくして、綺麗な長い髪を穏やかな春風に揺らして、一体どんな寂しいものを花の中に見ているのか、ぼんやりと顎を上向かせて、紅の空を見上げていた。風に舞って、ゆらめき、やがて欠片となって、散ってゆく花の足早な旅姿を眺めている。
私は、行きません。
きっぱりとした声で、少女は答えた。
巫女は黙って聞いていた。年端に似合わず大人びた阿礼乙女の凛然とした言葉は、しかし博麗の巫女の耳に、決して、確たる拒絶として届いた訳ではない。
単純に大人びているだけ――彼女の年格好に似合わない敬語は、大人という服を上手に着こなして、着こなしすぎてしまった声に聞こえた。
冷ややかなほど整ったその言葉の裏のどこかに、彼女はきちんと十一歳の心を持っている。
それを彼女は、うっかり隠し通してしまおうとしている。
……行かないの?
見失わないように、巫女は声を掛ける。不意に吹き抜けた春風に、長すぎる髪が大きく乱れた。
目をつむり、風が止むと首を振って髪を分けた。
けほ、と一つ咳を落とした。
稗田阿七は、巫女さんの伸ばした手を申し訳なさそうに少しだけ見て、言った。
大丈夫ですよ。
私は、寂しくなんて、
……ありませんから。
*
上質な目の細かい和紙の上を筆が滑る。初めて阿求以外の字が、幻想郷縁起に綴じられるために用意されていく。
闊達にして淀みない字。しかし、ふと霊夢の顔を見やれば多少なりとも緊張しているのか、あまりお目にかかれない、よく引き締まった貴重な表情をしていた。凛々しい。普段の昼行灯状態からは一味も二味も違う格好良さである。
阿求の指示した版図の通りに、筆は運ばれる。横から眺めていると特に、霊夢という人は、実はとても端整で綺麗な顔をした人なんだと阿求は気付かされた。
「ぁ、また滑った……」
「お気になさらず。私の書いた文字だってあっちこっちで滑ってますから」
励ますように声を張り上げたが、あまり励ましにもならないことだと後から気づいて赤面した阿求である。
いつも自分が物書きをしている分、他人が物書きに没頭している姿を見るのは、鏡を見るようで新鮮だった。身体が右に傾きがちな霊夢の癖も、どうしても震えてしまう筆先も、人間らしい。一字一句から緊張が見て取れる。漢字の払いが長くなったり短くなったりするたび、思わず笑いそうになるけれど、それだけ一所懸命になってくれるのが嬉しかった。自分がそうなれているかは分からないが、文字を書いている霊夢はまるで平安時代の歌人のようだ。とても雅やかで、素敵だった。
飄々としてちょっとがさつな印象のある霊夢だが、その文字は、平均よりもずっと達筆で、そしてあまり女の子らしさが無く、文字だけを眺めたら青年の書生が書いたのかと見紛いそうになる、しっかりとした字だった。たおやかさよりも幽玄を思わせるその字は、右への払いが少し長く流れる癖を持つ。幻想郷縁起の先頭に綴じた時に、彼女の一頁だけの「作品」は、恐らく凛と際立つだろう。
「……はい。これで良いかしら」
「ありがとうございます」
阿求は静かに頭を垂れた。
目次にはまだ頁番号が無い。しかし、書かれている項目は今後増えることも減ることもこれで無くなった。第九代目阿礼乙女の稗田阿求、彼女が手がけた九冊目の幻想郷縁起は、今こうして一つの区切りを迎えた。
香霖堂に墨を注文したときから心は決まっていたが、いざこうして行事を終えてみると、身が震えるような感慨深さがある。
「……ふむ。よしよし」
それまで黙って見送っていた霖之助が、こたつから立ち上がった。お客様のご来訪で横にどかされていた座椅子の前を横切るとき、その背もたれから阿求のちゃんちゃんこを拾う。
感慨のあまりぼぅ――っとする阿求の背中に、彼は如才なくちゃんちゃんこを掛けた、
「ご苦労様。」
「え? あ、はい!」
博麗霊夢がからかうように「あーら……」と、ぽつり呟く。
「これで一区切りだね。けど、まだ本が完成した訳じゃないし、君の仕事はまだまだ残っているという訳だ」
「はい」
「それまでは、僕や霊夢も心配しなくて済むね」
「え? ……あ……」
「出来るだけゆっくりとしていってくれ。その間、僕たちはまた何度でもこの家に来るから」
――阿求の鼻の奥が、つんとなる。
その言い方は、あまりにもずるかったのだ。
「……ぅう……っ……」
「あーこら霖之助さん! 女の子を泣かさないの!」
「や、僕はだね……」
すん、すんと鼻を鳴らす阿求が、ふるふると首を横に振る。
「……いーえ。泣いてません」
「僕は! ……あ、ほらほら御本人がそうおっしゃる!」
「ほんとに? この優男の商売に気なんて使わなくても別に良いわよ」
「おいこら」
「ほんとにへーきです。こういうことでもう泣かないと、私は決めたんですっ」
力強く宣言して、阿求はにこっと笑う。優しくしてくれた霖之助に「ありがとうございます」、目次を書いてくれた霊夢にも「お世話様でした」、握手を求める。最後にもう一度深呼吸をしたら、涙は目の奥に遠ざかった。
大丈夫。
遠い昔の誓い立てを胸に呼び起こして、きゅっと強く瞬きした。
阿礼乙女である以上、人よりも早い別れが来る。何度も何度も泣きながら育つようじゃダメだと、自分で誓いながらこの歳まで育ってきたのだ。涙は、もっと感情が高ぶった時まで大事にとっておくべきだ。
――よし、大丈夫。
とりあえず泣かなかった。
背後の霖之助が、横に回ってきた。
「――よし。それでは、節目を迎えた阿礼乙女に僕からプレゼントだ」
霖之助は、また懐手をした。先ほど名のある墨を取り出したそこから、彼はまた別の何か取り出し、こたつの上に置いた。
掌に載る大きさで、色彩は黒だが表面には紋様が掘られている。その肌は、高価な細工にあるような光沢が何もなく、ごくしっとりとしている。恐らく元々金色だったと思われる蔓草の紋様は、たっぷり流れた時間を塗り込めて輝きを忘れてしまっていたけれど、その分風格が漂い、往時の気品を失っていない。一見すると螺鈿細工のようにも見え、或いは囲炉裏にくべる墨に誰かが悪戯半分の芸術心で紋様を彫った、主義主張のないいい加減な置物にも見える。
「霖之助さん、何かしらこれ?」
阿求の背後に陣取った霊夢が、不思議な品物の出現に目を丸くして問い掛ける。
得意げな霖之助が口を開く前に、しかし阿求が横からその答えを告げた。
「墨」
「……そう。ご明察だ」
「墨? これが?」
霊夢は首を傾げ、阿求の肩越しに身を乗り出してそれを覗き込んだ。こたつと霊夢に挟まれた阿求が「ぐぇ、」と小さく呻く。
蜜柑と横並びになり、色彩的な均衡の問題からいかにも所在なげなその黒い彫刻品を、値踏みするように矯めつ眇めつしげしげと眺める霊夢。手に取ってみようと、指を伸ばした刹那――
霖之助の指が、一足早くそれを摘み上げた。
「あ、見せてよ。んー」
「ぐえ、ぐえぇ!」
「君に疑われるまでもないよ、紛れもなくこれは墨だ。それも、相当古い墨なんだよ――ただし、実用ではなく、観賞用として細工を施されたものでね。実のところ時代としては、今幻想郷縁起に使ってもらったものよりももっと前の代物だ」
「……って、じゃあそれを目次に使えば良かったんじゃない」
「ん?」
「この子は、幻想郷で最も古い墨って注文したんでしょ。時代も古いし装飾も絢爛なら、その墨の方が格が高そうだけど。契約不履行ね、商人さん?」
「人聞きの悪い――」
霖之助は頬を膨らませ、隣をちら、と見た。
そこには、霊夢に潰されながらも、先程から二人のやりとりを苦笑いしながら聞いている阿求が居る。
「なあ」
「はい」
「もし僕がこの墨を注文の品として君に渡していたら、君はこれで字を書いたかな?」
掌に贈り物を載せて、霖之助はそれを阿求に見せる。
阿求は、割とすぐに答えた。
「いいえ。使うのが勿体ないですから、他の墨を所望したと思いますよ」
「ほらご覧、素晴らしいお答えだ。これは趣向としては工芸品だからね。価値を斟酌してくれるなら、出来れば使うよりも飾ってあげてほしい」
最後は懇願するように、霖之助は言う。彼なりに思い入れのある品物だったようで、阿求の答えに霖之助は充分満足したような表情を浮かべた。
すい、と贈り物を差し出すと、阿求が控えめに両手を伸ばす。合わさって小さな柄杓みたいなその白い掌に、霖之助は墨をぽん、と置いた。
「記念品だ」
「わーい」
子供のように喜ぶ阿求に、霖之助は目を細めている。
実のところ、彼にも多少、思うところがあったのだ。
別の道具屋からその墨を入手した時、霖之助は、墨の話す声を聴いた。
古道具屋の性分を抜きにしても、道具達が語りかける言葉には敏感なつもりだ。人に作られた道具は概ね、口々に色んなことを自分に主張してくれる。いつ生まれたのか、作り手はどんな人だったか、どんな人の手を伝って渡り歩いてきたのか。どんな風に使われてきたのか、まるで講談のように色々と教えてくれる。
そして最後に、ほんの少しだけ自己主張するのだ。その道具は、或いは作り手は、どんな風に使われることを望んでいるのか。
耳を澄ますと聞こえてくる囁きのような言葉は、ルーツを辿っていけば必ず一つの始発駅に帰結する。一言で言い表すなら、それは「価値」なんだと、霖之助は思っている。
「墨というものは、書を綴るにも用いられるが、こうして、彫刻細工の素体としても古くから珍重されてきたものだ」
「えぇ、それだけは私も知ってましたね」
「ほう。僕の見つけてきた選りすぐりの墨のことを『何となく』と言った君がかい」
「あはは。いえ、何だか――」
阿求は愉快げに話していたが、そこではたと言葉を止めた。
穏やかに微笑み、それを霖之助は無言で見守っていた。その心情は、誰も知らない。不意にするり駆け抜けた微かなざわめきも一瞬の出来事に過ぎない。夢の中身を確かめる阿求の遠い視線は硝子めいて、霖之助のざわめきは高鳴りへ。想いは昂ぶりへ、そして、
――遠い遠い昔の、お客様の記憶へ。
「なんか私、こうやって前にも、綺麗なお細工物の墨を貰ったような気がするんですよねぇ」
噛み締めるように、阿求は呟く。
霖之助は、遠い昔の少女の顔を思っていた。
今となってはもう昔の出来事だ。すべて過去のことだ。
そして今、一つの「今」が、また新しい「過去」に変わってゆこうとしている。
「……僕からのお願いだ。どうか大切にしてくれたまえ」
「当然です。末代まで大切にさせて頂きますよ」
気のせいか、とびきりの中にほんの少しだけ無理を孕んだ顔で、阿求はにっこりと笑いかけてくれた。
目次はかくして完成し、時の砂時計は落ち始める。第九代阿礼乙女の描いていった夢現の稀覯本――阿求という名前の幻想郷縁起が、本当のエンドマークに変わるために笑顔だけが残っていく。
どこへ?
僕たちの、胸の中へ。
刻みつけるように、言葉を口にした。
――お疲れ様、稗田阿求。
ありがとうと呟きお辞儀を寄越した今代の阿礼乙女は、最後の一言まで、とうとう笑顔のままだった。
◆幕間 【中編 Epilogue】
はらり。
ひら。
一人の少女が、ずっと佇んでいる。
それは着物姿の、幼い子。
一人の少女が、ずっと佇んでいる。
それは筆を持ったままの、うら若い乙女。
一人の少女が、ずっと佇んでいる。
それは長い髪をした、人懐こそうな微笑みの女の子。
桜の花びらには限りがある。どんなに大きな桜木の枝振りでも、散りぬるを絶えず久しく眺め続けると、やがて尽き果てる。花舞わぬ皐月も静かに歩み寄る。
なのにいつまでも、あの桜は舞い散り続けている。
自然の理、季節の理、時の理をまるで無視して、途方もなく春の欠片が降り続ける。天つ彼方より季節の証を運び、春風に溶かし、季節の息吹を二人きりの空間に刻みつけてゆく。桜はいつまでも散りやまない。いつまでも過去にならない今がある。
それは着物姿の、幼い童女。
それは筆を持ったままの、うら若い少女。
それは長い髪をした、人懐こそうな微笑みの女の子。
桜は舞い散り続ける。
彼女達が誰かを待ち侘び続ける限り、いつまでも薄紅の雨はやまない。
楽園の不思議な巫女さんが伸ばした手を、今度こそ掴むと胸に誓いながら待ち続ける。
その哀しい待ちぼうけが終わるまで、春は歩みを止めてくれている。現は過去になる術を忘れ、行方知れずに彷徨い、夢現からただ夢になってゆくのをやめてくれない。転生の輪だけが、残酷なまでに旋転を続けては季節の栖に舞い戻る。
現を現として処理しきれないままに、時を重ねて気付けば――わたしの横を、九つもの春が通り過ぎていた。
巡り会うたびに失敗する。
巡り会うたびにつくしのように顔を上げて、
巡り会うたびに郭公のように使命感を告げて、
巡り会うたびに幻想郷縁起の分厚い完成本を抱き締める。
巡り会うたびに失敗する。
巡り会うたびに勿忘草。
巡り会うたびに不如帰。
巡り会うたびに幻想郷縁起は、縁を起こさぬまま奥付へと辿り着く。
誰か止めて。
誰か止めて!
――いつだって、阿礼乙女。
肝心なところで人見知りするところまで、転生で受け継がれなくても良いのにと思うけれど?
言葉に出し切れずに待ち続けている。
いつまでも降り続ける桜のせいで、少女達は同じようにいつまでも待ち続ける。六代目も、五代目も。
永遠の春が終わらない。
そして季節はまた一つ過ぎ去ってゆこうとしている。酷薄さを残しながら。
九冊目の幻想郷縁起――完成までは、今少しの時間がある。
もしもこの雪が止み、無事に春を越せたなら、また少し大好きな人と一緒にいられる時間が増える?
それとも――
『行こうよ!』
『…………っ、』
――あてのない約束を、またひとつ積み重ねるだけで終わるの?
~つづく~
>>まだ右も左も分からかった。
>>色合いについては保証しな。、ただ墨として...
色合いについては保証しない。ただ墨として...
だが、彼女の桜はまだ散らない。
彼女の桜は、まだ、想いを溜めているから。
桜は、想いを乗せて散ってゆく。
彼女の桜は、散る時を知らない。
なぜならーーーーー
彼女の想いは、まだ、届いていないから。
果たして、届くのだろうか?