〈プロローグ せめて剃刀だけでも……〉
なんだかなー。人間の女の子の悩みって、千年経っても変わらないのかしらね。
「どうか、どうか私を尼にしてください!」
「いやいや、早まっちゃ駄目ですよ」
目の前にいるのは、十六、七かしら、島田に結い上げた黒髪の艶やかな可憐な女の子。着物は上等で、挙措の一つ一つがたおやかで、絵に描いたような大和撫子、ご先祖は士族か華族か、いかにもいいところのお嬢さんって感じ。プライバシー保護の観点からこのまま〝お嬢さん〟と呼んでおくわ。
このお嬢さんが青ざめた顔でうちの門前をうろうろしていたようで、心配した響子が「どうしたんですか?」と声をかけた。「住職の尼君にお話があるんです」と言ったそうだけど、残念ながら聖様は檀家さんの法要でお留守だし、星はお寺の切り盛りで忙しいし、私とムラサがお嬢さんの話を聞くことになった。
雲山? もちろんいつも通り私の隣にいるわ。相変わらずお客さんが来ても何も喋らないんだけど、聞き役は多い方がいいでしょ。
で、このお嬢さん、見るからに思い詰めてそうだなとは思ったけど、開口一番「尼にしてください」と来たもんだ。ムラサが止めたのも無理はないだろう。
「どうして尼になろうだなんて思ったんですか。そんな若い身空で出家だなんて勿体ないですよ」
「だけど、貴方たちだって充分にお若いわ」
いやー、私たちが若いのは見た目だけで、平均年齢は一千オーバーですから。妖怪を見た目で測っちゃいけないわお嬢さん。
ムラサが答えに困ってるみたいだったから、私から助け船を出す。舟幽霊だけに。笑ってよ雲山。
「確かに若くして出家を志すのはたいそう立派な心構えで、仏様も感心なさるでしょう。ですが、貴方のその見事な黒髪、鋏を入れるのが勿体なくて、見る甲斐もない尼姿にしてしまったらかえって罪な心地がしますよ。ご家族だって心配なさるに違いありません」
なんて、ちょっとばかしくさいセリフだけど、これくらいは出家希望者に聞かせる常套句だもんね。おべんちゃらも方便よ。
家族、と言った瞬間、お嬢さんの体が震えた。でしょうね、絶対親御さんとかに何も言わないで来たんでしょう。
「親など、私が出家してしまえば諦めるに違いありません」
「いえ、私どもといたしましても、しかるべき親御さんのいるお嬢さんを勝手に尼にしてしまうわけにはいきません。まずは出家を志した理由を話してください。聖様だって同じことを言うでしょう」
「……」
たっぷり呼吸を置いてから、「実は」とお嬢さんが切り出した。
「親に望まぬ結婚を強いられまして……」
あー。昔物語とかでよくある奴だなあ。というか未だに絶滅してないのね、親が決めた結婚。お嬢さんは涙をはらはら流して、上質な手拭いを顔に押し当てながら続けた。
「私には心に決めた殿方がいると、何度申し上げても聞き入れてくれないのです。意に染まぬ結婚をするくらいなら、もう尼になってしまおうと……」
「ええと、失礼ですが、その心に決めた殿方について伺っても?」
「私の屋敷に仕える丁稚奉公の少年です」
ムラサが(あかん)って顔でこっちを見てきた。こっち見んな。私だって思ったわよ、そりゃ反対されるだろって。
お嬢さんは物憂げにため息をついて、身分違いの男を思っているのか、眼差しはどこか遠い。
「決して他所には嫁がぬと固く契りを交わしましたのに……あの方以外の嫁になるくらいなら、尼になって、この世ときっぱり縁を絶ってしまいたい」
若いのにずいぶん熱烈なことを言う。若いから言えるのかしら。この様子だと、子供騙しみたいな説得じゃお嬢さんの決意は翻らなそうだ。
でもねー、こういう見るからに若くて、一時の熱気に絆されやすくて、恋に恋をするようなタイプは……別にディスってんじゃないのよ。若さゆえの情熱って素敵じゃない。
もしお嬢さんがもう少し大人で、本当に出家したいってんなら、私たちも前向きに考えただろうけど。このまま髪を下ろしちゃったら、きっと後悔するわ。長年の僧侶の勘ってやつ。
「お悩みの心中、お察しいたします」
ムラサが話に戻ってきた。腹をくくったようね。聖様がいないいま、ふたりがかりでお嬢さんを説得せにゃならんと。
「ですが、そのような固い思いを聞いてしまうと、やはり出家は思いとどまった方がよろしいかと。この世になまじっか未練を残して出家しては功徳にも障りがあり、仏様もいい顔をなさらないでしょう」
「そうです。それに、私たちは一介の修行僧に過ぎません。勝手に髪を下ろしたり、授戒することはできないんですよ」
これはちょっと嘘。出家の段取りなら私たちでも一人で全部できるぐらいきっちり叩き込まれてるし、僧侶の格が劣るってんなら本堂にいる星を呼んでやってもらえばいい。
だけど人里のいいとこのお嬢さんを勝手に出家させちゃったら、うちの寺の信用問題に関わってくる。後から親が乗り込んできて『出家なんて認めない、還俗させる』って詰め寄られて、仕方なく出家は取り消します、なんてしたら、出家の価値を軽くしてしまう。僧侶としてあるまじきことよ。
そこ、秦こころさんの騒動でもう出家の価値は大暴落してるなんて言わない。
「それに貴方はまだお若い。親の許しもなく、大事な娘さんを尼姿にしてしまうのは……」
「親の許し、ですか」
お嬢さんが不機嫌になる。
「なぜ他でもない私の行く末を、私自身で決めることができないんです」
うんまあ、そうね。理不尽よね。その気持ちは、わからなくもない。私たちだって事あるごとに聖様とか星を通さなきゃいけないの「面倒だなー」って思ったりするし。
「だけど親というのは、一般論として、我が子の行く末を何かと案じるものですから……」
「あれが心配というものですか」
ぴしゃりと言い切るお嬢さんの声が冷たかった。
「私の親など、世間の目を気にしているだけです。今回の縁談だって、両家の家柄や格式を周囲にひけらかすために決められたようなもの。私は見栄のための道具です」
「……」
ムラサが黙っちゃった。思い悩んで相談に来る人は往々にして主観でしか話せないもんだけど、その主観に寄り添うのが私たちの役目だ。賢しらぶって「でも、その人はこういう考えなんじゃありません?」なんてトンチンカンなアドバイスをするものじゃない。
この子の思い込みとかすれ違いとかもあるだろうってのを勘定に入れても、我が子を所有物だと勘違いしてるんじゃないかって親、特に父親は少なくなかったりする。
なんだろうね。お嬢さん、可愛らしいんだけど、じっと見てると『お人形さんみたい』って感想が出てくるのよ。あまり良くない意味で。星が毘沙門天の代理をやってるのを見てる時に『あれっ、この子って私と同じ、生きた妖怪よね?』ってごくたまーに不安になるのと似たような感覚。
お行儀良くて、大人しくて、聞き分けが良くて、でもいまいち本人の自我や意志が薄く見える感じ。
だけどこの子は本物のお人形じゃない。ちゃんと自分の意志があって『親の決めた結婚なんて嫌だ、自分の好きな人と一緒になりたい』って思って、切ないほど思い悩んで、ここまで来てくれたんだ。出家は無理でも、一介の僧侶として力になってあげたいじゃない。
「親御さん、厳しい人なんですか」
私が尋ねると、みるみる眉間に皺がよってゆく。
「他人の親というものをよく知りませんけど、父も母も、幼い頃から礼儀作法に厳しい人でした。お稽古事が毎日山のようにありました。お裁縫、お料理、お琴、お花、お茶、すべて言われた通りにこなしてきました。けど私が本を読んだり勉強に励んだりすると、父は難しい顔をします」
古典的だ。平安生まれから見ても古典的な花嫁修行でクラクラしてくる。お裁縫だのお料理だのは徹底するくせに、お勉強はそこまで頑張らなくても、って感じがなんか腹立たしい。
「やりたくない、と訴えるのは難しいですか」
「とにかくやりなさい、の一点張りです。私が何を言っても同じことしか言ってくれなくて、本当に同じ人間なのか、言葉が通じているのか疑わしくなります」
うーん。これ、まずいんじゃないの。外の世界でいう毒親に該当するんじゃないの。
もし私がまだ人間の女の子で、お嬢さんと仲が良かったら、雲山とムラサを引き連れてお嬢さんちに殴り込んで、
『いつまでカビの生えた価値観で娘を縛りつけてんだ、お嬢さんはあんたらの自己満足のための道具じゃないんだよ、このスットコドッコイ』
くらいは言ってやった、かもしれない。
だけど私はとっくに人間をやめた妖怪だからね。今まで決闘とかで派手にドンパチやってきたとはいえ、妖怪僧侶が人里に殴り込みなんてしたら大問題よ。聖様の顔に泥を塗るどころじゃない。
せめてお嬢さんの身柄を命蓮寺で預かって、ヤバそうな実家から引き離してあげたいけど、そしたらお嬢さんは思い人からも引き離されてしまうし。下手したら『妖怪寺が人里の娘を拉致した』なんて騒がれるかもしれないし。
歯がゆいわね。もし聖様がいてくれたら、私たちより人望あるし、慕われてるし、人里にもしょっちゅう顔を出してるし、お嬢さんの親を説得させるくらい、訳ないのかもしれないけど。私たちは結局、ただ話を聞いてあげるだけなんだもの。
「お願いです」
お嬢さんは綺麗に三つ指をついて、深々と頭を下げる。幼い頃から叩き込まれたであろう作法が美しければ美しいほど、悲しくなってくるわ。
「私を尼にしてくださいませ」
そのお願いを叶えてあげたいのは山々なんだけど。
これまでの話を聞いた限りの印象では、お嬢さん、箱入りで世間知らずっぽいところはあるし、浮世離れした感じもするんだけど、一方で頭は悪くなくて、世間のしがらみを一度疑ってみるだけの知恵は回るし、行動力もある。藁にも縋る気持ちで尼になろうと思ったのを、ただの気まぐれで突き放すつもりも更々ない。
けど、こっちからしたらよそのお嬢さんの人生の選択をぶん投げられているわけでして。私たち、酒は呑むわ悪さはするわ、立派な破戒僧だけど、これでも仕事にはプライド持ってるからさ。千年生きた妖怪にだって、簡単に他人の人生は背負えないわよ。
もし、仮にここで出家したとしてもだ。ご両親が反省して、心を入れ替えてお嬢さんを大事にしてくれるならいいけど、「こんな恩知らずはもう娘と思わん」って勘当しちゃったら、お嬢さんはどこへ行くの。
もちろん命蓮寺で修行僧として預かるのは構わない。けど、うちって妖怪寺の評判通り妖怪僧侶だらけで、そこにただの人間のお嬢さんを置いておくのは、やっぱり心配よ。そのまま人間として天寿をまっとうしてくれるならいいけど、もし妖怪に憧れるようなことになっちゃったら……なまじただの人間から妖怪になった〝私〟っていう前例があるだけに、そんな心配はないなんて言い切れないのよね。
私はいいのよ。千年も昔の話だし、後悔してないし。だけど、十代そこそこで自分の人生の一大決心なんて、焦る必要はないんじゃないの。
だからいまは聖様の帰りを待つ方がいいかなって私は思うし、ムラサも軽率に頼みを聞くのはどうかと思ってるみたい。雲山なんて言わずもがな。
「やはり出家はお考え直しを。しばし時を待ちまして、改めてご決意が変わらなければ、またお越しいただければと思います」
「そんな……。お願いです、じきに家の者が私を探しに来ます、その前にどうか、どうか!」
「せめて住職が戻るまでお待ちを。私どもだけでは判断しかねます」
「いいえ、そんな悠長な暇は私にはありません!」
「焦っても良くないですよ、下手な未練を残すとほら、隣の女のように妖怪になって三途の河も渡れずじまい……あいたっ」
ムラサが背中を小突いてきた。ちょっとは我慢してよ、このお嬢さん説得するのが最優先なんだから。
すると、気を昂らせていたはずのお嬢さんが急に静かになって、かすかな声で何かをつぶやいた。
「え、なんですって?」
「川……そうですね……貴方たちが私を尼にしてくださらないのなら、もう結構」
と、立ち上がったお嬢さんは凄みのある目をしていた。なんというかこう、死の淵に立たされた人間みたいな……。
「いっそ川に身を投げてしまいます!」
「いやいや駄目ー!!」
言うが早いか、ものすごい勢いで部屋を飛び出そうとしたお嬢さんを私とムラサのふたりがかりで押さえつける。
こ、このお嬢さん、なんちゅうことを言い出すの! 見た目で測っちゃいけないのは人間も同じだった。ぱっと見は可憐だけど中身はとんでもないわ、いや、出家なんて思い立って寺に来る時点で相当な行動力の化身だけどね。結婚に悩んだ末に入水するなんて、菟原処女や真間手児奈じゃあるまいし! 相談に来た人間をみすみす自殺させちゃったら、それこそ命蓮寺は村八分よー! 社会的に終わるー!!
「お離しになって! もうあの池でもかまいませんから!」
「かまいます、こっちは大いにかまうんです、お鎮まりをー!」
お嬢さーん! 思い余ってフライアウェーイしたくなる気持ちはわかるけどうちの池はやめて、うら若い乙女のスケキヨなんか見たくないわよ!
ちょっと雲山、あんたも力貸しなさい、か弱い乙女でもいざ覚悟を決めたらとんでもない力を出すもんなんだから! いや折れそうで怖いとか言ってる場合か、この際腕一本ぐらいの治療費は安いものよ、私のお布施で出してやる!
お嬢さん完全に興奮しちゃってて始末に追えない、ああもう、誰かこの猛獣みたいなお嬢さんを止めて、いつかの木枯らしごっこみたいな通り魔的やり口でもいいからさ!
待てよ、木枯らしごっこ?
それだ!
「ムラサ、耳貸して!」
お嬢さんの裏拳を喰らってるムラサと完全にビビってる雲山に手っ取り早く話して(お嬢さん興奮してるから聞こえてないっぽいわ)、私はすかさずお嬢さんの目の前に立って声を張り上げた。
「わかりました! 貴方の固い決意の翻らないことは、よくわかりましたから!」
お嬢さんが怯んだ隙に、懐から剃刀を取り出した。今朝、前髪を削ぐのに使った奴を持っていたんだった。
刃を剥き出しのままお嬢さんに詰め寄る。良い子は真似しちゃ駄目よ。
「あ、あの、尼にしてくれるんですか」
「はい、我々も僧侶です、覚悟を決めます。形ばかりですが、まずは髪を削いで授戒をいたしましょう」
「本当ですか?」
お嬢さんたら無邪気に喜んでいる。いいとこ育ちなだけあって、根は素直なのね。できればもっと早く素直になってほしかったわ。でも妖怪に刃物を突きつけられて狼狽えないのってどうかと思うの。
お嬢さんを部屋の中央に案内したら、すかさずムラサが格子を閉じてしまう。そのまま次々に部屋中の戸を閉ざすのを見て、お嬢さんは、
「なぜ扉を閉めてしまうの?」
「授戒は神聖な儀式ですから、横入りを防止するのです。やめたいのでしたら今のうちにどうぞ」
「い、いえ、やめません」
ムラサが厳重に戸締りを確認してる間に、私はお嬢さんを座らせて授戒の何たるかってのをざっくらばんに説明する。
(オッケー?)
(オッケー)
切りのいいところで目線で合図を交わして、ムラサは切り落とした髪を入れるための箱を持ってきて、経典を広げて、柄杓を片手に……柄杓? 何をするつもりなのムラサ。まあとにかく、形だけならそれっぽくなってきた。
さて、私も腕をまくったら、なんだか緊張してきた。浮舟の髪を削いだ阿闍梨ってこんな気持ちだったのかな。大丈夫よ雲山、いいから私が言った通り、後ろで私のやることをちゃんと見ててね。
「それじゃあ、失礼します。目を閉じて、合掌して、四恩……そうですね、ご両親と、賢者と、衆生と、それから三宝に礼拝を」
「はい……」
お嬢さんが言われた通りにする。ムラサが「流転三界中、恩愛不能断、棄恩入無為、真実報恩者」と唱えて、お嬢さんにも復唱してもらう。要は欲界、色界、無色界の三界を漂ってる間は愛とか恩とかいった執着を断ち切れないけど、出家してそれらを捨てることこそが真の報恩なのです、というアクロバティック屁理屈なのだけど、望んで恩愛を断ち切ろうっていうお嬢さんに響くんだろうか。
私はお嬢さんの島田をほどいて、片手で豊かな髪をまとめて持ち上げて――。
顕になったうなじに、雲山がストンッと手刀を落とした。お嬢さんは前のめりに倒れて、受け止めた雲山と一緒に様子を確認したけど、ばっちり気絶していた。
「ナイスよ、雲山」
髪のすり抜けた手を握りしめて、我が相棒と拳を合わせた。
騙した挙句、手荒い真似になってごめんなさいね。一旦落ち着いてもらわないと、貴方も怪我しちゃいそうだったからさ。だけど雲山がちゃんと加減をしてくれたから、身体は傷ひとつついてないし、しばらく経てば目が覚めるはずよ。え、腕の一本くらいならいいって、誰が言ったの?
「あー、焦った。こんなとこ見られたら本当にヤバいんだからね」
「大丈夫よ、窓も格子もぜんぶ閉めたんだから、誰にも見られてないわ」
だって妖怪が刃物持って人間の背後に回って、見る人が見れば授戒だってわかるけど、鴉天狗なんかが変に捻じ曲げて、殺人未遂とか吹聴されたら困るからね。
「ていうか柄杓なんていつのまに出したの?」
「うちの池で飛び込み自殺されるくらいならその前に池の水全部抜いてやろうと思って」
「そう、私はてっきり面倒になって舟幽霊にしてあげるつもりかと」
「んなわけあるか。ていうか、一輪こそ言葉選びに気をつけてよね。あんたが余計なこと言うから、お嬢さん変なスイッチ入っちゃったじゃない」
「それは……ごめんなさい」
ムラサにじとりと睨まれて、思わず縮こまる。本来、こういう相談役って意外にも私よりムラサの方が向いてるのよね。私は引き止めるつもりが火に油を注ぐ真似をしちゃって、そこは素直に反省します。雲山まで何だか視線が厳しい。口は災いの元って本当だわ。
ともかくお嬢さんが無事で何よりだ。気絶してるのに無事ってのも変だけど。
「だけど焦ったわよ。まさか身投げするとか言い出すなんて。恋する乙女はおっかないわね、妖怪より恐ろしいわ」
「おいおい、妖怪僧侶がそんなこと言っちゃっていいの?」
笑ってるムラサだけど、頬にお嬢さんの裏拳を食らった跡がきっちり残ってる。こいつに傷負わせるって大したパワーよ。
「聖様が帰ってきたらお願いしようね、この子の親御さんを説得してくれって」
「うん」
派手にドンパチ暴れてる妖怪僧侶っても、下っ端よりは住職が出てくる方がまだ聞く耳持ってくれるでしょ。足元見られるのは嫌だけど、お嬢さんの命には代えられない。
「お嬢さんの恋、許してもらえるかな」
「さあ……だけどこのお嬢さん、たとえ親に認めてもらえなくても丁稚奉公の手を引っ張って駆け落ちくらいしそうじゃない?」
「あっはっは、やるやる!」
ムラサとひとしきり笑ってから、私たちは揃って難しい顔をした。
だって親に反対された恋なんてさ、ロミオとジュリエットを引き合いに出すまでもなく、安積山だとか、鬼一口だとか、昔から悲恋に終わることが多いじゃない。どう考えても茨道よ。ハッピーエンドなんて竹芝寺くらいじゃないの?
お嬢さんは結婚相手のことも意中の奉公人のこともあんまり喋ってくれなかったからよくわからないし、無理な結婚が不幸せなのは違いないけど、じゃあ愛する人と結ばれれば幸せかといえば、残念ながら、現実は厳しい。
考えてみればお嬢さんも気の毒なものね。いい家に生まれて、衣食住に何不自由なく育って、教養もあって、なのに恋愛も許されず結婚で家に縛り付けられちゃうんだから。
その点、私たちはもうとっくに人間やめてる妖怪だから人間のルールになんか縛られなくていいんだ。年齢なんかあってないようなもんだし、家だの一族だの苗字だののうるさいしがらみはないし、結婚がどうの子供がどうのとせがまれなくて済むし。世間の求める『女の子はおしとやかに』なんて模範とか気にせず、ずっと好きなことに没頭しててもいい。妖怪は自由だ。
代わりにお寺のルールだとか戒律だとか、他にも幻想郷の決まりごとには従わなきゃならないけど、人間も妖怪も、集団で暮らすには何かしらのルールがないと無理があるのよ。
私はうつ伏せのままのお嬢さんを仰向けにして、意識がないとますますお人形さんみたいだなあと思う。
可憐でおしとやかで、だけどとんでもなく強情っぱりでタフネスなお嬢さん。貴方が本当にこの世で生きていくのが嫌になって、本心から仏様のお慈悲に縋りたいって思ったなら、改めて命蓮寺にいらっしゃい。その時は本当に私たちが出家の手伝いをしてあげるよ。
さて、聖様が帰ってくる前に、とりあえずお嬢さんをどっかに休ませてあげようか、と思ったら。
「なんです、さっきから妙に騒がしいと思ったら、急に静かに……」
本堂にいたはずの星が急にがらっと格子を開けた。
そして星は手元の宝塔を落とした。
ええと、いまの部屋の状況を整理しようか。
中央、仰向けで気絶してるお嬢さん。
その後ろ、無言で青ざめてく雲山。
左、まだ柄杓を持ったままのムラサ(だから早くしまいなさいっての)。
そして右、やっぱりまだ剃刀を持ったままだった私。
(やっば)
星が見事に「ぎゃー人殺しー!!」と叫んでくれたおかげで駆けつけてきた響子とぬえさんとマミゾウさんとナズーリンと、ついでに寺に来てた小傘、全員の誤解を解くのに時間がかかったのは星の早とちりのせいであって、決して私達の日頃の行いのせいなんかじゃないわ、決して。誰よ星がお人形さんみたいだとか言った奴。
なお、渦中のお嬢さんはこの大騒ぎの中でぴくりとも目覚めなかった。いい根性してるわ、まったく。
◇
それからなんとか星たちの誤解を解いて、帰ってきた聖様にはみんなで揃ってお嬢さんの現状を誇張込みで訴えた。のっぴきならない状態だと判断してくれた聖様がお嬢さんを送りにお屋敷まで一緒に連れ添って、どうか結婚だけでも断念してくれとご家族を説得してくれて、更には縁談相手の家まで丁寧に足を運んでくれたおかげか、お嬢さんの縁談はめでたく白紙になったそうだ。
その後のお嬢さんと恋人がどうなったかって? さあね。あの逞しいお嬢さんなら結ばれようが引き裂かれようが、強く生きていくんじゃないかしら。
だからこの話はおしまい。と、締めくくれたらよかったんだけど……。
まさかこのお嬢さんが転がり込んできた騒動が、あんな事態を巻き起こすなんて、思ってもみなかったわ。
〈幕間 ハイカラ少女の独り言その①〉
人生には気高い理想と前向きな野心を。弛むことなき魂の研鑽を。信じる者にも信じぬ者にも等しく救いのあらんことを。南無三宝南無三宝。
なあに、雲山、今更何を真面目くさって言い出すのかって? そりゃあ私だってカッコつけるわよ、私は、いえ、私たちはいっぱしの宗教家だもの。仏教徒だもの。
「結婚願望ある?」とか聞かれたってさー、そもそも今どきそんな話振る? って感じだし、私はこれでもお坊さんよ? いやまあお酒は大好きだし、いまでもこそっと宴会に忍び込んだらするけど、それはそれとして、結婚するのしないのを気安く世間話のネタにして話しかけるのってナンセンスでしょ。
そりゃあ私は平安生まれだから十代そこらで結婚する時代の事情もわかってるけどさ、妖怪だって人間と同じく、価値観をアップデートしていかないと生き残れないのよ。え、じゃあ時代錯誤なお前の相棒はどうなんだって? 雲山はいいのよ。きょうび滅多にお目にかかれない時代親父は外の世界じゃとても生きていけないわね。だから幻想郷にいる間は無問題!
うん? となると「価値観をアップデートして生き残る」っていう私の生存戦略の方が合わないって話になってしまうんだろうか? いやいや、いまやお坊さんの結婚は浄土系じゃなくても珍しくないというし、やっぱアップデートは必要よ。私は本家本元の大正のハイカラさんみたく、バイロンやゲーテやハイネはあんまり嗜まないけど、現代的に生きていこうって野心は絶えず持ち続けているのよ。
どっかの有名なお偉いさんは「少年よ、大志を抱け」と言ったそうだけど、どうせなら少女に対する格言もあってほしいものね。
少女よ、ハイカラたれ!
〈その一 結婚するって本当ですか?〉
「ってなことがあってさー」
「へー、僧侶とやらも大変だなあ」
人里の外れで私は布都と話していた。先日の大騒動を聞かせてやれば、布都は面白がって目を丸くする。
物部布都。飛鳥時代の豪族だけど、平安時代の水干を彷彿とさせる衣装に、時代がかった喋り方、お得意なのは大陸由来の風水、とまあ、見るからに〝古典的〟なやつ。ハイカラ少女を地で行く私とは真逆もいいところ。
おまけにこいつときたら、大の仏教嫌いで、事あるごとにお寺や仏像への放火を目論む罰当たりだ。
尊い仏様を焼こうだなんて、誠に嘆かわしい限りである! 邪教の手先に容赦はしない、この雲居一輪、大恩ある聖様の名に賭けて、僧侶として、仏敵を教化してくれるわ! いざ、南無三――!
……なーんて意気込んでいたのも今は昔。気がついたら、私と布都はなんだかんだ、友達件ライバルみたいな立ち位置に収まってしまっているのだった。
だって、聖様のお考えはともかく、道教ってのが私にはそこまで悪い宗教には思えなかったのよね。不老不死を望むのは仏教的にはあんまりよくないんだけど、健康な身体を得てできる限り長生きしたいなんて、人間として自然な感情じゃない?
それに神子様は仏教がストイックすぎるとか考えてるみたいだけど、なんだかんだで道教の修行も楽じゃないみたいだし。だから神霊廟は入信希望者が多くてもほとんどは長く続かなくて脱落するのよ。
あと、布都の時代錯誤っぷりに関しては、我が永遠の相棒が千年経っても時代親父であるのを思えば、充分に見逃せるというか、許容範囲なのだった。拗ねないでー雲山、私はそういうあんたが好きよ。
……とまあ、私と布都と宗教に関する話はこれくらいにしておくとして。
私たちはなんとなく人里近くで行き合って、なんとなく一緒に行動して、なんとなく近況の報告がてら駄弁っている。一応、私は布教活動に来てたはずなんだけど、たまには息抜きだって大事よね、雲山! だから聖様には布都に会ったことは内緒にしておいてね。『お前はまた件の風水師と遊んでばかりいるのね』なんてお小言はもううんざりだもの。
布都はお嬢さんが池に身投げしようとしたくだりを話した辺りで腹を抱えて笑い出した。笑い事じゃないっての、下手したら死人が出てたのに。
「いやはや、恋に殉じて死を選ぶとは若年ながらあっぱれ、そのお嬢さんとやら、さぞ心の強いご仁なのであろう。ぜひとも我が道教で引き取りたいものだ」
「ちょっとー、横取りするのやめてくれない? お嬢さんが本気で出家する時はうちに来てもらうわよ」
「いやいや、道教の方が修行が堅苦しくないし、何より太子様を一目見ればそのカリスマ性に圧倒されるであろう」
「なんですって? うちの聖様だってカリスマなら負けてないんだから!」
そうやってぎゃーぎゃー喧嘩になった。うんまあ、これもいつものこと。だって自慢のお師匠様のことはビタイチ譲りたくないじゃん?
「しっかし、なぜそんな若い女が出家なんぞを選びたがるのやら。遊びたい盛りの齢で禁欲的な尼さんになって楽しいのか?」
「平安なら珍しいことでもないわよ。でも、現代だとあんまりいないかもね。私も久々にああいう子を見たわ」
「そういや、普段はお主の寺にはどんな客が来るんだ?」
「そうねえ、結婚して夫が変わってしまったと愚痴りにきた主婦、昔の水子を供養したいんだけどここで水子供養はやってくれるのかと聞きにきたやや高齢の夫婦、親が無駄に壮大な墓を建ててしまったけど親族の誰も相続したがらないと相談にきた中年兄弟……」
「き、気が滅入るな」
「やめてよ、私もいまそう思ったとこ」
最近のお客さんを数えてみたら、なんだか世知辛い気分になってきた。〝妖怪寺〟とか言われる命蓮寺だけど、人間のお客さんだってフツーに来る。あ、ちなみにうちは水子供養は請け負ってないわ。
相談者に中高年が多いのは気のせいじゃないわね。そもそも、お寺って若者が人生相談に来る場所じゃないのよ。たぶん若い人は『悩みがあるからお寺のお坊さんに聞いてもらおう』って発想が希薄なんでしょう。だからこないだのお嬢さんは例外中の例外ね。あのお嬢さん、相当な箱入りっぽかったし、昔物語か何かに触発されたのかしら?
「なんというか……おぬしも苦労してそうだな」
「そうよ、そうなのよー」
布都が気の毒そうにこっちを見てくるもんだから、つい愚痴を続けてしまう。
「時代の変化かしら、それとも幻想郷が特殊な場所だからかしら。昔に比べて人間の悩みのスケールが小さくなってるのよ。ほとんど家庭とか身内の問題ばっかじゃん、なんか俗っぽいのよ。もっとこうさー、『私は御仏の教えを通じて心身を鍛えたく存じます』とかいう崇高な理念を持った人はいないの? いや、妖怪とトラブル起こしましたとかで駆け込まれるよりはマシなんだけど」
「そうは言っても、いまや坊さんが呼ばれる行事なんて葬式ばっかであろう。太子様は〝葬式仏教〟と揶揄しておったな」
「うわ、やめてよ。これでもうちは法事以外のイベントもいろいろやってる方よ?」
「それでも客層は大して変わらぬのであろう? ふふん、死者にばかり愛想を振り撒く宗教の末路は哀れよのう。それに比べたら我が道場の門を叩くのは崇高な志の人間ばかりじゃ」
「嘘つけ。神子様の能力の便利さを利用されてるだけでしょ」
「な、何を! 太子様がド◯えもん扱いされているとでもいうのか!」
「誰もそこまで言ってないってば」
布都が勝手に憤慨してるのは置いといて。〝葬式仏教〟とは僧侶には耳に痛い言葉だ。別に死者ばっか贔屓してないよー、私たちは今生きてる妖怪や人間もちゃんと見てるよー、って主張したところで、どう受け取るかはその人次第だもんね。実際に聖様が人里の人間に呼ばれる時ってそういう不幸な事情ばっかだし、同じ宗教家といっても、たぶん霊夢さんや神子様と完全に同じくくりでは見られていないんだろう。
ていうか、昔っから仏教っておめでたい行事に縁がないのよ。昔の僧侶は、あの半人半霊の剣士じゃないけど『半分死人』みたいな不吉な扱いだから晴れの場に臨席するのは遠慮するし。現代になっても、妻帯禁止の時代が長かったから結婚とかの晴れやかな儀式は神社とかに持ってかれちゃうし。
……さっきからなんで私は結婚の話にばっかこだわってるんだろう? 例のお嬢さんのせいかしら。それとも最近のお客さんが家庭の不和ばっか話しにくるせいかしら。
「何じゃ、今日のおぬしはため息が多いのう」
「私たちだってもっと華やかな行事がしたいと思っただけよ。だけどあんまり豪勢にしたってまた昔みたく『密教の行事は派手すぎ』とか言われると思うとね。聖様も華美や贅沢はお嫌いだし」
「七面倒くさい。ハイカラを自称するなら新しく仏教式の行事を新設したらどうだ」
「かといって今更仏教式に新しく結婚式を作るのも……ね? 仏様の御前で永遠の愛を誓う二人。それを見届けて縁を取り持つ僧侶。絵面がシュールすぎるわ」
「なんで結婚式になるんだ、まさかお前、結婚したいのか?」
「したいわけじゃないけど、私だって地味な修行や辛気臭い法事ばっかじゃなくて、幸せいっぱいのおめでたい空気に浸りたいのよー!」
「煩悩全開ではないか!」
ごもっとも。第一、私は昔から古風なしきたりより今風で華やかな方が好きなたちだし。なんたってハイカラ少女ですから。
布都はわけ知り顔でうなずいて、
「しかしまあ、結婚が誰の目にもわかりやすくおめでたいと認識されているのは我にもわかる。うら若い乙女が憧れる気持ちもな」
「まあね。別に結婚が幸せのすべてじゃないといっても、祝福ムードは大事にするわよ」
「なるほど……」
布都はなんだか遠い目をしている。急にどうしたんだろ。だけどよく思い返せば、今日の布都は〝結婚〟というワードが出るたびに、なんだかはっと目を見開いていたような気がする。
「お前のしつこい結婚話で思い出したんだけど」
「しつこくて悪かったわね」
「まあ聞け。……そうだな、こんな流れで切り出すのもなんだと思うが、お前には言っておいてもよいかな」
と、布都は歯切れ悪く切り出したかと思いきや、何やらもじもじし出す。物事をはっきり言うタイプの布都が渋るなんて珍しい。
「何よ、お手洗いなら遠慮せず行ってきたら?」
「違うわ! お前にはデリカシーってもんがないのか!」
「食う寝る出すは人間の三大欲求なんだから仕方ないでしょ」
もちろん、一部の妖怪は『食う』がなくても生きていけたりするんだけど。布都は元々人間だし、そこんとこは……ああいや、デリカシーね。布都が照れでなく怒りで顔を真っ赤にするのを見て『口は災いの元』と謹んだ。
「ま、まあよい」
布都はこほんと勿体ぶった咳払いをする。
「実はな……我は近々、結婚するやもしれぬ」
は?
けっこん?
誰と誰が結婚するって?
唖然とする私に構わず、布都はなんならちょっと頬を赤らめて、照れ臭そうに切り出した。
「先日、太子様から直々に縁談を勧められてな……」
縁談。炎弾。えんだん。エンダアアアアアアア……。
「イヤアアアアアアアア!?」
「ど、どうした一輪?」
い、いかんいかん。落ち着け、落ち着くのよ雲居一輪。どくばくうるさい胸元を押さえる私を見て、雲山まで心配そうに顔を覗き込んできた。
まずは深呼吸、吸って吐いて。それから心を鎮める真言をば……布都、今更それくらいで嫌な顔しないでくれる?
少し落ち着いたところで、今度は湧き水のように疑問が溢れてきた。
「ひとつ確認したいんだけど、道教って結婚オッケーなの?」
「当たり前だろう。むしろ未だに僧侶の結婚はどうのなんてこだわっておるお前達の方が〝時代遅れ〟だな」
ぐっ、痛いところ突いてきやがる! 時代遅れなんて、こいつにだけは言われたくないのに!
いや、本当に気になるのは宗教の決まりごとじゃないわ。
「相手は誰よ?」
「里の名家のご子息よ」
布都が教えてくれたなんとなくリッチな響きの苗字は、前に聞いたことがあるような気がする。檀家さんとかの付き合いで耳に入れたのかしら? 人里の人間ならどこかで会う機会があるんだろうけど。
というか、ちょっと待って。布都は人間の男と結婚するかもってこと?
「あんた、一応仙人でしょ? よくお相手はご指名してきたわね」
「何を言う、我はどこからどう見ても人間だろ?」
「や、そうだけど……」
布都は自信満々に胸を張ってるけど、人間と妖怪の境界ってどこかしら。永遠亭の蓬莱人一味は〝人間〟の立場を取っているらしいけど、あの宇宙人一家が人間に見えるやつはいないと思うのよね。
けど、布都はどうだろう。尸解仙ってのは、一度肉体を捨てて器――布都の場合はお皿らしいけど、そこに魂を移して、生前の姿そのままの姿形を得て復活する術らしい。となると、修行を積んで仙人化した人間とは違うし、一度死んでるならゾンビか幽霊……と言いたいけど、何度も手合わせした手応えからしても、その肉体は生身の人間と遜色ないのよね。
じゃあお相手の人間には、布都が里の娘さんたちと同じような〝人間〟に見えているってこと? そうだとしても、布都は……結婚するにはちょっと幼く見える気がするけど。
まだ話についていけない私をよそに、布都はすっかり得意げになった。
「これで我も噂に聞く股の玉に乗れるというわけよ」
「玉の輿よ」
股の玉とか言うな、生々しいわ。
というか、これは玉の輿って言えるのかしら? 里のお金持ちっていっても、布都だって大昔は豪族のお姫様だったわけでしょ。むしろ相手の男の方が逆玉に乗ったとも取れると思うわ。
「どうした一輪、よもやとは思うが、我に先を越された、行き遅れになったと嘆いているのではないな?」
「冗談!」
からかいの笑みを浮かべた布都を思いっきり睨んでやった。まったくこの風水師ときたら、それなりの付き合いになるのに、未だに私という妖怪がわかってないな。この雲居一輪をみくびってもらっちゃ困るわ。
「あんたが股の玉だか玉の輿だかに乗って浮かれるのは自由よ、素直におめでたいって思えるわよ。だけど結婚なんて早い者勝ちの競争でもないのに、なんで結婚の遅い奴やしない奴は〝負け〟みたいに言われなきゃならないの? そんな考え方、昔ならともかく、現代ではとっくに時代遅れなのよ!」
「お、おう」
啖呵を切ってスッキリした私に対して、布都はなんか引き攣った顔をしている。自分で煽っといてその反応はどうよ。
第一『行き遅れ』だの『売れ残り』だの『行かず後家』だの『オールドミス』だの、結婚しない女性に対する世間の言いがかりはあまりに失礼すぎる。何さ、結婚が女の一番の幸せで一人前の証、みたいなもっともらしい言い方してくれちゃって。女の子は商品じゃないんだからね。これも時代のうねりだってんなら嫌な流れだわ。
じゃあそういう言葉のなかった千年前は大丈夫だったかというと、平安時代は平安時代で、結婚適齢期になっていつまでも結婚しないと『どこか身体に不具があるのでは』なんて失礼極まりない噂を立てられるわけよ。ああもう腹が立つ!
……そう考えると、僧侶になるってのはある種の救いなわけね。最近は不邪婬戒も緩みつつあるけど、基本的に僧侶は一部の宗派を除いて結婚しないのが当たり前だったんだもの。だから私も結婚がどうのなんて面倒な話と千年無縁でいられたわけで。やっぱりここぞという時に救ってくれるのは仏様よ。
とまあ、スッキリしたらしたで、今度は私が不躾に布都のお見合い相手のことを根掘り葉掘り聞こうとするばかりで、ちっともお祝いの言葉を告げていないのに気づいた。や、ホントに僻みとかじゃないのよ? ただ、実感がなくて……なんて、言い訳してる場合じゃないわね。
「ま、まあ、とにかく、このたびは本当におめでとう」
「気が早いわ、まだ縁談が持ち上がったにすぎんのだぞ? でも、ありがとう。どうやらお相手はえらく乗り気らしいから、遠くないうちに式の招待状が届くやもしれぬな」
からからと笑う布都は誇らしげである。まだ決まってないとか抜かすくせに、本人はもうとっくにその男と結婚するつもりでいるらしい。
友の結婚。それは私にとってもおめでたく喜ばしい出来事のはず。そう言い聞かせなければいけないほど、私は『お祝いしなければ』というプレッシャーが募っていて、なんだか口から出る言葉と心がアンバランスになっている気がする。
「人間は噂好きじゃ。じきに伝わることだが、お前には我から直接伝えておきたくてな」
「そう……」
「なあ一輪、気が早いついでに聞くが、お前は我の結婚式に来てくれるよな?」
「もちろんよ。雲山も同席していいのならだけど」
「我からお相手に掛け合ってみよう。おぬしが入道殿と片時でも離れているところなど想像もつかないからな。祝いの客は大いに越したことはないし」
「ええ、そうね、あんたは神子様の部下だもの、少しでも立派にしなくちゃ」
「な、一輪、きっと来てくれよ、きっとだぞ」
「うん……」
布都は無邪気に笑いかけてくる。いかにも嫁ぐ日を待ち焦がれて指折り数える花嫁って感じで、可愛らしい、と言えなくもない。
いつもだったら『あんたの花嫁衣装を楽しみにしてるわ、馬子にも衣装っていうものね、ちんちくりんのあんたでも少しは見栄えがするでしょ』くらいの軽口は叩けたはずなんだけど、今日の私はどっかボーゼンとしてしまって、布都の言葉がすんなり頭に入ってこなかった。
そのままたわいもない世間話を二つ三つして、布都と別れた。帰り道、雲山は私に『布都の様子がいつもと違ったようだが』と囁いてきた。
「あのね雲山、そりゃあ結婚が決まるかもしれないってんだから、いつも通りじゃなくても不自然じゃないでしょ。結婚だけが人生のすべてじゃなくなっても、女の子にとっての人生の節目よ。晴れ舞台よ。雲山ったら本当に女心がわかってないんだから」
私は『まーた雲山の堅物が出たわ』なんてうんざりしていたんだけど、思えばこの時の私は、もうちょっと雲山の言葉を素直に聞いておくべきだったんだ。
◇
いまはむかし、信濃の地にうるはしき乙女ありけり。父母もろともにうせ、いふかひもなくいやしききわなれど、あやしう鄙びたるけしきなく、いまめかしきさままさりて、かたちはみぐるしうあらず。
この乙女、人をくらふ悪しきもののけのうわさ聞きけり。そのありさま入道に似て、浅間・姨捨の山をまたぐ大男なりとぞ聞こえたる。日頃よりものおぢせず、たけき心のあれば、なでふかかるもののけをばいみじかるべき、いかで調伏せばやと出でにけり。……え? ああ、ごめん雲山。なんかちょっと記憶が飛んでたみたい。いや、布都の話が衝撃的だったもんでね。
「おーい、一輪、いつまでボーっとしてんの?」
雲山だけでなく、割烹着を着て柄杓の代わりにお玉を手に取ったムラサにまでそう言われてしまった。今日はムラサが夕食当番だったっけか。私は……あ、お風呂掃除しなくちゃ。あとで雲山と一緒にお風呂場に行こう。
「今日は何を作るの?」と聞いたら「カレーよ」と返ってきた。またかよ。ムラサは最近カレー作りに凝っているらしい。精進的には肉もスパイスもNGなんだけど、それなしでも美味しいカレーを作ってやるんだと息巻いて、修行とは別にいろいろ試行錯誤しているらしい。でもなんでカレーなんだろ?
「おーいってば。どうしたのよ。今日はえらくぼんやりじゃない、いつもの一輪らしくないわ」
「そうねえ、ちょっとしたセンチメンタルっていうか、メランコリーっていうか、一緒にゴールしようねって約束してた友達にゴール手前で猛ダッシュされたような気分かしら」
「何それ?」
わけわからん、とムラサは首をかしげた。
結婚は競争じゃない。というか、別に私と布都で『私たちは一生清く独身でいましょうね』なんて大正の女学生みたいな誓いを立てたわけでもないし。
だけど布都が、あの布都が結婚かあ……。
別に私に結婚願望なんてものはないんだけどね。妖怪だし。布都にも言ったけど、先を越されて悔しいなんて嫉妬が湧くわけがない。だけどなんとなく置いてかれたようで寂しいのだった。
わがよはひ盛りになれどいまだかの源氏の君の問ひまさぬかな――女に生まれたのなら、一生に一度くらい、かの在原業平や光源氏もかくやの、目の覚めるような美青年が跪いて『どうか貴方の夫にしてください』と懇願してくれないというのも、いまいち張り合いがない。そんな極上の男をあっさり袖にしてしまえるようないい女になってみたい。そしたら男は名残惜しそうにも潔く身を引いて、失恋の痛手を人生の甘美にして切ない思い出として、ささやかな傷を抱えて生きていくのね……何よ雲山、その目は。時代親父のあんたには複雑な乙女心の繊細さなんて一生わからないわ。
ムラサはなおも訝しげに私を見つめてくる(さっさと台所に行けばいいのに)。布都は『お前にだけ教える』とか言ってたけど、ムラサだったら口は堅いし、言ってもいいかな。
「布都に縁談がきたんだって」
「え、布都さんに?」
ムラサは目を丸くした。
「そりゃあまた急な話ね。物好きもいるもんだわ」
「ええ、私もびっくりよ」
「お相手はどこのどなた?」
「んー、なんか名家のお坊ちゃんらしいんだけど……」
うろ覚えの名前を出すと、ムラサははっと口を覆った。
「ちょっと一輪、その坊ちゃんってさあ」
「あー、ムラサ知ってるの? 有名らしいね、私はよく知らないけど」
「何言ってるの、こないだの騒動をもう忘れたの!?」
突然興奮するので何事かと思えば、ムラサが語気荒く告げてきたのは、件のお嬢さんの出家騒動だった。
「ムラサ、まだそんなところで油を売っているの? 当番はどうしたのよ」
そのとき、騒ぎを聞きつけて星まで様子を見に来た。
「どうしたもこうしたもないわ、聞いてよ!」
ムラサがざっくり事情を説明すると、星はすとんと話を飲み込んで、「その話なら私たち、聖から詳しく顛末を聞いたじゃない」と言ってきた。そこで私もようやく思い出した。そっか、なんか聞いたことあると思ったら、あのお嬢さんの元お見合い相手が、今回布都に縁談を持ち込んだ家の坊ちゃんなのか! そんな偶然ってある? 幻想郷は狭いわ。
「それにしても、あのお嬢さんの次は布都さんか。次こそはより良い縁談を、って躍起になったにしても、仙人のお嫁さんを選ぶとは極端な」
「私も、その某家のご子息の話は聞きました。家柄も良く、本人のご器量や才覚も申し分ないけど、結婚に関してはかなり難色を示していたらしいわ」
星によれば、坊ちゃんはその家のたった一人の跡継ぎ息子で、きょうだいはいなくて、歳の近い使用人だけがいつもそばにいるとか。容姿はやや目つきが悪いけど、顔立ちは文句ナシのハンサムだそうで(うーむ、布都がハンサムな坊ちゃんとゴールインするかもとは、なんか小癪な)。歳はぴかぴかの二十歳。そこまで結婚を焦る年齢でもない気がするけど、両親は一日でも早く嫁を貰って身を固めて、ゆくゆくは孫の顔を見せて安心させてほしい、という考えがあるそうだ。
聞いてて「うへー」と気持ち悪くなってきた。早く孫の顔が見たいって、子供は親を満足させるための道具じゃないのよ!?
「ああもう、これだから時代錯誤な人間は嫌だわ。そりゃその坊ちゃんだって反発するでしょ」
「反発するのももっともなんですが、肝心のご子息も……人となりに問題があるのよ」
「え、申し分ない坊ちゃんじゃなかったの? まさか実は飲む・打つ・買うの道楽三昧の放蕩息子とか?」
「いえ、そういう浮ついた噂じゃないわ。むしろその方面はびっくりするほどクリーンよ。ただ、なんというか、その……ご気性というか、性格の方が、ちょっと」
星の歯切れの悪い話によると、その坊ちゃん、『俺はつまらない女なんかと結婚しねえ』と、持ち込まれる見合い相手の女性にケチをつけまくっているとか。やれ『こんなブスな女とは連れ添えない』『美人すぎる女は浮気するに違いない』『乳臭いガキなんぞと結婚できるか』『男ずれした年増のババアも論外だ』『この女はまあマシだが、めんどくせえ舅と付き合うのは嫌だ』『夫を立てる女ってのは当然だ、三歩下がって三つ指ついて、夫が黒と言うもんは白いもんだろうと妻も黒だと言え』エトセトラ、エトセトラ……。
「何様なのよそのワガママ男!!」
久々にドタマにきて、思わず大声が出た。カンカンになって頭から湯気でも出そうな私と同じく、雲山もいまにも大噴火しそうなほど真っ赤になってる。
なんだそのクソ坊ちゃん、リアル道◯寺か、いや道明◯はむしろ女の好みがわかりやすいタイプか。どれだけ甘やかされてお育ちになられたんだか、そこまで高望みして女の人に好き放題一方的に難癖つけられるとはいいご身分ねえ。どんな紅顔の美青年でも大富豪の御曹司でも、絶対に許されないわ。少なくとも私と雲山が許さないわ! ただしイケメンに限るなんて、モテないブ男の僻みでしかないのよー!
これだからお金持ちって嫌だ。分不相応のお金を持った輩は、どこぞの貧乏神・疫病神姉妹じゃないけど、お金さえあればなんでも思い通りになると勘違いする自惚れの高慢ちきが多いんだから。
どんなやんごとなきお生まれだか知らないけど、そんなに女を選り好みするんなら〝飯食わぬ女房〟でも娶って痛い目見ればいいのよ、ボケナスビ!
ブチ切れてる私と雲山に対して、星は「あ、あくまで最後の方は噂よ、噂」と宥めながら(火のないところになんとやら)話を続ける。
「しまいには『人間の女と結婚するくらいなら、妖怪とでも連れ添った方がマシだ』とまで言い出して……さずかに売り言葉に買い言葉というか、ご子息も本気で言ったんじゃないでしょうけど、家柄の釣り合う適齢期の娘さんとの縁談はすべて断られてしまったから、ご実家もずいぶん奔走したそうよ」
「まさか本当に妖怪の女と結婚しようってんじゃないでしょうね。そんなクソ野郎は妖怪からもお断りよ!」
「別にあんたに持ち込まれた縁談じゃないでしょうよ。そこまでこき下ろさなくても……」
「黙ってられるか!」
ついムラサにまで食ってかかる。これが落ち着いてられますか。布都はとんでもない輩と結婚させられるかもしれないっていうんだから!
……あれ、ちょっと待って?
幻想郷で異類婚はタブーじゃないらしい。妖怪と結婚した人間がいる、とはちらほら聞いている。とはいえ人間からすれば恐ろしい妖怪と連れ添うなんてもっての外、と考える人も少なくなくて、まして富裕層の人間が妖怪との結婚を許すとは思えない。
んでもって、布都は仙人だから、人間か妖怪かで分類するなら〝人間〟扱いできなくもない。昔はあいつも妖怪に怯えてたくらいだしね。
ええと……つまり……。
「一輪、どうしたの?」
急におとなしくなった私を、ムラサが訝しむ。
「人間の女とは結婚しないっていうドラ息子と、妖怪とは結婚させたくないっていう両親、お互いの妥協点が仙人との結婚だってこと?」
「え?」
ムラサは星と顔を見合わせる。
「そう言われれば……そうなのかな?」
「神子様は人里での人望が厚い方ですし、おそらく人里の皆さんはあちらの過去の後ろ暗い所業には関心が薄いでしょう。幻想郷縁起でしたっけ? あれもあまり広く読まれてはいないようですし。神子様のお弟子さんなら、とご両親も折れるつもりになったのかもしれないわ。ご子息も引っ込みがつかなくなってしまったのかしら。まるで本物の蓬莱の玉の枝を持ってこられたのかと焦ったかぐや姫みたいね」
二人の会話が続く中で、私はぐるぐる考えている。
私たちはあの時、お嬢さんが意に染まぬ結婚を強いられて、出家したり入水したりするのを止めようと必死だった。お嬢さんの問題を解決するには、その縁談をやめにしてしまうのが一番だと思った。茨道の身分違いの恋愛を、駆け落ちを勧められそうにはなかったからね。だから聖様がわざわざお嬢さんの家まで出向いて説得してくださったのだった。
だけど。
もし、私たちがあのとき、もっと別の方法を選んでいたら、この縁談が布都に持ち込まれる羽目にはならなかったんじゃないの?
い、いや、落ち着くのよ一輪。まだ縁談が来たってだけでしょ。布都はちょっとアホなとこあるから、いまは玉の輿だと浮かれているかもしれないけど、相手の坊ちゃんの悪評を聞いたら、いくら神子様の勧めでも断るかもしれない。
私の心配はただの杞憂で、縁談はすぐに流れる可能性もあるんだから……。
ところが私の願いも空しく、数日経って、布都と坊ちゃんの婚約が正式に決まったと知らせが届いた。
〈幕間 ハイカラ少女の独り言その②〉
身近なところに仏教用語は潜んでいる。ほら、貴方のすぐそばにも……って、これじゃまるで怪談じゃないのよっ。
千年も生きてると『人間の言葉って変なとこで変わるのねえ』とかしょっちゅう思うのよ。
たとえば――妻のことを『うちの女房』とか呼んだりするじゃない?
女房って、平安生まれの私からしたら、高貴な人に仕える召使いの女性がパッと浮かぶのよ。紫式部とか清少納言とかね。
それが千年経って、召使いを指す言葉が、転じて自分の妻を指す言葉として定着するとは……。
もうひとつ――僧侶の身だとこっちの方が気になるかもしれない――夫のことを『旦那さん』って呼んだりするじゃない?
旦那って元は檀那、〝お布施〟を意味する仏教用語なのよ。それが江戸の頃に檀家制度ってのが導入されて、檀家にバックアップされるお寺が〝檀那寺〟って呼ばれたわけ。
なんでそんなものができたのかって? 戦国時代の終わりくらいからキリシタンへの弾圧が酷かったでしょ。キリスト教を異教として排除したかった江戸幕府は、民衆の戸籍の管理を口実に、檀那寺の信者から戸籍情報を把握できる檀家制度ってもんを作ったのね。お寺は檀家からのお布施で儲かる、幕府はお寺に紐付けられた家にキリシタンが潜んでないか監視できる、ウィンウィンってわけ。……うん、まあ、この話って仏教サイドも充分キリシタンへの加害者側だから、私としてはちょっと耳が痛い。
話を戻すと、巡り巡って〝檀那寺〟を離れて〝旦那〟が商家の主人を指すようになって、そこから夫を指す言葉になったのね。
妻を召使いの意味だった〝女房〟と呼び、夫をお布施や商家の主人の意味だった〝旦那〟と呼ぶ。うーん。やっぱ変な光景だわ、平安生まれから見ると。
それはさておき。仏教を身近に感じてもらうには、お堅い雰囲気の法会をお寺で開くより道端で、それこそ神子様が演説をやってるみたいに、説教節とかのパフォーマンスをやる方が民衆にはわかりやすくてウケがいい。まあ、聖様はそういう俗っぽいやり方はほどほどになさいと眉をひそめるのだけど。
書物に縁のない庶民でも、親からこんな歌を聞いた、近所の子供とこんな囃し文句を唱えた、なんて口移しに物語が広まっていく。
説教節も、ストーリーに歌をつけて馴染みやすくするのね。仏様の霊験あらたかなるお話だけでなく、そこに民から重税を搾り取って私腹を肥やす悪どい地主を懲らしめる僧侶の話なんかを載せると、そりゃ馬鹿ウケよ。民衆は悪徳な親分をとっちめてくれるヒーローを求めているのね。
そういえば、弟様の飛鉢譚も、そういう勧善懲悪ものの典型かもね。
私たちの活動の根源には聖様の理想があり、その聖様の理想は、突き詰めると弟様の生き様なのだ。
弟様――命蓮様が、けちんぼな長者を懲らしめるために法力で米倉を運んだ話は有名よね。私は弟様に直接お会いしたことはなくて、聖様のお話を伺うばかりだけど、どんな話を聞いても、弟様が強きをくじき弱きに寄り添う気高い精神の人だったのがよくわかる。弟様の気高い精神は、聖様にも受け継がれていると思うわ。
そうよ。
人間が強いの弱いので分断されるように、妖怪だって強いやつもいれば弱いやつもいるの。
弱きが弱さを理由にくじかれることがないように……そういう信念を胸に私は拳を振るう。
でも、それなら。私が布都みたいな、〝物部布都姫〟として歴史の中に立派に名前を残しているような、押しも押されぬ豪族の姫様とお友達としてお付き合いするっていうのは、どういう意味を帯びるのかしら?
〈その二 夫(を)と兄(いろせ)とはいづれか愛(は)しき〉
「布都!」
届いた招待状を握りしめたまま、神霊廟に殴り込んでやろうと思ったんだけど、道中で、ちょうど人里近くの道端に佇む布都と出くわした。
布都はのんびりと川辺を眺めている風で、私に気づくと、やっぱりのんびり振り返った。
「どうした一輪。そんなに興奮して」
「どうしたもこうしたもないわよ!」
布都が、正確には神子様の名義で『命蓮寺御中』と宛てられた招待状を突きつけてやれば、布都は「ああ」と笑った。
「ちゃんと届いていたか。しかし、本人に直接返事を持ってくるのはマナー違反ではないか?」
「招待状を御中で済ますな。あんた、本気でこの坊ちゃんと結婚する気なの?」
「前に伝えたであろう、近々結婚するやもしれんと」
「あんたは相手の坊ちゃんがとんでもないクソ野郎だとわかって結婚するのかって聞いてんのよ!!」
わざとはぐらかすようなへらへらした布都にイラついて強めに問いただせば、布都はやっぱり落ち着き払って頷いたのだった。
怒りと訳のわからなさでクラクラする。本来ならこういうときに私を宥めてくれるはずの雲山でさえ、思いもよらない事態に困惑しているらしかった。
「なんでよ、あんた、どうしちゃったのよ。女にイチャモンつけまくるようなワガママ坊ちゃんよ。とても立派な夫になる男だと期待できないわ。それとも何? いざあんたと顔を合わせたら、あんたに一目惚れして、生まれ変わったみたいに花婿に相応しい好青年になったとでも?」
「そうだ。……と、見栄を張れたらよかったのだがなあ」
布都はぽりぽり頬を掻いて笑う。
「顔合わせの段階でも、お相手の殿方は我に一瞥もくれなかった。どんなにご両親や召使いさんがどやしたり宥めすかしたりしても、むっつり押し黙ったまま……本当に一度も目が合わなかったのに、始終野生の獣みたいな鋭い目をしていたのが印象的であった。太子様はまだお若いのだし、気まずくて照れているのだろうとおっしゃったが」
「そんなわけないって、あんたもわかってるんでしょ」
それじゃ、相手の坊ちゃんは両親に押し切られて渋々結婚を承諾しましたって言ってるようなものじゃない。あんまりだわ! いくら嫌々結婚するからって、それでも一度結婚を承諾したのなら、腹を括って、せめて自分の花嫁になる布都には最低限のお愛想ってもんを見せてもいいでしょうに!
「一輪、そうカッカするな。我はこの結婚に納得しておる。他でもない太子様から仰せつかった大切なお役目、我は立派に果たしてみせようぞ」
「なんでよ」
「今日のおぬしはなんで、なんでばかりじゃな」
「そもそも最初っからおかしかったのよ! なんで神子様があんたにこんな無茶苦茶な縁談を持ちかけるの!? なんでお相手はあんたを結婚相手に指名したの!?」
こみ上げる怒りの前じゃ、いくら千年僧侶といっても、忍辱も吹っ飛ぶわ。
いいや、こんな暴挙を前にして心穏やかに振る舞うなんて、僧侶でも相応しくない!
布都はやっぱり憎らしいくらい落ち着いている。相手が激昂してると自分は冷静になるっていうけど、なんなのよ、その余裕は。
布都はまた川辺に視線を戻す。人里近くを流れる川は穏やかで、いつもは楽しい川辺も今日は船を漕いだり釣りに出たり浅瀬で遊んだりする子供もいないせいか、静かだ。
「そうだな。太子様が縁談を持ってきた日のことは、お前に話してもよいか」
布都は、淡々と語り出した。
◇
『布都。運命の赤い糸とはなんだと思う?』
ある日、修行も所用も終えて、神霊廟の中でゆったり過ごしていた神子様が、出し抜けに布都に謎かけじみたことを尋ねたそうだ。布都は迷わず、
『三輪山の神様の故事に決まっているでしょう!』
『はは。お前ならそう答えるだろうね』
神子様は鷹揚に笑ったそうだ。
布都が答えたのは、三輪山伝説のことだ。
昔々、イクタマヨリヒメという娘の元に、夜な夜な通ってくる男がいた。その正体を、肝心の娘すら知らない。不審に思った娘の両親が、娘に糸を通した針を渡し『この針を男の衣に刺しなさい』と伝えた。娘が言われた通りにすると、翌朝、その糸は家の外に伸びていた。糸は地面の土が付着して赤茶色に染まり、辿ってみれば娘の家から遥か三輪山の社まで続いており、男の正体は三輪山の神様だったと露見した、という話だ。
物部氏は三輪山の神様を信仰していたらしいから、布都は真っ先にその話を挙げたんだろう。
『けれど私は、赤い糸といえば、月下老人だと思うよ。月夜の下で、あるいは氷の下で男女の縁を結ぶという、道教の仙人のね。まあ、三輪山伝説にせよ、月下老人にせよ、とかく人は古来より、男女の縁には何かしらの結びつきがあると信じていたわけだ』
神子様はそう答えた。そういうもんか。道教はロマンチックね。いいなあ。
い、いいや、仏教徒だって糸を使って縁を取り持つことくらいあるわよ。五色の糸といって、阿弥陀如来様(うちのお寺じゃあんまり出番のない仏様ね)の像のお手から青・黄・赤・白・黒の五色の糸を垂らして、ご臨終の人の手に握らせるの。仏様との縁を結んだから、死後に無事に極楽浄土へ旅立てますようにって。……うん、ぜんぜんロマンチックじゃない。
『私も仙人だ。月下老人の先例に倣って、仲を取り持つのもやぶさかではない。まして人里の人間の頼みとあれば、無碍にするわけにはいくまい』
神子様は布都、と優しく呼びかけたそうだ。
『人里に嫁取りを嫌がり両親を悩ませる若い男がいる。人間の女と連れ添うなら妖怪と結婚する方がマシだ、とまで言い張る頑固者だそうだ』
『それはまた極端な。まさか太子様、似合いの妖怪でも見つけてくるおつもりですか?』
『いやいや。両親は大事な跡取り息子を妖怪と結婚させるなんてとんでもない、けど先日肝入りの縁談も流れて他に目ぼしい人間の娘ももういない、と困っていたよ』
『えー? なら誰なら納得するのですか?』
『布都、お前、昔に比べて頭の回転が鈍ったんじゃないか?』
神子様は笑いながら、布都をじっと見つめた。
『これもまた謎かけみたいなものだ。妖怪でも人間でもない、人間の男と連れ添っても問題のない女……座敷童も考えたが、あれは少々問題がある。ならば、限りなく人間に近い仙人や天女がうってつけじゃないか』
わざと羽衣を落としていくような最近の軽薄な天女は駄目だ、となると、残るは仙人しかいなくなる。仮にも神霊廟の主人、道教勢力の筆頭である神子様が人里の男なんかに嫁入りするわけにはいかない。と、なると……。
『布都。お前はどうか?』
『はい?』
『我々にとって何もメリットがないわけではない。信仰はギブアンドテイク、だったか……あちらも相応の見返りをくれるだろう。なあ、布都。お前も宗教家の端くれとして、困っている人間のために力添えする気はないか?』
思わぬ問いに、布都は息を呑んで――しばらく考えた後に、こう答えた。
『太子様のお力になれるのなら本望です。――どうぞ、仰せのままに』
◇
「そんなのパワハラよ、パワハラ! 嫌ならちゃんと抗議しなさい!」
「人聞きの悪い。我は嫌だとは一言も言っておらんだろう」
聞き終わった私がまたブチ切れると、布都はうんざりしたようにため息をつく。
なんでそんな無茶振りが嫌じゃないのよ、いくら神子様が敬愛する上司だからって、その立場を利用して無理矢理結婚を強いる権利なんかないのよ! 前から布都はノーテンキなやつだとは思ってたけど、ここまでとは……。
そのとき、私は布都の顔をもう一度よく見て(あれっ?)と思った。呑気で、何も考えてなさそうで、ぼんやりしている姿は、ある種の放心状態というか、〝心ここに在らず〟にも見えてきた。
「あんた、ちょっとやつれたんじゃない?」
たぶん、よくよく観察しなければ気づかないくらいの、ほんのわずかな変化なんだろうけど、前に雲山が言った通り、布都は変わった。……私が見逃してたんだ。
布都は目を丸くして、なんでもないみたいに笑った。
「それはマリッジブルーってやつよ。結婚を前にすると、たとえ幸福の絶頂にいる者でも、得体の知れぬ不安に苛まれるもの。僧侶のお前にはわからぬだろうが」
「そりゃわかんないけど。……本当に、それだけ?」
「ああ。前の結婚の時もそうだったからな」
え?
なんだって?
こいつ、いま、日常会話のノリでまたとんでもない爆弾を落とさなかった!?
「ちょっと待って、前の結婚って何よ?」
「蘇我馬子殿との結婚に決まっているであろう。知らなかったのか?」
「い、いや、知らなかったっていうか……え? えっ?」
ああ、なんかもう、脳みそ爆発しそう。真言を何遍唱えても落ち着かないわ。
別に私だって歴史を知らないわけじゃない。
蘇我馬子は、ご存じ飛鳥時代の有名な豪族で、仏教を熱心に信仰して廃仏派の物部守屋と争った人だ。守屋に勝った後は、推古天皇や聖徳太子――神子様と一緒に政治を行って、仏教の布教に尽力した人だった。
その蘇我馬子は守屋の同母の妹を妻にしていて、名前は太媛。布都姫って書いてある書物もあるけど、そっちは表記揺れなのか『ふつひめ』って読むのね。そして聖徳太子の妃のひとりである刀自古郎女は、馬子と太媛の娘だとも言われている。
それで、こいつらが復活した後、私が布都に、
『屠自古さんってあんたの娘なの?』
って聞いたら、布都は腹を抱えて大笑いして、ひーひー涙を流しながら、
『そんなわけあるか!』
と叫んでた記憶がある。屠自古さんはあくまで神子様の部下で、刀自古郎女ではなくて、でも蘇我馬子の親族ではあるらしい。
だから私はてっきり、布都も馬子の妻とは別人だったと思い込んでたんだけど、いまのちんちくりんの小娘みたいな布都も、昔は人妻だったってこと? ……こいつらのせいで、のちに歴史書を編纂した連中は大変な思いをしたんじゃないかしら。
布都は私を尻目に、ふっと遠い目をした。
「我が兄・守屋と馬子殿は先代から続く因縁の相手――しかしながら、兄も馬子殿も、数ある豪族の中で抜きん出た相手を互いに無視することができなかったのよ。特に当時の蘇我氏の勢いといったら……馬子殿の父上の稲目殿が娘を三人も大王と娶せて、蘇我は急速に中央にてその存在感を増しつつあった。ゆえに兄は、同腹の妹である我を、当時の蘇我の筆頭であった馬子殿と結婚させた。蘇我の実情を探り、あわよくば抱き込まんとする、いわばスパイとしてな」
「……」
「とはいえお前も知っての通り、我はすでに太子様と通じていた。物部の利より太子様の利を優先させるべく、兄にも馬子殿にも気取られぬように動いていた」
「……あんた、守屋の妹と馬子の妻っていう自分の立場を利用して、物部と蘇我の争いを煽ったのね」
「いかにも」
一般には、守屋と馬子の対立は廃仏派と崇仏派の戦いとして知られている。けど実際はそうでなかった、というのは、私もすでに聞き及んでいた。
そもそも、聖徳太子こと神子様が真実には仏教を信じていなかったのだから、仏教をめぐる争いは目眩しでしかなく、本当は古き天津神の子孫たる物部氏と、道教をもって新たな神とならんとする神子様一派の争いだったとか。気を抜くとスケールが大きすぎてついていけなくなりそうになる。
結局は、守屋も馬子も布都に、あるいはその後ろにいる神子様に踊らされただけっていうのかしら。
「なら、あんたと馬子は仮面夫婦ってわけ」
「そうだ。少なくとも我にとってはそうだったが、馬子殿は違ったようだ」
そこで布都は眉間にしわを寄せた。その目は、どう見てもかつての夫を懐かしみ愛しむ目ではない。かといって、単なる政争の駒に向けるものとも違うっていうか……。
「後世の書物では、馬子殿は大王をも殺し太子様をも脅かし、娘を利用して皇族を乗っ取ろうとした悪人と伝わっているようだな」
「……逆賊として殺された蝦夷と入鹿の煽りを受けているのかもしれないわ」
「あっはっは! エミシとイルカのことは知らんが、馬子殿が悪人だなんて、とんだ嘘っぱちよ」
布都は大声で笑った。
蘇我馬子が悪人であるかどうかは、本当のことをいえば、古い史料を見ただけじゃはっきりしない。日本書紀くらいまで遡れば馬子はそこまで悪く書かれてないんだけど、私たちの馴染み深い平安時代になると、もうすっかり蘇我氏は〝逆賊〟としての地位を確固たるものにしちゃったせいか、あるいは聖徳太子が神格化されたせいか、馬子も推古天皇や聖徳太子の政治の良きパートナーというよりは、大王(崇峻天皇ね)を殺したっていう記録もあいまってか、馬子もやっぱり悪人だったのだと解釈されるむきがある。
かくいう私も、昔読んだり聞いたりした聖徳太子の伝承の影響で、馬子もやっぱり……とか思ってたところがあるんだけど。布都は私のそんな考えをあっさり笑い飛ばす。
「太子様は父上からも母上からも蘇我の血を引いていらっしゃる。蘇我は太子様の同胞だ。どうして馬子殿がご自身の大姪である太子様を害し奉ることがあろう」
きっぱり言い切る布都に、嘘をついている気配はない。なら、馬子は何も知らずに布都に騙されていたのか。それとも、望んで布都たちの共犯者になったのかしら?
「馬子殿は、驚くほど信心深く、同時にひどく臆病な人であった。自らの祖たる武内宿禰を崇拝し、蘇我に誇りを抱きながら、父の稲目殿から蘇我氏の繁栄を託されたのを重い負担に感じておられた。我はその臆病さにつけ込んで、太子様こそが乱れきったこの世の救世主なのだと吹き込み、蘇我と対立した我が兄守屋を討つよう唆し、馬子殿を目の上の瘤のように考える泊瀬部の大王……崇峻天皇を殺すよう唆した。すべては太子様の御世のために」
なのに、と布都は俯いた。
「我は憎まれても仕方ない身だというのに、馬子殿はどういうわけだか、我を愛した。我に謀られたと知ってなお、離縁することなく、妻として重んじ続けた」
「……」
「けれど、我は兄を殺した男を愛せなかった。そうではないか。我にとって兄上は、誰よりも愛しい、たったひとりの同腹の兄だったのだから」
「……」
「そんな顔をするな一輪。さすがに飛鳥の世だって、腹違いや父親違いならともかく、同父同母のきょうだいが結ばれることはない」
「私が人間だった頃は、もうきょうだいで結婚なんてありえないって風潮だったわ」
「勘違いしてくれるな、我は本当に妹としての思慕しか持ち合わせていない。我の夫は蘇我馬子だけだ」
「……」
「……少なくとも、馬子殿は本心から仏に縋っているようだった。そうせざるを得なかったのであろう。妻の兄を殺め、神の子孫たる大王を殺め、積もり続ける罪の重さに恐怖し疲弊した心は、神に救いを求めることを赦されず、異国の仏を拝むしかなかったのだ。……とても、都合が良かったよ。我らにとって」
――こいつは、本当に私の知ってる物部布都なの?
いつもアホっぽくて呑気で、頼まれてもいないのに『今日のおぬしの運勢は』とか、風水を得意げに披露してくる布都だっていうの?
布都の告白はひどく矛盾に満ちている。あんたが神子様に味方して、馬子に兄を殺させたんじゃない。あんたにとっては、一族より夫より、神子様が大事だったんじゃない。だったらそんな被害者みたいに、重い荷物を背負ったみたいに暗い顔をするのはお門違いでしょう。
哀れな馬子! もし布都の告白が本当なら、決して自分を愛してくれない女を愛し、その女のために自らの手すら汚し、結局は自分の元を離れていった女を、それでも愛することしかできない男の心とは、どんなものかしら。
だけど。
目の前で訥々と語る布都の表情がどんどん暗くなって、本当につらいって感じで唇を引き結ぶのを見ると、私はなんて声をかけたらいいのかわからなくなる。
布都は私の視線に気づくと、ふっと口元を緩めて、
「伝説のサホヒメが兄より夫を選んでいたら、我のようになったであろうよ」
などとのたまった。
サホヒメね。飛鳥時代よりさらに昔、古墳時代の垂仁天皇の大后。
あるとき、兄のサホヒコが大王に叛逆を企んで、妹のサホヒメに『お前は夫と兄と、どちらが愛しい』と尋ねた。『兄が愛しい』と答えた妹に、サホヒコはなら夫の大王を殺せと命じた。サホヒメは命令通りにしようとして、結局大王への愛のために殺せず、涙ながらに兄の企みをすべて打ち明けてしまった。
その後、サホヒコが大王に攻め入られると、サホヒメは兄に従い、大王の呼び求めにも応じず、ただ大王との間に生まれた我が子だけを大王に託して、兄のサホヒコと運命を共にして死んだ。最初に『兄が愛しい』と答えた通り、サホヒメは夫より兄を選んだんだ。
……布都。あんたも心の底では、サホヒメのように兄を選びたかったというの。兄と夫、二人の男の板挟みになって苦しんだように、あんたも苦しんで……。
「なあ一輪。結婚に愛も恋も不要だと思わぬか。ただ互いの間に一致する野心と利害さえあれば、所詮その程度の間柄だと割り切れるではないか」
私は答えられない。
そもそも恋愛結婚が浸透したのって最近のことで、平安時代も政略結婚が主流なのよ。
だから、たぶん、あんたの時代の価値観でも、私の時代の価値観でも、結婚に愛なんかいらないってのは正しいんだろうし、ひょっとしたら現代でも通じるのかもしれない。あんたが神子様に従いながら兄が好きだと主張するのも、昔の同母きょうだいの絆は想像以上に深いものがあるから、疑う余地はないのかもしれない。
だけど、布都。あんたが苦しいのは、騙した相手が、馬子があんたを愛したから。愛してくれる相手に愛を返せなかったから。だとしたら……。
「あんたにとって、蘇我馬子との結婚は、幸せではなかったのね」
布都は何も言わなかった。けど、暗い表情で俯くのを見れば、それが肯定だってわかる。
あんたたち兄妹と、サホヒコ・サホヒメ兄妹とは、決定的に違うものがある。馬子との結婚自体は守屋の差し金だったとしても、二人の婚姻関係を利用したのは、神子様じゃない。二つの豪族を争わせて自分の治世の地盤を作ろうとしたのは、神子様じゃない!
そして、神子様は現代になってもまた、あんたを利用しようとしているかもしれないっていうのに!
「あんたは、どうして神子様の持ちかけた縁談を受けたのよ! どうして神子様は、一度結婚でつらい思いをしているあんたに、二度目の結婚を持ちかけたのよ!」
「……一輪、お前はあまりにも太子様を知らなすぎる」
「あんたに比べたら知らないけど、この結婚があんたを苦しめるってことはわかるわ」
「あのな、一輪。我は確かに、我が夫よりも我が兄が……我が一族が愛しかった。だが今も昔も、太子様を恨む気持ちは微塵もない」
目の前が真っ赤に染まるようだった。雲山、もしあんたが私より正気だというなら、私をしっかり支えていて。私が不当に拳を振り上げないように見張っていて。
「……人、木石に非ざれば、みな情あり」
「は?」
「白楽天の詩よ。白楽天は八世紀の生まれだから、あんたたちが眠りについた後の詩人なの」
「ははあ。おぬしのことだから、経典の引用かと思った」
「あんたはお経の話なんか聞いてくれないもの。あんたが神子様を恨んでいないとしても、あんたの兄は、守屋はどうだかわかんないわ」
「……我が兄が、なあ」
布都はじっくり考えるそぶりを見せる。ちょっと卑怯な気はするけど、布都がいまでも兄に愛情を持っているなら、少しは揺さぶられるはずよ。聖様だって前に『感情のない人形や石ころは、果たして悟っていると言えるのでしょうか?』ってお話を説いていらしたから、僧侶がこの詩を引き合いに出すのも不釣り合いじゃないでしょう。
布都はやがて私をじっと見た。
「物部の一族が、ウマシマジノミコトを祖としているのは知ってるな」
「ええ」
「ウマシマジの父のニギハヤヒは、カムヤマトイワレヒコノミコト……のちの神武天皇だな……の東征の折、イワレヒコが天津神の御子だと聞いて、服従を決めた。我ら物部は神代からそうやって生きてきた。そして、我が出会った天津神の御子とは……言うまでもあるまい」
「……」
「神代が移ろえども、ウマシマジの子孫は天津神の御子に従うのみ。物部の長であった我が兄もそれをよく心得ておる。太子様の栄華の礎となるなら本望であろう」
「本望って、あんた」
「――物部は、太陽神の贄じゃ」
瞬間、なんでもないように笑っている布都の顔面に思いっきり拳を炸裂させそうになったのを、雲山がかろうじて止めてくれた。それでも私の口は止まらなかったけど。
「あんたの祖がニギハヤヒなら、あんたの仕えるべき相手はアマテラスの御子じゃないだろ!」
「ニギハヤヒは天孫ニニギの兄弟・アメノホアカリと同一神だともいう。何もおかしくなどない」
「私はあんたがちっともわかんない!」
怒りで身体は震えて、息は荒い。大物忌だか聖童女だか知らないけど、いまどき神に命を捧げる供物なんて間違ってる!
「あんたは昔、神子様に先立って尸解仙の術を実行したそうね」
「そうだ」
「今回の縁談を受け入れたのも、大昔と同じ、神子様への忠誠心からってわけ?」
「その通りだ」
「やめなさいよ! 現代に蘇ったんなら、少しは現代らしい生き方を倣いなさい! それとも何? 二度目の結婚は、前みたく夫を操り人形にしないで、たとえ愛情が沸かなくても、まっとうに対等な夫婦らしくやっていこうっていうの?」
「……」
「なんとか言ってよ、布都!」
私はほとんどつかみかからんばかりだった。
わかってる。現代の結婚は、究極的には当人同士の意思が一番大事で、外野がとやかく言うことじゃないって。
だけど、神子様の命令で、横暴な人間の坊ちゃんと望んでもいない結婚をさせられるなんて。せめて布都本人が、今回の結婚は不幸じゃないって、理想的な幸せは達成できなくても、それに近づけるように頑張ってみるって、そう言ってくれなきゃ、私は納得できない。
言ってよ。
我は不幸な結婚などしないって、そう言ってよ!
「一輪、お前、いつのまにか入道の頑固がうつったんじゃないか?」
布都は私の力任せな腕をそっと払って、からりと笑った。
「我はとっくに幸せだ。太子様のそばで、誠心誠意お仕えしているのだから、どうして不幸なことがあろう」
「……」
もう、駄目みたい。布都はこの結婚をやめる気もなければ、幸せになろうとする気力もない。
きっとその言葉は嘘じゃないんだろうけど。布都の声は、マリッジブルーなんて言葉じゃ片付けられないくらい、空虚に響くんだ。
どうする、どうする、一輪。
どうしよう、雲山。
どうすれば布都を止められる?
聖様にお願いする? ――そんなの、こないだのお嬢さんのときと同じじゃない。何かあればすぐ聖様に頼ってばかりってどうなの。
お相手の坊ちゃんのお宅に乗り込む? ――駄目だ、私たち命蓮寺はお相手の先の縁談をぶち壊した張本人なんだから、印象最悪だ。門前払いを喰らうだろう。
神子様に直談判する? ――それしかないと思う。だけど、神子様のところに行く前に、私にはまだ、目の前の布都に言わなきゃいけないことがある。
いいえ。本当なら、これは絶対に布都には言ってはいけない。わかってる。
だけど、私にはこれしか布都を救う方法が思いつかない。
「ねえ、布都。あんたがどうしても結婚したくないっていうんならさ、結婚しなくていい理由、作ってあげられなくもないけど」
真面目に話そうと思ったときに限って、へらっと笑ってしまうのはなんでだろう。布都の笑い方がうつったのかしら?
「はあ? もう式の日取りは決まっているのだぞ。今更やめるなんて……」
「出家した人間ってのはさ、半分くらい、この世にいない人って扱いになるんだけど」
布都の顔から笑みが消えた。本当、普段は呑気なくせに、そういうとこだけ神経が敏感なんだから。
――わかってるわよ。地獄に仏様が現れたって、あんたは仏様に縋ったりしないって。あんたの仏教への憎しみは生半可なものじゃないって。あのお嬢さんみたいな頼み事はしないって。
「大丈夫よ。私、これでも一人前の僧侶だから。出家の作法は全部心得てるし、いざとなれば既成事実がものを言うっていうか、お相手も結構古風な考えの家なんでしょ? 当日に花嫁が姿を変えて現れたら、さすがにお相手も考えを――」
「一輪」
それから、私は言葉が続かなかった。
布都が、いままで見たことのない顔をして、私を睨んでいる。
「お前は本当に雲居一輪か? いつぞやの夢の世界の自分とかと入れ替わっているのではないな?」
「ふ、布都」
「時代は目まぐるしく移り変わる、古くさい考えに囚われてなんかやらない、私はいつだって時代の最先端を歩くハイカラ少女だ――そういう生き方をするのが我の知る雲居一輪だ。いまのお前は我よりたったの四百年しか進んでいない。お前が最も忌み嫌う、古くさい昔のしきたりに囚われているではないか!」
みぞおちを殴られたような衝撃があった。
ああ、布都。あんたは私にどんな言葉が一番効くか、憎らしいくらいよくわかってるじゃない。
布都の後ろに、真っ赤な炎の海が見える。かつて桜井寺を焼いたような――数多の仏像や仏閣を灰燼に帰したような、布都の持つ強い怒りと、憎しみと、恨み。
「我は兄も、馬子殿も、太子様も、誰にも恨みをぶつけられない。ただただ、我らを分断した仏教だけが憎くてたまらない。我が縋れるのは太子様しかいないのだ」
布都は、少しでも私が何か言葉を続けようとすれば、雲山もろとも燃やしかねない勢いだった。
「たとえ太子様がどのような矛盾や罪を抱えていても、太子様は我にとっての希望だ。我は太子様の部下だ! お前ら平安の妖怪どもの呑気な考え方で、我ら豪族の血の滲む思いを測ってくれるな!」
ガチャン、と皿が割れる音がした。
布都は私じゃなくて、地面に皿を叩きつけた。さっきの私に負けず劣らず息を荒くして、肩を揺らして。
布都は最後にもう一度、燃えるような瞳を私に向けて、
「式の日取りは変わらぬ。我は、何があろうと逃げはせぬ」
それだけを念を押すように告げて、背中を向けると、走り去っていった。
私はしばらくその場から動けなかった。
結局、出家すれば結婚しなくていいなんてのは、昔の古くさい考え方でしかないんだ。
私も、そういう考え方がまだまだ染み付いて離れないんだ。
「雲山……」
私の相棒は何も言わない。
私は雲山の目を覗き込んだ。
私を責めているわけではない。
同情しているのでもない。
強いていえば、なんだか不安そう――不安? 変なの。雲山は頑固で昔気質だけど、『動かざること山の如し』であんまり動じるタイプじゃないのに。
そのままじっと見つめて、「ああ」と気づいた。
「いまの雲山、私と同じ顔をしているわ」
長く一緒にいると顔つきが似てくるっていうけど、そうか、私と雲山、たまに感情がシンクロするんだ。
「情けないなあ……何やってんだろ、私」
そのまま雲山の腕に顔を埋めても、雲山は何も言わなかった。
情けない。情けない!
千年も僧侶をやってくるせに、こないだは出家を望むお嬢さんを追い返して、今度は出家を望まない布都をむやみに出家させようとした!
こんなのは利他行じゃない。
私の自己満足をただ布都に押し付けているだけなんだ!
信仰は、誰にとっても自由であるべきだ。
それは、何かを信じる自由があると同時に、何かを信じない、あるいは何も信じない自由があるということ。
布都は決して仏教に縋らないって、そんなことをしなくたっても布都は自分で救われるんだって、わかっていたはずなのに……!
だけど私、このままうずくまって泣いてる暇なんてないんだ。
布都と話をして、布都が物部へ抱く帰属意識や愛着を聞いて、ますますこの結婚は阻止しなきゃって思えてきた。
最近の人間の夫婦は姓を、つまり苗字を揃えるのが当たり前となっている。それも妻が夫の方に合わせるのが大半だとか。大昔はそんなことなかったんだけど、明治の頃の新作法とやららしい。近年じゃ『夫婦は別姓でもいいでしょ?』って動きが出てきてるけど、古いしきたりとやらにこだわる人たちはそうもいかない。
布都と結婚する坊ちゃんの実家も、そうなんじゃないかしら。
息子の代だけ、特別に夫婦の別姓を認めてくれる……いいえ、未だに長男に嫁を取らせて家を継がせるなんて言ってるとこが、そんな臨機応変な対応をしてくれるとは思えない。
だとしたら、布都。あんたが何より誇りに思って、大事にしている〝物部〟の名前は、この結婚と同時に消え去ってしまうかもしれないのよ!
「雲山!」
さっと顔を拭って呼びかければ、我が相棒は、それだけで私が何をしたいのかわかってくれるようだ。
「久々の喧嘩よ、相手はただ一人――神霊廟の主人、豊聡耳神子!」
〈幕間 ハイカラ少女の独り言その③〉
雲山、貴方はもう忘れたかしら。あれは私たちがまだ地底にいた頃――といってもつい最近のことで、実を言うと、私の方が忘れかけていた出来事だったのよ。ここ最近の布都の件で不意に思い出したの。
地底は地上のような騒ぎは起こらないにしても何かと賑やかで、人鬼めいたやつが地獄の改革に乗り出したとか、いろいろ新しい風が吹くこともあったんだけど、やっぱりいるのよね、どこにも古代めいた考えの抜けないやつって。
あのとき、私に突っかかってきたそいつは、原因ははっきりと覚えてないけど、えらく私に喧嘩腰で、虫の居所が悪かったのかしら。地底に住む妖怪は荒っぽくて、私たちはつい喧嘩や摩擦を起こすこともあったわね。なんだっけ? 口論の果てに、たしかそいつは『嫁の貰い手のない生き遅れの尼め』みたいな捨て台詞を言ってたような。
いやー、びっくりした。いまどき『女は嫁に行けないとか言っときゃ傷つくんだろ』とか思ってるアホンダラがまだいたんだって。
ええ、私は腹が立つどころか、むしろそいつが可哀想になったのよね。古い価値観をいつまでもアップデートできないで、自分の偏見から抜け出せなくて、いずれ時代の波に埋もれて自然淘汰される運命だわ。きっと幻想郷ですら生き残れないわ。お可哀想にね、なんて思っていたくらいよ。
そう、私はただ呆れていただけで、そんな言葉にちっともダメージを受けなかった。
でも雲山、あんたは違った。
あんたが阿修羅様や毘沙門天様やお不動様や、ありとあらゆる憤怒の形相の仏様を集めたような恐ろしい顔をして、身体も大きく膨らんで、そいつはあっさり怯えて逃げ出した。私はあの妖怪といざこざになったのも忘れて、どうにかしてあんたに罪を犯させまいと、あんたを落ち着かせるのに必死だったわ。
ああ、やっぱり覚えてるの。大変だったんだからね、私はいまにもあんたがそいつを殴り殺すんじゃないかと気が気じゃなくて……小さくならないでよ、もういいのよ。あんたがあんなに怒るのを見て、私は初めて『もうちょい怒ってもよかったかな』なんて思ったの。
……私の名誉を傷つけられるのが何より許せない? そうかなー。あんな木っ端妖怪に乏められるほど、私の名誉は安くないけど。
うん、そう。あのときもいまも私は笑っていたでしょう? あんたが私のことであんなに怒ってくれるの、私は嬉しかったの。
あのね、雲山。私は前々から、あんたに一緒になりたい、結婚したいって思うようないい人ができたら、私は潔く、それでいて鮮やかに『さらば』と告げて、あんたから去って行かなければならないと思っていたの。
……わかってるって。もうそんなこと言わないわ。あんたがどうなっても、私はあんたを置いて離れていかないから。
私はあんたを相棒以上にも以下にも思えないし、たぶんこれまでもこれからも、恋愛めいたトキメキは感じないんでしょうけど。
雲山。雲居一輪は、世界で一番、あんたを愛しているわ!
〈その三 雲海に雷鳴は轟いて〉
「頼もうー!!」
道場破りは、正々堂々正面から。問い慣れた神霊廟の門前で高々と叫べど、神子様は現れない。代わりに足のない幽霊――私にはあまり馴染みのない蘇我屠自古さんだ――が出てきて、
「布都なら××家に行ってるから留守だぞ」
と、ぶっきらぼうに言ってきた。布都は坊ちゃんちか……なら、かえって都合がいいわ。
「いえ、今日は布都じゃなくて、神子様に用があるんです」
「太子様なら奥にいる」
屠自古さんはやっぱり乱暴に言って、去っていった。勝手に上がっていいのかしら。一応、道場破りなんだけど。
言われるがままに中に進めば勝手知ったるなんとやら、神子様の部屋に一直線……と思ったんだけど、あからさまに入れと言わんばかりに扉の開いた部屋があって、明かりと物音が漏れてくる。
「うへー」
そっと覗いてみれば、中にはおびただしい和風あるいは中華風の高級そうな道具の山。どれも真新しくて、なんのために用意したかなんて、考えるまでもない。私はなんだか、源氏物語で浮舟の継父の伊予の介が、実の娘のためにあちこちの高級ブランド品を部屋に所狭しと集めて、娘はブランド品の山の中でちょっと目が見えるくらい、なんて滑稽な光景を思い出してしまった。
でもこの部屋の奥にいるのは、嫁ぐ娘じゃなくて、神子様だ。
「嫁入り道具とは不思議なものだね」
神子様はわざとらしく「おや、来てたのか」とも言わず、調度品のひとつをしげしげと見つめながらつぶやいた。
私はこの調度品と一緒に嫁入りする布都を思って気分が沈んでいたせいか、ちょうど神子様の後ろにある衣紋掛けにかかる真っ白なものを見つけてぎょっとした。花嫁のためのおめでたい白無垢が、まるで死装束みたいに見えた。『結婚は人生の墓場』なんて、誰が言い出したの?
「新たな地に生まれ変わって早数年。しかし女が『嫁に入る』というのは、未だに私には聞き慣れないな」
「私だって聞き慣れませんよ」
つい同調してしまう。だって、平安の終わり頃にはいまでいう『嫁入り婚』もちらほら出てきたけど、古代の結婚といったら男が女の家に通う『婿取り婚』ないし『通い婚』だもの。神子様たちの時代、飛鳥の頃だってそうだったはずよ。
「ま、時代に合わせるのも、現代に蘇った身のさだめかね」
「その『嫁入り』だって、いまや時代遅れになりそうですよ。だいたい『貴方の色に染まります』ってゾッとする文句はなんです? 一方的に足並み揃えろって求めてくるの厚かましくありません?」
「まあ落ち着きなさい。時が経てば時代は変わるよ。現代では嫁入り道具といって、家具やら着物やらを新調して娘に持たせるそうだが」
それは、なんか聞き覚えがある。平安の頃も、女は結婚する時、身の回りの道具を新しく揃えるものだった。
「妙な気分だ。部下でしかなかった布都を、まるで我が娘のように世話するとは。綺麗に着飾った花嫁が、新品の嫁入り道具を携えて、花婿たる男の元へ嫁いでゆく。――その送り出される花嫁こそが、一番の嫁入り道具ではないか?」
瞬間、頭が真っ白になって、すぐに怒りが湧いてきた。
「いま、布都を道具にしようとしてるのはあんたよ!」
思えば『お父さん、娘さんを僕にください』『お前に娘はやらん』なんて定番のやり取りもなんかおかしいもんだ、男ふたりで盛り上がって肝心の娘の意思なんか聞いちゃいない、まるで婿と父の間で娘の所有権の譲渡作業を行うかのように!
「僧侶が他人の結婚に口を挟むのは関心しないな」
「そんなこと、どうだっていいんです! 仏教徒をさんざん謀ってくれたあんたに『僧侶が』なんて、訳知り顔で語られたくないわ! それに、今更私と布都が赤の他人だなんて言い切れるわけないでしょう!」
「一丁前に大口を叩くようになったものだ。それとも何か? お前が代わりに布都をもらいにきたのか?」
「は、はあ!?」
神子様は落ち着き払って(前の布都と同じだわ、主従って似てくるものなんだろうか)、なんならちょっと楽しそうな顔をしてとんでもないことを聞いてくるもんだから、開いた口が塞がらない。
「私の話聞いてます!? そうやって布都を商品か景品みたく扱うのが納得いかないって言ってるんです!」
「そうか。言い方が悪かった。お前は正式な妻問いに来たのかと聞いたんだ」
こ、これだから飛鳥時代の人間の考えることってわからない!
何がどうなったら、私が布都に結婚を申し込むような女に見えるのよー!? どこまでも人の話を聞かないんだから! スセリヒメと結婚しにきたオオナムヂに対するスサノオ気取りか!
もういい。こんなわからずや、力づくでねじ伏せるしかない!
金輪を取り出して外に飛び出せば、神子様も片手を笏、もう片手は剣のつかに添えて、後を追ってくる。
「神子様、勝負です! 私が勝ったら、布都の結婚を取りやめてくれますね?」
「よかろう。だが、私がやめると言っても布都がやると言ったらどうする?」
「そのときは布都にも決闘を申し込む!」
「血の気の多い。僧侶の忍辱はどこへ行ったんだか」
「いつかの決闘みたく、『赤か青か欲しい方を叫べ』って聞かないんですか?」
「私にはたったひとつの未来しか見えない。真っ赤に染まるお前の姿だけがな。どうして敢えて尋ねる必要があろう?」
「あんたが不当に結びつけようとしているふたりの赤い糸を引きちぎってやるためよ!」
決闘の火蓋が切って落とされた。
決着がつくのに時間はかからなかった。
「勝負あり、だな」
余裕綽々に構えているのは神子様ひとり。
私と雲山は、血まみれにこそなっていないけど、力尽きて道場の外に倒れていた。
「気を落とすなよ。布都は幸せ者だ。異教徒とはいえ、お前のような友を持てたのだから」
「……」
神子様の労り文句は馬鹿みたく優しくて、余計に屈辱だ。
「ただし、単なる熱意に絆されてやるほど私も優しくはない。残念だったな。私の計画は、狂いなく進められる」
神子様はそのまま悠々と道場の中へ帰ってゆく。
ああ、私だって全力で挑んだのに、やっぱり神子様には敵わないんだ。
……。
いいのよ、雲山、慰めてくれなくて。
私は泣かない。
どんなに悔しくたって私は泣くもんか。
だって、いま、本当に泣きたいのは私じゃないもの。
「雲山」
いますぐここを出よう。そう言うつもりだったんだけど。
「おい」
ぐしゃぐしゃになった顔を拭う私の真上に、ぶっきらぼうな声が降ってきた。
「コテンパンにやられたな。太子様に挑むなど無謀な真似をするからだ。……ちょっと待て。少し話をしようじゃないか」
不機嫌そうな顔で私を見下ろしているのは、蘇我屠自古さんだった。
◇
慣れだよなー、と思う。
神子様とはもう何度も決闘で手を合わせているから、神子様に対して恐れ多い気持ちなんかちっともなくて、殴りかかるのも怒鳴りつけるのも平気だもの。
だけど、この人は――屠自古さんは。
神霊廟で決闘が行われると屠自古さんもちょっと顔を出すけど、布都や神子様が異変解決であちこち動き回っているときも、屠自古さんはまったく関与していないらしくって、私はほとんど屠自古さんと関わりがない。
布都に言わせれば『あいつは我以上の仏教嫌い』らしく、私や聖様が道場の敷居を跨ぐと『異教徒めが我らのテリトリーに何をしにきた』と言わんばかりにものすごいガン飛ばしてくるから、触らぬ神に祟りなしってことでなるべく関わらないようにしてきた。
だから屠自古さんとこんな風に、縁側に腰掛けて差し向かって話すなんて、どうも慣れないわ。
「ほら」
「……どうも」
なぜか屠自古さんが私と雲山にお茶を出したので、素直に受け取った。さすがに毒入りのお茶を渡す人ではないと思う。
でも、屠自古さんが出てきてから、なんか道場の天気が悪くなってきたのよね。黒い雲が出て……屠自古さんは雷を落とす怨霊だというけれど。菅公の伝説みたいなことをやる気かしら? そりゃあ確かに帝(の皇子)に喧嘩は売ったけど、私は時平じゃないわよー。
「どうした、冷めないうちに飲め」
「あ、い、いただきます」
促されてしまったので、お茶に口をつけた。これ、日本茶じゃないな。大陸の味だわ。和をもってなんちゃらとか言ってる割には神霊廟はいつも大陸の風が吹いているような気がする。神子様の趣味かしら。
温かい飲み物を入れると、傷ついた身体が少し癒されたような気持ちになってくる。雲山ものんびりお茶を啜っていた。
落ち着いたところで、屠自古さんが口を開いた。
「お前、布都の結婚に反対しているらしいな」
「……そういう屠自古さんはどう思ってるんです?」
「勝手にすればいいよ。初婚でもない中古品を貰いたがる好き物なんてそう見つからないんだから、せいぜいありがたくもらわれておけばいい」
「中古品って、あのですね、いくら仲悪いからってそんな言い方……」
「別に仲は悪くない」
じゃ、なんなのよ?
その昔、布都と屠自古さんの間に何がしかのトラブルがあったとは聞いている。いまは和解済みだというけど、その名残は解決しきってるわけでもないらしくて、どうも複雑っぽい。ただ、布都の話だけ聞くと、布都は昔のいざこざをまったく覚えていないようだけど。
だって、思い返せば、布都の昔話には神子様や推古天皇や守屋や馬子は出てきても、屠自古さんはちっとも出てこないんだもの。
私があんまり不躾に屠自古さんを眺めたせいか、屠自古さんは鼻を鳴らして、
「最初からお前に理解されたいなどとは思ってない」
「……ま、そうですよね」
私だってそんな牽制されて土足で踏み込むほど図々しくない。私たち命蓮寺の昔の事情に神霊廟の皆さんが立ち入れないように、私たち命蓮寺だって神霊廟の事情には立ち入れない。当事者にしかわからない事情だってんならほっとくわよ。でも、わざわざ屠自古さんから私を引き留めたのは、布都の話があるってことよね。
「そりゃあね、私だってお節介なのはわかってますよ。布都が結婚する理由は、布都本人が決めればいいんだし。結婚なんて実際は『愛があるから大丈夫』どころか『愛がなくても大丈夫』だとは思いますし。……でも、二度も不幸な結婚をしかけている人をほっとけませんよ」
「お前は布都が不幸になると思っているのか」
「そうでしょう。せめて布都が『私は幸せいっぱいです』って顔をして行くんだったら、私もお祝いできたでしょうけど。……布都は自分のためじゃなくて、神子様のために結婚しようとしているのよ。『我は太陽神の贄じゃ』とか言って」
「あいつ、まだそんなことを言ってるのか」
屠自古さんはうんざりしたようにため息をついた。
「あいつは、昔っから何も変わらない……いつだって、太子様の腹心の部下でありたがる」
そういう屠自古さんは神子様への忠誠心について、布都に張り合っているようにも見える。当時の神子様、そんなに魅力的だったのかな。聖様もいまではすっかり神子様に信頼を預けているみたいだけど、私はどうにもね。
まあ、それは私が口を極めて言葉を尽くして、いかに聖様を尊敬しているかを布都に語ったところで、布都にはほんのわずかしか理解できないのと同じことよ。
「大方、あいつは兄をはじめとした物部の一族が滅んだことについて、誰も恨んでいないとか抜かしたんだろう」
「はい」
「お前、それを信じたのか?」
「少なくとも、嘘をついているようには見えませんでしたが……」
「そうだろうよ。あいつ、昔の記憶は中途半端に忘れたままなんだ」
屠自古さんはまたため息をつく。そういえば、復活したての布都は時差ボケがどうのとか言っていたような気がする。それがまだ治ってないんだろうか。
「布都は、太子様に忠誠を尽くす傍らで、本心では納得してないんだよ。蘇我より物部に勝ってほしかった。最愛の兄に生きてほしかった。布都がそれに気づいたときには、もう一族を太子様に捧げた後だ」
なんだか落ち着かない気持ちになって、お茶をちびちび啜った。
布都が同腹のお兄さんを大事に思う気持ちは、理解できなくもない。昔は男の人が女の人の家に通う結婚形態だから、生まれた子供たちは母親単位で集まって育つのよ。たとえ父親が同じでも、母親が違うきょうだいとは縁が薄くなるのも珍しくない。何せ、平安生まれの私には理解できないけど、飛鳥の時代は腹違いならきょうだいでも結婚オーケーだったみたいだしね。
だからこそ同母きょうだいの絆は、伝説のサホヒメのように、ときに夫婦の絆より深く強くなる。
サホヒメなら愛と愛のせめぎ合いだったけど、布都は理想と愛のせめぎ合いだったわけね。もちろん屠自古さんの話には屠自古さんのバイアスがかかってる可能性もあるけど、布都が自ら滅びに導いた守屋を愛してたってのは、信じる気になってきた。
「あいつは何があっても太子様は恨めない。太子様こそが自分にとっての希望だと、信じているから」
「……そうですか」
「だけど、布都が恨みをぶつける相手ならいたんだよ」
屠自古さんはじっと私を睨みつけてきた。髪の毛が逆立って、同時に屠自古さんの、肉体のない幽霊の足がゆらゆらと揺らめく。
確か、屠自古さんも神子様や布都と同じように尸解仙として復活する予定だったのに、器を――壺を布都に壊されて、亡霊になってしまった。なんで布都がそんなことをしたのか、原因はわかっていないというけれど。
布都は本心では蘇我に恨みを抱いていて、それを屠自古さんにぶつけたのだとしたら?
「でも、どうして……」
「蘇我馬子ではなかったのかって? 不可能だったんだ。太子様は尸解仙になる準備を進める一方で、自らの死後の政の行く末も絶えず案じていらっしゃった。太子様の御子たちはいずれも年若い。太子様は炊屋姫……推古天皇と、馬子に政を託した。ゆえに布都は私怨で馬子を殺せない。ただでさえ、生涯愛を返せなかった負目のある夫なのだから」
「……」
「まあ、私も昔はずいぶん布都をどやしたからな。私の自慢の兄に、お前はなんの不満があるんだって」
兄? ってことは、屠自古さんは……蘇我馬子の妹なのか。ここまできたら、私の知ってる歴史とどうズレていても驚かないわよ。
「ええと、じゃあ、貴方は刀自古郎女ではない?」
「もし太子様が本当に男だったら、私が栄えある皇太子妃だったかもしれないね」
屠自古さんは勝気に鼻を鳴らした。神子様への忠誠心や敬愛も本心なんだろうけど、その笑みには野心的な自信に溢れている。愛より一族の繁栄を望むタイプか。いかにも豪族の娘らしいわ。
飛鳥時代の蘇我氏が、平安時代の藤原氏よろしく、娘を皇族に縁付かせて生まれた子供を……って企んでたんなら、女の神子様に馬子が妹を結婚させるわけがないか。それじゃ、聖徳太子の妃と後世の私たちが知る人たちは、当時としてはあやにくな結婚をした人だったのかしら。それとも、それすら神子様たちの作った嘘?
それはともかく、布都にとって、神子様は恨む対象じゃなかった。馬子は生かさなければいけない相手だし、恨みをぶつけるには罪悪感が邪魔をする。なら、他には……馬子の妹で、蘇我の娘で、神子様の部下である屠自古さんしかいない。
屠自古さんの目が細められる。
「確かに我が兄は、守屋のような血気盛んで喧嘩っ早い男ではなかった。蘇我の誇りを持ち、人並みの野心はあれど、どこまでも臆病で、素直な……産土の神々の力が弱まりこのままでは国の行末も危ういと言われればそれを信じ怯え、その代わりになるのは異国の仏しかないと言われれば……私には理解し難いが、素直に信仰し、娘を皇族と娶らせて蘇我の力を強めるのがそなたの役目と父に言われれば信じ全うし、太子様こそがゆくゆくは国の頂点に立つ救世主だと言われれば忠誠を誓う。少々頼りないと言われれば否定はしない。だが私からすれば、守屋みたいな短気で横暴で血の気が多い男よりも、兄のような温和な男の方がずっと好ましい」
そういう屠自古さんも短気に見えますよ、とは言わない方がいいんだろうな。結局、屠自古さんも布都も身贔屓なのよ。自分の身内がよく見えて評価が甘くなってしまうのよ。それに屠自古さんも最後は兄を選ばない。この人もサホヒメにはならないのね。
「布都だって、馬子さんの人となりを理解していなかったわけじゃなさそうですよ。ただ、兄を殺した男は愛せないと言っていましたが」
ふっと、屠自古さんは嘲るような笑みを見せた。
空がどんどん暗くなる。ゴロゴロと雷の音がした。
「私と布都はよく似ていた。名だたる豪族の娘で、一族の長となるべき兄を持ち、太子様の理想に憧れ、同じ夢を見た同志だ。だからこそ、布都はどうしても私の足を引っ張りたかったんだな。私を騙して邪魔をして、お前も同じ苦しみを味わえと呪いながら……自分ひとりだけ、大昔の因縁も怨恨も綺麗さっぱり忘れやがった!」
目を焼くような閃光が瞬いて、凄まじい轟音が道場に鳴り響いた。気がついたら私も雲山も屠自古さんも、大雨に打たれていた。
空を駆ける雷(いかずち)が青白く閃くように、屠自古さんの目にも青白い光が揺らめいている。
ああ、どうしよう。並の怨霊だったらお経を唱えられるけど、仏教嫌いの怨霊なんて、僧侶の手には余る。時平よろしく太刀を引き抜いて挑むわけにもいかないし。
こういうとき、ムラサだったらもっとうまく対応できると思うのに。仏様に帰依しながら、いまでも怨霊の仲間みたいな舟幽霊であり続けるあいつなら、あるいは屠自古さんに寄り添うすべを持っていたかもしれないのに。
「屠自古さんは」
それでも確かめずにはいられないことがあって、口を開く。
「屠自古さんは、布都を恨んでいるんですか。大事なお兄さんを愛さず、屠自古さんを亡霊にしてしまった布都を……」
「違う!」
屠自古さんの悲鳴に似た声が響くのと、雲山が私を守るように覆い被さるのと、雷が私たちのすぐ近くの木に落ちるのが、ほとんど同時だった。
「私はいまも、布都を恨んで……いや、憐れんで……いや……」
屠自古さんは呆然と空を仰いだ。泣いているように見えるのは、雨のせいだろう。
それは『人も惜し人も恨めしあぢきなく世を思ふゆえにもの思ふ身は』といった心境なのかしら。
前にムラサが言ってたっけな、『人の心の中は、必ずしもひとつの感情だけで埋め尽くされるわけじゃないのよ。過去の恨みに縛られる気持ちと、そんなことはもう忘れて前に進もうって気持ちが、矛盾なく同居することもあるの』って。
屠自古さんは、布都を恨んでもいるし、憐れんでもいる。その状態は、屠自古さんにとってはなんの矛盾でもない。
「わかっているんだ。布都が兄上を愛せなくたって、私が恨む筋合いはない。一族の仇敵を愛せなどと酷な話だ。私だって、結局は兄のそばでなく太子様に追従する道を選んだ。ただ、布都を一途に愛した我が兄を思うと……布都が石女だと判明して、余儀なく娶らされた女を〝太媛〟と呼び、生まれた娘に〝刀自古〟と名付けた兄上の心を思うと、私は……その娘すら、兄上は一族のために……」
雲山が目を伏せた。気の毒だ、と呟いたのが聞こえたのは私にだけだろう。その言葉が、屠自古さんでも布都でもなく、馬子に向けられたものだとわかったのも、私だけだ。
とんでもないことを聞かされている。馬子の娘〝刀自古郎女〟が聖徳太子の妃になった、それは間違いではなかったの。布都の実の娘ではなかったというだけで。
でも、たとえ布都にかつて夫がいて、石女であったとしても、それが布都にとってなんの傷になるだろう?
「鏡を割るようなものだ。横にひび割れた鏡……そこに映る自分の姿を見まい、と」
それは、屠自古さんが魂を移す予定だった壺のことか。
しばらくして、雨が少しだけ弱まった。
「時々、考えることがある。贄になるのが守屋ではなく我が兄で、物部が栄華を極める傍らで蘇我は日陰者で、私が布都にやり場のない恨みを募らせていたのなら……すべてが逆しまであったならば、私の方が尸解仙になっていて、布都の方が怨霊になっていたかもしれない、と」
そうつぶやいた屠自古さんの横顔は、ヘタな隠者よりサトっている。口には出さないけど。
思えば屠自古さんは神子様や布都と違って、ただひとり、長年の眠りについていなかったんだ。厳密には青娥さんもだけど、あの人は屠自古さん以上に道場で見かけないからよくわかんないのよね。
眠らないぶんだけ、屠自古さんには一四◯◯年分の経験が積み重なっているはずだ。だからかしら。屠自古さんの顔つきが、神子様や布都とは異なって見えるのは。
「一四◯◯年だ。恨みが薄れるには充分な時間だ。実際、私も布都ももう仲良くやれているんだ。……こんな落雷を目の当たりにしては、信じられないかもしれないがな」
「信じますよ」
屠自古さんは目を瞬いた。
ムラサ、あんたに感謝するわ。あんたは前にこうも言ったっけ、『誰かを恨む感情は、長保ちしないの』って。
――過去には、誰も介入できない。
私たち、命蓮寺の妖怪が封印されたことがなかったことにできないように。布都や屠自古さんや神子様にあったことを、布都たちより未来に生きていた私たちがすべて知るのも、おそらくできない。
私に布都と屠自古さんの不可解な関係が理解できなくたって、無理はないんだ。そもそも布都たちは私の生まれる四百年近く前に生きていた人間なわけで、四百年ぶんのジェネレーションギャップを埋めるなんてハードルが高い。
知らなくてもいい、と思うのは怠慢かしら?
すべて知り尽くそうとする方が、よっぽど傲慢だと思うけど。……まあ、布都に『お前の物差しで測るな』と突っぱねられた件に関しては、お前がいままで知ろうとしなかったツケが牙を剥いたのだと言われたら、そうかもと思ってしまうけど。
たとえ、布都が昔の記憶が曖昧になってしまっていても。
屠自古さんが恨みをすべて断ち切ることも保ち続けることもできずに、亡霊として留まっていても。
本人たちが『別にいい』と言ってしまったら、私にできることは何もない。
それでも、私にとって、布都は友達だ。たとえ理解のできない異教徒でも、私が生まれる四百年前の古代人でも、一族を破滅に追いやり同志を亡霊にした罪人だとしても、友達なんだ。
「思うに、人間は歴史という大河の中で流れる石っころだ」
屠自古さんはまたぽつりと言う。いつのまにか雨が止んでいた。
「我が兄が蘇我の繁栄を長引かせても、結局蘇我は中大兄皇子らに逆賊として誅されてしまった。いまでは蘇我も物部も等しく逆賊だ。たとえ私と布都がそれぞれ最後の生き残りになっても、歴史はすでに私たちを拒絶している。流れに身を任せようが、抗い爪痕を残そうが、同じこと」
なんて、歴史に名前を残した側の屠自古さんに言われてしまったら、普通の人はなんて答えればいいんだろうね?
私たち、命蓮寺の妖怪は、歴史を動かす人間じゃない。弟様と聖様がちょろっと絵巻の題材になった程度で、弟子の私たちはそのオマケ。
歴史を動かして名前を残す人間には相応の苦労があって、その本心を打ち明けられる相手は私のような一介の僧侶でなく、神子様のような偉大な人物なのでしょうね。
だけど歴史は、お偉いさんだけで動くものじゃないわ。歴史書のどこにも名前が残らない、取るに足らない、ただ生まれて死んでゆくだけのような人たちにだって、草の根の力ってやつがあるのよ。
だから、私は怯まない。口をつぐまない。
「どうせなら、大河の奔流に流されまいと、大波に挑む船の水夫でありたいものです」
折しも雨に打たれていたせいか、私と雲山と屠自古さんは揃って荒波の底から顔を出したように見えなくもない。
聖様を乗せるためにとムラサが名付けた聖輦船。その船が間欠泉で地上に押し出されて、晴れて私達は地上にいた星と合流し、魔界の聖様を助けに行くことができた。
そうよ、自分の人生の舵は、自分で取らなくっちゃね。
屠自古さんの顔が明るくなった――といっても、笑ったんじゃなくて、雲の切れ間から日が差したためだけど。
「そういえば、あいつも船を漕ぐんだ。お前が乗りたいと言ったら喜ぶだろうな」
「天磐船でしたっけ。本当に、布都は一族に愛着を持っているわ」
「お前は雲居一輪といったか。そっちの入道は雲山と。坊さんなんぞと友達になる布都の気がしれなかったけど」
屠自古さんは私の目を見て、意地悪く笑った。
「やっぱり、私にはさっぱりわからんな」
「そうでしょうね」
そりゃあ、ほんのちょっと雑談した程度でわかられても困る。屠自古さんは布都と自分が似てるっていうけど、私にはいまいちピンとこないし。布都の昔話を聴かせてくれたのはありがたかったけど。
屠自古さんは空になった湯呑みを三つお盆に乗せて、『あんまり長居するなよ』と残して道場の奥へ引っ込んだ。私としてもいつまでも商売敵の本拠地に居座っていたくないので、雲山に乗って道場を後にした。
「ねえ、雲山」
人里の上空で、雲山にこっそり話しかける。
神子様には完敗したし、屠自古さんには……なんだろ、諭されたわけじゃないと思うけど、かといって認められたわけでもないし……布都のことを話したけど、だからっておめおめ諦める私じゃない。
「私、布都の結婚式をぶっ壊してやろうと思うの」
そっと、空の上でも誰に聞かれているかわからないから、雲山にしか聞こえないように告げる。私はもう腹を括った。
雲山はさして驚きもせずこっちを見つめた。そう言い出すのはわかってた、とでも言いたげだ。
「これは酒を呑むのや妖怪として悪さをするのとはわけが違うわ。下手したら、聖様に破門されるかもしれない。最悪、私はそうなってもいいと思ってる。だけど、雲山。あんたは……貴方は、私に無理についてこなくたって、」
私の口を、雲山の大きな手がそっと覆った。それ以上は言うな、と。
「あのね、私は貴方を巻き込みたくないの。いつも一緒だからって、雲山まで罪を被ることはないわ。貴方はお寺に残る道もあるのよ?」
雲山は黙って首を横に振る。こういうときの雲山はテコでも動かないって、私が一番よく知っている。
「馬鹿ね。本当にいいの?」
雲山は、自分だって今回の件には納得いかないんだ、無理を通して道理を引っ込める真似は見逃せないと言った。
だったら、私ももう何も言わない。雲山の大きくて逞しい手に抱きついた。
――我らは一蓮托生。どこまでも、どこまでも、運命を共にしよう。
千万の兵が味方してくれるより、たったひとりの雲山がそばにいてくれる方が、ずっとずっと心強いわ。
そう、雲山がそばにいる限り、雲居一輪は決して孤独にはならないのよ。なんて素敵なんでしょう!
「雲山、一旦隠密行動よ」
やる気がもりもり湧いてきてさっそく耳打ちすると、どこへ、と言うから「人里」と答えた。
結婚式までまだ日は残されている。
神霊廟側にアプローチして駄目なら、今度はお相手の坊ちゃんちに行くしかない。
といっても、さすがに神子様相手にやったような正面突破は無理だ。うまく人間の中に紛れて、坊ちゃんちの内情を探るのよ。
そして、私のこの計画は、聖様をはじめとした命蓮寺の仲間にも気取られないようにやらなきゃならない。しばらくは、命蓮寺でも何事もなかったかのように振る舞いましょう。何か聞かれたら『布都と喧嘩した』って正直に言えばいいわ。嘘じゃないし、私と布都が喧嘩になるのはいつものことだから、誰も怪しみやしない。
いいわね、雲山? ひっそりと、それでいて大胆に。いまこそ苦い地底時代の経験を思い出すのよ!
〈幕間 ハイカラ少女の独り言その④〉
『女の友情は紙より薄い』とか言い出すやつは紙ゴミにまとめて捨てればいいと思うんだけど、私にとっての友達って、ムラサとか、星とか、ナズーリンとか、なんていうか、家族件仲間件友達って感じなのよねー。雲山? 雲山は唯一無二の相棒に決まってるじゃない。
仕方ないわ、ひとつ屋根の下に住んでる者同士だもの。だから、お寺の外で出会った布都は、私にとってはかなり純粋に友達らしい友達なのよ、あれでも。
とはいえ、気心の知れた付き合いの長い間柄の居心地の良さはやっぱりいいもんだ。
「星、ヒマ?」
「本を読む時間は暇な時間ではないのよ」
星は書物から目を離さずに答えた。つまりお勤め中ではないってこと。急用なら聞くけど無駄話は勘弁してほしいわって感じの態度。
星は何を読んでいるのかと思えば、例によって『源氏物語』。巻名は……。
「うわっ、総角」
「うわって何よ、失礼な」
「だって大君死ぬじゃん」
「そりゃあこれだけ長い話で帝の代替わりもあるんだから死人だって出るわよ」
「そういう通りいっぺんのことを言ってるんじゃないの、この辺りの深い霧に包まれたような湿っぽさがなんか苦手なのよ」
いやね、宇治十帖自体は悪くないし、賛否の別れるラストも私は最高だと思うけど、光源氏がいた頃より全体的に湿っぽくて、読んでて気が滅入るシーンが多いのも否定できないのよね。
で、私はこの宇治の大君――宇治十帖のヒロインのひとりが、自己犠牲的な言動のわりには自分本位な感じがしてあんま好きじゃないんだけど、星はこういう女性こそを「まさに理想」と惚れ惚れ見上げるようで、迂闊に悪口を言ったら対立しかねない。というか源氏の話を始めると、ムラサもマミゾウさんも、またいみじくも聖様まで「一言でも意見を投じなければ気が済まない」といった感じで侃侃諤諤の大論争になっちゃうから、いつもはあたりさわりのない感想で済ませるのだった。しょうがないわ、平安生まれってみんな源氏が好きなのよ。
「ま、大君が死んで終わるのはあんまり納得いかないけど、大君が薫との結婚を避けたのは賢明だったと思うわ」
「そうね。匂宮と結婚した妹の中の君は、結局苦労が絶えないし」
「というか源氏物語に幸福な結婚なんてあったっけ?」
「あった……かしら……?」
星と私と、ついでにあんまり源氏が得意じゃない雲山と額を寄せても答えは出ない。最初は幸福そうでも途中でヒビが入るとか、馴れ初めが最悪でその後なあなあで受け入れるようになるとか、そんなパターンが多いのよね。紫式部、もしかして結婚不信だった?
「――さりとて、かうおろかならず見ゆめる心ばへの、見おとりして、我も人も見えむが、心やすからず憂かるべきこと」
星は大君の心内文を口ずさんだ。『いまは愛情深く見えても、だんだんお互いに幻滅してしまうのが頼み甲斐なくつらい』って言ってるのね。愛情なんか儚くて頼りにならないわって。
「真面目そうな薫に対してもこう考えるのだから、立派だと思わない?」
「私は未婚の、しかも山奥育ちのお姫様がそこまで男女の世の中の情に詳しげなのが不自然だと思うけど」
「それは聡明な大君の洞察力よ」
「ならそれは大君贔屓のあんたの欲目よ」
とまあ、私の大君への見解はこんなもんなので、星は残念そうに肩をすくめた。
「同じ物語を読んでいるはずなのに、意見が合わないわね」
「同じ感想しか出てこないなら源氏はつまらない物語ってことになっちゃうわ」
「そうね」
その点だけは解釈が一致した。どんなに贔屓の登場人物が被らなくても、読み方が食い違っても、源氏が好きってのは同じだからね。
「なあに、星?」
気がつくと、星はなんだか眩しそうに目を細めている。
「紫式部は源氏物語を書いたために、数多の人々の心を惑わせ、嘘をついてはならない不妄語戒に触れて、地獄に堕ちたとされるわ」
「あー、そんな伝説もあったっけ。紫式部も気の毒にねえ」
「すべての物語は嘘っぱちだらけ、絵空事の並べ立て。僧侶が真面目に読むべき書物じゃないのは確かね」
などとすべての作家が憤慨しそうなことをのたまいながら、星はそっと優しい指先で表紙の和紙をなぞる。
「それでも、物語の中の、ここには存在しないはずの人々がまるで懐かしい知己のような錯覚を得て、女人たちの魂の叫びを聞く心地がして。私は絵空事の物語を紐解くのをやめられないのよ」
と言った。ああこれは、とピンときた。
星といた時間は、雲山やムラサやナズーリンより短い。星が封じられた私たちの元へやってきたこともあるけど、毘沙門天の代理と宝塔を託された星はやっぱり地底より地上にいた方がいいと判断して、私たちで追い返してしまった。
私たちが地底に封印されていたあの頃、地上にいた星は数多の物語をたどりながら、星のそばにいなかった私たちを思い描いて、埋まらない寂寞を慰めていたのね?
「そんな顔しないでよ、一輪。みんなが私の心の中にいたから、私はひとりじゃなかったのよ」
「星、あんたってそんなに友達甲斐のあるやつだったのね。ごめんね~、私ってば地底にいた頃、あんたのこと『実はこっそり裏切ったんじゃないか』ってちらっと疑ったことがあったのよ~」
「あら、今更そんなメロスの告白じみたことを聞くなんて。いいのよ、私も貴方たちを疑わなかったかと良心に問いただせば嘘になるもの」
「なんなら私のこと殴っていいわよ~。そうでなきゃあんたと友情のハグをかわす資格すらないように思えるのよ」
「嫌よ、暑苦しい。そんなことしたら私も貴方に殴られる羽目になるじゃない」
「あんたもうちょっとフィジカルを鍛えなさいよ」
「私は宝塔があればいいの」
非武闘派の友達はそうやって笑うのだった。
家族との境目が曖昧な感じだけど、気心の知れた友達と昔の思い出だの好きな本だのの話をするのはいいものよ。幻想郷に来てから知り合った布都とはどうしたってこうはいかないからね。
そう、布都とは源氏の話なんかしない。
自分が眠ったあとの書物にもいろいろ興味を持って読みはするみたいだけど(お菊さんを知ってるくらいだし)、源氏物語は「長い」の一言で断りやがって、「お前ふざけんな」と喧嘩になったっけなー。
それじゃなんの話をするのかって言ったら……。
……。
あれ?
あんまり思い出せない。雲山はどう? ……はっきりしないなあ。やだなー、布都のボケがうったわけじゃあるまいし。喧嘩したことはいっぱい覚えてるけど。
つまるところ、私と布都は大して記憶に残りもしない、取るに足らない話ばっかしてるってことか。む、無益な。宗教家ともあろう者が。
でも、いっか。
記憶に強くは残らないけど『楽しかった』『腹立たしかった』って思い出がぼんやり残るような相手がいるのも、悪くないもんよ。
それに、私からすれば、物部布都という仙人こそが、私の読んだ昔物語の登場人物そのものだもの。誰だったかしら、『歴史とは過去と現在の対話である』とか言ったのは?
星の言うように、私はあるいは、布都と会話し交流することで、物語の中の人物を身近な友達にしているのかもしれない。
〈その四 今日までの自分を〉
お忍びで人里に来るのは、今回が初めてじゃない。
まあ、ほら、その、般若湯……ああもういいわよ、お酒! お酒をひっそり調達しに来るの!
だから私も雲山も、命蓮寺の妖怪僧侶だとバレないように姿形を偽って忍び込むのは慣れたもんだ。
私の方からわざわざ坊ちゃんちのことを道ゆく人に聞かなくても、さすが人里の名の知れた名家、噂は簡単に入ってくる。
『あの坊ちゃん、とうとう嫁さんを迎えなさんのか』
『おめでたいねえ、なにせたったひとりぽっちの跡継ぎ息子だから、親御さんもやきもきなすってたろう』
『しかし仙人のお嫁さんとは、また変わってるねえ』
『いやいや、ただの仙人じゃない、なんといってもあの聖徳太子様のお弟子さんだ、坊ちゃんに不釣り合いなんてことはないだろう』
『もしかして坊ちゃんがいままで数々の縁談を突っぱねてたのは、大きな鯛を釣り上げるためだったのかしら? 策士だこと』
『しかし、最近は肝心の坊ちゃんをあまり見かけないような』
『旦那様が嫁を取る心構えを連日叩き込んでらっしゃるとか』
『ああ、あの厳格な旦那様ならやりかねませんね』
『奥方様も女中の数を増やして万全のお支度をなさるおつもりだとか』
『おお、怖や。いつの世も姑は花嫁修行の名目で嫁いびりをするものだからねえ』
『これ、滅多なことを言うでないよ』
とまあ、みんな言いたい放題言いまくってるのだった。人間って、どうして昔っから他人の色恋沙汰に興味津々なのかしら。
噂話に尾鰭は付きものだけど、その中でも坊ちゃんが滅多に屋敷の外に出なくなったってのは本当みたいだ。
私も怪しまれない程度にお屋敷付近をうろついてるんだけど、坊ちゃんらしき人(私は坊ちゃんの顔や姿形を知ってるわけじゃないけど、見ればわかるはずなのよ)はちっとも見かけない。
うーん。どうにかして坊ちゃんとお屋敷の外で直接コンタクトを取れたら、どういうつもりで縁談を受けたのか、布都をどう思うのか、結婚をやめる気はないのか、問い詰めてやれたんだけど、それは難しそうかも。
いっそ女中に変装してお屋敷に忍び込むか!? とも考えたけど、それは雲山に『寺のみんなに怪しまれる』って止められたし。
肝心の坊ちゃんに接触できない以上、結局は、日をまちまちに置きながら何度も人里に通って噂の情報をひとつひとつ精査するしかないのだった。
「――あら?」
今日もまた目ぼしい収穫はなかった、と命蓮寺へ戻る途中のことだった。
人里の若い娘さんが、私をじっと見つめてきた。
え、な、何? まさか変装がバレたとか?
嫌な予感とは当たるもので、その娘さんはぱっと顔を輝かせ、
「一輪さん! 一輪さんじゃありませんか!」
大声で話しかけてくるもんだからぎょっとした。お忍びで来てるのに本名を呼ばないでよ!
「一輪さーん! お隣は雲山さんでしょう?」
「わかったから呼ばないで、シー、シーッ!」
こうなったら無視するわけにもいかないので、人が集まってくる前に娘さんに駆け寄って必死に声を抑えるように頼み込んだ。
まったく、妖怪が変装して人間のテリトリーに忍んでたら素知らぬフリをするのが人間のマナーってもんなのに(その逆も然りよ)、無粋なことをするのはどこのどいつだ……と思ったら、なんだか見覚えのある顔だ。服装こそありふれた人里の娘だけど、よく見れば美人なお顔立ち。
うん? 待って、この意志の強そうな表情は!
「貴方、あのときのお嬢さん!?」
「はい! いつぞやは大層ご迷惑をおかけしました」
娘さんは深々お辞儀をする。びっくりした、顔は汗だく、着物は質素になって、髪型も島田から無造作なひっつめ髪に変わってるけど、いつか命蓮寺に「尼にしてください」と駆け込んできたお嬢さんだった。
「今日はどうなさったんです? 布教活動、ではありませんね。袈裟を着ていませんもの」
「いやいや、お嬢さんこそどうしてこんなところへ? 実家はどうしたんです? ま、まさか、例の駆け落ちに成功して……」
「お嬢様、どうしたんです?」
そこへ見知らぬ男の人の声がした。
「あなた、こっちへ来て、私の恩人様よ」
お嬢さんに手招きされてやってきた男は、歳は二十代半ばかしら、質素な着物ながらよく日に焼けた精巧な顔つきの、いかにも農村の息子って感じだった。
「紹介します、私の夫です」
「はじめまして」
「え、ええ、はじめまして」
流れでお辞儀を返すと、男の人は白い歯を見せて笑う。
えーっと、お嬢さん、この人のこと〝夫〟って言ったわよね?
だけど、お嬢さんが恋してたのって、丁稚奉公の少年よね?
この人はどう見てもお嬢さんより歳上の大人の男性で、しかも明らかに百姓の風格で、とても高貴なお屋敷の下働きをしてる風じゃない。
「お嬢さん、この人は……」
「あ、その、順を追って説明しますわ」
お嬢さんは恥ずかしそうに、声をひそめて事の顛末を聞かせてくれた。
お嬢さんは縁談から解放された後、例の相思相愛の丁稚奉公の少年と駆け落ちを試みた。
けれどお嬢さんたちの計画はあっさりご実家に見抜かれ、即座に連れ戻された挙句、少年は屋敷から追い出されてしまった。失意のまま、お嬢さんは「もう死んでしまおう」と宛てどなくふらふら彷徨っていた(余計なお世話かもだけど、お嬢さん、行き詰ったらすぐに死のうとするのはよした方がいいんじゃない?)。
それをすんでのところで引き留めたのがこの青年だった。若い女がひとりで真夜中に出歩いているのを怪しみ、心配し、人里の外へ出て行こうとするのを止めて自分の家へ案内したらしい。
青年はお婆さんとふたり暮らしで、ふたりは寄る辺のないお嬢さんにとても親切にしてくれた。おふたりの優しさに心を打たれたお嬢さんは、どうせ実家には帰るつもりはないのだからと、青年と一緒になる決意をした。お婆さんも綺麗なお嬢さんが孫の嫁になるのを喜んでくれた。
うん、いい話だ。お嬢さんの素性も身元も疑わないまっすぐさ。心身ともに弱っていたところを助けてくれた人にお嬢さんが心惹かれるのも、無理はないと思うんだけどさ。
「あの、お嬢さん、あの少年と結ばれないなら『決してよそに嫁がぬ』という固い契りは……?」
「あら、私、そんなこと言いました?」
お嬢さーん!! 若さゆえの情熱に身を委ねて行動するのもいい加減にしなさいよー!!
……と、けろっと笑っているお嬢さんに危うく怒鳴ってしまうところだったけど、ぶっちゃけ気持ちはわからなくもない。
「貴方を忘れない」なんてさ、その時は本気でそう思ってても、後になったら意外と忘れちゃうのよね。どうせこのまま丁稚奉公の少年に操を立てても、お嬢さんが報われる保証はないんだし。薄情とかじゃなくて、人間はそもそもひとつのことだけ一途に思い遂げるようにできてないんだわ。
余談だけど、追い出された丁稚奉公の少年の方はどうなったかというと、後で聞いた話では、お嬢さんと引き離されてそう月日の経たないうちに、身分相応の娘さんと恋に落ちてめでたく結ばれたらしい。……うん、なんていうか、ある意味お嬢さんととてもお似合い。
ちょっと雲山、何よその目は。女の子にばっか貞操だの貞淑だのを求めるのはよくないことよ。和泉式部や後深草院の二条みたいな恋多き女の人生も楽しそうじゃない。
「あの、余計なお世話ですけど、いまのお嬢さんはお幸せですか?」
「ええ。私、畑仕事なんて初めてなんです。すぐ泥だらけになるし、虫に刺されるし、日にも焼けるけど、こんなお日様の下で何時間も身体を動かすのって楽しくって。私、こう見えて、力仕事だってできるんですよ、ねえ、あなた?」
「はい。お嬢様はよく働いてくれます。炊事も洗濯も、下働きの人間がやるようなことも進んでやってくれて、祖母も『働き者の別嬪な嫁さんが来てくれた』と喜んでいます」
ニカッと白い歯を見せて笑う爽やかな青年は、本当にお嬢さんを大事に思っているみたいだ。とっくに結婚してるのに『お嬢様』なんて呼ぶのもベタ惚れっぽいし。
まあ、なんだ。幸せならオーケー、なのかな? 少なくともお嬢さんにとっては、かつてのようなお琴だお花だお裁縫だのを家の奥で何時間も仕込まれる生活よりは楽しいみたいだし。真っ白だった肌は小麦色になって化粧も薄くなったけど、血色はよくなって、前よりずっと元気そうに見えるし。
お嬢さんに対する感情は、共感半分、呆れ半分。もしかしたらこの情熱的で自由奔放なお嬢さん、あと二回くらいは結婚と離婚を繰り返すかもねーとも思うけど、でも、不思議とお嬢さんはなんとかやっていけそうな気がするんだなあ。
「ところで、いちり……いえ、貴方はどうしてこちらへ?」
「ええと……」
私は打ち明けていいもんか迷ったけど、思えば例の坊ちゃんは元はこのお嬢さんのお見合い相手だったんだし、もしかしたらお嬢さんは何か知ってるかもしれない。お嬢さんだけに聞こえるように耳打ちすると、「まあ!」と声を上げた。
「あのお屋敷ですか。まさかそんなことになっているとは、思いもしませんでしたわ」
お嬢さんは懲りもせず強引な縁談を進める坊ちゃんちに苛立ちを見せたあと、
「あの、その件につきまして、私から申し上げるべきことがございます」
お嬢さんが夫の青年に目配せすると、青年は察して家の中に戻っていく。気の利く人だ。
夫の姿が見えなくなると、お嬢さんは姿勢を正して私に向き合った。
「確かに私も、例のお坊ちゃんについては、女性の選り好みの厳しい殿方だと聞いて、良く思っておりませんでした。ですが、破談のときに一度ちらとお伺いして、なんとなくわかりました。お坊ちゃんがああも我儘を通されるのには、どうも事情がおありのようなのです」
「え?」
「実は……」
お嬢さんは辺りを憚って、「あくまで、私の考えに過ぎませんけど」と前置きした上で、さっきの私よりもずっと注意深く打ち明けた。
「お、お嬢さん、そのお話、確かなの?」
「ですから、私の考えに過ぎませんわ。お相手のご事情もあるでしょうし、安易な決めつけはできません。でも恋する者同士の勘といいますか、私にはそうとしか思えないというか……むしろ、そう考えればすべてに合点がゆく気がしてならないのです。もしかしたら、お坊ちゃんの召使いのお兄さんも、事情をご存知かもしれません」
仰天した、青天の霹靂とはまさにこのこと。
そんな、道理で高望みをしてくるはずだわ。とんでもないワガママ坊ちゃんだと思ったら、初めっから妖怪だろうが人間だろうが、どんな女の人とも結婚する気がないんだもの!
「それじゃ、この結婚、布都はおろか、相手の坊ちゃんも望んじゃいないのね?」
「そうです、誰も幸せになんかなりません!」
冷や汗が流れる。こりゃ大変だ。なんとしてでも坊ちゃんに真偽を問いただしたいけど、事が事だけに、踏み込むのは慎重にならざるを得ない。
うん、待てよ? 私たちはともかく、すべての欲を知る神子様が、これしきの事情を悟れないはずがない。
つまり神子様は、知ってて素知らぬ顔でこの縁談を進めてるってこと?
なんて恥知らず! 暴君! 邪智暴虐の王! 呆れた王だ、生かしておけぬ! お前の母ちゃんデベソ!
布都も布都よ、なんでこんな結婚ホイホイ引き受けちゃったのよ!
「ありがとう、お嬢さん。どうあってもこの結婚、阻止しなければならないわ」
「ええ、やっちゃいましょうよ、一輪さん!」
お嬢さんがいまにも坊ちゃんちに殴り込みに行きそうな勢いなので、私と雲山は「気が早いですって!」と引き留めた。相変わらず行動力の塊だこと。
「ぼんやりしてなどいられませんよ、月日が経つのはあっという間ですもの。一輪さんが、僧侶としての立場を気にされるのはわかります」
なんだか、私たちが前にお嬢さんの悩みを聞いた時、世間体だのを気にしてたのを見破られたようでぎくっとする。そうよね、お嬢さん、猪突猛進なとこはあるけど決して馬鹿ではないもの。わかるわよね、そういう態度って。
「そのお方は、布都さんは大事なお友達なんでしょう? 私は幼い頃から親に口出しされてばかりで、友達などろくにおりませんでした。ですから、お友達のためにそこまで一生懸命になれる一輪さんのこと、私は羨ましく思いますのよ」
お嬢さんに曇りのない目で言われて、なんか照れ臭くなる。
私の行動が本当に布都のためになるのか、単なる私の自己満足じゃないのかって、私自身はまだ疑ってるんだけど。
そうだ、やっぱり布都は私の友達なんだ。
だったら、今更迷ってなんかいられないわ。
「なんなら私も一緒に殴り込みに行きますよ!」
「結構です、気持ちだけ受け取っときますから!」
ほっといたら本当に私についてきそうなお嬢さんを説得して、私たちはひとまずお嬢さんと別れることにした。
お嬢さん、相変わらずだわ。窮屈な実家から解放されてお転婆に磨きがかかったんじゃないかしら。人妻なら身を慎んで……なーんて堅苦しいことは私は言わないけど、もうちょい大人しくしてね。
雲山は「このまま坊ちゃんちに行くのか」と聞いてくる。私は首を横に振って、
「一旦帰るわ。いろいろ整理したいこともあるし、攻め方を少し変えましょう」
◇
お寺に帰ってから、私は托鉢……普通の道を練り歩いてやる托鉢じゃなくて、その昔、弟様が悪徳長者を懲らしめるためにやったように、鉢の中に手紙だけを入れて法力で件の坊ちゃんのお屋敷に飛ばしたのだった。
『本来はああいう横着なのはよくないのよ』とか聖様は言うけど、そもそも弟様がやり出したことなんだし、うちの修行僧はみんな鉢を飛ばすくらいはできるのよね。
お金持ちのお屋敷なら、届け物は真っ先に主人には向かわない。大抵は下働きの召使いがまず不審なものでないか改めて、そっからさらに権限を持ってる召使いのまとめ役みたいなのに預けて、まとめ役が中身を確認してから、初めて主人に届けられるはずよ。
それじゃ、私は屋敷の主人への直訴状を鉢で飛ばしたのかって? ちっちっち。将を射んとせば先ず馬を射よ。はなから大物を狙う必要はないわ。私の目的は、お嬢様さんの教えてくれた、坊ちゃんの召使いのお兄さんなんだから。
手紙には『以前のとりなしのお詫びと此度のお慶び』をぜひじかにお会いしてお伝えしたい旨を、召使いのお兄さんを宛名にして書いた。もし無事に届いたら、返事をその手紙の裏にじかに認めてくれるようにとも添えて。そうしたら、鉢は自動的に法力の主である私のところへ飛んで返ってくるようになっている。
果たして、返事は無事に返ってきた。ご丁寧に落ち合いの場所まで指定してくれている。最悪、揉み消されるかもとも考えたけど、どうもこの召使いのお兄さんは話のわからない人じゃないみたいね。お屋敷内での立場はそんなに偉くないけど、坊ちゃんの側近だから少しは自由を許されてるって感じかしら。
約束の日、私と雲山は例によって変装して、人里の茶屋の個室で落ち合った。
「このような場所にお呼び立てして申し訳ありません」
「いえいえ、お屋敷やお寺では何かと人目がつきますもの。お心遣い、感謝いたしますわ」
型通りの挨拶を終えて、私は改めて召使いのお兄さんを見た。
この人もずいぶん若い。坊ちゃんより三歳年上だと聞いていたから、この人は二十三歳か。
高貴な人のそばに仕える身なだけあって、この人も身なりはとても小綺麗なのだけど、服装も小物も極めて質素にしている。容姿は……あんまり容姿に言及するのは失礼なんだけど、全体的には地味でぼやっとしてて、お世辞にも美形とは言えないけど、垂れ気味の目はとても優しそう。何より急に不躾に呼び出したのは私なのに、ずっと平身低頭で私たちの方を気遣ってて、いい人なのだろうと思う。
「先日は私どもが大変無礼な、出過ぎた真似を致しました。そして此度の……」
「いえ、よしましょう。貴方の話は、それが本題ではないのでしょう?」
話が早い。手紙には万が一にも他の人間に読まれても平気なようにぼかして書いたところもあったのに、私の意図をちゃんと見抜いてる。
私もさっさと本題に入ることにした。
「さる筋の人から、貴方のことを聞きました。貴方が、坊ちゃんの一番の側近だとか」
「そんな大したものではありませんよ。僕の両親が旦那様に仕えていた縁で、僕も生まれたときからあのお屋敷にお世話になっていて、自然と坊ちゃんのおそばにいるようになっただけです」
なるほど。昔でいう乳兄弟みたいなものかしら。実の兄弟や友達よりもずっと深い絆で結ばれたりするの。
お兄さんは眩しそうに目を細めた。
「主人と従者……その境はあれど、僕たちは毎日のように一緒に遊んで、とても仲良く過ごさせてもらった。貴方も、坊ちゃんについて悪い噂をお聞きでしょうか? 確かに坊ちゃんは子供の頃から少々わんぱくで、気短なところはありましたが、世間の言うほどものの道理のわからない方ではないのです。確かに、お見合い相手のお嬢様方にぶつけた酷い言葉は取り消せるものではありませんが、坊ちゃんは本当に悪い方ではないんです。今回だって、僕がどんなに言葉を尽くして坊ちゃんに納得していただこうとしたか……」
「お、落ち着いてください」
最初は穏やかだったのに、いつのまにか前のめりになって怒涛の勢いで捲し立ててくるものだから、面食らってしまう。お兄さんはすぐに青ざめて「すみません」と小さくなった。
「よっぽど大事な坊ちゃんなんですね」
「……坊ちゃんは一人っ子で、お屋敷に、同じ年頃の子供が僕くらいしかいなかったせいでしょうか。気難しやの坊ちゃんも、昔から僕にだけは心を開いて、いろいろ打ち明けてくれたものですから。……僕だって、坊ちゃんには幸せになってもらいたい」
苦しげに拳を握りしめる。この人、坊ちゃんのことになると必死だし、よっぽど坊ちゃんの身の上を親身になって考えているのね。この様子だと、お兄さんも坊ちゃんと布都との結婚が幸せでないとわかっているみたいだ。
「人間の娘と結婚するなら、妖怪とでも連れ添った方がマシだ。……その言葉は、本気ではありませんでした。雨霰のように降り注ぐ縁談にうんざりしていたのでしょう。ですが旦那様と奥方様はこの発言を逆手に取って、例の仙人の娘さん……布都さんを連れてきて、人間のようで人間でない、見事にお前のお眼鏡に叶う娘が見つかったぞと」
「坊ちゃん、抵抗しなかったんですか」
「いつもの坊ちゃんなら抵抗したでしょう。ただ、タイミングが悪かったというか……布都さんとの縁談が持ち込まれる直前に、僕は坊ちゃんと喧嘩してしまって」
「え?」
思わず雲山と顔を見合わせる。なんで召使いと喧嘩したら急に縁談を受け入れる気になるんだろう。まさか、このお兄さん、実は布都のこと……ないな、ない。
お兄さんは苦しげに眉を寄せる。
「どうして坊ちゃんが縁談を軒並み断っているのか。旦那様や奥方様にすら話そうとしないその理由を、以前から僕にだけは打ち明けてくれていました。僕はただただ驚いて、夢を見ているようで、目も眩む思いで……どうにか坊ちゃんと釣り合う、素敵な人間のお嬢様と結婚なさるようにと、説得しようとしていたんです。けれど坊ちゃん、言い出したら聞かない性格ですから、自分の意見を頑として曲げなくて。僕も昔から付き合いがあるせいか、つい坊ちゃんには遠慮ない物言いをしてしまうこともあって。何度も何度も言い合いになって、ついにいままでで一番の大喧嘩になってしまった」
うなだれるお兄さんを見て、私の手のひらにも汗が滲む。
もし、お嬢さんの恋する者の勘が正しければ。それと合わせてお兄さんの話を聞いた私の推測が正しければ。
「お兄さん、貴方との仲違いの当てつけに、坊ちゃんは布都との結婚を決めてしまったと?」
「……おそらくは」
おそらく、とは言うけど、ほとんど確信を持った言い方に近い。
「貴方は本当にこのままでいいと思っているんですか?」
「……僕はただ……坊ちゃんが幸せになってくれるなら……僕の意思など、勘定に入れるまでもない……」
「この結婚で貴方の坊ちゃんは幸せになりませんよ」
絞り出すような声で呻くお兄さんに私が断言すると、お兄さんは目を見開く。
「布都は前に一度、不幸な結婚をしました。それに慣れてしまったのか、今回の結婚だって、せいぜい師匠である神子様の顔を立てようくらいにしか思っていないんです。坊ちゃんとふたり、手を取り合って幸福な家庭を築く心づもりなんてはなからありません。そして、坊ちゃんだって、結婚しても布都と一緒に幸せになる努力なんかしないでしょうね」
「……」
「私はこんな結婚認められません。布都がみすみす不幸になるのを見過ごせませんから。そちらに結婚を取りやめる意志がないのであれば、たとえここで貴方が止めたって、結婚式をめちゃくちゃにしてやるつもりです」
お兄さんはさすがにそれは、と言いたげな顔をしたけれど、唇を噛んだ。
「お兄さん、貴方はどうなんです? 坊ちゃんは、本当に幸せになれると思いますか?」
「……僕だって」
拳を握りしめる。
「僕だって、坊ちゃんに不幸になってほしくない……人様を巻き込んで不幸をばら撒いてなどほしくない……旦那様がなんと言おうが、坊ちゃんを苦しめる古いしきたりなど、壊してしまいたい!」
お兄さんの力強い決意を聞いて、私は雲山とふたり、うなずいた。
「式は、坊ちゃんのお屋敷で行うんですよね。天井か玄関か、穴が空いても大丈夫ですか?」
「はい……はい?」
お兄さんは「えっ、壊すって、本当にそういう?」と困惑している。普通は物理的な破壊とは思わないわよね。何せこちとらげんこつスマッシャーですから。仏様の教えは拳にも宿るのよ、きっと。
「幸い、雲山は敏腕大工にもなれますから、壊した後も元通りに直せますけど」
お兄さんはさすがに黙り込んでしまった。我ながら強引なことを言ってる自覚はある。その昔、平安末期に僧侶が起こした強訴より雑で荒っぽいわ。というか、ヘタしたら私は恫喝僧侶? ああ、聖様に叱られる。いいや今更気にするもんか。こちとら最初から破門覚悟で動いてるんだから。
妖怪の身で人里に殴り込みなんてとか、命蓮寺の評判がとか、もういいわ。たとえいくつかの掟を破ることになったとしても、窮地に立たされた人をみすみす見捨てる言い訳を探している方が、よっぽどみっともなくて、宗教家にふさわしくない行為だと、いまなら思うもの。
お兄さんも、大切な人に不幸になってほしくないという気持ちが同じだったからか。やがて、口元を緩ませた。
「不幸中の幸いといいますか、結婚が決まってから、坊ちゃんは僕を遠ざけています。お屋敷の構造は、生まれたときから住んでいるのです、目をつぶってだって歩き回れます。坊ちゃんの目を盗んで貴方を手引きするくらい、造作もない」
「よし、交渉成立!」
私と雲山、お兄さんとでがっつり握手を交わした。
紛い物の伝統も、古くさい価値観も、ぜんぶぶっ壊してやるわ!
〈幕間 ハイカラ少女の独り言その⑤〉
人更に少き時なしすべからく惜しむべし。年常に春ならず酒を空しくすることなかれ。
もうねー、呑まなきゃやってらんないのよ。みんなの目を誤魔化しながらお勤めはいつも通りこなさなきゃならないし、その合間を塗って何度も人里に足は運ぶし、神経使うからめっちゃストレス溜まるもん。いっそ、どこぞのハイカラさんよろしく式の当日は酒を飲んで大暴れしてやろうかとも考えたけど、さすがの私と雲山にも理性が残っていたらしい。一瞬で『それはやめよう』と思ったの。いかに幻想郷といえど、昔と比べて酒呑みに対する印象が変わってきているのは重々承知だし。
だからたまの晩酌くらいは見逃してほしいわ!
思えば現代の人間の結婚ってのはさ、二十代とか三十代とかで結婚して、もちろん一夫一婦制で浮気や不倫はナシで、男も女も恋愛や性愛の関係を持つのは貴方とだけですって契約をして、んでもって人間が八十くらいまで生きると仮定したら、みんなパートナーと五十年だか六十年だか一緒にいるわけね。
五十年。妖怪の私なら「一瞬よ」って思っちゃうけど、たいていの人間からしたら短くないどころか人生の大半よね。結婚すると、そんな長い時間をひとりの人間に縛られる。正気の沙汰じゃなくない? 恋だの愛だのをはしかみたいのもんっていうのは、ある意味じゃ正しいのかもね。
でも。そんな正気を失ってしまってもいいとお互いに思える相手に巡り合えるっていうのは、きっと幸せなことなのよ。きっと。
……ああ、だいぶ酔ってきたわ、私。こんなことをボヤくなんて。いいわよ雲山、まだお水はいい。
だいたいねー、私の中では未だに『現代は僧侶の結婚はオッケー』と『僧侶が結婚についてああだこうだ考える必要はない』が矛盾なく同居してんのよ。だってもう、お嬢さんと布都の件だけでも、いかに現代の結婚がめんどくさいか、嫌というほど思い知らされたもの! 千年間の私は、他の苦労はさておき、少なくとも結婚問題に煩わされることなく、心穏やかだったのよ!
なんで僧侶の私がいまになってここまで結婚についてああだこうだ悩まなきゃならないのよ!
それもこれも全部布都のせいよ! 布都のアホーッ!!
……ええ、ありがと雲山、あんたももっと呑みなさい。そうなのよ雲山、こうやって管を巻きながら結局、私は僧侶をやめないし、布都への友情も捨てないし、ちゃんと当日には自分のやるべきことをきっちりやるわけ。まったく、我ながら難儀な人生だわ。
だからたまの晩酌くらいは見逃してほしいわ!
〈その五 ハイカラ少女が時代親父と通る〉
時が経つのは早いもんで、気がつけばもう布都の結婚前夜。大安とかいう、もはや多くの人間にとっては『なんか知らんけどカレンダーに載ってるやつ』くらいの認識でしかない六曜の吉日に、布都は結婚式を挙げる。
命蓮寺は妖怪だらけなのもあって、結局参列することになったのは聖様と私と雲山だけなんだけど、私は支度にはちっとも手をつけていない。
未だに布都と絶交中(まあ、あれから一度も会ってないし、間違いでもない)ってことにしてあるから、不貞腐れて式をバックれる気満々、という風を装っているのだった。
「一輪、本当に明日行かないつもり? いつまでブーたれてんのよ」
「うるさいなあ。あんなやつ、嫁にでもどこにでも勝手に行っちゃえばいいのよ!」
「まーだそんなこと言ってる。星、どうすんの?」
「一輪と雲山のぶんの晴れ着もしっかり用意してあるわ。少し遅れてきても、布都さんは多めに見てくれるんじゃないかしら」
呆れ返るムラサに対して、星は遠回しに『気が変わったらいつでも行っていいのよ』と伝えてくる。思えばふたりをはじめとして、私ったらずいぶん長い間命蓮寺のみんなを騙してたのね。良心が痛むっちゃ痛むけど、やっぱり私の独りよがりみたいな行動にみんなは巻き込めないし、私と雲山だけでやり遂げたいって気持ちもあったから、いいんだ。
「聖様が甘すぎるのよ。早く仲直りしなさいとも言わないんだから」
「こういうのって、無理に和解させてもしこりが残るものよ。一輪たちの問題は一輪たちに任せましょうよ」
ふたりの会話が背後で続く中で、思い立ったことがあって、雲山と一緒に聖様の部屋へ向かう。
「聖様」
聖様は明日の支度などすっかり終えているようで、いつも通り、静かに夕のお勤めをしていらっしゃるようだった。聖様は経典からこちらへ顔を向けて「なんでしょう」と答えた。
「聖様は、いまでも神子様を心から信頼できる人とお思いですか?」
シンプルに、でもきっぱりと問いかけた。
ずっと気になってたんだ。今回の神子様の采配について、聖様は何もおっしゃらない。何も知らないはずがないだろうに。私が何か企んでるって気づいていらっしゃる風なのに、何もしない。聖様にも何かお考えがあるんだろうけど、それが私にはわからない。だから、明日の決行前に、確かめておかずにはいられなかった。
聖様は少しも動じず、私の目をまっすぐに見つめたまま、シンプルな答えを迷いなく告げた。
「はい。信頼に足りる人だと思っています」
「……そうですか」
失礼しました、雲山と部屋を後にする。
聖様に今回の件を一切相談しなかったのは、迷惑をかけたくなかったからでもあるし、前回お嬢さんの件を丸投げしてしまったから、私たちだって自分でやれるんだって証明したかった、意地みたいなのもある。
私に見える神子様と聖様に見える神子様の姿が違っても、それは仕方ないことなんだ。どんなに私が聖様に憧れて、聖様みたいに立派になりたいと思っていても、私は私で、聖様は聖様なんだから。
だから、たとえいつか聖様と道を違えることになっても……仕方ないのよ。聖様が聖様の信じる道を行くなら、私は私の信じる道を行かなくちゃ。
◇
さて来たる決戦の日、本日は大安なり。
雲山は身体を空の雲に擬態して、私はその上に隠れて、上空から坊ちゃんの屋敷を見下ろしている。もちろん私も雲山も晴れ着なんか着ちゃいないわ。
神前式、というのが広まったのは意外と最近のことらしく、今回の結婚式は神社でやるのではなく、昔ながらの、花婿の家で親族を集めて開く形らしい。商売敵の羽振りが良くならなくてありがたいような。幻想郷にはチャペルもないしね。
お屋敷は古くから人里にある名家なだけあって、広大な庭つきの立派な木造建築だ。手入れや改築は頻繁に行っているようで、築何十年という古さはちっとも感じさせず、老朽化しているところもない。
あれからお兄さんと何度か連絡を取り合って、お兄さんには屋敷の詳細な見取り図と当日の来賓人数を教えてもらって、ついでに坊ちゃんの見合い写真も見せてもらった。
それがまー、目の覚めるようなイケメンで、でもこっちを視線だけで射殺すようにガン飛ばして写ってたのね。フツー、見合い写真のカメラマンにこんな顔向けないわよ。よっぽどお見合いが嫌だったんだろうな。
『どうか、怪我人だけは絶対に出さないようにお願いします』
お兄さんはそれだけを念押ししてきた。建物の責任は自分も負うからと言って。もちろん、私だって罪のない人まで傷つけたいわけじゃないから――まあ、本音を言えばこの縁談をまとめた神子様と旦那様とやらは一発殴ってやりたいとも思うけど――雲山ともよくよく相談しあって、被害は最小限に抑えるつもりでいる。
「雲山、これは直せそう?」
力自慢の我が相棒に問えば、問題ないと頼もしい答えが返ってくる。や、だから壊してもいいってわけじゃないんだけど、一応ね。
懐から私宛の招待状を取り出した。式場の細かな席順が書かれていて、新郎新婦を囲むように中央に席が集中しているから、万が一を考えると、やはり正門をブチ破るのが一番安全な気がした。
「雲山、扉のど真ん中を正確に突いてね。中に破片が散らばるようなやり方じゃ駄目よ」
式が予定通りの過程で行われているなら、そろそろ新郎新婦が盃を交わして婚礼の誓いが行われるはず。誓いは神聖なもの。だから布都が誓いを交わす前に私は突撃する予定で、お兄さんも隙を見て屋敷の錠を開けてくれると聞いている。
しかし、まあ。
怖気付いたわけじゃないけど、いよいよ私も白昼堂々人里のお屋敷を襲撃するようになっちゃったかー。
「来世の罪がまた増えるわ」
思わずため息が出る。地底に封じられたときに地獄を見ちゃったもんで、また死後にあそこに行くかもしれないと思うと気が滅入る。でも、生きてるうちに地獄の責苦を味わったなら、そのぶん来世の罪は軽くなるんじゃないかなー……なんて、光源氏よろしく都合のいいことを考えてみたり。ああ、我ながら罰当たりだわ。
「雲山、これ持ってて」
袈裟を脱ぎ、首に下げた宝珠を外し、数珠やらお経やらも外して雲山に預ける。私が命蓮寺の妖怪僧侶だってみんな知ってるだろうけど、一応気持ちだけでも、今日は僧侶の肩書を捨てたただの雲居一輪ですよって証。それと、命蓮寺になるべく迷惑をかけないための、せめてもの礼儀。
それはいいのか、と雲山は金輪に目線をやって訴えてくる。これは雲山と私を繋ぐ絆そのものだ。
「いいの、自分で持っておく。私たちは一蓮托生。どんな時も一緒よ」
傍らの相棒に微笑みかければ、雲山も微笑を浮かべた。雲山が私の罪に足並みを合わせてくれるのなら、もし雲山が罪を犯す時は、私も一緒に罪を背負おう。
「よしっ」
そろそろ時間だ。正門の前に降り立つと、さすがに門番の使用人が訝しんで立ち塞がった。
「誰だ、神聖な婚礼の場だぞ。案内状のない者を通すわけには……」
「問答無用!」
門番の人たちを押し除けて、パキパキ指を鳴らした。私が右腕を引くと、同じように雲山も拳を構える。
人間は雲山にビビって逃げ出した。いまだ! 大きく息を吸い込んで、腹に力を入れて……。
「げんこつスマァァァァーッシュ!!」
雲山の拳に合わせて、金輪を握った拳を突き出す。門には見事な大穴が空いて、会場の客が一斉に何事かと振り返った。
部屋の中央には、今回の主役たる新郎新婦。
黒の紋付き袴の新郎は、二十歳と若いせいか、晴れ着も相待って立派に見える。いや、目つきこそ相変わらずだけど、実物は写真以上のイケメンじゃない!
いいや、見た目に騙されてなるものか、一輪! 男をひとり見たら三十人はモラハラ予備軍だと思え!
そして花嫁――新婦たる布都は、あの調度品だらけの部屋にあった真っ白な白無垢に綿帽子をかぶり、目元と唇に濃いめの紅、頬にうっすらと紅の化粧を施し、いつものちんちくりんとは想像もつかない、見違えるような格好をしていた。白一色なんて死装束みたいだと思ったけど、こうやってみると、まあ綺麗と言えなくもないわ。
ふたりとも、驚いて扉を突き破ってきた私を食い入るように見つめている。あれは何者だと、新郎新婦の縁者は冷たい眼差しを向けてくるけど、私が言うべきことはひとつ!
「その結婚、ちょっと待ったー!!」
人生で一度はやってみたかったのよね、ちょっと待ったコール! 本当は聖様が封印されるときにやるべきだったんだけど!
「い、一輪?」
布都は目を丸くして私を見つめている。そういえば、布都と会うのは久しぶりかも。
「とうとう式に来ないと思ったら、なんで、こんな……」
「まったくだ。神聖な婚礼をぶち壊して、どう落とし前をつけるつもりだ? お前はいったい何をしに来た? 答えよ、雲居一輪!」
戸惑う布都の目の前に神子様が立ち塞がる。聖様まで、私を品定めするように見つめている。
ふんっ、この期に及んで私がビビると思ってもらっちゃ困るわ。
雲山もやる気満々で私のそばに控えていて、私は景気良く門をぶち破った衝撃で、気分がだいぶ高揚していて。
そう、このときの私はめっちゃ高揚していたんだ。
だから勢いでこんなことを言っちゃったのも、無理はない。
「何って、そんなの」
そのとき、脳裏に神子様の『妻問いに来たのか』なんて冗談が過ぎった。
「私がいまこの場で、布都に求婚しにきたのです!」
「はっ……はあああ!?」
案の定、布都はあんぐり口を開けている。聖様も口元を覆って、新郎の親族一同は当然、私が正気じゃないと思って顔をしかめるばかりだ。
「これはなんの余興だ。僧籍の身でありながら他人の結婚を壊して回るのが命蓮寺のやり口かね?」
嫌味っぽく、不機嫌な態度を隠しもせずに言い放った中年の男は、おそらく新郎の父だろう。目元が坊ちゃんに似ている。
苛立ってこちらへずんずんと詰め寄ろうとするのを「まあ、ここは私にお任せを」と引き留めたのは神子様だ。
神子様はやっぱり平然としていて、笏を弄びながら私を見下ろした。
「今更横取りとは感心しないな。私の大事な部下をなんだと思っている」
「貴方こそ、ご自身の部下を道具か何かとでも思ってるんですか」
神子様が引かないなら、私も引かない。
「なら、お前は布都を幸せにできるのか?」
「無理ですね」
「って、おーい!!」
即答すると、ようやく話についてこれたのか、布都が全力でツッコんできた。
「そこは嘘でも『はい』と答えるところだろう!」
「布都、嘘はよくないのよ」
「真面目か!!」
なんだ、あれだけマリッジブルーだとか言ってたくせに、元気そうじゃん。
そりゃあ『あたしがあんたを幸せにしてあげてもいいよ!』とか宣戦布告できたらカッコいいけど、ねえ、雲山?
実の兄を主君のために夫に殺させて、その夫を捨てて主君に命を捧げて、ついでに夫の妹を亡霊にしてしまうような、それでいてその主君もわりと問題だらけな、血生臭い業を背負ってるこいつを救えだなんて、修行半ばの私にはとてもムリ、ムリムリ絶対ムリ。できない約束はするもんじゃないわ。
というか『必ず幸せにします』なんてプロポーズの方が、賞味期限が来たのかもしれない。時代は目まぐるしく変わるわ。そして私はハイカラ少女。常に最先端を歩くのよ。
「こいつは私がいなくたって勝手に幸せになるわよ。だけど、みすみす不幸にされるくらいなら、私が連れ出してやる!」
さあ、どうだ!
幸せにするのは難しいけど、不幸の落とし穴に落ちる前に引っ張り上げるくらいはできるわよ。
だいたいねー、布都は『アナタの色に染まります』だの『幸せにしてください』だの、そんな受け身でしおらしいタマじゃないでしょ。風水が得意だっていうくらいだもの、自分を幸せにする開運の道くらい、自分で切り開けるわよ。
飛鳥も平安も遠く過ぎ去った。封印を解かれて、私たちは現代に蘇った。なら、現代的に生きるべきなのよ。
「一輪、お前は……」
「布都、もう一度聞くけど、あんたはどう思うの。神子様のお考えとか、お相手の家の問題だとか、そんなものは後回しにして、あんたはこの結婚をどう思っているのよ」
改めて布都に問いただすと、布都は紅を染めた唇を噛み締めた。
「我、は。我は……」
やがて、布都は神子様に向き直って、床に額づかんばかりの勢いで頭を下げた。
「太子様、お許しくださいませ! 一度ご命令を引き受けておきながら、なんと恥知らずと罵られましょうが、我は此度の結婚、したくはありません!」
再び新郎の一同がざわついた。私がかばうように布都の前に立つと、いきりたつ新郎一同を制して、聖様が立ち上がった。
「一輪。貴方、自分が何をしているのかわかっているのですか?」
「わかっていますよ」
「他所様の結婚式を台無しにするなど、それが命蓮寺の僧侶として相応の振る舞いだと考えています?」
「私が命蓮寺にふさわしくないのなら、破門にしてくださって結構!」
言った。言ってしまった。
聖様、貴方に救われた昔の恩をまだ返しきれていないのに、仇で返すような真似をお許しください。
それでも私にだって譲れぬ道があるのです。
「……布都さん」
私たちの間に緊迫した空気が立ち込めてきたところで、新郎の坊ちゃんが初めて口を開き、無愛想に布都に呼びかけた。いままで黙っていたのは思いもよらぬ展開に圧倒されていたのか、成り行きを見守っていたのか。
「あんた、さっき控えの間で俺に聞いたな、『本当に我が相手でいいのか』と」
「……貴方は『いいも悪いも、もう決まったことだ』とお答えになった」
「……」
不意に、坊ちゃんが布都に頭を下げた。
「すまん。どうせ逃げられやしねえんだと諦めて、あんたを巻き込んだ。……許してくれ。あんたは俺と結婚なんかしなくていいんだ。いいや。俺もあんたと、布都さんとは結婚できない」
「お前まで、この期に及んで何を馬鹿なことを!」
憤慨するのは新郎の父だ。隣の新郎の母は涙を流している。
「この恩知らずめ、親の私どもが、親心の闇ゆえにお前のわがままに付き合わされながら、せめてお前の意に適う娘を嫁にしてやろうと、どれだけ骨を折ったと思っておる! それをよくも――」
「もうおやめください、旦那様!」
立ち上がったのは、召使いのお兄さんだった。穏やかな顔に似つかわしくない、激情を湛えて。
「これが本当に坊ちゃんの為ですか。旦那様と奥方様は坊ちゃんを心配だと言いながら、どうしてご自身の大事な一人息子をここまで追い込むのです。どうして嫁を取れ、跡継ぎを残せと執拗に迫るのですか!」
「召使いの分際で口を挟むな!」
「いいえ、もはや黙っていられません、旦那様、僕は、いえ、わたくしは、ぜひ申し上げたき義が――」
「方々、どうかご静粛に」
そのまま白熱するかと思われた口論を打ち破ったのは、神子様の一言だった。
「新郎殿。貴方にはどうしても布都と、そして他のどの女とも連れ添えない理由がおありだとおっしゃるのですね?」
「……」
坊ちゃんは無言で肯定の意を示す。
坊ちゃんは神子様を見て、布都を見て、最後に召使いのお兄さんを見た。
「俺が、心に決めた相手はただひとり。決して一緒にはなれねえ運命だ」
「馬鹿な!」
またも坊ちゃんの父が叫ぶ。
「なぜそれを早く言わぬ。身分賤しい下女であったとしても、これほど手こずらせるなら、相応の身分への格上げを考えてやったものを」
「違えんだよ、親父」
坊ちゃんは首を横に振る。苦しそうな顔のまま、坊ちゃんは布都に向き合った。
「あんたが悪いんじゃないが、俺はきっと、あんたを妻として愛することはできねえ」
「……我も、貴方を夫として愛することはできなかったでしょう。お互い様です」
「布都さん、せめてあんたには、本当のことを……」
「いえ、それには及びませぬ。何事も、太子様のお計らいにお任せなさいませ」
布都も緩やかに首を振る。
両者共に、結婚の意志がないことが明らかになった、と思ったら、布都が何やら神子様に目配せを……うん?
ちょっと待って。私は布都のことばっか気にしすぎて、坊ちゃん側の事情とかはお兄さんに任せっきりだった。というか、神子様の能力だったら、最初から坊ちゃんたちの事情を知ってたんじゃないかって、私は疑っていたけど。
布都、あんたもまさか!?
「方や再婚を望まぬ女。方や婚礼の最中にも意中の相手を思う男。……どうやら、私は結ばれるべきでない者同士の縁を取り持ってしまったようだ」
そう言うと、神子様は一枚の紙を取り出した。婚姻届だ。神子様はみんなの目の前で、それを破り捨てた。
「私に月下老人の真似事は分不相応だったね。――よってこの結婚、こちらからも無効とさせていただきたい」
その堂々たる振る舞いの、なんとカッコいいこと! こちらはめちゃくちゃ癪だわ! だけど、さすがに王者の貫禄って感じで、布都が神子様を希望だと思うのも無理はないわね。
しばらく、誰も何も言えなかった。けれど、やがて坊ちゃんの目から一筋の涙が溢れた。お兄さんはもう、顔をぐしゃぐしゃにしている。
「太子様!」
「布都、それに新郎……いえ、若君、すまなかったね」
「いや、俺は」
坊ちゃんの父はようやく事態が飲み込めたのか、「何故だ、何故だ」と繰り返し狼狽えている。きっと貴方にはわからないでしょう。そんな貴方だから、新郎はぶっきらぼうな口調ながら、いまもまだ慎重に言葉を選んでいるのでしょう。
坊ちゃんはちらと、懸命に涙を拭う召使いのお兄さんに視線を投げた。幼い頃からの付き合い、それでわかりあうこともあるんだろう。ふたりの間に交わされた視線に、私は確かに何かを感じ取った。
それから坊ちゃんは、真剣な面差しで父親に向き合った。
「親父、あんたはいつも先代からの、先祖代々の故実やしきたりが何より大事みてえだった。俺が真に望む結婚は、この家にも、他の家にも、先例がない。……言えるわけねえだろ、本当のことなんか」
「何を! 先例は、古来より代々伝えられた先人たちの尊い知恵の結晶だ。それが間違っているというのか?」
「先例、先例とは、まるで平安の時代のようですね」
おっとり言い放ったのは聖様だ。口調は穏やかだけどいまの言い方はだいぶ皮肉っぽいわ。
「昔のやんごとなき生まれの方々は、先例故実を何より重んじて、軽んじる者を爪弾きにしていたのです。それは窮屈な世の中でした。貴族にとっても、そして当時、この世でもっとも高貴な身分とされた帝にとっても」
すっと、聖様は神子様に眼差しをやる。神子様がうなずくと、聖様は続けて、
「その昔、平安の末の世に、白河帝という帝がおりました。帝はおきさきの一人、賢子姫をたいそう寵愛していらした」
あっ、と私は息を呑んだ。白河の帝が即位したのは私たちが封印された少し後だけど、その話なら知っている。
「ある時、きさきが重病になり、このままでは命も危ういと思われました。帝のいます内裏で死穢は禁忌。たとえ帝のきさきであってもね。そのため、普通はきさきを実家に帰すのですが」
白河帝は退出の願いを拒み続け、とうとう賢子姫は御所で亡くなってしまった。人目も憚らず亡骸に取りすがり、食事すら取らない帝の有様に、重臣は『こんな先例は見当たらない』と苦言を呈した。
「ですが、帝は毅然と言い放った。『例はこれよりこそ始まらめ』と」
聖様がそう締めくくると、辺りはしんと静まり返った。
白河帝のこの話が実話かどうか、わからない。だけど後に院政を始め、『鴨川の流れと寺社の強訴と双六の賽の目以外に思い通りにならぬものはない』とまで言い放った治天の君としての白河帝の豪傑さを思うと、まんざらただの作り話とも思えないのだった。
「先例など、幾多もの新しい出来事の積み重ねです。ないのなら、作ってしまえばよいのです。そうは思いませんか」
「なるほど。後世の末裔は、なかなか豪胆なことを言う」
神子様が、聖様の後を受けて笑った。もしかして聖様、神子様にパスするためにこの話を持ち出したの? そして神子様は、聖様の意図を正確に読み取ったはずだ。……っていうか、ずいぶんダンドリいいですね?
「なら私も後世の末裔に倣って宣言しよう。若君、貴方は布都ではなく、貴方の真に思う人と結婚なさい。――先例とは、ここに始まるものだ」
坊ちゃんの父が膝から崩れ落ちる。涙ながらに坊ちゃんの母は息子を抱きしめた。お兄さんはまた涙が溢れて言葉が出ないらしかった。
「聖様」
「あら、一輪、雲山。ようやく遅刻の申し開きかしら?」
「いやそうじゃなくて!」
笑っていらっしゃる。神子様と一緒になって。ていうか、布都よ、布都! 私がいの一番に問いたださなきゃならないやつ!
「いやあ、天晴れ。さすがは太子様のご威光よのう。我が用意しておいた策は披露する隙もなかった」
布都は満足げで、でもそれは望まぬ結婚から解放された満足感じゃなくて、まるで一仕事終えたみたいな達成感っていうか……。
「誓いの言葉を交わす前に、我はこう言ってやる予定だったのだが。婚礼に先立って、我が得意の風水で婚礼の吉凶を占ってみると、なんと! 凶と出たではないか! 古き占いを迷信と侮るなかれ、我が風水に狂いはなし、いますぐ結婚は中止じゃ、とな!」
……こいつ、本当は道教よりニギハヤヒより風水が好きなんじゃないの? って思うことがたまーにある。というか、自分の結婚が凶って出たことを嬉々と報告するな。
まあ『吉備津の釜』然り、占いの結果ってのは意外と馬鹿にできないもんがあるからね。
って流されてる場合じゃなかった!
「ま、まさかあんた、ぜんぶ最初から知ってたってこと!? 知っててぜんぶ私に黙ってたの!?」
「何を言うか、一輪。太子様が弟子と引き換えに信者を得るなど、そんな浅ましい真似をするわけないではないか」
などと、満面の笑みでのたまった。
私が夢中で神子様を振り返ると、神子様は勝ち誇ったように微笑む。そして隣にいる聖様までも、
「貴方たちが何かと動き回っているのはわかっていましたが、あまり私に知られたくない風でしたので。ひと言も相談してくれないんですもの、ね?」
なーんて、拗ねた風に、茶目っ気たっぷりの笑顔でおっしゃるんだから、もう、もう……。
なによなによ、なんなのよー!!
それはいくらなんでもズルいんじゃないの聖様! なんでもお見通しみたいな表情で、神子様ともきっちり連携取ってて、私と雲山はおふたりの手のひらの上で転がされてるみたいじゃない! 見なさいよ、さすがの雲山もいままでに見たことがないくらい項垂れているわ!
だけど。
聖様も水面化で動いていたのね。いや、もしかしたら招待状を受け取ったそのときから、この結婚式には何かからくりがあると見抜いていらっしゃった?
そうよ、よく考えてみれば初めからおかしかったのよ。わざわざ布都を嫁に出さなきゃならないほど、神霊廟は入信希望者に飢えてない。聖様は神子様を『信頼に値する人』だとおっしゃって……。
そういう柔軟で世渡り上手で慈悲深いとこを見せつけられると、やっぱり私にとっての希望は聖様なんだってなーって思うよ。
「なあ、一輪!」
布都は笑っている。悪巧みが成功した子供みたいに。
思えば、いままで私が見てきた布都はいつも呑気でアホっぽくて、どっか間が抜けてて、こいつが物部と蘇我の争いを影で操った黒幕だなんていまいち信じられなかったのよね。
でも、今回の件で私もはっきりわかったわ。こいつは間違いなく類い稀なる策士の一面を持っているって。
布都は私の目の前に手を差し伸べてくる。
「お前、我に結婚を申し込むと言い放ったな?」
「……」
ええ、言いましたよ。
勢いで言っちゃったわよ。それがどういう意味かよく考えもせずに。布都の目論見に気づきもせずに!
布都はニヤニヤ笑っている。腹立つ!
「ほれほれ、我の手がお留守だが? 結婚式に乗り込んできた者は、花嫁を攫って逃げるのが外の世界のお約束なのだろう?」
「あーもー、わかったわよ!」
坊ちゃんたちの事情はもう神子様と聖様に任せておけば大丈夫そうだし、何より当の坊ちゃんとお兄さんがこちらに手を振ってくれている。どうかお幸せに!
仕方なく、私は布都の手を取って、一緒に雲山の上に飛び乗った。
「雲山! ずらかるわよ!」
「あっはっは! なーんだ一輪、その顔! 入道にそっくりだ!」
「うっさい!」
布都にからかわれるまでもなく、恥ずかしいやら情けないやらで自分の顔が真っ赤になってることぐらい、わかるわよ!
……そういえば、道場破りに来たとき、神子様はこんなことを言ってたっけ。『真っ赤に染まるお前が見える』とか。『血で染まる』とは一言も言ってなかったのよね。
神子様、憎らしいけど貴方の未来予想図、当たってるわ。
〈幕間 ハイカラ少女の独り言その⑥あるいは大反省会〉
人生には気高い理想と前向きな野心を。弛むことなき魂の研鑽を。信じる者にも信じぬ者にも等しく救いのあらんことを。南無三宝南無三宝。
わかってると思うけどね雲山、本来の私は僧侶であって、もっと感情のコントロールが上手くて、何事にも簡単には動じず面霊気の暴走にも負けずなのよ。そこんとこ誤解しないでほしいわけ。
それがまあ、今回いろいろブチ切れちゃったのは認めるわ。……うん、こころさんのときも、私たちはちょっと充てられちゃったわね。
――宗教とはなんぞや?
そんなざっくらばんな問いに、聖様と神子様と、ついでに神奈子様はみんな『哲学』だと答えたらしい。あながち間違いじゃないと思うわ。
思うに、人間も妖怪も、生まれてきたら一度は誰しも『自分は何者なんだ』と考えてみたくなるのよ。有名な絵画っぽく言うなら『我々はどこから来たか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか』。そうして自分を見つめて、肉体と精神をよりよい方向へ導くための指針や手段のひとつが宗教だと思うの。
だから、私たち仏教徒は利他行として他者の救済のために動くこともあるけど、根本的には自分を鍛えることが第一目的であり、肝心なのね。哲学をする――自己研鑽を重ねるってこと。
自己研鑽が足りないと、他人のためにも上手く動けない。
つまりいま現在の私はまだまだ修行不足ってわけだ。それは認めざるを得ない。向こう百年くらいは聖様の元でしっかり修行を積まなきゃねー。
僧侶の六波羅蜜のひとつに〝智慧〟がある。煩悩に曇らされず真理を見抜くこと。
真理ってなあにと聞かれたらめっちゃ答えづらいんだけど、そもそも仏様の真理ってのは言葉にできないもの、言語化できないものとか言われてるわけでさ、私たちの唱える真言が漢訳でも和訳でもない、梵語をそのまま(たぶん発音は正確じゃないんだろうけど)唱えるものなのも、下手に訳をしちゃいけないって方針なんだろう。
まあ、とにかく、今回の私はちっとも真理を見抜く力がなかった。布都のいかにも悲劇のヒロインじみた綿々たる語りにころっと騙されちゃってさー。もう……。
今回、私が布都の結婚を阻止しようと奔走しまくってたのは、なんだったのよー!? 私のアホーッ!!
〈エピローグ 私たちらしく生きましょう〉
式場を抜け出した私たちは、雲山の上に乗って空を飛んでいた。
「あー、窮屈だった!」
と、布都は白無垢を脱ぎ始める。いやいや、空の上で着替えるのはちょっと……と思いきや、白無垢の下はいつもの水干みたいな服だった。よくその上に白無垢を着ようと思ったわね。
あーちょっと、勝手に雲山を衣紋掛けにしないでよ、高価そうな白無垢がまるで物干し竿に揺れる掛け布団みたいに……。
「なあ一輪、そろそろ機嫌を直してくれないか?」
「うるさいわね」
「我は、太子様が坊ちゃんの見合いの話を持ちかけてきた最初からピンときたのよ。太子様は我が石女と知っておるのに、跡継ぎが必要な坊ちゃんと本気で結婚させるわけがない。太子様には何か策があるなと」
「私はあんたの昔の結婚のことなんて知らないもの、気づくわけないでしょ」
「そりゃあ、わざわざ話すようなことでもないと思っていたからなあ……」
布都はそっぽを向く私の袖を引いてくる。
別に、怒ってはいない。
友情を裏切られたとか献身が報いられなかったとか、そんなことで腹を立てるのは利他行ではないの。信仰はギブアンドテイクと神奈子様はおっしゃったそうだけど、献身は見返りを求めるものではないわ。
少なくとも、私は今回の結果に満足していた。
だって、結局は、不幸な結婚をさせられる人たちはひとりもいなかったってことなんだから。あのお嬢さんですら好きに生きているんだし。
何事も結果オーライよ(ああ、でも私たちが壊しちゃった正門は後で修理しないと……お兄さんは許してくれるかもしれないけど、お金も弁償しないと……後で聖様にお説教されるわ)。
「おーい、一輪……」
ずっと黙って考え事をしているせいか、布都は何か誤解しているらしかった。柄にもなく気まずそうに私を見上げてくる。
「いや、我も少々しんみりして、大昔の思い出話とか、大袈裟に話してしまったところはあったなーと反省させられてな?」
「ああ。太陽神の贄だのなんだのね」
「太子様にもあれこれ諌められてなあ。本当は、一輪に見合いの話を打ち明ける予定だってなかったのだ」
「へ?」
なんだそりゃ? 初耳よ。
布都は気まずそうに頬をかいて、
「決まってもいないことを妄りに外部の輩に話すなと言われた。それに、馬子殿のことも……闇雲な扇動はよせと」
「え、ちょっと待ってよ」
なんだなんだ、布都って最初っから神子様と示し合わせて私をうまく誘導して騙そうとしてたんじゃないの? ぜんぶあんたらの計算のうちだったんじゃないの?
「我は怜悧な策士に成りきれなかった。ま、おぬしの言う通り『人、木石に非ざれば、みな情あり』ってやつだったのだろうな」
あんた、それ、覚えてたの。私の話なんて真面目に聞いちゃいないと思ってたのに。
布都をじっと見れば、嘘をついている気配はなかった。
「お前と入道は妙な連中だ。僧侶に縋る気持ちなんぞ我は微塵も持ち合わせていないが、心の裡を開く気にさせるところがある」
「まあ……宗教家ですから」
「だから我はいつも喋りすぎる。言わずとも良いことまで喋るから、しょっちゅう喧嘩になる」
「それは当たってるなあ」
「いまになって思えば、我もこの作戦がうまく行くのかと緊張していたところがあったのやもしれぬ。お前にそれを見抜かれたのかと焦った」
ちっとも見抜けてなかったよーとは、黙っておこう。
でも、悪い気はしない。神子様一筋の呑気な策士なくせして、少しは私や雲山を信じてくれる気持ちがあるってのは。
「もしかしたら、本当にマリッジブルーだったのかもな」
布都は風にたなびく白無垢を見て苦笑いした。
「あんた、作戦がうまくいかなかったらどうやって結婚を断るつもりだったの?」
「我はバツイチの石女だから花嫁には不向きだと暴露してやったわ」
こいつ、人が触れづらい話題を躊躇なくブッ込んでくるな。そっちが気にしてないなら、こっちも何もないように振る舞うけどさ。その作戦は神霊廟の印象を悪くするだけだからやめた方がいいと思うわ。
なんていうか、こいつを部下にしておける神子様は只者じゃない。いまならこの布都がマクベス夫人も真っ青なやり口で夫たる馬子をけしかける姿が想像できる。こうなると、危うく布都と結婚するところだった坊ちゃんの方がむしろ気の毒だわ。
「別にひとつの策がうまく嵌まらなくとも気にしないけどな? 要するに、我が言いたいのは、我と太子様は……」
「別にもうわかってるわよ」
布都と神子様は、一方的な自己犠牲を捧げる部下と、それを無慈悲に消費する王様ではない。
良いことと悪いことをすべて、力を合わせて企むような……いわば共犯者ってやつだ。屠自古さんもそうかもね。考えてみれば、私にいきなり布都の話を持ちかけてきたのも、神子様と布都の企みと関係していたんじゃないか、なんて。おかげですっかり乗せられちゃったわ。
神子様は今回、古い慣習を打ち破る道を整えた。なるほど、為政者ムーブも現代的になっている。
でもねー、本来私たちが当然握ってて然るべき権利ってのは、お偉いさんのお情けとかお目溢しとかで恵んでもらうもんじゃないわ。ときには戦ってでも勝ち取るもの――あの場所に私と雲山が殴り込んで啖呵を切って、お兄さんが叫んで、布都が訴えた行為にも、意味があったのかしら。
それにしても、あんな難解な人に真っ正面から張り合おうとしたり、かと思えば信頼を寄せたりできる聖様といったら。
「あんたはあんたの尊敬する人についていけばいいの。私にはまだ神子様の良さが全部は理解できないけどね。ついていけるのは聖様くらいよ」
「あー。確かにあの方は、始まりの諍いが不思議なほど太子様を信頼しているように見受ける。あの変化ばかりはさすがに我にも想像つかん」
「……聖様は、神子様の中の人間を愛しんでいらっしゃるわ」
「はあ?」
布都は意味がわからないといった顔をする。〝人間〟という言葉に特に引っかかったみたいだ。そりゃそうか、布都にとっての神子様は、私にとっての聖様みたいに尊い人だから。
でも、神子様だって、かつては人間だった。布都と、屠自古さんと、聖様と、ムラサと、そして私と同じ人間だった。私が妖怪にななって千年近く経つけど、人間だったときの記憶とか感覚って、忘れられないものなのよ。
だからきっと、聖様はご自身が人間だった頃の姿を見つめるように、神子様の中の人間を見つめているんじゃないかしら。要は、神子様について哲学してるってこと。
神子様の心の奥深くまで降りられるのは、聖様が真摯に神子様に向き合っているから。
そして、聖様が神子様の核に触れられるのは……神子様がそれだけ聖様に心を許しているから。
哲学なんて、他人に向けたら下手すれば他人の心を土足で踏み躙る冒涜になるのに、おふたりはお互いの哲学を許容してしまうのね。
あーーー。
そりゃあ、聖様は神子様を信じるわよ。
今回ばかりは、なんでもかんでも聖様に頼ってちゃ駄目だ、少しは自力で頑張らなきゃって私のやり方が完全に裏目に出たわ。
でも、それもいい。ボタンの掛け違いくらいいくらでもあるでしょ。
「うーむ。おふたりが次の〝先例〟になるおつもりなのか?」
「神子様に伝えておいて。もし聖様に正式な妻問いをするやつが現れたら、命蓮寺全員が迎撃するのでそのおつもりでと」
「全員って何人だ?」
「全員は全員よ」
布都が引き攣った笑みを浮かべる。いやね、別に私たちは聖様は誰にも渡さんって考えてるとかお邪魔虫になろうしてるとかじゃなくって。もちろんそのときは聖様の意志に任せるけど、うちの大事なお師匠様だって忘れないでねってこと。もし本当にその日が来たら、とりあえず命蓮寺にゆかりのあるやつに片っ端から声をかけて回ろう。総勢で何人になるかしらね、雲山?
「ところで一輪」
布都がまた私の袖を引いた。なんだか楽しそうな顔をしている。
「お前、あの場で我に求婚すると言ったよな? その落とし前はどうつけるつもりなんだ?」
そうだ。
残る大きな問題はこれだけだ。
私ってば、式をブチ壊した挙句、僧侶の身で(僧侶っぽい格好なんかしてなかったけどさ)衆人環視の中で布都にプロポーズしちゃって、逃げ場がないわ。しかも布都がはっきりハイともイエスとも言わない代わりに私が連れ出すのを許可して、っていうかそそのかしているんだから、外堀は埋められたっていうか、もう策士極まりないっていうか。
「お前、我を好きになれるのか?」
「あんた、結婚に恋も愛も不要なんじゃなかったの?」
「それはそれとして、気になるであろう?」
うーん。
改めて、私と布都の関係を真面目に考えてみると、やっぱり恋してるかっていうと全然違うって感じ。一緒にいれば楽しいけど、それはどこまでも温かな親愛であって(そう、たとえ布都が友すら欺くような謀略家でも関係ない、女の子は少しクレバーでミステリアスなくらいでいいわ、いつもの布都はアホっぽいけど)、友達以上の存在には思えそうにない。このぶんだと私は一生恋愛結婚とは無縁だろうなあ。
ま、いっか。私には雲山という最高の相棒がいて、敬愛する聖様がいて、志を同じくする仲間がいて、気の合う友達がいて。いまの私は充分、幸せだもの。当分夫も妻もいらないわ。
そして、布都も神子様や屠自古さんや青娥さんたちに囲まれたいまの生活は充分に幸せなんでしょう。
「あんたのことは好きよ。友達としてね」
「……そんなことだろうと思ったわ。どうする、このまま友情結婚とかいう新たな様式でも作る気か?」
「そうねー、それもいいけど」
いまのところ、私が勝手に結婚するって宣言しただけだ。正式な手続きは何もしていない。段階としてはせいぜい口約束の〝婚約〟かしら。
このまま恋愛感情抜きに婚約するにしてもいろいろと問題がある。中でも避けては通れない最大の問題はズバリ、宗教だ。
たとえばの話。私も修行を積んだらいずれ雲山と一緒に独立してもいいかなーとは思うけど、何も新しくお寺を立てて聖様と信仰の奪い合いをしようだなんて不毛なことは思わない。というかお金かかるし、勧進するにしてもキリがあるでしょ。
ならどっかに家を持って同居するにしても、せめてお仏壇だけでも持ち込んで……と言いたいけど、布都ときたら大の仏教嫌い、文句ナシの廃物派。いつ仏像や寺を燃やすかわからない相手と結婚、まして同居なんてフツーに嫌だ。無理。
これが聖様や神子様なら、うまく妥協点を見つけられるんでしょうけど、私と布都は……うん、あと何十回、何百回大喧嘩するかわからないわ。つまり、この結婚もあんまり喜ばしくない、と。
あんな派手な演出の後じゃ色々言われるだろうけど、布都もこのまま私と結婚したいわけじゃなさそうだし、いまならまだ引き返せる。ってなわけで。
「布都。この婚約は、いまここで破棄するわ」
「はあああああ!?」
口をあんぐり開けて叫んだ。雲山も「あそこまでやっといて?」とさすがに引いてるみたいだった。
「おっ、お前、さんざん我の結婚式をぶち壊しにしておいてよく言えるな!?」
「元からあんたも結婚する気なかったでしょうよ」
「そうは言っても! 世間の噂からは逃れられぬぞ!」
「知らないの布都? いま、外の世界では〝婚約破棄〟が流行っているのよ」
「どんな流行りだ!」
正確に言えば婚約破棄じゃなくて〝婚約破棄ものの物語〟だけど。いわゆる悪役令嬢ものの派生なのか、ストーリーのしょっぱなから主人公の悪役令嬢が(悪役令嬢じゃないケースもあるけど)婚約相手に〝婚約破棄〟を突きつけられて、崖っぷちの主人公は破滅から逃れるべく立ち回って、なんやかんやで新たな婚約者を得たり、元婚約者に制裁を加えたり、たくましく生きていくのである。
思えば布都も身分とやってることだけ見れば、フィクションのガワだけ悪役令嬢で中身は転生してきた別人なパターンとか、実はいい人なんですっていうなんちゃって悪役令嬢よりよっぽど悪役してる。
いいんじゃない? 光源氏もかくやの美男子の求婚を袖にする、ってのとはだいぶ違うけど、振るだけの価値はあるわ。
うん? となると、私の方がこの後布都に反逆される真の悪役ってこと? ……それはそれで楽しそうね。視点を変えれば悪役も主役もいくらでもひっくり返る、こんなに面白いことはないわ。
布都はふんっ、と吐き捨てた。
「お前のような身勝手な女、こっちから願い下げじゃ! 誰がお前なんかを嫁にするか!」
「そいつは結構、私だって誰かの〝嫁〟になんかなるつもりはないもんねー」
「はっ、お前の場合、嫁になるつもりがないんじゃなくて、誰にも〝嫁に貰ってもらえない〟が正しいんじゃないのか?」
「なんですって?」
思わずカチンと来て食い下がった。
「言い方が古臭いのよ! やれ嫁を貰うの貰われないの、モノじゃないんだから!」
「千年前の古代人に言われたくないわ!」
「あんたの方が古いでしょうよ、飛鳥の古代人! 〝できない〟と〝したくない〟の区別もつかないやつは引っ込んでろ!」
「たわけ! お前のそういうハイカラぶって周りを見下げているような態度が気にくわんのじゃ、さっさと悪癖を治せ!」
「あんたこそさっさと時差ボケ治せ!」
とまあ、こんな調子で私と布都はしばらく喧嘩になった。雲山はやっぱり呆れた目で私を見ているけど、ま、これが私たちらしいっちゃ私たちらしいと思わない?
結婚は女の幸せかどうかって? そんなの知ったこっちゃない。時代遅れの質問にいつまでも付き合ってられないわ。
なんたって、時代はハイカラですから!
とにもかくにも、なべて世は事もなし! どっとはらい!
なんだかなー。人間の女の子の悩みって、千年経っても変わらないのかしらね。
「どうか、どうか私を尼にしてください!」
「いやいや、早まっちゃ駄目ですよ」
目の前にいるのは、十六、七かしら、島田に結い上げた黒髪の艶やかな可憐な女の子。着物は上等で、挙措の一つ一つがたおやかで、絵に描いたような大和撫子、ご先祖は士族か華族か、いかにもいいところのお嬢さんって感じ。プライバシー保護の観点からこのまま〝お嬢さん〟と呼んでおくわ。
このお嬢さんが青ざめた顔でうちの門前をうろうろしていたようで、心配した響子が「どうしたんですか?」と声をかけた。「住職の尼君にお話があるんです」と言ったそうだけど、残念ながら聖様は檀家さんの法要でお留守だし、星はお寺の切り盛りで忙しいし、私とムラサがお嬢さんの話を聞くことになった。
雲山? もちろんいつも通り私の隣にいるわ。相変わらずお客さんが来ても何も喋らないんだけど、聞き役は多い方がいいでしょ。
で、このお嬢さん、見るからに思い詰めてそうだなとは思ったけど、開口一番「尼にしてください」と来たもんだ。ムラサが止めたのも無理はないだろう。
「どうして尼になろうだなんて思ったんですか。そんな若い身空で出家だなんて勿体ないですよ」
「だけど、貴方たちだって充分にお若いわ」
いやー、私たちが若いのは見た目だけで、平均年齢は一千オーバーですから。妖怪を見た目で測っちゃいけないわお嬢さん。
ムラサが答えに困ってるみたいだったから、私から助け船を出す。舟幽霊だけに。笑ってよ雲山。
「確かに若くして出家を志すのはたいそう立派な心構えで、仏様も感心なさるでしょう。ですが、貴方のその見事な黒髪、鋏を入れるのが勿体なくて、見る甲斐もない尼姿にしてしまったらかえって罪な心地がしますよ。ご家族だって心配なさるに違いありません」
なんて、ちょっとばかしくさいセリフだけど、これくらいは出家希望者に聞かせる常套句だもんね。おべんちゃらも方便よ。
家族、と言った瞬間、お嬢さんの体が震えた。でしょうね、絶対親御さんとかに何も言わないで来たんでしょう。
「親など、私が出家してしまえば諦めるに違いありません」
「いえ、私どもといたしましても、しかるべき親御さんのいるお嬢さんを勝手に尼にしてしまうわけにはいきません。まずは出家を志した理由を話してください。聖様だって同じことを言うでしょう」
「……」
たっぷり呼吸を置いてから、「実は」とお嬢さんが切り出した。
「親に望まぬ結婚を強いられまして……」
あー。昔物語とかでよくある奴だなあ。というか未だに絶滅してないのね、親が決めた結婚。お嬢さんは涙をはらはら流して、上質な手拭いを顔に押し当てながら続けた。
「私には心に決めた殿方がいると、何度申し上げても聞き入れてくれないのです。意に染まぬ結婚をするくらいなら、もう尼になってしまおうと……」
「ええと、失礼ですが、その心に決めた殿方について伺っても?」
「私の屋敷に仕える丁稚奉公の少年です」
ムラサが(あかん)って顔でこっちを見てきた。こっち見んな。私だって思ったわよ、そりゃ反対されるだろって。
お嬢さんは物憂げにため息をついて、身分違いの男を思っているのか、眼差しはどこか遠い。
「決して他所には嫁がぬと固く契りを交わしましたのに……あの方以外の嫁になるくらいなら、尼になって、この世ときっぱり縁を絶ってしまいたい」
若いのにずいぶん熱烈なことを言う。若いから言えるのかしら。この様子だと、子供騙しみたいな説得じゃお嬢さんの決意は翻らなそうだ。
でもねー、こういう見るからに若くて、一時の熱気に絆されやすくて、恋に恋をするようなタイプは……別にディスってんじゃないのよ。若さゆえの情熱って素敵じゃない。
もしお嬢さんがもう少し大人で、本当に出家したいってんなら、私たちも前向きに考えただろうけど。このまま髪を下ろしちゃったら、きっと後悔するわ。長年の僧侶の勘ってやつ。
「お悩みの心中、お察しいたします」
ムラサが話に戻ってきた。腹をくくったようね。聖様がいないいま、ふたりがかりでお嬢さんを説得せにゃならんと。
「ですが、そのような固い思いを聞いてしまうと、やはり出家は思いとどまった方がよろしいかと。この世になまじっか未練を残して出家しては功徳にも障りがあり、仏様もいい顔をなさらないでしょう」
「そうです。それに、私たちは一介の修行僧に過ぎません。勝手に髪を下ろしたり、授戒することはできないんですよ」
これはちょっと嘘。出家の段取りなら私たちでも一人で全部できるぐらいきっちり叩き込まれてるし、僧侶の格が劣るってんなら本堂にいる星を呼んでやってもらえばいい。
だけど人里のいいとこのお嬢さんを勝手に出家させちゃったら、うちの寺の信用問題に関わってくる。後から親が乗り込んできて『出家なんて認めない、還俗させる』って詰め寄られて、仕方なく出家は取り消します、なんてしたら、出家の価値を軽くしてしまう。僧侶としてあるまじきことよ。
そこ、秦こころさんの騒動でもう出家の価値は大暴落してるなんて言わない。
「それに貴方はまだお若い。親の許しもなく、大事な娘さんを尼姿にしてしまうのは……」
「親の許し、ですか」
お嬢さんが不機嫌になる。
「なぜ他でもない私の行く末を、私自身で決めることができないんです」
うんまあ、そうね。理不尽よね。その気持ちは、わからなくもない。私たちだって事あるごとに聖様とか星を通さなきゃいけないの「面倒だなー」って思ったりするし。
「だけど親というのは、一般論として、我が子の行く末を何かと案じるものですから……」
「あれが心配というものですか」
ぴしゃりと言い切るお嬢さんの声が冷たかった。
「私の親など、世間の目を気にしているだけです。今回の縁談だって、両家の家柄や格式を周囲にひけらかすために決められたようなもの。私は見栄のための道具です」
「……」
ムラサが黙っちゃった。思い悩んで相談に来る人は往々にして主観でしか話せないもんだけど、その主観に寄り添うのが私たちの役目だ。賢しらぶって「でも、その人はこういう考えなんじゃありません?」なんてトンチンカンなアドバイスをするものじゃない。
この子の思い込みとかすれ違いとかもあるだろうってのを勘定に入れても、我が子を所有物だと勘違いしてるんじゃないかって親、特に父親は少なくなかったりする。
なんだろうね。お嬢さん、可愛らしいんだけど、じっと見てると『お人形さんみたい』って感想が出てくるのよ。あまり良くない意味で。星が毘沙門天の代理をやってるのを見てる時に『あれっ、この子って私と同じ、生きた妖怪よね?』ってごくたまーに不安になるのと似たような感覚。
お行儀良くて、大人しくて、聞き分けが良くて、でもいまいち本人の自我や意志が薄く見える感じ。
だけどこの子は本物のお人形じゃない。ちゃんと自分の意志があって『親の決めた結婚なんて嫌だ、自分の好きな人と一緒になりたい』って思って、切ないほど思い悩んで、ここまで来てくれたんだ。出家は無理でも、一介の僧侶として力になってあげたいじゃない。
「親御さん、厳しい人なんですか」
私が尋ねると、みるみる眉間に皺がよってゆく。
「他人の親というものをよく知りませんけど、父も母も、幼い頃から礼儀作法に厳しい人でした。お稽古事が毎日山のようにありました。お裁縫、お料理、お琴、お花、お茶、すべて言われた通りにこなしてきました。けど私が本を読んだり勉強に励んだりすると、父は難しい顔をします」
古典的だ。平安生まれから見ても古典的な花嫁修行でクラクラしてくる。お裁縫だのお料理だのは徹底するくせに、お勉強はそこまで頑張らなくても、って感じがなんか腹立たしい。
「やりたくない、と訴えるのは難しいですか」
「とにかくやりなさい、の一点張りです。私が何を言っても同じことしか言ってくれなくて、本当に同じ人間なのか、言葉が通じているのか疑わしくなります」
うーん。これ、まずいんじゃないの。外の世界でいう毒親に該当するんじゃないの。
もし私がまだ人間の女の子で、お嬢さんと仲が良かったら、雲山とムラサを引き連れてお嬢さんちに殴り込んで、
『いつまでカビの生えた価値観で娘を縛りつけてんだ、お嬢さんはあんたらの自己満足のための道具じゃないんだよ、このスットコドッコイ』
くらいは言ってやった、かもしれない。
だけど私はとっくに人間をやめた妖怪だからね。今まで決闘とかで派手にドンパチやってきたとはいえ、妖怪僧侶が人里に殴り込みなんてしたら大問題よ。聖様の顔に泥を塗るどころじゃない。
せめてお嬢さんの身柄を命蓮寺で預かって、ヤバそうな実家から引き離してあげたいけど、そしたらお嬢さんは思い人からも引き離されてしまうし。下手したら『妖怪寺が人里の娘を拉致した』なんて騒がれるかもしれないし。
歯がゆいわね。もし聖様がいてくれたら、私たちより人望あるし、慕われてるし、人里にもしょっちゅう顔を出してるし、お嬢さんの親を説得させるくらい、訳ないのかもしれないけど。私たちは結局、ただ話を聞いてあげるだけなんだもの。
「お願いです」
お嬢さんは綺麗に三つ指をついて、深々と頭を下げる。幼い頃から叩き込まれたであろう作法が美しければ美しいほど、悲しくなってくるわ。
「私を尼にしてくださいませ」
そのお願いを叶えてあげたいのは山々なんだけど。
これまでの話を聞いた限りの印象では、お嬢さん、箱入りで世間知らずっぽいところはあるし、浮世離れした感じもするんだけど、一方で頭は悪くなくて、世間のしがらみを一度疑ってみるだけの知恵は回るし、行動力もある。藁にも縋る気持ちで尼になろうと思ったのを、ただの気まぐれで突き放すつもりも更々ない。
けど、こっちからしたらよそのお嬢さんの人生の選択をぶん投げられているわけでして。私たち、酒は呑むわ悪さはするわ、立派な破戒僧だけど、これでも仕事にはプライド持ってるからさ。千年生きた妖怪にだって、簡単に他人の人生は背負えないわよ。
もし、仮にここで出家したとしてもだ。ご両親が反省して、心を入れ替えてお嬢さんを大事にしてくれるならいいけど、「こんな恩知らずはもう娘と思わん」って勘当しちゃったら、お嬢さんはどこへ行くの。
もちろん命蓮寺で修行僧として預かるのは構わない。けど、うちって妖怪寺の評判通り妖怪僧侶だらけで、そこにただの人間のお嬢さんを置いておくのは、やっぱり心配よ。そのまま人間として天寿をまっとうしてくれるならいいけど、もし妖怪に憧れるようなことになっちゃったら……なまじただの人間から妖怪になった〝私〟っていう前例があるだけに、そんな心配はないなんて言い切れないのよね。
私はいいのよ。千年も昔の話だし、後悔してないし。だけど、十代そこそこで自分の人生の一大決心なんて、焦る必要はないんじゃないの。
だからいまは聖様の帰りを待つ方がいいかなって私は思うし、ムラサも軽率に頼みを聞くのはどうかと思ってるみたい。雲山なんて言わずもがな。
「やはり出家はお考え直しを。しばし時を待ちまして、改めてご決意が変わらなければ、またお越しいただければと思います」
「そんな……。お願いです、じきに家の者が私を探しに来ます、その前にどうか、どうか!」
「せめて住職が戻るまでお待ちを。私どもだけでは判断しかねます」
「いいえ、そんな悠長な暇は私にはありません!」
「焦っても良くないですよ、下手な未練を残すとほら、隣の女のように妖怪になって三途の河も渡れずじまい……あいたっ」
ムラサが背中を小突いてきた。ちょっとは我慢してよ、このお嬢さん説得するのが最優先なんだから。
すると、気を昂らせていたはずのお嬢さんが急に静かになって、かすかな声で何かをつぶやいた。
「え、なんですって?」
「川……そうですね……貴方たちが私を尼にしてくださらないのなら、もう結構」
と、立ち上がったお嬢さんは凄みのある目をしていた。なんというかこう、死の淵に立たされた人間みたいな……。
「いっそ川に身を投げてしまいます!」
「いやいや駄目ー!!」
言うが早いか、ものすごい勢いで部屋を飛び出そうとしたお嬢さんを私とムラサのふたりがかりで押さえつける。
こ、このお嬢さん、なんちゅうことを言い出すの! 見た目で測っちゃいけないのは人間も同じだった。ぱっと見は可憐だけど中身はとんでもないわ、いや、出家なんて思い立って寺に来る時点で相当な行動力の化身だけどね。結婚に悩んだ末に入水するなんて、菟原処女や真間手児奈じゃあるまいし! 相談に来た人間をみすみす自殺させちゃったら、それこそ命蓮寺は村八分よー! 社会的に終わるー!!
「お離しになって! もうあの池でもかまいませんから!」
「かまいます、こっちは大いにかまうんです、お鎮まりをー!」
お嬢さーん! 思い余ってフライアウェーイしたくなる気持ちはわかるけどうちの池はやめて、うら若い乙女のスケキヨなんか見たくないわよ!
ちょっと雲山、あんたも力貸しなさい、か弱い乙女でもいざ覚悟を決めたらとんでもない力を出すもんなんだから! いや折れそうで怖いとか言ってる場合か、この際腕一本ぐらいの治療費は安いものよ、私のお布施で出してやる!
お嬢さん完全に興奮しちゃってて始末に追えない、ああもう、誰かこの猛獣みたいなお嬢さんを止めて、いつかの木枯らしごっこみたいな通り魔的やり口でもいいからさ!
待てよ、木枯らしごっこ?
それだ!
「ムラサ、耳貸して!」
お嬢さんの裏拳を喰らってるムラサと完全にビビってる雲山に手っ取り早く話して(お嬢さん興奮してるから聞こえてないっぽいわ)、私はすかさずお嬢さんの目の前に立って声を張り上げた。
「わかりました! 貴方の固い決意の翻らないことは、よくわかりましたから!」
お嬢さんが怯んだ隙に、懐から剃刀を取り出した。今朝、前髪を削ぐのに使った奴を持っていたんだった。
刃を剥き出しのままお嬢さんに詰め寄る。良い子は真似しちゃ駄目よ。
「あ、あの、尼にしてくれるんですか」
「はい、我々も僧侶です、覚悟を決めます。形ばかりですが、まずは髪を削いで授戒をいたしましょう」
「本当ですか?」
お嬢さんたら無邪気に喜んでいる。いいとこ育ちなだけあって、根は素直なのね。できればもっと早く素直になってほしかったわ。でも妖怪に刃物を突きつけられて狼狽えないのってどうかと思うの。
お嬢さんを部屋の中央に案内したら、すかさずムラサが格子を閉じてしまう。そのまま次々に部屋中の戸を閉ざすのを見て、お嬢さんは、
「なぜ扉を閉めてしまうの?」
「授戒は神聖な儀式ですから、横入りを防止するのです。やめたいのでしたら今のうちにどうぞ」
「い、いえ、やめません」
ムラサが厳重に戸締りを確認してる間に、私はお嬢さんを座らせて授戒の何たるかってのをざっくらばんに説明する。
(オッケー?)
(オッケー)
切りのいいところで目線で合図を交わして、ムラサは切り落とした髪を入れるための箱を持ってきて、経典を広げて、柄杓を片手に……柄杓? 何をするつもりなのムラサ。まあとにかく、形だけならそれっぽくなってきた。
さて、私も腕をまくったら、なんだか緊張してきた。浮舟の髪を削いだ阿闍梨ってこんな気持ちだったのかな。大丈夫よ雲山、いいから私が言った通り、後ろで私のやることをちゃんと見ててね。
「それじゃあ、失礼します。目を閉じて、合掌して、四恩……そうですね、ご両親と、賢者と、衆生と、それから三宝に礼拝を」
「はい……」
お嬢さんが言われた通りにする。ムラサが「流転三界中、恩愛不能断、棄恩入無為、真実報恩者」と唱えて、お嬢さんにも復唱してもらう。要は欲界、色界、無色界の三界を漂ってる間は愛とか恩とかいった執着を断ち切れないけど、出家してそれらを捨てることこそが真の報恩なのです、というアクロバティック屁理屈なのだけど、望んで恩愛を断ち切ろうっていうお嬢さんに響くんだろうか。
私はお嬢さんの島田をほどいて、片手で豊かな髪をまとめて持ち上げて――。
顕になったうなじに、雲山がストンッと手刀を落とした。お嬢さんは前のめりに倒れて、受け止めた雲山と一緒に様子を確認したけど、ばっちり気絶していた。
「ナイスよ、雲山」
髪のすり抜けた手を握りしめて、我が相棒と拳を合わせた。
騙した挙句、手荒い真似になってごめんなさいね。一旦落ち着いてもらわないと、貴方も怪我しちゃいそうだったからさ。だけど雲山がちゃんと加減をしてくれたから、身体は傷ひとつついてないし、しばらく経てば目が覚めるはずよ。え、腕の一本くらいならいいって、誰が言ったの?
「あー、焦った。こんなとこ見られたら本当にヤバいんだからね」
「大丈夫よ、窓も格子もぜんぶ閉めたんだから、誰にも見られてないわ」
だって妖怪が刃物持って人間の背後に回って、見る人が見れば授戒だってわかるけど、鴉天狗なんかが変に捻じ曲げて、殺人未遂とか吹聴されたら困るからね。
「ていうか柄杓なんていつのまに出したの?」
「うちの池で飛び込み自殺されるくらいならその前に池の水全部抜いてやろうと思って」
「そう、私はてっきり面倒になって舟幽霊にしてあげるつもりかと」
「んなわけあるか。ていうか、一輪こそ言葉選びに気をつけてよね。あんたが余計なこと言うから、お嬢さん変なスイッチ入っちゃったじゃない」
「それは……ごめんなさい」
ムラサにじとりと睨まれて、思わず縮こまる。本来、こういう相談役って意外にも私よりムラサの方が向いてるのよね。私は引き止めるつもりが火に油を注ぐ真似をしちゃって、そこは素直に反省します。雲山まで何だか視線が厳しい。口は災いの元って本当だわ。
ともかくお嬢さんが無事で何よりだ。気絶してるのに無事ってのも変だけど。
「だけど焦ったわよ。まさか身投げするとか言い出すなんて。恋する乙女はおっかないわね、妖怪より恐ろしいわ」
「おいおい、妖怪僧侶がそんなこと言っちゃっていいの?」
笑ってるムラサだけど、頬にお嬢さんの裏拳を食らった跡がきっちり残ってる。こいつに傷負わせるって大したパワーよ。
「聖様が帰ってきたらお願いしようね、この子の親御さんを説得してくれって」
「うん」
派手にドンパチ暴れてる妖怪僧侶っても、下っ端よりは住職が出てくる方がまだ聞く耳持ってくれるでしょ。足元見られるのは嫌だけど、お嬢さんの命には代えられない。
「お嬢さんの恋、許してもらえるかな」
「さあ……だけどこのお嬢さん、たとえ親に認めてもらえなくても丁稚奉公の手を引っ張って駆け落ちくらいしそうじゃない?」
「あっはっは、やるやる!」
ムラサとひとしきり笑ってから、私たちは揃って難しい顔をした。
だって親に反対された恋なんてさ、ロミオとジュリエットを引き合いに出すまでもなく、安積山だとか、鬼一口だとか、昔から悲恋に終わることが多いじゃない。どう考えても茨道よ。ハッピーエンドなんて竹芝寺くらいじゃないの?
お嬢さんは結婚相手のことも意中の奉公人のこともあんまり喋ってくれなかったからよくわからないし、無理な結婚が不幸せなのは違いないけど、じゃあ愛する人と結ばれれば幸せかといえば、残念ながら、現実は厳しい。
考えてみればお嬢さんも気の毒なものね。いい家に生まれて、衣食住に何不自由なく育って、教養もあって、なのに恋愛も許されず結婚で家に縛り付けられちゃうんだから。
その点、私たちはもうとっくに人間やめてる妖怪だから人間のルールになんか縛られなくていいんだ。年齢なんかあってないようなもんだし、家だの一族だの苗字だののうるさいしがらみはないし、結婚がどうの子供がどうのとせがまれなくて済むし。世間の求める『女の子はおしとやかに』なんて模範とか気にせず、ずっと好きなことに没頭しててもいい。妖怪は自由だ。
代わりにお寺のルールだとか戒律だとか、他にも幻想郷の決まりごとには従わなきゃならないけど、人間も妖怪も、集団で暮らすには何かしらのルールがないと無理があるのよ。
私はうつ伏せのままのお嬢さんを仰向けにして、意識がないとますますお人形さんみたいだなあと思う。
可憐でおしとやかで、だけどとんでもなく強情っぱりでタフネスなお嬢さん。貴方が本当にこの世で生きていくのが嫌になって、本心から仏様のお慈悲に縋りたいって思ったなら、改めて命蓮寺にいらっしゃい。その時は本当に私たちが出家の手伝いをしてあげるよ。
さて、聖様が帰ってくる前に、とりあえずお嬢さんをどっかに休ませてあげようか、と思ったら。
「なんです、さっきから妙に騒がしいと思ったら、急に静かに……」
本堂にいたはずの星が急にがらっと格子を開けた。
そして星は手元の宝塔を落とした。
ええと、いまの部屋の状況を整理しようか。
中央、仰向けで気絶してるお嬢さん。
その後ろ、無言で青ざめてく雲山。
左、まだ柄杓を持ったままのムラサ(だから早くしまいなさいっての)。
そして右、やっぱりまだ剃刀を持ったままだった私。
(やっば)
星が見事に「ぎゃー人殺しー!!」と叫んでくれたおかげで駆けつけてきた響子とぬえさんとマミゾウさんとナズーリンと、ついでに寺に来てた小傘、全員の誤解を解くのに時間がかかったのは星の早とちりのせいであって、決して私達の日頃の行いのせいなんかじゃないわ、決して。誰よ星がお人形さんみたいだとか言った奴。
なお、渦中のお嬢さんはこの大騒ぎの中でぴくりとも目覚めなかった。いい根性してるわ、まったく。
◇
それからなんとか星たちの誤解を解いて、帰ってきた聖様にはみんなで揃ってお嬢さんの現状を誇張込みで訴えた。のっぴきならない状態だと判断してくれた聖様がお嬢さんを送りにお屋敷まで一緒に連れ添って、どうか結婚だけでも断念してくれとご家族を説得してくれて、更には縁談相手の家まで丁寧に足を運んでくれたおかげか、お嬢さんの縁談はめでたく白紙になったそうだ。
その後のお嬢さんと恋人がどうなったかって? さあね。あの逞しいお嬢さんなら結ばれようが引き裂かれようが、強く生きていくんじゃないかしら。
だからこの話はおしまい。と、締めくくれたらよかったんだけど……。
まさかこのお嬢さんが転がり込んできた騒動が、あんな事態を巻き起こすなんて、思ってもみなかったわ。
〈幕間 ハイカラ少女の独り言その①〉
人生には気高い理想と前向きな野心を。弛むことなき魂の研鑽を。信じる者にも信じぬ者にも等しく救いのあらんことを。南無三宝南無三宝。
なあに、雲山、今更何を真面目くさって言い出すのかって? そりゃあ私だってカッコつけるわよ、私は、いえ、私たちはいっぱしの宗教家だもの。仏教徒だもの。
「結婚願望ある?」とか聞かれたってさー、そもそも今どきそんな話振る? って感じだし、私はこれでもお坊さんよ? いやまあお酒は大好きだし、いまでもこそっと宴会に忍び込んだらするけど、それはそれとして、結婚するのしないのを気安く世間話のネタにして話しかけるのってナンセンスでしょ。
そりゃあ私は平安生まれだから十代そこらで結婚する時代の事情もわかってるけどさ、妖怪だって人間と同じく、価値観をアップデートしていかないと生き残れないのよ。え、じゃあ時代錯誤なお前の相棒はどうなんだって? 雲山はいいのよ。きょうび滅多にお目にかかれない時代親父は外の世界じゃとても生きていけないわね。だから幻想郷にいる間は無問題!
うん? となると「価値観をアップデートして生き残る」っていう私の生存戦略の方が合わないって話になってしまうんだろうか? いやいや、いまやお坊さんの結婚は浄土系じゃなくても珍しくないというし、やっぱアップデートは必要よ。私は本家本元の大正のハイカラさんみたく、バイロンやゲーテやハイネはあんまり嗜まないけど、現代的に生きていこうって野心は絶えず持ち続けているのよ。
どっかの有名なお偉いさんは「少年よ、大志を抱け」と言ったそうだけど、どうせなら少女に対する格言もあってほしいものね。
少女よ、ハイカラたれ!
〈その一 結婚するって本当ですか?〉
「ってなことがあってさー」
「へー、僧侶とやらも大変だなあ」
人里の外れで私は布都と話していた。先日の大騒動を聞かせてやれば、布都は面白がって目を丸くする。
物部布都。飛鳥時代の豪族だけど、平安時代の水干を彷彿とさせる衣装に、時代がかった喋り方、お得意なのは大陸由来の風水、とまあ、見るからに〝古典的〟なやつ。ハイカラ少女を地で行く私とは真逆もいいところ。
おまけにこいつときたら、大の仏教嫌いで、事あるごとにお寺や仏像への放火を目論む罰当たりだ。
尊い仏様を焼こうだなんて、誠に嘆かわしい限りである! 邪教の手先に容赦はしない、この雲居一輪、大恩ある聖様の名に賭けて、僧侶として、仏敵を教化してくれるわ! いざ、南無三――!
……なーんて意気込んでいたのも今は昔。気がついたら、私と布都はなんだかんだ、友達件ライバルみたいな立ち位置に収まってしまっているのだった。
だって、聖様のお考えはともかく、道教ってのが私にはそこまで悪い宗教には思えなかったのよね。不老不死を望むのは仏教的にはあんまりよくないんだけど、健康な身体を得てできる限り長生きしたいなんて、人間として自然な感情じゃない?
それに神子様は仏教がストイックすぎるとか考えてるみたいだけど、なんだかんだで道教の修行も楽じゃないみたいだし。だから神霊廟は入信希望者が多くてもほとんどは長く続かなくて脱落するのよ。
あと、布都の時代錯誤っぷりに関しては、我が永遠の相棒が千年経っても時代親父であるのを思えば、充分に見逃せるというか、許容範囲なのだった。拗ねないでー雲山、私はそういうあんたが好きよ。
……とまあ、私と布都と宗教に関する話はこれくらいにしておくとして。
私たちはなんとなく人里近くで行き合って、なんとなく一緒に行動して、なんとなく近況の報告がてら駄弁っている。一応、私は布教活動に来てたはずなんだけど、たまには息抜きだって大事よね、雲山! だから聖様には布都に会ったことは内緒にしておいてね。『お前はまた件の風水師と遊んでばかりいるのね』なんてお小言はもううんざりだもの。
布都はお嬢さんが池に身投げしようとしたくだりを話した辺りで腹を抱えて笑い出した。笑い事じゃないっての、下手したら死人が出てたのに。
「いやはや、恋に殉じて死を選ぶとは若年ながらあっぱれ、そのお嬢さんとやら、さぞ心の強いご仁なのであろう。ぜひとも我が道教で引き取りたいものだ」
「ちょっとー、横取りするのやめてくれない? お嬢さんが本気で出家する時はうちに来てもらうわよ」
「いやいや、道教の方が修行が堅苦しくないし、何より太子様を一目見ればそのカリスマ性に圧倒されるであろう」
「なんですって? うちの聖様だってカリスマなら負けてないんだから!」
そうやってぎゃーぎゃー喧嘩になった。うんまあ、これもいつものこと。だって自慢のお師匠様のことはビタイチ譲りたくないじゃん?
「しっかし、なぜそんな若い女が出家なんぞを選びたがるのやら。遊びたい盛りの齢で禁欲的な尼さんになって楽しいのか?」
「平安なら珍しいことでもないわよ。でも、現代だとあんまりいないかもね。私も久々にああいう子を見たわ」
「そういや、普段はお主の寺にはどんな客が来るんだ?」
「そうねえ、結婚して夫が変わってしまったと愚痴りにきた主婦、昔の水子を供養したいんだけどここで水子供養はやってくれるのかと聞きにきたやや高齢の夫婦、親が無駄に壮大な墓を建ててしまったけど親族の誰も相続したがらないと相談にきた中年兄弟……」
「き、気が滅入るな」
「やめてよ、私もいまそう思ったとこ」
最近のお客さんを数えてみたら、なんだか世知辛い気分になってきた。〝妖怪寺〟とか言われる命蓮寺だけど、人間のお客さんだってフツーに来る。あ、ちなみにうちは水子供養は請け負ってないわ。
相談者に中高年が多いのは気のせいじゃないわね。そもそも、お寺って若者が人生相談に来る場所じゃないのよ。たぶん若い人は『悩みがあるからお寺のお坊さんに聞いてもらおう』って発想が希薄なんでしょう。だからこないだのお嬢さんは例外中の例外ね。あのお嬢さん、相当な箱入りっぽかったし、昔物語か何かに触発されたのかしら?
「なんというか……おぬしも苦労してそうだな」
「そうよ、そうなのよー」
布都が気の毒そうにこっちを見てくるもんだから、つい愚痴を続けてしまう。
「時代の変化かしら、それとも幻想郷が特殊な場所だからかしら。昔に比べて人間の悩みのスケールが小さくなってるのよ。ほとんど家庭とか身内の問題ばっかじゃん、なんか俗っぽいのよ。もっとこうさー、『私は御仏の教えを通じて心身を鍛えたく存じます』とかいう崇高な理念を持った人はいないの? いや、妖怪とトラブル起こしましたとかで駆け込まれるよりはマシなんだけど」
「そうは言っても、いまや坊さんが呼ばれる行事なんて葬式ばっかであろう。太子様は〝葬式仏教〟と揶揄しておったな」
「うわ、やめてよ。これでもうちは法事以外のイベントもいろいろやってる方よ?」
「それでも客層は大して変わらぬのであろう? ふふん、死者にばかり愛想を振り撒く宗教の末路は哀れよのう。それに比べたら我が道場の門を叩くのは崇高な志の人間ばかりじゃ」
「嘘つけ。神子様の能力の便利さを利用されてるだけでしょ」
「な、何を! 太子様がド◯えもん扱いされているとでもいうのか!」
「誰もそこまで言ってないってば」
布都が勝手に憤慨してるのは置いといて。〝葬式仏教〟とは僧侶には耳に痛い言葉だ。別に死者ばっか贔屓してないよー、私たちは今生きてる妖怪や人間もちゃんと見てるよー、って主張したところで、どう受け取るかはその人次第だもんね。実際に聖様が人里の人間に呼ばれる時ってそういう不幸な事情ばっかだし、同じ宗教家といっても、たぶん霊夢さんや神子様と完全に同じくくりでは見られていないんだろう。
ていうか、昔っから仏教っておめでたい行事に縁がないのよ。昔の僧侶は、あの半人半霊の剣士じゃないけど『半分死人』みたいな不吉な扱いだから晴れの場に臨席するのは遠慮するし。現代になっても、妻帯禁止の時代が長かったから結婚とかの晴れやかな儀式は神社とかに持ってかれちゃうし。
……さっきからなんで私は結婚の話にばっかこだわってるんだろう? 例のお嬢さんのせいかしら。それとも最近のお客さんが家庭の不和ばっか話しにくるせいかしら。
「何じゃ、今日のおぬしはため息が多いのう」
「私たちだってもっと華やかな行事がしたいと思っただけよ。だけどあんまり豪勢にしたってまた昔みたく『密教の行事は派手すぎ』とか言われると思うとね。聖様も華美や贅沢はお嫌いだし」
「七面倒くさい。ハイカラを自称するなら新しく仏教式の行事を新設したらどうだ」
「かといって今更仏教式に新しく結婚式を作るのも……ね? 仏様の御前で永遠の愛を誓う二人。それを見届けて縁を取り持つ僧侶。絵面がシュールすぎるわ」
「なんで結婚式になるんだ、まさかお前、結婚したいのか?」
「したいわけじゃないけど、私だって地味な修行や辛気臭い法事ばっかじゃなくて、幸せいっぱいのおめでたい空気に浸りたいのよー!」
「煩悩全開ではないか!」
ごもっとも。第一、私は昔から古風なしきたりより今風で華やかな方が好きなたちだし。なんたってハイカラ少女ですから。
布都はわけ知り顔でうなずいて、
「しかしまあ、結婚が誰の目にもわかりやすくおめでたいと認識されているのは我にもわかる。うら若い乙女が憧れる気持ちもな」
「まあね。別に結婚が幸せのすべてじゃないといっても、祝福ムードは大事にするわよ」
「なるほど……」
布都はなんだか遠い目をしている。急にどうしたんだろ。だけどよく思い返せば、今日の布都は〝結婚〟というワードが出るたびに、なんだかはっと目を見開いていたような気がする。
「お前のしつこい結婚話で思い出したんだけど」
「しつこくて悪かったわね」
「まあ聞け。……そうだな、こんな流れで切り出すのもなんだと思うが、お前には言っておいてもよいかな」
と、布都は歯切れ悪く切り出したかと思いきや、何やらもじもじし出す。物事をはっきり言うタイプの布都が渋るなんて珍しい。
「何よ、お手洗いなら遠慮せず行ってきたら?」
「違うわ! お前にはデリカシーってもんがないのか!」
「食う寝る出すは人間の三大欲求なんだから仕方ないでしょ」
もちろん、一部の妖怪は『食う』がなくても生きていけたりするんだけど。布都は元々人間だし、そこんとこは……ああいや、デリカシーね。布都が照れでなく怒りで顔を真っ赤にするのを見て『口は災いの元』と謹んだ。
「ま、まあよい」
布都はこほんと勿体ぶった咳払いをする。
「実はな……我は近々、結婚するやもしれぬ」
は?
けっこん?
誰と誰が結婚するって?
唖然とする私に構わず、布都はなんならちょっと頬を赤らめて、照れ臭そうに切り出した。
「先日、太子様から直々に縁談を勧められてな……」
縁談。炎弾。えんだん。エンダアアアアアアア……。
「イヤアアアアアアアア!?」
「ど、どうした一輪?」
い、いかんいかん。落ち着け、落ち着くのよ雲居一輪。どくばくうるさい胸元を押さえる私を見て、雲山まで心配そうに顔を覗き込んできた。
まずは深呼吸、吸って吐いて。それから心を鎮める真言をば……布都、今更それくらいで嫌な顔しないでくれる?
少し落ち着いたところで、今度は湧き水のように疑問が溢れてきた。
「ひとつ確認したいんだけど、道教って結婚オッケーなの?」
「当たり前だろう。むしろ未だに僧侶の結婚はどうのなんてこだわっておるお前達の方が〝時代遅れ〟だな」
ぐっ、痛いところ突いてきやがる! 時代遅れなんて、こいつにだけは言われたくないのに!
いや、本当に気になるのは宗教の決まりごとじゃないわ。
「相手は誰よ?」
「里の名家のご子息よ」
布都が教えてくれたなんとなくリッチな響きの苗字は、前に聞いたことがあるような気がする。檀家さんとかの付き合いで耳に入れたのかしら? 人里の人間ならどこかで会う機会があるんだろうけど。
というか、ちょっと待って。布都は人間の男と結婚するかもってこと?
「あんた、一応仙人でしょ? よくお相手はご指名してきたわね」
「何を言う、我はどこからどう見ても人間だろ?」
「や、そうだけど……」
布都は自信満々に胸を張ってるけど、人間と妖怪の境界ってどこかしら。永遠亭の蓬莱人一味は〝人間〟の立場を取っているらしいけど、あの宇宙人一家が人間に見えるやつはいないと思うのよね。
けど、布都はどうだろう。尸解仙ってのは、一度肉体を捨てて器――布都の場合はお皿らしいけど、そこに魂を移して、生前の姿そのままの姿形を得て復活する術らしい。となると、修行を積んで仙人化した人間とは違うし、一度死んでるならゾンビか幽霊……と言いたいけど、何度も手合わせした手応えからしても、その肉体は生身の人間と遜色ないのよね。
じゃあお相手の人間には、布都が里の娘さんたちと同じような〝人間〟に見えているってこと? そうだとしても、布都は……結婚するにはちょっと幼く見える気がするけど。
まだ話についていけない私をよそに、布都はすっかり得意げになった。
「これで我も噂に聞く股の玉に乗れるというわけよ」
「玉の輿よ」
股の玉とか言うな、生々しいわ。
というか、これは玉の輿って言えるのかしら? 里のお金持ちっていっても、布都だって大昔は豪族のお姫様だったわけでしょ。むしろ相手の男の方が逆玉に乗ったとも取れると思うわ。
「どうした一輪、よもやとは思うが、我に先を越された、行き遅れになったと嘆いているのではないな?」
「冗談!」
からかいの笑みを浮かべた布都を思いっきり睨んでやった。まったくこの風水師ときたら、それなりの付き合いになるのに、未だに私という妖怪がわかってないな。この雲居一輪をみくびってもらっちゃ困るわ。
「あんたが股の玉だか玉の輿だかに乗って浮かれるのは自由よ、素直におめでたいって思えるわよ。だけど結婚なんて早い者勝ちの競争でもないのに、なんで結婚の遅い奴やしない奴は〝負け〟みたいに言われなきゃならないの? そんな考え方、昔ならともかく、現代ではとっくに時代遅れなのよ!」
「お、おう」
啖呵を切ってスッキリした私に対して、布都はなんか引き攣った顔をしている。自分で煽っといてその反応はどうよ。
第一『行き遅れ』だの『売れ残り』だの『行かず後家』だの『オールドミス』だの、結婚しない女性に対する世間の言いがかりはあまりに失礼すぎる。何さ、結婚が女の一番の幸せで一人前の証、みたいなもっともらしい言い方してくれちゃって。女の子は商品じゃないんだからね。これも時代のうねりだってんなら嫌な流れだわ。
じゃあそういう言葉のなかった千年前は大丈夫だったかというと、平安時代は平安時代で、結婚適齢期になっていつまでも結婚しないと『どこか身体に不具があるのでは』なんて失礼極まりない噂を立てられるわけよ。ああもう腹が立つ!
……そう考えると、僧侶になるってのはある種の救いなわけね。最近は不邪婬戒も緩みつつあるけど、基本的に僧侶は一部の宗派を除いて結婚しないのが当たり前だったんだもの。だから私も結婚がどうのなんて面倒な話と千年無縁でいられたわけで。やっぱりここぞという時に救ってくれるのは仏様よ。
とまあ、スッキリしたらしたで、今度は私が不躾に布都のお見合い相手のことを根掘り葉掘り聞こうとするばかりで、ちっともお祝いの言葉を告げていないのに気づいた。や、ホントに僻みとかじゃないのよ? ただ、実感がなくて……なんて、言い訳してる場合じゃないわね。
「ま、まあ、とにかく、このたびは本当におめでとう」
「気が早いわ、まだ縁談が持ち上がったにすぎんのだぞ? でも、ありがとう。どうやらお相手はえらく乗り気らしいから、遠くないうちに式の招待状が届くやもしれぬな」
からからと笑う布都は誇らしげである。まだ決まってないとか抜かすくせに、本人はもうとっくにその男と結婚するつもりでいるらしい。
友の結婚。それは私にとってもおめでたく喜ばしい出来事のはず。そう言い聞かせなければいけないほど、私は『お祝いしなければ』というプレッシャーが募っていて、なんだか口から出る言葉と心がアンバランスになっている気がする。
「人間は噂好きじゃ。じきに伝わることだが、お前には我から直接伝えておきたくてな」
「そう……」
「なあ一輪、気が早いついでに聞くが、お前は我の結婚式に来てくれるよな?」
「もちろんよ。雲山も同席していいのならだけど」
「我からお相手に掛け合ってみよう。おぬしが入道殿と片時でも離れているところなど想像もつかないからな。祝いの客は大いに越したことはないし」
「ええ、そうね、あんたは神子様の部下だもの、少しでも立派にしなくちゃ」
「な、一輪、きっと来てくれよ、きっとだぞ」
「うん……」
布都は無邪気に笑いかけてくる。いかにも嫁ぐ日を待ち焦がれて指折り数える花嫁って感じで、可愛らしい、と言えなくもない。
いつもだったら『あんたの花嫁衣装を楽しみにしてるわ、馬子にも衣装っていうものね、ちんちくりんのあんたでも少しは見栄えがするでしょ』くらいの軽口は叩けたはずなんだけど、今日の私はどっかボーゼンとしてしまって、布都の言葉がすんなり頭に入ってこなかった。
そのままたわいもない世間話を二つ三つして、布都と別れた。帰り道、雲山は私に『布都の様子がいつもと違ったようだが』と囁いてきた。
「あのね雲山、そりゃあ結婚が決まるかもしれないってんだから、いつも通りじゃなくても不自然じゃないでしょ。結婚だけが人生のすべてじゃなくなっても、女の子にとっての人生の節目よ。晴れ舞台よ。雲山ったら本当に女心がわかってないんだから」
私は『まーた雲山の堅物が出たわ』なんてうんざりしていたんだけど、思えばこの時の私は、もうちょっと雲山の言葉を素直に聞いておくべきだったんだ。
◇
いまはむかし、信濃の地にうるはしき乙女ありけり。父母もろともにうせ、いふかひもなくいやしききわなれど、あやしう鄙びたるけしきなく、いまめかしきさままさりて、かたちはみぐるしうあらず。
この乙女、人をくらふ悪しきもののけのうわさ聞きけり。そのありさま入道に似て、浅間・姨捨の山をまたぐ大男なりとぞ聞こえたる。日頃よりものおぢせず、たけき心のあれば、なでふかかるもののけをばいみじかるべき、いかで調伏せばやと出でにけり。……え? ああ、ごめん雲山。なんかちょっと記憶が飛んでたみたい。いや、布都の話が衝撃的だったもんでね。
「おーい、一輪、いつまでボーっとしてんの?」
雲山だけでなく、割烹着を着て柄杓の代わりにお玉を手に取ったムラサにまでそう言われてしまった。今日はムラサが夕食当番だったっけか。私は……あ、お風呂掃除しなくちゃ。あとで雲山と一緒にお風呂場に行こう。
「今日は何を作るの?」と聞いたら「カレーよ」と返ってきた。またかよ。ムラサは最近カレー作りに凝っているらしい。精進的には肉もスパイスもNGなんだけど、それなしでも美味しいカレーを作ってやるんだと息巻いて、修行とは別にいろいろ試行錯誤しているらしい。でもなんでカレーなんだろ?
「おーいってば。どうしたのよ。今日はえらくぼんやりじゃない、いつもの一輪らしくないわ」
「そうねえ、ちょっとしたセンチメンタルっていうか、メランコリーっていうか、一緒にゴールしようねって約束してた友達にゴール手前で猛ダッシュされたような気分かしら」
「何それ?」
わけわからん、とムラサは首をかしげた。
結婚は競争じゃない。というか、別に私と布都で『私たちは一生清く独身でいましょうね』なんて大正の女学生みたいな誓いを立てたわけでもないし。
だけど布都が、あの布都が結婚かあ……。
別に私に結婚願望なんてものはないんだけどね。妖怪だし。布都にも言ったけど、先を越されて悔しいなんて嫉妬が湧くわけがない。だけどなんとなく置いてかれたようで寂しいのだった。
わがよはひ盛りになれどいまだかの源氏の君の問ひまさぬかな――女に生まれたのなら、一生に一度くらい、かの在原業平や光源氏もかくやの、目の覚めるような美青年が跪いて『どうか貴方の夫にしてください』と懇願してくれないというのも、いまいち張り合いがない。そんな極上の男をあっさり袖にしてしまえるようないい女になってみたい。そしたら男は名残惜しそうにも潔く身を引いて、失恋の痛手を人生の甘美にして切ない思い出として、ささやかな傷を抱えて生きていくのね……何よ雲山、その目は。時代親父のあんたには複雑な乙女心の繊細さなんて一生わからないわ。
ムラサはなおも訝しげに私を見つめてくる(さっさと台所に行けばいいのに)。布都は『お前にだけ教える』とか言ってたけど、ムラサだったら口は堅いし、言ってもいいかな。
「布都に縁談がきたんだって」
「え、布都さんに?」
ムラサは目を丸くした。
「そりゃあまた急な話ね。物好きもいるもんだわ」
「ええ、私もびっくりよ」
「お相手はどこのどなた?」
「んー、なんか名家のお坊ちゃんらしいんだけど……」
うろ覚えの名前を出すと、ムラサははっと口を覆った。
「ちょっと一輪、その坊ちゃんってさあ」
「あー、ムラサ知ってるの? 有名らしいね、私はよく知らないけど」
「何言ってるの、こないだの騒動をもう忘れたの!?」
突然興奮するので何事かと思えば、ムラサが語気荒く告げてきたのは、件のお嬢さんの出家騒動だった。
「ムラサ、まだそんなところで油を売っているの? 当番はどうしたのよ」
そのとき、騒ぎを聞きつけて星まで様子を見に来た。
「どうしたもこうしたもないわ、聞いてよ!」
ムラサがざっくり事情を説明すると、星はすとんと話を飲み込んで、「その話なら私たち、聖から詳しく顛末を聞いたじゃない」と言ってきた。そこで私もようやく思い出した。そっか、なんか聞いたことあると思ったら、あのお嬢さんの元お見合い相手が、今回布都に縁談を持ち込んだ家の坊ちゃんなのか! そんな偶然ってある? 幻想郷は狭いわ。
「それにしても、あのお嬢さんの次は布都さんか。次こそはより良い縁談を、って躍起になったにしても、仙人のお嫁さんを選ぶとは極端な」
「私も、その某家のご子息の話は聞きました。家柄も良く、本人のご器量や才覚も申し分ないけど、結婚に関してはかなり難色を示していたらしいわ」
星によれば、坊ちゃんはその家のたった一人の跡継ぎ息子で、きょうだいはいなくて、歳の近い使用人だけがいつもそばにいるとか。容姿はやや目つきが悪いけど、顔立ちは文句ナシのハンサムだそうで(うーむ、布都がハンサムな坊ちゃんとゴールインするかもとは、なんか小癪な)。歳はぴかぴかの二十歳。そこまで結婚を焦る年齢でもない気がするけど、両親は一日でも早く嫁を貰って身を固めて、ゆくゆくは孫の顔を見せて安心させてほしい、という考えがあるそうだ。
聞いてて「うへー」と気持ち悪くなってきた。早く孫の顔が見たいって、子供は親を満足させるための道具じゃないのよ!?
「ああもう、これだから時代錯誤な人間は嫌だわ。そりゃその坊ちゃんだって反発するでしょ」
「反発するのももっともなんですが、肝心のご子息も……人となりに問題があるのよ」
「え、申し分ない坊ちゃんじゃなかったの? まさか実は飲む・打つ・買うの道楽三昧の放蕩息子とか?」
「いえ、そういう浮ついた噂じゃないわ。むしろその方面はびっくりするほどクリーンよ。ただ、なんというか、その……ご気性というか、性格の方が、ちょっと」
星の歯切れの悪い話によると、その坊ちゃん、『俺はつまらない女なんかと結婚しねえ』と、持ち込まれる見合い相手の女性にケチをつけまくっているとか。やれ『こんなブスな女とは連れ添えない』『美人すぎる女は浮気するに違いない』『乳臭いガキなんぞと結婚できるか』『男ずれした年増のババアも論外だ』『この女はまあマシだが、めんどくせえ舅と付き合うのは嫌だ』『夫を立てる女ってのは当然だ、三歩下がって三つ指ついて、夫が黒と言うもんは白いもんだろうと妻も黒だと言え』エトセトラ、エトセトラ……。
「何様なのよそのワガママ男!!」
久々にドタマにきて、思わず大声が出た。カンカンになって頭から湯気でも出そうな私と同じく、雲山もいまにも大噴火しそうなほど真っ赤になってる。
なんだそのクソ坊ちゃん、リアル道◯寺か、いや道明◯はむしろ女の好みがわかりやすいタイプか。どれだけ甘やかされてお育ちになられたんだか、そこまで高望みして女の人に好き放題一方的に難癖つけられるとはいいご身分ねえ。どんな紅顔の美青年でも大富豪の御曹司でも、絶対に許されないわ。少なくとも私と雲山が許さないわ! ただしイケメンに限るなんて、モテないブ男の僻みでしかないのよー!
これだからお金持ちって嫌だ。分不相応のお金を持った輩は、どこぞの貧乏神・疫病神姉妹じゃないけど、お金さえあればなんでも思い通りになると勘違いする自惚れの高慢ちきが多いんだから。
どんなやんごとなきお生まれだか知らないけど、そんなに女を選り好みするんなら〝飯食わぬ女房〟でも娶って痛い目見ればいいのよ、ボケナスビ!
ブチ切れてる私と雲山に対して、星は「あ、あくまで最後の方は噂よ、噂」と宥めながら(火のないところになんとやら)話を続ける。
「しまいには『人間の女と結婚するくらいなら、妖怪とでも連れ添った方がマシだ』とまで言い出して……さずかに売り言葉に買い言葉というか、ご子息も本気で言ったんじゃないでしょうけど、家柄の釣り合う適齢期の娘さんとの縁談はすべて断られてしまったから、ご実家もずいぶん奔走したそうよ」
「まさか本当に妖怪の女と結婚しようってんじゃないでしょうね。そんなクソ野郎は妖怪からもお断りよ!」
「別にあんたに持ち込まれた縁談じゃないでしょうよ。そこまでこき下ろさなくても……」
「黙ってられるか!」
ついムラサにまで食ってかかる。これが落ち着いてられますか。布都はとんでもない輩と結婚させられるかもしれないっていうんだから!
……あれ、ちょっと待って?
幻想郷で異類婚はタブーじゃないらしい。妖怪と結婚した人間がいる、とはちらほら聞いている。とはいえ人間からすれば恐ろしい妖怪と連れ添うなんてもっての外、と考える人も少なくなくて、まして富裕層の人間が妖怪との結婚を許すとは思えない。
んでもって、布都は仙人だから、人間か妖怪かで分類するなら〝人間〟扱いできなくもない。昔はあいつも妖怪に怯えてたくらいだしね。
ええと……つまり……。
「一輪、どうしたの?」
急におとなしくなった私を、ムラサが訝しむ。
「人間の女とは結婚しないっていうドラ息子と、妖怪とは結婚させたくないっていう両親、お互いの妥協点が仙人との結婚だってこと?」
「え?」
ムラサは星と顔を見合わせる。
「そう言われれば……そうなのかな?」
「神子様は人里での人望が厚い方ですし、おそらく人里の皆さんはあちらの過去の後ろ暗い所業には関心が薄いでしょう。幻想郷縁起でしたっけ? あれもあまり広く読まれてはいないようですし。神子様のお弟子さんなら、とご両親も折れるつもりになったのかもしれないわ。ご子息も引っ込みがつかなくなってしまったのかしら。まるで本物の蓬莱の玉の枝を持ってこられたのかと焦ったかぐや姫みたいね」
二人の会話が続く中で、私はぐるぐる考えている。
私たちはあの時、お嬢さんが意に染まぬ結婚を強いられて、出家したり入水したりするのを止めようと必死だった。お嬢さんの問題を解決するには、その縁談をやめにしてしまうのが一番だと思った。茨道の身分違いの恋愛を、駆け落ちを勧められそうにはなかったからね。だから聖様がわざわざお嬢さんの家まで出向いて説得してくださったのだった。
だけど。
もし、私たちがあのとき、もっと別の方法を選んでいたら、この縁談が布都に持ち込まれる羽目にはならなかったんじゃないの?
い、いや、落ち着くのよ一輪。まだ縁談が来たってだけでしょ。布都はちょっとアホなとこあるから、いまは玉の輿だと浮かれているかもしれないけど、相手の坊ちゃんの悪評を聞いたら、いくら神子様の勧めでも断るかもしれない。
私の心配はただの杞憂で、縁談はすぐに流れる可能性もあるんだから……。
ところが私の願いも空しく、数日経って、布都と坊ちゃんの婚約が正式に決まったと知らせが届いた。
〈幕間 ハイカラ少女の独り言その②〉
身近なところに仏教用語は潜んでいる。ほら、貴方のすぐそばにも……って、これじゃまるで怪談じゃないのよっ。
千年も生きてると『人間の言葉って変なとこで変わるのねえ』とかしょっちゅう思うのよ。
たとえば――妻のことを『うちの女房』とか呼んだりするじゃない?
女房って、平安生まれの私からしたら、高貴な人に仕える召使いの女性がパッと浮かぶのよ。紫式部とか清少納言とかね。
それが千年経って、召使いを指す言葉が、転じて自分の妻を指す言葉として定着するとは……。
もうひとつ――僧侶の身だとこっちの方が気になるかもしれない――夫のことを『旦那さん』って呼んだりするじゃない?
旦那って元は檀那、〝お布施〟を意味する仏教用語なのよ。それが江戸の頃に檀家制度ってのが導入されて、檀家にバックアップされるお寺が〝檀那寺〟って呼ばれたわけ。
なんでそんなものができたのかって? 戦国時代の終わりくらいからキリシタンへの弾圧が酷かったでしょ。キリスト教を異教として排除したかった江戸幕府は、民衆の戸籍の管理を口実に、檀那寺の信者から戸籍情報を把握できる檀家制度ってもんを作ったのね。お寺は檀家からのお布施で儲かる、幕府はお寺に紐付けられた家にキリシタンが潜んでないか監視できる、ウィンウィンってわけ。……うん、まあ、この話って仏教サイドも充分キリシタンへの加害者側だから、私としてはちょっと耳が痛い。
話を戻すと、巡り巡って〝檀那寺〟を離れて〝旦那〟が商家の主人を指すようになって、そこから夫を指す言葉になったのね。
妻を召使いの意味だった〝女房〟と呼び、夫をお布施や商家の主人の意味だった〝旦那〟と呼ぶ。うーん。やっぱ変な光景だわ、平安生まれから見ると。
それはさておき。仏教を身近に感じてもらうには、お堅い雰囲気の法会をお寺で開くより道端で、それこそ神子様が演説をやってるみたいに、説教節とかのパフォーマンスをやる方が民衆にはわかりやすくてウケがいい。まあ、聖様はそういう俗っぽいやり方はほどほどになさいと眉をひそめるのだけど。
書物に縁のない庶民でも、親からこんな歌を聞いた、近所の子供とこんな囃し文句を唱えた、なんて口移しに物語が広まっていく。
説教節も、ストーリーに歌をつけて馴染みやすくするのね。仏様の霊験あらたかなるお話だけでなく、そこに民から重税を搾り取って私腹を肥やす悪どい地主を懲らしめる僧侶の話なんかを載せると、そりゃ馬鹿ウケよ。民衆は悪徳な親分をとっちめてくれるヒーローを求めているのね。
そういえば、弟様の飛鉢譚も、そういう勧善懲悪ものの典型かもね。
私たちの活動の根源には聖様の理想があり、その聖様の理想は、突き詰めると弟様の生き様なのだ。
弟様――命蓮様が、けちんぼな長者を懲らしめるために法力で米倉を運んだ話は有名よね。私は弟様に直接お会いしたことはなくて、聖様のお話を伺うばかりだけど、どんな話を聞いても、弟様が強きをくじき弱きに寄り添う気高い精神の人だったのがよくわかる。弟様の気高い精神は、聖様にも受け継がれていると思うわ。
そうよ。
人間が強いの弱いので分断されるように、妖怪だって強いやつもいれば弱いやつもいるの。
弱きが弱さを理由にくじかれることがないように……そういう信念を胸に私は拳を振るう。
でも、それなら。私が布都みたいな、〝物部布都姫〟として歴史の中に立派に名前を残しているような、押しも押されぬ豪族の姫様とお友達としてお付き合いするっていうのは、どういう意味を帯びるのかしら?
〈その二 夫(を)と兄(いろせ)とはいづれか愛(は)しき〉
「布都!」
届いた招待状を握りしめたまま、神霊廟に殴り込んでやろうと思ったんだけど、道中で、ちょうど人里近くの道端に佇む布都と出くわした。
布都はのんびりと川辺を眺めている風で、私に気づくと、やっぱりのんびり振り返った。
「どうした一輪。そんなに興奮して」
「どうしたもこうしたもないわよ!」
布都が、正確には神子様の名義で『命蓮寺御中』と宛てられた招待状を突きつけてやれば、布都は「ああ」と笑った。
「ちゃんと届いていたか。しかし、本人に直接返事を持ってくるのはマナー違反ではないか?」
「招待状を御中で済ますな。あんた、本気でこの坊ちゃんと結婚する気なの?」
「前に伝えたであろう、近々結婚するやもしれんと」
「あんたは相手の坊ちゃんがとんでもないクソ野郎だとわかって結婚するのかって聞いてんのよ!!」
わざとはぐらかすようなへらへらした布都にイラついて強めに問いただせば、布都はやっぱり落ち着き払って頷いたのだった。
怒りと訳のわからなさでクラクラする。本来ならこういうときに私を宥めてくれるはずの雲山でさえ、思いもよらない事態に困惑しているらしかった。
「なんでよ、あんた、どうしちゃったのよ。女にイチャモンつけまくるようなワガママ坊ちゃんよ。とても立派な夫になる男だと期待できないわ。それとも何? いざあんたと顔を合わせたら、あんたに一目惚れして、生まれ変わったみたいに花婿に相応しい好青年になったとでも?」
「そうだ。……と、見栄を張れたらよかったのだがなあ」
布都はぽりぽり頬を掻いて笑う。
「顔合わせの段階でも、お相手の殿方は我に一瞥もくれなかった。どんなにご両親や召使いさんがどやしたり宥めすかしたりしても、むっつり押し黙ったまま……本当に一度も目が合わなかったのに、始終野生の獣みたいな鋭い目をしていたのが印象的であった。太子様はまだお若いのだし、気まずくて照れているのだろうとおっしゃったが」
「そんなわけないって、あんたもわかってるんでしょ」
それじゃ、相手の坊ちゃんは両親に押し切られて渋々結婚を承諾しましたって言ってるようなものじゃない。あんまりだわ! いくら嫌々結婚するからって、それでも一度結婚を承諾したのなら、腹を括って、せめて自分の花嫁になる布都には最低限のお愛想ってもんを見せてもいいでしょうに!
「一輪、そうカッカするな。我はこの結婚に納得しておる。他でもない太子様から仰せつかった大切なお役目、我は立派に果たしてみせようぞ」
「なんでよ」
「今日のおぬしはなんで、なんでばかりじゃな」
「そもそも最初っからおかしかったのよ! なんで神子様があんたにこんな無茶苦茶な縁談を持ちかけるの!? なんでお相手はあんたを結婚相手に指名したの!?」
こみ上げる怒りの前じゃ、いくら千年僧侶といっても、忍辱も吹っ飛ぶわ。
いいや、こんな暴挙を前にして心穏やかに振る舞うなんて、僧侶でも相応しくない!
布都はやっぱり憎らしいくらい落ち着いている。相手が激昂してると自分は冷静になるっていうけど、なんなのよ、その余裕は。
布都はまた川辺に視線を戻す。人里近くを流れる川は穏やかで、いつもは楽しい川辺も今日は船を漕いだり釣りに出たり浅瀬で遊んだりする子供もいないせいか、静かだ。
「そうだな。太子様が縁談を持ってきた日のことは、お前に話してもよいか」
布都は、淡々と語り出した。
◇
『布都。運命の赤い糸とはなんだと思う?』
ある日、修行も所用も終えて、神霊廟の中でゆったり過ごしていた神子様が、出し抜けに布都に謎かけじみたことを尋ねたそうだ。布都は迷わず、
『三輪山の神様の故事に決まっているでしょう!』
『はは。お前ならそう答えるだろうね』
神子様は鷹揚に笑ったそうだ。
布都が答えたのは、三輪山伝説のことだ。
昔々、イクタマヨリヒメという娘の元に、夜な夜な通ってくる男がいた。その正体を、肝心の娘すら知らない。不審に思った娘の両親が、娘に糸を通した針を渡し『この針を男の衣に刺しなさい』と伝えた。娘が言われた通りにすると、翌朝、その糸は家の外に伸びていた。糸は地面の土が付着して赤茶色に染まり、辿ってみれば娘の家から遥か三輪山の社まで続いており、男の正体は三輪山の神様だったと露見した、という話だ。
物部氏は三輪山の神様を信仰していたらしいから、布都は真っ先にその話を挙げたんだろう。
『けれど私は、赤い糸といえば、月下老人だと思うよ。月夜の下で、あるいは氷の下で男女の縁を結ぶという、道教の仙人のね。まあ、三輪山伝説にせよ、月下老人にせよ、とかく人は古来より、男女の縁には何かしらの結びつきがあると信じていたわけだ』
神子様はそう答えた。そういうもんか。道教はロマンチックね。いいなあ。
い、いいや、仏教徒だって糸を使って縁を取り持つことくらいあるわよ。五色の糸といって、阿弥陀如来様(うちのお寺じゃあんまり出番のない仏様ね)の像のお手から青・黄・赤・白・黒の五色の糸を垂らして、ご臨終の人の手に握らせるの。仏様との縁を結んだから、死後に無事に極楽浄土へ旅立てますようにって。……うん、ぜんぜんロマンチックじゃない。
『私も仙人だ。月下老人の先例に倣って、仲を取り持つのもやぶさかではない。まして人里の人間の頼みとあれば、無碍にするわけにはいくまい』
神子様は布都、と優しく呼びかけたそうだ。
『人里に嫁取りを嫌がり両親を悩ませる若い男がいる。人間の女と連れ添うなら妖怪と結婚する方がマシだ、とまで言い張る頑固者だそうだ』
『それはまた極端な。まさか太子様、似合いの妖怪でも見つけてくるおつもりですか?』
『いやいや。両親は大事な跡取り息子を妖怪と結婚させるなんてとんでもない、けど先日肝入りの縁談も流れて他に目ぼしい人間の娘ももういない、と困っていたよ』
『えー? なら誰なら納得するのですか?』
『布都、お前、昔に比べて頭の回転が鈍ったんじゃないか?』
神子様は笑いながら、布都をじっと見つめた。
『これもまた謎かけみたいなものだ。妖怪でも人間でもない、人間の男と連れ添っても問題のない女……座敷童も考えたが、あれは少々問題がある。ならば、限りなく人間に近い仙人や天女がうってつけじゃないか』
わざと羽衣を落としていくような最近の軽薄な天女は駄目だ、となると、残るは仙人しかいなくなる。仮にも神霊廟の主人、道教勢力の筆頭である神子様が人里の男なんかに嫁入りするわけにはいかない。と、なると……。
『布都。お前はどうか?』
『はい?』
『我々にとって何もメリットがないわけではない。信仰はギブアンドテイク、だったか……あちらも相応の見返りをくれるだろう。なあ、布都。お前も宗教家の端くれとして、困っている人間のために力添えする気はないか?』
思わぬ問いに、布都は息を呑んで――しばらく考えた後に、こう答えた。
『太子様のお力になれるのなら本望です。――どうぞ、仰せのままに』
◇
「そんなのパワハラよ、パワハラ! 嫌ならちゃんと抗議しなさい!」
「人聞きの悪い。我は嫌だとは一言も言っておらんだろう」
聞き終わった私がまたブチ切れると、布都はうんざりしたようにため息をつく。
なんでそんな無茶振りが嫌じゃないのよ、いくら神子様が敬愛する上司だからって、その立場を利用して無理矢理結婚を強いる権利なんかないのよ! 前から布都はノーテンキなやつだとは思ってたけど、ここまでとは……。
そのとき、私は布都の顔をもう一度よく見て(あれっ?)と思った。呑気で、何も考えてなさそうで、ぼんやりしている姿は、ある種の放心状態というか、〝心ここに在らず〟にも見えてきた。
「あんた、ちょっとやつれたんじゃない?」
たぶん、よくよく観察しなければ気づかないくらいの、ほんのわずかな変化なんだろうけど、前に雲山が言った通り、布都は変わった。……私が見逃してたんだ。
布都は目を丸くして、なんでもないみたいに笑った。
「それはマリッジブルーってやつよ。結婚を前にすると、たとえ幸福の絶頂にいる者でも、得体の知れぬ不安に苛まれるもの。僧侶のお前にはわからぬだろうが」
「そりゃわかんないけど。……本当に、それだけ?」
「ああ。前の結婚の時もそうだったからな」
え?
なんだって?
こいつ、いま、日常会話のノリでまたとんでもない爆弾を落とさなかった!?
「ちょっと待って、前の結婚って何よ?」
「蘇我馬子殿との結婚に決まっているであろう。知らなかったのか?」
「い、いや、知らなかったっていうか……え? えっ?」
ああ、なんかもう、脳みそ爆発しそう。真言を何遍唱えても落ち着かないわ。
別に私だって歴史を知らないわけじゃない。
蘇我馬子は、ご存じ飛鳥時代の有名な豪族で、仏教を熱心に信仰して廃仏派の物部守屋と争った人だ。守屋に勝った後は、推古天皇や聖徳太子――神子様と一緒に政治を行って、仏教の布教に尽力した人だった。
その蘇我馬子は守屋の同母の妹を妻にしていて、名前は太媛。布都姫って書いてある書物もあるけど、そっちは表記揺れなのか『ふつひめ』って読むのね。そして聖徳太子の妃のひとりである刀自古郎女は、馬子と太媛の娘だとも言われている。
それで、こいつらが復活した後、私が布都に、
『屠自古さんってあんたの娘なの?』
って聞いたら、布都は腹を抱えて大笑いして、ひーひー涙を流しながら、
『そんなわけあるか!』
と叫んでた記憶がある。屠自古さんはあくまで神子様の部下で、刀自古郎女ではなくて、でも蘇我馬子の親族ではあるらしい。
だから私はてっきり、布都も馬子の妻とは別人だったと思い込んでたんだけど、いまのちんちくりんの小娘みたいな布都も、昔は人妻だったってこと? ……こいつらのせいで、のちに歴史書を編纂した連中は大変な思いをしたんじゃないかしら。
布都は私を尻目に、ふっと遠い目をした。
「我が兄・守屋と馬子殿は先代から続く因縁の相手――しかしながら、兄も馬子殿も、数ある豪族の中で抜きん出た相手を互いに無視することができなかったのよ。特に当時の蘇我氏の勢いといったら……馬子殿の父上の稲目殿が娘を三人も大王と娶せて、蘇我は急速に中央にてその存在感を増しつつあった。ゆえに兄は、同腹の妹である我を、当時の蘇我の筆頭であった馬子殿と結婚させた。蘇我の実情を探り、あわよくば抱き込まんとする、いわばスパイとしてな」
「……」
「とはいえお前も知っての通り、我はすでに太子様と通じていた。物部の利より太子様の利を優先させるべく、兄にも馬子殿にも気取られぬように動いていた」
「……あんた、守屋の妹と馬子の妻っていう自分の立場を利用して、物部と蘇我の争いを煽ったのね」
「いかにも」
一般には、守屋と馬子の対立は廃仏派と崇仏派の戦いとして知られている。けど実際はそうでなかった、というのは、私もすでに聞き及んでいた。
そもそも、聖徳太子こと神子様が真実には仏教を信じていなかったのだから、仏教をめぐる争いは目眩しでしかなく、本当は古き天津神の子孫たる物部氏と、道教をもって新たな神とならんとする神子様一派の争いだったとか。気を抜くとスケールが大きすぎてついていけなくなりそうになる。
結局は、守屋も馬子も布都に、あるいはその後ろにいる神子様に踊らされただけっていうのかしら。
「なら、あんたと馬子は仮面夫婦ってわけ」
「そうだ。少なくとも我にとってはそうだったが、馬子殿は違ったようだ」
そこで布都は眉間にしわを寄せた。その目は、どう見てもかつての夫を懐かしみ愛しむ目ではない。かといって、単なる政争の駒に向けるものとも違うっていうか……。
「後世の書物では、馬子殿は大王をも殺し太子様をも脅かし、娘を利用して皇族を乗っ取ろうとした悪人と伝わっているようだな」
「……逆賊として殺された蝦夷と入鹿の煽りを受けているのかもしれないわ」
「あっはっは! エミシとイルカのことは知らんが、馬子殿が悪人だなんて、とんだ嘘っぱちよ」
布都は大声で笑った。
蘇我馬子が悪人であるかどうかは、本当のことをいえば、古い史料を見ただけじゃはっきりしない。日本書紀くらいまで遡れば馬子はそこまで悪く書かれてないんだけど、私たちの馴染み深い平安時代になると、もうすっかり蘇我氏は〝逆賊〟としての地位を確固たるものにしちゃったせいか、あるいは聖徳太子が神格化されたせいか、馬子も推古天皇や聖徳太子の政治の良きパートナーというよりは、大王(崇峻天皇ね)を殺したっていう記録もあいまってか、馬子もやっぱり悪人だったのだと解釈されるむきがある。
かくいう私も、昔読んだり聞いたりした聖徳太子の伝承の影響で、馬子もやっぱり……とか思ってたところがあるんだけど。布都は私のそんな考えをあっさり笑い飛ばす。
「太子様は父上からも母上からも蘇我の血を引いていらっしゃる。蘇我は太子様の同胞だ。どうして馬子殿がご自身の大姪である太子様を害し奉ることがあろう」
きっぱり言い切る布都に、嘘をついている気配はない。なら、馬子は何も知らずに布都に騙されていたのか。それとも、望んで布都たちの共犯者になったのかしら?
「馬子殿は、驚くほど信心深く、同時にひどく臆病な人であった。自らの祖たる武内宿禰を崇拝し、蘇我に誇りを抱きながら、父の稲目殿から蘇我氏の繁栄を託されたのを重い負担に感じておられた。我はその臆病さにつけ込んで、太子様こそが乱れきったこの世の救世主なのだと吹き込み、蘇我と対立した我が兄守屋を討つよう唆し、馬子殿を目の上の瘤のように考える泊瀬部の大王……崇峻天皇を殺すよう唆した。すべては太子様の御世のために」
なのに、と布都は俯いた。
「我は憎まれても仕方ない身だというのに、馬子殿はどういうわけだか、我を愛した。我に謀られたと知ってなお、離縁することなく、妻として重んじ続けた」
「……」
「けれど、我は兄を殺した男を愛せなかった。そうではないか。我にとって兄上は、誰よりも愛しい、たったひとりの同腹の兄だったのだから」
「……」
「そんな顔をするな一輪。さすがに飛鳥の世だって、腹違いや父親違いならともかく、同父同母のきょうだいが結ばれることはない」
「私が人間だった頃は、もうきょうだいで結婚なんてありえないって風潮だったわ」
「勘違いしてくれるな、我は本当に妹としての思慕しか持ち合わせていない。我の夫は蘇我馬子だけだ」
「……」
「……少なくとも、馬子殿は本心から仏に縋っているようだった。そうせざるを得なかったのであろう。妻の兄を殺め、神の子孫たる大王を殺め、積もり続ける罪の重さに恐怖し疲弊した心は、神に救いを求めることを赦されず、異国の仏を拝むしかなかったのだ。……とても、都合が良かったよ。我らにとって」
――こいつは、本当に私の知ってる物部布都なの?
いつもアホっぽくて呑気で、頼まれてもいないのに『今日のおぬしの運勢は』とか、風水を得意げに披露してくる布都だっていうの?
布都の告白はひどく矛盾に満ちている。あんたが神子様に味方して、馬子に兄を殺させたんじゃない。あんたにとっては、一族より夫より、神子様が大事だったんじゃない。だったらそんな被害者みたいに、重い荷物を背負ったみたいに暗い顔をするのはお門違いでしょう。
哀れな馬子! もし布都の告白が本当なら、決して自分を愛してくれない女を愛し、その女のために自らの手すら汚し、結局は自分の元を離れていった女を、それでも愛することしかできない男の心とは、どんなものかしら。
だけど。
目の前で訥々と語る布都の表情がどんどん暗くなって、本当につらいって感じで唇を引き結ぶのを見ると、私はなんて声をかけたらいいのかわからなくなる。
布都は私の視線に気づくと、ふっと口元を緩めて、
「伝説のサホヒメが兄より夫を選んでいたら、我のようになったであろうよ」
などとのたまった。
サホヒメね。飛鳥時代よりさらに昔、古墳時代の垂仁天皇の大后。
あるとき、兄のサホヒコが大王に叛逆を企んで、妹のサホヒメに『お前は夫と兄と、どちらが愛しい』と尋ねた。『兄が愛しい』と答えた妹に、サホヒコはなら夫の大王を殺せと命じた。サホヒメは命令通りにしようとして、結局大王への愛のために殺せず、涙ながらに兄の企みをすべて打ち明けてしまった。
その後、サホヒコが大王に攻め入られると、サホヒメは兄に従い、大王の呼び求めにも応じず、ただ大王との間に生まれた我が子だけを大王に託して、兄のサホヒコと運命を共にして死んだ。最初に『兄が愛しい』と答えた通り、サホヒメは夫より兄を選んだんだ。
……布都。あんたも心の底では、サホヒメのように兄を選びたかったというの。兄と夫、二人の男の板挟みになって苦しんだように、あんたも苦しんで……。
「なあ一輪。結婚に愛も恋も不要だと思わぬか。ただ互いの間に一致する野心と利害さえあれば、所詮その程度の間柄だと割り切れるではないか」
私は答えられない。
そもそも恋愛結婚が浸透したのって最近のことで、平安時代も政略結婚が主流なのよ。
だから、たぶん、あんたの時代の価値観でも、私の時代の価値観でも、結婚に愛なんかいらないってのは正しいんだろうし、ひょっとしたら現代でも通じるのかもしれない。あんたが神子様に従いながら兄が好きだと主張するのも、昔の同母きょうだいの絆は想像以上に深いものがあるから、疑う余地はないのかもしれない。
だけど、布都。あんたが苦しいのは、騙した相手が、馬子があんたを愛したから。愛してくれる相手に愛を返せなかったから。だとしたら……。
「あんたにとって、蘇我馬子との結婚は、幸せではなかったのね」
布都は何も言わなかった。けど、暗い表情で俯くのを見れば、それが肯定だってわかる。
あんたたち兄妹と、サホヒコ・サホヒメ兄妹とは、決定的に違うものがある。馬子との結婚自体は守屋の差し金だったとしても、二人の婚姻関係を利用したのは、神子様じゃない。二つの豪族を争わせて自分の治世の地盤を作ろうとしたのは、神子様じゃない!
そして、神子様は現代になってもまた、あんたを利用しようとしているかもしれないっていうのに!
「あんたは、どうして神子様の持ちかけた縁談を受けたのよ! どうして神子様は、一度結婚でつらい思いをしているあんたに、二度目の結婚を持ちかけたのよ!」
「……一輪、お前はあまりにも太子様を知らなすぎる」
「あんたに比べたら知らないけど、この結婚があんたを苦しめるってことはわかるわ」
「あのな、一輪。我は確かに、我が夫よりも我が兄が……我が一族が愛しかった。だが今も昔も、太子様を恨む気持ちは微塵もない」
目の前が真っ赤に染まるようだった。雲山、もしあんたが私より正気だというなら、私をしっかり支えていて。私が不当に拳を振り上げないように見張っていて。
「……人、木石に非ざれば、みな情あり」
「は?」
「白楽天の詩よ。白楽天は八世紀の生まれだから、あんたたちが眠りについた後の詩人なの」
「ははあ。おぬしのことだから、経典の引用かと思った」
「あんたはお経の話なんか聞いてくれないもの。あんたが神子様を恨んでいないとしても、あんたの兄は、守屋はどうだかわかんないわ」
「……我が兄が、なあ」
布都はじっくり考えるそぶりを見せる。ちょっと卑怯な気はするけど、布都がいまでも兄に愛情を持っているなら、少しは揺さぶられるはずよ。聖様だって前に『感情のない人形や石ころは、果たして悟っていると言えるのでしょうか?』ってお話を説いていらしたから、僧侶がこの詩を引き合いに出すのも不釣り合いじゃないでしょう。
布都はやがて私をじっと見た。
「物部の一族が、ウマシマジノミコトを祖としているのは知ってるな」
「ええ」
「ウマシマジの父のニギハヤヒは、カムヤマトイワレヒコノミコト……のちの神武天皇だな……の東征の折、イワレヒコが天津神の御子だと聞いて、服従を決めた。我ら物部は神代からそうやって生きてきた。そして、我が出会った天津神の御子とは……言うまでもあるまい」
「……」
「神代が移ろえども、ウマシマジの子孫は天津神の御子に従うのみ。物部の長であった我が兄もそれをよく心得ておる。太子様の栄華の礎となるなら本望であろう」
「本望って、あんた」
「――物部は、太陽神の贄じゃ」
瞬間、なんでもないように笑っている布都の顔面に思いっきり拳を炸裂させそうになったのを、雲山がかろうじて止めてくれた。それでも私の口は止まらなかったけど。
「あんたの祖がニギハヤヒなら、あんたの仕えるべき相手はアマテラスの御子じゃないだろ!」
「ニギハヤヒは天孫ニニギの兄弟・アメノホアカリと同一神だともいう。何もおかしくなどない」
「私はあんたがちっともわかんない!」
怒りで身体は震えて、息は荒い。大物忌だか聖童女だか知らないけど、いまどき神に命を捧げる供物なんて間違ってる!
「あんたは昔、神子様に先立って尸解仙の術を実行したそうね」
「そうだ」
「今回の縁談を受け入れたのも、大昔と同じ、神子様への忠誠心からってわけ?」
「その通りだ」
「やめなさいよ! 現代に蘇ったんなら、少しは現代らしい生き方を倣いなさい! それとも何? 二度目の結婚は、前みたく夫を操り人形にしないで、たとえ愛情が沸かなくても、まっとうに対等な夫婦らしくやっていこうっていうの?」
「……」
「なんとか言ってよ、布都!」
私はほとんどつかみかからんばかりだった。
わかってる。現代の結婚は、究極的には当人同士の意思が一番大事で、外野がとやかく言うことじゃないって。
だけど、神子様の命令で、横暴な人間の坊ちゃんと望んでもいない結婚をさせられるなんて。せめて布都本人が、今回の結婚は不幸じゃないって、理想的な幸せは達成できなくても、それに近づけるように頑張ってみるって、そう言ってくれなきゃ、私は納得できない。
言ってよ。
我は不幸な結婚などしないって、そう言ってよ!
「一輪、お前、いつのまにか入道の頑固がうつったんじゃないか?」
布都は私の力任せな腕をそっと払って、からりと笑った。
「我はとっくに幸せだ。太子様のそばで、誠心誠意お仕えしているのだから、どうして不幸なことがあろう」
「……」
もう、駄目みたい。布都はこの結婚をやめる気もなければ、幸せになろうとする気力もない。
きっとその言葉は嘘じゃないんだろうけど。布都の声は、マリッジブルーなんて言葉じゃ片付けられないくらい、空虚に響くんだ。
どうする、どうする、一輪。
どうしよう、雲山。
どうすれば布都を止められる?
聖様にお願いする? ――そんなの、こないだのお嬢さんのときと同じじゃない。何かあればすぐ聖様に頼ってばかりってどうなの。
お相手の坊ちゃんのお宅に乗り込む? ――駄目だ、私たち命蓮寺はお相手の先の縁談をぶち壊した張本人なんだから、印象最悪だ。門前払いを喰らうだろう。
神子様に直談判する? ――それしかないと思う。だけど、神子様のところに行く前に、私にはまだ、目の前の布都に言わなきゃいけないことがある。
いいえ。本当なら、これは絶対に布都には言ってはいけない。わかってる。
だけど、私にはこれしか布都を救う方法が思いつかない。
「ねえ、布都。あんたがどうしても結婚したくないっていうんならさ、結婚しなくていい理由、作ってあげられなくもないけど」
真面目に話そうと思ったときに限って、へらっと笑ってしまうのはなんでだろう。布都の笑い方がうつったのかしら?
「はあ? もう式の日取りは決まっているのだぞ。今更やめるなんて……」
「出家した人間ってのはさ、半分くらい、この世にいない人って扱いになるんだけど」
布都の顔から笑みが消えた。本当、普段は呑気なくせに、そういうとこだけ神経が敏感なんだから。
――わかってるわよ。地獄に仏様が現れたって、あんたは仏様に縋ったりしないって。あんたの仏教への憎しみは生半可なものじゃないって。あのお嬢さんみたいな頼み事はしないって。
「大丈夫よ。私、これでも一人前の僧侶だから。出家の作法は全部心得てるし、いざとなれば既成事実がものを言うっていうか、お相手も結構古風な考えの家なんでしょ? 当日に花嫁が姿を変えて現れたら、さすがにお相手も考えを――」
「一輪」
それから、私は言葉が続かなかった。
布都が、いままで見たことのない顔をして、私を睨んでいる。
「お前は本当に雲居一輪か? いつぞやの夢の世界の自分とかと入れ替わっているのではないな?」
「ふ、布都」
「時代は目まぐるしく移り変わる、古くさい考えに囚われてなんかやらない、私はいつだって時代の最先端を歩くハイカラ少女だ――そういう生き方をするのが我の知る雲居一輪だ。いまのお前は我よりたったの四百年しか進んでいない。お前が最も忌み嫌う、古くさい昔のしきたりに囚われているではないか!」
みぞおちを殴られたような衝撃があった。
ああ、布都。あんたは私にどんな言葉が一番効くか、憎らしいくらいよくわかってるじゃない。
布都の後ろに、真っ赤な炎の海が見える。かつて桜井寺を焼いたような――数多の仏像や仏閣を灰燼に帰したような、布都の持つ強い怒りと、憎しみと、恨み。
「我は兄も、馬子殿も、太子様も、誰にも恨みをぶつけられない。ただただ、我らを分断した仏教だけが憎くてたまらない。我が縋れるのは太子様しかいないのだ」
布都は、少しでも私が何か言葉を続けようとすれば、雲山もろとも燃やしかねない勢いだった。
「たとえ太子様がどのような矛盾や罪を抱えていても、太子様は我にとっての希望だ。我は太子様の部下だ! お前ら平安の妖怪どもの呑気な考え方で、我ら豪族の血の滲む思いを測ってくれるな!」
ガチャン、と皿が割れる音がした。
布都は私じゃなくて、地面に皿を叩きつけた。さっきの私に負けず劣らず息を荒くして、肩を揺らして。
布都は最後にもう一度、燃えるような瞳を私に向けて、
「式の日取りは変わらぬ。我は、何があろうと逃げはせぬ」
それだけを念を押すように告げて、背中を向けると、走り去っていった。
私はしばらくその場から動けなかった。
結局、出家すれば結婚しなくていいなんてのは、昔の古くさい考え方でしかないんだ。
私も、そういう考え方がまだまだ染み付いて離れないんだ。
「雲山……」
私の相棒は何も言わない。
私は雲山の目を覗き込んだ。
私を責めているわけではない。
同情しているのでもない。
強いていえば、なんだか不安そう――不安? 変なの。雲山は頑固で昔気質だけど、『動かざること山の如し』であんまり動じるタイプじゃないのに。
そのままじっと見つめて、「ああ」と気づいた。
「いまの雲山、私と同じ顔をしているわ」
長く一緒にいると顔つきが似てくるっていうけど、そうか、私と雲山、たまに感情がシンクロするんだ。
「情けないなあ……何やってんだろ、私」
そのまま雲山の腕に顔を埋めても、雲山は何も言わなかった。
情けない。情けない!
千年も僧侶をやってくるせに、こないだは出家を望むお嬢さんを追い返して、今度は出家を望まない布都をむやみに出家させようとした!
こんなのは利他行じゃない。
私の自己満足をただ布都に押し付けているだけなんだ!
信仰は、誰にとっても自由であるべきだ。
それは、何かを信じる自由があると同時に、何かを信じない、あるいは何も信じない自由があるということ。
布都は決して仏教に縋らないって、そんなことをしなくたっても布都は自分で救われるんだって、わかっていたはずなのに……!
だけど私、このままうずくまって泣いてる暇なんてないんだ。
布都と話をして、布都が物部へ抱く帰属意識や愛着を聞いて、ますますこの結婚は阻止しなきゃって思えてきた。
最近の人間の夫婦は姓を、つまり苗字を揃えるのが当たり前となっている。それも妻が夫の方に合わせるのが大半だとか。大昔はそんなことなかったんだけど、明治の頃の新作法とやららしい。近年じゃ『夫婦は別姓でもいいでしょ?』って動きが出てきてるけど、古いしきたりとやらにこだわる人たちはそうもいかない。
布都と結婚する坊ちゃんの実家も、そうなんじゃないかしら。
息子の代だけ、特別に夫婦の別姓を認めてくれる……いいえ、未だに長男に嫁を取らせて家を継がせるなんて言ってるとこが、そんな臨機応変な対応をしてくれるとは思えない。
だとしたら、布都。あんたが何より誇りに思って、大事にしている〝物部〟の名前は、この結婚と同時に消え去ってしまうかもしれないのよ!
「雲山!」
さっと顔を拭って呼びかければ、我が相棒は、それだけで私が何をしたいのかわかってくれるようだ。
「久々の喧嘩よ、相手はただ一人――神霊廟の主人、豊聡耳神子!」
〈幕間 ハイカラ少女の独り言その③〉
雲山、貴方はもう忘れたかしら。あれは私たちがまだ地底にいた頃――といってもつい最近のことで、実を言うと、私の方が忘れかけていた出来事だったのよ。ここ最近の布都の件で不意に思い出したの。
地底は地上のような騒ぎは起こらないにしても何かと賑やかで、人鬼めいたやつが地獄の改革に乗り出したとか、いろいろ新しい風が吹くこともあったんだけど、やっぱりいるのよね、どこにも古代めいた考えの抜けないやつって。
あのとき、私に突っかかってきたそいつは、原因ははっきりと覚えてないけど、えらく私に喧嘩腰で、虫の居所が悪かったのかしら。地底に住む妖怪は荒っぽくて、私たちはつい喧嘩や摩擦を起こすこともあったわね。なんだっけ? 口論の果てに、たしかそいつは『嫁の貰い手のない生き遅れの尼め』みたいな捨て台詞を言ってたような。
いやー、びっくりした。いまどき『女は嫁に行けないとか言っときゃ傷つくんだろ』とか思ってるアホンダラがまだいたんだって。
ええ、私は腹が立つどころか、むしろそいつが可哀想になったのよね。古い価値観をいつまでもアップデートできないで、自分の偏見から抜け出せなくて、いずれ時代の波に埋もれて自然淘汰される運命だわ。きっと幻想郷ですら生き残れないわ。お可哀想にね、なんて思っていたくらいよ。
そう、私はただ呆れていただけで、そんな言葉にちっともダメージを受けなかった。
でも雲山、あんたは違った。
あんたが阿修羅様や毘沙門天様やお不動様や、ありとあらゆる憤怒の形相の仏様を集めたような恐ろしい顔をして、身体も大きく膨らんで、そいつはあっさり怯えて逃げ出した。私はあの妖怪といざこざになったのも忘れて、どうにかしてあんたに罪を犯させまいと、あんたを落ち着かせるのに必死だったわ。
ああ、やっぱり覚えてるの。大変だったんだからね、私はいまにもあんたがそいつを殴り殺すんじゃないかと気が気じゃなくて……小さくならないでよ、もういいのよ。あんたがあんなに怒るのを見て、私は初めて『もうちょい怒ってもよかったかな』なんて思ったの。
……私の名誉を傷つけられるのが何より許せない? そうかなー。あんな木っ端妖怪に乏められるほど、私の名誉は安くないけど。
うん、そう。あのときもいまも私は笑っていたでしょう? あんたが私のことであんなに怒ってくれるの、私は嬉しかったの。
あのね、雲山。私は前々から、あんたに一緒になりたい、結婚したいって思うようないい人ができたら、私は潔く、それでいて鮮やかに『さらば』と告げて、あんたから去って行かなければならないと思っていたの。
……わかってるって。もうそんなこと言わないわ。あんたがどうなっても、私はあんたを置いて離れていかないから。
私はあんたを相棒以上にも以下にも思えないし、たぶんこれまでもこれからも、恋愛めいたトキメキは感じないんでしょうけど。
雲山。雲居一輪は、世界で一番、あんたを愛しているわ!
〈その三 雲海に雷鳴は轟いて〉
「頼もうー!!」
道場破りは、正々堂々正面から。問い慣れた神霊廟の門前で高々と叫べど、神子様は現れない。代わりに足のない幽霊――私にはあまり馴染みのない蘇我屠自古さんだ――が出てきて、
「布都なら××家に行ってるから留守だぞ」
と、ぶっきらぼうに言ってきた。布都は坊ちゃんちか……なら、かえって都合がいいわ。
「いえ、今日は布都じゃなくて、神子様に用があるんです」
「太子様なら奥にいる」
屠自古さんはやっぱり乱暴に言って、去っていった。勝手に上がっていいのかしら。一応、道場破りなんだけど。
言われるがままに中に進めば勝手知ったるなんとやら、神子様の部屋に一直線……と思ったんだけど、あからさまに入れと言わんばかりに扉の開いた部屋があって、明かりと物音が漏れてくる。
「うへー」
そっと覗いてみれば、中にはおびただしい和風あるいは中華風の高級そうな道具の山。どれも真新しくて、なんのために用意したかなんて、考えるまでもない。私はなんだか、源氏物語で浮舟の継父の伊予の介が、実の娘のためにあちこちの高級ブランド品を部屋に所狭しと集めて、娘はブランド品の山の中でちょっと目が見えるくらい、なんて滑稽な光景を思い出してしまった。
でもこの部屋の奥にいるのは、嫁ぐ娘じゃなくて、神子様だ。
「嫁入り道具とは不思議なものだね」
神子様はわざとらしく「おや、来てたのか」とも言わず、調度品のひとつをしげしげと見つめながらつぶやいた。
私はこの調度品と一緒に嫁入りする布都を思って気分が沈んでいたせいか、ちょうど神子様の後ろにある衣紋掛けにかかる真っ白なものを見つけてぎょっとした。花嫁のためのおめでたい白無垢が、まるで死装束みたいに見えた。『結婚は人生の墓場』なんて、誰が言い出したの?
「新たな地に生まれ変わって早数年。しかし女が『嫁に入る』というのは、未だに私には聞き慣れないな」
「私だって聞き慣れませんよ」
つい同調してしまう。だって、平安の終わり頃にはいまでいう『嫁入り婚』もちらほら出てきたけど、古代の結婚といったら男が女の家に通う『婿取り婚』ないし『通い婚』だもの。神子様たちの時代、飛鳥の頃だってそうだったはずよ。
「ま、時代に合わせるのも、現代に蘇った身のさだめかね」
「その『嫁入り』だって、いまや時代遅れになりそうですよ。だいたい『貴方の色に染まります』ってゾッとする文句はなんです? 一方的に足並み揃えろって求めてくるの厚かましくありません?」
「まあ落ち着きなさい。時が経てば時代は変わるよ。現代では嫁入り道具といって、家具やら着物やらを新調して娘に持たせるそうだが」
それは、なんか聞き覚えがある。平安の頃も、女は結婚する時、身の回りの道具を新しく揃えるものだった。
「妙な気分だ。部下でしかなかった布都を、まるで我が娘のように世話するとは。綺麗に着飾った花嫁が、新品の嫁入り道具を携えて、花婿たる男の元へ嫁いでゆく。――その送り出される花嫁こそが、一番の嫁入り道具ではないか?」
瞬間、頭が真っ白になって、すぐに怒りが湧いてきた。
「いま、布都を道具にしようとしてるのはあんたよ!」
思えば『お父さん、娘さんを僕にください』『お前に娘はやらん』なんて定番のやり取りもなんかおかしいもんだ、男ふたりで盛り上がって肝心の娘の意思なんか聞いちゃいない、まるで婿と父の間で娘の所有権の譲渡作業を行うかのように!
「僧侶が他人の結婚に口を挟むのは関心しないな」
「そんなこと、どうだっていいんです! 仏教徒をさんざん謀ってくれたあんたに『僧侶が』なんて、訳知り顔で語られたくないわ! それに、今更私と布都が赤の他人だなんて言い切れるわけないでしょう!」
「一丁前に大口を叩くようになったものだ。それとも何か? お前が代わりに布都をもらいにきたのか?」
「は、はあ!?」
神子様は落ち着き払って(前の布都と同じだわ、主従って似てくるものなんだろうか)、なんならちょっと楽しそうな顔をしてとんでもないことを聞いてくるもんだから、開いた口が塞がらない。
「私の話聞いてます!? そうやって布都を商品か景品みたく扱うのが納得いかないって言ってるんです!」
「そうか。言い方が悪かった。お前は正式な妻問いに来たのかと聞いたんだ」
こ、これだから飛鳥時代の人間の考えることってわからない!
何がどうなったら、私が布都に結婚を申し込むような女に見えるのよー!? どこまでも人の話を聞かないんだから! スセリヒメと結婚しにきたオオナムヂに対するスサノオ気取りか!
もういい。こんなわからずや、力づくでねじ伏せるしかない!
金輪を取り出して外に飛び出せば、神子様も片手を笏、もう片手は剣のつかに添えて、後を追ってくる。
「神子様、勝負です! 私が勝ったら、布都の結婚を取りやめてくれますね?」
「よかろう。だが、私がやめると言っても布都がやると言ったらどうする?」
「そのときは布都にも決闘を申し込む!」
「血の気の多い。僧侶の忍辱はどこへ行ったんだか」
「いつかの決闘みたく、『赤か青か欲しい方を叫べ』って聞かないんですか?」
「私にはたったひとつの未来しか見えない。真っ赤に染まるお前の姿だけがな。どうして敢えて尋ねる必要があろう?」
「あんたが不当に結びつけようとしているふたりの赤い糸を引きちぎってやるためよ!」
決闘の火蓋が切って落とされた。
決着がつくのに時間はかからなかった。
「勝負あり、だな」
余裕綽々に構えているのは神子様ひとり。
私と雲山は、血まみれにこそなっていないけど、力尽きて道場の外に倒れていた。
「気を落とすなよ。布都は幸せ者だ。異教徒とはいえ、お前のような友を持てたのだから」
「……」
神子様の労り文句は馬鹿みたく優しくて、余計に屈辱だ。
「ただし、単なる熱意に絆されてやるほど私も優しくはない。残念だったな。私の計画は、狂いなく進められる」
神子様はそのまま悠々と道場の中へ帰ってゆく。
ああ、私だって全力で挑んだのに、やっぱり神子様には敵わないんだ。
……。
いいのよ、雲山、慰めてくれなくて。
私は泣かない。
どんなに悔しくたって私は泣くもんか。
だって、いま、本当に泣きたいのは私じゃないもの。
「雲山」
いますぐここを出よう。そう言うつもりだったんだけど。
「おい」
ぐしゃぐしゃになった顔を拭う私の真上に、ぶっきらぼうな声が降ってきた。
「コテンパンにやられたな。太子様に挑むなど無謀な真似をするからだ。……ちょっと待て。少し話をしようじゃないか」
不機嫌そうな顔で私を見下ろしているのは、蘇我屠自古さんだった。
◇
慣れだよなー、と思う。
神子様とはもう何度も決闘で手を合わせているから、神子様に対して恐れ多い気持ちなんかちっともなくて、殴りかかるのも怒鳴りつけるのも平気だもの。
だけど、この人は――屠自古さんは。
神霊廟で決闘が行われると屠自古さんもちょっと顔を出すけど、布都や神子様が異変解決であちこち動き回っているときも、屠自古さんはまったく関与していないらしくって、私はほとんど屠自古さんと関わりがない。
布都に言わせれば『あいつは我以上の仏教嫌い』らしく、私や聖様が道場の敷居を跨ぐと『異教徒めが我らのテリトリーに何をしにきた』と言わんばかりにものすごいガン飛ばしてくるから、触らぬ神に祟りなしってことでなるべく関わらないようにしてきた。
だから屠自古さんとこんな風に、縁側に腰掛けて差し向かって話すなんて、どうも慣れないわ。
「ほら」
「……どうも」
なぜか屠自古さんが私と雲山にお茶を出したので、素直に受け取った。さすがに毒入りのお茶を渡す人ではないと思う。
でも、屠自古さんが出てきてから、なんか道場の天気が悪くなってきたのよね。黒い雲が出て……屠自古さんは雷を落とす怨霊だというけれど。菅公の伝説みたいなことをやる気かしら? そりゃあ確かに帝(の皇子)に喧嘩は売ったけど、私は時平じゃないわよー。
「どうした、冷めないうちに飲め」
「あ、い、いただきます」
促されてしまったので、お茶に口をつけた。これ、日本茶じゃないな。大陸の味だわ。和をもってなんちゃらとか言ってる割には神霊廟はいつも大陸の風が吹いているような気がする。神子様の趣味かしら。
温かい飲み物を入れると、傷ついた身体が少し癒されたような気持ちになってくる。雲山ものんびりお茶を啜っていた。
落ち着いたところで、屠自古さんが口を開いた。
「お前、布都の結婚に反対しているらしいな」
「……そういう屠自古さんはどう思ってるんです?」
「勝手にすればいいよ。初婚でもない中古品を貰いたがる好き物なんてそう見つからないんだから、せいぜいありがたくもらわれておけばいい」
「中古品って、あのですね、いくら仲悪いからってそんな言い方……」
「別に仲は悪くない」
じゃ、なんなのよ?
その昔、布都と屠自古さんの間に何がしかのトラブルがあったとは聞いている。いまは和解済みだというけど、その名残は解決しきってるわけでもないらしくて、どうも複雑っぽい。ただ、布都の話だけ聞くと、布都は昔のいざこざをまったく覚えていないようだけど。
だって、思い返せば、布都の昔話には神子様や推古天皇や守屋や馬子は出てきても、屠自古さんはちっとも出てこないんだもの。
私があんまり不躾に屠自古さんを眺めたせいか、屠自古さんは鼻を鳴らして、
「最初からお前に理解されたいなどとは思ってない」
「……ま、そうですよね」
私だってそんな牽制されて土足で踏み込むほど図々しくない。私たち命蓮寺の昔の事情に神霊廟の皆さんが立ち入れないように、私たち命蓮寺だって神霊廟の事情には立ち入れない。当事者にしかわからない事情だってんならほっとくわよ。でも、わざわざ屠自古さんから私を引き留めたのは、布都の話があるってことよね。
「そりゃあね、私だってお節介なのはわかってますよ。布都が結婚する理由は、布都本人が決めればいいんだし。結婚なんて実際は『愛があるから大丈夫』どころか『愛がなくても大丈夫』だとは思いますし。……でも、二度も不幸な結婚をしかけている人をほっとけませんよ」
「お前は布都が不幸になると思っているのか」
「そうでしょう。せめて布都が『私は幸せいっぱいです』って顔をして行くんだったら、私もお祝いできたでしょうけど。……布都は自分のためじゃなくて、神子様のために結婚しようとしているのよ。『我は太陽神の贄じゃ』とか言って」
「あいつ、まだそんなことを言ってるのか」
屠自古さんはうんざりしたようにため息をついた。
「あいつは、昔っから何も変わらない……いつだって、太子様の腹心の部下でありたがる」
そういう屠自古さんは神子様への忠誠心について、布都に張り合っているようにも見える。当時の神子様、そんなに魅力的だったのかな。聖様もいまではすっかり神子様に信頼を預けているみたいだけど、私はどうにもね。
まあ、それは私が口を極めて言葉を尽くして、いかに聖様を尊敬しているかを布都に語ったところで、布都にはほんのわずかしか理解できないのと同じことよ。
「大方、あいつは兄をはじめとした物部の一族が滅んだことについて、誰も恨んでいないとか抜かしたんだろう」
「はい」
「お前、それを信じたのか?」
「少なくとも、嘘をついているようには見えませんでしたが……」
「そうだろうよ。あいつ、昔の記憶は中途半端に忘れたままなんだ」
屠自古さんはまたため息をつく。そういえば、復活したての布都は時差ボケがどうのとか言っていたような気がする。それがまだ治ってないんだろうか。
「布都は、太子様に忠誠を尽くす傍らで、本心では納得してないんだよ。蘇我より物部に勝ってほしかった。最愛の兄に生きてほしかった。布都がそれに気づいたときには、もう一族を太子様に捧げた後だ」
なんだか落ち着かない気持ちになって、お茶をちびちび啜った。
布都が同腹のお兄さんを大事に思う気持ちは、理解できなくもない。昔は男の人が女の人の家に通う結婚形態だから、生まれた子供たちは母親単位で集まって育つのよ。たとえ父親が同じでも、母親が違うきょうだいとは縁が薄くなるのも珍しくない。何せ、平安生まれの私には理解できないけど、飛鳥の時代は腹違いならきょうだいでも結婚オーケーだったみたいだしね。
だからこそ同母きょうだいの絆は、伝説のサホヒメのように、ときに夫婦の絆より深く強くなる。
サホヒメなら愛と愛のせめぎ合いだったけど、布都は理想と愛のせめぎ合いだったわけね。もちろん屠自古さんの話には屠自古さんのバイアスがかかってる可能性もあるけど、布都が自ら滅びに導いた守屋を愛してたってのは、信じる気になってきた。
「あいつは何があっても太子様は恨めない。太子様こそが自分にとっての希望だと、信じているから」
「……そうですか」
「だけど、布都が恨みをぶつける相手ならいたんだよ」
屠自古さんはじっと私を睨みつけてきた。髪の毛が逆立って、同時に屠自古さんの、肉体のない幽霊の足がゆらゆらと揺らめく。
確か、屠自古さんも神子様や布都と同じように尸解仙として復活する予定だったのに、器を――壺を布都に壊されて、亡霊になってしまった。なんで布都がそんなことをしたのか、原因はわかっていないというけれど。
布都は本心では蘇我に恨みを抱いていて、それを屠自古さんにぶつけたのだとしたら?
「でも、どうして……」
「蘇我馬子ではなかったのかって? 不可能だったんだ。太子様は尸解仙になる準備を進める一方で、自らの死後の政の行く末も絶えず案じていらっしゃった。太子様の御子たちはいずれも年若い。太子様は炊屋姫……推古天皇と、馬子に政を託した。ゆえに布都は私怨で馬子を殺せない。ただでさえ、生涯愛を返せなかった負目のある夫なのだから」
「……」
「まあ、私も昔はずいぶん布都をどやしたからな。私の自慢の兄に、お前はなんの不満があるんだって」
兄? ってことは、屠自古さんは……蘇我馬子の妹なのか。ここまできたら、私の知ってる歴史とどうズレていても驚かないわよ。
「ええと、じゃあ、貴方は刀自古郎女ではない?」
「もし太子様が本当に男だったら、私が栄えある皇太子妃だったかもしれないね」
屠自古さんは勝気に鼻を鳴らした。神子様への忠誠心や敬愛も本心なんだろうけど、その笑みには野心的な自信に溢れている。愛より一族の繁栄を望むタイプか。いかにも豪族の娘らしいわ。
飛鳥時代の蘇我氏が、平安時代の藤原氏よろしく、娘を皇族に縁付かせて生まれた子供を……って企んでたんなら、女の神子様に馬子が妹を結婚させるわけがないか。それじゃ、聖徳太子の妃と後世の私たちが知る人たちは、当時としてはあやにくな結婚をした人だったのかしら。それとも、それすら神子様たちの作った嘘?
それはともかく、布都にとって、神子様は恨む対象じゃなかった。馬子は生かさなければいけない相手だし、恨みをぶつけるには罪悪感が邪魔をする。なら、他には……馬子の妹で、蘇我の娘で、神子様の部下である屠自古さんしかいない。
屠自古さんの目が細められる。
「確かに我が兄は、守屋のような血気盛んで喧嘩っ早い男ではなかった。蘇我の誇りを持ち、人並みの野心はあれど、どこまでも臆病で、素直な……産土の神々の力が弱まりこのままでは国の行末も危ういと言われればそれを信じ怯え、その代わりになるのは異国の仏しかないと言われれば……私には理解し難いが、素直に信仰し、娘を皇族と娶らせて蘇我の力を強めるのがそなたの役目と父に言われれば信じ全うし、太子様こそがゆくゆくは国の頂点に立つ救世主だと言われれば忠誠を誓う。少々頼りないと言われれば否定はしない。だが私からすれば、守屋みたいな短気で横暴で血の気が多い男よりも、兄のような温和な男の方がずっと好ましい」
そういう屠自古さんも短気に見えますよ、とは言わない方がいいんだろうな。結局、屠自古さんも布都も身贔屓なのよ。自分の身内がよく見えて評価が甘くなってしまうのよ。それに屠自古さんも最後は兄を選ばない。この人もサホヒメにはならないのね。
「布都だって、馬子さんの人となりを理解していなかったわけじゃなさそうですよ。ただ、兄を殺した男は愛せないと言っていましたが」
ふっと、屠自古さんは嘲るような笑みを見せた。
空がどんどん暗くなる。ゴロゴロと雷の音がした。
「私と布都はよく似ていた。名だたる豪族の娘で、一族の長となるべき兄を持ち、太子様の理想に憧れ、同じ夢を見た同志だ。だからこそ、布都はどうしても私の足を引っ張りたかったんだな。私を騙して邪魔をして、お前も同じ苦しみを味わえと呪いながら……自分ひとりだけ、大昔の因縁も怨恨も綺麗さっぱり忘れやがった!」
目を焼くような閃光が瞬いて、凄まじい轟音が道場に鳴り響いた。気がついたら私も雲山も屠自古さんも、大雨に打たれていた。
空を駆ける雷(いかずち)が青白く閃くように、屠自古さんの目にも青白い光が揺らめいている。
ああ、どうしよう。並の怨霊だったらお経を唱えられるけど、仏教嫌いの怨霊なんて、僧侶の手には余る。時平よろしく太刀を引き抜いて挑むわけにもいかないし。
こういうとき、ムラサだったらもっとうまく対応できると思うのに。仏様に帰依しながら、いまでも怨霊の仲間みたいな舟幽霊であり続けるあいつなら、あるいは屠自古さんに寄り添うすべを持っていたかもしれないのに。
「屠自古さんは」
それでも確かめずにはいられないことがあって、口を開く。
「屠自古さんは、布都を恨んでいるんですか。大事なお兄さんを愛さず、屠自古さんを亡霊にしてしまった布都を……」
「違う!」
屠自古さんの悲鳴に似た声が響くのと、雲山が私を守るように覆い被さるのと、雷が私たちのすぐ近くの木に落ちるのが、ほとんど同時だった。
「私はいまも、布都を恨んで……いや、憐れんで……いや……」
屠自古さんは呆然と空を仰いだ。泣いているように見えるのは、雨のせいだろう。
それは『人も惜し人も恨めしあぢきなく世を思ふゆえにもの思ふ身は』といった心境なのかしら。
前にムラサが言ってたっけな、『人の心の中は、必ずしもひとつの感情だけで埋め尽くされるわけじゃないのよ。過去の恨みに縛られる気持ちと、そんなことはもう忘れて前に進もうって気持ちが、矛盾なく同居することもあるの』って。
屠自古さんは、布都を恨んでもいるし、憐れんでもいる。その状態は、屠自古さんにとってはなんの矛盾でもない。
「わかっているんだ。布都が兄上を愛せなくたって、私が恨む筋合いはない。一族の仇敵を愛せなどと酷な話だ。私だって、結局は兄のそばでなく太子様に追従する道を選んだ。ただ、布都を一途に愛した我が兄を思うと……布都が石女だと判明して、余儀なく娶らされた女を〝太媛〟と呼び、生まれた娘に〝刀自古〟と名付けた兄上の心を思うと、私は……その娘すら、兄上は一族のために……」
雲山が目を伏せた。気の毒だ、と呟いたのが聞こえたのは私にだけだろう。その言葉が、屠自古さんでも布都でもなく、馬子に向けられたものだとわかったのも、私だけだ。
とんでもないことを聞かされている。馬子の娘〝刀自古郎女〟が聖徳太子の妃になった、それは間違いではなかったの。布都の実の娘ではなかったというだけで。
でも、たとえ布都にかつて夫がいて、石女であったとしても、それが布都にとってなんの傷になるだろう?
「鏡を割るようなものだ。横にひび割れた鏡……そこに映る自分の姿を見まい、と」
それは、屠自古さんが魂を移す予定だった壺のことか。
しばらくして、雨が少しだけ弱まった。
「時々、考えることがある。贄になるのが守屋ではなく我が兄で、物部が栄華を極める傍らで蘇我は日陰者で、私が布都にやり場のない恨みを募らせていたのなら……すべてが逆しまであったならば、私の方が尸解仙になっていて、布都の方が怨霊になっていたかもしれない、と」
そうつぶやいた屠自古さんの横顔は、ヘタな隠者よりサトっている。口には出さないけど。
思えば屠自古さんは神子様や布都と違って、ただひとり、長年の眠りについていなかったんだ。厳密には青娥さんもだけど、あの人は屠自古さん以上に道場で見かけないからよくわかんないのよね。
眠らないぶんだけ、屠自古さんには一四◯◯年分の経験が積み重なっているはずだ。だからかしら。屠自古さんの顔つきが、神子様や布都とは異なって見えるのは。
「一四◯◯年だ。恨みが薄れるには充分な時間だ。実際、私も布都ももう仲良くやれているんだ。……こんな落雷を目の当たりにしては、信じられないかもしれないがな」
「信じますよ」
屠自古さんは目を瞬いた。
ムラサ、あんたに感謝するわ。あんたは前にこうも言ったっけ、『誰かを恨む感情は、長保ちしないの』って。
――過去には、誰も介入できない。
私たち、命蓮寺の妖怪が封印されたことがなかったことにできないように。布都や屠自古さんや神子様にあったことを、布都たちより未来に生きていた私たちがすべて知るのも、おそらくできない。
私に布都と屠自古さんの不可解な関係が理解できなくたって、無理はないんだ。そもそも布都たちは私の生まれる四百年近く前に生きていた人間なわけで、四百年ぶんのジェネレーションギャップを埋めるなんてハードルが高い。
知らなくてもいい、と思うのは怠慢かしら?
すべて知り尽くそうとする方が、よっぽど傲慢だと思うけど。……まあ、布都に『お前の物差しで測るな』と突っぱねられた件に関しては、お前がいままで知ろうとしなかったツケが牙を剥いたのだと言われたら、そうかもと思ってしまうけど。
たとえ、布都が昔の記憶が曖昧になってしまっていても。
屠自古さんが恨みをすべて断ち切ることも保ち続けることもできずに、亡霊として留まっていても。
本人たちが『別にいい』と言ってしまったら、私にできることは何もない。
それでも、私にとって、布都は友達だ。たとえ理解のできない異教徒でも、私が生まれる四百年前の古代人でも、一族を破滅に追いやり同志を亡霊にした罪人だとしても、友達なんだ。
「思うに、人間は歴史という大河の中で流れる石っころだ」
屠自古さんはまたぽつりと言う。いつのまにか雨が止んでいた。
「我が兄が蘇我の繁栄を長引かせても、結局蘇我は中大兄皇子らに逆賊として誅されてしまった。いまでは蘇我も物部も等しく逆賊だ。たとえ私と布都がそれぞれ最後の生き残りになっても、歴史はすでに私たちを拒絶している。流れに身を任せようが、抗い爪痕を残そうが、同じこと」
なんて、歴史に名前を残した側の屠自古さんに言われてしまったら、普通の人はなんて答えればいいんだろうね?
私たち、命蓮寺の妖怪は、歴史を動かす人間じゃない。弟様と聖様がちょろっと絵巻の題材になった程度で、弟子の私たちはそのオマケ。
歴史を動かして名前を残す人間には相応の苦労があって、その本心を打ち明けられる相手は私のような一介の僧侶でなく、神子様のような偉大な人物なのでしょうね。
だけど歴史は、お偉いさんだけで動くものじゃないわ。歴史書のどこにも名前が残らない、取るに足らない、ただ生まれて死んでゆくだけのような人たちにだって、草の根の力ってやつがあるのよ。
だから、私は怯まない。口をつぐまない。
「どうせなら、大河の奔流に流されまいと、大波に挑む船の水夫でありたいものです」
折しも雨に打たれていたせいか、私と雲山と屠自古さんは揃って荒波の底から顔を出したように見えなくもない。
聖様を乗せるためにとムラサが名付けた聖輦船。その船が間欠泉で地上に押し出されて、晴れて私達は地上にいた星と合流し、魔界の聖様を助けに行くことができた。
そうよ、自分の人生の舵は、自分で取らなくっちゃね。
屠自古さんの顔が明るくなった――といっても、笑ったんじゃなくて、雲の切れ間から日が差したためだけど。
「そういえば、あいつも船を漕ぐんだ。お前が乗りたいと言ったら喜ぶだろうな」
「天磐船でしたっけ。本当に、布都は一族に愛着を持っているわ」
「お前は雲居一輪といったか。そっちの入道は雲山と。坊さんなんぞと友達になる布都の気がしれなかったけど」
屠自古さんは私の目を見て、意地悪く笑った。
「やっぱり、私にはさっぱりわからんな」
「そうでしょうね」
そりゃあ、ほんのちょっと雑談した程度でわかられても困る。屠自古さんは布都と自分が似てるっていうけど、私にはいまいちピンとこないし。布都の昔話を聴かせてくれたのはありがたかったけど。
屠自古さんは空になった湯呑みを三つお盆に乗せて、『あんまり長居するなよ』と残して道場の奥へ引っ込んだ。私としてもいつまでも商売敵の本拠地に居座っていたくないので、雲山に乗って道場を後にした。
「ねえ、雲山」
人里の上空で、雲山にこっそり話しかける。
神子様には完敗したし、屠自古さんには……なんだろ、諭されたわけじゃないと思うけど、かといって認められたわけでもないし……布都のことを話したけど、だからっておめおめ諦める私じゃない。
「私、布都の結婚式をぶっ壊してやろうと思うの」
そっと、空の上でも誰に聞かれているかわからないから、雲山にしか聞こえないように告げる。私はもう腹を括った。
雲山はさして驚きもせずこっちを見つめた。そう言い出すのはわかってた、とでも言いたげだ。
「これは酒を呑むのや妖怪として悪さをするのとはわけが違うわ。下手したら、聖様に破門されるかもしれない。最悪、私はそうなってもいいと思ってる。だけど、雲山。あんたは……貴方は、私に無理についてこなくたって、」
私の口を、雲山の大きな手がそっと覆った。それ以上は言うな、と。
「あのね、私は貴方を巻き込みたくないの。いつも一緒だからって、雲山まで罪を被ることはないわ。貴方はお寺に残る道もあるのよ?」
雲山は黙って首を横に振る。こういうときの雲山はテコでも動かないって、私が一番よく知っている。
「馬鹿ね。本当にいいの?」
雲山は、自分だって今回の件には納得いかないんだ、無理を通して道理を引っ込める真似は見逃せないと言った。
だったら、私ももう何も言わない。雲山の大きくて逞しい手に抱きついた。
――我らは一蓮托生。どこまでも、どこまでも、運命を共にしよう。
千万の兵が味方してくれるより、たったひとりの雲山がそばにいてくれる方が、ずっとずっと心強いわ。
そう、雲山がそばにいる限り、雲居一輪は決して孤独にはならないのよ。なんて素敵なんでしょう!
「雲山、一旦隠密行動よ」
やる気がもりもり湧いてきてさっそく耳打ちすると、どこへ、と言うから「人里」と答えた。
結婚式までまだ日は残されている。
神霊廟側にアプローチして駄目なら、今度はお相手の坊ちゃんちに行くしかない。
といっても、さすがに神子様相手にやったような正面突破は無理だ。うまく人間の中に紛れて、坊ちゃんちの内情を探るのよ。
そして、私のこの計画は、聖様をはじめとした命蓮寺の仲間にも気取られないようにやらなきゃならない。しばらくは、命蓮寺でも何事もなかったかのように振る舞いましょう。何か聞かれたら『布都と喧嘩した』って正直に言えばいいわ。嘘じゃないし、私と布都が喧嘩になるのはいつものことだから、誰も怪しみやしない。
いいわね、雲山? ひっそりと、それでいて大胆に。いまこそ苦い地底時代の経験を思い出すのよ!
〈幕間 ハイカラ少女の独り言その④〉
『女の友情は紙より薄い』とか言い出すやつは紙ゴミにまとめて捨てればいいと思うんだけど、私にとっての友達って、ムラサとか、星とか、ナズーリンとか、なんていうか、家族件仲間件友達って感じなのよねー。雲山? 雲山は唯一無二の相棒に決まってるじゃない。
仕方ないわ、ひとつ屋根の下に住んでる者同士だもの。だから、お寺の外で出会った布都は、私にとってはかなり純粋に友達らしい友達なのよ、あれでも。
とはいえ、気心の知れた付き合いの長い間柄の居心地の良さはやっぱりいいもんだ。
「星、ヒマ?」
「本を読む時間は暇な時間ではないのよ」
星は書物から目を離さずに答えた。つまりお勤め中ではないってこと。急用なら聞くけど無駄話は勘弁してほしいわって感じの態度。
星は何を読んでいるのかと思えば、例によって『源氏物語』。巻名は……。
「うわっ、総角」
「うわって何よ、失礼な」
「だって大君死ぬじゃん」
「そりゃあこれだけ長い話で帝の代替わりもあるんだから死人だって出るわよ」
「そういう通りいっぺんのことを言ってるんじゃないの、この辺りの深い霧に包まれたような湿っぽさがなんか苦手なのよ」
いやね、宇治十帖自体は悪くないし、賛否の別れるラストも私は最高だと思うけど、光源氏がいた頃より全体的に湿っぽくて、読んでて気が滅入るシーンが多いのも否定できないのよね。
で、私はこの宇治の大君――宇治十帖のヒロインのひとりが、自己犠牲的な言動のわりには自分本位な感じがしてあんま好きじゃないんだけど、星はこういう女性こそを「まさに理想」と惚れ惚れ見上げるようで、迂闊に悪口を言ったら対立しかねない。というか源氏の話を始めると、ムラサもマミゾウさんも、またいみじくも聖様まで「一言でも意見を投じなければ気が済まない」といった感じで侃侃諤諤の大論争になっちゃうから、いつもはあたりさわりのない感想で済ませるのだった。しょうがないわ、平安生まれってみんな源氏が好きなのよ。
「ま、大君が死んで終わるのはあんまり納得いかないけど、大君が薫との結婚を避けたのは賢明だったと思うわ」
「そうね。匂宮と結婚した妹の中の君は、結局苦労が絶えないし」
「というか源氏物語に幸福な結婚なんてあったっけ?」
「あった……かしら……?」
星と私と、ついでにあんまり源氏が得意じゃない雲山と額を寄せても答えは出ない。最初は幸福そうでも途中でヒビが入るとか、馴れ初めが最悪でその後なあなあで受け入れるようになるとか、そんなパターンが多いのよね。紫式部、もしかして結婚不信だった?
「――さりとて、かうおろかならず見ゆめる心ばへの、見おとりして、我も人も見えむが、心やすからず憂かるべきこと」
星は大君の心内文を口ずさんだ。『いまは愛情深く見えても、だんだんお互いに幻滅してしまうのが頼み甲斐なくつらい』って言ってるのね。愛情なんか儚くて頼りにならないわって。
「真面目そうな薫に対してもこう考えるのだから、立派だと思わない?」
「私は未婚の、しかも山奥育ちのお姫様がそこまで男女の世の中の情に詳しげなのが不自然だと思うけど」
「それは聡明な大君の洞察力よ」
「ならそれは大君贔屓のあんたの欲目よ」
とまあ、私の大君への見解はこんなもんなので、星は残念そうに肩をすくめた。
「同じ物語を読んでいるはずなのに、意見が合わないわね」
「同じ感想しか出てこないなら源氏はつまらない物語ってことになっちゃうわ」
「そうね」
その点だけは解釈が一致した。どんなに贔屓の登場人物が被らなくても、読み方が食い違っても、源氏が好きってのは同じだからね。
「なあに、星?」
気がつくと、星はなんだか眩しそうに目を細めている。
「紫式部は源氏物語を書いたために、数多の人々の心を惑わせ、嘘をついてはならない不妄語戒に触れて、地獄に堕ちたとされるわ」
「あー、そんな伝説もあったっけ。紫式部も気の毒にねえ」
「すべての物語は嘘っぱちだらけ、絵空事の並べ立て。僧侶が真面目に読むべき書物じゃないのは確かね」
などとすべての作家が憤慨しそうなことをのたまいながら、星はそっと優しい指先で表紙の和紙をなぞる。
「それでも、物語の中の、ここには存在しないはずの人々がまるで懐かしい知己のような錯覚を得て、女人たちの魂の叫びを聞く心地がして。私は絵空事の物語を紐解くのをやめられないのよ」
と言った。ああこれは、とピンときた。
星といた時間は、雲山やムラサやナズーリンより短い。星が封じられた私たちの元へやってきたこともあるけど、毘沙門天の代理と宝塔を託された星はやっぱり地底より地上にいた方がいいと判断して、私たちで追い返してしまった。
私たちが地底に封印されていたあの頃、地上にいた星は数多の物語をたどりながら、星のそばにいなかった私たちを思い描いて、埋まらない寂寞を慰めていたのね?
「そんな顔しないでよ、一輪。みんなが私の心の中にいたから、私はひとりじゃなかったのよ」
「星、あんたってそんなに友達甲斐のあるやつだったのね。ごめんね~、私ってば地底にいた頃、あんたのこと『実はこっそり裏切ったんじゃないか』ってちらっと疑ったことがあったのよ~」
「あら、今更そんなメロスの告白じみたことを聞くなんて。いいのよ、私も貴方たちを疑わなかったかと良心に問いただせば嘘になるもの」
「なんなら私のこと殴っていいわよ~。そうでなきゃあんたと友情のハグをかわす資格すらないように思えるのよ」
「嫌よ、暑苦しい。そんなことしたら私も貴方に殴られる羽目になるじゃない」
「あんたもうちょっとフィジカルを鍛えなさいよ」
「私は宝塔があればいいの」
非武闘派の友達はそうやって笑うのだった。
家族との境目が曖昧な感じだけど、気心の知れた友達と昔の思い出だの好きな本だのの話をするのはいいものよ。幻想郷に来てから知り合った布都とはどうしたってこうはいかないからね。
そう、布都とは源氏の話なんかしない。
自分が眠ったあとの書物にもいろいろ興味を持って読みはするみたいだけど(お菊さんを知ってるくらいだし)、源氏物語は「長い」の一言で断りやがって、「お前ふざけんな」と喧嘩になったっけなー。
それじゃなんの話をするのかって言ったら……。
……。
あれ?
あんまり思い出せない。雲山はどう? ……はっきりしないなあ。やだなー、布都のボケがうったわけじゃあるまいし。喧嘩したことはいっぱい覚えてるけど。
つまるところ、私と布都は大して記憶に残りもしない、取るに足らない話ばっかしてるってことか。む、無益な。宗教家ともあろう者が。
でも、いっか。
記憶に強くは残らないけど『楽しかった』『腹立たしかった』って思い出がぼんやり残るような相手がいるのも、悪くないもんよ。
それに、私からすれば、物部布都という仙人こそが、私の読んだ昔物語の登場人物そのものだもの。誰だったかしら、『歴史とは過去と現在の対話である』とか言ったのは?
星の言うように、私はあるいは、布都と会話し交流することで、物語の中の人物を身近な友達にしているのかもしれない。
〈その四 今日までの自分を〉
お忍びで人里に来るのは、今回が初めてじゃない。
まあ、ほら、その、般若湯……ああもういいわよ、お酒! お酒をひっそり調達しに来るの!
だから私も雲山も、命蓮寺の妖怪僧侶だとバレないように姿形を偽って忍び込むのは慣れたもんだ。
私の方からわざわざ坊ちゃんちのことを道ゆく人に聞かなくても、さすが人里の名の知れた名家、噂は簡単に入ってくる。
『あの坊ちゃん、とうとう嫁さんを迎えなさんのか』
『おめでたいねえ、なにせたったひとりぽっちの跡継ぎ息子だから、親御さんもやきもきなすってたろう』
『しかし仙人のお嫁さんとは、また変わってるねえ』
『いやいや、ただの仙人じゃない、なんといってもあの聖徳太子様のお弟子さんだ、坊ちゃんに不釣り合いなんてことはないだろう』
『もしかして坊ちゃんがいままで数々の縁談を突っぱねてたのは、大きな鯛を釣り上げるためだったのかしら? 策士だこと』
『しかし、最近は肝心の坊ちゃんをあまり見かけないような』
『旦那様が嫁を取る心構えを連日叩き込んでらっしゃるとか』
『ああ、あの厳格な旦那様ならやりかねませんね』
『奥方様も女中の数を増やして万全のお支度をなさるおつもりだとか』
『おお、怖や。いつの世も姑は花嫁修行の名目で嫁いびりをするものだからねえ』
『これ、滅多なことを言うでないよ』
とまあ、みんな言いたい放題言いまくってるのだった。人間って、どうして昔っから他人の色恋沙汰に興味津々なのかしら。
噂話に尾鰭は付きものだけど、その中でも坊ちゃんが滅多に屋敷の外に出なくなったってのは本当みたいだ。
私も怪しまれない程度にお屋敷付近をうろついてるんだけど、坊ちゃんらしき人(私は坊ちゃんの顔や姿形を知ってるわけじゃないけど、見ればわかるはずなのよ)はちっとも見かけない。
うーん。どうにかして坊ちゃんとお屋敷の外で直接コンタクトを取れたら、どういうつもりで縁談を受けたのか、布都をどう思うのか、結婚をやめる気はないのか、問い詰めてやれたんだけど、それは難しそうかも。
いっそ女中に変装してお屋敷に忍び込むか!? とも考えたけど、それは雲山に『寺のみんなに怪しまれる』って止められたし。
肝心の坊ちゃんに接触できない以上、結局は、日をまちまちに置きながら何度も人里に通って噂の情報をひとつひとつ精査するしかないのだった。
「――あら?」
今日もまた目ぼしい収穫はなかった、と命蓮寺へ戻る途中のことだった。
人里の若い娘さんが、私をじっと見つめてきた。
え、な、何? まさか変装がバレたとか?
嫌な予感とは当たるもので、その娘さんはぱっと顔を輝かせ、
「一輪さん! 一輪さんじゃありませんか!」
大声で話しかけてくるもんだからぎょっとした。お忍びで来てるのに本名を呼ばないでよ!
「一輪さーん! お隣は雲山さんでしょう?」
「わかったから呼ばないで、シー、シーッ!」
こうなったら無視するわけにもいかないので、人が集まってくる前に娘さんに駆け寄って必死に声を抑えるように頼み込んだ。
まったく、妖怪が変装して人間のテリトリーに忍んでたら素知らぬフリをするのが人間のマナーってもんなのに(その逆も然りよ)、無粋なことをするのはどこのどいつだ……と思ったら、なんだか見覚えのある顔だ。服装こそありふれた人里の娘だけど、よく見れば美人なお顔立ち。
うん? 待って、この意志の強そうな表情は!
「貴方、あのときのお嬢さん!?」
「はい! いつぞやは大層ご迷惑をおかけしました」
娘さんは深々お辞儀をする。びっくりした、顔は汗だく、着物は質素になって、髪型も島田から無造作なひっつめ髪に変わってるけど、いつか命蓮寺に「尼にしてください」と駆け込んできたお嬢さんだった。
「今日はどうなさったんです? 布教活動、ではありませんね。袈裟を着ていませんもの」
「いやいや、お嬢さんこそどうしてこんなところへ? 実家はどうしたんです? ま、まさか、例の駆け落ちに成功して……」
「お嬢様、どうしたんです?」
そこへ見知らぬ男の人の声がした。
「あなた、こっちへ来て、私の恩人様よ」
お嬢さんに手招きされてやってきた男は、歳は二十代半ばかしら、質素な着物ながらよく日に焼けた精巧な顔つきの、いかにも農村の息子って感じだった。
「紹介します、私の夫です」
「はじめまして」
「え、ええ、はじめまして」
流れでお辞儀を返すと、男の人は白い歯を見せて笑う。
えーっと、お嬢さん、この人のこと〝夫〟って言ったわよね?
だけど、お嬢さんが恋してたのって、丁稚奉公の少年よね?
この人はどう見てもお嬢さんより歳上の大人の男性で、しかも明らかに百姓の風格で、とても高貴なお屋敷の下働きをしてる風じゃない。
「お嬢さん、この人は……」
「あ、その、順を追って説明しますわ」
お嬢さんは恥ずかしそうに、声をひそめて事の顛末を聞かせてくれた。
お嬢さんは縁談から解放された後、例の相思相愛の丁稚奉公の少年と駆け落ちを試みた。
けれどお嬢さんたちの計画はあっさりご実家に見抜かれ、即座に連れ戻された挙句、少年は屋敷から追い出されてしまった。失意のまま、お嬢さんは「もう死んでしまおう」と宛てどなくふらふら彷徨っていた(余計なお世話かもだけど、お嬢さん、行き詰ったらすぐに死のうとするのはよした方がいいんじゃない?)。
それをすんでのところで引き留めたのがこの青年だった。若い女がひとりで真夜中に出歩いているのを怪しみ、心配し、人里の外へ出て行こうとするのを止めて自分の家へ案内したらしい。
青年はお婆さんとふたり暮らしで、ふたりは寄る辺のないお嬢さんにとても親切にしてくれた。おふたりの優しさに心を打たれたお嬢さんは、どうせ実家には帰るつもりはないのだからと、青年と一緒になる決意をした。お婆さんも綺麗なお嬢さんが孫の嫁になるのを喜んでくれた。
うん、いい話だ。お嬢さんの素性も身元も疑わないまっすぐさ。心身ともに弱っていたところを助けてくれた人にお嬢さんが心惹かれるのも、無理はないと思うんだけどさ。
「あの、お嬢さん、あの少年と結ばれないなら『決してよそに嫁がぬ』という固い契りは……?」
「あら、私、そんなこと言いました?」
お嬢さーん!! 若さゆえの情熱に身を委ねて行動するのもいい加減にしなさいよー!!
……と、けろっと笑っているお嬢さんに危うく怒鳴ってしまうところだったけど、ぶっちゃけ気持ちはわからなくもない。
「貴方を忘れない」なんてさ、その時は本気でそう思ってても、後になったら意外と忘れちゃうのよね。どうせこのまま丁稚奉公の少年に操を立てても、お嬢さんが報われる保証はないんだし。薄情とかじゃなくて、人間はそもそもひとつのことだけ一途に思い遂げるようにできてないんだわ。
余談だけど、追い出された丁稚奉公の少年の方はどうなったかというと、後で聞いた話では、お嬢さんと引き離されてそう月日の経たないうちに、身分相応の娘さんと恋に落ちてめでたく結ばれたらしい。……うん、なんていうか、ある意味お嬢さんととてもお似合い。
ちょっと雲山、何よその目は。女の子にばっか貞操だの貞淑だのを求めるのはよくないことよ。和泉式部や後深草院の二条みたいな恋多き女の人生も楽しそうじゃない。
「あの、余計なお世話ですけど、いまのお嬢さんはお幸せですか?」
「ええ。私、畑仕事なんて初めてなんです。すぐ泥だらけになるし、虫に刺されるし、日にも焼けるけど、こんなお日様の下で何時間も身体を動かすのって楽しくって。私、こう見えて、力仕事だってできるんですよ、ねえ、あなた?」
「はい。お嬢様はよく働いてくれます。炊事も洗濯も、下働きの人間がやるようなことも進んでやってくれて、祖母も『働き者の別嬪な嫁さんが来てくれた』と喜んでいます」
ニカッと白い歯を見せて笑う爽やかな青年は、本当にお嬢さんを大事に思っているみたいだ。とっくに結婚してるのに『お嬢様』なんて呼ぶのもベタ惚れっぽいし。
まあ、なんだ。幸せならオーケー、なのかな? 少なくともお嬢さんにとっては、かつてのようなお琴だお花だお裁縫だのを家の奥で何時間も仕込まれる生活よりは楽しいみたいだし。真っ白だった肌は小麦色になって化粧も薄くなったけど、血色はよくなって、前よりずっと元気そうに見えるし。
お嬢さんに対する感情は、共感半分、呆れ半分。もしかしたらこの情熱的で自由奔放なお嬢さん、あと二回くらいは結婚と離婚を繰り返すかもねーとも思うけど、でも、不思議とお嬢さんはなんとかやっていけそうな気がするんだなあ。
「ところで、いちり……いえ、貴方はどうしてこちらへ?」
「ええと……」
私は打ち明けていいもんか迷ったけど、思えば例の坊ちゃんは元はこのお嬢さんのお見合い相手だったんだし、もしかしたらお嬢さんは何か知ってるかもしれない。お嬢さんだけに聞こえるように耳打ちすると、「まあ!」と声を上げた。
「あのお屋敷ですか。まさかそんなことになっているとは、思いもしませんでしたわ」
お嬢さんは懲りもせず強引な縁談を進める坊ちゃんちに苛立ちを見せたあと、
「あの、その件につきまして、私から申し上げるべきことがございます」
お嬢さんが夫の青年に目配せすると、青年は察して家の中に戻っていく。気の利く人だ。
夫の姿が見えなくなると、お嬢さんは姿勢を正して私に向き合った。
「確かに私も、例のお坊ちゃんについては、女性の選り好みの厳しい殿方だと聞いて、良く思っておりませんでした。ですが、破談のときに一度ちらとお伺いして、なんとなくわかりました。お坊ちゃんがああも我儘を通されるのには、どうも事情がおありのようなのです」
「え?」
「実は……」
お嬢さんは辺りを憚って、「あくまで、私の考えに過ぎませんけど」と前置きした上で、さっきの私よりもずっと注意深く打ち明けた。
「お、お嬢さん、そのお話、確かなの?」
「ですから、私の考えに過ぎませんわ。お相手のご事情もあるでしょうし、安易な決めつけはできません。でも恋する者同士の勘といいますか、私にはそうとしか思えないというか……むしろ、そう考えればすべてに合点がゆく気がしてならないのです。もしかしたら、お坊ちゃんの召使いのお兄さんも、事情をご存知かもしれません」
仰天した、青天の霹靂とはまさにこのこと。
そんな、道理で高望みをしてくるはずだわ。とんでもないワガママ坊ちゃんだと思ったら、初めっから妖怪だろうが人間だろうが、どんな女の人とも結婚する気がないんだもの!
「それじゃ、この結婚、布都はおろか、相手の坊ちゃんも望んじゃいないのね?」
「そうです、誰も幸せになんかなりません!」
冷や汗が流れる。こりゃ大変だ。なんとしてでも坊ちゃんに真偽を問いただしたいけど、事が事だけに、踏み込むのは慎重にならざるを得ない。
うん、待てよ? 私たちはともかく、すべての欲を知る神子様が、これしきの事情を悟れないはずがない。
つまり神子様は、知ってて素知らぬ顔でこの縁談を進めてるってこと?
なんて恥知らず! 暴君! 邪智暴虐の王! 呆れた王だ、生かしておけぬ! お前の母ちゃんデベソ!
布都も布都よ、なんでこんな結婚ホイホイ引き受けちゃったのよ!
「ありがとう、お嬢さん。どうあってもこの結婚、阻止しなければならないわ」
「ええ、やっちゃいましょうよ、一輪さん!」
お嬢さんがいまにも坊ちゃんちに殴り込みに行きそうな勢いなので、私と雲山は「気が早いですって!」と引き留めた。相変わらず行動力の塊だこと。
「ぼんやりしてなどいられませんよ、月日が経つのはあっという間ですもの。一輪さんが、僧侶としての立場を気にされるのはわかります」
なんだか、私たちが前にお嬢さんの悩みを聞いた時、世間体だのを気にしてたのを見破られたようでぎくっとする。そうよね、お嬢さん、猪突猛進なとこはあるけど決して馬鹿ではないもの。わかるわよね、そういう態度って。
「そのお方は、布都さんは大事なお友達なんでしょう? 私は幼い頃から親に口出しされてばかりで、友達などろくにおりませんでした。ですから、お友達のためにそこまで一生懸命になれる一輪さんのこと、私は羨ましく思いますのよ」
お嬢さんに曇りのない目で言われて、なんか照れ臭くなる。
私の行動が本当に布都のためになるのか、単なる私の自己満足じゃないのかって、私自身はまだ疑ってるんだけど。
そうだ、やっぱり布都は私の友達なんだ。
だったら、今更迷ってなんかいられないわ。
「なんなら私も一緒に殴り込みに行きますよ!」
「結構です、気持ちだけ受け取っときますから!」
ほっといたら本当に私についてきそうなお嬢さんを説得して、私たちはひとまずお嬢さんと別れることにした。
お嬢さん、相変わらずだわ。窮屈な実家から解放されてお転婆に磨きがかかったんじゃないかしら。人妻なら身を慎んで……なーんて堅苦しいことは私は言わないけど、もうちょい大人しくしてね。
雲山は「このまま坊ちゃんちに行くのか」と聞いてくる。私は首を横に振って、
「一旦帰るわ。いろいろ整理したいこともあるし、攻め方を少し変えましょう」
◇
お寺に帰ってから、私は托鉢……普通の道を練り歩いてやる托鉢じゃなくて、その昔、弟様が悪徳長者を懲らしめるためにやったように、鉢の中に手紙だけを入れて法力で件の坊ちゃんのお屋敷に飛ばしたのだった。
『本来はああいう横着なのはよくないのよ』とか聖様は言うけど、そもそも弟様がやり出したことなんだし、うちの修行僧はみんな鉢を飛ばすくらいはできるのよね。
お金持ちのお屋敷なら、届け物は真っ先に主人には向かわない。大抵は下働きの召使いがまず不審なものでないか改めて、そっからさらに権限を持ってる召使いのまとめ役みたいなのに預けて、まとめ役が中身を確認してから、初めて主人に届けられるはずよ。
それじゃ、私は屋敷の主人への直訴状を鉢で飛ばしたのかって? ちっちっち。将を射んとせば先ず馬を射よ。はなから大物を狙う必要はないわ。私の目的は、お嬢様さんの教えてくれた、坊ちゃんの召使いのお兄さんなんだから。
手紙には『以前のとりなしのお詫びと此度のお慶び』をぜひじかにお会いしてお伝えしたい旨を、召使いのお兄さんを宛名にして書いた。もし無事に届いたら、返事をその手紙の裏にじかに認めてくれるようにとも添えて。そうしたら、鉢は自動的に法力の主である私のところへ飛んで返ってくるようになっている。
果たして、返事は無事に返ってきた。ご丁寧に落ち合いの場所まで指定してくれている。最悪、揉み消されるかもとも考えたけど、どうもこの召使いのお兄さんは話のわからない人じゃないみたいね。お屋敷内での立場はそんなに偉くないけど、坊ちゃんの側近だから少しは自由を許されてるって感じかしら。
約束の日、私と雲山は例によって変装して、人里の茶屋の個室で落ち合った。
「このような場所にお呼び立てして申し訳ありません」
「いえいえ、お屋敷やお寺では何かと人目がつきますもの。お心遣い、感謝いたしますわ」
型通りの挨拶を終えて、私は改めて召使いのお兄さんを見た。
この人もずいぶん若い。坊ちゃんより三歳年上だと聞いていたから、この人は二十三歳か。
高貴な人のそばに仕える身なだけあって、この人も身なりはとても小綺麗なのだけど、服装も小物も極めて質素にしている。容姿は……あんまり容姿に言及するのは失礼なんだけど、全体的には地味でぼやっとしてて、お世辞にも美形とは言えないけど、垂れ気味の目はとても優しそう。何より急に不躾に呼び出したのは私なのに、ずっと平身低頭で私たちの方を気遣ってて、いい人なのだろうと思う。
「先日は私どもが大変無礼な、出過ぎた真似を致しました。そして此度の……」
「いえ、よしましょう。貴方の話は、それが本題ではないのでしょう?」
話が早い。手紙には万が一にも他の人間に読まれても平気なようにぼかして書いたところもあったのに、私の意図をちゃんと見抜いてる。
私もさっさと本題に入ることにした。
「さる筋の人から、貴方のことを聞きました。貴方が、坊ちゃんの一番の側近だとか」
「そんな大したものではありませんよ。僕の両親が旦那様に仕えていた縁で、僕も生まれたときからあのお屋敷にお世話になっていて、自然と坊ちゃんのおそばにいるようになっただけです」
なるほど。昔でいう乳兄弟みたいなものかしら。実の兄弟や友達よりもずっと深い絆で結ばれたりするの。
お兄さんは眩しそうに目を細めた。
「主人と従者……その境はあれど、僕たちは毎日のように一緒に遊んで、とても仲良く過ごさせてもらった。貴方も、坊ちゃんについて悪い噂をお聞きでしょうか? 確かに坊ちゃんは子供の頃から少々わんぱくで、気短なところはありましたが、世間の言うほどものの道理のわからない方ではないのです。確かに、お見合い相手のお嬢様方にぶつけた酷い言葉は取り消せるものではありませんが、坊ちゃんは本当に悪い方ではないんです。今回だって、僕がどんなに言葉を尽くして坊ちゃんに納得していただこうとしたか……」
「お、落ち着いてください」
最初は穏やかだったのに、いつのまにか前のめりになって怒涛の勢いで捲し立ててくるものだから、面食らってしまう。お兄さんはすぐに青ざめて「すみません」と小さくなった。
「よっぽど大事な坊ちゃんなんですね」
「……坊ちゃんは一人っ子で、お屋敷に、同じ年頃の子供が僕くらいしかいなかったせいでしょうか。気難しやの坊ちゃんも、昔から僕にだけは心を開いて、いろいろ打ち明けてくれたものですから。……僕だって、坊ちゃんには幸せになってもらいたい」
苦しげに拳を握りしめる。この人、坊ちゃんのことになると必死だし、よっぽど坊ちゃんの身の上を親身になって考えているのね。この様子だと、お兄さんも坊ちゃんと布都との結婚が幸せでないとわかっているみたいだ。
「人間の娘と結婚するなら、妖怪とでも連れ添った方がマシだ。……その言葉は、本気ではありませんでした。雨霰のように降り注ぐ縁談にうんざりしていたのでしょう。ですが旦那様と奥方様はこの発言を逆手に取って、例の仙人の娘さん……布都さんを連れてきて、人間のようで人間でない、見事にお前のお眼鏡に叶う娘が見つかったぞと」
「坊ちゃん、抵抗しなかったんですか」
「いつもの坊ちゃんなら抵抗したでしょう。ただ、タイミングが悪かったというか……布都さんとの縁談が持ち込まれる直前に、僕は坊ちゃんと喧嘩してしまって」
「え?」
思わず雲山と顔を見合わせる。なんで召使いと喧嘩したら急に縁談を受け入れる気になるんだろう。まさか、このお兄さん、実は布都のこと……ないな、ない。
お兄さんは苦しげに眉を寄せる。
「どうして坊ちゃんが縁談を軒並み断っているのか。旦那様や奥方様にすら話そうとしないその理由を、以前から僕にだけは打ち明けてくれていました。僕はただただ驚いて、夢を見ているようで、目も眩む思いで……どうにか坊ちゃんと釣り合う、素敵な人間のお嬢様と結婚なさるようにと、説得しようとしていたんです。けれど坊ちゃん、言い出したら聞かない性格ですから、自分の意見を頑として曲げなくて。僕も昔から付き合いがあるせいか、つい坊ちゃんには遠慮ない物言いをしてしまうこともあって。何度も何度も言い合いになって、ついにいままでで一番の大喧嘩になってしまった」
うなだれるお兄さんを見て、私の手のひらにも汗が滲む。
もし、お嬢さんの恋する者の勘が正しければ。それと合わせてお兄さんの話を聞いた私の推測が正しければ。
「お兄さん、貴方との仲違いの当てつけに、坊ちゃんは布都との結婚を決めてしまったと?」
「……おそらくは」
おそらく、とは言うけど、ほとんど確信を持った言い方に近い。
「貴方は本当にこのままでいいと思っているんですか?」
「……僕はただ……坊ちゃんが幸せになってくれるなら……僕の意思など、勘定に入れるまでもない……」
「この結婚で貴方の坊ちゃんは幸せになりませんよ」
絞り出すような声で呻くお兄さんに私が断言すると、お兄さんは目を見開く。
「布都は前に一度、不幸な結婚をしました。それに慣れてしまったのか、今回の結婚だって、せいぜい師匠である神子様の顔を立てようくらいにしか思っていないんです。坊ちゃんとふたり、手を取り合って幸福な家庭を築く心づもりなんてはなからありません。そして、坊ちゃんだって、結婚しても布都と一緒に幸せになる努力なんかしないでしょうね」
「……」
「私はこんな結婚認められません。布都がみすみす不幸になるのを見過ごせませんから。そちらに結婚を取りやめる意志がないのであれば、たとえここで貴方が止めたって、結婚式をめちゃくちゃにしてやるつもりです」
お兄さんはさすがにそれは、と言いたげな顔をしたけれど、唇を噛んだ。
「お兄さん、貴方はどうなんです? 坊ちゃんは、本当に幸せになれると思いますか?」
「……僕だって」
拳を握りしめる。
「僕だって、坊ちゃんに不幸になってほしくない……人様を巻き込んで不幸をばら撒いてなどほしくない……旦那様がなんと言おうが、坊ちゃんを苦しめる古いしきたりなど、壊してしまいたい!」
お兄さんの力強い決意を聞いて、私は雲山とふたり、うなずいた。
「式は、坊ちゃんのお屋敷で行うんですよね。天井か玄関か、穴が空いても大丈夫ですか?」
「はい……はい?」
お兄さんは「えっ、壊すって、本当にそういう?」と困惑している。普通は物理的な破壊とは思わないわよね。何せこちとらげんこつスマッシャーですから。仏様の教えは拳にも宿るのよ、きっと。
「幸い、雲山は敏腕大工にもなれますから、壊した後も元通りに直せますけど」
お兄さんはさすがに黙り込んでしまった。我ながら強引なことを言ってる自覚はある。その昔、平安末期に僧侶が起こした強訴より雑で荒っぽいわ。というか、ヘタしたら私は恫喝僧侶? ああ、聖様に叱られる。いいや今更気にするもんか。こちとら最初から破門覚悟で動いてるんだから。
妖怪の身で人里に殴り込みなんてとか、命蓮寺の評判がとか、もういいわ。たとえいくつかの掟を破ることになったとしても、窮地に立たされた人をみすみす見捨てる言い訳を探している方が、よっぽどみっともなくて、宗教家にふさわしくない行為だと、いまなら思うもの。
お兄さんも、大切な人に不幸になってほしくないという気持ちが同じだったからか。やがて、口元を緩ませた。
「不幸中の幸いといいますか、結婚が決まってから、坊ちゃんは僕を遠ざけています。お屋敷の構造は、生まれたときから住んでいるのです、目をつぶってだって歩き回れます。坊ちゃんの目を盗んで貴方を手引きするくらい、造作もない」
「よし、交渉成立!」
私と雲山、お兄さんとでがっつり握手を交わした。
紛い物の伝統も、古くさい価値観も、ぜんぶぶっ壊してやるわ!
〈幕間 ハイカラ少女の独り言その⑤〉
人更に少き時なしすべからく惜しむべし。年常に春ならず酒を空しくすることなかれ。
もうねー、呑まなきゃやってらんないのよ。みんなの目を誤魔化しながらお勤めはいつも通りこなさなきゃならないし、その合間を塗って何度も人里に足は運ぶし、神経使うからめっちゃストレス溜まるもん。いっそ、どこぞのハイカラさんよろしく式の当日は酒を飲んで大暴れしてやろうかとも考えたけど、さすがの私と雲山にも理性が残っていたらしい。一瞬で『それはやめよう』と思ったの。いかに幻想郷といえど、昔と比べて酒呑みに対する印象が変わってきているのは重々承知だし。
だからたまの晩酌くらいは見逃してほしいわ!
思えば現代の人間の結婚ってのはさ、二十代とか三十代とかで結婚して、もちろん一夫一婦制で浮気や不倫はナシで、男も女も恋愛や性愛の関係を持つのは貴方とだけですって契約をして、んでもって人間が八十くらいまで生きると仮定したら、みんなパートナーと五十年だか六十年だか一緒にいるわけね。
五十年。妖怪の私なら「一瞬よ」って思っちゃうけど、たいていの人間からしたら短くないどころか人生の大半よね。結婚すると、そんな長い時間をひとりの人間に縛られる。正気の沙汰じゃなくない? 恋だの愛だのをはしかみたいのもんっていうのは、ある意味じゃ正しいのかもね。
でも。そんな正気を失ってしまってもいいとお互いに思える相手に巡り合えるっていうのは、きっと幸せなことなのよ。きっと。
……ああ、だいぶ酔ってきたわ、私。こんなことをボヤくなんて。いいわよ雲山、まだお水はいい。
だいたいねー、私の中では未だに『現代は僧侶の結婚はオッケー』と『僧侶が結婚についてああだこうだ考える必要はない』が矛盾なく同居してんのよ。だってもう、お嬢さんと布都の件だけでも、いかに現代の結婚がめんどくさいか、嫌というほど思い知らされたもの! 千年間の私は、他の苦労はさておき、少なくとも結婚問題に煩わされることなく、心穏やかだったのよ!
なんで僧侶の私がいまになってここまで結婚についてああだこうだ悩まなきゃならないのよ!
それもこれも全部布都のせいよ! 布都のアホーッ!!
……ええ、ありがと雲山、あんたももっと呑みなさい。そうなのよ雲山、こうやって管を巻きながら結局、私は僧侶をやめないし、布都への友情も捨てないし、ちゃんと当日には自分のやるべきことをきっちりやるわけ。まったく、我ながら難儀な人生だわ。
だからたまの晩酌くらいは見逃してほしいわ!
〈その五 ハイカラ少女が時代親父と通る〉
時が経つのは早いもんで、気がつけばもう布都の結婚前夜。大安とかいう、もはや多くの人間にとっては『なんか知らんけどカレンダーに載ってるやつ』くらいの認識でしかない六曜の吉日に、布都は結婚式を挙げる。
命蓮寺は妖怪だらけなのもあって、結局参列することになったのは聖様と私と雲山だけなんだけど、私は支度にはちっとも手をつけていない。
未だに布都と絶交中(まあ、あれから一度も会ってないし、間違いでもない)ってことにしてあるから、不貞腐れて式をバックれる気満々、という風を装っているのだった。
「一輪、本当に明日行かないつもり? いつまでブーたれてんのよ」
「うるさいなあ。あんなやつ、嫁にでもどこにでも勝手に行っちゃえばいいのよ!」
「まーだそんなこと言ってる。星、どうすんの?」
「一輪と雲山のぶんの晴れ着もしっかり用意してあるわ。少し遅れてきても、布都さんは多めに見てくれるんじゃないかしら」
呆れ返るムラサに対して、星は遠回しに『気が変わったらいつでも行っていいのよ』と伝えてくる。思えばふたりをはじめとして、私ったらずいぶん長い間命蓮寺のみんなを騙してたのね。良心が痛むっちゃ痛むけど、やっぱり私の独りよがりみたいな行動にみんなは巻き込めないし、私と雲山だけでやり遂げたいって気持ちもあったから、いいんだ。
「聖様が甘すぎるのよ。早く仲直りしなさいとも言わないんだから」
「こういうのって、無理に和解させてもしこりが残るものよ。一輪たちの問題は一輪たちに任せましょうよ」
ふたりの会話が背後で続く中で、思い立ったことがあって、雲山と一緒に聖様の部屋へ向かう。
「聖様」
聖様は明日の支度などすっかり終えているようで、いつも通り、静かに夕のお勤めをしていらっしゃるようだった。聖様は経典からこちらへ顔を向けて「なんでしょう」と答えた。
「聖様は、いまでも神子様を心から信頼できる人とお思いですか?」
シンプルに、でもきっぱりと問いかけた。
ずっと気になってたんだ。今回の神子様の采配について、聖様は何もおっしゃらない。何も知らないはずがないだろうに。私が何か企んでるって気づいていらっしゃる風なのに、何もしない。聖様にも何かお考えがあるんだろうけど、それが私にはわからない。だから、明日の決行前に、確かめておかずにはいられなかった。
聖様は少しも動じず、私の目をまっすぐに見つめたまま、シンプルな答えを迷いなく告げた。
「はい。信頼に足りる人だと思っています」
「……そうですか」
失礼しました、雲山と部屋を後にする。
聖様に今回の件を一切相談しなかったのは、迷惑をかけたくなかったからでもあるし、前回お嬢さんの件を丸投げしてしまったから、私たちだって自分でやれるんだって証明したかった、意地みたいなのもある。
私に見える神子様と聖様に見える神子様の姿が違っても、それは仕方ないことなんだ。どんなに私が聖様に憧れて、聖様みたいに立派になりたいと思っていても、私は私で、聖様は聖様なんだから。
だから、たとえいつか聖様と道を違えることになっても……仕方ないのよ。聖様が聖様の信じる道を行くなら、私は私の信じる道を行かなくちゃ。
◇
さて来たる決戦の日、本日は大安なり。
雲山は身体を空の雲に擬態して、私はその上に隠れて、上空から坊ちゃんの屋敷を見下ろしている。もちろん私も雲山も晴れ着なんか着ちゃいないわ。
神前式、というのが広まったのは意外と最近のことらしく、今回の結婚式は神社でやるのではなく、昔ながらの、花婿の家で親族を集めて開く形らしい。商売敵の羽振りが良くならなくてありがたいような。幻想郷にはチャペルもないしね。
お屋敷は古くから人里にある名家なだけあって、広大な庭つきの立派な木造建築だ。手入れや改築は頻繁に行っているようで、築何十年という古さはちっとも感じさせず、老朽化しているところもない。
あれからお兄さんと何度か連絡を取り合って、お兄さんには屋敷の詳細な見取り図と当日の来賓人数を教えてもらって、ついでに坊ちゃんの見合い写真も見せてもらった。
それがまー、目の覚めるようなイケメンで、でもこっちを視線だけで射殺すようにガン飛ばして写ってたのね。フツー、見合い写真のカメラマンにこんな顔向けないわよ。よっぽどお見合いが嫌だったんだろうな。
『どうか、怪我人だけは絶対に出さないようにお願いします』
お兄さんはそれだけを念押ししてきた。建物の責任は自分も負うからと言って。もちろん、私だって罪のない人まで傷つけたいわけじゃないから――まあ、本音を言えばこの縁談をまとめた神子様と旦那様とやらは一発殴ってやりたいとも思うけど――雲山ともよくよく相談しあって、被害は最小限に抑えるつもりでいる。
「雲山、これは直せそう?」
力自慢の我が相棒に問えば、問題ないと頼もしい答えが返ってくる。や、だから壊してもいいってわけじゃないんだけど、一応ね。
懐から私宛の招待状を取り出した。式場の細かな席順が書かれていて、新郎新婦を囲むように中央に席が集中しているから、万が一を考えると、やはり正門をブチ破るのが一番安全な気がした。
「雲山、扉のど真ん中を正確に突いてね。中に破片が散らばるようなやり方じゃ駄目よ」
式が予定通りの過程で行われているなら、そろそろ新郎新婦が盃を交わして婚礼の誓いが行われるはず。誓いは神聖なもの。だから布都が誓いを交わす前に私は突撃する予定で、お兄さんも隙を見て屋敷の錠を開けてくれると聞いている。
しかし、まあ。
怖気付いたわけじゃないけど、いよいよ私も白昼堂々人里のお屋敷を襲撃するようになっちゃったかー。
「来世の罪がまた増えるわ」
思わずため息が出る。地底に封じられたときに地獄を見ちゃったもんで、また死後にあそこに行くかもしれないと思うと気が滅入る。でも、生きてるうちに地獄の責苦を味わったなら、そのぶん来世の罪は軽くなるんじゃないかなー……なんて、光源氏よろしく都合のいいことを考えてみたり。ああ、我ながら罰当たりだわ。
「雲山、これ持ってて」
袈裟を脱ぎ、首に下げた宝珠を外し、数珠やらお経やらも外して雲山に預ける。私が命蓮寺の妖怪僧侶だってみんな知ってるだろうけど、一応気持ちだけでも、今日は僧侶の肩書を捨てたただの雲居一輪ですよって証。それと、命蓮寺になるべく迷惑をかけないための、せめてもの礼儀。
それはいいのか、と雲山は金輪に目線をやって訴えてくる。これは雲山と私を繋ぐ絆そのものだ。
「いいの、自分で持っておく。私たちは一蓮托生。どんな時も一緒よ」
傍らの相棒に微笑みかければ、雲山も微笑を浮かべた。雲山が私の罪に足並みを合わせてくれるのなら、もし雲山が罪を犯す時は、私も一緒に罪を背負おう。
「よしっ」
そろそろ時間だ。正門の前に降り立つと、さすがに門番の使用人が訝しんで立ち塞がった。
「誰だ、神聖な婚礼の場だぞ。案内状のない者を通すわけには……」
「問答無用!」
門番の人たちを押し除けて、パキパキ指を鳴らした。私が右腕を引くと、同じように雲山も拳を構える。
人間は雲山にビビって逃げ出した。いまだ! 大きく息を吸い込んで、腹に力を入れて……。
「げんこつスマァァァァーッシュ!!」
雲山の拳に合わせて、金輪を握った拳を突き出す。門には見事な大穴が空いて、会場の客が一斉に何事かと振り返った。
部屋の中央には、今回の主役たる新郎新婦。
黒の紋付き袴の新郎は、二十歳と若いせいか、晴れ着も相待って立派に見える。いや、目つきこそ相変わらずだけど、実物は写真以上のイケメンじゃない!
いいや、見た目に騙されてなるものか、一輪! 男をひとり見たら三十人はモラハラ予備軍だと思え!
そして花嫁――新婦たる布都は、あの調度品だらけの部屋にあった真っ白な白無垢に綿帽子をかぶり、目元と唇に濃いめの紅、頬にうっすらと紅の化粧を施し、いつものちんちくりんとは想像もつかない、見違えるような格好をしていた。白一色なんて死装束みたいだと思ったけど、こうやってみると、まあ綺麗と言えなくもないわ。
ふたりとも、驚いて扉を突き破ってきた私を食い入るように見つめている。あれは何者だと、新郎新婦の縁者は冷たい眼差しを向けてくるけど、私が言うべきことはひとつ!
「その結婚、ちょっと待ったー!!」
人生で一度はやってみたかったのよね、ちょっと待ったコール! 本当は聖様が封印されるときにやるべきだったんだけど!
「い、一輪?」
布都は目を丸くして私を見つめている。そういえば、布都と会うのは久しぶりかも。
「とうとう式に来ないと思ったら、なんで、こんな……」
「まったくだ。神聖な婚礼をぶち壊して、どう落とし前をつけるつもりだ? お前はいったい何をしに来た? 答えよ、雲居一輪!」
戸惑う布都の目の前に神子様が立ち塞がる。聖様まで、私を品定めするように見つめている。
ふんっ、この期に及んで私がビビると思ってもらっちゃ困るわ。
雲山もやる気満々で私のそばに控えていて、私は景気良く門をぶち破った衝撃で、気分がだいぶ高揚していて。
そう、このときの私はめっちゃ高揚していたんだ。
だから勢いでこんなことを言っちゃったのも、無理はない。
「何って、そんなの」
そのとき、脳裏に神子様の『妻問いに来たのか』なんて冗談が過ぎった。
「私がいまこの場で、布都に求婚しにきたのです!」
「はっ……はあああ!?」
案の定、布都はあんぐり口を開けている。聖様も口元を覆って、新郎の親族一同は当然、私が正気じゃないと思って顔をしかめるばかりだ。
「これはなんの余興だ。僧籍の身でありながら他人の結婚を壊して回るのが命蓮寺のやり口かね?」
嫌味っぽく、不機嫌な態度を隠しもせずに言い放った中年の男は、おそらく新郎の父だろう。目元が坊ちゃんに似ている。
苛立ってこちらへずんずんと詰め寄ろうとするのを「まあ、ここは私にお任せを」と引き留めたのは神子様だ。
神子様はやっぱり平然としていて、笏を弄びながら私を見下ろした。
「今更横取りとは感心しないな。私の大事な部下をなんだと思っている」
「貴方こそ、ご自身の部下を道具か何かとでも思ってるんですか」
神子様が引かないなら、私も引かない。
「なら、お前は布都を幸せにできるのか?」
「無理ですね」
「って、おーい!!」
即答すると、ようやく話についてこれたのか、布都が全力でツッコんできた。
「そこは嘘でも『はい』と答えるところだろう!」
「布都、嘘はよくないのよ」
「真面目か!!」
なんだ、あれだけマリッジブルーだとか言ってたくせに、元気そうじゃん。
そりゃあ『あたしがあんたを幸せにしてあげてもいいよ!』とか宣戦布告できたらカッコいいけど、ねえ、雲山?
実の兄を主君のために夫に殺させて、その夫を捨てて主君に命を捧げて、ついでに夫の妹を亡霊にしてしまうような、それでいてその主君もわりと問題だらけな、血生臭い業を背負ってるこいつを救えだなんて、修行半ばの私にはとてもムリ、ムリムリ絶対ムリ。できない約束はするもんじゃないわ。
というか『必ず幸せにします』なんてプロポーズの方が、賞味期限が来たのかもしれない。時代は目まぐるしく変わるわ。そして私はハイカラ少女。常に最先端を歩くのよ。
「こいつは私がいなくたって勝手に幸せになるわよ。だけど、みすみす不幸にされるくらいなら、私が連れ出してやる!」
さあ、どうだ!
幸せにするのは難しいけど、不幸の落とし穴に落ちる前に引っ張り上げるくらいはできるわよ。
だいたいねー、布都は『アナタの色に染まります』だの『幸せにしてください』だの、そんな受け身でしおらしいタマじゃないでしょ。風水が得意だっていうくらいだもの、自分を幸せにする開運の道くらい、自分で切り開けるわよ。
飛鳥も平安も遠く過ぎ去った。封印を解かれて、私たちは現代に蘇った。なら、現代的に生きるべきなのよ。
「一輪、お前は……」
「布都、もう一度聞くけど、あんたはどう思うの。神子様のお考えとか、お相手の家の問題だとか、そんなものは後回しにして、あんたはこの結婚をどう思っているのよ」
改めて布都に問いただすと、布都は紅を染めた唇を噛み締めた。
「我、は。我は……」
やがて、布都は神子様に向き直って、床に額づかんばかりの勢いで頭を下げた。
「太子様、お許しくださいませ! 一度ご命令を引き受けておきながら、なんと恥知らずと罵られましょうが、我は此度の結婚、したくはありません!」
再び新郎の一同がざわついた。私がかばうように布都の前に立つと、いきりたつ新郎一同を制して、聖様が立ち上がった。
「一輪。貴方、自分が何をしているのかわかっているのですか?」
「わかっていますよ」
「他所様の結婚式を台無しにするなど、それが命蓮寺の僧侶として相応の振る舞いだと考えています?」
「私が命蓮寺にふさわしくないのなら、破門にしてくださって結構!」
言った。言ってしまった。
聖様、貴方に救われた昔の恩をまだ返しきれていないのに、仇で返すような真似をお許しください。
それでも私にだって譲れぬ道があるのです。
「……布都さん」
私たちの間に緊迫した空気が立ち込めてきたところで、新郎の坊ちゃんが初めて口を開き、無愛想に布都に呼びかけた。いままで黙っていたのは思いもよらぬ展開に圧倒されていたのか、成り行きを見守っていたのか。
「あんた、さっき控えの間で俺に聞いたな、『本当に我が相手でいいのか』と」
「……貴方は『いいも悪いも、もう決まったことだ』とお答えになった」
「……」
不意に、坊ちゃんが布都に頭を下げた。
「すまん。どうせ逃げられやしねえんだと諦めて、あんたを巻き込んだ。……許してくれ。あんたは俺と結婚なんかしなくていいんだ。いいや。俺もあんたと、布都さんとは結婚できない」
「お前まで、この期に及んで何を馬鹿なことを!」
憤慨するのは新郎の父だ。隣の新郎の母は涙を流している。
「この恩知らずめ、親の私どもが、親心の闇ゆえにお前のわがままに付き合わされながら、せめてお前の意に適う娘を嫁にしてやろうと、どれだけ骨を折ったと思っておる! それをよくも――」
「もうおやめください、旦那様!」
立ち上がったのは、召使いのお兄さんだった。穏やかな顔に似つかわしくない、激情を湛えて。
「これが本当に坊ちゃんの為ですか。旦那様と奥方様は坊ちゃんを心配だと言いながら、どうしてご自身の大事な一人息子をここまで追い込むのです。どうして嫁を取れ、跡継ぎを残せと執拗に迫るのですか!」
「召使いの分際で口を挟むな!」
「いいえ、もはや黙っていられません、旦那様、僕は、いえ、わたくしは、ぜひ申し上げたき義が――」
「方々、どうかご静粛に」
そのまま白熱するかと思われた口論を打ち破ったのは、神子様の一言だった。
「新郎殿。貴方にはどうしても布都と、そして他のどの女とも連れ添えない理由がおありだとおっしゃるのですね?」
「……」
坊ちゃんは無言で肯定の意を示す。
坊ちゃんは神子様を見て、布都を見て、最後に召使いのお兄さんを見た。
「俺が、心に決めた相手はただひとり。決して一緒にはなれねえ運命だ」
「馬鹿な!」
またも坊ちゃんの父が叫ぶ。
「なぜそれを早く言わぬ。身分賤しい下女であったとしても、これほど手こずらせるなら、相応の身分への格上げを考えてやったものを」
「違えんだよ、親父」
坊ちゃんは首を横に振る。苦しそうな顔のまま、坊ちゃんは布都に向き合った。
「あんたが悪いんじゃないが、俺はきっと、あんたを妻として愛することはできねえ」
「……我も、貴方を夫として愛することはできなかったでしょう。お互い様です」
「布都さん、せめてあんたには、本当のことを……」
「いえ、それには及びませぬ。何事も、太子様のお計らいにお任せなさいませ」
布都も緩やかに首を振る。
両者共に、結婚の意志がないことが明らかになった、と思ったら、布都が何やら神子様に目配せを……うん?
ちょっと待って。私は布都のことばっか気にしすぎて、坊ちゃん側の事情とかはお兄さんに任せっきりだった。というか、神子様の能力だったら、最初から坊ちゃんたちの事情を知ってたんじゃないかって、私は疑っていたけど。
布都、あんたもまさか!?
「方や再婚を望まぬ女。方や婚礼の最中にも意中の相手を思う男。……どうやら、私は結ばれるべきでない者同士の縁を取り持ってしまったようだ」
そう言うと、神子様は一枚の紙を取り出した。婚姻届だ。神子様はみんなの目の前で、それを破り捨てた。
「私に月下老人の真似事は分不相応だったね。――よってこの結婚、こちらからも無効とさせていただきたい」
その堂々たる振る舞いの、なんとカッコいいこと! こちらはめちゃくちゃ癪だわ! だけど、さすがに王者の貫禄って感じで、布都が神子様を希望だと思うのも無理はないわね。
しばらく、誰も何も言えなかった。けれど、やがて坊ちゃんの目から一筋の涙が溢れた。お兄さんはもう、顔をぐしゃぐしゃにしている。
「太子様!」
「布都、それに新郎……いえ、若君、すまなかったね」
「いや、俺は」
坊ちゃんの父はようやく事態が飲み込めたのか、「何故だ、何故だ」と繰り返し狼狽えている。きっと貴方にはわからないでしょう。そんな貴方だから、新郎はぶっきらぼうな口調ながら、いまもまだ慎重に言葉を選んでいるのでしょう。
坊ちゃんはちらと、懸命に涙を拭う召使いのお兄さんに視線を投げた。幼い頃からの付き合い、それでわかりあうこともあるんだろう。ふたりの間に交わされた視線に、私は確かに何かを感じ取った。
それから坊ちゃんは、真剣な面差しで父親に向き合った。
「親父、あんたはいつも先代からの、先祖代々の故実やしきたりが何より大事みてえだった。俺が真に望む結婚は、この家にも、他の家にも、先例がない。……言えるわけねえだろ、本当のことなんか」
「何を! 先例は、古来より代々伝えられた先人たちの尊い知恵の結晶だ。それが間違っているというのか?」
「先例、先例とは、まるで平安の時代のようですね」
おっとり言い放ったのは聖様だ。口調は穏やかだけどいまの言い方はだいぶ皮肉っぽいわ。
「昔のやんごとなき生まれの方々は、先例故実を何より重んじて、軽んじる者を爪弾きにしていたのです。それは窮屈な世の中でした。貴族にとっても、そして当時、この世でもっとも高貴な身分とされた帝にとっても」
すっと、聖様は神子様に眼差しをやる。神子様がうなずくと、聖様は続けて、
「その昔、平安の末の世に、白河帝という帝がおりました。帝はおきさきの一人、賢子姫をたいそう寵愛していらした」
あっ、と私は息を呑んだ。白河の帝が即位したのは私たちが封印された少し後だけど、その話なら知っている。
「ある時、きさきが重病になり、このままでは命も危ういと思われました。帝のいます内裏で死穢は禁忌。たとえ帝のきさきであってもね。そのため、普通はきさきを実家に帰すのですが」
白河帝は退出の願いを拒み続け、とうとう賢子姫は御所で亡くなってしまった。人目も憚らず亡骸に取りすがり、食事すら取らない帝の有様に、重臣は『こんな先例は見当たらない』と苦言を呈した。
「ですが、帝は毅然と言い放った。『例はこれよりこそ始まらめ』と」
聖様がそう締めくくると、辺りはしんと静まり返った。
白河帝のこの話が実話かどうか、わからない。だけど後に院政を始め、『鴨川の流れと寺社の強訴と双六の賽の目以外に思い通りにならぬものはない』とまで言い放った治天の君としての白河帝の豪傑さを思うと、まんざらただの作り話とも思えないのだった。
「先例など、幾多もの新しい出来事の積み重ねです。ないのなら、作ってしまえばよいのです。そうは思いませんか」
「なるほど。後世の末裔は、なかなか豪胆なことを言う」
神子様が、聖様の後を受けて笑った。もしかして聖様、神子様にパスするためにこの話を持ち出したの? そして神子様は、聖様の意図を正確に読み取ったはずだ。……っていうか、ずいぶんダンドリいいですね?
「なら私も後世の末裔に倣って宣言しよう。若君、貴方は布都ではなく、貴方の真に思う人と結婚なさい。――先例とは、ここに始まるものだ」
坊ちゃんの父が膝から崩れ落ちる。涙ながらに坊ちゃんの母は息子を抱きしめた。お兄さんはまた涙が溢れて言葉が出ないらしかった。
「聖様」
「あら、一輪、雲山。ようやく遅刻の申し開きかしら?」
「いやそうじゃなくて!」
笑っていらっしゃる。神子様と一緒になって。ていうか、布都よ、布都! 私がいの一番に問いたださなきゃならないやつ!
「いやあ、天晴れ。さすがは太子様のご威光よのう。我が用意しておいた策は披露する隙もなかった」
布都は満足げで、でもそれは望まぬ結婚から解放された満足感じゃなくて、まるで一仕事終えたみたいな達成感っていうか……。
「誓いの言葉を交わす前に、我はこう言ってやる予定だったのだが。婚礼に先立って、我が得意の風水で婚礼の吉凶を占ってみると、なんと! 凶と出たではないか! 古き占いを迷信と侮るなかれ、我が風水に狂いはなし、いますぐ結婚は中止じゃ、とな!」
……こいつ、本当は道教よりニギハヤヒより風水が好きなんじゃないの? って思うことがたまーにある。というか、自分の結婚が凶って出たことを嬉々と報告するな。
まあ『吉備津の釜』然り、占いの結果ってのは意外と馬鹿にできないもんがあるからね。
って流されてる場合じゃなかった!
「ま、まさかあんた、ぜんぶ最初から知ってたってこと!? 知っててぜんぶ私に黙ってたの!?」
「何を言うか、一輪。太子様が弟子と引き換えに信者を得るなど、そんな浅ましい真似をするわけないではないか」
などと、満面の笑みでのたまった。
私が夢中で神子様を振り返ると、神子様は勝ち誇ったように微笑む。そして隣にいる聖様までも、
「貴方たちが何かと動き回っているのはわかっていましたが、あまり私に知られたくない風でしたので。ひと言も相談してくれないんですもの、ね?」
なーんて、拗ねた風に、茶目っ気たっぷりの笑顔でおっしゃるんだから、もう、もう……。
なによなによ、なんなのよー!!
それはいくらなんでもズルいんじゃないの聖様! なんでもお見通しみたいな表情で、神子様ともきっちり連携取ってて、私と雲山はおふたりの手のひらの上で転がされてるみたいじゃない! 見なさいよ、さすがの雲山もいままでに見たことがないくらい項垂れているわ!
だけど。
聖様も水面化で動いていたのね。いや、もしかしたら招待状を受け取ったそのときから、この結婚式には何かからくりがあると見抜いていらっしゃった?
そうよ、よく考えてみれば初めからおかしかったのよ。わざわざ布都を嫁に出さなきゃならないほど、神霊廟は入信希望者に飢えてない。聖様は神子様を『信頼に値する人』だとおっしゃって……。
そういう柔軟で世渡り上手で慈悲深いとこを見せつけられると、やっぱり私にとっての希望は聖様なんだってなーって思うよ。
「なあ、一輪!」
布都は笑っている。悪巧みが成功した子供みたいに。
思えば、いままで私が見てきた布都はいつも呑気でアホっぽくて、どっか間が抜けてて、こいつが物部と蘇我の争いを影で操った黒幕だなんていまいち信じられなかったのよね。
でも、今回の件で私もはっきりわかったわ。こいつは間違いなく類い稀なる策士の一面を持っているって。
布都は私の目の前に手を差し伸べてくる。
「お前、我に結婚を申し込むと言い放ったな?」
「……」
ええ、言いましたよ。
勢いで言っちゃったわよ。それがどういう意味かよく考えもせずに。布都の目論見に気づきもせずに!
布都はニヤニヤ笑っている。腹立つ!
「ほれほれ、我の手がお留守だが? 結婚式に乗り込んできた者は、花嫁を攫って逃げるのが外の世界のお約束なのだろう?」
「あーもー、わかったわよ!」
坊ちゃんたちの事情はもう神子様と聖様に任せておけば大丈夫そうだし、何より当の坊ちゃんとお兄さんがこちらに手を振ってくれている。どうかお幸せに!
仕方なく、私は布都の手を取って、一緒に雲山の上に飛び乗った。
「雲山! ずらかるわよ!」
「あっはっは! なーんだ一輪、その顔! 入道にそっくりだ!」
「うっさい!」
布都にからかわれるまでもなく、恥ずかしいやら情けないやらで自分の顔が真っ赤になってることぐらい、わかるわよ!
……そういえば、道場破りに来たとき、神子様はこんなことを言ってたっけ。『真っ赤に染まるお前が見える』とか。『血で染まる』とは一言も言ってなかったのよね。
神子様、憎らしいけど貴方の未来予想図、当たってるわ。
〈幕間 ハイカラ少女の独り言その⑥あるいは大反省会〉
人生には気高い理想と前向きな野心を。弛むことなき魂の研鑽を。信じる者にも信じぬ者にも等しく救いのあらんことを。南無三宝南無三宝。
わかってると思うけどね雲山、本来の私は僧侶であって、もっと感情のコントロールが上手くて、何事にも簡単には動じず面霊気の暴走にも負けずなのよ。そこんとこ誤解しないでほしいわけ。
それがまあ、今回いろいろブチ切れちゃったのは認めるわ。……うん、こころさんのときも、私たちはちょっと充てられちゃったわね。
――宗教とはなんぞや?
そんなざっくらばんな問いに、聖様と神子様と、ついでに神奈子様はみんな『哲学』だと答えたらしい。あながち間違いじゃないと思うわ。
思うに、人間も妖怪も、生まれてきたら一度は誰しも『自分は何者なんだ』と考えてみたくなるのよ。有名な絵画っぽく言うなら『我々はどこから来たか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか』。そうして自分を見つめて、肉体と精神をよりよい方向へ導くための指針や手段のひとつが宗教だと思うの。
だから、私たち仏教徒は利他行として他者の救済のために動くこともあるけど、根本的には自分を鍛えることが第一目的であり、肝心なのね。哲学をする――自己研鑽を重ねるってこと。
自己研鑽が足りないと、他人のためにも上手く動けない。
つまりいま現在の私はまだまだ修行不足ってわけだ。それは認めざるを得ない。向こう百年くらいは聖様の元でしっかり修行を積まなきゃねー。
僧侶の六波羅蜜のひとつに〝智慧〟がある。煩悩に曇らされず真理を見抜くこと。
真理ってなあにと聞かれたらめっちゃ答えづらいんだけど、そもそも仏様の真理ってのは言葉にできないもの、言語化できないものとか言われてるわけでさ、私たちの唱える真言が漢訳でも和訳でもない、梵語をそのまま(たぶん発音は正確じゃないんだろうけど)唱えるものなのも、下手に訳をしちゃいけないって方針なんだろう。
まあ、とにかく、今回の私はちっとも真理を見抜く力がなかった。布都のいかにも悲劇のヒロインじみた綿々たる語りにころっと騙されちゃってさー。もう……。
今回、私が布都の結婚を阻止しようと奔走しまくってたのは、なんだったのよー!? 私のアホーッ!!
〈エピローグ 私たちらしく生きましょう〉
式場を抜け出した私たちは、雲山の上に乗って空を飛んでいた。
「あー、窮屈だった!」
と、布都は白無垢を脱ぎ始める。いやいや、空の上で着替えるのはちょっと……と思いきや、白無垢の下はいつもの水干みたいな服だった。よくその上に白無垢を着ようと思ったわね。
あーちょっと、勝手に雲山を衣紋掛けにしないでよ、高価そうな白無垢がまるで物干し竿に揺れる掛け布団みたいに……。
「なあ一輪、そろそろ機嫌を直してくれないか?」
「うるさいわね」
「我は、太子様が坊ちゃんの見合いの話を持ちかけてきた最初からピンときたのよ。太子様は我が石女と知っておるのに、跡継ぎが必要な坊ちゃんと本気で結婚させるわけがない。太子様には何か策があるなと」
「私はあんたの昔の結婚のことなんて知らないもの、気づくわけないでしょ」
「そりゃあ、わざわざ話すようなことでもないと思っていたからなあ……」
布都はそっぽを向く私の袖を引いてくる。
別に、怒ってはいない。
友情を裏切られたとか献身が報いられなかったとか、そんなことで腹を立てるのは利他行ではないの。信仰はギブアンドテイクと神奈子様はおっしゃったそうだけど、献身は見返りを求めるものではないわ。
少なくとも、私は今回の結果に満足していた。
だって、結局は、不幸な結婚をさせられる人たちはひとりもいなかったってことなんだから。あのお嬢さんですら好きに生きているんだし。
何事も結果オーライよ(ああ、でも私たちが壊しちゃった正門は後で修理しないと……お兄さんは許してくれるかもしれないけど、お金も弁償しないと……後で聖様にお説教されるわ)。
「おーい、一輪……」
ずっと黙って考え事をしているせいか、布都は何か誤解しているらしかった。柄にもなく気まずそうに私を見上げてくる。
「いや、我も少々しんみりして、大昔の思い出話とか、大袈裟に話してしまったところはあったなーと反省させられてな?」
「ああ。太陽神の贄だのなんだのね」
「太子様にもあれこれ諌められてなあ。本当は、一輪に見合いの話を打ち明ける予定だってなかったのだ」
「へ?」
なんだそりゃ? 初耳よ。
布都は気まずそうに頬をかいて、
「決まってもいないことを妄りに外部の輩に話すなと言われた。それに、馬子殿のことも……闇雲な扇動はよせと」
「え、ちょっと待ってよ」
なんだなんだ、布都って最初っから神子様と示し合わせて私をうまく誘導して騙そうとしてたんじゃないの? ぜんぶあんたらの計算のうちだったんじゃないの?
「我は怜悧な策士に成りきれなかった。ま、おぬしの言う通り『人、木石に非ざれば、みな情あり』ってやつだったのだろうな」
あんた、それ、覚えてたの。私の話なんて真面目に聞いちゃいないと思ってたのに。
布都をじっと見れば、嘘をついている気配はなかった。
「お前と入道は妙な連中だ。僧侶に縋る気持ちなんぞ我は微塵も持ち合わせていないが、心の裡を開く気にさせるところがある」
「まあ……宗教家ですから」
「だから我はいつも喋りすぎる。言わずとも良いことまで喋るから、しょっちゅう喧嘩になる」
「それは当たってるなあ」
「いまになって思えば、我もこの作戦がうまく行くのかと緊張していたところがあったのやもしれぬ。お前にそれを見抜かれたのかと焦った」
ちっとも見抜けてなかったよーとは、黙っておこう。
でも、悪い気はしない。神子様一筋の呑気な策士なくせして、少しは私や雲山を信じてくれる気持ちがあるってのは。
「もしかしたら、本当にマリッジブルーだったのかもな」
布都は風にたなびく白無垢を見て苦笑いした。
「あんた、作戦がうまくいかなかったらどうやって結婚を断るつもりだったの?」
「我はバツイチの石女だから花嫁には不向きだと暴露してやったわ」
こいつ、人が触れづらい話題を躊躇なくブッ込んでくるな。そっちが気にしてないなら、こっちも何もないように振る舞うけどさ。その作戦は神霊廟の印象を悪くするだけだからやめた方がいいと思うわ。
なんていうか、こいつを部下にしておける神子様は只者じゃない。いまならこの布都がマクベス夫人も真っ青なやり口で夫たる馬子をけしかける姿が想像できる。こうなると、危うく布都と結婚するところだった坊ちゃんの方がむしろ気の毒だわ。
「別にひとつの策がうまく嵌まらなくとも気にしないけどな? 要するに、我が言いたいのは、我と太子様は……」
「別にもうわかってるわよ」
布都と神子様は、一方的な自己犠牲を捧げる部下と、それを無慈悲に消費する王様ではない。
良いことと悪いことをすべて、力を合わせて企むような……いわば共犯者ってやつだ。屠自古さんもそうかもね。考えてみれば、私にいきなり布都の話を持ちかけてきたのも、神子様と布都の企みと関係していたんじゃないか、なんて。おかげですっかり乗せられちゃったわ。
神子様は今回、古い慣習を打ち破る道を整えた。なるほど、為政者ムーブも現代的になっている。
でもねー、本来私たちが当然握ってて然るべき権利ってのは、お偉いさんのお情けとかお目溢しとかで恵んでもらうもんじゃないわ。ときには戦ってでも勝ち取るもの――あの場所に私と雲山が殴り込んで啖呵を切って、お兄さんが叫んで、布都が訴えた行為にも、意味があったのかしら。
それにしても、あんな難解な人に真っ正面から張り合おうとしたり、かと思えば信頼を寄せたりできる聖様といったら。
「あんたはあんたの尊敬する人についていけばいいの。私にはまだ神子様の良さが全部は理解できないけどね。ついていけるのは聖様くらいよ」
「あー。確かにあの方は、始まりの諍いが不思議なほど太子様を信頼しているように見受ける。あの変化ばかりはさすがに我にも想像つかん」
「……聖様は、神子様の中の人間を愛しんでいらっしゃるわ」
「はあ?」
布都は意味がわからないといった顔をする。〝人間〟という言葉に特に引っかかったみたいだ。そりゃそうか、布都にとっての神子様は、私にとっての聖様みたいに尊い人だから。
でも、神子様だって、かつては人間だった。布都と、屠自古さんと、聖様と、ムラサと、そして私と同じ人間だった。私が妖怪にななって千年近く経つけど、人間だったときの記憶とか感覚って、忘れられないものなのよ。
だからきっと、聖様はご自身が人間だった頃の姿を見つめるように、神子様の中の人間を見つめているんじゃないかしら。要は、神子様について哲学してるってこと。
神子様の心の奥深くまで降りられるのは、聖様が真摯に神子様に向き合っているから。
そして、聖様が神子様の核に触れられるのは……神子様がそれだけ聖様に心を許しているから。
哲学なんて、他人に向けたら下手すれば他人の心を土足で踏み躙る冒涜になるのに、おふたりはお互いの哲学を許容してしまうのね。
あーーー。
そりゃあ、聖様は神子様を信じるわよ。
今回ばかりは、なんでもかんでも聖様に頼ってちゃ駄目だ、少しは自力で頑張らなきゃって私のやり方が完全に裏目に出たわ。
でも、それもいい。ボタンの掛け違いくらいいくらでもあるでしょ。
「うーむ。おふたりが次の〝先例〟になるおつもりなのか?」
「神子様に伝えておいて。もし聖様に正式な妻問いをするやつが現れたら、命蓮寺全員が迎撃するのでそのおつもりでと」
「全員って何人だ?」
「全員は全員よ」
布都が引き攣った笑みを浮かべる。いやね、別に私たちは聖様は誰にも渡さんって考えてるとかお邪魔虫になろうしてるとかじゃなくって。もちろんそのときは聖様の意志に任せるけど、うちの大事なお師匠様だって忘れないでねってこと。もし本当にその日が来たら、とりあえず命蓮寺にゆかりのあるやつに片っ端から声をかけて回ろう。総勢で何人になるかしらね、雲山?
「ところで一輪」
布都がまた私の袖を引いた。なんだか楽しそうな顔をしている。
「お前、あの場で我に求婚すると言ったよな? その落とし前はどうつけるつもりなんだ?」
そうだ。
残る大きな問題はこれだけだ。
私ってば、式をブチ壊した挙句、僧侶の身で(僧侶っぽい格好なんかしてなかったけどさ)衆人環視の中で布都にプロポーズしちゃって、逃げ場がないわ。しかも布都がはっきりハイともイエスとも言わない代わりに私が連れ出すのを許可して、っていうかそそのかしているんだから、外堀は埋められたっていうか、もう策士極まりないっていうか。
「お前、我を好きになれるのか?」
「あんた、結婚に恋も愛も不要なんじゃなかったの?」
「それはそれとして、気になるであろう?」
うーん。
改めて、私と布都の関係を真面目に考えてみると、やっぱり恋してるかっていうと全然違うって感じ。一緒にいれば楽しいけど、それはどこまでも温かな親愛であって(そう、たとえ布都が友すら欺くような謀略家でも関係ない、女の子は少しクレバーでミステリアスなくらいでいいわ、いつもの布都はアホっぽいけど)、友達以上の存在には思えそうにない。このぶんだと私は一生恋愛結婚とは無縁だろうなあ。
ま、いっか。私には雲山という最高の相棒がいて、敬愛する聖様がいて、志を同じくする仲間がいて、気の合う友達がいて。いまの私は充分、幸せだもの。当分夫も妻もいらないわ。
そして、布都も神子様や屠自古さんや青娥さんたちに囲まれたいまの生活は充分に幸せなんでしょう。
「あんたのことは好きよ。友達としてね」
「……そんなことだろうと思ったわ。どうする、このまま友情結婚とかいう新たな様式でも作る気か?」
「そうねー、それもいいけど」
いまのところ、私が勝手に結婚するって宣言しただけだ。正式な手続きは何もしていない。段階としてはせいぜい口約束の〝婚約〟かしら。
このまま恋愛感情抜きに婚約するにしてもいろいろと問題がある。中でも避けては通れない最大の問題はズバリ、宗教だ。
たとえばの話。私も修行を積んだらいずれ雲山と一緒に独立してもいいかなーとは思うけど、何も新しくお寺を立てて聖様と信仰の奪い合いをしようだなんて不毛なことは思わない。というかお金かかるし、勧進するにしてもキリがあるでしょ。
ならどっかに家を持って同居するにしても、せめてお仏壇だけでも持ち込んで……と言いたいけど、布都ときたら大の仏教嫌い、文句ナシの廃物派。いつ仏像や寺を燃やすかわからない相手と結婚、まして同居なんてフツーに嫌だ。無理。
これが聖様や神子様なら、うまく妥協点を見つけられるんでしょうけど、私と布都は……うん、あと何十回、何百回大喧嘩するかわからないわ。つまり、この結婚もあんまり喜ばしくない、と。
あんな派手な演出の後じゃ色々言われるだろうけど、布都もこのまま私と結婚したいわけじゃなさそうだし、いまならまだ引き返せる。ってなわけで。
「布都。この婚約は、いまここで破棄するわ」
「はあああああ!?」
口をあんぐり開けて叫んだ。雲山も「あそこまでやっといて?」とさすがに引いてるみたいだった。
「おっ、お前、さんざん我の結婚式をぶち壊しにしておいてよく言えるな!?」
「元からあんたも結婚する気なかったでしょうよ」
「そうは言っても! 世間の噂からは逃れられぬぞ!」
「知らないの布都? いま、外の世界では〝婚約破棄〟が流行っているのよ」
「どんな流行りだ!」
正確に言えば婚約破棄じゃなくて〝婚約破棄ものの物語〟だけど。いわゆる悪役令嬢ものの派生なのか、ストーリーのしょっぱなから主人公の悪役令嬢が(悪役令嬢じゃないケースもあるけど)婚約相手に〝婚約破棄〟を突きつけられて、崖っぷちの主人公は破滅から逃れるべく立ち回って、なんやかんやで新たな婚約者を得たり、元婚約者に制裁を加えたり、たくましく生きていくのである。
思えば布都も身分とやってることだけ見れば、フィクションのガワだけ悪役令嬢で中身は転生してきた別人なパターンとか、実はいい人なんですっていうなんちゃって悪役令嬢よりよっぽど悪役してる。
いいんじゃない? 光源氏もかくやの美男子の求婚を袖にする、ってのとはだいぶ違うけど、振るだけの価値はあるわ。
うん? となると、私の方がこの後布都に反逆される真の悪役ってこと? ……それはそれで楽しそうね。視点を変えれば悪役も主役もいくらでもひっくり返る、こんなに面白いことはないわ。
布都はふんっ、と吐き捨てた。
「お前のような身勝手な女、こっちから願い下げじゃ! 誰がお前なんかを嫁にするか!」
「そいつは結構、私だって誰かの〝嫁〟になんかなるつもりはないもんねー」
「はっ、お前の場合、嫁になるつもりがないんじゃなくて、誰にも〝嫁に貰ってもらえない〟が正しいんじゃないのか?」
「なんですって?」
思わずカチンと来て食い下がった。
「言い方が古臭いのよ! やれ嫁を貰うの貰われないの、モノじゃないんだから!」
「千年前の古代人に言われたくないわ!」
「あんたの方が古いでしょうよ、飛鳥の古代人! 〝できない〟と〝したくない〟の区別もつかないやつは引っ込んでろ!」
「たわけ! お前のそういうハイカラぶって周りを見下げているような態度が気にくわんのじゃ、さっさと悪癖を治せ!」
「あんたこそさっさと時差ボケ治せ!」
とまあ、こんな調子で私と布都はしばらく喧嘩になった。雲山はやっぱり呆れた目で私を見ているけど、ま、これが私たちらしいっちゃ私たちらしいと思わない?
結婚は女の幸せかどうかって? そんなの知ったこっちゃない。時代遅れの質問にいつまでも付き合ってられないわ。
なんたって、時代はハイカラですから!
とにもかくにも、なべて世は事もなし! どっとはらい!
激情に駆られて突き進む一輪がカッコよかったですが、これも別に正しいという訳でもないんでしょう
それでもやり遂げたところがすごかったです
各時代の価値観をみんな持っていてそのうえで現代の物も取り入れようとしているところが特によかったです
設定が複雑怪奇な霊廟組をここまで踏み込んだのが本当に素晴らしかったです
布都という、どこまで天然でどこまで真剣で、どこまで狂気的なのかわからないキャラクターをしっかりと描き切っていたように思います。
史実を踏まえた独自のキャラクター解釈に説得力があり、それが現代の布都と一輪の会話に深みを出していると感じました。
結婚というワードを元に描かれるキャラクターが魅力的で、各人物の結婚観や、恋愛とは全く別の貴い関係の一輪と雲山や、坊ちゃんと召使がしっかり良いところに収まったりと、多様な関係性が大変面白かったです。
有難う御座いました。