頭が重い。開けた視界も靄がかかったようにぼやけている。どこか二日酔いにも似た気分。いや、性質の悪い夏風邪に近いな。熱に浮かれて茹った頭は別の人間のもののようだ。自分の腕枕から少しずつ顔を上げてみる。どうやら机に突っ伏して眠ってしまったらしい。上手く頭が回らない。私は手をこめかみに当てて少し項垂れた。まだ寝ぼけている。眠る前の記憶が思い出せない。思い出すのも億劫な気分だ。どうにも脱力感が身体を襲ってならない。王子様の口付けで目覚めた御伽噺のお姫様もこんな感じなのだろうか。なんて、柄にも無いことまで考える。
「おはよう魔理沙。よく眠れたかしら?」
奥の部屋からアリスがティーカップを二つほど持って現れた。ようやく焦点が合ってきた眼球を動かす。一人暮らしにぴったりの狭い部屋に夥しいほどの人形。ファンシーな者もいれば倫理観ギリギリの妙に生々しい者まで千差万別に部屋を彩っている。そのほかのアンティークはほとんどない。まるで人形以外に興味がないのだろう、この家の住人は。
絵本の中でみた女の子の家と似ている。現実味がない、そうこの部屋は彼女の城だ。目の前に置かれたカップに若葉色の液体が注がれる。ミントの香りが脳髄にいい刺激を与えてくれた。
「あぁ……悪いアリス。私どれぐらい寝てた?」
「朝方急に遊びに来てから今までグッスリ。また徹夜でもしたの?」
「んぅ……憶えてないけど、たぶんそうかもしれない……」
「まったく。私と違ってあなたは人間なんだから。無理して身体壊したら元も子もないわよ」
ティーカップに口をつけ、黙ってアリスの小言を聞き入れる。研究に熱中すると寝食まで忘れてしまうのは私の悪い癖だ。ぶっ倒れては永遠亭の面倒になったりもしている。霊夢からも何度怒られたか。こういう時、アリスのように人間を辞められたらずっと楽なのになと物思いに耽るときもある。大抵こういうとパチェリーに怒られるのだが。彼女曰く私は幻想郷で最も人間らしい人間であるようだ。そんな天然記念物をむざむざ妖怪にしたくないらしい。私は見世物小屋の珍獣じゃないっつーの。
「ま、可愛い寝顔をいっぱい堪能できたから私は一向に構わなくてよ」
「くそう、私としたことが不覚だったぜ……」
「フフ、クッキー焼いたから機嫌直しなさいな」
「そうやっていつも食べ物で釣ろうとするんだもんなぁ」
「ちゃんと釣られてくれるじゃない」
焼きたてのクッキーを一個口へと運んだ。胡桃の香ばしい匂いが口の中で弾ける。アリスはずるい。私がこれで懐柔できることを知っててやっているのだから。まるで私は彼女が糸を手繰らすマリオネット。アリスが笑うと胸がときめき、アリスが泣くと右往左往する。彼女の一挙手一投足に振り回され、その掌で踊らされる哀れな道化師。気づいていた。でも、気づかないフリをし続けていた。この感情が、単なる女同士の友情ではないことを。許されざる想いなのだということを。広い帽子の鍔の影からアリスを見つめた。職人が作り上げた西洋の人形を髣髴させる。髪はフワリと柔らかな金糸を用い、瞳は最高級の瑠璃玉をあしらった芸術作品。彼女の前では美の女神でさえ霞んで見える。少なくとも私にはそう思える。
「……どうしたの? じっと見つめて」
「……何でもない」
照れ隠しのために帽子で顔を隠す。たぶん仄かに紅潮しているだろうから。
◆
――ニャーン
「ん? 猫?」
人形の山の中から一匹の黒猫が飛び出してきた。艶やかな毛並みに金色の瞳。魔女が使役していそうな知的で冷ややかなイメージが見て取れる。だがパチェリーは基本毛のある動物が苦手だ。喘息のほかにアレルギーも誘発されたら堪らないとか。黒猫は躊躇うことなく椅子に座っているアリスの膝に乗り丸くなった。アリスが身体を撫でてやると心地よさそうに喉を鳴らしている。可愛い。
「いつの間に猫なんか飼い始めたんだ?」
「ちょっと前に博麗神社の軒下で捨てられていたのを拾ったのよ」
「へぇ……でも意外だな、お前が人形と魔法以外に興味を持つなんてな」
私は少し安心した。彼女と共有できる話題が増えたことに。私も基本動物が好きだ。家にも一匹ツチノコを飼っている。蛇のようだが私の胸に飛び掛って甘えてくるところなんか悶え死ぬ。アリスもそんな愛玩動物の魅力に取り付かれたなら私たちの距離も近づくだろうか。彼女はただ猫の喉を撫でていた。しかしその表情に愛しさのようなものがない。飾られている人形のようにどこか無機質な感じだ。
「……アリス?」
「私は変わっていないわ。今も昔も人形以外に毛ほどの興味も持っていない」
「え、じゃ。その猫は……?」
「……あぁ、コレ?」
――グギンッ!
アリスはいきなり黒猫の頭を鷲掴みにすると、そのまま首の骨を圧し折った。鈍い音が部屋に響き渡る。あまりに一瞬のことで、私の思考回路は事情に追いついていない。ビクッと一回猫の身体が痙攣を起こす。それが死に対するささやかな抵抗だったのだろうか。猫はアリスの膝の上で事切れた。瑠璃色の瞳が冷ややかに猫の死体を見下ろす。そして用無しとばかりにその死骸を指でつまんで窓から投げ捨てた。そこでやっと私は正気を取り戻す。
「あ……あ、アリス? おま……お前自分で……何やって」
――ニャーン
私が途切れ途切れに彼女を問い詰めようとしたとき、猫の鳴き声が部屋の隅から聞こえてきた。振り返ると黒猫が眠たそうに欠伸をしながら私の足に擦り寄ってくる。艶のある毛並みに黄金の瞳、アリスの膝の上に乗っているのとまるっきり同じ。双子? いやそれにしても似過ぎている。容姿に関してはまるで鏡に映したようにそっくりだ。困惑している私をよそに、アリスは落ち着いたようすでハーブティーのおかわりを淹れている。
「魔理沙、私の至上目的って言える?」
「……完全に自己意識で行動できる人形を造ることだったか」
「そ。そしてこの子達はその足懸かり的な意味合いを持っているの」
私は足元でじゃれついていた黒猫を抱え上げ、膝に乗せる。撫でた感触。体毛の柔らかさ。しなやかな筋肉。所々出っ張る骨。伝わる体温。呼吸と心臓の鼓動。感じられる魂の存在。およそ人形とは思えない。本物の生物。それじゃ今アリス側の猫が人形か。それでもまったく見分けがつかない。するとアリスはクッキーを一口齧って私に突きつけた。
「魔理沙、あなたこのクッキー作れる?」
「いや……菓子類は作ったことないからどうにも……咲夜あたりなら作れるかもしれないけど」
「違うわ魔理沙。私が言っているのはこの“一齧りされたクッキー”よ。恐らく咲夜はこの皿に盛られている“胡桃入りクッキー”を作ることはできるわ。それも私より遥かに美味しく作るでしょうね。でも彼女は私が手にしているクッキーを作り出すことはできない。寸分の狂いもなく、鏡写しのように」
それはそうだ。咲夜の料理の腕でも世界に一つしかないものをもう一つ作り出すなんて神業できるはずがない。そしてそれは例え神様であっても不可能なことじゃないのか。万物を創造する神であっても、一個体の模造なんて。
アリスは本棚の奥から分厚い本を取り出し机に置いた。中身を見た瞬間、私はつい目を背けてしまった。あまりにもリアリティに描かれた人間の解剖図。生々しいなんてものじゃない。腹部を切開され、露わになった内臓の絵から今にも臭気と温い空気が漂ってきそうだ。四肢の筋肉、心臓の細やかなスケッチ、眼球の解剖図。頭を切り取ってその中身が外気に触れているところなんか、あまりの嫌悪感に吐き気を覚える。それでもアリスは淡々と頁に描かれた肉塊を眺めていた。台所で調理する獣の肉と同意のモノを見るように。そんな彼女の眼が異様に恐ろしく思えた。
「永遠亭の永琳から借りたのよ。彼女が来てくれて私の研究は大きく前進できたわ。今まで外見だけを木や布で作っていた。けどそれじゃ、生きるための“器”としてあまりにも不十分だったのよ。とても新鮮だったわ。私たちが動かしている身体の中にはこんなものが詰まっているのかと感動すら覚えた。そしてこう考えた。今まで木で作っていた人形を動物の肉を使って造ればどうなるのだろうと。その中に骨をはめ込み、腱で繋ぎ止め、血管を通し、神経を張り巡らせ、内臓を詰め、眼球を埋め、脳髄をはめ込み、横隔膜を動かして呼吸させ、心臓を動かして血を廻らせればどうなるだろうと」
腕の中で猫が暢気に鳴き声をあげる。私は身じろぎもせず、彼女の迫力に終始圧倒されていた。アリスの研究理念が完成されようとしている。長年追い求めた答えに今辿り着こうとしているのだ。それはとても喜ばしいこと、それなのに。なぜ私はこんなにも不安なのだろう。真理を獲得したアリスは、はたして私が知っているアリスであるだろうか。彼女が遠い。手を伸ばせば触れられる距離にいるのに、別の次元にいるみたいだ。私の腕の中からアリスがいなくなってしまう。そんな想いが怖くて、自然と涙がこみ上げてきた。けど流れない。私の中の瑣末な自尊心が彼女の前で泣くのを拒んだ。
アリスは人形を動かし、床板の一部を外させた。そこには地下へと続く階段がぽっかりと口を開けている。底が見えない。誘っている様だ、深淵のさらに奥深い闇へと。アリスは解剖図を本棚に戻すとその階段の前に立つ。
「おいで魔理沙。あなたにだけ、真実を教えてあげる」
アリスが一歩進むごとに色白の肌が黒に飲み込まれていく。足首から膝、ついに下半身が見えなくなった。私はスカートの裾をギュッと握り締め、恐る恐る歩を進める。恐怖が四肢を縛り付ける。何本もの見えない糸が私の動きを、思考を拘束する。階段の前に立つと異様な暖かさに鳥肌が立った。春の陽気、ティーカップからの湯気、冬場の羽毛布団の中。そんな気持ちのいいものじゃない。ねっとりと私の身体を嘗め回すような、気味の悪い人間の呼気。胃液がこみ上げて来る。生臭い。それと少しばかり鉄錆の臭いもする。生理的に好む好まないじゃない。本能が告げる。ここに入ったらいけないと。
それでも私は暗闇へと足を踏み入れた。アリスの姿がすでに無くなり掛けていたから。飛んで火にいる夏の蟲。まるで行灯に群がる羽虫のように、私はアリスの後を追った。階段は人一人入るのがやっとなほど狭い。両の壁に手がつけられるほどだ。温く湿った空気が私の嫌悪感をより増幅させる。外で嗅いだ悪臭も下へ降りるほどに濃密なものとなっていた。ハンカチで口と鼻を押さえ、アリスの持つ明かりを頼りに奥へと進む。
徐々に道幅も広がっていき、向こうのほうに明かりが見て取れた。そこは人形を造る工房というより実験施設のような雰囲気を持った部屋。四方八方を白い壁で覆われているこの空間は、清潔感に溢れている。しかし違和感は尽きない。潔癖すぎるほどの白さは異質、異端を排除するような圧力を感じる。まさしく私は異端なのだろう。部屋の中央には人一人分ぐらいの大きさを持つ机が置いてあり、その上に何かが乗っている。何なのかは布に隠れてわからない。その近くには小さな刃物や鋏のようなものが置かれた台が。一体ここで何が行われていたのか、私には皆目見当がつかない。
「素材の確保には苦労しなかったわ。まだ幻想郷の埋葬法が土葬だったから、適当に墓を発いて死体引っ張り出して。それで足りなかったらそこらへんの妖怪殺したりして。最初は鼠から始まって、猫、鴉、犬、子供。私が造り上げた人形が私の手を離れて動きまわる様子を見て凄く嬉しかったわ。やっと夢が叶うんだって、努力が報われたって。それにね、動物の細胞を魔法で弄るとね、その動物が過してきた記憶まで継承されるのよ! 凄いと思わない魔理沙!」
あまりにも無邪気に微笑むアリス、私は彼女の気持ちに共感できなかった。狂気じみた笑顔、マトモな思考じゃない。常識度外視の幻想郷であるが、それでも彼女の行動は常軌を逸している。そのときパチェリーが私に言っていたことを思い出した。そう、私が彼女に「こんな薄暗い場所に何百年もいて気が狂わないか?」と聞いた時。
――人間と妖怪はね何もかも違うのよ。容姿が似ているだけで、まったく異質のものと捉えていたほうが身のため。いい魔理沙、いくら努力しても人間的思考をしているあなたに妖怪の思考を理解することなどできないわ。
こういうことなのか。知人であっても、友達であっても、惚れた女であっても。私は彼女の狂気を見抜くことができなかった。これが人間と妖怪の違い。決して超えることの無い隔たり。立ち眩みのような症状が襲い掛かる。意識がどこかへ、この辛い現実から逃げ出すように。グラリとよろめき中央の机に手をつく。ここにいたくない。今すぐ逃げ出したい。呼吸が苦しい。眩暈がひどくなる。荒い呼吸のまま、私はその机に身体を預ける形をとった。
「大丈夫、魔理沙?」
声がした。アリスの声。前からじゃない。私が凭れ掛かっている、机から。机の上の何から。布が盛り上がり、そこから色白の腕がひょっこり飛び出す。それが自分を纏っていた布を剥がした。そのなかにいたのは。金髪の少女。瑠璃色の瞳を持つ、人形遣い。紛れも無くアリス・マーガトロイドその人だった。
「うわあああああぁぁ!!」
叫び声をあげながら床に尻餅をつく。額や背中から冷や汗が流れ出てきた。五感の感覚が麻痺しているらしい。あれほど気になっていた悪臭がなくなっていた。身体に力が入らない。小刻みに震え、行動をおこすことに拒否反応を示していた。あまりにも衝撃が大きすぎる。そのなかでも理性が繋ぎ止められているのが奇跡に感じられた。
アリスたちは互いに「おはよう」「眠れた?」など友人同士で交わす会話を繰り広げている。自分自身に、話しかけているのだ。シュールを飛び越えてホラーの域に入っている。
「……どっちが、どっちが本物のアリスなんだ?」
私の問いに、二人のアリスは相手の顔を見つめ合った。そしてフッと微笑む。
「私はアリス・マーガトロイドよ。そしてこっちもアリス・マーガトロイド」
「ふざけるなよ! どちらかがどちらかを操ってんだろ! おいアリス!」
彼女たちはただ微笑むだけだった。その常識的な態度が余計に私を混乱させる。どっちだ。どっちが人形で、どっちがアリスなんだ。目を見開く。互いの相違点を探す。髪の毛、瞳、顎のライン、服装、身体のつくり。しかしどうみても二人ともアリスだ。アリス・マーガトロイドなのだ。
「実験と研究を繰り返して、ついに私は自分自身の自立人形を造り上げることに成功したの」
「互いにアリス・マーガトロイドという存在でありながら、ちゃんとした自我を持ち行動することが出来る。どっちがどっちの模造じゃないの。どちらも一個体。アリス・マーガトロイドがこの幻想郷には二人以上いるということ」
「……どちらが本物ということじゃないのか?」
「本物、というのは最初にアリスを作ったアリスということ? ならば私たちは違うわ。私たちは自分を量産しその過程を記録し研究した。すでに本物が誰なのか私たち自身でさえ判断がつかない状況なのよ」
アリスが二人。アリス・マーガトロイドが等しく二人いる。アリス以上でも以下でもない。自分の等身大が今隣に立っている。そして二人ともオリジナルではないことを自覚している。自分は造られた存在なのだと。なぜ、自我を保っていられる。自分以外の自分がまだほかにいるというのに。
「……何故? 先に造られようが後に造られようが私がアリス・マーガトロイドに変わりないじゃない」
「そして自分での実験に成功したアリスは……次の研究にとりかかったのよ」
二人のアリスはニヤリと同時に微笑んだ。その時、階段の上から声が聞こえてくる。
――おーい、アリス! 遊びにきてやったぜ!
身体が動いていた。這うように階段を駆け上がる。嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ。嘘に決まっている。悪い嘘。そんなはずがない。そんなはずが。だって私はここにいるんだから。だから、だから“私の声”が聞こえてくるはずが無い。湿った階段で何度足を滑らしたか。そのたびに足を強打する。速く、速く真実を。足を動かす。壁を伝い、一気に。見えた。外の光。そこへ。速く――!
「うわっ! びっくりした。私? 凄ぇ、よくできてるな」
私の登場に驚いている少女。縮れ毛の金髪。モノクロが特徴的な服装。唾の大きい帽子。私はよくその子を知っている。霧雨魔理沙。彼女の、私の名前。あんなに荒れていた呼吸が止まる。何も考えられない。彼女は誰だ。私は、私は一体。
「お……おま……――!?」
首に走る激痛。細い針のようなもので突き刺されたようだ。叫び声をあげようにも後ろから口を塞がれ鼻息しかだせない。柔らかい細指。女性的な手だった。段々視界がぼやけていく。意識が朦朧となるなか、後ろの彼女は私にそっと耳打ちした。
「実験は成功したわ。五感も自我もちゃんとあるようね。それじゃまた少し眠ってて魔理沙」
いつの間にか床に横たわっていた。遠くのほうで私とアリスの話し声が聞こえる。何を言っているのか聞き取れない。身体から魂が抜けていくような気分。徐々に深い睡魔が襲ってきた。死とは少し違う。ただ眠るだけ。薄れ行く意識の中、私は右の手首に彫られた文字をじっと眺めていた。
――試験番号 001 霧雨 魔理沙
「おはよう魔理沙。よく眠れたかしら?」
奥の部屋からアリスがティーカップを二つほど持って現れた。ようやく焦点が合ってきた眼球を動かす。一人暮らしにぴったりの狭い部屋に夥しいほどの人形。ファンシーな者もいれば倫理観ギリギリの妙に生々しい者まで千差万別に部屋を彩っている。そのほかのアンティークはほとんどない。まるで人形以外に興味がないのだろう、この家の住人は。
絵本の中でみた女の子の家と似ている。現実味がない、そうこの部屋は彼女の城だ。目の前に置かれたカップに若葉色の液体が注がれる。ミントの香りが脳髄にいい刺激を与えてくれた。
「あぁ……悪いアリス。私どれぐらい寝てた?」
「朝方急に遊びに来てから今までグッスリ。また徹夜でもしたの?」
「んぅ……憶えてないけど、たぶんそうかもしれない……」
「まったく。私と違ってあなたは人間なんだから。無理して身体壊したら元も子もないわよ」
ティーカップに口をつけ、黙ってアリスの小言を聞き入れる。研究に熱中すると寝食まで忘れてしまうのは私の悪い癖だ。ぶっ倒れては永遠亭の面倒になったりもしている。霊夢からも何度怒られたか。こういう時、アリスのように人間を辞められたらずっと楽なのになと物思いに耽るときもある。大抵こういうとパチェリーに怒られるのだが。彼女曰く私は幻想郷で最も人間らしい人間であるようだ。そんな天然記念物をむざむざ妖怪にしたくないらしい。私は見世物小屋の珍獣じゃないっつーの。
「ま、可愛い寝顔をいっぱい堪能できたから私は一向に構わなくてよ」
「くそう、私としたことが不覚だったぜ……」
「フフ、クッキー焼いたから機嫌直しなさいな」
「そうやっていつも食べ物で釣ろうとするんだもんなぁ」
「ちゃんと釣られてくれるじゃない」
焼きたてのクッキーを一個口へと運んだ。胡桃の香ばしい匂いが口の中で弾ける。アリスはずるい。私がこれで懐柔できることを知っててやっているのだから。まるで私は彼女が糸を手繰らすマリオネット。アリスが笑うと胸がときめき、アリスが泣くと右往左往する。彼女の一挙手一投足に振り回され、その掌で踊らされる哀れな道化師。気づいていた。でも、気づかないフリをし続けていた。この感情が、単なる女同士の友情ではないことを。許されざる想いなのだということを。広い帽子の鍔の影からアリスを見つめた。職人が作り上げた西洋の人形を髣髴させる。髪はフワリと柔らかな金糸を用い、瞳は最高級の瑠璃玉をあしらった芸術作品。彼女の前では美の女神でさえ霞んで見える。少なくとも私にはそう思える。
「……どうしたの? じっと見つめて」
「……何でもない」
照れ隠しのために帽子で顔を隠す。たぶん仄かに紅潮しているだろうから。
◆
――ニャーン
「ん? 猫?」
人形の山の中から一匹の黒猫が飛び出してきた。艶やかな毛並みに金色の瞳。魔女が使役していそうな知的で冷ややかなイメージが見て取れる。だがパチェリーは基本毛のある動物が苦手だ。喘息のほかにアレルギーも誘発されたら堪らないとか。黒猫は躊躇うことなく椅子に座っているアリスの膝に乗り丸くなった。アリスが身体を撫でてやると心地よさそうに喉を鳴らしている。可愛い。
「いつの間に猫なんか飼い始めたんだ?」
「ちょっと前に博麗神社の軒下で捨てられていたのを拾ったのよ」
「へぇ……でも意外だな、お前が人形と魔法以外に興味を持つなんてな」
私は少し安心した。彼女と共有できる話題が増えたことに。私も基本動物が好きだ。家にも一匹ツチノコを飼っている。蛇のようだが私の胸に飛び掛って甘えてくるところなんか悶え死ぬ。アリスもそんな愛玩動物の魅力に取り付かれたなら私たちの距離も近づくだろうか。彼女はただ猫の喉を撫でていた。しかしその表情に愛しさのようなものがない。飾られている人形のようにどこか無機質な感じだ。
「……アリス?」
「私は変わっていないわ。今も昔も人形以外に毛ほどの興味も持っていない」
「え、じゃ。その猫は……?」
「……あぁ、コレ?」
――グギンッ!
アリスはいきなり黒猫の頭を鷲掴みにすると、そのまま首の骨を圧し折った。鈍い音が部屋に響き渡る。あまりに一瞬のことで、私の思考回路は事情に追いついていない。ビクッと一回猫の身体が痙攣を起こす。それが死に対するささやかな抵抗だったのだろうか。猫はアリスの膝の上で事切れた。瑠璃色の瞳が冷ややかに猫の死体を見下ろす。そして用無しとばかりにその死骸を指でつまんで窓から投げ捨てた。そこでやっと私は正気を取り戻す。
「あ……あ、アリス? おま……お前自分で……何やって」
――ニャーン
私が途切れ途切れに彼女を問い詰めようとしたとき、猫の鳴き声が部屋の隅から聞こえてきた。振り返ると黒猫が眠たそうに欠伸をしながら私の足に擦り寄ってくる。艶のある毛並みに黄金の瞳、アリスの膝の上に乗っているのとまるっきり同じ。双子? いやそれにしても似過ぎている。容姿に関してはまるで鏡に映したようにそっくりだ。困惑している私をよそに、アリスは落ち着いたようすでハーブティーのおかわりを淹れている。
「魔理沙、私の至上目的って言える?」
「……完全に自己意識で行動できる人形を造ることだったか」
「そ。そしてこの子達はその足懸かり的な意味合いを持っているの」
私は足元でじゃれついていた黒猫を抱え上げ、膝に乗せる。撫でた感触。体毛の柔らかさ。しなやかな筋肉。所々出っ張る骨。伝わる体温。呼吸と心臓の鼓動。感じられる魂の存在。およそ人形とは思えない。本物の生物。それじゃ今アリス側の猫が人形か。それでもまったく見分けがつかない。するとアリスはクッキーを一口齧って私に突きつけた。
「魔理沙、あなたこのクッキー作れる?」
「いや……菓子類は作ったことないからどうにも……咲夜あたりなら作れるかもしれないけど」
「違うわ魔理沙。私が言っているのはこの“一齧りされたクッキー”よ。恐らく咲夜はこの皿に盛られている“胡桃入りクッキー”を作ることはできるわ。それも私より遥かに美味しく作るでしょうね。でも彼女は私が手にしているクッキーを作り出すことはできない。寸分の狂いもなく、鏡写しのように」
それはそうだ。咲夜の料理の腕でも世界に一つしかないものをもう一つ作り出すなんて神業できるはずがない。そしてそれは例え神様であっても不可能なことじゃないのか。万物を創造する神であっても、一個体の模造なんて。
アリスは本棚の奥から分厚い本を取り出し机に置いた。中身を見た瞬間、私はつい目を背けてしまった。あまりにもリアリティに描かれた人間の解剖図。生々しいなんてものじゃない。腹部を切開され、露わになった内臓の絵から今にも臭気と温い空気が漂ってきそうだ。四肢の筋肉、心臓の細やかなスケッチ、眼球の解剖図。頭を切り取ってその中身が外気に触れているところなんか、あまりの嫌悪感に吐き気を覚える。それでもアリスは淡々と頁に描かれた肉塊を眺めていた。台所で調理する獣の肉と同意のモノを見るように。そんな彼女の眼が異様に恐ろしく思えた。
「永遠亭の永琳から借りたのよ。彼女が来てくれて私の研究は大きく前進できたわ。今まで外見だけを木や布で作っていた。けどそれじゃ、生きるための“器”としてあまりにも不十分だったのよ。とても新鮮だったわ。私たちが動かしている身体の中にはこんなものが詰まっているのかと感動すら覚えた。そしてこう考えた。今まで木で作っていた人形を動物の肉を使って造ればどうなるのだろうと。その中に骨をはめ込み、腱で繋ぎ止め、血管を通し、神経を張り巡らせ、内臓を詰め、眼球を埋め、脳髄をはめ込み、横隔膜を動かして呼吸させ、心臓を動かして血を廻らせればどうなるだろうと」
腕の中で猫が暢気に鳴き声をあげる。私は身じろぎもせず、彼女の迫力に終始圧倒されていた。アリスの研究理念が完成されようとしている。長年追い求めた答えに今辿り着こうとしているのだ。それはとても喜ばしいこと、それなのに。なぜ私はこんなにも不安なのだろう。真理を獲得したアリスは、はたして私が知っているアリスであるだろうか。彼女が遠い。手を伸ばせば触れられる距離にいるのに、別の次元にいるみたいだ。私の腕の中からアリスがいなくなってしまう。そんな想いが怖くて、自然と涙がこみ上げてきた。けど流れない。私の中の瑣末な自尊心が彼女の前で泣くのを拒んだ。
アリスは人形を動かし、床板の一部を外させた。そこには地下へと続く階段がぽっかりと口を開けている。底が見えない。誘っている様だ、深淵のさらに奥深い闇へと。アリスは解剖図を本棚に戻すとその階段の前に立つ。
「おいで魔理沙。あなたにだけ、真実を教えてあげる」
アリスが一歩進むごとに色白の肌が黒に飲み込まれていく。足首から膝、ついに下半身が見えなくなった。私はスカートの裾をギュッと握り締め、恐る恐る歩を進める。恐怖が四肢を縛り付ける。何本もの見えない糸が私の動きを、思考を拘束する。階段の前に立つと異様な暖かさに鳥肌が立った。春の陽気、ティーカップからの湯気、冬場の羽毛布団の中。そんな気持ちのいいものじゃない。ねっとりと私の身体を嘗め回すような、気味の悪い人間の呼気。胃液がこみ上げて来る。生臭い。それと少しばかり鉄錆の臭いもする。生理的に好む好まないじゃない。本能が告げる。ここに入ったらいけないと。
それでも私は暗闇へと足を踏み入れた。アリスの姿がすでに無くなり掛けていたから。飛んで火にいる夏の蟲。まるで行灯に群がる羽虫のように、私はアリスの後を追った。階段は人一人入るのがやっとなほど狭い。両の壁に手がつけられるほどだ。温く湿った空気が私の嫌悪感をより増幅させる。外で嗅いだ悪臭も下へ降りるほどに濃密なものとなっていた。ハンカチで口と鼻を押さえ、アリスの持つ明かりを頼りに奥へと進む。
徐々に道幅も広がっていき、向こうのほうに明かりが見て取れた。そこは人形を造る工房というより実験施設のような雰囲気を持った部屋。四方八方を白い壁で覆われているこの空間は、清潔感に溢れている。しかし違和感は尽きない。潔癖すぎるほどの白さは異質、異端を排除するような圧力を感じる。まさしく私は異端なのだろう。部屋の中央には人一人分ぐらいの大きさを持つ机が置いてあり、その上に何かが乗っている。何なのかは布に隠れてわからない。その近くには小さな刃物や鋏のようなものが置かれた台が。一体ここで何が行われていたのか、私には皆目見当がつかない。
「素材の確保には苦労しなかったわ。まだ幻想郷の埋葬法が土葬だったから、適当に墓を発いて死体引っ張り出して。それで足りなかったらそこらへんの妖怪殺したりして。最初は鼠から始まって、猫、鴉、犬、子供。私が造り上げた人形が私の手を離れて動きまわる様子を見て凄く嬉しかったわ。やっと夢が叶うんだって、努力が報われたって。それにね、動物の細胞を魔法で弄るとね、その動物が過してきた記憶まで継承されるのよ! 凄いと思わない魔理沙!」
あまりにも無邪気に微笑むアリス、私は彼女の気持ちに共感できなかった。狂気じみた笑顔、マトモな思考じゃない。常識度外視の幻想郷であるが、それでも彼女の行動は常軌を逸している。そのときパチェリーが私に言っていたことを思い出した。そう、私が彼女に「こんな薄暗い場所に何百年もいて気が狂わないか?」と聞いた時。
――人間と妖怪はね何もかも違うのよ。容姿が似ているだけで、まったく異質のものと捉えていたほうが身のため。いい魔理沙、いくら努力しても人間的思考をしているあなたに妖怪の思考を理解することなどできないわ。
こういうことなのか。知人であっても、友達であっても、惚れた女であっても。私は彼女の狂気を見抜くことができなかった。これが人間と妖怪の違い。決して超えることの無い隔たり。立ち眩みのような症状が襲い掛かる。意識がどこかへ、この辛い現実から逃げ出すように。グラリとよろめき中央の机に手をつく。ここにいたくない。今すぐ逃げ出したい。呼吸が苦しい。眩暈がひどくなる。荒い呼吸のまま、私はその机に身体を預ける形をとった。
「大丈夫、魔理沙?」
声がした。アリスの声。前からじゃない。私が凭れ掛かっている、机から。机の上の何から。布が盛り上がり、そこから色白の腕がひょっこり飛び出す。それが自分を纏っていた布を剥がした。そのなかにいたのは。金髪の少女。瑠璃色の瞳を持つ、人形遣い。紛れも無くアリス・マーガトロイドその人だった。
「うわあああああぁぁ!!」
叫び声をあげながら床に尻餅をつく。額や背中から冷や汗が流れ出てきた。五感の感覚が麻痺しているらしい。あれほど気になっていた悪臭がなくなっていた。身体に力が入らない。小刻みに震え、行動をおこすことに拒否反応を示していた。あまりにも衝撃が大きすぎる。そのなかでも理性が繋ぎ止められているのが奇跡に感じられた。
アリスたちは互いに「おはよう」「眠れた?」など友人同士で交わす会話を繰り広げている。自分自身に、話しかけているのだ。シュールを飛び越えてホラーの域に入っている。
「……どっちが、どっちが本物のアリスなんだ?」
私の問いに、二人のアリスは相手の顔を見つめ合った。そしてフッと微笑む。
「私はアリス・マーガトロイドよ。そしてこっちもアリス・マーガトロイド」
「ふざけるなよ! どちらかがどちらかを操ってんだろ! おいアリス!」
彼女たちはただ微笑むだけだった。その常識的な態度が余計に私を混乱させる。どっちだ。どっちが人形で、どっちがアリスなんだ。目を見開く。互いの相違点を探す。髪の毛、瞳、顎のライン、服装、身体のつくり。しかしどうみても二人ともアリスだ。アリス・マーガトロイドなのだ。
「実験と研究を繰り返して、ついに私は自分自身の自立人形を造り上げることに成功したの」
「互いにアリス・マーガトロイドという存在でありながら、ちゃんとした自我を持ち行動することが出来る。どっちがどっちの模造じゃないの。どちらも一個体。アリス・マーガトロイドがこの幻想郷には二人以上いるということ」
「……どちらが本物ということじゃないのか?」
「本物、というのは最初にアリスを作ったアリスということ? ならば私たちは違うわ。私たちは自分を量産しその過程を記録し研究した。すでに本物が誰なのか私たち自身でさえ判断がつかない状況なのよ」
アリスが二人。アリス・マーガトロイドが等しく二人いる。アリス以上でも以下でもない。自分の等身大が今隣に立っている。そして二人ともオリジナルではないことを自覚している。自分は造られた存在なのだと。なぜ、自我を保っていられる。自分以外の自分がまだほかにいるというのに。
「……何故? 先に造られようが後に造られようが私がアリス・マーガトロイドに変わりないじゃない」
「そして自分での実験に成功したアリスは……次の研究にとりかかったのよ」
二人のアリスはニヤリと同時に微笑んだ。その時、階段の上から声が聞こえてくる。
――おーい、アリス! 遊びにきてやったぜ!
身体が動いていた。這うように階段を駆け上がる。嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ。嘘に決まっている。悪い嘘。そんなはずがない。そんなはずが。だって私はここにいるんだから。だから、だから“私の声”が聞こえてくるはずが無い。湿った階段で何度足を滑らしたか。そのたびに足を強打する。速く、速く真実を。足を動かす。壁を伝い、一気に。見えた。外の光。そこへ。速く――!
「うわっ! びっくりした。私? 凄ぇ、よくできてるな」
私の登場に驚いている少女。縮れ毛の金髪。モノクロが特徴的な服装。唾の大きい帽子。私はよくその子を知っている。霧雨魔理沙。彼女の、私の名前。あんなに荒れていた呼吸が止まる。何も考えられない。彼女は誰だ。私は、私は一体。
「お……おま……――!?」
首に走る激痛。細い針のようなもので突き刺されたようだ。叫び声をあげようにも後ろから口を塞がれ鼻息しかだせない。柔らかい細指。女性的な手だった。段々視界がぼやけていく。意識が朦朧となるなか、後ろの彼女は私にそっと耳打ちした。
「実験は成功したわ。五感も自我もちゃんとあるようね。それじゃまた少し眠ってて魔理沙」
いつの間にか床に横たわっていた。遠くのほうで私とアリスの話し声が聞こえる。何を言っているのか聞き取れない。身体から魂が抜けていくような気分。徐々に深い睡魔が襲ってきた。死とは少し違う。ただ眠るだけ。薄れ行く意識の中、私は右の手首に彫られた文字をじっと眺めていた。
――試験番号 001 霧雨 魔理沙
次も楽しみにしています
パチュリー
一度も右手首を見る機会が無かったのがすこし不思議に思ったり。
クッキー食べたり紅茶を飲んだりしていたのに、一度も目に入らないとは。
「人形とバレないように左利き、に作った」とか、
「彫られた文字が小さかった」とかでしょうか。