Blood Meridian of Metropolis 8
#09 心の在りか
グラスを打ち合わせると二人はめいめいの酒を口にして並べられた料理に手をつけ始めた。会食の席なのに弾むような歓談もしめやかな密談もなく黙々と料理を口に運んでいきオードブルやスープの類はあっという間に平らげられた。
次を頼むよ。早鬼は傍に控えているボーイのギンギツネ霊にそう伝えてフォークを置いた。どんどん持ってきてくれ。
彼が一礼して立ち去ると早鬼は八千慧に向き直った。――コース料理は苦手だよ。持ってくるのに亀の歩みのごとくたっぷり時間をかけるから酒ばかり進んじまう。それとナイフやフォークも嫌いだ。使いにくいし皿にかちゃかちゃ当たって耳障りだ。昔みたいに手づかみするのがなんで下品って云われるんだろうな。
八千慧は答えずに真っ白なテーブル・ナプキンで口元を拭いていた。そして鹿角をひょいと傾けて天井に視線を投げかけ薄布のように繊細な調子で流されているジャズ音楽に耳を傾けていた。あるいは傾けるふりをしていた。
早鬼がテーブルを人差し指でとんとんと突き始めたころになってようやく八千慧は口を開いた。
……あなたはいつまで経ってもお上品な席が似合いませんね。
お前だって昔は出された飯に豚みたいにがっついてたクセに。
まァそれはともかく、――今回の件はお疲れさまでした。
ああ。いいんだ。殺られたのはうちの組員だからただの敵討ちさ。
しかし皆殺しにする必要はなかったのでは。これでは情報が得られません。
心配しなくても他の泡沫組織には充分な脅しになったさ。しばらくは大人しくなるだろう。
あなたらしい。
八千慧は口紅で彩られた唇に淡い笑みを貼りつけた。東洋のドレスを身につけた吉弔の身体の線の細さは夜景の青白い光にさらされていっそう儚げに視えた。酒にあまり強くない彼女の顔は早くも上気しはじめていて薄暗い店内で桃色に染まった頬だけがぼうっと浮かんでおり早鬼の視線を惹きつけた。早鬼は頬杖をついた姿勢のまま落ち着かなげに身じろぎした。そして帽子のつばを引き下げて目元を隠そうとしたが肝心の帽子はコートといっしょに預けてしまっていたので指は宙をかいた。
早鬼のそんな様子を見てこれまた傍に控えていたオオカミ霊とカワウソ霊は顔を見合わせた。狼が耳をぴくりと震わせて目配せすると獺は首を振った。
どうかしましたか。八千慧がグラスをくゆらせながら訊ねる。落ち着きがないですね。
大したことじゃないさ。
そう。
次の料理はまだ来ないのか。
はしたないですよそんなカリカリして。
うるさいな。
厳選されたフレンチバターとトマトソースで贅沢に煮こまれた人参とじゃがいものシチューが運ばれてくると早鬼は短い歓声を上げた。八千慧は赤ワインで臭みを飛ばした鹿肉に魅入られていた。二人は視線を交わすと笑みを浮かべて食事を再開した。家々を薙ぎ倒す暴風雨のようなその食欲の凄まじさは豪華絢爛なコース料理よりも大衆向けのバイキング形式のほうが明らかにお似合いだった。
あ、そうそう、――あなたたちはもういいですよ。口いっぱいに鹿肉のステーキを詰めこんだ八千慧がふがふがと部下に云った。外で休んでいなさい。
早鬼も無言でうなずいてみせたのでオオカミ霊とカワウソ霊はラウンジの外に出た。そして間髪入れずにドアに耳をつけて二人の会話を聴こうとしたが食器がこすれる音と遠慮のない咀嚼音が転がってくるばかりだった。盗み聞きする二匹をボーイは見て見ぬふりをしていた。
……やれやれなんてこったい。オオカミ霊が耳を離して肩をすくめてみせる。毎度のことだが驪駒様も吉弔様も。あれじゃボスの威厳もへったくれもあったもんじゃないな。
そこがまた愛嬌があって好いんだけどね。カワウソ霊が後を継ぐ。吉弔様もいつもはああじゃないんだけどなぁ。鹿の肉やら生き血やら肝臓やら脳やらの煮込みになってくると話は別みたい。さすがに驪駒の大将以外との席では自重されているけれど……。
オオカミ霊はギンギツネ霊に早く次の料理を持ってくるよう急かした。そして再びドアに耳をぴたりと付けながら話した。お二人とも汚泥の底から這いあがってきた仲だからな。いわば同志ってやつだ。――二人きりだとつい気が抜けちまうんだろうかねェ。
次にいつお腹いっぱい食べられるか分からない環境で暮らした経験が一度でもあるとね。どうしてもね。
分かる。
だよね。
◇
ところで、――なァ、八千慧。
なに?
うちのオオカミ霊から聞いたんだが最近、復興現場で妙な機械を使って埴輪たちを動かしてるんだって?
ええ。それが何か?
私たちを散々叩きのめした兵士長にそっくりのキャラクターだか何だかが端末に入っていて……。
そうね。
そいつに従えば工事は瞬く間に終わってしまうと。
ええ。
……出所はどこだ。本当にそんなモン使って大丈夫なのか。
前に接収した霊長園の機器類。その技術を埴安神の協力を得て使わせてもらってるの。
おいおい。
心配しなくてもあの神様は取り決めを破らないわよ。私としてはむしろ饕餮やあんたが欲を出して一線を踏み越えてしまわないかのほうが気がかりだわ。
あまり馬鹿にするなよな。
だって馬じゃない。
お前だって鹿の角が生えてるだろうが。
――次の魚料理と豆料理が運ばれてくる。二人、しばらくのあいだ無言で飲食する。
…………なぁ。
今度はなに。
考えていたんだ。私たちの時代はいつまで続くのか。
ずいぶん影響されたものね。
影響?
埴安神のことでしょう? 講和会議のときの。
まぁな。
――観たの?
うん?
ゴッドファーザー。
ああ。とりあえず私だけでな。
楽しめた?
楽しめたよ。でもそれ以上にいろいろ考えさせられたんだ。
どんな風に。
――早鬼、グラスを揺らしてウィスキーを少量だけ口に含む。琥珀色の液体を舌で転がす。まるで極上の味わいを堪能しているかのような仕草だったが眉間にしわを寄せて表情は険しげだ。グラスをテーブルに置いたが握った手は放さずにそのまま話し始める。
お前は観てないから分からないかもしれんがあれは単にマフィアの組織犯罪やギャングの暴力を描いただけの映画じゃないんだ。
あらそうなの。
ファミリーを護ろうと行動して結局は破滅したり悲惨な目に遭わされる男たちの悲喜劇なんだな。
へぇ。
それでゴッドファーザーというのは地上の宗教でいうところの名付け親というか子どもの洗礼式に立ち会って証人となる代父つまりは第二の父親のことをいうらしい。
証人?
子どもが神様と契約を交わしたことを見届けた証人ってことさ。
神様、ねぇ。
――生きていたころの私にも私を産み落とした馬とは別に第二の親とでも云うべき人がいた。名前をつけてたくさん可愛がってもらってね。
またその話?
別に想い出話を蒸し返すわけじゃない。私は今ちがうことを話したいんだ。
続けて。
その人がある日とつぜん息を引き取ってしまうまでに私はずいぶん色んなことを学べたと思う。悪くない一生だったと思ってる。
羨ましい限りね。
それで私もお陀仏してどういうわけかこんな世界に放りこまれるようになってからも忘れちゃいけないことはちゃんと胸のうちに暖めてきたつもりだったんだ。それがいつの間にか指の隙間から砂金がこぼれ落ちるみたいに薄れていって今じゃ金と権力の亡者みたいに抗争を繰り返してる。別にそれが悪いと云ってるんじゃない。それは違う。――でもこれから私たちはどこに行くんだ? 今の私たちにはあの映画の男たちみたいなファミリーに対する愛情も敬意も信頼もない。そこには心がないんだ。心だけの存在になっちまった私たちが心をなくしてしまってどこに行けるってんだ? これじゃあいつら空っぽの土偶と同じだよ。
…………それだけ?
なんだって?
――話はそれだけ?
――八千慧、氷でできた槍の穂先のような視線で早鬼を捉える。鹿の生き血が入ったカベルネ・ソーヴィニョンの赤ワインを口にする。早鬼は続く言葉を辛抱強く待ったが八千慧はその先を何も云わない。早鬼の上体が持ち上がり立ち上がったかのように見えたが実際には腰を浮かせて姿勢を整えただけだった。椅子に座り直して早鬼が口を開く。
それだけってなんだ。
お悩み相談なら聞いてあげたわ。だから話はそれだけってこと。
お前なァ……。
ねぇ、――早鬼?
なんだよ。
私たち、出逢って長いわね。
あ、ああ。
これまでいろいろなことを話し合ってきたわ。酒場や賭博場で起きたイザコザの折衝から社会を破壊しかねない新興の麻薬ビジネスを受け容れるかどうかの相談まで。それこそいろんな話をね。そうしたビジネスのお話なら私だっていくらでも回答を用意することができる。――でも知ってるでしょう? 私には早鬼のプライベートな質問に答えられるだけの愛情に恵まれた一生を送ることができなかった。地上の世界に存在するほとんどの畜生と同じようにね。
…………。
あなたは私たちが変わってしまったと云う。でも私から見ればあなたは昔とちっとも変わっていない。今も心の奥に繊細な部分を隠してる。そこがまた可愛い部下たちから慕われる一因なのかもしれない。大いに結構。でも私は違う。私は心なんて最初から持ち合わせていないしそんなものを持てるだけの余裕もなかった。――だからお願い。私に繊細さを求めないで。
――八千慧、云いたいことを云ってしまうとデザートの到着を待たずに席を立つ。早鬼もつられて立ち上がる。早鬼は何かを云いかけて口を開いては閉じながら立ち去ろうとする八千慧の手首をつかむ。八千慧は上気した顔を早鬼に振り向ける。
放してください。楽しい会食の時間は終わりです。
……お前に心がないだと?
どうでも好いではありませんかそんな些細なこと。酒があなたを弱気にしているのでしょう。今の話は聞かなかったことにして差し上げますから。
……ほんとに心がないか試してやろうか。
放しなさい驪駒。
――試してやろうか?
◇
ドアの向こうで空気がシュっと抜けるような短い悲鳴が木霊して続いて足音が迫ってきたのでオオカミ霊とカワウソ霊は慌ててドアから耳を離そうとした。しかしその前に扉はすさまじい勢いで開いて二匹は仲よくひっくり返った。
現れたのは八千慧だった。紅潮した頬に右手を当てながら肩で息をしていた。汗がひと筋ながれて横顔を濡らしておりフロアの電灯に照らされて汗の筋が艶めかしく光っていた。二匹は思わず唾を飲んだがすぐにその場に土下座した。
――申し訳ありませんでしたッ!
八千慧は二匹をじっと見下ろしていたが何もいわずに荒々しく足音を立てて去っていってしまった。狼と獺はその背中を呆然と見送った。続いて早鬼が八千慧と同じように頬を右手でさすりながら出てきた。
……あの野郎、ちょっとキスしたぐらいで思いっきり引っ叩きやがって。
さらっとえらいことしますね驪駒様。
いったい何があったんですか?
何があった? 散々盗み聞きしといて何があっただと?
――申し訳ありませんでしたッ!
二匹は再び土下座したが早鬼は帽子のつばを引き下げて目元に濃い影を作ると八千慧が去ってしまったあとの残り香を探し求めるかのように鼻を鳴らした。そして二匹をつま先で小突いて立ち上がらせると煙草を一本取り出して長い時間をかけて吸った。
~ つづく ~