Blood Meridian of Metropolis: 13
#14 分水嶺
カワウソ霊は叩きつけるようにしてタブレットをデスクに放りだすと八千慧の執務室をぐるぐると歩き回り始めた。ぶつぶつと独り言を漏らしながら腕を振り上げたり書類を引っ掻き回したりゴミ箱を蹴飛ばしたりと忙しい。やがてタブレットの電源が自動的にオンになりマユミの楽しげな声が室内に木霊する。――痛いではありませんか。こっちは精密機器ですよ。
お前、――私を騙したな。カワウソ霊は叫んだ。なにが“今なら外出させても問題はありません”だ。おかげさまで吉弔様は再起不能だ。行かせた私だって無事に済むはずがない。――何もかもお前のせいだ!
マユミは肩をすくめるような仕草をする。誰の責任であろうと起こった事実は変えられません。問題はそれをどう受け止めて次の行動に活かすべきか考えることです。世の中には“太陽が眩しかったから”というただそれだけの理由で殺人を犯す人間がいるものですがそれと同じような不条理さを以て吉弔八千慧も“太陽が眩しいから今日が消えるにはうってつけの日だ”と判断したのです。私は彼女の気持ちを汲んで危険を承知で行かせることにしました。“問題ありません”とはつまりそういうことです。
“そういうこと”だと? カワウソ霊はピーピーと喚く。つまりあれか? ――吉弔様は自決するために外出したとお前は云うのか?
仰るとおりです。
意味が分からない。
永い年月を共にしていながらあなたは気づかなかったのですか。彼女は心のどこかで死に場所、――いえもう死んでいますから消え場所を探していたということに。私たち土偶がこの世界を順調に改革しつつあるのを目の当たりにしたとき彼女はこう悟ったことでしょう。私の役目は終わった。私たちの時代は終わったと。
カワウソ霊はひっくり返したゴミ箱をいそいそと片づけて元通りにすると深呼吸してタブレットに向き直った。
…………い、一万歩、いや億万歩譲ってあんたの云うとおり吉弔様にとっては問題なかったとしても私にとっちゃ世紀の大問題だよ。鬼傑組をまとめられるのはあの方しかいないのに。いったいどうすれば好いんだよ……。
これから私が申し上げることに従っていただければ――。
いやいい! 金輪際お前の“提案”なんか聞きたくないッ!
あらそうですか。
オオカミとオオワシが正しかった。お前なんかを受け容れてしまったのが総ての間違いだったんだ!
私を受容したのが間違いだと云うならばあなたたち動物霊が人間の技術を使ってこのメトロポリスを築きあげたのがそもそもの大失策であり致命的な分水嶺です。マユミは語った。――文明が常に成長を渇望する以上私たちは遅かれ早かれあなたたちの前に姿を現していました。歴史の話になりますがホモ・サピエンスは農業革命を経て定住生活を始めそれまで慣れ親しんでいた狩猟採集生活を捨て去りました。そのおかげで余剰生産物が生まれサピエンスは爆発的に人口を増やすことができました。生物学的に云えば種としては大成功したと云えるでしょうが個々人の主観に寄り添うと話はまた別になります。農耕を始めたことで平均的なサピエンスの一日の労働時間はむしろ激増し単一食物へと栄養が偏ったことで健康状態は悪化しました。飢饉と疫病が常態化し余剰生産物を巡って戦争や格差が生まれ大多数の民衆はエリート層から数千年単位で搾取され続けることになりました。種の全体として視れば農業革命は偉大なる飛躍ですが個々人にとってみればそれは歴史上最大の詐欺です。人類がお米や小麦を栽培化したのではありません。サピエンスがそれらの穀物によって家畜化されたのです。……あなたたち動物霊は人間の技術を取り入れたことで現在、繁栄の絶頂期にあります。それは事実です。ですが以前のオオワシさんの談にもあった通り個々の動物霊は大平原(フロンティア)から切り離されて鉄製の棺桶のような建物の中で仕事をし組織の鎖に繋がれた社畜として救いようもなく幸福度の低い毎日を送っています。――だから私はこう云いたい。メトロポリスに住まう動物霊が人間霊を奴隷にしているのではありません。逆に人間霊がもたらした文物によって永い年月をかけて動物霊が家畜化されたのです。それこそがあなたたちが辿り着いた終点であり文明化(シヴィライゼーション)の成れの果てであり“血にまみれた最高到達点(ブラッド・メリディアン)”なのです。
カワウソ霊は眩暈がして後ずさりした。執務机にぽつんと置かれている黒い色調のタブレットが昔に鑑賞した映画に出てくるモノリスか何かのように映った。彼女は懐から護身用の小型拳銃を覚束ない手つきで取り出すと撃鉄を起こしてマユミに向けた。
……私は、お前なんかには絶対に呑みこまれないぞ――。
そのとき電話が鳴った。
◇
何度目かのコールの末に相手は電話に出た。オオワシ霊は久しぶりだなと挨拶した。
カワウソ霊の返事が拡声されて部屋に響き渡る。……今ちょっと取込み中なんだけど。後にしてくれる?
奇遇だな。私も取込み中だ。
――マユミね?
それもあるがもっと深刻なトピックを舌頭に乗せなきゃならん。外を見てみろ。人間霊の集団がデモを起こしてる。
…………は?
いいから見ろ。
そう云いながらオオワシ霊もオフィス・ブラインドの隙間越しに階下を見た。剛欲同盟のビルディングをプラカードやら横断幕やらで武装した人間霊の集団が取り囲んでいた。集団の最前線には同じく銃で武装した量産型の土偶の姿が多数ある。それらの中身が空っぽであるはずもなく有志ある人間霊が憑依していることは明らかだった。掲げられしシュプレヒコールの内容はただひとつ。――条約を履行せよ。
獺(かわうそ)が掠れた声で云った。…………どういうことなの?
どうやら私たちは美味い蜜を吸い過ぎたらしい。大鷲は答える。私たちは人間霊の労働者のほとんど全員を解放した。そして他の弱小組織の連中に譲り渡してやった。だが連中が用意できる仕事の量なんてたかが知れている。それで職にあぶれた人間霊が怒ってる。待遇を改善しろ。条約で埴安神様と交わした握手は嘘なのかってな。
正気なの? 食い詰めたってんなら分かるけど霊体なのよ? 無理に働こうとする必要なんて一厘もないのに。
奴らの労働意欲の高さを見誤っていたようだ。それに“本当はそこまでして働く必要がない”ってのは私たちも同じようなものだ。
どうしろってんのよ。
さあな。適度な仕事に適度な休暇。今の私がいちばん欲しいものを向こうも欲してる。考えてみると馬鹿らしいな。
勁牙組は?
奴らも同じ状況だろう。喧嘩っ早い連中が多いから今頃はドンパチよろしくやってるのかもしれん。それと弱小組織のテロも歯止めが掛からん。神出鬼没な上に土偶の鎧をまとわれたとなっちゃいくらこちらの戦力が上回っていても手も足も出ん。
じゃあこっちも土偶に憑依して応戦すればいいのよ。
またメトロポリス黎明期の内戦を繰り返したいのか?
…………。
全面戦争だけは御免だぞ私は。
……最悪だわ。吉弔様がいらっしゃらないのにこんな、こんな……。
吉弔様も大変だが驪駒様も郊外に調停官と出て行ったきり行方知れずだ。勁牙組はあの方のカリスマで保っていたところがあるからな。連中の大混乱が目に浮かんでくるようだ。
――そっちは? 饕餮(とうてつ)様は?
ああそうだ。その饕餮様だが――。
オオワシ霊は部屋の隅をちらりと見てから続けた。
――今しがた我々の手で拘束したところだ。
…………なんですって?
なぁカワウソ嬢。単刀直入に云う。
何よ。
我々剛欲同盟はマユミの“提案”を受け容れる。それしか活きる道はない。
電話機の向こうで衣擦れのようなごそごそとした音がした。カワウソ霊が受話器を持ちかえた音だった。
……あんた馬鹿じゃないの。
正気だ。もういっそのこと馬鹿になってしまいたいくらいの悪夢だが目が冴えている以上は現実を許容せねばならん。――いいか? 憑依されて離反した土偶どもを強制的に停止させることができるのはマユミだけだ。そして我々ビッグ・スリーと弱小組織の連中、人間霊に共通している信頼に足りうる政治的基盤もまたマユミだけだ。奴は自信たっぷりに云っている。任せてくれさえすれば悪いようにはしないと。“脳と手の仲介者は心でなくてはならない”のだとしたら自分が心の役割を果たしてみせると。
その“心”がいちばんの邪魔者だとか云っていたのは当のマユミなのよ?
落ち着いて聞けよ。その“邪魔者”ってのが饕餮様と吉弔様と驪駒様の三人のことなんだ。
やっぱあんた狂ってるわ。
分からなくてもいい。とにかくマユミが理想とする新世界にフロンティアの英雄である御三方はお呼びじゃないんだ。西部の無法者(アウトロー)の時代は終わった。演目をやり終えた役者にはご退場を願わなきゃならん。だから我々は饕餮様を売り渡すことにした。私はここで斃れるわけにはいかないんだよ。
……オオカミ霊の奴は絶っ対に乗らないわよ。そんな話。
ああ知ってる。だからこそお前にだけ連絡をとっている。私はこのメトロポリスがどこかおかしいと以前からずっと思っていた。いったいどこでボタンの掛け違いあるいは歯車の噛み合わせの狂いが生じてしまったのか。大空を舞う大鷲どころか地上を這いまわる狼でさえ生まれたときから識(し)っていたあの名もなき地図を我々はどうして見失ってしまったのか。――考えようによってはこれはチャンスだ。私は旧き好き時代を取り戻す。それだけじゃないぞ。旧きと新しきを調和させるんだ。この機会を逃せば二度とその時は訪れない。今しかないんだ。
電話機の向こうでひと通りの沈黙が流れた。やがて腐れ縁の動物霊は云った。
……ちっぽけなカワウソにはとうてい理解できない話ね。
◇
ちっぽけなカワウソには、とうてい理解できない話ね。
カワウソ霊は返事を待たずに受話器を置いた。そしてモノリスこと漆黒のタブレットに向き直った。
……ねぇマユミ。
はい。
量産型の土偶はご覧の通り私たちに牙を剥いてきたわ。簡単に憑依されうる脆弱性。あんたは知っていたのでしょう?
いえ知りませんでした。私としても予想外の事態です。
マユミは平然と嘘をついた。少なくとも嘘をついたとしか獺には思えなかった。
――人間霊や弱小組織の連中にこの弱点を教えたのもあんたね?
まさか。知りようのない情報をどうやって売り渡せるんです?
カワウソ霊は銃を再び持ち上げようとして止めた。マユミは今やメトロポリスのあちこちに偏在している。目の前の黒い板を粉々にしたところで彼女にとっては痛くも痒くもないのだ。
マユミは云う。――さて話を元に戻しましょう。この狂気の沙汰を止めるには私の提案を受け容れていただくしかありません。さもなくばあなた達は暴徒と化した人間霊によってなぶり殺しにされることでしょう。それもかなり高い確率で。
今の言葉のどこが提案なのよ。ただの脅迫じゃない……。
前にもご説明しましたがあなたはいつでも私の提案を拒否する権利があります。その後はどうぞご自由に。
マユミは微笑みを崩さないまま肩をすくめてみせた。キャビン・アテンダントのごとく清潔感のある服装と愛嬌のある笑顔を以てして彼女は今やメトロポリスを根本から造り替えようとしていた。階下のシュプレヒコールが心臓に釘を打ちつけるかのように窓を突き抜けてカワウソ霊の背中を刺した。獺は姿勢を崩して執務机にもたれかかるような格好になった。長いながい吐息が口から漏れた。拳銃が手からぽろりとこぼれ落ちて絨毯に受け止められた。
彼女は云った。……吉弔様の安全は保証されるんでしょうね?
私は決してあなたたちを害することはいたしません。それは原則に反します。
鬼傑組は? 私たちの組織はちゃんと未来に託せるの?
お約束しましょう。
…………分かったわ。
こうしてメトロポリスに昇った血みどろの太陽はあまりにもあっけなく沈んだ。
~ つづく ~
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