穏やかな昼下がり。
霧雨魔理沙はふと空を仰いでは、柔らかな木漏れ日に目をすぼめた。
いつもと変わらない幻想郷。いつもと変わらない魔法の森だ。
思う彼女の口元は自然と優しく緩んでいた。と、魔理沙は自分が約束の時間にかなり遅れていることに気付く。常にはなくのんびりと飛んでいたせいであろう。
とはいえ魔理沙はまるで焦る風もない。ああ私は遅れるんだな。他人事のようにぽわんと一言が頭のなかでふわついただけだ。ゆるゆると鈍い彼女の移動は、変速を知らない。
アリスはきっと、指定した時間に遅れた魔理沙を叱ることだろう。いや、叱ることすらもう面倒になっているかもしれない。冷たく一瞥して、ため息をついて、それで終いかもしれない。だが魔理沙はその光景を想像して、へへ、と笑った。
なにせそれこそが霧雨魔理沙で、アリス・マーガトロイドだ。魔理沙が身勝手なことを言い、アリスがそれをたしなめる。魔理沙が見栄を張って強がれば、アリスは意外なほど喰いついてさらに取り返しのつかない虚勢を張る。
魔理沙が怒れば、アリスは冷笑する。魔理沙が嗤えば、アリスは顔を真っ赤にして怒る。
魔理沙が時間など気にするなと平気な面をすれば、アリスは一分一秒を有効活用しなければ格好がつかないと不平顔をするのだ。
いつでもどこでもずっと変わらない『二人の関係』というものである。魔理沙はそれの尊さを身に沁みて理解していて、それを想う度に胸の内が暖かくなるのを感じるのだ。そんな彼女を、心境の変化が訪れたと奇異を抱く人妖もいるそうだが、魔理沙自身はそうは思わない。
不変の関係なんて、そうあるものではないのだ。
魔理沙は人の思いが容易く変容し得ることを幼少の頃よりしかと自覚していた。大切で大切で、もしかしたら自分よりも大切だったはずの人たちを、いつの間にか自分自身が遠ざけていたこと。その間違いに気づいて、やり直そうと彼らの元に足を向けた彼女に、まるで見知らぬバケモノに応対するかのような態度をその人たちが取ったこと。
どれほど近しい間柄であろうと、壊れる時は壊れるのが友情であり、家族愛であり、恋慕であり、まあライバル関係もそうであろう。
魔理沙はきっと、魔法の森に住む『普通の魔法使い』になった時から、心の内では不変の関係と言えるものを必死に探し求めていたように思う。
それは今も昔も変わらない彼女の内なる願いだ。
だが、確かに考えてみれば、過去と比べれば魔理沙は心境に変化があった。
ただ単純に、少し、素直になったのである。
少しばかりは自分の素直を自覚した魔理沙は、ふと旧友との出会いを思い返してみようと思えた。かつては煩わしい感情が邪魔をして、思考がぶれてしまうその記憶も、今ならば淡々と掘り返すことが出来るのではないか、と考えたのだ。
どうせ彼女の元に着くまではまだかかる。せわしなく生きる自分だ。たまには過去を振り返るのもいいのではないだろうか。
さて、と魔理沙は頭を巡らせた。
随分と昔の話になる。
それは魔界から、その地の住民が幻想郷へと流れ出し、にわかに騒がれ出してきた頃だ。
事態の収束のため魔界へと赴く博麗の巫女とは違い、霧雨魔理沙が魔界に出向いた動機は、実に単純でお気楽なものであった。ただの観光である。魔法のメッカである魔界に、彼女は純粋に興味があったのだ。
そこでのことであった。アリス・マーガトロイドとの出会いだ。
魔理沙は今でもまざまざと思い出すことが出来る。鉛色の空の下で、意外と魔界も面白味のないものだ、とすっかり気分を落としていた彼女の前に、ことさらに偉そうに生意気そうにアリスは現れた。
空だろうと地だろうと灰色一色の魔界で、彼女が纏う色鮮やかな青はよく映えた。人形のように整った顔に、人形のように汚れも乱れもない衣装。
幻想郷よりの侵入者を撃退しようと出張ったらしい彼女は、魔界でも異色の存在のように感じられた。幼いのだ。いや、外見もそうだが、見た目だけで言えばここ魔界でも既に何人か同じ程度のモノと、魔理沙は相対していた。目で見える幼さではない。
魂が、と言うと抽象的になってしまうか。とにかく口では説明できない、妖怪や悪霊や神がする幼い『振り』では表しきれない未熟さが、彼女の言動には滲んでいたのだ。
しかしなによりも特徴的だったのは、彼女の姿見や挙動ではない。その種族である。
アリス・マーガトロイドは魔界で唯一の人間だったのだ。
それを語る彼女の口ぶりは呻くように忌々しげだったが、同時にどこか誇らしげでもあった。彼女のぎらぎらと野心に燃える目に、魔理沙はその時たまらず笑って応じたものだ。
『私も人間だぜ』
いかにも魔法使い然とした身なりをしていた魔理沙である。その宣言はそれなりにアリスを驚かせたようだった。どうやらアリスのほうも最初は、魔理沙を人外であると考えていたようだ。聞いて得心したように浮かべたアリスの笑みは、魔理沙の私見では親しげであった。
かくしてお互いがお互いに人間であることを知りあった二人は、けれども行動に何の差異を作ることもなく、すぐに非人間的な殺し合いに興じた。
スペルカードルールもなかった時代である。行われていたのは、純粋に、命をかけた魔法弾の撃ち合いであった。運が悪ければあっさりと死ぬし、運が悪くなくても相手のさじ加減では簡単に殺されてしまう。
そんな洒落にならないお遊びを軽くこなした彼女たちは、無事二人とも命を落とすこともなくその場を去った。その結果は、勝負が魔理沙の勝利に終わったが故のことであるとも考えられるし、アリスが負けを『許した』が故のことであるとも考えられる。
なんにせよ、その時の彼女たちの表情は、どちらともが満ち足りたものだったと言えた。別に込みいった話をしたわけでもないというに、魔理沙もアリスもお互いがお互いの気持を通じ合わせたような面をしていたものである。あまりにも満ち足りすぎていて、魔理沙が早くに立ち去らなければ、どちらか一方が相手に握手でも求めかねない空気ですらあった。
事実、それを機に彼女たちは急速にその仲を深めていった。
魔理沙は二度三度と魔界へ行く回数を増やし、アリスは次第に彼女の来訪を心待ちにするようになっていったようだった。
けれども彼女たちがわざわざ顔を合わせてすることと言えば、ちょこちょこと言葉を交わすぐらいのもので、その内容も取りとめのないものだ。
お互いの魔法論を冗談交じりにぶつけ合わせていたかと思えば、魔理沙が幻想郷の住み心地を自慢し、アリスは魔界の技術力を誇ったりした。本当になんてことのない会話しか交わしていないので、お互いに相手の素姓を知らなければ、知ろうとする意識すら生まれなかった。
ただ、魔理沙にしてみれば、なんとなく掴めるものはあった。
アリスが独りである、ということだ。一応、親代わりの魔法の師はいたようだが、目的あって今は距離を置いているらしい。言動から察するに、そのヒト以外にまともに会話のできるモノはいないようで、つまるところ彼女は今、魔理沙のみが話し相手のようだった。
それと、彼女は『外』にも幻想郷にもそれなりに知識があるようだが、家族はどうしたのだろう。
もちろん魔理沙は尋ねなかった。興味本位で訊くには、面倒な話題だ。
曖昧なぐらいがちょうどいいのだ。魔理沙は深く考えないようにしていた。
目立った印象と言えば、どちらもがどちらとも、こいつはやたらに魔法に執心しているんだなあ、などと見当をつけていたぐらいだ。
彼女ならば、自分の考え方に共感してくれるかもしれない。
そう思うくらいのものであった。
それをはっきりと捉えてしまったのは、何度目の来訪ことだろうか。
これもまた理由も何もない、与太話から派生した話題をきっかけにしたものだった。
博麗の巫女が動いて、事態も少しは落ち着くかと思えば、まるでそんなことはなく、当たり前のようにこれまでの通り魔界の住民が幻想郷をふらついていた頃だ。
再び魔界へと降り立った魔理沙は、アリスと初めてまともな会話をして、気が合いそうだと思っていた同族との、とある恐ろしい見解の相違に気付いてしまったのである。
一方アリスも、堂々と魔界に侵入してくる同族を、呆れつつも好意的に受け止めていたものの、彼女との会話を通して自分の恐ろしい思い違いに気付いてしまったのであろう。
それはちょっとしたものではあるが、しかし厳然とした目標の違いであった。
人間でありながら修業に修業を重ね、人外に間違われるほどの力を手に入れ、だがまだ進歩を諦めない二人は、その終着点に、一寸ばかりの差異があったのだ。
霧雨魔理沙。
彼女は人間でありながら、人外を圧倒するほどの能力を手に入れ、なお胸を張って人間で在り続けることを目標としていた。
アリス・マーガトロイド。
彼女は人間でありながら、人外を圧倒するほどの能力を手に入れ、ついには人間の身を捨て去ることを目標としていた。
それはわずかな意識の違いだ。しかし同時に、決定的な見解の相違だった。
『人間のままじゃ、時間も限界もまるで足らないじゃない』
アリス・マーガトロイドはあっさりと言ってのけた。
魔理沙はその言葉に、常の彼女には似合わぬ感情を抱いたのを憶えている。
それは哀れみであった。
アリスの主張はかつての魔理沙とまるで違わなかったのだ。
幼き日の、分別も何もない霧雨魔理沙はただ己の魔法を磨くことに執心していた。そこに大層な理由などない。あるとしたらそれは子供じみた願望だけであった。
夜も更けた暗い部屋、明かりを求めてうろつく父を、手の平から放った小さな光で照らした彼女は、その時自分を褒めてくれた、自身の親の笑顔を忘れなかったのだ。
魔法の研究に精を出せば、もちろんその分、知識も力も身についていく。なまじ知識と力が備われば、またその先に手を伸ばしたくなる。それがさらに魔法使いとしての能力を引き上げ、併せて人間としての矜持を希薄にしていく。
やがて家族のため暮らしのためと安易に『魔』の法を追求した少女は、今思えばそれに体よく踊らされていたのだろう。何時の間にやら目的も過程も見分けがつかなくなり、ただ研究に没頭するだけの哀れな人間となって、しまいには悪霊にまでその身を売って己の魔法を高めようとまでした。
そんな魔理沙を家族がどうしたかと言えば、当然のごとく止めようとした。言葉での説得はもちろん、暴力に訴えてまで彼らは彼女を『人間』に留まらせようとした。
しかし、その努力は、やはり人間の範疇を越えないものだ。
力のみならず、格好も言動も趣味のごとく人外を真似ている内に、自分自身、己を人間だと言いきれなくなっていたその時の魔理沙を、救えるはずがなかった。
諦められた少女はどこまでも堕ちていき、諦めた大人たちは、人間の尺度に当てはめれば十分にすぎるほどの、けれども人外からすれば短すぎる程度の時間の逡巡の末、彼女を手放すことに決めた。
彼女は彼女の知らないままに、大きく成長し過ぎて手に負えなくなった獣をそこらに放すかのような形で、見捨てられることとなった。
当然、魔理沙はそれでも止まらなかった。悪霊の手下に成り果て、バケモノを気取り、職業上の理由もあるだろう。彼女が手に入れたやんちゃな力に眉をひそめながらも、ひそかに微笑んでいた父の顔を忘れても。毎日泥だらけになったり傷だらけになったりしていた、彼女を心配していた母の顔を忘れても。
けらけらと笑って、腹が痛くなるほど笑って、ずっとずっと笑い続けながら、彼女は彼女の見出した道を取り憑かれたように辿り続けた。
いよいよあと一歩という時。人間と人外の境界が魔理沙に見え始めた時だ。
待ったをかけたのは彼女が師事していた悪霊であった。
『もういいだろう。もう十分だろう』
確かそのようなことを悪霊は言ったように思う。
『その先に行っても面白くないよ』
からかうように言ったように思う。
『ただ、だだっ広いだけで、遊び場なんてろくにありゃしないよ』
その時の感覚を魔理沙は憶えている。急に腹が減った気がした。眠くなった気もした。身体がぎしぎしと悲鳴を上げていることに気がついて、自分がぼろぼろと泣いていることに気がついたものだ。たまらなく、悔しかったものだ。
『泣け、泣け、人間のまま泣いて笑ってちゃんと死ね』
長い年月を深い深い恨みを糧に在り続けてきて、結局そんなことはどうでもいいことだと結論付けてしまった、豪気な悪霊は、哀れな少女に微塵の同情もみせず、快活に笑い物にしてみせた。
『人間のままでも十分楽しいだろ?』
わけのわからないことを言う、と初め霧雨魔理沙は思ったものだ。何が人間のままでも楽しい、だ。それではまるで自分が好奇心や娯楽のためだけに今まで魔法を学んできたようではないか。違うだろう。違うはずだ。魔理沙は反論しようとしたものだ。
そして、ようやく、それができないことに気がついたのだ。
ああそうか。魔理沙は心中に呟いたものだった。その通りだったのだ。自分が今まで熱を上げて魂を燃やしてやってきたことは、ただのお遊びだったのである。
そこにはもとより何の意味もなかった。目的だったものはとうの昔に踏み砕かれ、過程だったものは終着点を見失ってどこまでもどこもまでも延びていっていた。
それを見るともなく見る程度だったはずの彼女は、やがて無邪気に積極的に辿りだし、いつしか決して視界から外れぬように目で追うようになり、ついにはその事態を恐れるあまり這いつくばって身体を引きずってまで執着するようになっていたのだ。
立ち止まらない。立ち止まれない。立ち止まるってなんだ?
操り人形のように意志もなく淡々と歩を進めてきた魔理沙は、ようやく足を止めた。
誰かの笑顔のために始めた努力は、結果として自分の面を醜く引きつらせるだけに終わった。
楽しくもなければ、目的地もない、奇々怪々の遠足は終わったのだ。
魔理沙は笑えなかった。涙も枯れて出なかった。
みっともないな。
みっともない。
遊びに命懸けて、それで楽しめてないなんて、カッコ悪いよな。
間抜けだよ、私。
霧雨魔理沙は、それからほどなくして悪霊の元を離れた。しかし家に帰ることもできず、自分が幼いころから慣れ親しんでいた魔法の森に家を構えることにした。
その際、いろいろと世話をしてくれたのは森近霖之助で、世話をさせたのは博麗霊夢だ。今さえも変らぬ二人の『二人らしさ』はあの頃から健在で、それがなんとも嬉しくて、あらゆるものがやり直しだというのに、彼女はまるきり不安を抱かなかったのを憶えている。
心機一転、『人間』の霧雨魔理沙は新たな生活に何を求めたか。一度は人外になりかけた彼女だ。それで魔法に懲りたかと思えば、しかしそんなことはまるでない。
彼女は今もなお魔法の研究をしている。派手で、面白くて、愉快な魔法だ。
彼女は己の魔法を追求する。それは力になるし、知識になるし、それが結果として彼女を人外と同等、またはそれ以上の存在にさせることもあるかもしれない。
しかしそれは彼女にとっては遊びだった。遊びでしかない。言ってしまえば好奇心の賜物である。
人外よりも強い『普通の』魔法使いになる。
魔理沙は自分の趣味でも自慢するような語り口で、いとも簡単に恥ずかしげもなく、構えた風もなく己の願望を言ってのけたものだ。
願いが叶えばしてやったりである。
願いが叶わなければ畜生などと言って笑ってそれで終わりだ。
人間が人外を越えれば、それはとても愉快だろう。目標に掲げる価値はあった。だから目標としたのである。しかしそこに執着はない。なにを犠牲にするつもりもなかった。
そう。これは謂わば魔法そのものに対する復讐か。
魔法に踊らされ振り回され、幾つもの大切なものを差しだしてしまった、両腕で抱えきれないぐらいにあった幸福を掻き捨ててしまった彼女の、冗談じみた復讐だ。
かつては自分を存分に苦しめて破滅させた魔法を、手玉にとって遊び尽くして、だがずっと変わらず『人間』の、『普通の魔法使い』で在り続けること。
それが霧雨魔理沙の魔法研究の結論であり、胸を張って掲げられる目標であり、そして復讐でもあるのだ。
あの日、主義主張を別った二人は、睨み合うことすらなかった。
魔理沙はアリスに何も言おうとはしなかった。
彼女とて同じ道を歩んだ者である。今の彼女に自分の言葉が届くかどうか。考えるまでもないことであった。
その日はお互いが口を開かず、黙って別れることとなった。
『人間のままじゃ、一人で生きていかれないもの』
去る魔理沙の頭に響いたのは、彼女の独り言か。それとも何時の日かの自身の世迷言か。
とにかく思想を違えた彼女たちは、しばらくの決別を味わった。
彼女たちの再会は、それから一週間も経っていないのではないか。
きっかけを作ったのはアリスだった。魔法の森の魔理沙宅に、どうやってか、彼女の手紙が投函されていたのである。内容は大まかに言って、殺し合えるような準備をして魔界へ来いとのこと。さて魔理沙がどうしたかと言えば、一も二もなく魔界へと向かった。
面白そうだったから、だけだとは彼女も断じない。
何度目かの魔界訪問だった。魔理沙は別に目移りするものもなく、ただ淡々と前を向いて箒を走らせた。つまらない世界。魔理沙はつくづく思う。アリスがいなければ、こんなところは一度きりで懲りていただろう。
確かに魔界は、自身が生まれ生きた幻想郷とはまるで違う。でもだからといって興味をそそるものではなかった。それは着眼に値する相違点などではなく、魔理沙にはただ、かの地と比べて劣る点だとしか思えなかったのだ。
灰色一色の色どりのない世界だ。いつ行こうともどこへ行こうとも、どうにも薄暗く陰鬱で、気分がつまらなくなる。なにかにょきにょきと幾つも突き出ている建物も、どれも似たような長方形でユーモアを感じない。
ちらちらと至るところで明滅する光は、真に自然のものとも魔法のものとも違っていて、まるきり感情が伴っていなくて不気味だ。あれに間近で照らされると不快になるので、魔理沙はいつも上空を飛ぶようにしている。
そんな時だ。自分が目的地としていた方向から、目的となる人物が飛来した。
なんだ、そっちから来るならわざわざこんなところまで来る必要なかったな。魔理沙は思って、その辺りでようやく約束に時間指定があったことを思い出した。
短い不揃いな金髪を振り乱して、同じ色の瞳を爛々と輝かせて、彼女は現れた。
「遅いじゃない、魔理沙。約束の時間はもうとっくに過ぎてるわよ!」
率直で真っ当なお叱りを受けて、しかし魔理沙は全く萎縮しなかった。
「こっちと幻想郷じゃ、時間の流れが違うんだぜ」
「つまらない」
魔理沙の適当な言い訳をさっさと切って捨てたアリスは、やはりその身に纏う憤怒さえもまだ若い。肩をいからせて、唇をへの字に曲げて、わかりやすく人間らしく、彼女は怒っていた。魔理沙は苦笑いをする。アリスの反応にではない。その姿にである。
適当に巻かれた包帯では隠しきれないほどの怪我を負った腕で、アリスは大きな本を抱いていた。分厚くて古めかしくて、趣味の悪い表紙の本だ。
「まあいいわ。魔理沙はそういう奴だからね。ある意味、予想の通りよ」
それよりも、と嬉々として話を進めたがる彼女に、魔理沙は肩をすくめた。
隈があったり、よく見れば目が充血していたり、細かな切り傷がところどころについてしまっている、散々な顔の彼女は無理矢理のように唇の片端を吊り上げた。
「ねえ、貴女に言っておきたいことがあるのよ」
「なんだ?」
訊きながら、不器用な笑い方だなあ、などと魔理沙は思った。
「私、人間やめちゃった」
アリスは自分に酔ったようにほうっとため息をつくと、傷だらけの顔を自らの腕の中の本にすり寄せた。まるで母親にでも抱きつくようにして、彼女は魔道書をきつく抱く。
「………へえ」
魔理沙はぽつんと返事をした。
アリスは怪我が痛んだのか、少し顔をしかめた。
「なによ、なにも感想ないの?」
「いやあ……」
魔理沙は腕を組んで、ううんと唸った。
「人間をやめるだけなら、別に私にも出来たことだしなあ」
ちらと魔理沙はアリスの表情を盗み見て、凍ったように冷たく表情を硬める彼女に、遠慮なく言葉を重ねた。
「それって意味あるのか?なにか目的があるのか?」
かつての師のごとく、回り道などしないで魔理沙は問うた。
アリスは、一度口を開いて、しかしまた閉じて、悔しそうに目を細めたが、その視界に何が映ったのか。目をぱちくりと瞬いた彼女は、本の表紙を撫でて、言った。
「これが、目的じゃないの」
ぞっとするほど穏やかな声で、アリスは言った。魔理沙の眉が、ぴくりと動く。
「貴女も魔法を学ぶ者の端くれならわかるでしょう。ただ、ただ、求め続けることに意味があるのよ。魔法使いって、そういうものでしょ」
唇の片端を吊り上げて、アリスは不格好な笑みを浮かべる。
魔理沙はその様子をせせら笑った。
だって、子供みたいだ。夢見る純真な子供である。
魔法が、なんでも自分の望みを叶えてくれる、奇跡の業だとでも考えていそうだ。
まるで魔法を高めることそのものが、自分を幸せにしてくれるという面ではないか。
馬鹿野郎め。
自分の嘘に、自分が騙されてどうする。
「っていう、強がりか?意外とみっともない真似するもんだな、お前も」
魔理沙は妙に尖った自身の声音が、癇に障った。
「寂しくて、かまって欲しくて、ただ驚かせたかっただけだろ。どうせ」
粗暴な言葉がとめどなく流れ落ちる。アリスがみるみる内に屈辱に顔を紅潮させた。
「アリスと話してると感じるんだよな。そういう空気。かまってちゃんっていうかさ。自分を見てほしくて、認めてほしくてたまんないんだ」
黙りこくるアリスに、魔理沙は吠えた。
「そうだろうが!」
言ってから魔理沙は、自分の言葉が思った以上に挑発的であることに気付いた。
……どこの阿呆を思い出して、声を荒げているのだ。魔理沙は自身に苛立つ。
己の失策を自覚するも、もう遅い。
アリスは見よう見真似でつけた仮面を、いとも簡単に取り落としてしまったらしい。
加減を間違えたか。
魔理沙は一時の後悔を心中に燃やした。知らず知らずのうちに、面白くもない記憶をぐるぐると頭の中に巡らせて、冷静さを失っていた自分が恨めしい。
アリスは思いっきり顔面を引きつらせて、これ以上見ていられないという風に魔理沙から顔を背けて、……閃光が魔理沙の視界を遮った。
「うるさい……!」
いて。
反射的に頬に手で触れた魔理沙は、そこがいつの間にか火傷を負っていることに気付いた。傷口がひりひり痛む。精密に狙われ放たれた光線。なんとはなしに被害の理由を想像しておく。
鼻でくんくんと嗅いで、彼女は驚いたわけでもなく言う。
「驚いたな。これやったのも魔法……って訊くまでもないか」
魔理沙は目の前の少女に、ごく自然に呆れた顔をしてみせた。
目の前の、小柄な体躯には不似合いなほどの大きな本を開いた、金髪を逆立てて、苦痛に耐えるように、唇を引き結んで表情を歪めた少女に、平然と応対した。
「す、ス、す、すごイでしょ、?」
げ。
魔理沙は眉をひそめた。
一瞬、アリスがなにを話しているのかわからなかった。声が届かなかったわけでない。むしろ届きすぎなぐらいだ。頭の中に直接、彼女の声が叩き込まれたような気持ちがして、魔理沙は気分が悪かった。
問題なのはその声である。およそ人間のものとは思えなかった。とにかく一言の間に声質がめまぐるしく変わって、男とも女とも判別がつかなかったし、発音もおかしくて聞くに堪えなかった。
なんと表現したものか、魔理沙は考えて、ふと思いついた。
獣がいきなり人の言葉を話し始めたんなら、こんなものだろうな、といった感じだ。
いやに乱れのない魔法的な風が、アリスを中心に規則正しく逆巻いて、大きな本がカビ臭そうな頁をぱたぱたとめくる音が変によく聞こえた。
「私は、人間を止めたから、ネ。と、てもチカラが、あルの、よ」
「おーい、舌回ってないぞ」
荒い息遣いが聞こえる、と思ったら自分か。魔理沙は自分の胸に手を当てて、二、三回深呼吸をしてから、よくよくアリスを観察した。
不自然。端的な感想を、魔理沙は心中に述べる。風で帽子が飛んでしまわないように手で押さえて、ふんと彼女は鼻を鳴らした。まるでそのザマは出来の悪い操り人形のようだ。
弱い脆い身体には不具合でも生じたか。今にもうらめしやとでも言いそうに両腕を無気力に吊り下げた彼女は、ぱくぱくと見るからにおぼつかなくも言う。
「魔、リさ、マリ、サ、魔理沙……!」
「なんだよ」
魔理沙は自分の声音に欠片の哀れみを感じて、思わず舌打ちしたくなる。
あア、あー、アアあー。
アリスはぎくしゃくと身体を悶えさせて、口を開いては閉じた。『声』を整えているのかもしれない。魔理沙はその姿から全く目を逸らさなかった。
「ワタシ、私は身体をスててね、おハナシする人もいなくてね、でもイマしあわせなのよ」
魔理沙は肩をすくめて、ため息を吐いた。
なに偉そうに自慢してんだ、などと言ってみる。
「そのザマは、さ。全部アリスが今大事そうに抱えてる本のせいだろ」
「ぐりもわーるはイダイよ。あまりにもツヨいちからは、ソ質あル人間を囲う境界を曖昧にする。ね、魔理沙。私がうらやマしい?人間なんかよりずっと力があって、時間があって、えへへ。えっと、ほら、うらやましい?」
アリスはまだ少しぎこちない動きで、ぎこぎこと踊る真似をする。
空っぽの自慢を振り回して、ぎしぎしと笑みを浮かべてみせる。
「うらやましいでしょ?」
なにがうらやましいのか。魔理沙は彼女に問いただそうかと考えたが、止めた。魔理沙の見立てでは、アリスは自分よりもずっと賢くて冷静だ。
彼女はきっと、こうして魔理沙と相対せずとも、今までに幾度となく自問してきたことだろう。そこに答えなどないことを、すでに自覚していたはずだ。
魔法は、ただ、ただ、求め続けるもの。アリスは言った。その通りだ。それはまさしく魔法使いの言葉であった。目的もなければ、過程もない。知識を重ね力を重ね、欲求の続く限りただ結果を積み重ねていく。それだけだ。それだけであらなければならない。
魔理沙に言わせれば、魔法とは娯楽である。大層な目的など決して付きまとわない、大人になれない子供のお遊びだ。意固地になればなるほど、空しくなる。
それは他人と共有するものではなくて、他人に影響を及ぼすべきものでもないものだ。
例えば人恋しい少女がヒトの注目を集めるには、いささかずれた手段なのである。
「うらやましくないな」
魔理沙は訊かれたから答えた、といった調子だ。
「あいにくと、私は私の周りのみんなと『今の関係』で在り続けたいと思っている。みすみすそれを壊すような真似はしたくない」
そして。魔理沙は自身の気持ちを落ち着ける。商売意欲のない店主だとか、ガラの悪い巫女のことだとか、森の匂いだとか自分の片付かない部屋だとかを思い出した。
さりげなく、しかし語調をはっきりと付け加えた。
「アリスもそう思わないか?」
アリスにも壊したくない関係があるのではないか。
アリスにはこの自分と交わしたくだらない会話の全てが、その、生意気そうに開かれた小難しい魔道書と取り替えて、不満のない意味のないものだったのか。
意味のないことをして、阿呆のように笑って、それが不要だとお前は言うか。
魔理沙は言葉を重ねようとして、思わず口をつぐんだ。
ぴし、と何かがひび割れる音がした。見ればアリスが額から血を流している。硬く引き結んだ口元からも血が伝っていた。ぴし、ぴしと音がする。皮膚が裂ける様や、血管が弾ける様を、魔理沙は連想した。アリスの衣装が、じわじわと赤く滲んでいく。彼女は充血した目をぎょろぎょろと彷徨わせて、必死になにかを探しているらしいが、なかなか視線が定まらないようだ。
その先のものを射殺さんばかりの鋭い視線は、魔理沙を通り過ぎてはまた戻ってくる。延々と、美しかったはずの金色の目は獲物を探している。
ぴし、ぴし、ぴし。真っ赤に染まって、わなわなと震える彼女の両手から、グリモワールに血が滴り落ちた。やがてアリスは唾液と血で汚れた口元を拭って、虚空を仰いだ。大仰そうに口を開いて、ゆっくりと、言葉を話した。
「思えない」
グリモワール。究極の魔法とやらが込められたそれは、やはりいかな才に恵まれた者ではあっても、手を出すには未熟が過ぎたのではないか。
書の力を使った反動らしきものに苦しむ彼女を前に、魔理沙は唸った。
アリスが自慢げに話していたのを思い出す。これは盗んでやったのだと言っていた。なんでもお人よしの神様から、くすねてやったのだと。
自分は手先が器用だから、油断したあれを騙すくらいの複製なら簡単だと笑っていた。機会を窺って、こっそりと偽物とすり替えておいたのだそうだ。その行為を魔理沙が泥棒だ何だとふざけて非難したら、つんとそっぽを向いて、人間の自分は奴より短命なのだから、死んだら返せばいいことだ、と悪びれる様子もなかった。
なるほど、それは道理だと魔理沙は感心したのを覚えている。
あの時の、にこにこと自分の宝物を見せつけるような彼女の様子からは、このような事態は想像できなかったのだが。子供のような、微笑ましさすら感じる姿だったのだ。
というより、魔理沙が今まで見てきたアリスは、言動の全てに現実味がなくて、安心と言っていいものだろうか。とにかく危険性を抱かなかったものだ。
かつては夢見るようだった少女を、現実に生き得るバケモノに変貌させのは、誰か。
私、なんだろうか……。
「私に壊れて困る関係なんて、ない」
この声も魔法か。アリスの口の動きと合っていなかった。魔理沙はぱちんと、両手で自分の頬を叩いて、再びアリスを見た。
「私は、アリスとくだらない話をするのも、楽しかったぜ」
右往左往していたアリスの目が、ぴたりと魔理沙に定まった。
にんまりと、アリスが笑う。見開いた目から、血の涙が流れだした。
光だ。反射的に魔理沙は距離を取った。彼女は自分の頭上に強い魔法の光を感じて、恐らく人間では最速であろうスピードを活かして回避をした。
背を向けていたせいで、その正体は掴めなかったが、何だろう。かすってもいないだろうに、脳が揺さぶられた感覚がして、肺から喉の奥が焼かれるような苦痛を感じた。
振り返れば、豆粒程度にしか見えないアリス。そしてその上で燦然と輝く特大の魔法弾だ。数は二つだが、それらは魔法の森だって焼き尽くせそうなほどに巨大である。
しかし、魔理沙は乾いた唇を舐めて、まるで臆さない。
死ね。
頭の中に声が響いた。魔理沙は黙ったままだ。
「死ね、死ね!そんなに人間がいいなら、人間のまま死んでしまえ!」
魔理沙は、気丈に笑った。
「アリスも、人間にしか見えないんだけどな」
その言葉に反発するように、巨大な光弾が動き出した。アリスから、瞬時に放たれたらしい光線が帽子を撃ち抜き、肩をかすって、箒を粉々に砕いたが、おうと一声上げて、魔理沙は突き進んだ。
なんで私たちは殺し合いなんてしてるのかな。
ろくに問答もできない少女を前に、魔理沙は考えた。
そんなにうらやましがってほしいか。
そんなに認めてほしいか。
魔法の力に頼っても、友達だって家族だって出来ないぜ。独りのまんまなんだぜ。
私は経験者だから、わかるんだ。
ひとまず、それを伝えるために、魔理沙は命を懸けることにした。
後の事。
魔理沙は結局、魔法弾の一つを撃つまでもなく勝利したのだ。ずたぼろにされて、気に入っていた紫の衣装を台無しにされつつも、魔理沙は彼女の眼前に立ち現われたのである。そして、それまでだった。ようやっとその表情を目にした時、アリスはすでに白目を剥いて気絶していたのだ。それでも堕ちていなかったのは、あれもグリモワールの力だったのだろうか。とにかく魔理沙は彼女をそっと抱きかかえて、処置に悩むこととなった。
どうしたものか。
魔理沙は煩悶したものだ。魔理沙は魔界の事情など知らない。アリスの事情もよくはわかっていない。迂闊な行動は取れないが、しかし彼女はこの状態である。放って帰るわけにもいかず、もう幻想郷に連れ込んでしまおうかと思っていたところで、声をかけられた。
「その子、私が預かるよ」
見れば、そこにはお人よしの神様がいた。
ひねくれた人間の子供の親代わりを務めていたらしい、物好きな神様だ。
魔理沙は、安心したこともあってか、なんだか可笑しくなって笑ってしまう。
背に生える六つの翼はやたらに凶悪そうで、まばゆく光る長い銀髪は、神秘的でどこか妖しく、近づきがたい。だというのに、その顔がなんとも優しげなものだから、その全てが台無しになってしまっている彼女が、魔理沙は気に入っていた。
薄く笑うその表情は、明らかに血が通っていなさそうで、死人のようだが、そこらの人間よりもよっぽど人間的で暖かみがあった。
「神綺!いいところに来たな!」
魔理沙が嬉しそうに言うと、神綺は困ったように笑う。
「仮にも神に向かって、ひどい口の利き方ね。これだから向こうの連中は……ってそんなことはどうでもいいか。さ、早く。彼女を寄越して」
身体中を魔法に引き裂かれて、息も荒いアリスに、神綺は顔を曇らせる。
「傷だけでも塞がないと」
魔理沙が抱えていた、といってもふわふわと彼女はほとんど浮いていたので、重みは感じなかったが、とにかくアリスを渡すと、神綺は彼女を心から慈しむように抱いた。
「この子も、これで少しは気が晴れたかしら」
気付けば、アリスは神綺の腕の中で、眠るように目を閉じていた。
魔理沙は、アリスに視線を落としながら言う。
「気が晴れた、ね。どういうことだ?」
問う少女に、魔界神は冷静に言葉を紡いだ。
「どう、と言われても困るかな。このところアリス、ずっと苛々してたみたいだから、まあ近々爆発するんだろうなって思ってただけ」
神綺が彼女の頬を撫でると、そこには血の痕はおろか、傷一つなくなっていた。魔理沙がじっとアリスの顔を眺めていると、柔らかそうな金髪が、さらさらと風に流れた。それに合わせて、瞼がぴくりと動いた。桜色の唇がわずかにうごめいて、そして動きを止めた。
「まさかグリモワールまで持ち出すとは思わなかったんだけどね」
言う神綺は、後悔からか語尾の声音が少し乱れた。
「盗まれたのわかってて、見過ごしてたのか?」
魔理沙の口調は自然と非難がましいものになった。
「うん。そう」
言い切る魔界神に、さすがの魔理沙も唖然とした。
おいおい……。文句の一つでも垂れてやろうかと思ったら、神綺は言葉を続けた。
「あの子、そういうポーズがしたかっただけなのかなって思ってたのよ。本当に恐ろしい力を身につけて、なにか事を起こそうとしてるようには見えなかった」
神綺は寂しそうに、言葉を零していく。
「アリスはただ、自分の気持ちを紛らわせたかっただけだったと思うんだけどなあ。いや、そりゃ純粋に魔法に興味はあったんだろうし、最近じゃ貴女と張り合ってた部分もあるんだろうけど、うーん」
神綺は魔理沙を気遣うようにちらと見て、微妙な笑みを浮かべた。
「やっぱり、貴女が原因かしらね。ううん、おかげと言うべきかしら」
魔理沙はぽつんと零した。
「私のせいか」
「どうだろうね。あの子は以前までなら、グリモワールも持ってるだけで満足だったはずよ。彼女にとって魔法の研究は自尊心だとか、寂しさだとか、そういう心のもどかしさを払しょくするための手段だったはず。だから私も、ひどい話かもしれないけど、彼女が何もできないと思ったからこそ、あの子を自由にさせていた部分があるの。でも、それが変ってしまった。アリスは貴女と出会って、自分の魔法に明確な意味を求めてしまったのね」
神綺はため息をついた。
「少なくとも、よりはっきりとしたアプローチが必要だと思ったのかしら。……ただの強がりもここまでいくと、『本物』と区別がつかなくなるわね」
神綺は魔理沙の様子を窺ってくる。魔界神に『本物』呼ばわりされるとは、自分も大層なものだ。彼女は笑おうとしたが、面倒になって止めた。
ただ、ただ、魔法を求め、人間の枠を踏み外してさえも、魔法に生きることに意味があるのか。魔理沙は問うた。自分の過去を想起し、怒り焦って、吠えた。
その時、アリスは口ごもったように思う。まるで自分の全てを否定されたように、きらきらと輝いていた瞳を暗く淀ませて、失意に表情を歪めていたように思う。
『寂しくて、かまって欲しくて、ただ驚かせたかっただけだろ。どうせ』
魔理沙は思う。
魔理沙は最初、アリスの魔法研究においての目的を聞いて、かつての自分と同じだと感じた。実際、彼女は魔法に踊らされていたあの頃の魔理沙と、寸分違わぬ主張を語った。
しかし、その真意は違ったのだ。魔理沙は歯がゆく思った。
アリスは魔理沙とまるで逆だったのである。
魔理沙は、家族のため暮らしのためと、家族に自分に言い訳しながらも、その実、魔法そのものに魅せられ、骨の髄まで染めあげられ、ただ己を高めることに執心していた。
アリスは、魔法とはただ学び続けるものであり、高め続けるものであり、その行為そのものに意味があるのだと嘯きながら、その実、繋がりを求めていた。魔法を通じて、自分を認め必要としてくれる者を、不器用ながら求めていたのだ。
魔理沙は魔法に意味を見出さず、アリスは魔法に意味を見出せていなかったのだ。
魔理沙は彼女の虚偽を突き崩し、その真意を無理矢理に引きだした。
気付いたとはいえ、阿呆な真似をしたものだった。
彼女の目的を真に理解できたのだとしたら、そんな真似をすれば彼女が逆上することぐらいわかりそうなものだというに。
日々を自由に生き、魔法を遊びだと言い切り、幻想郷を語り、そこに住まう者の笑い話をする魔理沙の立ち振る舞いを見て、アリスが何も思わないわけがないだろう。
「私は、まあ結局のところ、いい傾向だとは思うけどね」
魔理沙は目でその先を促す。神綺はアリスの口元に残った血の痕を拭った。
「いつまでも殻に閉じこもってちゃいけない。虚勢もほどほどにしないとね。この子が独りで、それを苦痛に感じていることは事実だし。こんなきっかけでも、この子が幸せになれるなら、それでもいいんじゃないかなって、私は思うのよね」
「保障はないぜ。もっとひねくれて、とんでもない奴になるかも」
魔理沙は危惧するが、神綺はふくふくと笑って気楽なものだ。
「貴女がなんとかすればいいじゃない。グリモワールなしなら、喧嘩したって大したことにならないし、好き勝手やっちゃってよ。あ、そうだ。あの子が落ち着いたら、もうそっちに寄越しちゃうから、面倒見てやってくれない?」
神綺の言葉に、魔理沙は驚いて反論しようとしたが、
「私じゃ、無理だったみたいだから」
寂しげに言われては、魔理沙も答えあぐねてしまう。
神綺は魔理沙の目を、いやその奥をじっと見つめていた。
「幻想郷から攫ってきたはいいけど、やっぱり私にお母さんはできなかったみたいなのよね。この子には、悪いことしたなあ」
魔理沙はがしがしと頭を掻いた。
「攫ってきたってお前……」
もしかしてこいつが全ての元凶か?だとしたらさすがに、ただではおけない。
「ちょっと幻想郷ってのを覗いて見ようかと思ってね。その時にだけど、小さい子が独りでうろうろしてたみたいだったから、声をかけてみたのよ。まあ、彼女に魔法の素質を感じちゃったってのもあるけど」
「つったって、あいつにも家族がいたはずじゃ……」
「魔法の森でずっと、うろうろ、うろうろ。あれは一日二日の状態じゃなかったわね。獲物を求める獣みたいな、恐ろしい顔をして、可愛い顔が台無しだったもの」
魔理沙は押し黙った。
「捨てられたのかもしれない。幻想入りしたのかもしれない。彼女が何も言わなかったから理由は知らないけど、あの子が独りだったことは事実よ。……でもだからって、私が世話をする必要はなかったのよね」
言う神綺はいやにしんみりとしていて、魔理沙はなぜか、不満に思った。
「後悔してるのか?」
ぶすっと、不機嫌を隠さず魔理沙が訊いた。
「どうかな。魔理沙はどう思う?」
神綺は悲しげに瞳を揺らした。
「私は後悔すべきかな。間違ったこと、したかな」
魔理沙はため息をついて、肩をすくめた。知らね、なんて投げてみた。
ただ、と彼女は付け加える。
「かわいそうだとか、思ってやるなよ」
魔理沙は知らずの内に、アリスの頬に自分の手が伸びているのに気付いて、しかしひっこめる気にならず、そのまま彼女の頬を軽くつねってみた。
ぱしん、とすぐに神綺がそれをはたいて除ける。
「確かにアイツは寂しがり屋で、お前と居ても、私と居ても、魔法に打ち込んでも、気が紛れることなんてなくてさ。結局、いろいろ間違っちゃったみたいだけど」
魔理沙は静かに断ずる。
「でも、別になにも終わっちゃいないだろ。少なくとも、私とコイツの関係は、きっとこんなものじゃ崩れない」
魔理沙は神綺に笑いかけた。
「アリスのことをかわいそうだなんて思ってるのは、アリス自身だけでいいだろ。アイツだけに思わせとけばいい」
アリスが薄く目を開いたが、また閉じてしまった。安らかな顔をして、無関係を決めこんでいる。
「それを私たちが、間違いだって思い知らせてやるんだよ。自分がすげえ思い違いしてたってこと、アイツにわからせて、思いっきり赤面させてやろうぜ」
神綺はじっと魔理沙の瞳の奥を注視して、そしてころころと笑った。
「やっぱり、向こうの連中は面白いねえ」
一年後ぐらいだろうか。賑やかな祭りの日であった。
魔理沙は人里の外れを歩いていた。祭りの喧騒がまだ耳に届く、本当に里の近くだ。彼女はぶらりぶらりと里中を練り歩いて、めぼしいものを見つけては買ったりもらったり眺めたりして、大手道具屋の様子を遠目に見て、途中で絡んできた子供たちとつっつき合った帰りだった。
本当はまだうろつく予定だったが、気になる人影を見つけたのだ。
その少女は、肩にかかる程度の金髪を揺らして、やや伏し目がちに歩いていた。傍らでぷかぷかと大荷物が浮いていると思ったら、近づいて見ればそれは何体かの人形に支えられている。便利な魔法だな、なんて、魔理沙は思う。
足音に感づいたか、つと振り返ったその少女は、魔理沙の思う通りの人物だ。
随分と背を伸ばしたものだ。比べるまでもなく魔理沙はあっさりと身長を抜かされていて、少し驚いた。細身の身体も相まって、ちょっと頼りなさげである。
久しぶりに対面した彼女の、目に見える変化に、魔理沙は微妙な気分を覚てしまった。嬉しいような、悔しいような、そんな感情がない交ぜになった感じだ。
改めて魔理沙が彼女と目を合わせると、すぐに彼女は視線を逸らす。その目は魔理沙の記憶の中のものよりもずっと理知的で、そして穏やかだった。
アリス・マーガトロイドを前に、魔理沙はくすぶる感情を仕舞い込んだ。
よお。手を上げて、魔理沙は自然と笑いかけることが出来た。
ああ……うん。なんだか煮え切らない調子の返事が放られた。
………。
沈黙。
何も言うことないのかよ……。
遠くから微かに聞こえる賑やかな祭りの音が、一層この場の空気を気まずくさせる。
何と言葉を続けたものかわからず、魔理沙は視線を彷徨わせて、見つけた。
「それ、なんだ?」
指をさして、魔理沙は彼女の傍らの大荷物を示した。
「……ん、それは人形芸の道具。重いから彼女たちに持ってもらってるのよ」
人形芸か。魔理沙は意外に思う。
引っ込み思案で偏屈だったアリスが、人里で芸をする。きゃあきゃあと騒ぎ立てる子供を前に、それをにこにことたしなめる親を前に、彼女も笑顔で人形を繰る図。
魔理沙には想像し難かった。これも彼女の成長なのだろうか。
と、遅れて抱いた疑問を、魔理沙は口にする。
「彼女たち?」
魔理沙がよくよく荷物を支える人形を見れば、なるほど確かにそれらは全て少女の形をしていた。それにしても、まるで人間を呼ぶような言い草である。
「まるで人間相手みたいな言い方だな」
アリスは髪を掻きあげて、心外そうに言う。
「あら、こう見えてもこの子たち、ちゃんとした自我があるのよ。物扱いはひどいんじゃないの?」
アリスの言葉にぎょっとして、魔理沙は人形に顔を近づけた。
「うわ、本当か?すごいな。喋れたりとかできないのか?」
間近に迫った彼女の鼻先に、人形の一体がすばやく頭突きをした。うお、と魔理沙は声をもらした。柔らかい素材のはずだが、こうも勢いがあるとけっこう痛い。
「……なんて、冗談だけどね。こんな風に軽い指示は出せるけど、完全な自律はまだまだよ。自我の発生なんて夢のまた夢ね」
少し赤くなった鼻を撫でて、魔理沙は物も言わない。
「なにかご感想は?」
ちらと魔理沙を一瞥して、得意げに頬を緩めるその姿は、時を経ても変らないか。彼女もようやくいつかの調子を思い出したらしい。
「つまらない!」
魔理沙の言葉に何か考えるような顔をしたアリスは、やがてくすくすと笑った。
「背、伸びたな」
人里から延びる道を、二人はとぼとぼと歩いている。
どちらも飛ぶことはできるが、気分の問題だった。一人で散歩でもしようと思ってたんだけど、とんだ邪魔が入ったわね。アリスもひねくれ具合は変わらないことを確認したところで、魔理沙は言った。
「そう、ね。私が人間だったら、今頃こんなもんかなって」
アリスは唇の片端を面倒そうに吊り上げて答える。
「……それも魔法なのか?」
「あら、わからないの?普通の魔法使いさんは、やっぱり本物の『魔法使い』の力には及ばないのかしらね」
「わからないな」
魔理沙は肩をすくめた。
「とりあえず、そんな真似をする意味がわからない」
アリスは黙ったままだ。
「苦労して人間を止めたお前が、魔法を使ってまで人間のふりをするのか?」
魔理沙は試すように訊き、相手の挙動に目を光らせる。
「お前さ、やっぱり人間に未練があるんじゃないか」
魔理沙は単刀直入に訊く。彼女がずいぶんと長い間、魔界に引きこもっていたせいで、先延ばしになっていた質問だ。本当はもっと早くに、こっちから出向こうとしていたのだが、その頃になると、八雲紫が本格的に魔界の出入りを禁止しだしていた。
それならば、と神綺にせめて近況の報告を求めたところ、八雲紫を通じて、『万事順調』との一言が返ってくるだけだったので、余計にやきもきしていたのだ。
「ないわよ」
言うアリスの声音は冷ややかだった。ぴくり、と彼女の病的に白い手が動いたのを見た。
「……あるわけないでしょ。このぐらいの体型がちょうどいいから、こうなってるだけ。利便性を追い求めた結果よ。悪い?」
「さっきと言ってることが違う気がするぜ?」
呆れて魔理沙は言うも、アリスは頑固に突っぱねる。
「知らないわよ。人間の言うことなんて知らない。わからないわ」
あまりにもおざなりな言い訳だった。
「なんだそりゃ……」
「それよりも。逆にこっちが訊きたいわね。未練があるんじゃないかって」
魔理沙がちらとアリスを一瞥すると、語る彼女にはまるで敵意がないことがわかった。冷ややかで、諦観にも似た思いに瞳を鈍く光らせる彼女は、特に気負った風もない。
「貴女は、人間のままでいいの?魔理沙は魔法が好きなんでしょ。もっと思うさまに研究したいんじゃない?満足するまで、したいんじゃない?人間の一生で、求め切れるものではないと思うんだけど」
魔理沙はへらへら笑って、欠片も動じない。
「そんなマジになったりはしないぜ。遊びだからな、魔法は。死ぬまで楽しむつもりだけど、死期を伸ばしてまでやるつもりはない」
「遊びって……暇人ね、あんた」
アリスは、少し疲れたように微笑んだ。それから魔理沙を見つめて、何か言おうとしたようだが、また零すように笑いをぽろぽろと落として、首を振るだけだった。
万事順調、ね。魔理沙は彼女を眺めて、考える。
確かにあのグリモワールを抱えていた頃と比べれば落ち着いてはいるが、そのせいだろう。やはりどうにも張り合いがない。それではいけないのではないか。
己の膨大な魔力に調子づいて、人妖を危険にさらすのはまずい。あのままなら彼女は魔界の、幻想郷の、敵となっていただろう。しかし、こんな魂の抜け切った木偶人形のようになられても、それは、なんというか、魔理沙には寂しい。
神綺もそう思っているはずだ。アリスにはアリスのままで居てほしいのではないか。
なんだろうな、この、アリスの我慢してるような顔。
なんだか、魔理沙のほうがもどかしくなってきたところだ。
グリモワールで思い出した。
「お前、グリモワールはどうした?」
かつてはあんなに大事そうに抱えていた魔道書が、今のアリスにはないようだった。神綺に取り上げられたのかな。思いつつも、魔理沙は問うた。
アリスは一瞬、きょとんとしたかと思うと、事もなげにのたもうた。
「私の家にはね、暖炉があるのよ」
二人はそれきり、口をつぐんでゆるゆると歩を進める。
穏やかな時が流れ、鳥のさえずりや、変に気張った妖怪の咆哮らしきものが聞こえた。夕闇が迫る道中、魔理沙はしばらく辛抱して歩き続けたが、ついに口を開いた。
「それだけじゃ、わからないだろ」
「……わからないの?」
アリスが素で驚いた顔をしているところからして、別に意地悪で言葉足らずだったわけではなさそうだ。魔理沙が苦笑しつつもうんと頷くと、アリスは言った。
「実は、ここに越してきたのは去年の冬ごろなんだけどね。あんまり寒くて、暖炉でも使おうかと思ったのよ。でも薪もあんまりなかったし、それを調達する手間も面倒だった。だから、燃やしちゃった」
去年の冬?
今は雪も溶けきったばかりか、徐々に日差しにも力が増し、昼間をぶらぶらと歩いていれば、にわかに汗ばむ初夏である。
今まで彼女は何をしていたのだろう。人里にでも顔を出せば、自然と自分の耳に入ってもおかしくはないはずだが。と、いや待て。ちょっと待て。
グリモワールを燃やした?
かつてのアリスが、魔理沙の意志を挫くべく利用した、あの魔道書を。
彼女の自尊心、精一杯の虚勢の象徴とも言えた、あれを燃やしたのか。
魔理沙が口をあんぐりと開けていると、アリスは肩をすくめた。
「まあ、当然というかなんというか、そんなもので足しになるわけなかったんだけど」
「きゅ、究極の魔法を、暖炉にくべたのか……」
「ええ」
アリスはそう答えた時ばかりは、本当に楽しそうに笑ったように思う。なんとなく、魔界にいたころのような、あの悪戯っぽい、小生意気なアリスの笑顔を魔理沙は思い出した。
「確かにあの強大な力は素晴らしいものかもしれないけど、なんて言えばいいのかしらね。ううん、そうねえ。面白くなかったのよ」
アリスは片目を閉じて、ふふ、と人を小馬鹿にするような笑みだ。
「圧倒的な力量差で相手を潰しても空しいだけ。あれを私にくれた、ま……、神綺さまには申し訳ないけど、自分の魔法と向き合っている内にそう気付いちゃって。なんか私、派手でわかりやすい魔法よりも、小手先の、技巧を凝らしたものが好きみたいなのよね」
アリスの遠まわしな挑発に、魔理沙は取り合わず訊く。傍らの手近な人形をつついた。
「ギコウ、ギコウ、技巧ね。この小っこい人形みたいなのか?」
「そうよ」
アリスは荷物を支えていた人形の一体を呼び寄せて、赤子に対するように抱えた。
「例えば、そう。こんな人形がしっかりと自我を持って、自分の意志で行動できること。完全自律の魔法人形とか、まあ私の目標ね」
アリスはなにを無理したところもない、しかし芯のある声音だった。
ううん、と魔理沙は悩ましく思う。
アリスがあの頃と変ったのは事実だ。彼女の茨を巻いたような刺々しい口調は、すっかりと柔らかくなり、刺すようだった視線は丸く穏やかなものとなった。
本音を言えば、やはり魔理沙はちょっと寂しい。というか、調子が狂う面があった。なんだかんだ言って、がむしゃらで無茶苦茶で、それでもひたむきに生きようとしていた彼女を、魔理沙はこそばゆくも好ましく思っていたのだ。
今の変に落ち着いたアリスは、やはり幼き日のアリスとは違えていた。
とはいえ、もう何も文句はつけまい、と魔理沙は心に誓った。
なにせ彼女はアリスだった。まごうことなくアリス・マーガトロイドである。
万事順調との、神綺の報告は確かだったのだろう。
身も心もずたぼろに引き裂かれ、きっと全てに絶望していたであろう彼女を、よくぞここまで持ち直させたものだ。誰かに認めてもらうため、誰もを屈服させるため、燃やし尽くしてしまった彼女の心を、ここまで修復するのはさぞ骨を折っただろう。
アリスは魔法に振り回されることなく、だが魔法を忌避するでもなく、あくまで『手段』として『利用』できていた。
彼女は今や孤独心に苛まれることなく、魔法に親しんでいたのだ。
それならいいか、と魔理沙は思った。
しかし、と魔理沙はまだ手放しで安心はしない。
「なに?」
気付けば、アリスが怪訝そうに眉をひそめていた。
「ん?」
魔理沙はその理由がわからず、首を傾げると、アリスはぴんと指を立てる。そして、彼女の長くて綺麗な指はゆっくりと魔理沙の眉間に触れた。
「眉間にしわ寄せて、ずっと黙りこんで、何なの?」
「いや……」
魔理沙はアリスの指を手で払いながら、どう自分の胸の内を明かそうか考えた。
その、なにかを我慢したような、納得がいってないような顔はなにか。
神綺の教育、アリスの心境の変化は良しとしても、これは別問題だ。
しかし魔理沙は訊こうにも、どうも躊躇われた。
「……別に、私はもうヤケおこしたりはしないわよ?」
魔理沙が逡巡している間だ。
アリスは恐る恐るといった口調で、言葉を紡いでいく。魔理沙はそんなつもりはなかったが、彼女の方は魔理沙の無言をそういう意図と捉えたらしい。
「そうは見えないかもしれないけど、あの時のことは反省してるの。あの後、神綺さまにはこっぴどく叱られたし、なにより、身体中が痛くて痛くて……。自分がどれだけ無理してたか、自覚したわね」
アリスは力なく笑った。
「私、ひどい奴だったわよね。……ごめんなさい」
アリスが謝ったのを見て、それが魔理沙はどうしても寂しくて、つい言った。
「なんだ。お前の強がりも、やっとおしまいなんだな?」
アリスが立ち止った。魔理沙もそれに合わせて足を止める。日も落ちて、二人が立つ道は薄暗く人気が全くない。吹く風は冷たく、今の服装だとここは肌寒かった。
「どういう意味?」
「言った通りの意味だよ。反省してるんなら、あの時、強がって吐いた嘘も、撤回してくれんのかなって思ったんだ」
目前の彼女の表情は、宵闇に晒されてか、陰鬱に見えた。
「長い付き合いだからな。お前が嘘吐く時の癖ぐらい、わかってる」
「私は嘘なんか、吐いてない」
幼い頃から手先は器用だった彼女だが、口となると話は別らしい。
彼女は嘘に嘘を上塗りした。今回に至っては、癖など気にせずとも看破できた。
「……そうかい。ならいいんだけどな」
魔理沙は腰に括りつけていた小袋に手を突っ込んで、その手をアリスの前に突き出した。ぱっと開かれたそれからは、細かい粒子が立ち上るとともに、ちょうど二人を覆うぐらいの光が生まれた。照らされたアリスの顔は、なんだ自分と同じ表情であった。
意地を張ってへそを曲げた、大人げのない面だ。
「なら、そんなつまらなそうな面するなよ。さっきからだけど、お前明らかに何か言いたいこと我慢してますって顔してるぜ」
「我慢?」
煩わしそうに、アリスは目を細めて嫌そうな顔をしたが、なにか思い直したようだ。
ふんと鼻を鳴らして、言う。
「ああ、我慢ね。してたわね」
ぐいと顔を近づけて、アリスは魔理沙を睨めつけた。
「今までは申し訳ないかなって自粛してたけど、ああ良いわよ。あんたがそこまで喧嘩腰なら、言ってやる」
魔理沙は少し心中にうろたえた。なんだコイツ、やっぱ変ってないな……。
ほくそ笑む口元に、魔理沙はこっそりと自分の頬をつねって、彼女の言葉を待った。
「再戦よ、魔理沙。人間と魔法使いの、決着をつけましょう」
「おっ弾幕勝負か?」
アリスは首を振った。
「今さらそんなもので決着つけようなんて思わないわよ」
「じゃあ、なんだよ」
二人を包み込んでいた魔法の光が、徐々に弱まる。
今や焚火を囲っているかのような、暖かながら不安定な光だ。
「一生よ」
な、と魔理沙は声が漏れた。目を見開いて、二の句が次げない。
茶化しようにも、目の前の少女はいたく真剣だ。彼女の視線は、魔理沙の目を捉えて離さない。魔理沙は唾を飲み込んで、大人しく彼女の言葉を待った。
アリスは吹っ切れたように、はっきりと宣言する。
「貴女と私の一生をかけて、決着をつけましょう。この先、貴女が魔法使いに未練を抱けば、私の勝ち。私が人間に未練を抱けば、貴女の勝ち」
「……それ、どうやって勝ち負けを判定するんだよ?」
アリスは考え込んで、言った。
「時期が来たら私が連絡するから、そしたら家に来なさい。そのときに、自己申告といきましょうか。まあその時になってまで、お互い意地張ったりはしないでしょ」
「時期」
魔理沙は意味もなく復唱する。
「人間がちょうど、死を身近に感じ始める時期よ」
アリスは皮肉な笑みを浮かべる。いや、自嘲のような印象も受けた。
「そりゃ、どういう意味だ?」
「頭が固いわね。ようは、私が死に際にあんたの、みじめたらしい愚痴を聞いてやろうってのよ。ああやっぱり人間は辛いなあって、言う相手がいなけりゃ存分に嘆けないんじゃない? 独りでぶつぶつ言っていても仕様がないでしょ」
魔理沙はアリスの言葉を憮然とした調子で聞いた。
「やる意味がわからないな」
快活に笑い飛ばしてやるつもりが、変に悲哀が滲んで、やけにしんみりしたものになってしまった。
「そうでしょうね。そもそも、なにをやるわけでもないしね。私は、つまり、貴女と私の意識の違いを、常に念頭に置いておけと言っているだけ」
「私が何時の日か、後悔しやすいようにってか。……それとも逆か?どっちにしても、つまらん勝負だ」
アリスは黙ったまま、ちらと魔理沙に視線を送った。魔理沙もそれに合わせたように目を合わせる。どちらともとても勝負事を前にした者の顔ではなかった。
やがて一歩、アリスは歩を先に進めたが、また立ち止った。
「強制はしないけどね。これはあくまで提案だから。どうする?」
魔理沙は目を瞑った。一つ、息を吐いて気持ちを整える。
この提案とやらは受けるべきか。
神綺ならどう答えるだろう。きっと快く首を縦に振ったりはしないはずだ。なにせアリスは、死ぬまでこの意地の張り合いを続けようと言うのである。この先、例えばふと二人が出くわして、くだらない与太話をだらだらと交わしても。
一緒に異変を解決することがあろうとも、逆に加担することがあろうとも。
決して心の芯から分かり合うことを、禁じようと言うのだ。
それを子供の喧嘩の延長線上の理由で誓ってしまうのは、やはり抵抗があるだろう。
彼女の母親代わりを務めた神綺には、その決断はもしかしたら本人たち以上に辛いものがあるかもしれない。
ならばあの悪霊、魅魔ならばどうか。きっとくつくつ笑って首肯するだろう。魔理沙が師事していた時からそうだった。彼女は煩悶することなどない。かつては身悶えするほどの怨恨に身を焦がしていた彼女の、目に見える世界とはどんなものか。
きっとひどく生温いのだろう。なにもかもが、不出来な冗談にでも見えるのかもしれない。だから彼女は笑え笑えと言うのだ。
悪霊の手下であった魔法使いの頬をつついて、悪戯っぽく笑ったあの時のように。
長い長い淀んだ時の中を掻きわけて在り続けた彼女は、恐らく自分やアリスよりもずっと取り返しのつかないことを知っていて、それ故に彼女たちの問題を取るに足らないと笑って済ましてしまうのだろう。
魅魔ならばきっと、あっさりと受けて立てと言うのだろう。それは諦観などとはかけ離れた、ある意味、誰よりも幼い希望と信頼からなる決断なのかもしれない。
では。
魔理沙はどうするか。
我が子を守るように、アリスの意志を無視して苦痛のない道を選ぶか。
ままよとばかりに、考えなしに流れゆくままに道を辿るか。
魔理沙は悩んで、アリスの目を見た。
見捨てないで、とでも言いたげな目だ。それほどに心細そうで、しかしそれをおくびにもだすまいと唇を硬く引き結んでいる様は、魔理沙の決断を早めた。
「やるよ」
アリスは笑う。ほっとしたように、やっと解放されたとでも言いたげに。重く長い息を吐いて、心から安らかな笑みを浮かべた。
「約束よ。約束だからね」
「わかってる」
魔理沙が呟くと、アリスはぎゅっと拳を固めた。ただでさえ白くてか弱そうな手が、ふるふると震えて、見ていられなくて、魔理沙は視線を逸らした。
二人はそれからも歩き続けた。
どんどん時は過ぎていき、夜は更けていったが、彼女たちは黙々と歩き続けた。
時にぽつりとどちらかが呟き、それにもう一方が反応して一言二言言葉を交わした。かと思えば一方が辺りの植物に気を取られて、もう片方がそれはただの毒草だと呆れたりした。小さな笑いがたまに弾け、控え目な口喧嘩がたまに起こった。
やがて魔法の森の奥の奥、どこから妖怪が出ても湧いてもおかしくない場だ。
「ね、魔理沙」
思い切った様子でアリスは遠慮がちに話しかけてくる。子供が母親の袖を引っ張るような、そんな印象を魔理沙は抱いた。
「なんだ?」
「握手しましょうよ」
「は?」
「決闘の誓いよ。握手して、お互いの健闘を称え合うの」
「それって普通、勝負のあとなんじゃないか?」
「いいから、いいから」
アリスがねだるので、渋々と言った感じで魔理沙が手を出すと、彼女にひっつかまれた。強引だが、痛みは伴わない、繊細な感触だった。彼女の滑らかな両手が魔理沙の手の甲を撫でて、指を絡ませた。ふと顔を上げれば、アリスは目を瞑っている。
彼女の手はひんやりとしていた。魔理沙のぬくもりを求めるように、ぐっと掴んで離さなかった。
ただの握手にしては長い時間が過ぎた後、アリスはゆっくりと目を開いた。
口元に微笑みをたたえて、噛み締めるように言う。
「ありがとう、魔理沙」
意味がわからず、茫然としていた魔理沙を尻目に、アリスはさっさと歩きだしてしまった。慌てて追いかけたが、なにを急いていたのか。見失ってしまった。
魔理沙は頭を掻いたが、まあいいかと思い直して、自分も帰路につくことにした。
別にもう、何時だって会えるだろう、と思ったのだ。
約束の時間は……過ぎたな。
魔理沙は苦笑してから、マーガトロイド邸前に立った。箒を肩に担いで、くいと首を巡らせた。木々の葉が風に触れ合う音、動物。さほどは大きくない動物が、茂みの中を走り去る音。……と、耳をすまして森に親しんでいる場合でもない。
魔理沙は、小さいながら、細部にまでこだわっているらしい、おとぎ話にでも出てきそうな可愛らしい家に足を運んだ。途中、並べられた鉢植えに足を引っ掛けそうになったが、気にはしない。
中に入れば、まず目に映るのは人形たちだ。一体二体ではない。壁にも家具にもとにかくそこら中に飾り付けられた、無数の人形たちである。一つ一つは可愛らしい造形をしているのだが、こうも数があると不気味だ。魔理沙は初めての訪問ではないので大した衝撃もなかったが、やはり最初は彼女も驚かされたものだ。
彼女に助けられ、おもてなしをされた迷子の連中が、みな恐ろしくなって逃げたという噂話もうなずけるだろう。落ち着いて見れば、淡い暖色を基調としたこの部屋は、ぬくもりというか安心感を与え得るものだと思うのだが、……うん。やはり人形が台無しにしている。
「なに突っ立ってるの。座ったら?」
傍らのアリスは言った。肩にかかる程度の髪を掻きあげて、ずっと変わらない、幻想郷で初めて会った時と変わらない顔を、魔理沙に向けた。
「わかってるよ。そう焦んなくてもいいだろ?」
「どうしてあんたはそう、マイペースなのかしらね……」
魔理沙の横を通り過ぎたアリスは、彼女が座る向かいの椅子に腰を下ろした。間を隔てるテーブルには、皿に盛られたクッキーと紅茶が二杯だ。不思議なもので、まだ紅茶からは湯気が立っていた。あれほど時間に遅れたというのに、どうしてだろう。淹れ直している様子はなかったが。
「予想はしてたけど」
アリスはわざとらしく、はっきりと語気を強めて言った。全部お見通しというわけである。まさか紅茶も計算して淹れたのだろうか。
「やっぱり、本当に約束に遅れられて、しかも平然としていられると、カチンとくるわね」
クッキーに手を伸ばす魔理沙を、アリスは目で牽制した。
「理由をお聞かせ願えるかしら」
アリスは身を乗り出して、得意げに笑みを浮かべる。
「もうボケちゃって、ここまでの道のりも忘れちゃったかしら?おばあちゃん」
魔理沙はそのあんまりな言い草に、肩を揺らして笑った。若くから変らない、きらきらと少年のごとく輝く目をまっすぐにアリスに向けて、言葉を返す。
「大丈夫だぜ。私はまだ、身も心もはきはきしてるからさ」
魔理沙は済ました顔で紅茶に口をつける。
「あ、そ」
アリスはつまらなそうな顔をして、でも、たぶんだが少し嬉しそうだった。
ところで、と魔理沙は本題に入ろうとする。
「今日がその、約束の時期とやらでいいのか?」
アリスは自分のか細い腕をさすって、わずかに眉をひそめた。
「そうよ」
「そうか」
アリスが答え、魔理沙はそれに応えた。
「それで、アリスの参りましたはいつ聞けるんだ?」
にひひ、と魔理沙は笑った。アリスもその様子につられてか、くすりとだけ笑った。
「あら。まだ折れてなかったのね、この強情者。気が強いのは結構だけど、無理は身体によくないわよ」
アリスは腕を組んで、わかりやすくふんぞり返った。
「もっと生きたいなら、生きたいと言いなさい。人間さん」
魔理沙は彼女を見つめた。
老いも衰えも全く感じさせない、彼女の肌を眺める。痛々しいほどの熱を帯びた瞳を眺めて、ぴんと伸びた背筋を眺めた。
「さすがの魔理沙も、これぐらいになれば老いを感じてるでしょ。身体の節々の自由が利かなくなってきたりとか、すぐ疲れるようになったりとか、前兆はなんでもいいけど。死ってものが、身近に感じられてきたんじゃない?」
答えない魔理沙に、人形たちの視線が集まる。あるいは気だるげに、あるいは興味津々といった風に、たまに身体を小刻みに揺らしているモノもいた。
「魔理沙。言ってよ。生き辛いって。人間なんて止めていればよかったって」
「思ってもないことは言えない」
魔理沙は短く答えた。
「お前もそうしろ。この期に及んで嘘なんか吐いたって、しょうがないだろ。どんな手尽くしたって、もうお前は勝てないよ。とりあえず、勝てはしないな」
アリスは油断なく魔理沙を注視した。睨むでもなく、怯えているわけでもなく、ただじっと彼女の挙動に意識を集中しているようだ。
「嘘って……なによ」
「お前も人間だってことだよ」
アリスはまるで動じた風もない。ぱちぱちと瞬きをして、小首を傾げてみせた。
とにかく、不動で在ろうとしているらしい。涙ぐましい演技ではないか。
しかし、余裕でも示してみせようとしたのか、ティーカップを掴んだのは失策だったようだ。かたかたと、彼女の内なる動揺があっさりと音になって発現してしまった。
自身の震える手に、アリスの表情は翳った。
「馬鹿言わないで。それじゃなんで私は、老いたりしないのよ。ずっと容姿が変わらないの? 言っておくけどね。食事を取ったり、睡眠を取ったりしていたのは、ただの習慣よ。大した意味なんてないんだから」
言い訳がましく、アリスは早口でまくしたてる。
「お前って、ほんと嘘下手だよ。下手過ぎて、こっちが気使っちまう」
アリスは魔理沙の言葉に、視線をうろうろと彷徨わせていたが、彼女と目を合わせると、観念したのだろう。かくりと頭を垂れた。金色の艶やかな髪が、ふわりと揺れた。
「手先が器用なのは認めるけどな。よく出来てるぜ、お前」
アリスは顔を上げずに、薄く微笑んだ。
「光栄だわ。こっちに来てからじゃ、これだけが生きがいだったもの」
自分自身の出来栄えを確かめるように、彼女は自らの鼻筋を指でなぞり、唇に触れて、それから頬に指を這わせた。
「私は完全自律のアリス人形。その造形はもちろん、ヒトが持つ微細な感情の機微さえも表情に表し得る、『私』の最高傑作よ。これが『私』の魔法よ」
アリス人形は口元を押さえて、言う。
「でも、不思議ね。どうして私が本物じゃないってわかったの?……作りが甘かったのかしら?」
アリスは自分の首筋を撫でて、肘の部分を何かを確認するようにぺたぺたと触れた。
「ずっと前に言ったろ。私はお前の嘘なんてわかるんだ」
そんなことはいい。魔理沙は強引に話を区切った。
「何時からだ」
魔理沙は厳しく問うた。
無数の人形たちの中の一体でしかない彼女に、魔理沙は寸分の妥協も優しさも見せない。
「何時から成り代ってた?」
本物の、アリス・マーガトロイド。
孤独に心を蝕まれ、魔法に侵され、しかし最後は己を守り切った少女。
彼女が最後に、唯一の親友と相まみえたのは何時か。
「アリス・マーガトロイドが貴女と直接会ったのは、ここ幻想郷じゃ一度きりね。あの祭りの日、人里の外れの、一度きりだけ」
アリス人形の答えに、魔理沙は絶句した。
ぎり、と自分が歯ぎしりをする音が聞こえた。何時の間にか握られた拳は、わずかにテーブルから浮いたが、しかし何もしようとはしなかった。
「まだなにか質問は?」
観念したらしいアリス人形は、事務的にことを進めようとしているようだ。目立った表情の変化も示さず、せっかくの最高傑作は、その本領を発揮することもない。人形らしく冷たい無表情な面構えで、自分から訊いてきた。
「自我は」
魔理沙は声が上ずって、一度言葉を切った。
「お前はアリスが操ってるのか。それとも」
「私は完全自律の、はっきりとした自我を持った魔法人形よ。アリス・マーガトロイドの目標の体現。彼女の魔力が丹念に練り込まれ、見た目のみならず人格の再現すら果たした完璧な複製品よ」
魔理沙は立ち上がろうとする自分の足を、ひっつかんで爪を立てた。鈍い痛みが走ったが、さらに力を込めて抑え込んだ。
「まあその代償というか何というか。長期的な作業だったことも理由でしょうね。すっかり力を使いすぎて、本物のほうは倒れてしまったわけだけど」
「本物のアリスは、今どこだ?」
魔理沙は答えるアリス人形の表情を、食い入るように見つめた。息をするのも忘れて、脚の痛みも意識の外へ追いやられた。じりじりと、頭の奥が焦げ付くくらい、魔理沙はその一瞬に集中していた。
「ここにはいないわ。もう死んだもの」
アリス人形は言った。そして。
いかにも億劫そうに、唇の片端を吊り上げた。
魔理沙はその瞬間に、かっと目を見開いて、固く握りしめた拳をテーブルに突き立てた。衝撃にティーカップが倒れ、紅茶がこぼれた。荒々しく席を立つ。がたんと後ろで椅子が倒れる音がして、アリス人形がぎょっとした。魔理沙は彼女に一瞥をくれると、それきり見向きもせずに部屋内を物色し始めた。
「ちょっと……ちょっと止めて!」
アリス人形が焦り出した。魔理沙のほうに慌てて歩き出しながら、その視線をほんの一時だけ、部屋の片隅にやったのを、魔理沙は見逃さなかった。
魔理沙がすぐさま方向転換してその視線の先に向かうと、アリス人形も事態に気付いたのだろう。舌打ちしてから、ざっと部屋中の人形たちに目配せした。
ざわつく人形たちに、魔理沙は足を止めることなく目的の位置を目指した。途中、早くも起動したらしい何体かを小粒な魔法弾で蹴散らしてから、急いだ。
しかし、いざアリス人形が見ていたあたりをべたべたと触ってみるも、ただ木の肌を感じるだけだ。どうしたものかと考えて、と、考える必要もないかとミニ八卦炉を取りだした。
振り返れば、山というほどの人形を従えたアリス人形が青ざめている。
「私は本気だぜ」
にひひ、と魔理沙は笑ってのけた。掴んだミニ八卦炉をぷらぷらと振ってみた。今まで上手く出来なかったが、案外、無理してでも笑えるものだ。いつぞやの師の笑顔をイメージしたのが良かったのかもしれない。
「観念しろよ、アリス。嘘も強がりもこれまでだ。大人になれ」
魔理沙は空いている手で、自分の唇の片端をぐいいと引っ張った。
「お前は嘘を吐く時、必ず変な笑い方をするんだ」
アリス人形は、えっと声を上げたが、やがて納得したように頷いた。
言われてみれば、確かにそうねえ。
独り言のように言ってから、気まずそうに笑った。
「全部ばれちゃったんなら……仕方ないかな」
言い終わると同時だ。周りの人形たちとともに、アリス人形は糸が切れたように倒れた。
半開きなったままの彼女の眼は、どうしてだろう。今眺めると、まさしく人形そのもので、およそ生き物の代わりが務まる出来栄えとは思わなかった。
……いやにあっさりとした幕引きだ。まるでこの事態を予期していたような、いや。どうとでもなれと投げやりな感を魔理沙は抱いた。
仕方ないから、手順は踏んでおこう。そのような感じがしたのだ。
まあそれも、本人に訊けばわかること。
魔理沙が、さてこれからどうなるか、と周りを警戒していると、
落ちた。
遅れて、全身に衝撃が走った。魔理沙は呻きつつも、近くに転がっている帽子を取った。頭がぐわんぐわんと揺れて少し気持ちが悪くなったが、なんとか持ち直した。
ふと上を仰げば、床が抜けた、いや消えたらしい。隠し部屋は地下にあったのだ。
では、と魔理沙は思う。自分の目算では居るはずだった。
「あんたって、……ほんと……いえ、もういいわ」
あぐらをかいて、痛みに顔をしかめていた魔理沙に、懐かしい声がかかる。
魔理沙がその声に目を凝らすも、うまく捉えられない。彼女が落ちた部屋は、全く灯りがなかったのだ。気付けば上の部屋も灯りが消されており、魔理沙と、そこにいるはずの彼女は、暗闇に紛れて姿が見えなくなっていた。
床に手をつくと、石の冷たい感触がした。手足を駆使して周りの様子を確認すると、ろくにものも置いていないようだ。唯一、足がぶつかったのは、これは、恐らくベッドだろう。……普段は利用していない部屋のようだ。
となると、魔理沙の来訪に備えて、わざわざここで息を潜めていたという訳か。
ご苦労なことだ。見上げた意地の張りようだと、魔理沙は思う。
死を身近に感じる時期。大方、無理が利く状態でもないだろうに。
「明りは点けないでね。私、身だしなみもなにもない格好してるから」
アリスの声に、魔理沙は耳を澄まして、その音の元に向かった。
ようやく見えてきた、うっすらと闇に浮かぶ人間らしきものに、魔理沙は這うように近づいていく。ゆっくりと、なんとか立ちあがった。
「どうだよ。私の勝ちだろ?」
魔理沙は表情の見えない彼女に、笑いかける。
「ああ……はい、はい」
彼女はベッドから起き上がっているようだ。伸ばした手が、ちょうど彼女の腰のあたりを確認した。柔らかい布の感触だ。
「わかったわよ。私の負けよ」
「やあっと、認めたか」
魔理沙のほっとしたような声に、アリスはやはり複雑そうだ。
「悔しいなあ。本当に悔しい。私が人間だってことも最初からお見通しだったみたいだし、人形作りもせいぜい遠隔操作ぐらいが関の山だったし。全部、全部、駄目だったなあ」
「愚痴を垂れるのは、私なんじゃないのか?」
アリスは、なんとなく口をすぼめて言っているような気がした。
「うるさいわね。ちょっとぐらい辛抱なさいよ。ずっと我慢してたんだから」
「そもそもなんで、こんな真似を?……自分の一生を棒に振ってまでさ」
魔理沙はアリスの頬に触れた。年相応の質感に、魔理沙は気付けば息を吐いてた。
アリスが首をすぼめて、小さく笑った気がした。
「それ、また愚痴を聞くことになるけど、いいの?」
「いいから、言えって」
魔理沙の要求に、アリスは応える。
「だって」
アリスは零した。
「貴女がうらやましかったから。初めて会った時からずっとそうよ。今だから言えるけど、魔理沙は私の憧れだったからね。貴女に認められたい、いえ、貴女を御してやりたいと思っていたのよ」
魔界に居た時のアリス。
いつもつんけんしていて、口調だって行動だって棘だらけだった。
たまに珍しいものを見つけては、にこにこと魔理沙に自慢をした。ここは眺める分にはつまらないけど、意外と面白いものが落ちているのだ、と繰り返し言っていた。
なにかにつけて敵愾心がむくむくと起き上がる、困った奴だったが、その内には独りを過剰に恐れる臆病や、友達を想う優しさがあった。
「私もあの頃は病んでたのよね。貴女を越えたいという気持ちが強くなるあまり、強引な手段に打って出た。つまらない嘘をついて、みっともない失敗をしたわ」
あれからのアリスは人が変わったように従順だったそうだ。
魔理沙がそうだったように、神綺も最初は戸惑ったらしい。しかし、それがその場限りの猫かぶりでもなければ、事件のショックで我が引っ込んでしまったわけでもないこと。むしろ今のアリスのほうが本来に近いことを悟ると、神綺は彼女を認めて、魔道書を今度こそ本当に託したそうだ。
魔理沙に謝らなきゃ、魔理沙に謝らなきゃ、魔理沙に謝らなきゃ……。
彼女の口癖だったそうだ。
「やっと魔界から解放されて、幻想郷に来て。でもね。私、やっぱり変れてなかったみたいなのよね。まだ、魔理沙をあっと言わせてやろうと……いえ、違うわね」
幻想郷に来たアリスと初めて会った時。
アリスの煮え切らない調子を思い出した。妙になよなよしていて、張り合いがない。
今思えばそれは、彼女の葛藤の表れだったのかもしれない。
「貴女が赤い顔をして悔しがる様を眺めてやりたかったのよね。ううん、ごめんなさい。これでもまだ、私は本心を偽ろうとしている。キレイな人間を気取ろうとしてるわね」
アリスは自分が人外であると、ことさらに強調していた。
人間の魔理沙をあからさまに馬鹿にして、魔法使いである自分を居丈高に誇ってみせた。
そんな、アリス自身を一番、傷つける演技を、彼女は何故したのか。
「ずっと、ずっと、私は。私は純粋に貴女を汚してやりたかった。否定してやりたかったのよ。私が必死に追い求めていたものを、全部手が届くってのに歯牙にもかけず、それで幸せ面してる貴女を見てたら、馬鹿らしくなっちゃってね。……気付いたら、貴女を人外に堕とす方法を考えてた。貴女の意志を挫いて、ただ苦しませることを」
永い永い満月の夜、異変解決に赴いた時。傍らを飛ぶ彼女の表情を思い返した。作り物の身体を通してもなお、くすぶる思いにふとその顔を歪めたあの時を。
その瞳の奥にはまともな憎しみなど籠っていなかった。そこにあったのは今その時を楽しむ、弾む喜び。そしてそれに織り交ざった、空っぽの自尊心、執着心だ。
「私は魔法使いになりたかった。人間が、種族としての魔法使いになることが、私には魅力的に見えてしまったのよね。さぞみんな自分をうらやむことだろう。認めてくれることだろう。そう信じていた」
地底で起きた異変。厄介事を嬉々として受け入れた魔理沙は、慌ててバックアップを申し出てきたアリスを嬉しく思っていたものだ。
彼女は都合上、直接助力ができないのならと人形を貸し与えてきた。あの時、底の底へと向かおうとした魔理沙を呼びとめたアリスは、なぜか顔を布にくるめていたように思う。顔を隠して何になるかと魔理沙は思っていたものだが、今思えばあの時の彼女は『本物』だったのかもしれない。
「貴女がそれを否定したものだから。私を嗤うものだから。私は目的を失っちゃって、訳がわからなくなったのよねえ。貴女の意志を挫いて、私自身に私のやっていたことが正しいと思いこませることが目的なのか。ただ単に、かまって欲しかっただけか。嘘を吐く理由すら曖昧だった」
くつくつと、アリスが笑う声が聞こえた。
「ああ、そうなのよねえ。嘘、嘘なのよね。私は結局、魔理沙にあこがれて、染まっていて。貴女の言葉に、自分が命をかけていた目標を取り落としたのよね。納得しちゃったんだ。貴女を憎み恨んで、それでも魔法使いの『ふり』をするだけで。貴女を慕っているのに、それでも『魔法使いのふり』なんかをしてしまって」
はあ、と吐息が漏れた。
「どっちつかずな私はね。その場の勢いで言っただけなのよ。その時にはすっかり燃え尽きていた、子供っぽい意地にせっつかれて、つい言っちゃっただけ。この一生をかけた嘘の理由を、なんでって訊くんならね」
魔理沙は息を呑んだ。瞬間、この場が闇に沈んでいて良かったと思ってしまった。
感じるのだ。アリスの思いを。
それは憎悪というほどわかりやすくない。悲哀というほど弱々しくもない。憤怒というほど猛っていなくて、諦観というのは味気ない。
複雑に入り乱れた感情は、しかしお互いに打ち消しあうこともなく、むしろ激しく主張し合って、彼女の心を蝕んでいる。アリスが口にしようとしてるのは、それの存在意義に対する答えだ。彼女は今、はっきりと、自分に決着をつけようとしている。
そんなアリスの表情はきっと、凄絶なものとなっているはずだ。
アリスは、重く長い沈黙を経て、呟いた。
「意味なんてなかったわ」
魔理沙は、その言葉を受け止めて、言う。
「そっか」
魔理沙は肩を揺らして笑う。
「そっか」
繰り返して、言った。
思いを巡らせるのも、これぐらいで十分だろう。
良い暇つぶしになったと魔理沙は思う。ちょうど魔法の森を抜けて、ゆっくりとだが速度も上げていった。約束の時間はもうとっくに過ぎているが、まあいいのではないか。
今日は祭りの日である。
七色の人形遣いが、長年の経験により磨き上げられた人形芸を披露する日だ。聞けば、人妖ともにそつなく対応し、平時では森で迷った人間を保護するなど、大変、面倒見の良い女性だという。また弾幕はブレインという自論を持っており、挑みかかられれば、意外と積極的に承諾して、まさしく頭を使った戦術で相手を翻弄する。弾幕勝負を愛する好戦的で子供っぽい一面もあるようだ。
以前には完全自律の人形を、見世物として実験的に披露したが、うまく作動せず、しまいには段差に躓いてそのままじたばたしているだけで終わってしまった。あの時はひどい醜態をさらしていたが、今回もあれはやるのだろうか。
ともあれ、魔理沙は楽しみだった。
彼女には友達など星の数ほどいるが、アリスだけはどうも、特別な気がするのだ。霧雨魔理沙とアリス・マーガトロイド。『二人の関係』は何ものとも代えがたい。
人里が見えてきた。と、魔理沙は苦笑してしまう。
待ち切れず、猛然とこちらに向かってくる、せっかちな人間が目に映ったのだ。
特に魔理沙が人間のままでいたい理由などは納得させられました。
心理がよく書けていて良かったと思います。
新しいかなあ、と思います。
気づいた誤字だけ、
>もちろん魔理沙は訪ねなかった。
尋か訊でしょうね。
シリアスではこういうの好きです。
この辺に焦点を当てた話も読んでみたいです。
生きる為に(魔界で同胞として認められる為に?)人間を捨てたのなら、怪での悲愴なまでに必死な雰囲気が納得できますね。
淡々と流れる時間の描写が素晴らしい。
「魔法」とは実に美しいものです。その「美しい魔法」から生まれでた魅力・魔力に翻弄された2人の「魔法使い」。彼女たちが生き抜いた惑動の人生が動静・死活の対比などを通して簡明に書かれており、作品として良くまとまっているよい作品だと思います。物語のクライマックスで語られる「人間」対「人外」という構図。その向こう側に有り続けたアリス・マーガトロイドの、最期の時にやっと向き合うことのできた真実。そしてそれに辿り着くまでの過程とが繊細に描写されており、あさからぬ感動を覚えました。
宵の間に非常によい時間を過ごさせて頂きました。またお会いしましょう。では、お疲れのでませんように。