――"蓬莱の人の形"って言うだけはあるだろ?
――私の方が、美人。
そんなどうでもいいセリフも覚えてる。
長い永い人生の果てに、いつか色あせ忘れてしまう時が訪れるのだとしても。
小さな友達がいた事は、きっと忘れない。
◆◇◆◇◆
八人四組による肝試しの翌日。
リザレクションのしすぎで筋肉痛になった彼女は、
霧の漂う迷いの竹林を歩くのに竹製の杖を使っていた。
長年、竹林に住んでいるため竹細工はお手の物、この杖も彼女の手作りだ。
お金を得るために、友人に竹細工を渡して売ってきてもらう事もあった。
という訳で、彼女は器用である。天性の物ではなく、経験によって。
そんな彼女の杖が異物をえぐり、危うくバランスを崩しかける。
「ん、何だろう」
その場に膝をついて、それを拾ってみる。
「何でこんな所にこんな物が」
杖によって腕が破砕されたそれを見つめ、見覚えがあるように感じたが、
長年生きていればどこかで同じようなデザインを見た事もあるだろうと自己完結。
生活圏である竹林にゴミ(落し物かもしれない)が捨てられていていい気はしないし、
彼女はそれを家に持ち帰る事にした。
彼女だって女の子なのだから、こういのは嫌いじゃない。
迷い竹林の奥深く、隠れるようにたたずむ小さな家に、蓬莱の人の形こと藤原妹紅は住んでいた。
永遠亭の者達ですら正確な所在を知らぬこの場所に迷わずやって来られるのは、
妹紅を除けば友達である上白沢慧音くらいのものだろう。
「ううん……。ぬいぐるみなら裁縫で何とかなるんだけどな……」
汚れた西洋人形を磨き終えた妹紅は、壊れた箇所の修理を試みていた。
一番酷いのは杖で潰してしまった左腕。球体関節は無事だが、肘のやや先からへし折れている。
ヒビの入った瞳は青のガラス玉で、多少の魔力が込められているようだ。
お日様のような金色の髪はすっかり乱れ、後でくしを入れてやらねばなるまい。
衣装は正統派メイド服というか、紺色の衣装に白いエプロンを着ており、頭と胸元には赤いリボン。
とはいえ、今人形は服を全部脱がされている。
なぜか服は焦げていたし、霧の湿気もあり泥がついて汚れていたからだ。
脱がされた人形は、ちゃんとドロワーズまで履かせてあったので、ちょっぴり感心する妹紅であった。
「とりあえず、スカートなら何とかなるか」
焦げた部分をハサミで切って、近い色の生地を縫いつければ、それなりに見栄えはよくなるだろう。
「その前に洗濯かな〜。けど、このまま裸っていうのもね」
妹紅は、自分の髪を結んでいたリボンを解くと人形の身体にクルクルと巻きつけた。
胸元から右肩、左の腰から右の腰へと回して、左肩から胸元へ。
リボンを広げながら改めて腰に巻いてスカートに見立てる。
これでちょっとしたドレスに見えなくもない。
裸に……リボン。
冷静に考えると破廉恥だが、細いリボンで秘部だけ隠すタイプではないので破廉恥ではない。
そもそも西洋人形をスッポンポンにひん剥いて、
リボンを巻きつけて興奮するような輩など幻想の産物であろう。
ああ、何て素敵な幻想郷。
「こんなもんかな」
へし折れた腕は、材質がよく解らなかったので、接着に何を使うべきか判断に困り、
今度慧音に相談すればいいと、妹紅は包帯で結びつけた。
自分が壊してしまったのだから、人形だとしても治療をしてやるべきだという考えもあり、
痛くないよう気を遣って、本当に人間の手当てをするようにしてやった。
優しすぎる。普段の妹紅なら、筋肉痛の身体でそこまではしない。
でも、昨日は楽しかったから、今日もいい気分で、気持ちにゆとりがあったのかもしれない。
輝夜以外との全力勝負。一勝三敗とはいえ、ああ、生きているのだと実感できた。
だから、今日の妹紅は優しい。
筋肉痛の影響もあって妹紅はこの日、あまり外出をしなかった。
散歩を除けば、ちょっと水を汲みに行く程度。
だから今日、竹林に迷い込んだ方はご愁傷様。
幸運の兎さんでも見つけるか、自力で竹林を抜けてくださいな。
翌日になって、慧音が訪ねて来た。
「この前の夜は散々だったな。……昨日は来れなくてすまない。
不死身の力を持つ"蓬莱の人の形"とはいえ、酷い筋肉痛だったろう」
「いや、いいさ。あいつ等が来た時、仕事を放り出してまで駆けつけてくれたんだもの。
昨日は割かしのんびりできたよ。散歩して、人形なんか拾ってさ」
片手に熱々のお茶を持った妹紅は、足を崩して楽しげに笑っていた。
行儀よく正座している慧音は、たっぷりと黒蜜のかかった葛餅を竹のスプーンで一口食べる。
「人形か。竹林で? よくもまあ、こんな所まで来て落としたものだ」
「西洋人形だから、寺子屋の子のって訳じゃないよね」
「そもそも、うちの生徒達には竹林に入らないようきつく言ってある。落とし主は誰だろうな」
「ちょっと壊れてるんだけどさ」
ちゃぶ台に湯飲みを置いて立ち上がると、妹紅は棚の上にある西洋人形を取って戻ってきた。
洗濯と元通りの服で、髪は綺麗にくしで梳かれ、すっかり汚れは落ちている。
とはいえスカートのつぎはぎは不恰好で、左手も服の下では折れたままになっているし、
左目の青いガラス玉はヒビが入ってしまっている。
「結構いい人形だな……これは修理代も相当かかるんじゃないか?
腕は、造り直さないといけないだろう。材質は解らないな」
「自分で直してみようかな、時間はたっぷりあるし」
「服はいっそ、新しく縫ったらどうだ? せっかく綺麗な人形なんだし。
眼は……顔を外して入れ替えればいいのかな。継ぎ目は? 無いな?
というか、これは普通の人形なのか? 少々、不可思議な力を感じるが」
「マジックアイテムの一種かな。丑三つ時に神社で……」
「藁人形ではないのだから。しかしこの人形、どこかで見た気がするな……」
「ん……慧音も? そうか、そうだったのか」
「妹紅?」
「解ったぞ、この人形……」
両手でしっかりと人形を持ち上げ、まっすぐにガラス玉の瞳を見つめて妹紅は言った。
「昔からよくあるデザインなんだな」
「成る程。妹紅は流行に疎いものなー」
納得する慧音。
普段竹林に隠れ住んでいる妹紅は、人里の流行には疎いのだ。
同じような感じだった輝夜は、どうやら永夜異変以後、永遠亭ごと露出を始めたらしいが。
(私も、ちょっとは竹林の外に出たり、人里の人間と関わるべきなのかな……)
人形を置いて、お茶をすすっていると、慧音が人形を手に取った。
まじまじとガラス玉の瞳を見つめ、人差し指でかるくつつく。
どうやらガラス玉を入れ替えられないか、方法を模索しているようだ。
「ガラスは高熱で融けたな? 炎を一点集中すれば、ヒビを何とかできないか?」
「人形とはいえ目玉焼きは可哀想だよ……そうだ、お昼は目玉焼きにしよう。
差し入れに卵があったろう? 私が焼くからさ、食べてきなよ」
ふうとため息をついて、慧音は人形から顔を上げる。
「すまない、正午までには人里に戻らなければならないんだ。まだ仕事があって」
「そうか、仕方ないな」
残念そうに、妹紅は葛餅を一口で食べた。さっぱり甘い。
慧音が帰ってから、妹紅は目玉焼きを作ろうとして、やっぱり玉子焼きを作った。
理由は特に無い、ただの気まぐれである。
それはいい。問題は作りすぎてしまった事。
慧音と食べたかったな、なんて思いながら作ったせいだろうか。
「お前が、一緒にご飯を食べられたらなー」
人恋しいのだろうか、西洋人形に話しかけながら、髪を撫でてやるだなんて。
人恋しいのだろう。人ならざる者が、人と共に戦う姿を見たから。
――博麗の巫女と、式任せのスキマ妖怪。コテンパンにのされたっけ。
――人間のメイドと、幼い吸血鬼。ギッタンバッタンにされたっけ。
――半人半霊の剣士と、蝶の如き亡霊。ケチョンケチョンにされたっけ。
――パワー重視の魔法使いと、人形遣い。ギタンギタンにしてやったっけ。
「ん? 人形遣い?」
ようやく妹紅は思い出した。
この拾ってきた人形になぜ、見覚えがあったのか。
「そう、あいつが持ってたんだ。名前は……確か……」
ピン、と指を立てる妹紅の頭上に電球が輝く。
「マリス!」
混ざっていた。
◆◇◆◇◆
作りすぎた玉子焼きを弁当箱に入れて、そして壊れた西洋人形を抱きかかえて、妹紅は出発した。
行き先は博麗神社。あの人形遣いの家がどこにあるか訊ねるためだ。
人形を返す気は無かった。
人形を返さない気も無かった。
人形が直ればそれでいいだろう。
「ここが博麗神社……か」
恐らくみんな空を飛んで来るのであろう、歳月により古びてとても登る気になれない石段の先にある、
赤い鳥居の上に降り立った妹紅は、その小さな神社を眺めた。境内に人影は見えない。
「おーい、誰かいないのか?」
呼びかけに応じる者も無く、妹紅は鳥居から飛び降りると、建物の周りを一周する。
「おーい、留守か? それとも居留守かー?」
戸を叩いてみても返事は無く、どうやら本当に留守の様子。
どうしたものかと悩む妹紅。
巫女が帰ってくるまで神社で待つか。
しかしせっかく作ってきた玉子焼き、あまり時間が経っては傷んでしまう。
他に、あの人形遣いの居場所を知ってそうな人物の心当たりは、あの吸血鬼達と亡霊達。
亡霊達は冥界にいそうだが、確証は無い。
最近生きたまま行き来できるようになったって慧音が言ってたが、
不老不死の自分が冥界に行くのは気が引ける。
となると吸血鬼がいそうな場所、竹林の霧すら紅く染まった紅霧異変の元凶の紅魔館か。
普段、竹林にこもっているから幻想郷の地理には疎いため、紅魔館の位置も解らない。
「人付き合いを避け続けた結果か……でも、寿命の短い人間にいちいち情を移すのも、な?」
自嘲しながら、妹紅は人形の髪に手ぐしを入れてやる。
「慧音だって、人間より長生きするとはいえ……いつか……。
フフッ。お前達人形は、生きていたらいつ死ぬのかな。
壊れた時? 捨てられた時? それとも忘れられた時?
ちゃんと手入れを続けていれば、すごく長生きできそうだよなー」
人形に話しかける自分を滑稽に思いながら、妹紅は神社を立ち去ろうと鳥居を潜る。
そして。
特に深い意味は無かった。
純然たるただの気まぐれから、妹紅は空を飛ばなかった。
石段を、一歩。硬い踏み心地。
もう一歩。体重が足元にかかる。
そんな風に、石段を歩いて下りていく。
足音が鳴るように意識したり。
てっく、てっく、てく、てく、ゴト。
「あ?」
気がついたら、石段が目の前にあった。直後、衝撃が視界を暗転させる。
上下の感覚を失い、飛んで逃れる事すらできない。
(せっかく焼いてきたのに、玉子焼きがこぼれたらどうしよう)
そう考えて、妹紅は弁当箱の包みを放り、両腕で人形を抱きしめる。
身体を丸めて、我が身を盾にして。
人形を大切にしようとか、壊したくないとか、そういう考えは一切無かった。
突然の出来事だったので考えて行動に移すという当たり前が不可能で、
いわゆる条件反射でしかなかった。
けど、どういう条件反射をしてしまうのは、性根の具合にもよるだろう。
◆◇◆◇◆
◇◆◇◆◇
痛みに、妹紅はうめいた。
息をしぼり出そうとしたが、強く打ちつけられたせいか呼吸ができない。
左腕が痛む。折れているかもしれない。
左目も痛む。石段の角にでもぶつけてしまったのだろうか。
耐え切れない痛みではないが、もう少しすればリザレクションで回復できるだろう。
このままおとなしく寝そべっている方がいい。
かすむ視界の中、引っくり返った弁当箱を見つけた。
当然、玉子焼きは地面に散乱している。これでは鳥など餌にしかなるまい。
地面? 土や草が、見える。
どうやら石段を一番下まで転げ落ちてしまったらしい。
……そろそろ、リザレクションしてもいい頃合だ。
痛みにも慣れて来たので、こらえて何とか立ち上がろうとする。
手が痺れているのか、土の感触が妙だった。
膝立ちになって、妹紅は多大な違和感を覚える。
視界が、低い。
よろめきながら、歯を食いしばって立ち上がろうとし、立ち上がったが、
歯を食いしばれなかった。口の感覚まで無い。
いや、全身の感覚がおかしい。
身体は確かにあるのだが、感覚が希薄というか、妙に固い。
(何なんだ、いったい……)
そう呟いたつもりだった。
しかし、妹紅の口から言葉は出ない。
代わりに別の誰かが喋ったが、それはまさしく妹紅の声だった。
「……あ、れ……? 体内が、動いてる……身体の表面が、やわら、かい」
ギョッとして、妹紅は周囲を見回す。
なぜ自分の声が、自分の口以外から?
すると、巨大な妹紅がすぐ隣に倒れていた。眼が合った。
(ななな、何だぁーッ!?)
「……上海? 左目が、割れている、から蓬莱?」
巨大妹紅の口調はたどたどしく、まるで喋るという行為に慣れていないようだった。
巨大妹紅は人形のような無表情でこちらを見つめ、ぬぅっと手を伸ばしてくる。
慌てた妹紅は咄嗟に飛びのいたが、うまくバランスを取れず尻餅をついてしまう。
そして、気づく。
大きいのは巨大妹紅だけじゃない。周りの風景全部、大きい。
これじゃあまるで、自分が一寸法師にでもなったみたいだ。
いや一寸法師というほど小さくない。せいぜい、人形程度の大きさだ。
人形?
まさか、あるいは、もしかして。
妹紅は自らの手を見た。
人形の手だった。
服も、白のブラウスと赤のもんぺではない。
スカートにつぎはぎの跡がある紺色の衣装に白いエプロン。胸元には赤いリボン。
妹紅が拾った人形の着ていた服だ。
(これって……)
「身体が……変。この服、もこ?」
巨大妹紅は、着ているブラウスともんぺを不思議そうに撫でながら、
妹紅と同じ結論に達しつつあるようだ。
(私と人形と精神が入れ替わったのかーッ!?)
「蓬莱に、もこが、入ってる? もこに、蓬莱が、入ってる?」
階段から一緒に転げ落ちて精神が入れ替わる。
実に王道展開である。よくある話である。
だが、人形と入れ替わるのは如何なものかと妹紅は思うのだ。
◇◆◇◆◇
「私はアリスの、人形の蓬莱。マリスは間違い」
(ああ、アリスね……うん)
石段に腰かけて並んでいるのは、妹紅と蓬莱人形だ。
前述の通り、中身は入れ替わっている。
不安や疑問は数多くあり、今後どう行動したものかと頭を悩ませているのは妹紅である。
蓬莱は、人間の肉体を面白がってか手のひらを開いたり閉じたりしている。
(しかし、まさか人形に意思があったとは思わなかったよ。アリスって凄いんだな)
妹紅は喋ろうとしても喋れないが、喋ろうとした事はなぜか蓬莱に伝わるようだ。
それは蓬莱が妹紅の肉体を使っているため、何らかの繋がりが生じているのだろう。
「アリスは凄い、けど意思がある、事は知らない」
どうやら息継ぎのタイミングが掴めないらしく、蓬莱の言葉は聞きづらい。
まあ、元が人形だから仕方ないのかと割り切って我慢する。
(知らないって、何だ? アリスが意思を持たせたんじゃないのか?)
「気が、ついたら意思が、あった」
(人形というか、人の形をした物には魂が宿りやすいとか言うしな。
お前も……ええっと、蓬莱? お前もそういう類なのか?
そういえば付喪神っていうのもあるな。付喪神になりかけとか?)
「付喪神には、絶対にならない」
(何で?)
「付喪神と、自律人形は、違う物。アリスは自律、人形を造りたい。
付喪神にならない、ように魔法で、保護してる。私達も、付喪神に、なりたくない。
アリスが造りたい、物と違う、存在はイヤ」
(ふーん?)
妹紅は、今は人形である己の手足を動かしてみた。
少々ぎこちないが、思い通りに動かせる。
(自律人形か。研究はうまく行ってるみたいだな、人形単体でもちゃんと動けるなんて)
「動けない」
人形の身になっても、妹紅の精神は人間性を保ち、感心している様が解る。
だが蓬莱は、人間の身になっても無表情で、感情を感じさせない声色だ。
(何だって? でも、私はこうして)
「私達は、アリスの魔法で、動いてる。喋るのも、アリスが喋らせ、てる」
(私の精神……あるいは魂と入れ替わったから、その魔法の部分を補ってる?
じゃあ、喋る機能もあるなら、喋れるのか?)
「ホウラーイが、単語登録、されてる。試してみる?」
(……試す気になれないな)
カクッと首を傾けて呆れを表現する妹紅。
表情を変えられないせいか、リアクションをきっちり取るよう心のどこかが意識していた。
(まあ、蓬莱の事はだいたい解ったよ。とりあえず、石段を登ろう。乗せてってくれ)
「どうして」
(異変解決は巫女の仕事だって慧音が言ってた。
巫女に相談して、身体と精神を元通りに戻したら、ちゃんとアリスの家に届けてやるよ)
蓬莱は、妹紅の頭を掴んで立ち上がる。
元々は自分の身体なのに、扱いがぞんざいだ。
まだ人間の身体を使い慣れていないからだろうかと妹紅が考えていると、
蓬莱は初めて感情をわずかながら感じ取れる声で答えた。
「ヤだ」
どんな感情が込められての言葉かは解らないが、やや語調が強い。
だがそんなのは些細な問題だ。
(な、何でだよ。元に戻らないと蓬莱だって困るだろ?)
「したい事、したい。今ならできる」
(おい、待て、私の身体で何をする気だ)
「家に帰る」
(家って、アリスの家か?)
うなずいて、蓬莱はよたよたと歩き出した。妹紅の頭を、人形の頭を掴んだまま。
(待てって! 私はとっとと元の身体に戻りたいんだ!)
「私はもう、少しこのまま」
(拾ってやった恩を仇で返す気かー!?)
「アリスを、やっつけたのは、もこ。蓬莱が、落とされて、壊れたのは、もこのせい。お相子」
(うっ……ぐむ……)
確かに、いい加減四組目の肝試しともなれば妹紅の苛立ちも相当のもので、
手加減無用全力全開小宇宙完全燃焼の勢いで戦ったため弾幕も乱暴で、
人形遣いは鳳翼天翔を受けて頭から地面に落っこちて気絶してしまったのだ。
ついカッとなってやった、今は反省している。と言い訳しても今さら遅いだろう。
まさか人形に言い負かされるとは。何だか悲しくなってくる。
とはいえ、このままでいいはずがない。
妹紅は蓬莱人。
肉体は不老不死、魂も不滅。
普通の入れ替わりとは事情が違うと了解してもらわねばならない。
階段から落ちた傷は妹紅の身体には、今の蓬莱には無い。
つまり肉体は今も不死身の再生力があるのだろう。
だが、魂はどうか?
解らない。今妹紅の肉体が滅んだとしたら、蓬莱人ではない蓬莱はどうなる?
胆に溜まった蓬莱の薬により復活するのか、蓬莱の薬の効果を受けていない魂は肉体を離れるのか。
果たして人形が魂を持っているのかどうかは解らないが、蓬莱人形の精神が消え去る可能性もある。
また、今の妹紅が器とする蓬莱人形が壊れたらどうなるか?
答えは、直らない。折れた左腕も、ひび割れた左目も直らないのだから当然だ。
では魂は?
魂が蓬莱人のままなら、肉体を失った事で魂から新たな肉体を再生するだけだ。
しかし、入れ替わった状態で滅んだなら、再生されるのはどちらの肉体?
まあ多分、本来の妹紅の肉体だろうとは思う。
だが、こんな不自然な状況だ。蓬莱人の不死の力も正しく働かないかもしれない。
永琳なら蓬莱人の肉体、魔法人形、精神、魂、入れ替わり、
様々な要因を正しく繋ぎ合せて明確な答えを出せるだろう。
妹紅は違う。解らない事だらけだ。
もしかしたら、理屈までは考えられないが、今、人形のまま死んだら。
(蓬莱人の私でも、死ねるのかな)
死にたい訳ではない。
死にたくない訳でもない。
ただの、疑問だ。
「死なない」
それに答えたのは、蓬莱。
「もこを壊さない、よう気をつける」
(……ああ、お前の身体だもんな)
「違う」
蓬莱は手の使い方を心得て来たのか、妹紅を持ち直すと、自らの肩に乗せた。
もちろん落っこちたりしないよう、しっかりと手で支えてくれている。
(違うって、何が……)
「もこ、蓬莱に優しく、したから、もこは、優しくする」
優しく……した?
蓬莱人形を持って帰り、どうにか直せないかと思案した。
折れた腕は、まるで人間を扱うかのような手つきで、優しく丁寧に包帯を巻いた。
服も洗濯して、つぎはぎをして、元通りに着せてくれた。
左目のヒビも、ガラス玉だから熱でどうにかできないかという案を断った。
人形相手でも、目を焼くなんてできない。
そんな風に気遣ってくれたから、蓬莱は思うのだ。
「もこに身体を、返すまで壊れない、よう気をつける。
蓬莱の中に、入ってるもこが、壊れないよう、蓬莱の身体も、気をつける」
妹紅は、人形である自身の身体を傾けると、本来自分のものである頬に頭を預けた。
寄りかかって、頼りにしているよというアピールが伝わったかどうかは解らない。
(……ちゃんと返すんなら、まあ、しばらく貸しとくよ)
「ありがとう」
(それから、私の身体は頑丈だから、多少は無茶してもいいよ)
「蓬莱人……"蓬莱の人の形"……だから?」
慧音がそう呼んでいたのを覚えていたのか、人形は意外と記憶力がいいなと妹紅は感心した。
(うん、まあ、そう。でも、お前の名前は蓬莱だから……今は"蓬莱が人の形"だな)
「私は元々、人の形の、人形」
(まあ、そうだけど……って、わぁっ!?)
突然、蓬莱は足をもつれさせた。
まったく手入れされていない神社と人里を繋ぐ道には硬い石ころも散らばっている。
そんな所に、受身も取らず真正面から転ぶ蓬莱。
見事に顔面から突っ伏して、服は砂で汚れ、唇は擦り切れ、鼻を強打してしまう。
だが、妹紅の方は今回の転倒で傷を負わなかった。
蓬莱が妹紅が地面にぶつからないよう、身体を掴んだままの手を、
甲を下に向けてクッションにするようにしたからだ。
指がゆるんだので、妹紅は地面に下りると蓬莱の頬をつっついて反応を確かめる。
(お、おい……蓬莱? 大丈夫?)
実を言うと、妹紅は口調ほど心配していない。
転んだのは自分の肉体だ、怪我程度ではたいした意味を持たない。持てない。
「……痛い。動け、ない」
人形の肉体の妹紅は、壊れた左目と左腕が今も痛んでいるとはいえ、
慣れればそう騒ぎ立てるほどでもないので、人形のため痛覚が鈍いのだろうと理解しつつあった。
故に、人形から生身へと移った蓬莱には痛みが相当こたるらしい。
(まあ、そのくらいすぐ治るよ。治り切っちゃえば痛みも消える)
回復しすぎると、筋肉痛になってつらいけど。
「……痛み、無くなった」
軽傷のため回復も早かったらしく、よろよろと立ち上がった蓬莱に傷は無い。
せいぜい顔と服が汚れたくらいだ。
顔の傷が消えている事を確かめて、蓬莱は安堵する。
「よかった。もこの顔は、無事。美人だから傷が、できると困る」
(美人って……いや、その……)
普段、容姿を褒められる機会の無い妹紅は悶えた。
生身であれば赤面していただろう。
でも、まあ、褒められて悪い気はしない。
ちょっと自慢げに妹紅は声を送った。
(美人と言うか、何と言うか……まあ、"蓬莱の人の形"って言うだけはあるだろ?)
「私の方が、美人。アリスはもっと」
自慢したら、すぐ自慢を返された。
思わず握り拳を作る妹紅。
しかし確かに、蓬莱は可愛いだと思う。人形なんだから可愛く造られて当然だ。
でも妹紅だって、平均以上の容姿のはずだ。はずなのだ。
「私か、アリスと同じ、服を着れば、もこは、今より美人」
悔しさのため何とか言い返そうと思っていたら、蓬莱の方からフォローをしてきた。
ちょっと驚いて、妹紅は土で汚れている蓬莱を見上げた。
ブラウスにもんぺ。確かに、可愛いとか美しいといった言葉の似合う服ではない。
きらびやかな服を着れば、着ていた頃なら、お人形みたいに可愛いかったかなと、妹紅は思った。
(よせよ、お世辞なんて)
「本当の事。でも着替えても、アリスの方が、美人」
(……さいですか)
どうやらこの蓬莱、ありとあらゆる基準がアリスでできているように感じられる。
主人に懐っこい様は可愛らしくもあるが、自分の姿と声で言われると複雑だ。
蓬莱は妹紅を持ち上げると、再び肩に乗せる。
「もう転ばない」
(ああ、そうしてくれ……ところで、アリスの家に行って、私の身体で蓬莱は何をする気なんだ)
「いつも、してくれる事、私も、したい」
(……恩返しみたいなノリ?)
「ホウラーイ」
(……まあ、いいか)
こうして、妹紅と蓬莱の精神入れ替わり珍道中は始まったのだった。
はてさて、二人は無事アリス宅にたどり着けるのか!?
◇◆◇◆◇
【珍道中NO.1 博麗神社近辺にて妖怪と出遭う】
宵闇の妖怪ルーミアが現れた!
妹紅は人形の身体のため戦えない!
蓬莱は妹紅の身体を使いこなせない!
「あなたは食べてもいい人類?」
「食べちゃダメな、人形」
「人形なのかー?」
「人形なの」
「人形じゃ食べられないのかー?」
「食べちゃダメ」
「そーなのかー」
ルーミアは立ち去った!
蓬莱は舌戦でルーミアを退けた!
蓬莱のレベルが上がった!
口の巧さが3ポイント上がった! 転ばない確率が4ポイント上がった!
妹紅(蓬莱人形本体)を落とさない確率が2ポイント上がった!
蓬莱はルーミアから「そーなのかー」を学習した!
(お前、意外とやり手だな)
「そーなのかー」
蓬莱は妹紅に褒められた!
【珍道中NO.2 山道にて金色の池を見た】
蓬莱は、突如として襲う肉体の違和感に震え、意思と無関係に立ち止まった。
まさか妹紅の肉体に重大な異変が起きたのか。
あるいは、人間の肉体の使い方を正しく理解していない蓬莱が、
人間ならば絶対にしないような過ちを犯し、妹紅の肉体を危機にさらしてしまったのか。
(どうした。蓬莱、どうしたんだ)
「身体が、おかしい」
わずかに震える声、重たい不安が妹紅にもひしひしと伝わってくる。
(おかしい? 落ち着け、詳しく話してくれ)
「お腹の下が、不思議な感じ」
(お腹の下? 下腹?)
「下腹から、股間の辺り」
(……うん? それって)
「何かが体内、から出ようと、してる」
いったい何が、何が、何が出ようとしているのか。
人体とは人形と違い、様々なものを抱えている。
激しい出血が起こるのだろうか。
肉や骨、神経に異常があるのか。
臓器が体外へこぼれてしまう奇病という可能性も!?
蓬莱の精神は恐怖に圧迫され、胸の奥がきつく絞めつけられるような錯覚さえ感じるほどだった。
(あー、蓬莱。それは多分、その、お花を摘みに行きたくなったんだと思う)
「別に行きたく、ない」
(そうじゃなくて、お手洗いだ)
「土は払った。まだ少し、汚れているから、土が原因の、病気?」
(ああ、もう、そうじゃなくて……)
「もこの言ってる、事がよく解らない。これは何?」
(だから、その、お、お……)
「お?」
(おしっこだよ!)
羞恥を誤魔化すように、妹紅は飛びっきり大きく叫んだ。
それは物理的な声にはならなかったが、強く蓬莱の精神に響く。
「おしっこ!」
それを受けて蓬莱は、妹紅の言葉を復唱する。
大声で。
人気の無い山道に、妹紅の声をした蓬莱の言葉が轟いた。
山に住む妖怪などには聞こえてしまったかもしれない。
(ば、バカ! 叫ぶ奴があるか!?)
「おしっこなら、知ってる。アリスはいつも、トイレに行く」
(ああ、そうだよ。解ったなら早く、そこらの草陰で……しちゃいなよ)
「やり方が、解らない」
大真面目に蓬莱は答えた。
なるほど、いくらアリスとはいえトイレの中にまで人形を連れ込んだりはしないか。
そう納得して、妹紅は青ざめた。
人形の身体だから実際は青ざめてないけど、顔面蒼白ならぬ精神蒼白だ。
(と、とにかくそこらの草陰に行くんだ)
「解った」
(よし、そしたらもんぺを脱いで……)
「どうやって?」
(ええと、まずサスペンダーを……)
「間に合わない。出る」
(ちょ、えええ!? 待て、こらえろ、変に力んだりせず、も、漏らすなよ!?)
「無理」
(あ、あああ! こ、こうなったら……蓬莱、あそこに池があるな? 飛び込め!)
妹紅の言葉に従い、蓬莱は山道の側にあった池に向かって走る。
足が地面を踏みしめるたび、衝撃が下腹部に響いた。
中で、揺れていると蓬莱は感じた。
とても奇妙な感覚で、早く出したくてたまらなくなってくる。
下腹部がうずき、心身が昂ぶっていくと同時に、悪寒が背筋を走る。
(行けぇー!)
行った。
奇跡的に転ばずに池までたどり着いた蓬莱は、さっそく池に飛び込む。
水は、膝くらいの高さしかなかった。
「出る」
(す、座れ! 水の中で出すんだ!)
蓬莱は、まさしく糸が切れた人形という表現そのままに池の中に崩れ落ちた。
お尻が勢いよく水面を叩き、水しぶきを上げる。
水がもんぺをびっしょりと濡らし、冷たさが腰から下を包み込む。
故に、蓬莱は震えたのだと思った。
寒さや冷たさを感じると、アリスや魔理沙や霊夢も震えていたから。
しかし蓬莱が震えた本当の理由は、違った。
「……あたたかい?」
それは奇妙な現象だった。
冷たい池の中にありながら、蓬莱はあたたかさを感じていた。
まるで人肌のようなぬくもりが、下腹部を優しく包み込む。
全身がとろけるような開放感は、まるで天に昇るようでさえあった。
思わず、ため息が出るほどに。
(……チクショー)
蓬莱が開放の喜悦に達している最中、妹紅は恥辱に震え、涙の流せぬ己が身を呪っていた。
その後、池から出た蓬莱は先ほどの開放感によりまた肉体に精神が馴染んだのか、
何と炎を操る能力を使えるようになっていた。
おかげで乾かすのにたいして時間がかからなかったとさ。よかったね。
【珍道中NO.3 野原にて冤罪は発生する】
魔法の森に行くにあたり、人里には近づかない道を行こうと妹紅はきつく言った。
人里デビューを中身が蓬莱人形なんて状態でやらかす訳にはいかないのだ。
幸い、普段アリスが人形を連れて飛んで移動していたため、
蓬莱は魔法の森から博麗神社までの地形を上空から見下ろした経験が幾度とあった。
その記憶を頼りに神社近辺の森を突き抜けると野原に出た。
妖精や妖怪がいるかもしれないが、特に注意するほどのものでもないだろう。
今の蓬莱は炎を操れるため、小物の妖怪程度なら追い払えるはずだ。
スペルカードルールを挑まれたら、ボロ負けするだろうけど。
(まあ、スペルカードの場合は決闘に応じなければいいんだ。
ちょっと悔しいけど、その時は逃げるなり迂回するなり……どうした?)
立ち止まった蓬莱は、ゆっくりとお腹に手を当てた。
「……苦しい」
(まさか……今度は大きい方とか、言うんじゃないだろうな?)
「さっきのとは、違う感じ」
(蓬莱人が腹痛なんて起こす訳もないけど、今は特殊な状況だから、あるいは……)
妹紅の疑問に答えたのは、虫の鳴き声だった。
妹紅本来の肉体から、腹の虫が空腹を訴えたのだ。
腹の音となれば蓬莱だって知っている知識、よく霊夢が鳴らしていたものだ。
「ご飯」
(そうだな、巫女に玉子焼きをお裾分けして、
お前の事を相談するついでに何かご馳走してもらおうか……って目論みだったからな。
でもこんな野原じゃ食べる物なんて無いし、我慢してもらうしかないよ)
「ケーキと、紅茶が、食べたい」
(人の話を聞いてる?)
「アリスが、よく食べてた」
(そーか、私は葛餅が食べたいよ。わらび餅もいいな……ん?)
野原の中に生える何本かの樹木。
そのうちの一本の根元に、何かが置いてあるのを妹紅は見つけた。
こんな所にいったい何がと思い蓬莱を向かわせてみると、そこにはお弁当箱が置かれていた。
(誰かがピクニックでもしてるのか?)
「これは、食べても、いい弁当?」
(よくないだろ)
「お腹、空いた」
(勝手に食べたら怒られるぞ)
「怒られない、ならいい?」
(私の身体で面倒を起こすなよぉ……後で私が迷惑するんだから。
って、おいィ!? なに勝手に弁当箱開けてんだー! 食べてる場合かーッ!?)
ふてぶてしいのか、肝が据わっているのか、ただ何も考えていないだけなのか。
蓬莱は誰かさんの弁当箱を開け放ち、中にあったおにぎりとたくあんをパクパクと食べ始める。
(誰の弁当かは知らないけど、随分とひもじい中身だなー)
「いつもこう」
(知っているのか蓬莱?)
「おいしい」
蓬莱がおにぎりを食べ終えて一服していると、空から何かが飛んできた。
「あぁー!? ちょっとあなた、私のお弁当に何してるのよ!」
ドキッ! 腋丸出しの紅白巫女装束! 博麗神社の博麗霊夢ここにあり!
(むうう、厄介な奴の弁当に手を出したな……。
事がすんだら、こいつに精神入れ替わりの相談をしようと思ってたのに)
妹紅の言葉はやはり物理的な声とはならず、霊夢に聞こえた様子も無い。
妹紅の肉体を使っている蓬莱にだけ聞こえるという推測は正しかったようだ。
「あ、この前の竹林放火犯」
(私がいつ放火したー!?)
ツッコミすら届かぬ悲しき境遇。
「しかもその人形、アリスが探してる奴じゃない?
弁当泥棒だけじゃなく人形泥棒までやるとはいい度胸ね。
不死身なんだから容赦無用でボコボコよッ!! 夢想――」
凄まじい闘志!
恐るべき殺気!
それを前にして臆する様子もなく蓬莱は言った。
「魔理沙が食べた」
「魔理沙が?」
「魔理沙が」
「魔理沙か」
「魔理沙よ」
「自分からピクニックに誘っておいて、いい度胸ね、あいつ……。
何が池で魚を釣ってくるですって? 魚の餌にしてやるわ。とうっ!」
余程信頼されていないのか、霊夢は魔理沙が犯人だとすっかり思い込んでしまって、
凄まじい闘志、恐るべき殺気を撒き散らしながら再び空へ飛び上がった。
アリスが探していたという蓬莱人形の件はすっかり忘却の彼方らしい。
さすがは蓬莱と褒めるべきだろうか?
アリスと一緒に霊夢や魔理沙とすごした日々は無為ではなく、操縦方法も心得ているようだ。
(池って、さっきのあの池……じゃ、ないよな?)
妹紅は物凄くどうでもいい心配をしていた。
【珍道中NO.4 花畑にてうっとりのんびり】
(おーい、早く行こうよ)
「もうちょっと」
蓬莱は花畑に寝そべり、お花の前でお鼻をひくひくさせて、
かぐわしい香りにうっとりのんびり、そして満腹になった影響か昼寝まで始めてしまう。
仕方ないので妹紅はしばし花畑を探索した。
人形の身体に慣れておこうというだけでなく、人形の視点から見る花畑が壮観だったから。
普段ならうっかり踏み潰してしまいそうな小さな花も、今では向日葵のように大きく見える。
それが楽しくて、つい、時間を潰してしまう妹紅達だった。
【珍道中NO.5 魔法の森付近にて蓬莱いいぞもっとやれ】
魔法の森がようやく見えてきて、妹紅はこの珍道中の終わりも近いなと予感した。
思えば色々あったものだ。あまり思い出したくない事もあったものだ。
(これ以上、思い出したくないような思いではゴメンだ……とっとと行こう)
「んっ……」
(って、うぉイッ!? 蓬莱ッ、何してんの! どこ揉んでんの!?)
「やわらかい」
人形の身体にも慣れてきた妹紅が、支え無しで肩に乗っていられるようになり、
蓬莱は両の手が空いてしまい、手持ちぶさたになっていたのだろう。
揉んでいた、妹紅の胸を。
揉んでいたのだ、今は蓬莱が使っている妹紅の胸を。
揉んでいたのである、今は蓬莱が使っている元々は妹紅の肉体の胸を。
揉んでいる、現在進行形で。
少女のまま肉体の成長を止めたとはいえ、
実った青い果実はブラウスの上からでも存在が解るほど主張している。
「アリスと、どっちが大きい、かな?」
(知るかぁー! っていうか手を離せ!)
「もうちょっと人間の、身体で色々して、みたい」
(するなァー! だいたいアレだろ、アリスに日頃のお礼をしに行くんだろ!?
道草禁止! もう余計な事するな! しないで! ホント堪忍! 恥辱で悶え死にそう!)
「残念」
一応、アリス関連以外ではそれなりに聞き分けのいい蓬莱。
とはいえ弁当や昼寝のように、言う事を聞かない場合もあるだろう。
故にいまいち信用できない。
(まさか……アリスの胸を揉もうなんて考えてないだろうな?)
「……考えてない」
(……間があったな)
自分の趣味を誤解され、さらにそれが広まったりしたらもう竹林に引きこもるしかない。
輝夜は竹林の外と関わろうとしているというのに、こんな事で出遅れてたくはない。
(変な事を、するなよ?)
「変な事は、しない」
蓬莱の言葉を嘘とは思わなかったが、やはり信用できない妹紅だった。
【珍道中NO.6 魔法の森にて迷いの竹林を思い出し】
魔法の森に到着した妹紅と蓬莱。後はアリス宅へ行くだけだ。
それにしてもこの森、まだ夕暮れ前だというのに日光が入らず夜のように暗く、湿気も多くてじめじめする。
まるで年中霧が漂う迷いの竹林のようである。
(瘴気が濃いな……蓬莱人じゃなかったら呼吸もままならないかも)
「普通の人間、だったら幻覚を、見たり体調が、崩れたりする、ってアリスが言ってた。
魔法使い、ならこのくらい、どうって事、ないみたい」
(ふぅん。じゃあ、迷いやすいとはいえ竹林の方が住み心地はいいのかな?)
「竹林も好き。でも湿気が多い、のはお互い様、だから手入れが、大変なのは、一緒」
(そうか。道は?)
「解る。あっち」
(よし行こう)
二人の珍道中も終わりが近い。
ようやく終わるのかという安堵。
アリスという本番が待っているという不安。
それから、もう終わってしまうのかという未練が妹紅の胸中で小さく渦巻く。
(なあ。身体が元通りに戻ったらさ、お前は何の意思表示もできない人形に戻っちゃうのか?)
「人形はアリスが、操作しないと、動けないし、喋れないの。もこが、特別なだけ」
(じゃあ……こうやってお喋りするのも、できなくなるのか)
「ええ。いつかアリスが、自律人形を、完成させて、私達を、改造でも、しない限り」
蓬莱の歩が、止まる。
アリスの家に到着した訳ではない。
周囲には草木やキノコが生えている。枝と葉という天井により空は見えない。
魔法の森の、どこにでもある風景の真ん中で蓬莱は呟く。
「少し、残念」
(え?)
「戻ったらもう、もことお喋り、できない。人間でしか、感じられない事を、感じられない。
これからアリスに、会ったら、したかった事を、したいけれど、戻ったらまた、できなくなる。
でも、このままだともこが、迷惑する。それは、イヤ」
(蓬莱……)
「わがまま、付き合わせて、ゴメンね」
いいさ。
構わないよ。
そんなの気にするな。
もうしばらく貸しといてやる。
やりたい事、したい事、全部やり終えるまで待ってたっていいよ。
人生永いんだ、数週間、数ヶ月、数年くらいは人形っていうのも面白いさ。
色んな言葉が浮かんでは消え、妹紅は何度もそれを伝えようとした。
でも、ひとつとして蓬莱には伝えられなかった。
言葉が詰まってしまう。
今、蓬莱に何と言うのが一番いいのか考えて、悩んで、答えは出ない。
無言のままうつむく妹紅をしばし見つめていた蓬莱だが、
このまま待っていても言葉は出てきそうにないと感じたので再び歩き出した。
アリスの家まで、もう少し。
【珍道中NO.7 玄関にて七色の人形遣いと対面した】
アリスの家に到着した二人、これで珍道中もいよいよ終焉である。
(とはいえ、私とアリスは面識が無い……いや、あるにはあるけど、一度戦った程度だ。
そんな私の姿で何かしてやろうったって、すんなり受け入れてくれるかな)
「あ。考えて、なかった」
終焉間近で行き詰り、ひとまず木陰まで退散する二人。
向かい合って地べたに座り込み作戦会議だ。
(今さらだけど、蓬莱がアリスにしてやりたい事って何?)
「アリスがさみしい時、悲しい時、私達も、さみしくて、悲しい。
だからアリスは、私達を抱き、しめてくれる。
アリスは、さみしさや、悲しさが、無くなる。私達も無くなるの」
(抱きしめる……か。まぁ、それくらいなら……いいけど……いきなり抱きつくのもな。
下手したら未来永劫、竹林ホームレスにも劣る変態の烙印を押されかねん。
いや私はちゃんと家があるから竹林ホームレスじゃないのは蓬莱も了解済みだよね?
まあそんな訳で変態扱いはごめんこうむる。絶対に絶対にごめんこうむる。
非常識こそ幻想郷の常であるとはいえ、蓬莱には常識ある形でアリスに抱きついてもらいたい)
「魔理沙や霊夢、より常識は、心得てると、思う」
(その割には色々と問題のある行動が多かったな?)
「人形だから、必要なかった、知識と、人形だから、経験でき、なかった事が、あるから」
そういうものかと妹紅は納得する。
生理現象なんて人形は経験できないものの筆頭だ。
(なあ、アリスには事情を話してみるのはどうなんだ?
私の身体に蓬莱が入ってるって解ってくれれば、面倒をすっ飛ばして楽できそうなんだけど)
「ダメ。アリスは自律、人形を完成、させるために、がんばってる。
私達は、そのための、下積み。でも心を持った、事を知ったら、アリスの邪魔になる。
私達で実験を、していて、壊れるような、実験もたまに、あるけど、
心があるって、知られたら、気遣われて、実験に使って、もらえない。
アリスの、夢の足を、引っ張るのは、イヤ。だから、内緒にしたい」
(……そっか。お前さんがそう言うなら、そうしよう。
真相は告げずに、お前は藤原妹紅としてアリスに会えばいいさ)
「もこは、どうしよう」
(うん? 私か?)
「アリスが見たら、蓬莱の姿の、もこのを取り返す。返さないと、怒って、何をするか不安。
二人そろって、ないと元に、戻る時に大変、だと思う」
(いや……それでいいんじゃないか? それを利用しよう。
蓬莱人形を拾った私が、持ち主のアリスに届けに来た。悪くない筋書きだ。
お礼に家に上げてもらって、アリスが喜ぶような言動を取って仲良くなるんだ。
ずっと一緒にいたお前ならそれくらい容易なはず。
不慣れで不自然な喋り方は、喉の調子が悪いとか適当に誤魔化せばいい)
なるほどと蓬莱はうなずきながら、想像以上に頭の回る妹紅をすごいと思う。
これなら妹紅に任せておけば万事うまくいくかもしれない。
「でも、仲良くなって、それからもこは、どうするの?
もこを渡したら、後で返して、もらえない。アリスは人形を、誰かに貸し、たりしないよ?」
(私は自分の意思で動ける。夜まで待って、アリスが寝静まってからこっそり抜け出すさ。
お前はいったん森の中に潜んでいて、出てきた私を回収してくれればいい。
それから一緒に元に戻る方法を探しに神社へ行こう。もう一度言うけど、悪くない筋書きだろ?)
「うん」
ポンと膝を叩いて妹紅は立ち上がり、拳を掲げる。
(よぉし、これで決まりだ。アリスとの会話は私もサポートする。
肝試しの時と違い、今度はこっちが二人がかりで行く!
一応お前は藤原妹紅としてアリスを訪ねるんだから、
キャラクターが違いすぎると後々私が面倒するって覚えといてくれよ)
「もこは、頼りになるね」
(蓬莱が、いい奴だからさ)
こうして、二人の珍道中は終焉する。
蓬莱人形の姿をした妹紅を抱えて、妹紅の姿をした蓬莱人形がアリスの家の戸を叩く。
返事は、無かった。けれど中で人の動く気配がした。
(こんにちは、落し物を届けに来た……だ)
「こんにちは、落し物を届け、に来た」
すぐに、足音が近づいてきた。
足音が近づくに比例して、蓬莱の鼓動は高鳴っていく。
妹紅も緊張し、ただの人形を演じて全身を弛緩させる。
人形は勝手に動かない。夢である自律人形ではないのだから。
「はーい、どちら様……?」
そんな声と同時に開かれた戸の向こう、気だるそうなアリスが現れた。
◇◆◇◆◇
「あら? あなたは……」
不審な眼差しを向けられた蓬莱は、息を詰まらせてしまう。
(妹紅だ、って名乗ってやれよ)
助言を受けても、蓬莱は喋ろうとしない。
蓬莱人形を演じている妹紅は動けないため、蓬莱の様子を確かめる事もできない。
「確か竹林の蓬莱人……って、蓬莱!?」
アリスの視線が、蓬莱の抱く妹紅へと向けられる。
同時にひまわりのようにパッと表情が明るくなった。
余程心配していたらしい、本当に人形が大切なんだなと妹紅は感心した。
(よしチャンス。これを届けに来た、って言いながら私を差し出せ)
「やっぱり竹林ではぐれてしまったのね……落し物って、蓬莱の事だったの?」
問われて、蓬莱はうなずいた。
(おい蓬莱? 緊張してる場合じゃないだろ、だんまり通しちゃ話にならない)
妹紅の助言は聞こえていたが、なぜか記憶に留まらない。
どうしていいか解らず、妹紅に助けを求めようとさえ思っているのに。
それほどまでに蓬莱の精神をかき乱したのは、アリスの眼だった。
いつも人形に向ける優しい視線でも、好奇の視線でも、研究に打ち込む真摯な眼差しでもない。
まったく信じていない、怪しい奴を見る目つきだった。
故に、アリスが己のすべてにも等しい蓬莱は、
今の己が藤原妹紅の姿だという事実もろとも頭の中が真っ白になってしまった。
ようやく様子が変だなとアリスも気づいたが、会うのが二度目の妹紅なんてどうでもいい。
「あなた、確か妹紅だったわね。霊夢達から名前は聞いてるわ。
立ち話もなんだし、中に入りなさいよ。ケーキくらい出すわ」
礼儀のある対応をするアリスだが、腹のうちは違った。
早々に蓬莱人形を返してもらい、適当に賞味期限がピンチなケーキでも食べさせながら、
この蓬莱人形の損傷について幾つか質問をするつもりだ。
アリスほどの人形遣いともなれば、服で隠れていても左腕が折れていると見抜くなど造作も無い。
左目のヒビなんか素人目にも明らかだ。他にも、見えない軋みが幾つかありそうでもある。
届けに来てくれたとはいえ、妹紅が人形を乱暴に扱っていたのなら追い返してやろうと考えていた。
アリスに招かれても、蓬莱は動けない。
表面だけは愛想のいいアリスの表情から、自分に向けられる猜疑心を敏感に察していたから。
アリスを大切に思うが故に些細な変化や言葉の裏を感じ取る事ができる蓬莱だったが、
妹紅の肉体を借りている事、人形では起きえない精神が肉体に与える影響などが、物事を裏目にさせる。
初めて経験する激しい動悸は、今にも口から心臓が飛び出そうに思えるほど。
「……どうしたの? 入りなさいよ」
何かあると察して、警戒心を強めるアリス。
それはますます蓬莱の精神を追い詰めた。
(蓬莱ッ!? しっかりしろ、何のためにここまで来たんだ!)
力強い妹紅の叫びが、雷のように蓬莱を打つ。
何のために、ここまで?
ようやく、蓬莱はわずかではあるが己を取り戻した。
「あ……」
――アリスがさみしい時、悲しい時、私達も、さみしくて、悲しい。
蓬莱は、来た。
自分を助けてくれた妹紅に迷惑をかけてまで、ここに。
――だからアリスは、私達を抱き、しめてくれる。
嬉しい時、悲しい時、様々な時に人形達を、蓬莱を抱きしめるアリス。
それはアリス自身のためであったのだけれど、
喜びや悲しみを分かち合える事を蓬莱達はずっとずっと嬉しく思っていた。
――アリスは、さみしさや、悲しさが、無くなる。私達も無くなるの。
だから来たのだ。
どう言葉にすればいいか解らないから、どうこの感情を伝えればいいのか解らないから。
アリスを抱きしめるために。
故に、蓬莱は震える声で告げた。
「アリスを、抱きたい」
魔操「リターンイナニメトネス」
アリスは蓬莱人形を取り返すと、妹紅の姿をした蓬莱に強烈な魔力の奔流を叩き込んだ。
(ホウラァァァァァァイッ!?)
蓬莱の代わりに悲鳴を上げる妹紅。ただ、その悲鳴はアリスには聞こえなかった。
妹紅の肉体は、蓬莱は魔法の森上空までふっ飛ばされてしまう。
そして森の深部に落下する様を確認もせず、アリスは蓬莱人形を抱いて家の戸を閉めてしまった。
(不死身……だから、大丈夫だとは思うけど、蓬莱は痛いのに慣れてない。
しかも精神が入れ替わったままじゃ、どんな不具合があるかだって解らないのに。
今すぐ蓬莱を追いかけたいけど、下手に動いたら、アリスに……畜生ッ!
蓬莱が隠し通そうとしている事を、私の勝手で台無しには……できない。
アリスが寝静まるまで、蓬莱、何とか持ちこたえといてくれよ……)
酷く誤解を招く発言だった。
今後の妹紅の生活に面倒を起こすだろう発言だった。
そういう事をしないようにきつく言いつけていた妹紅だが、
今この時は、ただただ蓬莱の身を案じるのみだった。
◇◆◇◆◇
人形作りの作業部屋に運ばれた妹紅は、さっそく服を脱がされ、人形の傷を隅々まで確認された。
折れた左腕を包帯の上から撫でたアリスは、しばし何事かを黙考する。
(ううっ、修理ができなくて悪かったな……)
自分の本当の肉体をふっ飛ばしたとはいえ、妹紅はアリスに対し負の感情を抱いていなかった。
蓬莱の言動は、残念だが自業自得だ。やりすぎではあるが。
それに自らの創造主とはいえ、あの蓬莱があれほど入れ込む相手を憎くは思えない。
アリスは包帯を解くと、折れた左腕を見て傷跡を軽く撫でる。
人形のため痛覚はほとんど無いが、やはり壊れた箇所を直接触られるとズキンと痛んだ。
「……駄目ね、作り直さないと」
左肘から外されててしまったが、元々折れていたせいで、
左腕の折れた先は感覚が無かったし動かせもしなかった。
同様に左目も見えていないから、これを直す時、どうなるのだろうと妹紅は震えるのをこらえた。
痛みは、人形といえどもある。
人間の身よりは軽いが、さすがに左目を取り外されたらどんな痛みが襲うのか?
(修理……精神が擦り切れるかも、な)
蓬莱が人間の身体に慣れていないように、妹紅も人形の身体に慣れていない。
人形の修理や整備のために全身をバラバラにでも分解されたら、
果たして人間の精神は正常を保てるのだろうか。
生身で様々な死に方をしてきた妹紅でも、恐怖と不安を抑え込むのは至難だった。
(正直、逃げ出したい!)
アリスの手が、妹紅の首にかけられる、指の腹で顎を撫でられる。
本来は心地よいだろう撫でられる感触も、今では背筋が凍るように冷たい。
(でもふっ飛ばされた蓬莱も、相当の苦痛に耐えてるはずだッ!
ここで私だけが逃げるなんて……できるかよ!!)
心のうちで猛る妹紅。
勇ましきその決意、鋼よりも硬く、陽光のように光り輝いていた。
「えい」
(あ?)
首がもげた。
もっとも人形遣いのやる事だから、もいだのではなく正しい手順で首を外したのだろう。
故に、痛みは無かった。
だが突然、首という人間ならば致命的な部位を外され妹紅は悲鳴を上げた。
元の肉体なら即死レベル、ほとんど痛みを感じず意識を喪失し、
首が繋がった状態で復活する頃には痛みなど残っていない。
何度か首を刎ねられたり貫かれたりしたが、今まではそうだった。
だがそんな体験など微塵も役に立たないほどの異常事態。
月まで届くのではないかというほどの悲鳴はしかし、アリスの耳には届かない。
(首が! 首がッ!?)
痛みは無くとも、確かに首と胴が離れている。そして胴の感覚も残っている。
生身であれば、断たれた部位は感覚を失う。
人間ではありえない、すなわち人間の精神では想定外の事態に、
不老不死の蓬莱人といえども正気がいつまで続くだろうか。
手足を動かすまいと虚脱していたが、今では動かすまいと力を込めねばならなかった。
(落ち着け、落ち着け、人形なんだからバラされたって、死ぬもんか。
死ぬ? 私が? 死ぬ訳、ないだろ。ああ、慧音助けて、蓬莱――)
続いて頭が割れ、頭部の内部にアリスの手が侵入する。
内側から眼球を握られて、内側へと引きずり出される。
傷ついた左目だけでなく、右目も。
(眼が、回る!? 視界、ふさいでるこれは、何!? 指!? うあ、うわぁ!)
握られた右目が、アリスの手のひらで転がり、そして、指でしっかりと掴まれて、向けられる。
アリスの、眼に。
色鮮やかな青眼が、真っ直ぐに妹紅の眼球を見つめている。観察している。
「傷は……無いみたいね」
(ヒィィイッ! 眼が、眼が怖い!?)
いかに蓬莱人といえども、このままでは精神が磨耗し廃人と化すかもしれない。
まさに絶体絶命。
さすがの妹紅もこの時ばかりは死を覚悟したという。
精神の、死を。
一時間後、そこには全身をバラバラにされた蓬莱人形の姿が……あった。
もちろん人形に宿る精神は藤原妹紅その人である。
果たして、妹紅の安否は!?
(うーむ、意外と心地いいな。ちゃんとした手順で分解されているせいか痛みも無いし。
傷を直されたり、新しいパーツに交換されたりするのが、
リザレクションとはまた違った復活気分でスッキリするなぁ)
馴染んでいた。
◇◆◇◆◇
本来の妹紅であれば、無防備のままふっ飛ばされ森に落下などしなかっただろう。
だが今、妹紅の肉体に入っているのは蓬莱だ。
しかも激しく動揺し、不慣れな身体のせいもあり無防備にふっ飛ばされ落下した。
木々の枝をへし折って、身体のあちこちが切れる。
地面に落下して打撲や骨折をし、今まで味わった事のない想像を絶する骨肉の苦痛は、
人形に宿った未成熟な精神をバラバラに引き裂くほど激しいものだった。
不死身の肉体にて精神の死という危機に陥りながら、
正気を繋ぎ止めるのはあの人との思い出。
――あなたの名前は蓬莱。蓬莱人形よ。
「ア、リ、ス……」
このままでは、いられない。
立ち上がらなければ、ならない。
アリスの元へ向かわねば、ならない。
「大丈夫か?」
気がつけば、かたわらに友達が立っていた。
優しい微笑で、蓬莱を覗き込んでいた。
「……い、たい……」
「そりゃそうさ。不老不死とはいえ人間だもの」
「……立て、ない……」
「ほら、手」
そう言って友達は、左手を差し出した。
蓬莱も左手を伸ばし、しっかりと握り合う。
「アリスの所に行くんだろう?」
引っ張り起こされて、手が離れ、お礼を言おうと顔を上げる。
「ありがとう、も――」
何も無い、誰もいない空間を見て、蓬莱は言葉を止めた。
今、確かにそこに、友達がいたはずだ。
どうなっているのだろうと己の身体を見下ろして、蓬莱は困惑する。
これは自分の身体では無い。妹紅の身体だ。すでに再生をすませ、怪我の痛みは無い。
じゃあ、自分を引っ張り起こしてくれたのは、誰だったのか。
痛みが生み出した幻? 錯覚?
いや、これはきっと。
「夢」
人形は夢を見ない。
花畑で昼寝をした時、夢は見なかった。
でも、もし今見たものが夢だとしたら、それはとても素敵なものに思えた。
夢という言葉が、将来の目標などといった意味だけでなく、
眠っている間に見るものも意味するのは、とても幸福な意味を持っているのではないか。
「……もこ」
蓬莱は一人切りで立ち尽くしていたが、魔法の森の気配の変化に気づき、慌てる。
暗くなってきている。
ただでさえ日の光が満足に届かぬこの森において、夜は完全な闇と言ってもいい。
魔法の森に慣れ親しんでいる蓬莱といえども、主アリス抜きで夜の森を移動するなどできない。
慌てず、朝になるまで動かずにいるのが正しい判断だろう。
だが蓬莱は歩き出した。
――私は自分の意思で動ける。夜まで待ってアリスが寝静まった頃、こっそり抜け出すさ。
夜の森は、危険だから。
――お前は森の中に潜んでいて、出てきた私を回収してくれればいい。
一人切りでは、危険だから。
――それから一緒に元に戻る方法を探そう。
蓬莱は駆け出した。
我知らず、闇夜を切り開く紅蓮をまといながら。
◇◆◇◆◇
灯火は小さく、地形を把握するには至らず、けれど蓬莱に迷いは無かった。
見える、糸が見える。
アリスが自分達人形を操る魔法の糸のように、見る者が見なくては見えぬ糸。
蓬莱が妹紅の肉体を燃やすほどに、見えぬ糸が瞳の中で紅く燃える。
なぜそんなものが見えるのか解らない。
構わないと蓬莱は思う。見えるのだから、行けばいい。
そこに妹紅がいると確信しているから。
木の根につまづいて、木の枝に引っかかって、キノコを踏んづけて胞子が舞い、
沼にはまり、急な坂を転げ落ち、急な坂をよじ登り、池に落ちて、蓬莱は自分の居所を理解する。
アリスの家の近くにあるこの池は、蓬莱が上海達と一緒に水を汲みに来る池だ。
幸い、池に落ちたおかげで汚れは落ち、炎で乾かし綺麗さっぱり。
木立を抜けて、蓬莱はアリスの家に帰ってきた。
カーテンの隙間から明かりが漏れている。
アリスの、声も。
◇◆◇◆◇
「これで元通りね」
妹紅はアリスの部屋のテーブルの上に置かれていた。
窓際にある棚には蓬莱人形と同じデザインの人形が並べられており、
その反対側には一人用のベッドやタンスがあった。
テーブルは部屋の中央。テーブルクロスや花瓶で彩られている。
完全修復された蓬莱人形は代えの服を着せられ、妹紅がつぎはぎをした服は捨てられてしまったが、
当人は気にしていないどころか、こんな事を考えていた。
(スゲーッ、爽やかな気分だね。新しいパンツをはいたばかりの正月元旦の朝のよーによォ〜ッ)
人形になるのも悪くないもんだなと妹紅は満面の笑みを浮かべる。
まあ、身体が人形だから笑顔なんて実際には浮かべていないけど。
「フフッ、急に笑い出して、どうしたの?」
浮かべていないけど、アリスは微笑み返してきた。
(え? あれ、あー……アリス? 聞こえてる? ほ、蓬莱ですよー。ありがとー)
聞こえていたのなら最悪だ。蓬莱が隠し通そうとした事、うっかり台無しそれは困る。
だがどうやら、声は、聞こえていないようだ。
「ごめんなさいね。あの変態にやられて、気絶さえしなければ、あなたを落としたりしなかったのに」
(あ、うん……ゴメン。聞こえてる訳じゃないのかな)
「昨日もあなたを探しに竹林に入ったのだけれど、結局見つけられなくて。
永遠亭に殴り込んで、輝夜から聞き出そうにも、あいつ、妹紅の正確な居場所を知らなくて」
(まあ、小さな家だしな)
「あなたは上海と並ぶ古株だもの、上海も心配していたでしょうね」
(上海? 人形の名前? アリスは人形に話しかけるタイプか)
「それにしても……」
アリスは人形に手を伸ばすと、優しく髪を撫で下ろす。
やわらかな指遣いは妹紅をうっとりとさせ、胸のうちをあたたかくした。
(母上……)
思わず、妹紅は目頭を熱くする。
しかし涙は流れない。流せない。
蓬莱は泣きたい時があるのだろうか。泣けない身をどう思っているのだろうか。
「あの変態……妹紅っていったっけ」
(うぐっ……変態言うなー)
アリスの指が、人形の髪から肩へと流れる。
「丁寧に、巻いてあったわね」
そして、肩から新しい左腕へ。
「包帯」
浮かぶ苦笑。嬉しいような、呆れているような、残念がっているような。
そりゃ、変態発言をした奴が人形を大切に扱ってたなんて、複雑な気分にもなろう。
(蓬莱〜、私のイメージ回復は難しそうだよぅ……)
「どうしたの蓬莱? さみしかった?」
妹紅の落胆を感じ取ったのか、アリスは人形を持ち上げた。
声は届いていないはずだ。なのにアリスは、妹紅の感情を読んでいるような言動を取る。
(まさか……アリス、お前は人形の心が解るのか?
いや、人形に心が宿っているって事は……知らないはず、だよな?
じゃあ、解るとまではいかずとも……無意識に察している? それほどまで人形を想っているのか?)
「おかえりなさい、私の蓬莱人形」
(あっ……)
アリスの胸に、抱きしめられる妹紅。
母に抱かれているかのような安堵、ぬくもりは人形達の、蓬莱のものであるはずだ。
(このぬくもりを、今度は蓬莱、お前自身が与えてやりたいんだな……)
その時、物理的ではない声が妹紅の心に直接響いた。
――そうだよ。それが私達の願い。
(誰だ……? その声、蓬莱なのか?)
――蓬莱はあなたの身体を借りて、かなえようとしているんだね。
(蓬莱じゃ……ない? おい、お前は)
――蓬莱のお友達のあなた、もう少しだけお願いね。
(蓬莱の仲間の……人形、なのか?)
――シャンハーイ。
その声の直後、アリスは蓬莱人形を胸から離した。
それきり声は聞こえなくなってしまう。
(蓬莱の言葉を思い返せば、人形同士が意思疎通をできたとして不思議はない。
私は蓬莱としかできなくて、でも、アリスを通して……私にも?)
考えても、理屈は解らない。
人形遣いと人形の絆が生んだ奇跡なのか。
あるいは魔法や精神について詳しく知る者なら説明できる当たり前の現象なのか。
「今日はもうおやすみなさい、蓬莱。また明日ね」
アリスは人形棚へ向かうと、蓬莱人形と同じデザインの人形の隣に妹紅を置いた。
もしかしたらと妹紅は声をかけてみる。
(……邪魔するよ。お前が上海か?)
返事は無かったが、きっと間違っていない。
棚に背を向けたアリスは部屋の明かりを消すと、着替えもせずそのままベッドに潜り込んだ。
元々蓬莱人形を探して疲労していたのに、休みもせず修理をしてくれた。限界がきたのだろう。
静かな寝息がすぐに聞こえてきたので、妹紅はゆっくりと立ち上がる。
(おやすみ、アリス)
それから、棚の上にある窓から脱出しようとしたが、ギリギリで手が届かなかった。
(人形って、飛べるのか? 飛べたとして、アリスの魔力が無きゃ飛べないんだったら……ん?)
棚の上の窓を誰かが外から開けようとしたのか、小さく揺れた。
カーテンにはわずかに隙間があったが、いまいち外の様子が解らない。
それでも妹紅はもしやと思い声をかける。
(蓬莱? 窓の外にいるのか?)
「……うん」
小さな返事。
あんなに思い切りふっ飛ばされたので、今晩のうちに合流するのは無理かと考えていたが、
どうやら妹紅が考えていたよりも蓬莱はたくましかったようだ。
(待ってろ、鍵を開ける)
三度ほど屈伸運動をした妹紅は、カーテンに向かって全力でジャンプした。
まだ人形の身体に完全に馴染んではないので、失敗したら着地に失敗し転んでしまうかもしれない。
物音でアリスが目覚めてしまっては面倒になる。
失敗してなるものかという強い決意は、無事妹紅をカーテンにしがみつかせた。
一生懸命よじ登ったカーテンの裏側に回り込んで、窓ガラスの向こうを見る。蓬莱がいた。
「鍵はここ」
(任せろ)
窓に飛び移った妹紅は、落っこちないようへばりつきながら中央へと移動し、手を伸ばして鍵を開ける。
外側に開く窓だったため、妹紅はそのまま押し開ける形になった。
(わっ……)
すぐに蓬莱が両手でキャッチする。
「もこ、大丈夫?」
(お前こそ、大丈夫か?)
暗闇の中、妹紅と蓬莱の視線が合う。
互いに大事は無いようで、安堵の空気が広がった。
(さて、当初の予定じゃこれから元に戻る方法を探しに戻るはずなんだけど……どうする?)
「どうしよう」
(アリスは寝ちゃってるし、いったん出直すか?
でも、この状況で私がいなくなったらややこしくなるな……)
「……もういい」
蓬莱は膝を折って、その場にひざまずく。
そしてアリスが妹紅にしたように、妹紅を抱きしめた。
「これ以上、もこに迷惑を、かけられない」
(でも)
「もこは友達、だからもう、いい」
(……蓬莱……)
「霊夢に相談、しに行こう」
立ち上がった蓬莱が窓を閉めようとすると、妹紅は身をよじって蓬莱の腕から逃れた。
地面に着地した妹紅は、真っ直ぐに蓬莱を指差して言う。
(蓬莱の人の形、藤原妹紅! 友達のために一肌脱げないような女じゃない!
蓬莱があきらめても、私はあきらめないぞ! 上海だって期待しているんだからな!)
「上海……が?」
(ああ、聞こえた。聞こえたとも、上海の声が!
私を蓬莱の友達って言ってくれた上海のためにも、ここであきらめるなんて言わせない!
だから、意地を見せてみろよ。蓬莱人形ッ!!)
熱が灯る。
胸の、内側に。
心音が響く。
炎のように熱く、心が燃える。
妹紅の心が燃えるのならば、蓬莱の心も燃えるのだ。
理屈は解らないがそうなのだと確信する。
燃えなければ、友達だと胸を張れない!
「解った」
妹紅を持ち上げ、肩に乗せる蓬莱。
「アリスを、抱きに行く」
そして、窓に手をかけ、足を上げる。
(って、今から忍び込む気か!?)
「駄目?」
(下手したら私は取り返しのつかない変態の烙印を……押されても構わないからッ、行くぞ蓬莱!)
「うん!」
小さな人形の願いをかなえるための小さな冒険。
胸に灯った輝きは、友情という名の宝石。二人の宝物だ。
◇◆◇◆◇
酷く疲れていた。眠かった。
寝る間を惜しんで蓬莱人形を探し、そして修理していたから。
それにしても、妹紅はいったい何だったのか。
いきなりあんなセリフを吐いて、馬鹿じゃないのか。
気に入らない奴。
でも、蓬莱人形の左腕に巻かれていた包帯は、とても優しい印象を与えた。
よく解らない奴。
蓬莱人形……無事でよかった、直ってよかった。
嬉しくて抱きしめたけれど、人形達を抱きしめるたび、心の片隅が虚無感に襲われる。
人形にどれだけ愛情を注いでも、返ってくるものは自己満足だけではないかという疑問。
それでいいとも思う。それだけでは物足りないとも思う。
人形を愛しく思うのは本心だけれど、心は欲張りなもので、情を注ぐばかりでは保てない。
ぬくもりが――欲しい。
寝苦しい気がして、アリスは眼を覚ました。
やけに暑い。布団が重い。
いや、そうではない。誰かが、側にいる。
誰?
眼を開けると、長い髪をした人影が微笑んだ。
「ホウラーイ」
夢? それとも、現実なのか。
よく解らないまま、無意識にその人影を抱き寄せる。
いや、元からその人影に抱かれていたのだ。
母に抱かれて安らかに眠る子供のように。
生命の心音を子守唄に、やわらかな感触に包まれながらアリスは眠る。
深く深く、安らかに。
◇◆◇◆◇
◆◇◆◇◆
小鳥の鳴き声で目を覚ましたアリスは、やけに部屋が明るい事に気づく。
視線を窓に向けてみれば、カーテンがわずかに開いていた。
よくよく見れば窓の鍵も開いている。
窓を開け閉めした記憶は無いが、昨晩は疲れていたし、
元々ああだったのだろうと思ってアリスは起き上がった。
「……あら?」
すると、布団の中に小さな侵入者がいた。
蓬莱人形だ。
「……棚に、あれ?」
上海人形の隣に置いたはずだ。
しかし蓬莱人形はここにある。
「持って来ちゃってた……?」
疲れていたから、そういううっかりもあるかもしれない。
けれど窓といい、蓬莱人形といい、そこまで疲れていただろうか。
記憶を手繰ろうとして、最初に思い出したのは眠る前の事ではなく、眠った後の事だった。
蓬莱がベッドの中にいて、アリスを優しく抱きしめてくれていた。
しかし蓬莱人形は小さく、アリスを抱きしめるなんてできないし、
そもそもアリスが動かそうと思わなければ動くものではない。
蓬莱人形をうっかりベッドに持ち込んで、無意識にそれを覚えていたため、夢に見たのか。
そう結論づけて、アリスは蓬莱人形を棚に戻そうと手を伸ばす。
「……あれ?」
そして、気づいた。
蓬莱人形の着ている服に、つぎはぎがしてある。
妙だ。いくら疲れていたとはいえ、これはありえない。
ちゃんと服を脱がせて、修理してから、
人形用のタンスにしまってあった服を取り出して着せたはずだ。
このつぎはぎをされた服は、後で縫い直そうと思って別の場所にしまったはずだ。
なのになぜ、つぎはぎの服を着ているのか。
とりあえず、こんな服装では蓬莱人形が可哀想だ。
着替えさせて上げないとと思い、服に手をかける。
すると、蓬莱人形の表情がほんのわずか曇ったように見えた。
「……蓬莱?」
眼の錯覚だったと、思う。
◆◇◆◇◆
博麗神社の縁側に、ぐったりと寝そべる紅白衣装の少女がいた。
少女はぼんやりと庭を見つめながら、大きなあくびをひとつ。
「眠そうね」
そこにやって来たアリスの顔色は、疲労も眠気も一切ありませんというほど晴れやかだった。
「夜更かしでもしたの? 霊夢」
「あー、うん」
紅白衣装の少女、霊夢は面倒くさそうに答えると、
気だるげな眼差しをアリスのかたわらに浮かぶ二体の人形に向けた。
「……おはよ。調子はどう?」
「悪くないわ」
霊夢はわずかに眉をひそめてアリスを見ると、また人形に視線を移してからまぶたを閉じた。
「ああ、アリスも元気そうね」
「悪くないって言ったじゃない。人の話、聞いてるの?」
「魔理沙とさ、昨日やりあっちゃって……今日は来ないかも。
ねえ、何かお菓子持ってきてない? 甘い物が食べたいわ」
「持って来ようと思ったんだけどね、賞味期限の危なげなケーキ」
「持って来なさいよ」
「なぜか無くなってたのよ」
「ああ……そうなの」
何やら納得した素振りを見せる霊夢。
まさかケーキを盗み食いした犯人を知っているのだろうか?
どう考えても一人しか思い浮かばないけれど。
「魔理沙がお腹でも壊した?」
「さあ? 弁当泥棒と勘違いして叩きのめした後の事は知らない」
「勘違いって、じゃあ誰が真犯人?」
「さあ……誰かしらね」
なぜか恨めしそうな目線を向けられて、アリスは困惑する。
霊夢のお弁当を盗み食いした心当たりなんて皆無だ。
自分のあずかり知らない所で色々な事が起こっているような気がした。
「まあいいわ。見て解る通り蓬莱は見つかったから、もう探さなくていいわよ。
どうせ、少しも探そうとしてなかったでしょうけど」
「うん、探しはしなかったわ。探しはね」
「含みのある言い方ね?」
「お菓子はいいから、お茶でも淹れてよ。魔理沙が持ってきた紅茶の葉があったはず」
「ティーカップくらい買いなさいよ」
神社には湯飲みしか無いため、アリスはさめざめとした口調で言った。
湯飲みで飲む紅茶は、気分の問題であまりおいしくない。
そんな風に考えながら、アリスは縁側から霊夢の隣を通って上がると、
律儀に台所へ向かおうとして、立ち止まる。室内で横たわる紅白衣装を見つけて。
紅白衣装は折った座布団を枕にして、静かな寝息を立てていた。
白いブラウスに紅いもんぺに白い長髪。間違いなく蓬莱の人の形、藤原妹紅その人。
「……何でこいつが、ここにいるのよ」
「昨日の晩、うちに来たの」
アリスの脳裏をよぎるのは、蓬莱人形を届けに来た際の変態発言。
「変な事されなかった?」
「させられたわよ」
「させられた……って何よ?」
「アリスも階段から落ちてみたら? 妹紅達にしたのと、同じ事をして上げるわよ」
「同じ事って何よ」
言葉の意図が掴めず困惑したアリスは、達という複数形の単語を聞き逃していた。
それを差し引いても引っかかる事が多すぎて、次第に機嫌が悪くなってくる。
紅茶を淹れてやるのをやめようか何て考えながら、チラリと蓬莱人形を見る。
特に何事も無く、アリスのかたわらに浮かんでいる。
アリスの人形だから、アリスが動かそうと思わねば勝手に動く事はない。
「……そいつを叩き起こしなさい」
「シャンハーイ」
わずかに逡巡して、アリスは上海人形を妹紅の枕元にやり、頭を小突かせた。
二度、三度と頭を揺さぶられ、妹紅はうめきながらまぶたを開ける。
「んん、うん……何だよ霊夢……寝かせろよぅ……」
「シャンハーイ」
「……ん? やぁ、おはよう」
上海人形を見るや、妹紅は眠気を払って起き上がり、
アリスと、そのかたわらの蓬莱人形を見つけて微笑を浮かべる。
「……ああ、よかった。ちゃんと一緒にいるな」
「……この子の事?」
二人の目線が蓬莱人形に向けられる。蓬莱人形は、ただ静かに浮かんでいた。
妹紅は頭をかきながら、たどたどしい口調で語る。
「ああ、そいつを拾って……お前の家に届けに行ったんだけど、
ええと『道中で変なキノコの胞子を吸ってから意識が曖昧になったり、
妙な幻覚幻聴に襲われたり、妙な事を口走ったりしてた』……のよ。
でもまあ、ちゃんと人形を届けられたみたいでよかったよかった」
「変に説明口調ね?」
「記憶がおぼろげだから、推測でフォローしているだけさ。
ところで私……変な事を、口走ったりしてなかったか?」
――アリスを、抱きたい。
思い出すのは、妙に震えていたあの言葉。
確かにあの時の妹紅は、態度が変だった。
蓬莱人といえども、魔法の森をたゆたう魔性は効果があったのか。
「……別に、何も」
アリスが答えると、妹紅は「そうか」と胸を撫で下ろす。
まさかあの妙な言動をおぼろげながら覚えているのだろうか、
やぶ蛇をつつくのも不憫と思いアリスは話題を変えようとする。
「蓬莱の腕に包帯を巻いたのは、あなた?」
「え、ああ。折れてたから」
「この服のつぎはぎも?」
「本職の人形遣いほど綺麗には縫えなくてね、不恰好で悪い。その服……のままなんだな?」
「着替えさせるつもりだったんだけど、代えの服が全部洗濯中だっただけよ」
「そうか」
含みのある笑いを浮かべる妹紅を見て、アリスはまたもや心に引っかかる何かを感じた。
詮索しようか少し悩んでから、平坦な口調で言う。
「……一応、礼は言っておくわ。蓬莱を助けてくれて、ありがとう」
「いいさ」
妹紅は立ち上がると、やわらかい眼差しを蓬莱人形に向けて言った。
「色々と楽しかったもんな」
「ホウラーイ」
蓬莱人形が返事をした。
それは、間違いなくアリスが人形遣いとして操作したための結果である。
しかしなぜ、まるで肯定するかのような返事をさせたのかアリス自身にも解らない。
妹紅の言葉で、そうするのが自然だというように蓬莱人形に返事をさせてしまった。
あずかり知らない所で起きた出来事の正体は何なのか、思考を傾けようとしたその時。
「アリス〜、まだー?」
霊夢が紅茶の催促をしてきて、何だか一切合財が面倒くさくなってしまったアリスは、
思考を放棄すると蓬莱人形と上海人形を連れて台所に向かった。
「手伝うよ」
その後に妹紅が続く。
◆◇◆◇◆
二人と二体の姿が見えなくなってから、霊夢は青空を見上げて呟いた。
「よく体力が持つわね。人形と入れ替わったり、元に戻ってから人形を届けたり……」
さすがは蓬莱人と感心するべきか、お人好しめと呆れるべきか。
夜更けにやって来た一人と一体の珍客の身に起きた小さな異変を思い返す。
「元に戻す要領も解ったけど、面倒だし『石段で転ぶな』って看板でも立てておこうかしら。
ああ、でも看板を作るのも面倒だわー……うん?」
耳をすます霊夢。
石段の方で誰かの悲鳴が聞こえた気がした。
まさか誰かが石段から転げ落ちたのでは?
そういえばレミリアが咲夜を連れて遊びに来ると言っていた気もするし、
妖夢が用事があるから幽々子と一緒に来ると言っていたような気もすれば、
紫がわざわざ石段を登って来てそのボロさを馬鹿にしようとしている気がしたり、
慧音が昨日の夕方頃に妹紅を探しに訪れた時にまた来ると言っていた気がしないでもなく、
輝夜がまた肝試しのような悪巧みをしにやって来るかもしれないし、
魔理沙が誤解を解きに突撃してきそうな予感がそこはかとなくしなくもない。
「……まあ、気のせいよね」
そう呟いて霊夢は面倒くさそうに立ち上がると、室内か石段か、
どちらに向けて歩き出そうか三秒ほど悩んだ。
◆◇◆◇◆
――お前の名前は蓬莱だから……今は"蓬莱が人の形"だな。
――私は元々、人の形の、人形。
そんな些細なやり取りも覚えてる。
それくらい人の形ですごしたひとときは、友達とすごしたひとときは、鮮烈だったから。
忘れないよ、ずっと。
FIN
――私の方が、美人。
そんなどうでもいいセリフも覚えてる。
長い永い人生の果てに、いつか色あせ忘れてしまう時が訪れるのだとしても。
小さな友達がいた事は、きっと忘れない。
◆◇◆◇◆
八人四組による肝試しの翌日。
リザレクションのしすぎで筋肉痛になった彼女は、
霧の漂う迷いの竹林を歩くのに竹製の杖を使っていた。
長年、竹林に住んでいるため竹細工はお手の物、この杖も彼女の手作りだ。
お金を得るために、友人に竹細工を渡して売ってきてもらう事もあった。
という訳で、彼女は器用である。天性の物ではなく、経験によって。
そんな彼女の杖が異物をえぐり、危うくバランスを崩しかける。
「ん、何だろう」
その場に膝をついて、それを拾ってみる。
「何でこんな所にこんな物が」
杖によって腕が破砕されたそれを見つめ、見覚えがあるように感じたが、
長年生きていればどこかで同じようなデザインを見た事もあるだろうと自己完結。
生活圏である竹林にゴミ(落し物かもしれない)が捨てられていていい気はしないし、
彼女はそれを家に持ち帰る事にした。
彼女だって女の子なのだから、こういのは嫌いじゃない。
迷い竹林の奥深く、隠れるようにたたずむ小さな家に、蓬莱の人の形こと藤原妹紅は住んでいた。
永遠亭の者達ですら正確な所在を知らぬこの場所に迷わずやって来られるのは、
妹紅を除けば友達である上白沢慧音くらいのものだろう。
「ううん……。ぬいぐるみなら裁縫で何とかなるんだけどな……」
汚れた西洋人形を磨き終えた妹紅は、壊れた箇所の修理を試みていた。
一番酷いのは杖で潰してしまった左腕。球体関節は無事だが、肘のやや先からへし折れている。
ヒビの入った瞳は青のガラス玉で、多少の魔力が込められているようだ。
お日様のような金色の髪はすっかり乱れ、後でくしを入れてやらねばなるまい。
衣装は正統派メイド服というか、紺色の衣装に白いエプロンを着ており、頭と胸元には赤いリボン。
とはいえ、今人形は服を全部脱がされている。
なぜか服は焦げていたし、霧の湿気もあり泥がついて汚れていたからだ。
脱がされた人形は、ちゃんとドロワーズまで履かせてあったので、ちょっぴり感心する妹紅であった。
「とりあえず、スカートなら何とかなるか」
焦げた部分をハサミで切って、近い色の生地を縫いつければ、それなりに見栄えはよくなるだろう。
「その前に洗濯かな〜。けど、このまま裸っていうのもね」
妹紅は、自分の髪を結んでいたリボンを解くと人形の身体にクルクルと巻きつけた。
胸元から右肩、左の腰から右の腰へと回して、左肩から胸元へ。
リボンを広げながら改めて腰に巻いてスカートに見立てる。
これでちょっとしたドレスに見えなくもない。
裸に……リボン。
冷静に考えると破廉恥だが、細いリボンで秘部だけ隠すタイプではないので破廉恥ではない。
そもそも西洋人形をスッポンポンにひん剥いて、
リボンを巻きつけて興奮するような輩など幻想の産物であろう。
ああ、何て素敵な幻想郷。
「こんなもんかな」
へし折れた腕は、材質がよく解らなかったので、接着に何を使うべきか判断に困り、
今度慧音に相談すればいいと、妹紅は包帯で結びつけた。
自分が壊してしまったのだから、人形だとしても治療をしてやるべきだという考えもあり、
痛くないよう気を遣って、本当に人間の手当てをするようにしてやった。
優しすぎる。普段の妹紅なら、筋肉痛の身体でそこまではしない。
でも、昨日は楽しかったから、今日もいい気分で、気持ちにゆとりがあったのかもしれない。
輝夜以外との全力勝負。一勝三敗とはいえ、ああ、生きているのだと実感できた。
だから、今日の妹紅は優しい。
筋肉痛の影響もあって妹紅はこの日、あまり外出をしなかった。
散歩を除けば、ちょっと水を汲みに行く程度。
だから今日、竹林に迷い込んだ方はご愁傷様。
幸運の兎さんでも見つけるか、自力で竹林を抜けてくださいな。
翌日になって、慧音が訪ねて来た。
「この前の夜は散々だったな。……昨日は来れなくてすまない。
不死身の力を持つ"蓬莱の人の形"とはいえ、酷い筋肉痛だったろう」
「いや、いいさ。あいつ等が来た時、仕事を放り出してまで駆けつけてくれたんだもの。
昨日は割かしのんびりできたよ。散歩して、人形なんか拾ってさ」
片手に熱々のお茶を持った妹紅は、足を崩して楽しげに笑っていた。
行儀よく正座している慧音は、たっぷりと黒蜜のかかった葛餅を竹のスプーンで一口食べる。
「人形か。竹林で? よくもまあ、こんな所まで来て落としたものだ」
「西洋人形だから、寺子屋の子のって訳じゃないよね」
「そもそも、うちの生徒達には竹林に入らないようきつく言ってある。落とし主は誰だろうな」
「ちょっと壊れてるんだけどさ」
ちゃぶ台に湯飲みを置いて立ち上がると、妹紅は棚の上にある西洋人形を取って戻ってきた。
洗濯と元通りの服で、髪は綺麗にくしで梳かれ、すっかり汚れは落ちている。
とはいえスカートのつぎはぎは不恰好で、左手も服の下では折れたままになっているし、
左目の青いガラス玉はヒビが入ってしまっている。
「結構いい人形だな……これは修理代も相当かかるんじゃないか?
腕は、造り直さないといけないだろう。材質は解らないな」
「自分で直してみようかな、時間はたっぷりあるし」
「服はいっそ、新しく縫ったらどうだ? せっかく綺麗な人形なんだし。
眼は……顔を外して入れ替えればいいのかな。継ぎ目は? 無いな?
というか、これは普通の人形なのか? 少々、不可思議な力を感じるが」
「マジックアイテムの一種かな。丑三つ時に神社で……」
「藁人形ではないのだから。しかしこの人形、どこかで見た気がするな……」
「ん……慧音も? そうか、そうだったのか」
「妹紅?」
「解ったぞ、この人形……」
両手でしっかりと人形を持ち上げ、まっすぐにガラス玉の瞳を見つめて妹紅は言った。
「昔からよくあるデザインなんだな」
「成る程。妹紅は流行に疎いものなー」
納得する慧音。
普段竹林に隠れ住んでいる妹紅は、人里の流行には疎いのだ。
同じような感じだった輝夜は、どうやら永夜異変以後、永遠亭ごと露出を始めたらしいが。
(私も、ちょっとは竹林の外に出たり、人里の人間と関わるべきなのかな……)
人形を置いて、お茶をすすっていると、慧音が人形を手に取った。
まじまじとガラス玉の瞳を見つめ、人差し指でかるくつつく。
どうやらガラス玉を入れ替えられないか、方法を模索しているようだ。
「ガラスは高熱で融けたな? 炎を一点集中すれば、ヒビを何とかできないか?」
「人形とはいえ目玉焼きは可哀想だよ……そうだ、お昼は目玉焼きにしよう。
差し入れに卵があったろう? 私が焼くからさ、食べてきなよ」
ふうとため息をついて、慧音は人形から顔を上げる。
「すまない、正午までには人里に戻らなければならないんだ。まだ仕事があって」
「そうか、仕方ないな」
残念そうに、妹紅は葛餅を一口で食べた。さっぱり甘い。
慧音が帰ってから、妹紅は目玉焼きを作ろうとして、やっぱり玉子焼きを作った。
理由は特に無い、ただの気まぐれである。
それはいい。問題は作りすぎてしまった事。
慧音と食べたかったな、なんて思いながら作ったせいだろうか。
「お前が、一緒にご飯を食べられたらなー」
人恋しいのだろうか、西洋人形に話しかけながら、髪を撫でてやるだなんて。
人恋しいのだろう。人ならざる者が、人と共に戦う姿を見たから。
――博麗の巫女と、式任せのスキマ妖怪。コテンパンにのされたっけ。
――人間のメイドと、幼い吸血鬼。ギッタンバッタンにされたっけ。
――半人半霊の剣士と、蝶の如き亡霊。ケチョンケチョンにされたっけ。
――パワー重視の魔法使いと、人形遣い。ギタンギタンにしてやったっけ。
「ん? 人形遣い?」
ようやく妹紅は思い出した。
この拾ってきた人形になぜ、見覚えがあったのか。
「そう、あいつが持ってたんだ。名前は……確か……」
ピン、と指を立てる妹紅の頭上に電球が輝く。
「マリス!」
混ざっていた。
◆◇◆◇◆
作りすぎた玉子焼きを弁当箱に入れて、そして壊れた西洋人形を抱きかかえて、妹紅は出発した。
行き先は博麗神社。あの人形遣いの家がどこにあるか訊ねるためだ。
人形を返す気は無かった。
人形を返さない気も無かった。
人形が直ればそれでいいだろう。
「ここが博麗神社……か」
恐らくみんな空を飛んで来るのであろう、歳月により古びてとても登る気になれない石段の先にある、
赤い鳥居の上に降り立った妹紅は、その小さな神社を眺めた。境内に人影は見えない。
「おーい、誰かいないのか?」
呼びかけに応じる者も無く、妹紅は鳥居から飛び降りると、建物の周りを一周する。
「おーい、留守か? それとも居留守かー?」
戸を叩いてみても返事は無く、どうやら本当に留守の様子。
どうしたものかと悩む妹紅。
巫女が帰ってくるまで神社で待つか。
しかしせっかく作ってきた玉子焼き、あまり時間が経っては傷んでしまう。
他に、あの人形遣いの居場所を知ってそうな人物の心当たりは、あの吸血鬼達と亡霊達。
亡霊達は冥界にいそうだが、確証は無い。
最近生きたまま行き来できるようになったって慧音が言ってたが、
不老不死の自分が冥界に行くのは気が引ける。
となると吸血鬼がいそうな場所、竹林の霧すら紅く染まった紅霧異変の元凶の紅魔館か。
普段、竹林にこもっているから幻想郷の地理には疎いため、紅魔館の位置も解らない。
「人付き合いを避け続けた結果か……でも、寿命の短い人間にいちいち情を移すのも、な?」
自嘲しながら、妹紅は人形の髪に手ぐしを入れてやる。
「慧音だって、人間より長生きするとはいえ……いつか……。
フフッ。お前達人形は、生きていたらいつ死ぬのかな。
壊れた時? 捨てられた時? それとも忘れられた時?
ちゃんと手入れを続けていれば、すごく長生きできそうだよなー」
人形に話しかける自分を滑稽に思いながら、妹紅は神社を立ち去ろうと鳥居を潜る。
そして。
特に深い意味は無かった。
純然たるただの気まぐれから、妹紅は空を飛ばなかった。
石段を、一歩。硬い踏み心地。
もう一歩。体重が足元にかかる。
そんな風に、石段を歩いて下りていく。
足音が鳴るように意識したり。
てっく、てっく、てく、てく、ゴト。
「あ?」
気がついたら、石段が目の前にあった。直後、衝撃が視界を暗転させる。
上下の感覚を失い、飛んで逃れる事すらできない。
(せっかく焼いてきたのに、玉子焼きがこぼれたらどうしよう)
そう考えて、妹紅は弁当箱の包みを放り、両腕で人形を抱きしめる。
身体を丸めて、我が身を盾にして。
人形を大切にしようとか、壊したくないとか、そういう考えは一切無かった。
突然の出来事だったので考えて行動に移すという当たり前が不可能で、
いわゆる条件反射でしかなかった。
けど、どういう条件反射をしてしまうのは、性根の具合にもよるだろう。
◆◇◆◇◆
◇◆◇◆◇
痛みに、妹紅はうめいた。
息をしぼり出そうとしたが、強く打ちつけられたせいか呼吸ができない。
左腕が痛む。折れているかもしれない。
左目も痛む。石段の角にでもぶつけてしまったのだろうか。
耐え切れない痛みではないが、もう少しすればリザレクションで回復できるだろう。
このままおとなしく寝そべっている方がいい。
かすむ視界の中、引っくり返った弁当箱を見つけた。
当然、玉子焼きは地面に散乱している。これでは鳥など餌にしかなるまい。
地面? 土や草が、見える。
どうやら石段を一番下まで転げ落ちてしまったらしい。
……そろそろ、リザレクションしてもいい頃合だ。
痛みにも慣れて来たので、こらえて何とか立ち上がろうとする。
手が痺れているのか、土の感触が妙だった。
膝立ちになって、妹紅は多大な違和感を覚える。
視界が、低い。
よろめきながら、歯を食いしばって立ち上がろうとし、立ち上がったが、
歯を食いしばれなかった。口の感覚まで無い。
いや、全身の感覚がおかしい。
身体は確かにあるのだが、感覚が希薄というか、妙に固い。
(何なんだ、いったい……)
そう呟いたつもりだった。
しかし、妹紅の口から言葉は出ない。
代わりに別の誰かが喋ったが、それはまさしく妹紅の声だった。
「……あ、れ……? 体内が、動いてる……身体の表面が、やわら、かい」
ギョッとして、妹紅は周囲を見回す。
なぜ自分の声が、自分の口以外から?
すると、巨大な妹紅がすぐ隣に倒れていた。眼が合った。
(ななな、何だぁーッ!?)
「……上海? 左目が、割れている、から蓬莱?」
巨大妹紅の口調はたどたどしく、まるで喋るという行為に慣れていないようだった。
巨大妹紅は人形のような無表情でこちらを見つめ、ぬぅっと手を伸ばしてくる。
慌てた妹紅は咄嗟に飛びのいたが、うまくバランスを取れず尻餅をついてしまう。
そして、気づく。
大きいのは巨大妹紅だけじゃない。周りの風景全部、大きい。
これじゃあまるで、自分が一寸法師にでもなったみたいだ。
いや一寸法師というほど小さくない。せいぜい、人形程度の大きさだ。
人形?
まさか、あるいは、もしかして。
妹紅は自らの手を見た。
人形の手だった。
服も、白のブラウスと赤のもんぺではない。
スカートにつぎはぎの跡がある紺色の衣装に白いエプロン。胸元には赤いリボン。
妹紅が拾った人形の着ていた服だ。
(これって……)
「身体が……変。この服、もこ?」
巨大妹紅は、着ているブラウスともんぺを不思議そうに撫でながら、
妹紅と同じ結論に達しつつあるようだ。
(私と人形と精神が入れ替わったのかーッ!?)
「蓬莱に、もこが、入ってる? もこに、蓬莱が、入ってる?」
階段から一緒に転げ落ちて精神が入れ替わる。
実に王道展開である。よくある話である。
だが、人形と入れ替わるのは如何なものかと妹紅は思うのだ。
◇◆◇◆◇
「私はアリスの、人形の蓬莱。マリスは間違い」
(ああ、アリスね……うん)
石段に腰かけて並んでいるのは、妹紅と蓬莱人形だ。
前述の通り、中身は入れ替わっている。
不安や疑問は数多くあり、今後どう行動したものかと頭を悩ませているのは妹紅である。
蓬莱は、人間の肉体を面白がってか手のひらを開いたり閉じたりしている。
(しかし、まさか人形に意思があったとは思わなかったよ。アリスって凄いんだな)
妹紅は喋ろうとしても喋れないが、喋ろうとした事はなぜか蓬莱に伝わるようだ。
それは蓬莱が妹紅の肉体を使っているため、何らかの繋がりが生じているのだろう。
「アリスは凄い、けど意思がある、事は知らない」
どうやら息継ぎのタイミングが掴めないらしく、蓬莱の言葉は聞きづらい。
まあ、元が人形だから仕方ないのかと割り切って我慢する。
(知らないって、何だ? アリスが意思を持たせたんじゃないのか?)
「気が、ついたら意思が、あった」
(人形というか、人の形をした物には魂が宿りやすいとか言うしな。
お前も……ええっと、蓬莱? お前もそういう類なのか?
そういえば付喪神っていうのもあるな。付喪神になりかけとか?)
「付喪神には、絶対にならない」
(何で?)
「付喪神と、自律人形は、違う物。アリスは自律、人形を造りたい。
付喪神にならない、ように魔法で、保護してる。私達も、付喪神に、なりたくない。
アリスが造りたい、物と違う、存在はイヤ」
(ふーん?)
妹紅は、今は人形である己の手足を動かしてみた。
少々ぎこちないが、思い通りに動かせる。
(自律人形か。研究はうまく行ってるみたいだな、人形単体でもちゃんと動けるなんて)
「動けない」
人形の身になっても、妹紅の精神は人間性を保ち、感心している様が解る。
だが蓬莱は、人間の身になっても無表情で、感情を感じさせない声色だ。
(何だって? でも、私はこうして)
「私達は、アリスの魔法で、動いてる。喋るのも、アリスが喋らせ、てる」
(私の精神……あるいは魂と入れ替わったから、その魔法の部分を補ってる?
じゃあ、喋る機能もあるなら、喋れるのか?)
「ホウラーイが、単語登録、されてる。試してみる?」
(……試す気になれないな)
カクッと首を傾けて呆れを表現する妹紅。
表情を変えられないせいか、リアクションをきっちり取るよう心のどこかが意識していた。
(まあ、蓬莱の事はだいたい解ったよ。とりあえず、石段を登ろう。乗せてってくれ)
「どうして」
(異変解決は巫女の仕事だって慧音が言ってた。
巫女に相談して、身体と精神を元通りに戻したら、ちゃんとアリスの家に届けてやるよ)
蓬莱は、妹紅の頭を掴んで立ち上がる。
元々は自分の身体なのに、扱いがぞんざいだ。
まだ人間の身体を使い慣れていないからだろうかと妹紅が考えていると、
蓬莱は初めて感情をわずかながら感じ取れる声で答えた。
「ヤだ」
どんな感情が込められての言葉かは解らないが、やや語調が強い。
だがそんなのは些細な問題だ。
(な、何でだよ。元に戻らないと蓬莱だって困るだろ?)
「したい事、したい。今ならできる」
(おい、待て、私の身体で何をする気だ)
「家に帰る」
(家って、アリスの家か?)
うなずいて、蓬莱はよたよたと歩き出した。妹紅の頭を、人形の頭を掴んだまま。
(待てって! 私はとっとと元の身体に戻りたいんだ!)
「私はもう、少しこのまま」
(拾ってやった恩を仇で返す気かー!?)
「アリスを、やっつけたのは、もこ。蓬莱が、落とされて、壊れたのは、もこのせい。お相子」
(うっ……ぐむ……)
確かに、いい加減四組目の肝試しともなれば妹紅の苛立ちも相当のもので、
手加減無用全力全開小宇宙完全燃焼の勢いで戦ったため弾幕も乱暴で、
人形遣いは鳳翼天翔を受けて頭から地面に落っこちて気絶してしまったのだ。
ついカッとなってやった、今は反省している。と言い訳しても今さら遅いだろう。
まさか人形に言い負かされるとは。何だか悲しくなってくる。
とはいえ、このままでいいはずがない。
妹紅は蓬莱人。
肉体は不老不死、魂も不滅。
普通の入れ替わりとは事情が違うと了解してもらわねばならない。
階段から落ちた傷は妹紅の身体には、今の蓬莱には無い。
つまり肉体は今も不死身の再生力があるのだろう。
だが、魂はどうか?
解らない。今妹紅の肉体が滅んだとしたら、蓬莱人ではない蓬莱はどうなる?
胆に溜まった蓬莱の薬により復活するのか、蓬莱の薬の効果を受けていない魂は肉体を離れるのか。
果たして人形が魂を持っているのかどうかは解らないが、蓬莱人形の精神が消え去る可能性もある。
また、今の妹紅が器とする蓬莱人形が壊れたらどうなるか?
答えは、直らない。折れた左腕も、ひび割れた左目も直らないのだから当然だ。
では魂は?
魂が蓬莱人のままなら、肉体を失った事で魂から新たな肉体を再生するだけだ。
しかし、入れ替わった状態で滅んだなら、再生されるのはどちらの肉体?
まあ多分、本来の妹紅の肉体だろうとは思う。
だが、こんな不自然な状況だ。蓬莱人の不死の力も正しく働かないかもしれない。
永琳なら蓬莱人の肉体、魔法人形、精神、魂、入れ替わり、
様々な要因を正しく繋ぎ合せて明確な答えを出せるだろう。
妹紅は違う。解らない事だらけだ。
もしかしたら、理屈までは考えられないが、今、人形のまま死んだら。
(蓬莱人の私でも、死ねるのかな)
死にたい訳ではない。
死にたくない訳でもない。
ただの、疑問だ。
「死なない」
それに答えたのは、蓬莱。
「もこを壊さない、よう気をつける」
(……ああ、お前の身体だもんな)
「違う」
蓬莱は手の使い方を心得て来たのか、妹紅を持ち直すと、自らの肩に乗せた。
もちろん落っこちたりしないよう、しっかりと手で支えてくれている。
(違うって、何が……)
「もこ、蓬莱に優しく、したから、もこは、優しくする」
優しく……した?
蓬莱人形を持って帰り、どうにか直せないかと思案した。
折れた腕は、まるで人間を扱うかのような手つきで、優しく丁寧に包帯を巻いた。
服も洗濯して、つぎはぎをして、元通りに着せてくれた。
左目のヒビも、ガラス玉だから熱でどうにかできないかという案を断った。
人形相手でも、目を焼くなんてできない。
そんな風に気遣ってくれたから、蓬莱は思うのだ。
「もこに身体を、返すまで壊れない、よう気をつける。
蓬莱の中に、入ってるもこが、壊れないよう、蓬莱の身体も、気をつける」
妹紅は、人形である自身の身体を傾けると、本来自分のものである頬に頭を預けた。
寄りかかって、頼りにしているよというアピールが伝わったかどうかは解らない。
(……ちゃんと返すんなら、まあ、しばらく貸しとくよ)
「ありがとう」
(それから、私の身体は頑丈だから、多少は無茶してもいいよ)
「蓬莱人……"蓬莱の人の形"……だから?」
慧音がそう呼んでいたのを覚えていたのか、人形は意外と記憶力がいいなと妹紅は感心した。
(うん、まあ、そう。でも、お前の名前は蓬莱だから……今は"蓬莱が人の形"だな)
「私は元々、人の形の、人形」
(まあ、そうだけど……って、わぁっ!?)
突然、蓬莱は足をもつれさせた。
まったく手入れされていない神社と人里を繋ぐ道には硬い石ころも散らばっている。
そんな所に、受身も取らず真正面から転ぶ蓬莱。
見事に顔面から突っ伏して、服は砂で汚れ、唇は擦り切れ、鼻を強打してしまう。
だが、妹紅の方は今回の転倒で傷を負わなかった。
蓬莱が妹紅が地面にぶつからないよう、身体を掴んだままの手を、
甲を下に向けてクッションにするようにしたからだ。
指がゆるんだので、妹紅は地面に下りると蓬莱の頬をつっついて反応を確かめる。
(お、おい……蓬莱? 大丈夫?)
実を言うと、妹紅は口調ほど心配していない。
転んだのは自分の肉体だ、怪我程度ではたいした意味を持たない。持てない。
「……痛い。動け、ない」
人形の肉体の妹紅は、壊れた左目と左腕が今も痛んでいるとはいえ、
慣れればそう騒ぎ立てるほどでもないので、人形のため痛覚が鈍いのだろうと理解しつつあった。
故に、人形から生身へと移った蓬莱には痛みが相当こたるらしい。
(まあ、そのくらいすぐ治るよ。治り切っちゃえば痛みも消える)
回復しすぎると、筋肉痛になってつらいけど。
「……痛み、無くなった」
軽傷のため回復も早かったらしく、よろよろと立ち上がった蓬莱に傷は無い。
せいぜい顔と服が汚れたくらいだ。
顔の傷が消えている事を確かめて、蓬莱は安堵する。
「よかった。もこの顔は、無事。美人だから傷が、できると困る」
(美人って……いや、その……)
普段、容姿を褒められる機会の無い妹紅は悶えた。
生身であれば赤面していただろう。
でも、まあ、褒められて悪い気はしない。
ちょっと自慢げに妹紅は声を送った。
(美人と言うか、何と言うか……まあ、"蓬莱の人の形"って言うだけはあるだろ?)
「私の方が、美人。アリスはもっと」
自慢したら、すぐ自慢を返された。
思わず握り拳を作る妹紅。
しかし確かに、蓬莱は可愛いだと思う。人形なんだから可愛く造られて当然だ。
でも妹紅だって、平均以上の容姿のはずだ。はずなのだ。
「私か、アリスと同じ、服を着れば、もこは、今より美人」
悔しさのため何とか言い返そうと思っていたら、蓬莱の方からフォローをしてきた。
ちょっと驚いて、妹紅は土で汚れている蓬莱を見上げた。
ブラウスにもんぺ。確かに、可愛いとか美しいといった言葉の似合う服ではない。
きらびやかな服を着れば、着ていた頃なら、お人形みたいに可愛いかったかなと、妹紅は思った。
(よせよ、お世辞なんて)
「本当の事。でも着替えても、アリスの方が、美人」
(……さいですか)
どうやらこの蓬莱、ありとあらゆる基準がアリスでできているように感じられる。
主人に懐っこい様は可愛らしくもあるが、自分の姿と声で言われると複雑だ。
蓬莱は妹紅を持ち上げると、再び肩に乗せる。
「もう転ばない」
(ああ、そうしてくれ……ところで、アリスの家に行って、私の身体で蓬莱は何をする気なんだ)
「いつも、してくれる事、私も、したい」
(……恩返しみたいなノリ?)
「ホウラーイ」
(……まあ、いいか)
こうして、妹紅と蓬莱の精神入れ替わり珍道中は始まったのだった。
はてさて、二人は無事アリス宅にたどり着けるのか!?
◇◆◇◆◇
【珍道中NO.1 博麗神社近辺にて妖怪と出遭う】
宵闇の妖怪ルーミアが現れた!
妹紅は人形の身体のため戦えない!
蓬莱は妹紅の身体を使いこなせない!
「あなたは食べてもいい人類?」
「食べちゃダメな、人形」
「人形なのかー?」
「人形なの」
「人形じゃ食べられないのかー?」
「食べちゃダメ」
「そーなのかー」
ルーミアは立ち去った!
蓬莱は舌戦でルーミアを退けた!
蓬莱のレベルが上がった!
口の巧さが3ポイント上がった! 転ばない確率が4ポイント上がった!
妹紅(蓬莱人形本体)を落とさない確率が2ポイント上がった!
蓬莱はルーミアから「そーなのかー」を学習した!
(お前、意外とやり手だな)
「そーなのかー」
蓬莱は妹紅に褒められた!
【珍道中NO.2 山道にて金色の池を見た】
蓬莱は、突如として襲う肉体の違和感に震え、意思と無関係に立ち止まった。
まさか妹紅の肉体に重大な異変が起きたのか。
あるいは、人間の肉体の使い方を正しく理解していない蓬莱が、
人間ならば絶対にしないような過ちを犯し、妹紅の肉体を危機にさらしてしまったのか。
(どうした。蓬莱、どうしたんだ)
「身体が、おかしい」
わずかに震える声、重たい不安が妹紅にもひしひしと伝わってくる。
(おかしい? 落ち着け、詳しく話してくれ)
「お腹の下が、不思議な感じ」
(お腹の下? 下腹?)
「下腹から、股間の辺り」
(……うん? それって)
「何かが体内、から出ようと、してる」
いったい何が、何が、何が出ようとしているのか。
人体とは人形と違い、様々なものを抱えている。
激しい出血が起こるのだろうか。
肉や骨、神経に異常があるのか。
臓器が体外へこぼれてしまう奇病という可能性も!?
蓬莱の精神は恐怖に圧迫され、胸の奥がきつく絞めつけられるような錯覚さえ感じるほどだった。
(あー、蓬莱。それは多分、その、お花を摘みに行きたくなったんだと思う)
「別に行きたく、ない」
(そうじゃなくて、お手洗いだ)
「土は払った。まだ少し、汚れているから、土が原因の、病気?」
(ああ、もう、そうじゃなくて……)
「もこの言ってる、事がよく解らない。これは何?」
(だから、その、お、お……)
「お?」
(おしっこだよ!)
羞恥を誤魔化すように、妹紅は飛びっきり大きく叫んだ。
それは物理的な声にはならなかったが、強く蓬莱の精神に響く。
「おしっこ!」
それを受けて蓬莱は、妹紅の言葉を復唱する。
大声で。
人気の無い山道に、妹紅の声をした蓬莱の言葉が轟いた。
山に住む妖怪などには聞こえてしまったかもしれない。
(ば、バカ! 叫ぶ奴があるか!?)
「おしっこなら、知ってる。アリスはいつも、トイレに行く」
(ああ、そうだよ。解ったなら早く、そこらの草陰で……しちゃいなよ)
「やり方が、解らない」
大真面目に蓬莱は答えた。
なるほど、いくらアリスとはいえトイレの中にまで人形を連れ込んだりはしないか。
そう納得して、妹紅は青ざめた。
人形の身体だから実際は青ざめてないけど、顔面蒼白ならぬ精神蒼白だ。
(と、とにかくそこらの草陰に行くんだ)
「解った」
(よし、そしたらもんぺを脱いで……)
「どうやって?」
(ええと、まずサスペンダーを……)
「間に合わない。出る」
(ちょ、えええ!? 待て、こらえろ、変に力んだりせず、も、漏らすなよ!?)
「無理」
(あ、あああ! こ、こうなったら……蓬莱、あそこに池があるな? 飛び込め!)
妹紅の言葉に従い、蓬莱は山道の側にあった池に向かって走る。
足が地面を踏みしめるたび、衝撃が下腹部に響いた。
中で、揺れていると蓬莱は感じた。
とても奇妙な感覚で、早く出したくてたまらなくなってくる。
下腹部がうずき、心身が昂ぶっていくと同時に、悪寒が背筋を走る。
(行けぇー!)
行った。
奇跡的に転ばずに池までたどり着いた蓬莱は、さっそく池に飛び込む。
水は、膝くらいの高さしかなかった。
「出る」
(す、座れ! 水の中で出すんだ!)
蓬莱は、まさしく糸が切れた人形という表現そのままに池の中に崩れ落ちた。
お尻が勢いよく水面を叩き、水しぶきを上げる。
水がもんぺをびっしょりと濡らし、冷たさが腰から下を包み込む。
故に、蓬莱は震えたのだと思った。
寒さや冷たさを感じると、アリスや魔理沙や霊夢も震えていたから。
しかし蓬莱が震えた本当の理由は、違った。
「……あたたかい?」
それは奇妙な現象だった。
冷たい池の中にありながら、蓬莱はあたたかさを感じていた。
まるで人肌のようなぬくもりが、下腹部を優しく包み込む。
全身がとろけるような開放感は、まるで天に昇るようでさえあった。
思わず、ため息が出るほどに。
(……チクショー)
蓬莱が開放の喜悦に達している最中、妹紅は恥辱に震え、涙の流せぬ己が身を呪っていた。
その後、池から出た蓬莱は先ほどの開放感によりまた肉体に精神が馴染んだのか、
何と炎を操る能力を使えるようになっていた。
おかげで乾かすのにたいして時間がかからなかったとさ。よかったね。
【珍道中NO.3 野原にて冤罪は発生する】
魔法の森に行くにあたり、人里には近づかない道を行こうと妹紅はきつく言った。
人里デビューを中身が蓬莱人形なんて状態でやらかす訳にはいかないのだ。
幸い、普段アリスが人形を連れて飛んで移動していたため、
蓬莱は魔法の森から博麗神社までの地形を上空から見下ろした経験が幾度とあった。
その記憶を頼りに神社近辺の森を突き抜けると野原に出た。
妖精や妖怪がいるかもしれないが、特に注意するほどのものでもないだろう。
今の蓬莱は炎を操れるため、小物の妖怪程度なら追い払えるはずだ。
スペルカードルールを挑まれたら、ボロ負けするだろうけど。
(まあ、スペルカードの場合は決闘に応じなければいいんだ。
ちょっと悔しいけど、その時は逃げるなり迂回するなり……どうした?)
立ち止まった蓬莱は、ゆっくりとお腹に手を当てた。
「……苦しい」
(まさか……今度は大きい方とか、言うんじゃないだろうな?)
「さっきのとは、違う感じ」
(蓬莱人が腹痛なんて起こす訳もないけど、今は特殊な状況だから、あるいは……)
妹紅の疑問に答えたのは、虫の鳴き声だった。
妹紅本来の肉体から、腹の虫が空腹を訴えたのだ。
腹の音となれば蓬莱だって知っている知識、よく霊夢が鳴らしていたものだ。
「ご飯」
(そうだな、巫女に玉子焼きをお裾分けして、
お前の事を相談するついでに何かご馳走してもらおうか……って目論みだったからな。
でもこんな野原じゃ食べる物なんて無いし、我慢してもらうしかないよ)
「ケーキと、紅茶が、食べたい」
(人の話を聞いてる?)
「アリスが、よく食べてた」
(そーか、私は葛餅が食べたいよ。わらび餅もいいな……ん?)
野原の中に生える何本かの樹木。
そのうちの一本の根元に、何かが置いてあるのを妹紅は見つけた。
こんな所にいったい何がと思い蓬莱を向かわせてみると、そこにはお弁当箱が置かれていた。
(誰かがピクニックでもしてるのか?)
「これは、食べても、いい弁当?」
(よくないだろ)
「お腹、空いた」
(勝手に食べたら怒られるぞ)
「怒られない、ならいい?」
(私の身体で面倒を起こすなよぉ……後で私が迷惑するんだから。
って、おいィ!? なに勝手に弁当箱開けてんだー! 食べてる場合かーッ!?)
ふてぶてしいのか、肝が据わっているのか、ただ何も考えていないだけなのか。
蓬莱は誰かさんの弁当箱を開け放ち、中にあったおにぎりとたくあんをパクパクと食べ始める。
(誰の弁当かは知らないけど、随分とひもじい中身だなー)
「いつもこう」
(知っているのか蓬莱?)
「おいしい」
蓬莱がおにぎりを食べ終えて一服していると、空から何かが飛んできた。
「あぁー!? ちょっとあなた、私のお弁当に何してるのよ!」
ドキッ! 腋丸出しの紅白巫女装束! 博麗神社の博麗霊夢ここにあり!
(むうう、厄介な奴の弁当に手を出したな……。
事がすんだら、こいつに精神入れ替わりの相談をしようと思ってたのに)
妹紅の言葉はやはり物理的な声とはならず、霊夢に聞こえた様子も無い。
妹紅の肉体を使っている蓬莱にだけ聞こえるという推測は正しかったようだ。
「あ、この前の竹林放火犯」
(私がいつ放火したー!?)
ツッコミすら届かぬ悲しき境遇。
「しかもその人形、アリスが探してる奴じゃない?
弁当泥棒だけじゃなく人形泥棒までやるとはいい度胸ね。
不死身なんだから容赦無用でボコボコよッ!! 夢想――」
凄まじい闘志!
恐るべき殺気!
それを前にして臆する様子もなく蓬莱は言った。
「魔理沙が食べた」
「魔理沙が?」
「魔理沙が」
「魔理沙か」
「魔理沙よ」
「自分からピクニックに誘っておいて、いい度胸ね、あいつ……。
何が池で魚を釣ってくるですって? 魚の餌にしてやるわ。とうっ!」
余程信頼されていないのか、霊夢は魔理沙が犯人だとすっかり思い込んでしまって、
凄まじい闘志、恐るべき殺気を撒き散らしながら再び空へ飛び上がった。
アリスが探していたという蓬莱人形の件はすっかり忘却の彼方らしい。
さすがは蓬莱と褒めるべきだろうか?
アリスと一緒に霊夢や魔理沙とすごした日々は無為ではなく、操縦方法も心得ているようだ。
(池って、さっきのあの池……じゃ、ないよな?)
妹紅は物凄くどうでもいい心配をしていた。
【珍道中NO.4 花畑にてうっとりのんびり】
(おーい、早く行こうよ)
「もうちょっと」
蓬莱は花畑に寝そべり、お花の前でお鼻をひくひくさせて、
かぐわしい香りにうっとりのんびり、そして満腹になった影響か昼寝まで始めてしまう。
仕方ないので妹紅はしばし花畑を探索した。
人形の身体に慣れておこうというだけでなく、人形の視点から見る花畑が壮観だったから。
普段ならうっかり踏み潰してしまいそうな小さな花も、今では向日葵のように大きく見える。
それが楽しくて、つい、時間を潰してしまう妹紅達だった。
【珍道中NO.5 魔法の森付近にて蓬莱いいぞもっとやれ】
魔法の森がようやく見えてきて、妹紅はこの珍道中の終わりも近いなと予感した。
思えば色々あったものだ。あまり思い出したくない事もあったものだ。
(これ以上、思い出したくないような思いではゴメンだ……とっとと行こう)
「んっ……」
(って、うぉイッ!? 蓬莱ッ、何してんの! どこ揉んでんの!?)
「やわらかい」
人形の身体にも慣れてきた妹紅が、支え無しで肩に乗っていられるようになり、
蓬莱は両の手が空いてしまい、手持ちぶさたになっていたのだろう。
揉んでいた、妹紅の胸を。
揉んでいたのだ、今は蓬莱が使っている妹紅の胸を。
揉んでいたのである、今は蓬莱が使っている元々は妹紅の肉体の胸を。
揉んでいる、現在進行形で。
少女のまま肉体の成長を止めたとはいえ、
実った青い果実はブラウスの上からでも存在が解るほど主張している。
「アリスと、どっちが大きい、かな?」
(知るかぁー! っていうか手を離せ!)
「もうちょっと人間の、身体で色々して、みたい」
(するなァー! だいたいアレだろ、アリスに日頃のお礼をしに行くんだろ!?
道草禁止! もう余計な事するな! しないで! ホント堪忍! 恥辱で悶え死にそう!)
「残念」
一応、アリス関連以外ではそれなりに聞き分けのいい蓬莱。
とはいえ弁当や昼寝のように、言う事を聞かない場合もあるだろう。
故にいまいち信用できない。
(まさか……アリスの胸を揉もうなんて考えてないだろうな?)
「……考えてない」
(……間があったな)
自分の趣味を誤解され、さらにそれが広まったりしたらもう竹林に引きこもるしかない。
輝夜は竹林の外と関わろうとしているというのに、こんな事で出遅れてたくはない。
(変な事を、するなよ?)
「変な事は、しない」
蓬莱の言葉を嘘とは思わなかったが、やはり信用できない妹紅だった。
【珍道中NO.6 魔法の森にて迷いの竹林を思い出し】
魔法の森に到着した妹紅と蓬莱。後はアリス宅へ行くだけだ。
それにしてもこの森、まだ夕暮れ前だというのに日光が入らず夜のように暗く、湿気も多くてじめじめする。
まるで年中霧が漂う迷いの竹林のようである。
(瘴気が濃いな……蓬莱人じゃなかったら呼吸もままならないかも)
「普通の人間、だったら幻覚を、見たり体調が、崩れたりする、ってアリスが言ってた。
魔法使い、ならこのくらい、どうって事、ないみたい」
(ふぅん。じゃあ、迷いやすいとはいえ竹林の方が住み心地はいいのかな?)
「竹林も好き。でも湿気が多い、のはお互い様、だから手入れが、大変なのは、一緒」
(そうか。道は?)
「解る。あっち」
(よし行こう)
二人の珍道中も終わりが近い。
ようやく終わるのかという安堵。
アリスという本番が待っているという不安。
それから、もう終わってしまうのかという未練が妹紅の胸中で小さく渦巻く。
(なあ。身体が元通りに戻ったらさ、お前は何の意思表示もできない人形に戻っちゃうのか?)
「人形はアリスが、操作しないと、動けないし、喋れないの。もこが、特別なだけ」
(じゃあ……こうやってお喋りするのも、できなくなるのか)
「ええ。いつかアリスが、自律人形を、完成させて、私達を、改造でも、しない限り」
蓬莱の歩が、止まる。
アリスの家に到着した訳ではない。
周囲には草木やキノコが生えている。枝と葉という天井により空は見えない。
魔法の森の、どこにでもある風景の真ん中で蓬莱は呟く。
「少し、残念」
(え?)
「戻ったらもう、もことお喋り、できない。人間でしか、感じられない事を、感じられない。
これからアリスに、会ったら、したかった事を、したいけれど、戻ったらまた、できなくなる。
でも、このままだともこが、迷惑する。それは、イヤ」
(蓬莱……)
「わがまま、付き合わせて、ゴメンね」
いいさ。
構わないよ。
そんなの気にするな。
もうしばらく貸しといてやる。
やりたい事、したい事、全部やり終えるまで待ってたっていいよ。
人生永いんだ、数週間、数ヶ月、数年くらいは人形っていうのも面白いさ。
色んな言葉が浮かんでは消え、妹紅は何度もそれを伝えようとした。
でも、ひとつとして蓬莱には伝えられなかった。
言葉が詰まってしまう。
今、蓬莱に何と言うのが一番いいのか考えて、悩んで、答えは出ない。
無言のままうつむく妹紅をしばし見つめていた蓬莱だが、
このまま待っていても言葉は出てきそうにないと感じたので再び歩き出した。
アリスの家まで、もう少し。
【珍道中NO.7 玄関にて七色の人形遣いと対面した】
アリスの家に到着した二人、これで珍道中もいよいよ終焉である。
(とはいえ、私とアリスは面識が無い……いや、あるにはあるけど、一度戦った程度だ。
そんな私の姿で何かしてやろうったって、すんなり受け入れてくれるかな)
「あ。考えて、なかった」
終焉間近で行き詰り、ひとまず木陰まで退散する二人。
向かい合って地べたに座り込み作戦会議だ。
(今さらだけど、蓬莱がアリスにしてやりたい事って何?)
「アリスがさみしい時、悲しい時、私達も、さみしくて、悲しい。
だからアリスは、私達を抱き、しめてくれる。
アリスは、さみしさや、悲しさが、無くなる。私達も無くなるの」
(抱きしめる……か。まぁ、それくらいなら……いいけど……いきなり抱きつくのもな。
下手したら未来永劫、竹林ホームレスにも劣る変態の烙印を押されかねん。
いや私はちゃんと家があるから竹林ホームレスじゃないのは蓬莱も了解済みだよね?
まあそんな訳で変態扱いはごめんこうむる。絶対に絶対にごめんこうむる。
非常識こそ幻想郷の常であるとはいえ、蓬莱には常識ある形でアリスに抱きついてもらいたい)
「魔理沙や霊夢、より常識は、心得てると、思う」
(その割には色々と問題のある行動が多かったな?)
「人形だから、必要なかった、知識と、人形だから、経験でき、なかった事が、あるから」
そういうものかと妹紅は納得する。
生理現象なんて人形は経験できないものの筆頭だ。
(なあ、アリスには事情を話してみるのはどうなんだ?
私の身体に蓬莱が入ってるって解ってくれれば、面倒をすっ飛ばして楽できそうなんだけど)
「ダメ。アリスは自律、人形を完成、させるために、がんばってる。
私達は、そのための、下積み。でも心を持った、事を知ったら、アリスの邪魔になる。
私達で実験を、していて、壊れるような、実験もたまに、あるけど、
心があるって、知られたら、気遣われて、実験に使って、もらえない。
アリスの、夢の足を、引っ張るのは、イヤ。だから、内緒にしたい」
(……そっか。お前さんがそう言うなら、そうしよう。
真相は告げずに、お前は藤原妹紅としてアリスに会えばいいさ)
「もこは、どうしよう」
(うん? 私か?)
「アリスが見たら、蓬莱の姿の、もこのを取り返す。返さないと、怒って、何をするか不安。
二人そろって、ないと元に、戻る時に大変、だと思う」
(いや……それでいいんじゃないか? それを利用しよう。
蓬莱人形を拾った私が、持ち主のアリスに届けに来た。悪くない筋書きだ。
お礼に家に上げてもらって、アリスが喜ぶような言動を取って仲良くなるんだ。
ずっと一緒にいたお前ならそれくらい容易なはず。
不慣れで不自然な喋り方は、喉の調子が悪いとか適当に誤魔化せばいい)
なるほどと蓬莱はうなずきながら、想像以上に頭の回る妹紅をすごいと思う。
これなら妹紅に任せておけば万事うまくいくかもしれない。
「でも、仲良くなって、それからもこは、どうするの?
もこを渡したら、後で返して、もらえない。アリスは人形を、誰かに貸し、たりしないよ?」
(私は自分の意思で動ける。夜まで待って、アリスが寝静まってからこっそり抜け出すさ。
お前はいったん森の中に潜んでいて、出てきた私を回収してくれればいい。
それから一緒に元に戻る方法を探しに神社へ行こう。もう一度言うけど、悪くない筋書きだろ?)
「うん」
ポンと膝を叩いて妹紅は立ち上がり、拳を掲げる。
(よぉし、これで決まりだ。アリスとの会話は私もサポートする。
肝試しの時と違い、今度はこっちが二人がかりで行く!
一応お前は藤原妹紅としてアリスを訪ねるんだから、
キャラクターが違いすぎると後々私が面倒するって覚えといてくれよ)
「もこは、頼りになるね」
(蓬莱が、いい奴だからさ)
こうして、二人の珍道中は終焉する。
蓬莱人形の姿をした妹紅を抱えて、妹紅の姿をした蓬莱人形がアリスの家の戸を叩く。
返事は、無かった。けれど中で人の動く気配がした。
(こんにちは、落し物を届けに来た……だ)
「こんにちは、落し物を届け、に来た」
すぐに、足音が近づいてきた。
足音が近づくに比例して、蓬莱の鼓動は高鳴っていく。
妹紅も緊張し、ただの人形を演じて全身を弛緩させる。
人形は勝手に動かない。夢である自律人形ではないのだから。
「はーい、どちら様……?」
そんな声と同時に開かれた戸の向こう、気だるそうなアリスが現れた。
◇◆◇◆◇
「あら? あなたは……」
不審な眼差しを向けられた蓬莱は、息を詰まらせてしまう。
(妹紅だ、って名乗ってやれよ)
助言を受けても、蓬莱は喋ろうとしない。
蓬莱人形を演じている妹紅は動けないため、蓬莱の様子を確かめる事もできない。
「確か竹林の蓬莱人……って、蓬莱!?」
アリスの視線が、蓬莱の抱く妹紅へと向けられる。
同時にひまわりのようにパッと表情が明るくなった。
余程心配していたらしい、本当に人形が大切なんだなと妹紅は感心した。
(よしチャンス。これを届けに来た、って言いながら私を差し出せ)
「やっぱり竹林ではぐれてしまったのね……落し物って、蓬莱の事だったの?」
問われて、蓬莱はうなずいた。
(おい蓬莱? 緊張してる場合じゃないだろ、だんまり通しちゃ話にならない)
妹紅の助言は聞こえていたが、なぜか記憶に留まらない。
どうしていいか解らず、妹紅に助けを求めようとさえ思っているのに。
それほどまでに蓬莱の精神をかき乱したのは、アリスの眼だった。
いつも人形に向ける優しい視線でも、好奇の視線でも、研究に打ち込む真摯な眼差しでもない。
まったく信じていない、怪しい奴を見る目つきだった。
故に、アリスが己のすべてにも等しい蓬莱は、
今の己が藤原妹紅の姿だという事実もろとも頭の中が真っ白になってしまった。
ようやく様子が変だなとアリスも気づいたが、会うのが二度目の妹紅なんてどうでもいい。
「あなた、確か妹紅だったわね。霊夢達から名前は聞いてるわ。
立ち話もなんだし、中に入りなさいよ。ケーキくらい出すわ」
礼儀のある対応をするアリスだが、腹のうちは違った。
早々に蓬莱人形を返してもらい、適当に賞味期限がピンチなケーキでも食べさせながら、
この蓬莱人形の損傷について幾つか質問をするつもりだ。
アリスほどの人形遣いともなれば、服で隠れていても左腕が折れていると見抜くなど造作も無い。
左目のヒビなんか素人目にも明らかだ。他にも、見えない軋みが幾つかありそうでもある。
届けに来てくれたとはいえ、妹紅が人形を乱暴に扱っていたのなら追い返してやろうと考えていた。
アリスに招かれても、蓬莱は動けない。
表面だけは愛想のいいアリスの表情から、自分に向けられる猜疑心を敏感に察していたから。
アリスを大切に思うが故に些細な変化や言葉の裏を感じ取る事ができる蓬莱だったが、
妹紅の肉体を借りている事、人形では起きえない精神が肉体に与える影響などが、物事を裏目にさせる。
初めて経験する激しい動悸は、今にも口から心臓が飛び出そうに思えるほど。
「……どうしたの? 入りなさいよ」
何かあると察して、警戒心を強めるアリス。
それはますます蓬莱の精神を追い詰めた。
(蓬莱ッ!? しっかりしろ、何のためにここまで来たんだ!)
力強い妹紅の叫びが、雷のように蓬莱を打つ。
何のために、ここまで?
ようやく、蓬莱はわずかではあるが己を取り戻した。
「あ……」
――アリスがさみしい時、悲しい時、私達も、さみしくて、悲しい。
蓬莱は、来た。
自分を助けてくれた妹紅に迷惑をかけてまで、ここに。
――だからアリスは、私達を抱き、しめてくれる。
嬉しい時、悲しい時、様々な時に人形達を、蓬莱を抱きしめるアリス。
それはアリス自身のためであったのだけれど、
喜びや悲しみを分かち合える事を蓬莱達はずっとずっと嬉しく思っていた。
――アリスは、さみしさや、悲しさが、無くなる。私達も無くなるの。
だから来たのだ。
どう言葉にすればいいか解らないから、どうこの感情を伝えればいいのか解らないから。
アリスを抱きしめるために。
故に、蓬莱は震える声で告げた。
「アリスを、抱きたい」
魔操「リターンイナニメトネス」
アリスは蓬莱人形を取り返すと、妹紅の姿をした蓬莱に強烈な魔力の奔流を叩き込んだ。
(ホウラァァァァァァイッ!?)
蓬莱の代わりに悲鳴を上げる妹紅。ただ、その悲鳴はアリスには聞こえなかった。
妹紅の肉体は、蓬莱は魔法の森上空までふっ飛ばされてしまう。
そして森の深部に落下する様を確認もせず、アリスは蓬莱人形を抱いて家の戸を閉めてしまった。
(不死身……だから、大丈夫だとは思うけど、蓬莱は痛いのに慣れてない。
しかも精神が入れ替わったままじゃ、どんな不具合があるかだって解らないのに。
今すぐ蓬莱を追いかけたいけど、下手に動いたら、アリスに……畜生ッ!
蓬莱が隠し通そうとしている事を、私の勝手で台無しには……できない。
アリスが寝静まるまで、蓬莱、何とか持ちこたえといてくれよ……)
酷く誤解を招く発言だった。
今後の妹紅の生活に面倒を起こすだろう発言だった。
そういう事をしないようにきつく言いつけていた妹紅だが、
今この時は、ただただ蓬莱の身を案じるのみだった。
◇◆◇◆◇
人形作りの作業部屋に運ばれた妹紅は、さっそく服を脱がされ、人形の傷を隅々まで確認された。
折れた左腕を包帯の上から撫でたアリスは、しばし何事かを黙考する。
(ううっ、修理ができなくて悪かったな……)
自分の本当の肉体をふっ飛ばしたとはいえ、妹紅はアリスに対し負の感情を抱いていなかった。
蓬莱の言動は、残念だが自業自得だ。やりすぎではあるが。
それに自らの創造主とはいえ、あの蓬莱があれほど入れ込む相手を憎くは思えない。
アリスは包帯を解くと、折れた左腕を見て傷跡を軽く撫でる。
人形のため痛覚はほとんど無いが、やはり壊れた箇所を直接触られるとズキンと痛んだ。
「……駄目ね、作り直さないと」
左肘から外されててしまったが、元々折れていたせいで、
左腕の折れた先は感覚が無かったし動かせもしなかった。
同様に左目も見えていないから、これを直す時、どうなるのだろうと妹紅は震えるのをこらえた。
痛みは、人形といえどもある。
人間の身よりは軽いが、さすがに左目を取り外されたらどんな痛みが襲うのか?
(修理……精神が擦り切れるかも、な)
蓬莱が人間の身体に慣れていないように、妹紅も人形の身体に慣れていない。
人形の修理や整備のために全身をバラバラにでも分解されたら、
果たして人間の精神は正常を保てるのだろうか。
生身で様々な死に方をしてきた妹紅でも、恐怖と不安を抑え込むのは至難だった。
(正直、逃げ出したい!)
アリスの手が、妹紅の首にかけられる、指の腹で顎を撫でられる。
本来は心地よいだろう撫でられる感触も、今では背筋が凍るように冷たい。
(でもふっ飛ばされた蓬莱も、相当の苦痛に耐えてるはずだッ!
ここで私だけが逃げるなんて……できるかよ!!)
心のうちで猛る妹紅。
勇ましきその決意、鋼よりも硬く、陽光のように光り輝いていた。
「えい」
(あ?)
首がもげた。
もっとも人形遣いのやる事だから、もいだのではなく正しい手順で首を外したのだろう。
故に、痛みは無かった。
だが突然、首という人間ならば致命的な部位を外され妹紅は悲鳴を上げた。
元の肉体なら即死レベル、ほとんど痛みを感じず意識を喪失し、
首が繋がった状態で復活する頃には痛みなど残っていない。
何度か首を刎ねられたり貫かれたりしたが、今まではそうだった。
だがそんな体験など微塵も役に立たないほどの異常事態。
月まで届くのではないかというほどの悲鳴はしかし、アリスの耳には届かない。
(首が! 首がッ!?)
痛みは無くとも、確かに首と胴が離れている。そして胴の感覚も残っている。
生身であれば、断たれた部位は感覚を失う。
人間ではありえない、すなわち人間の精神では想定外の事態に、
不老不死の蓬莱人といえども正気がいつまで続くだろうか。
手足を動かすまいと虚脱していたが、今では動かすまいと力を込めねばならなかった。
(落ち着け、落ち着け、人形なんだからバラされたって、死ぬもんか。
死ぬ? 私が? 死ぬ訳、ないだろ。ああ、慧音助けて、蓬莱――)
続いて頭が割れ、頭部の内部にアリスの手が侵入する。
内側から眼球を握られて、内側へと引きずり出される。
傷ついた左目だけでなく、右目も。
(眼が、回る!? 視界、ふさいでるこれは、何!? 指!? うあ、うわぁ!)
握られた右目が、アリスの手のひらで転がり、そして、指でしっかりと掴まれて、向けられる。
アリスの、眼に。
色鮮やかな青眼が、真っ直ぐに妹紅の眼球を見つめている。観察している。
「傷は……無いみたいね」
(ヒィィイッ! 眼が、眼が怖い!?)
いかに蓬莱人といえども、このままでは精神が磨耗し廃人と化すかもしれない。
まさに絶体絶命。
さすがの妹紅もこの時ばかりは死を覚悟したという。
精神の、死を。
一時間後、そこには全身をバラバラにされた蓬莱人形の姿が……あった。
もちろん人形に宿る精神は藤原妹紅その人である。
果たして、妹紅の安否は!?
(うーむ、意外と心地いいな。ちゃんとした手順で分解されているせいか痛みも無いし。
傷を直されたり、新しいパーツに交換されたりするのが、
リザレクションとはまた違った復活気分でスッキリするなぁ)
馴染んでいた。
◇◆◇◆◇
本来の妹紅であれば、無防備のままふっ飛ばされ森に落下などしなかっただろう。
だが今、妹紅の肉体に入っているのは蓬莱だ。
しかも激しく動揺し、不慣れな身体のせいもあり無防備にふっ飛ばされ落下した。
木々の枝をへし折って、身体のあちこちが切れる。
地面に落下して打撲や骨折をし、今まで味わった事のない想像を絶する骨肉の苦痛は、
人形に宿った未成熟な精神をバラバラに引き裂くほど激しいものだった。
不死身の肉体にて精神の死という危機に陥りながら、
正気を繋ぎ止めるのはあの人との思い出。
――あなたの名前は蓬莱。蓬莱人形よ。
「ア、リ、ス……」
このままでは、いられない。
立ち上がらなければ、ならない。
アリスの元へ向かわねば、ならない。
「大丈夫か?」
気がつけば、かたわらに友達が立っていた。
優しい微笑で、蓬莱を覗き込んでいた。
「……い、たい……」
「そりゃそうさ。不老不死とはいえ人間だもの」
「……立て、ない……」
「ほら、手」
そう言って友達は、左手を差し出した。
蓬莱も左手を伸ばし、しっかりと握り合う。
「アリスの所に行くんだろう?」
引っ張り起こされて、手が離れ、お礼を言おうと顔を上げる。
「ありがとう、も――」
何も無い、誰もいない空間を見て、蓬莱は言葉を止めた。
今、確かにそこに、友達がいたはずだ。
どうなっているのだろうと己の身体を見下ろして、蓬莱は困惑する。
これは自分の身体では無い。妹紅の身体だ。すでに再生をすませ、怪我の痛みは無い。
じゃあ、自分を引っ張り起こしてくれたのは、誰だったのか。
痛みが生み出した幻? 錯覚?
いや、これはきっと。
「夢」
人形は夢を見ない。
花畑で昼寝をした時、夢は見なかった。
でも、もし今見たものが夢だとしたら、それはとても素敵なものに思えた。
夢という言葉が、将来の目標などといった意味だけでなく、
眠っている間に見るものも意味するのは、とても幸福な意味を持っているのではないか。
「……もこ」
蓬莱は一人切りで立ち尽くしていたが、魔法の森の気配の変化に気づき、慌てる。
暗くなってきている。
ただでさえ日の光が満足に届かぬこの森において、夜は完全な闇と言ってもいい。
魔法の森に慣れ親しんでいる蓬莱といえども、主アリス抜きで夜の森を移動するなどできない。
慌てず、朝になるまで動かずにいるのが正しい判断だろう。
だが蓬莱は歩き出した。
――私は自分の意思で動ける。夜まで待ってアリスが寝静まった頃、こっそり抜け出すさ。
夜の森は、危険だから。
――お前は森の中に潜んでいて、出てきた私を回収してくれればいい。
一人切りでは、危険だから。
――それから一緒に元に戻る方法を探そう。
蓬莱は駆け出した。
我知らず、闇夜を切り開く紅蓮をまといながら。
◇◆◇◆◇
灯火は小さく、地形を把握するには至らず、けれど蓬莱に迷いは無かった。
見える、糸が見える。
アリスが自分達人形を操る魔法の糸のように、見る者が見なくては見えぬ糸。
蓬莱が妹紅の肉体を燃やすほどに、見えぬ糸が瞳の中で紅く燃える。
なぜそんなものが見えるのか解らない。
構わないと蓬莱は思う。見えるのだから、行けばいい。
そこに妹紅がいると確信しているから。
木の根につまづいて、木の枝に引っかかって、キノコを踏んづけて胞子が舞い、
沼にはまり、急な坂を転げ落ち、急な坂をよじ登り、池に落ちて、蓬莱は自分の居所を理解する。
アリスの家の近くにあるこの池は、蓬莱が上海達と一緒に水を汲みに来る池だ。
幸い、池に落ちたおかげで汚れは落ち、炎で乾かし綺麗さっぱり。
木立を抜けて、蓬莱はアリスの家に帰ってきた。
カーテンの隙間から明かりが漏れている。
アリスの、声も。
◇◆◇◆◇
「これで元通りね」
妹紅はアリスの部屋のテーブルの上に置かれていた。
窓際にある棚には蓬莱人形と同じデザインの人形が並べられており、
その反対側には一人用のベッドやタンスがあった。
テーブルは部屋の中央。テーブルクロスや花瓶で彩られている。
完全修復された蓬莱人形は代えの服を着せられ、妹紅がつぎはぎをした服は捨てられてしまったが、
当人は気にしていないどころか、こんな事を考えていた。
(スゲーッ、爽やかな気分だね。新しいパンツをはいたばかりの正月元旦の朝のよーによォ〜ッ)
人形になるのも悪くないもんだなと妹紅は満面の笑みを浮かべる。
まあ、身体が人形だから笑顔なんて実際には浮かべていないけど。
「フフッ、急に笑い出して、どうしたの?」
浮かべていないけど、アリスは微笑み返してきた。
(え? あれ、あー……アリス? 聞こえてる? ほ、蓬莱ですよー。ありがとー)
聞こえていたのなら最悪だ。蓬莱が隠し通そうとした事、うっかり台無しそれは困る。
だがどうやら、声は、聞こえていないようだ。
「ごめんなさいね。あの変態にやられて、気絶さえしなければ、あなたを落としたりしなかったのに」
(あ、うん……ゴメン。聞こえてる訳じゃないのかな)
「昨日もあなたを探しに竹林に入ったのだけれど、結局見つけられなくて。
永遠亭に殴り込んで、輝夜から聞き出そうにも、あいつ、妹紅の正確な居場所を知らなくて」
(まあ、小さな家だしな)
「あなたは上海と並ぶ古株だもの、上海も心配していたでしょうね」
(上海? 人形の名前? アリスは人形に話しかけるタイプか)
「それにしても……」
アリスは人形に手を伸ばすと、優しく髪を撫で下ろす。
やわらかな指遣いは妹紅をうっとりとさせ、胸のうちをあたたかくした。
(母上……)
思わず、妹紅は目頭を熱くする。
しかし涙は流れない。流せない。
蓬莱は泣きたい時があるのだろうか。泣けない身をどう思っているのだろうか。
「あの変態……妹紅っていったっけ」
(うぐっ……変態言うなー)
アリスの指が、人形の髪から肩へと流れる。
「丁寧に、巻いてあったわね」
そして、肩から新しい左腕へ。
「包帯」
浮かぶ苦笑。嬉しいような、呆れているような、残念がっているような。
そりゃ、変態発言をした奴が人形を大切に扱ってたなんて、複雑な気分にもなろう。
(蓬莱〜、私のイメージ回復は難しそうだよぅ……)
「どうしたの蓬莱? さみしかった?」
妹紅の落胆を感じ取ったのか、アリスは人形を持ち上げた。
声は届いていないはずだ。なのにアリスは、妹紅の感情を読んでいるような言動を取る。
(まさか……アリス、お前は人形の心が解るのか?
いや、人形に心が宿っているって事は……知らないはず、だよな?
じゃあ、解るとまではいかずとも……無意識に察している? それほどまで人形を想っているのか?)
「おかえりなさい、私の蓬莱人形」
(あっ……)
アリスの胸に、抱きしめられる妹紅。
母に抱かれているかのような安堵、ぬくもりは人形達の、蓬莱のものであるはずだ。
(このぬくもりを、今度は蓬莱、お前自身が与えてやりたいんだな……)
その時、物理的ではない声が妹紅の心に直接響いた。
――そうだよ。それが私達の願い。
(誰だ……? その声、蓬莱なのか?)
――蓬莱はあなたの身体を借りて、かなえようとしているんだね。
(蓬莱じゃ……ない? おい、お前は)
――蓬莱のお友達のあなた、もう少しだけお願いね。
(蓬莱の仲間の……人形、なのか?)
――シャンハーイ。
その声の直後、アリスは蓬莱人形を胸から離した。
それきり声は聞こえなくなってしまう。
(蓬莱の言葉を思い返せば、人形同士が意思疎通をできたとして不思議はない。
私は蓬莱としかできなくて、でも、アリスを通して……私にも?)
考えても、理屈は解らない。
人形遣いと人形の絆が生んだ奇跡なのか。
あるいは魔法や精神について詳しく知る者なら説明できる当たり前の現象なのか。
「今日はもうおやすみなさい、蓬莱。また明日ね」
アリスは人形棚へ向かうと、蓬莱人形と同じデザインの人形の隣に妹紅を置いた。
もしかしたらと妹紅は声をかけてみる。
(……邪魔するよ。お前が上海か?)
返事は無かったが、きっと間違っていない。
棚に背を向けたアリスは部屋の明かりを消すと、着替えもせずそのままベッドに潜り込んだ。
元々蓬莱人形を探して疲労していたのに、休みもせず修理をしてくれた。限界がきたのだろう。
静かな寝息がすぐに聞こえてきたので、妹紅はゆっくりと立ち上がる。
(おやすみ、アリス)
それから、棚の上にある窓から脱出しようとしたが、ギリギリで手が届かなかった。
(人形って、飛べるのか? 飛べたとして、アリスの魔力が無きゃ飛べないんだったら……ん?)
棚の上の窓を誰かが外から開けようとしたのか、小さく揺れた。
カーテンにはわずかに隙間があったが、いまいち外の様子が解らない。
それでも妹紅はもしやと思い声をかける。
(蓬莱? 窓の外にいるのか?)
「……うん」
小さな返事。
あんなに思い切りふっ飛ばされたので、今晩のうちに合流するのは無理かと考えていたが、
どうやら妹紅が考えていたよりも蓬莱はたくましかったようだ。
(待ってろ、鍵を開ける)
三度ほど屈伸運動をした妹紅は、カーテンに向かって全力でジャンプした。
まだ人形の身体に完全に馴染んではないので、失敗したら着地に失敗し転んでしまうかもしれない。
物音でアリスが目覚めてしまっては面倒になる。
失敗してなるものかという強い決意は、無事妹紅をカーテンにしがみつかせた。
一生懸命よじ登ったカーテンの裏側に回り込んで、窓ガラスの向こうを見る。蓬莱がいた。
「鍵はここ」
(任せろ)
窓に飛び移った妹紅は、落っこちないようへばりつきながら中央へと移動し、手を伸ばして鍵を開ける。
外側に開く窓だったため、妹紅はそのまま押し開ける形になった。
(わっ……)
すぐに蓬莱が両手でキャッチする。
「もこ、大丈夫?」
(お前こそ、大丈夫か?)
暗闇の中、妹紅と蓬莱の視線が合う。
互いに大事は無いようで、安堵の空気が広がった。
(さて、当初の予定じゃこれから元に戻る方法を探しに戻るはずなんだけど……どうする?)
「どうしよう」
(アリスは寝ちゃってるし、いったん出直すか?
でも、この状況で私がいなくなったらややこしくなるな……)
「……もういい」
蓬莱は膝を折って、その場にひざまずく。
そしてアリスが妹紅にしたように、妹紅を抱きしめた。
「これ以上、もこに迷惑を、かけられない」
(でも)
「もこは友達、だからもう、いい」
(……蓬莱……)
「霊夢に相談、しに行こう」
立ち上がった蓬莱が窓を閉めようとすると、妹紅は身をよじって蓬莱の腕から逃れた。
地面に着地した妹紅は、真っ直ぐに蓬莱を指差して言う。
(蓬莱の人の形、藤原妹紅! 友達のために一肌脱げないような女じゃない!
蓬莱があきらめても、私はあきらめないぞ! 上海だって期待しているんだからな!)
「上海……が?」
(ああ、聞こえた。聞こえたとも、上海の声が!
私を蓬莱の友達って言ってくれた上海のためにも、ここであきらめるなんて言わせない!
だから、意地を見せてみろよ。蓬莱人形ッ!!)
熱が灯る。
胸の、内側に。
心音が響く。
炎のように熱く、心が燃える。
妹紅の心が燃えるのならば、蓬莱の心も燃えるのだ。
理屈は解らないがそうなのだと確信する。
燃えなければ、友達だと胸を張れない!
「解った」
妹紅を持ち上げ、肩に乗せる蓬莱。
「アリスを、抱きに行く」
そして、窓に手をかけ、足を上げる。
(って、今から忍び込む気か!?)
「駄目?」
(下手したら私は取り返しのつかない変態の烙印を……押されても構わないからッ、行くぞ蓬莱!)
「うん!」
小さな人形の願いをかなえるための小さな冒険。
胸に灯った輝きは、友情という名の宝石。二人の宝物だ。
◇◆◇◆◇
酷く疲れていた。眠かった。
寝る間を惜しんで蓬莱人形を探し、そして修理していたから。
それにしても、妹紅はいったい何だったのか。
いきなりあんなセリフを吐いて、馬鹿じゃないのか。
気に入らない奴。
でも、蓬莱人形の左腕に巻かれていた包帯は、とても優しい印象を与えた。
よく解らない奴。
蓬莱人形……無事でよかった、直ってよかった。
嬉しくて抱きしめたけれど、人形達を抱きしめるたび、心の片隅が虚無感に襲われる。
人形にどれだけ愛情を注いでも、返ってくるものは自己満足だけではないかという疑問。
それでいいとも思う。それだけでは物足りないとも思う。
人形を愛しく思うのは本心だけれど、心は欲張りなもので、情を注ぐばかりでは保てない。
ぬくもりが――欲しい。
寝苦しい気がして、アリスは眼を覚ました。
やけに暑い。布団が重い。
いや、そうではない。誰かが、側にいる。
誰?
眼を開けると、長い髪をした人影が微笑んだ。
「ホウラーイ」
夢? それとも、現実なのか。
よく解らないまま、無意識にその人影を抱き寄せる。
いや、元からその人影に抱かれていたのだ。
母に抱かれて安らかに眠る子供のように。
生命の心音を子守唄に、やわらかな感触に包まれながらアリスは眠る。
深く深く、安らかに。
◇◆◇◆◇
◆◇◆◇◆
小鳥の鳴き声で目を覚ましたアリスは、やけに部屋が明るい事に気づく。
視線を窓に向けてみれば、カーテンがわずかに開いていた。
よくよく見れば窓の鍵も開いている。
窓を開け閉めした記憶は無いが、昨晩は疲れていたし、
元々ああだったのだろうと思ってアリスは起き上がった。
「……あら?」
すると、布団の中に小さな侵入者がいた。
蓬莱人形だ。
「……棚に、あれ?」
上海人形の隣に置いたはずだ。
しかし蓬莱人形はここにある。
「持って来ちゃってた……?」
疲れていたから、そういううっかりもあるかもしれない。
けれど窓といい、蓬莱人形といい、そこまで疲れていただろうか。
記憶を手繰ろうとして、最初に思い出したのは眠る前の事ではなく、眠った後の事だった。
蓬莱がベッドの中にいて、アリスを優しく抱きしめてくれていた。
しかし蓬莱人形は小さく、アリスを抱きしめるなんてできないし、
そもそもアリスが動かそうと思わなければ動くものではない。
蓬莱人形をうっかりベッドに持ち込んで、無意識にそれを覚えていたため、夢に見たのか。
そう結論づけて、アリスは蓬莱人形を棚に戻そうと手を伸ばす。
「……あれ?」
そして、気づいた。
蓬莱人形の着ている服に、つぎはぎがしてある。
妙だ。いくら疲れていたとはいえ、これはありえない。
ちゃんと服を脱がせて、修理してから、
人形用のタンスにしまってあった服を取り出して着せたはずだ。
このつぎはぎをされた服は、後で縫い直そうと思って別の場所にしまったはずだ。
なのになぜ、つぎはぎの服を着ているのか。
とりあえず、こんな服装では蓬莱人形が可哀想だ。
着替えさせて上げないとと思い、服に手をかける。
すると、蓬莱人形の表情がほんのわずか曇ったように見えた。
「……蓬莱?」
眼の錯覚だったと、思う。
◆◇◆◇◆
博麗神社の縁側に、ぐったりと寝そべる紅白衣装の少女がいた。
少女はぼんやりと庭を見つめながら、大きなあくびをひとつ。
「眠そうね」
そこにやって来たアリスの顔色は、疲労も眠気も一切ありませんというほど晴れやかだった。
「夜更かしでもしたの? 霊夢」
「あー、うん」
紅白衣装の少女、霊夢は面倒くさそうに答えると、
気だるげな眼差しをアリスのかたわらに浮かぶ二体の人形に向けた。
「……おはよ。調子はどう?」
「悪くないわ」
霊夢はわずかに眉をひそめてアリスを見ると、また人形に視線を移してからまぶたを閉じた。
「ああ、アリスも元気そうね」
「悪くないって言ったじゃない。人の話、聞いてるの?」
「魔理沙とさ、昨日やりあっちゃって……今日は来ないかも。
ねえ、何かお菓子持ってきてない? 甘い物が食べたいわ」
「持って来ようと思ったんだけどね、賞味期限の危なげなケーキ」
「持って来なさいよ」
「なぜか無くなってたのよ」
「ああ……そうなの」
何やら納得した素振りを見せる霊夢。
まさかケーキを盗み食いした犯人を知っているのだろうか?
どう考えても一人しか思い浮かばないけれど。
「魔理沙がお腹でも壊した?」
「さあ? 弁当泥棒と勘違いして叩きのめした後の事は知らない」
「勘違いって、じゃあ誰が真犯人?」
「さあ……誰かしらね」
なぜか恨めしそうな目線を向けられて、アリスは困惑する。
霊夢のお弁当を盗み食いした心当たりなんて皆無だ。
自分のあずかり知らない所で色々な事が起こっているような気がした。
「まあいいわ。見て解る通り蓬莱は見つかったから、もう探さなくていいわよ。
どうせ、少しも探そうとしてなかったでしょうけど」
「うん、探しはしなかったわ。探しはね」
「含みのある言い方ね?」
「お菓子はいいから、お茶でも淹れてよ。魔理沙が持ってきた紅茶の葉があったはず」
「ティーカップくらい買いなさいよ」
神社には湯飲みしか無いため、アリスはさめざめとした口調で言った。
湯飲みで飲む紅茶は、気分の問題であまりおいしくない。
そんな風に考えながら、アリスは縁側から霊夢の隣を通って上がると、
律儀に台所へ向かおうとして、立ち止まる。室内で横たわる紅白衣装を見つけて。
紅白衣装は折った座布団を枕にして、静かな寝息を立てていた。
白いブラウスに紅いもんぺに白い長髪。間違いなく蓬莱の人の形、藤原妹紅その人。
「……何でこいつが、ここにいるのよ」
「昨日の晩、うちに来たの」
アリスの脳裏をよぎるのは、蓬莱人形を届けに来た際の変態発言。
「変な事されなかった?」
「させられたわよ」
「させられた……って何よ?」
「アリスも階段から落ちてみたら? 妹紅達にしたのと、同じ事をして上げるわよ」
「同じ事って何よ」
言葉の意図が掴めず困惑したアリスは、達という複数形の単語を聞き逃していた。
それを差し引いても引っかかる事が多すぎて、次第に機嫌が悪くなってくる。
紅茶を淹れてやるのをやめようか何て考えながら、チラリと蓬莱人形を見る。
特に何事も無く、アリスのかたわらに浮かんでいる。
アリスの人形だから、アリスが動かそうと思わねば勝手に動く事はない。
「……そいつを叩き起こしなさい」
「シャンハーイ」
わずかに逡巡して、アリスは上海人形を妹紅の枕元にやり、頭を小突かせた。
二度、三度と頭を揺さぶられ、妹紅はうめきながらまぶたを開ける。
「んん、うん……何だよ霊夢……寝かせろよぅ……」
「シャンハーイ」
「……ん? やぁ、おはよう」
上海人形を見るや、妹紅は眠気を払って起き上がり、
アリスと、そのかたわらの蓬莱人形を見つけて微笑を浮かべる。
「……ああ、よかった。ちゃんと一緒にいるな」
「……この子の事?」
二人の目線が蓬莱人形に向けられる。蓬莱人形は、ただ静かに浮かんでいた。
妹紅は頭をかきながら、たどたどしい口調で語る。
「ああ、そいつを拾って……お前の家に届けに行ったんだけど、
ええと『道中で変なキノコの胞子を吸ってから意識が曖昧になったり、
妙な幻覚幻聴に襲われたり、妙な事を口走ったりしてた』……のよ。
でもまあ、ちゃんと人形を届けられたみたいでよかったよかった」
「変に説明口調ね?」
「記憶がおぼろげだから、推測でフォローしているだけさ。
ところで私……変な事を、口走ったりしてなかったか?」
――アリスを、抱きたい。
思い出すのは、妙に震えていたあの言葉。
確かにあの時の妹紅は、態度が変だった。
蓬莱人といえども、魔法の森をたゆたう魔性は効果があったのか。
「……別に、何も」
アリスが答えると、妹紅は「そうか」と胸を撫で下ろす。
まさかあの妙な言動をおぼろげながら覚えているのだろうか、
やぶ蛇をつつくのも不憫と思いアリスは話題を変えようとする。
「蓬莱の腕に包帯を巻いたのは、あなた?」
「え、ああ。折れてたから」
「この服のつぎはぎも?」
「本職の人形遣いほど綺麗には縫えなくてね、不恰好で悪い。その服……のままなんだな?」
「着替えさせるつもりだったんだけど、代えの服が全部洗濯中だっただけよ」
「そうか」
含みのある笑いを浮かべる妹紅を見て、アリスはまたもや心に引っかかる何かを感じた。
詮索しようか少し悩んでから、平坦な口調で言う。
「……一応、礼は言っておくわ。蓬莱を助けてくれて、ありがとう」
「いいさ」
妹紅は立ち上がると、やわらかい眼差しを蓬莱人形に向けて言った。
「色々と楽しかったもんな」
「ホウラーイ」
蓬莱人形が返事をした。
それは、間違いなくアリスが人形遣いとして操作したための結果である。
しかしなぜ、まるで肯定するかのような返事をさせたのかアリス自身にも解らない。
妹紅の言葉で、そうするのが自然だというように蓬莱人形に返事をさせてしまった。
あずかり知らない所で起きた出来事の正体は何なのか、思考を傾けようとしたその時。
「アリス〜、まだー?」
霊夢が紅茶の催促をしてきて、何だか一切合財が面倒くさくなってしまったアリスは、
思考を放棄すると蓬莱人形と上海人形を連れて台所に向かった。
「手伝うよ」
その後に妹紅が続く。
◆◇◆◇◆
二人と二体の姿が見えなくなってから、霊夢は青空を見上げて呟いた。
「よく体力が持つわね。人形と入れ替わったり、元に戻ってから人形を届けたり……」
さすがは蓬莱人と感心するべきか、お人好しめと呆れるべきか。
夜更けにやって来た一人と一体の珍客の身に起きた小さな異変を思い返す。
「元に戻す要領も解ったけど、面倒だし『石段で転ぶな』って看板でも立てておこうかしら。
ああ、でも看板を作るのも面倒だわー……うん?」
耳をすます霊夢。
石段の方で誰かの悲鳴が聞こえた気がした。
まさか誰かが石段から転げ落ちたのでは?
そういえばレミリアが咲夜を連れて遊びに来ると言っていた気もするし、
妖夢が用事があるから幽々子と一緒に来ると言っていたような気もすれば、
紫がわざわざ石段を登って来てそのボロさを馬鹿にしようとしている気がしたり、
慧音が昨日の夕方頃に妹紅を探しに訪れた時にまた来ると言っていた気がしないでもなく、
輝夜がまた肝試しのような悪巧みをしにやって来るかもしれないし、
魔理沙が誤解を解きに突撃してきそうな予感がそこはかとなくしなくもない。
「……まあ、気のせいよね」
そう呟いて霊夢は面倒くさそうに立ち上がると、室内か石段か、
どちらに向けて歩き出そうか三秒ほど悩んだ。
◆◇◆◇◆
――お前の名前は蓬莱だから……今は"蓬莱が人の形"だな。
――私は元々、人の形の、人形。
そんな些細なやり取りも覚えてる。
それくらい人の形ですごしたひとときは、友達とすごしたひとときは、鮮烈だったから。
忘れないよ、ずっと。
FIN
楽しく読まさせてもらいました。
活発でお人よしな妹紅大好きですw
上海が地味に良い役所ですな。
……なんか最後の最後で大量のフラグが立った気が……石段怖い。
普通は気になりそうな喋り口調もイメージ通り。
石段すげぇ。
蓬莱かわいいよ蓬莱
いい友情物語でした。
蓬莱と妹紅の掛け合いがたまらん!!
夜這いのとこもっと詳しくしりたかったぜ!w
時々読み返したくなるようなそんな作品でした。
珍道中は色々と突っ込みどころ満載ですが、妹紅と蓬莱の友情がとても自然に思えたので良かったです
しかし妹紅はまさに漢
とても美しく解決までの流れが繋がっていますね。
優しい妹紅と蓬莱、母親のようなアリスやぶっきらぼうだけど人は悪くない霊夢も、みんなみんな魅力的でした。
マジで惚れるね。