Blood Meridian of Metropolis: 12
#13 限界点
鬼傑組が所有するビルディングは名目上四十八階建てになっておりエレベーターもそこまでしか通じていなかったが八千慧の執務室である最上階は四十九階に位置していた。八千慧は書類の束やらディスプレイに表示されたタスクの山やらの仕事の一切合財を放り出して椅子を半回転させ窓から外の景色を眺めていた。からっと晴れた昼下がりだった。風は凪いでおり雲ひとつなく大平原の乾季を思い起こさせるような平和な日和だった。八千慧はこのオフィスに越してからというもの午後のひと時をかならず空を見上げることに費やしておりこの日課は一日たりとも欠かしたことはない。
端末に連絡が入り八千慧がキーボードを操作するとカワウソ霊の姿が画面に映し出された。
彼女は云う。マユミと買い物に出てきますけど吉弔様は何か欲しいスイーツとかありますか?
何でもいいですよ。どうしたのですか今日は。そんな些細な連絡をわざわざ。
マユミの提案です。獺(かわうそ)は微笑んで云う。本日なら吉弔様は機嫌が好いからコミュニケーションをとっておけと。
八千慧はすぐには答えずに前髪を右手の人差し指に巻きつける仕草をした。コイル線のようにくるくると丸まる小麦色の短髪。その動作を眺めていたカワウソ霊はバツが悪そうにタブレット端末を胸に引き寄せた。
……お邪魔でしたかね?
いえ別に。ただずいぶんとその機械に懐柔されたものだなと思いまして。
便利ですから。
でしょうね。
今は末端の組員に至るまで一人一台端末を持っていますよ。マユミがインストールされたものを。
それはうちだけではなく?
ええ。勁牙組も剛欲同盟も。他の泡沫組織はもちろん人間霊の間にまで広まりつつあります。
順調ですね。
カワウソ霊は一拍の間を置いてから続ける。……でも吉弔様はマユミを使わないのですね。
必要ないですから。
驪駒組長もそうです。
あいつはまァそうねぇ。
饕餮様も使っていないそうです。
あらそうなの。
昔から機械がお嫌いでしたから。
弱いからこそ文明の利器に頼らないといけないのに。
ええそうですね。
カワウソ霊が通信を切ると八千慧は再び椅子を回転させて窓から晴れ渡った空を見上げた。太陽が眩しかった。鮮血が迸ったかのように紅い八千慧の瞳は陽光を透かして澄み渡り砂粒の大きさのダイヤモンドの結晶を散りばめたみたいにきらきらしていた。八千慧はふうっと息を吐くと椅子を元に戻した。そしてハンガーにかけられていた外套を着こむと机の引き出しを開けて中から一丁の自動拳銃を取り出し外套の内ポケットに入れた。それから端末を操作してカワウソ霊を呼び出した。
どうされましたか?
買い物なら私が行くわ。
えっ?
たまには外出しないとね。
危険ですよ。特に今の時期は。
心配いらないわよ。
はぁ。
あなたは何がお気に入り?
え?
スイーツよ。
いつもならベイクドチーズケーキを買って帰りますけど。
ああそうだったわね。思えば永い付き合いなのにあなたの好みどころか名前すら私は把握していない。
……急にどうされたのですか?
マユミの提案、――確かに正解だったわね。
そうですかね。
うまくやりなさい。
◇
八千慧は御供をひとりも付けずに徒歩でオフィス街を歩いた。ベージュ色の小さなフェドーラ帽を角と角の間にちょこんと乗せコートのポケットに両手を突っこんでいた。肌寒い風がビルの谷間に吹きこんで塵や埃を巻き上げ八千慧の髪を汚していった。彼女はもう空を見上げることはせず俯いて歩き続けダウンタウンの方角に向かいやがて生鮮市場にたどり着いた。
市場は肉や魚を求める肉食獣と野菜や果物を希望する草食獣でエリアが分かれていた。八千慧は真っ直ぐ果物売場に向かうとそこは活気で賑わっており土偶との戦争中の荒廃ぶりが嘘のようだった。八千慧は白く濁った息を吐いて立ち止まりクリやシイの実を買い求めるシカの親子の横顔を見つめた。そしてポケットから手を出して自身の角を指先でなぞると帽子の位置を直してからまた歩き出した。
彼女は色とりどりの果物が取りそろえられた屋台で立ち止まると物色を始めた。マンゴーを手に取りオレンジを品定めしキウイの手触りを確かめた。バナナを吟味しブドウをつまみリンゴの色に見とれていた。屋台の隅には場違いであるにも関わらず不思議と違和感なく収まっているニンジンがひと山積まれていた。山から一本取り出して店の主人に訊ねた。
どうしてニンジンが?
ああそれね。綺麗な色でしょ。店主の毛深いハクニー・ポニーが笑顔で答える。うちのは特別甘いの。バターと煮込んだら最高だよ。他の果物に負けないくらい糖分が含まれてる。元気が出るよ。
じゃあこれも貰おうかしら。
毎度あり。夕食にでもするのかい?
八千慧は云わでものことを口にした。――旧い友人が好きなの。ニンジン。
◇
勘定を終えて袋を手にして振り返ったときにはすでに彼らは二十メートルの距離にいた。八千慧は袋を手に抱えたままもう一方の手で内ポケットから拳銃を抜くと何のためらいもなく三発撃った。三発とも胴体に命中したがすべて弾かれた。彼らはどこからどう見ても復興現場で働いているはずの量産型の土偶だったがシャベルやドリルの代わりに大型の回転式拳銃を手にしていた。二人のうちの一人が拳銃を持ち上げて撃ってきたが肩をかすめるだけで終わった。八千慧は無表情のままさらに三発撃ち返しその全弾が命中したがやはり彼らはビクともしない。周囲は悲鳴を上げながら草食獣たちが逃げ回っているはずだったが八千慧に聞こえるのは銃声だけであり八千慧に見えるのは彼らの銃口の奥にひらめいている底なしの闇だけだった。その闇から光がぱっと花開いて自分の胸を捉えるのを八千慧は静かに待っていたのだった。
やがて一発の鉛弾が右腕をとらえその衝撃で八千慧は後ろにひっくり返った。銃は取り落としたが果物が入った紙袋は手放さなかった。真っ赤なリンゴがアスファルトで舗装された路面をころころと転がっていきその後を追うようにして流れ出た自身の成分がひと筋の白い川を形作っていくのを八千慧はぼんやりと見ていた。
彼らは小走りで近寄ってきて計六発の銃弾を発射した。銃弾が喰いこむたびに八千慧の身体がびくんと跳ねあがりその内の一発は片方の角に命中して角は中ほどでぽっきりと折れた。角の破片が路上に散らばる様は精巧なガラス細工のようだった。その上に八千慧の成分が雨粒のように振りかけられ血だまりは急がずにゆっくりと広がっていった。八千慧が咳をすると血まじりの痰の塊が吐き戻されて首筋を伝った。
襲撃者たちは弾切れになってからも何度かトリガーを引いた。カチっカチっという虚しい音が晴れ模様の空に吸いこまれていった。そして八千慧に止めを刺すことも傷の状態を確認することさえせずに慌てて立ち去っていった。彼らは雇われの草食獣でありそれまで銃など持ったこともなければ他の動物を殺すことさえ初めてで土偶の鎧がなければ簡単に返り討ちになっていたはずだった。それでも彼らが喜んで志願したのはフロンティアの時代に一族を皆殺しにされたからであり虐殺を逃げ延びた後の数百年をじっと惨めに暮らしてきたからでありもはや喪うものなど何もないからだった。八千慧は彼らの銃口から発射されそして自身の身体に喰いこんだ血の報い(リデンプション)の痕を指先で触れ自らの成分を唇に塗った。唇はいつかの時代と同じように真っ白に染まりあの時と同じように微笑みが漏れた。唯一の違いは今の微笑みが至極穏やかなものであるということだった。
音が戻ってきた。救急車のサイレンが聴こえる。景色が戻ってきた。快晴の空模様が観える。世界が戻ってきた。八千慧は心のなかであのフロンティアの風を感じている。大平原には空を舞う鳥にしか全容を知り得ないほど巨大な地図が描かれていてその地図は平原で暮らす総ての生き物の心臓にも平等に書き記されていることを八千慧は知っていた。その地図は太古の時代に起きたあらゆる物事の写し鏡でありひと度その一端が損なわれてしまうと二度とは復元できない類のものだった。二度とは元に戻らないものの風景。メトロポリスの繁栄と引き換えに喪われたものの情景。その日の晴れ模様を眺めていた八千慧はそうしたかつての時代の世界地図がまだ風化せずに自分の中に大事に温められていることを発見したのでありだからこそ再び微笑むことができたのだった。そして八千慧は意識を失った。
~ つづく ~