永久の余命宣告 二告
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雪は幻想郷を銀世界に変えている。まるで雪が泥田坊の穢れを埋め尽くしたようだった。もう穢れに脅える必要はない。僅かに真相に関わった者たちは、手をとり喜んだが、彼女は違った。
「約束を、違えたわね紫」
「約束?」
私は約束を違えた覚えなどない。そのことを指摘してやると彼女は激高した。
「嘘吐きめ! お前は確かにあの晩に私に約束したはずだ、役目を終えれば元の生活に戻れると!」
「あぁ、そんなこと。簡単よ、それはまだ貴女にやるべきことが残されているということよ」
彼女は凄まじい剣幕、悍ましい気配を私に向けた。思い違いも甚だしい。
「ちょ、ちょっと落ち着いてよ」
「お、おい、落ち着けって」
霊夢と魔理沙が漸く使い物になった神社が破壊されるのを嫌がったのか間に割って入る。魔理沙はかなり怖がってるみたいだけど。
「そもそも、今の貴女自身に何の不満があるの? 貴女は手に入れ難い資格をいくつも手にしていると思うけれど」
「こ、こいつ・・・!」
端正な顔が醜く歪むと、より一層彼女が変貌したのだと実感する。彼女はこのことに気が付いているのだろか?
「紫! 煽らないでよ、アンタは喧嘩したいの? 宥めたいの?」
「まぁー今の状態なら、信仰だけで言えば博麗神社よりも相当拝まれてますよねー」
「早苗もう一度言ってみなさい! その厚顔無恥なお顔をぶっ飛ばしてやる!」
「霊夢、お前もちょっと黙ってろよ。話がややこしくなるぜ」
ぽけっとしている守矢の巫女に牙を剥き出しにして掴みかかろうとしている霊夢を魔理沙は取り押さえようと必死だ。
あの連中は自分たちが異変の元凶だという認識が甘いのではないのだろうか? 今後また妙なことをしないか注意しないと。
「ぐるるるる・・・・」
「おーどぅどぅ」
「すいません霊夢さん、ほんの冗談のつもりだったんです・・・ちょっとでも笑ってもらえるかなって・・・」
「冗談に全然聞こえないし、笑えない・・・」
守矢の巫女は急に悲しそうに俯き、表情を暗くした。いまさらそんな顔されても困るのだけれど。
博麗神社は以前いた僅かな参拝客もさらに減った。博麗神社に行って妙なお払いしなくても彼女に頼めば汚染された作物や農地を洗浄してもらえるのだ。ある意味霊夢にとって今までにない商売敵かもしれない。
「わかっていない様だから、しっかり言葉にしてあげるわ。 貴女の今感じている焦燥感は気枯れ、つまり穢れよ」
「穢れとは単に汚れや不潔な物だけとは限りません。 心の疲れ、嫌悪感、自分に対する負い目です。 幻想郷に穢れが無くなっても貴女の穢れが消えるわけではないの」
流石に厄を操るという神だ。雛は彼女の我儘をよく分かっている。私は出来る事なら今すぐにでも約束を果たすことが出来る。問題があるのは私じゃなくて彼女の方だ。
「貴女は友達に対して何か引け目を感じてるんじゃありませんか? 厳しい現実を直視する内にあなた自身の穢れが溜まっている。それを自分で認識出来ない内は元通りの生活なんて無理です」
「じゃあ今すぐ取ってよ! 雛は厄を取り除けるんでしょ!?」
「わからない女ね。 そのヒステリックな言葉遣いをしている間は私が何をしても無駄だと言っているの」
「紫!」
彼女は今までしたこともないような狂った顔で私を睨みつけてきた。こんな顔をする奴を子供だというにはあまりに無理がある。
怒りで肩を震わせ、憎悪に顔を歪ませ。
もしかすると彼女はもう、永遠に友達との約束を果たすことが出来ないのかもしれない。
振り上げた拳を振り下ろすかと思ったが、意外にも彼女はじっとそのまま私を睨みつけたまま動かなくなった。
「・・・・」
できる事なら私も何とかしてやりたい、こんな悲しそうな顔をする友人を助けてあげたい。
「あっ」
「おい!」
居た堪れなくなった空間を蹴散らして、彼女は神殿から飛び出していった、行く場所などないはずなのに。
霊夢が「追うわ」と断ったが私はそれを止めた。
「なんでよ?」
「霊夢、あの子は貴女に慰めてもらいたくないのよ」
「慰めてもらいたいのは一人だけ」と諭してやると、霊夢は「それもそうね」とけろりとまた座に居座った。
「はーぁ・・・」
「魔理沙、溜息なんてつかないでよ。こっちまで気落ちするわ」
「・・・なぁ、紫」
「何?」
しばしの逡巡の後、静かな部屋の中だった。魔理沙が不意に口を開く。
「どうやったらお姫様にかけた魔法は解けるんだ?」
この魔法使いは思いついたことをすぐに言葉にするから困る。こいつも思い違いをしている。
「貴女、私があの子に変な呪いでも憑けたと思ってるの?」
「違うのかよ?」
「違うわよ、逆。あの子は成るべくしてああ成ったの。彼女の今は幻想郷が望んだ新しい幻想郷の在り方よ。それを裏切ってまで元に戻してあげようとする私の姿勢は全く評価されないのねぇ」
少なくとも幻想郷がそう望む間は元の有象無象に戻ることは敵わないだろう。
「雛、泥田坊はどの程度減ったの?」
「そうねぇ・・・このままいけば夏には完全に居なくなるわ」
「あとちょっとだな」
なるほど、文句を言う程度には頑張っていたわけだ。当初の目測よりもずっと早く泥田坊を駆除できるだろう。
「全部退治できたらアイツは元に戻れるのか?」
「幻想郷が望めばね。望まなければあの子の力は完成されて・・・・そうねぇ、格付けは・・・・神にでもなるのかしらね? 幻想郷が初めて生んだ神に」
外の技術すらも呑みこむ不羈奔放の神。
そうなればあの子は友人でなく、私にとっても崇めるべき女になるのしら?
*****
「皆、おはよう」
「あっ!」
「おはようっ!」
「ええ、おはよう」
苦しい、苦しいままに博麗神社を飛び出してきてしまった。尊敬も、信仰も知恵もいらない。強さも必要ないしこんな大きな体も要らなかった。
ただ皆が無事ならばそれでよかったはずなのに。
「カミサマ!」
「・・・神様じゃないんだけどね」
「おい、カミサマ来たぞ!」
皆が雪を踏みしめると、ぎゅうと小気味のいい音がする。あちこちで雪玉を投げたりカマクラをつくったり、とっても楽しそう。
「ねぇ! 見てて、鞠付するから!」
「はぁい、ちゃんと見てるわ」
「ほら、見て見て!」
皆はわっと集まり、私の周りで楽しそうに遊び始めた。
「あんただかこどさひごさひごどこさ」
「くまもとさくまもとどこさ せんばさ」
ああ、やっぱりそうだ。
「せんば・・・・あっ!」
「ヘタクソ~!」
「・・・・」
私はここにいるべきなんだ。
私は足元まで転がってきた鞠を手に取る。自然と皆の視線が私の手元に集まる。
「ほら、こうやるのよ」
いつか、友達に教えてもらった手毬歌を歌う。周りには何時ものように仲間がいる。
「あんただかどこさひごさひごどこさ くまもとさくまもとどこさ せんばさ」「せんばやまにはたぬきがおってさ それをりょうしがてっぽでうってさ」
仲間たちは私の手の平をじっと見つめている。
まるで、元に戻れたみたいだ。
「にてさやいてさくってさ それをこのはでちょいとかぶせ・・・・」
「おぉ!」
唄を終えると、羨望の眼差しと共にどっと歓声が上がった。
「こうやって・・・体で拍子をとると上手くいくのよ」
景色は白く、吐く息もまた白いが。皆の瞳はそれに負けじときらきらと輝いていた。綺麗な手毬をつきながら、いつか友達に教えてもらったコツを教えてあげる。
「ねぇ、こう? こんな感じ?」
「えぇ、そうよ、上手ね」
皆を褒めてあげると、とても嬉しそうな笑顔で答えてくれた。やはり此処に居ると安らぐ。
ふと、手にしていた手毬に目を落とすと、あることに気が付いた。
「この手毬・・・・」
「その手毬、いつも社に置いてあるヤツ」
「だいちゃんがいつも独り占めしてるけど、カミサマならいいよ」
「・・・ふぅん」
そっけなく装ったが、持つ手が僅かに震える。もしかして彼女はもう約束を覚えていないのだろうか?
だとしたら私達はもう友達じゃないの?
「だいちゃん、ね」
きらりと光る刺繍があの時のままだった。白い刺繍は雪に埋もれたらもう見つけることが出来ないほどに綺麗だった。大切に扱われていたのだろう。
手毬を薄い日光に掲げた時、
「あ――!?」
慌ただしく、小さな影が飛び込んできた。奇声に目を丸くする皆をかき分けてその小さな妖精は突進してくる。
「返してよ!」
「あっ?」
「おい!」
手にした手毬をさっと取られてしまう。皆の表情は辛く当たる様な厳しいものに変わった。
「おい、だいちゃん!」
「うるさい! とっちゃ駄目っていったでしょ!」
現れた小さな影はだいちゃんだった。乱暴に私の手から手毬を奪い取り、大事そうに胸に抱えていた。
「なによ! いっつも独り占めしてさ、だいちゃんのケチ!」
「ちょっとくらい使ってもいいじゃん! ひとりで遊んで威張ってんじゃねぇよ!」
「・・・・」
私の知らない表情だった。だいちゃんはきつく皆を睨みまわして叫んだ。
「これ、チルノちゃんのだもん!」
「チルノ?」
「どいてっ!」
「いてっ」
「みんなのばかっ!」
だいちゃんは一人を突き飛ばして輪を抜け出した。あっという間の事で私は何もできなかった。色んなことが頭をぐるぐる回って、言葉に出来ない。
「なにすんだっ!」
「だいちゃん、何処行くのよ」
「チルノちゃんと遊びに行くっ」
「だいちゃん!」
そのまま皆の声を聞くか聞かないか。手毬を大事そうに抱えたまま、冷たい雪を被り、白い森の中に消えていった。
「なんなのよ!」
「・・・・最近だいちゃん変だよな、皆と遊ばなくなったし」
「・・・うん、だよな」
乱暴な雰囲気を残したまま、皆は愚痴をこぼす様にあれこれと話を始めた。
だいちゃんのことを聞いてみたい。いったい彼女に何がおこっているのだろう?
「ねぇ、今の子って・・・」
「今の子、だいちゃんって言って・・・・えぇっと」
「いつもは、あんな奴じゃないんだけどさ・・・・最近なんか変なんだよ」
すこし体の大きい子が進み出て少し気まずそうに眼をそらしながら説明してくれた。
「すごくアタマよくてさ、ちょっと前までは皆の親分だったんだけど、いまじゃすっかりあんなになっちゃって」
「・・・そうなんだ」
知らなかった、彼女は昔と同じ、朗らかに暮らしていると思っていたのに。
「そうなんだ」
「うん」
悲しく想う一方で、心のどこかで私はほっとしていた。
彼女はまだ、約束を忘れたわけじゃない。
「それにさぁ・・・・なぁ?」
「うん」
「・・・チルノって誰?」
「しらないわよ、そんなの」
「・・・・」
その後、私は皆に別れを告げ彼女を探しに行った。広い湖が氷付き、その上に薄く雪が積もっている。
目を凝らすとその上に小さな足跡が、真ん中へと続いていた。
どこからか手毬歌が聞こえてくる。
その音色はどこか泣き出しそうに、悲しげだった。
「あんただかどこさひごさ ひごどこさくまもとさくまもとどこさ せんばさ」
それに続けて私も唄う。
「せんばやまにはたぬきがおってさ それをりょうしがてっぽでうってさ」
そこにはやはり約束通り彼女が居た。私の姿を見るととても吃驚したようだった。
「こんにちは」
「・・・・・」
軽くお辞儀をして、挨拶を交わす。彼女は返事をしてくれなかったけど。
「さようならっ」
彼女は私の脇を通り抜けてどこかに行ってしまった。
「またね」
彼女の小さな背中は、雪化粧した森の中に小さく消えていく。
私と彼女のかくれんぼは、まだ終わらない。
永久の余命宣告「三告」
「だいちゃん、キスしたって本当?!」
「・・・えぇっとぉ」
「ま、まじかょぉ・・・」
湖の畔で、十に満たない容姿をした子供たちが、ある話題でトコトン盛り上がっていた。
ありきたりな恋の話だ。ただそれが普通の子供と少しだけ違うのはその子供たちがちょっと浮世離れした奇麗な顔で、人の物とは思えない綺麗な羽をそれぞれに持っていたことだ。
「ねぇ、どんなだった!」
「えぇっと、そのね・・・」
「チクショー・・・」
だいちゃんのはっきりしない、それでいて頬を染めた反応が実に信憑性を込めた意味合いを以て、妖精たちを興奮させた。
妖精達も幻想郷の少女と同じように恋には敏感なのである。
そんな折、寝起きのチルノがぼけっとした顔でのっそり皆が集まるいつもの遊び場にやってくる。
「ふあぁぁ・・・」
「・・・・」
「よぅ、チルノ」
「すっごい寝癖ね」
「夜更かししてたから」とチルノは適当に言い訳をしておいて、皆が騒がしいのをなんとなく問いただした。
「なに? どうしたのさ、なにかあったの?」
「それがさぁ! チルノ聞けよ!」
「そんなでかい声出さなくてもいいわよ、どんだけショックだったのよあんた」
「うるせぇ!」
輪の内で恋に破れたらしい妖精が一匹涙を流していた。その妖精が滂沱と共に一言チルノに告げた。
「だいちゃんが里の男の子とキスしたらしいんだよ!」
「うっぅぅ・・・・うぐぅッ・・・!」
「泣かないでよ」
「・・・あはは」と、変な笑顔でだいちゃんは笑っている。その隣で何匹かの妖精がこの世の絶望みたいな顔をして、体育座りで膝に顔を埋めていた。
チルノは、ぼけっとした表情で「どうでもいいや、そんなの」とでも言いたげにがしがしと寝癖を弄り、だいちゃんをじっと見つめる。
「チルノ、気にならないのか?」
「え、うん・・・まぁ気になるかな?」
「意外ね、チルノの事だから大騒ぎすると思ったけど」
やや、興奮もさめないままに妖精たちは「もっと驚けよ!」とでも言いたげにチルノにさらに詰め寄る。チルノはその様子をちょっと迷惑そうにやんわりとした態度で会話していた。
「だいちゃん、本当?」
「えっと、その・・・・うん。本当だよ」
「・・・ふぅん」
「・・・・うん」
もじもじと手をすり合わせながらに、ぎこちなく頷く姿は正に恋する少女そのものだった。そのだいちゃんの愛らしい仕草。密かに横恋慕していた妖精が男泣きを始める、よほどグサリときたらしい。
「泣くなよ」
「何度も言われなくてもわかってるよ! チクショウ!」
「なによぉチルノ、もっと驚きなさいよ! 先をこされちゃったのよ?」
「十分おどろいたよ、それより今日は皆で遊ぶ約束だったでしょ?」
「ったく、変なチルノ!」
チルノの拍子抜けの態度に仲間の一人はがっかりしたようだった。なにやら煮え切らないチルノを置いてきぼりにして、また妖精たちは一つ大人の階段を上がったといえるだいちゃんを中心にして騒ぎ始めた。
「ねぇ、遊ばないの?」
「それどころじゃねぇだろうが! 空気読めよ!」
「チルノ、妙な肩肘張ってんじゃないわよ、素直に認めなさい。悔しいに決まってんでしょ!」
「別にぃ」
いつもイの一番で大騒ぎするチルノは、皆の輪を一つ離れた場所でそれを見ていた。
どこかおかしい、そう妖精たちは思ったが、それもいつもの事なので放っておいた。チルノが気まぐれを起こして妙な反応をするのはいつもの事なのだ。
集団でのパトロール隊の行動も、チルノの気まぐれだったのだろう。最近はチルノが皆をまとめて、きちんと数を数えて、そして家に帰すところで終わりだ。
学校の集団下校の様にチルノが先頭に立って、家に帰すだけ。スリルを味わえなくなった妖精達には大いに不評であった。チルノは気まぐれだから計画倒れになるのも、いつもの事なのだ。
チルノが、夜中にこっそりどこかに出かけるのもチルノが変な思いつきでもしているからに違いない。だからみんなそんなこと気にしなかった。
「あ、あのね皆、実はね・・・」
「ふんっ!」
わいわいと、喧騒を嫌うようにチルノはひとつ鼻を鳴らした。
「あたい、用事あるからっ!」
「じゃあねッ!」と捨て台詞のように吐き捨ててから、チルノはすごい速さで見えなくなった。もっとも、チルノを気に留める妖精はほとんどいなかったが。
「あ・・・・」
「なぁ、そいつってどんな奴?」
「かっこいいの?」
「どこでキスしたの?」
チルノが、乱暴な足取りで去っていく。だいちゃんは皆に囲まれて追うことは出来なかった。質問攻めにされる中でチルノの、なんだか変に大きい背中を見ながら呆然とするしかなかった。
****
「・・・・・」
もう、皆がいたところからずいぶん離れたかな?
「ちぇっ・・・」
やっと、ようやく数が数えられるようになったのに。だいちゃんはいつもあたしの先を行くのだ。ズルい。
あたしは広場、みんながそう呼んでいる場所から少し離れた。まだヘドロをやっつけていない場所まで来ている。ここなら誰もいないから。
「だいちゃんのばかぁ!!」
そこらへんの木を蹴っ飛ばすと、がさがさと葉っぱが鳴ってひらひらと葉っぱが落ちてきた。
やっと同じになれたと思ったのに、次はだいちゃんはキスだ。全く持ってこの世は平等じゃない。大体今日は皆と遊ぶ約束だったのに、一体全体どういう風の吹き回しだろう。悔しくてさっきはそっけない態度を取ってしまった。
このむかむかする匂いを嗅いでいると、なんだか苛々してくる。あのドロドロとした化け物を喰い殺してしまえば、少しはすっきりするだろうか?
背中から、嫌な感じがする。こっちを見てる。
振り向くと案の定ヘドロの化け物が居た。三本の指を振りかぶってあたしを刺し殺す予定だったらしい。よく見るまでもなくイヤな顔をしている。
「ふんっ」
さっとよけると、さっき蹴っ飛ばした木の幹にぽっかりと穴が開く。ヘドロの汚い腕が手の届く場所にあったので掴んで思い切り力を入れる。
「のろまッ! 死んじゃえッ!」
力を入れた部分が「ばりばり」と中の部分から音を立てて氷付いていく。ヘドロの化け物は苦しそうにうめき声を上げる。いい気味だ、胸がすっとする。
どうせ、頭が悪いんだろう。諦めようとしないヘドロはあたしに詰め寄って体を掴もうとした、実際あたしの体はヘドロのもう片方の汚い手に掴まれる。
「さわんなっ!」
すぐ近くにあった頭みたいなところに手のひらを翳して、冷気を思い切り叩きつけると、ヘドロの頭は卵を岩にぶちまけた様に爆発した。そうするとヘドロはへなへなと崩れていく。冷気に当てられたヘドロは動かなくなるのだ。
「ばぁーか、しんじゃえ」
精いっぱい憎たらしい顔と、声を出してヘドロを嗤ってやった。こいつらにどこまで伝わってるか知らないけど、今はすごく苛々しているから。
いつものように、あたしはバラバラになった破片からヘドロの芯を探す。今日は何も口にしてない。お腹と背中がくっつきそうだ。それを掴んで口の中に放り込むと少しましになる。
「・・・・ふぅ」
「今日は荒れてるわね、チルノ」
「!」
「こんにちはチルノ、何か嫌な事でもあったの?」
「・・・・べつにぃ」
「そう」とくすくす笑う。こいつは紫だ、最近仲良くなったけど紫の考えてることはあまり分からない。
「とりあえず、手を洗ったら?」
「言われなくても分かってるよ!」
手を洗っている間、紫は傍の適当な場所に座って色々聞いてきた。聞かなくてもいいのに。
「それで、一体どうしたっていうのかしら? 貴女がそんなにしてるなんて珍しいじゃない」
「怒ってないし」
「怒ってるって言った覚えはないんだけど」
今にも吹き出しそうな紫は、あたしを見て楽しそうにしていた。こっちは苛々しているのに間の悪い奴だ。
「で、何の用さ」
「そんな邪険にしなくてもいいじゃないのよぅ」
「ジャケンじゃないし」
「あの子達と喧嘩でもしたの?」
「・・・・」
喧嘩じゃない、あたしが勝手に怒って逃げてきただけだ。大体みんなあたしの事なんんて気にも留めてないだろう。もう一度考えたらまた腹が立ってきた。
「当たらずとも遠からず、かしらね」
「ふん」
「貴女もいいお姉さんなんだから、我慢をおぼえなくちゃ。『負けてあげる』というのは大人が子供と接するときにはとても大事な事」
「大人じゃないし」
「またそんなこと言う」
紫は「他人に話を聞いてもらうと案外すっきりするものよ」とニコニコ笑ってあたしの隣で中腰になる。紫はどんだけ私にかまってもらいたいのだろう?
「・・・・笑わない?」
「笑わないわ」
「場合によりけりだけど」と笑いながら紫が言った。やっぱり笑ってる。
あたしは今朝起きたことを、とりあえず紫に話した。あたしが頑張ってもだいちゃんに先を越される事。後は約束を破られたんじゃないかと、むかつくことも話した。
「それで、ムカムカしてさぁ・・・」
「・・・・」
「? 紫・・・?」
紫は俯きかげんに、体全体をプルプル震わせている。それで鞠が跳ねるように体を広げた後に思い切り叫んだ。
「あっはははは! キスですって?! ふふっ、それでそんなに怒ってたの?」
「! やっぱり笑った!」
「ぷっ! ふふふ、あははは!」
「あぁ、オカシイ」と紫は何度もお腹を押さえて苦しむ様に息を吐いた。やっぱり話すんじゃなかった。恥ずかしくて耳が真っ赤になるのが自分でもはっきりわかってしまう。もうこいつには絶対に相談なんてしない。
「ああ、ごめんなさい。一応真面目に聞くつもりだったの」
「嘘つけ! そんなに顔真っ赤にして笑ってたのに!」
「それにしても・・・キスねぇ、ふーん・・・」
「もういい! 紫なんて知らないから!」
腕を組んで、隣に座る紫からそっぽを向く。あれだけ笑ってもうちょっと真面目に謝ってほしい。
「大体、紫はどうなのさ。 そこまで笑うんだったら紫は当然『ケイケンホウフ』なんでしょうね!」
「も、もちのろんよ?」
「今嘘ついた! わかるからね!」
「まぁそれはさておき」
「話そらすな!」
かなりドウヨウし、目がすごい勢いで泳いでいる。まるで素早いメダカみたいだ。
だけど、そのあとで紫はすごく気になることを言ったのだ。紫のケイケンというものをじっくり問い詰めたかったが、それよりももっと気になることだったのだ。
「実は、貴女のキスの悩みを一発で解決できる方法を知ってるのだけど」
「え、マジ?」
紫は「聞きたい?」とじれったく何度も聞いてくる。あたしは仕方なく「うん」と答えてやった。
「スキマ妖怪に出来ない事なんてないのよ」
「良いから、教えてよ!」
紫は一転して実にエラそうな顔をして大きな胸を張った。あたしの胸とは大違いだ。
「マジよ、しかもそれは善意でやるし、とっても善いことになるから誰も傷つかない。おまけに貴女は色んな人から感謝されるわ」
「おぉ!」
あたしの悩みが解決して、それで皆から感謝されるとは恐ろしい一石二鳥だ。一体どんな秘策があるというのだろう? ちょっとドキドキしてきた。
「こっちに来て」と紫が手招きをする。素直に耳を紫の口に近づけると、小さな囁き声はあたしに、だいちゃんと差をつける方法を教えてくれた。
「それはね」
「うん!」
***********
「えいっ!」
霊夢の気合と共に、形のないドロドロとした妖怪が破裂した。その飛沫が僅かに服や、肌に当たる。
「・・・・」
「おーい、霊夢終わったぜ」
「うん」
ぐいと袖で拭うと、腐臭が鼻につんと香った。
もうこうしてから、どのくらい時間が経っただろうか?
「そろそろ里に戻ろうぜ、今日はこのくらいでいいだろ」
「・・・ん」
霊夢は返事のない返事で頷いてからおとなしく魔理沙の後を追った。
里での妖怪退治を依頼されてから、数日が経った。何度もこうして里の見回りをしているが、霊夢はどうしてもこの作業に似た仕事に不安を持っていた。別の言い方するならば、手ごたえがない、とも言えた。
里に戻ってくると、いつもより少し静かだ。その代わりにいつもと違う生臭い匂いが漂っている。この腐臭が里の景観を変えてしまっているのだと霊夢は思った。
「慧音、終わったぜ」
「ああ、ありがとう」
里の中心にある慧音の棲家。気が向いたときか、あるいは毎日の様に子供たちが出入りして読み書きを教わる場所でもある。しかし最近はすっかり子供たちの出入りは少ない。その代り大人たちが疲れた顔で慧音に教えを乞いに来るようになった。
「阿求がね、調子が悪くてね」
「・・・そう」
「まぁ、大丈夫だとは思うが、こんな時期だ。いろいろ気弱になっているのかな」
少し慧音もつかれているのかもしれない、偶に目元を指でこする様子は寝不足の子供の様だ。
「これから商屋に行く予定があるんだが、一緒に来てほしいんだ」
「なんで?」
「その商屋の旦那が酷くて困っているらしい。霊夢、君は確か以前に外の流行病を静めたことがあった、少し知恵を貸してほしい」
霊夢達が里に来てから、これでも幾分かマシになったのだ。初日に霊夢達がやってきた時はもっと酷かった。里のあちこちで正体不明の妖怪が歩き回り腐臭と汚泥をまき散らしていた。
原因が河童たちの工場にあると聞いた時に怒ったのは魔理沙だった。
「ったく・・・なーにが『今原因を探ってる』だ、もっとやるべきことがあるだろ!」
「・・・うん」
魔理沙によると、にとりを初めとした河童たちは今はのんびりといろんなところで穴を掘って地下水を調べて回っているらしい。
今は無縁塚に何か、妙なモノを建設していると言う。
「こいつは火急の解決が必要な異変だぜ、あいつらに歩調を合わせてたら幻想郷が滅んじまう」
魔理沙は相当お冠らしい、偶に演説するような口調で霊夢に語りかける。
その様子はどこか誇らしげであった。自身にあふれた様子はほかの人間を自分が守っているのだという正義のこころから来るのかもしれない。
そうこうしている間に目的の庄屋に着く。出迎えの使用人が現れ、丁寧挨拶を交わした後に奥に通される。
「・・ふぅん」
「大したもんだ」
障子には上品な細工、畳から清潔な香りがする。余程稼いでいるのだろう。
かといって高慢な雰囲気はなく礼儀の通った場所だと霊夢は感じる。
「旦那」と呼ばれる男は静かに白い布団にくるまって寝ていた。傍にいるのは妻だろうか、少し疲れた顔をしている。
「巫女様、助けてください」と妻は頼み込んだ。心労でまいっているいるのが傍目に見ても痛々しいほどにわかった。
旦那が起きて挨拶しようとするのを霊夢はあっさり「寝ていて下さい」と押さえこむ。
「・・・・」
「おい、霊夢?」
「魔理沙、すこし静かにしてて」
「神様と話してるから」と霊夢が断ると、魔理沙は慌てて口を押える。そうして旦那もしばらく静かに霊夢をじっと見つめていた。
「・・・・具合はどうでしょう? どこか痛みますか?」
不意に霊夢が口を開く。旦那は悲しそうな声で「体の節が痛みます」と答えた。部屋にいるのは受け答えをしている二人を除けば慧音と魔理沙だけで、その二人もいつになく真剣な霊夢の眼差しに息を呑んでいる。
「ほかにはありますか?」
霊夢がもう一つ質問すると旦那は「吐き気が時折して、とても辛い」と答えた。答えるだけでも苦しそうで、顔も色がないように白い。
聞くまでもなく、この庄屋の主人の具合は件の汚泥の妖怪が里に現れた時から始まったという。
「先ほど、神様と話をしました。病気を受け持つ神様を探しています」
「それが決まれば、すぐに病は治ります」と霊夢は話す。表情はやや厳しく口元をぎゅっと占めて、喉から声を絞り出すようだ。
「少しでも楽にはなりませんか? 苦しいのです」と旦那は悲しそうに霊夢にねだったが、霊夢は首を横に振った。
「準備をしてきます、待っていて下さい」
霊夢の少し震える声を聞くと、「そうですか」と旦那は寂しそうに少しだけ微笑んだ。
旦那の枕元には薬箱が積まれるようになっている。もうずいぶん苦しんだらしい。そのことを想像して魔理沙は視界を遮るように帽子を深く被り直した。
霊夢達がいくつか家人の話を聞き、見送りを受けながら大きな商屋を後にした。霊夢はしばらく俯いて、何処をみるでもない視線を自分の足元に向けている。
「霊夢、どの神様が病気を受け持ってくれるんだ?」
以前、里の流行病を霊夢が収めた時は香霖堂の無銘の壺に神を宿らせることで収拾した。その現場を一緒に見ていた魔理沙は「きっと今回もすぐに治まるんだ」と思った。
「まぁ、そうね。 もうちょっと時間がかかるわ」
「もうちょっとって・・・」
「さっきの商屋さんはどうなるんだよ」と魔理沙が声をちょっと怒らせ、感情の無い顔で霊夢は「なんとかするわ」とだけ簡素に付け加える。
「魔理沙、私はやることがあるから先に戻ってて。お父さんの具合とか気になるでしょ? 見てきてあげなさいよ」
「別に、そんなことねぇよ」
「じゃあ、妖怪退治の続きでもいいわ。アンタなら楽勝でしょ?」と説得する。納得できないと不満そうな魔理沙であったが、博麗の巫女の指図とあらばそれほど無下にもできず魔理沙はしぶしぶと里の中に入っていった。魔理沙の向かった方向は霧雨道具店のある方向だ。
「まったく、素直なんだかひねてんだか・・・」
「ふむ」
「それで、慧音」
「なんだね?」
「慧音、『泥田坊』って名前に聞き覚えはある?」
「・・・なるほど、やはりそうだったか」
「知ってたのね」
「雛が厄を吸い取れないと言った時点でおかしいとは思っていた。確証がなかったから言うべきではないとおもったが、そうだったか・・・・」
慧音は重くなった眉根を近づける。「うむむ」と何度も繰り返し腕を組み直した。
「あの商屋は治せないのか」
「厳しいわ」
「そうか・・・・」
「それよりも、慧音。泥田坊ってなによ? どういう妖怪なの?」
「ん? 知ってるんじゃないのかい?」
「私は神様から名前を聞いただけよ、どんなかは知らないわ」
慧音はしばらく言葉を選ぶために考え、「ドロタボウ」という妖怪について集り始める。
泥田坊は人の怨念を糧にして現れる妖怪。農民の、田畑を奪われる恨みから生じ、その怨念を喰って増長する。
泥田坊は田畑に現れる妖怪であり、幻想郷にはほとんどなじみがない妖怪だった。それというのも幻想郷の人間はそのほとんどが勤勉であり、また土地は神々の力で保護されているために不作というものを経験しない。そのために泥田坊は現れることがないのだと慧音は言った。
「農家の怨念・・・・ね」
「だが、幻想郷には農家の抱える怨念など存在しない。すくなくとも泥田坊が警告に現れるほどのものは今までになかった。だから最初はこの異変は泥田坊のものではないと思ったんだ」
しかし、霊夢が神憑りをして「泥田坊」という言葉を口にした。もはや疑いようがない。博麗の巫女の御告げが下ったのだ。
「出所のわからない恨みや怨念が、彼を暴走させている」
重々しい慧音の姿に、霊夢は少々驚きはしたものの直ぐに安易な解決策を思いつき、口にする。
「簡単じゃないの、深く考える必要はないわ。 雛にその怨念とやらを汲んでもらえば万事解決じゃない」
「先ほども言ったが、泥田坊は唯の妖怪ではない。ある意味では神なんだ、厄神の一種とでも言うべきか。彼は普段、田畑の隅でひっそりと暮らしている神で、肥えた土を提供してくれる。猛威を振るう一方、神の一面もあるから退治は容易ではない。その手の話は釈迦に説法だろう?」
霊夢は直ぐに気が付いた。典型的な厄神だ。神には二面性があり和と荒の性格を二つ持つ。泥田坊というのはその荒の性格をもつ神なのだろう。
「相手はある意味では神だから、神の雛には厄を吸い取ることができない?」
「そういうことだ、実際何度か試したらしいが効果がないらしい。ほかにも気になることを幾つか話していたがね」
「どんな?」
「『この穢れは普通の穢れじゃない』そうだ」
「・・・・」
「なんにせよ、相手は一筋縄ではいかない。 こうして里の治安だけでもと君たちに頼ってはいるが、もしかしたら別の場所で、もっと酷いことが起こっているのかもしれない、そんな気がするんだよ・・・・」
その後いくつか慧音と霊夢は今後の予定を話し合い、別れた。
「また、お願いするよ」と不器用に愛想笑いをする慧音は早足で帰宅していった。きっと阿求の具合がよくないのだと霊夢は邪推する。
このまま、どうなってしまうんだろう?
妖怪退治としての自分の技能が役に立てているのか、とても不安でもどかしく思う。霊夢自身が、自分がどんなに頑張って妖怪を退治してもこの異変を解決することはできないのではないか? そんな根拠のない焦燥に駆られ始めていたからだ。
暫くして魔理沙が妙に上機嫌な様子で戻ってくる。実家の様子を見てきたのだと言った。
「ったく、私の顔見るなり『何しに来た』だってよ、どう思う?」
「私に聞かないでよ、アンタがどう思ったの方が大切でしょ」
「そりゃあ久しぶりに娘が顔だしたらもうちっと嬉しそうな顔を期待するもんだろ、娘としてはさ」
「ふぅん」
「あんまりアタマにきたから『くたばってるか見に来てやった』っていってやったぜ」
「まぁ、そのあとたたき出されたけどな」と眉を厳しく寄せながら魔理沙は偉そうにしていた。ちょっと声が弾んでいる、頑固な父親がこんな異変の最中でも変わらずにいたのが嬉しかったのだろう。
「ちょっとは親孝行しておきなさいよ、後悔するわよ」
「里のために戦ってるんだぜ? 私はこれ以上なく親孝行な娘だと思うがね」
「はいはい」
霊夢は「やれやれ」と肩を竦めて、親友の笑顔を眺める。こうしていると、さっきした根暗な話も胸から晴れていくようだ。
「今日はどうする? 泊まっていく?」
「霊夢の所は今すごく臭くなってるだろ、妖怪的な意味合いで」
「じゃあ、私が魔理沙の所に泊まるわ」
「それでいいのか博麗の巫女」
「私がいいんだから、それでいいのよ」
博麗神社は現在、泥田坊によって占拠されかなり異臭がするらしい。霊夢が漸く重い腰をあげる切っ掛けになった理由でもあるのだが、依然として博麗神社は人の住める環境ではないらしい。
「これで霊夢も野良巫女か」
「不吉なこと言ってくれるわね」
「いや、案外それでいいのかもしれないぜ? 巫女を廃業して、これからは私と組むってのも良いんじゃないか?」
「冗談じゃないわよ、私は素敵な楽園の巫女。これだけは譲れないの」
冗談を交わしながら、魔理沙の家に向かう。魔法の森は比較的被害の少ない場所だ。
上空からきょろきょろと森を見渡しても、いつもの風景となんら変わりなくすら思える。
「いつもの紅白、白黒じゃないの」
「お! アリスじゃないか」
「最近、妙なことになってるみたいじゃない」
魔法の森に棲みかを定める魔理沙以外の魔法使いが霊夢達同様空を散歩していたらしい。「犯人捜し?」とアリスが訪ねてくる。アリスはこの異変も、いつもの如くどこかの暇な妖怪が仕掛けた異変だと思っているらしい。どこか呑気で、頬を赤らめて楽しげですらある。
「・・・そんな所かしらね」
「ま、私たちに任せてれば心配いらないぜ」
「私は今回の犯人はヤマメ、もしくはあの人形だと睨んでるわ。だってそうでしょ、こんなエンガチョ事件を起こすのはあいつ達以外にあり得る?」
「いや、今回の事件は山の河童連中の仕業らしい」
「私はそれに、あの連中がなにか手を貸してるんだと思ってる。じゃなきゃこんな大事になるわけないじゃない!」
「・・・・・」
自分の推理を高々と話アリスは余程気分がいいのか、頬を赤らめて次々に言葉をつなぐ。魔理沙も「一理あるな」と何度か相槌を返していた。その後、魔理沙は「なるほど」と手を打ち「じゃあ明日はそいつらを尋問しに行こうぜ!」と息を巻く。
「それに、偶には私もさそってくれたっていいじゃない? 一人じゃ暇で暇で仕様がないわ」
「別に来たきゃ来ても構わないぜ、お前が言ってこないのが悪いんだよ」
「じゃあ決まり! 行くときは私にも声かけてね」
完全に行楽気分である。霊夢は本当の事を教えるべきかちょっと悩んだが、話さないことに決めた。「私たちのやってたことは全く無意味よ」などと魔理沙に告げればヘソを曲げるだろうし、少なくとも自分たちの活躍で里の治安が守られているのは事実だ。
「それには及ばねぇよ、これから霊夢も私の家に泊まりに来るんだ。お前も泊まってけばいいじゃないか」
「・・・まぁ、それでもいいわよ?」
「しかたないわねぇ」と妙にニタニタした、緩んだ笑顔でアリスは魔理沙の申し出を快諾する。三人の少女が連れ立って、買い物にでも行くような気軽さ、この空気に霊夢は忘れかけていた焦り、不安がまた盛り返してくる。
『出所のわからない恨みや怨念が、彼を暴走させている』
『もしかしたら別の場所で、もっと酷いことが起こっているのかもしれない、そんな気がするんだよ・・・・』
そういえば、これだけの異変なのに・・・・私はまだ紫と話してすらいない。
何か、大変なことが起こってるんじゃないだろうか?
「・・・い、おいってば!」
「霊夢?」
「え・・・・?」
「どうしたよ、ぼけっとして」
魔理沙とアリスが晩御飯の話をしていたらしい、思案に耽っていたいた霊夢はどうやら二人の会話を聞き逃していたようだ。
『田をかえせ』
「・・・・・」
「それでさ、霊夢はシチューのほうがいいか?」
「わたしはガツンとしたものが食べたい気分なんだけど」
「わかってないなアリス。シチューってのは効率よく栄養を取ることが出来るんだよ」
『田を返せ』
「・・・・?」
森の囁きに混ざって、霊夢の聴覚に煤けた、何か訴えるような声が聞こえる。霊夢達のいる場所は、魔法の森の入り口の近く。魔理沙の家まではそう遠くない場所をぶらぶらと歩きおしゃべりしている最中である。
「ねぇ・・・」
「捨食した魔法使いは健康に気を使う必要なんてないわよ」
「じゃあお前は私に気を使うべきだな、今日は私はシチューの気分なんだよ」
「ねぇってば! 二人とも聞いてる!?」
霊夢の怒鳴り声に重なるようにまた、あの声がまた聞こえる。
『田をかえせ』
「霊夢も何か食べたいものでもあるの?」
「悪いが、今日はもうキノコシチューで決まりだぜ」
「変なキノコ入れないでよ」
アリスが茶化したのを無視し、霊夢ははっきりと怒鳴り声を上げる。声に気付いていた霊夢の首筋は鳥肌が立ち、背中には冷たい汗が流れるのを感じる。
「何寝ぼけてんのよ! 今の聞こえなかったの!」
「今のって・・・・何が聞こえたっていうんだ?」
『たをかえせ、たをかえせ』
もう一度、自分の存在を知らせるように、ひどく歪んだ響きが森の囁きに混じり広がった。今まで気軽なおしゃべりに興じていた少女たちの顔の緩さが一気に張りつめたものに変わる。
「・・・本当に、聞こえないの?」
「・・・いいえ、聞こえたわ」
「・・・私も、今のは聞こえたぜ」
ずるずると、粘質なものを引きずる醜い音。靴の裏に粘着質の汚れをくっ付ければこんな音になるだろうか。悍ましい気配。
三人はすぐさま振り返る。
「あれって・・・」
「!」
「あ・・・」
少女たちの見た光景は、彼女らが想像したものよりも、彼女たちが覚悟したものよりも、もっと穢わらしく、異常な光景だった。
「人? 人を喰ってるのか・・・?」
「うっ」
不気味な虹色の光彩、肌の色は他にたとえようも無く。体の形は不安定に揺らいでいる。いままで霊夢や魔理沙が退治していた泥田坊と言う妖怪に間違いなかった。
ただ霊夢達の目の前にいるそれは、明らかに見てたものよりも大きい。赤子程度の大きさしかなかった妖怪のはずが、目の前の妖怪は何倍も大きく、明らかに霊夢や魔理沙と以上の体格を持っている。
それが倒れた、人影に覆いかぶさり何かを食い破っている。
「はあっ!」
「えっ!?」
「! くそっ!」
霊夢が迷わず、破魔札を妖怪目掛けて打ち込む。一歩踏み込んだ霊夢に一瞬遅れて魔理沙が続き、アリスが事態の異常さに呆然、出遅れる。
「これでも喰らいなさい!」
破魔札は命中し、泥田坊の肌を爆発させるように焼いたが、特に気にした風でもなく三人の方を振り返った。
「うそっ!?」
霊夢自慢の破魔札がほぼ不発に近い形で終わり、かなりぎょっとしたらしい。少し相手と距離をとり、もう一度破魔札を構える。食むのを止められたのはいいが、泥田坊に襲われていた人影はピクリとも動かない。霊夢の額に汗がにじんだ。
「あの人・・・死んでるの?」
「さぁな、どっちにしてもぶっ飛ばすしかねぇみたいだ」
「ちょっ! 魔理沙、これどういうことよ!?」
「話は後だ、やるぞ!」
魔理沙の気合の声に応じるように泥田坊の頭部らしき部位がぶくぶくと膨れ上がる。
「な、何?」
「・・・・」
「・・・・」
感じているだけで吐き気を催しそうな臭気と姿にアリスは怖気づく。頭部がぐわりと一際大きくなった次の瞬間、破裂し。大量の飛沫が三人を襲った。
「きゃあっ!?」
「ちっ」
「ふッ!」
鋭く息を吐き、鞠のようにはねた霊夢は泥田坊の頭上に飛翔し。魔理沙はとっさにマントを煽らせ飛沫を防ぐ。マントと飛沫が触れた部分が、妙な熱を持っている。当たれば火傷程度はしただろう。
的確に動く二人とは対照的に、アリスは驚きながら転倒。結果的に攻撃から身を守れたが、随分と無様な格好である。
「『スペルカード宣言』・・・・」
魔理沙が懐からカードを取り出し、宣言を行おうとしたが、醜い妖怪は「聞く気はない」とでも言いたげに鋭い三本の指を魔理沙に突き立てようと、腕を振りかざした。
「って・・・まぁ聞くワケねぇか」
魔理沙は不敵に嗤い「おっと」と余裕の表情で妖怪の刺突を紙一重で避ける。耳元でちりちりと空気の焼ける音。当たれば大事故につながるだろう威力を、魔理沙を初めとした霊夢、アリスに正確に教える。
「魔理沙!」
「アリス、とっとと片付けるぜ!」
「魔理沙、プランBよ!」
「ねぇよんなもん!」
馬鹿な冗談で場を茶化しながらも霊夢がお払い棒を剣の様に握りしめる。いかにも「神聖な気配です」といった後光を持たせたそれを的確に妖怪の頭部に叩きつけた。
「む、むっ?」
「霊夢、どけ!」
「いや、なんか抜けなくなったんだけど!」
「霊夢、後ろ後ろ!」
アリスの忠告通り、霊夢が妖怪の頭部にめりこんだお払い棒をどうにかしようと悪戦苦闘している内に、背後から別の腕が霊夢の背を貫こうと迫っていた。
「オラァ、喰らえ!」
「え? きゃぁあ!?」
霊夢を助けたいのか黒こげにしたいのか分からないが、魔理沙が霊夢と妖怪目掛けて八卦炉を放射。間一髪、きわどくよけた霊夢自慢の御髪がちりちりと焦げ、付近の木々が四方八方に飛んでバラバラになる。
「なにするのよ! 殺す気!?」
「助けてやったんだろうが、いいから目ぇ離すな!」
魔理沙の魔法は妖怪の一部をこそぎ取ったが、相手はそれでも殺意を失っていないらしい。魔理沙を危険だと判断し魔理沙に矛先を向けた。
「うわ・・・こいつすげぇ気持ち悪いな・・・」
「魔理沙、私の大切なお払い棒吹っ飛ばしてくれちゃって。後で弁償しなさいよね」
「あんな棒切れにどんな価値があるっていうんだよ?」
さらに霊夢が封魔針を雨の様に泥田坊の上空から降らせる。弾幕ごっこと違い、よける隙間の無い密度のある弾幕で手加減も一切ない。超高速の弾丸が蓮根の根の様に泥田坊の体を貫いて、風穴を開けた。こんなことをされたら妖怪だろうが人間だろうが普通は唯では済まない。
「まだ生きてやがる」
「・・・・私の自信ってのが、ちょっと揺らぎそうだわ」
幻想郷最強と言われる妖怪退治の二人も、いまだ相手に息があるのにとても驚く。目を見開いて悍ましいうめき声を上げる妖怪を畏怖の視線で見つめた。
幾分動作はのろい。しかしへドロの体をもつ妖怪を殺すにはまだ十分ではないらしく、霊夢達の華奢な体を捕まえようと粘着質の腕を伸ばしてくる。
「まさか、不死身ってわけじゃないよな?」
「往生際の悪い奴ね」
二人はちらりと妖怪に襲われていた人影に目を移した。
どうやら年若い男の様だが、もう息は無いに違いない。
手には石を握りしめている。命の限り戦ったのだろう、その上で妖怪に躯を貪られたのだ。
そのことを思うとふつふつと心の底から怒りが沸き上がる。
「野郎・・・タダじゃすまさないぜ」
「楽に死ねると思ったら大間違いよ」
歯を食いしばり闘志を露わにする二人であったが、そこでアリスが「復活!」などと間抜けた空気を漂わせる台詞を口にし、割って入ってきた。
「よし! 貴女達時間稼ぎご苦労様、私の出番よ!」
「え・・・っておい、止めろ!」
今まで特に見せ場の無かったアリスが息を巻いて人形を取り出す。その人形の手には何か妙な発光体が握られている。とても危険な色をした、いかにも凄そうな爆発物を連想させる代物である。
「二人とも、避けないと死ぬわよッ!」
「うわ、馬鹿よせ!?!」
「ま、待って待って!」
「よし・・・起爆!」
カミカゼと化した人形が爆弾を抱えたままヘドロの妖怪に突進。息を付かせぬアリスのクールな指示と共に爆弾を起動させた。二人はロクに距離を離せてすらいない。
「ひぃっ!?」
「ぐわわっ!?」
人形の持っていた爆弾は形容しがたい音を立て、超高熱の熱を作り出し、気化した空気は衝撃破を作り、ヘドロの体を粉みじんに粉砕した。
「決まったわ! これぞ新スペル、『小型テルミット人形』よ!」
「・・・・」
「・・・・」
爆発の真ん中にいた妖怪ほどではないが魔理沙、霊夢も近くにいたために衝撃の影響で近くの木々に叩きつけられていた。腰を打ち付けたのか、よろよろと立ちあがり、般若のような目でアリスを睨みつける。
「あ、たたたた・・・・・」
「こらアリス! 私たちまでぶっ飛ばすつもりか!」
「あ、魔理沙。 見た今の? 私もなかなかのモンでしょ?」
「この馬鹿野郎!」
「痛い!」
対峙していた妖怪は粉みじんに吹き飛び、シミを木々に晒すだけの存在となった。
魔理沙の鉄拳制裁が始まる傍で、霊夢は倒れている襲われた人影に駆け寄る。もう息はないと霊夢は悟っていたが、それでも無視することは出来るわけもない。
「・・・・・」
「お前はそんなだから友達少ないんだよ! 他の連中の事もちょっとは考えろ!」
「酷い! 私は魔理沙のために戦ったのに、そんな言い方ないじゃないの!」
「うるせぇ、家に着いてもお前は飯抜きだ!」
「今日は厄日だ」と愚痴をこぼしつつ、魔理沙やアリスも倒れている人影に駆け寄る。「どうだ?」と霊夢に聞くが、霊夢は黙って首を横に振った。ぐったりと、力の無い体は完全に物質になっていて、ずっしりと重く感じる。肌も冷たい。
「ちっ・・・・」
「手遅れ・・・・ね」
「くそっ!」
霊夢が何かおまじないだろうか、二言三言呟き遺体の前で手を合わせる。幻想郷では妖怪に襲われる人間は後を絶たないが、こうして現場に居合わせながらも助けられなかったのはどうにも後味が悪かった。
苦い顔をして、遺体を見つめる二人の後ろで、アリスがきょとんとした表情で遺体を見つめている。
「ええっと・・・・なんでそんな苦い顔してるのかしら?」
「アリス、お前ちょっとは空気読め。馬鹿な質問するな」
「?」
「空気?」とアリスは首を捻った。空を見上げて「雨でも降るの?」と返事をする。その言葉を聞き胸から怒りがこみ上げる。
アリスの非情にも似た、無関心な言葉に、魔理沙がアリスの胸倉をつかみあげた。
「おい! アリス、お前なに言ってやがんだ!」
「ちょっ!? 何? なんなのよ先から?!」
「捨食した魔法使いってのは頭の線でも飛ぶの? 人死にが出たら、いくら私でも嫌な思いくらいするわ。 それともアンタは人間くらいいくら死んでも構わないってこと?」
霊夢も底冷えのするような目でアリスを睨みつける。アリスは二人の嫌悪の入り混じった侮蔑の視線に震えあがる。
「貴女達って妖精も人にカウント入った!? 博麗の巫女は博愛主義だってのは知ってるけど、それはちょっと度がすぎてない?!」
「はぁ!?」
「そりゃ、死んだのは悲しいかもしれないけど、妖精じゃないの! なんで私ここまで怒られなきゃいけないわけ?!」
「明日なったらまた生き返ってるわよぉ!!」と涙目交じりの悲鳴のような声で抗議するアリス。
「妖精?」
「何言ってんだ?」
魔理沙と霊夢はアリスの言っている意味が理解しかねた。
ここに倒れているのは、若い青年である。体もそれなりに大きいし、これが妖精であるわけがない。
「羽だって生えてるし、髪の色もめちゃくちゃじゃないの! 顔も妙に整ってるし、普通に考えて人間じゃないじゃない!」
「・・・・」
「・・・・」
アリスの胸倉をつかみあげながら、もう一度倒れている人影をよく観察してみた。
「・・・・本当ね」
「羽、生えてるな」
「く、苦しい」と魔理沙の拳にじたじたと足掻くアリスを見て「ああ、悪い」と魔理沙はあっさり手を離した。
「なんだ、人間じゃなかったのね」
「驚かせるなよ」
「な、なんか理不尽じゃない?」
「妖精・・・なの?」
無残な死体をさらしているのは、羽が生えている、髪の毛の色が出鱈目と言う点を除けば人間にしか見えない。歪で薄い羽は妖精の羽によく似てはいる。だがどうしても魔理沙と霊夢は納得がいかない。
「妖精って、こんな大きかったか?」
「ねぇ、何か私に言うことないの?」
「私の知る限りじゃ、私の腰くらいの大きさがあればいい方ね」
涙目のアリスの抗議を放って、二人は遺体を調べ始める。背丈は霊夢と魔理沙よりも頭一つ大きいというくらい。太くなりはじめの腕が、生きているときの若い腕っぷしを想像させた。
「妖精にしては・・・・死んでも消えないんだな」
「妖怪同士の縄張り争いだったのかしら?」
「ねぇ、私今とっても傷ついてるのだけど、それについてはどう思うかしら?」
「ああ、悪かったな」
「ごめんね」
「・・・うん、了解」
アリスががっくりと項垂れて鼻水を啜り始めたところ、視界の端にいくつかの影を見つける。
「ん?」
「ひぅっ・・・」
「うぅ・・・ぐすっ・・・」
一瞬、またあのヘドロの妖怪が現れたのかと思ったが。どうやら違った。
「妖精?」
森の木々からこちらを伺う、見慣れたいつもの小さく、可愛らしい妖精たちが居た。一人一人、あちこちに生傷を付けているが、どうやら無事らしい。
「えっと・・・」
「アリス、どうした」
「ん、妖精ね」
「・・・・」
アリスの視線を向ける先に何があるのか霊夢達も気づく。小さく、非力な妖精達は霊夢達と目が合うと息を詰まらせ、ちらちらと倒れた若者に視線を送った。小さな妖精たちは一人残らず悲しそうに涙を流している。
「ねぇ、アンタ達。何が起こったか教えて頂戴」
「・・・・っ!」
霊夢が不用意に小さな妖精達に近づくと、妖精たちはさっと身を引き霊夢から離れた。
「皆、逃げるよ!」
「えっ?」
「お、おい! 待てよ!」
霊夢達の制止を無視し、小さな妖精たちはあちこちに逃げるように散っていった。「ごめんなさい」「ごめんなさい」と謝罪の言葉を残して。
「・・・・?」
「えーっと」
「・・・・」
霊夢がもう一度、斃れた若者の遺体に目を向ける。体には他の妖精と同じような歪な羽が生えている。
霊夢は幻想郷に生まれ、いままで巫女として色んな異変に関わってきた。だが、『大人の妖精』なんて話は聞いたことがない。それに妖精が仲間の為に命を張るなんて話も聞いたことがない。
一体、何だっていうの?
そう考えると、霊夢の背筋に説明できない、ゾクリとした怖気が走る。
「紫! いるんでしょ!?」
霊夢は声を張り上げた。
その声は森のささやきに吸い込まれ、返事は帰ってこない。
「・・・・・」
「おい、霊夢。 こいつどうする?」
魔理沙が、倒れた妖精の若者の傍に座り込み無残な遺体にマントを被せていた。魔理沙なりに斃れた若者がどういう経緯で死んだのか思い当たったのだろう。
その後、深い穴を掘り、遺体を埋め帰路についた。
『もしかしたら別の場所で、もっと酷いことが起こっているのかもしれない、そんな気がするんだよ・・・・』
耳障りな記憶が霊夢の中で何度も繰り返される。
三人は晩御飯を啜る間口数も少なく、黙然とシチューを啜るばかりだった。
「ねぇ魔理沙、私の分は?」
「お前はもうちょっと反省しろ」
「はーい・・・」
**********
「こんにちは」
妖精はちょっと、どきどきしながら、初めて悪戯じゃないのに人間の家に入った。こっそりと、気づかれないように。
そこにはチルノにとって初めての空間、名前も知らない男がいた。
「誰だい?」とその男は氷の妖精に顔を向ける。白い布団にくるまって寝ている。畳の匂いはとてもいい匂いで、チルノのような妖精の棲家にありがちなカビ臭い感じが一切しない。
チルノは感心した、人間と言うのはこんなに素敵な場所で暮らしているんだ。
「えっと、カミサマ」
紫に言われた通りに言えば大丈夫らしい。チルノは紫を信じるばかりだ。
「そうなのかね」と男は笑う。どうやら作戦は成功らしいとチルノは胸を撫で下ろした。流石は紫、後は紫から教えてもらった作戦を実行するのみ。
「えぇっと・・・、苦しいんだよね?」
男は「うん」と素直に頷いた。この妙な訪問者に対して拒むことも歓迎することすら出来ないほどに彼は衰弱していたのだ。
「楽にしてあげようか?」
紫の作戦なら、ここで男は了承してくれる手筈である。実際男は考える力も失っていたためか、またも「うん」と頷いた。一瞬「楽になる」という響きに死を連想したがあまり気落ちするようなこともない。
チルノは、男がやや年老いた印象を受けたが、同時に綺麗な瞳を持っていることに気付いた。なかなかかっこいい、良い形をした鼻や唇。眉も整っている。
知的な雰囲気もある、教養がありそう。
氷精は気分を良くした。これからするのは善意なのだから。
「こっち向いて」
男の体は節が疼き、内臓が焼ける様だった。床に臥せり続けた体は皮膚が弱ってトコズレを起こしている。
特に抵抗もなく、男は頬に添えられたチルノのやわい手に従うように氷精の整った顔を見つめた。こころなしか、冷たい手のひらが、湿った手ぬぐいよりも気持ちが良いと男は思う。
「えっと・・・」
夢現のぼんやりする男と違い、チルノは内心焦っている。まさか自分がこんな大胆な事を仄めかされるなんてどうして想像できただろう?
「・・・・・」
ぐっと病床に伏せる男の顔に自分の顔を近づけはするのだが、最後の最後でどうしてもためらいが出た。当然と言えば当然だが、彼女もまた花も恥じらう乙女なのだ。
だが、彼女の脳裏に大人の階段を先に上ってしまった親友が浮かんだ。
脳裏の親友はとても声を高らかにして皆に自慢している。
そういう画が彼女が今持つ親友へのイメージだった。
「・・・・む」
「負けるものか」と思いきり、顔を男に近づける。男がやや驚き、ちょっとだけくぐもった声を喉で鳴らす。
チルノは年上の友人に教えられた通り、唇を触れさせて少し男の唇を吸った。
「・・・・」
ほんのしばらくの間だけ、そうして体を触れさせていたが、直に離れた。離れた氷精の頬が上気して、妙な達成感がこみあげる。
これで私も親友に負けない、と。
「楽になった?」
チルノはちょっと微笑み、男に愛想笑いをする。チルノ自身、こんな器用なマネが自分にもできたのかと驚くほどに上手く笑みを作れた。これも自分がオトナになった証左に違いない。
男は胸をさすった。いままでこの胸を抉り取ればどれほど楽になるだろうと何度思ったか。
おそらく、今まで生きてきた中で。男は一番驚いただろう。
痛みが引いているのだ。
正直死んだ方が楽なのかもしれないと、弱気になった時もいくらかあった。それも今は「なんて馬鹿なことを考えたんだろう」と思えるくらいには清々しい気分だ。どんな魔法をつかったらここまで楽になるのだろうか?
男の思考にこの少女の言葉が灯く。
『カミサマ』
「まさか」と思う反面どうしても「君は誰だ?」と好奇心を抑えられない。完全ではないが、確かに体の滲むような痛みが引いている。どんな医者にかかっても、巫女に助けを求めても駄目だったというのに。
「楽になったんだ」
氷精は男の反応に満足した。紫の言ったことは本当だったのだ。自分の目的が遂げられたことに対しても同様に満足した。
これから帰って、だれかれ構わず自慢したい気持ちでいっぱいだ。私はもう他の子供とは違うのだ。生涯で初めての口吸いの感覚は想像していたよりも柔らかかった。
「じゃあね」
チルノは男の問いに答えず、立ち上がる。
粗野な、自然をそのまま体現したような仕草。整った年頃の女性の微笑み。それが男の眼には、まるで女神か。それ以上に神秘的な姿に映った。
「また来てくれますか」と男は自然と遜った言葉づかいで神様にお伺いを立てる。チルノは「まぁいいけど」と、妙に照れた声色で返事をした。
これはあるいは恋の告白だろうかと氷精は初めてのケイケンに興奮した。これでまた皆に自慢できる話が増えた。
近くの忍び込んできた道を遡り、チルノは素早く屋敷を後にした。最初は誰に自慢しようか?
足取りも軽く、チルノは随分とご機嫌らしい。不思議なことに湖に帰る際中いくらかの人間に声をかけられる。
氷精はこんどはその連中にちょっと嫌な感じを受け、軟派な印象がチルノの心象に合わなかったので軽くいなした。まるで、市井のかわいらしい女のこのようになった気分。残念そうな彼らの、情けない顔がおかしかったのは内緒。
こんどだいちゃんと遊ぶときはどんな風に自慢してやろうかな?
/
冒頭の彼女=チルノってのは分かるんですけども。
>>いつのイの一番で大騒ぎするチルノは
いつも
>>お前も止まってけばいいじゃないか
泊まっていけば
長編の続きに見えたので、もし前作とかあればリンク貼った方がすぐ見れるので自分みたいな初見の為になると思います。
修正をいたしました、ご指摘ありがとうございます
>>6 さん
さらにリンクを張ってみました、リンク張るのは初めてです、所見さんに優しい内容を目指します。
>>8 さん
アリスは今回、ちょっと説明役というか泥仕事をやっていただきました、ほんと申し訳ない、次回はかっこよく登場させたいです
その二つの境目と、後冒頭の会話で誰が誰だかいまいち分からなくて、ちょっと読みにくいかな…と思いました。
ここからどのように話が展開するか、楽しみにしてます。
先が気になります。続きをお待ちしています。
チルノの気持ちはよくわかるぜ大ちゃんとちゅっちゅしたい
1話から2話、2話から3話、冒頭の話が全く着いていけない・・・・
面白いのは面白いんだけどねぇ
チルノと紫の関係もどうなるのかしりたいしね