◆ 【Prologue】
あの日春風の中に佇んでいた、その少女。
頬っぺたに貼り付いた花びらに気づいてなくて、きょとんとしている顔がとても可愛かった。
少し童顔な分を差し引いても、私よりやや年下のように見える。周囲は風の音のみで、とても静かだ。彼女の手から滑り落ちたばかりの手鞠が、その風に吹かれて転がっていった。
頭上には鮮やかな春がある。満開から数日を過ぎ、しかし坂道を転がり落ちるように唐突な花冷えの今日、少し強すぎる春風に吹かれて、負けて散り始める桜がある。遠くには朱い鳥居。すぐ傍には庵のようにつつましやかなこの神社の拝殿、花びらの貼り付いたお賽銭箱、その向こう側にも桜がきれいに咲いている。
当時魔理沙より背が低く、馬鹿にされていた私よりも更に輪を掛けて小柄な少女は、和服に似ているけど少し違う服を身に纏い、色白で折れそうなくらいの痩せぎすだった。瞳はとても大きくて、澄んでおり、くりくりとして硝子質で、見つめられると心の中まで見透かされているような不思議な瞳だった。けれど、そのまま硝子ケースの中に飾ってしまえば残酷なくらい似合いそうで、お金持ちの家にある人形に雰囲気が一番似ていた。
ねぇ。
私が彼女に声を掛けると、その瞬間に春風が吹き抜けたのを覚えている。さぁっと音がして、ここから物語が始まるのだと、告げた。芝居がかっていて、どこか劇的だった。
朱鳥居をくぐり抜けて手水の柄杓を冷やしたあと、椿や杜若の生け垣が冬を濁らせているのをせせら笑うように揺らし、二つめの石の鳥居とそこに架けた注連縄を撫で、社殿の雨樋をかたかた鳴らして鈴に結ばれた太い合わせ紐を泳がせ、少女の浅葱色の着物、袴みたいな赤いスカート、赤紫色のおかっぱの髪とを目と鼻の先で順に揺らして、風は最後に私に辿り着く。
私の伸びた前髪にぶつかり、風は広がった。
そして桜の匂いを鼻の奥に微かに運んで、北の方へと吹き下る。
少女の瞳は、ずっとまっすぐ私を見ていた。一切他のものなど目にしていない――ただひたすらに、私だけ見ていた。
ねぇ。
……行こうよ。
私はまた声を掛けた。
そちらから話し掛けてくれないならと、私はついに聖域に手を伸ばした。
戸惑っている彼女の領域にずかずかと踏み込み、胸の前で握りしめていたその固い手を、がしっと引いた。
どうやら、激しく人見知りをするらしい。尻込みどころか半歩後ずさりまでして、それは勿論いきなり手を引いた自分も悪いのだけど――少女の眼差しには、一瞬にして警戒の色が混じった。口許を引き締め、上目にこちらを睨むその表情は、しかし眺めるとまるで造形物のようにとても綺麗な顔立ち。何故だろう、私の方がどきりとした。
もどかしくなり私は、少し強引に手を引く。
ね? 行こうよ。
……どこへ行こうとしたのか? それは分からない。
あの時行こうとした場所を、実のところ、私は覚えていないからだ。
そもそも私は、どこか行く宛があって彼女の手を引いただろうか? 実は怖い妖怪にでも追われていて、そこに居たら危ないとでも思ったのか? 果たして……思い出せない。
ただ、彼女は抵抗というものを何もしなかったのも事実だった。華奢な身体を見た目のままに軽々と引っ張ることが出来、物言わず、私のなすがままに彼女は私の手に引かれた。このままどこかに、遊びに行けるのかなあと思った。二人分の足音が春風に割り込み、そのまま何歩かだけ、私達は手を繋いで歩いた。
そして、
「――!!」
何歩目か。
唐突にぱっと、手を引っ込められてしまった。
その瞬間のことはよく覚えている。しゅうっと匂いがして、まるで誰かの魔法が解けたような音を聞いた。振り返ったところに無言の少女が見せていたのは、彼女が初めて見せた、自身の感情の発露――彼女は、見るからにおびえていた。。
舞い散る花びらはすべて空中で止まって、きぃん!! と――――なんだか音も匂いもしなくなった――――そんな感じだ。言葉では言い得ない。瞬間的に春は確かに立ち止まって、私達を置いていった。
あの春は、壊れてしまう前に自分で時を止めたと思う。
「あ、……あ、ごめんね?」
「――!」
少女は首をめいっぱい横に振った。そして、続けて何かを言おうとした。
……ダメだった。声にならない。
口だけがぱくぱくして、いつまで待っても言葉を出せぬ彼女は何だか金魚鉢の金魚みたいだった。一種の朝顔の色にあるような赤紫の髪は、その動きの横で風を受けてふっくらと膨らむ。まだ幼いのに、柔らかそうなその唇には薄く口紅を差してもらっているようだった。そこだけ妙に、大人の匂いがしていた。
そして――彼女は、唐突に花嵐の風に駆け出した。
まるで、逃げるように。
今まで立っていた場所を、彼女はただの一度も振り返らず走った。足許へと散りぬる花びらが草鞋の風で舞い立つと、ぱぁっと色づいて渦を巻く、その鮮烈な薄紅色の映像。きれいだった。女の子と同じくらい、春のいい匂いがしていた。
私は、動けずにいた。
淡い記憶は、そこでふっつりと終わる。
怯えきってしまった大きな瞳も、春も、落とされたまま忘れ去られた手鞠も、花霞む私の記憶の中、そのままの表情でいずれもが氷漬けになってしまった。
――あの春の日は、私の中でまだ続いている。
何故だろうか、それが私の直感なのだ。私がもしあの神社の境内にふと舞い戻れば、あの少女はまだそこに居るのではないかと思う。風に巻かれた花びらがそうするように同じ場所へはらり舞い戻り、居なくなってしまった私を探して、まだ佇んでいる。拒んでしまったことを彼女は後悔している。今度こそはと――あれからいくつもの季節が、確かに過ぎているというのにだ。
そんなはずもないのに、彼女は私の中であのときの歳のままで、いつまでもあどけなく、寂しげで、初雪のような薄紅色の風に吹かれてずっとずっと待ち続けているのだった。
――行こうよ。
◆ 1
「あけましてー」
「あら」
松の内の最終日、その朝。
ひょっこり現れた巫女の姿を見て、稗田阿求は首を傾げる。お正月に巫女さんとは何とも景気の良い話だが、裏を返せばお正月は、彼女にとってかき入れ時の一つである。神社にあっては初詣の客がひっきりなしに訪れるし、御神酒を振る舞ったりご祈祷申し上げたりと息つく暇も無いはずだ。人里に降りればお金持ちの家のご祈祷もあるだろう。幻想郷の中では名家として通っている稗田の一族だが、いきなり博麗の巫女の方から直々に詣でていただくほどではない。
稗田阿求ご自慢の生来の性格で、思ったことが大した遠慮もなく、ぽんと口をついて出た。
「もしかして、暇なんですか」
「もしかしなくても暇よ」
少々呆れつつ、阿求はその暇人を邸内へ迎え入れた。市井の目に臆することなく堂々と褞袍(どてら)姿でやって来た天下御免の根性にはある種の敬服すら覚える。真似したいとは思わないけれど……。
鹿の子模様の縮緬を継ぎ接ぎ合わせた分厚い褞袍を着込んで背中を丸めて上がり込む霊夢の後ろ姿は、格式ある博麗の巫女なのにまるで赤い雪だるまだった。白木の可愛らしい雪駄……の代わりに、威風堂々の青い長靴。これも潔かった。
さな板の手前できちんと揃えてあげてから茶の間に戻ると、赤い雪だるまは既にこたつにとろけていた。
「うはぁ……あったかーい……」
「いやいや、いきなりくつろぎすぎですってどう考えても」
「こたつー……あいしてる……」
こたつの中で豆炭が赤面している。
「だいたい、寒いのが嫌なら家に籠もっておられたら良いじゃないですか? お正月の挨拶なら、明日にでもこちらから伺いましたのに」
阿求はそう声を投げた。初詣には参じたが、慣例としては松の内が開けた頃、巫女さんの身体が空いた頃を狙って賀詞交歓を行う。酒も料理も持ち寄られるその宴を忘れたはずもあるまいし、そもそもものぐさな性格をした霊夢にして、首を傾げるほどに積極的な行動だった。そのくせこたつで丸くなっているのだから、いよいよ何をしに来たのか分からない。
また――阿求の側にもこの正月は、彼女の元に出向かなければならない、ちょっとした用事があった。
霊夢は少し顔を上げて阿求を見る。ふるふると、首を横に振る。
「いやはや、いっつも来てくれるのは嬉しいんだけど、それをされると困るから、こうして私の方から来たんじゃない? 寒くてさ、実は今年あんまりお正月っぽい準備してないのよねー」
「冬が寒くない年なんてありませんよっ」
思わず突っ込み、それから時計を見た。いかめしい外見の柱時計が、松の内の大とりの、更に真ん中をもうすぐ告げようとしている。
「あらら、こんな時間ですか――そろそろお昼ですけど、まぁ折角お越しになったんだし、なんならお雑煮でも食べて行かれますか」
「えっ本当!? やー悪いわねぇ、そんな美味しいもの御馳走になっちゃうなんてー!」
「……」
大根役者も裸足で逃げ出すような派手な棒読みである。
ちら、ともう一度、阿求は時計を見た。
「霊夢さん。貴方って結構、正月早々わかりやすいことしますよね」
「……だってだって」
「まったく神社の巫女ともあろうものが、餅を湯がくのも面倒くさがって――」
「そんな中途半端な面倒くさがりじゃないわ。面倒くさがるなら、もっと先に面倒くさがるわよ」
「……まさか、お正月のお餅もこしらえてないんですか!?」
「寒かった。今年は特に寒かったのだ。うむ」
霊夢は達観したように頷きながら、こたつの天板に顎を載せて眠るように瞳を閉じた。あまりの有様に、阿求は呆れて二の句が継げないでいる。
「うーん……」
ねじの緩みきった霊夢の顔はそれでも幸せそうで、それを見ていると阿求にも何となく、ああこの人はそれで良いんだろうなと思えてくるから不思議だった。もちろん良い筈も無いのだが、今更お尻を叩いて動く人ではないような気もする。
ざるに盛ってあった蜜柑をひとつ摘み、阿求はその頭の上にそっと載せてみた。
「ほ……?」
「ぷふっ」
そうしてみると、いきなりこたつに闖入してきた、大きな蜜柑のお化けみたいにも見えてくる。
「まったくしょうがないですねっ! ……それじゃ、私はお雑煮の準備してきますから」
「話が分かるわねー。まかせたっ」
「いや、ちょっとくらいは手伝いとか、そういうのを申し出るのが筋でしょうに」
「お客様はもてなされるものよー」
「異様に腹の立つ正論ですねー……あさましい」
天板の頭を拳でぐりぐりしてやりたい衝動を堪えつつ、不承不承といった声を残して阿求は茶の間を後にした。しかし、声とは裏腹に足取りは軽い。霊夢に背を向けたところで、傍目には彼女も充分に不思議なほどに、明るい表情を浮かべた。
霊夢をこれからもてなそうとしているのは、他ならぬ稗田阿求自身である。
稗田家の慣例として、使用人達は松の内まで、丸々お正月休みが出されて家に戻っている。このお正月は、包丁と洗濯板とホウキちりとり雑巾を阿求自らが握っていた。すべては家人のために――涙ぐましいことだ。どこかの巫女に語って聞かせたい話である。
霊夢一人分の食材なら、蓄えがあった。使用人達の仕事納めの日にみんなでついた、丹精籠もった真っ白なお餅も人数分以上に沢山残っている。
いくつか掌に積み上げて、阿求は朝から熾しっぱなしの竈に向かった。
これから自分がお客様の料理を作ってあげるのだ――そのどきどきするような緊張が、阿求の胸を喜びに高鳴らせていた。
さて稗田阿求は、れっきとした女の子である。阿礼乙女だから女として育てられたけども服を脱がせてみれば実は男の子なのです――等という、神秘的でマンガのような秘密などは勿論持っていない。正真正銘の本物である。
名家の箱入り娘である彼女が一体どんな教育を受けたかについて、深く知る者は少ない。
お琴、お花、お算盤に日本舞踊――それっぽい噂はいくらでも立つが、実は阿求自身、そういった方面の嗜みの訓練はまるで受けたことがなく、文化的な造詣もあまり深くない。お稽古をつけようという機運は何度も起こったのだが、阿求が乗り気でなかったために全てご破談になった。お琴は雨合羽を乾かすのに一回だけ使ってえらいこと怒られ、お花は野から適当に摘んできて剣山に刺しつつ、水をやり忘れてゾンビにしてしまったりする。お算盤は幼少の頃二本使って廊下を立ったまま滑ってゆくのに使ったことがあり、えらいこと以下略。
阿求が受けたがった教育は、もっともっと「人並」のことだった。
「おっとと……」
たとえば。
お雑煮を作るため厨房に立った後の阿求の御手並みは、練熟とまでは行かないにしても、少なくともまるでよどみが無い。幼い頃から厨房に親しんで、ちょくちょく遊びに来ていたせいである。
お料理、お洗濯、お裁縫――周囲の女中達が魔法のような手つきでこなしてゆく家事の数々を、阿求はお得意の記憶術を駆使し、見様見真似でどんどん覚えて、たまにお手伝いに立つことで実地訓練を重ね、それぞれ技術として一人前半くらいの腕前へ、広く浅く修めていった。家人に盆暮れの休みを出せるのもこのお陰だ。阿礼乙女始まって以来と言われる、家事に対する腕前と積極性の賜である。
周囲には、様々な意見が飛び交った。とても女の子らしいです、という意見がまずあった。阿礼乙女と言っても一人の女の子に間違いはないのですから、お料理が好きだと言うならやらせてあげれば良い――
他方で、こういう意見もあった。料理や掃除は私達でも出来るが、幻想郷縁起の執筆は誰にでも出来ることではないでしょう。本業を疎かにして幻想郷縁起の血筋に傷が付くことでもあれば、後世に渡って沢山の人にとっての損失になる――そう言って、眉を潜める。どちらの意見が正しいというのは、一概に言えないと阿求も思う。
ただ、一つ言えたのは、お料理やお洗濯で楽しそうにする阿求のことを、誰もが好きだったことだ。
まな板や竈の前に立たせてもらえることは、大切な身体なのでそれほど多くなかった。だが、小さな女の子が面白がって料理の場にやってくれば、みんな粋がって教えてくれたものだ。それが女中というものの性分だった。眉を潜めていた者達さえも、こてこてと阿求が困っていれば、ついつい手を出し口を出してしまう。
お料理だけでなく、お掃除お洗濯と一通り、子供の内から親しんで阿求は育った。
そして今にして思えば、それは、できるだけ普通の女の子らしくありたいという、無意識の憧憬だったのかもしれない。
「一個、にこ、さんこ……」
生来の物覚えの良さで、成人した阿求は晴れて堂々現役だ。使用人より使用人らしいな、と、口の悪い人がいつだか零した。平皿へ無造作に盛られたお餅をいくつか選んだ。飛沫を立てぬよう、鍋に落とす。稗田家のお餅は、人里の民が多く作る角張った切り餅ではなく、手でこねて丸く成形した「丸餅」と呼ばれる代物だ。
この形が、遥か昔から残る旧慣だった。
「あつっ……!」
ふわっ、と鍋から沸き立った湯気に指を悪戯されて、阿求は手を思わず引っ込めた。料理の手はそれでも止まらない。割烹着の前まで縮めた左手をそのままにして、お餅の隣でもう一鍋ぐつぐつ煮立つ小豆を相手にする。
不器用な格好のままで右手一本のお玉を振るう、阿礼乙女。
ずいぶん経ってから、はたとその滑稽な姿に自分で気が付き――ひとりきり、苦笑いを浮かべた。
その瞬間――
遠い遠い昔の記憶が、ふいに脳裏に蘇る。
「……」
――たくさんの桜が見える。
その日のことは、肌に感じた空気の温度も丸ごと覚えている。日増しに暖気が増していたのに、一日で冬に逆戻りしたような寒い朝だった。かさかさと音を立てて揺れる頭上の枝から、きれいな桜の花びらが舞い落ちてきていた。冷たい風に負けていったそれは、まるで春に降る名残雪のように見えた。
私は手鞠を抱えて、誰にも内緒で外へ出た。とある神社の境内をお花見場所に選んだ。手鞠をうっかり手から滑らせ、転がっていったそれを追い掛けて行ったそこで私は、一人の少女に、「見つけ」られたのだ。
――行こうよ。
――どこへ?
いきなり言われても、分かる訳がない。
――行こうよ。
彼女は、しきりに私を誘ってくる。
緊張で縮こまった手をが縮こまったまま、握りしめておくべき手鞠も落としてしまったし、どこに置いたら良いのか分からず、私は胸の前で拳を作っていた。腕がだるくなるまで、ずっと。
ちょうど今、熱い鍋から手を引っ込めたのと、同じ体勢で。
何となく、そんな取るに足らないことで思い出してしまった。
外の世界の言葉で言えば――活写が佳境に差し掛かる頃の「フイルム」を、一齣だけ切り取ったような、短く、再生しようのない想い出だ。けれどそのフィルムを光に透かすと、当時の色情報が確かにそのまま残されているのである。巫女さんのきょとんとした表情も覚えているし、落とした手鞠の柄まで覚えている。
あれは、一体――
「……ふーん。変わった形のお餅ねぇ」
「ひゃあうっ!?」
唐突に、息の掛かるような距離から声がした。
昔日の想い出に耽溺していた純情な阿礼乙女は、背後に近づいてきていた人間の足音すら綺麗さっぱり聞き逃していたのだ。
「あわ、あわわわ」
お玉が右手の中で遊び、文字通りのお手玉を演じる。どうにか空中で掴み直したところで「うげっ!」、目の前で煮立つお餅に気付いて慌てて持ち上げようとし、うっかり素手で掴もうとして「待って待って」と、鍋掴みを取るために竈の横で背伸びをする。
お餅は危ない。煮立てすぎると、掬う箸で千切れてしまうほど柔らかくとろけてしまうのだ。
「うん、まだつかめる。セーフです」
「うん、せーふね。……ん?」
ぽて、とお碗にお餅を落っことした箸の動きが、そこではたりと止まった。
隣に立っていたのは、確かに巫女さんである。巫女さんではあったのだが、それは、霊夢ではなかったのだ。
「あら」
「あらあら」
阿求がゆっくり振り返るとそこには、巫女装束は巫女装束に間違いなくとも、博麗霊夢とは異なる色のを纏った人が佇んでいた。
服は青色。
髪の毛は緑色。
先程までこたつに突き刺さっていた筈の霊夢は、褞袍だるまのまま懐手をして、その後ろに無言で付き従っている。
「お久しぶりですね、阿求さん」
「どこかでお逢いしましたっけ。私じつは忘れっぽくて」
「ひどい! 嘘にしてももっと上手で、つく意味のある嘘をついてほしい!」
「まぁつまり嘘なんですが――」
へこ、と首だけでお辞儀をしながら阿求はお鍋に向き直る。未だ泳いでいる自分の分のお餅を、白木の箸で追い掛け始めるためだ。
「ですがお雑煮は、早苗さんの分まではご用意してませんよ?」
「……えー」
「えーじゃありませんよ、大体なんで人の家に無断で上がっておられるのですか」
「無断じゃないですよ、ちゃんと霊夢さんに許可は取りました」
「勝手に許可しないで下さいよ霊夢さん!?」
「おまえのいえはおれのいえ、おれのいえはおれのいえ」
どんな大泥棒かしら――
心の中で突っ込みながら、新たに現れた客人、東風谷早苗の笑顔にも、何となく安堵を覚える阿求だった。
付き合いは霊夢ほど長くはないが、これはこれでなかなかに掴み所のない、面白い人なのだ。
時ならず賑やかになったところで、阿求の頭に一つのひらめきが浮ぶ。
「……そうだ。みんな揃ったんですから、鏡開きしませんか?」
「うん? ああ」
「おお、鏡開きですか」
阿求の提案に、二人はもちろん異存無さそうだ。空腹な神職者ときたら、断る理由はどこにもない。新しくお餅を湯がくよりは、鏡開きのお餅を加えて全部入れたお雑煮をみんなで按分してしまえば良いのだ。
三角巾と割烹着姿のついでに何故かお玉まで丁寧に握りしめたまま、阿求は客人を残し、とことこと床の間へ向かってゆく。取り残された二人は、廊下を曲がって見えなくなる阿求の背中をぼんやりと眺めている。竈の湯気に炙られ、引き揚げ忘れていたお餅は結局早苗が気付いて、端に投げ捨てられていた菜箸で持ち上げた。
霊夢と早苗は、視線を交わして――思わず、くすりと笑った。
◆ 2
「できましたよー。……ったく、皆さん揃って良い時にお越しになるもんですね」
「巫女(わたし)達がお正月に来たんだから、そりゃあ良い時よ」
「歓迎してほしいですね」
「はいはい、本年はきっと良いお年になりますよーっと」
慣れた手つきで運ばれてきた三人分のお雑煮が、どかっとこたつに到着する。霊夢は猫背で、早苗はこたつから足を抜き、膝立ちになって身を乗り出し、それぞれお碗の中身を覗き込んだ。
「おお?」
「うえ?」
――それを、鏡開きとぞ言ふ。
言わずもがな鏡餅とは、お正月になると家に現れる、小さな蜜柑みたいに見える橙という名前の実を載せてある、二つ重ねの丸い大きなお餅のことだ。そして、お祀り終えたお餅をこうしてお雑煮にしていただくことを鏡開きという。無病息災、家内安全、人によっては商売繁盛や縁談成就、そういう御利益を願う日本らしさあふれる年中行事だ。
格式にうるさい幻想郷、特に商売で身を立てている者の家はまず例外なくきちんと鏡餅をこしらえる。年末のお餅つきで、自分たちの食べる分よりも先に作る。神様に召し上がっていただくお餅だから、人間が食べる分よりも先に作る。
そして神様が召し上がった後、こうして松の内の明ける日、人様が鏡開きを行うのである。でっかい木槌なんかで大きな鏡餅をばっきーん! ……と叩き割って、焼き餅にしたり、こうしてお雑煮にして神様の力をいただく。
稗田の家なんかだとお餅の真ん中には、一体何のおまじないか古い寛永通寶が一枚入れてあったりするのだがこれは民間信仰の類である。何も知らずに食欲に飽かせて霊夢がばくっとお餅に噛みつくと、死ぬまでお煎餅が食べられない前歯になるという戒めの効果もあるのだ。
「そんなことしないわよ失礼な!」
……さておき同じ風習が人里の、特に商家に多く残っているとは聞く。
正確な意味は阿求もよく知らない。まあ何となく、商家と寛永通宝で察しは付くのだ。
さて、そういう鏡開きである。
――しかしながら。
「あ、阿求さん……」
「はい?」
「これ何ですか」
「これ何よ」
「これ?」
阿求は首を傾げ、早苗と霊夢が指を差すのを辿る。忠実に対象物を特定出来るよう、出来るだけ指先を近づけた先の、黒々とした物体に目を凝らす。目を凝らしても変わるものではない。
何度見つめてもそれはあずきだ。あずきが大豆になりはしない。
「何って、これはあんこですよ」
「あんこ……ですよね…………」
「は?」
意味が分からずまごつく阿求だが、見知らぬ動物を見るような二人の目に、ただならぬ気配を感じ、何か変なところでもあるだろうかと心配して阿求も覗き込む。
二人はお碗をじっと、見つめる――を通り越して、既に睨み付けている。まるでお雑煮に親を殺されて百年目に出逢ったみたいに、敵意すら感じる眼差し。
ほくほくと熱い湯気を上げるお餅が、同じく熱々の小豆あんの中で身じろぎしている。めちゃめちゃ美味しそうである。むろんそのまま頬張って丸飲みすれば灼熱地獄であの世行きだが、甘いあんこの中でお餅がとろけて、それをふうふうして食べるのを想像するだけでも気持ちが高鳴るお料理である。
霊夢が、叫んだ。
「…………なぁんでお雑煮にあんこが入ってんのよぉ!?」
「え? ええっ!!? 入れるでしょ普通あんこ!?」
「入れませんよ」
早苗までもが加勢する。
お客様の分だからと気を遣ってお餅の上に流し込んだあんこは普段よりもかなり多いため、黒々とした奔流に鏡餅の残骸はなるほど、ほとんど呑み込まれている。三人は、それがお雑煮だとあらかじめ知っているから、お碗の端っこに小さく見える乳歯みたいな白い物体がじつはお餅なんだと認識出来る。それは確かだ。
だが、それでもあんことお餅が入り、熱々なんだから間違いなくお雑煮だろう。何も問題はない。普通のお雑煮だ。百人が見たら百二十人がこれはお雑煮ねと言う。
そう思ってるけど……
「違うんですかね?」
「違う」
「違います」
「あら可哀想に、こんなに美味しいお雑煮を知らないなんて。はむ…………」
すったもんだの末、阿求は客人に先んじて箸を付ける。
そして、
「……んむ~~っ!!」
忽ち緩みきって、頬に手を当て、謎の咆号を一発放つ阿礼乙女であった。
生来の甘党で、お正月の御馳走という点を抜きにしても根本的にお雑煮が大好物なのだ。
そして、生来の甘党が味付けに参画したあんこが如何なる味になっているか――約やかに言えば、おおむね想像の通りである。阿求に遅れて箸をつけた霊夢と早苗は、躊躇いがちに一口まず口にした瞬間「ばまっ!」「ぁま~い……」と、至極当然の感想を口にしていた。
この甘さが、しかし九代目阿礼乙女渾身のお雑煮の味付けなのである。やりすぎて家人にまで若干不評で、しかも隠し味に蜂蜜まで入れてあるのを知らせた暁には、霊夢あたりは恐らく暴動を起こすだろう。
心の底から釈然としていない二人の顔に、阿求は心配顔になって問い尋ねる。
「あの……美味しくないですか?」
「いやまあ、美味しいか美味しくないかで言えば」
「美味しいんですけど」
お餅料理だから歯切れが悪い――なんて、お雑煮だけに旨いこと言えば良いってことも、あるまい。
「でもやっぱ、お雑煮にあんこはおかしいと思うわ」
「無いですねー」
「え、え……ええ!?」
つまんでいたお餅が、その箸から離れる。びろーんと伸びていた白いお餅が、そういう生き物であるかのようにお碗へと逃げ帰る。阿求の視線は動揺で宙を泳いでいた。
「お、お言葉ですけど霊夢さんにとってお雑煮ってどんなものなんですか」
「どんなってそりゃあ……ごく普通にお出汁をとって」
「ダシ!? お魚とかしいたけの、あのダシ!?」
「それからしょうゆとみりんでお味を整えてー」
「それただの煮物じゃないですか!」
「お雑煮なんだから当たり前じゃない!」
禅問答のような会話になった。
阿求は脱力して、乗り出していた身を座椅子に落っことした。お碗に逃げ帰っていたお餅を力なく再逮捕して、小豆を巻き込みながらまるまると口に運ぶ。
「はあ……へんひょうふぉうに、ひがうお雑ひがふぁるなんふぇひりまへんれした……」
「私からすればこっちの方がずっと『違うお雑煮』よ」
霊夢は憮然と答え、確かめるように、お碗の中身をもう一度眺めた。何となく阿求のやったのを真似て、お餅を伸ばしそこに小豆を巻き込むようにしてこちらも口に運ぶ。
未だ表情は釈然としないが、
「……おいひいふぇどさ」
取りあえず調理技術に関しては瑕瑾無く作られたお雑煮に、不承不承評価を与えるのだった。
こちらも釈然としていない阿求だが、切り札のようなその一言に蟠りはかき消されたのだろうか。
「ほいふぃいなら、まぁほはったへふ」
「まぁ……お菓ひっふぉいんふぁふぇふぉ」
「んむ。甘いですからね。お粗末様です」
阿求は頭を下げる。
美味しい、と言ってもらうのは、やっぱり嬉しい出来事なのだった。幼少の頃、自分が「おいしい!」と言っただけで、顔をくしゃくしゃにして喜んでいた、今はもう亡くなってしまったお婆さん女中の気持ちが、今更になって、ようやく実感出来た気がした。
お餅が固くなってしまう前にと、阿求はまたお餅を口に運ぶ。阿求同様、博麗霊夢も紛れもなく女の子である。女の子であるからには、甘い物が嫌いなわけはないのだった。それはおろか家人達よりも、霊夢の方が結局、よほど美味しそうに食べてくれている。他のお料理はともかくお雑煮に関してはいくらなんでも有り得ない、これは甘いにしても甘すぎるとか、三日はおやつが要らなくなるとか、虫歯へのお年玉だとか、正月太り推進委員会だとか、、これはあんこが入ったお雑煮じゃなくてお雑煮が入ったあんこだとか、家人達にはまぁ散々酷い言われようだがそれも忘れさせてくれる。それを客に食べさせたのかという点については、自分自身で不問に付したい。
同じくらいの歳の同じ女の子なら、この甘さがちょうど良いのである。
「……まぁ鏡餅だし、どうあっても美味しいわよね」
「いやあんこも褒めましょうよあんこも? 私丹精込めて作ったんですよ?」
「さすが鏡餅だしとっても美味しーい」
調子づいてきた霊夢も、平然と冗談を放つようになる。
「ひどい! 早苗さんこの人ひどい!」
よよと泣き真似をして、阿求は逆隣の東風谷早苗の腕に抱きついた。
勿論ふざけての行為だが、そこではたと冷静を取り戻す。白い袖の中、たった今、自分が、とてもはしゃいでいたことに気が付いたのだ。
お友達を家に呼んでお料理をして、久し振りに、心がびっくりするくらいわくわくしていた。
「あ……ご、ごめんなさい早苗さん」
ぱっと離れる。遠慮することもないのだけど、気付いた途端、何だか恥ずかしさの方が勝ってきた。
手探りみたいなその会話は――今までのツケだった。
妖怪化生の類を相手に、交流というよりは観察に近い付き合いを重ねていたツケで、阿求には、同年代の女の子と友達になる方法、上手に喋る方法が、よく分からなかった。うまくきっかけも作れず、普段強気で押し隠している人見知りで引っ込み思案の本心が、見知らぬ人と向かい合った途端に台頭する。すぐに言葉も喋れなくなったりして、喋っても、市井の女の子達みたいに屈託なく、色んな可愛い言葉など喋れなかった。もっと喋りたかったし、想像の中で自分はきちんと、誰を相手にしてもちゃんと喋っているのに。
(早苗さん……)
物言わぬ早苗の顔を、上目遣いにちら、と覗いた。
このまま友達になれたなら良いのに――そう思いながら。
「さなえさ……あ、あれ?」
そこにあったのは、妙な光景
丸く見開いた目をそのままにし、行儀悪く箸を二本握りしめた右手を口許に添え――東風谷早苗は、抱きついてきた阿求ではなく、博麗霊夢を見つめていた。
それこそ、親の仇のように。
阿求が腕に抱きついたことなど、最初から気付いてすら居なかったような風情。
「あれ、あれ…………あのちょっと、人が感傷に浸ってる時に早苗さん? どうしたんですか?」
「どしたの早苗」
問い掛けられた早苗。
悪夢の後のうわごとのように、
「信じられない……」
朦朧とした表情でそう呟き、もののついでのように
「この幻想郷では、常識に囚われてはいけないのですね」
と、付け足した。
む、と霊夢が眉を歪める。阿求は首を傾げる。
「お雑煮は……」
唐突な静寂が訪れた中、早苗は満を持して、呆れたように呟いた。
「お雑煮といえば、誰がどう考えても『味噌』でしょうが!」
「…………」
「…………」
阿求と霊夢は、顔を見合わせる。
目と目で通じ合い、ひとつ頷いた。
「早苗」
「早苗さん」
「はい?」
「無い。それは、それだけは絶対に無い」
「えー!?」
早苗は素っ頓狂な声をあげる。気心の知れた霊夢に、早苗は抗議をぶつけている。
そして阿求の耳には、既に外界の声が届いていなかった。
味噌のお雑煮。
味噌のお雑煮。
頭の中でお餅にくっつく味を、味噌味に置き換えようという試みを行っていた。妄想の厨房は試行錯誤を繰り返し、試供品を量産した結果、それは最終的に『餅を入れた味噌汁』へと変わった。
舌で味わう。
口を押さえる。
「な……これは無いです……」
「ええー!?」
ぶる、と身震いして吹雪の中で暖を求めるように、阿求はたっぷりのあんこと一緒に鏡餅を頬張り、お口直しをするのだった。
*
「ごちそうさまでしたー」
「ふー。最高のお正月ねぇ」
そりゃ食べるばっかりなら最高のお正月でしょうよ、と阿求は思う。
三人分の食器を山積みにしたお盆を、洗い場の脇にどんと置いた。
「えーん……洗い物手伝って下さいよ!」
阿求は背後を振り返って叫ぶ。
「ねえってばー!」
「あーいやでもほら、私達はお客様だし」
「もてなすのではなくもてなしてもらう側ですからね……」
「……ふんだ。でっかいお餅を二、三個のどに詰まらせて窒息してだけど死ぬに死にきれず、七転八倒もがき苦しみながら二十年くらい生きた上に野垂れ死にしやがれ徒飯喰らい共が」
「うわあ……」
「さすが文筆業、よくもまあ間を置かず当意即妙にそれだけ違う種類の罵詈讒謗が口から出るもんねえ」
背筋も凍る悪辣な呪詛を平然と受け流して、霊夢は感心さえしているようだった。いずれにしても手伝ってくれる気配はなくて、結局阿求はしょぼくれて一人洗い場に立つ。
まあ、どのみち、阿求にも生まれ持った性格というものがある。
もてなされるよりは、もてなす方が好きな性格だ。
冗談半分でああは言ってみたが、もしこのお片づけに、手を出されたらそれはそれで恐縮してしまうと思う。誰かのためになるこのような行為を、少なくとも阿求は、苦痛に感じたりしない。
十全に恵まれた環境を用意され、蝶よ花よ育てられた子供生活の中で、少女阿求はそれに増長するよりも、いつしか、誰かを同じようにお世話して、喜んで貰いたいという強い夢を抱くようになっていった。幼き頃の家事手伝いは、そのささやかな表現の一つで、もしも未熟で自分が足手まといになると分かったら素直に手を引いたりもした。
誰かに喜んで貰いたい――非常に、単純な気持ちだった。こうして洗い物を始めた阿求の心は、それ以上に何の説明も要らない、世話を焼くことに幸せを感じる滅私奉公の篤実な想いだったのだ。
「御機嫌ねぇ――あ、早苗が帰るって」
「あきゅうさん、突然やって来たのにごちそうさまでしたー! すみません、ちょっと用事を思い出しましたー!」
「はいはーいお気になさらず。今度来る時は合わせ味噌をきっかり一人分自分で持ってきやがれーですーっ」
「ぐすっ。うちの神社の文化をばかにしてぇ……」
早苗は涙ながらに去ってゆく。残された霊夢がこたつで、愉快そうにころころと笑っていた。
もらい笑いで阿求も相好を崩しながら、再び洗い桶に向き直る。ふわりと、しゃぼんの玉が早苗を追い掛けて背後に一つ、流れてゆく。
……果たして。
家人に、こういったどぎつい冗談が通じる者は少ない。恵まれすぎたその生活を物足りないと言ったら罰が当たるが、望月の如き幸せかといったら、それも疑問符も付く。
家はいつでも和気藹々としている。だが、同年代の女の子と何も考えないで騒ぎ合う機会には、決定的なまでに欠けていた。お雑煮を御馳走するという今日の出来事は、その意味でも、阿求にとって素直に喜びを感じられる出来事なのだった。
じっと黙っていれば何もかもしてくれる家人と違い、今は、れっきとした自分が、誰かをもてなして、お喋りをして、喜んでもらっていた。
くすぐったいその胸の高鳴り。
霊夢一人きりになった背後に向かい、阿求は声を投げた。
「……霊夢さん。洗い物が終わったら、ちょっとお願いがあるのですが」
「うん?」
「じつは、香霖堂の霖之助さんに、お正月一番でちょっとした頼み物をしているんです。そのお手伝いを……霊夢さんにも一つ、お願いしたいことがありまして」
「ふぅん? まぁ、お餅のお礼くらいなら働いてあげるわ」
「わぁい!」
そうやって、何でもない日常を紡いでゆくのもきっと面白いんだろうなと思った。叶わぬ願いなんだろうなと、そして思った。
街を探せばどこにでも居るような友達と、いつでも出来る他愛ない話をして日々過ごして、女の子同士にだけ笑える笑いで笑う。何故それさえ出来ないんだろうなと思う。そればっかりしていられない、そんな大事な身だということは承知しているけれど、何故私の性格までもが、私に嘘をつくのだろう――そういう想いがある。
稗田の家を恨んだり、儚むようなつもりは毛頭無い。ただ釈然としないだけだ。相克する想い。稗田の家は好きだし、一緒に暮らしている家人達は家族だと思っている。稗田阿求という名前で阿礼乙女としてこの屋敷に生まれ、心の底から良かった、とは思っているけども、もっと沢山の遊びを私はしたかった。
「えっとですね。霖之助さんに頼んであるのは、最高級の墨なんです」
「……」
不思議だ。どんな日常を送っていても、どこかで隣の芝を見る。脇道にある、五厘さんの見果てぬ夢みたいな、そういう儚い夢を見てみたくなる。
なのにそれはまるで桜が散ってゆくように――年を取るごとに少しずつ欠片になって、はらはら、やたら綺麗に散ってゆく。大人になるっていうことなんだろうか。転生へと、近づいていくっていうことなんだろうか?
……怖い。
「霊夢さん、お願いがあります。――幻想郷縁起の目次を、書いていただけませんか」
しばしの沈黙が流れた。
「…………そっか。もう、そんな段階になったのね」
「はい」
「私も初めてだから緊張するわ」
「ありがとうございます」
再び手を動かし始めた阿求の、小気味よい洗い物の音だけが間断なくそこを支配し始めた。何事か迷っていた霊夢の返事は、声になり帰ってくるまでに、少しだけ、待遠しいほどの時間を要した。
「おつかれさま」
「ありがとうございます」
ふわふわ舞う石鹸の宝石が、聞こえない音だけ残して割れる。
噛み締めるような霊夢の言葉に、阿求はただ、微笑みだけで答えた。
◆幕間 ~【前編 Epilogue】~
桜木の下で、彼女はたたずんでいる。
わたしは、その巫女さんの表情を真正面から見ていた。想い出の景色をあやふやにして、はらはらと花びらは止め処なく舞い落ち続けている。……今でも。
行こうよ。
……行かない。
ちいさなわたしは何をしていたかというと、舞い落ちる桜をずっと見ていたい――と、大人びたことを思っていた。そんなことは巫女さんには分かるまい。一人で桜色の中に身を任せて、落ちてくる花びらばかり眺めて過ごすのが好きで、それだけしていたら良かった。敢えなく今年も終わってしまう春を見送り、ひとりでその寂しさに相乗りして感傷に浸るのが、何度転生しても変わらない春の過ごし方だったから。
子供らしくはない。
けれど、私が見聞きし覚えてきた春という季節の数は、縁側でぼーっとしているおじいさんよりもずっとずっと多い。
春が死んでゆく音をわたしは知っている……だから、舞い散る花にはずっと耳を傾けて、子供の貌をして大人の心で、春の終わりの感傷にちゃんと同情してあげていたのだ。
それが好きだった理由を、さらに求めれば、他でもない。
いずれは春を追い越して……わたしもまた、人より早く、逝ってしまう身だと知っているからだった。
行こうよ。
それなのに――どこかへ行こうと、彼女は言う。
断ってしまえば良かったのに、まだ耳で木霊している。なぜだろう。切り捨ててしまえば良かった、取るに足らない追憶の欠片がまだわたしを縛っている。
どこか目的の場所へ誘ってくれていたのだろうか。それとも――ひょっとして、あの場所でさえなければ、どこでも良かったのだろうか?
わたしは、あの場に居られれば良かった……少なくともあの時、そう思った。
見ても見なくても、置いていっても連れて行っても、いずれにせよ終わってしまう、哀しいやつだから。
春は。
間もなく幻想郷縁起が完成する。
幼いわたしは、あそこで待ち続けている。花吹雪の中。
今でも、あの時臆病な心で、恐らくはまちがって振り解いてしまった女の子の手を探し、自分の手をびくびく胸に引っ込めたままで、あの女の子が戻ってきて、もう一度ひっぱってくれるのをずっとずっと待っている。
その体勢のまま。
その人見知りのままで。
強がりだったんだと、わたしは今更に知っていた。
*
かちゃかちゃと、規則的な洗い物の音だけが厨に響いている。
暖簾を一枚挟んで、博麗霊夢は、稗田阿求の戻ってくるのを待っている。
暖簾の向こうで動く背中を――霊夢は、他の誰もが見たことのないくらい切なげな顔で、じっと見つめ続けていた。
~つづく~
でも小豆in……?それ雑煮じゃなくて汁粉(善哉)だろ……
白味噌派は居ないのか、白味噌派は。
そんな阿求が、私は大好きです。