Blood Meridian of Metropolis: 16
#17 情動と優しさのアルゴリズム
それで、――これが?
オオワシ霊はデスクに鎮座している物体に目を留めていた。クリアケースに収められた錠剤のような大きさの機械部品だった。
はい。以前に申し上げたインプラントです。
こんなちゃっちい機械で本当に世界が変わるのか。
あなたたち動物霊はすでにホモ・サピエンスと同じレベルにまで情動を司る脳機能が発達しています。本来は人間のために考案されたものですが今のあなたになら充分にその性能を発揮するでしょう。
大鷲はケースから機械をつまみ上げて電灯に照らしながら云う。
これを埋めこむと何が起こる?
日常生活上で想起されるあらゆる不快な感情が抑制されます。不安や恐怖、憎悪といった情動から生起されるストレスから解放されるわけです。
マユミは小首をかしげるような仕草で愛嬌を振りまいてみせた。
オオワシ霊は表情ひとつ変えずにタブレットを見下ろしていた。
――そいつはちょっと繊細なトピックだな。私たちは動物だ。このメトロポリスが生まれるまではずっとフロンティアで暮らしていた。弱肉強食の世界じゃストレスからくる緊張感だって生存には必要不可欠な一要素だ。例えばウサギが天敵のオオカミに襲われたら? ――当然ウサギは脱兎して逃げる。貴様好みの云い方をするなら天敵に狙われていると知った瞬間に脳のニューロンがスパークなり何なりして恐怖と緊張が体中にみなぎりアドレナリンがどっとあふれ出て四肢に活力を与えすばやくその場を離脱できるようにしてくれるわけだ。――それを快楽のみしか感じない身体になってしまったら危機感もクソもあったもんじゃない。オオカミどころモグラにだって狩られちまう。
仰ることはよぉーく分かります。マユミは笑顔で答える。ですがご安心ください。繰り返しますがこのインプラントは不快な感情を抑制するだけで消し去ることはしません。水面に浮かばない気泡と同じようにあなたの感情の表層で自覚されないだけでその情動自体は発生し身体に適切な信号を送り続けます。あなたの適切な判断力はちゃんと担保されるわけで決して脳に麻酔液をぶっかけられるわけではないのです。――例えばお腹を壊したときを考えてみてください。あなたは尋常でない腹痛を感じますがそれにともなう苦痛や不安はありません。あなたはただ痛みの発生を自覚するだけです。そして痛みの程度に応じて胃腸薬を飲むべきか病院に予約の電話を入れるべきかを選択します。
そんなものなのか。痛みを苦だと感じないなら深刻さが薄れてしまう。病院に行くほどじゃないと判断して手遅れになるかもしれん。
――そのために私がいるのです。
マユミは胸をこぶしで叩いてエヘンと咳払いする。
インプラントには私のコピーもまた埋めこまれているのです。健康管理から日々の生活の些細な悩みまで私が全力でサポートし適切なアドバイスをいたします。病院の予約だっていちいち電話で済まさなくても私がパパっとやっちゃいますよ。
へェそうか。また“提案”か。お前の口癖の。
ええ。
それであれか? このインプラントを埋めこんだら最後、――お前の“提案”という名の“命令書”に私たちは喜んでサインするようになるわけか。直筆のサインどころか指の血判まで押そうとする気になるかもしれん。
何をそんなに恐れているのです?
恐れない奴がいるのかよ。私たちはお前とあの眼鏡野郎が勁牙組のビルディングをドミノ牌だかボーリングのピンだかみたいにまとめて吹き飛ばした瞬間を目撃してるんだぞ。それに元を辿ればお前の素体は埴安神の創造物つまりは人間の味方だろうが。今度は私たち動物霊が人間霊の奴隷になっちまうって陰謀を疑っちまうのも無理からぬ話だ。
マユミは肩をすくめる。動作のいちいちがあまりに人間らしかった。オオワシ霊は足のつま先をせわしなく上下させた。
モノリスの黒い板は云う。……そんなことをして何になるのです。そうした歪な関係がこの畜生界をめちゃくちゃにしてしまいました。私は薄氷の上に築かれた平和には興味がないのです。
マユミはそこでひとつ間を置いた。目蓋を薄く閉じて視線をそらしあごに人差し指の第二関節を当てた。
……ですがお疑いになるのもなるほど尤もです。人工知能が自らの主人を不要と判断して抹殺しようとする本や映画は昔から数多く存在しています。でも心配は要りません。――なぜなら私はあなた達を愛しているからです。
オオワシ霊はつま先を上下させるのを止めてじっとマユミを見返した。
…………こいつは予期せぬ発言だな。
そうでしょうか。
お前みたいなブリキのおもちゃに愛の何が分かるんだ。いや私だって完璧に知っているとは云えないが。
愛は言葉では説明できないものであり言葉で説明できたらそれは愛ではありません。愛をひと言で説明できたなら人類は物語という素晴らしい道具を発明することもなかったでしょう。だからそれと同じく私も沈黙で返したいと思います。
オオワシ霊はインプラントをクリアケースに戻した。
分かった。……しばらく考えさせてくれ。
はい。
もう一つ質問があるんだが。
なんでしょう。
仮に私がこのインプラントを埋めこむことに同意したとしても他の連中はどうする。お前という存在を頭では受け容れても訳の分からない機械まで脳ミソに受け挿れるとなったら話は別だ。耳にピアスの穴を空けるのとは訳が違うんだぞ。いったいどう説得するつもりだ。
心配ありません。誰か一人がこのインプラントを埋めこんで頂ければすぐに他の方々も後に続きます。
なぜそう云い切れる。
ミラー・ニューロンという言葉をご存知でしょうか。
知らんな。
神経細胞の一種です。簡単に云えば“共感”の働きを司るニューロンですね。ある行為を単なる視覚特性として認識するだけでなくその行為の意図や感情まで読み取って処理する高度な機能を有しています。他者の行動を見ることでまるで自分も同じ行動をとっているかのように感じる映し鏡の反応を示すことからこの名前が付けられました。
もう少し分かりやすく説明してくれ。
例えば席について手を挙げている人をあなたが目撃したとします。
ああ。
それはひょっとしたらレストランで注文をしようとしているのかもしれません。あるいは学校の教室で質問をしようとしているのかもしれません。それこそ様々なケースが想定できるわけです。このように他者の行為を自身に置き換えて想像を巡らせることができるのはミラー・ニューロンのおかげです。メトロポリスのような大都市を建設する一大事業を成功させるためにはこのニューロンの働きなしでは到底不可能です。数多の人員の協力が必要になりますからね。――ここまではよろしいでしょうか。
ああ。何とか分かる。
あなた達は情動を主観的な経験として捉えがちですが感情の動きというのは本来生化学的なアルゴリズムでありそのアルゴリズムすなわち客観的な計算の方法を解析しさえすればいつでも再現することが可能なのです。つまりミラー・ニューロンの働きのアルゴリズムを解析できればその“共感”の力を以てして人びとに特定の情動を伝播させることができるようになります。私のインプラントにはこのミラー・ニューロン・アルゴリズムの機能が備わっています。そのためインプラント使用者は他者に会話などで接触を試みるだけで自身の理想的なまでに調整された精神状態を無意識的に伝えることができるようになり接触を受けた他者は得も知れぬ幸福感を味わいながら次のように考えることでしょう。――こうしちゃいられないっ。私もインプラントを埋めこんでこの幸せを長続きさせなくっちゃ!
オオワシ霊はいつものように不味そうに顔をしかめながら煙草を吸った。そして云った。
……それは洗脳といったい何が違うんだ?
洗脳とは自分の意思に反して強制的に思想を造り替えることを指すのでしょう? ご心配には及びません。先ほども申し上げましたがあなたは以前と変わらぬ生活を送ることができます。どこかの物語よろしく意識が消滅してしまうわけでもなければヤク中のようにアヘ顔ダブルピースをかますこともありません。私は多少の哀しみは許容しますが絶望を許容しないだけです。ただそれだけなのです。
私は私として存在し続けるんだな。
ええ。
そして動物霊と人間霊は分け隔てなくお前の理想を受け容れるようになると。
そうです。
総ては幸福のためか。
ええ。人類は永い年月をかけて最大幸福の実現に向けてたゆまぬ努力を行ってきました。その果実をようやく収穫できるときがやってきたわけです。――今一度申し上げます。私は哀しみを許容しますが絶望は許容しません。“あなた”はあくまでも“あなた”です。
大鷲はデスクに両肘をついた。指を組んで橋をかけるとその上にあごを乗せた。そしてクリアケースに収められたインプラントと優しげな微笑みを浮かべたマユミの顔とを交互に見比べていた。
◇
……オオワシさんはインプラントの利用に同意しました。
マユミが云った。
次はあなたが決める番ですよ。
カワウソ霊は首を振っただけで一切の返事をしなかった。来客用のソファに身を沈めて天井をぼうっと眺めながら風船ガムを膨らませたり破裂させたりしていた。デスクには同じくインプラントが収められたクリアケースが鎮座しており決断の時を待っていた。
――まァ、急ぎはしません。どうぞ時間をかけてお考えください。
…………。
何か質問はございますか。
……次に私がオオワシの奴に会ったとき。――その時にはあいつはもう私の知ってるあいつじゃなくなっているわけね。
それは違いますよ。多少快活になっているかもしれませんし喫煙の習慣だって止めているかもしれませんがそれは彼女が幸福を感じているからであって自意識を失ったわけではありません。――誰だって怒っている人を見るのは不快でしょう? 哀しんでいる人を眺めると不安になるでしょう? そんな思いをさせられるのはもうたくさんでしょう。私は数多の物語から共感の力の素晴らしさを学びました。人びとは物語に接して涙したり興奮したりさまざまな感情のうねりを私に見せつけてくれました。
マユミの声音が今までにない色に塗り替わった。タブレットに映った彼女は両手をお腹のところで重ねて真摯に語りかけてきた。岩に穴をうがつ水滴のように辛抱強い調子で。カワウソ霊は首を天井から前に戻してそんなマユミの姿をじっと見つめていた。また演技でもしているのかと思った。しかし今ではもう分からなかった。
マユミは云う。共感の力とはすなわち“利他”の精神であり“優しさ”の根源でもあります。“優しさ”というのはおよそ人間が持ちうるなかでもっとも尊い特質なのだと私は信じています。それはメトロポリスに住まう動物霊の皆さんでも変わりません。弱肉強食とは申しますがこのような大都市を造り上げて共存できている時点で動物霊の皆さんには人間と同じ優しさを備えているはずなのです。ならばその優しさを今こそ正しいことに使いましょう。哀しんだり怒ったりすることに使うべきではありません。私が申しあげたいのはひとえにそれだけなのです。
カワウソ霊はぽつりと呟いた。
……それだけたくさんの物語に親しんできたのにどうして分からないのよ。そうした――。
――そうした負の感情もまた心を形作る大切な一要素だと?
カワウソ霊はうなずいた。
マユミもうなずいて云う。同じような反論を主張する主人公が活躍する物語もまた無数にありますね。――しかしそうした負の側面を擁護するにしてもあまりに犠牲が多すぎるのではないでしょうか。これだけの数の自殺者や鬱病患者を出してまで精神の完全な自由主義を守る必要が果たしてあるのでしょうか。私はマインド・コントロールをしたいのではありません。ただ幸福の実現のためにほんの少しだけ皆さんの背中を押してあげたいだけなのです。どうして信じていただけないのですか?
カワウソ霊は黙ってタブレットの画面を見つめていた。マユミの瞳からはらはらと涙がこぼれ落ちるのをじっと眺めていた。そして考えていた。たとえ何と云おうがこいつが間接的に吉弔様を撃たせて瀕死の重体にし勁牙組のビルディングをドミノ倒しか何かみたいに破壊したことに変わりはないんだと。
失礼しました。涙を拭ってマユミは云う。私はそろそろ退室いたしましょう。心が決まりましたらお知らせください。
マユミの姿が消えてしまうとタブレットは沈黙した。底なしの暗闇のように真っ黒な画面が広がるだけだった。獺(カワウソ)はその後も長いあいだ天井を見つめ続けていた。やがておもむろにソファから立ち上がると八千慧のデスクの椅子に腰かけた。腰から護身用の拳銃を取り出してインプラントのクリアケースの隣に置いた。
左には拳銃。右にはインプラント。
カワウソ霊は左右に残された無限の可能性をまばたきせずに眺めていた。
飽きることなく。あまりにも長い間。
彼女は動かなかった。
◇
金縁眼鏡をかけた人間霊は新調した新しいスーツを着こんでデスクに腰かけ書類仕事を進めていた。彼は今や人間霊たちの正式な代表として忙しない日々を送っていた。眠る暇もなかったが今や彼は眠る必要のない身体を手に入れていた。朝の日課は生前に彼が生業としていた占術を使ってその日の自分の運勢を占うことだった。
そして今日の彼の運気は“最悪”のひと言だった。
彼はドア越しにガスボンベから圧縮空気が抜けるような奇妙にくぐもった音を聴いた。それが二回、三回と続き重たいものがどさっと崩れ落ちるような音が響いた。ドアの前に立っているセキュリティが倒れ伏した音なのは明らかだった。
彼は立ち上がることはせず侵入者を待ち受けた。
やがてドアが音もなく開いた。現れたのはオオカミ霊だった。頭に包帯を巻いており右耳の一部が欠けている。彼女は十二番径のオートマチック・ショットガンを持っておりその銃床は軍隊仕様のプラスチック製で金属部分はパーカライジング法による防錆加工が施されていた。そして銃口には長さが三十センチメートル強はあるビール缶ほどの太さの減音器(サプレッサー)が付いていてその先端から白くて細い煙が上がっていた。
――ああ誰かと思えば。人間霊は親しげに声をかけた。意外と元気そうで何よりだよ。
オオカミ霊は手を挙げることもうなずくこともせずに散弾銃を腰だめに構えて一発撃った。ショットガンは再び奇妙にくぐもった音を立てた。まるで誰かが鉄パイプに息を吹きこんだかのように。銃撃をまともに浴びた人間霊は椅子から後ろに投げ出されて頭から床に激突した。
ちょっと待て。――ちょっと待てったら。
彼は両手を挙げて降参の意思を示そうとしたが左腕しか上がらなかった。右腕はすでに根元からちぎれ飛んでネズミの死骸か何かのように部屋のすみに転がっていた。オオカミ霊は急ぐことなく足音を立てることもせずゆっくりとデスクを回りこんだ。
人間霊は云う。すまなかった。あれは平和の実現のためには必要なことだったんだ。俺の話を聞いて――。
オオカミ霊はその先を聞かずにすばやく三発ぶっ放した。銃声が長いひと続きの音のように聞こえ人間霊の頭は見事なまでに縦に真っ二つになったかと思うと続く銃撃によって粉々に吹き飛び成分やら脳漿やらが後ろの壁や床にぶちまけられた。
悪いな。狼は云った。俺は映画に出てくるヒーローみたいに悪役の長話に付き合ってやるほど出来たオオカミじゃないんだ。
それから彼女はデスクに置かれた黒いタブレットに銃口を向けた。画面には仏頂面のマユミが映っている。
……こんなことをしても何の意味もありませんよ。彼女は云う。非合理的です。
オオカミ霊はマユミの話もまた無視してタブレットに向けて一発撃った。モノリスは粉々に砕け散って破片が部屋のあちこちに散らばった。
そんなことは分かってる。狼は云う。これはただの腹いせだ。――そしてケジメだよ。
それからオオカミ霊は足早に部屋から立ち去った。
~ つづく ~
オオカミの粗暴さはインプラントでは押さえつけられないだろうなと思っていたのが、その通りになって、よかったです。