***1***
――――ぱしゃり。
うん。今、良い写真が撮れた。
射命丸文は、カメラを構え続けながらそう顔を綻ばせた。
しゃらん、しゃらんと鈴が鳴る。
茜色ももう暮れきるかと思われる、逢魔が時。
篝火に照らされ、ゆらりと擦れる袴が、「くれなゐにほふ」趣を見せ。
一人の巫女が、舞台の上で舞う。
いつもの彼女のトレードマークである大きな赤いリボンはない。
それ故に、実は長い黒髪が、白い化粧が、唇の紅が、少女を、より大人びたものに見せていて。
しゃらん。しゃらん。
――――ぱしゃり。
白く大きな広袖が、綺麗な軌道と共に振るわれて。
澄んだ祝詞が、言霊が辺りに響き。人々が行きかう境内を、聖域へと変えていく。
この地に立ち込めるあらゆる邪気を払い、利益をもたらす。その霊力を持った声が、波紋となって、広がっていく。
全く、いつの間にここまで仕上げてきたのだろうか。きっと人知れず積み上げてきた研鑽と天賦の才が、ここまで見事な舞を見せているのだろう。
凛としたその立ち姿は、まさに「博麗の巫女」。
けれど。そんな彼女はきっと、舞台を降りたら――
文はまた一つ微笑むと、再び、少女の舞をシャッターに収めた。
――――ぱしゃり。
~~語り手たちの物語~~
***2***
「…あー……あっつい」
神楽舞が終わり。屋台の通りから少し外れた神社の縁側に腰かけながら、博麗霊夢はぱたぱたと手で顔を仰ぐ。
まったく。巫女として仕方がないとはいえ、どうしてこんな時に踊らないといけないんだか。しかも篝火まであちこちに焚いて。おかげで余計に暑いったらありゃしないわ。
「よっ」
そう口に出さず文句を並べる霊夢の頬に、ひやり、と何か冷たいものが声と共に当てられる。振り返ると、そこにはいつものにかっとした笑みを浮かべた彼女の悪友、霧雨魔理沙が立っていた。近くには人形遣い、アリス・マーガトロイドもいる。頬に当たっているのはどうやらラムネの瓶らしい。
二人はいつもの西洋風の服だ。特に魔理沙は黒白姿で暑くないのだろうかと思ったのだが、前に聞いたところ、どうやら彼女たちは服を魔具に変えて、夏でも涼しく感じられるように保っているらしい。現に全く暑そうなそぶり見せてないし…ちくしょう羨ましい。その魔法私にもよこせ。
「顔に当てないでよ。化粧が崩れちゃうじゃない」
「良いじゃないか。今は火照った体を涼ませる方が大事、だろ?」
「…………」
それ以上の反論はせずにため息をついた霊夢が左手でラムネを受け取ると、魔理沙はふふんと得意げに胸を張る。
「何せこれはアリスの奢りだからな!感謝して飲むと良いんだぜ!」
「いやアンタじゃないんかい。……ありがとう、アリス」
「どういたしまして。私も良いものを見せてもらったもの。人形劇の良い参考になりそうだわ」
「あんな神楽舞のどこを参考にするっていうのよ。ジャンルが違いすぎるじゃない」
「だからこそよ。魔法も創作も、いろんなことに挑戦してこそ、だわ」
こちらも胸を張るアリスに苦笑しながら、霊夢はもらったラムネをゆっくり喉に流しこむ。冷たい甘さと共に、体に活力が戻ってくるような気がする。ありがたい。「おーい、私には何かないのかー?」という魔理沙の発言は無視した。
そうして話している三人のもとに、からころという下駄の音がまた二つ、近づいてくる。
「ごきげんよう、霊夢」
「あら、レミリア。アンタたちも来てたのね」
近づいてきたのは、紅魔館の主である吸血鬼、レミリア・スカーレットと、その右腕であるメイド、十六夜咲夜だった。レミリアは濃紅色に白い花の刺繡が入った浴衣をオレンジの帯で結んでおり、薄紫の髪に赤い目と合った気品を保っている。そんな主人を立たせるかのように、咲夜は紺のひかえめな浴衣を身に着けていた。和装に合わせてか、いつものホワイトブリムは今日は外している。
「へー。お前らは浴衣なんだな」
「えぇ。せっかくだからこういうのはその地の文化に合わせて参加するべきだと、うっきうきでお嬢様が」
「さーくーや。うっきうきは言わなくて良いの」
赤い顔で咲夜をたしなめるレミリアを見ながら、霊夢は彼女たちの足元を見る。下駄は履きなれていないだろうに、歩き方に全く乱れがない。あぁ、これはきっと、行くって決めてから必死に練習したんだろうな、と思う。霊夢の知っているレミリアは、そういう健気なやつだ。
そんなことを考えると、レミリアはこほんと咳ばらいをしてカリスマオーラを取り戻す。
「それはそうと、さっきの舞、見ていたわよ、霊夢。見事の一言だったわ」
「……それはどうも」
はっきりとストレートに褒めるレミリアに対して、霊夢の反応はそっけない。それを見てレミリアは、うーんと人差し指を顎に当てた。
「魔理沙」
「ん?なんだ、レミリア」
「霊夢の反応がいつも通り過ぎて、つまらないわ」
「あー、分かるぜ。どうにかして照れさせてみたいよな。全く褒め甲斐がないったらないぜ」
「どうしたら良いのかしら。魔眼使っても良いのだけど、それじゃあ全く面白くないよのねぇ」
「顎をくいっとあげて、口説くように褒めてみたらどうだ?お前案外そういうの合いそうだろ」
「あら良いわねそれ、楽しそう。今度試してみましょう」
「…聞こえてるわよ、アンタら」
レミリアに加わってうーんと考えこむ魔理沙を、霊夢は呆れ顔で見つめる。すると、そんな様子を見ていた咲夜が何かに気付いたらしくレミリアの肩をたたいた。
「お嬢様、それがそうでもなさそうですよ」
「?どういうこと」
「今の霊夢は、白い化粧も手伝って一見いつもと変わらない表情に見えます。ですが…」
と、咲夜はレミリアの耳に手を当てる。魔理沙も盗み聞きしようと咲夜へ身を乗り出す。けれど、次のことばは、離れたところにいたアリスにも霊夢にもはっきりと聞こえてきた。
「耳は、ごまかせていないようですわ」
ぱっと、思わず霊夢は耳を隠す。しかし、『霊夢を照れさせ隊』の動きはそれよりも迅速。化粧に隠れきれず赤くなっていた霊夢の耳を、彼女たちははっきりと視界に入れた。
「な……あ……」
「へぇ、意外。霊夢って、実は照れ屋なのね。これは良いことを知ったわ」
「えぇ。本当はかわいらしいところもあるのですね」
「~~~~~~~!」
もはやわざとはっきりと聞こえるように囁き続ける主従に対し、化粧からもほんのり赤みを見せるようになった霊夢はつかみかかろうと動く。が、それを魔理沙とアリスに羽交い絞めで止められてしまい、その様子を見た主従はさらににやにやと意地悪な笑みを浮かべた。うぐぐぐ。
「どう、どう、霊夢」
「離しなさい、魔理沙!これ以上余計なことを言わせないようにむぐぐぐ」
「ほら、やめときなさい、霊夢。こんなところでもめたら誰かに見られ」
―――ぱしゃり。
「…遅かったみたいね」
呆れるようにため息をつくアリスの声と共に、霊夢の顔が再び白くなっていく。二人の視線の先にひょっこり現れたのは、いつもの愛用のカメラを携えた、一羽の鴉天狗、射命丸文だった。
「どーもー、皆さん。あいかわらず仲が良いようで何よりです」
いつもの調子の良さで話しかけてくる文に、霊夢は脱力する。
「あ、文、アンタ、まさか聞いて」
「えぇ。ばっちり。ですが記事にはしませんよ。これは我々だけの秘密にとどめといたほうが、むしろ面白そうですからね」
しっかりウィンクしながら返す文に、レミリアは「分かってるじゃないか」と意気投合し、さらに二人して意地悪く笑う。ほっと落ち着きを取り戻した霊夢は「…ねぇ、やっぱりあいつら一発ぶん殴って良いかしら」と聞き、魔理沙に「やめとけ」と返されていた。
「文は、お祭りの取材かしら?」
「えぇ。この時期の恒例ですからね。先ほどの神楽舞に関しても、良い写真がたくさん撮れましたよ」
「ほぅ。それは楽しみ」
報道の腕章を見せながら誇らしげに言う文に、レミリアが興味を引かれたように目を見開かせる。そばに控えていた咲夜も、そんなレミリアの思いをくみ取る。
「去年の神楽舞の写真を見て、今年はお祭りに顔を出してみたい、という話になりましたものね。あの写真は本当に素晴らしかったです」
「えぇ。本当、こいつは写真だけは目を見張るものがあるわね」
あぁ、写真「だけ」だなんてはっきり言っちゃった…。ほら、文がみるみるうちに悲しそうな表情になって、
「写真だけだなんてひどいですー」
「そうよ、それは文がちょっとかわいそう」
「せめて新聞のことも褒めてくださいー」
「…そういうことではないと思うんだけど」
……ウソ泣きだったようだ。それはそうか。こいつは、これくらいのことでしょげるようなやつじゃなかった。
「ま、良いんですよ」
そんな霊夢とアリスのため息をよそに、文は、愛用のカメラを慈しむようになでて。ぽつりぽつりと、こぼすように呟く。
「幻想郷(ここ)に生きとし生けるものすべての、最高に輝いている時を切り取りたい、そう思っているのですから。だから、そうして写真を褒めてもらえるのは何よりも嬉しいことなんです」
さっきまでの冗談めかした口調はどこへやら、そこからは、文の本心であることが、ありありと伝わってきて、霊夢たちは思わず息をのむ。そして、その本心が彼女の写真に現れていることは、誰もが――特に霊夢は、よく分かっていた。
霊夢にとって、文は、自分が巫女を継ぐ前からの知り合いだった、数少ない妖怪の一人だった。文はあの時から、よく神社に顔を出していたのだ。だから、今まで何枚も写真を撮ってもらったことがある。楽しそうに境内を遊んでいる時。おいしそうにご飯を食べている時。そんな、幸せだ、と子供ながらに素直に感じられる瞬間を、的確に彼女はシャッターで捉えてくるのだ。
「文はさ、」
だから、霊夢は思わず聞いていた。
「自分の写真が欲しいと思ったことはないの?」
誰かにとって最高の瞬間を「写真」として切り取るのが文はピカイチだということは分かっている。だけどそれは、その「写真」の中に、撮影者である文はどこにもいないということで。文は。誰かにその「瞬間」を切り取ってほしいと思ったことはないのだろうか。
聞かれた文は、一瞬目を丸くさせて。けれどすぐに、ふっと穏やかに微笑んだ。
「良いんです。だって私には、」
「私にとって一番素敵な瞬間を切り取ってくれる、そんな方がいますから」
「…そ」
そうはっきりといわれては、短く返すしかなかった。自分でも気づいていなかったが、この時の霊夢は、ほっとしたような笑みを浮かべていた。そんな霊夢の反応を見た文は、またゆっくりと微笑むと、
「それでは。私は取材を続けますので、これで」
と一礼し、そのまま黒い翼をはためかせ、どこかへ飛び去って行ってしまった。飛んだあとを見つめる霊夢の横に、魔理沙が歩み寄る。
「あいつ、誰かたよれる天狗でもいるんかね」
「いいえ。きっと…」
過去に想いを耽る。そう。そうだった。文の「瞬間」を切り取ることが出来るのなら、それはきっと―――
『来た来た。よー、文ちん!』
『だーかーら。文ちんはやめてください。何回言わせるんですか』
『良いじゃない。文ちんは文ちんだもん』
『なんですかそれ…全く』
「霊夢?」
「うぅん。なんでもない」
懐かしいな。「あの人」はどうしているだろうか。きっと、どこかでまた元気に誰かを振り回しているのだろうけど。
また頬が緩むのを感じながら、霊夢は、ぽんぽん、と、手で袴を払う。
「さて…と。アンタたち、まだ時間はある?」
突然の質問に目を丸くさせる四人の方を向きながら、霊夢はこう続けた。
「せっかくだし、これから一緒に屋台、まわりましょうか」
屋台の明るい提灯を背景とした彼女の表情は、思わず四人もどきっとする程穏やかで、少女らしい笑顔だったという。
***3***
お祭りの喧騒。提灯の光。
その中を、射命丸文は、文花帖とカメラを抱きながら。一本歯の下駄で、器用に歩く。
お祭りの時期になると、思い出さずにはいられない。
自分が、この道に引きずり込まれるきっかけを作った、少女のことを。
どこまでも生意気で、こっちを怒らせてばかりで―――けれど、ずっと自分の憧れであり続けた、少女のことを。
こうして聞こえてくる声も、宵闇の中、暖色に照らす光も、一見、毎年同じように入って来るけど。
細かく聞き分ければ、目を研ぎ澄ませば、実は絶えず、絶えず、違いがあって。毎年、特別な「色」があって。
「彼女」は、その「色」を、どのように描くだろうか。
自分は、あの「色」をどのように残せるのだろうか。
―――聞き覚えのある、話し声がする。それも、さっき聞いた声。その声にふり返ってみると、そこには、きっと「彼女」が何よりも見たかっただろう景色が、広がっていて。
文は、薄く、穏やかに微笑んで。その景色へ、シャッターを向けた。
***4***
―――もう二十年以上前。秋のこと。
「妖怪の山に、侵入者が現れました」
哨戒に当たっていた白狼天狗からその報告を受けた射命丸文は、あからさまに嫌そうな顔をした。
何せ、白狼天狗の上司や大天狗などではなく、わざわざ自分のところに報告が上がったのだ。本来、それはおかしなことなのである。
文は、幻想郷最速ともうたわれる飛翔力や数々の経験から来る巧みな話術を買われ、別勢力とのメッセンジャーなど外交担当として腕を振るう天狗だった。だから、侵入者の撃退は本来役割外のはず。もちろん外交的な都合で来る人妖もいない訳ではなく、その場合は文が案内役として迎えに行くこともあるのだが、その場合白狼天狗は「侵入者」だなんて文に報告してこない。
…つまり、今妖怪の山を訪れたのは、アポなしで訪れた紛れもない「侵入者」。にもかかわらず、文にその報告が届く。……ということは。
「……それで?」
いや、念のため、念のため。もしかしたら、ということもあるから。ゆっくり、白狼天狗に話の続きを促す。が、聞かれた白狼天狗はというと、何を言っているんだとばかりに肩をすくめ、
「文様にその侵入者のことをお願いしたいと」
「……確認しますが、その侵入者というのは…」
「はい。お察しの通り、あの方です」
…実に淡々とした口調で、文のわずかな希望を粉々にぶち壊した。
「そんな顔しないでください。私だってこんな報告するのもううんざりしてるんですから。いい加減あの方を何とかしてくださいよ、あなたしか出来ないんですよ?」
えぇい、うるさいうるさぁい!!そんなこと、私だって分かってますよ!そんな私のせいみたいに白い目向けないでくださぁい!!!!うぅ…しくしく…胃薬胃薬……どこいったかなぁ…
と、いう訳で。
文は、山を飛んでいる。秋神様に染められた紅葉や黄葉が、錦となって山を織りなしていて。空を飛ぶと、錦の糸の一端が風によりあちらこちらに舞いあがっていく。早く、早く、あの大馬鹿のもとへ辿り着くために。文は翼を整え、さらに加速する。
そうして飛ぶこと数十秒。白狼天狗が侵入者を見たという場所に降り立ち、文はあたりを見回す。そうして少し歩いていると……いた。
長い黒髪を、唐紅のリボンにまとめたポニーテール。白く幼さを残す可憐な顔に、長いまつ毛をたたえたつぶらな目。手には何やら大きな冊子らしきもの―――「すけっちぶっく」とか言ったっけ?――を抱え、画材を霊力でふわふわ浮かせながら何かを思案している。そして、白の小袖に緋色の袴といった出で立ち。その恰好は「巫女」がするもの。
そう。「巫女」。白狼天狗が言っていた侵入者とは、なんと「博麗の巫女」――博麗霊歌(はくれい・れいか)のことだったのである。
…もうお気づきだろう。つまり「博麗の巫女」だからこそ、文が侵入者の相手として呼ばれたのである。外交役をつとめる文は、業務上「博麗の巫女」と最も顔を合わせる立場になるのだから。そして、「博麗の巫女」なんて、並大抵の妖怪がなんとかなる相手ではないのだから。なんとかしてくれ、お前なら出来るだろ、と言わんばかりに、毎回毎回、文に相手が丸投げされてしまうのだ。
いろいろ思い出してきりきり痛み出した胃に文がため息をつくと、その気配に気が付いたらしく、霊歌がこちらに振り向いて「おっ」と声をかけて。
「よー、文ちん!!」
片手を挙げながら、すがすがしい笑みを浮かべて挨拶してくる彼女に、ぶちっ、と、何かが切れる、そんな音がして。
ずんずんずん、と、少女へと近づいて、その頬に両手をかけた。
「あや、ちん、じゃ、ありません!!!!」
ぐわー!と獰猛なクマのオーラを背後にゆらめかせながら、つかんだ頬をにょーんと伸ばす。うわこいつのほっぺた柔らかい。くせになりそう。腹立つ。引っ張られた霊歌は「いふぁいいふぁい、はなひへぇぇ」と、手足をじたばた。
どれくらい経ったか、頬が真っ赤っかになったかと思うころ、ようやく頬を放して、顔をさする彼女にびしっと文は人差し指を向ける。
「ここには勝手に入らないでくださいって言ってるでしょう!何回同じこと言えば分かるんですか!!」
「だぁーってー!!!こんな綺麗な紅葉を天狗たちだけ独り占めだなんて、ずーるーいー!!」
またじたばた。まるで駄々っ子みたいに。あぁ胃が痛い。額にまたビキビキ青筋が立つのを感じる。
…もう一度言います、皆さん。こんな方が「博麗の巫女」ですよ?
信じられますか???
「紅葉を独り占めだとか、そういう問題じゃないんです」
とはいえ、ここで切れてしまっても話が進まない。ここは私の話術の見せどころだ。こほん、と咳ばらいをしながら、霊歌へと向き直る。
「良いですか。山の妖怪が排他的で縄張り意識が強いということは、あなただって良く分かっているでしょう。あなたは実力的に問題なかったとしても、人間の守護者として模範たるあなたが、紅葉を見るためという軽い動機で侵入したことで、万一人間が観光気分でここに迷い込んだらどう責任を取るつもりなんですか。それで妖怪たちに襲われてからでは遅いんですよ?あなたはもっと自分の立場の重みを理解するべきです」
…うん。決まった。なんだかんだで彼女は、「博麗の巫女」としての役割が分からない程無責任な少女ではない。こういう説教をすれば、少なからず効くはずだ。そうして霊歌の方を見ると、自分に背を向けて、ずーん、という沈んだオーラを漂わせながら、地面に「の」の字を書いていた。
「お説教された…」
「当たり前です」
よしよし。やはり効いているらしい。べそをかいてしまった霊歌に、ふん、と鼻息を立てて文は返す。だから、続けたのも、少し緊張が緩んだために出た、ほんのささやかな疑問のつもりだった。
「大体、どうして紅葉を見にここまで来るんですか。神社にだって良い楓の木がたくさんあるじゃないですか」
けれど。その質問を聞いた少女は、ピタリと「の」の字を書く動きを止めて、立ち上がって。
「それは違うよ、文ちん」
さっきまでのふざけた表情ではなく、真剣な声で。そんな霊歌に、文も思わず気圧されてしまう。
「同じ紅葉が織りなす景色でも、一つとして同じ景色はない。神社で育つ楓には神社にしかない魅力が、山で育つ楓には山にしかない魅力がある。すべての場所に、生命に一つ一つ特別な美しさがあって、見る者に―――なんていうのかな。忘れられない時間を刻みつけてくれるのが、忘れられた者たちが集う『幻想郷』という地だと思っている」
するりと舞う紅葉一片を、霊歌はゆらりとすくうように両手で受け止めて。霊力でふわりと、慈しむようにくるくるとまわす。
「そんな『幻想郷』のすべての景色が、生命が、私は好き。だから――こうして傲慢で我儘だと分かっていても、ちゃんとこの目で見ておきたい…――忘れられない時間、その刹那を、語り継いでおきたいの」
…あぁ、そうだった。
「もう、あなたって人は、本当に…」
この巫女は、霊歌は、こういう人だった。誰よりも、忘れられたものが集う「幻想郷」という地に恋している、そういう少女。誰よりも、ここの景色を愛して、守りたいと思っている人間。
まっすぐすぎる視線と素直に歌うような口調に、文はまた頭を抱える。そう、さっきのような子供じみた言動をすることはあったとしても。やはり今のここには、彼女以上にここの巫女にふさわしい人はいないのだった。
「……あーもう…分かりました」
ため息をつきながら、文は立ち上がる。あの白狼天狗の言う通り、ここに少女が何回も来るのは、やっぱり文のせいなのかもしれない。
「私もここにいます。私への用事、ということにしておけば、無闇に追い返す必要もなくなりますからね」
何だかんだ、この巫女に共感してしまっている自分がいたのだから。そんな巫女の好きにさせてあげたい、そう考えてしまう自分がいたのだから。
「その代わり、勝手なことはしないでくださいね!後、今度からここに来る時はせめて私に一声かけること!」
そんな気持ちを悟られなくて、あくまでも条件付きという厳しめの声を発するも。眼前の巫女は、刹那目を丸くさせた後、困ったような笑顔を浮かべて。
「ありがとう。ごめんね、文ちん」
……何もかも、お見通しみたいだ。こういうところも鋭くて、しかも素直なところがあるから、彼女は苦手だ。
「…本当ですよ。後、文ちんはやめてください」
全くもう。ちょっと照れくさくなってしまった文は、話題を逸らすべく霊歌の手にある「すけっちぶっく」に意識を向ける。
「それで。また絵を描いているのですか」
「うん。これ手に入れてから、本当絵が捗ってさ」
霊歌は嬉しそうに返す。なるほど。白紙だけが束ねられた冊子のような見た目をしていながら、絵を描くには、片手で持つには最適な大きさをしている。紙質も悪くはなさそうだ。彼女曰く、たまたま幻想入りしたものを譲ってもらったらしいのだが、それだけにさぞ重宝しているのだろう。
……ここでも量産化は出来なくはなさそうだが。印刷所の天狗にでも相談しようかな。
「…描いているところ、見てても良いですか?」
「もちろん。といっても、もうそろそろ出来上がるんだけどね」
にこりと微笑むと、霊歌はふわふわ浮かせていた画材から色鉛筆を取り出して、「すけっちぶっく」と眼前の景色を見比べ、すぅ、と息を吸う。眼前の景色に、自らも溶け込まんとするように。
こうしている間にも、風に乗って紅葉はひらりひらり舞い。黄葉はちらちら散り。近くを落ちる滝のさらさらした音に混じり、ぴゅーい、という鳴き声。あぁ、文には聞きなじみがある。あれは、鹿の求愛の鳴き声だ。いつも見慣れ過ぎていて、気にしたことがほとんどなかったけど。霊歌の言う通り、ここの秋は美しいのかもしれない。
そうして文も景色に身を委ね、しばらく待つと。横の霊歌は納得したように一つ頷いて。色鉛筆をかわるがわる浮かせて、走らせて、「すけっちぶっく」の紙に色を与えていく。
―――博麗霊歌。「博麗の巫女」にして、絵描きを趣味にする少女。自分の目に見えたものを、写生画としてありのままに描くことを得意とする。
そして。彼女が描く写生画は――――。
「…よし!完成!」
「見ても良いですか?」
「もちろん。どうぞ」
さっき、霊歌はこう文に語っていた。自分の好きな幻想郷の景色を、その景色が織りなす『忘れられない時間を、刹那を、残してあげたい』と。そのすべてが、彼女の写生画には現れる。
舞う紅葉は、陽光に当たりまた影となり、あるところは橙や黄色みを帯びて、あるものは紅色を暗くと、細かく色彩が塗り分けられている。陽光が紡ぎだす微細な光の様態が、一枚の絵の中で美しすぎる程に捉えられている。
その紅葉が舞っていく軌道は、さわさわと揺れている楓の木の動きは、決して乱雑ではない。まるで風の動きそのものを視覚化するように、刹那の景をはっきりと捉え、麗らかに並び描いている。静止画のはずなのに、景色が動いているように見える。
地に落ちた紅葉の絨毯は、どこかつややかに描かれている。よくよく見ると、露に濡れたのか、地面の紅葉はどこか紅色がより美しく、濃くなって―――こういうのを「くれなゐにほふ」というのだろうか―――また異なる魅力を出している。決して落ちた枯葉ではない。彼らも間違いなく、この刹那の時間の中で「活きている」のだ。
「どう?うまく描けているかな」
「すけっちぶっく」を見つめる文に、霊歌が弾んだ声で問いかける。
返事なんて決まっている。
「えぇ。相変わらず、憎たらしいほどに」
霊歌の写生画は、その景色が、対象が持つ「最高の瞬間」を切り取る、そんな写生画。
自分に迷惑ばかりかけてきて、そのくせまっすぐで気の付く彼女が、こんなにも嫌いなのに。文は、彼女の描く絵に、想いに、どうしようもなく惹かれていたのだ。
***5***
はたして、その日を境に、霊歌は妖怪の山に無断で入ってくることはなくなった。
文に事前に何かしら通達する形で、山に来るようになった。そう、話術を頑張って活用すれば、ちゃんと出来るのだ。ふふん。
正直、上に諸々面倒な報告をしなければならなかったり、霊歌の奔放さに結局自分が振り回されるのは今までのままだったので、胃薬を飲まなくて良くなった、という訳ではなかったが、それでも前に比べたらかなりマシにはなった。白狼天狗から睨まれなくなった日々、素敵!!!!
「…はぁ、まったく。文様はあの巫女に甘すぎるんですよ」
……………
……そんなことないです、きっと…多分…うん…
さて、もう一つ。時が経って一つお知らせがある。霊歌が拾っていた「すけっちぶっく」だが、印刷所の天狗に掛け合ってみたところ、量産されることになった。
もとより新聞文化が広がっている天狗社会にとって、製紙技術もお手のもの。二つ返事で引き受けてくれて、スケッチブックとして販売されることとなった。
結果、ありそうでなかった珍しい冊子に、人間からも天狗からも好評、売れ行きは伸びているという。もちろん、霊歌も喜んで、発売されたことを知るや否や、何冊も買っていったという。
……断っておくが、決して、霊歌のために動いた訳じゃない。決して。誰があんなじゃじゃ馬のためになんか。
天狗なら作ることが出来ないか、個人的に気になっただけだ。
そして。あの紅葉の出来事から一年近く経って。夏が終わり、夕暮が涼しく感じられ始めたころ。
上の天狗からの書簡を贈ってほしい、という連絡を受け、使者として文は博麗神社に赴くことになった。
博麗神社の鳥居が見えてきたところで、文は中の気配に気付く。霊歌以外に、二人。どうやら、先客がいるらしい。それも人間のようだ。
使者として人里に出入りすることのある文は一応人間にもそこそこ知られている妖怪ではあるのだが、だからといって見知らぬ客の前に出て場を乱すほど無神経ではないし、命令を聞く限り、火急の用という訳でもない。ということで、他人から見えないように神社の屋根の上で待たせてもらうことにした。
ちょうど拝殿の前に霊歌がいるのを見つけた。大幣を持ちながら、目の前にいる二人の男女に何やら話しているみたいだ。こうしてみると、すごく大人びていて、落ち着きのある表情に見える。
―――こうしてみると。彼女も普通の「巫女」なんだけどな。
以前、人里に諸用あって出かけた時に、霊歌の評判を小耳に挟んだことがある。
『あの巫女様は、いつもこちらの困っているところを正確にくみ取って助けてくださって、本当にありがたい。実にしっかりしていなさる』
『はい。その上、落ち着いておられて一つ一つの所作もお美しい。巫女として申し分のない方だ』
『まさに『完璧な巫女』ですな』
「完璧な巫女」。それが霊歌につけられた二つ名だった。落ち着いて穏やかな性格、皆に親身になって世話してくれる、まさに「博麗の巫女」にふさわしい巫女。傍若無人という認識だった文は、最初信じることが出来なかったのだが、たまたま人間たちがいるところに霊歌と出くわした時に、この二つ名について納得した。……そして。
『おや、射命丸さんではありませんか。お元気でしたか?』
……正直に言って良い?柔和な微笑みでこちらに話しかけてくる霊歌は、とっっっても気持ち悪かった。あの時、顔色を変えずに対応出来た自分をほめてあげたい。
そうだ。今度、霊歌が自分にしてきた数々のことを他の面々に言いふらしてみようか。天狗社会では、特に身内間の出来事について新聞にする文化があるから、誰かにお願いすれば、きっと…ふっふっふ……
……………………
…冗談、冗談ですよ。しないに決まってるじゃないですか。考えてもみろ、ものすごく良い笑顔を見せながら退治されるのが落ちだ。何せ博麗の巫女だけあって、戦闘能力も折り紙付き。千年天狗の自分だって無事では済まない。…そもそも、そういうことするの、自分のプライドが許さないし。
そう、寝転びながらぶんぶんと首を横に振ると、霊歌と話していた二人がぺこりと頭を下げているのが見えた。どうやら話は終わったらしい。紅の錦で出来たお守りを渡しつつ霊歌は二人を鳥居の前まで見送ると、ふぅ、と一息ついて、ぱん、と手を鳴らした。
「さて。もう良いよ、文ちん」
「…気付いてましたか。それと、文ちんはやめてください」
ため息をつきながら、文はばさり、と器用に屋根を降りる。にひひ、と霊歌はいたずらっぽい笑み。あ、表情変えた。…ぐっ。どうしよう。やっぱり誰かにこのことを話してみたい。
「ほほぅ、何か良からぬことを考えてるね?文ちん」
…何で分かるんだ。まさかそんなに自分は分かりやすい表情しているのか。思わずぺたぺたと自分の顔に触れる。
「んーん。勘」
はぁそうですか……って、そこも読み取って会話しないでほしい。また一つため息をつきながら、降参のポーズとして両手を挙げた。
「まったく…私に対してみたいにあなたには駄々こねる子供っぽい一面もあるんですよー、とか言いふらしてみたいな、とか考えてみただけですよ」
もちろんそんなことはしないですが、と補足するのは忘れない。まぁ、補足しても霊歌から余計なことしないでと怒られるか、もしくは何かからかわれたりするだけだろうが…。
ところが、霊歌はそんな文の告白に対し、ぽかん、と刹那驚いたように口を開けて。そして、ふっと寂しげな笑顔を浮かべた。
「そっか。まぁ…いっそのこと、それも良いのかもね」
…………ん?
「それで?文ちんが来たってことは、天狗のお偉方から何か連絡かな?」
「へ?は、はい。書簡を届けに」
「そ。じゃあ、せっかくだしあがってよ。良いほうじ茶いただいたの」
その態度を気にする間もなく、霊歌はそう告げると、お茶の準備をしに炊事場へと行ってしまった。
…何だったんだろう。あの表情は。けれど、今気にしててもしょうがない。きっと聞いてもはぐらかされてしまうだろう。お言葉に甘えて、文はとりあえず居間でお茶が入るのを待つことにした。
居間のちゃぶ台の上には、スケッチブックが置きっぱなしになっていた。表紙の艶が少し褪せているところを見るに、どうやら購入してからそこそこ経っているらしい。ということは、中にはそれなりの絵が既に描かれているだろう。
こんなところに置きっぱなしになっていたら…見ても良いのだろうか。
「スケッチブックの中身なら、見てて良いよ~」
炊事場から霊歌の声がした。だから何なんだあの人は。あきれてため息をつくと、文はぱらり、とスケッチブックの表紙をめくった。
数々並ぶ屋台の背景。何か焼いている湯気や煙を表現しているのか、敢えてところどころ淡色で曖昧にぼかしている。それが、あちこちにともる提灯の橙色の光を、より暖かく、穏やかなものにしている。それに照らされながら走る子供たちの顔の横には赤鬼や金狐の面。弾けんばかりの笑顔からは、会話まで聞こえてくるようで――。そんな祭りの一場面を描いた、綺麗な絵だった。
「あ。それ見ていたんだ」
と、湯呑と急須をのせた盆を持って、霊歌が姿を現す。
「今年の夏祭の様子ですか?」
「そそ。みんな楽しんでくれていたみたいで良かったよ」
程よく温かい湯呑を文へと手渡しながら、霊歌は笑顔を浮かべる。夏祭は博麗神社にとって一年で重要な祭礼だ。と共に、幻想郷にとって貴重な「ハレ」の日であり、幻想郷の人間たちが特に活気づく夜でもある。今年は立て込んでいて参加出来ていなかったが、かくいう文も都合がついたら顔を出したりしていた。人間にも近い妖怪というのはこういう時便利なものである。
ぱらり、ぱらり、とスケッチブックをめくる。次も、その次も夏祭の絵。ある絵では手をつないだ二人が仲睦まじげに歩いていたり、ある絵では人間と別の天狗が酒を酌み交わしていたり。いずれにしても、描かれている人たちが輝いている、その刹那が、やはり彼女の絵の中で最も美しい形で写実されている。
「…へぇ。あなた、こういう絵を描くのもうまいんですね」
「へへ。そうでしょう?人物画描くのは私も久しぶりだったんだけど、こういう絵も良いものだね」
「屋台の様子はどうでした?今年は何か珍しいものはありましたか?」
スケッチブックをぱらりとめくりつつ、文は何気なしに聞いた。「ハレ」の日である祭りの日には、いつもだと見られないような外の世界からの「外来品」が屋台を通して見られることが多く、何が出てくるのかがいつもの話題になっているのだ。
ところが。
「あー…実は私、屋台はまわってないんだ」
バツの悪そうな霊歌の返事は、またしても考えもしていなかったものだった。
「ほら。私、この祭りの主催だからさ。その私がみんなが楽しんでるところに出しゃばっちゃってもな、と思って」
そんなこと気にするタマですか、とか、そんなの誰も気にしないと思いますけど、とか、準備出来る返事はいくらでもあったかもしれない。けれど、この時の文は
「…そうなんですか」
…こういう形でしか返すことが出来なかった。わずかに重苦しい空気を、風を、その身で読み取ってしまったから。
しばらく続く沈黙。何かせずにはいられなくなって、文はパラパラと、先ほどよりも早くスケッチブックをめくる。こういう時に何か誉めことばが言えれば良いのだが、語彙が出てこない。…さっきもそうだけど、こんなしおらしい霊歌、正直落ち着かない。いつもはもう少しお淑やかにしてほしい、だなんて考えていたのに。
「あ!」
その時。同じく居心地が悪くなったのか、縁側へとうろうろ歩いていた霊歌が、弾んだ声をあげる。
「文ちん!スケッチブック貸して!」
さっきまでの明るさを取り戻した霊歌に、文はほっと胸をなでおろしながら、読んでいたスケッチブックを手に立ち上がる。
「何か面白いものでも見えたんですか?」
「うん。ちょうど三日月が出てきたところみたいでさ。せっかくだし絵にしようかなって」
と、スケッチブックを手渡された霊歌は、「あっ」と声をあげる。
「そうだ。文ちん、使いで来たって言ってなかったっけ」
「後で良いですよ、どうせ急ぎではないでしょうし。それより、あなたが描きたい三日月は、今しか見えないものなんでしょう?」
そう肩をすくめてみせると、霊歌はにかっと笑って「ありがと」と言い、縁側に腰かける。早速、色鉛筆を何本か浮かせながら、スケッチブックの白紙にどう描くか考え始める。本当、こういう時の霊歌は活き活きしているなぁ。文はそう苦笑しながら、霊歌の横に歩を進める。
「…隣、失礼しても?」
「どうぞー」
では、と文も縁側に腰掛けて、今霊歌が見ている景色に視線を向ける。
夕方の初めのころ。空色の西に黄色の彩りがこぼれていく。その広がりの染みる、ゆるりゆるりとした雲の絶間から、薄い、けれど確かな白の三日月が、姿を現していた。…なるほど、霊歌が描きたいと、その刹那を刻みたいと考えるような、そんな美しい景色。
そんな景色を、彼女はどう描くのだろうか、と、ちらり、霊歌に赤い目を向ける。むーん、と首を傾げる、そのしぐさ。どうやら考え中らしい。と、ぴたり、彼女と目が合った、そんな気がした。いけないいけない。集中している時に邪魔してはいけない。……そう即座に目を逸らした文は、自分を見た霊歌が、ほんのわずか、唇を綻ばせたことに気付くことが出来なかった。
「……………」
すい、と後ろにさがる衣の音。やっぱり、自分の視線が気になってしまったかもしれないな、と文は反省。けれど、その後かきかきと色鉛筆を走らせる音が聞こえてきたから、描きたい絵が霊歌の中で固まったのだろう。なら、完成するまで三日月を見ることにしよう。ほら、こうしている間にも、夕空の黄色が少し暮れ、三日月がよりくっきりと見えるようになっている。天頂の空色も夜の準備を着々と進めているみたいだ。そんな時間の流れが見るのも、何だか趣があるものだ。
沈黙が流れる。けれどそれは、さっきまでとは異なり、居心地悪くないもの。聞こえるのは、かきかき、すらすら、という、色鉛筆を走らせる音だけ。
黙々、黙々、と文の後ろで絵が紡がれていき。そして、夜色に空が染められ、三日月が山吹色に輝き出したころ。
「出来た!」
その声に、ゆっくりと文は後ろを振り向く。見えたのは、頬を紅潮させながら満足げに微笑む霊歌の表情。
「…もうですか。あいかわらず早いですね」
苦笑する。空が様変わりしたとはいえ、結局まだ一時間程度しか経っていないというのに。こうした絵筆の速さも、霊歌の絵の特徴の一つだ。
「見ても良いですか?」
「もちろん。というかね、この絵はまず文ちんに見てほしいんだ」
………?私に?
今まで、完成した絵を、お願いして最初に見せてもらうことは度々あった。けど、それは文がお願いしたからで、霊歌の方が文に最初に見てくれ、と言ってきたことはなかったはずだ。そんなささやかな疑問に首を傾げながら、文はスケッチブックをぱらりとめくる。
―――さっきまで見ていた夕空が、紙に刻み込まれている。染まり始めた黄色い空は、よく見ると淡いグラデーションによってじんわり塗り分けられていて、これからの時間の経過を静止画の中で語りかけている。そして、夕雲の絶間からは白の三日月が、けれど白色ではない、薄い薄い黄色を使ってほのかに存在感を放っている。
右手前には、神社の柱が描かれている。中間に柱を置くことで、夕空との遠近感を紡ぎ、景色全体を立体的に整えているのだ。これだけでも、この絵は立派な名画といえる。
けれど。この絵の主題になっているのは、三日月ではなかった。
―――絵の左側に、誰かが座っている。夕空の黄色に顔が染められて、少しはかなげに微笑みながら、月を見つめている。赤い兜巾から垂れ下がる白い梵天は、そよ風に吹かれているのか、ゆらり、ゆらめいていて。青や紺とで塗られている翼は、切りそろえられた髪は、かえって艶のある黒色を描き出していた。
夕空の景色を背景とした、そんな女性の絵画。
「これ…」
―――見間違えようがない。これ……私、だ。
「どう?うまく描けてるかな」
ふふん、と得意げに、霊歌は文に話しかける。絵を見た今なら、はっきりと分かる。なぜ、霊歌が文にこの絵を見てもらいたかったのか。
鼓動が早まる。戸惑うと共に、どこか気分が高揚してしまっている、自分がいる。
「……み、三日月を描いてたのではなかったんですか。何で私を」
我に返った文が返せたのは、そんなたどたどしい質問だけだった。だって、今まで、自分自身がこうして絵に描かれることなんて―――それも、こういう形で描かれるだなんて、考えもしていなかった、から。
「決まってるじゃん。そんなの」
それに対して、霊歌ははっきりと。眩しいばかりの顔を文に向けながら。
「文ちんが、とっても綺麗だったからだよ」
…それを聞いた文が、真っ赤になった顔を、霊歌に見られないようにスケッチブックをあげて隠したのは、言うまでもない。
***6***
その夜のこと。
―――――あぁ、もう。ムカつく!ムカつく!ムカつく!!!
「スケッチブックください!!!!」
ばぁん、という音が辺りに響いて、印刷所にいた一人の天狗がびくっと肩を震わせる。何ごとかと入口の方を見てみると、そこには顔を上気させながらぜぇぜぇと息を吐く、射命丸文の姿があった。
「文じゃないか。どうしたの、急に」
「良いから!一冊ください!!!!」
こちらの疑問に構わず、ずんずん歩みを進めて手を差し出す。おぉ、目は三角形だ、どうやら何かに怒っているらしい。いつもの穏やかな調子を狂わされている文。求めているのはスケッチブック。…とくれば。
「はっはーん」
にやり、天狗は唇を曲げる。
「あの巫女さん関係で何かあったね、『文ちん』?」
「な、な、そんな訳ないじゃないですか!!それと、文ちんはやめてください!!!」
…そんな顔を真っ赤っかにさせてさ、ごまかせてると考えてるのかね、と印刷所の天狗は肩をすくめる。あの博麗の巫女と文が今どんな関係かなんて、山の天狗には周知の事実だ。最近じゃあ、悪ふざけが大好きな天狗たちの間で、面白おかしく関係を捏造記事にして書く話まで出てたらしいしね。…ん?その記事、どうなったのかって?うん、まぁ………あの時の文の顔は、さながら般若だったね…。
「はいはい、悪かった。これ、スケッチブック。一冊くらいならタダで持ってって良いよ」
束からスケッチブックをひらひら、文へ差し出す。
「文がスケッチブックのことを話してくれたおかげで、こっちはおいしい思い出来た訳だしね。今回は特別サービス」
「ありがとうございます!!」
…なんというか。こういう時にもきちんとお礼はしてくるあたり、真面目なんだよなぁ、こいつ。そんなことを考える印刷所の天狗に構うことなく、ばしゅん、と音を立てて文はその場から飛び去ってしまった。はやっ。というか、吹き飛ばした紙類、片づけておくれよ。
「本当、珍しいな」
ぽつり、呟く。
文は、元々同族たちの間でも馴れ合ったりしない天狗だった。決して、仲間からハブられていた、とか険悪だった、とかそういうのではない。文自身は人当たりも良く優秀なため、かなり親しまれている方である。
ただ、他者とはどこかで一線を引いていて、自分の本音をあまり他人に見せないようにしている、そういうところがあった。他の天狗には踏み込めない、我が道をぶらつくように歩くような、そんな天狗だった。
だから、誰も文の考えていることは分からない。文も、他の誰かのことで必要以上に踏み込むようなことはしない。
…そんな文が。
「他人のことで、こんなに熱くなるだなんて」
あの巫女のことになると、自分の本音を隠せなくなっている。子供みたいにムキになって、嫌いだ嫌いだといつも喧嘩腰で、けれど、気が付けば彼女のことが放っておけなくなって、追いかけるようになっている。
今日、なぜ文がスケッチブックを購入したかは分からない。あの巫女との間に何があったかも、分からない。けれど。何となく分かることはあった。
―――きっと今、文の中で、何かが良い方向で変わっていっているんだろるな、って。
さて、時間が経って。
自分の家に戻った文は、ぱさ、と買ったスケッチブックを机の上に置く。
そしてまた、怒りの炎をめらめら、めらめら。
ムカつく。ムカつく。
何が。何が『文ちんが、とっても綺麗だったからだよ』だ。
どうしてはっきりとあんなセリフが言えるんだ。
あの後、たどたどしく声を詰まらせながら、押し付けるように書簡手渡して。そして逃げるように神社を飛び去って。ずっとずっと、顔を隠さないといけなかったんだから。
あぁ、きっと今ごろ霊歌は、『文ちんってチョロいな』って、自分のことからかっているに違いない。
くそ。ムカつく。ムカつく。
―――ちなみに当の霊歌は、様子がおかしくなった文を見てただただ「?」マークを浮かべながら首を傾げていただけなのだが、文は知る由もない。
こうなったら。あの巫女を、何とかして赤面させたい。
どうやって?私の絵で!!!!
どん、とスケッチブックを叩く。
…おや、これを読んでいる諸君は分かっていないみたいですね?ふっふっふ。まぁ聞きたまえ。
霊歌は、自分が見たありのままの光景を描く、写生画を得意とする。
それは、霊歌は自身の絵を描いたことはない、ということを意味する。…オーケィ?アンダスタン?
つまり、今まで彼女は自分の描かれた絵を見たことがない!自分が描かれるというのが、どれだけ恥ずかしいことか、分かっていないということ!
だからこそ、どこかであの巫女の絵をこっそり描いてやる。別におかしな絵でなくて良い。それこそ、私が三日月を眺めていた時のような、ごくごく日常の光景で構わない。「霊歌の絵を描いた」この事実が重要なのだから。
霊歌は、自分が描かれた絵を見たら、慣れない感覚にきっと慌てふためくことだろう。そして、『どうして私の絵を描いたのか』と聞いてきた彼女に、私はさらっと返してやるのだ。『霊歌さんがとっても綺麗だったからですよ』って。
思い知るが良い。自分がどれだけ恥ずかしいことをしていたのかを。
後悔するが良い。自分がどれだけ恥ずかしいセリフを吐いたのかを。
さてさて。どれくらい真っ赤っかになった顔を拝むことが出来るのかなぁ~。楽しみ楽しみ。
ふふ…ふふふ。
ふふふふふふふふふ。
…さぁさぁ、こうしてはいられない。
この作戦を実行するためには、まず自分が人並みに絵を描けるようにならないといけないのだから。
そのために買ったスケッチブック。練習せねば。
まずは静物画から練習しよう。そうだな…目の前の蜜柑で良いか。
今に見ていろ、博麗霊歌。
ふふ、ふふふふふふふふ………
………
……………
…………………
………ちゅん、ちゅちゅん………
何日経っただろうか。部屋中バラバラにスケッチブックの紙があちらこちらに散乱する中、文は机に突っ伏していた。
机にくっついた顔はげっそり。前のような威勢はどこにもない。
「あー……」
ため息を全て吐き切るように呟きながら、ごろん、と木の床に仰向けに寝転がる。
私、気付いた。
絶望的に絵の才能ないわ。
何回描いても何回描いても、およそ目の前の対象とはかけ離れた、得体のしれないものが紙に召喚されてしまう。
これでも、ちゃんと絵の描き方みたいな参考書も手元に置いてるのだ。
画材の色とか構図とか、どうやって描いていくのかもしっかり気を使っているのだ。
我流、なんてものではないつもりなのだ…決して。多分。
でも描けない。描きたいものが、紙にちゃんと再現されない。
「はぁー……」
ごろり。ごろごろ。
分かる。分かってしまう。
たとえ霊歌の一生程の時間かけたとしても、自分には、霊歌の絵は、きっと描けない。
…………
「…そもそも。何やってるんだ、私」
頭を冷やしてみれば、発端からしてもう馬鹿馬鹿しいのだ。
霊歌の絵を本人に見せて、赤面させる?考えてもみろ。
馬鹿なくらいに素直な霊歌のこと。そんなことしたら『ありがとう!』なんて、それはそれはムカつくくらい明るい顔を見せながら返してくるに決まっている。
取り繕ったこっちのセリフなんて、いつの間にか忘れてしまって。『あ?そ、そうですか…』くらいしか、言えなくなるに決まっている。
ただ猿真似しているだけのこんな3秒知恵なんて、霊歌の前では、効果がなくて当たり前なのだ。
ちくしょう。腹立ってきた。
「あー!!!!!」
霊歌のイメージを頭から吹き飛ばすために大声を吐く。スッキリ。
出来もしないことに時間を浪費して。しかも、万が一出来たとしても、その先に待っているのは、ただただ虚しい光景だけ。
はぁ…時間、無駄にしたなぁ…
……………
…本当に?この時間は、無駄だった?
おもむろに、文は起き上がって、机の上に、一枚の紙を広げる。
そこには、軒の奥に広がる夕空の三日月と、左に座って眺めている文の姿。あの時、霊歌が描いていた絵だ。
あの後、足早に去ろうとした文に、『せっかくだから持ってって!記念に!』と霊歌が駆け寄って手渡してくれたのだ。何の記念なのだ、まったく。
ぼーっとその絵を眺める。そして、ぽつり。
「…綺麗」
それは、ほんのちょっとしたときめき。自分でも気づくことが出来なかった、自分の魅力。
「私、こんなに綺麗だったんだ」
あの時、こんな穏やかな姿勢をして座っていたんだ。こうして、月に身を任せるように微笑みかけていたんだ。
こんな最高の瞬間を。吐息を。霊歌はしっかり見ていて、描いていたんだ。
『「幻想郷」のすべての景色が、生命が、私は好き』
『こうして傲慢で我儘だと分かっていても、ちゃんとこの目で見ておきたい…――忘れられない時間、その刹那を、語り継いでおきたいの』
「幻想郷」を愛する巫女、博麗霊歌。あの時紅葉散る山で語っていた通り、彼女は、ここの生きとし生けるもの全てを包容し、その輝く瞬間を見出す。文のような存在ですら、彼女は「幻想郷」に生きる命として受け入れて、その時間を刻み、語り継ごうとしている。
霊歌の絵に描かれるのは、まさに神々の恋した幻想郷。そこには愛が、魅力が、全てが詰まっている。
………だけど…
『霊歌は、自分が見たありのままの光景を描く、写生画を得意とする』
『それは、霊歌は自身の絵を描いたことはない、ということを意味する』
…なんで。なんでこんなことに気が付いてしまったんだろう。
霊歌の写生画には、霊歌が見たありのままの光景が、表情が描かれる。
つまり。霊歌が語り継ぎたいと考えている「幻想郷」に。霊歌自身は、描かれることがない。
あれだけの愛情を「幻想郷」に注いだというのに。その「幻想郷」に「博麗霊歌」の姿は残されない。
チクリ、と刺さってしまった気付きは、じわりじわり違和感となって、文の胸に広がっていく。
たかだか、霊歌の絵だけの話じゃないか。霊歌は誰もが知る博麗の巫女なのだ。こういう形でなかったとしてもその名前は、姿は語り継がれるに決まっている……
……………
……本当に??
『あの巫女様は、いつもこちらの困っているところを正確にくみ取って助けてくださって、本当にありがたい。実にしっかりしていなさる』
『はい。その上、落ち着いておられて一つ一つの所作もお美しい。巫女として申し分のない方だ』
『まさに『完璧な巫女』ですな』
「完璧な、巫女…」
ぽつり、呟く。
誰に対しても落ち着いて、穏やかで、分け隔てなく接してくれる巫女様。神に仕える、清廉潔白な神職をそのまま体現したような巫女様。それが、世間での霊歌に対する認識だし、そう見えるように霊歌も振舞っている。きっと「そうする必要があった」から。
そこから見えるのは、「博麗の巫女」の姿だけ。
いつから彼女が巫女として勤めたか。いかに彼女が幻想郷を保護してきたか。その、無機質な歴史書に記録される事柄でしか、人々の間ではきっと語り継がれない。
……「博麗霊歌」は、そこにもない。結局、彼女の姿は、幻想郷のどこにも残らない。
「…ムカつく」
また、小さく呟く。じわじわ胸に広がった痛みが、熱となって燃え始める。
ムカつく。だって、こんなのおかしいじゃないか。博麗霊歌が、霊歌だけが、このまま幻想郷から「消えなければならない」なんて。
文は、霊歌が嫌いだ。どこまでも身勝手で、他人のことを振り回してばかりで。しかもあまりにも真っ直ぐで素直で鋭くて、こっちが反応に困るようなことばかり、ずばずばと言ってくる。どこまでも子供。きっと、一生かかっても子供。そんな霊歌が、今も嫌いだ。
けれど、そんな霊歌だからこそ、きっと幻想郷を、そこに生きとし生けるもの全てを愛することが出来た。絵という形で、その愛情を最大限に表現することが出来た。
そんな霊歌だから――
『文ちんが、とっても綺麗だったからだよ』
――あんなにも、眩しい笑顔が出来るんだ。
ムカつく。そんな霊歌の愛情は、表情は、何よりも「幻想郷」に語り継がれて、形あるものとして残されるべきなのに。誰にも、それが出来ない―――
……
…………
……………………
ちらり、と床の方を振り返る。そこには、霊歌を見返そうとして練習を重ねてきた、スケッチブックの残骸。
拾い上げれば、およそ絵と表現するのも躊躇われる、稚拙な線の羅列。けれど、紛れもなく霊歌のことを意識しながら描いたものだった。
「……はぁ。全く」
そういうこと。あぁ、やはりあの馬鹿な時間は、けれど無駄ではなかったみたいだ。
――出来るかもしれない。私なら。
きゅっと、文は手を握る。燃え続ける熱が、胸の鼓動を早めさせるのを感じる。
短い間かもしれないけど。私は「博麗霊歌」としての彼女を見てきた。
何がきっかけかは知らないけど。私はどうも「博麗霊歌」に気に入られてしまった。だから。
誰かに任せるなんて、元々性に合わないのだ。私があいつの姿を残してやる。あいつのことを語り継いでやる。
…もしかしたら、文も「博麗霊歌」の欠片しか知らないのかもしれない。
だったらどうした。それなら、これからあの生意気巫女の本性を暴いていけば良いんだ。それはそれで実に面白い。
…ひょっとしたら、霊歌自身はこういうことを望んでいないのかもしれない。
それがどうした。こっちは散々今まで勝手に振り回されてきたんだ。こっちの勝手の一つくらい、聞いてもらおう。
赤い目に熱がともる。手に持っていたスケッチブックを机に置いて、ゆっくり立ち上がる。
さて、そうと決めたなら。私なりに語り継ぐ方法を、これから見つけに行こう。
悠長している場合ではない。文は天狗、霊歌は人間。使える時間は、決して長くないのだから。
けれど、焦ってもいけない。どうせなら、最高の形で、あいつのことを語り継げるようにしたいから。
「ふぅ…行ってきます」
そう胸に手を当てて、一息ついて。次の刹那、風を切る音と共に、文は日が差す外へと飛び出していった。
***7***
―――月日が流れ、また、秋。
太鼓の音が、辺りに響く。あちらこちらに灯る提灯が、かえって宵闇暮れた夜を演出する。
博麗神社の夏祭と並び、幻想郷に住まう人間にとって最も重要な「ハレ」の日となる秋の収穫祭。
その片隅、屋台から外れた空き家の軒下に、博麗霊歌は体を落ち着かせていた。
人里が主な会場となるこのお祭りだが、秋神様への感謝と来年の豊穣の祈りを祝詞として唱えるため、博麗の巫女たる霊歌も祭りに参加していたのだ。
今、その主役たる秋神様は、霊歌の視線の先で、里の人々に囲まれていた。豊穣の神様である穣子が次々とおいしそうに食べていて、それを見て喝采を挙げる人々がさらに料理を勧めているみたいだ。横では、姉の静葉が、困ったような笑顔を穣子に向けていた。きっと、食べ過ぎたりしないだろうかと、呆れているのだろう。これは描いてみたら良い絵になりそうだ。
はぁ…と息をついて、スケッチブックを膝の上に置く。
眩しい。とても。皆この豊作を、収穫を手を取って祝っていて。楽しんでいる様子で。
少し目を閉じれば、笑い声が、明るい喧噪が、耳を撫でてきて。
あの中に飛び込んでいけば、私も、あんな顔が出来るんだろうな、と思う。
――けれど。自分には、その輪に入る勇気がなかった。
楽しんでいる自分を――「博麗霊歌」を見せる勇気がなかった。
生まれながらに「博麗の巫女」であることを決められた霊歌は、そうあれかしと育てられてきた。
霊力や神事、教養に関わる修行だけではない。礼儀作法や立ち振る舞いに至るまで、「博麗の巫女」であることを徹底された。同世代の友人を作ることもなく、ひたすら黙々と、修行に没頭した。
「博麗の巫女」は、人間の模範たる存在であるべきだ、と教えられたから。
そうしないと――博麗としての信仰も集められなくなるかもしれない、そう考えたから。
そうして、若くして博麗の巫女を継ぐことになって。
霊歌は、人々の敬意を集める、完璧な巫女を演じ続けた。
天真爛漫な「博麗霊歌」は、人前ではすっと仮面で隠して。ただただ、孤高を保ち続けた。
「博麗霊歌」でいられるのは、幼い時期から趣味として続けてきた、写生画を描いている時だけ。お祭りで自分も混ざってはしゃぐなんて、もってのほか。ただこうして、外から人々が笑っている顔を、眺められたら良い。
…それが正しいことだと、考えていた。
けれど、博麗の巫女になってみて、時を過ごして、いろんな場所をめぐって。「幻想郷」という地がどういう場所なのかを知って。霊歌のその認識が、どんどん揺らぎ始めていくのが分かった。
完璧な巫女を演じるといっても、ここは摩訶不思議な出来事が日常茶飯事な幻想郷。時として、霊歌に至らぬ点が、綻びが、ふと出てしまうことだってある。支えが必要だったりすることがある。
けれど、そんな時であっても、幻想郷の人々は優しかった。決して、見放したりするようなことはせず、まるで実の娘であるかのように、温かかった。
それに感謝すると共に、ふと、霊歌の中にある疑問がよぎった。
――もしかして、本当は。無理に己を隠してまで「博麗の巫女」を演じなくても良いのではないか。
「博麗の巫女」ではなく。「博麗霊歌」としての一面を、見せても良いのではないか、と。
そして、その問いに対する正解は、即座に見えていた。
けれど、正解が見えていたのに。霊歌は、そこから歩くことが出来なかった。
ずっとずっと「博麗の巫女」の仮面を被ってきた霊歌には。仮面を見せることに慣れてしまった霊歌には。
逆に、それを外す勇気が、もう出なくなってしまったから。
正解だ。そう信じているけど。仮面を外そうとかけた指が、後ほんのちょっとだけ、動かない。
反面、このまま仮面を被るのが窮屈だと叫ぶ自分もいた。
本当は自分も、こうして皆にまじって、弾けるような笑顔を浮かべたい。
対等な関係の友人を作って、何も気にすることのないおしゃべりがしたい。
もっと…自分も、ここを――愛する幻想郷を、諸手を広げて謳歌したい。
けれど、やっぱり動けない。自分一人だと、もう動けない。
そうして衝動と恐怖の葛藤に苛まれた霊歌は、いつしか、他人との関わりを最低限に抑えるようになった。
神事や祭事、異変解決など、「博麗の巫女」としての責務が求められる時以外は、出来るだけ一人を保つようになった。そうしてさらに広がってしまった孤独を、絵を描くことでのみ、埋める生活を続けた。
――そんな迷いを抱えたまま、ふらふら空を漂っていたある日。
沢で水を飲んでいる鹿を見つけて、それを描こうと近づいていった。
ところがその鹿は、どうやら警戒心が強かったらしく、霊歌の姿を認めると足早にその場から走り去ってしまった。
霊歌は慌ててその後を追う。山の方に入ってしまった鹿の後ろを、飛んで、飛んで、飛んで。
どこに行っちゃったんだろう、と見失ってしまったその時。ふわり、と辺りを一陣の風が舞った。
『はぁ…だから私が呼ばれたのですか』
呆れ声と共に、一本足の下駄を履いた少女が、黒羽を広げながらゆらりと降りて来る。赤い瞳にとがった耳、手に持つは朽葉色の葉団扇、頭には梵天が付いた赤い兜巾――――鴉天狗。あぁ、そうか。私、いつの間にか妖怪の山に入ってしまっていたのか。
『博麗の巫女様とお見受けいたします』
目の前に現れた鴉天狗は、恭しく礼をすると、きりっとした鋭い顔を霊歌に向ける。
『申し訳ありませんが、ここから先は妖怪の山。いかにあなたであっても、事前の通達なしに入って来られますと困ります』
『…こちらこそ、申し訳ありません』
その空気に気圧されて、霊歌も謝罪のため頭を下げる。その姿を認めた鴉天狗は、はぁ、とまた一つため息をつく。
『それで?何か火急の御用ですか?』
『はい?』
『博麗の巫女様本人が来られたのですから、何か異変が起きたのかと』
あー……考えてみれば当然の疑問だ。博麗の巫女が山に来るなんて、何かあったと考えるのも無理はない。真剣な顔でこちらを見つめる鴉天狗を見ながら、霊歌は顔を引きつらせる。
ごまかそうか。けれど、元来素直なところがある霊歌に、こういう時の言い訳を考えつくことは出来ず。
『この近くで鹿を見かけまして、』
『はい』
『絵に描こうとして、追いかけまして、』
『はい』
『そして気付いたら、ここにいました』
『………はい?』
……………沈黙。嫌な沈黙。
『つまり、ただ迷い込んだだけ、と?』
『…はい。その通りでございます』
……あ。顔俯かせた。肩をわなわなと震わせた。
『…こ、』
あ、俯かせた顔が、どんどん、どんどん赤くなって――
『子供ですかあなたはぁぁぁぁぁ!!!!』
どかぁぁぁん。
『すわ何か大事件かと驚いて来てみれば!そんなくだらないことでこき使わされるこっちの身にもなってください!!!!大体何なんですか絵って!!!』
…かちーん。
『あー!今、絵をけなしたな!!私の絵を!!そういうことは、私の絵を一回でも見てから言いなさい!』
『はん、迷子になるようなおっちょこちょいのあなたに、見る価値のあるような絵が描けるんですかねぇ』
『むー!!!』
『なんですか?何か文句あるんですか?大体――』
…気が付けば、天狗の挑発に我を忘れて、素を出してしまっていた。いつもだったら、熱くなる前に、ちょっと考える余裕位あるのに。絵のことに触れられただけで、こんなにも、ムキになってしまっていた。
けれど。こんな無意味な、子供じみた口喧嘩をしているだけだというのに。
正直、何だか、気分がすっきりしたような気がする。
ちょっと、楽しくなっている。
誰かの前で、こんなに自分をさらけ出せたのは、いつぶりだろう。
―――光が。自分の中に、光が差し込んだような。そんな気がしていた。
『ですから………聞いてます?』
いつの間にか説教に移っていたらしい天狗に、ジト目で睨みつけられる。
『…ねぇ』
その視線に構わず、気が付けば、霊歌は声に出していた。
『あなた、名前、なんていうの?』
聞かれた天狗は、刹那、虚を突かれたような表情をしていた。けれど、すぐに納得したように、こくり、と頷く。
『大変失礼しました。まだ名乗っていませんでしたね』
そうして、最初現れた時のように、一歩引いて、こほん、と咳払いをして。恭しい態度で、自分の名を名乗る。
『私、妖怪の山で使者をつとめております、鴉天狗の射命丸文と申します。巫女様とも、またお会いする機会はありますでしょう。お見知りおきを』
――良いだろうか。
みんなの前で、仮面をさらけ出すことは出来なくても。
誰か一人。誰か一人だけ。「博麗霊歌」でいられる相手を作ることくらい。許されるだろうか。
そうして、霊歌は唇を綻ばせて。
自分が踏み出せる、精一杯の一歩を地につけた。
『なら、文ちんだ』
…これが、博麗霊歌と文ちん―――射命丸文の出会い。
この後、幾度となく喧嘩(というか文の説教)を繰り返してきて、けれど間違いなく、霊歌にとっての居場所を、作ってくれて。友達――なのかな?うぅん、ちょっとやんちゃしすぎたし、きっと文には嫌われているのだろう。けれど、霊歌には、それで良かった。
だって、何となくだけど、分かるから。自分を――「博麗霊歌」を見せることにした相手が、文で良かった、なんて。
…………
―――からり、ころり。
祭りの喧騒の中、近づいてくる下駄の音。
一本歯の下駄特有の音。
「やぁ、文ちん」
「だーかーら。文ちんはやめてください」
はぁ、と諦めたようなため息。
噂の鴉天狗、射命丸文が、霊歌の前に立っていた。
***8***
――霊歌は、目の前に現れた文に、ちょっといつもと違う点があることに気付いた。腕には赤い腕章が巻き付いてて、肩には小さな茶色い鞄が、紐にかけられていて。それに、何より――緊張している?文のそんな姿を見るのは、霊歌には珍しく思えた。いつも使いとかで来る時でさえ、そんな様子、見せたことないのに。
「…隣、良いですか?」
しばらくの沈黙の後、文から発された声は、やっぱりどこか固い。
「ん、どうぞ」
そう霊歌が返すと、「失礼します」と、文は右隣に腰掛ける。
――また流れる、沈黙。聞こえるのは、祭りを楽しむ人々の声だけ。何だかこっちまで緊張するけど、嫌な気持ちではなくて。
数瞬の時を経て。はぁ、という吐息と共に、ようやく文は口を開く。
「良いんですか?お祭りまわらなくて」
「良いの。祝詞唱えるのに疲れちゃって。ちょっと休みたくなったから」
「そうですか」
文は、茶色の鞄の中から何やら細長い瓶を取り出す。
「どうぞ」
「?なにこれ」
「『らむね』というそうです。こちらも知らなかったのですが、今お祭りで人気の飲みものだとか。おそらく最近来た外来品のうちの一つでしょう」
「へぇ…綺麗な瓶」
文から瓶を受け取った霊歌は、その珍しい薄縹のガラス瓶を、祭り提灯の光にかざしてみる。…へぇ、ガラス玉が瓶の中に入っているのか。雅でとても面白い。そう微笑んで、一口。
「あ、これシュワシュワしてておいしい。文ちんもどうぞ」
「え……はぁ、どうも」
文は刹那、赤い瞳を戸惑うように揺らして。けれど、すぐにガラス瓶を受け取ると、一口。
「本当だ。おいしい」
「でしょ?」
「何であなたが得意げなんですか。買って来たのは私ですよ」
「そうだったね。ありがと」
何ともなしに交わされる軽口。緊張が取れた訳ではないけれど、何となくいつもの調子が返りつつあるのを感じる。…うん。そろそろ、大丈夫かな。
「それで?文ちんこそ、お祭りまわらなくて良いの?」
「いえ、良いんです。…今日は、あなたに会いに来たので」
「私に?」
丸くした瞳から、文が目を逸らす。ぎゅっ、と、文が右腕の赤い腕章を握るのが見える。…あぁ、そうだ、やっと思い出した。別の天狗が似たようなものをつけていたのを、前に見たことがある。あの腕章は――
「実は私、この度、新聞を書き始めることにしたんです」
「報道」の腕章。つまり、文は今、記者として、ここに来ているんだ。
「その創刊号の取材のために、動いておりまして」
「そっか。おつかれ」
微笑むと、小さく「ありがとうございます」という返事が返って来る。その赤い瞳は、まだ、霊歌からは見えない。
「けど、天狗の新聞って、天狗社会で起こった出来事を主に扱っているんじゃなかったっけ」
「他の新聞はそうですね。けど…ちょっと、挑戦してみたいと思ったんです」
はぁ、という吐息と共に、文は前を向く。
「外部との使者として勤めていたこともあって、私は、ここのあらゆる場所へ赴いてきました。長い年月の中で、様々な方と出会いもしました。だから、幻想郷のことを分かっているつもりでしたし―――ここに、自分なりの愛着を持っていたつもりでした」
霊歌は、羨ましいと感じることがある。文のことを。だって、文の言う通り、彼女は、自分よりもずっと長く、ここの景色を、時間を共にしていたのだから。自分が知らないここのことも、たくさん間近で見ることが出来たのだから。けれど、そんな文だからこそ。
「けれど、あなたに出会って、あなたの絵を見て、その認識が変わりました」
ここをずっと愛してきた文だからこそ――霊歌の絵が、胸に刺さった。霊歌の想いに、共感することが出来た。
「あんなにまっすぐ、ここに対する愛を告白することが出来て。どんなところを愛しているのかしっかり見ようとして。それを、写生画という形で表現し、語り継ごうとしている」
そしてその共感はまた、羨望となって。
「その事実を考えた時、ふと、気付いてしまったんです。私、今まで一度でもここへの愛を表現したこと、あったかな――って」
その羨望はまた、文の背中を押して。彼女はその勢いに従うままに、駆けだしていく。
「あなたみたいに愛を表現するのなら――私には、何が出来るんだろう――って」
自分が愛する幻想郷に、何か返せるかを。
「…そっか」
霊歌は、ゆっくりと微笑む。
「それで、新聞なんだね」
「はい。たくさん考えてみたんですが――天狗の文化として定着していて、仲間内で方法を共有することが出来るこれを使って、試してみようかと」
文は、抱えていた茶色の鞄をまさぐる。
「私の取材対象は、幻想郷全て」
そうして取り出されたのは、真新しいメモ帳に万年筆、そして小さな箱。確か、あの箱は―――「かめら」といっただろうか。小窓の先に見えるものを、そっくり写し出す機械。
霊歌にとっての、スケッチブックと色鉛筆のように。これから文は、これらの道具と、長い付き合いを始める。
「幻想郷が、どういう場所になっていくか――そこに生きる者たちが、何を抱え、どうこの場所を生き抜いてきたか――それを、私のペンと、このカメラを使って、語り継いでいきたい、と考えてます」
――これから文は、長い旅を始める。今まで培った経験と、話術と、そして感性をもって、その黒い翼を羽ばたかせ。きっと、私よりも、ずっとずっと長く、果てない旅を。その旅の最中で、どれだけの歴史が、記されることになるのだろう。どれだけの「あはれ」が、写されることになるのだろう。
……けれど。きっと。その旅の、最初の目的地は。
「それで?」
だって、文ってば、意外と分かりやすいのだもの。
「まだ続き、あるのでしょう?」
文が、霊歌の方を向く。口を真一文字にきゅっと結んで、赤い瞳をちょっと不安げに震わせていて。ちょっと面白い。
「――そのことについて、当代博麗の巫女、博麗霊歌さんにお願いがあります」
けれど、意を決した文は、はっきりと、真一文字の口を開く。
「創刊号の特集として、あなたのことを、取材させてください」
――さらり、とした沈黙が、二人の間を流れる。…ほら。当たった。
「…どうして、私を?」
きっと、今まで文が話していたのも、紛れもなく「本音」。けれど、文は。その「本音」の中にまた「本音」を隠している。それは、きっと。
「あなた抜きに、今の幻想郷について語ることなんて出来ませんから」
もう、文は霊歌から目を離そうとはしない。
「この収穫祭を見てみても分かる通り、今の幻想郷は、常に活気にあふれている。どこまでも綺麗で明るくて――その時間が価値あるものとして刻まれていく。語り継がれていく」
どこまでもまっすぐに、「本音」を紡ぐことで、こちらの手を取ろうとしている。
「――きっと、今のここがここまで愛すべき場所になったのは、あなたがいたから」
文は、賢くて、とても真面目な天狗だった。…だから、気付いてしまった。放っておけなくなってしまった。
「あなたの愛が、この場所に反映されているから。だから、まずはあなたのことを、書きたいんです」
「仮面」を被ったままこの場から消えるかもしれない、そんな存在である霊歌を、引っ張って。その背中を押そうとしている。「仮面」を取るのを、助けようとしている。
「…私は、そんな大層なことはしていないよ」
後は、こちらが一歩踏み出すだけ。けれど、微かなためらいが、足を土を縛り付けてしまう。
「なら、本当に、あなたが『大層なこと』をしていないか、私に確かめさせてください」
けれど、強情な文は、それくらいのことで引かない。つかめた手を離すまいと、強く握る。
「見せられる範囲で構いません。出来る限り、あなたに迷惑が掛からないように書くと誓います。だから、あなたの―――『博麗霊歌』の、ここに対するありのままの愛を、私に教えてください。私に、語り継がせてください」
…大丈夫。どこまで素顔を見せれば良いのか分からないのなら。こちらがコントロールしてみせる。このペンで、見せても良いところまで整えてみせる。ちょっとずつ、「仮面」を取ることが出来るようにしてみせる。
だから。私を信じて、書かせてほしい。写させてほしい。「博麗霊歌」の素顔を。
この幻想郷に、「博麗霊歌」という人間がいた証を。私に、刻ませてほしい――と。
また、文の目を見る。ずっとこちらから視線を鋭く向けている赤い瞳は、しかし、まだ微かに震えていて。
――もう、文ちんてば。まるで、愛の告白でもしているみたい。そんな固い顔してたら、からかいたくなっちゃう。
けど、今は――
「そういうことなら、文ちん、」
そんな文の告白に、ちゃんと返してあげないとね。
霊歌は立ち上がって、くるりと文の正面へと立つ。そうして、目を丸くさせている文に、手を差し出して。
「お祭り、一緒にまわろ?」
――ありがとう。やっぱり、文ちんで良かった。
***9***
――あぁ、もう。本当に、どうしてこうなるんだ。
これでも私、あの長口上、何日もかけて考えてきたのだ。
どういう台詞ならあの巫女を動かすことが出来るか。今まで培ってきた話術を駆使して、頑張ってみたつもりだ。
実際、それはうまくいった。巫女の手をつかむことに成功したのだ。――だけど。
「ほらほら、文ちん、置いてくよ!」
「待ってくださいってば。はぐれてしまいますよ」
「大丈夫!文ちんなら、きっとすぐに見つけてくれるだろうからね!」
「そんな他人任せな……ってもういないし…まったく…」
今日くらいは、私がそのままあの巫女の手を引っ張れるんじゃないかと思っていたのに。
気が付けば、手を取られたはずの彼女が前に出て、そのまま駆け抜けていって。
「見て見て、文ちん!これ『たこやき』っていうんだって!」
「………」カキカキ
「くるくる棒みたいなので器用に回したと思ったら、こんなに綺麗な球体になっててさ!見ててとっても面白かったなー…」
「……うーん…どんな場面の写真が撮れれば良いかなぁ…」ブツブツ
「…あーやちん?」
「え?あぁ、失礼しました、何で――――むぐっ!?あっづぅ!!!!!!!」
「もー、そんな難しい顔しない!せっかくのお祭りなんだから、文ちんも羽を伸ばさないと!」
「…ぜぇ、はぁ……いや、ですから、今日はあなたを取材するためにここに来た訳で、その」
「あっ!あれも面白そう?ほら、これ食べたら、今度はあそこ行こう!!」
「ちょ、ま、話は終わってな……はぁ…」
いつの間にか、彼女にぶんぶん振り回されて。しっかり握っていなければ、飛ばされてしまいそうで。
これなら出来る!と感じて、新聞記者としての道を選んで。
せっかく印刷所の天狗にまた頭を下げて、記者としての取材のコツなんかも聞いてみたのに。
せっかく手近な白狼天狗を捕まえて、取材のためのリハーサルや写真撮影の練習までしてみたのに(嫌そうというか、呆れた顔してたけど)。
全く、思うようにいかない。カメラを、のんびり構えてる暇もない。てんやわんやで、満足に取材出来ない。
「――はぁー、楽しかったー」
「…はぁ、こっちはただただ疲れましたよ…」
「ははは、ごめんって」
「まぁ、今に始まったことではないですし、もう良いんですけど……これから絵、描くんですか?」
「文ちんの決意、聞いちゃったからね。そう考えると私も、頑張らないとなって」
「霊歌さん………………………………………あ、そうだ。一つ聞いても良いですか?」
「どうぞ?」
「今、何を絵に描こうとしているんですか?」
「んー?決まってるじゃない。私に取材をお願いした時の、文ちん」
「!!!待って待って!それだけは!それだけは勘弁してください!!自分がどんな顔してたか分からなくて怖いんですから!!」
「ふっふっふ、かっこよかったよー、あの時の文ちん。あのきりっとした表情見せられたら、きっと世の人妖みんなイチコロだね」
「駄目ー!駄目ったら駄目ですー!!!」
「――ごめんごめん、冗談。あの文ちんは、私の中だけに留めておくから、安心して」
「うぅ…もう二度とあんなことしません…」
「…ふふっ」
そうして、調子を狂わされてばかり。結局、いつものような関係になってしまう。
……ま、良いか。それでこそ、「博麗霊歌」なのだから。やっぱり、こういう彼女の姿を見れなければ、意味がないのだから。
ちょっと癪だけど、きっとまだ、彼女との関係は続くだろう。手をほどかれないように、しっかり手をつかみ続けておかなければ。
改めて。はじめまして、博麗霊歌さん。これからは、同じ幻想郷の「語り手」として、どうぞよろしく。
***10***
文々。新聞 創刊号
(前略)
特集:博麗霊歌 ~幻想郷を語り伝えるために~
幻想郷という地の現在をこれから語るに当たって、まずは、当代博麗の巫女である博麗霊歌氏について特集していきたい。
博麗大結界という結界を張って幻想郷を保護し続け、人間のみならず、我々のような忘れられし神妖の存在も担う「博麗の巫女」。彼女は幻想郷の顔ともいえる存在であり、彼女なしに今の幻想郷を語ることは出来ないと考えたからだ。
さて、本紙を読まれている皆様方は、今回取り上げる博麗霊歌氏に対して、どのようなイメージを持たれているだろうか。
前日の収穫祭に来ていた人間にこれに関して聞いてみたところ、「いつも自分たちの声に真摯に耳を傾けてくれる、素敵な巫女様」「きりっとした表情で祝詞や舞を披露する、かっこいい巫女様」などといった声が聞かれた。さらに、現在上白沢慧音氏により更新が続いている歴史書『幻想現史鑑』に直近補足された記述にも、博麗霊歌氏について、多くの異変解決の功績と共に「完璧な巫女」の通り名が人間たちの間で付けられていることが補われている。世間一般が考える「巫女」を完璧に体現させた女性、それが博麗霊歌氏に対し抱かれているイメージの結論だろう。
けれど、それだけでは「博麗霊歌」を説明出来たことにはならない、と記者は考えている。
今回の取材を霊歌氏に申し込んでみたところ、記者は、その一環として、博麗霊歌氏と収穫祭を共にまわることが出来た。
お祭りの提灯が夜闇を照らしゆく中で、霊歌氏はとにかく記者の手を引っ張っていた。目をらんらんと輝かせながら、記者の足がもつれるのも構わず、あちらこちらを駆け回っていった。外来の珍しい料理を見つけてはそれに舌鼓を打ち、輪投げの輪が景品になかなか入らなくてはムキになって入るまで挑戦しようとし続けたり、初めて見るという線香花火を記者がつけたところ、火花を散らしてから落ちるまで、そのわずかな光の変化さえもじっと観察していたり。
お祭りの時間をそうして走り抜けていった彼女は、紛れもなく一人の「人間」であり、年相応な「少女」だった。おそらくあの場に参加していた皆と同じように――もしかしたら誰よりも、彼女は収穫祭という祝祭を、楽しんでいた。
いつもは他人の前に見せることのない博麗霊歌氏の笑顔に、道行く人の中には、目を丸くさせて彼女の方を見る者もいた。けれど、記者は考える。一人の「人間」としての表情を持ち、他人と同じ視点で幻想郷という地を歩き、共感出来るからこそ、博麗霊歌氏は幻想郷という地のために、その命を賭けることが出来ているのではないか、と。この素直な笑みは、博麗霊歌氏が幻想郷という地を真に愛している、一つの大きな証なのだ。
収穫祭が終了した後、博麗神社の縁側で取材をまとめる記者の横で、霊歌氏はスケッチブックを取り出して絵を描き始めた。霊歌氏は、スケッチブックを使った写生画を趣味としている。以前から霊歌氏と知り合いであった記者は、何枚か絵を見せてもらったことがあるが、とにかく霊歌氏は、写し取りたいと考えた対象を適確に記憶し、その記憶を、その対象の特徴・魅力が最も見られるように、豊富な光彩・色彩感覚でもって写生画に顕現させるのだ。
その時に描いていた絵は、秋神である豊穣神様に、人々が料理を差し出している場面だった。明るい暖色の光に照らされる空間の中、薄い白で表現された湯気を立てる――おそらく、この年に収穫された作物から作った料理を、豊穣神様がおいしそうな表情で平らげている。その様子を見ているまわりの人々は喝采をあげ、祝い、さらに料理を豊穣神様に捧げようとしている。すぐそばでは、豊穣神様の姉である紅葉神様が、ちょっと呆れたような、食べ過ぎないか心配するような笑みを浮かべながら、その様子を見守っていた。豊作に沸いて、誰もが明るく笑っている、そんな幻想郷の景色が、その絵には顕現されていた。霊歌氏は「神秘的な、魅力的な、個々に違う者たちがたくさん集う、そんな幻想郷の綺麗な景色が好き」「みんな生きているからには、種族関係なくどこかで輝く瞬間がある。そのことを意識しながら、これからも絵を描き続けていきたい」と語る。
こうした写生画については、公開するつもりはないものの、後世に発見されても良いように大切に取っておくつもりだという。「私は、幻想郷の『語り手』になりたいんです」と霊歌氏。「これからも、数多の神様が、妖怪が、人間が、『忘れられしもの』として幻想郷に流れ着くことだと思います。その時、『幻想郷は、こんな素敵な場所なんだよ』と、胸を張って語り継ぐことが出来るようにしたい。『幻想郷はこんなに美しい景色に囲まれていて、こんなにもみんなが輝きながら生きている場所』『あなたにも居場所が必ずある場所』だということを伝えていきたい。その『語り手』として語り継げる幻想郷を保っていくために、これからも『巫女』であり続けるんです」。
これから、記者もまた「幻想郷」の「語り手」として、この地の今を語り伝えていく。霊歌氏が「語り手」として、自らが愛する幻想郷のために今後どのような活動を続けていくのか。記者は「語り手」として、幻想郷の何を語り伝えることが出来るだろうか。霊歌氏の動向に今後も注目しながら、こうした課題に向き合っていきたい。
(※霊歌氏が写生画を描いているところを撮影した写真が紙面についている)
***11***
……
………ちゅん、ちゅちゅん…
「…うん、出来た」
―――そして、現在。
夏祭から何夜か明け。ばさりと原稿を机に置いた文は、満足げにぐっと伸びをした。
そして、はぅ、と一息。
…そっか。もう、二十年も経ったんだ。自分が「語り手」として、記事を書き始めてから。
今考えてみれば、ほとんど個人的なわがままから、勢いで始めてしまったことではあるけれど。
天狗として千年近く生きてきて、この二十年が一番充実していた。
霊歌の手をつかんで、引っ張られるままに、たくさんの場所を訪れた。
今まで見たことがあったはずの場所も、彼女と一緒だと、なんだか全く違った場所に来たような感じがして。たくさんの発見があって。
その発見を語り継ぐために、特に写真を撮る練習をたくさんして。最初は満足いく画像が撮れなくてしょげたりもしたけれど、だんだんと腕をあげられるようになって。
そうしたら、文の写真を見て霊歌が対抗心を燃やした霊歌が、自分の絵と勝負しよう、なんて持ち掛けた出来事もあって。
いつしか、霊歌と文は、互いに切磋琢磨する、そんなライバルとも見られる関係になった。ただ見ているだけだった関係から、背中合わせで戦う、対等な関係になれた。
…いつからだろうな。霊歌と会う時間を、待ち望むようになったのは。最初、あんなに嫌がっていたというのに。
霊歌は霊歌で、文の創刊号の記事がきっかけとなって、「博麗霊歌」の表情を、他人の前で見せられるようになっていった。
やっぱり、まわりからも「博麗霊歌」は、驚くほど素直に受け入れられて。それまで、敬意だけを持たれて孤高の存在だった霊歌と皆との距離が、少しずつ縮まっていって。
絵を描いているところを参拝に来た子供たちにもみくちゃにされて、それに対して無邪気な笑顔を浮かべて。そんな光景を、いつも見るようになっていった。
ついでに文ももみくちゃにされた。子供慣れしておらずひたすら羽をもふられて戸惑っているこちらを見るたびに、霊歌は面白そうな意地の悪い笑みを浮かべるのだ。ちくしょう。
光陰矢の如し。人間との時は、特に短い。
気が付けば、霊歌は成長していた。子供だった少女は、大人の、ちょっとだけ落ち着いた女性になっていた。
気が付けば、霊歌に娘が生まれていた。無邪気な表情は、母親の表情になった。
気が付けば、霊歌の霊力は衰えていた。博麗の巫女としても――「語り手」としても、責を全う出来るか分からなくなっていた。
けれど、どれだけ時間が経ったとしても。二人が目指す道は決して、曲がることがない。
幻想郷の今、生きとし生きる皆の輝きを、「語り継ぐ」こと。
「語り継ぐ」べき幻想郷を――皆に居場所があるこの幻想郷を、護り続けること。
『ねぇ、文ちん』
何年前だったか。霊力が尽き、いよいよ博麗の巫女の代替わりの儀が行われることになった前夜。濃紺の空に黄金の月がのぼる中、文は神社を訪れていた。
『これからも、ここのこと、見ててくれるかな?』
縁側で並んで座りながら月を見ていると、霊歌はそうぽつりと問いかけてきて。もう、この時の文にとって、返事なんて決まっていた。
『はい。もちろん』
その瞬間。文の手は、霊歌から離れた。けれど、もう落ちることはない。
放たれた勢いのまま羽根を広げ、一人で悠々と、飛翔していく。
ずっと。ずっと。ずっと。
今の――そして未来に向けての、この地の「語り手」として。
「……ふふ」
机上に置かれた夏祭の写真を見つめる。神楽舞の写真、祭りの屋台、行きかう人々――そこに混ざって一番上に積まれている写真を見て、静かに微笑む。そこに映っているのは、狐面を横につけてたこ焼きを食べている現博麗の巫女と、後についてきて次の屋台どこ巡るか話をしている、少女たちの姿。文がこの夏祭で撮った写真の中で、最も気に入っているものだった。
それは、今の幻想郷が、穏やかで、誰もが笑える場所であることを語っているから。
ここに生きる者たちが、人間・神妖問わず、活き活きとしている姿が、写し出されているから。
現博麗の巫女――霊夢が「博麗霊夢」として、気の置けない友の前で、笑っている。そんな姿が、写し出されているから。
「さて…と。行ってきます」
原稿と写真を茶色い肩掛け鞄に詰めて、外へと飛び立つ。
いつもなら印刷所に向かって新聞として印刷してもらうところなのだが、今回向かうは別の場所。
こういう祭りの記事を書いた時には、先に見せに行きたいところがあるのだ。
――山のふもと、ちょうど人里の境にある秋神様の祠。
そのすぐ近くに、小さな結界が張られている。天狗でも文ほどの実力を持っていなければ気付かないくらいに、隠されている結界。
懐から、赤い小さな札を取り出して、結界にかざす。結界が開かれる音がする。そうして一歩を踏み出すと、さっきまで何もなかったはずの空間に、茅葺きの小さな家が姿を現す。
そして、その縁側には、一人の女性が座っていた。臙脂色の落ち着いた着物の膝の上に、スケッチブックを乗せて、どこかを思案気に眺めている。赤いリボンで結んだポニーテールに、少し落ち着いた、けれど未だに幼さを残した顔。その女性は、文の方に気付くと、「おっ」と目を丸くさせた。
「よー、文ちん!」
まったく。この挨拶だけはいつまで経っても変わることがない。腹立つ。けれど、彼女と会うのならやっぱりこうでなくっちゃ。
文は一つため息をつき、けれど笑みを浮かべて。結局二十年間変わることのなかった返事を、彼女に向けて返した。
「だーかーら。文ちんはやめてください」
――――ぱしゃり。
うん。今、良い写真が撮れた。
射命丸文は、カメラを構え続けながらそう顔を綻ばせた。
しゃらん、しゃらんと鈴が鳴る。
茜色ももう暮れきるかと思われる、逢魔が時。
篝火に照らされ、ゆらりと擦れる袴が、「くれなゐにほふ」趣を見せ。
一人の巫女が、舞台の上で舞う。
いつもの彼女のトレードマークである大きな赤いリボンはない。
それ故に、実は長い黒髪が、白い化粧が、唇の紅が、少女を、より大人びたものに見せていて。
しゃらん。しゃらん。
――――ぱしゃり。
白く大きな広袖が、綺麗な軌道と共に振るわれて。
澄んだ祝詞が、言霊が辺りに響き。人々が行きかう境内を、聖域へと変えていく。
この地に立ち込めるあらゆる邪気を払い、利益をもたらす。その霊力を持った声が、波紋となって、広がっていく。
全く、いつの間にここまで仕上げてきたのだろうか。きっと人知れず積み上げてきた研鑽と天賦の才が、ここまで見事な舞を見せているのだろう。
凛としたその立ち姿は、まさに「博麗の巫女」。
けれど。そんな彼女はきっと、舞台を降りたら――
文はまた一つ微笑むと、再び、少女の舞をシャッターに収めた。
――――ぱしゃり。
~~語り手たちの物語~~
***2***
「…あー……あっつい」
神楽舞が終わり。屋台の通りから少し外れた神社の縁側に腰かけながら、博麗霊夢はぱたぱたと手で顔を仰ぐ。
まったく。巫女として仕方がないとはいえ、どうしてこんな時に踊らないといけないんだか。しかも篝火まであちこちに焚いて。おかげで余計に暑いったらありゃしないわ。
「よっ」
そう口に出さず文句を並べる霊夢の頬に、ひやり、と何か冷たいものが声と共に当てられる。振り返ると、そこにはいつものにかっとした笑みを浮かべた彼女の悪友、霧雨魔理沙が立っていた。近くには人形遣い、アリス・マーガトロイドもいる。頬に当たっているのはどうやらラムネの瓶らしい。
二人はいつもの西洋風の服だ。特に魔理沙は黒白姿で暑くないのだろうかと思ったのだが、前に聞いたところ、どうやら彼女たちは服を魔具に変えて、夏でも涼しく感じられるように保っているらしい。現に全く暑そうなそぶり見せてないし…ちくしょう羨ましい。その魔法私にもよこせ。
「顔に当てないでよ。化粧が崩れちゃうじゃない」
「良いじゃないか。今は火照った体を涼ませる方が大事、だろ?」
「…………」
それ以上の反論はせずにため息をついた霊夢が左手でラムネを受け取ると、魔理沙はふふんと得意げに胸を張る。
「何せこれはアリスの奢りだからな!感謝して飲むと良いんだぜ!」
「いやアンタじゃないんかい。……ありがとう、アリス」
「どういたしまして。私も良いものを見せてもらったもの。人形劇の良い参考になりそうだわ」
「あんな神楽舞のどこを参考にするっていうのよ。ジャンルが違いすぎるじゃない」
「だからこそよ。魔法も創作も、いろんなことに挑戦してこそ、だわ」
こちらも胸を張るアリスに苦笑しながら、霊夢はもらったラムネをゆっくり喉に流しこむ。冷たい甘さと共に、体に活力が戻ってくるような気がする。ありがたい。「おーい、私には何かないのかー?」という魔理沙の発言は無視した。
そうして話している三人のもとに、からころという下駄の音がまた二つ、近づいてくる。
「ごきげんよう、霊夢」
「あら、レミリア。アンタたちも来てたのね」
近づいてきたのは、紅魔館の主である吸血鬼、レミリア・スカーレットと、その右腕であるメイド、十六夜咲夜だった。レミリアは濃紅色に白い花の刺繡が入った浴衣をオレンジの帯で結んでおり、薄紫の髪に赤い目と合った気品を保っている。そんな主人を立たせるかのように、咲夜は紺のひかえめな浴衣を身に着けていた。和装に合わせてか、いつものホワイトブリムは今日は外している。
「へー。お前らは浴衣なんだな」
「えぇ。せっかくだからこういうのはその地の文化に合わせて参加するべきだと、うっきうきでお嬢様が」
「さーくーや。うっきうきは言わなくて良いの」
赤い顔で咲夜をたしなめるレミリアを見ながら、霊夢は彼女たちの足元を見る。下駄は履きなれていないだろうに、歩き方に全く乱れがない。あぁ、これはきっと、行くって決めてから必死に練習したんだろうな、と思う。霊夢の知っているレミリアは、そういう健気なやつだ。
そんなことを考えると、レミリアはこほんと咳ばらいをしてカリスマオーラを取り戻す。
「それはそうと、さっきの舞、見ていたわよ、霊夢。見事の一言だったわ」
「……それはどうも」
はっきりとストレートに褒めるレミリアに対して、霊夢の反応はそっけない。それを見てレミリアは、うーんと人差し指を顎に当てた。
「魔理沙」
「ん?なんだ、レミリア」
「霊夢の反応がいつも通り過ぎて、つまらないわ」
「あー、分かるぜ。どうにかして照れさせてみたいよな。全く褒め甲斐がないったらないぜ」
「どうしたら良いのかしら。魔眼使っても良いのだけど、それじゃあ全く面白くないよのねぇ」
「顎をくいっとあげて、口説くように褒めてみたらどうだ?お前案外そういうの合いそうだろ」
「あら良いわねそれ、楽しそう。今度試してみましょう」
「…聞こえてるわよ、アンタら」
レミリアに加わってうーんと考えこむ魔理沙を、霊夢は呆れ顔で見つめる。すると、そんな様子を見ていた咲夜が何かに気付いたらしくレミリアの肩をたたいた。
「お嬢様、それがそうでもなさそうですよ」
「?どういうこと」
「今の霊夢は、白い化粧も手伝って一見いつもと変わらない表情に見えます。ですが…」
と、咲夜はレミリアの耳に手を当てる。魔理沙も盗み聞きしようと咲夜へ身を乗り出す。けれど、次のことばは、離れたところにいたアリスにも霊夢にもはっきりと聞こえてきた。
「耳は、ごまかせていないようですわ」
ぱっと、思わず霊夢は耳を隠す。しかし、『霊夢を照れさせ隊』の動きはそれよりも迅速。化粧に隠れきれず赤くなっていた霊夢の耳を、彼女たちははっきりと視界に入れた。
「な……あ……」
「へぇ、意外。霊夢って、実は照れ屋なのね。これは良いことを知ったわ」
「えぇ。本当はかわいらしいところもあるのですね」
「~~~~~~~!」
もはやわざとはっきりと聞こえるように囁き続ける主従に対し、化粧からもほんのり赤みを見せるようになった霊夢はつかみかかろうと動く。が、それを魔理沙とアリスに羽交い絞めで止められてしまい、その様子を見た主従はさらににやにやと意地悪な笑みを浮かべた。うぐぐぐ。
「どう、どう、霊夢」
「離しなさい、魔理沙!これ以上余計なことを言わせないようにむぐぐぐ」
「ほら、やめときなさい、霊夢。こんなところでもめたら誰かに見られ」
―――ぱしゃり。
「…遅かったみたいね」
呆れるようにため息をつくアリスの声と共に、霊夢の顔が再び白くなっていく。二人の視線の先にひょっこり現れたのは、いつもの愛用のカメラを携えた、一羽の鴉天狗、射命丸文だった。
「どーもー、皆さん。あいかわらず仲が良いようで何よりです」
いつもの調子の良さで話しかけてくる文に、霊夢は脱力する。
「あ、文、アンタ、まさか聞いて」
「えぇ。ばっちり。ですが記事にはしませんよ。これは我々だけの秘密にとどめといたほうが、むしろ面白そうですからね」
しっかりウィンクしながら返す文に、レミリアは「分かってるじゃないか」と意気投合し、さらに二人して意地悪く笑う。ほっと落ち着きを取り戻した霊夢は「…ねぇ、やっぱりあいつら一発ぶん殴って良いかしら」と聞き、魔理沙に「やめとけ」と返されていた。
「文は、お祭りの取材かしら?」
「えぇ。この時期の恒例ですからね。先ほどの神楽舞に関しても、良い写真がたくさん撮れましたよ」
「ほぅ。それは楽しみ」
報道の腕章を見せながら誇らしげに言う文に、レミリアが興味を引かれたように目を見開かせる。そばに控えていた咲夜も、そんなレミリアの思いをくみ取る。
「去年の神楽舞の写真を見て、今年はお祭りに顔を出してみたい、という話になりましたものね。あの写真は本当に素晴らしかったです」
「えぇ。本当、こいつは写真だけは目を見張るものがあるわね」
あぁ、写真「だけ」だなんてはっきり言っちゃった…。ほら、文がみるみるうちに悲しそうな表情になって、
「写真だけだなんてひどいですー」
「そうよ、それは文がちょっとかわいそう」
「せめて新聞のことも褒めてくださいー」
「…そういうことではないと思うんだけど」
……ウソ泣きだったようだ。それはそうか。こいつは、これくらいのことでしょげるようなやつじゃなかった。
「ま、良いんですよ」
そんな霊夢とアリスのため息をよそに、文は、愛用のカメラを慈しむようになでて。ぽつりぽつりと、こぼすように呟く。
「幻想郷(ここ)に生きとし生けるものすべての、最高に輝いている時を切り取りたい、そう思っているのですから。だから、そうして写真を褒めてもらえるのは何よりも嬉しいことなんです」
さっきまでの冗談めかした口調はどこへやら、そこからは、文の本心であることが、ありありと伝わってきて、霊夢たちは思わず息をのむ。そして、その本心が彼女の写真に現れていることは、誰もが――特に霊夢は、よく分かっていた。
霊夢にとって、文は、自分が巫女を継ぐ前からの知り合いだった、数少ない妖怪の一人だった。文はあの時から、よく神社に顔を出していたのだ。だから、今まで何枚も写真を撮ってもらったことがある。楽しそうに境内を遊んでいる時。おいしそうにご飯を食べている時。そんな、幸せだ、と子供ながらに素直に感じられる瞬間を、的確に彼女はシャッターで捉えてくるのだ。
「文はさ、」
だから、霊夢は思わず聞いていた。
「自分の写真が欲しいと思ったことはないの?」
誰かにとって最高の瞬間を「写真」として切り取るのが文はピカイチだということは分かっている。だけどそれは、その「写真」の中に、撮影者である文はどこにもいないということで。文は。誰かにその「瞬間」を切り取ってほしいと思ったことはないのだろうか。
聞かれた文は、一瞬目を丸くさせて。けれどすぐに、ふっと穏やかに微笑んだ。
「良いんです。だって私には、」
「私にとって一番素敵な瞬間を切り取ってくれる、そんな方がいますから」
「…そ」
そうはっきりといわれては、短く返すしかなかった。自分でも気づいていなかったが、この時の霊夢は、ほっとしたような笑みを浮かべていた。そんな霊夢の反応を見た文は、またゆっくりと微笑むと、
「それでは。私は取材を続けますので、これで」
と一礼し、そのまま黒い翼をはためかせ、どこかへ飛び去って行ってしまった。飛んだあとを見つめる霊夢の横に、魔理沙が歩み寄る。
「あいつ、誰かたよれる天狗でもいるんかね」
「いいえ。きっと…」
過去に想いを耽る。そう。そうだった。文の「瞬間」を切り取ることが出来るのなら、それはきっと―――
『来た来た。よー、文ちん!』
『だーかーら。文ちんはやめてください。何回言わせるんですか』
『良いじゃない。文ちんは文ちんだもん』
『なんですかそれ…全く』
「霊夢?」
「うぅん。なんでもない」
懐かしいな。「あの人」はどうしているだろうか。きっと、どこかでまた元気に誰かを振り回しているのだろうけど。
また頬が緩むのを感じながら、霊夢は、ぽんぽん、と、手で袴を払う。
「さて…と。アンタたち、まだ時間はある?」
突然の質問に目を丸くさせる四人の方を向きながら、霊夢はこう続けた。
「せっかくだし、これから一緒に屋台、まわりましょうか」
屋台の明るい提灯を背景とした彼女の表情は、思わず四人もどきっとする程穏やかで、少女らしい笑顔だったという。
***3***
お祭りの喧騒。提灯の光。
その中を、射命丸文は、文花帖とカメラを抱きながら。一本歯の下駄で、器用に歩く。
お祭りの時期になると、思い出さずにはいられない。
自分が、この道に引きずり込まれるきっかけを作った、少女のことを。
どこまでも生意気で、こっちを怒らせてばかりで―――けれど、ずっと自分の憧れであり続けた、少女のことを。
こうして聞こえてくる声も、宵闇の中、暖色に照らす光も、一見、毎年同じように入って来るけど。
細かく聞き分ければ、目を研ぎ澄ませば、実は絶えず、絶えず、違いがあって。毎年、特別な「色」があって。
「彼女」は、その「色」を、どのように描くだろうか。
自分は、あの「色」をどのように残せるのだろうか。
―――聞き覚えのある、話し声がする。それも、さっき聞いた声。その声にふり返ってみると、そこには、きっと「彼女」が何よりも見たかっただろう景色が、広がっていて。
文は、薄く、穏やかに微笑んで。その景色へ、シャッターを向けた。
***4***
―――もう二十年以上前。秋のこと。
「妖怪の山に、侵入者が現れました」
哨戒に当たっていた白狼天狗からその報告を受けた射命丸文は、あからさまに嫌そうな顔をした。
何せ、白狼天狗の上司や大天狗などではなく、わざわざ自分のところに報告が上がったのだ。本来、それはおかしなことなのである。
文は、幻想郷最速ともうたわれる飛翔力や数々の経験から来る巧みな話術を買われ、別勢力とのメッセンジャーなど外交担当として腕を振るう天狗だった。だから、侵入者の撃退は本来役割外のはず。もちろん外交的な都合で来る人妖もいない訳ではなく、その場合は文が案内役として迎えに行くこともあるのだが、その場合白狼天狗は「侵入者」だなんて文に報告してこない。
…つまり、今妖怪の山を訪れたのは、アポなしで訪れた紛れもない「侵入者」。にもかかわらず、文にその報告が届く。……ということは。
「……それで?」
いや、念のため、念のため。もしかしたら、ということもあるから。ゆっくり、白狼天狗に話の続きを促す。が、聞かれた白狼天狗はというと、何を言っているんだとばかりに肩をすくめ、
「文様にその侵入者のことをお願いしたいと」
「……確認しますが、その侵入者というのは…」
「はい。お察しの通り、あの方です」
…実に淡々とした口調で、文のわずかな希望を粉々にぶち壊した。
「そんな顔しないでください。私だってこんな報告するのもううんざりしてるんですから。いい加減あの方を何とかしてくださいよ、あなたしか出来ないんですよ?」
えぇい、うるさいうるさぁい!!そんなこと、私だって分かってますよ!そんな私のせいみたいに白い目向けないでくださぁい!!!!うぅ…しくしく…胃薬胃薬……どこいったかなぁ…
と、いう訳で。
文は、山を飛んでいる。秋神様に染められた紅葉や黄葉が、錦となって山を織りなしていて。空を飛ぶと、錦の糸の一端が風によりあちらこちらに舞いあがっていく。早く、早く、あの大馬鹿のもとへ辿り着くために。文は翼を整え、さらに加速する。
そうして飛ぶこと数十秒。白狼天狗が侵入者を見たという場所に降り立ち、文はあたりを見回す。そうして少し歩いていると……いた。
長い黒髪を、唐紅のリボンにまとめたポニーテール。白く幼さを残す可憐な顔に、長いまつ毛をたたえたつぶらな目。手には何やら大きな冊子らしきもの―――「すけっちぶっく」とか言ったっけ?――を抱え、画材を霊力でふわふわ浮かせながら何かを思案している。そして、白の小袖に緋色の袴といった出で立ち。その恰好は「巫女」がするもの。
そう。「巫女」。白狼天狗が言っていた侵入者とは、なんと「博麗の巫女」――博麗霊歌(はくれい・れいか)のことだったのである。
…もうお気づきだろう。つまり「博麗の巫女」だからこそ、文が侵入者の相手として呼ばれたのである。外交役をつとめる文は、業務上「博麗の巫女」と最も顔を合わせる立場になるのだから。そして、「博麗の巫女」なんて、並大抵の妖怪がなんとかなる相手ではないのだから。なんとかしてくれ、お前なら出来るだろ、と言わんばかりに、毎回毎回、文に相手が丸投げされてしまうのだ。
いろいろ思い出してきりきり痛み出した胃に文がため息をつくと、その気配に気が付いたらしく、霊歌がこちらに振り向いて「おっ」と声をかけて。
「よー、文ちん!!」
片手を挙げながら、すがすがしい笑みを浮かべて挨拶してくる彼女に、ぶちっ、と、何かが切れる、そんな音がして。
ずんずんずん、と、少女へと近づいて、その頬に両手をかけた。
「あや、ちん、じゃ、ありません!!!!」
ぐわー!と獰猛なクマのオーラを背後にゆらめかせながら、つかんだ頬をにょーんと伸ばす。うわこいつのほっぺた柔らかい。くせになりそう。腹立つ。引っ張られた霊歌は「いふぁいいふぁい、はなひへぇぇ」と、手足をじたばた。
どれくらい経ったか、頬が真っ赤っかになったかと思うころ、ようやく頬を放して、顔をさする彼女にびしっと文は人差し指を向ける。
「ここには勝手に入らないでくださいって言ってるでしょう!何回同じこと言えば分かるんですか!!」
「だぁーってー!!!こんな綺麗な紅葉を天狗たちだけ独り占めだなんて、ずーるーいー!!」
またじたばた。まるで駄々っ子みたいに。あぁ胃が痛い。額にまたビキビキ青筋が立つのを感じる。
…もう一度言います、皆さん。こんな方が「博麗の巫女」ですよ?
信じられますか???
「紅葉を独り占めだとか、そういう問題じゃないんです」
とはいえ、ここで切れてしまっても話が進まない。ここは私の話術の見せどころだ。こほん、と咳ばらいをしながら、霊歌へと向き直る。
「良いですか。山の妖怪が排他的で縄張り意識が強いということは、あなただって良く分かっているでしょう。あなたは実力的に問題なかったとしても、人間の守護者として模範たるあなたが、紅葉を見るためという軽い動機で侵入したことで、万一人間が観光気分でここに迷い込んだらどう責任を取るつもりなんですか。それで妖怪たちに襲われてからでは遅いんですよ?あなたはもっと自分の立場の重みを理解するべきです」
…うん。決まった。なんだかんだで彼女は、「博麗の巫女」としての役割が分からない程無責任な少女ではない。こういう説教をすれば、少なからず効くはずだ。そうして霊歌の方を見ると、自分に背を向けて、ずーん、という沈んだオーラを漂わせながら、地面に「の」の字を書いていた。
「お説教された…」
「当たり前です」
よしよし。やはり効いているらしい。べそをかいてしまった霊歌に、ふん、と鼻息を立てて文は返す。だから、続けたのも、少し緊張が緩んだために出た、ほんのささやかな疑問のつもりだった。
「大体、どうして紅葉を見にここまで来るんですか。神社にだって良い楓の木がたくさんあるじゃないですか」
けれど。その質問を聞いた少女は、ピタリと「の」の字を書く動きを止めて、立ち上がって。
「それは違うよ、文ちん」
さっきまでのふざけた表情ではなく、真剣な声で。そんな霊歌に、文も思わず気圧されてしまう。
「同じ紅葉が織りなす景色でも、一つとして同じ景色はない。神社で育つ楓には神社にしかない魅力が、山で育つ楓には山にしかない魅力がある。すべての場所に、生命に一つ一つ特別な美しさがあって、見る者に―――なんていうのかな。忘れられない時間を刻みつけてくれるのが、忘れられた者たちが集う『幻想郷』という地だと思っている」
するりと舞う紅葉一片を、霊歌はゆらりとすくうように両手で受け止めて。霊力でふわりと、慈しむようにくるくるとまわす。
「そんな『幻想郷』のすべての景色が、生命が、私は好き。だから――こうして傲慢で我儘だと分かっていても、ちゃんとこの目で見ておきたい…――忘れられない時間、その刹那を、語り継いでおきたいの」
…あぁ、そうだった。
「もう、あなたって人は、本当に…」
この巫女は、霊歌は、こういう人だった。誰よりも、忘れられたものが集う「幻想郷」という地に恋している、そういう少女。誰よりも、ここの景色を愛して、守りたいと思っている人間。
まっすぐすぎる視線と素直に歌うような口調に、文はまた頭を抱える。そう、さっきのような子供じみた言動をすることはあったとしても。やはり今のここには、彼女以上にここの巫女にふさわしい人はいないのだった。
「……あーもう…分かりました」
ため息をつきながら、文は立ち上がる。あの白狼天狗の言う通り、ここに少女が何回も来るのは、やっぱり文のせいなのかもしれない。
「私もここにいます。私への用事、ということにしておけば、無闇に追い返す必要もなくなりますからね」
何だかんだ、この巫女に共感してしまっている自分がいたのだから。そんな巫女の好きにさせてあげたい、そう考えてしまう自分がいたのだから。
「その代わり、勝手なことはしないでくださいね!後、今度からここに来る時はせめて私に一声かけること!」
そんな気持ちを悟られなくて、あくまでも条件付きという厳しめの声を発するも。眼前の巫女は、刹那目を丸くさせた後、困ったような笑顔を浮かべて。
「ありがとう。ごめんね、文ちん」
……何もかも、お見通しみたいだ。こういうところも鋭くて、しかも素直なところがあるから、彼女は苦手だ。
「…本当ですよ。後、文ちんはやめてください」
全くもう。ちょっと照れくさくなってしまった文は、話題を逸らすべく霊歌の手にある「すけっちぶっく」に意識を向ける。
「それで。また絵を描いているのですか」
「うん。これ手に入れてから、本当絵が捗ってさ」
霊歌は嬉しそうに返す。なるほど。白紙だけが束ねられた冊子のような見た目をしていながら、絵を描くには、片手で持つには最適な大きさをしている。紙質も悪くはなさそうだ。彼女曰く、たまたま幻想入りしたものを譲ってもらったらしいのだが、それだけにさぞ重宝しているのだろう。
……ここでも量産化は出来なくはなさそうだが。印刷所の天狗にでも相談しようかな。
「…描いているところ、見てても良いですか?」
「もちろん。といっても、もうそろそろ出来上がるんだけどね」
にこりと微笑むと、霊歌はふわふわ浮かせていた画材から色鉛筆を取り出して、「すけっちぶっく」と眼前の景色を見比べ、すぅ、と息を吸う。眼前の景色に、自らも溶け込まんとするように。
こうしている間にも、風に乗って紅葉はひらりひらり舞い。黄葉はちらちら散り。近くを落ちる滝のさらさらした音に混じり、ぴゅーい、という鳴き声。あぁ、文には聞きなじみがある。あれは、鹿の求愛の鳴き声だ。いつも見慣れ過ぎていて、気にしたことがほとんどなかったけど。霊歌の言う通り、ここの秋は美しいのかもしれない。
そうして文も景色に身を委ね、しばらく待つと。横の霊歌は納得したように一つ頷いて。色鉛筆をかわるがわる浮かせて、走らせて、「すけっちぶっく」の紙に色を与えていく。
―――博麗霊歌。「博麗の巫女」にして、絵描きを趣味にする少女。自分の目に見えたものを、写生画としてありのままに描くことを得意とする。
そして。彼女が描く写生画は――――。
「…よし!完成!」
「見ても良いですか?」
「もちろん。どうぞ」
さっき、霊歌はこう文に語っていた。自分の好きな幻想郷の景色を、その景色が織りなす『忘れられない時間を、刹那を、残してあげたい』と。そのすべてが、彼女の写生画には現れる。
舞う紅葉は、陽光に当たりまた影となり、あるところは橙や黄色みを帯びて、あるものは紅色を暗くと、細かく色彩が塗り分けられている。陽光が紡ぎだす微細な光の様態が、一枚の絵の中で美しすぎる程に捉えられている。
その紅葉が舞っていく軌道は、さわさわと揺れている楓の木の動きは、決して乱雑ではない。まるで風の動きそのものを視覚化するように、刹那の景をはっきりと捉え、麗らかに並び描いている。静止画のはずなのに、景色が動いているように見える。
地に落ちた紅葉の絨毯は、どこかつややかに描かれている。よくよく見ると、露に濡れたのか、地面の紅葉はどこか紅色がより美しく、濃くなって―――こういうのを「くれなゐにほふ」というのだろうか―――また異なる魅力を出している。決して落ちた枯葉ではない。彼らも間違いなく、この刹那の時間の中で「活きている」のだ。
「どう?うまく描けているかな」
「すけっちぶっく」を見つめる文に、霊歌が弾んだ声で問いかける。
返事なんて決まっている。
「えぇ。相変わらず、憎たらしいほどに」
霊歌の写生画は、その景色が、対象が持つ「最高の瞬間」を切り取る、そんな写生画。
自分に迷惑ばかりかけてきて、そのくせまっすぐで気の付く彼女が、こんなにも嫌いなのに。文は、彼女の描く絵に、想いに、どうしようもなく惹かれていたのだ。
***5***
はたして、その日を境に、霊歌は妖怪の山に無断で入ってくることはなくなった。
文に事前に何かしら通達する形で、山に来るようになった。そう、話術を頑張って活用すれば、ちゃんと出来るのだ。ふふん。
正直、上に諸々面倒な報告をしなければならなかったり、霊歌の奔放さに結局自分が振り回されるのは今までのままだったので、胃薬を飲まなくて良くなった、という訳ではなかったが、それでも前に比べたらかなりマシにはなった。白狼天狗から睨まれなくなった日々、素敵!!!!
「…はぁ、まったく。文様はあの巫女に甘すぎるんですよ」
……………
……そんなことないです、きっと…多分…うん…
さて、もう一つ。時が経って一つお知らせがある。霊歌が拾っていた「すけっちぶっく」だが、印刷所の天狗に掛け合ってみたところ、量産されることになった。
もとより新聞文化が広がっている天狗社会にとって、製紙技術もお手のもの。二つ返事で引き受けてくれて、スケッチブックとして販売されることとなった。
結果、ありそうでなかった珍しい冊子に、人間からも天狗からも好評、売れ行きは伸びているという。もちろん、霊歌も喜んで、発売されたことを知るや否や、何冊も買っていったという。
……断っておくが、決して、霊歌のために動いた訳じゃない。決して。誰があんなじゃじゃ馬のためになんか。
天狗なら作ることが出来ないか、個人的に気になっただけだ。
そして。あの紅葉の出来事から一年近く経って。夏が終わり、夕暮が涼しく感じられ始めたころ。
上の天狗からの書簡を贈ってほしい、という連絡を受け、使者として文は博麗神社に赴くことになった。
博麗神社の鳥居が見えてきたところで、文は中の気配に気付く。霊歌以外に、二人。どうやら、先客がいるらしい。それも人間のようだ。
使者として人里に出入りすることのある文は一応人間にもそこそこ知られている妖怪ではあるのだが、だからといって見知らぬ客の前に出て場を乱すほど無神経ではないし、命令を聞く限り、火急の用という訳でもない。ということで、他人から見えないように神社の屋根の上で待たせてもらうことにした。
ちょうど拝殿の前に霊歌がいるのを見つけた。大幣を持ちながら、目の前にいる二人の男女に何やら話しているみたいだ。こうしてみると、すごく大人びていて、落ち着きのある表情に見える。
―――こうしてみると。彼女も普通の「巫女」なんだけどな。
以前、人里に諸用あって出かけた時に、霊歌の評判を小耳に挟んだことがある。
『あの巫女様は、いつもこちらの困っているところを正確にくみ取って助けてくださって、本当にありがたい。実にしっかりしていなさる』
『はい。その上、落ち着いておられて一つ一つの所作もお美しい。巫女として申し分のない方だ』
『まさに『完璧な巫女』ですな』
「完璧な巫女」。それが霊歌につけられた二つ名だった。落ち着いて穏やかな性格、皆に親身になって世話してくれる、まさに「博麗の巫女」にふさわしい巫女。傍若無人という認識だった文は、最初信じることが出来なかったのだが、たまたま人間たちがいるところに霊歌と出くわした時に、この二つ名について納得した。……そして。
『おや、射命丸さんではありませんか。お元気でしたか?』
……正直に言って良い?柔和な微笑みでこちらに話しかけてくる霊歌は、とっっっても気持ち悪かった。あの時、顔色を変えずに対応出来た自分をほめてあげたい。
そうだ。今度、霊歌が自分にしてきた数々のことを他の面々に言いふらしてみようか。天狗社会では、特に身内間の出来事について新聞にする文化があるから、誰かにお願いすれば、きっと…ふっふっふ……
……………………
…冗談、冗談ですよ。しないに決まってるじゃないですか。考えてもみろ、ものすごく良い笑顔を見せながら退治されるのが落ちだ。何せ博麗の巫女だけあって、戦闘能力も折り紙付き。千年天狗の自分だって無事では済まない。…そもそも、そういうことするの、自分のプライドが許さないし。
そう、寝転びながらぶんぶんと首を横に振ると、霊歌と話していた二人がぺこりと頭を下げているのが見えた。どうやら話は終わったらしい。紅の錦で出来たお守りを渡しつつ霊歌は二人を鳥居の前まで見送ると、ふぅ、と一息ついて、ぱん、と手を鳴らした。
「さて。もう良いよ、文ちん」
「…気付いてましたか。それと、文ちんはやめてください」
ため息をつきながら、文はばさり、と器用に屋根を降りる。にひひ、と霊歌はいたずらっぽい笑み。あ、表情変えた。…ぐっ。どうしよう。やっぱり誰かにこのことを話してみたい。
「ほほぅ、何か良からぬことを考えてるね?文ちん」
…何で分かるんだ。まさかそんなに自分は分かりやすい表情しているのか。思わずぺたぺたと自分の顔に触れる。
「んーん。勘」
はぁそうですか……って、そこも読み取って会話しないでほしい。また一つため息をつきながら、降参のポーズとして両手を挙げた。
「まったく…私に対してみたいにあなたには駄々こねる子供っぽい一面もあるんですよー、とか言いふらしてみたいな、とか考えてみただけですよ」
もちろんそんなことはしないですが、と補足するのは忘れない。まぁ、補足しても霊歌から余計なことしないでと怒られるか、もしくは何かからかわれたりするだけだろうが…。
ところが、霊歌はそんな文の告白に対し、ぽかん、と刹那驚いたように口を開けて。そして、ふっと寂しげな笑顔を浮かべた。
「そっか。まぁ…いっそのこと、それも良いのかもね」
…………ん?
「それで?文ちんが来たってことは、天狗のお偉方から何か連絡かな?」
「へ?は、はい。書簡を届けに」
「そ。じゃあ、せっかくだしあがってよ。良いほうじ茶いただいたの」
その態度を気にする間もなく、霊歌はそう告げると、お茶の準備をしに炊事場へと行ってしまった。
…何だったんだろう。あの表情は。けれど、今気にしててもしょうがない。きっと聞いてもはぐらかされてしまうだろう。お言葉に甘えて、文はとりあえず居間でお茶が入るのを待つことにした。
居間のちゃぶ台の上には、スケッチブックが置きっぱなしになっていた。表紙の艶が少し褪せているところを見るに、どうやら購入してからそこそこ経っているらしい。ということは、中にはそれなりの絵が既に描かれているだろう。
こんなところに置きっぱなしになっていたら…見ても良いのだろうか。
「スケッチブックの中身なら、見てて良いよ~」
炊事場から霊歌の声がした。だから何なんだあの人は。あきれてため息をつくと、文はぱらり、とスケッチブックの表紙をめくった。
数々並ぶ屋台の背景。何か焼いている湯気や煙を表現しているのか、敢えてところどころ淡色で曖昧にぼかしている。それが、あちこちにともる提灯の橙色の光を、より暖かく、穏やかなものにしている。それに照らされながら走る子供たちの顔の横には赤鬼や金狐の面。弾けんばかりの笑顔からは、会話まで聞こえてくるようで――。そんな祭りの一場面を描いた、綺麗な絵だった。
「あ。それ見ていたんだ」
と、湯呑と急須をのせた盆を持って、霊歌が姿を現す。
「今年の夏祭の様子ですか?」
「そそ。みんな楽しんでくれていたみたいで良かったよ」
程よく温かい湯呑を文へと手渡しながら、霊歌は笑顔を浮かべる。夏祭は博麗神社にとって一年で重要な祭礼だ。と共に、幻想郷にとって貴重な「ハレ」の日であり、幻想郷の人間たちが特に活気づく夜でもある。今年は立て込んでいて参加出来ていなかったが、かくいう文も都合がついたら顔を出したりしていた。人間にも近い妖怪というのはこういう時便利なものである。
ぱらり、ぱらり、とスケッチブックをめくる。次も、その次も夏祭の絵。ある絵では手をつないだ二人が仲睦まじげに歩いていたり、ある絵では人間と別の天狗が酒を酌み交わしていたり。いずれにしても、描かれている人たちが輝いている、その刹那が、やはり彼女の絵の中で最も美しい形で写実されている。
「…へぇ。あなた、こういう絵を描くのもうまいんですね」
「へへ。そうでしょう?人物画描くのは私も久しぶりだったんだけど、こういう絵も良いものだね」
「屋台の様子はどうでした?今年は何か珍しいものはありましたか?」
スケッチブックをぱらりとめくりつつ、文は何気なしに聞いた。「ハレ」の日である祭りの日には、いつもだと見られないような外の世界からの「外来品」が屋台を通して見られることが多く、何が出てくるのかがいつもの話題になっているのだ。
ところが。
「あー…実は私、屋台はまわってないんだ」
バツの悪そうな霊歌の返事は、またしても考えもしていなかったものだった。
「ほら。私、この祭りの主催だからさ。その私がみんなが楽しんでるところに出しゃばっちゃってもな、と思って」
そんなこと気にするタマですか、とか、そんなの誰も気にしないと思いますけど、とか、準備出来る返事はいくらでもあったかもしれない。けれど、この時の文は
「…そうなんですか」
…こういう形でしか返すことが出来なかった。わずかに重苦しい空気を、風を、その身で読み取ってしまったから。
しばらく続く沈黙。何かせずにはいられなくなって、文はパラパラと、先ほどよりも早くスケッチブックをめくる。こういう時に何か誉めことばが言えれば良いのだが、語彙が出てこない。…さっきもそうだけど、こんなしおらしい霊歌、正直落ち着かない。いつもはもう少しお淑やかにしてほしい、だなんて考えていたのに。
「あ!」
その時。同じく居心地が悪くなったのか、縁側へとうろうろ歩いていた霊歌が、弾んだ声をあげる。
「文ちん!スケッチブック貸して!」
さっきまでの明るさを取り戻した霊歌に、文はほっと胸をなでおろしながら、読んでいたスケッチブックを手に立ち上がる。
「何か面白いものでも見えたんですか?」
「うん。ちょうど三日月が出てきたところみたいでさ。せっかくだし絵にしようかなって」
と、スケッチブックを手渡された霊歌は、「あっ」と声をあげる。
「そうだ。文ちん、使いで来たって言ってなかったっけ」
「後で良いですよ、どうせ急ぎではないでしょうし。それより、あなたが描きたい三日月は、今しか見えないものなんでしょう?」
そう肩をすくめてみせると、霊歌はにかっと笑って「ありがと」と言い、縁側に腰かける。早速、色鉛筆を何本か浮かせながら、スケッチブックの白紙にどう描くか考え始める。本当、こういう時の霊歌は活き活きしているなぁ。文はそう苦笑しながら、霊歌の横に歩を進める。
「…隣、失礼しても?」
「どうぞー」
では、と文も縁側に腰掛けて、今霊歌が見ている景色に視線を向ける。
夕方の初めのころ。空色の西に黄色の彩りがこぼれていく。その広がりの染みる、ゆるりゆるりとした雲の絶間から、薄い、けれど確かな白の三日月が、姿を現していた。…なるほど、霊歌が描きたいと、その刹那を刻みたいと考えるような、そんな美しい景色。
そんな景色を、彼女はどう描くのだろうか、と、ちらり、霊歌に赤い目を向ける。むーん、と首を傾げる、そのしぐさ。どうやら考え中らしい。と、ぴたり、彼女と目が合った、そんな気がした。いけないいけない。集中している時に邪魔してはいけない。……そう即座に目を逸らした文は、自分を見た霊歌が、ほんのわずか、唇を綻ばせたことに気付くことが出来なかった。
「……………」
すい、と後ろにさがる衣の音。やっぱり、自分の視線が気になってしまったかもしれないな、と文は反省。けれど、その後かきかきと色鉛筆を走らせる音が聞こえてきたから、描きたい絵が霊歌の中で固まったのだろう。なら、完成するまで三日月を見ることにしよう。ほら、こうしている間にも、夕空の黄色が少し暮れ、三日月がよりくっきりと見えるようになっている。天頂の空色も夜の準備を着々と進めているみたいだ。そんな時間の流れが見るのも、何だか趣があるものだ。
沈黙が流れる。けれどそれは、さっきまでとは異なり、居心地悪くないもの。聞こえるのは、かきかき、すらすら、という、色鉛筆を走らせる音だけ。
黙々、黙々、と文の後ろで絵が紡がれていき。そして、夜色に空が染められ、三日月が山吹色に輝き出したころ。
「出来た!」
その声に、ゆっくりと文は後ろを振り向く。見えたのは、頬を紅潮させながら満足げに微笑む霊歌の表情。
「…もうですか。あいかわらず早いですね」
苦笑する。空が様変わりしたとはいえ、結局まだ一時間程度しか経っていないというのに。こうした絵筆の速さも、霊歌の絵の特徴の一つだ。
「見ても良いですか?」
「もちろん。というかね、この絵はまず文ちんに見てほしいんだ」
………?私に?
今まで、完成した絵を、お願いして最初に見せてもらうことは度々あった。けど、それは文がお願いしたからで、霊歌の方が文に最初に見てくれ、と言ってきたことはなかったはずだ。そんなささやかな疑問に首を傾げながら、文はスケッチブックをぱらりとめくる。
―――さっきまで見ていた夕空が、紙に刻み込まれている。染まり始めた黄色い空は、よく見ると淡いグラデーションによってじんわり塗り分けられていて、これからの時間の経過を静止画の中で語りかけている。そして、夕雲の絶間からは白の三日月が、けれど白色ではない、薄い薄い黄色を使ってほのかに存在感を放っている。
右手前には、神社の柱が描かれている。中間に柱を置くことで、夕空との遠近感を紡ぎ、景色全体を立体的に整えているのだ。これだけでも、この絵は立派な名画といえる。
けれど。この絵の主題になっているのは、三日月ではなかった。
―――絵の左側に、誰かが座っている。夕空の黄色に顔が染められて、少しはかなげに微笑みながら、月を見つめている。赤い兜巾から垂れ下がる白い梵天は、そよ風に吹かれているのか、ゆらり、ゆらめいていて。青や紺とで塗られている翼は、切りそろえられた髪は、かえって艶のある黒色を描き出していた。
夕空の景色を背景とした、そんな女性の絵画。
「これ…」
―――見間違えようがない。これ……私、だ。
「どう?うまく描けてるかな」
ふふん、と得意げに、霊歌は文に話しかける。絵を見た今なら、はっきりと分かる。なぜ、霊歌が文にこの絵を見てもらいたかったのか。
鼓動が早まる。戸惑うと共に、どこか気分が高揚してしまっている、自分がいる。
「……み、三日月を描いてたのではなかったんですか。何で私を」
我に返った文が返せたのは、そんなたどたどしい質問だけだった。だって、今まで、自分自身がこうして絵に描かれることなんて―――それも、こういう形で描かれるだなんて、考えもしていなかった、から。
「決まってるじゃん。そんなの」
それに対して、霊歌ははっきりと。眩しいばかりの顔を文に向けながら。
「文ちんが、とっても綺麗だったからだよ」
…それを聞いた文が、真っ赤になった顔を、霊歌に見られないようにスケッチブックをあげて隠したのは、言うまでもない。
***6***
その夜のこと。
―――――あぁ、もう。ムカつく!ムカつく!ムカつく!!!
「スケッチブックください!!!!」
ばぁん、という音が辺りに響いて、印刷所にいた一人の天狗がびくっと肩を震わせる。何ごとかと入口の方を見てみると、そこには顔を上気させながらぜぇぜぇと息を吐く、射命丸文の姿があった。
「文じゃないか。どうしたの、急に」
「良いから!一冊ください!!!!」
こちらの疑問に構わず、ずんずん歩みを進めて手を差し出す。おぉ、目は三角形だ、どうやら何かに怒っているらしい。いつもの穏やかな調子を狂わされている文。求めているのはスケッチブック。…とくれば。
「はっはーん」
にやり、天狗は唇を曲げる。
「あの巫女さん関係で何かあったね、『文ちん』?」
「な、な、そんな訳ないじゃないですか!!それと、文ちんはやめてください!!!」
…そんな顔を真っ赤っかにさせてさ、ごまかせてると考えてるのかね、と印刷所の天狗は肩をすくめる。あの博麗の巫女と文が今どんな関係かなんて、山の天狗には周知の事実だ。最近じゃあ、悪ふざけが大好きな天狗たちの間で、面白おかしく関係を捏造記事にして書く話まで出てたらしいしね。…ん?その記事、どうなったのかって?うん、まぁ………あの時の文の顔は、さながら般若だったね…。
「はいはい、悪かった。これ、スケッチブック。一冊くらいならタダで持ってって良いよ」
束からスケッチブックをひらひら、文へ差し出す。
「文がスケッチブックのことを話してくれたおかげで、こっちはおいしい思い出来た訳だしね。今回は特別サービス」
「ありがとうございます!!」
…なんというか。こういう時にもきちんとお礼はしてくるあたり、真面目なんだよなぁ、こいつ。そんなことを考える印刷所の天狗に構うことなく、ばしゅん、と音を立てて文はその場から飛び去ってしまった。はやっ。というか、吹き飛ばした紙類、片づけておくれよ。
「本当、珍しいな」
ぽつり、呟く。
文は、元々同族たちの間でも馴れ合ったりしない天狗だった。決して、仲間からハブられていた、とか険悪だった、とかそういうのではない。文自身は人当たりも良く優秀なため、かなり親しまれている方である。
ただ、他者とはどこかで一線を引いていて、自分の本音をあまり他人に見せないようにしている、そういうところがあった。他の天狗には踏み込めない、我が道をぶらつくように歩くような、そんな天狗だった。
だから、誰も文の考えていることは分からない。文も、他の誰かのことで必要以上に踏み込むようなことはしない。
…そんな文が。
「他人のことで、こんなに熱くなるだなんて」
あの巫女のことになると、自分の本音を隠せなくなっている。子供みたいにムキになって、嫌いだ嫌いだといつも喧嘩腰で、けれど、気が付けば彼女のことが放っておけなくなって、追いかけるようになっている。
今日、なぜ文がスケッチブックを購入したかは分からない。あの巫女との間に何があったかも、分からない。けれど。何となく分かることはあった。
―――きっと今、文の中で、何かが良い方向で変わっていっているんだろるな、って。
さて、時間が経って。
自分の家に戻った文は、ぱさ、と買ったスケッチブックを机の上に置く。
そしてまた、怒りの炎をめらめら、めらめら。
ムカつく。ムカつく。
何が。何が『文ちんが、とっても綺麗だったからだよ』だ。
どうしてはっきりとあんなセリフが言えるんだ。
あの後、たどたどしく声を詰まらせながら、押し付けるように書簡手渡して。そして逃げるように神社を飛び去って。ずっとずっと、顔を隠さないといけなかったんだから。
あぁ、きっと今ごろ霊歌は、『文ちんってチョロいな』って、自分のことからかっているに違いない。
くそ。ムカつく。ムカつく。
―――ちなみに当の霊歌は、様子がおかしくなった文を見てただただ「?」マークを浮かべながら首を傾げていただけなのだが、文は知る由もない。
こうなったら。あの巫女を、何とかして赤面させたい。
どうやって?私の絵で!!!!
どん、とスケッチブックを叩く。
…おや、これを読んでいる諸君は分かっていないみたいですね?ふっふっふ。まぁ聞きたまえ。
霊歌は、自分が見たありのままの光景を描く、写生画を得意とする。
それは、霊歌は自身の絵を描いたことはない、ということを意味する。…オーケィ?アンダスタン?
つまり、今まで彼女は自分の描かれた絵を見たことがない!自分が描かれるというのが、どれだけ恥ずかしいことか、分かっていないということ!
だからこそ、どこかであの巫女の絵をこっそり描いてやる。別におかしな絵でなくて良い。それこそ、私が三日月を眺めていた時のような、ごくごく日常の光景で構わない。「霊歌の絵を描いた」この事実が重要なのだから。
霊歌は、自分が描かれた絵を見たら、慣れない感覚にきっと慌てふためくことだろう。そして、『どうして私の絵を描いたのか』と聞いてきた彼女に、私はさらっと返してやるのだ。『霊歌さんがとっても綺麗だったからですよ』って。
思い知るが良い。自分がどれだけ恥ずかしいことをしていたのかを。
後悔するが良い。自分がどれだけ恥ずかしいセリフを吐いたのかを。
さてさて。どれくらい真っ赤っかになった顔を拝むことが出来るのかなぁ~。楽しみ楽しみ。
ふふ…ふふふ。
ふふふふふふふふふ。
…さぁさぁ、こうしてはいられない。
この作戦を実行するためには、まず自分が人並みに絵を描けるようにならないといけないのだから。
そのために買ったスケッチブック。練習せねば。
まずは静物画から練習しよう。そうだな…目の前の蜜柑で良いか。
今に見ていろ、博麗霊歌。
ふふ、ふふふふふふふふ………
………
……………
…………………
………ちゅん、ちゅちゅん………
何日経っただろうか。部屋中バラバラにスケッチブックの紙があちらこちらに散乱する中、文は机に突っ伏していた。
机にくっついた顔はげっそり。前のような威勢はどこにもない。
「あー……」
ため息を全て吐き切るように呟きながら、ごろん、と木の床に仰向けに寝転がる。
私、気付いた。
絶望的に絵の才能ないわ。
何回描いても何回描いても、およそ目の前の対象とはかけ離れた、得体のしれないものが紙に召喚されてしまう。
これでも、ちゃんと絵の描き方みたいな参考書も手元に置いてるのだ。
画材の色とか構図とか、どうやって描いていくのかもしっかり気を使っているのだ。
我流、なんてものではないつもりなのだ…決して。多分。
でも描けない。描きたいものが、紙にちゃんと再現されない。
「はぁー……」
ごろり。ごろごろ。
分かる。分かってしまう。
たとえ霊歌の一生程の時間かけたとしても、自分には、霊歌の絵は、きっと描けない。
…………
「…そもそも。何やってるんだ、私」
頭を冷やしてみれば、発端からしてもう馬鹿馬鹿しいのだ。
霊歌の絵を本人に見せて、赤面させる?考えてもみろ。
馬鹿なくらいに素直な霊歌のこと。そんなことしたら『ありがとう!』なんて、それはそれはムカつくくらい明るい顔を見せながら返してくるに決まっている。
取り繕ったこっちのセリフなんて、いつの間にか忘れてしまって。『あ?そ、そうですか…』くらいしか、言えなくなるに決まっている。
ただ猿真似しているだけのこんな3秒知恵なんて、霊歌の前では、効果がなくて当たり前なのだ。
ちくしょう。腹立ってきた。
「あー!!!!!」
霊歌のイメージを頭から吹き飛ばすために大声を吐く。スッキリ。
出来もしないことに時間を浪費して。しかも、万が一出来たとしても、その先に待っているのは、ただただ虚しい光景だけ。
はぁ…時間、無駄にしたなぁ…
……………
…本当に?この時間は、無駄だった?
おもむろに、文は起き上がって、机の上に、一枚の紙を広げる。
そこには、軒の奥に広がる夕空の三日月と、左に座って眺めている文の姿。あの時、霊歌が描いていた絵だ。
あの後、足早に去ろうとした文に、『せっかくだから持ってって!記念に!』と霊歌が駆け寄って手渡してくれたのだ。何の記念なのだ、まったく。
ぼーっとその絵を眺める。そして、ぽつり。
「…綺麗」
それは、ほんのちょっとしたときめき。自分でも気づくことが出来なかった、自分の魅力。
「私、こんなに綺麗だったんだ」
あの時、こんな穏やかな姿勢をして座っていたんだ。こうして、月に身を任せるように微笑みかけていたんだ。
こんな最高の瞬間を。吐息を。霊歌はしっかり見ていて、描いていたんだ。
『「幻想郷」のすべての景色が、生命が、私は好き』
『こうして傲慢で我儘だと分かっていても、ちゃんとこの目で見ておきたい…――忘れられない時間、その刹那を、語り継いでおきたいの』
「幻想郷」を愛する巫女、博麗霊歌。あの時紅葉散る山で語っていた通り、彼女は、ここの生きとし生けるもの全てを包容し、その輝く瞬間を見出す。文のような存在ですら、彼女は「幻想郷」に生きる命として受け入れて、その時間を刻み、語り継ごうとしている。
霊歌の絵に描かれるのは、まさに神々の恋した幻想郷。そこには愛が、魅力が、全てが詰まっている。
………だけど…
『霊歌は、自分が見たありのままの光景を描く、写生画を得意とする』
『それは、霊歌は自身の絵を描いたことはない、ということを意味する』
…なんで。なんでこんなことに気が付いてしまったんだろう。
霊歌の写生画には、霊歌が見たありのままの光景が、表情が描かれる。
つまり。霊歌が語り継ぎたいと考えている「幻想郷」に。霊歌自身は、描かれることがない。
あれだけの愛情を「幻想郷」に注いだというのに。その「幻想郷」に「博麗霊歌」の姿は残されない。
チクリ、と刺さってしまった気付きは、じわりじわり違和感となって、文の胸に広がっていく。
たかだか、霊歌の絵だけの話じゃないか。霊歌は誰もが知る博麗の巫女なのだ。こういう形でなかったとしてもその名前は、姿は語り継がれるに決まっている……
……………
……本当に??
『あの巫女様は、いつもこちらの困っているところを正確にくみ取って助けてくださって、本当にありがたい。実にしっかりしていなさる』
『はい。その上、落ち着いておられて一つ一つの所作もお美しい。巫女として申し分のない方だ』
『まさに『完璧な巫女』ですな』
「完璧な、巫女…」
ぽつり、呟く。
誰に対しても落ち着いて、穏やかで、分け隔てなく接してくれる巫女様。神に仕える、清廉潔白な神職をそのまま体現したような巫女様。それが、世間での霊歌に対する認識だし、そう見えるように霊歌も振舞っている。きっと「そうする必要があった」から。
そこから見えるのは、「博麗の巫女」の姿だけ。
いつから彼女が巫女として勤めたか。いかに彼女が幻想郷を保護してきたか。その、無機質な歴史書に記録される事柄でしか、人々の間ではきっと語り継がれない。
……「博麗霊歌」は、そこにもない。結局、彼女の姿は、幻想郷のどこにも残らない。
「…ムカつく」
また、小さく呟く。じわじわ胸に広がった痛みが、熱となって燃え始める。
ムカつく。だって、こんなのおかしいじゃないか。博麗霊歌が、霊歌だけが、このまま幻想郷から「消えなければならない」なんて。
文は、霊歌が嫌いだ。どこまでも身勝手で、他人のことを振り回してばかりで。しかもあまりにも真っ直ぐで素直で鋭くて、こっちが反応に困るようなことばかり、ずばずばと言ってくる。どこまでも子供。きっと、一生かかっても子供。そんな霊歌が、今も嫌いだ。
けれど、そんな霊歌だからこそ、きっと幻想郷を、そこに生きとし生けるもの全てを愛することが出来た。絵という形で、その愛情を最大限に表現することが出来た。
そんな霊歌だから――
『文ちんが、とっても綺麗だったからだよ』
――あんなにも、眩しい笑顔が出来るんだ。
ムカつく。そんな霊歌の愛情は、表情は、何よりも「幻想郷」に語り継がれて、形あるものとして残されるべきなのに。誰にも、それが出来ない―――
……
…………
……………………
ちらり、と床の方を振り返る。そこには、霊歌を見返そうとして練習を重ねてきた、スケッチブックの残骸。
拾い上げれば、およそ絵と表現するのも躊躇われる、稚拙な線の羅列。けれど、紛れもなく霊歌のことを意識しながら描いたものだった。
「……はぁ。全く」
そういうこと。あぁ、やはりあの馬鹿な時間は、けれど無駄ではなかったみたいだ。
――出来るかもしれない。私なら。
きゅっと、文は手を握る。燃え続ける熱が、胸の鼓動を早めさせるのを感じる。
短い間かもしれないけど。私は「博麗霊歌」としての彼女を見てきた。
何がきっかけかは知らないけど。私はどうも「博麗霊歌」に気に入られてしまった。だから。
誰かに任せるなんて、元々性に合わないのだ。私があいつの姿を残してやる。あいつのことを語り継いでやる。
…もしかしたら、文も「博麗霊歌」の欠片しか知らないのかもしれない。
だったらどうした。それなら、これからあの生意気巫女の本性を暴いていけば良いんだ。それはそれで実に面白い。
…ひょっとしたら、霊歌自身はこういうことを望んでいないのかもしれない。
それがどうした。こっちは散々今まで勝手に振り回されてきたんだ。こっちの勝手の一つくらい、聞いてもらおう。
赤い目に熱がともる。手に持っていたスケッチブックを机に置いて、ゆっくり立ち上がる。
さて、そうと決めたなら。私なりに語り継ぐ方法を、これから見つけに行こう。
悠長している場合ではない。文は天狗、霊歌は人間。使える時間は、決して長くないのだから。
けれど、焦ってもいけない。どうせなら、最高の形で、あいつのことを語り継げるようにしたいから。
「ふぅ…行ってきます」
そう胸に手を当てて、一息ついて。次の刹那、風を切る音と共に、文は日が差す外へと飛び出していった。
***7***
―――月日が流れ、また、秋。
太鼓の音が、辺りに響く。あちらこちらに灯る提灯が、かえって宵闇暮れた夜を演出する。
博麗神社の夏祭と並び、幻想郷に住まう人間にとって最も重要な「ハレ」の日となる秋の収穫祭。
その片隅、屋台から外れた空き家の軒下に、博麗霊歌は体を落ち着かせていた。
人里が主な会場となるこのお祭りだが、秋神様への感謝と来年の豊穣の祈りを祝詞として唱えるため、博麗の巫女たる霊歌も祭りに参加していたのだ。
今、その主役たる秋神様は、霊歌の視線の先で、里の人々に囲まれていた。豊穣の神様である穣子が次々とおいしそうに食べていて、それを見て喝采を挙げる人々がさらに料理を勧めているみたいだ。横では、姉の静葉が、困ったような笑顔を穣子に向けていた。きっと、食べ過ぎたりしないだろうかと、呆れているのだろう。これは描いてみたら良い絵になりそうだ。
はぁ…と息をついて、スケッチブックを膝の上に置く。
眩しい。とても。皆この豊作を、収穫を手を取って祝っていて。楽しんでいる様子で。
少し目を閉じれば、笑い声が、明るい喧噪が、耳を撫でてきて。
あの中に飛び込んでいけば、私も、あんな顔が出来るんだろうな、と思う。
――けれど。自分には、その輪に入る勇気がなかった。
楽しんでいる自分を――「博麗霊歌」を見せる勇気がなかった。
生まれながらに「博麗の巫女」であることを決められた霊歌は、そうあれかしと育てられてきた。
霊力や神事、教養に関わる修行だけではない。礼儀作法や立ち振る舞いに至るまで、「博麗の巫女」であることを徹底された。同世代の友人を作ることもなく、ひたすら黙々と、修行に没頭した。
「博麗の巫女」は、人間の模範たる存在であるべきだ、と教えられたから。
そうしないと――博麗としての信仰も集められなくなるかもしれない、そう考えたから。
そうして、若くして博麗の巫女を継ぐことになって。
霊歌は、人々の敬意を集める、完璧な巫女を演じ続けた。
天真爛漫な「博麗霊歌」は、人前ではすっと仮面で隠して。ただただ、孤高を保ち続けた。
「博麗霊歌」でいられるのは、幼い時期から趣味として続けてきた、写生画を描いている時だけ。お祭りで自分も混ざってはしゃぐなんて、もってのほか。ただこうして、外から人々が笑っている顔を、眺められたら良い。
…それが正しいことだと、考えていた。
けれど、博麗の巫女になってみて、時を過ごして、いろんな場所をめぐって。「幻想郷」という地がどういう場所なのかを知って。霊歌のその認識が、どんどん揺らぎ始めていくのが分かった。
完璧な巫女を演じるといっても、ここは摩訶不思議な出来事が日常茶飯事な幻想郷。時として、霊歌に至らぬ点が、綻びが、ふと出てしまうことだってある。支えが必要だったりすることがある。
けれど、そんな時であっても、幻想郷の人々は優しかった。決して、見放したりするようなことはせず、まるで実の娘であるかのように、温かかった。
それに感謝すると共に、ふと、霊歌の中にある疑問がよぎった。
――もしかして、本当は。無理に己を隠してまで「博麗の巫女」を演じなくても良いのではないか。
「博麗の巫女」ではなく。「博麗霊歌」としての一面を、見せても良いのではないか、と。
そして、その問いに対する正解は、即座に見えていた。
けれど、正解が見えていたのに。霊歌は、そこから歩くことが出来なかった。
ずっとずっと「博麗の巫女」の仮面を被ってきた霊歌には。仮面を見せることに慣れてしまった霊歌には。
逆に、それを外す勇気が、もう出なくなってしまったから。
正解だ。そう信じているけど。仮面を外そうとかけた指が、後ほんのちょっとだけ、動かない。
反面、このまま仮面を被るのが窮屈だと叫ぶ自分もいた。
本当は自分も、こうして皆にまじって、弾けるような笑顔を浮かべたい。
対等な関係の友人を作って、何も気にすることのないおしゃべりがしたい。
もっと…自分も、ここを――愛する幻想郷を、諸手を広げて謳歌したい。
けれど、やっぱり動けない。自分一人だと、もう動けない。
そうして衝動と恐怖の葛藤に苛まれた霊歌は、いつしか、他人との関わりを最低限に抑えるようになった。
神事や祭事、異変解決など、「博麗の巫女」としての責務が求められる時以外は、出来るだけ一人を保つようになった。そうしてさらに広がってしまった孤独を、絵を描くことでのみ、埋める生活を続けた。
――そんな迷いを抱えたまま、ふらふら空を漂っていたある日。
沢で水を飲んでいる鹿を見つけて、それを描こうと近づいていった。
ところがその鹿は、どうやら警戒心が強かったらしく、霊歌の姿を認めると足早にその場から走り去ってしまった。
霊歌は慌ててその後を追う。山の方に入ってしまった鹿の後ろを、飛んで、飛んで、飛んで。
どこに行っちゃったんだろう、と見失ってしまったその時。ふわり、と辺りを一陣の風が舞った。
『はぁ…だから私が呼ばれたのですか』
呆れ声と共に、一本足の下駄を履いた少女が、黒羽を広げながらゆらりと降りて来る。赤い瞳にとがった耳、手に持つは朽葉色の葉団扇、頭には梵天が付いた赤い兜巾――――鴉天狗。あぁ、そうか。私、いつの間にか妖怪の山に入ってしまっていたのか。
『博麗の巫女様とお見受けいたします』
目の前に現れた鴉天狗は、恭しく礼をすると、きりっとした鋭い顔を霊歌に向ける。
『申し訳ありませんが、ここから先は妖怪の山。いかにあなたであっても、事前の通達なしに入って来られますと困ります』
『…こちらこそ、申し訳ありません』
その空気に気圧されて、霊歌も謝罪のため頭を下げる。その姿を認めた鴉天狗は、はぁ、とまた一つため息をつく。
『それで?何か火急の御用ですか?』
『はい?』
『博麗の巫女様本人が来られたのですから、何か異変が起きたのかと』
あー……考えてみれば当然の疑問だ。博麗の巫女が山に来るなんて、何かあったと考えるのも無理はない。真剣な顔でこちらを見つめる鴉天狗を見ながら、霊歌は顔を引きつらせる。
ごまかそうか。けれど、元来素直なところがある霊歌に、こういう時の言い訳を考えつくことは出来ず。
『この近くで鹿を見かけまして、』
『はい』
『絵に描こうとして、追いかけまして、』
『はい』
『そして気付いたら、ここにいました』
『………はい?』
……………沈黙。嫌な沈黙。
『つまり、ただ迷い込んだだけ、と?』
『…はい。その通りでございます』
……あ。顔俯かせた。肩をわなわなと震わせた。
『…こ、』
あ、俯かせた顔が、どんどん、どんどん赤くなって――
『子供ですかあなたはぁぁぁぁぁ!!!!』
どかぁぁぁん。
『すわ何か大事件かと驚いて来てみれば!そんなくだらないことでこき使わされるこっちの身にもなってください!!!!大体何なんですか絵って!!!』
…かちーん。
『あー!今、絵をけなしたな!!私の絵を!!そういうことは、私の絵を一回でも見てから言いなさい!』
『はん、迷子になるようなおっちょこちょいのあなたに、見る価値のあるような絵が描けるんですかねぇ』
『むー!!!』
『なんですか?何か文句あるんですか?大体――』
…気が付けば、天狗の挑発に我を忘れて、素を出してしまっていた。いつもだったら、熱くなる前に、ちょっと考える余裕位あるのに。絵のことに触れられただけで、こんなにも、ムキになってしまっていた。
けれど。こんな無意味な、子供じみた口喧嘩をしているだけだというのに。
正直、何だか、気分がすっきりしたような気がする。
ちょっと、楽しくなっている。
誰かの前で、こんなに自分をさらけ出せたのは、いつぶりだろう。
―――光が。自分の中に、光が差し込んだような。そんな気がしていた。
『ですから………聞いてます?』
いつの間にか説教に移っていたらしい天狗に、ジト目で睨みつけられる。
『…ねぇ』
その視線に構わず、気が付けば、霊歌は声に出していた。
『あなた、名前、なんていうの?』
聞かれた天狗は、刹那、虚を突かれたような表情をしていた。けれど、すぐに納得したように、こくり、と頷く。
『大変失礼しました。まだ名乗っていませんでしたね』
そうして、最初現れた時のように、一歩引いて、こほん、と咳払いをして。恭しい態度で、自分の名を名乗る。
『私、妖怪の山で使者をつとめております、鴉天狗の射命丸文と申します。巫女様とも、またお会いする機会はありますでしょう。お見知りおきを』
――良いだろうか。
みんなの前で、仮面をさらけ出すことは出来なくても。
誰か一人。誰か一人だけ。「博麗霊歌」でいられる相手を作ることくらい。許されるだろうか。
そうして、霊歌は唇を綻ばせて。
自分が踏み出せる、精一杯の一歩を地につけた。
『なら、文ちんだ』
…これが、博麗霊歌と文ちん―――射命丸文の出会い。
この後、幾度となく喧嘩(というか文の説教)を繰り返してきて、けれど間違いなく、霊歌にとっての居場所を、作ってくれて。友達――なのかな?うぅん、ちょっとやんちゃしすぎたし、きっと文には嫌われているのだろう。けれど、霊歌には、それで良かった。
だって、何となくだけど、分かるから。自分を――「博麗霊歌」を見せることにした相手が、文で良かった、なんて。
…………
―――からり、ころり。
祭りの喧騒の中、近づいてくる下駄の音。
一本歯の下駄特有の音。
「やぁ、文ちん」
「だーかーら。文ちんはやめてください」
はぁ、と諦めたようなため息。
噂の鴉天狗、射命丸文が、霊歌の前に立っていた。
***8***
――霊歌は、目の前に現れた文に、ちょっといつもと違う点があることに気付いた。腕には赤い腕章が巻き付いてて、肩には小さな茶色い鞄が、紐にかけられていて。それに、何より――緊張している?文のそんな姿を見るのは、霊歌には珍しく思えた。いつも使いとかで来る時でさえ、そんな様子、見せたことないのに。
「…隣、良いですか?」
しばらくの沈黙の後、文から発された声は、やっぱりどこか固い。
「ん、どうぞ」
そう霊歌が返すと、「失礼します」と、文は右隣に腰掛ける。
――また流れる、沈黙。聞こえるのは、祭りを楽しむ人々の声だけ。何だかこっちまで緊張するけど、嫌な気持ちではなくて。
数瞬の時を経て。はぁ、という吐息と共に、ようやく文は口を開く。
「良いんですか?お祭りまわらなくて」
「良いの。祝詞唱えるのに疲れちゃって。ちょっと休みたくなったから」
「そうですか」
文は、茶色の鞄の中から何やら細長い瓶を取り出す。
「どうぞ」
「?なにこれ」
「『らむね』というそうです。こちらも知らなかったのですが、今お祭りで人気の飲みものだとか。おそらく最近来た外来品のうちの一つでしょう」
「へぇ…綺麗な瓶」
文から瓶を受け取った霊歌は、その珍しい薄縹のガラス瓶を、祭り提灯の光にかざしてみる。…へぇ、ガラス玉が瓶の中に入っているのか。雅でとても面白い。そう微笑んで、一口。
「あ、これシュワシュワしてておいしい。文ちんもどうぞ」
「え……はぁ、どうも」
文は刹那、赤い瞳を戸惑うように揺らして。けれど、すぐにガラス瓶を受け取ると、一口。
「本当だ。おいしい」
「でしょ?」
「何であなたが得意げなんですか。買って来たのは私ですよ」
「そうだったね。ありがと」
何ともなしに交わされる軽口。緊張が取れた訳ではないけれど、何となくいつもの調子が返りつつあるのを感じる。…うん。そろそろ、大丈夫かな。
「それで?文ちんこそ、お祭りまわらなくて良いの?」
「いえ、良いんです。…今日は、あなたに会いに来たので」
「私に?」
丸くした瞳から、文が目を逸らす。ぎゅっ、と、文が右腕の赤い腕章を握るのが見える。…あぁ、そうだ、やっと思い出した。別の天狗が似たようなものをつけていたのを、前に見たことがある。あの腕章は――
「実は私、この度、新聞を書き始めることにしたんです」
「報道」の腕章。つまり、文は今、記者として、ここに来ているんだ。
「その創刊号の取材のために、動いておりまして」
「そっか。おつかれ」
微笑むと、小さく「ありがとうございます」という返事が返って来る。その赤い瞳は、まだ、霊歌からは見えない。
「けど、天狗の新聞って、天狗社会で起こった出来事を主に扱っているんじゃなかったっけ」
「他の新聞はそうですね。けど…ちょっと、挑戦してみたいと思ったんです」
はぁ、という吐息と共に、文は前を向く。
「外部との使者として勤めていたこともあって、私は、ここのあらゆる場所へ赴いてきました。長い年月の中で、様々な方と出会いもしました。だから、幻想郷のことを分かっているつもりでしたし―――ここに、自分なりの愛着を持っていたつもりでした」
霊歌は、羨ましいと感じることがある。文のことを。だって、文の言う通り、彼女は、自分よりもずっと長く、ここの景色を、時間を共にしていたのだから。自分が知らないここのことも、たくさん間近で見ることが出来たのだから。けれど、そんな文だからこそ。
「けれど、あなたに出会って、あなたの絵を見て、その認識が変わりました」
ここをずっと愛してきた文だからこそ――霊歌の絵が、胸に刺さった。霊歌の想いに、共感することが出来た。
「あんなにまっすぐ、ここに対する愛を告白することが出来て。どんなところを愛しているのかしっかり見ようとして。それを、写生画という形で表現し、語り継ごうとしている」
そしてその共感はまた、羨望となって。
「その事実を考えた時、ふと、気付いてしまったんです。私、今まで一度でもここへの愛を表現したこと、あったかな――って」
その羨望はまた、文の背中を押して。彼女はその勢いに従うままに、駆けだしていく。
「あなたみたいに愛を表現するのなら――私には、何が出来るんだろう――って」
自分が愛する幻想郷に、何か返せるかを。
「…そっか」
霊歌は、ゆっくりと微笑む。
「それで、新聞なんだね」
「はい。たくさん考えてみたんですが――天狗の文化として定着していて、仲間内で方法を共有することが出来るこれを使って、試してみようかと」
文は、抱えていた茶色の鞄をまさぐる。
「私の取材対象は、幻想郷全て」
そうして取り出されたのは、真新しいメモ帳に万年筆、そして小さな箱。確か、あの箱は―――「かめら」といっただろうか。小窓の先に見えるものを、そっくり写し出す機械。
霊歌にとっての、スケッチブックと色鉛筆のように。これから文は、これらの道具と、長い付き合いを始める。
「幻想郷が、どういう場所になっていくか――そこに生きる者たちが、何を抱え、どうこの場所を生き抜いてきたか――それを、私のペンと、このカメラを使って、語り継いでいきたい、と考えてます」
――これから文は、長い旅を始める。今まで培った経験と、話術と、そして感性をもって、その黒い翼を羽ばたかせ。きっと、私よりも、ずっとずっと長く、果てない旅を。その旅の最中で、どれだけの歴史が、記されることになるのだろう。どれだけの「あはれ」が、写されることになるのだろう。
……けれど。きっと。その旅の、最初の目的地は。
「それで?」
だって、文ってば、意外と分かりやすいのだもの。
「まだ続き、あるのでしょう?」
文が、霊歌の方を向く。口を真一文字にきゅっと結んで、赤い瞳をちょっと不安げに震わせていて。ちょっと面白い。
「――そのことについて、当代博麗の巫女、博麗霊歌さんにお願いがあります」
けれど、意を決した文は、はっきりと、真一文字の口を開く。
「創刊号の特集として、あなたのことを、取材させてください」
――さらり、とした沈黙が、二人の間を流れる。…ほら。当たった。
「…どうして、私を?」
きっと、今まで文が話していたのも、紛れもなく「本音」。けれど、文は。その「本音」の中にまた「本音」を隠している。それは、きっと。
「あなた抜きに、今の幻想郷について語ることなんて出来ませんから」
もう、文は霊歌から目を離そうとはしない。
「この収穫祭を見てみても分かる通り、今の幻想郷は、常に活気にあふれている。どこまでも綺麗で明るくて――その時間が価値あるものとして刻まれていく。語り継がれていく」
どこまでもまっすぐに、「本音」を紡ぐことで、こちらの手を取ろうとしている。
「――きっと、今のここがここまで愛すべき場所になったのは、あなたがいたから」
文は、賢くて、とても真面目な天狗だった。…だから、気付いてしまった。放っておけなくなってしまった。
「あなたの愛が、この場所に反映されているから。だから、まずはあなたのことを、書きたいんです」
「仮面」を被ったままこの場から消えるかもしれない、そんな存在である霊歌を、引っ張って。その背中を押そうとしている。「仮面」を取るのを、助けようとしている。
「…私は、そんな大層なことはしていないよ」
後は、こちらが一歩踏み出すだけ。けれど、微かなためらいが、足を土を縛り付けてしまう。
「なら、本当に、あなたが『大層なこと』をしていないか、私に確かめさせてください」
けれど、強情な文は、それくらいのことで引かない。つかめた手を離すまいと、強く握る。
「見せられる範囲で構いません。出来る限り、あなたに迷惑が掛からないように書くと誓います。だから、あなたの―――『博麗霊歌』の、ここに対するありのままの愛を、私に教えてください。私に、語り継がせてください」
…大丈夫。どこまで素顔を見せれば良いのか分からないのなら。こちらがコントロールしてみせる。このペンで、見せても良いところまで整えてみせる。ちょっとずつ、「仮面」を取ることが出来るようにしてみせる。
だから。私を信じて、書かせてほしい。写させてほしい。「博麗霊歌」の素顔を。
この幻想郷に、「博麗霊歌」という人間がいた証を。私に、刻ませてほしい――と。
また、文の目を見る。ずっとこちらから視線を鋭く向けている赤い瞳は、しかし、まだ微かに震えていて。
――もう、文ちんてば。まるで、愛の告白でもしているみたい。そんな固い顔してたら、からかいたくなっちゃう。
けど、今は――
「そういうことなら、文ちん、」
そんな文の告白に、ちゃんと返してあげないとね。
霊歌は立ち上がって、くるりと文の正面へと立つ。そうして、目を丸くさせている文に、手を差し出して。
「お祭り、一緒にまわろ?」
――ありがとう。やっぱり、文ちんで良かった。
***9***
――あぁ、もう。本当に、どうしてこうなるんだ。
これでも私、あの長口上、何日もかけて考えてきたのだ。
どういう台詞ならあの巫女を動かすことが出来るか。今まで培ってきた話術を駆使して、頑張ってみたつもりだ。
実際、それはうまくいった。巫女の手をつかむことに成功したのだ。――だけど。
「ほらほら、文ちん、置いてくよ!」
「待ってくださいってば。はぐれてしまいますよ」
「大丈夫!文ちんなら、きっとすぐに見つけてくれるだろうからね!」
「そんな他人任せな……ってもういないし…まったく…」
今日くらいは、私がそのままあの巫女の手を引っ張れるんじゃないかと思っていたのに。
気が付けば、手を取られたはずの彼女が前に出て、そのまま駆け抜けていって。
「見て見て、文ちん!これ『たこやき』っていうんだって!」
「………」カキカキ
「くるくる棒みたいなので器用に回したと思ったら、こんなに綺麗な球体になっててさ!見ててとっても面白かったなー…」
「……うーん…どんな場面の写真が撮れれば良いかなぁ…」ブツブツ
「…あーやちん?」
「え?あぁ、失礼しました、何で――――むぐっ!?あっづぅ!!!!!!!」
「もー、そんな難しい顔しない!せっかくのお祭りなんだから、文ちんも羽を伸ばさないと!」
「…ぜぇ、はぁ……いや、ですから、今日はあなたを取材するためにここに来た訳で、その」
「あっ!あれも面白そう?ほら、これ食べたら、今度はあそこ行こう!!」
「ちょ、ま、話は終わってな……はぁ…」
いつの間にか、彼女にぶんぶん振り回されて。しっかり握っていなければ、飛ばされてしまいそうで。
これなら出来る!と感じて、新聞記者としての道を選んで。
せっかく印刷所の天狗にまた頭を下げて、記者としての取材のコツなんかも聞いてみたのに。
せっかく手近な白狼天狗を捕まえて、取材のためのリハーサルや写真撮影の練習までしてみたのに(嫌そうというか、呆れた顔してたけど)。
全く、思うようにいかない。カメラを、のんびり構えてる暇もない。てんやわんやで、満足に取材出来ない。
「――はぁー、楽しかったー」
「…はぁ、こっちはただただ疲れましたよ…」
「ははは、ごめんって」
「まぁ、今に始まったことではないですし、もう良いんですけど……これから絵、描くんですか?」
「文ちんの決意、聞いちゃったからね。そう考えると私も、頑張らないとなって」
「霊歌さん………………………………………あ、そうだ。一つ聞いても良いですか?」
「どうぞ?」
「今、何を絵に描こうとしているんですか?」
「んー?決まってるじゃない。私に取材をお願いした時の、文ちん」
「!!!待って待って!それだけは!それだけは勘弁してください!!自分がどんな顔してたか分からなくて怖いんですから!!」
「ふっふっふ、かっこよかったよー、あの時の文ちん。あのきりっとした表情見せられたら、きっと世の人妖みんなイチコロだね」
「駄目ー!駄目ったら駄目ですー!!!」
「――ごめんごめん、冗談。あの文ちんは、私の中だけに留めておくから、安心して」
「うぅ…もう二度とあんなことしません…」
「…ふふっ」
そうして、調子を狂わされてばかり。結局、いつものような関係になってしまう。
……ま、良いか。それでこそ、「博麗霊歌」なのだから。やっぱり、こういう彼女の姿を見れなければ、意味がないのだから。
ちょっと癪だけど、きっとまだ、彼女との関係は続くだろう。手をほどかれないように、しっかり手をつかみ続けておかなければ。
改めて。はじめまして、博麗霊歌さん。これからは、同じ幻想郷の「語り手」として、どうぞよろしく。
***10***
文々。新聞 創刊号
(前略)
特集:博麗霊歌 ~幻想郷を語り伝えるために~
幻想郷という地の現在をこれから語るに当たって、まずは、当代博麗の巫女である博麗霊歌氏について特集していきたい。
博麗大結界という結界を張って幻想郷を保護し続け、人間のみならず、我々のような忘れられし神妖の存在も担う「博麗の巫女」。彼女は幻想郷の顔ともいえる存在であり、彼女なしに今の幻想郷を語ることは出来ないと考えたからだ。
さて、本紙を読まれている皆様方は、今回取り上げる博麗霊歌氏に対して、どのようなイメージを持たれているだろうか。
前日の収穫祭に来ていた人間にこれに関して聞いてみたところ、「いつも自分たちの声に真摯に耳を傾けてくれる、素敵な巫女様」「きりっとした表情で祝詞や舞を披露する、かっこいい巫女様」などといった声が聞かれた。さらに、現在上白沢慧音氏により更新が続いている歴史書『幻想現史鑑』に直近補足された記述にも、博麗霊歌氏について、多くの異変解決の功績と共に「完璧な巫女」の通り名が人間たちの間で付けられていることが補われている。世間一般が考える「巫女」を完璧に体現させた女性、それが博麗霊歌氏に対し抱かれているイメージの結論だろう。
けれど、それだけでは「博麗霊歌」を説明出来たことにはならない、と記者は考えている。
今回の取材を霊歌氏に申し込んでみたところ、記者は、その一環として、博麗霊歌氏と収穫祭を共にまわることが出来た。
お祭りの提灯が夜闇を照らしゆく中で、霊歌氏はとにかく記者の手を引っ張っていた。目をらんらんと輝かせながら、記者の足がもつれるのも構わず、あちらこちらを駆け回っていった。外来の珍しい料理を見つけてはそれに舌鼓を打ち、輪投げの輪が景品になかなか入らなくてはムキになって入るまで挑戦しようとし続けたり、初めて見るという線香花火を記者がつけたところ、火花を散らしてから落ちるまで、そのわずかな光の変化さえもじっと観察していたり。
お祭りの時間をそうして走り抜けていった彼女は、紛れもなく一人の「人間」であり、年相応な「少女」だった。おそらくあの場に参加していた皆と同じように――もしかしたら誰よりも、彼女は収穫祭という祝祭を、楽しんでいた。
いつもは他人の前に見せることのない博麗霊歌氏の笑顔に、道行く人の中には、目を丸くさせて彼女の方を見る者もいた。けれど、記者は考える。一人の「人間」としての表情を持ち、他人と同じ視点で幻想郷という地を歩き、共感出来るからこそ、博麗霊歌氏は幻想郷という地のために、その命を賭けることが出来ているのではないか、と。この素直な笑みは、博麗霊歌氏が幻想郷という地を真に愛している、一つの大きな証なのだ。
収穫祭が終了した後、博麗神社の縁側で取材をまとめる記者の横で、霊歌氏はスケッチブックを取り出して絵を描き始めた。霊歌氏は、スケッチブックを使った写生画を趣味としている。以前から霊歌氏と知り合いであった記者は、何枚か絵を見せてもらったことがあるが、とにかく霊歌氏は、写し取りたいと考えた対象を適確に記憶し、その記憶を、その対象の特徴・魅力が最も見られるように、豊富な光彩・色彩感覚でもって写生画に顕現させるのだ。
その時に描いていた絵は、秋神である豊穣神様に、人々が料理を差し出している場面だった。明るい暖色の光に照らされる空間の中、薄い白で表現された湯気を立てる――おそらく、この年に収穫された作物から作った料理を、豊穣神様がおいしそうな表情で平らげている。その様子を見ているまわりの人々は喝采をあげ、祝い、さらに料理を豊穣神様に捧げようとしている。すぐそばでは、豊穣神様の姉である紅葉神様が、ちょっと呆れたような、食べ過ぎないか心配するような笑みを浮かべながら、その様子を見守っていた。豊作に沸いて、誰もが明るく笑っている、そんな幻想郷の景色が、その絵には顕現されていた。霊歌氏は「神秘的な、魅力的な、個々に違う者たちがたくさん集う、そんな幻想郷の綺麗な景色が好き」「みんな生きているからには、種族関係なくどこかで輝く瞬間がある。そのことを意識しながら、これからも絵を描き続けていきたい」と語る。
こうした写生画については、公開するつもりはないものの、後世に発見されても良いように大切に取っておくつもりだという。「私は、幻想郷の『語り手』になりたいんです」と霊歌氏。「これからも、数多の神様が、妖怪が、人間が、『忘れられしもの』として幻想郷に流れ着くことだと思います。その時、『幻想郷は、こんな素敵な場所なんだよ』と、胸を張って語り継ぐことが出来るようにしたい。『幻想郷はこんなに美しい景色に囲まれていて、こんなにもみんなが輝きながら生きている場所』『あなたにも居場所が必ずある場所』だということを伝えていきたい。その『語り手』として語り継げる幻想郷を保っていくために、これからも『巫女』であり続けるんです」。
これから、記者もまた「幻想郷」の「語り手」として、この地の今を語り伝えていく。霊歌氏が「語り手」として、自らが愛する幻想郷のために今後どのような活動を続けていくのか。記者は「語り手」として、幻想郷の何を語り伝えることが出来るだろうか。霊歌氏の動向に今後も注目しながら、こうした課題に向き合っていきたい。
(※霊歌氏が写生画を描いているところを撮影した写真が紙面についている)
***11***
……
………ちゅん、ちゅちゅん…
「…うん、出来た」
―――そして、現在。
夏祭から何夜か明け。ばさりと原稿を机に置いた文は、満足げにぐっと伸びをした。
そして、はぅ、と一息。
…そっか。もう、二十年も経ったんだ。自分が「語り手」として、記事を書き始めてから。
今考えてみれば、ほとんど個人的なわがままから、勢いで始めてしまったことではあるけれど。
天狗として千年近く生きてきて、この二十年が一番充実していた。
霊歌の手をつかんで、引っ張られるままに、たくさんの場所を訪れた。
今まで見たことがあったはずの場所も、彼女と一緒だと、なんだか全く違った場所に来たような感じがして。たくさんの発見があって。
その発見を語り継ぐために、特に写真を撮る練習をたくさんして。最初は満足いく画像が撮れなくてしょげたりもしたけれど、だんだんと腕をあげられるようになって。
そうしたら、文の写真を見て霊歌が対抗心を燃やした霊歌が、自分の絵と勝負しよう、なんて持ち掛けた出来事もあって。
いつしか、霊歌と文は、互いに切磋琢磨する、そんなライバルとも見られる関係になった。ただ見ているだけだった関係から、背中合わせで戦う、対等な関係になれた。
…いつからだろうな。霊歌と会う時間を、待ち望むようになったのは。最初、あんなに嫌がっていたというのに。
霊歌は霊歌で、文の創刊号の記事がきっかけとなって、「博麗霊歌」の表情を、他人の前で見せられるようになっていった。
やっぱり、まわりからも「博麗霊歌」は、驚くほど素直に受け入れられて。それまで、敬意だけを持たれて孤高の存在だった霊歌と皆との距離が、少しずつ縮まっていって。
絵を描いているところを参拝に来た子供たちにもみくちゃにされて、それに対して無邪気な笑顔を浮かべて。そんな光景を、いつも見るようになっていった。
ついでに文ももみくちゃにされた。子供慣れしておらずひたすら羽をもふられて戸惑っているこちらを見るたびに、霊歌は面白そうな意地の悪い笑みを浮かべるのだ。ちくしょう。
光陰矢の如し。人間との時は、特に短い。
気が付けば、霊歌は成長していた。子供だった少女は、大人の、ちょっとだけ落ち着いた女性になっていた。
気が付けば、霊歌に娘が生まれていた。無邪気な表情は、母親の表情になった。
気が付けば、霊歌の霊力は衰えていた。博麗の巫女としても――「語り手」としても、責を全う出来るか分からなくなっていた。
けれど、どれだけ時間が経ったとしても。二人が目指す道は決して、曲がることがない。
幻想郷の今、生きとし生きる皆の輝きを、「語り継ぐ」こと。
「語り継ぐ」べき幻想郷を――皆に居場所があるこの幻想郷を、護り続けること。
『ねぇ、文ちん』
何年前だったか。霊力が尽き、いよいよ博麗の巫女の代替わりの儀が行われることになった前夜。濃紺の空に黄金の月がのぼる中、文は神社を訪れていた。
『これからも、ここのこと、見ててくれるかな?』
縁側で並んで座りながら月を見ていると、霊歌はそうぽつりと問いかけてきて。もう、この時の文にとって、返事なんて決まっていた。
『はい。もちろん』
その瞬間。文の手は、霊歌から離れた。けれど、もう落ちることはない。
放たれた勢いのまま羽根を広げ、一人で悠々と、飛翔していく。
ずっと。ずっと。ずっと。
今の――そして未来に向けての、この地の「語り手」として。
「……ふふ」
机上に置かれた夏祭の写真を見つめる。神楽舞の写真、祭りの屋台、行きかう人々――そこに混ざって一番上に積まれている写真を見て、静かに微笑む。そこに映っているのは、狐面を横につけてたこ焼きを食べている現博麗の巫女と、後についてきて次の屋台どこ巡るか話をしている、少女たちの姿。文がこの夏祭で撮った写真の中で、最も気に入っているものだった。
それは、今の幻想郷が、穏やかで、誰もが笑える場所であることを語っているから。
ここに生きる者たちが、人間・神妖問わず、活き活きとしている姿が、写し出されているから。
現博麗の巫女――霊夢が「博麗霊夢」として、気の置けない友の前で、笑っている。そんな姿が、写し出されているから。
「さて…と。行ってきます」
原稿と写真を茶色い肩掛け鞄に詰めて、外へと飛び立つ。
いつもなら印刷所に向かって新聞として印刷してもらうところなのだが、今回向かうは別の場所。
こういう祭りの記事を書いた時には、先に見せに行きたいところがあるのだ。
――山のふもと、ちょうど人里の境にある秋神様の祠。
そのすぐ近くに、小さな結界が張られている。天狗でも文ほどの実力を持っていなければ気付かないくらいに、隠されている結界。
懐から、赤い小さな札を取り出して、結界にかざす。結界が開かれる音がする。そうして一歩を踏み出すと、さっきまで何もなかったはずの空間に、茅葺きの小さな家が姿を現す。
そして、その縁側には、一人の女性が座っていた。臙脂色の落ち着いた着物の膝の上に、スケッチブックを乗せて、どこかを思案気に眺めている。赤いリボンで結んだポニーテールに、少し落ち着いた、けれど未だに幼さを残した顔。その女性は、文の方に気付くと、「おっ」と目を丸くさせた。
「よー、文ちん!」
まったく。この挨拶だけはいつまで経っても変わることがない。腹立つ。けれど、彼女と会うのならやっぱりこうでなくっちゃ。
文は一つため息をつき、けれど笑みを浮かべて。結局二十年間変わることのなかった返事を、彼女に向けて返した。
「だーかーら。文ちんはやめてください」
射命丸と先代博麗に繋がりがあるって作品、昔結構あったなぁ。なんだか懐かしい
ただ、感想を一言いうなら「味気ない」となってしまいます。
主要キャラクターがどういった人物であるのか、すべて地の文で説明されて読者が想像する余地がありません。そこに見えるのは「この人はこういう人なんです!」と熱を込めて語る作者自身で、物語ではありません。
> 文は、元々同族たちの間でも馴れ合ったりしない天狗だった。決して、仲間からハブられていた、とか険悪だった、とかそういうのではない。文自身は人当たりも良く優秀なため、かなり親しまれている方である。
> ただ、他者とはどこかで一線を引いていて、自分の本音をあまり他人に見せないようにしている、そういうところがあった。他の天狗には踏み込めない、我が道をぶらつくように歩くような、そんな天狗だった。
小説講座などでよく言われる「書いて説明するな、感じさせろ」ですね。作品全体の文量と創想話という場を考えれば、詰めれるところは詰めたいというのは判りますが、端役ではなく主要キャラクターでこれをやると「味気なく」なってしまいます。よい対称をなしているのが***7***です。
冒頭、にぎわう祭りを見つめる霊歌の段は、祭りの喧噪の中に自ら入ることのできない彼女の心情が見事に表現されています。
>あの中に飛び込んでいけば、私も、あんな顔が出来るんだろうな、と思う。
読者に彼女の内面を想像させ心情を理解させる、巧みな一文です。
しかし、その後の段で、彼女は「私はこういう人間です」と直接語ってしまいます。「私ってこういう人間なの」と自ら説明する人間を興味深く感じることができるでしょうか。以下、文との出会いの回想に至るまでの部分は本来作者の「メモ」であるべき部分で、「霊歌とはいかなる人物であるか」は出来事なり会話なりから読者に感じさせるべきでしょう。
>1様
コメントありがとうございます。
霊夢たちは友人としてこんなやり取りしてるんだろうなぁ、と考えながら書いたので、気に入ってくださって嬉しいです。
>奇声を発する程度の能力様
ありがとうございます。そう言ってくださると嬉しいです。
>4様
コメントありがとうございます。展開について気に入ってくださって嬉しいです。
本来長命である妖怪にとって「語り継ぐ」という行為は確かに「人間的」なものなのかもしれません。
>5様
丁寧なご指摘ありがとうございました。
改めて見てみたのですが、確かに主要キャラクターの描写についてはもったいない点が目立っていると感じました。特に7の霊歌の点についてはせっかくの良さを自分で崩してしまっていますね…
オリジナルキャラクターを作るのが今回初めてということもあって、彼女のキャラが読者に本当に伝わるかと考えすぎたこと、どうしても説明したい欲が自分の中で出てしまったことは否めません。気付かせてくださりありがとうございました。
本作品、自分にとって思い入れのある作品になりましたので、こうした点を出来る限り改善させた改稿版もいつかこちらに投稿したいと考えています。その時はまた、何卒よろしくお願いします。
以後もまたコメントなど、お待ちしております。
勢いで突き進むキャラとして描かれている文が、とても良かったです。特に6段の、勢いよく始まって、ふと冷静になる緩急など個人的にすごく好みでした。
>alfieri様
お読みくださりありがとうございました!
文の勢いのままに進むキャラは、やりすぎたかな、と書いてて考えることもありましたが(笑)、その点を気に入ってくださり良かったです。今作の文は書いててとっても楽しかったです。