Coolier - 新生・東方創想話

有明月のファウスト 上

2013/08/26 06:25:24
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   ―― 序章 ――



 それは天上の月と未だに関わりの深い永遠亭の住人にとって、一ケ月の中で最も忙しい満月の夜から一夜明けた、十六夜の晩のことだった。
 その日は天気も良く、昨夜の満月と同じくらいに月明かりの望める明るい夜だったが、弥生の夜風が心に染みる肌寒い夜でもあった。
 それまで永遠亭の居間で横になって、遅めの夕食の食休みをとっていた因幡てゐは、玄関の戸が激しく叩かれる音に気が付いて気怠そうに上体を起こした。
 こんな夜中に一体誰だろうか?
 てゐは疎ましげに玄関の方を睨み、それから台所で食器を洗う鈴仙・優曇華院・イナバの後ろ姿を見やった。
 しかし、彼女は食器を洗い流す水音の所為か、玄関の物音には全く気が付いていない様子だった。呑気に鼻歌を歌い、それに合わせて彼女の頭頂部から伸びる長い兎耳が小刻みに揺れている。
 てゐは溜息を吐いた。
 来客の到来があと数分早ければ、さっきまでここで皆して食卓を囲っていたというのに。それが済んでからは、八意永琳も蓬莱山輝夜も自室に籠ってしまっている。
 鈴仙の代わりに皿洗いを任されるのを面倒に思ったてゐは仕方なく、どっこらしょと立ち上がって、居間の襖を開けて玄関へと歩き始めた。
 どこまでも続くひんやりとした板張りの床が、裸足には辛い永遠亭の回廊。
 暗がりの向こうに見える玄関の戸は、そこからまだ随分と距離のあるてゐの位置からでもハッキリと見て取れるほど忙しなく、喧しい音を立てて揺れていた。
 その戸の向こうにいる人物は、余程強い力で戸を叩いているのだろう。
 そしてそれが兎の、弱小種としての本能だろうか。
 絶え間なく騒音を響かせながら、今にも溝から外れてしまいそうなほどに震える戸の様子は、さながらその奥に一匹の猛獣を押し留めているようにてゐには思えた。
「はいはーい。今出るよ」
 そのまま戸を壊されては堪らない。てゐが少し早足になって戸の鍵を開けると、彼女がそうするよりも早く、向こう側から戸が勢い良く開け放たれた。
 その粗暴な振る舞いに不快感を覚えながらも、てゐは入口に向って顔を上げた。
 ――と。
「八意……八意永琳はいるか……!」
 てゐの視線の先、戸口の縁に手を掛けながら、前かがみに身を乗り出すような姿勢で彼女を見下ろしていたのは、人間の里の寺子屋で教師をしている上白沢慧音だった。
「およ? 慧音?」
 思わぬ来訪者に、てゐは間の抜けた声を出した。
 曲者揃いの幻想郷住人の中でも、とりわけ常識人として知られる慧音が、まさかこんな夜更けにやって来るとは考えもしなかった。
「こんな時間にどうしたのさ慧音?」
「それより、永琳はいるのか!」
 緊張感に欠けたてゐの質問にしかし、慧音は凄むような怒声で返した。
 普段から人当たりの良い彼女の、その鬼気迫るような態度に、てゐは思わず肩をビクリと震わせた。
 そして改めて慧音の様子を見てみると、彼女は先程からすっかり息が上がっており、額に浮かぶ玉の汗を拭うことも忘れて、てゐのことをジッと睨んでいる。
 その彼女の姿から、これは只事ではないな、とてゐは悟った。
「お師匠様なら部屋にいるよ。待ってて」
 そう短く答えて、てゐは踵を返して元来た廊下を走り出した。
 背後から、慧音の声が聞こえる。
「頼む! 八意永琳を早く!」
 その声に後押しされるように、てゐは廊下を進む足を早めた。
 その向こうでは、つい今し方てゐが出てきた居間の襖から、ようやく鈴仙が何事かとこちらに向って顔を覗かせている。
 しかし、彼女に状況を説明している暇は無い。てゐは問答無用で鈴仙の横を素通りすると、回廊の奥の闇に飛び込んで行った。



 人間の里で一人の子供が妖怪に浚われ、捜索に当たった里の男衆が逆に妖怪達の待ち伏せを受けて、多くの死傷者が出ている。
 てゐが永琳を自室から呼び出してくると、全く余裕の無い様子で慧音は彼女にそう説明した。
 するとすぐさま永琳は慧音から簡単な現場の状況を聞き出し、幾つかの指示を出すと、そのままてゐと鈴仙の二人を連れて永遠亭の薬品庫へと向かった。
 てゐは前を行く永琳と鈴仙の後を追うような格好で、二人に続いた。
「恐らく向こうでは悠長に話をしてる余裕なんて無いでしょうから、この場でそれぞれの役割を伝達するわ」
 母屋の裏口から永遠亭の裏庭に出た永琳は、そこを離れにある薬品庫に向って進みながら緊迫した声で言った。その歩みは小走りと言うより駆け足に近く、彼女の持つ灯籠の火は激しく揺れて、地面に映る前二人の影がてゐには不気味に揺らめいて見えた。
 いつもより少し早口に言った永琳に、鈴仙が「はい!」と精悍に答えた。その後ろのてゐも、「はーい」と間延びした返事をした。
 永琳は懐から、薬品庫の鍵を取り出しながら、
「問題の妖怪は藤原妹紅が退治したとは言え、現場はまだまだ危険な状況よ。血の臭いを嗅ぎ付けて、他の妖怪が寄って来かねないわ。だから私達は早急に負傷者に応急処置を施した後、彼らを現場から安全な里に搬送する必要がある」
 つまり今の状況下で求められるのは、スピードと効率性を重視した医療行為。本格的な治療は里に戻ってから行うことにして、その時まで命を保たせる為の、必要最小限の延命措置。
 永琳は続けた。
「元々、私達が現地に持ち込める医療器具や薬品には限界がある。それに、里の男衆が襲われたということは、人材も不足しているはずよ。差し当って、現状では〝トリアージ〟を行うのが最も有効な手段と言えるわ」
「トリアージですか……?」
 永琳の言葉に、どこか戸惑った様子で鈴仙が聞き返した。
 トリアージとは、限られた物資、人材の中で最大限の医療行為を行うために、治療を施す負傷者に優先順位を付けていく選別作業のことだ。これにより、本当に治療を必要としている人間とそうでない人間とが明確になり、物資の面でも人材の面でも、その無駄を大いに削減することが出来る。
「そうよ。月にいた頃、依姫から教わったことくらいあるでしょう?」
 永琳が、ようやく辿り着いた薬品庫の鍵を開けながら答えた。
 一方でてゐは鈴仙が、暗い顔をして僅かに俯いたのを見逃さなかった。
 しかしそんな鈴仙の様子の変化には構わず、薬品庫の防火戸を開けて中に進んだ永琳は、迷うことなく次々と薬品を手に取りながら、それを予め用意してあったリュックサックに詰め込んでいった。
 そしてその手を休めることなく、永琳は言った
「現地に着いたら、まず私が負傷者を診て回るわ。その中で比較的軽傷の者、助かる見込みのある者は――てゐ」
 永琳が、一旦リュックサックから頭を上げて、薬品庫の入口のところに立っていたてゐの方に顔を向けた。
 その目には、医者としての使命感ともとれる、強い意志の光が宿っている。
「貴女が他の里の者達と協力して、彼らに応急処置を施した後、里への搬送作業を手伝いなさい。里の方では上白沢慧音が、ウチから里に配付した置き薬をありったけ掻き集めているわ」
「分かったよ」
 てゐは永琳に頷いて答えながら、妥当な判断だな、と思った。
 助かる見込みがあると判断される者は、自分に任せる。
 そうすることで、自分の持つ【人を幸せにする程度の能力】は、彼らの生存率を飛躍的に高めることだろう。
「そして、優曇華」
 次に永琳はてゐから視線を外し、隣りの鈴仙にも同じように顔を向けた。
 しかし鈴仙は固い表情で床の一点を見つめており、永琳に名前を呼ばれて初めて、我に返ったように慌てた様子で顔を上げた。
「は、はい!」
「貴女には私と一緒になって、患者の処置を手伝ってもらうわ。但し、止血や包帯を巻く程度の、素人にも出来るような事はてゐと里の人達に任せてしまいましょう。貴女には、もっと他にして欲しいことがある」
「他に……ですか?」
 要領を得ない様子で聞き返す鈴仙。
 永琳は頷いて、
「診察の過程で、私が頬にペンで〝M〟と書き込んだ負傷者が、貴女の担当よ」
「え……M……?」
 途端に鈴仙は、その当惑顔をより一層深くした。
 彼女のその姿を見て、てゐは苦虫を噛み潰したような気分になった。
 〝生存の余地のある者〟の担当が自分なら、その他方を請け負う鈴仙に、何を任されるかは、てゐには手に取るように分かった。
 そしててゐのその思案を肯定するかのように、永琳が声のトーンをそれまでより少し落として鈴仙に答えた。
「〝モルヒネ〟の〝M〟よ。致死量投与しなさい」
「…………!」
 モルヒネとは、古くは麻酔薬として利用され、現在でも疼痛を抑える鎮痛剤として扱われる薬品のことだ。
 しかしそれを致死量投与するということは、永琳の言っているそれは、つまりは――安楽死。
 瞬間、鈴仙の顔から血の気が一気に引いていった。
(アンラッキーだったね、鈴仙)
 てゐは言葉には出さず、ただ無言で鈴仙の顔を見上げた。
 トリアージの行われるような状況下では、治療の対象は〝医療行為よって命を救える者〟に限定させる。それは言うまでもなく、救える命を確実に救うことこそがトリアージを行う目的であるだからだ。
 しかしそれは暗に、生者の中で死者を選別する行為と言っても良い。
 始めから助かる見込みの無い者は、残念ながら諦める他ない。
 結局は救えない命に投与する薬で、他の多くの命が救えるのなら、それは仕方の無いことだ。
 必要なことなのだ。
 時間の経過による体力の消耗、出血、優先者に回されて残量の減る医薬品。
 それらを考慮した上で、医者は究極の選択を迫られる。
 恐らくはそんな彼らに投与する致死量モルヒネすらも、永琳からすれば、それがせめてもの情けなのだろう。
 せめて彼らが、苦しまずに逝けるように――。
「ごめんなさい優曇華、これは貴女にしか任せられないの。里の人達は注射器なんて触ったことも無いでしょうし、仮に彼らがそれを扱えたとしても、負傷者全員に投与できるほどのモルヒネはこっちも用意できない。つまり、本当に必要な人にだけこれを打つのだとしたら、今はこれ以外に選択肢は無いの」
 受け入れ難い現実に鈴仙は言葉を失い、その赤の瞳は彼女の動揺を表すように、視線を右へ左へ落ち着きなく移ろわせた。
 まるで、悪戯を母親に咎められて言い訳を探す、人間の子供のようだとてゐは思った。
 と、鈴仙の目がそこにあった何かを捕えてその動きを止めた。
 てゐがその視線の先を辿って目を凝らすと、彼女の目は永琳の脇のリュックサック中に向けられていた。
「あ……あの……師匠……」
 真っ白になった唇で僅かに声を震わせながら、鈴仙が今にも消え入りそうな声で言った。
「注射器の数が……」
 そう言って、鈴仙がリュックサックの中を指差す。
 てゐと永琳がそれを確認すると、リュックサックの中には数本の注射器しか入っていなかった。
 瞬時に、てゐは鈴仙の言わんとしている事柄と、永琳の意図を察して顔を伏せた。
 注射器は本来、感染症を防ぐ為に使い捨てにするのが当たり前だ。
 しかし、今用意されている注射器の数では、余りにも少なすぎると鈴仙は言いたいのだろう。
 モルヒネなど打ちたくない。彼女のその強い気持ちから、つい口を突いて出てしまった言葉なのだろうが、鈴仙のその問い掛けに、永琳は案の定とも言える内容を答えた。
「優曇華。これを使われる相手がその後どうなるか、分るでしょう?」
 永琳が立ち上がり、真っ直ぐに鈴仙の顔を見つめて言った。
 その表情は、沈痛さと慈悲の念が合わさったような、複雑なものだった。
「感染症の恐れは無いわ。〝針が折れるまで使いなさい〟」
「…………」
 重い声色で放たれた永琳の言葉に、鈴仙が今にも崩れ落ちそうに足元をふらつかせた。
 しかし、そのぐらついたその肩に永琳がそっと手を添えて、優しく彼女の体を支える。
「師匠……」
 目にいっぱいの涙を浮かべながら、天を仰ぐように、天命を待つように鈴仙が永琳のその理知的な双眸を見上げた。
 永琳はそれこそ聖母のような、慈愛に満ちた声で鈴仙に語り掛けた。
「しっかりしなさい、優曇華。確かに私達は、全ての人の命までもは救えないかもしれない。だけど、苦しみからは救ってあげられるはず」
 そこまで言って、永琳は少し間を取った。
「今は、私達に出来ることをしましょう?」
「そうだよ鈴仙」
 永琳の言葉に、てゐが続いた。
「何かまだ出来ることがあるだけ、マシな方さ」
 それは、てゐ自身の経験上から出た言葉だった。
 一匹の名も無い兎が、今の年まで生き長らえるのに、一体どれほどの同族の死を看取ってきたか。それは両手両足の指の数を足しても、足りるようなものではない。
 それを思い出して、急に少し、てゐは感傷的な気分になった。
 何の力も待たない兎。屠殺されるのを待つ家畜と同じ。時に他種からは、只の〝肉〟として狩られる存在。
 その自分が今まで生き残るためには、仲間を見捨てざるを得なかった場面も、嫌と言う程あった。
 苦しむ友人に何もしてやれないまま、自らの保身の為に彼らを置き去りにしてきた。
 自分の名前を叫ぶ声に、耳を塞いで、背中を向けて歩んできた。
 そんなことを延々と繰り返して、てゐは今まで生きてきたのだ。
 それを月の民の言葉に倣って〝穢れ〟と呼ぶのなら、この世はまさに〝穢れ〟そのもの。
 その意味では、つい最近になってその渦中に身を置くことを決めた鈴仙は、まだまだ――〝若い〟。
 てゐは鈴仙を見て、誰にも分からないように、嘲るように小さく息を吐いた。
 同じ兎でありながら、安全神話の保たれた月面で平穏無事に生きてきた兎。
 元軍人が聞いて呆れる。
 これまで何の〝穢れ〟もその身に受けずに、のうのうと生きてきたんだろう?
 すっかり思い詰めた様子の鈴仙に、そんなことさえも思えてしまう。
 しかし、てゐはそこまで考えて、すぐに思考することを止めた。
 考えが、思わぬ方向に進んでしまっていた。
 鈴仙は、単に〝知らなかった〟だけなのだ。無知は罪ではないし、それを責められる磐余も無い。
(〝腹黒兎〟……ね)
 てゐは押し黙ったまま、自分の中で、話をそう結論付けた。
 危うく、これまで――不本意にも――培って聞いた心の中の黒い感情が、剥き出しになってしまうところだった。
 てゐは首を振り、どうにか心を落ち着ける。
 そう、今は自分の役割に集中しよう。
 てゐはそう決め込んで、再び顔を上げた。
(慣れたもんさ。人を欺くには、まず自分からってね)
 そして顔を上げた先では鈴仙が、未だ迷いを断ち切れていない様子ではあったが、それでもぎこちなく永琳に頷いて見せた。
「……分りました」
「じゃあ、今は一秒たりとも時間を無駄には出来ないわ。準備を手伝ってくれる?」
 永琳が、まだ少し気遣うような口調で鈴仙に聞いた。
「……はい」
 弱々しくも鈴仙はそう答えると、自らも薬品庫の奥の方へ進んで行って、棚の中を物色し始めた。
 その姿を、てゐは後ろから静かに見つめていた。
 考えないようにしたつもりだったが、しかしどうしようも無く、てゐには今の鈴仙が羨ましく感じられた。
 自分にもあの時、こんな風に、何か出来ることが残されていたら。
 自分にもあの時、こんな風に、それを諭してくれる人がいてくれたら。
 自分は一体、どんな兎になっていただろうか?
 きっと弱くって、頼り無くって、情け無い――。
 ――優しい優しい白兎になっていたことだろう。
 多くの兎達に囲まれて、柔和に微笑む自分。そんな自分の姿を想像して、てゐは激しく首を振った。
(反吐が出るね)
 優しさなんて自分には似合わない。てゐは心の中でそう吐き捨てた。
 この地上では、誰一人として無垢なままではいられない。
 自分はもう、周囲の〝穢れ〟にどす黒く塗り潰されて久しい。
 今更、生れ変われはしないのだ。
 今更、何も変わりはしないのだ。



   ―― 第一章 ――



 翌年の春。
 冬眠から目覚めた八雲紫には、年の初めにまず熟さなければならない二つの大きな仕事があった。
 その一つ目は、彼女の従者である九尾の式神――八雲藍が作るその年最初の朝御飯を食べること。
 そして二つ目は、彼女自ら幻想郷の外の世界に赴き、その現状と実態を確認することだった。
 最初の一つ目の仕事は問題なく済んだ。
 藍の今年最初の献立は、白いご飯に沢庵漬、油揚げの味噌汁。そしてほうれん草の御浸しに、焼いた川魚だった。
 質素な内容ではあったが、紫はそれで満足だった。正直なことを言うと、油揚げの味噌汁が特に嬉しかった。
 つい数百年前まで、冬眠から目覚める度に「今朝の献立は何がよろしいですか?」と聞かれていたことを考えれば、彼女が自分で考えて――そして彼女が最も好み、得意とする食材で――料理をしてくれたことは、紫にとっては大いに喜ばしいことだった。
 ほんの些細な綻びでも、その自我を希薄なものにしてしまう式神という存在。その彼女が、自らの意志で振舞ってくれた手料理だ。紫は当然のように、それらを残さずに食べた。
 魚の骨は藍に取ってもらった。
 そして朝食が済むと、紫はその後たっぷり二時間ほど日向ぼっこを楽しんでから、二つ目の仕事に取り掛った。
 幻想郷と外の世界とを隔てる博麗大結界。これを実質管理する紫にとって、外の世界の監視は決して蔑ろにすることの出来ない仕事だった。彼女と外の世界の認識の差異は冬眠期間中の僅か数ヶ月でしかないが、これを怠れば、その過失は向こう一〇〇年の幻想郷の存亡に直結すると言っても過言ではないからだ。
 特に近年では、それが冗談では済まされないレベルに達している。
 それをこの目で確認するのは、彼女にとって嫌気の射す仕事ではあったが、是非も無い。
(全ては幻想郷のため)
 紫はそのことを再確認するように、冬眠ですっかり寝惚けた自分の頭に言い聞かせると、今年も例年通りに移動用の〝スキマ〟を外の世界へと繋いだ。



 見慣れた風景の真ん中に穿たれた、空間の裂け目。紫がそれを通り抜けた途端、周りの環境は一変した。
 それまで彼女の周囲を取り巻いていた世界は音も無く遙か後方へ消え去り、瞬間的な気温と気圧の変化に神経系が慌ただしい反応を示す。しかし、全ては自制の範囲内。計算の範囲内だ。
 そしてその鋭敏な感覚をすぐに落ち着かせた紫を次に待っていたものは、少し湿っぽい空気と、人工的な芳香剤の香りだった。
 そこは外の世界の、とある大型家電量販店の化粧室。紫は外の世界を訪れる時、この場所が無人になるタイミングを見計らって、そこに最初の〝スキマ〟を通すことが多かった。
 この場所なら監視カメラを恐れる必要も無いし、店内に出たところで誰かに怪しまれる心配もない。衛生面を考えれば、淑女がそこを往来に利用するのはどうかとも思うが、他のどこよりも紫がこの場所を好んだ理由は、まさにその淑女ならではのものだった。
 それはこの場所には、〝スキマ〟を通ってからたった数歩の距離に鏡が設置してあること。
 紫は今年も通例に従い、〝スキマ〟を出てすぐのところにある鏡に向かって歩き出した。
 タイル敷きの床にパンプスのヒールをカツカツ鳴らしながら、紫は壁際の手洗い場に近寄ると、そこに取付けられた楕円形の鏡をジッと覗き込んだ。
 そこには黒のレディススーツに身を包んだ、金髪の女生が立っていた。
 細身の黒のジャケットに、上から二番目までボタンを外された白のシャツ。そこから覗く細い首元に光る、シンプルなシルバーのネックレスをアクセントに、下はタイトなパンツと深いブラウンのパンプスといった出で立ち。
 服装は問題ない。我ながら現代人への変装は完璧だ。
 紫は続いて顔周りのチェックに入った。
 端正な目鼻立ちに、思慮深い瞳。冬眠から目覚めたばかりということもあって、ナチュラルメイクを意識した化粧の乗りもバッチリだ。髪の毛の方も、日向ぼっこの最中に藍が丁寧に梳かしてくれたこともあって、寝癖一つ無くサラサラだった。
 紫はそれらを入念にもう一巡チェックしてから、ようやく満足そうに頷いた。
「私もまだまだイケるじゃない」
 そして続け様に「幽々子にも霊夢にもまだまだ負けてないんだから!」と調子付く紫だったが、それを彼女が〝独り言〟だと気付くことはなかった。
 そしてそれからすぐに店内へと出た紫は、その〝イケる〟顔立ちを驚愕に歪ませることとなった。
 そこには、それまでの彼女の想像を遙かに超えた現実が広がっていた。



(少し泳がせ過ぎたかしら……)
 紫は渋い表情を浮かべたまま、店内を進んでいた。
(たったの一冬。そう、たったの数ヶ月よ?)
 店内を巡り始めてから約一〇分にして、一五回目になる台詞を紫は心中で呟いた。
 ずっと前から懸念はしていた。
 それを感じずにはいられない程に、ここ数百年におけるこの世界の科学力の成長推移には、目を見張るものがあった。
 永い時を生きた妖怪からしてみれば芥子粒のような時間の中で、この世界の人間がどれほどの進歩と発展を遂げたのかは明らかだった。
 だから、ずっと前から考えてはいたのだ。
 いつか、こんな日が来るのではないかと。
 いつか自分が、それに畏怖の念を感じる時が来るのではないかと。
 それは十二分に分っているつもりだった。
 しかし、その自分の認識の甘さを、こうもまざまざと見せ付けられることになるとは。
 紫は気が遠くなる思いがした。
 今紫が歩いているのは、化粧室を出てすぐのところにある家電コーナーの、炊飯器が居並ぶ一角。
 そこに陳列される炊飯器の一団を眺めて、紫は溜め息を漏らした。
(たかだか炊飯器一つで、ここまで様変りしてしまうのね)
 別に炊飯器に限ったことではないが、そこには冬眠前と同じ商品は一つも無かった。それぞれが『新機能』や『新素材』などの語句を携えて、整列する新兵の如く、堂々と隊列を組んでいる。
 確かに、昔ながらのモデルも存在するにはしている。見て呉れにさほど変化のないものもある。しかしそのどれもが、以前の型で越えられなかったあらゆるスペック上の限界を突破し、従来の不可能を可能なものにしていた。
 まるでそこに整然と並ぶ彼らが、「ここは僅か数日で、〝無〟だったものが〝有〟に転じる世界だ!」と大合唱しているように紫には感じられた。
 中世の錬金術師達が、それを成すのにどれほどの心血を注いできたかも知りもしないで。
 幻想郷では未だに、母が子に米の炊き方を教える時は、「赤子が泣いても蓋取るな」と呪文のように教え込んでいるというのに。
 紫は徐に立ち止ると、蹌踉めくように手近にあったラックに手を掛けた。
 そして米噛みを押え、考え込む。冷静になれば、無理もない話だった。
 人類が馬車から自動車を造るのには数百年の時間を要したが、そこから飛行機を造ったのは、それから僅か一三四年後のことだった。そして飛行機の誕生から、人類史上初の無人ロケットの発射に成功したのはその五四年後。人類の科学の進歩は、今や止まるところを知らない。
 そして、人類の宇宙進出から今年で五六年が経とうとしている現在、今この世界で何が起ったとしても決して不思議なことではなかった。寧ろ、この程度の進歩なら可愛いものだと言っても良い。しかし実際には、この水面下でどんな技術が日々生み出されているのか。紫はそれを想像しただけでも身震いがした。
 クローン羊『ドリー』の誕生、ヒトゲノムの解明などのニュースは、彼女の記憶にもまだ新しい。
 近年では、『LHC』の衝突実験において、彼の〝ヒッグス粒子〟の存在も示唆されている。
 この粒子の俗称は――当の科学者達はこの名を大変嫌っているが――〝神の素粒子〟。
 最早この世界では、それまで神事のように思われていたどんな奇跡すらも、人の手を以て分単位で再現されているのだ。
 彼らが扱う技術は既に、〝幻〟と〝実体〟の境界を越え、従来までの〝非常識〟を〝常識〟に変える力を持っている。
 そしてこの爆発的成長を遂げる怪物が、我が幻想郷をその視覚に捉えたとしたら。
 それに思い至って初めて、紫は背筋に刃物を這わされるような戦慄を覚えた。
 不幸中の幸いか、現代人は自身の〝外〟のことにしか関心が無い。
 その昔、自身の内面に目を向けるように訴えてきた哲学者達は、時代と共に歴史の闇に消えていった。前時代的というレッテルを貼られて。
 しかし不思議なことに、人々は絶え間なく自身を前に引き伸ばそうとしながらも、時としてそういった過去の歴史を振り返って、それを「古き良き」などと言うのだ。
 そしてもし、彼等がその過去の先人達の言葉に従い、自身の〝内面〟に目を向けることになれば、彼等は気付くだろう。
 本当の〝楽園〟は、そこにあるのだと。
 雲の向こうに〝天国〟など無かったことが証明されて尚、その向こうに一体何を探そうというのか?
 幻想郷はずっとずっと昔から、彼等のすぐ近くあったのだ。
 現代人の科学力が、幻想郷を覆う博麗大結界に到達する可能性を紫は試算した。
 可能性は勿論ある。いや、仮にそれが無かったとしても、そんなことは気休めにもならない。
 ここは僅か数日で、〝無〟だったものが〝有〟に転じる世界なのだ。
 紫は天井を仰いだ。
 かつて博麗大結界をこの国に布いたその時、その隠蔽のためにあらゆる手段が投じられた。当時の科学力は勿論のこと、そのずっと先のことも見据えられて、全ての作業は行われた。
 しかし、実際はどうだろうか?
 あの時推定された未来の人類の科学力は、これと同等だろうか?
(――否)
 紫は下唇を噛んだ。
 見積りが甘かった。誤算だったとまでは言えないものの、所詮は机上の空論だった。
 確かに現状では何の問題も生じはいないが、しかしそれは結果論でしかないと言わざるを得なかった。
 そしてこれから先のことは、何とも言えない。元々の式が歪んでいるのだ。仕方が無い。
(だけどそんなことで……!)
 気力の落ち込んだ表情からは一変、紫は燃えるような瞳で正面に向き直った。彼女の前方には依然として量販店の店内が広がっていたが、その目には、あらゆる幻想郷の住人と、彼等の住む〝故郷〟の光景がありありと浮かんで見えた。
(そんなことで、〝あの子達〟に、〝私達の世界に〟、不確かな未来しか約束できないなんて!)
 紫は思った。そんなことが、許されるはずがない。
 守らなければならない。
 自分のこの手で。
 そこを安住の地として生活し、そして自ら楽園を支え、構成するあらゆる人妖のために。
 そして何より、全てが手後れになるその前に――。
 となれば、自分が成すべきことは一つだけだった。
 紫は表情を一層引き締めると、踵を返してその場を後にした。
 そしてその脳内では、大規模な博麗大結界のアップデート計画が構築され始めていた。
(そのためには……)
 紫は化粧室に張った〝スキマ〟から幻想郷に取って返すと、すぐさま頼れる自らの従者の名前を呼んだ。
「藍。外出の支度をなさい」



 その日の午後。
 冥界の最深部に位置する日本屋敷――白玉楼の大広間には、紫から召集を受けた幻想郷の各勢力の代表者達が一堂に会していた。
(こういう場を取り持つのは、あの〝第一次月面戦争〟以来かしら……)
 紫は事の発起人として広間の上座に座り、自分の前で二列になって、それぞれが対面するような格好で居並ぶ代表者達の顔触れを静かに見やった。
 彼女の右手の列には、手前から西行寺幽々子、八坂神奈子、洩矢諏訪子、レミリア・スカーレト、聖白蓮が座っている。
 そして左手の列には、豊聡耳神子、八意永琳、比那名居天子、古明地さとり。
 紫は彼女達に、自分が外の世界で見てきたことの一部始終を話した。
 彼女達は終始、皆一様に険しい表情を浮かべて、紫の話にじっと耳を傾けていた。無理もない。今現在、幻想郷が抱えている問題は、彼女達にとっても決して他人言ではないのだから。
 紫は視線を前に戻すと、それまでの自分の話をこう締め括った。
「――然るに、今の博麗大結界の能力は、現代の水準に見合わないものになりつつあると判断せざるを得ないわ」
 その言葉に、その場に居た全員が表情を曇らせた。
 中には、その博麗大結界の管理者である紫に、辛辣な視線を送っている者もいる。紫は自身の背後に控えさせていた藍が、僅かに腰を浮かせたのに気付いてそっとそれを手で制した。
 そしてそんな無言の圧力にも臆することもなく、紫は続けた。
「そこで、私は博麗大結界の大規模な修善と改良を行うべく、ここに一つの計画を立案させてもらうわ。貴女達をここに呼んだのは、その計画への協力を求めるためよ」
 すると、それまで紫の話を黙って聞いていた者達の中で声が上がった。
 それは天界から、伊吹萃香に仲介役を頼んでここに呼び出してもらった天子だった。
「協力ですって?」
 それはまるで、二言目には「滅相もない」と続きそうなほど、苛立ちと嫌悪感に満ちた声色だった。尤も、紫とて好き好んで彼女をここに招いた訳ではない。いや、よもや世界の終わりでもない限りは、顔も見たくなかったと言っても良い。
 しかし、その世界の終焉が、今や現実のものになろうとしているのだ。
 紫は忍耐強く、しっかりと頷いて、
「そうよ。事態はとても複雑なの」
 そして紫は、徐に右手を持ち上げ、その指をパチンと弾いた。
 すると彼女の前方の畳に、淡い紫色の光によって構成された半球状の物体が、逆様に置かれたお椀のような格好で出現した。
 その大きさは、丁度大玉の西瓜ほど。これは幻想郷を覆う、博麗大結界の模型のようなものだ。
 紫はそれを展開させて、改めて語り始めた。
「一口に改良と言っても、それは簡単なことではないの。その補完が目的とは言え、博麗大結界を構築する術式に私が介入すれば、たちまちそのゲシュタルトは崩壊し、全体性を失った結界は最早その機能を失う。つまり、幻想郷と外の世界を隔てるものが消えてしまうと言うことよ。これは最も憂慮すべき事態だわ」
 言いながら紫はそっと、その半球状の物体に触れて見せた。
 すると、たちまちそれは砂の城か砂糖菓子のように、見る見るうちに粒子が砕けて只の塵と化していった。
 そのリアリティな様子もさることながら、嘘偽りの響きもなく、淡々とした紫の説明に天子は口元を引き結んだ。傍若無人を極めた天人崩れも、ようやく事の深刻度を理解しつつあるようだった。
 紫はもう一度、先程と同じ半球を出現させながら続けた。
「即ち、全ての作業は結界の崩壊を抑制しながら、そこに掛る負荷が最小限となるよう、可及的速やかに行われる必要がある。でも、その全てを私一人で担うのは不可能だし、それに皆も知っての通り、私は今年も冬眠を控えている身。時間の制約もある」
 紫は僅かに自虐的な表情を浮べて目を伏せた。
 博麗大結界の一大事。迅速な対応が求められるこの状況下で、その管理者である自分がそれを成し遂げることが難しいという現実。
 仮に彼女が命を賭して、冬眠中の睡眠時間すら削って作業に当ったとしても、それで彼女の身にもしものことがあれば、その後の幻想郷が立ち行かない。
 これは言うなれば、今日までの博麗大結界の管理を紫に一手に担わせてきた、その代償とも言えた。
 誰一人として、紫に取って代わることは出来ない。それは例え博麗の巫女であっても。
 今やその場にいた誰もが、固唾を呑んで紫の次の言葉を待っていた。
 紫は視線を、こちらを一点に見つめてくる各々の表情にそれぞれ向けて、
「そこで私が考えたのは、この博麗大結界の改善作業を、幻想郷の各勢力の分布別に区切って行う作業方式。一度に全てではなく、幾つか小分けにして段階的に作業を行っていく方法よ」
 そして紫が右手をスッとかざすと、目の前の半球に変化が起きた。
 それまで滑らかなカーブを描いていたその表面に、瞬時にして幾重にも亀裂が入った。いや、よく見てみると、それは亀裂やひび割れの類いではない。丁度ポリゴンの数が落とされたかのように、それまで一枚の面で構成されていたものが、精巧に配列された多角形によって多面的な造形に造り替えられたのだ。
 その姿は、サッカーボールか亀の甲羅に近い。
「こうすれば……」
 言うと、紫は再びその表面に触れた。
 すると確かに紫の触れた部分の面は消失してしまったものの、それは全体を構成する多くの面の内の一つでしかない。つまり造形としては、それはまだ半球型の形状を保っていた。
「これなら、結界破綻のリスクと、その抑制に掛る労力を最小限に抑えられるわ。長期的な作業にも対応が可能だし、何より……」
 そして紫は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「私は〝線〟を引くのはお手のものだしね」
「ちょっと待って下さい」
 と、ここで口を挟んだのは、旧地獄街道から旧都、及び地霊殿を代表して馳せ参じたさとりだった。
「お話は良く分ります。ですが、この作戦の抱えている問題の解決策が既に見出だされているのなら、その上で私達に何の協力を求めようと言うのです?」
「それは、貴女達にたった今説明したものが、ある一つの〝前提条件〟の下に成り立っているからよ」
「前提条件?」
 さとりが小首を傾げる。
 紫は頷いて、
「そう。この博麗大結界の内部と、外部との環境が限り無く〝一致している〟というね」



 紫は滔々とした語り口で、
「貴女達も知っているように、幻想郷は外の世界から忘れ去られたもの、幻想となったもので構成されている。これは言い方を変えれば、幻想郷は外の世界の認知度を基準にして、他方に淘汰され、抑圧されたもので構成されていると言っても良い。幻想郷の誕生から今日まで、500年以上の月日が流れたけれど、その一方でこの〝二つのもの〟の二極化も進んだ。想像して頂戴? そもそもは一つであったものが、博麗大結界を境界にして二つに分断されているのよ? そこには当然、それを修正しようとするはたらきが生じてくる。世界の摂理とも呼べるその〝立ち返りの念(エピストロフェー)〟の存在もまた、無視することはできないわ。そう。我々はこの幻想郷の内側から外に向かおうとする、その〝内圧〟にも対処していく必要があるの」
 紫はその知性的な瞳をさとりに向けた。 
 一方に抑圧されたものが、他方に流れ込もうとするはたらき。或いは、一方を失ったものが、他方を取込もうとするはたらき。
 世界の修正力。
 博麗大結界にのし掛かる、その力の凄まじさの片鱗を物理的に知りたければ、例えば〝真空〟と力比べをしてみると良い。
 真空嫌悪の原理の前には、生半可な物体ではその原形を留めておくことすら難しい。
 博麗大結界はその内側からも外側からも、ドラム缶など一瞬でペシャンコにしてしまうだけの相当な力場が常時はたらいているのだ。
 しかもそれは、博麗大結界に掛る力のほんの一握りでしかない。
 例えば幻想郷の中には時間に作用する能力を有する者がいるが、彼女達がそれを用いれば、たりまち幻想郷と外の世界との時間の流れに歪みが生じてしまう。
 当然、世界はその歪みを修正しようとする。
 しかしそのような時空間の変調にすらも、博麗大結界はそれが急激なものになり過ぎないように作用しているのだ。
 それが幻想郷内部の環境を激変させないために。
 これに一体どれほどの負荷が生じているのかは、想像を絶する。
「つまりこの幻想郷は、博麗大結界という隔壁に覆われた一種の圧力容器なの。それに今、穴を開けようと言うのよ? ただ区画を決めて、作業を細分化するだけでは不十分だわ。外の世界からの干渉を最小限に抑えた上で、こっちの世界から、向こうの世界に漏れ出してしまうものにも対処しなければ。そこでさとり? もしもボイラー内の圧力が危険な値に迫ったら、貴女ならどうするかしら?」
 紫は自分なりに言葉を選んで例示をした。この説明は、旧都がまだ地獄だった頃に加えて、現在も間欠泉地下センターとの関わりを深く持つさとりには、適切な表現となったはずだった。
 さとりは暫く考え込み、やがて、
「……その時はボイラーの栓を緩めて、内部の蒸気を抜きます」
「私が貴女達に協力して欲しいのは、まさにその部分なのよ」
 紫は微笑を浮べた。
「幻想郷が抱える〝内圧〟を押上げているのは、言うまでも無く外の世界で幻想となった我々妖怪や神の存在に他ならない。そこで外の世界にもう一つ別の結界を張るわ。そして博麗大結界内の一区画の作業が行われるのに際して、そこの区画の住人には、一時的にこの結界の中へ避難していてもらいたいの。その内部に蓄えられた、ヌミノースな力を外部に放出するために。幻想郷の中と、外の世界との環境を可能な限り一致させるために」
 あくまでも真摯な態度で紫は言った。
 しかし流石にこの定案には、場内に小さなどよめきが起こった。
「勿論、住居も食料も提供するし、可能な限りの行動の自由も約束するわ」
「いや、しかし待ってくれ紫」
 ざわつく面々の中でそう切り出したのは、妖怪の山山頂に位置する守矢神社の神――神奈子だった。
「最初に聞こう。お前は一体、その作業にどれくらいの時間が掛ると見込んでいるんだ?」
 その問に対する、紫の答えは簡潔だった。
「一区画につき、長くて四ヶ月。トータルで数年越しの計画になるわ」
 紫の答えに、広間のざわめきがより一層激しさを増した。
 神奈子は難しい顔をして、
「紫。確かに我々とて、科学に傾倒する人間達からの信仰を失い、ここに身を寄せることを決めた者だ。それ故、外の世界の科学力の凄まじさは骨身に染みているし、お前の言うことも理解できる。しかしだ。この幻想郷には、我々と敵対する勢力が存在することもまた事実。それなのに、それほどの長期に渡って神社を空にすることには反対せざるを得ないぞ?」
 しかし、紫は余裕のある表情を決して絶やさなかった。
「分っているわ。そのために、こうして各勢力の代表全員を集めたんじゃない」
 そして紫は立ち上がると、未だに騒がしい幻想郷の住人達に向き直り、良く通る声で高らかに宣言した。
「ここに居る者全員で、協定を結びましょう。かつて地底の妖怪と結ばれた、今となっては立前だけの協定なんかじゃなく、この博麗大結界の改善作業が行われている期間中の、相互の不可侵権をより明確化した協定を」
 しかし、これに異を唱えたのは、神奈子の隣りに居た諏訪子だった。
「そんな協定、妖怪が守れるの?」
「あら、貴女としたことが可笑しなことを言うのね?」
 諏訪子の言葉に紫は嘲るような笑みを浮かべると、その懐から愛用の扇子を取り出し、それを優雅な手付きで開いて自らの口元を隠した。
「信者を求む神様が、よもや誰かを信じる心をお捨てになると? それも、昨今の幻想郷で起きた騒動には、漏れ無く関与している貴女達が」
「あぅ……」
 言葉を濁した諏訪子。すると彼女からレミリアを挟んで右隣の位置に座っていた、命蓮寺の白蓮が挙手と共に言った。
「ならば、我々はその協定に賛同しましょう。妖怪同士が互いに手を取合い、一つの事業を成し遂げようと言うのなら、我々がそれに反対する訳にはいきません。それこそが、我々の理想とするところの一つなのですから」
 この申し出に、紫は待ってましたとばかりに大きく頷いた。
「ええ、きっと貴女ならそう言ってくれると思っていたわ。どこかの神様とは違ってね」
 そして彼女は横目に、神奈子と諏訪子の方をチラと睨んだ。
 紫に意味深な視線を向けられた二人は、揃って顔を顰めた。それもそうだろう。白蓮の率いる命蓮寺は、幻想郷の信仰を独占したい守矢神社にとっては最大の好敵手なのだから。
 その白蓮がこうして協定への参加を表明した上で、彼女達がそれを見過ごせるはずもない。
 紫は扇子の下に隠した笑みをより深くした。赤子の手を捻るような扇動だった。
 そして案の定、神奈子は紫の思惑通りに、
「な、ならば我々もその協定に参加しよう……!」
「ふふ。御礼を言うわ」
 心ばかりの礼を言った紫。
 そしてその後は、済し崩し的に話は進んだ。
 そもそもが幻想郷の今後の明暗を分ける話なだけに、当初は難色を示す勢力も次々と協定への参加を表明していった。
「初めから、紫の提案に反対するつもりはなかったわ」と幽々子。
「他に方法が無いんじゃあね……」とレミリア。
 最近、異空間に新居を築いた神子も、この話には納得するところが多かったようで首を縦に振った。天子も本意ではないだろうが、頷かざるを得ないといった様子だった。そして、最難関と思われたさとりも――恐らくは紫の心を読んだ上で――承諾した。
 そこまでは、全てが順調だった。
 しかし最後に残された勢力、永遠亭を代表してこの場に出席していた月人の医者――八意永琳だけは、頑として紫の申し出に賛成しようとはしなかった。



 永琳は一同の反感の視線など意にも介さず、堂々とした口調で紫に言った。
「申し訳ないけれど、貴女の計画に協力することは、我々永遠亭の住人にとって最善の判断とは言い兼ねるわ」
 紫は眉根を寄せた。他の全ての勢力の足並がようやく揃ったというのに、どうしてそれに水を差そうと言うのか。
「それはどういうことかしら?」
「貴女なら既に分っているはずよ?」
 永琳は紫にそう返すと、少し間を置いてから話し始めた。
「この計画は、一見すると確かに合理的なものにも思える。けれど実際は、この計画は貴女にとって邪魔な勢力を、幻想郷の外に追放することが目的なのではないかという疑いを持つことも出来る。特に、過去数回に渡って衝突を繰り広げている我々月の民の存在は、貴女にとって目の上の瘤でしかないでしょう?」
 その言葉の、あまりの不愉快さに紫は思わず顔を歪めた。
 そんなもの、荒唐無稽な言い掛りだ。もし自分にその気があれば、自分は最初からこんな話し合いの場など取り持つことなど無かっただろう。
 紫はそれが表情に出るほどに憤慨し、しかし周囲の状況を見て唖然となった。
 そこに居た誰もが永琳の言葉に驚き、そして思案顔を浮べている。
 どうやら永琳の放ったその一言は、それまで紫の計画に協力を約束した各勢力の代表者達に強い衝撃をもたらしたようだった。
 やられた。紫は奥歯を噛み締めた。
 当初は住み慣れた土地を数ヶ月離れるだけでも渋った彼女達が、それが場合によっては永久追放の可能性すら示唆されるとあっては、困惑するのも当り前のことだった。
 このままでは、ようやく取付けた協定への参加表明も覆されかねない。
 紫はすぐさま反論した。
「確かに貴女の言うことも理解できるわ。でもこれは、今まさに幻想郷が直面している問題であり、その解決のために我々の連帯は必要不可欠なものなのよ?」
 すると永琳も頷きを返し、
「勿論、貴女が全てを独断で決定せず、こうして我々に情報提供をして、その上で協力を求めてくれたこと。そうすることで誠意を示してくれたことも私は理解してる。でも、私にも、私の全てを投げ打ってでも守ると誓った人がいる。こんな私にも、付いて来てくれる兎達がいる。そんな彼女達を想う気持ちは、今ここに呼ばれている皆にも、そして貴女にも分るはずよ?」
 言いながら、永琳は同意を求めるような目で周囲に居る全員の顔を見渡した。
 そして永琳に視線を向けられた全員が、それぞれ熱い眼差しを彼女に返していることに紫は気付いた。
 紫の旧友の幽々子すらも、迷いのある表情を浮かべてこちらに視線を投げ掛けてくる。
 きっと彼女の脳裏を過ったのは、彼女が自らの実の妹か愛娘のように目を掛けている、半人半霊の庭師――魂魄妖夢の姿だろう。
 幽々子とて、決して紫が二人の追放など目論んではいないことを信じてくれているのだろうが、彼女にも弁慶の泣所というものが存在する。
 日頃は飄々とした掴み所の無い性格の彼女も、妖夢のことになると、時に感情的な一面を覗かせることがある。
 紫は幽々子を責めるつもりも無く、彼女に小さく頷いた。
 「幽々子が信じてくれているのは分っているから」と、胸の中でメッセージを送る。
 そしてその他の面々についても、紫はそれを責める気持ちには一切なれなかった。
 そう。彼女達も皆、その両の腕の中に沢山の〝大切な人々〟を抱え、そこに自らの居場所を見出だし、それを守らんとしている者達なのだ。紫とて――立場さえ違えば――永琳の言うことに大いに胸を熱くしたことだろう。紫にも、その背後に控える藍を始め、その式である橙。名前を挙げれば限りが無いほどに、沢山の守らなければならない人達がいた。
(だけど……!)
 紫は密かに、両の手を強く握り締めた。
 紫にとってはこの幻想郷もまた、そういった守らなければならないものの一つだった。
い や、この幻想郷こそ、その筆頭候補と言っても良い。だからこそ、こうして彼女達を招集し、話し合いに努めているのではないか! 永琳がその気持ちの代弁者となるのならば、彼女は自分のこの気持ちをも汲み取ってくれなければ、それは不公平ではないか!
 紫は無意識の内に、鋭い視線を永琳に投げ掛けていた。敵意と捉えられたかも知れないが、しかしそれでも、この感情を平然と抑えていられて、何が幻想郷の管理者かと紫は思った。
 すると永琳は、やんわりとその紫の視線を受け流して、
「だから、紫? 自分達の大切な人々を守りたい我々と、貴女。双方の意見が叶えられるように、私達にそれぞれ幾つかの条件を付けさせてもらえないかしら? 貴女がその条件を呑んでくれるなら、私は幻想郷の外へでも、どこへでも行きましょう」
 その提案に、結局、やはりそうなるのか、と紫は思った。
 とりわけ永遠亭の彼女達が両手放しで自分の提案に賛成などしてくれないことは、紫自身、この場を取り持つ前から薄々予想が付いていた。
 紫は表情を変えずに答えた。
「聞かせて頂戴。貴女の条件というのを」
 すると永琳は少し考える素振りを見せてから、
「まず一つ。我々永遠亭を、一番最初に外の世界に連れて行くこと」
 最初に挙げられたそれは、まさに紫が事前に考えていた通りの条件だった。その意図は間違いなく、順番を最後に回されてしまっては、そのまま外の世界に放置されてしまうのではないかというリスクを鑑みてのものだろう。
 そもそも、こちらにそんな思惑はないのだから、これを断る理由は無い。
 紫は頷き、永琳は続けた。
「二つ目。我々が必ず帰還を遂げる保証そして、博麗霊夢を私達に同行させること」
 つまりは人質か。紫はこれにも、首を縦に振った。
 人質ということは暗に、こちらが何もしなければその身の安全は保証されているのも同前だ。
 霊夢本人には申し訳無いが、今は作戦の決行を最優先したい紫にとっては、それを断る選択肢はなかった。
「そして最後。その霊夢に、蓬莱の薬を飲ませること」
「……なんですって?」
 しかし永琳の口から事も無げに放たれた、そのあまりの発言の内容に、紫は思わず彼女に聞き返した。それは思いも掛けない言葉だった。
 霊夢に蓬莱の薬?
 彼女を不老不死にして、どうするつもりなのか。
 ここに来て初めて当惑顔を浮べた紫に、永琳はあくまで落ち着いた口調で、
「もし仮に、貴女が我々を外の世界に追放するようなことがあれば、霊夢の存在は只の人質ではなくなるわ。彼女はその後、我々が幻想郷に帰郷を果すために行う一切の行為の、その正当性を認める保証人であり、『全ては博麗の巫女を幻想郷に還すため』という大義名分そのものでもある。その彼女に、たかだか一〇〇年程で天寿を全うしてもらっては困るのよ」
 その説明を受けてようやく、紫は理解した。確かにそれなら、彼女が霊夢に蓬莱の薬を飲ませる必要性があるのも分る。
 このアップデート作戦によって、飛躍的な補完強化が予測される博麗大結界。それを打ち崩すのは、永琳にとっても簡単なことではないだろう。場合によっては、それには途方もない年月が費やされることが予想される。だと言うのに、その作業の最中に霊夢に先立たれてしまっては、その後の行為は単なる侵略戦争と同じ様相を呈することになる。
 本当の故郷である月を追われ、他に帰る場所など存在しない彼女達にとって、それがどれほどの執着に値する問題なのかは紫にも想像するに難くなかった。
 例えそのために、どんな非道な方法を執ることになろうとも。
 いや、寧ろそこまでしなければ安心できないほど、自分は信用ならないということか……。
 瞑目するように考え込んだ紫に、永琳が付足すように言った。
「だけど当然のことながら、私達がここに戻ってきた時点で、霊夢に飲ませた蓬莱の薬は完全に解毒するわ」
 そして言い終えると、今度は紫の返答を待つように、彼女の顔をジッと見つめる永琳。
 紫は熟考した。
 八意永琳、延いては永遠亭の協力なしには、この一連の作戦の成功は有り得ない。仮に、この場で彼女達を捨て置くような形で、他勢力との連帯だけで作戦を強行したとしても、その決断は月の民と自分達地上の妖怪との溝を一層深くすることだろう。紫はその結果だけは何としても避けたかった。
 過去の月面戦争のことを引き合いに出した永琳が、自分の行動に不信感を抱いていることは明らかだ。それを承知した上で、その疑念を確信に変える必要が一体どこにあるだろうか?
 これが、相手がただの古参の妖怪だと言うのなら話は別だ。圧倒的な物量で押し潰し、口を塞がせることなど造作も無い。しかし彼女達は永遠を生き、妖怪や神を遙かに凌ぐ力をもった蓬莱人なのだ。これから先も、恐らく悠久の時を隣り合って生きていく彼女達を、本当の意味で敵に回すような真似は出来ない。
 以後数百年、数千年と自身の敵を内包したまま、幻想郷を安泰に導くなど道理から逸脱している。
 それは幻想郷の管理者、妖怪の賢者として、幻想郷の未来のためにこの話し合いの場を設けた自分の考えに大きく離反していた。
 そして更に、紫には気掛りな点がもう一つだけあった。
 それは永琳の言葉の中に、大きな矛盾を孕んでいる部分が存在しているということ。
 彼女は、彼女の立場なら絶対に言えるはずのない言葉を口にしているのだ。
 八意永琳ほどの知恵者が、そんな単純な過ちを犯すとは紫にはどうしても思えなかった。
 彼女は間違いなく、何らかの意図を以てこの条件を提示している。
 それが企みなのか、何なのかは判別出来ないが、彼女は自分にこの疑問を抱かせることによって、何かに気付いてもらおうとしている。
 そしてそこから、何らかのアクションを自分に起こしてもらうことを求めている。
 長考の末、紫は長々と息を吐いた。
 歩の悪い賭けかもしれないが、今は彼女の言う通りにするのが無難だろう。
 確信こそはなかったが、紫はこの時、不思議と目の前の永琳に対して、本来感じるべき猜疑心を覚えることはなかった。
「…………分ったわ。貴女の条件を飲みましょう」
「ちょっとちょっと!」
 紫が言うと、それまで黙り込んでいた他の者達の中から、静寂を破って天子が声を上げた。
「コイツらだけ条件付きなんて許さないわ! それなら私も条件を挙げさせて貰うわよ!」
 すると天子の他にも次々と、同様の意見が飛び出した。当然だ。どこかの勢力だけ特別扱いすることなど許されないだろう。
 紫は彼女達にも頷き返し、重々しくも確かな口調で、
「良いわ。私はそれぞれが矛盾し合わない限り、全ての条件を受け入れましょう」
「紫様!」
 と、透かさず紫の背後から、藍が驚いた様子でその場に割り込んできた。
 彼女は紫の前に進み出て、慌ただしい所作で一礼すると、紫を宥めるような口調で進言した。まるで、自らの主がすっかり乱心したかのような態度だ。
「紫様、それはいくら何でも無茶というものです! 貴女様がそこまでなさらずとも――!」
 しかし、紫は話し途中の藍の口をやんわりと人差し指で塞いだ。驚きに目を見開いたまま、藍は沈黙する。
「……これで良いのよ、藍」
 紫は藍を落ち着けるように、湖の水面のような静かな声色で言った。
 恐らく彼女なら、ここで自分がたった一言添えるだけで、他勢力との弾幕勝負に打って出ることすらも厭わないだろう。
 しかし、彼女がそこまでする必要はない。自分とて、決して取り乱している分けでもない。
 全ては、きっとこれで良いのだ。
 例えこの決断によって、この先如何なる事態が自分を待ち構えていようとも、それは永遠とも呼べる歳月を超えてようやく訪れた、自分にとっての年貢の納め時なのだろう。そう紫は思った。
「全ては、幻想郷のためなのだから」
 まるで自分に言い聞かせるように、敢えてそう口にした紫。
 そのためなら、どんな犠牲も彼女には苦ではなかった。
 しかし、かと言って永琳に言われるままに、霊夢を人柱にするつもりも毛頭無い。
 紫はちらと永琳の顔を油断無く一瞥し、そしてそっと、藍の口元に当てた指を放した。藍の瞳は不安の色を露にしていたものの、彼女は心得た様子でそれ以上何も言うことは無かった。
(流石ね、藍)
 紫は心中で藍を労った。
「さぁ、下がっていなさい藍。皆の話が聞けないわ」
 紫は藍の肩に手を乗せて彼女を下げさせると、自分を取り囲む全員に一歩踏み出した。



「妖怪の賢者さん?」
 空虚な闇の中に、凜と澄んだ女性の声が木霊した。
 そこは世界と世界の狭間。有象無象が入り乱れ、不定型な概念が、粘性を帯びた泥のように辺りに混濁している空間。
 そこに一人で立尽していた紫は、その女性の声に意識を集中させた。
 この無機質な概念のみが混在する世界に、知覚による〝方向〟など存在しない。
 そこに存在するのは〝数式〟の群像。
 いや、もっと複雑な〝何か〟。
 一人の魔法使いが、森羅万象を司る全ての魔法を呪文によって構築するのと同じ。
 外の世界の科学者が、目には見えぬエネルギーを数式に変換するのと同じ。
 紫はこの創世の泥の中から、自らの理解の及ぶ概念のみを掬い上げ、それらを組合せ、織り成し、そこに一つ一つの〝事象〟を創り上げていく。
 神の御技というものがあるのなら、紫の行っているそれは、創造主のまさにそれだった。
 無秩序に秩序を与え、混沌に分別を付けていく。
 かつて異国の神は、『光あれ』という言の葉を以てして、天地創造を成したとか。
 ならばと、紫は全てを数とその組合せのみでそれを模倣した。
 01010101……。
 この程度の数遊び、外の世界の人間にすら可能な戯れだ。
 僅かに目を細めた紫。
 そして瞬く間に、漆黒の天蓋は星屑の鏤められた夜空に。
 距離感の全く掴めなかった常闇の空間は、遙か彼方に水平線が伸びる、広大な湖となった。
 紫が立っているのはその湖の水面。音も無く佇むその姿は、鏡のように全反射する水面にそって対を成し、まるでそこに対称的な二人の女性が立ち尽しているかのような錯覚を覚える。
 爽やかな冷気を帯びた風が彼女の背後から前へと吹き抜け、天上から射し込む満月の光に照らされたそのブロンドの髪を揺らした。
「妖怪の賢者さん?」
 そして改めて聞えた女性の声は、紫のすぐ傍らから。
「やっぱり来たわね」
 紫は落ち着いた声で言うと、自分のすぐ側にいた女性に振り返った。
 足元の水面に届きそうなほどに長い、丁寧に結われた三つ編みの銀髪。
 濃紺のナースキャップを被り、赤と紺のシンメトリーが印象的な衣装に身を包むその女性は、つい数刻前まで紫と白玉楼の大広間で論争を交わしていた八意永琳その人だった。
「お待たせしちゃったかしら?」
 そう答えた永琳は、高い知性と美貌とを兼ね揃えた静かな瞳で紫を見つめ返した。
 その彼女の表情を窺いながら、紫は僅かに息を飲んだ。
 これこそが、〝月の頭脳〟と称される女の本性か。
 八意永琳という人物は、太古より月や月の女神を表す単語――ラテン語の『ルナ(luna)』、『ディーアーナ(Dīāna)』、古代ギリシア語の『セレーネ(selene)』など――のもつ清楚で女性的な響きを、まさに具現化したような魅力をもった人物だった。今のような状況では、その美しさがより強調されているように思える。
 その、淡い月光に映える立ち様は、まるでそれが一枚の絵画のような、神聖で神秘的で危険な香りを醸し出していた。
 しかし紫はそんな感想などおくびにも出さずに、
「いえ。私もさっき来たところよ」
 と短く答えた。そして続けて、
「それで、どういうつもりなの? 他の皆の前で、あんな見え透いた〝冗談〟を嚼ましておいて」
 紫は睨むような目付きで永琳を見据えた。昼間の白玉楼の大広間で、彼女が発した言葉の真意を、紫は早く知りたかった。
 すると永琳は急に真剣な顔になって答えた。
「それに答える前に、私から貴女に一つ質問をさせて」
 〝答える前に〟という事は、ちゃんと答えてくれるつもりはあるらしい。
 紫はその部分で自分を納得させると、小さく頷いた。
「一年前の、弥生の満月の晩のこと。妖怪達に人里の人間を嗾けさせたのは貴女なの?」
「去年の満月の晩? ああ……」
 一年前の弥生の満月の晩。その夜の出来事は、確かに紫も聞き及んでいた。しかし彼女がその事件を知ったのはマヨヒガでのことであり、当然、彼女はそこに何の関与もしてはいなかった。
 紫は首を振って、
「残念だけど、主犯は私ではないわ」
 すると永琳は、どこか安堵したような表情を見せた。
 それが彼女の、どういう心境の顕れなのかは紫には計り兼ねたが、紫は敢えて尋ねようとはしなかった。
「かなり酷い惨状だったそうね」
「ええ、たくさん死んだわ。人間も妖怪も」
 当時の状況を思い出したのか、落とすように言った永琳。彼女の頭脳を以てすれば、再びその現場の様子を疑似体験するような、高度な回想が可能だろう。もしかすれば、彼女の意識は今、阿鼻叫喚の坩堝の中に立っているのかもしれない。
 しかし、今はセンチメンタルに浸っているような場合ではない。
 紫は改めて永琳に訊いた。
「それじゃあ、次は私の質問にも答えて頂戴」
「それは、こんな私にも守るべき人がいると言った時、私を睨む貴女の目が本気だったから」
「……どういうこと?」
 要領を得ない声で紫が訪ねると、永琳は徐に空を見上げた。
 彼女の視線の先にあるには、現実の月を模して再現された虚構の満月。
 その眩い光を受けながら微笑を浮べた永琳の表情は、まさに月の女神のようだった。
「ねぇ、紫。博麗霊夢は幸せかしら?」
 しかしその口元から紡がれた言葉は、余りにも残酷で――。
「もしも彼女が、もう一度だけ生まれ変わることが出来るとしたら。あの娘は、また博麗の巫女になりたいと言うかしら――?」
 そして永琳は、自らの思惑を語り始めた。



   ―― 第二章 ――



 何やら外が騒がしい。
 博麗神社の巫女――博麗霊夢は、部屋の外から聞えてくる物音に気が付いて目を覚ました。
「う~ん……」
 そこは神社の中でも、彼女の居住スペースとなっている拝殿の奥の一室。霊夢はその真ん中に敷かれた布団に包まり、枕に顔を埋めたまま不機嫌そうに唸った。そして首を回して声のした方向を寝惚け眼で睨みながら、静かに耳を澄ませる。
 早春の朝の日差しを受けて白く輝く、居間と縁側を分かつ障子の向こう。その先に広がる裏庭を回ったとこにある境内の賽銭箱付近で、霊夢は多数の人々の話し声と、その足音がするのに気付いた。
 たちまち、未だ微睡みの中にあった霊夢の意識が、徐々に硬化し始めた。
 日頃から参拝者の来訪を待ち侘びて、鍛えに鍛え抜かれた聴覚は伊達では無い。
 数にしてざっと数十人。どこか楽しげで賑やかな声の中に、時折自分の名前を呼ぶ声が入交じっているのを霊夢は聞き逃さなかった。
 またどこぞの妖怪の一団が、暇を潰しにでもやって来たのだろうか?
 霊夢はあからさまに顔を顰めた。
 周囲からは〝貧乏巫女〟などと揶揄される自分の元へ、こんな早朝から茶を集りに来るなど厚顔無恥もいいところだ。
 霊夢はここでよく屯する面々の顔を思い浮べて、うんざりした気分になった。
 ボーイッシュな口調がジゴロ的才能を匂わせる、自称普通の魔法使いにして、自らも道具屋を営む商家の娘。
 かつて〝山の四天王〟として名を馳せ、妖怪の山ではその圧倒的な実力の前に多くの妖怪を配下として従わせていた、双角の鬼。
 幻想郷の統治者と謳われ、〝妖怪の賢者〟の二つ名で知られる、境界を操る大妖怪。
 皆一様に高い実力と、――衣食住に困らないという点において――高い生活水準を兼ね揃えている輩ばかりだ。
 そんな、エンゲル係数など気にも留めたことの無いような彼女達が、いけしゃあしゃあとした態度で自分からお茶を、そして御茶請けを掻っ攫っていくなど言語道断。
 今日こそは、お茶っ葉の一摘みも奴等にくれてやるものか。
 霊夢は居留守を使うことを決め込んで、しかしふと、思い留まった。
 何かが、いつもと違う。
 霊夢はこれまで幾度となく繰り返してきた彼女達とのやり取りを思い浮べて、疑問を覚えた。
 そうだ。いつもなら、そんな招かねざる客人達は、自分がどこで何をしていようが問答無用でここに押し入って来るのが通例だった。
 魔法使いは、彼女の持つ空飛ぶ箒で神社の縁側に直接乗り付けて来るし、鬼は神社の真正面から堂々とやって来る。境界の妖怪に至っては、次の瞬間には然も当然のように隣りに座っていたりと、実にやりたい放題だ。
 しかし今の状況は、そのどれとも違っていた。
 人々の声は境内の方向から一向に動こうとしないし、それがまるで、自分の登場を待っているかのようにすら思える。
(これはまさか……!)
 霊夢は自然と荒くなる呼吸を抑えて、極力冷静に考えた。
 ここは神社で、自分は巫女。
 境内には人々が詰め掛けていて、自分が来るのを待っている。
 それらが示す答えは、一つしか浮ばなかった。
(……まさか本当に……参拝客……!?)
 思わず、霊夢は口から心臓が飛び出しそうになった。
 これまで解決した異変は数知れず。しかし、その活躍が人々にもて囃されることはなく、切り詰めに切り詰めた生活は赤貧洗うが如し。やがて守矢神社や命蓮寺までもが対当し、これまでずっと自分は辛酸を舐め続けてきたのだ。
 それが、ようやく報われる日が来た!
 霊夢は汗ばんだ手の平を、喜びに握り締めた。
 人々が、この博麗神社に集い、自分を待っている!
 この博麗霊夢を! この楽園の素敵な巫女を!
 だとしたら、こうしてはいられない。
 霊夢は布団から飛起きると、慌てた様子で部屋の中を駆け回りながら乱雑に寝巻きを脱ぎ捨てた。そして慣れた動作でいつもの巫女服に袖を通す。
 いつもならゆっくり時間を掛けて摂る朝食も、今回ばかりは後回しだ。霊夢は足早に洗面台に向かうと、歯磨きと洗顔を先に済ませた。
 そして再び居間に戻っていた霊夢は、あっと言う間に布団を畳んで居間の隅にやると、次に部屋の脇に移されていた卓袱台をそこに戻す。それからその上に小さな鏡を置いて、身嗜みのチェックに入った。
 幸い、思い掛けず押し寄せてきた幸福のビッグウェーブを前に、すっかり眠気は覚めていた。表情を見る限りでは、それがまさか寝起きの顔だとは気付かれることはないだろう。
 活力の充ち満ちた深い夜色の瞳に、奇跡的に寝癖の一つも無い、烏の濡れ羽色の長髪。
 霊夢はそれを赤のリボンでポニーテールに結わえると、両手で自らの頬を張って気合を入れた。
「今までの分、お賽銭ガッポリ貰うわよ……!」
 それは神職に就く者としてあるまじき台詞にも思えたが、霊夢の心中には微塵の後ろめたさも無かった。
 全ては命あっての物種なのだ。死人に口無し。死者は土塊に還るのみ。もし死者が心仏に仕え、功徳を積むことが出来るなら、ヤマザナドゥは生者にお説教などして回らずに、幻想郷に血の雨を降らせたことだろう。
 何事も、まず今日という日を生き延びねばならぬ。そのためには、お賽銭が必要なのだ。
 霊夢はもう一度小さく意気込むと、立ち上がって部屋を後にした。
 しかし霊夢はこの時、まさか自分が数時間後には、不老不死を約束される身になるとは考えもしなかった。



 かつての春雪異変の思い出もどこへやら。
 今年も無事に春を迎えた博麗神社の境内は、そこを取り囲むように群生する桜によって淡い桃色に見事に彩られていた。
 早朝ということもあって風はまだ少し冷たいものの、風が運ぶ花の香り、春の匂いはまさに本物だ。
 霊夢が拝殿の奥から意気揚揚と姿を現すと、境内の中で小さな歓声が上がった。
 それは霊夢が今までに感じたことの無いほどの、心地好い響きだった。
 彼女は諸手を上げてその歓声に応え、そしてそこに居合せた人々と、境内の様子を見て口をあんぐりと開けた。
 そこで彼女が目の当たりにした光景は、それまで彼女が想像していた、人々の参拝の様子とは大きく異なっていた。
 まず彼女の目に飛び込んできたのは、神社の鳥居に掛けられた巨大な横断幕だ。
 そこには達筆な文字で、こう認められていた。
 『いってらっしゃい霊夢! 御土産を忘れないでね!』。
 まず、意味が分らない。
 いってらっしゃい?
 御土産?
 たった二言で構成された短い文章の、その意味すらも霊夢には理解できなかった。
 そしてそこに集まっている面々の様子も妙だ。
 霊夢は当初、拝殿(賽銭箱)から参堂に掛けて伸びる、参拝客の長い列を想像していた。
 しかし今、彼女の目の前にいる面々は列など成していない。そもそも、そこに居たのは皆彼女の良く見知った人妖達ばかりで、それぞれが思い思いの場所に立って自分に惜しみ無い拍手を送っている。
(なによこれ……)
「おーっと!」
 愕然とする霊夢にしかし、彼女の思考は賽銭箱の前に立っていた霧雨魔理沙の声によって掻き消された。
「やっと主役の登場だぁ! 皆、飲み物は回ったか? ほらほらアリス。霊夢にも猪口を回してやれよ!」
 楽しそうに指示を飛ばす魔理沙。霊夢が返す言葉も見当らずに口をパクパクしていると、彼女の指示を受けたアリス・マーガトロイドが群衆の中から歩いてきて、酒の注がれた小さな猪口を渡してきた。
「ほら、貴女の分」
「ちょっと、これって……」
 〝何なの?〟と訊く前に、アリスはそそくさと元居た場所に引き返してしまった。
「よし! それじゃあ乾杯だぁ!」
 言いながら、魔理沙が手に持っていた猪口を掲げて見せた。すると彼女の前にいた面々が、「おお-!」とそれに応える。皆、それぞれ片手に猪口や杯、ワイングラスなどを手にしていた。
「それじゃあ、かんぱー……」
「待ちなさい!」
 と、ようやく霊夢は魔理沙の音頭を遮って叫んだ。
 その場にいた全員が動きを止め、訝しげな顔でこちらを見つめてくる。
「アンタ達! 人の神社で何してるのよ!」
「何って、壮行式に決ってるだろ?」
 霊夢の問いに魔理沙が答えた。
「明日には外の世界に旅立つお前への、これが私達からの餞だぜ!」
「は!?」
 得意げに頬を掻いた魔理沙に、霊夢は素っ頓狂な声を上げた。
「ちょ!? 待っ!? 何で私が外の世界に!?」
 目を白黒させる霊夢。
 その様子を不審そうに眺める白黒魔法使い。
「おいおい。まさか知らなかったのか?」
「だから何をよ!」
「こりゃマジだな……」
 牙を剥くように霊夢が返すと、魔理沙は呆れたように、そしてどこかバツが悪そうに頬を掻いた。
「おい天狗! お前の号外見せてやれよ!」
 そして魔理沙は霊夢から視線を外し、境内の脇に生えていた一本の桜の樹の頂辺に顔を向けた。
 霊夢がそれを目で追うと、そこには烏天狗の射名丸文が、樹の幹に背中を預けるような格好で枝に腰掛けていた。
 彼女は魔理沙の呼び掛けに「了解です!」と元気良く答えると、枝の上に立ち上がって跳躍。軽やかに身を捻りながら霊夢のすぐ側に着地した。
 翻った丈の短いスカートの下には、ドロワーズをしっかり着用しているので何の問題も無い。
「これが昨日配られた号外です。しかし妙ですね。確かに博麗神社の縁側にも、一部置いておいたはず――」
「貸して!」
 文が台詞を言い終える前に、霊夢は自分の猪口を文に強引に手渡すと、彼女が懐から取り出した紙片を逆に奪い取った。
 そしてそこに書かれている内容を、まるで食らい付くように黙読する。
 曰く――。
 『妖怪の賢者こと八雲紫は、博麗大結界の大規模なアップデート作戦を提唱。これにより幻想郷の各勢力は順番に、一時的に外の世界へ滞在することとなった。
 しかし、永遠亭の薬師である八意永琳女医がこれに反発。この作戦への協力条件として、下記の内容が八雲紫に提示された。
 ・永遠亭を、外の世界へ送る最初の勢力とすること
 ・博麗の巫女、博麗霊夢の同行
 ・博麗霊夢に蓬莱の薬を投与すること
 尚、博麗霊夢の投与される蓬莱の薬は、彼女の帰還と同時に即座に解毒されるとも永琳女医は語った。
 またこれを受け、他勢力も八雲紫にそれぞれ条件を提示。
 彼女は今後、作戦の遂行と、これらの条件の解決と言う厳しい難問を突付けられることになった。隙間妖怪の今後の舵取りには大いに注目したい。』
「ざっけんじゃないわよっ!」
 読み終えるなり、霊夢は号外をグシャグシャにして叫んだ。
「あんの痴呆老人! 私の意見も聞かずに勝手なことを……!」
 そして最早ただの紙屑となったそれを、力任せに地面に叩き付ける。途端に、目の前の文が肩をビクリと震わせたが、霊夢は気にも留めなかった。
「今すぐ永琳の所に行って、条件を撤回させてやるわ!」
「あの……霊夢さん……多分もう遅いかと……」
 地面を転がる〝元〟号外を拾い上げながら、おずおずとした様子で言った文。
 霊夢は彼女を睨み付けた。
「何でよ!」
「…………後ろを」
「は?」
 聞き返して、霊夢は気付いた。文が顔を青くしていることを。
(まさか……)
 途端に、何とも嫌な悪寒が霊夢の背筋を走り抜けていった。
「……痴呆……何……?」
 それまでしなかったはずの人物の声が、すぐ耳元でした。
 吐息が頬に掛るほど距離で、熱線のような眼光が自分の全身を、上から下まで撫で回していくのを霊夢は感じた。
「…………何なの……?」
 静かな殺気を孕んだ声。
 霊夢は前方を向いたまま、表情を引き攣らせた。
 彼女の目の前では、つい先程まで和気靄々としていた面々が、顔面蒼白でこちらを見ながら、凍り付いたよう硬直している。
 自分の後ろに〝それ〟がいる……!
 霊夢は未だ感じたことの無い、未曽有の恐怖に声を震わせながら、
「……び……美少……」
 そして振り返ろうとした直後、彼女の視界は瞬く間に暗転した。



「……わーお……」
 八雲紫が繋げた〝スキマ〟と通して、永遠亭の処置室に現れた霊夢の姿を見て、鈴仙は生気の無い声を漏らした。
 確かに、今日は八雲紫から霊夢に〝処置〟を施すように依頼されていた日だが、まさかこういう形で霊夢を処置室に迎えることになるとは思ってもみなかった。
 唖然とした様子の鈴仙。
 その視線は、処置室の床にも、そこに据えられたベッドにも向けられていない。
 その目線は、〝宙を泳いでいる〟。
 それもそのはずで、今の霊夢は天井に出現した〝スキマ〟から伸びる、赤いロープによって上から吊り下げられていた。
 それも見事な亀甲縛りで、背中を反らせて膝を折り曲げ、海老反るような姿勢。おまけに、ご丁寧にも猿ぐつわまで噛まされている。
 鈴仙の隣りにいた永琳は、それを見て、
「ベッドじゃなくて、三角木馬の方が良かったかしら?」
 と真顔で呟いた。
「やめて下さい師匠」
「だってこういうの、何て言ったかしら? 鴨が葱を……」
「だから止めてください」
「んー! ん-!」
 只ならぬ永琳の発言に、霊夢が声を上げる。しかし彼女が身動きをとると、その身体を吊るロープがギシギシと音を立てて揺れ、その表情が苦悶に歪んだ。どうやらロープの締め付けが、振動によって更にキツくなったらしい。
 顔を歪めた霊夢の、猿ぐつわによって閉じることもままならない口から唾液が零れて、それが糸を引いて床に落ちた。
「駄目、堪らないわ! せめて蝋燭を用意して頂戴!」
「んーーーーーーー!!!」
「師匠、遊ばないで下さい」
「何の声? って、おわ!?」
 と、霊夢の声に気が付いて処置室に入ってきたてゐが、その姿を見るなり驚いて数歩後退った。しかしすぐに彼女は顔を綻ばせて、
「三角木馬だね!」
「急ぎなさいてゐ! ドーパミン量を測定しながら〝開発〟を……」
「だから師匠やめてあげて下さい! てゐも悪乗りするな!」
「んーーーーーーーーーーーーーーー!!!」
 霊夢のその悲痛な叫びは、それから暫く続いた。



 その後、改めて霊夢をベッドに縛り付けた鈴仙とてゐは、永琳の指示で処置室を辞していた。
 仕方なく二人は永遠亭の庭先から処置室の窓の方へと回り、その木製の格子の間から中の様子を眺めていた。
 中ではベッドの上に横たわって、グルグル巻きのロープから何とか抜け出そうとする霊夢と、その脇で注射器を準備し始める永琳。そしてその二人の間で、鈴仙に用意された椅子に腰掛ける紫の姿があった。
 それぞれ口々に何かを話しているようだが、恐らく何らかの結界が張られているのだろう。その声を聞き取ることは出来なかった。
 尤も、外から様子を見る限りでは永琳も紫も穏やかな表情を浮かべており、一触即発といった雰囲気ではない。
 ただ一人、霊夢だけが顔を真っ赤にして何かを捲し立てているようだが、二人は取り合ってはいないようだった。
 鈴仙が室内の様子を真剣に注視していると、彼女の隣りで背伸びをしながら、何とか格子に手を掛けて中を覗いていたてゐが話し掛けてきた。
「ちょっと鈴仙。何をそんなにマジになってんのさ?」
「そんなの決ってるじゃない」
 鈴仙は、処置室の中の永琳の所作から目を離すこと無く答えた。
「これから霊夢に何を打つと思ってるの? あの蓬莱の薬よ? これでも薬師の見習いなんだし、興味をそそられて当然じゃない」
 鈴仙は言いながら、未だにこの目で見たことの無い蓬莱の薬が、一体どんなものなのだろうかと想像を膨らませた。
 色は何色なのだろうか?
 どんな匂いがするのだろうか?
 紫外線を受けて大丈夫なのだろうか?
 ちょっとした刺撃で爆発したりするのだろうか?
 揮発性は? 粘性は? 可燃性は? 水溶性は?
 服用した人間に不老不死を約束する、八意永琳の傑作。それをこの目で見られるまたとないチャンスに、鈴仙の心は踊っていた。
 しかし途端に、てゐが心底呆れたような声色で、
「あのさぁ鈴仙。まさか本当に、お師匠様が蓬莱の薬を使うと思ってるの?」
「は?」
 聞き捨てならないてゐの言葉に、鈴仙は彼女に向き直って聞き返した。
 するとてゐは長々と溜め息を吐いて、
「少し考えれば分ることじゃん」
「どういうことよ?」
 鈴仙が語気を強めると、てゐは人差し指をピンと立てて言った。
「お師匠様は私達が外の世界からこっちに戻って来られた時点で、霊夢に飲ませた蓬莱の薬を解毒すると八雲紫に約束してる。それはつまり、お師匠様は蓬莱の薬の解毒薬を作るということ。だけどそんなことが有り得ると思ってる? お師匠様は自らの手で、蓬莱人にとっての猛毒を作ることになるんだよ?」
 てゐに促されて、鈴仙はハッとした。
「そっか! もし師匠が本当に八雲紫を敵視してるなら、そんな約束は絶対にしないはずなのね!」
 それは、確かにてゐの言う通りだ。鈴仙は目を瞬かせた。
 自身も紛れもない蓬莱人である永琳が、その蓬莱人を貶める薬を作るはずがない。少なくとも、それを悪用することが火を見るよりも明らかな人物を目の前にしては。
「そうそう」
 てゐはコクコクと何度も頷きながら、
「もしその解毒薬を紫に盗まれたら? 製造方法が余所に漏れたら? それこそ一大事じゃないか。それによって命に限りのある、殺せる月人になってしまったら、外の世界に追放されるよりもまだタチが悪いよ。何より、お師匠様は姫を危険に晒すような決断は絶対にしない」
 成る程、と鈴仙は顎に手を当てて考え込んだ。
 もしも蓬莱の薬の解毒薬が生み出されれば、あらゆる事態が考えられる。それは単に、永琳と輝夜の二人に命の危険が迫るというだけの話ではない。
 その存在が知れ渡れば、周囲はどう動くだろうか。
 月夜見は? 綿月姉妹は?
 藤原妹紅は? あるいは上白沢慧音は?
 間違いなく、今まで通りの生活を送ることは出来なくなるだろう。
 輝夜姫がこの地上で望んだ永遠は、音を立てて崩れる。
 しかし、それらを踏まえて尚、鈴仙には腑に落ちない事柄が一点だけあった。
 それはまさに今、彼女の目の前で繰り広げられているこの現実。
「でも、じゃあ一体なんなのよ、〝これは〟」
 鈴仙は再び視線を処置室の中に引き戻した。
 中では永琳が、何やら透明な液体で注射器を満たしている。その様子を紫が黙って静観し、霊夢が緊張に顔を強張らせる。
(こんなのおかしいじゃない……)
 鈴仙は不安と動揺の入り交じった声で言った。
「てゐの言うことが正しいなら、師匠は勿論、八雲紫だってあの注射器の中身が蓬莱の薬なんかじゃないことくらい既に見抜いてるはず。それなのに何故、〝こんなこと〟してるのよ。二人とも、これがただの出来レースだと分っているのに」
 これではあまりにも滑稽ではないか、と鈴仙は思った。
 タネの知られた手品を、ステージ上で披露し続けることに意味があるのか?
 結末の読まれた演劇に、最後まで付き合う必要があるのか?
 しかし、その鈴仙の疑問に答えたのは、例によっててゐだった。
 彼女は注射器を片手に迫り来る永琳に対して、ジタバタと踠いて最後の抵抗を見せる霊夢を顎で指しながら言った。
「でも、どうやらこの中で一人だけ、霊夢だけはあれが本物の蓬莱の薬だと信じてる」
「つまりこれは、全て霊夢の為にやってるってこと?」
「多分ね。そうでなきゃ、紫が協力なんてするもんかい」
 てゐが答える間に、永琳が霊夢の傍らに片膝を突いて何かを言った。
 霊夢は何度も首を横に振ったが、永琳は構わず、ロープの間から覗いた彼女の二の腕に針を刺して、そのまま注射器の中身を注入していった。
 たちまち霊夢が何かを叫んだようだったが、その声が外に漏れることは無く、そして永琳が腕から針を抜く頃には、彼女は深い眠りにつくように、静かにその瞼を閉じていた。
 その霊夢の寝顔を暫し見届けてから、それまで傍観に徹していた紫が永琳に何らかを言った。永琳がそれに頷くと、紫は更に一言だけ言葉を告げて、そしてそのまま〝スキマ〟を開いてその奥に消えていった。
「優曇華」
 と、昏睡した霊夢の首筋から脈をとり始めた永琳が、急にこちらに向き直った。
 どうやら、紫の退出と共に室内の結界は消えたらしい。
「はい、師匠」
 鈴仙が答えると、永琳は立ち上がって、
「母屋の西側の空き部屋に布団を敷いて、霊夢をそこに移して頂戴。明日の夜までは目を覚まさないでしょうから、このまま外の世界に連れて行くわよ」
「分りました」
 鈴仙が答えると、永琳は今度は隣のてゐを見て、
「それと、てゐもちょっとこっちに来て。二人だけで話したいことがあるの」
「ふぇ?」
 間の抜けた声を出したてゐ。それは鈴仙にとっても、思い掛け無い言葉だった。
「私に……?」
「そうよ。優曇華は早く部屋の準備をしてきなさい」
 そして永琳は手招きしててゐを部屋に誘う。
 その話というのが何なのかは鈴仙も気になったものの、それは後でてゐから聞けば良いだろうと考えて、彼女は一先ず母屋の方に向かって駆け出した。



 その日の正午。
 どんなに歩いても地平線に辿り着けないのと同じく、無間地獄のようにすら思えた竹林の切れ間から、ようやく永遠亭の屋敷をその視界に捉えた慧音は心底ホッとして息を吐いた。
 道中、道案内を頼んだ妹紅に置いてきぼりにされ、別れ際に「この方角を真っ直ぐ行けば大丈夫」と言われたものの、果して自分が本当に真っ直ぐ歩けているのか疑心暗鬼に陥りながら歩いた一時間を思えば、安堵の息が漏れるのも当然だった。
「正直、実際の三倍くらいは歩いたような気分だな」
 などと独り言ちて、慧音は永遠亭の古めかしい門を抜けてその敷地に入った。
 そこは四方を白壁の塀で囲われた二町ほどの土地で、中には住居と診療所を兼ねた母屋と、内の数棟が永琳の薬品庫となっている幾つかの蔵などが点在している。いつもは庭中を駆け回る兎の姿が頻りに目に付くこの場所だが、どういう訳か、今日はその一匹の姿も見付けることが出来なかった。
 少々疑問に感じながら、慧音がそこを真っ直ぐ母屋の玄関の方へ向かうと、丁度そこから出てくる人影があった。
(あれは……珍しいな……)
 慧音は目を細めた。
 遠くからでもハッキリと見て取れる白装束に、陽光に照らされて鮮やかな光沢を放つ黄金色の九尾。
 その姿は間違いなく、八雲紫の式――八雲藍その人だった。
 永遠亭の玄関を出てすぐにこちらに気が付いた様子の藍は、その場で小さく会釈をすると、にこやかな表情で慧音の前までやって来た。
「こんな所で会うとは驚いたな」
 気さくに話し掛けてきた藍に、慧音も会釈を返す。彼女の動作に合わせて揺れるそのフサフサの尻尾が、元気よく飛び跳ねる兎に代って、それまですっかり疲労していた慧音の目を楽しませた。
「それはこっちの台詞だよ」
 自然と笑顔になりながら、すぐ目の前まで来た藍を軽く見上げるような格好で慧音は答えた。
 二人が並んで立つと、藍の方が頭一つ分ほど背が高い。
「今日は主人の使いか何かか?」
「ああ。ちょっと明日の打ち合せにね」
「成る程」
 慧音は頷きながら顎を揉んだ。明日の朝、永遠亭の面々が博麗霊夢と共に外の世界に向かうことは、今や幻想郷中の誰もが知るところになっていた。
 しかしその打ち合せのために、わざわざマヨヒガからここまで出向いてきた藍の労を察して慧音は言った。
「だが、君の主人も人使いが荒いな。八意永琳ほどの人物なら、君がわざわざ打ち合せなどしなくとも、多少の問題なら自分で解決できるだろうに」
「〝だからこそ〟だよ、先生」
 しかし藍は笑みをより深くして、開口部の大きく開いた白装束の袖口を合せるように、御馴染みの腕組みポーズになって返した。
「八意永琳ほどの知恵者だからこそ、いざ問題が起きた時に、その解決の方向性は我々と一致させていなくては。八意と八雲、力のある二つの勢力が協力するのなら、その鼻先はしっかりと同じ方向を向いていなくては勿体無いだろう?」
 そして、藍はまじまじと慧音の様子を見据えて、どこか意味深な声色になって続けた。
「でないと、〝一つの目的地に辿り着くのに、随分と苦労させられることになる〟」
 その言葉に、慧音は思わず吹き出した。恐らく、自分の衣服に着いた妹紅の匂いを、藍はその鋭敏な嗅覚で嗅ぎ分けたのだろう。その上で、その妹紅が側に居ないことと、こちらの疲弊した表情から、自分の置かれている状況を読み取ったといったところか。
 慧音は破顔して、
「確かにその通りだな。私も、ついさっきそれを痛感したところだったよ」
「ふふ。教訓にすると良い。〝決して誰もが、自分と同じものを見ているとは限らない〟」
「ああ。そうさせてもらうよ」
 慧音が答えると、藍は得意気に彼女の肩をポンポンと叩いた。
(ん……?)
 だがその叩き方の、どこか肩を掴むような感覚に慧音は違和感を覚えた。
 しかし、すぐに藍は慧音の肩から手を放し、その手を袖口の中に引っ込めてしまった。慧音は彼女の表情を盗み見たが、特に妙な点は見受けられない。
(気のせいか……)
 きっと、疲労感から相手の所作を乱暴に感じてしまっただけなのだろう。
 慧音はそう自己完結させて、疑いの目を向けてしまったお詫びとばかりに藍に言った。
「ではその教訓に倣って、私が里で見てきたことを話そう」
「何かな?」
「今日、里の豆腐屋で安売りをしていたぞ。今から向かえば、君なら売り切れる前に店に着くことが出来るだろう」
「本当か!?」
 途端に、藍の表情が期待感に満ち溢れたものに変わった。あらゆる情報を聞き逃すまいとピンと立ち上がった獣耳に、見開かれた金色の瞳。まるで子供のような食い付きだ。
 どんなに優れた妖獣とはいえ、その点は一匹の妖怪といったところか。
 慧音は内心でほくそ笑んだ。
 強い力を持った妖怪ではあるが、喜怒哀楽の表現が豊かで、精神的な領域に未だに幼稚な部分を色濃く残している。
 普段から子供と接する機会の多い慧音は、妖怪が時折見せる童心とも言うべきそれをとても好いていた。
「本当だとも。さぁ、行った行った。今夜の食卓に美味しい油揚げを並べるチャンスだぞ」
「恩に着る! ありがとう慧音!」
「代りと言っては何だが、また時々寺子屋に来て、子供達に算術を教えてやってくれ」
「勿論だ!」
 言うと、藍は慌ただしく慧音に一礼し、そのまま地面を蹴って蒼天の直中に飛翔していった。
 慧音は少しの間、藍の影を見送ってから、
「やれやれ。本当に憎めない奴だな」
 と呟いて、自分は再び、永遠亭の母屋に向かって歩き出した。



 慧音が永遠亭の玄関の戸を叩くと、返事はすぐに反ってきた。
 それを聞いてから彼女が戸を開けると、玄関のところに永琳が正座して座っていた。恐らく先程までは藍の応対をしていたのだろうが、今の彼女は、まるで自分のことを待っていたかのような様子だった。
 はて、と慧音が頭上に疑問符を浮べるのも束の間、永琳はクスクスと笑って言った。
「話し声が聞こえてたわ」
「そうか。待たせてしまってすまないな」
「良いのよ。時間はいくらでもあるから」
 言いながら、永琳は立ち上がると慧音を家の中へ招き入れた。
「それじゃあ、どうぞ入って。お疲れのようだし、用件は中で聞くわ」
「では、御言葉に甘えてお邪魔させてもらうよ」
 慧音は礼と共に答えると、脱いだ履物をしっかりと揃えてから、永琳の後ろに続いて永遠亭の中に入った。
 相変らず、床に着きそうな程に長い彼女の銀髪の三つ編みは、緩やかに左右に揺れる振子時計のそれを思わせた。慧音はそれを無意識に目で追いながら、妹紅の流れるような長髪も、時には三つ編みに結わえても可愛らしいかも知れないなと思った。
 そして二人は無言のまま板張りの廊下を真っ直ぐに進み、永琳に促される格好で、慧音は最初の衾の部屋に入った。そこは丁度二〇畳ほどの和室で、部屋の中央には質素ながらも年季の入った座卓が一つ鎮座している。開け放たれた部屋の障子の向こうには永遠亭の庭先が広がり、風が運ぶ笹の葉の香りとざわめきが、藺草の匂いと相俟って慧音の心を静かに和ませた。
 先に部屋に入った永琳が座卓の前に腰を下ろしたのを確認してから、慧音はその対面に座った。そして頭にちょこんと乗せていた帽子を取り、自分の脇に置く。
「ここは客間よ。今からお茶を淹れて来るから、ゆっくり寛いでいて頂戴」
「どうぞお構いなく」
 慧音はそう返したものの、永琳はすぐに立ち上がって、微笑を浮べて部屋を辞した。
 その背中を見送ってから、一人残された慧音は一息吐いて、再び視線を外の庭先へと移した。
 そこに自生する、春の陽射しに戯れる草花を見ていると、まるで時間が止っているかのような錯覚を覚える。しかし、やはり今日の永遠亭には兎の姿が見受けられない。
 そういえば、どうして今日は永琳自身がお茶を淹れに行くのだろう?
 慧音は眉を顰めた。
 いつもなら、それは彼女の弟子である鈴仙の仕事なのではないだろうか?
 明日の事もあるし、皆出払ってしまっているのだろうか?
 などと考えを巡らせていると、衾が開いて、手に御盆を抱えた永琳が部屋に戻ってきた。
「お待ち遠様」
 永琳は言うと、一旦床に置いた御盆から湯呑みと御茶請けを座卓の上に丁寧に置き、空になった御盆を拾って慧音の前に座り直した。
「ありがとう」
 出されたお茶には口を付けるのが礼義だ。そうでなくとも、それまでずっと歩き通しだった慧音は出された湯呑みを早速取り、中身を一口啜る。
 途端に、適度に冷まされた緑茶が、渇いていた慧音の喉を潤していく。喉を通った後にほのかに感じる程好い渋みと、鼻から抜ける深い香りから察して、とても良い茶葉を使用しているようだった。慧音はついつい、湯呑みに二口目を付ける。
 大家として知られる稗田家の阿求とは違い、日頃から質素倹約に努めていることもあって、そういった教養は一般的な水準しか持ち合せていない慧音だったが、少なくとも、それがいつも自分が飲んでいるお茶よりもずっと美味しいということはすぐに分った。
 気が付くと、あっという間にお茶を飲み干してしまった慧音を見て、永琳は好意的な笑みを浮かべた。
「おかわりは?」
「すまない。頼む」
 永琳はすぐに二杯目のお茶を淹れて来ると、
「このお茶は姫もお気に入りなの。開店当時から贔屓にしている老舗のお茶屋さんから、店主が三代目に代替わりした今でも、毎年新茶を買い付けているほどなのよ」
「そういえば、もうすぐ八十八夜だな」
「ええ。姫も今から楽しみにされているわ。『今年は雨が少なかったから』なんて、まるで専門家のように言われて」
 斯く言う自身も、楽しそうにころころと笑う永琳。その年ごとに出来映えを変えるお茶は、永遠を生きる蓬莱人には格好の楽しみなのかもしれないな、と慧音は漠然と思った。
「それで? 今日はどういった用件でわざわざ?」
「今日は薬を買い求めに来たんだ」
 慧音は答えると、帽子の下に忍ばせていた紙片を永琳に差し出した。
 それは慧音が用意した薬品や医療器具のリストで、慧音からそのリストを受け取った永琳は、その内容に目を走らせて、途端に顔を曇らせた。
「こんなに沢山? 小さな診療所でも開業できそうな量じゃない」
 永琳の言う通りだった。そのリストに記載された物品の数々は、常備薬だけを見ても、日頃永遠亭から支給される置き薬の数倍の量があった。またその種類も多種多様で、普段馴染みのない名前の薬も挙がっている。慧音自身、――このリストを書いたのが阿求なのだということもあって――その用途に皆目見当も付かないようなものもごまんとあった。
 彼女が疑問に思うのも無理もないだろうな、と慧音は胸中で失笑して、
「ああ。実は今回の〝あっぷでぇと?〟作戦の内容を受けて、里の中で寄り合いの席がもたれてな。有事の際に、私の寺子屋が緊急の避難場所として使われることになったんだ」
「それで、薬品の備蓄を?」
 思慮するような瞳を向けてきた永琳に、慧音は頷いた。
「そうだ。去年のこともあって、里の中では君達や博麗の巫女の不在を危惧する声が多くてな。初歩的な外科手術くらいは我々のみで行えるようにしておきたいんだ」
 慧音が説明すると、永琳は得心した様子で何度も頷きながら、
「話は分ったわ。だけど、避難場所を敷地面積にゆとりのある稗田の邸宅ではなく、貴女の寺子屋にしたのは、やっぱり子供達のため?」
 流石に察しが利くな、と慧音は笑みを零して、
「ああ、その通りだ。里の子供達は皆、自宅から寺子屋までの道程は須く覚えているからな。もしもの時に、大人が引率できないことを考えて、子供達だけでも確実に目指すことの出来る場所の方が避難所としては望ましいそうだ」
「そうね……」
 永琳は短く答えると、暫し顔を伏せた。そして彼女は急に真っ直ぐな眼差しを慧音に向けると、熱の籠もった母性的な声色で言った。
「貴女がこれまで里に尽してきたことが、思わぬ形で皆に認められたわね」
 その、まるでこれまでの自分の行いを称賛するような言葉と眼差しに耐えきれなくなって、慧音は思わず照れ笑いを浮べ、はにかむように言った。
「どうかな? 私の能力があってこそだろう」
「いいえ。全て貴女の努力の賜物よ。人から信頼を勝ち取ることは、決して簡単なことではないわ。子供はその最たるもの。もっと誇らしんでもいいんじゃない?」
 今度は慧音が頬を朱に染めて顔を伏せた。永琳は納得したように頷くと、続けて、
「どうやら、断る理由は何も無いわね。少し時間を頂けるかしら? このリストにあるものは全て揃えてあげるから」
「すまないな。それで、お代は如何程になるかな?」
「そんなものいらないわよ」
 慧音の問掛けにしかし、その場に立ち上がった永琳は、どこか悲しげな笑みで言った。
「私達のことは兎も角、そこに博麗の巫女の同行まで強要したのは全て私の我が儘。その上で、貴女達からお金なんて取れるはずがないでしょう?」
 まるで、自らの罪を釈明するような口振りだ。
 しかし、かと言ってこれだけの数の医薬品を無償で譲ってもらうわけにはいかないし、何より永琳に何の責任が無いことを理解していた慧音は慌てて言った。
「いや、額面のことなら気にしなくてもいいんだ。実は里の中で募金を募って、今日までに相当額が集まっているんだ。だから何の心配もしなくていいんだぞ?」
 しかし永琳は毅然とした態度で首を振って、
「金額の問題じゃないわ。受取れないものは受取れない。寧ろ、それはもっと有効的な使い道に回してみてはどうかしら?」
「有効的な使い道?」
 慧音は怪訝顔をした。
「どういうことだ?」
「そのお金を、人間に友好的な勢力に御布施として寄与するのよ。例えば命蓮寺、守矢神社。そうすれば、里で何かあった時は必ず助けになってくれるはずよ?」
「しかし……」
 尚も言い淀む慧音に、永琳は説き伏せるように言った。
「そうして頂戴? 尤も、もしこの場で貴女にお金を渡されたとしても、すぐに私がそうするつもりなのだけれど」
 どこか頑なな口調。彼女にそこまで言われてしまっては、慧音は自分が折れるしかないことを悟った。
 慧音は小さく息を吐いて、不承不承といった様子で頷いた。
「分った。君の言ったことを里の皆に相談してみるよ」
「ありがとう」
 永琳は笑顔で答えると、そのまま薬の準備の為に部屋を出ようとして不意に立ち止り、衾の前で慧音に振り返って言った。
「そういえば、今日はここまで一人で?」
 その質問に、慧音は「ここまでは妹紅と一緒に……」とまで言いかけて、すぐに言葉を訂正するように言い直した。
「いや、妹紅とは別の用事があるとかで、竹林の中で別れたんだ。だからここの敷居は跨がせていないし、心配は無用だ」
「……そう」
 その、どこか落とすような永琳の声色に、慧音は内心でドキリとした。
 妹紅と輝夜の確執については、慧音も本人から話を聞いて知っていた。
 二人は互いを殺し合う仲。しかしいくら不死身の蓬莱人と言えど、互いに両者を傷付け合う様は慧音にとっても気持ちの良い光景ではない。恐らく、それはいつも輝夜の側にいる永琳も同じだろう。そしてその気持ちが分っているからこそ、慧音は彼女に余計な心配を掛けてしまっただろうかと不安な気持ちになった。
 慧音とて、もしも輝夜が人里や竹林に姿を現せば、どうか妹紅と鉢合せることがないようにと、天に祈るような心境になるだろう。いや、そうならないように、自ずから積極的に働き掛けるに違いない。居ても立ってもいられず、妹紅の無事な顔を見なければ安心できなくなる。その辛さと心苦しさは、慧音もよく心得ていた。
 慧音が覗き込むようか顔で永琳を見ると、彼女はその視線に小さく手を振って、ぎこちない笑みを浮べた。
「いや、そういうことじゃないのよ。ごめんなさい」
「いや、こっちも不注意だった」
 慧音が反省の色を露にすると、永琳は首を振り、その場に立ち込めた暗い空気を払拭するような明るい声になって言った。
「でも、それはつまり、妹紅がその用事を済ませて戻ってこない限り、貴女も帰れないということよね?」
「まぁ、確かにそうなるな」
 迷いの竹林を、道案内なしで、一人で抜け出る自信は慧音にもなかった。
 すると永琳は手を打って、
「じゃあ、彼女を待っている間に、ここで蘭学の基礎的な知識について勉強していったらどうかしら? 丁度、初等手引書も何冊かあるし、私が講師を務めてあげるわ」
「本当か!?」
 その申し出に、慧音は身を乗り出すように、前屈みなって聞き返した。それは願っても無い話だった。
 正直な話、実際に臨床の場で自分にどれだけの医療行為が出来るのかは、慧音自身にとっても大きな不安要素の一つだった。多方面に豊富な知識を持つ阿求や、生傷の絶えない妹紅の助力があれば或いはと考えてはいたが、いざその場に彼女達が居なければ。自分一人では傷の縫合も満足に出来ないことは彼女自身が一番分っていた。
 慧音は顔を綻ばせて、
「そうしてもらえると本当に助かるんだが、良いのか?」
「ええ」
 永琳は頷いて答え、そして振り返りざまに小声で、
「――きっと、すぐには戻って来ないでしょうから」
 その時、一瞬だけ永琳の顔付きに暗い影が射したのを、慧音は喜びの余り見逃してしまった。
「ねぇ、慧音」
「なんだ?」
 部屋からの去り際、永琳は少し寂しげ声で慧音の名前を呼んで、
「……いいえ……何でも無いわ……」
 しかしすぐに彼女は前に向き直って、襖の向こうに消えていった。



 見方によっては、規則的にも不規則にも見える竹林の中を、妹紅は無言で歩いていた。
 道無き道を、乱立する竹の間を縫うようにして進む。太陽の向きから方角を推し量り、歩いた歩数から大凡の距離を算出する。
 慧音と別れてからひたすら西に進んできたが、目的の場所はもうすぐだろうか?
 と、妹紅は自身の遙か前方に、一体の人外の姿を見付けて立ち止った。
 それは一見すると人間の女性のような細身のシルエットをしているが、頭部と思わしき部分からは長い角のようなものが二本見て取れる。
 妹紅がその真紅の瞳を更に凝らすと、深緑の竹林の海の向こうに、鈴仙が一人で立っていることが分った。
 透かさず、妹紅は膝を屈めて臨戦態勢をとった。どうやら向こうもこちらの存在に気が付いたらしく、お互いに向き合うような格好になる。途端にその場の空気はピリピリと張り詰めて、緊張感を伴った静寂が辺りを支配した。
(やっぱり不味かったかしら?)
 妹紅は軽く舌打ちをした。
 ここは永遠亭の敷地ともほど近い、彼女達のテリトリーとも言える場所だ。そこにノコノコと侵入してきた自分は、向こうにとっては外敵以外の何物でも無い。
 戦意こそはなかったものの、妹紅は威嚇の意味を込めて、その手の中に一枚の【スペルカード】を出現させた。
 『不滅【フェニックスの尾】』。
 視界に映るもの全てを蹂躙する、紅き弾幕の暴風雨。この【スペルカード】を目の前にして正面から突っ込んでくるほど、そちらも狂気に身を焼かれていないだろう?
 ある種の駆け引きを持ち掛けるかのように、妹紅は鈴仙に凄みの利いた視線を送る。
 しかしどういう訳か、妹紅の眼光に対し、鈴仙はどこか惚けたような表情でこちらをぼんやりと見据えているだけだった。そしてそのまま暫く、空白の時間が流れていく。
 不審に思った妹紅が再度目を凝らすと、鈴仙のほっそりとした頬に、ハッキリと涙の跡が見て取れた。
 眉根を寄せる妹紅。すると、鈴仙が急に背筋を伸ばして、妹紅に対して気を付けの姿勢をとった。反射的に妹紅はバックステップに跳んで間合を開けるが、鈴仙はそこから飛び掛かって来る訳でも無く、姿勢を正したままその場で微動だにしない。そしてそのまま、彼女は深々と腰を折ってこちらに礼をした。
「え?」
 鈴仙の予想外の行動に当惑する妹紅を尻目に、頭の耳が地面に垂れ下るほどに深い御辞儀は、それから十数秒も続いた。
 そして再び鈴仙がその顔を上げた時、彼女の大きな狂気の瞳には、溢れんばかりの涙が浮かんでいた。その表情も、隠しきれないほどの哀感に染まっている。
「ちょっと……!」
 流石に妹紅も右手の【スペルカード】を仕舞い、鈴仙に声を掛ける。しかし妹紅の呼び掛けに応えることなく、鈴仙は踵を返して竹林の向こうに消えていった。妹紅はその場に立ち尽したまま、鈴仙の背中が消えていくのを静かに見送るしかなかった。
「……何だったのよ」
 今ひとつ状況を飲み込めないまま、一人残された妹紅は呟いた。
 訳が分らない。どうして永遠亭の兎が、自分に頭を下げるのか。
 輝夜の悪ふざけだろうか。永琳の策略だろうか。
 そして、あの涙の意味は。
 こちらの意思表示も兼ねて、久方振りに〝私にデレ期は無いのポーズ〟でも見せておくべきだっただろうか。
 あれこれと思考を巡らせた末、とうとう妹紅は諦めたように肩を窄めた。
 今ここで自分が頭を悩ませたところで、どうにもなるまい。
 妹紅は今一度鈴仙の姿を探すように、自分の周囲を注意深く見渡すと、そこからまた本来の目的地に向かって歩き始めた。



 それから十分ほど竹林を進んで、ようやく妹紅は目的の場所に辿り着いた。
 そこは鬱蒼とした竹林の中に兀然と現れた少し開けた空間で、その真ん中にはそこら中に苔の生えた、小馬程度の大きさの岩が一つ転がっている。
 そこから上空を見上げれば、生い茂る背の高い竹の葉の緑の額縁に飾られて、ポッカリと円形の空が見て取れる。その光景は、さながら翡翠色の筒の底から天空を望むようであり、妹紅は親しみを込めて、この場所を〝蛙の井戸〟と呼んでいた。昔は満月の晩にこの岩に腰掛けて、よく月見酒をしたものだ。
 妹紅は静かにその岩のすぐ脇まで進み、立ち止った。
 岩の上に、昼間にも関わらず先客がいた。
「やっぱりここにいたのね。永遠亭に近付いても全然兎の姿を見なかったから、ここだと思ったわ」
 妹紅はその岩の上の人物に話し掛けた。
 人間の子供のような小柄な体格に、ショートの黒髪。淡い桃色のワンピース姿のその少女は、こちらに背を向けたまま「悪いかい?」と返した。
 随分と突っ慳貪な言い草だった。彼女が横柄な口を利くのはいつものことだが、今日の彼女の声色はどこか投げ遣りで、それでいて全く抑揚が感じられなかった。
 まるで、何か別の感情をその胸に抑え込んでいるかのように。
「この場所は元々、私達兎の集会所じゃないか」
 虚勢を張るような、図々しくも心なしか弱々しい声で、ワンピースの少女が言った。妹紅は彼女の様子に疑問を感じながらも、当初の自分の目的を達成すべく尋ねた。
「まぁね。それよりもてゐ、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「蓬莱の薬の件?」
「そうよ」
 妹紅に振り返ることもなく、彼女の話を先取りするように返してきた少女――てゐの質問に、妹紅は大きく頷いた。
 そして彼女は表情を険しくさせて、一呼吸置いてからてゐに聞き直した。
「永琳は本当に、霊夢を蓬莱人にするつもりなの?」
 そればかりが、ここ数日間の妹紅にとってのもっぱらの関心事だった。
 服用者の肉体を不変の魂に付随させ、その者に不老不死を約束する蓬莱の薬。
 天才の傑作とは名許り、その禁忌の妙薬がどのようにして人を狂わせていくのかを、妹紅はその身を以て知っていた。
 妹紅は思う。そもそもが果てしない寿命を持つ月人ならば兎も角、彼らに比べて刹那的な寿命しか持ち合せていない地上人は、その一生に見合うだけの小さな器量と、脆弱な死生観しか持ち合せていない。つまり人間はその成り立ちにおいて、六道輪廻の輪から外れるという荒技に耐えきれるような、強靭な種族ではないのだ。それが己の領分を越えて、禁断の領域に手を出してしまうとどうなるか。答えは言うまでもない。
 その後は言わば、粛正の日々の繰り返しだ。
 無限にも積み重なる時の流れに心を押し潰され、あらゆる良心の呵責に精神を噛み砕かれ、声にならない悲鳴を上げて、苦痛に身を捩りながら生きる毎日。
 自分が人間なのか、化け物なのか、終らない自問自答を果てに、結局どちらにもなりきれない孤独。
 〝無限〟とは元々、〝地獄〟のその名に冠する語句なのだ。
 それを――恐らく他の誰よりも――知っている妹紅だからこそ、彼女は許すことが出来なかった。
 もしも永琳が、再び自分のような人間上がりの蓬莱人を生み出そうとしているのなら、それだけは止めなければならない。阻止しなければならない。
 こんな哀れな人の形は、自分一人で良い。
 固唾を呑んで、てゐの返答を待つ妹紅。しかしてゐは、その場に立ち込めた緊迫した空気を思えば、およそ場違いな声色で呟くように言った。
「……成る程ね。そっか、そういう意味もあったのか」
「どういうことよ」
 てゐの言葉の意味が分らず、苛立ったように彼女を追求する妹紅。するとてゐは、ひどく落ち着いた口調で、
「安心しなよ妹紅。お師匠様は霊夢に蓬莱の薬なんか飲ませてないよ。全てはデマ。〝私とアンタを、ここで会せるためのね〟」
「なんですって?」
 驚いて妹紅は声を上げた。
「それって一体どういうことよ!」
「お師匠様が再び蓬莱の薬を使うとなれば、それをアンタが黙って見過ごすはずがないからね。おかしいと思ってたんだ。それを知ったアンタがこっちを妨害しようとしてくるのは明らかなのに、どうして天狗の新聞なんかに蓬莱の薬を使うことを記載させたのか」
 そのてゐ言葉には、妹紅にも思い当る節があった。
 当初は妹紅も驚いたのだ。蓬莱の薬の使用を、永琳が新聞で大大的に公言していることに。そしてそのことが妹紅にはまるで、蓬莱の薬の開発者である永琳が何の罪悪感も持たずに、寧ろ嬉々として薬を使おうとしているかのように思えて我慢ならなくなったのだ。
 しかし自分のその感情すらも、永琳の計算の内だったということなのだろうか。
 蓬莱の薬という餌に、自分が必ずや食い付くことを見越して。
 妹紅は途端に薄ら寒くなり、押し黙った。てゐは続けて、
「お師匠様は、敢えて蓬莱の薬の使用を公に発表したのよ。全ては、その知らせがアンタの耳に届くように。そうすれば、アンタは必ず動く。だけど直接永遠亭に乗り込んだところで、お師匠様が真っ当な受け答えをしてくれるとは限らないとアンタは考える。理由は言うまでもなく、自分が姫様と敵対しているから。そこでアンタならきっと、まず私と接触しようとするはず。私なら、それに見合う対価を払えば、自分の欲しい情報を提供してくれると考えて。隠さなくても良いよ。体中から人参の匂いがしてる。今朝採れたばかりの上物だね。良い匂いだ」
 その言葉の割には、てゐの口調はまるで詩を朗読する詩人のような語り口で、妹紅は違和感を覚えた。
 心ここにあらず、とでも言うのだろうか。
 目の前に広がる情景を、客観的に朗々と読み上げるような。どこか遠くを見ているような、現実味を帯びない、そんな声色だった。
 てゐに促された妹紅は観念してように、懐に忍ばせていた数本の人参を取り出しながら、訝しむように聞いた。
「でもどうして、永琳がそんなことをするのよ。わざわざそんなデマまで流して」
「それはきっと――」
 言いながら、そこで初めて、てゐが妹紅に振り返った。
 瞬間、妹紅は自分の息が詰るのを感じた。
「私が、〝こういう〟気分だからじゃないかな」
 妹紅は我が目を疑った。
 てゐが、泣いていた。
 その童顔な顔立ちを涙で赤く腫らせて、てゐが泣いていた。
 彼女の瞳から絶え間なく流れ落ちる涙、引き結んだ口元から漏れ聞こえる嗚咽。
 それまでの生気の無い態度から呪縛が解けたかのように、一変して感情を溢れさせたてゐの姿に、妹紅は激しく動揺した。
 それは妹紅が初めて見る、因幡てゐの泣き顔だった。
「ちょっと……!」
 ようやく目の前の状況を飲み込めて、妹紅はてゐに駆け寄った。その小さな肩を両手で掴み、問い掛ける。
「どうしたのよ! 何があったの!」
 てゐは少しの間黙っていたが、やがて上擦った声で、
「……明日……永遠亭の皆と博麗の巫女が外の世界に向かうのは知ってるだろう……?」
「ええ」
 妹紅が答える。するとてゐはまた暫し押し黙り、やがて堪え切れなくなったように、彼女は子供のように泣き噦りながら言った。
「さっきお師匠様に言われたんだ……私は……私はそれには連れて行けないって……!」
「どうしてよ!」
 てゐの様子を見ていられなくなって、妹紅は思わず声を荒げて言った。
 しかし妹紅は後に、てゐにその質問をしてしまったことを深く後悔することになった。
「……私が……私が……〝地上の兎〟だからだよ……! …………これは自分達月の民と……八雲紫の問題だから……私のことは巻き込みたくないって……! 私を連れて……もしものことがあったら……お師匠様は私に……ずっと謝り続けなければならなくなるからって……!」
 今やてゐの様子は、ほとんど泣き叫ぶようだった。
 彼女は妹紅の服の裾をギュッと掴み、妹紅の胸に顔を押し付けて、悲鳴を上げるように泣き叫んだ。
「……どうしてなの妹紅……何でなの妹紅…………私は……私は永遠亭の皆を……そんな風に分けたことはなかった…………私は自分を……〝永遠亭の兎〟だと思って今まで生きてきたのに……!」
「……………………」
 慟哭するてゐに、妹紅は何も答えられなかった。
 いや、今の彼女の満足させられる、納得させられる言葉など、果して存在するのだろうかと、妹紅自身が考えてしまった。
 永琳の気持ちも、分らないでも無い。
 それが彼女なりに、考えに考え抜いた結論なのだろう。
 あらゆる可能性を考慮して、てゐに留守を任せることを決めたのだろう。
 自分とて永琳と同じ立場になれば、同じ判断をするかもしれない。これから自分の身を置く状況が、厳しければ厳しいほどに。
 そしてその時に、「貴女は足手纏いだから」とか、そんな誤魔化しで彼女に身を引かせようとするのではなく、――例え彼女を深く傷付けてしまうとしても――本当の理由を包み隠さず口にする永琳は、〝強い女性〟だな、と妹紅は思った。
 しかしどうしてその上で、「それでも一緒に来てくれる?」と言ってやれなかったのだろう。
 「全ての責任は私が持つわ」と胸を叩けなかったのだろう。
 第三者の目から見て、確かに疑問を差し挟む余地は至る所にある。しかしいざ当事者の立場になった時に、それがどれほど困難で、――本人達にとっても――どれほど理想的なことか、妹紅はよく知っていた。
 そして彼女の脳裏を過ったのは、ここに来る途中で出会った鈴仙の姿。
 あの御辞儀の意味を、延いてはここでてゐと会せた永琳の意図を、ようやく妹紅は理解し始めていた。
 きっと自分は、託されたのだろう。
 心の支えを失った彼女が、独りぼっちにならないように。
 孤独が負の感情しか生まないことを誰よりも知る自分に、この場に際して、どうか地面に崩れ落ちた彼女に、肩を貸してやってほしいと。
 それを無責任だとは思わなかった。傲慢だとも思わなかった。
 寧ろ他の誰でもなく、付き合いの長い自分にその役を任せようとする点に、妹紅は永琳のせめてもの優しさを見た気がした。
 生と死との狭間で、己の全てを曝け出して戦ってきた相手だからこそ、信用できることもある。
 恐らく永琳は、自分がこういう状況下において、非情になれないこともお見通しなのだろう。
 妹紅は視線を空に引き上げて、心の中で呟いた。
(なによ。他に選択肢なんて無いじゃない)
 今はただ、自分に出来ることを、自分が〝それで良い〟と思えることをしよう。
 妹紅はそう考えて、自分の胸に縋り付いてくるてゐの頭に、彼女はそっと手を乗せた。
「……何でなの……生れとか種族とか……そんな……そんな〝ちっぽけ〟なことで…………なんでこんな思いをしなくちゃいけないんだよ……!」
 しかし、やはり彼女に掛ける言葉だけは、妹紅は見付け出すことが出来なかった。
「悔しい……悔しいよ妹紅…………!」
「……………………」
 そのまま暫く、てゐが元の落ち着きを取り戻すまで、妹紅は彼女の側にいた。
 真昼の太陽が、徐々に傾き始めていた。
 それはまるで、バランスを失って降下していく何かを、暗示しているようでもあった。



 その翌日、予定通り永遠亭の面々は――〝何故か〟眠ったままの――霊夢と共に外の世界へと向かった。
 彼女達の見送りのために、当日の博麗神社には多くの人妖が集まったが、てゐがそこに姿を現すことは無かった。



 気が付くと、霊夢は燃え上るような茜空の下、見知らぬ深い雑木林の中に立っていた。
 彼女は頻りに周囲を見渡したが、ここがどこなのか、どうして自分がここに立っているのか、皆目見当が付かなかった。
 そればかりか、彼女の思考はまるで麻酔に掛ったかのように薄ぼんやりとしていて、視界の端々もどこか霞んでいるように思える。
 仕方無く彼女は茂みを掻き分けて歩き始めるが、そこで本来感じ取られるべき枝葉の感触やの地面さ、空気の匂いなどのあらゆる感覚も、すっかり麻痺してしまっているようだった。
 しかし、かと言ってそこに恐怖を覚えるでも不安を抱くでもなく、まるで何者かに誘われるように淡々と林を進んでいく自分の様子から、霊夢は漠然と、これは現実ではないのだろうなと悟った。
 そのまま暫く林の中を進んでいくと、薮を抜けた先に二人の人物が立っていることに気付いて霊夢は足を止めた。目を擦ると、それが何かの合図だったかのように、視点が一瞬にしてその両者のすぐ側に移動する。やはりこれは現実ではないらしい。
 霊夢はいつの間にか、対峙するように並び立つ二人のすぐ脇に立ちながら、その両者の様子を無言で見つめていた。
 片方は白い日傘を差した金髪の女性で、日傘と同じ白色の帽子にあしらわれた、大きな蝶々結びのリボンが印象的だった。
 またその女性は、彼女の双眸に映る者の心の奥底まで見透かしてしまえそうなほどに深く、聡明な紫苑色の瞳の持ち主で、霊夢はその女性が他でもない八雲紫であると立ち所に分った。
 しかしどうやら紫は霊夢の存在には全く気が付いていない様子で、一様に険しい表情を浮べている。そしてその視線の先にはまだあどけない小さな少女が、その表情を隠すように俯いて立っていた。
 肩に掛かる程度の長さの黒髪を後ろで結わえ、白衣に緋袴姿のその少女は、手にしていた数枚の御札がクシャクシャになるほどに、ギュッとのその手を握り締めている。その様子から、霊夢はその少女が何らかの感情を強く抑えているのだと察した。
「……霊夢」
 と、紫が強張った様子で口を開いた。
 反射的に霊夢は紫に向き直ったが、彼女の視線は自分ではなく、相変らずその少女に向けられている。驚いて霊夢が再び少女を見やると、少女は紫の呼び掛けに呼応するように、少しだけ顔を上げた。
 そして霊夢は仰天した。
 顔を上げた少女の顔には見覚えがあった。いや、無いはずがない。それは紛れもなく、幼少時代の自分自身のものだった。
「霊夢」
 もう一度、紫が少女の名を呼んだ。すると少女がまた少しだけ顔を上げる。その表情は見るからに反抗的で、少女のその怖いもの知らずで勝気な黒色の瞳は、睨み付けるように紫のことを真っ直ぐに捉えていた。
(この場面、〝見覚えがある〟)
 霊夢はそれらを目の当たりにしながら、心のどこかでそう思った。
 自分は、この光景を知っている。いや、恐らくこの光景は、自分の記憶の中の映像なのではないだろうか。
 それに思い至った時、霊夢はその背中に冷たい汗が一筋流れるのを感じた。
 それまでのぼんやりとした感覚とは比べ物にならない程に明確に、彼女の背筋を悪寒が走っていく。霊夢は一歩後退った。
 嫌だ! 私はこの先を見たくない。
 しかし霊夢の意志とは裏腹に、彼女の眼前の光景は彼女の記憶を述懐するように、止ること無く紡がれ続けた。
「どうしてあの妖怪を退治しなかったの、霊夢」
 紫が、窘めるような口調で言った。しかし少女は答えず、今度はツンとそっぽを向いてしまう。彼女の御札を握る手に、一層力が籠もるのが分った。
「あの妖怪が、夜な夜な人里で暴れ回っていたのは話したでしょう? 里から正式な依頼を受けたというのに、博麗の巫女がそれを放棄してどうするの?」
 紫は尚も、静かな声色で続けた。すると少女は反発するように答えた。
「依頼を受けたのは紫じゃない。私には関係ない」
「屁理屈を言わないの」
 紫が落胆したように言う。それが自分のことなだけに、霊夢は知っていた。彼女のその態度は、霊夢にとっては激しく叱責されるよりも辛かった。まるで自分が、育ての親である彼女の〝全ての〟期待に背いたかのような気持ちになって、そしてそれが、自分を〝悪い子〟なのだと認めざるを得ない最たる要因として認識されてしまう。
 我ながら、全く以て子供だったと思う。
 一つの事象に、自分の全てが直結していた。
 いや、正しくは目の前にいる紫の存在そのものが、当時の自分の全てだった。
 今でも何気無い日常の中に、霊夢はその意識の片鱗を見ることが稀にある。
 紫の表情やその一挙手一投足に、自分の感情が驚くほど左右されることに気付いた時、霊夢は自分がまだ彼女に対する――母に対するそれにも似た――畏敬の念を忘れてはいないのだなと思い知る。
 それだけに、霊夢は幼少の自分の姿を通して、胸が締め付けられるような思いがした。
「妖怪退治は、代々博麗の巫女の勤めなの。どんな言い訳をしたって、貴女がそれを怠ることは許されないわ」
 紫が言う。その台詞は本当に彼女の記憶そのままで、霊夢はこの先に起こるであろうことを思い起して瞑目した。〝どうして……〟。
「どうして博麗の巫女は妖怪を退治しなくちゃいけないの?」
 不満を露に、少女が言った。紫はさも当り前のことのように、
「どうしてって、妖怪は人を食べるじゃない」
 すると少女は、途端に真っ直ぐに紫を見つめて言った。
「でも、それは生きていく為でしょう? 私達が肉や野菜を食べるのと同じじゃない」
「あのね、霊夢。妖怪は人間よりもずっとずっと強くて、そして大食らいなのよ? もし妖怪の増長を許してしまったら、人間なんてあっと言う間に、為す術も無く食べ尽されてしまうわ」
「でも、だからって痛め付けるなんておかしいじゃない。妖怪の中には、優しい妖怪だっているのに」
 今にも泣き出しそうな顔で、声を震わせる少女。
 すると紫は心底困ったような表情を浮かべ、しかしすぐにその面立ちを引き締めて、
「……それが博麗の巫女と勤めなのよ」
「やめてよ!」
 と、急に少女が声を張り上げた。その目には大粒の涙が既に浮かんでいる。
 霊夢は堪らなくなって、少女から目を逸らせた。
「私は妖怪退治なんてしたくないのよ!」
「どうしたのよ、霊夢」
 紫が、明らかに戸惑った様子で聞き返した。
 無理もないだろう。今の霊夢の姿は、ただ単に癇癪を起こして声を張り上げる子供のそれとは全く異なっていた。
 少女は声を詰まらせながら言った。
「紫、貴女も人間を食べるんでしょう?」
「……ええ」
 紫の顔が、見るからに曇った。
 その表情を見て、少女の顔付きが更なる悲壮感に染まる。
「じゃあ私はいつか、紫を倒さなきゃいけなくなるの……?」
「…………」
 紫は何も答えなかった。
 ただその瞳を暫し伏せて、目の前の少女に諭すべき、最も適切な言葉を模索するように静かに考え込む。
 しかし、彼女のその思考を巡らせるだけの時間は、――悲しいかな――まだ幼い少女には、待ちきれるようなものではなかった。
 黙り込む紫に、少女が追い撃ちを掛けるように言い放った。
「紫は妖怪なのに、どうして人間の私に『妖怪退治をしろ』なんて言うのよ! 何の為に!? 私にいつか……紫を倒させる為!? 私はそんなの絶対に嫌なの!」
「霊夢……」
 紫は、どこか哀れむような顔で少女を見た。
 少女はひたすらに捲し立て続けた。
「どうして今まで私を育ててきたのよ……!」
 霊夢は咄嗟に、自分の耳を塞いだ。
 しかしその刹那、霊夢の五感は少女のそれとシンクロし、気が付くと霊夢は紫を正面に見据えて、爆発する感情をそのまま彼女に向かって投げ付けた。
「紫も……紫も人間だったら良かったのに!」
 言い終えてすぐに、霊夢の中に罪悪感が込み上げてきた。そしてその感情はたちまち、彼女の胸を容赦なく焦がす。
 言ってはならないことを言ってしまった。しかし訂正するにはもう手後れで、霊夢は何も出来ずに立ち竦む。
 そして次の瞬間、紫が霊夢の頬を張った。
 渇いた音が響き、霊夢は地面に倒れ込んだ。



「――っ!」
 目を覚ますと、霊夢は和室の畳の上に敷かれた一組の布団の中にいた。そこは全く見覚えのない質素な部屋で、霊夢は声を発することもなく静かに身を起こすと、その場に打ち拉がれるように、そのまま膝を立てて身体を丸め込んだ。
 眠りながら、泣いていたのだろう。頬っ辺が、泣き腫らした時ように腫れぼったい。
 嫌な夢だった。あれはかつての、自分と紫とのやり取りだ。その内容を再び思い起して、霊夢はそのまま、また少し泣いた。
 涙が収まると、霊夢は布団から這い出して立ち上がった。足元は覚束無かったが、どこも拘束されているようではなかった。
 そしてそのまま、霊夢はその部屋で唯一の窓へ向かった。壁に手を突きながらよろよろと進み、そしてそこの障子窓を開けると、その向こうにはおよそ彼女の知らない風景が広がっていた。
 まず彼女の目に飛び込んできたのは、この家の敷地と思われる荒れ放題の庭と、そしてその先に広がる、茜空に染まる田園風景だった。
 それくらいのものなら、幻想郷でも人里の近くで目にすることが出来るだろう。しかしここの田畑はやけに均等に区画分けが成されていて、まるで巨大な将棋盤のようだった。
 そしてその田んぼを通る畦道も、幻想郷のものとは違う。
 基本的な作りは変わりないが、その内の一本だけ道幅が広く取られており、さながら川の本流と支流のようだ。そしてそれで言う所の本流と思わしき道は、灰色の泥壁で地面を舗装したようになっていて、更にその中央には道に沿って白の点線がどこまでも引かれていた。霊夢がその白線をずっと目で辿っていくと、地平線の向こうに巨大な建造物の群衆を見ることが出来た。
 恐らくこの家の周囲には人払いの結界が張られているのだろう。その効力によって、陽炎のように揺らめいた風景の先にあるその巨大建造物の森は、夕焼けの空に忽然とその無骨なシルエットを晒し、それがその建物を建てた者の権威の象徴であるかのようだ。
 霊夢は未だに実感が湧かなかったものの、それらのものを目にしながら、どうやら本当に、外の世界にきてしまったんだなと思った。
 彼女の頬を吹き抜けていった風も、どこかいつもと違う匂いがした。
 そして思い起されたのは、永遠亭で覚えている、彼女にとっての幻想郷での最後の記憶。
 赤い縄。光る注射針。自らの身体に流し込まれた、透明の液体。
 霊夢は行場を失った子供のような目で、自分の手の平を見やった。
 この身体は、厳密にはもう人間のものではない。
 蓬莱の薬によって、一時的にとは言え不老不死となった身。夢見が悪かったせいか、今は自虐的な気持ちにしかなれそうになかった。そういえば、夢の中の風景も、こんな夕焼け空だった。
 霊夢は疲れた様子で溜め息を吐き、風に靡いた髪にそっと手を添えた。そしてその拍子に手首から肘の方までずり落ちた巫女服の袖口を呆然とした目で追って、その目に映ったものに全身を強張らせた。
「え……?」
 思わず声が漏れる。
 驚きに見開かれた目は、自らの白く細い腕に釘付けになっていた。
(そんな……!)
 霊夢は自分の腕を顔に近付けて、確認するように何度も視線をそこに這わせた。
 そこには永遠亭で縛られていた時の、痛々しい縄の跡がハッキリと残っていた。特に縛り方のキツかった両の手首には、内出血の跡が痣のように残っている。
 霊夢は慌てて巫女服の襟を引っ張って、胸元から下も確認した。しかしそちらも同様に、まるで大蛇が全身に巻付いたかのようになっていた。
 霊夢は自分の血の気が、見る見る引いていくのを感じた。
 蓬莱人となった自分の身体に、傷跡が残るなどということは本来有り得ないはずだ。
 不変を保つ蓬莱の薬は、その記憶以外には、どんな深手も瞬時に完治させるだけの効力を持つ。
 だというの、自分に身体に表れたこの変化は一体……?
 頭を抱えるように項垂れた霊夢。
 ――と。
「あら、気が付いたみたいね。予定より一時間以上も早いわ」
 霊夢のいる和室の衾が突然開き、その奥から銀髪の女性が顔を覗かせた。
「永琳……!」
 霊夢が緊迫した声を出す。
 しかし霊夢の様子とは異なり、銀髪の女性――永琳は落ち着いた様子で霊夢のことを見やると、部屋の中に進み出た。窓から射し込む夕日に照らされる彼女は、いつもの奇抜な赤と青の服装ではなく、白いハイネックのセーターに濃紺のジーンズという出で立ちで、頭の上のナースキャップも無かった。
 霊夢の視線に気付くと、永琳はその場でクルリと回って見せて、
「外の世界の服装よ。こっちに来るに当って、紫に揃えてもらったの」
「そんなことより、これはどういうことなのか説明して頂戴!」
 楽しそうに言った永琳にしかし、霊夢は強い口調で自分の腕を伸ばして問い掛けた。
 手首の縄の跡を強調するように角度を徐々に変えながら、霊夢は永琳を険しい目付きで睨む。
 すると永琳は「もう見付けしまったのね」と肩を竦めるようなジェスチャーをして、
「それは昨日、私が貴女に打ったのは蓬莱の薬ではなかったということよ。その実、あれはただの麻酔薬だったの」
 それはつまり、彼女は紫と自分に対して、嘘を吐いていたということになる。
「どうしてそんなことを……!」
 霊夢が更に追求すると、永琳は僅かに目を細め、
「結論だけ先に言えば、貴女を幻想郷の外に連れ出したかったから。理由はちゃんと話すけれど、少し場所を変えて良いかしら? 今日は夕焼けが綺麗だから」
 そしてこちらの反応を窺うように、少し首を傾げた永琳。しかしその平生を装ったような不思議な〝違和感〟に、霊夢はこの申し出に首を縦に振れば、たちまち自分は相手のペースに押し流されてしまうような嫌な予感がした。
 しかし他に為す術も無く、霊夢は永琳の提案を受け入れて小さく頷いた。
「良かった。じゃあ下の縁側で話しましょう」
 途端に永琳が顔を明るくしたが、霊夢は依然、胸の中に芽生えた不快感を消し去ることが出来なかった。



 どうやらそれまで自分の寝ていた和室は、古い木造家屋の二階の部屋のようだった。
 霊夢は前を歩く永琳の後を追いながら、部屋を出てすぐの廊下を左に、そして突き当りの階段を手摺りに掴まりながら降りた。
 まだどこか朦朧とした意識の中、時には足元を滑らせることもあったが、霊夢はその度に心配そうにこちらを覗き込む永琳の助けを借りようとはしなかった。
 そして階段を降りて一階の廊下に出ると、そこを真っ直ぐ進んだ先に玄関が見えた。しかし永琳はその廊下の真ん中ほどで右の戸口へ。その奥は少し広い居間になっていて、奥の方には台所が見て取れる。更に入口とは対面に位置している大きなガラス戸が、庭先へと通じる縁側になっていた。
 霊夢は終始無言を貫いていたが、永琳は無人の居間を突っ切って進みながら、
「姫と鈴仙は、それぞれ自室で休んでいるわ。荷解きに手間取っちゃって」
 と補足するように言った。
 そうして永琳がガラス戸を開けると、途端に気持ちの良い夕暮れの風が部屋の中へ吹き抜けていった。真正面に望む赤い夕焼けの光が、永琳の輪郭を朧げにぼやかす。
 永琳は微笑を浮べてその場に正座して座ると、霊夢に隣りに座るよう促した。仕方無く、霊夢は永琳より少し距離を空けて座る。
 話を先に切り出したのは、意外にも永琳の方からだった。
「ある老舗のお茶屋さんの話よ。そこの二代目の店主は小さい頃から絵を描くのが大好きで、本当はずっと絵書きになるのが夢だったの。だけど彼の家は大きなお茶屋さんだったから、彼は絵の勉強をしたいのを我慢して、その道の修行を詰んだ。やがて彼は先代の父から店を受け継いだけど、晩年、自分が本当は絵書きになりたかったことを彼の老いた母に打ち明けると、母親は驚いて言ったわ。『どうしてお前、もっと早くそれを言ってくれなかったんだい?』って。すると彼は困った顔でこう返した。『そんなことが許されるとは思わなかったんだよ』」
 そう一頻り話して、永琳は徐に言葉を切った。そして何かを思い出したかのように、そっと瞳を伏せる。
 その憂いを帯びた表情は、ノスタルジックな夕焼けの空に解け込んでしまいそうなほどに優美で、霊夢は自分でも気付かぬ内に彼女に見惚れてしまっていた。しかしすぐに霊夢は首を振って、流されまいと意識を引き締める。
 永琳は未だ、その真意を語った訳ではないのだ。
 やがて永琳は改めて口を開いた。
「自分でも、余計なお世話だと分っているわ。だけど、世話を焼かずにわいられなかったのよ」
「まどろっこしい言い方ね」
 霊夢は、意図的に苛立ったように返した。そうしなければ、永琳の出す感傷的な雰囲気に呑み込まれてしまいそうだった。
 そして先程から、心臓が急に早鐘を打ち始めている。それが巫女の勘によるものなのかは分らないが、霊夢はこの場に、底知れない居心地の悪さを感じ始めていた。
「ねぇ、霊夢――」
 しかし、霊夢のそんな心の動揺すらも見透かしたように、永琳は清流のように澄んだ声色で彼女に問い掛けた。
「貴女、今、幸せ?」
 ドキリとした。
 霊夢は虚を突かれたように、驚いて永琳の顔を見つめ返した。
「貴女は、本当に自分で納得して、博麗の巫女を続けてる?」
 その、こちらを責める様子など微塵も感じさせない、只々優しい声の響きに、霊夢は返す言葉が見付からなかった。そして脳裏に蘇った、あの夢の場面を思い浮べて、まるで心臓を捕まれたような気持ちになった。
「私は貴女に、もっと自分の可能性に気付いてもらいたかったの」
 絶句する霊夢に、永琳は続けた。
「人間には、無限大と言っても良いくらいの可能性がある。それは貴女だって同じ。貴女が望むなら、貴女はどんな道に進むことだって出来るわ」
 それは永遠を生きる蓬莱人だからこそ出た言葉なのか、人の死を多く看取ってきた医者だからこそ出た言葉なのか、或いはその両方か、霊夢には分らなかった。
「霊夢。貴女は貴女が望むなら、私のような医者にでも、慧音のような教師にでも、もしくはその母にでも、なることが出来る。その上で霊夢、貴女が博麗の巫女であり続けることは、その多くの選択肢の中から貴女自身が選んだ、最良の選択と言える?」
 霊夢はその質問に、すぐに答えることは出来なかった。
 すると、永琳はバツが悪そうに、
「ごめんなさい。少し意地悪な質問だったわ。それが〝最良〟だなんて、今から分るはずがないものね。でも、でもね? 今の貴女が進んでいる道は、貴女がちゃんと自分で選んだ道かは答えられるでしょう?」
「私は……」
 そこで霊夢はようやく口を開き、しかしすぐに口元を引き結んだ。
 永琳の質問に対して、『そうよ』と答えるのは簡単なことだ。しかし彼女の頭に真っ先に浮んだその質問の答えは、それとは違っていた。
 永琳が言った、お茶屋さんの話と一緒だ。自分は小さい頃から、〝博麗の巫女として育てられた〟のだ。当然、他の生き方なんて考えたことも無かった。
 第一に、そんなこと紫も望みはしないだろう。
(あ……)
 そこまで考えて、霊夢は自分の思考が、とんでもない袋小路に入ってしまったのだと気付いた。
 自分はまるで、自身の育ての親である紫を、自らの意志で生きようとする自分にとっての、敵であるかのように見做してしまったのだ。
(違う……!)
 慌てて否定しようとしても、自分に嘘は吐けない。
 認める他無かった。自分は、他の誰かの意志で博麗の巫女を続けていることを。
 では、自分の意志はどうだっただろうか?
 それは言うまでもなかった。
 それはあの夢の中、その昔、自分は紫に言っていたではないか。
 妖怪退治などしたくない、と。
 その内容を思い出し、思わず身震いした霊夢の肩に、永琳がそっと腕を回してきた。
 その柔らかい感触に霊夢は抵抗することが出来ず、彼女に引き寄せられるままに、霊夢は彼女の腕の中にすっぽりと収まる。
「……今までよく……我慢してたわね」
 永琳の言葉が、今の霊夢には、まるで焦土に染み入る霧雨のように感じられた。
 溢れ出す、誰かに知ってほしかったという気持ち。
 その感情が涙となって、霊夢の両の目から流れ出した。



 あの日。まだ自分が小さかったあの時。私には紫の考えが理解できなかった。
 紫は私を育ててくれた。その身で以て、妖怪と人間が共存できることを私に示してくれた。
 紫はいつも優しくて、暖かくて、とても賢かった。
 いつでも私に、正しい道を示してくれた。
 それなのに何故――?
 私は唯一、紫が私にさせようとしていることに、私は疑問を感じずにはいられなかった。
 妖怪退治。
 どうして私が、誰よりも妖怪の温もりの中で育てられてきた私が、時に人間代表としてそれをしなければならないのか。
 私には分らなかった。
 そして夢にも出てきたあの日、私の葛藤は限界に達することになる。
 私はあの日、極限まで紫を怒らせれば、もう彼女は私を見放してくれるのではないかと思っていた。
 しかし同時に、もし紫に見放されてしまったら、私にはどこにも行き場が無かったことも事実で。
 後に私は、私を決して見捨てることのなかった紫に、深く感謝することになる。
 そしてそれと同時に、暗い闇の底よりも深い罪悪感に、私の胸は穿たれる。
 私はあの日、幼いなりに、自らの持つ渾身の力で、紫のことを傷付けてしまったのだ。
 それ以降、私は私を博麗の巫女として育てる紫の意志に、反抗することを止めた。
 これが、私が紫に報いることの出来る、唯一の方法なのだと思っていた。
 だけど本当の私の意志は、最初から違っていたはず――。
 私の周りは妖怪で溢れていく。
 彼女達が本当は美しい心の持ち主なのだと知っていて、拒絶することなど出来なかった。
 私がどんなにドライに扱っても、博麗神社を訪れる妖怪達の数は減らない。
 それを目の当たりにする度に、私は途方もない不安に襲われた。
 私はあくまで人間の代表で、私はいつか、私に笑顔を向ける彼女達に、鋭い矛を向けることになる日が来るのではないか――?
 粛正とも呼ぶべきその日が、いつ来るのか、怖くて怖くて堪らなかった。
 だけどもし、そんな因果も断ち切って、どこか遠くに逃げ出せるのなら――。



 涙を堪えて固く閉ざされた瞳。真っ暗な空間の中で、永琳の声だけが優しく響いていた。
「霊夢。この世界では、貴女を知る者は一人としていない。もしも貴女が望むなら、私はここに張られた紫の結界を越えて、貴女に人生をやり直すチャンスをあげる」
 永琳の声に、自分がどう答えればいいのか、霊夢には分らなかった。
「今日はもういいわ。だけど明日になったら、貴女の考えを聞かせて頂戴?」
 そして、永琳の手が自分の頭を撫でていくのを霊夢は感じた。
 懐かしい感覚だった。
 それはそう、幼い頃に紫に、よくそうしてもらっていたのと同じ感覚で。
 霊夢は自分でも抑え難いほどに、もっとこの感覚を味わっていたいと思った。
(私はどうしたら良いの……? ……紫……)
 紫はいつも優しくて、暖かくて、とても賢かった。
 いつでも私に、正しい道を示してくれた。
 しかしそれが、自分にとって本当に正しい道だったのか――?

 ごめんなさい、紫。
 私、今本当に、迷っているの……。

 霊夢は歯を食い縛って、止めどなく溢れる涙に耐えた。
 しかし、そうすればそうするほどに、自分が哀れに思えてくる。
 薄く開いた瞳に、涙でぐちゃぐちゃになった夕日が映った。
 それが沈み、夜が来て、再び太陽が顔を出すまでに。
 有明の月を望むその時までに、一体どれだけのことが自分に決められるだろうか?
 霊夢には分らなかった。
 ただ、今この場に、どうして紫がいてくれなかったのか。
 そればかりが、本当に本当に哀しくて、切なくて、有り難かった。
皆様、お久し振りです。
五作目の投稿。尤も、これは『上』なので、厳密には違いますが。
この拙作は鬼塚ちひろの『月光』を聴いていた時に、そこから着想を得たものです。
あれは地上に堕とされた、月人の曲に思えてならない今日此の頃。
他にも書きたいことは色々ありますが、それは『下』を書き上げてからにしたいと思います。
正直、時間は掛りそうですが……。
また、本作は言わば未完成の作品ではありますが、読んだ方からのコメントを頂けると、書き手としてはとても嬉しいです。
一応、後半のプロットは既に出来上っているので後は書くだけなのですが、そのモチベーションを保つ意味でも、どうか皆様からのご声援を頂けたらと思います。

2013/09/04
誤字修正致しました。
非現実世界に棲む者さん、報告ありがとうございました。
ゆんゆん
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コメント



0.140簡易評価
1.50名前が無い程度の能力削除
んー、いろいろと違和感があって物語に没入できませんでした。
そのうちの一つとしては、紫によって各勢力の代表者が集まったシーン。
各勢力の代表と、守矢神社からは神奈子と諏訪子の二名が来ていて、永遠亭の代表は永琳。
どうして輝夜ではないのでしょう?
輝夜が来ないことに何かしら理由があるならそう作中で説明すべきですし、そうでないとしたら作者さんの「八意永琳(58)の人気回復を願う作品」という意識が先行してしまった結果の描写なのでしょうか。
そういったところを自然に読ませていただけなかったところが残念です。

後半、お待ちしています。
3.100南条削除
なんだかんだ言って序章が一番おもしろかったです
はよ続きを!
4.100非現実世界に棲む者削除
僅かに見えたゆかれいむに心温まります。
これからどうなるのか、非常に楽しみにしております。
他の方の作品でも間違っていましたけど神子の名字は「郷」ではなく「聡」です。
現時点での一番の賞賛はゆゆさまの妖夢に対する表現です。凄く感服しました!
では次作で会いましょう!
5.100奇声を発する程度の能力削除
ここからの展開が楽しみです
8.100名前が無い程度の能力削除
続きが気になります。
輝夜が一切登場しないことの理由も明らかになるんでしょうか?
10.100名前が無い程度の能力削除
後編待っとるよー
11.100名前が無い程度の能力削除
永遠亭での藍様と慧音のやり取りとか、 所々気になる描写もあるんですが、まさか全て今後の伏線なんでしょうか?
早く続きが読みたいです!