――0/瓶の書――
無縁塚には、多くのものが流れ着く。主に香霖堂の店主が集めているそれは、外の世界のモノであったりよくわからない曖昧なモノであったりと様々だ。
魔理沙はそんな“珍品”に興味を持ち、時折、こうして無縁塚を訪れて掘り出し物がないか探して回ることがある。この日も、そんないつもと変わらない“目立ったモノはないけど何か持ち帰る日”になると思われた。だが。
「なんだ、これ?」
透明の瓶。
以前魔理沙が香霖堂で飲んだ“コーラ”よりも二回りほど太く一回りほど長いガラス瓶の中に、本と言うにはやや雑な紙束だ。
「ふむ……えーと? お? おおおおお? おおおおおおおお!」
紙束の最初。
表紙と思われる部分に綴られた一文を見て、魔理沙は歓喜の声を上げる。
「これは、面白そうだぜ!」
そこには、こう綴られていた――
“透明人間になれる薬の作り方”
――と。
インビジブルマリサ
――1/調薬調合透明人間――
魔法の森の一角。
霧雨魔理沙魔法店と綴られた看板の向こう側で、怪しげな煙が立ちこめる。
「ふむふむ……」
魔理沙はその怪しげな煙の中心で、布で口元を覆い、河童から借りたゴーグルで目元を保護しながらなにやら調薬めいたことを繰り返していた。
ネズミのひげ。
イノシシの牙。
オオカミの血。
人魚の涙。
三度すり潰して四度煮込み
五度沸騰させ
三時間乾燥させ
すり潰して
一時間魔力に当て
神木の樹液と一緒に煮込み
蜂蜜を絡めて飲み込めば
身体はみるみる透明になる
不死者の髪。
聖人の汗。
神職の服の切れ端。
魔法使いの血。
自分が魔法使いであればなおよし。
山彦の涙。
一回すり潰して二回煮込み
三度沸騰させ
四時間乾燥させ
五時間魔力に当て
三十分煮込み
墓場の木の樹液とまた煮込み
三回に分けて飲み干せば
透明になった身体はもとどおり
こう書かれた調薬指南に心躍らされた魔理沙は、善は急げとあらゆるところを飛び回り、材料をかき集めた。
猪は人里付近の野生のものを。狼は竹林の人狼に弾幕勝負を挑み。人魚は擽り倒して涙を得た。
不死者の髪は妹紅との弾幕勝負に負けて伸びていた輝夜から抜き取り、聖人の汗は運動中の聖から掠め取り、早苗を弾幕勝負で打ち負かして服を少し貰い、魔法使いの血は自分が魔法使いであった幸運に感謝しながら得た。あとは山彦も人魚同様擽り倒せば完了だ。
手順どおりにぐつぐつと煮込んだ魔理沙は、ついに目的のものを完成させる。これまでの“主に他人から掠め取った”苦労を思えば、その達成感もひとしおだ。
「こっちが透明人間になれる薬。もう一個が中和剤」
魔理沙は中和剤を机の上に置き、透明人間の薬を手に取る。
「魔法使いは度胸だぜ!」
そしてそれを一息に飲み込んだ。
「お? おおお? おおおおっ!」
手が透け。
足が透け。
動体から登るように身体が透け。
首が透け。
顔が透け。
髪の毛が透け。
姿見の前に映るのは、魔女服のみ。
「本当に透けた! けど服はダメか。まぁそりゃそうか」
魔理沙は身体が透明になったことを喜びながら、いそいそと服を脱ぎしてる。
姿見の前ではひとりでに服が浮かび、それからばらばらと落ちているように見えてなんとも不気味だ。
全て服を脱ぎ捨てても、恥ずかしさは感じない。自分自身の目にすら自分の姿が映らないのだから。もっとも感覚を掴むためか、ぼんやりと輪郭がわかるようにはなっているが、やはり鏡にはなにも映っていない。
『よしよし。それなら次は――』
速度を出さないのであれば、箒なしで飛ぶことはできる。魔理沙は家を出てふわりと浮き上がると馴染みの神社に目を向けた。
『――どこまで気がつかれないか、実証だぜ!』
まずは実験。
そう言いながらも魔理沙の瞳は研究者のそれではなく、悪戯っ子のように輝いていた。
――2-1/博麗神社の煎餅怪異――
普段よりものんびりと博麗神社の境内に降り立った魔理沙は、早速実験相手を探す。
『普段の霊夢なら……お、いたいた』
縁側でお茶を飲む霊夢の姿を見つけると、魔理沙は小さくほくそ笑む。抜き足、差し足、忍び足。霊夢がほっと一息ついたところで手を伸ばした先にあった煎餅を、魔理沙はさっと掠め取る。
「あれ? あれ? また妖精の仕業?」
『ふむ、私が手に持つと透明にはならなくても存在はわからなくなるんだな』
実際、煎餅自体は霊夢の眼前でふらふらと浮いている。
だが霊夢はそのことに気がついた様子もなく、青筋を立てて周囲を見ましていた。
『くくく……いやいや、楽しんでるんじゃないぞ。これはあくまで実証だからな』
次の実験、と魔理沙は密かに気合いを入れる。ついでに足音も立ててみたが、霊夢はこれにも気がつく様子を見せなかった。
魔理沙はそんな霊夢の様子に気をよくすると、今度は霊夢の後ろに回り込む。勘の鋭い霊夢だ。ただ透明になるだけではここまで出来ないことだろう。魔理沙は改めて小瓶の指南書の凄さを思い知りながら、おもむろに、魔法で掌に水を作り出す。
『南無三!』
そういって生み出した水は、霊夢の首筋に直撃する。コップ半分くらいの量だ。
「きゃぁあっ」
『うおっ』
思いの外可愛らしい悲鳴だった。
のけぞる霊夢にぶつからないようにとっさに飛び退く魔理沙だったが、霊夢はそれでも魔理沙に気がつかない。
「だだだだだれよっ!? ……あれ? まさか、また妖精?」
右を見て、左を見て、魔理沙の方を見ても気がつかない。
「うぅ、濡れてる……着替えなきゃ。見つけたらぎったんぎたんにしてやる……」
『ううむ、流石にやり過ぎたか。ごめん霊夢。まぁ、名乗り出ないけど』
服を着替えるために神社の奥へ入っていく霊夢。
そんな霊夢の後ろ姿を見送ると、魔理沙は小さくほくそ笑む。なにせあの勘でだいたいの異変を察知してきた霊夢に気がつかれなかったのだ。
最早ほとんどの者に見つかることはないだろう。
『いやいや、でもまだ実証は必要だしな、うん』
魔理沙は誰かに言い訳でもしているかのような口調でそう呟くと、また、ふわりと浮き上がる。
『さて、次はあいつのところに行こうかな?』
そしてそう、目的地を定めてゆっくりと飛行し始めた。
――2-2/大図書館の本盗り幽霊――
妖精だらけの湖も、門番が目を光らせる正面口も、メイドであふれる廊下も。
メイド長の横すら通り過ぎて、魔理沙は大図書館にやってきた。
『パチュリーは……っと』
目的の人物は、魔理沙が目の前に来ても変わらず本を読んでいる。もちろん隣の小悪魔も気がつく様子はない。
『といっても、パチュリーに直接悪戯……ごほん、実証するとバレたときに殺されかねん』
霊夢ならば、せいぜい“ぎったんぎたん”で許してくれることだろう。けれどパチュリーはそうではない。おそらくやらかした内容によっては本当に危険な目に遭いかねない。
そこで魔理沙は、パチュリーにすることは“普段”と変わらないことと決めていた。
『ということで、今日はじっくり選ばせて貰うぜ』
――そう、死ぬまで借りる、ということだ。
普段は急ぎ足のため勘で借りているのだが、今回は違う。パチュリーが手元に置いてある本も含めて“選ぶ”ことができるのだ。
『お、いいなこれ』
「あら? こあ、ここに置いておいた本、しまった?」
「? いいえ?」
おまけに。
魔理沙が触れた本は魔理沙同様“見えなくなる”のだ。これならば服を着てきても良かったのではないかとも魔理沙は思ったが、魔理沙の目には見えている以上、あの時点では仕方が無かったと振り返るのをやめる。
入れ物がないため、せいぜい借りられる本は四冊程度にしかならないだろう。だがそんなことは百も承知と、魔理沙は道中で大袋を“借りて”いた。
「こあ、目の錯覚かしら」
「なんでしょうか?」
「今、本が消えたわ」
「――妖精の気配はいたしませんが……?」
パチュリーが見ていようと見ていまいと関係ない。
魔理沙は次々と物色し、持ち前の勘と運で価値のある本ばかりを袋に入れていく。
「まさか、お化けでしょうか?」
「落ち着きなさい、私たちが定義的にはお化けよ」
「パチュリー様は本妖怪ですか?」
「黙りなさい。それよりも……!」
そうして最後に、魔理沙はパチュリーの読みかけの本を持ち上げる。
「むきゅ?!」
それだけで本は存在を消し、パチュリーの目には映らなくなった。
『じゃ、死んだら返すぜ!』
魔理沙はそうとだけいってふわりと飛び上がる。流石に詰め込みすぎて重かったため一度帰らなければならないが、そこはご愛敬。
これだけの戦果を得られたのだ。文句など言うはずもなかった。
「こあ」
「……はい」
「寝るわ」
「はい……はい?」
「疲れているみたい。ちょっとレミィ呼んできて。吸って貰えば寝られるから」
「ちょっ、パチュリー様、それ永眠ですから! パチュリー様!」
小悪魔とパチュリーの会話をよそに、魔理沙は紅魔館から飛び立っていく。
誰にも見つからずに、誰にも気がつかれずに、大量の本を抱え持って。
――2-3/魔法の森の菓子食べネズミ――
一度自宅に戻った魔理沙は、本を家に置くと、さっそく服を着直す。魔理沙の目には服だけ浮いているように見えるのだが、これが他人には見えないと言うことがなんとも不思議だった。
だが、見えないのは好都合。魔理沙は八卦炉と箒を持って、本日最後の実証をしに飛び立つ。魔法の森の瘴気をくぐり、ゆくべきは隣人の家だ。
『アリスー? いるかー? ……なんてな』
堂々と玄関から不法侵入。
魔理沙はマーガトロイド邸にたどり着くと、まっすぐと物音の聞こえる方に向かった。
「上海、蓬莱、あなたたちはそっちをお願い。和蘭、倫敦はあっち」
多数の人形を操作する、金髪碧眼の人形のような少女。
魔理沙は自分のくすんだ色の金髪を見る度に、背の小さく子供っぽい自分の身体を見る度に、アリスのことを羨ましく思っていた。
『恵まれやがって』
アリスが聞こえないのを良いことに、魔理沙は悪態をつく。
いつも余裕淡々としていて、決して全力を出さず、そのくせ弾幕ごっこ以外では悠々と魔理沙の上をいく。橋姫を目の当たりにしたことがある魔理沙は、この感情が自分を腐らせると知っていた。
だから魔理沙は、嫉妬故の行動は犯さない。けれど口に出して文句を言うくらいはしたかった。
『ふん、まぁいい。私はこの透明薬も魔法に組み込んで、あっと言わせてやるんだからな!』
弾幕ごっこで完全不可視は御法度だが、後ろに回り込んだときに見えるように設定するなどやりようはある。存在すらも察知できなくさせるのだ。凶悪な魔法が作れることは間違いない。
これで、才能も、種族も、寿命も関係なく、見返してやれる。魔理沙はそうぎゅっと己の手を握りしめた。
『と、いうことで』
魔理沙はさっさと切り替えると、テーブルに並べられたお菓子の数々を見る。アリスは研究に行き詰まると、お菓子を作る癖があった。人形操作の反復もしながらお菓子を作り、できあがったものをじっくり食べたりお裾分けしたりする。
魔理沙も実のところおこぼれに預かっているのだが、アリスは「栄養バランスが」だとか、「カロリーが」だとか母か姉かのように口うるさく、魔理沙のところに持って行くときはごく少量だ。
『どれどれ……む、うまいなこのマフィン。これは危険だ。他の奴らに喰わせるわけには行かないな。お、フィナンシェか。これもダメだな。私が責任持って片付けてやろう』
魔理沙はそう言って、次々とお菓子を食べていく。
そうしていれば当然アリスも気がつくが、そこは問題は無い。
『どうせ私がやったなんてバレないんだ。はぐはぐ――』
「減ってる……。これは、魔理沙の仕業ね」
『――むぐっ、げほっ、げほっ』
「魔理沙の好物ばかりだし。でもどうやって――?」
どうやってやったかはバレていない。
だがバレたということ事態がまずかった。どうやら魔理沙は食べるお菓子を選びすぎたらしい。
『水、水……んぐっ、んぐっ……ぷはぁっ! 危なかった! 本当に危なかった!』
命の危機である。
こんなところで息絶えてしまったら笑い話にもならない。謎の失踪事件である。
『あ、焦らせやがって――ん? 触れても大丈夫なのか』
苛立ちと共にアリスの横腹を突いてみるが、反応はない。
このまま悪戯をし続けても良いのだが、魔理沙はなんだか妙に疲れてしまった。
『今回はここまでで許してやるぜ』
ただ一言そう悪態をついて、首をひねるアリスの前から立ち去る。
箒に跨がって空へと飛び上がると、魔法の森は夕日であかね色に染まっていた――。
――3/そうして事態は裏返る――
家に戻った魔理沙は、まず、中和剤を飲み干した。
すると魔理沙の身体は徐々に色を取り戻し、最後にはすっかり元通りになる。
「うんうん、やっぱり全身透明ってのよりは落ち着くな」
見慣れた顔を見て、魔理沙はそうほっと一息。透明人間も悪くなかったが、やはり一番はこれだ。コンプレックスも多いが愛着もある。
魔理沙は早速、今日一日の実証結果を書き綴ろうと筆とペンを手に取る。
――コンコンコン
と、そこでノックが聞こえる。
こんな行儀良くノックをする者など、魔理沙の知る限りごく僅かだ。タイミング的にアリスだろうと見切りを付けると、「いるぜー」と適当に返事をして、そのまま体勢を変えずに続きを書く。
するとそのうち、ガチャリと音がして扉が開き、足音が聞こえてきた。足音の主は魔理沙の予想どおり、アリスだ。
「見ての通り私は忙しいんだが?」
「まったく、散らかすだけ散らかして」
「おいおい、いきなり小言か? おまえは小姑か、まったく――」
怒られるかも知れない。
けれど、誤魔化せば良い。
「それにしても、魔理沙」
だが、
「散らかすだけ散らかしたまま」
魔理沙の予想は、
「“留守”にして、もう」
まったく別の方向から裏切られる。
「――え?」
アリスは“魔理沙の目前で”周囲を見回して、そう言った。
「お、おいおい、冗談はやめてくれよ」
「どうしようかな。栄養が偏るからダメだってあれほど言ったのに」
「それは悪かった。誤魔化さないよ、認めるから!」
「遊びにでもでかけているのかしら?」
「なぁ、おまえ、そういうキャラじゃないだろ? なぁ、おい!」
「しょうがない、か。他を探してみないと」
アリスは、魔理沙に気がつく様子はない。
腰に抱きついても、服を引っ張っても、アリスはまるで魔理沙の重みすら感じていないかのように振る舞う。
やがてアリスは、魔理沙に気がつかないまま踵を返す。今ここでアリスを逃してはならない。魔理沙は慌ててアリスの前に立ちふさがるが、あっさりはじき飛ばされてしまう。しかも、アリスはそのことにすら気がつかない。
気がつかずに、魔理沙の前から去ろうとする。
「アリス、おい待ってくれ! アリス、アリス! なぁ、アリス!!」
ついにアリスは、魔理沙の家から出てふわりと浮き上がる。
あっという間に空まで登ってしまった彼女の姿を見て、魔理沙は慌てて箒に跨がった。
「飛翔――っ!?」
だが。
「あぐっ!!」
飛び上がったまま浮かび上がらず、肩から地面に転ぶ。
「な、なんで、なんでだよ」
何度飛び上がろうとしても同じ。
空を飛ぶことが出来なくなっている。
「ぶ、ぶれいじんぐ――彗星【ブレイジングスター】」
浮きはせず。
「くっ、ま、ます――恋符【マスタースパーク】」
光すら灯らず。
「は、はは、嘘だろ――魔符【スターダストレヴァリエ】!!」
魔力は籠もらない。
「なんで、なんで、なんで、なんで――!!!!!」
最早眼前にアリスの姿はなく、月明かりがぼんやりと魔理沙を照らす。
魔理沙はおぼつかない足取りで家の中に戻る。そして、幽鬼のようにふらりと椅子に座ると、目を皿のようにして調薬書を見始めた。
「なにか、なにかあるはずなんだ、なにか――!」
中和剤の書かれたページ。そのページの次は不自然に白紙だった。
もしかしたらここに何かあるかも知れない。魔法で調べることが出来ない以上、魔理沙は自力でどうにかするしかなかった。
見ても、一生懸命火を熾して炙っても、なにも起こらない。それでも何かを求めて、魔理沙はよりよく内容が見えるように月明かりに書を当てた。
「え? ――ぁ」
すると、月明かりによって文字が浮かび上がる。
月光に当てること。それが条件だったのだろう。月明かりから蝋燭の明かりに変えても内容が消えることはなかった。
「焦らせやがって。わかりにくいんだよ!」
苛立ちを隠さず、魔理沙は怒鳴り声を上げる。
だがすぐに気持ちを切り替えると、書の内容を読み始めた。
本当に元に戻るには
もう一つの中和剤
最初の中和剤で姿を取り戻し
次の中和剤で存在を取り戻す
でもでも最初の中和剤
作るときは二つ目も一緒にね
最初の中和剤の副作用
あなたに魔力は使えない
さぁさぁ気をつけて
次の中和剤を作りましょう
「え? い、いや、とにかく作り方を見ないと」
それでは中和剤を作りましょう
蜥蜴の血
猪の牙
金剛石の粉
二人の神職の力の籠もった水
三人の魔女の力の籠もった水
それからこれが一番大事
これら全て
魔力を込めながらかき混ぜる
ぐるぐる
ぐるぐる
かき混ぜる
「は、はは、おいおい、嘘だろ」
材料は集められないことはない。
霊夢も、あるいは早苗も。
パチュリーもアリスも、あるいは白蓮も。
神職や魔女は研究の最中に水を使うことはある。歩いて森を抜けて霊夢たちのところへ行けば、途方もない時間が掛かるが手に入るかも知れないという希望がある。
だが最後は無理だ。中和剤を飲んでしまった魔理沙は、副作用で魔力を扱うことが出来ない。だが誰にも存在を気がついてもらえない以上、誰の協力を得ることも出来ない。
「つ、づきが、あ、る?」
二番目の中和剤を作れなかった?
それでも良いじゃない
誰にも知られず好きなことが出来る
誰にも気取られず自由になれる
誰の目ももう気にする必要は無い
あなたはもう存在しない
あなたはもう誰からも見られない
あなたの存在は路傍の石
あなたの存在は日陰の虫
誰からも必要とされず
誰からも名前を呼ばれず
誰からも好かれることはなく
誰もあなたのことを見なくなり
誰もがあなたのことを忘れていく
ひとりきり
孤独の中で
しんでゆく
それほど
愉快な
ことは
な
い
「あ、ああ、あああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああぁぁぁああぁッッッッッ!!!!!!!」
どろりとした、形容しがたい悪意。
誰かを陥れることだけを考えて作られた書。
その絶望を目の当たりにした魔理沙は喉をかきむしるように悲鳴を上げて、やがて膝から崩れ落ちた。
――4/希望or……?――
魔理沙が目を覚ますと、月は未だ中空にあった。
それほど時間が経っていないのだろう。まだ夜も明けていない。
「誰にも好かれず、ひとり、孤独に、死んでゆく」
最早、魔理沙の瞳に光はない。
悪戯ばかりする自分を、誰も探しに来てはくれないことだろう。霊夢だってあの勘の良さだ。魔理沙が悪戯したことなどとっくに気がついているだろうし、アリスだって愛想も尽きたことだろう。
魔理沙はひねくれてばかりだった自分の行動を後悔するが、どんなに悔やんで反省しようとも、結果は変わってくれない。
孤独に死んでいくという事実は、動かない。
「なら」
もういっそ。
そう魔理沙は、果物ナイフを手に取る。
「この、絶望に、終わりを――」
そう首筋にナイフを当てようとして、
「魔理沙ー? やっぱりいないのかしら?」
「――っ」
とっさに、手からナイフを落とした。
カランと、音がする。するとアリスはその音の方に顔を向けた。
「魔理沙? 居るなら居るって返事――あれ?」
やはり魔理沙を見つけることは出来ないのだろう。
アリスはしきりに首を傾げながら、周囲を見回す。
「アリス、ごめん、ごめん、アリス」
魔理沙はそんなアリスにすがりつくことも出来ず。ただ俯いてうわごとのようにそう呟く。
どうせ見つけて貰うことは出来ない。あの書の綴るように、魔理沙はひとり孤独に死んでいく。それはもう変わらない、絶対的なことなのだ。魔理沙の心はそう、暗い気持ちだけがぐるぐると渦巻いていた。
「――魔理沙、そこにいるのね?」
「え?」
だが、言われた言葉に思わず顔を上げる。
アリスは魔理沙の方など見ていない。ただ険しい表情で、机の上を睨み付けていた。
「居るんだったら、できることで存在を知らせて。そうね、音でもいいわ」
「! ああ、ちょっと待ってろ!」
魔理沙は慌てて立ち上がると、スプーンを持って地面にたたきつける。すると、カチャンッと軽く鋭い音が響いた。
「そこね。はぁ……本当に存在を感じられないわ」
「なんで」
「まったく……いい、魔理沙」
そういって、アリスは魔理沙が居るであろう方向に顔を向けながら、机の上に置いてあった“もの”を持ち上げる。
「こういう怪しいモノをよく調べもせずに使わないの」
「あ」
そう、魔理沙が机の上に広げていた書。
透明人間になれる調薬書を、アリスは呆れた顔で持ち上げていた。
隠された文字が浮かび上がっていた以上、魔理沙の状態など推して知るべし、ということであったのだろう。アリスは大きく、大きくため息をつく。
「いい、魔理沙? こういうのは調薬書とは言わないの。これはただの、呪いの本よ」
「……まったくもって、ごもっともだぜ」
アリスの言葉に、魔理沙は深く、深く頷いた。
だが同時に、不安が過ぎる。これでその力を以てアリスに悪戯を仕掛けたことはバレただろう。魔理沙を探して他の場所へも出向いたのであれば、他の悪戯もバレていると思った方が良いだろう。
ならば、アリスはこのまま魔理沙を放置していくのではないか。罰だと、咎だと、自業自得だと言われてしまえば魔理沙はそれに許しを請う手段もなく、縋る術もなく、頷くことしか出来ない。その行為だってわかってもらえない。
こんなひねくれてばかりの自分を、いったい誰が省みてくれる?
魔理沙は己に問いかけて、ただ、口を閉ざすことしか出来なかった。
「しかし、三人か。困ったわね?」
「アリス?」
「私と、あと白蓮にお願いして二人。あと一人はパチュリーか。事情を話して、対価も必要でしょうね。骨が折れるわ」
「え、それって……」
だがアリスは、もしかしたら反省などしていないのかも知れない、落ち込んですら居ないのかも知れない存在の感知できない魔理沙を、当然のように助けようとする。
そのことが魔理沙には、不思議でならなかった。
「魔理沙。貴女が今、反省しているかいないかはわからないわ。でもね、やってしまったことに対して謝ることが出来るのは、あなただけなのよ。だからさっさと自分を取り戻して、自分で謝りに行きなさい」
「アリス……わた、わたし、私は……」
かちゃん、と再び手に持ったスプーンが小さな音を立てる。
するとアリスは、満足げに微笑んで、頷いた。
「それに私も、貴女の姿が見えないと調子が狂うわ。さっさと直すわよ、魔理沙!」
「アリス……おう!」
今度はまた、大きな音が鳴る。
アリスは声を上げて小さく笑った。
――5-1/糸口はいずこ――
蜥蜴の血。
猪の牙。
金剛石の粉。
神職の力の籠もった水を、早苗に頼み。
魔女の力の籠もった水を、アリスと白蓮で二人分。
ここまでは多少の苦労はあったものの、さほど問題なく手に入れた。
「さて、大変なのはこれからね」
「ああ、そうだな」
霊夢は、何とかならないこともないだろう。
問題はパチュリーだ。読みかけの本を取られて寝込んでいると聞く。果たして魔理沙の為に水など作ってくれるのか。
「せめて貴女が筆談でも出来れば、ね」
そう、アリスは魔理沙との意思疎通を試みていた。
声はもちろん届かず、触られてもわからない。ではモノを書いてみても、なんとなんと書かれているか読むことが出来ない。人形を操らせてボディランゲージをさせようにも、魔理沙が操ると人形も一緒に知覚できなくなったのだ。もっともそれは魔理沙の位置を知るのには有用で、知覚できなくても糸は繋がっているので、アリスは魔理沙に人形を抱えさせていた。
つくづく手の込んだ呪いである。音を鳴らすことが出来るから、希望を捨てきることは出来ない。けれど意思疎通も叶わない。
「まぁそれは仕方ないわ。ひとまず、霊夢のところに行ってみましょう」
「ええっと、私は留守番か?」
そう言って、魔理沙はスプーンで机を三回叩く。
これもアリスと決めた約束事だ。はいは一回、いいえは二回、その他は三回。三回なったら、アリスが魔理沙に質問をして、魔理沙はそれに音で答える。
「霊夢のことだもの。貴女が居た方が何か気がついてくれるかも知れない。だから貴女を連れて行くのだけれど、聞きたいことはこれで大丈夫?」
「ああ、なるほど。わかった」
魔理沙はかちゃんと一度鳴らした。
これまでのモノは、空を飛べない魔理沙は留守番であったが、今回ばかりはそうは行かないということだろう。
「箒を使うから後ろに乗って。ゆっくり飛ぶけれど、万が一貴女が落ちても私は救助できないから気をつけてね」
「お、おう。ここまで来て死にたくないからな」
アリスはそう言うと、箒に横座りになる。
魔理沙はそんなアリスの横に座ると、アリスに抱きついて、箒の柄にスプーンを当てた。
「よし、じゃあ行くわよ」
「ああ! ……ん、良い匂い……じゃなくて、アリス、ええっとこれは……って、聞こえないしわからないんだったか……ううむ」
ふわりと、アリスが浮かび上がる。
目指すは幻想郷の端、博麗神社である――。
――5-2/巫女の対価――
博麗神社にたどり着くと、アリスはゆっくり着地する。そして糸の繋がる先が箒から横にずれたことを確認すると、自分もゆっくりと箒から降りて飛行を解除した。
夜の博麗神社は、独特な空気に包まれている。静寂さと、静謐さ。解放された聖域。何かと妖怪の集まりやすい神社は、妖怪であるアリスにとって過ごしやすさすら感じられた。
「霊夢ー? 居るかしら?」
アリスが声をかける。
けれど、まだ返事はない。いくら何でも眠るには早い時間だと、アリスの横で魔理沙は首を傾げた。
「霊夢?」
アリスはそれでも呼びかけることをやめずに、神社の奥へと進んでいく。
すると、神社のちょうど裏側。小さな池の広がる裏庭に、霊夢は一人佇んでいた。
「そんなところにいたのね」
「ああ、アリス。珍しいわね。どうしたの?」
「ちょっと貴女に頼みたいことがあるのだけれど……声をかけない方が、良かった?」
アリスが言った言葉に、魔理沙も内心で同意する。
空を飛ぶ程度の能力を持つ彼女は、時々世界から“浮き”あがる。そんなとき、今のような独特な雰囲気を以て何かを成そうとしている。付き合いの長い魔理沙にとって、霊夢のそんな瞬間の大事さはよくよく理解していた。
だが、と、魔理沙は同時に思う。異変でもないのに何故そうしていたのだろう、と。
「――いいえ、良いわ。どうも私の懸念と直結していそうな話のような気がするからね。勘だけど」
「そう?」
「ええ。だからさっさと言いなさい。妖怪に出す茶はないわ」
「人間にも出さないくせに何言ってたんだ、霊夢」
魔理沙のツッコミは届かない。だが届いていたらしばかれていた可能性もあると思うと、届かなくて良かったのかも知れない。
魔理沙は今回ばかりはこの境遇に感謝……はできなくとも、安堵した。
「それで? 頼みって?」
「ええっと、実はね――」
そうしてアリスは、霊夢にことの顛末を話す。
といっても詳しい情報は魔理沙が語ることが出来ない以上、わからないところもある。けれどアリスの中で確実だと思うことを話すだけでも十分であった。
魔理沙が怪しげな薬に手を出したこと。
透明人間になって悪戯していたこと。
中和剤を飲んだら調薬書に罠が仕掛けられていたこと。
このままでは孤独死するので、魔理沙の代わりに材料を集めていること。
そのために、霊夢の力の籠もった水が必要なこと。
透明人間の下りで今朝のことを思い出したのだろう。
霊夢の顔は刹那、般若の色を見せる。けれど最後まで聞く頃には、落ち着いた表情を取り戻していた。
「ふぅん。で、魔理沙を連れてきているの?」
「ええ。位置的には私の右よ」
「そう」
霊夢はそれだけいうと、アリスの右横少し手前まで歩く。
そして魔理沙を書面から見据える位置に立つと、おもむろに手を上げ、手刀の形にして振り下ろした。
「あだっ?!」
「本当に奇妙ね。手は空中で制止しているのに、存在を感じられない」
「お、おまえなぁ」
「まぁどう見積もっても自業自得。一週間くらい焦らせとか思わないこともないけれど」
「うぅ……心が死んじゃうんだぜ……」
落ち込む魔理沙に、当然ながらアリスと霊夢は気がつけない。
だから霊夢が気にかけるとすれば、それは存在の感知できない魔理沙の存在ではない。
「……このお人好しに免じて、今回は良いわ。ただし、三つ条件」
「ええ、良いわ」
「他人のことなのにあっさり飲むんじゃないわよ、お人好し馬鹿アリス」
「ば、ばか……えっ、私馬鹿なの?」
霊夢の言葉で傷ついてうずくまる魔理沙の隣に並ぶように、アリスが胸を押さえてふらりと崩れる。弾幕はブレイン。頭脳派のアリスにとって、馬鹿扱いは堪えたようだ。
だがいつまでもそうしていては、話が終わらない。アリスは胸を押さえながらも立ち上がる。
「まぁ、ちょっと言い過ぎたわ。ごめん」
「いえ、いいの。それで、条件って?」
「一つ、魔理沙に頭を下げに来させなさい。二つ、その時にアリスのお菓子持ってきて。色々」
「それくらいだったら、喜んで。最後は?」
「三つ――その、魔理沙が使った書、持ってきなさい」
そこで初めて、霊夢の瞳が鋭くなる。そのまるで異変の主犯として対峙させられているかのような視線に、アリスと魔理沙は思わず息を呑んだ。
「その悪意は、嫌な予感がするわ。人でも、妖怪でも、神でもない。ならそれは、幻想からも不要なモノよ」
「……ええ、そうね。わかったわ」
アリスにも、そして魔理沙にも霊夢の言いたいことが伝わる。
言われてみればおかしな話だ。何が目的かわからない、他人を悪意で絡め取るだけの罠。妖怪にだってルールはある。人にだって理由はある。神にだって手順はある。だがただ苦しめるだけで。己を畏れさせる口伝もできないような存在を消す術で、呪いかける必要などどこにあるというのか。
霊夢が言っていた、嫌な予感。その予感の先にあるものを想像して、アリスと魔理沙は背筋が冷えるような感覚を覚えた。
「さて、とっとと作ってあげるから、次のところにさっさと行きなさい。まぁ、一筆書いておいてあげるわ。お人好し馬鹿の為に」
「……ありがとう、霊夢」
「パチュリーにどれだけ効果があるかなんて知らないけれどね」
とはいうが、霊夢の影響は大きい。
また、霊夢自身が神がかった勘を持っているため、書く内容はパチュリーの心に響くものだろう。気むずかしいパチュリーをただ説得するには、些か骨が折れるのだ。
霊夢の力が込められた水を小瓶に持ち、霊夢がしたためてくれた書を懐に入れ、魔理沙たちは博麗神社を立つ。
妖怪たちが蔓延る時間。待ち受けているモノは、妖怪の中でも大妖怪と語られるモノの住処。魔理沙は胸の裡に燻る不安を追い出すように、強く、アリスの腰に抱きついた。
――5-3/魔女の代償――
紅魔館は、基本的には門番が問題視しなければ誰でも門をくぐることが出来る。
魔理沙は問題視される前者であり、アリスは問題ではない後者であったために、存在を感知されない魔理沙が共に居たところで、問題なく図書館まで足を運ぶことが出来た。
だが、問題はこの先である。
「魔理沙、妙に図書館の本棚がスカスカな気がするのだけれど?」
「面目ない。私がやった」
聞こえてないと知っているからか、魔理沙はやけに素直だった。
だが聞こえていない以上、この言葉にはなんの意味も無いのだが。
「あ、こあ!」
「おや、アリスさん? どうされました?」
「ちょっとパチュリーに頼み事があってきたのだけれど……パチュリーは?」
「ああ、パチュリー様でしたら――」
アリスに対応していた小悪魔が、不意に振り向く。
すると図書館の奥に備え付けられていた小さな扉の向こう側から、見覚えのある姿が顔を出した。
「アリス? こんな時間に珍しいわね。夜は寝る妖怪じゃなかったかしら?」
「自立人形研究の一環で、規則正しい生活を試みているだけ。寝なければならないわけではないわ」
「そう。で、目的は? 私は見事に私を出し抜いた白黒をどんな方法で“褒めて”あげようか考え中で忙しいのよ。ロイヤルフレアで暖めてあげるのも優しさよね」
「いやいやいやパチュリー! それ死ぬ、私それ死んじゃうから!」
当然聞こえないので魔理沙の叫びは意に留められない。もっとも、聞こえたところで結果はほとんど変わらないことだろうが。
アリスはアリスで、パチュリーの態度に少しだけ腰を引かせていた。魔理沙がパチュリーの読みかけの本を盗ったのだと知れば納得もしたのだろうが、そこまではわからない。
ただ漠然と、借りられたくない本を借りて行かれたのだろうな、と予測する。
「あの、ちょっとお願いしたいことがあるのよ。たぶん、タイムリーなことだから」
「タイムリー? そう、良いわ。こあ、紅茶を用意して」
「はーい」
パチュリーはアリスを机に招き、気怠げに向き合う。
そんなパチュリーに苦笑しながら、アリスはまず、霊夢のしたためてくれた書状を渡した。
「ふぅん? まぁ良いわ。聞きましょう」
そこになんと書いてあったのか、アリスにはわからない。
だが少なくとも魔理沙のことが書かれていたことは確実だというのに、パチュリーは続きを促してくれた。
まずは第一段階。だが、大変なのはここからだ。
「ありがとう。詳しいことを話すわ」
そういって、アリスはこれまでのことを説明する。
魔理沙が見つけた紙束のこと。
そこに刻まれた調薬手順と、透明人間のこと。
ついでに魔理沙にスプーンを鳴らせて、魔理沙がここに居ることを知らせる。
そして最後に、霊夢のところでどのような決着がついたかということまで話し終えると、パチュリーは、一度小さく頷いて納得した様子を見せた。
「まぁ何故貴女が歩き回っているのか知らないけれど、現実的に存在がなくなっている魔理沙に約束を取り付けられない以上、対価は、アリス……貴女が払うことになる。それでいいのね?」
「ええ、乗りかかった船だもの。最後までやるわ」
「アリス……おまえ……。私、なんかの、ために」
魔理沙はそう言い放つアリスの、服の裾を掴む。
意思が伝えられない。想いが伝わらない。そのことが、今、魔理沙はなによりも辛かった。
だが伝わらないということは、いないということと何も変わらない。パチュリーは魔理沙の様子などに気がつけるはずもなく、楽しげな笑みを浮かべて頬杖をついた。
「そう、なら対価を話すわ」
「お願い」
「もちろん、魔理沙の持つ本の返却は絶対条件だけど、もう一つ」
パチュリーの瞳が、唇が、歪む。
「貴女の秘伝の本。どれか一つで良いわ」
「なっ! おいパチュリー、それは……!」
魔法使いならば誰しも、己の半身ともいえる秘伝が綴られた魔導書を持つ。魔理沙とてその本の重大さはわかるからこそ、他人の秘伝を借りようと思ったことはない。
その本を渡すと言うことは、己の根底に関わることだからだ。
「なぁアリス、他の方法を探そうぜ! なにも、なにもそこまで……!」
意思を伝えるために、魔理沙はスプーンを二回鳴らす。
だがアリスは顔を青ざめさせたままで、なにも言わない。
そして。
「――いいわ」
「アリス?!」
「読み終わっているモノで、いいかしら?」
おどけてみせるアリスの様子に、震える声で了承するその姿に、魔理沙は目を見開く。
悪戯ばかりしてきた。ひねくれて、嫌みばかり言ってきた。だというのにアリスは、魔理沙を助けようとしてくれる。今こうして、大事なモノを差し出してでも。
「なんで……なんでだよ、アリス」
不思議で、そして悔しい。
アリスにそこまでさせている自分が、そこまでしてくれるアリスに何もしてこなかった自分が、魔理沙は何よりも悔しかった。
「――ふっ、くくっ」
「パチュリー? ええっと?」
「冗談よ、アリス。そこら辺で無力感に打ちひしがれているネズミへの嫌がらせ」
パチュリーの雰囲気が、とたんに柔らかくなる。
アリスは緊張が解けたのか胸をなで下ろし、魔理沙は思わず座り込む。してやられた。そんな思いで魔理沙の胸はいっぱいだった。
「もちろん対価は貰うわ。本の返却、それから図書館での無償奉仕、あとはアリス、貴女の秘蔵の書でも貸してちょうだい」
「ええ、もちろん。ありがとう、パチュリー。魔理沙も良いわね?」
「ああ、それくらいだったらやるさ」
そう言って、魔理沙はスプーンを一度鳴らす。
「あとは、そうね――アリス、何故魔理沙にそこまで肩入れするのか、聞かせてちょうだい」
秘伝の書を渡せ。
そういったとき、アリスは確かに一度、了承して見せた。パチュリーにはそのことがなによりも不思議だったのだろう。
「――私はね、故郷に姉が居るの」
「へぇ?」
「姉ばかりで、妹は居なかったわ。だからかしら、私は勝手に、魔理沙を妹のように思っているわ。意地っ張りで、危なっかしくて、捻くれているけれどまっすぐな、放っておけない妹で、一緒に居て飽きない友達」
「妹、ね」
「そう。勝手だとは思うけれど、私はそう思っている。だからこんなところで居なくなって欲しくない。助けたいって、思っているのよ」
「ふぅん。お人好しねぇ――まぁでも、良いわ。質問には答えてくれたし、協力してあげる」
パチュリーが頷いてくれたことで漸く一息付けたアリスの、その真横。
そこで魔理沙は愕然とした様子で、アリスを見ていた。
思えば、アリスは魔理沙に対して何かと気にかけるような言動を見せることが多い。
お菓子ばかり食べていれば、栄養が偏ると。
散らかしてばかりいれば、いつか怪我をすると片付け。
異変解決に赴けば、危険な場所だからと人形を多く渡してきた。
お節介だと、小言ばかりで細かいと、魔理沙はどんな風に思ってきたし、アリスも特に見返りを求めないからただ享受してきた。
だがその根底にあるモノが、魔理沙のことを大事に思ってくれていたのだとしたら。
「言ってくれよ、アリス。そうしてくれたら、私は……私は――」
魔理沙は、一人で実家を飛び出して、ただひたすらに努力を重ねてきた。
強請ることはあっても頼むことはない。借りることはあっても預かることはない。孤独の最中、孤独を紛らわすように研究に没頭したことすらある。
だが、そんなとき、アリスは魔理沙になにをしてくれたのか。どう、手をさしのべてくれたのか。
「良かったわね、魔理沙」
そう心から安堵した様子を見せるアリスに、魔理沙は一つ、決意をする。
報いたい。このお人好しで、優しい妖怪に、友達のようで姉妹のような不思議で、けれど心地よい関係をくれる隣人に報いたい。
それは魔理沙が初めて、心の底から“誰かのために”行動したいと、そう願った瞬間だった。
パチュリーに貰った水を、霊夢の時のように小瓶に入れる。
そして行きと同じように、けれど抱える感情はまったく別のモノとなって、二人は静かに紅魔館から飛び立った。
――6/悪意――
魔理沙の家に戻ったアリスたちは、早速、薬を作り始める。
それでは中和剤を作りましょう
蜥蜴の血
猪の牙
金剛石の粉
二人の神職の力の籠もった水
三人の魔女の力の籠もった水
それからこれが一番大事
これら全て
魔力を込めながらかき混ぜる
ぐるぐる
ぐるぐる
かき混ぜる
全ての材料を、手順通りに魔女の釜に入れる。
そして魔導具を作るときに用いる特殊なへらを使って、アリスはぐるぐると混ぜ始めた。魔力を込めて、ただ一心にかき混ぜる。
やがて、だんだんと、白濁色だった液体が青い輝きを見せ始める。本来ならば作れなかったはずの中和剤。その形がアリスの手によって整えられ、やがて、小さく、輝きが収まっていく。
「できた」
アリスはそう呟くと、慎重に、慎重に釜の中身をガラス瓶に移す。
「さ、魔理沙」
「ああ」
魔理沙はアリスの言葉に従って、中和剤の前に立った。
思えばこうなるまでに、色々なことがあった。しようのないいたずらに始まり、絶望を覚え、感謝を覚えてここに立っている。
だから魔理沙は、中和剤を手に取り、誰に聞かせたい訳でもなく自分自身に宣言をする。
「これを飲んだら、みんなに謝る。条件以上のことだってやる。だから、全部終わったら、アリス――アリスと、ゆっくり話がしたい。どんなことでも良いから、アリスと幻想郷を飛び回って、話がしたい。だから」
悪夢は、ここで終わりだ。そう告げるかのように、魔理沙は中和剤を一息に嚥下した。
「お? おおお? おおおおおっ!」
すると、虹色の輝きと共に魔理沙の身体に魔力が戻る。
「やった、やったぜアリス! 成功だ!」
そう言ってアリスを見ると、驚きに目を瞠る彼女と漸く“目を合わせる”ことができた。
アリスも相手が呪いの書と言うこともあって、半信半疑な部分があったのだろう。だが実際に魔理沙の存在が戻っていくと、アリスは漸く、柔らかく微笑んだ。
「まったく、人騒がせなんだから」
「ええっと、その、ごめん。それから――ありがとう」
「ふふ……ええ、どういたしまして」
照れくさくなって、魔理沙はさっと背中を向ける。
けれど誤魔化そうとしていることなど一目瞭然だ。魔理沙は後ろで聞こえる小さな笑い声に、思わず唇を尖らせた。
「あれだ! とりあえず、今日はもう遅いから明日! 明日になったら謝りに行くから、だからそれが終わったらさ! アリス、おまえと――」
だが。
そう続けようとした魔理沙の声を遮るように、ばたんと音がする。
「――え?」
力を失って落ちる上海人形。
傍らに横たわる――アリスの、姿。
「アリス! おい、どうした!?」
意識はない。
それどころか、妙に軽い。
「なんだってんだ……!?」
そしてその答えを示すかのように、アリスは足下からゆっくりと色を、存在を失わせていた。
「なんで? どうして? 手順は完璧だった、手順は!」
魔理沙はアリスを床に降ろすと、紙束を持ち上げる。
これ以上のことは何も書いていない。月明かりにかざしても現れない。焦りに焦った魔理沙が机を叩くと、反動で二番目の中和剤を飲んだガラス瓶が倒れて、僅かに残った中和剤が紙束に染みこむ。
すると、それがキーワードだったのだろう。しみ出るように、紙束から文字が浮かび上がる。
ただ悪意を、文字に乗せて。
中和剤の二つ目は
誰かを犠牲にする薬
もしもあなたが薬を飲んだなら
あなたの一番近くのひとが
あなたに存在を吸い取られて
静かに儚く消えていく
あなたは誰かの存在を吸い取って
惨めに孤独に生きていく
「なんだよ、それ……なんなんだよ!」
魔理沙の悲痛な叫び声が、消えゆくアリスの身体に響く。
だがアリスの崩壊は止まらず、魔理沙の瞳から零れた涙が、アリスの腕があった場所を通り抜けて床板に染みこんだ。
「なぁ、目を覚ましてくれよアリス! これからだったじゃないか! 全部全部、これからだったじゃないか! 妹でも友達でもなんでもいい! 私は、私は……アリスと一緒に居たいんだ! だから、だからッ!!」
魔理沙がどんなに叫ぼうとも、現実は動かない。
ただ悪意の込められた紙束が、風もないのに舞い上がって魔理沙の眼前で浮き上がる。
透明人間になって
それでも薬を作ってくれる“そのひと”は
あなたにとって大切なひと
でもとても残念なことに
あなたの大切なひとは
あなたのせいで
消えてゆく
存在を吸われ
あなた以外の記憶に残らず
「だまれ」
ただ透明人間になって
好き勝手にした貴女のためだけに
無意味に
無慈悲に
無感動に
消えてなくなってゆく
「黙れ」
いま?
どんな
気持ち?
あなたのために
あなたなんかのために
大切なひとをなくすのは
どんなに
惨めで
楽しいのだろう
「黙れ――ッ!」
孤独で
孤独で
とても
とても
かわいそう
「黙れ、黙れ、黙れッ!!!」
ひひゃ
ひゃははひゃはは
ははははは
はひゃひひゃはははははは
あはひゃはははははははははは
あはははひひひひひひひひひひひひひひゃははははははっは
あひゃひひは
はひゃひいっひひひひひひひひふひゅふはははははひゃ
ふひゅひはひひひひひひひひひひひひひひゃはははあひひゅははひはひひひひっは
「黙れ――おまえなんかがそこに“在った”ら、アリスの顔が見られないだろうがッ!!」
涙に濡れた魔理沙が、ポケットの中から八卦炉を取り出す。
充填する魔力は、想いの力。アリスが魔理沙の為に動き回り、結果的に、魔理沙に流し込まれた思いやりの力。
「恋、心ッ【ダブル――――――スパァァァァァァァクゥゥゥゥゥゥッッッ】!!!!!!」
その閃光の色は、眩いばかりの虹色。
虹色の光が駆け巡り、空間を染めていく。その光は断末魔の暇を与えることなく、空に舞った紙束をこの世から消滅させていく。
「ざまぁみろ」
魔理沙は悪態を一つつくと、優しくアリスの身体を抱きしめる。
目障りなモノが消えたところで、結果は変わらない。あの紙束が言ったことが本当ならば、アリスは魔理沙の記憶にしか残らず、その意義もなく消えてゆく。
「アリス、ここで終わりなんて言わないでくれよ」
まだ熱だって持っているのに。
まだこんなに暖かいのに。
「消えないで、いなくならないでくれよ、アリス」
魔理沙の瞳からまた、涙があふれる。
留処なく流れる涙を拭おうともせずに、魔理沙はただアリスの身体を抱きしめていた。
けれど、そんな魔理沙の涙を、華奢な指がそっと拭う。
「魔理沙……?」
「あり、す?」
消えたはずの手。
見れば、ほとんど消えていた胴も、足も、魔理沙からあふれた虹色の輝きに包まれるようにしてもとに戻っていた。
「泣いてるの? 魔理沙」
「ああ、あああああ、アリス、アリスッ、アリスッ!!!」
「魔理沙? 大丈夫、大丈夫よ、私はここに居るから」
もう、言葉はない。
ただ魔理沙は己の頭を優しく抱きしめるアリスにすがりつくように、その存在を確かめるように、強く抱きしめ声を上げて泣く。
「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああぁぁぁぁぁっっっっ!!!!!!!」
その声にアリスは何も応えることなく、泣き続ける魔理沙を慰めるように、ただ優しく抱きしめ続けた――。
――7/行く先――
――それから。
落ち着いた魔理沙は、翌日から迷惑をかけたひとたちに頭を下げ、約束を実行する日を取り付ける。
パチュリーの約束事は、霊夢の約束の後で構わないとパチュリー自身から言われたため、魔理沙はたくさんのお菓子をバスケットに入れたアリスと共に博麗神社を訪れていた。
「消滅させた、ねぇ」
そしてそこで、魔理沙はまず霊夢に頭を下げる。
悪戯も当然謝るべきことなのだが、もう一つ。約束していた紙束を持ってくることなく消滅させてしまったことだ。
「まぁいいわ」
言いながら、霊夢はマフィンを囓る。その度に魔理沙の身体がぴくりと動くが当然無視だ。
魔理沙の好物を魔理沙の前でこれ見よがしに食べてやることが、霊夢の考えた意趣返しにして、魔理沙への罰なのだから。
「いいのか?」
「一応、紙束が入っていたっていう瓶は持ってきたのだけれど……」
魔理沙が問い、アリスが霊夢に瓶を差し出す。
「そうしないとアリスが消滅していた可能性があるからね。流石に、そこまで気を遣えとは言えない状況でしょ? でもまぁ、アリスの機転は助かるわ。魔理沙も見習いなさい」
「うぐっ」
霊夢はアリスから瓶を受け取ると、なにやら呪文が書かれた紙の上に乗せる。
するとそこに“隙間”が開き、瓶が吸い込まれていった。
「霊夢、今のは?」
「紫に解析して貰う手はずになっているのよ」
霊夢は魔理沙たちが来る前に謎の悪意の存在を紫に告げ、手はずを取り終えている。
そう魔理沙に告げると、魔理沙はなるほど、と頷いた。
「なぁ霊夢、あれは結局、なんだったんだ?」
「存在を消滅させ、記憶にも残さない。正直なところ、尋常な呪いではないわ」
悪意。
ただそう一言で片付けるには、あの一連の出来事はあまりに重い。
「紫から聞いたことがあるわ。ひとの力でも、幻想の力でもない。ただ“なにか”の悪意が凝り固まって、どこからともなくひとを侵す。そういう存在は、人も妖怪も関係なく、全ての存在に対する無条件の敵対者。だから――」
霊夢は、硬直する魔理沙と、険しい顔のアリスを順々に見る。
「――気をつけなさい。純粋な悪意には、過程も理由も存在しない。出会ったしまったその時は、その場を逃げ出して、誰かのことを考えて忘れてしまいなさい。まぁ、あんたにはもう、考えていたい“誰か”が出来たみたいだしね」
霊夢の言葉に、魔理沙は強く頷く。
そして盗み見るように見たアリスと目が合ってしまい、慌てて目を逸らした。
「悪意、か」
魔理沙はそう呟いて、紙束のことを振り返る。
一面に綴られた悪意。誰かの犠牲を強いる文面。
思い出す度に、魔理沙は自分の身体が僅かに震えることを自覚する。
誰が。
何のために。
ただ他者を陥れるだけの存在があるということが、ただそれだけで恐ろしい。
「でも」
そう、同時に思う。
もう二度と、悪意につけ込まれたりはしない。なにせ魔理沙には、心から彼女の為に動いてくれるひとが、居るのだから。
だから、今は――
「アリス、霊夢とばっかり話してんなよ」
「へ? 魔理沙?」
――この幸福を享受しよう。
心の底から幸福を受け入れて、悪意になんかに覗き込まれたりしないように、と、魔理沙はアリスの背中にのしかかった。
――了――
無縁塚には、多くのものが流れ着く。主に香霖堂の店主が集めているそれは、外の世界のモノであったりよくわからない曖昧なモノであったりと様々だ。
魔理沙はそんな“珍品”に興味を持ち、時折、こうして無縁塚を訪れて掘り出し物がないか探して回ることがある。この日も、そんないつもと変わらない“目立ったモノはないけど何か持ち帰る日”になると思われた。だが。
「なんだ、これ?」
透明の瓶。
以前魔理沙が香霖堂で飲んだ“コーラ”よりも二回りほど太く一回りほど長いガラス瓶の中に、本と言うにはやや雑な紙束だ。
「ふむ……えーと? お? おおおおお? おおおおおおおお!」
紙束の最初。
表紙と思われる部分に綴られた一文を見て、魔理沙は歓喜の声を上げる。
「これは、面白そうだぜ!」
そこには、こう綴られていた――
“透明人間になれる薬の作り方”
――と。
インビジブルマリサ
――1/調薬調合透明人間――
魔法の森の一角。
霧雨魔理沙魔法店と綴られた看板の向こう側で、怪しげな煙が立ちこめる。
「ふむふむ……」
魔理沙はその怪しげな煙の中心で、布で口元を覆い、河童から借りたゴーグルで目元を保護しながらなにやら調薬めいたことを繰り返していた。
ネズミのひげ。
イノシシの牙。
オオカミの血。
人魚の涙。
三度すり潰して四度煮込み
五度沸騰させ
三時間乾燥させ
すり潰して
一時間魔力に当て
神木の樹液と一緒に煮込み
蜂蜜を絡めて飲み込めば
身体はみるみる透明になる
不死者の髪。
聖人の汗。
神職の服の切れ端。
魔法使いの血。
自分が魔法使いであればなおよし。
山彦の涙。
一回すり潰して二回煮込み
三度沸騰させ
四時間乾燥させ
五時間魔力に当て
三十分煮込み
墓場の木の樹液とまた煮込み
三回に分けて飲み干せば
透明になった身体はもとどおり
こう書かれた調薬指南に心躍らされた魔理沙は、善は急げとあらゆるところを飛び回り、材料をかき集めた。
猪は人里付近の野生のものを。狼は竹林の人狼に弾幕勝負を挑み。人魚は擽り倒して涙を得た。
不死者の髪は妹紅との弾幕勝負に負けて伸びていた輝夜から抜き取り、聖人の汗は運動中の聖から掠め取り、早苗を弾幕勝負で打ち負かして服を少し貰い、魔法使いの血は自分が魔法使いであった幸運に感謝しながら得た。あとは山彦も人魚同様擽り倒せば完了だ。
手順どおりにぐつぐつと煮込んだ魔理沙は、ついに目的のものを完成させる。これまでの“主に他人から掠め取った”苦労を思えば、その達成感もひとしおだ。
「こっちが透明人間になれる薬。もう一個が中和剤」
魔理沙は中和剤を机の上に置き、透明人間の薬を手に取る。
「魔法使いは度胸だぜ!」
そしてそれを一息に飲み込んだ。
「お? おおお? おおおおっ!」
手が透け。
足が透け。
動体から登るように身体が透け。
首が透け。
顔が透け。
髪の毛が透け。
姿見の前に映るのは、魔女服のみ。
「本当に透けた! けど服はダメか。まぁそりゃそうか」
魔理沙は身体が透明になったことを喜びながら、いそいそと服を脱ぎしてる。
姿見の前ではひとりでに服が浮かび、それからばらばらと落ちているように見えてなんとも不気味だ。
全て服を脱ぎ捨てても、恥ずかしさは感じない。自分自身の目にすら自分の姿が映らないのだから。もっとも感覚を掴むためか、ぼんやりと輪郭がわかるようにはなっているが、やはり鏡にはなにも映っていない。
『よしよし。それなら次は――』
速度を出さないのであれば、箒なしで飛ぶことはできる。魔理沙は家を出てふわりと浮き上がると馴染みの神社に目を向けた。
『――どこまで気がつかれないか、実証だぜ!』
まずは実験。
そう言いながらも魔理沙の瞳は研究者のそれではなく、悪戯っ子のように輝いていた。
――2-1/博麗神社の煎餅怪異――
普段よりものんびりと博麗神社の境内に降り立った魔理沙は、早速実験相手を探す。
『普段の霊夢なら……お、いたいた』
縁側でお茶を飲む霊夢の姿を見つけると、魔理沙は小さくほくそ笑む。抜き足、差し足、忍び足。霊夢がほっと一息ついたところで手を伸ばした先にあった煎餅を、魔理沙はさっと掠め取る。
「あれ? あれ? また妖精の仕業?」
『ふむ、私が手に持つと透明にはならなくても存在はわからなくなるんだな』
実際、煎餅自体は霊夢の眼前でふらふらと浮いている。
だが霊夢はそのことに気がついた様子もなく、青筋を立てて周囲を見ましていた。
『くくく……いやいや、楽しんでるんじゃないぞ。これはあくまで実証だからな』
次の実験、と魔理沙は密かに気合いを入れる。ついでに足音も立ててみたが、霊夢はこれにも気がつく様子を見せなかった。
魔理沙はそんな霊夢の様子に気をよくすると、今度は霊夢の後ろに回り込む。勘の鋭い霊夢だ。ただ透明になるだけではここまで出来ないことだろう。魔理沙は改めて小瓶の指南書の凄さを思い知りながら、おもむろに、魔法で掌に水を作り出す。
『南無三!』
そういって生み出した水は、霊夢の首筋に直撃する。コップ半分くらいの量だ。
「きゃぁあっ」
『うおっ』
思いの外可愛らしい悲鳴だった。
のけぞる霊夢にぶつからないようにとっさに飛び退く魔理沙だったが、霊夢はそれでも魔理沙に気がつかない。
「だだだだだれよっ!? ……あれ? まさか、また妖精?」
右を見て、左を見て、魔理沙の方を見ても気がつかない。
「うぅ、濡れてる……着替えなきゃ。見つけたらぎったんぎたんにしてやる……」
『ううむ、流石にやり過ぎたか。ごめん霊夢。まぁ、名乗り出ないけど』
服を着替えるために神社の奥へ入っていく霊夢。
そんな霊夢の後ろ姿を見送ると、魔理沙は小さくほくそ笑む。なにせあの勘でだいたいの異変を察知してきた霊夢に気がつかれなかったのだ。
最早ほとんどの者に見つかることはないだろう。
『いやいや、でもまだ実証は必要だしな、うん』
魔理沙は誰かに言い訳でもしているかのような口調でそう呟くと、また、ふわりと浮き上がる。
『さて、次はあいつのところに行こうかな?』
そしてそう、目的地を定めてゆっくりと飛行し始めた。
――2-2/大図書館の本盗り幽霊――
妖精だらけの湖も、門番が目を光らせる正面口も、メイドであふれる廊下も。
メイド長の横すら通り過ぎて、魔理沙は大図書館にやってきた。
『パチュリーは……っと』
目的の人物は、魔理沙が目の前に来ても変わらず本を読んでいる。もちろん隣の小悪魔も気がつく様子はない。
『といっても、パチュリーに直接悪戯……ごほん、実証するとバレたときに殺されかねん』
霊夢ならば、せいぜい“ぎったんぎたん”で許してくれることだろう。けれどパチュリーはそうではない。おそらくやらかした内容によっては本当に危険な目に遭いかねない。
そこで魔理沙は、パチュリーにすることは“普段”と変わらないことと決めていた。
『ということで、今日はじっくり選ばせて貰うぜ』
――そう、死ぬまで借りる、ということだ。
普段は急ぎ足のため勘で借りているのだが、今回は違う。パチュリーが手元に置いてある本も含めて“選ぶ”ことができるのだ。
『お、いいなこれ』
「あら? こあ、ここに置いておいた本、しまった?」
「? いいえ?」
おまけに。
魔理沙が触れた本は魔理沙同様“見えなくなる”のだ。これならば服を着てきても良かったのではないかとも魔理沙は思ったが、魔理沙の目には見えている以上、あの時点では仕方が無かったと振り返るのをやめる。
入れ物がないため、せいぜい借りられる本は四冊程度にしかならないだろう。だがそんなことは百も承知と、魔理沙は道中で大袋を“借りて”いた。
「こあ、目の錯覚かしら」
「なんでしょうか?」
「今、本が消えたわ」
「――妖精の気配はいたしませんが……?」
パチュリーが見ていようと見ていまいと関係ない。
魔理沙は次々と物色し、持ち前の勘と運で価値のある本ばかりを袋に入れていく。
「まさか、お化けでしょうか?」
「落ち着きなさい、私たちが定義的にはお化けよ」
「パチュリー様は本妖怪ですか?」
「黙りなさい。それよりも……!」
そうして最後に、魔理沙はパチュリーの読みかけの本を持ち上げる。
「むきゅ?!」
それだけで本は存在を消し、パチュリーの目には映らなくなった。
『じゃ、死んだら返すぜ!』
魔理沙はそうとだけいってふわりと飛び上がる。流石に詰め込みすぎて重かったため一度帰らなければならないが、そこはご愛敬。
これだけの戦果を得られたのだ。文句など言うはずもなかった。
「こあ」
「……はい」
「寝るわ」
「はい……はい?」
「疲れているみたい。ちょっとレミィ呼んできて。吸って貰えば寝られるから」
「ちょっ、パチュリー様、それ永眠ですから! パチュリー様!」
小悪魔とパチュリーの会話をよそに、魔理沙は紅魔館から飛び立っていく。
誰にも見つからずに、誰にも気がつかれずに、大量の本を抱え持って。
――2-3/魔法の森の菓子食べネズミ――
一度自宅に戻った魔理沙は、本を家に置くと、さっそく服を着直す。魔理沙の目には服だけ浮いているように見えるのだが、これが他人には見えないと言うことがなんとも不思議だった。
だが、見えないのは好都合。魔理沙は八卦炉と箒を持って、本日最後の実証をしに飛び立つ。魔法の森の瘴気をくぐり、ゆくべきは隣人の家だ。
『アリスー? いるかー? ……なんてな』
堂々と玄関から不法侵入。
魔理沙はマーガトロイド邸にたどり着くと、まっすぐと物音の聞こえる方に向かった。
「上海、蓬莱、あなたたちはそっちをお願い。和蘭、倫敦はあっち」
多数の人形を操作する、金髪碧眼の人形のような少女。
魔理沙は自分のくすんだ色の金髪を見る度に、背の小さく子供っぽい自分の身体を見る度に、アリスのことを羨ましく思っていた。
『恵まれやがって』
アリスが聞こえないのを良いことに、魔理沙は悪態をつく。
いつも余裕淡々としていて、決して全力を出さず、そのくせ弾幕ごっこ以外では悠々と魔理沙の上をいく。橋姫を目の当たりにしたことがある魔理沙は、この感情が自分を腐らせると知っていた。
だから魔理沙は、嫉妬故の行動は犯さない。けれど口に出して文句を言うくらいはしたかった。
『ふん、まぁいい。私はこの透明薬も魔法に組み込んで、あっと言わせてやるんだからな!』
弾幕ごっこで完全不可視は御法度だが、後ろに回り込んだときに見えるように設定するなどやりようはある。存在すらも察知できなくさせるのだ。凶悪な魔法が作れることは間違いない。
これで、才能も、種族も、寿命も関係なく、見返してやれる。魔理沙はそうぎゅっと己の手を握りしめた。
『と、いうことで』
魔理沙はさっさと切り替えると、テーブルに並べられたお菓子の数々を見る。アリスは研究に行き詰まると、お菓子を作る癖があった。人形操作の反復もしながらお菓子を作り、できあがったものをじっくり食べたりお裾分けしたりする。
魔理沙も実のところおこぼれに預かっているのだが、アリスは「栄養バランスが」だとか、「カロリーが」だとか母か姉かのように口うるさく、魔理沙のところに持って行くときはごく少量だ。
『どれどれ……む、うまいなこのマフィン。これは危険だ。他の奴らに喰わせるわけには行かないな。お、フィナンシェか。これもダメだな。私が責任持って片付けてやろう』
魔理沙はそう言って、次々とお菓子を食べていく。
そうしていれば当然アリスも気がつくが、そこは問題は無い。
『どうせ私がやったなんてバレないんだ。はぐはぐ――』
「減ってる……。これは、魔理沙の仕業ね」
『――むぐっ、げほっ、げほっ』
「魔理沙の好物ばかりだし。でもどうやって――?」
どうやってやったかはバレていない。
だがバレたということ事態がまずかった。どうやら魔理沙は食べるお菓子を選びすぎたらしい。
『水、水……んぐっ、んぐっ……ぷはぁっ! 危なかった! 本当に危なかった!』
命の危機である。
こんなところで息絶えてしまったら笑い話にもならない。謎の失踪事件である。
『あ、焦らせやがって――ん? 触れても大丈夫なのか』
苛立ちと共にアリスの横腹を突いてみるが、反応はない。
このまま悪戯をし続けても良いのだが、魔理沙はなんだか妙に疲れてしまった。
『今回はここまでで許してやるぜ』
ただ一言そう悪態をついて、首をひねるアリスの前から立ち去る。
箒に跨がって空へと飛び上がると、魔法の森は夕日であかね色に染まっていた――。
――3/そうして事態は裏返る――
家に戻った魔理沙は、まず、中和剤を飲み干した。
すると魔理沙の身体は徐々に色を取り戻し、最後にはすっかり元通りになる。
「うんうん、やっぱり全身透明ってのよりは落ち着くな」
見慣れた顔を見て、魔理沙はそうほっと一息。透明人間も悪くなかったが、やはり一番はこれだ。コンプレックスも多いが愛着もある。
魔理沙は早速、今日一日の実証結果を書き綴ろうと筆とペンを手に取る。
――コンコンコン
と、そこでノックが聞こえる。
こんな行儀良くノックをする者など、魔理沙の知る限りごく僅かだ。タイミング的にアリスだろうと見切りを付けると、「いるぜー」と適当に返事をして、そのまま体勢を変えずに続きを書く。
するとそのうち、ガチャリと音がして扉が開き、足音が聞こえてきた。足音の主は魔理沙の予想どおり、アリスだ。
「見ての通り私は忙しいんだが?」
「まったく、散らかすだけ散らかして」
「おいおい、いきなり小言か? おまえは小姑か、まったく――」
怒られるかも知れない。
けれど、誤魔化せば良い。
「それにしても、魔理沙」
だが、
「散らかすだけ散らかしたまま」
魔理沙の予想は、
「“留守”にして、もう」
まったく別の方向から裏切られる。
「――え?」
アリスは“魔理沙の目前で”周囲を見回して、そう言った。
「お、おいおい、冗談はやめてくれよ」
「どうしようかな。栄養が偏るからダメだってあれほど言ったのに」
「それは悪かった。誤魔化さないよ、認めるから!」
「遊びにでもでかけているのかしら?」
「なぁ、おまえ、そういうキャラじゃないだろ? なぁ、おい!」
「しょうがない、か。他を探してみないと」
アリスは、魔理沙に気がつく様子はない。
腰に抱きついても、服を引っ張っても、アリスはまるで魔理沙の重みすら感じていないかのように振る舞う。
やがてアリスは、魔理沙に気がつかないまま踵を返す。今ここでアリスを逃してはならない。魔理沙は慌ててアリスの前に立ちふさがるが、あっさりはじき飛ばされてしまう。しかも、アリスはそのことにすら気がつかない。
気がつかずに、魔理沙の前から去ろうとする。
「アリス、おい待ってくれ! アリス、アリス! なぁ、アリス!!」
ついにアリスは、魔理沙の家から出てふわりと浮き上がる。
あっという間に空まで登ってしまった彼女の姿を見て、魔理沙は慌てて箒に跨がった。
「飛翔――っ!?」
だが。
「あぐっ!!」
飛び上がったまま浮かび上がらず、肩から地面に転ぶ。
「な、なんで、なんでだよ」
何度飛び上がろうとしても同じ。
空を飛ぶことが出来なくなっている。
「ぶ、ぶれいじんぐ――彗星【ブレイジングスター】」
浮きはせず。
「くっ、ま、ます――恋符【マスタースパーク】」
光すら灯らず。
「は、はは、嘘だろ――魔符【スターダストレヴァリエ】!!」
魔力は籠もらない。
「なんで、なんで、なんで、なんで――!!!!!」
最早眼前にアリスの姿はなく、月明かりがぼんやりと魔理沙を照らす。
魔理沙はおぼつかない足取りで家の中に戻る。そして、幽鬼のようにふらりと椅子に座ると、目を皿のようにして調薬書を見始めた。
「なにか、なにかあるはずなんだ、なにか――!」
中和剤の書かれたページ。そのページの次は不自然に白紙だった。
もしかしたらここに何かあるかも知れない。魔法で調べることが出来ない以上、魔理沙は自力でどうにかするしかなかった。
見ても、一生懸命火を熾して炙っても、なにも起こらない。それでも何かを求めて、魔理沙はよりよく内容が見えるように月明かりに書を当てた。
「え? ――ぁ」
すると、月明かりによって文字が浮かび上がる。
月光に当てること。それが条件だったのだろう。月明かりから蝋燭の明かりに変えても内容が消えることはなかった。
「焦らせやがって。わかりにくいんだよ!」
苛立ちを隠さず、魔理沙は怒鳴り声を上げる。
だがすぐに気持ちを切り替えると、書の内容を読み始めた。
本当に元に戻るには
もう一つの中和剤
最初の中和剤で姿を取り戻し
次の中和剤で存在を取り戻す
でもでも最初の中和剤
作るときは二つ目も一緒にね
最初の中和剤の副作用
あなたに魔力は使えない
さぁさぁ気をつけて
次の中和剤を作りましょう
「え? い、いや、とにかく作り方を見ないと」
それでは中和剤を作りましょう
蜥蜴の血
猪の牙
金剛石の粉
二人の神職の力の籠もった水
三人の魔女の力の籠もった水
それからこれが一番大事
これら全て
魔力を込めながらかき混ぜる
ぐるぐる
ぐるぐる
かき混ぜる
「は、はは、おいおい、嘘だろ」
材料は集められないことはない。
霊夢も、あるいは早苗も。
パチュリーもアリスも、あるいは白蓮も。
神職や魔女は研究の最中に水を使うことはある。歩いて森を抜けて霊夢たちのところへ行けば、途方もない時間が掛かるが手に入るかも知れないという希望がある。
だが最後は無理だ。中和剤を飲んでしまった魔理沙は、副作用で魔力を扱うことが出来ない。だが誰にも存在を気がついてもらえない以上、誰の協力を得ることも出来ない。
「つ、づきが、あ、る?」
二番目の中和剤を作れなかった?
それでも良いじゃない
誰にも知られず好きなことが出来る
誰にも気取られず自由になれる
誰の目ももう気にする必要は無い
あなたはもう存在しない
あなたはもう誰からも見られない
あなたの存在は路傍の石
あなたの存在は日陰の虫
誰からも必要とされず
誰からも名前を呼ばれず
誰からも好かれることはなく
誰もあなたのことを見なくなり
誰もがあなたのことを忘れていく
ひとりきり
孤独の中で
しんでゆく
それほど
愉快な
ことは
な
い
「あ、ああ、あああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああぁぁぁああぁッッッッッ!!!!!!!」
どろりとした、形容しがたい悪意。
誰かを陥れることだけを考えて作られた書。
その絶望を目の当たりにした魔理沙は喉をかきむしるように悲鳴を上げて、やがて膝から崩れ落ちた。
――4/希望or……?――
魔理沙が目を覚ますと、月は未だ中空にあった。
それほど時間が経っていないのだろう。まだ夜も明けていない。
「誰にも好かれず、ひとり、孤独に、死んでゆく」
最早、魔理沙の瞳に光はない。
悪戯ばかりする自分を、誰も探しに来てはくれないことだろう。霊夢だってあの勘の良さだ。魔理沙が悪戯したことなどとっくに気がついているだろうし、アリスだって愛想も尽きたことだろう。
魔理沙はひねくれてばかりだった自分の行動を後悔するが、どんなに悔やんで反省しようとも、結果は変わってくれない。
孤独に死んでいくという事実は、動かない。
「なら」
もういっそ。
そう魔理沙は、果物ナイフを手に取る。
「この、絶望に、終わりを――」
そう首筋にナイフを当てようとして、
「魔理沙ー? やっぱりいないのかしら?」
「――っ」
とっさに、手からナイフを落とした。
カランと、音がする。するとアリスはその音の方に顔を向けた。
「魔理沙? 居るなら居るって返事――あれ?」
やはり魔理沙を見つけることは出来ないのだろう。
アリスはしきりに首を傾げながら、周囲を見回す。
「アリス、ごめん、ごめん、アリス」
魔理沙はそんなアリスにすがりつくことも出来ず。ただ俯いてうわごとのようにそう呟く。
どうせ見つけて貰うことは出来ない。あの書の綴るように、魔理沙はひとり孤独に死んでいく。それはもう変わらない、絶対的なことなのだ。魔理沙の心はそう、暗い気持ちだけがぐるぐると渦巻いていた。
「――魔理沙、そこにいるのね?」
「え?」
だが、言われた言葉に思わず顔を上げる。
アリスは魔理沙の方など見ていない。ただ険しい表情で、机の上を睨み付けていた。
「居るんだったら、できることで存在を知らせて。そうね、音でもいいわ」
「! ああ、ちょっと待ってろ!」
魔理沙は慌てて立ち上がると、スプーンを持って地面にたたきつける。すると、カチャンッと軽く鋭い音が響いた。
「そこね。はぁ……本当に存在を感じられないわ」
「なんで」
「まったく……いい、魔理沙」
そういって、アリスは魔理沙が居るであろう方向に顔を向けながら、机の上に置いてあった“もの”を持ち上げる。
「こういう怪しいモノをよく調べもせずに使わないの」
「あ」
そう、魔理沙が机の上に広げていた書。
透明人間になれる調薬書を、アリスは呆れた顔で持ち上げていた。
隠された文字が浮かび上がっていた以上、魔理沙の状態など推して知るべし、ということであったのだろう。アリスは大きく、大きくため息をつく。
「いい、魔理沙? こういうのは調薬書とは言わないの。これはただの、呪いの本よ」
「……まったくもって、ごもっともだぜ」
アリスの言葉に、魔理沙は深く、深く頷いた。
だが同時に、不安が過ぎる。これでその力を以てアリスに悪戯を仕掛けたことはバレただろう。魔理沙を探して他の場所へも出向いたのであれば、他の悪戯もバレていると思った方が良いだろう。
ならば、アリスはこのまま魔理沙を放置していくのではないか。罰だと、咎だと、自業自得だと言われてしまえば魔理沙はそれに許しを請う手段もなく、縋る術もなく、頷くことしか出来ない。その行為だってわかってもらえない。
こんなひねくれてばかりの自分を、いったい誰が省みてくれる?
魔理沙は己に問いかけて、ただ、口を閉ざすことしか出来なかった。
「しかし、三人か。困ったわね?」
「アリス?」
「私と、あと白蓮にお願いして二人。あと一人はパチュリーか。事情を話して、対価も必要でしょうね。骨が折れるわ」
「え、それって……」
だがアリスは、もしかしたら反省などしていないのかも知れない、落ち込んですら居ないのかも知れない存在の感知できない魔理沙を、当然のように助けようとする。
そのことが魔理沙には、不思議でならなかった。
「魔理沙。貴女が今、反省しているかいないかはわからないわ。でもね、やってしまったことに対して謝ることが出来るのは、あなただけなのよ。だからさっさと自分を取り戻して、自分で謝りに行きなさい」
「アリス……わた、わたし、私は……」
かちゃん、と再び手に持ったスプーンが小さな音を立てる。
するとアリスは、満足げに微笑んで、頷いた。
「それに私も、貴女の姿が見えないと調子が狂うわ。さっさと直すわよ、魔理沙!」
「アリス……おう!」
今度はまた、大きな音が鳴る。
アリスは声を上げて小さく笑った。
――5-1/糸口はいずこ――
蜥蜴の血。
猪の牙。
金剛石の粉。
神職の力の籠もった水を、早苗に頼み。
魔女の力の籠もった水を、アリスと白蓮で二人分。
ここまでは多少の苦労はあったものの、さほど問題なく手に入れた。
「さて、大変なのはこれからね」
「ああ、そうだな」
霊夢は、何とかならないこともないだろう。
問題はパチュリーだ。読みかけの本を取られて寝込んでいると聞く。果たして魔理沙の為に水など作ってくれるのか。
「せめて貴女が筆談でも出来れば、ね」
そう、アリスは魔理沙との意思疎通を試みていた。
声はもちろん届かず、触られてもわからない。ではモノを書いてみても、なんとなんと書かれているか読むことが出来ない。人形を操らせてボディランゲージをさせようにも、魔理沙が操ると人形も一緒に知覚できなくなったのだ。もっともそれは魔理沙の位置を知るのには有用で、知覚できなくても糸は繋がっているので、アリスは魔理沙に人形を抱えさせていた。
つくづく手の込んだ呪いである。音を鳴らすことが出来るから、希望を捨てきることは出来ない。けれど意思疎通も叶わない。
「まぁそれは仕方ないわ。ひとまず、霊夢のところに行ってみましょう」
「ええっと、私は留守番か?」
そう言って、魔理沙はスプーンで机を三回叩く。
これもアリスと決めた約束事だ。はいは一回、いいえは二回、その他は三回。三回なったら、アリスが魔理沙に質問をして、魔理沙はそれに音で答える。
「霊夢のことだもの。貴女が居た方が何か気がついてくれるかも知れない。だから貴女を連れて行くのだけれど、聞きたいことはこれで大丈夫?」
「ああ、なるほど。わかった」
魔理沙はかちゃんと一度鳴らした。
これまでのモノは、空を飛べない魔理沙は留守番であったが、今回ばかりはそうは行かないということだろう。
「箒を使うから後ろに乗って。ゆっくり飛ぶけれど、万が一貴女が落ちても私は救助できないから気をつけてね」
「お、おう。ここまで来て死にたくないからな」
アリスはそう言うと、箒に横座りになる。
魔理沙はそんなアリスの横に座ると、アリスに抱きついて、箒の柄にスプーンを当てた。
「よし、じゃあ行くわよ」
「ああ! ……ん、良い匂い……じゃなくて、アリス、ええっとこれは……って、聞こえないしわからないんだったか……ううむ」
ふわりと、アリスが浮かび上がる。
目指すは幻想郷の端、博麗神社である――。
――5-2/巫女の対価――
博麗神社にたどり着くと、アリスはゆっくり着地する。そして糸の繋がる先が箒から横にずれたことを確認すると、自分もゆっくりと箒から降りて飛行を解除した。
夜の博麗神社は、独特な空気に包まれている。静寂さと、静謐さ。解放された聖域。何かと妖怪の集まりやすい神社は、妖怪であるアリスにとって過ごしやすさすら感じられた。
「霊夢ー? 居るかしら?」
アリスが声をかける。
けれど、まだ返事はない。いくら何でも眠るには早い時間だと、アリスの横で魔理沙は首を傾げた。
「霊夢?」
アリスはそれでも呼びかけることをやめずに、神社の奥へと進んでいく。
すると、神社のちょうど裏側。小さな池の広がる裏庭に、霊夢は一人佇んでいた。
「そんなところにいたのね」
「ああ、アリス。珍しいわね。どうしたの?」
「ちょっと貴女に頼みたいことがあるのだけれど……声をかけない方が、良かった?」
アリスが言った言葉に、魔理沙も内心で同意する。
空を飛ぶ程度の能力を持つ彼女は、時々世界から“浮き”あがる。そんなとき、今のような独特な雰囲気を以て何かを成そうとしている。付き合いの長い魔理沙にとって、霊夢のそんな瞬間の大事さはよくよく理解していた。
だが、と、魔理沙は同時に思う。異変でもないのに何故そうしていたのだろう、と。
「――いいえ、良いわ。どうも私の懸念と直結していそうな話のような気がするからね。勘だけど」
「そう?」
「ええ。だからさっさと言いなさい。妖怪に出す茶はないわ」
「人間にも出さないくせに何言ってたんだ、霊夢」
魔理沙のツッコミは届かない。だが届いていたらしばかれていた可能性もあると思うと、届かなくて良かったのかも知れない。
魔理沙は今回ばかりはこの境遇に感謝……はできなくとも、安堵した。
「それで? 頼みって?」
「ええっと、実はね――」
そうしてアリスは、霊夢にことの顛末を話す。
といっても詳しい情報は魔理沙が語ることが出来ない以上、わからないところもある。けれどアリスの中で確実だと思うことを話すだけでも十分であった。
魔理沙が怪しげな薬に手を出したこと。
透明人間になって悪戯していたこと。
中和剤を飲んだら調薬書に罠が仕掛けられていたこと。
このままでは孤独死するので、魔理沙の代わりに材料を集めていること。
そのために、霊夢の力の籠もった水が必要なこと。
透明人間の下りで今朝のことを思い出したのだろう。
霊夢の顔は刹那、般若の色を見せる。けれど最後まで聞く頃には、落ち着いた表情を取り戻していた。
「ふぅん。で、魔理沙を連れてきているの?」
「ええ。位置的には私の右よ」
「そう」
霊夢はそれだけいうと、アリスの右横少し手前まで歩く。
そして魔理沙を書面から見据える位置に立つと、おもむろに手を上げ、手刀の形にして振り下ろした。
「あだっ?!」
「本当に奇妙ね。手は空中で制止しているのに、存在を感じられない」
「お、おまえなぁ」
「まぁどう見積もっても自業自得。一週間くらい焦らせとか思わないこともないけれど」
「うぅ……心が死んじゃうんだぜ……」
落ち込む魔理沙に、当然ながらアリスと霊夢は気がつけない。
だから霊夢が気にかけるとすれば、それは存在の感知できない魔理沙の存在ではない。
「……このお人好しに免じて、今回は良いわ。ただし、三つ条件」
「ええ、良いわ」
「他人のことなのにあっさり飲むんじゃないわよ、お人好し馬鹿アリス」
「ば、ばか……えっ、私馬鹿なの?」
霊夢の言葉で傷ついてうずくまる魔理沙の隣に並ぶように、アリスが胸を押さえてふらりと崩れる。弾幕はブレイン。頭脳派のアリスにとって、馬鹿扱いは堪えたようだ。
だがいつまでもそうしていては、話が終わらない。アリスは胸を押さえながらも立ち上がる。
「まぁ、ちょっと言い過ぎたわ。ごめん」
「いえ、いいの。それで、条件って?」
「一つ、魔理沙に頭を下げに来させなさい。二つ、その時にアリスのお菓子持ってきて。色々」
「それくらいだったら、喜んで。最後は?」
「三つ――その、魔理沙が使った書、持ってきなさい」
そこで初めて、霊夢の瞳が鋭くなる。そのまるで異変の主犯として対峙させられているかのような視線に、アリスと魔理沙は思わず息を呑んだ。
「その悪意は、嫌な予感がするわ。人でも、妖怪でも、神でもない。ならそれは、幻想からも不要なモノよ」
「……ええ、そうね。わかったわ」
アリスにも、そして魔理沙にも霊夢の言いたいことが伝わる。
言われてみればおかしな話だ。何が目的かわからない、他人を悪意で絡め取るだけの罠。妖怪にだってルールはある。人にだって理由はある。神にだって手順はある。だがただ苦しめるだけで。己を畏れさせる口伝もできないような存在を消す術で、呪いかける必要などどこにあるというのか。
霊夢が言っていた、嫌な予感。その予感の先にあるものを想像して、アリスと魔理沙は背筋が冷えるような感覚を覚えた。
「さて、とっとと作ってあげるから、次のところにさっさと行きなさい。まぁ、一筆書いておいてあげるわ。お人好し馬鹿の為に」
「……ありがとう、霊夢」
「パチュリーにどれだけ効果があるかなんて知らないけれどね」
とはいうが、霊夢の影響は大きい。
また、霊夢自身が神がかった勘を持っているため、書く内容はパチュリーの心に響くものだろう。気むずかしいパチュリーをただ説得するには、些か骨が折れるのだ。
霊夢の力が込められた水を小瓶に持ち、霊夢がしたためてくれた書を懐に入れ、魔理沙たちは博麗神社を立つ。
妖怪たちが蔓延る時間。待ち受けているモノは、妖怪の中でも大妖怪と語られるモノの住処。魔理沙は胸の裡に燻る不安を追い出すように、強く、アリスの腰に抱きついた。
――5-3/魔女の代償――
紅魔館は、基本的には門番が問題視しなければ誰でも門をくぐることが出来る。
魔理沙は問題視される前者であり、アリスは問題ではない後者であったために、存在を感知されない魔理沙が共に居たところで、問題なく図書館まで足を運ぶことが出来た。
だが、問題はこの先である。
「魔理沙、妙に図書館の本棚がスカスカな気がするのだけれど?」
「面目ない。私がやった」
聞こえてないと知っているからか、魔理沙はやけに素直だった。
だが聞こえていない以上、この言葉にはなんの意味も無いのだが。
「あ、こあ!」
「おや、アリスさん? どうされました?」
「ちょっとパチュリーに頼み事があってきたのだけれど……パチュリーは?」
「ああ、パチュリー様でしたら――」
アリスに対応していた小悪魔が、不意に振り向く。
すると図書館の奥に備え付けられていた小さな扉の向こう側から、見覚えのある姿が顔を出した。
「アリス? こんな時間に珍しいわね。夜は寝る妖怪じゃなかったかしら?」
「自立人形研究の一環で、規則正しい生活を試みているだけ。寝なければならないわけではないわ」
「そう。で、目的は? 私は見事に私を出し抜いた白黒をどんな方法で“褒めて”あげようか考え中で忙しいのよ。ロイヤルフレアで暖めてあげるのも優しさよね」
「いやいやいやパチュリー! それ死ぬ、私それ死んじゃうから!」
当然聞こえないので魔理沙の叫びは意に留められない。もっとも、聞こえたところで結果はほとんど変わらないことだろうが。
アリスはアリスで、パチュリーの態度に少しだけ腰を引かせていた。魔理沙がパチュリーの読みかけの本を盗ったのだと知れば納得もしたのだろうが、そこまではわからない。
ただ漠然と、借りられたくない本を借りて行かれたのだろうな、と予測する。
「あの、ちょっとお願いしたいことがあるのよ。たぶん、タイムリーなことだから」
「タイムリー? そう、良いわ。こあ、紅茶を用意して」
「はーい」
パチュリーはアリスを机に招き、気怠げに向き合う。
そんなパチュリーに苦笑しながら、アリスはまず、霊夢のしたためてくれた書状を渡した。
「ふぅん? まぁ良いわ。聞きましょう」
そこになんと書いてあったのか、アリスにはわからない。
だが少なくとも魔理沙のことが書かれていたことは確実だというのに、パチュリーは続きを促してくれた。
まずは第一段階。だが、大変なのはここからだ。
「ありがとう。詳しいことを話すわ」
そういって、アリスはこれまでのことを説明する。
魔理沙が見つけた紙束のこと。
そこに刻まれた調薬手順と、透明人間のこと。
ついでに魔理沙にスプーンを鳴らせて、魔理沙がここに居ることを知らせる。
そして最後に、霊夢のところでどのような決着がついたかということまで話し終えると、パチュリーは、一度小さく頷いて納得した様子を見せた。
「まぁ何故貴女が歩き回っているのか知らないけれど、現実的に存在がなくなっている魔理沙に約束を取り付けられない以上、対価は、アリス……貴女が払うことになる。それでいいのね?」
「ええ、乗りかかった船だもの。最後までやるわ」
「アリス……おまえ……。私、なんかの、ために」
魔理沙はそう言い放つアリスの、服の裾を掴む。
意思が伝えられない。想いが伝わらない。そのことが、今、魔理沙はなによりも辛かった。
だが伝わらないということは、いないということと何も変わらない。パチュリーは魔理沙の様子などに気がつけるはずもなく、楽しげな笑みを浮かべて頬杖をついた。
「そう、なら対価を話すわ」
「お願い」
「もちろん、魔理沙の持つ本の返却は絶対条件だけど、もう一つ」
パチュリーの瞳が、唇が、歪む。
「貴女の秘伝の本。どれか一つで良いわ」
「なっ! おいパチュリー、それは……!」
魔法使いならば誰しも、己の半身ともいえる秘伝が綴られた魔導書を持つ。魔理沙とてその本の重大さはわかるからこそ、他人の秘伝を借りようと思ったことはない。
その本を渡すと言うことは、己の根底に関わることだからだ。
「なぁアリス、他の方法を探そうぜ! なにも、なにもそこまで……!」
意思を伝えるために、魔理沙はスプーンを二回鳴らす。
だがアリスは顔を青ざめさせたままで、なにも言わない。
そして。
「――いいわ」
「アリス?!」
「読み終わっているモノで、いいかしら?」
おどけてみせるアリスの様子に、震える声で了承するその姿に、魔理沙は目を見開く。
悪戯ばかりしてきた。ひねくれて、嫌みばかり言ってきた。だというのにアリスは、魔理沙を助けようとしてくれる。今こうして、大事なモノを差し出してでも。
「なんで……なんでだよ、アリス」
不思議で、そして悔しい。
アリスにそこまでさせている自分が、そこまでしてくれるアリスに何もしてこなかった自分が、魔理沙は何よりも悔しかった。
「――ふっ、くくっ」
「パチュリー? ええっと?」
「冗談よ、アリス。そこら辺で無力感に打ちひしがれているネズミへの嫌がらせ」
パチュリーの雰囲気が、とたんに柔らかくなる。
アリスは緊張が解けたのか胸をなで下ろし、魔理沙は思わず座り込む。してやられた。そんな思いで魔理沙の胸はいっぱいだった。
「もちろん対価は貰うわ。本の返却、それから図書館での無償奉仕、あとはアリス、貴女の秘蔵の書でも貸してちょうだい」
「ええ、もちろん。ありがとう、パチュリー。魔理沙も良いわね?」
「ああ、それくらいだったらやるさ」
そう言って、魔理沙はスプーンを一度鳴らす。
「あとは、そうね――アリス、何故魔理沙にそこまで肩入れするのか、聞かせてちょうだい」
秘伝の書を渡せ。
そういったとき、アリスは確かに一度、了承して見せた。パチュリーにはそのことがなによりも不思議だったのだろう。
「――私はね、故郷に姉が居るの」
「へぇ?」
「姉ばかりで、妹は居なかったわ。だからかしら、私は勝手に、魔理沙を妹のように思っているわ。意地っ張りで、危なっかしくて、捻くれているけれどまっすぐな、放っておけない妹で、一緒に居て飽きない友達」
「妹、ね」
「そう。勝手だとは思うけれど、私はそう思っている。だからこんなところで居なくなって欲しくない。助けたいって、思っているのよ」
「ふぅん。お人好しねぇ――まぁでも、良いわ。質問には答えてくれたし、協力してあげる」
パチュリーが頷いてくれたことで漸く一息付けたアリスの、その真横。
そこで魔理沙は愕然とした様子で、アリスを見ていた。
思えば、アリスは魔理沙に対して何かと気にかけるような言動を見せることが多い。
お菓子ばかり食べていれば、栄養が偏ると。
散らかしてばかりいれば、いつか怪我をすると片付け。
異変解決に赴けば、危険な場所だからと人形を多く渡してきた。
お節介だと、小言ばかりで細かいと、魔理沙はどんな風に思ってきたし、アリスも特に見返りを求めないからただ享受してきた。
だがその根底にあるモノが、魔理沙のことを大事に思ってくれていたのだとしたら。
「言ってくれよ、アリス。そうしてくれたら、私は……私は――」
魔理沙は、一人で実家を飛び出して、ただひたすらに努力を重ねてきた。
強請ることはあっても頼むことはない。借りることはあっても預かることはない。孤独の最中、孤独を紛らわすように研究に没頭したことすらある。
だが、そんなとき、アリスは魔理沙になにをしてくれたのか。どう、手をさしのべてくれたのか。
「良かったわね、魔理沙」
そう心から安堵した様子を見せるアリスに、魔理沙は一つ、決意をする。
報いたい。このお人好しで、優しい妖怪に、友達のようで姉妹のような不思議で、けれど心地よい関係をくれる隣人に報いたい。
それは魔理沙が初めて、心の底から“誰かのために”行動したいと、そう願った瞬間だった。
パチュリーに貰った水を、霊夢の時のように小瓶に入れる。
そして行きと同じように、けれど抱える感情はまったく別のモノとなって、二人は静かに紅魔館から飛び立った。
――6/悪意――
魔理沙の家に戻ったアリスたちは、早速、薬を作り始める。
それでは中和剤を作りましょう
蜥蜴の血
猪の牙
金剛石の粉
二人の神職の力の籠もった水
三人の魔女の力の籠もった水
それからこれが一番大事
これら全て
魔力を込めながらかき混ぜる
ぐるぐる
ぐるぐる
かき混ぜる
全ての材料を、手順通りに魔女の釜に入れる。
そして魔導具を作るときに用いる特殊なへらを使って、アリスはぐるぐると混ぜ始めた。魔力を込めて、ただ一心にかき混ぜる。
やがて、だんだんと、白濁色だった液体が青い輝きを見せ始める。本来ならば作れなかったはずの中和剤。その形がアリスの手によって整えられ、やがて、小さく、輝きが収まっていく。
「できた」
アリスはそう呟くと、慎重に、慎重に釜の中身をガラス瓶に移す。
「さ、魔理沙」
「ああ」
魔理沙はアリスの言葉に従って、中和剤の前に立った。
思えばこうなるまでに、色々なことがあった。しようのないいたずらに始まり、絶望を覚え、感謝を覚えてここに立っている。
だから魔理沙は、中和剤を手に取り、誰に聞かせたい訳でもなく自分自身に宣言をする。
「これを飲んだら、みんなに謝る。条件以上のことだってやる。だから、全部終わったら、アリス――アリスと、ゆっくり話がしたい。どんなことでも良いから、アリスと幻想郷を飛び回って、話がしたい。だから」
悪夢は、ここで終わりだ。そう告げるかのように、魔理沙は中和剤を一息に嚥下した。
「お? おおお? おおおおおっ!」
すると、虹色の輝きと共に魔理沙の身体に魔力が戻る。
「やった、やったぜアリス! 成功だ!」
そう言ってアリスを見ると、驚きに目を瞠る彼女と漸く“目を合わせる”ことができた。
アリスも相手が呪いの書と言うこともあって、半信半疑な部分があったのだろう。だが実際に魔理沙の存在が戻っていくと、アリスは漸く、柔らかく微笑んだ。
「まったく、人騒がせなんだから」
「ええっと、その、ごめん。それから――ありがとう」
「ふふ……ええ、どういたしまして」
照れくさくなって、魔理沙はさっと背中を向ける。
けれど誤魔化そうとしていることなど一目瞭然だ。魔理沙は後ろで聞こえる小さな笑い声に、思わず唇を尖らせた。
「あれだ! とりあえず、今日はもう遅いから明日! 明日になったら謝りに行くから、だからそれが終わったらさ! アリス、おまえと――」
だが。
そう続けようとした魔理沙の声を遮るように、ばたんと音がする。
「――え?」
力を失って落ちる上海人形。
傍らに横たわる――アリスの、姿。
「アリス! おい、どうした!?」
意識はない。
それどころか、妙に軽い。
「なんだってんだ……!?」
そしてその答えを示すかのように、アリスは足下からゆっくりと色を、存在を失わせていた。
「なんで? どうして? 手順は完璧だった、手順は!」
魔理沙はアリスを床に降ろすと、紙束を持ち上げる。
これ以上のことは何も書いていない。月明かりにかざしても現れない。焦りに焦った魔理沙が机を叩くと、反動で二番目の中和剤を飲んだガラス瓶が倒れて、僅かに残った中和剤が紙束に染みこむ。
すると、それがキーワードだったのだろう。しみ出るように、紙束から文字が浮かび上がる。
ただ悪意を、文字に乗せて。
中和剤の二つ目は
誰かを犠牲にする薬
もしもあなたが薬を飲んだなら
あなたの一番近くのひとが
あなたに存在を吸い取られて
静かに儚く消えていく
あなたは誰かの存在を吸い取って
惨めに孤独に生きていく
「なんだよ、それ……なんなんだよ!」
魔理沙の悲痛な叫び声が、消えゆくアリスの身体に響く。
だがアリスの崩壊は止まらず、魔理沙の瞳から零れた涙が、アリスの腕があった場所を通り抜けて床板に染みこんだ。
「なぁ、目を覚ましてくれよアリス! これからだったじゃないか! 全部全部、これからだったじゃないか! 妹でも友達でもなんでもいい! 私は、私は……アリスと一緒に居たいんだ! だから、だからッ!!」
魔理沙がどんなに叫ぼうとも、現実は動かない。
ただ悪意の込められた紙束が、風もないのに舞い上がって魔理沙の眼前で浮き上がる。
透明人間になって
それでも薬を作ってくれる“そのひと”は
あなたにとって大切なひと
でもとても残念なことに
あなたの大切なひとは
あなたのせいで
消えてゆく
存在を吸われ
あなた以外の記憶に残らず
「だまれ」
ただ透明人間になって
好き勝手にした貴女のためだけに
無意味に
無慈悲に
無感動に
消えてなくなってゆく
「黙れ」
いま?
どんな
気持ち?
あなたのために
あなたなんかのために
大切なひとをなくすのは
どんなに
惨めで
楽しいのだろう
「黙れ――ッ!」
孤独で
孤独で
とても
とても
かわいそう
「黙れ、黙れ、黙れッ!!!」
ひひゃ
ひゃははひゃはは
ははははは
はひゃひひゃはははははは
あはひゃはははははははははは
あはははひひひひひひひひひひひひひひゃははははははっは
あひゃひひは
はひゃひいっひひひひひひひひふひゅふはははははひゃ
ふひゅひはひひひひひひひひひひひひひひゃはははあひひゅははひはひひひひっは
「黙れ――おまえなんかがそこに“在った”ら、アリスの顔が見られないだろうがッ!!」
涙に濡れた魔理沙が、ポケットの中から八卦炉を取り出す。
充填する魔力は、想いの力。アリスが魔理沙の為に動き回り、結果的に、魔理沙に流し込まれた思いやりの力。
「恋、心ッ【ダブル――――――スパァァァァァァァクゥゥゥゥゥゥッッッ】!!!!!!」
その閃光の色は、眩いばかりの虹色。
虹色の光が駆け巡り、空間を染めていく。その光は断末魔の暇を与えることなく、空に舞った紙束をこの世から消滅させていく。
「ざまぁみろ」
魔理沙は悪態を一つつくと、優しくアリスの身体を抱きしめる。
目障りなモノが消えたところで、結果は変わらない。あの紙束が言ったことが本当ならば、アリスは魔理沙の記憶にしか残らず、その意義もなく消えてゆく。
「アリス、ここで終わりなんて言わないでくれよ」
まだ熱だって持っているのに。
まだこんなに暖かいのに。
「消えないで、いなくならないでくれよ、アリス」
魔理沙の瞳からまた、涙があふれる。
留処なく流れる涙を拭おうともせずに、魔理沙はただアリスの身体を抱きしめていた。
けれど、そんな魔理沙の涙を、華奢な指がそっと拭う。
「魔理沙……?」
「あり、す?」
消えたはずの手。
見れば、ほとんど消えていた胴も、足も、魔理沙からあふれた虹色の輝きに包まれるようにしてもとに戻っていた。
「泣いてるの? 魔理沙」
「ああ、あああああ、アリス、アリスッ、アリスッ!!!」
「魔理沙? 大丈夫、大丈夫よ、私はここに居るから」
もう、言葉はない。
ただ魔理沙は己の頭を優しく抱きしめるアリスにすがりつくように、その存在を確かめるように、強く抱きしめ声を上げて泣く。
「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああぁぁぁぁぁっっっっ!!!!!!!」
その声にアリスは何も応えることなく、泣き続ける魔理沙を慰めるように、ただ優しく抱きしめ続けた――。
――7/行く先――
――それから。
落ち着いた魔理沙は、翌日から迷惑をかけたひとたちに頭を下げ、約束を実行する日を取り付ける。
パチュリーの約束事は、霊夢の約束の後で構わないとパチュリー自身から言われたため、魔理沙はたくさんのお菓子をバスケットに入れたアリスと共に博麗神社を訪れていた。
「消滅させた、ねぇ」
そしてそこで、魔理沙はまず霊夢に頭を下げる。
悪戯も当然謝るべきことなのだが、もう一つ。約束していた紙束を持ってくることなく消滅させてしまったことだ。
「まぁいいわ」
言いながら、霊夢はマフィンを囓る。その度に魔理沙の身体がぴくりと動くが当然無視だ。
魔理沙の好物を魔理沙の前でこれ見よがしに食べてやることが、霊夢の考えた意趣返しにして、魔理沙への罰なのだから。
「いいのか?」
「一応、紙束が入っていたっていう瓶は持ってきたのだけれど……」
魔理沙が問い、アリスが霊夢に瓶を差し出す。
「そうしないとアリスが消滅していた可能性があるからね。流石に、そこまで気を遣えとは言えない状況でしょ? でもまぁ、アリスの機転は助かるわ。魔理沙も見習いなさい」
「うぐっ」
霊夢はアリスから瓶を受け取ると、なにやら呪文が書かれた紙の上に乗せる。
するとそこに“隙間”が開き、瓶が吸い込まれていった。
「霊夢、今のは?」
「紫に解析して貰う手はずになっているのよ」
霊夢は魔理沙たちが来る前に謎の悪意の存在を紫に告げ、手はずを取り終えている。
そう魔理沙に告げると、魔理沙はなるほど、と頷いた。
「なぁ霊夢、あれは結局、なんだったんだ?」
「存在を消滅させ、記憶にも残さない。正直なところ、尋常な呪いではないわ」
悪意。
ただそう一言で片付けるには、あの一連の出来事はあまりに重い。
「紫から聞いたことがあるわ。ひとの力でも、幻想の力でもない。ただ“なにか”の悪意が凝り固まって、どこからともなくひとを侵す。そういう存在は、人も妖怪も関係なく、全ての存在に対する無条件の敵対者。だから――」
霊夢は、硬直する魔理沙と、険しい顔のアリスを順々に見る。
「――気をつけなさい。純粋な悪意には、過程も理由も存在しない。出会ったしまったその時は、その場を逃げ出して、誰かのことを考えて忘れてしまいなさい。まぁ、あんたにはもう、考えていたい“誰か”が出来たみたいだしね」
霊夢の言葉に、魔理沙は強く頷く。
そして盗み見るように見たアリスと目が合ってしまい、慌てて目を逸らした。
「悪意、か」
魔理沙はそう呟いて、紙束のことを振り返る。
一面に綴られた悪意。誰かの犠牲を強いる文面。
思い出す度に、魔理沙は自分の身体が僅かに震えることを自覚する。
誰が。
何のために。
ただ他者を陥れるだけの存在があるということが、ただそれだけで恐ろしい。
「でも」
そう、同時に思う。
もう二度と、悪意につけ込まれたりはしない。なにせ魔理沙には、心から彼女の為に動いてくれるひとが、居るのだから。
だから、今は――
「アリス、霊夢とばっかり話してんなよ」
「へ? 魔理沙?」
――この幸福を享受しよう。
心の底から幸福を受け入れて、悪意になんかに覗き込まれたりしないように、と、魔理沙はアリスの背中にのしかかった。
――了――
誤字報告
じゃん自邸内科→感じていないか
逢いそうも尽きた→愛想も尽きた
魔理沙も凄く尽くしてくれそう
いつまで妹で満足できるかですね
気になったけど、聖人って神子じゃないっけか
人里の一般人を標的にすれば事態が発覚するまでに多大な被害を出せるだろうに。
いやまぁメタ的に面白みが少なくなるからというのはわかってるんだけど、ふと思ってしまったので。
魔理沙も魔法の森で一人暮らしなのにこれだけ無防備では、近いうちに行方不明になるな。
鵺のような上位の妖怪にこんな悪意が効くかも疑問だけど。
どうらしいかは自分でもよくわからないけどなんとなく
なにをいいたいかと言うとアリスちゃん素敵というかアリスちゃんマジアリスさん
引っ掛かった奴が嫌な気分になったり、或いは不快さを感じたらそれで大成功って訳だ
この紙束は幻想郷の荒らしみたいな感じなんすかね
この悪意はもう、攻略法が分かったゲームのようなものですね。
面白かったです。結局犯人は何なんだー!?
おもしろかったです!
泣いてしまった。
この作品のアリスは、姉たちから無条件に愛されてきたのでしょうね。
おてんばな魔理沙に手を焼きながら愛おしく想うお姉さんアリス、カッコよかったです。
魔理沙も魔理沙で主人公らしくて活発で読みやすかったです。
ぬえちゃんも、小動物系だから騙されそう。
正体不明度が上がっちゃいますね……。
素敵な作品をありがとうございました
あとがきをみてジュマンジとい映画を思い出しました
そして、相変わらずこういうホラーの犠牲になる魔理沙……。
まとまっててよかったです。
アリスのいい友達っぷりも、本の悪意も衝撃的な素敵なお話でした
アリスのいい友達っぷりも、本の悪意も衝撃的な素敵なお話でした
流石に人里の一般人じゃ作れないだろう。
仮にも妖怪を泣かせたり血を取ったりせにゃならんし。
しかし、とんでもございません。
アリスお姉さまは幻想郷の誇る高貴なる聖人でございました。
ただ怖いだけじゃなくてよいマリアリになってるのもすごくよかったです。
実はホラー風の展開。もしアリスが居なかったらと考えると、怖いですね