Coolier - 新生・東方創想話

うみょんげ! 第4話「儚い月の残照」

2010/10/06 06:13:45
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<注意事項>
 妖夢×鈴仙長編です。月一連載予定、話数未定、総容量未定。
 うどんげっしょー準拠ぐらいのゆるい気持ちでお楽しみください。

 今回からオリキャラらしき玉兎が3匹登場しますが一応原作登場キャラです。
 儚月抄に出てきた玉兎兵たち。伝令の子と、レイセン(2号)と組んでた子と、眼鏡。
 名前はオリジナルなのでご了承下さい。

<各話リンク>
 第1話「半人半霊、半熟者」(作品集116)
 第2話「あの月のこちらがわ」(作品集121)
 第3話「今夜月の見える庭で」(作品集124)
 第4話「儚い月の残照」(ここ)
 第5話「君に降る雨」(作品集130)
 第6話「月からきたもの」(作品集132)
 第7話「月下白刃」(作品集133)
 第8話「永遠エスケープ」(作品集137)
 第9話「黄昏と月の迷路」(作品集143)
 第10話「穢れ」(作品集149)
 第11話「さよなら」(作品集155)
 最終話「半熟剣士と地上の兎」(作品集158)














「鈴仙、もう遅いけど……大丈夫?」

 白玉楼の玄関で靴を履こうとしていると、妖夢にそんな声を掛けられた。
 宴会の片づけがようやく終わったのは、もうすぐ日付も変わろうかという頃合いだった。既に幽々子は眠っていて、白玉楼にはしんと夜の帳が下りている。

「大丈夫だよ、道ももう覚えたし」
「でも、永遠亭までは遠いし、夜道はいろいろ危ないし」

 心配そうに言いつのる妖夢に、鈴仙は小さく苦笑して、右手を銃の形にして妖夢に向ける。ばん、と撃ってみせるポーズをすると、妖夢は驚いたように瞬きした。

「私だって、そんなに弱くないよ?」
「う、うん、それは知ってるけど」

 もちろんそこまで強くもないけれど、夜道で自分の身を守れないほどでもない。だいたい、鈴仙より強いような妖怪は無差別に襲いかかったりはしてこないものだし。

「やっぱり、送っていくよ」
「だから、それだと妖夢が遅くなっちゃうって」

 時計を見る。永遠亭まで今から往復していたら、妖夢がここに戻ってくるのは本当の深夜になってしまうだろう。明日も妖夢は仕事があるだろうに、そこまでさせるわけにもいかない。

「気持ちだけ、受け取っておくね。ありがとう、妖夢」
「……うん」

 不承不承、という様子で頷いた妖夢に、鈴仙は一歩、歩み寄る。
 少しの名残惜しさは、確かにある。まだ少し気恥ずかしいけれど、もう少し長く、妖夢と何か――何でもいいから、一緒にいて話をしていたい、という気持ちはあった。
 だけど、自分は永遠亭の、妖夢は白玉楼の従者だから、ちゃんと自分のいるべき場所に戻らないといけないのだ。ここでは、永遠亭が鈴仙の家なのだから。

「次、いつ人里で会えるかな?」
「え――ああ、ええと……今日、たくさん料理作ったから、明日買い物かも」
「じゃあ、私も何か用事作って、人里に行くね」
「う、うん」

 薬を売りに行くのでもいいし、何か妖夢のように買い出しでもいい。行こうと思えば、人里におつかいに行く用事ぐらいは探せばある。仕事を口実に使うのはちょっと後ろめたくはあるけれど、怒られるほど遅くなったりしなければいいのだ。

「それじゃ、また明日。いつもの茶店で、かな?」
「れ、鈴仙」
「なに?」

 赤らんだ顔で、金魚のように口をぱくぱくさせて、妖夢はひとつ首を横に振って。

「……今日は、本当に、ありがとう」

 こぼれたのはそんな言葉。鈴仙は目を細めて、妖夢に笑い返した。

「それは、こっちの台詞だってば」

 手を伸ばせば触れられる距離。不意に、あのとき自分の肩を抱いてくれた妖夢の腕の感触が甦って、その気恥ずかしさに鈴仙は頬を掻いた。
 目の前にあるのは、妖夢のはにかんだ笑顔。いつも真っ直ぐなその眼差し。
 その眩しさに、小さな痛みも胸の奥に甦るけれど。
 痛くて苦しくて、泣いてしまいそうだったときに、抱きしめてくれたのも。
 友達だって、そう言ってくれたのも、彼女のその真っ直ぐさだったから。
 そういう風に、妖夢が笑いかけてくれることを、幸せだと思っていたい。
 今は。……できれば、これからも。

「また、明日ね。……ばいばい、鈴仙」
「うん。またね、妖夢」

 いつものように、手を振り合う。背を向ける。妖夢との時間が終わる。
 だけどそれはやっぱり、次の時間へ繋がっているから、今は寂しくないのだ。


     ◇


 永遠亭に帰り着く頃には、とっくに日付も変わってしまっていた。
 宵っ張りのてゐはまだ起きているかもしれないが、師匠と姫様はとっくに眠ってしまっているだろう。そんなことを考えながら、鈴仙は永遠亭の門をくぐる。
 案の定、屋敷は灯りも落ちて、静まりかえっていた。静かに戸を開け、「ただいま帰りました」と小声で呟く。もちろん、返事はない。てゐも既に眠っているようだ。
 足音を忍ばせて、縁側を歩く。静まりかえる屋敷に、遠く虫の音だけが響いている。
 部屋に戻って自分も眠ろう。そう思って、鈴仙は自室の方を目指し、

「……あら、おかえり、ウドンゲ」

 その途中、縁側に腰を下ろしている影に気付いて、鈴仙は驚いて足を止めた。

「お師匠様?」

 ほのかな月明かりの下、永琳がこちらを振り向いて微笑む。目をしばたたかせた鈴仙に、永琳は立ち上がると、ふっと目を細めて鈴仙を見つめた。

「ちゃんと、仲直りはできた?」
「え――」

 思わぬ言葉に、鈴仙はひとつしゃっくりをした。
 永琳はただ、答えを待つように静かに鈴仙を見つめる。

「……はい」
「そう」

 小さく頷いた鈴仙に、永琳は少し満足げに頷く。
 まさか、師匠はそれを確かめるためだけに、自分の帰りを待っていたのだろうか?
 そう訝しんだ鈴仙に、永琳は「それはそれとして」とひとつ手を叩く。

「ウドンゲ、ちょっといらっしゃい」
「……な、なんですか?」

 ほら、やっぱりそんなことは無かった。自分の我が侭で帰りが遅くなった代償に、いったいどんな無理難題を押しつけられるのか、戦々恐々と身構える鈴仙に、けれど永琳はふっと苦笑してみせる。

「こんな時間に頼む仕事なんて無いわよ」
「はあ。じゃあ――」
「定期検診」

 永琳の言葉に、鈴仙は思わず目をしばたたかせた。



 永琳がこうして、定期検診と称して鈴仙のことを診るのは、初めてのことでは無かった。
 あの、いわゆる永夜異変の後からだっただろうか。数ヶ月に一度、いつも忘れた頃に永琳は言い出すのである。定期と言いながら、その実いつ診るのかはまったく不定期なので、今回もすっかり不意打ちといえば不意打ちだった。

「あの、お師匠様」

 診察室で永琳と向き合って、鈴仙は少し座り心地の悪い思いを抱えたまま首を傾げる。

「どうして、私と妖夢のこと――」
「あら、貴方が白玉楼に行きたくないって愚図るなんて、それ以外に理由があるの?」

 あっさりそう看破されてしまうと、それ以上疑問を呈しようが無かった。
 ――数日前、白玉楼の主である西行寺幽々子が、いったい何を思ったのかこの永遠亭を訪れた。永琳や輝夜とどんな話をしたのかは鈴仙は知り得ないのだが、ともかくどうやらその会談がきっかけとなって、今月の例月祭は白玉楼にお邪魔して行うことになったのである。
 準備が楽でいいと、てゐやイナバたちが――普段もほとんど手伝わないくせに――喜んでいた中で、鈴仙だけがひとり愚図っていた。原因は専ら、その少し前に白玉楼の従者、魂魄妖夢と少々気まずいことになってしまっていたせいだ。
 詳しいことは、永琳にもてゐにも輝夜にも話していない。話せるようなことでもない。
 喧嘩ですらない、自分がただ勝手に、妖夢の気持ちから逃げ出しただけのことだから。
 自分のことを、「友達」と呼んでくれた妖夢の、はにかんだ顔。その表情が、その言葉が、嬉しいと感じる気持ちと一緒に、鈍い痛みも鈴仙の心に伝えてくるからだ。
 ――その痛み自体は、仲直りが済んだ今でも、決して消えたわけではない。

「魂魄妖夢、と言ったかしら? あの従者の子は」

 鈴仙の狂気の瞳をペンライトで照らし、口の中を覗き込みながら、永琳は雑談のようにそう言葉をかける。手元では何かメモをとっているが、その内容はもちろん知るべくもない。

「良い子ね。素直で、ちょっと危なっかしいぐらいに真っ直ぐで」
「……お師匠様、ひょっとして、私と妖夢のあれ、見てました……?」

 恐る恐る、鈴仙はそう問いかける。鈴仙の喉から胸元にかけてに触れながら、「あら」と永琳は少し楽しげに口元を吊り上げる。

「いくら隅っこの方でも、同じ中庭での出来事でしょう?」

 永琳の返事に、思わず鈴仙は頭を抱えたくなった。見られていたのか、あれを。
 宴の終わる頃に、妖夢と交わしたいくつかの言葉。その中で鈴仙は、みっともなくも妖夢にすがりついて泣きじゃくった。妖夢はそれを、じっと抱きしめてくれていた。
 ――ただ、その涙が、いったい何の為に流した涙だったのか。
 それは、鈴仙自身にも、今になってもよく解らないままだ。

「いい友達が、できたみたいね」

 永琳の言葉に、鈴仙は一瞬、言葉に詰まる。――いい友達。妖夢。自分の……友達。
 妖夢の言葉。自分の返事。妖夢のことを、友達だと……そう、思っていていいのだ。
 魂魄妖夢という少女は、鈴仙・優曇華院・イナバという兎を、友達だと言ってくれたから。

「……はい」

 小さく頷いた鈴仙に、永琳は目を細めてただ微笑む。
 永琳から、それ以上の言葉は無かった。友達は大事にしなさい、とかそういうことを言われるのかと思っていた鈴仙は、少し拍子抜けしながら、何かを書き込む永琳の横顔を見つめる。

「あの……お師匠様」

 結局、ためらいがちに鈴仙は、自分から口を開いた。書き込む手を止め、永琳は振り返る。

「お師匠様は、どうして姫様に仕えているんですか?」

 ――それは、妖夢と出会ってから、ふっと浮かんできた些細な疑問だった。
 永遠亭の姫様、蓬莱山輝夜と、その従者、八意永琳。
 それは鈴仙が永遠亭にやって来てからずっと変わらない構図であり、輝夜が姫と呼ばれることも、永琳がその従者であることも、鈴仙は大して疑問には思っていなかった。この永遠亭ではそういうものなのだ、とただ漫然と受け入れていた。
 今になって、その理由を、意味を知りたいと思うのは、きっと彼女のせいだ。
 妖夢が、主に対して向ける忠誠と、自分へ向ける真っ直ぐな言葉。
 その一途さは、どうして生まれるものなのか――鈴仙には、よく解らないから。

「私?」

 永琳は、一度意外そうに目をしばたたかせて、それから小さく苦笑する。

「どうしたの、急に」
「いえ……ただ、ちょっと気になって」

 胸元に聴診器を当てながら、永琳は「ふむ」とひとつ難しい顔をして鼻を鳴らした。
 その横顔を見ながら、ふと鈴仙は思う。――よくよく考えてみれば、自分は永琳や輝夜について、どれほどのことを知っているだろうか。
 ふたりとも、かつて月に住んでいた月人であること。そして、今は月からは身を隠している立場であること。それから――永琳は、かつて自分の飼い主であったあの姉妹の師であること。
 昔のことを思い出しそうになって、鈴仙は慌てて小さく首を振った。余計なことを考えるのは、やっぱり良くない。思い出す必要もないことまで、思い出してしまうから。

「ねえ、ウドンゲ」
「は、はい」
「貴方は、あの半人半霊の子と友達になった理由を、口で説明できるかしら?」
「え――ええ、と」

 妖夢と友達になった理由。いきなりそんなことを問われ、鈴仙は口ごもる。
 理由。……理由なんて、そもそもあっただろうか?
 思い出す。始まりはたぶん、あの夏の茶店だった。あのとき自分は、席を立とうとした妖夢を、どうして引き留めたのだっけ。思い出そうとしても、上手くいかない。
 答えられないでいる鈴仙に、「ほら、答えられないでしょう?」と永琳は苦笑した。

「同じことよ。私が輝夜に仕えている理由も、有り体な言葉でまとめられるものではないわ」

 はぐらかすようにそう言って、聴診器を仕舞うと、「はい、終わりよ」と永琳は椅子を軋ませた。鈴仙はワイシャツのボタンを留めながら、「はあ」とだけ呟いた。

「……ウドンゲ」
「はい?」

 今ひとつ釈然としないまま、診察室を辞そうとした鈴仙を、不意に永琳が呼び止めた。

「何かに理由や意味を求めることは、確かに悪いことではないわ」

 机に向かって何かを書き付けながら、独り言のように、永琳は言葉を続ける。

「だけどね。何もかもに明確な理由や意味があるほど、世界は合理的に出来てはいないわ」

 カリカリと、ペン先が紙の上を走る硬い音だけが、静かな診察室に響いている。

「世界というのは、不確かで曖昧で、答えの無いものよ。本質的にね」

 それは果たして、本当に自分に向けられた言葉なのか、鈴仙には判断できなかった。


     ◇


 診察室を辞した鈴仙の足音が遠ざかっていくのを聞きながら、永琳はそっと息を吐き出した。
 椅子を軋ませ、机に置いたカルテから視線を逸らす。窓の外にはぼんやりと満月。三十八万キロの彼方にある、自分たちが捨て去った過去の残影。
 自分たちがどれほど身を隠したところで、月は変わらずにこの世界を照らしている。
 記憶というものがある以上、知性ある者は必ず過去に縛られる。過去からの解放とは自我の完全なる忘却に他ならず、自我の忘却とは個人の死と同義だ。
 されど、不完全な忘却によって過去を捨て去ることは出来る。それは自分を縛る鎖から目を背けることでしかないとしても、過去によって摩耗する心は不完全な忘却を求める。故に脳は記憶を忘却し続け、過去を目の前から片付けていく。
 永遠の命を持つ者であっても、それは変わらない。

「目を背けても、過去そのものが消え去るわけでは決して無い――けれど、ね」

 机の上のカルテをファイルに仕舞って、永琳は立ち上がった。夜も遅い。輝夜の様子を確かめたら、自分もそろそろ眠ろう。そう考え、数度肩を回し、
 診察室の扉がノックされた。鈴仙が戻ってきたのだろうか。

「開いてるわよ」

 答えると、ゆっくり扉が開かれる。そこにあった姿に、永琳は軽く目を見開いた。

「輝夜。起きていたの?」
「それは、むしろこっちの台詞だわ、永琳」

 輝夜はゆっくりと永琳の方へ歩み寄り、どこか不敵に笑った。

「鈴仙は、ちゃんとあの剣士の子と仲直りできたみたいね」
「……そうね」

 ふたり、静かに苦笑し合う。その件は、例月祭の話を西行寺幽々子が持ち込んできたときからの、ふたりの懸念でもあった。
 魂魄妖夢。白玉楼の従者である半人半霊の剣士とは、永琳も輝夜も決して親しいわけではない。それは鈴仙も同じだったはずだが、いったい何がきっかけで親しくなったのか。幻想郷は狭いとはいえ、解らないものだ。

「しかし、あんな難儀な子に付き合う妖夢も大変でしょうね」

 呆れたように永琳が言ってみせると、輝夜はまた声を潜めて笑う。

「そういうのは、主で慣れているんじゃない?」

 西行寺幽々子も、この幻想郷の力ある者の例に漏れず、気ままで奔放だ。
 それに振り回されることに比べたら、鈴仙の難儀な性格など大したことではないのかもしれない。忍耐力というのは大切なものだ。
 とはいえ。

「その主も主で、随分と過保護だけれど」

 ファイルから取り出したのは、いつぞや妖夢が届けてきた、西行寺幽々子の書状だ。その文面は、見返すにつけ、あまりの微笑ましさと過保護さに思わず笑みが漏れる。

 ――うちの妖夢が、そちらの兎さんと仲良くしているようだけれど、差し支えなければ、ふたりが自由に会ったり遊んだり出来るようにしてあげてくれないかしら。

 実際はもう少し長い文章だが、文意はおおよそ、そんなところだ。妖夢から書状を渡され、一読して思わず噴き出した永琳は、その場で返事を書いた。

「あら、永琳だって他人のことは言えないんじゃない?」
「……そうね」

 輝夜の指摘に、永琳は苦笑で返す。

 ――本人が望めば自由時間を与えるようにしておきますので、うちの鈴仙などで良ければ、煮るなり焼くなりお好きにどうぞ。

 永琳が書いた返事は、おおよそそんなところだ。
 そして数日後、鈴仙は「半休が欲しい」と言い出した。言いたいことをはっきり言うのが大の苦手なあの鈴仙が、である。おおよそ自分の希望というものをはっきり口にした試しが無い、鈴仙・優曇華院・イナバが、だ。これに感動せず何に感動しろと言うのか。
 妖夢と親しくなってからの鈴仙は、今までより明らかに楽しそうに毎日を過ごしている。その理由が魂魄妖夢のことにあるなら、永琳としてもそれを邪魔する気はない。むしろ応援するつもりだ。だからこその、今夜の例月祭でもあったわけで。

「あの剣士の子、半人半霊よね?」

 不意に、輝夜がひとつ首を傾げた。

「そうだけど?」
「あの子の寿命って、人間並みなのかしら」
「半分は幽霊だから、人間よりは永いでしょう」
「やっぱり、そうよね」

 人間の寿命はおおよそ六十年だが、幽霊に寿命は無い。無限を半分にしてもそれは無限でしかない。ゼロを割れないのと同じ事だ。しかし、魂魄妖夢は同時に半分人間でもある。寿命の無い幽霊と、寿命のある人間が共存するという矛盾。
 それはあるいは、永遠の生という矛盾を抱えて生きる自分たちに近いのかもしれない。

「どうしたの? 輝夜」
「ううん」

 輝夜はゆっくりと首を振って、永琳の元に歩み寄る。

「――この場所が永遠でなくなったことに、取り残されているのはどっちなのかしらね」

 呟きのような輝夜の言葉に、永琳は答えず、ただその長い黒髪をそっと撫でた。



 永遠亭は、既に永遠の場所ではない。
 そこに暮らすのは、永遠の者と、永遠ではあり得ない者。
 永遠を生きる者たちに、そうでないものたちの時間はあまりに短い。
 今、鈴仙やてゐがここにいる時間も、過ぎ去ってしまえば自分や輝夜にとっては刹那。
 ――だとしても、いや、だからこそ、か。



「私はただ、どれほど短い時であっても、鈴仙に笑っていてほしいだけよ」

 目を細めて囁いた言葉に、輝夜は永琳の顔を見上げて、ひどく曖昧に微笑んだ。
 ファイルに仕舞われた「定期検診」のカルテに、永琳はもう目を向けなかった。











うみょんげ!

第4話「儚い月の残照」












      1


 ――およそ六十年前、月の都。まだ、鈴仙がレイセンと呼ばれていた頃のこと。

 綿月依姫は憤慨していた。いや、呆れていた、という方が正しい。
 玉兎たちの訓練を終えた帰り道のことだ。基本的に気ままで賢くない玉兎たちを、どうにかこうにか一人前の兵士に鍛えるのが依姫の仕事である。一人前というのも玉兎としての基準なので、依姫の目から見れば甚だ頼りないと言わざるを得ない連中ばかりなのだが、それは今さら文句を言っても仕方ないことだ。
 ともかく、依姫が今呆れているのは、玉兎たちの本質的な頼りなさではない。もっとピンポイントな、具体的に言えばある一匹の玉兎についてのことだった。

「あら依姫、今日の訓練はおしまい?」
「お姉様」

 ため息を漏らしながら歩いていたところを、聞き慣れた声に呼び止められる。振り向けば、その両手に桃を抱えた姉――綿月豊姫が、いつもの福々しい笑みを浮かべていた。

「おしまいなら、桃食べましょう、桃。美味しいのよ」
「いえ、まだ他にも片付けることがあるので」

 首を振ると、「あら」と豊姫は不思議そうに小首を傾げる。

「依姫はお腹空いてないのかしら?」
「空いてませ」

 ぐぅ。どこからか誰かの腹の虫が鳴る。

「桃、いらない?」

 豊姫の邪気の無い笑みに、依姫は赤面しながら「……食べます」と頷いた。
 月人といえども、運動をすればお腹は空くのである。



「ところで、何にため息をついていたの?」

 豊姫の自室。向き合ってゆっくりとお茶を啜っていると、不意に豊姫がそんな問いを投げかけてきた。歩きながらため息をついていたのを、しっかり聞かれていたらしい。

「大したことではないんです」

 依姫は頭を掻きながら、姉の差し出す桃を囓る。染み渡るような甘さが口いっぱいに広がる。

「あの子のこと?」
「そういうことです」

 こんなのは洞察のうちにも入らない。何しろ、依姫が訓練後にため息をつく理由といえば八割方が、その一匹の玉兎のことなのだ。

「また今日も勝手に抜け出して、隠れてぼんやりしていたようで」
「あらあら」
「笑い事ではないんです、お姉様」

 盛大にため息を漏らして、依姫はお茶を啜った。脳天気な渋みが、桃の甘味を中和していく。

「いくら本質的に脳天気な玉兎とはいえ、あまりに規律を守れないようでは」
「そんなに不真面目じゃ、そもそも兵隊に向いてないんじゃないかしら?」
「素質はあるんです。今まで見た玉兎の中でも最高の素質が。だからタチが悪いんです」
「本人に、その素質を活かす気が全く無い、と」
「活かす気が無いというか――レイセンは、何を考えているのか解りません」

 そのペットの名前を口にして、依姫は意味もなくフォークで桃を突き刺した。

「大抵の玉兎は、言われたことはきちんと――でもないですが、言われたなりにはやります。やることを命じておけば、その命令自体に疑問を持つことはない。ところが、レイセンは命じてもやらない。命じなくてもやらない。だからといって、訓練を勝手に抜け出して何をしているかといえば、特に何もせずぼうっとしている」

 穴だらけになる桃に、豊姫が困ったように眉を寄せた。依姫はそれを無造作に口に放り込んで、お茶で流し込むようにしながら言葉を続ける。

「意志や理由があってのサボタージュではなく、ただなんとなく訓練を抜け出して、なんとなくぼうっとしているだけなんです。やる気がない、という次元の問題ではないです、あれは」
「――行動の指針が存在しない?」
「ああ……そうですね。そういうことなのかもしれません」

 姉の言葉にひとつ眉間に皺を寄せて、依姫は息を吐いた。

「他の玉兎は私の指示があれば『とりあえず』それに従いますが、レイセンだけは『とりあえず従う』という行動指針すら無いのかもしれません。何をしていいのか解ってないなら教えればいいだけなんですが、あの子は教えても動かない。動いてもそれが持続しない。……単に頭が悪いという次元の問題ではない。言葉が通じていない気すらします」

 ふうん、と豊姫は桃を飲みこんで、「行動の指針、ね」と呟いた。

「指針が無い――ということは、判断基準が無い、ということよね」
「はあ」
「例えば」

 眼前に桃を持ち上げて、不意に豊姫はそれを真っ二つに割って見せた。

「言うことを聞かないとお仕置きされる――というのは、判断基準にならないかしら」
「怒っています。毎日怒鳴ってます」
「それが効かないなら、怒りの示し方をもう少し具体的にすべきじゃない?」

 豊姫の言いたいことは解っている。解っているからこそ、依姫は黙り込む。
 具体的にする、というのは、要するに指示に従わないことで被る不利益――苦痛やそれに伴う恐怖のことだ。

「私個人としては、あまりそういう――恐怖心で従わせるのは好きではありません」

 ぐっとお茶を飲み干して、依姫はひとつ息をついた。

「そもそも恐怖による服従は、反発心や恐怖からの逃避願望と一体です。つまりそれは、肝心なところで裏切る、逃げ出すという可能性を孕むわけですから、兵隊としてそれでは困ります。それに、他の玉兎たちの手前、レイセンにばかり特別に厳しくするわけにもいきません。レイセンだけならともかく、他の玉兎たちまで萎縮させてしまっては士気にも関わるわけで。だいたい、レイセンは別に怒鳴られて平気な顔をしているわけではなく、むしろ怯えているくせに怒鳴られるようなことを止めようとしないのが問題なのであって」
「ふうん」

 長々と言葉を続ける依姫に、豊姫は小さく含み笑いをして小首を傾げる。

「……なんですか、お姉様」
「要するに――」

 はぐ、と桃を囓りながら、豊姫は目を細めて楽しげに微笑んだ。

「依姫は、レイセンが懐いてくれなくて拗ねてるのね?」
「違います! レイセンのやる気の無さを嘆いているんです!」
「違うの? だって言うことを聞かないのは、要するにレイセンが依姫に懐いてないってことじゃないかしら?」
「――――」

 思わず黙り込んだ依姫に、豊姫は「ごちそうさまでした」と空になった桃の皿に手を合わせて、それから微笑で向き直る。

「押して駄目なら、引いてみろと言うわ」
「引いて?」
「褒める。ご褒美を与える。ムチばっかりじゃ疲れちゃうわ。アメもあげないと」
「……レイセンは、それ以前の問題です」
「それ以前だからこそよ。『言うことを聞かないと怒鳴られる』が効かないなら、『言うことを聞いたら褒めてもらえる』方向性で引っぱってあげればいいんじゃないかしら。ちゃんとした判断基準をレイセンに与えてあげないと」
「しかし、他の玉兎たちの手前、特別レイセンだけに甘くするわけにも」
「それなら、全員ちゃんと褒めてあげればいいじゃない」

 再び依姫は黙り込む。確かに姉の言うことには筋が通っている。通っているのだが。

「甘やかすのは苦手?」
「…………」

 答えられない依姫に、豊姫は苦笑して、「そういえば」と話を変えた。

「レイセンの面倒を見てる子が居なかったかしら?」
「面倒?」
「名前は知らないけど、あのふわっとした髪の」
「……ああ、サキムニのことですか」

 姉の言う玉兎の顔を思い浮かべて、依姫は頷く。サキムニ――玉兎たちの間では縮めて《サキ》という愛称で呼ばれている兎だ。

「面倒――というか、サキムニはレイセンと寮で同室ですから。同室の四匹のまとめ役ですし、確かに、手の掛かるレイセンの面倒を見てるのは間違いないですが」
「いい子なのね」
「玉兎にしては真面目な部類です。それだけで得難い資質と言っていい。それ以外はまあ、並というところですが、まとめ役はそのぐらいが丁度いいでしょう」

 集団をまとめるのに必要なのは、飛び抜けた能力とは限らない。戦闘の資質でいえばレイセンの方が、サキムニよりはずっと上だ。だとしてもレイセンにリーダーは務まらない。要は、人望と調整能力と気配りである。

「最近は専ら、抜け出したレイセンを連れ戻すのに走り回っていますね」
「その子のことは、レイセンの方はどう思っているのかしら」
「……さあ。レイセンの考えていることは解りません」

 ため息。本当に、依姫にとってはレイセンは理解しがたい存在なのだ。
 どれだけ怒鳴っても、それに怯えはするくせに反省はしない。何が悪いのかがそもそも解っていない。何をしたいのかも、何をしたくないのかもはっきりしない。せめて何が不満なのか、何が嫌なのかを口に出してくれれば少しは対処のしようもあるのだが。

「資質があるので今まで我慢してきましたが、もう兵隊にするのは諦めて、餅つきにでも専念させた方がいいかもしれません、レイセンは」
「うーん、依姫の話を聞いてる限りだと、餅つきを命じても同じことじゃない?」
「……それを言われると否定できませんが」

 首を振った依姫に、「そうだ」と不意に思いついたように、豊姫は手を叩いた。

「ねえ依姫。今度、訓練の様子、見に行ってもいい?」
「は?」

 姉の言葉に虚を突かれ、依姫は目をしばたたかせた。






      2


 依姫が姉と桃を食べていた、その四半刻ほど前。

「はい、そこまで!」

 ぱん、と依姫が手を打ち鳴らす。その瞬間、玉兎たちは一斉に息を吐き出して地面に座り込んだ。が、地面に何かが突き刺さる音がして、再び一斉に立ち上がる。
 依姫はぐるりと玉兎たちを睥睨すると、地面に突き立てていた刀を抜いて鞘に仕舞う。

「今日の訓練はここまでにします。けれどこの後も各自、自主的な鍛錬を怠らぬこと」

 はい、と返事が唱和する。依姫は訝しげにもう一度玉兎たちを見渡し、「では、今日はこれにて解さ――」と言いかけて、不意に眉を寄せて言葉を切った。

「キュウ!」
「はっ、はい!」

 鋭い声に、キュウと呼ばれた淡い金色の髪の玉兎が、びくりと身を竦ませる。

「レイセンはどこに行ったのですか」
「……あー、えーと、少し前にふらふら~っとどこかへ……」

 頬を掻いて、視線を逸らしながらキュウは答える。依姫は思わず目元を覆ってため息をついた。もうこれで何度目だ。

「レイセンが抜け出そうとしたら止めなさいと言ったでしょう!」
「は、はひぃ」

 依姫が怒鳴ると、キュウはしおしおと身を縮こまらせる。と、「依姫様」と手を挙げる玉兎がいた。ふわりとした桃色の髪の玉兎だ。

「私が、探しに行ってきます」
「ああ、サキムニ……解りました。見つけたら私のところまで……いや、いいわ。じゃあ、残りは解散! ただしキュウは居残り」
「うぇ」
「レイセンが戻ってきたら、ふたりで屋敷の周りを五周走ること」
「うへぇ~」

 げんなりした顔で、キュウはぺたんと座り込む。サキムニはぺこりと依姫に一礼して、また別の方向に駆けだした。残りの玉兎たちは思い思いに散らばっていく。
 レイセンの顔を思い浮かべて、依姫は何度目かのため息をつく。あのやる気のない態度を許してしまっているのは、周囲の環境にもやはり大いに問題があるか。
 どうにかしなければ、とは思うものの、さりとて妙案がすぐに浮かぶのであれば、こんなことにはなっていないのである。


     ◇


 綿月邸の庭には、無数の桃の木が植えられている。
 一年中そこに生る桃は、綿月姉妹の姉、豊姫の大好物であり、玉兎たちのおやつでもある。
 甘い桃の匂いが立ちこめる、その木々の間。
 レイセンは、ぼんやりと桃の実を見上げながら立ち呆けていた。
 訓練は終わったのだろうか。それらしき声はもう聞こえないけれど、皆がだらけているだけなのかもしれないので、それは解らない。
 訓練に戻ろう、という気は無かった。あったらそもそも抜け出してはいない。
 頭上にぶら下がる桃の実に、レイセンは手を伸ばした。が、あと少しで届かない。背伸びをすると指先が桃に触れるが、掴んで落とすにはあと数センチが足りなかった。
 名残惜しい思いで届かない桃を見上げていると、不意にいっそう強い桃の匂いが漂ってくる。

「……?」

 レイセンはその匂いの方へ足を向けた。鼻をひくつかせて、甘ったるい匂いを追いかける。ほどなく、木々の合間からガサガサと物音がした。誰かがいる。
 木陰から、レイセンはそっと覗きこんだ。
 そこに佇むのは、一際大きい桃の木。その下に、ひとつの人影がある。

「あら?」

 その人影は、両手一杯に桃を抱えたまま振り返った。レイセンは慌てて身を隠す。

「……レイセン? こんなところでどうしたのかしら?」

 穏やかな声。恐る恐る再び顔を出すと、福々しい笑顔がこちらを覗きこんだ。
 綿月豊姫。自分たち玉兎の飼い主である、綿月姉妹の姉の方だ。
 目の前に迫った豊姫の顔に、レイセンは思わず身をのけぞらせる。
 豊姫はひとつ首を傾げて、それから腕に抱えた桃を見下ろし、ひとつ破顔した。

「食べる?」

 桃をひとつ差し出して、豊姫は笑う。その笑顔と、差し出された桃を見比べて、レイセンはこわごわと桃に手を伸ばした。すべすべした桃を、両手で掴む。

「大丈夫、依姫に告げ口したりしないわよ」

 その言葉に、レイセンは豊姫の顔を見上げて、思わず笑みを漏らした。
 豊姫は目を細めて、差し出した桃をレイセンの手に握らせた。


     ◇


 綿月邸の門の前で、キュウはぼんやり、薄曇りの空を見上げていた。
 この広い屋敷の周りを五周というのは、兎の足でも半刻はかかる。何しろ庭の桃園が広いのだ。やれやれと息を吐きながら、門の中を覗いた。まだ、サキムニとレイセンの姿はない。
 その代わり、見慣れた顔がこちらを見つめていた。

「ん? シャッカ、どしたの?」
「……キュウ」

 黒髪に、薄い眼鏡を掛けた玉兎――シャッカは、軽く非難するようにキュウを見つめた。その視線に、キュウは小さく肩を竦める。

「なんで、レイセンを止めなかったの」

 疑問というよりは、糾弾のような口調で、シャッカはそう問いかける。

「レイセンが悪いのに、キュウが怒られるなんておかしい」

 あー、とキュウは視線を逸らして頬を掻く。また答えづらい質問を。
 とはいえ、シャッカが真面目にこちらのことを考えてくれているのも解るので、無碍にもできない。さてどうしたものか、と首を捻ると、シャッカは口を尖らせる。

「ねえ、キュウ」
「いやほら、レイセンのあの目に当てられてふらふらしてるうちにさ。レイセンの目、ちょっと強烈じゃん? もうちょい自分で抑えればいいのに、まともに覗きこんじゃって頭くらくらぐ~るぐると、そしたらいつの間にかレイセンが居なくなってて」
「嘘」

 そりゃバレバレですよねー、とキュウはため息。目で波長を操る力は大なり小なり玉兎なら持っている。レイセンは突然変異レベルでその能力が強いが、だからといって同じ兎同士、レイセンの目でふらふらになるほど無防備ではない。
 かといって、とキュウは唸る。レイセンが訓練をよく勝手に抜け出す理由は、なんとなく想像はついている。何しろレイセンは自分の意志とか感情とかを表に出すことが少ないので、周囲としてはその行動から推察するしかないのである。連れ戻しに行く担当のサキムニとは意見の食い違いがあるので、正しいのかどうかは解らないけれども。
 とはいえ、だ。目の前で口を尖らせるシャッカの顔を見る。その推察を話したところで、おそらくシャッカは納得しないだろうし、こっちがレイセンを庇ってると思われてますます機嫌を損ねられてしまいそうだ。
 まあ、シャッカの気持ちも解らなくはない。自分たちも決して真面目な兵隊ではないが、レイセンの態度の悪さ――というか訓練をサボる頻度は群を抜いている。それでも、あの厳しい依姫がレイセンを部隊に置き続けているのは、レイセンの類い希な素質が故だ。はっきり言えば、レイセンが本気で戦おうとすればおそらく、キュウたち他の玉兎が束になったって敵わない。キュウだってサキムニやシャッカと比べれば身体能力では勝っているが、あの子はそういうレベルではない。――レイセンは、玉兎としては強すぎるのだ。

「そんなに訓練が嫌なら、兵隊やめちゃえばいいのに」
「いやま、レイセンにはレイセンで、いろいろあるんだって。シャッカだって別に好きこのんで兵隊やってるわけじゃないっしょ? レイセンだってなんかこーあるんだよ、いやあたしゃレイセン本人じゃないから確証はないけどさ、でもそこらへん推し量ってやるのもほら」
「知らない、そんなこと。――何にも言わないじゃない、レイセン」

 全くもって、シャッカの言葉に反論の余地は無いのである。
 もうちょっと口数が増えるか、表情が増えるかすると、やりやすいんだけどねえ。
 そんなことを思いながら、キュウはまたぼんやりとした月の空を見上げた。


     ◇


 木の根元に腰を下ろして、レイセンは桃にかぶりつく。
 その姿を、豊姫は隣に腰を下ろして、自分も桃を囓りながら横目に見つめていた。
 レイセンのことは、依姫から主に愚痴としてよく聞かされている。不真面目な玉兎たちの中でも、群を抜いて不真面目なサボり魔。
 豊姫の印象では、レイセンは口数の少ない、おどおどした気弱そうな玉兎というイメージだったので、依姫が愚痴るほどの不良玉兎とは思えないでいたのだが、ひとりでこんなところをうろついているあたり、サボり魔というのはどうやら事実らしい。

「美味しい?」

 もぐもぐ、ごくん、と二口目を飲みこんだレイセンにそう尋ねると、レイセンはきょとんとこちらを振り向いた。兎の赤い瞳が、豊姫を見つめる。豊姫は笑い返した。

「桃、好き?」

 レイセンは食べかけの桃を見下ろして、こくん、と小さく頷く。

「私と一緒ね」

 豊姫は笑って、自分の桃を囓った。豊穣な甘味が口いっぱいに広がる。レイセンも手元の桃を食べるのに戻り、それを見ながら豊姫はひとつ首を捻った。
 基本、玉兎といえば楽天家で日和見でお喋りで不真面目な生き物だ。もちろん個々に性格の違いはあるにせよ、根っこの部分の性質はあまり変わらない。しかしこのレイセンは、他の玉兎たちとは何か違う。それは単に口数が少ない、というだけではない気がした。

「ねえ、一緒にサボるお友達はいないの?」

 ふとそう問いかけてみると、レイセンは不思議そうにこちらを見つめ返す。

「……ともだち?」

 まるで異世界の言語でも聞いたかのように、レイセンはそうオウム返しに呟いた。

「そう、お友達。同じ依姫の部隊の仲間とか」
「……なかま」

 困惑した顔で、レイセンは小さく唸る。桃の残りを口に放り込んで、「甘い……」と呟いた。

「よく……解らない、です」

 たどたどしい言葉。友達、仲間。この子は玉兎の中で孤立しているのかもしれない。玉兎にしては大人しいし、おどおどしているし、お喋りで享楽的な玉兎の輪の中には入りづらいのだろうか。こんなところでサボっているのもそのせいかもしれない。
 しかし、それも寂しい話だ。ここで桃を食べさせてあげるぐらいなら出来るけれど、豊姫だってそういつもいつも桃を食べてばかりいるわけでもないのである。
 唇に指を当てて、豊姫は少し考え――それから、ごそごそと懐から一冊の書物を取り出した。正確には、自分の能力で離れた自室から取ってきたのだが。

「これ、あげるわ」

 小さなその本を、レイセンに差し出す。レイセンは不思議そうに本を見下ろした。

「地上の本よ」
「……地上の?」

 それはいつだったか、豊姫が気まぐれに地上と月を繋いで拾ってきた本だ。地上の子供向けの読み物のようなので、レイセンにも読めるだろう。

「ひとりでいるときは、本でも読んでるのが一番。あ、依姫には内緒よ?」

 豊姫が言うと、レイセンはぱらぱらとページをめくり、文字で埋まった小さな書物に難しい顔をした。これでも辛いかしら、と豊姫は苦笑する。
 が、ほどなくレイセンの目つきは真剣なものに変わり、ゆっくりとページを捲り始める。何か気になる話でもあったのかもしれない。難しい顔で子供向けの読み物をじっと見つめるレイセンの姿に、豊姫は残りの桃を籠に詰めながら小さく苦笑した。

「あ、いた、レイセン!」

 と、そこに別の声が割り込み、レイセンがびくりと身を竦めて顔を上げる。木々の合間から、ぴょこんと兎の耳が顔を出した。しかしレイセンの傍らにある豊姫の姿に気付いたのか、声の主もまたびくりとのけぞるように足を止める。

「と、豊姫様」

 ふわりとした桃色の髪の玉兎だった。名前は覚えていないが、恰好からして依姫の部隊の子だろう。その玉兎は困り顔で、豊姫とレイセンの姿を見比べる。

「レイセンのお迎え?」
「は、はい」
「だそうよ」

 豊姫が見やると、レイセンは不満げな顔でぎゅっと豊姫の渡した本を抱きしめた。
 桃色の髪の玉兎は、もう一度豊姫を見やると、意を決したようにレイセンへと詰め寄る。

「ほらレイセン、依姫様が怒ってるから戻るわよ」
「……サキ」
「戻ったらキュウと屋敷を五周だって」
「えー」
「えーじゃないの。私も付き合うから、ほら立った立った」

 うう、と唸りながら、レイセンはサキと呼ばれた玉兎に引きずられるように立ち上がる。

「豊姫様、申し訳ありません。ご迷惑をおかけしました」

 玉兎にしては珍しく、ぺこりと礼儀正しくサキは頭を下げる。豊姫は苦笑で返した。

「別に構わないわよ~。あ、私がこの子と居たことは依姫には内緒にしてね」
「……はあ、解りました」

 豊姫の言葉に首を傾げながら、サキはレイセンの手を引きずって歩き出す。レイセンはなおも愚図っていたが、結局そのまま引きずられて姿を消した。
 そんな兎たちの姿を見送って、豊姫はぽつりと呟く。

「友達、いるじゃない」


     ◇


「お、戻ってきた、戻ってきた」

 サキムニに引きずられて連れ出された屋敷の外で、キュウとシャッカが待っていた。
 キュウは笑って手を振り、サキムニが手を振り返す。レイセンはその姿をぼんやりと見つめていたが、不意にキュウの隣、シャッカが眼鏡の奥で眉を寄せて、険しい視線をこちらに向けた。思わずレイセンは足を止め、サキムニが振り返る。

「レイセン」
「……うー」

 はあ、とサキムニが大げさにため息をつく。と、唐突にサキムニは、レイセンの手を引いたまま走りだした。引きずられて、レイセンもよろめきながら走りだす。

「ほらキュウ、さっさと終わらせちゃいましょ」
「んお? なんだ、サキも付き合うの? おっけーおっけー、ちゃっちゃと走りましょ」

 サキムニに声を掛けられて、キュウも走りだす。シャッカはまだ不満げな顔でこちらを見つめていたが、諦めたようにキュウの後を追って走りだした。

「なんだシャッカ、あんたまで付き合うことないのに」
「……うっさい」

 シャッカはキュウに視線を向けないまま、ふて腐れたようにそう答えた。
 そんな声を背後に聞きながら、レイセンは自分の手を引いて走るサキムニの、ふわりとした桃色の髪が揺れるのをぼんやり見つめる。

「うおーいレイセン、今日はどこでサボってたのさ?」
「……」
「桃の匂いがするよ~? ずるいなー、あたしの分も取ってきてくれればいいのに。あ、それだとシャッカが拗ねるからシャッカの分も。ついでにサキの分も取って四人でこっそり食べよーよ。依姫様や豊姫様には内緒でさー。こっそり食べる桃ほど美味しいものないじゃん」

 走りながら、キュウは勝手にそんなことをまくしたてて笑った。
 おせっかいなサキムニ、おしゃべりなキュウ、いつもキュウの隣にいるシャッカ。
 同じ部隊の玉兎たち。だけど、どうしてみんな、自分に関わろうとしてくるのだろう。
 いつもこうだ。サキムニは抜け出した自分を探しに来るし、訓練のときに組んでいるキュウはこうして連帯責任でいつも走らされているけど、それでこっちを嫌うわけでもない。むしろキュウをいつも見ているシャッカの方が、レイセンに対して怒っている節もある。
 構わないでほしいのに。
 ひとりでぼんやりしていたいだけなのに。
 依姫は怒鳴るし、サキムニは探しに来るし、キュウは勝手に話しかけてくるし。
 どうしてみんな、自分のことを放っておいてくれないんだろう――。

「うおっし、お先~」

 たっ、とキュウがレイセンたちの前に出る。兎の脚力に任せて駆け出すキュウの背中を、シャッカが不満げに何かを呻いて追いかけていく。サキムニがこちらを振り向いて、ひとつ苦笑して――レイセンの手を、離した。

「ほら、私も先に行っちゃうわよ?」

 たっ、とサキムニは加速して、もう一度レイセンの方を振り返る。遠くには、こちらに手を振るキュウの姿が見える。
 レイセンは黙って、ペースを変えずにそのままのんびり走り続けた。
 サキムニやキュウの向けてくる言葉や笑顔に、どうすればいいのか、解らないまま。







      3


 玉兎たちの家は、綿月邸の敷地の奥に建っている寮だ。綿月邸で飼われている玉兎たちは、餅つき担当も、兵たちも、揃ってこの寮で寝起きする。
 寮は原則、四人部屋になっている。基本的に二人一組で訓練をするので、二組ずつ一部屋というわけだ。この四人単位は、玉兎兵たちで何か作業をするときも基本単位になる。
 その寮の二階、二○七号室。ネームプレートには四つの名前が並んでいる。
 上から順に、《サキムニ》《キュウ》《シャッカ》《レイセン》。

「あー、つっかれたぁー」

 部屋に置かれたソファーに倒れ込むように、キュウが身を投げ出す。備え付けの冷蔵庫から、サキムニが飲み物を取り出してキュウに手渡した。「あんがと、サキ」と受け取って、キュウはレイセンとシャッカの方を見やる。

「シャッカ、レイセン、飲む?」

 グラスに液体を注ぎながら問うキュウに、シャッカが頷いて歩み寄った。その背中を見ながら、レイセンは二段ベッドの下段に潜り込む。ここが、自分の寝床だ。

「レイセンは? いらない? いらないなら三人で飲んじゃうよー? あー、訓練の後の一杯は格別だねぇ、くぅーっ」

 大げさに喉を鳴らしてみせるキュウの言葉を無視して、レイセンは枕元の電灯を点けた。ポケットから取り出したのは、豊姫から渡された小さな本。電灯の光の下、ページを捲る。
 シャッカはよく暇な時間に本を読んでいるけど、レイセンはあまりこうして本を読んだことはなかった。読み書き自体は依姫から教わっているから、この本も読めないわけではない。

「レイセン」

 と、覗きこんできたのはサキムニだった。視線だけで振り返ると、サキムニはタオルを持ち上げて、「お風呂、行かない?」と首を傾げた。レイセンは黙って首を横に振る。

「ちぇ、相変わらず付き合い悪いんだから。汗くさくなっても知らないよー?」
「いいでしょ、キュウ。行きたくないって言ってるんだから」

 つん、と口を尖らせて、シャッカが先に部屋を出て行く。キュウはサキムニと肩を竦めながら顔を見合わせて、「んじゃ、行ってくるよん」と揃って部屋を出て行った。
 三人が出て行くと、急に部屋の中がしんと静まりかえる。読んでいた本から顔を上げて、レイセンはベッドから這い出した。四人部屋は、ひとりになるとなんだか広い。
 ふと部屋の中を見渡すと、テーブルの上に空のグラスがひとつ、ぽつんと残されていた。冷蔵庫を開けると、瓶に麦茶が残っている。グラスに注いで、ひとりで飲んだ。冷たさが少し歯に滲みて、レイセンは小さく眉を寄せる。
 ソファーに腰を下ろして、また本を広げた。読むのが遅いせいで、たった五ページの話をようやく読み終わったところだった。
 読んでいたのは、《野ばら》と題された、ふたりの兵隊のお話。

 やがて冬が去って、また春となりました。ちょうどそのころ、この二つの国は、なにかの利益問題から、戦争を始めました。そうしますと、これまで毎日、仲むつまじく、暮らしていた二人は、敵、味方の間柄になったのです。それがいかにも、不思議なことに思われました。
「さあ、おまえさんと私は今日から敵どうしになったのだ。私はこんなに老いぼれていても少佐だから、私の首を持ってゆけば、あなたは出世ができる。だから殺してください」と、老人はいいました。


 よく、解らない。レイセンはその文章を指でなぞる。
 老人と青年。仲良く将棋を差していたふたりが、仲の良いままに敵どうしになって、殺してくれと老人は青年に言う。それに対する青年の答えも、老人の気持ちも、ふたりが敵どうしになってしまったということの意味も、レイセンにはよく解らない。
 仲が良い、ということ。それはたとえば、キュウとシャッカのような関係だろうか。
 そんなふたりが、どうして敵どうしになるのだろう。
 どうして老人は、敵になった青年に、殺してくれ、なんて言うのだろう。
 もう一度読めば解るだろうか、と、その話の最初のページに戻る。ゆっくり、もう一度読み始めた。ふたりの兵隊。老人と青年。――自分は、たぶんその、どちらでもない。


     ◇


「たっだいまー!」

 先陣を切って部屋に戻ってきたのはキュウだった。本から顔を上げたレイセンに構わず、キュウは壁際まで一直線に駆け、がらりと窓を開け放つ。涼やかな風が吹き込んで、まだ濡れたままの短い髪を撫でていった。

「キュウ、風邪引くわよ?」

 遅れて、シャッカとともに戻ってきたサキムニが苦笑混じりにそう窘める。キュウは「大丈夫大丈夫、あたしは風の子!」と窓の外へ顔を突き出して、何事か吼えた。

「お、地球が見えてる見えてる」
「あら、本当」

 キュウが空を指差し、隣から窓の外を覗いたサキムニも声をあげた。

「穢れた地上も、こっから見てる分には綺麗なもんだねえ」
「……何でも、そういうものでしょ。隣の芝は青いの。実際はそんなことなくても」
「シャッカはシビアだねえ。いいじゃん、綺麗なもんは綺麗なんだからさ。ねえレイセン?」

 キュウがこちらを振り向いた。レイセンは窓の外を見やる。夜空にぽっかり、切り抜いたようにほの青い光が浮かんでいた。――地球。自分たちが地上と呼ぶ、穢れた監獄。

「レイセン、お風呂入らないの?」

 サキムニが髪を拭きながらそう尋ねてくる。レイセンは黙って首を横に振った。サキムニは困ったように首を傾げて、「髪ぐらい洗った方がいいと思うけど」とレイセンの髪に触れた。

「背中流してあげるから、一緒にお風呂入ろう?」

 別にいい。汗くさくたって気にしない。そう答えようとしたけれど、サキムニは構わず「ほら――」と髪に指を通して微笑んだ。

「レイセンの髪、綺麗なんだから、ちゃんと洗ってあげないと」

 ね? と目を細めたサキムニの笑顔には、有無を言わせぬものがあって。
 読みかけの本のページを、息をついて閉じるしか、レイセンには出来なかった。

「じゃあ、私もう一回お風呂行ってくるわね」
「あいよー。シャッカ、将棋やろ、将棋」
「……いいけど。いくつ駒落とすの?」

 テーブルに将棋盤を広げて向き合うキュウとシャッカの姿を横目に、サキムニに引きずられるようにしてレイセンは部屋を出る。「ほら、早くしないとお風呂の時間終わっちゃうよ」と手を引くサキムニの髪からは、ふわりと石鹸の匂いがした。



 ほとんどの玉兎兵たちはもう入浴を済ませてしまったらしく、浴場は空いていた。
 ざぶん、とサキムニにお湯を掛けられ、スポンジで背中を擦られる。くすぐったさに目をつむっていると、「ねえ、レイセン」と囁くようにサキムニが声を掛けてきた。

「そんなに、訓練が嫌なの?」

 責める口調ではなかった。けれど、何と答えたらいいのか、レイセンには思いつかない。
 絶対に嫌、というほど積極的に訓練を忌避しているわけではないのだ。強いて言えば、どうでもいい。やりたいとは思えないから、やらない。……それだけだ。

「兵隊、なりたくなかった?」
「……」
「まあ、私もなんで兵隊なんかやってるんだろ、って思うことはあるけど」

 ざぶん。再びお湯を頭から掛けられる。はい、前は自分で洗う、とスポンジを手渡された。渋々それで身体を洗っていると、隣でサキムニもシャワーを頭から被って息を吐く。

「でもレイセン、抜け出してたって依姫様に怒鳴られるばっかりでいいこと無いわよ?」
「……別に、それでもいいし」
「良くないの。嫌でもなんでも私たちは兵隊なんだから」

 頭も洗う、とまたお湯を掛けられる。サキムニの言う理屈は、いまいち納得できない。
 どうして、兵隊なんかやっているんだろう。
 ――何のために、毎日銃剣を振るって訓練をしているんだろう?

「うりゃー」

 サキムニがレイセンの長い髪を、シャンプーを泡立てた手で掻き乱す。
 そのくすぐったさに、詮無い思考はどこかに吹き飛んでしまっていた。





      4


 翌日。

「だから言ったじゃない、風邪引くって」
「うえ~……面目ない……」

 その日は朝から、キュウが発熱して寝込んでいた。おおよそ原因は、ろくに髪も乾かさないまま冷たい夜風に当たっていたせいである。サキムニは呆れたように肩を竦め、顔を赤らめて呻くキュウの傍らにはシャッカが心配そうに付き添っている。

「依姫様には、ふたり休むって伝えておくけど、いい?」
「う~、よろしく~」

 シャッカが額に乗せた氷嚢の感触に目を細めて、キュウは答えた。
 じゃあ行こう、とサキムニはレイセンの背中を叩いて促す。訓練は行きたくなかったけれど、キュウのように休む口実は無かったので、仕方なくレイセンはサキムニの後を追う。

「あ、サキ」

 と、ベッドからキュウがサキムニを呼び止める。

「なに?」
「今日、あたしの代わりだと思うけど……いちおー、気を付けてね」
「ああ……うん、善処する」

 キュウのかけた曖昧な言葉に、サキムニは頷いた。ふたりが何の話をしているのかは、レイセンにはよく解らなかった。



 戦闘訓練は、基本的に決められた二人一組で行われる。
 普段、レイセンの相方はキュウだ。サキムニはシャッカと組んでいる。キュウとシャッカが組んだ方がいいんじゃないかとレイセンはたまに思うが、そうでもない事情があるらしい。

「全く、自己管理がなっていない……」

 キュウがダウンした旨を伝えると、依姫は呆れたようにそう肩を竦めた。

「解りました。サキムニは今日はレイセンと組むこと。やり慣れない相手でしょうが、くれぐれも不用意な怪我には気を付けるように。特にレイセン」

 刀の鞘で地面を叩いて、依姫はレイセンを睨む。レイセンは思わず身を竦めた。

「貴方にどれほど自覚があるかは解りませんが、貴方はサキムニよりはかなり強い」

 思わずレイセンは目をしばたたかせた。――強い? 自分が?
 サキムニの方を振り返ると、サキムニは苦笑混じりに目を細める。

「キュウとやり合っているときと同じ調子ではいけませんよ」

 それだけ言って、依姫は背を向ける。レイセンは隣のサキムニと顔を見合わせた。
 と、そこにぱたぱたと足音。こちらに駆けてくる影に、レイセンはひとつ首を傾げた。

「あらあら、もう訓練始まっちゃうところ?」
「お姉様」

 豊姫だった。レイセンの存在に気付いたか、豊姫はこちらに軽く手を振る。レイセンはどう反応していいか解らず、目をしばたたかせた。

「ああ、私のことは気にしないでね。ただのギャラリーだから」

 そう言って、豊姫は手にしていた籠から桃を取り出して囓った。その様に依姫が溜息をひとつ漏らして、それから玉兎たちの方を振り返る。

「それでは、今日の訓練を始めます。――全員整列!」


     ◇


「レイセンとあの桃色の髪の子、訓練でも一緒なのね」

 桃の木陰に腰を下ろして、豊姫は訓練の様子を眺めている。その視線の先にあるのは、専らレイセンとサキムニのようだった。依姫も主に意識を向けているのはそちらなので、姉の言葉に思わず反応してしまう。

「普段は、レイセンの相手をしているのは別の玉兎です。キュウという名前の」
「あら、その子はどうしたの?」
「風邪を引いたそうで」
「あらあらまあまあ」

 楽しげに笑う豊姫に、依姫は思わず大げさに息を吐き出した。

「――実際のところ、まともにレイセンの相手を出来るのは、キュウだけなんです」
「性格的な意味で?」
「能力的な意味で。――サキムニでは、全くレイセンの相手にはなりません」

 ほら、と依姫は訓練の様子を指し示す。ふたりの見ている手前、玉兎たちはいつもより真剣になっているようだったが、その中でひどく一方的なやり合いになっている組み合わせがあった。言うまでもなく、レイセンとサキムニだ。
 レイセンの振るう銃剣を、サキムニは慌てて避けるのが精一杯という様子で身を躍らせている。レイセンが手を休めると、申し訳程度にへろへろとやり返す。一事が万事そんな調子だ。しかし、力量差を考えるとそうなるのもやむを得ない。

「レイセンはあれでも、かなり手を抜いています。もちろん、サキムニの力量を慮っているわけではなく、単にやる気が無いだけでしょうが」
「サキちゃんの方は、それでもいっぱいいっぱいね」
「サキちゃん……まあいいですが。正直に言って、サキムニにはあまり戦闘のセンスはありません。力量の違いすぎる同士を組ませても、いい訓練にはならないのですが……」

 レイセンの部屋の四匹を力量順に並べれば、レイセン、キュウ、サキムニ、シャッカの順になる。キュウは玉兎兵の中でも、腕力は中の上だが俊敏さに関してはトップクラスだ。だからレイセンと組んでもそれなりに形になる。しかしサキムニでは、予想通りの有様だった。

「危なっかしいわね~」
「……私がレイセンの相手をした方がいいかもしれません」

 あれでは早めに止めさせた方がふたりのためだ。サキムニの方が怪我をする――。
 そう依姫が懸念した矢先だった。

「――――ぁっ」

 レイセンの突き出した銃剣の切っ先が、サキムニの左腕を掠めた。
 短い悲鳴。赤い液体が飛び散って、土に染みこむ。尻餅をつくサキムニ。玉兎兵たちが手を止めてざわめく。
 そのざわめきの中心で、
 ――がしゃり、と銃剣を落として、レイセンは呆然と立ちすくんでいた。


     ◇


 目の前で、サキムニの身体が傾ぐ。その腕から、赤い液体が飛び散る。
 手にしたのは銃剣。切り裂いたのはその切っ先。サキムニの腕。
 悲鳴とともに、尻餅をつくサキムニ。赤い雫が、地面に染みこんでいく。
 周りの玉兎兵たちのざわめき。依姫が顔色を変えて、こちらに駆け寄ってくる。
 その中で、レイセンは――がしゃりと銃剣を落として、震えていた。
 手が震えた。切っ先がひどくあっけなく、サキムニの肌を切り裂いた瞬間の感覚が、その手にまだ残っていた。目の前に、左腕を押さえて座り込んだサキムニの身体。その指の間から赤が溢れだす。

「サキムニ!」
「あ痛……すみません、避けきれなくて」
「これで押さえて。腕を上げて」

 依姫が白い布を取り出して、サキムニの左腕を押さえた。布がじわりと赤く滲む。他の玉兎たちがわらわらと寄ってくる中、遅れて駆け寄ってきた豊姫が依姫に包帯を差し出した。

「大丈夫?」
「あ、は、はい、かすり傷ですから……」
「レイセン」

 依姫が厳しい顔でこちらを振り向いた。びくりとレイセンは身を竦める。
 怖かった。どんな怒鳴り声より、依姫の厳しい言葉より、今は別の何かが怖かった。
 ただ、何が怖いのか、その正体だけが、レイセンにはどうしても解らない。

「――今日はもういいです。サキムニを連れて部屋に戻りなさい」

 はっと顔を上げる。依姫はサキムニの腕に包帯を巻きながら、他の玉兎たちに「はい、貴方たちは訓練を続ける!」と声をあげていた。
 包帯を巻き終わり、依姫に背中を叩かれて、サキムニは立ち上がる。こちらに向けられたサキムニの苦笑に、どうしていいか解らずに、レイセンは視線を逸らした。

「レイセン、行こ」

 サキムニの右手が、レイセンの手を掴む。左腕に巻かれた包帯に滲む赤が目に痛くて、レイセンはサキムニの横顔を見られなかった。


     ◇


「訓練を続けられない怪我じゃ、なかったんじゃない?」

 寮へ戻っていくレイセンとサキムニの背中を見送っていると、傍らの豊姫がそう問いかけてきた。依姫は剣の鞘で地面を突いて、首をゆっくり横に振る。

「どちらかというと、レイセンの問題です。あの様子では今日は無理でしょう」
「そうねえ」

 実際のところ、感情をあまり表に出さないレイセンが、あんなに怯えたような顔を見せたことに、依姫は小さな驚きを覚えていた。――と同時に、それはいささか、兵隊としては懸念すべき問題でもある。
 訓練で相手に怪我をさせることなんて、そう珍しいことでもない。そもそも兵隊とは戦うもの、敵を傷つけるものだ。だというのに、あの程度のかすり傷を与えただけであの表情では、精神的な面でやはり、レイセンは致命的に兵隊向きではないのかもしれない。
 要するに、と依姫は納得する。――レイセンは、決定的に臆病なのだ。

「あれだから、せっかくの資質が……どう鍛え直したものか」

 地面を叩きながら依姫が呟いていると、傍らから小さな笑い声。

「……なんですか、お姉様」
「いいえ」

 振り向くと、豊姫は何か、軽く呆れたような顔をして、依姫の顔を見上げた。

「サキちゃんが倒れたときの依姫も、結構すごい顔してたけれど」
「――――」

 思わず、依姫は目を白黒させた。姉の言葉の意味が、咄嗟に掴めない。

「……どんな顔ですか」
「さあ?」

 どこまでも楽しそうに笑う姉に、依姫はただ小さく息をついた。


     ◇


 寮の部屋に戻ると、パチリ、パチリと将棋を指す音が響いていた。

「んお? サキにレイセン、随分早いけどどしたの?」

 振り向いたのは、風邪で寝ているはずのキュウだ。平気な顔をしてシャッカと将棋を指しているキュウに、隣でサキムニが呆れたように肩を竦め、小さく顔をしかめた。

「それはこっちの台詞。風邪はいいの?」
「おーう、平気平気。すこーし寝てたらもうバッチリでさぁ。……ってサキ、その腕。あー、やっちゃったの? 気をつけなって言ったじゃん」

 サキムニの左腕を見とがめて、キュウはそう言った。
 困ったようにサキは苦笑し、レイセンはただ身を縮こまらせる。
 自分の銃剣が、サキムニの腕を掠めたときの感触が、また両手に甦った。

「……レイセンがやったの?」

 険しい声をあげたのはシャッカだった。音をたててシャッカは立ち上がり、その拍子にテーブルが揺れて将棋盤が音をたてる。「あー」とキュウの短い悲鳴。

「レイセン」

 シャッカの鋭い声に、レイセンは俯いて身を竦める。――と、庇うようにその一歩前に出たのはサキムニだった。サキムニはこちらを振り向いて、小さく笑う。

「これは私が鈍くさいせいだから。レイセンは悪くないわよ」
「ま、確かにサキは鈍くさいねえ」

 サキムニの答えに、キュウがからからと笑う。シャッカの眉間の皺が深くなった。

「ふたりとも、レイセンに甘すぎ」
「……そう?」

 キュウと顔を見合わせて、首を竦めるサキムニ。その背後でレイセンは。ぎゅっと両手を握りしめて俯いた。

「いやまあシャッカ、怒ってくれるのは嬉しいけどさ」

 立ち上がり、キュウはシャッカの頭に手を乗せて、その黒髪をくしゃりと掻き乱した。

「シャッカが思ってるほど、レイセンは無神経でも薄情でもないよ。ねえ?」

 そう言葉を向けられて、レイセンは思わず目をしばたたかせた。

「――そうね。私もそう思う」

 答えたのはサキムニだった。ぽん、とその手が、レイセンの頭に乗せられた。
 くしゃり、と髪に触れるサキムニの指。――自分が傷つけた、その左腕。
 どうしてか、不意に泣き出したくなって、レイセンはぎゅっと奥歯を噛み締めた。
 ――サキムニもキュウも、どうしてそんな風に自分のことを言うのだろう。
 そんな風に、優しい顔で、笑いかけてくるんだろう。

「……ごめん、なさい」

 ぽろりと、口からこぼれたのはそんな言葉だった。
 何に謝っているのかも解らないまま、ごめんなさい、と謝罪の言葉だけが口をついて。
 それが正しい言葉なのかも、何と続ければいいのかも、答えが出ないままだったけれど。

「気にしないの、レイセン」

 ぎゅっ、と。
 サキムニの腕が、レイセンの肩を抱いた。

「……ほら、そんな顔できるんじゃない、レイセンも」

 自分の顔を覗きこんで、優しく微笑んで、サキムニはそう言った。
 ――そのときの自分がどんな顔をしていたのか、レイセンには解らないままだった。









 自室の窓から見上げた月の傍らを、雲が速く流れていく。
 永琳の定期検診が終わったあと、眠れないまま鈴仙は、ぼんやり月を見上げていた。
 脳裏に過ぎるのは過去の残影。まだ自分が《レイセン》と呼ばれていた頃の記憶。
 その頃自分のそばにいた、仲間たちの面影。

「……サキ、キュウ、シャッカ」

 呟くだけの言葉は、湿った風に流されて消えていく。
 枕をぎゅっと抱きしめて、鈴仙は吐息とともに布団の上に倒れ込んだ。
 もう、忘れるべきなのだろうか。あの頃のことは。自分が捨ててきたもののことは。
 完全に忘れてしまえば、たぶん楽なのだろう。たとえば永琳や輝夜に振り回されている間のように、妖夢と他愛ない話をしているときのように、過去のことなんて思い出さなくて済む時間は、きっとすごく楽だ。
 だけど――だけど。
 忘れてしまうということは、ひどく恐ろしいと、そう思う。
 それは、無かったことにしてしまうことだから。
 サキムニが自分に向けてくれた優しさも。キュウの楽しい言葉たちも。シャッカの厳しさも。
 全部捨ててきた。捨ててきたから、忘れてしまえ、というのなら。
 ――いずれ自分は、今の暮らしも捨てるのだろうか?
 そのとき、永琳や輝夜やてゐや――妖夢のことも、忘れてしまえと思うのだろうか?
 捨てて、忘れて、自分はいったいいつまで、何から逃げて生きていけばいい?

「……よう、む」

 永琳のように。妖夢のように。自分を捧げるものを持っていられれば。それに一途であれれば、こんなことには悩まなくても済むのだろうか。
 そんな生き方は、楽だろうか? それとも、それもまた苦しみなのだろうか?
 解らない。いつだって、鈴仙には解らないことばかりなのだ。



 風が強い。冷たい湿気を孕んだ風が雲を押し流し、月が雲間に隠されていく。
 月の光が消えて、鈴仙はぎゅっと目を閉じた。
 ――明日は、雨が降るかもしれない。窓から流れ込む空気に、そう思った。



第5話へつづく
~次回予告~

※この予告の内容は変更される可能性が多々あります。


 幻想郷に、しとしと、しとしとと雨が降る。

「……えへへ、相合傘だね」

 秋の訪れを告げる冷たい雨と、傍らにある小さな温もり。

「あなたには、今はこれが一番の薬じゃない?」

 静かで穏やかで安らかな時間は、永遠のように思えるけれど。

「……鈴仙?」

 私は気付いていなかったのだ。

 少しずつ、何かが軋み始めていることに――。



 うみょんげ! 第5話「君に降る雨(仮)」



 ――私は、鈴仙を守りたい。



***


 月一と言っておきながら9月中に出せなかったことを猛省とともにカツカツになったスケジュールに悲鳴をあげるなど。遅くなって申し訳ありません浅木原です。
 冒頭でも書きましたが、今回登場した玉兎3匹は儚月抄に登場した玉兎兵を想定しています。

 サキムニ:中巻124ページでよっちゃんに伝令していた子
 キュウ:中巻151ページでメイド妖精とやりあったり下巻141ページで2号と喋ったりしてる子
 シャッカ:中巻冒頭で本を読んでる眼鏡の子

 そんなイメージで読んでいただけると幸いです。


 5話は今月中に出せたらいいなぁ……。
浅木原忍
[email protected]
http://r-f21.jugem.jp/
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コメント



0.2350簡易評価
3.60びく削除
そろそろ過去話かなと思ったら、やっぱり過去話でしたね。
今後の展開が気になるところで、評価がしづらいのですが、
9月中に出してくれなかったのでこれぐらいで。
これからもがんばってください
4.100名前が無い程度の能力削除
鈴仙の描写がとてもいいですね。
青い春、青い果実、青臭い悩み、ついでに隣の芝生も青い。
鈴仙の抱えている青さは不安定の色であると感じさせます。
6.80名無し削除
早く、早く続きを!
8.100名前が無い程度の能力削除
面白かったです。続きも楽しみにしてますので、頑張ってください。
9.100名前が無い程度の能力削除
うみょんげきたあああああああ!!
鈴仙の気持ちがなんとなくわからないでもない、ぐらいに
とどめてあるところが素敵だと思います!

・・・ところであの単語をみたときに
「きさま、はんらんぐんか!」
といいたくなるのはもはやしかたないと思う、うん
10.100名前が無い程度の能力削除
今回も凄く面白かったです!レイセン時代の鈴仙と周りの三人がとても可愛いです^^
11.100名前が無い程度の能力削除
相変わらず面白かったです!
レイセンと仲間たちもさることながら、依姫、豊姫がかわいい。
続きも楽しみにしています。
15.100名前が無い程度の能力削除
いつもながら続きが気になって仕方が無い…!
次も楽しみに待ってます
17.100名前が無い程度の能力削除
性格的な意味で? が 性的な意味で? に見えた。死のう

レイセンの心理描写が秀逸でした。人に怪我させたときの罪悪感はヤバイ
18.100名前が無い程度の能力削除
今日で一気に読んでしまった……。儚月抄まで絡んでくるとは。
21.100名前が無い程度の能力削除
待ってました!
これからも頑張ってください。
22.100名前が無い程度の能力削除
儚月抄の後は誰もが二の足を踏んだであろう鈴仙の過去話にここまで踏み込むとは……!
作者の手腕と気概に最大級の賛辞を送りつつ、続きを楽しみに待たせていただきます。
23.100名前が無い程度の能力削除
とよねぇが素敵に描かれていて俺得でした。
25.80名前が無い程度の能力削除
豊姫の評価は「レイセンは依姫と似た資質を持っているのでは?」って言う意味合いなのかな……
それにしてもレイセンつえぇw 幻想郷だとむしろ弱いイメージしかなかったから新鮮だなぁ
26.100名前が無い程度の能力削除
今回は設定掘り下げ回といった感じでしょうか。
うみょんげのメインストーリーを置いといて、儚月組だけでもこんなに引き込まれる話を書けるとはさすがです。
玉兎達のオリジナルネームが中々凝っているというか見ない名前ですけど元ネタ的なのはあるんでしょうか?

ここからレイセンがどう変わっていくのか、メインストーリーとサブストーリーの絡みは、
そして4話にして未だ百合未満ですがどれだけの規模の超大作になるのか見モノです。
やっぱり よっちゃんは かわいい な
27.90名前が無い程度の能力削除
豊姫さまかわいい。
続き楽しみにしてます。
29.90名前が無い程度の能力削除
冗談抜きで餅つきさせてたほうがレイセンは幸せだったのかもしれない…。戦う才能を持たずに生まれてきていればレイセンは月から逃げずにすんだのでしょうか。

グリマリで魔理沙も鈴仙を「わざわざ幻視の能力使わなければこいつ強いんじゃないか?」と評してましたね。
31.100名前が無い程度の能力削除
おもしろかったです。某動画でネタにされててびっくりしました…
32.100名前が無い程度の能力削除
レーセンの周りを囲う人達(兔達)の雰囲気が凄く好きです
51.100名前が無い程度の能力削除
キャラ作りがほんとうまい、みんな「活きてる」
さて、次を読もう
54.90名前が無い程度の能力削除
やった!よっちゃんととよ姉に加えて玉兎たち来た!
レイセン時代の鈴仙は、現在ほど表情も感情も豊かではなく、それが気になります。
それにしても、月時代も練りこまれていて読み応え抜群ですな。