ある夜中のこと、寝付きのわるかったアリスはどこからともなく流れてくる物音に、あいまいだった意識をハッキリとさせられる。アリスはベッドに横たわったまま、とろけた意識で音の所在をさぐった。
そと、外ではない。家のなかだ。この部屋か? ちがう。もっと遠い。廊下でもない。どこかの部屋だ。
アリスはベッドから身をあげるとスリッパを履き、寝間着の上にガウンを羽織り、ある部屋へと向かう。人形部屋だ。人形部屋は文字通り、アリスが人形をつくるための作業部屋で、そうして出来上がった作品たちがところ狭しと飾られている部屋だ。人形部屋のまえにやってきたアリスは、ドアノブを握るのを少しためらい、ドアの後ろへと耳をすませる。
アリスのやや疲れた顔が集中でかたくなる。部屋から淡々と鳴る音には聞き覚えがあった。糸をのばしたり、布をやぶいたり。裁縫をしていれば必ず耳にする音ばかり。誰かが人形をつくっているのだろうか。アリスは一瞬そう考えたがすぐに取りやめた。一つの嫌な想像をした。部屋においてある人形がネズミか何かにつつき回されているのではないかと。
顔をゆがめるアリス。目のくまが目立つ。思い切って部屋へはいった。窓はあるが、外からたくましい魔法の森の木々が月明かりをさえぎっているから暗い。アリスは手馴れた様子で右手をつきだし人差し指に光を灯す。部屋中が青く濡れる。アリスはようやく音の正体をみつける。そのとき息を呑んで、じぶんの作業机の上へと目を釘付けにさせられた。
机のうえには二人の人形がいる。どちらもアリスが作りだした人形で、片方は上海人形、もう片方は仏蘭西人形。上海人形はぺたりと座りこみ、ヒザに仏蘭西人形の上半身をのせている。いま、上海が仏蘭西の、左腕のつけねの糸をらんぼうに引きちぎっているところだった。右腕はすでに取り外されていて、糸くずと共に彼女のそばへ放りだされている。両足は一見すると見当たらず、頭は首もとに糸数本でぶらさがる。上海は左腕を取りはずすために黙々と作業をする。
アリスは信じられないといった目付きで上海を見、こわごわ近づいていくとその体を両手で持ち上げる。そのせいで仏蘭西の左腕がとれてしまう。
「何してるの。ダメよこんなことしちゃ」
子へ言い聞かせるような口調。アリスは真剣な表情で手元の上海を叱る。人形である上海の顔には何の心もこもっていない。しかしアリスの言葉に反応して彼女をみあげ、うなづいてみせる。アリスはもう一度だけ強く叱ったあと、上海をもといた棚へともどす。机の上でバラバラになっている仏蘭西をかたづけにかかる。寝てしまいたかったが、この作業を明日へもちこすことは、アリスの性格ではできない。
四肢切断されてしまった仏蘭西だが、いまさら直すつもりはアリスになかった。一人減ったところで痛みはない。パーツを集めるとまとめてゴミ箱へ放りこむ。ゴミ箱の底にはよく似た姿のゴミがたくさんあった。
アリスは人形部屋を離れるさいに棚のほうをむく。そこには仏蘭西を解体してしまった犯人が、まわりの人形と同じように座っている。それをしっかりと非難の目で見つめたあと、やっと部屋から離れた。
その日の夜はなにもなく、翌日も、上海がふたたび問題をおこすことはなかった。
アリスがその上海について疑問に思いはじめたのは、案外おそく三日後のこと。それまでは頭の片隅においやられていた。
三日後、つまりしあさっての夕方になる。洗濯物をしまい終えたアリスは一息つくために紅茶を注いで、リビングに落ち着いた。簡素なイスの簡素な背もたれへ背をあずけて、次は何をしようかとぼんやり悩む。心地よい悩み事だ。読みかけの本、作ろうと思っていた人形。
彼女の思考がいきついた先はおとといの上海人形だ。
なぜあんな風に仏蘭西人形をつぶしてしまったのだろうか。同じ人形に手をだす理由とは、何だったのか。アリスの記憶によると、人形同士でケンカが巻き起こったことは一度もない。そもそもケンカをしてくれるほどの自我をもった人形など、今の実力では作れない。
アリスは思う。上海へほどこした役割が問題だったのではないかと。彼女が作る各人形にはそれぞれ役割があたえられている。たとえば弾幕につかう。お供としてはべらせている人形もいる。どれもソレ専用の役割をする。もちろんアリスが命令すればほかの仕事をやってはくれるものの、自らすすんで行おうとはしない。この役割分担は例の上海にもまちがいなく与えられていることだ。
上海にはどんな役割をさせていたか。アリスの記憶が正しければ、それは防衛だ。弾幕ごっこのとき、ふいの方向から飛んでくる弾幕を打ち消すために盾をもたせて守らせている。ずるい? 巫女に比べたらこんなもの。
アリスは紅茶の注がれたカップを手にしたまま廊下へ出る。人形部屋にむかう。
あの上海は防衛という自らの役割を誤解してしまったのではないだろうか?
とても簡単な話だ。要するに敵をまちがえてしまったのだ。ありふれた話だとは思わないだろうか。アリスは、いつか、どこかで読んだ覚えのある、SFの小説を思い出していた。そこでは強力な知能をもったコンピュータが書かれていた。そのコンピュータは自分に与えられた役割を、持ち前の知能によって飛躍させ、暴走していった。主であるはずの人間を守るはずだったのに、人間を殺していった。
その皮肉のきいたストーリーと、完全に自立する無機物を描いた話には、アリスは一時期のめりこんだものだ。まさか自分の身近で起こるとは、などと自嘲するような笑みをこぼしつつ人形部屋へ入る。
三日ぶりに、作業机の上で凄惨な光景が繰り広げられていた。仏蘭西人形だけではなく蓬莱人形、同じ型同士の上海人形も、七八体ほどが血のかわりに糸くずをまきちらしている。そこら中に藁が散らばっているのを見ると、恐らく藁人形まで犠牲になっている。中心にいてせっせと人形解体をつづけているのは、やはりあの上海だった。
アリスは目にした瞬間こそ驚いたが、すぐにやれやれといった表情をとる。
「またなのね」
そう愚痴る。
アリスは熱心な上海をつかんで、ほかの人形から引き離す。一言やめなさいと言ったあとに、そのまま何の動作もなく魔法をかける。上海はもうぐったりと動かなくなってしまう。アリスは机を綺麗にした。
その場のイスに腰をおろし、上海を机に置く。左腕で頬杖をつきながら囁く。
「あなたはどうしちゃったのかしらねえ。悪い子ねえ。あなたがさっき壊した仏蘭西人形はお気に入りだったのよ。かわいく作れたし懐いていたし」
上海は動かなければ反応もしない。当然だ。アリス自身が彼女の働きを止めたのだから。
アリスは小さなため息をつきながらぶ厚く古いグリモアを持ちだしてきて、かすれたページと上海を交互に見つめだした。常人にはまず読めない、ゲルマン語に属している、しかしどこの言語とも分からぬ専門語をブツブツ呟きながら、ときおり上海の頭を人差し指でふれる……といった作業をはじめた。アリスは上海にあたえられている役割を書きかえていく。自分のあたえたソレに不備があったから味方を殺すようなマネをしているのだと考えた。
作業はすぐに終わる。ふたたび立ち上がる上海を眺めるアリスは、不安そうだ。何日かは様子見。アリスはそう思いながら、上海を棚へもどして人形部屋から離れる。
来客。
ノックが強く二回鳴り、呼び出されたアリスがドアを開く。ドアの前に立っていたのは魔理沙だ。
「よお。ちょっと借りたいものがあるん」
「ダメよ」
にこやかに接する魔理沙の話をさえぎり、アリスはドアを閉じるとカギをかけた。せわしいノックが始まる。幼さって、こういうところで露出してくるものなのね、などと考えながら廊下へと走る。このときアリスは右手に箒を、左手に丈夫な布袋をもっていた。
廊下の真ん中に、あろうことか血溜まりができている。血を吐き出しているのは既に事切れたネズミだ。誰がやったのだろう。もちろんアリスではない。
この災難はお昼どきに起きて、昼食の支度をするつもりでいたアリスの健気な勢いを奪いさってしまった。朝にはいなかったはずのネズミの死骸が、昼にこつ然と姿をあらわす。不機嫌なアリス。追いやられる魔理沙。時期がわるかった。
ネズミはほんの最近いのちを落とした様子だ。ついさっきまで生きていたのだな、という気配が毛並みや傷口から克明に感じられる。死体を観察していても気持ちが沈むだけなので、アリスはさっさと箒で掃いて布袋へおしこみかたく結ぶ。裏口のちかくに遠ざける。何枚もの雑巾をもってくると血溜まりを拭きにかかったが、それはアリスが思っているほど多量の血ではない。雑巾は一枚だけ汚れた。
アリスはすっかり覇気のない表情をする。ネズミ殺しの犯人には見当がついていたので、人形部屋へはいった。棚を眺めたときすぐさま気づく。あの上海がいなくなっている。アリスは人形部屋を探しまわるも上海を見つけられない。廊下も探し、廊下とつながっている寝室やリビングや、普段つかわない物置部屋まで足をはこんだが、いない。
お腹が鳴る。アリスはしかたがないので、せめてパンだけでも詰めこんでおこうと思った。
リビングで一切れのかたいパンをつまみながら、うなだれたまま考える。
上海の役割を書き換えたのは三日前になる。それから上海がバラバラ事件を起こすことはなくなった、ように思われた。どうやら標的を変えたに過ぎなかったらしい。さらには行方までくらましている。頭痛のタネにはもってこい。
パンを食べ終わったアリスは、さっさとネズミを捨てようと裏口へもどり、その皮袋をもちながら裏口のドアを開いた。
「おっ……」
と、声を漏らしたのはアリスではなく魔理沙だ。なぜか裏口の正面にいた。
「何やってたの」
「いやあ、新しい知識の探求をだな」
魔理沙は両手に細長い金具を持っている。どこで覚えたのか、新しい知識とは“鍵開け”のことを指しているらしい。そうと分かった瞬間には、死骸入り皮袋をぶつけてやろうかというほど、忌々しさを感じたアリスだったが、ひとつの提案がかき消してくれる。
「そうだ魔理沙。あなた私に用事があるのよね。本でしょう」
魔理沙はへらへらと笑いながらうなづく。
「私のお願いを聞いてくれたら、目当ての本を読ませてあげないこともないわ」
「本当か。さっきはすぐに閉めだしたくせに心変わりが早いな。怪しいぜ。受けてやろう」
魔理沙を家へと招き入れるアリス。皮袋はこの間に外へ出しておいた。
アリスは上海のできごとを簡潔に伝えて、彼女を探しだせば目当ての本を貸してやろうと言う。探すにあたってどの部屋へ好きに入っても構わないが、寝室には何があっても近づくなと忠告する。魔理沙はとても楽しそうに引き受けてくれた。
「私は出かけるから、あとよろしく」
「なんだ、一緒に探すんじゃないのか?」
「私はもう探したの。それに片付けたいものがあるから」
ネズミの死骸だ。
魔理沙を留守番させ、裏口から外にでたアリスは皮袋を持って空をとぶ。家から離れた場所、どこと決めたわけでもないが、とにかく普段は近寄らなくてよい場所までいくと、空から皮袋を乱暴に捨ててしまう。ふかい魔法の森のどこかだ。誰も気づきはせず放っておけば勝手に腐る。知っているのは自分だけ、しかしいずれ忘れさってしまうだろう。ときおり、ふいに記憶の彼方からやってくることもあるだろうが、ソレはソレ。
ほんのちょっとスッキリした気分になれたアリスは、このまま人里の方角を目指して飛ぶ。パン一つで満足できるほど少食ではないアリスだ。ついでと言うのもなんだが、久しぶりに然るべき店で腹ごしらえをしようと考える。つまり外食だ。上海は魔理沙が見つけてくれるだろうと鷹を括った。
アリスが帰路についたのはもう何時間か過ぎたあとのこと。
質のよい食事をすませたことで、だいぶんいつもの調子を取り戻して軽快に空を駆けていく。これで魔理沙が上海を見つけてくれていたら万々歳、といったところだろうか。実はそれを見越してちょっとしたお土産も買ってきていた。ご近所付き合いは円滑に、だ。
家にもどったアリスは、魔理沙の名前を呼びながらリビングへむかう。出てこない。
お土産袋をテーブルに置くと、魔理沙を探しにかかる。やはり名前を呼びながら部屋を覗いていった。物置部屋のドアにちかづく。
そこで奇妙な音を耳にする。くぐもって、もやもやする人の声。物置部屋から聞こえてくる。なに? とアリスは眉をひそめる。
「魔理沙なの?」
そう言いながらドアの前にいく。魔理沙の声が聞き取れる。
「アリスか、開けろ、早く開けろ! 開けてくれ! 開けろ! 開けろ!」
必死な顔が思い浮かべられるほどに切羽詰まった様子で言ってくる。ただごとではないとアリスは感じて、魔理沙の言う通りドアを開けようとする。
アリスはドアノブに触れたとき、そこに群がる魔力を感じ取る。ドアに魔法がかけられているようだ。
「ちょっと何これ。あんた何してるの」
「私じゃない! 早く開けろ! 開けろったら」
魔理沙は、声は力のかぎり放っているわりにドアを叩いたりはしない。アリスはその理由に察しがついて眉をひそめる。つまり、叩いても解決しない状態ということだ。ドアに何かしらの魔法が付与されておりそれを魔理沙は解けずじまい。だから出られない。
「待ってなさいよ。いまドアを開けてあげるから」
「たのむ早くしろ! 殺される!」
殺される。さすがにその言葉にはアリスも急かされる。さっきから魔理沙の必死な様子が変わらないことを考えると、冗談とは思えなかったので、てきぱきドアの開錠にとりかかった。
ドアを封じていた魔法はあんがい簡単に解くことができた。その瞬間、ドアは勢いよく開かれて中から魔理沙が飛び出してくる。アリスは不意をつかれて尻餅をつく。
魔理沙をみてみると、顔は土気色の汗まみれ。襟とひだりの袖元が赤く汚れているのはなぜだろうか。アリスはそれもふくめて事情を尋ねようとしたが、いつのまにか怒りを顕にする魔理沙に遮られる。
「こういうことかよ。こんな危ないことさせやがって。知ってて、私だけに探させたな」
歪んだ少女の顔。魔理沙は別れの挨拶をいわず家から出ていった。怒りのこもった態度とは裏腹に動作はしょぼくれていた。アリスは状況こそ理解したものの、魔理沙があまりに勢いつけて帰ってしまったので口を挟む機会をうしなった。
魔理沙。誤解している。まさか“あなた”まで襲われるとは思ってもいなかったのよ。
言い訳をぽつりぽつりと思いついては酸っぱい思いにかられた。
アリスは肩をおとして物置小屋へ入る。間取りとしては広いはずの部屋だが、あふれる物のせいで狭く、複雑に入り組む。床には点々と血の跡がみえる。魔理沙の血か。首と左手を怪我していたのだろうか。積んでいた物が崩れているところもある。暴れた形跡がある。
上海は、同輩をいたぶり、ネズミをいじめた次に、魔理沙を狙った。防衛という役割があらぬほうへネジ曲がっていることが、こんなに深刻になるとは。それにしても、ドアを閉めきって侵入者を逃がすまいとしたのは賢い。憎たらしい賢さだ。アリスの怒りをあおる。
「よくできてるじゃない。ねえ。さすがは私の人形ねえ。誇らしいわ」
アリスはそんな独り言をもらしつつ物置部屋のなかをしらみ潰しに探しまわった。
夕方になっても上海は現れなかった。
アリスが住まう家は洋風だがそれほど大きくない。部屋数は五六だが、そのほとんどを人形制作、そして魔法の道具と材料が埋めている。見た目のわりに狭い。とても狭い。アリスのほかに住居人は人形たち。ゴキブリとネズミもいる。ダニとノミは分からないが恐らくいる。
アリスはゴキブリやネズミを探すように、行方不明の上海人形を探した。あぶれる物がうみだす影の山を崩していく。手をつっこむ。ひかえめな金髪にほこりがついても構わない。副次的に部屋の整理整頓をしなければならなくなる。目的のものは見つからない。
何日かはそうしていたアリスも、しまいには疲れ果てて腕をとめてしまった。無駄だったと自分に囁く。
実は魔理沙が襲われたあの日以来、上海がいるらしき形跡がなくなった。家からいなくなった。そう考えるのが妥当なところ。いなくなってくれたのなら、厄介者が消えたわけでアリスにとってはありがたい。一方で、もっとあの上海について調べておけばよかったと後悔も芽生える。貴重な実験材料をのがしてしまった、と。染み付いた研究者の気質が後ろ髪を引く。
上海はどこへ行ったのか。アリスは考えをめぐらして一つの可能性にたどりついた。魔理沙のところだ。魔理沙が襲われてから上海がいなくなったから。アリスは思い出す。たしか魔理沙は怒りながら帰っていったはずだ。まさか、あのときついていった?
アリスは霧雨邸がどうなっているかをぼんやりと想像した。アリス邸以上に掃除のできていない、魔法の森の瘴気を具現化したようなひどい家。あそこでネズミやゴキブリを狩りとっているのか。それとも。
背筋の寒くなるアリス。じっとしてはいられなくなる。半ダースほどの好戦的な人形を従えて家を飛び出す。霧雨邸へむかった。
アリスはたくさんの人形と共に玄関前に降り立つ。魔理沙と名前を呼び、丁寧にドアをノックする。返事はない。
「魔理沙、開けるわよ。あいてるかしら」
ドアノブをさわる。アリスは手垢まみれたドアノブの鉄に血脈のように流れる魔力を感じた。顔にきつい皺をよらす。ドアが封じられていると分かるや、適当な魔法を放ってドアごと打ち破った。
玄関にはいってまず彼女の足をためわらせたものは、床にへばりつく何か昆虫の死骸。アリスはそれをまたぎ越える。中には同じような死骸がいくつもあった。虫の種類はだいたい決まっており、家に住み着く種類ばかりだ。いくら魔理沙といえども死骸を掃除しないワケはないので、犯人は把握できる。
「魔理沙、どこにいるの返事しなさい。死んでないわよね」
死んでないわよね。冗談のつもりではあったが、あながちそうとも言い切れない状態。
アリスは書斎とおぼしき部屋の前にきた。内開きのドアを開こうとすると、向こう側から抑えこまれている。何かが物理的に邪魔をしている。
「ここにいるの? 魔理沙、返事をしなさい」
「…………いるよ……」
魔理沙の声が聞こえた。とてもかすかだ。力がこもっていない。アリスはひとまず安堵する。
「よかった。ドアの前に置いているものはなに。とにかく出てきてちょうだい」
「いやだ。……その前に上海を何とかしてくれ……」
「上海? 上海人形がここにいるのね。分かったわ。何とかするわ」
そのときだ。アリスの引きつれる人形たちがあらぬ方向へ注目しだしたので、アリスもつられてそっちへ首をまげた。そこにはいつの間にか上海がいて、人形の一人を捕まえ腕をもぎとっているところだった。
アリスは刺し貫きそうな目をむけて言う。
「みんな、そいつを捕まえていなさい。暴れて手がかかるようなら潰しなさい」
アリスのまわりに浮遊していた人形たちが、命令と同時にいっせいに上海を取り囲む。それは腕をもがれている最中の人形でさえも例外ではない。上海がたちまち拘束されて、動けなくなったところまで確認したアリスは、再び魔理沙に話しかける。
「上海を捕まえたわ。もう大丈夫よ魔理沙。ほら、出てきて」
アリスはできるかぎりやさしく語りかける。ドアの向こうで重たい何かが引きずられる音が聞こえてくる。やがてドアが開かれると魔理沙が出てきた。寝起きのような、ずっと運動を続けていたような、汚れくたびれた服をきている。なによりアリスの目を引いたのが、顔のあちこちについた切り傷だ。血が固まって黒い模様をつくる。
何日かずっと書斎にたてこもっていたらしい。使いふるしの紙のようになっている魔理沙をみて、アリスは何と声をかければいいか分からなくなる。
「あの、だいじょうぶ?」
アリスが言う。魔理沙は無言で、人形たちが取り押さえている上海のほうを見る。疲れきった目だ。アリスはその目線の意図をくみとろうと思った。
「上海は問題いらないわ。私が片付けておくからね。もうこんなことはさせないから」
「……」
「あの、誤解しているかもしれないけど、私のせいじゃないわよ。上海が勝手に、ね。こんなに危険なことする子とは思ってなかったし」
上海にあたえられていた魔理沙の目線は、そのままアリスを射ぬいた。アリスはすこしムッとする。
「なにかしゃべってよ」
すると、魔理沙の表情がいっきに壊れて、苦々しい泣き顔をみせた。
「お前のせいだよ! お前のせいだ! ぜんぶお前の!」
魔理沙は涙と唾を一方的にとばした。帰れ、という言葉をしつこく叫びはじめる。アリスは口の挟みようがなくなってしぶしぶ霧雨邸をあとにした。
「なにあいつ。助けてやったのに」
そう悪態をつく。
とは言うもののアリスも責任を感じていないわけではない。あの狂った上海を作りだしてしまったのはアリス自身だ。親というか保護者というか、そういった立場にいる。少々はこちらにも非があるのだろうと考える。だが、あくまで少々だ。アリスは、やはり大まかに見れば自分のせいではないと決めつけていた。だから魔理沙からあんな暴言を言われたことに腹をたてる。
魔理沙の怒り方は幼子のようだった。アリスはそこに理不尽さを読み取る。いかにも感情にとらわれていた姿を、見下さずにはいられなかった。しばらく距離をおいておこう、などと冷静を気取る。
帰宅したアリスは人形部屋へ直行する。やっと捕まえることのできた上海を、作業机にむけて人形たちに投げさせる。アリスはその上海を手早くつかみとって行動不能にさせる。この問題児をどうしてやろうかと考える。もう、ほとんど決めかけていたが、いちおう頭の中で列挙してみる。
処分、保管、研究、どれがいいかしら。ああでも、こんな事情は滅多にないし、利用しないなんて惜しいわね。調べよう。けど、それは明日になってからね。
アリスは動かない上海をぞんざいに放り投げる。
雨の日。ぬるい風。鉛色の空。雨合羽を着た不格好なアリスが飛び立つ。太い雨粒にうたれながら目指した先は紅魔館。吸血鬼の館だが、目当ては吸血鬼ではない。そんなものに興味はない。館の図書館にいく。暗く、しずかで、空気はつめたい。魔法使いにふわさしい陰気なところだ。事実、なぜか幻想郷の魔法使いはここに集まりたがる。ただし、僧侶はまだ訪れていない。
アリスも陰気につられる一人だった。
紅魔館の門の前で、雨合羽を着た門番とかるい挨拶をかわし、庭に入ると正面へは進まず図書館へいく。小さなドアから図書館に入れば、雨音から解放される。アリスは雨合羽をぬぎながら一息つく。
図書館の主をみつけるために大理石の床を歩く。アリスはとちゅうで司書とも呼べる小悪魔と出会う。小悪魔は不思議な表情をしていた。
「おや、魔理沙さんとご一緒じゃないんですか」
「どうしてあいつと?」
「だって、さっき来ていましたもの。もう出ていかれましたが。入れ違いですよ」
アリスは虚をつかれて、それを隠すために愛想笑いをうかべる。小悪魔は微笑みを返しながら曲がり角へ吸い込まれていった。
魔理沙がここの常連であることをすっかり忘れていたアリス。ケンカ別れになったあの日からせいぜい三日しか経っておらず、その一件についての悩ましさも忘れがたい。いま顔をあわせるのは気まずい。
恐る恐る図書館の主の元にむかった。こじんまりしたテーブルとイスが、本棚から取り出された素の本にかこまれてぽつんと用意されている場所に、彼女はいる。あけっぴろげだが、彼女にとっての書斎がここにあたる。
パチュリーが一人でいるのを確認してはじめて、アリスは柔らかな表情で前に出る。
「ごきげんよう」
アリスの挨拶にパチュリーは答えない。頬杖をつきながらハードカバーに目を落としている。何があろうとキリのいいところまで読み進めたいつもりだ。誰だってそうだとは思う。少なくともアリスはソレを分かっているから、何も言わずに空いているイスを借りる。
パチュリーを待つ。そのあいだに音もなく咲夜が訪れ、紅茶とお茶うけを置いていき、去り際にはアリスの雨合羽を受け取る。
何回目かのページを繰る音が聞こえたところで、ハードカバーは閉じられる。やっと顔をあげたパチュリーがアリスをみて遅めの挨拶をかえす。
「ごきげんよう。魔理沙ならもう帰ったわよ」
「知ってる」
アリスはあえてぶっきらぼうに告げる。
「魔理沙のことで図書館にきた。ちがう? 私に相談しにきた?」
「相談じゃない。愚痴を言いにきたのよ」
「魔理沙も同じこと言ってた」
パチュリーはにやけている。いやらしい弓なりの唇だ。アリスはうってかわって仏頂面になる。来なければよかったと、はや後悔をはじめる。
「ここは魔法使いの相談所じゃないんだけどね」
パチュリーが淹れたての紅茶を一口ふくむ。
「あなた、殺人人形を作ったんだってね。魔理沙から聞いたわよ」
「そんな物騒なもの作ってない」
「そうなの? 魔理沙、怒ってたわよ。アリスのやつは謝ってくれなかったって」
「あなたは知らないのでしょうけど、私に謝る必要なんてない。私のせいじゃないもの」
「そうね。あなたのせいじゃないわね。詳しくないから憶測で言うけど、人形を作ったのはあなただけど魔理沙を閉じ込めて殺しかけたのはあなたじゃないものね。私のことばに間違いはないわよね?」
アリスは、ムラサキの魔女の笑顔をひっぱたいてやりたいと思った。
「イヤミったらしい。被害をうけたのは魔理沙だけじゃないんだからね、私だって」
「なるほど。主人まで殺そうとするとは、殺人人形の名前はダテじゃないってわけね」
アリスは突き刺すような目をパチュリーへ向ける。パチュリーはすずしげに紅茶を一口。
「ところでさあ、見たいわね。あなたたちをすっかり困らせるほどなお人形さんを」
「いいわよ。夜中に枕元へ置いておきましょうか」
「寝首をかくってヤツ?」
パチュリーだけがくっくっと笑い、アリスは手をつけていない紅茶の溜りに目をおとす。水面にうつる自分の顔の、人当たりがわるそうなことを知る。
「魔理沙は子どもだわ」
間をおいたのちに、アリスはぽつりと、何気なくつぶやいた。パチュリーへ聞かせるためではなさそうな、小さな声だ。しかし耳に届いていた。
「ふうん。魔理沙は子どもなんだ」
そう尋ねられるとは思っていなかったアリスは、声を聞いてハッと顔をあげる。そうして何も考えず、ただ与えられた刺激に反応がかえったといった感じで口がうごく。
「あんなの、いきなり喚き散らしたりなんて、ダメね」
「そうなのね。喚き散らしたのね。たしかに子どもっぽいわね。そもそも魔理沙って、まだ幼いし。私たちに比べたら尚更。まあ私から見れば、アリスも充分若いんだけど。もしくは、私があなたたちに比べて年をとっちゃっているのかも」
「その言い方。まるで私まで子どもみたいだって言ってる」
実際そうなのではないかとアリスは思った。パチュリーのさっきからの皮肉がこもったセリフたちは針で突付くよう。本人自体それが分かっている顔をしている。薄ら笑い。
アリスはパチュリーの顔を見ていると、魔理沙が早々に帰っていった理由がどことなく分かってきた。
魔理沙がパチュリーの毒気にあきれて帰っていったのだとしたら、なんて堪え性がないのだろう。私ならまだまだ堪えられるし、毒をそっくりそのまま返すことだってできる。何でもかんでも、すぐに感情を表立たせてしまうようなお子様とは違う。
アリスに沸き立つ、素直でない気持ち。
アリスはそれまでのかたい表情をあらため、自然な作り笑いをうかべてみせる。カップの縁をなぞりながらパチュリーへ言う。
「魔理沙もあなたへ愚痴を漏らしにきたんでしょう」
肯定するパチュリー。
「どんな感じだったか教えてよ」
「いいの?」
「もったいぶらないで。おもしろそう」
そうねえ、などと言いながらパチュリーは深く考えこむフリをしてみせて、わざと難しげなうなり声をあげて天井を仰ぐ。たっぷりと時間をとり、口から飛び出てきたものは、
「あなた、みたいだった」
それまでじっくりと火の加えられていた感情が一気に沸騰したアリスは、勢いよく立ち上がりイスを蹴散らす。目を白黒させるパチュリーをいっぱいに見つめながら口をあぐあぐと開いて何かを言おうとする。だが、その熱が相手にむかって解き放たれることはなかった。
「もういいわ、帰る」
アリスは言いながらイスもなおさず足早に出入り口へとむかう。すると魔女が笑いだした。その品のない男から出るような声が耳障りだったので、アリスはほとんど走るように出入り口へ。黒い木造ドアのそばには、咲夜が雨合羽を腕にかけて立っていた。アリスは雨合羽を奪い取るように受け取り、さっさと羽織って外に出る。
行きのころより雨脚が盛んになっている中を、アリスは帰っていく。ときおり雨合羽の隙間から侵入する水玉が服を濡らしていく。アリスは家に帰るまでの道で嫌というほどソレを感じていた。
こう激しい雨の日となると、魔法の森をおおう瘴気はすっかり押しこまれて息をひそめる。洗い流されるべきものが洗い流される一日だ。アリスはネズミを放りこんで捨てた皮袋を思い出し、中身が想像もしたくない状態になっているであろうことを想像する。捨てた場所はとうに忘れ果てていた。
家を見つけるとすばやく落下し中へ入る。玄関で雨合羽を壁のフックにかける。余所行きの服から普段着へ着替えたあと、人形部屋へ入る。机にはあの上海と、なじみのグリモアがおいてある。
ずっと上海の解剖をしていた。解剖といってもハラワタを抉るのではない。上海へあたえている役割を一から見なおしていた。役割は魔法で構成されているから、別な言い方をするなら魔法の解体と言える。
イスに座ったアリスは、気だるそうに上海を見つめる。ここまでくると、怒りの流動はすっかり淀んで冷めていた。
図書館でのやりとりがイヤでも浮かびあがってくる。これでは魔理沙に会えないだけでなくパチュリーへ会いにいくのも気まずい。どうしたものだろうかと内心で頭を抱える。上海を見つめていると魔理沙の言葉がよみがえる。お前のせいだ。アリスにとって上海にこそぶつけてやりたい言葉だった。
その上海。アリスは数日前から調べているが何も分からずじまい。上海へ植えつけた“防衛”の役割は、他の同じ役割をもった人形と比べてみても違いはなく、しかし動かしてみると確実に牙をむく。
さすがにアリスも薄々感づいていた。何がおかしいか、ではなく、どこがおかしいかを見極めなければいけないことを。恐らく上海へかけられた役割は精巧なはずだ。異変を引き起こしているのはそこ以外。この上海と、他の人形では異なるもの。
からだ。そう、からだ。規格としては上海人形という一つの存在ではあるが、他の上海人形とこの上海はもった体が異なっている。……当然といえば当然の話だが。しかしアリスはいまだかつて、人形の体が役割に関わってくるという事実に触れたことはない。あるいは今あるコレがその事実なのかもしれない。だいたい、今まで同じように、いつもの手順で、何一つ変わりなく作ってきた人形の一つではないか。いったい何がどう異なるというのだろう。
謎かけを解くためにアリスが行ったのは上海の再現だった。いつも通り作業机の上に人形をつくる準備をはじめると、黙々と取りかかる。
いつも通りでは再現できないだろうな、と、アリスはぼんやり考えていた。
刃を剥くポケットナイフを掲げる露西亜人形は飛び上がり、腰掛けるアリスへ切っ先を光らせ突撃する。アリスのまわりにいた四人の上海人形は躍り出ると、露西亜のナイフをそれぞれ受け止め、力を合わせてはたき落とす。露西は落ちたナイフを拾いに向かい、拾うやいなや再びアリスへ襲いかかる。やはり阻止される。
何度か行われたあとに、アリスは露西亜へ「ごくろうさま」と告げる。露西亜はたちまち硬直してナイフごと床へ倒れる。
攻撃のみをおこなうようにされた露西亜をつかい、例の上海をトレスしようと試みて作られた上海たちに防衛させる。その結果はさきほどの通り。実におとなしく防衛という役割に準じてくれた。不満足な結果だ。
露西亜を回収するアリスの顔はうかない。目の隈がひろがっている。隈があるのはしょっちゅうだが、最近は特に。寝る間を惜しんで人形をこしらえ、ひととおり使い。得たものと言えば“再現はとてもできそうにない”という答えくらい。
机へ飾るように立たせてある上海を見るたび、鬱屈とした気分がせりあがってくるアリス。今、自分がこうしている理由がそこにある。
アリスは上海を、本当の意味で解剖してしまおうかと悩んでいた。糸をときほぐして体をばらばらにする。そうすれば中身を事細かに調べられる。
だがそうすると元に戻せなくなるだろう。一度ばらしたあと、見た目のうえでは元通りに修繕できたとしても、もう前のような暴走はきっと見られない。アリスはそれを恐れている。そのくらいデリケートなものだと捉えている。
アリスはもどかしい。実は解剖なんて乱暴なマネをしなくとも、中身を調べられる方法がある。だが自分にはできそうもない。だからもどかしい。
少し考えこみ、そのあとペンをとり、取り出した紙へさらさらと文を書きはじめた。書き終わるのは早い。すると紙を大きめの封筒の中へいれ、さらに上海もつっこむ。わずかに膨らむ封筒。
着替えたアリスが封筒をもって外出する。
厚い曇り空の下をゆるやかに進んでいった行き先は、紅魔館だった。門の直前に降り立ったアリス。にこやかに会釈をする門番へ近づく。
「どうも。入ってよろしいですよ。図書館ですよね」
「入らないわ」
そう否定された美鈴はすこし驚いた顔をみせる。アリスは何か言われてしまう前に距離をつめて、持ってきた封筒を渡す。美鈴が目を泳がす。
「え。……ああ、贈り物をなさるんで」
「パチュリーに渡して。他言無用。今すぐ渡す。いきなさい」
「今すぐ、ですか。休憩のときにでも渡しにいきますから」
「今すぐ渡す。パチュリー以外には誰にも喋らない。さっさとしなさい」
「仕事中なんで……」
「融通をきかせる。わかった?」
二人がもめる。アリスは手紙と上海のはいった封筒を今すぐパチュリーに見せたかった。直接会うのはまだはばかられるので、回りくどいことをする。いっぽう美鈴は仕事場を離れることを拒む。そもそも手紙や届け物を屋敷まで送るのは、彼女ではなく郵便屋のすることだ。アリスのように門番だからと勘違いで渡してくる者がいたときだけ、承りはするが。
「いいから渡しにいきなさい! そのくらいできるでしょ」
アリスは押し切ろうとする。引くに引けなくなっていた。注文をつけられている美鈴は困惑顔で口をもごもご動かす。圧力に負けそうで喋られなくなっていた。
ふと、美鈴の目線があらぬ方向をさした。アリスは見逃さない。アリスも追って後ろを振り返ると鉛の空を飛ぶ誰かを見つける。遠いが、なんとか見分けたアリスは表情に焦りをあらわし、もう無理矢理に封筒を美鈴へもたせる。
「ぜったいに渡しておく、誰にも喋らない、空飛んでるアイツにもよ! 分かったわね」
アリスはいそいで周囲を取り囲む林へと身を潜めた。そこから門のあたりをじっと見守る。美鈴が封筒を持て余しているところ、間もなくして魔理沙が降り立ってくる。二人の会話はアリスの場所からでも聞き取れた。
「よお。さっき誰かいたな。誰だったんだ」
「ええっと……ちょっとした人ですよ」
魔理沙がとつぜんこちらのほうを指さしてきたので、アリスの心臓は大きく跳ねる。
「あっちに逃げてったけど」
「妖怪でしたからね。妖怪は薄暗い場所を好むものです。林とかね」
「ふうん。で、その封筒、妖怪からもらったのか」
尋ねられた美鈴は答えもせず意味深な笑顔で対応している。それでは怪しまれるだろうと気が気でないアリスだ。
納得していない様子で、眉間をよせていた魔理沙は、しかしそれほど興味をそそられなかったらしい。美鈴と二言か三言か言葉をかわしたあと門をくぐっていく。アリスは魔理沙の背中が消えていく最後まで見守り続けてから、林を出る。美鈴と目をあわして肩の力を抜く。
「封筒を渡しにいくのは後でいいわ。あと、私がいたことを魔理沙には言わないでよ。私がいたこと、バレてないわよね」
アリスは遠方からでも魔理沙を見分けることができたが、魔理沙のほうはどうだろうか。もしかしたら見られて正体も知られたのかもしれない。アリスはそういう意味をこめて喋った。
「魔理沙さんが指をさしたときは、てっきり私はバレたのかと思いましたけどね」
美鈴はちがう意味でうけとっていた。
アリスは話の咬み合っていないことに呆れて、もういちど魔理沙のいないことを確認してから帰路につく。
ところで、アリスがパチュリーに宛てた手紙の中身はどんなものだったか。そこにはこのように書かれていた。
“まどろっこしい手紙の約束事は一切ナシで書かせていただきます。無礼と思われるかもしれないけど、あんたも私に失礼な態度をとったからお互い様よね。
同封されていた上海人形はご覧になって? 捨てないでよ。それは私にとって貴重なものなんだから。なぜそんな貴重なものをあんたへ渡したか、考えてみなさい。いちおう言っておきますが、その上海人形があんたの寝首をかくようなマネは絶対にありません。
もっとも、あんたが人形術を知っていて、今は眠っているその子を起こすことができるというのなら話は別だけど。あんたは獰猛な番犬が安らかにしているところを、わざわざ起こすほど間抜けではないはずよね。
その上海人形が、魔理沙を襲って私を困らせた悪魔の子です。私はこの子がなぜ悪魔じみた行動をとるようになってしまったか、時間をかけて調べていました。けど全然ダメ。どれだけ叩こうが埃も落ちてこない。残された手段は何だと思う? その子を、その子が他の人形へしたように、残酷に傷つけてしまうこと。
なぜそうしないのかって、思うかもね。けど、あんたも知識が大好物な魔法使いなら分かるでしょう。貴重なサンプルを失ってしまうのがどれだけ哀しいことであるかを!
ここまで読めば、私がなぜあんたへ手紙と人形をよこしたか。もしかしたら理解してもらえたかもしれないわね。もちろん説明はさせていただきます。
あんたにしてほしいことは上海人形を傷つけず物理的に中身を調べてもらうこと。結果があんたにとってつまらないものであろうと、全て私に教えなさい。全て、詳細に。受けてくれるかしら? 念のためにお願いをしておくわ。
Please.
あんたへのお願いはこれだけじゃありません。魔術的な考察もよろしく。私のほうで充分おこなったつもりではあるけど、見落としがあるかもしれない。あんたが見つけてくれたら嬉しいわね。
調べ終えたら、上海人形は私のもとへ返してください。返してくれないのなら取り返しにいくので覚悟しておくように。あんたが人形に興味をもつとは思えないし、ましてや泥棒を働くところも想像できないけどね。
あと、魔理沙には話さないように。魔理沙については私だけで何とかします。あんたの悪戯心がうごき出さないことを願っておくわ。
私からあんたへの頼みごとは以上よ。
次に現時点でわかっている上海人形のことを教えておきます。
・上海人形には人形術が施されており、それはその子を防衛という役目につかせる
・防衛の役目はうまく機能していないか、機能しすぎている模様。過剰な防衛行動を働く傾向にある(本が好きなパチュリー。あんたならこういうシチェーションの作品を知っているかもね)
・上海人形が過剰な防衛行動をとった者は、知りうる範囲では他の人形(同型も含む)、ネズミ、虫、人間
・防衛の役目がうまく機能していないと記したが、私が調べた限りで異常はみられない
・異常があるのは上海人形にかけられた人形術ではなく、上海人形の体そのものと思われる“
翌日、アリスのもとに舞いこんできた一枚の手紙があった。パチュリーから届けられたものだが、その内容はこうだ。
“拝復
あなたのお願いごとはよく分かったわ。受けてさしあげます。さしあたり、早急に司書のちからも借りて上海人形の究明にあたらせてもらうわ。あなたが要求したとおり、壊すことなく物理的に彼女の中身をあきらかにする。できる限り早く済ませましょう。ところで、あなたはどこで、私がこういう作業を行えるということを知ったのかしら。答えなくて構わないけど。
そして私からあなたへ尋ねておきたいことがある。あなたは上海人形を分析して何かに利用するつもりのようだけど、それより重要なことがあるでしょう。魔理沙はどうするつもり?
あえてきつい言葉を使わせてもらう。人形遊びにかまけている暇があるならさっさと謝ってしまうことをお勧めするわ。あなたが闇雲に自尊心を張ったり、先輩風を吹かそうとするから、面倒なことになるのよ。狭い幻想郷のなか、数人ばかりの魔法使い。しかもあなたは魔理沙とご近所さま。近すぎず遠すぎずの距離が一番のはず。あなたのほうがよく分かっているのではなくて?
魔理沙ね、私の観察では、あなたのことを断じて許してやらない、と言う態度でもないのよ。そりゃあ初めはプリプリ怒っていたけど、数日も経てば平気を取り戻してきたようだし。傷が残らないうちに片付けてしまいなさい。私まで気まずくなるのは勘弁してほしいのよ。あなたたちの子守役じゃないんだから。
説教臭くなったからもうおしまい。
上海人形を調べてわかった結果については後日また手紙を送るから。あなたが思っているより早く結果をみせてあげましょう。 かしこ
◯◯年 ◯◯月◯◯日 パチュリー・ノーレッジ
追伸
私は別に手紙の約束事についてあれこれと文句をつけるつもりではないけど、せめて名前と日付くらいは書いておいてほしいわね。時間が経ってから読み返すことになったとき、いつ、誰から送られてきたものかが分からないと困るの。個人的な話だけど。お願いね“
リビングで手紙を読みきったアリスは、苦虫を噛みつぶしたような表情で手紙をもと入っていた封筒へもどす。空いている手で自分の滑らかな金髪を撫でる。
「分かってる、分かってるわよ。手紙でまで言わなくていい。先輩風を吹かしてるのはどっちよ。ああもう!」
ひとりごちる。
アリスだって考えなしに上海に着眼しているのではない。上海を調べた結果おもいも寄らなかった真実が分かったとき、上海を作り直せるようになるだろう。治療のすえに素直になった上海を魔理沙に見せてやろうと考えていた。これでいける! まちがいない。上海は引き裂かれた仲を紡ぐ天使。このような言葉を臆面もなく考えついていた。
パチュリーからの手紙は、アリスを正気にもどすのには充分だった。アリスは凍りつき、腹をたて、気がすめば果てしのない虚無感にとらわれた。
まだ日も出ていない早朝に事件は起きる。
何かの割れる音が、まだ夢見心地だったアリスの耳をつんざいた。アリスは飛び起きて何事かと目を皿にする。気のせいか、夢のせいか、などと考えているうちに再び音が炸裂したので、寝ぼけ眼をギョロつかせながら音のほうへ走っていく。
薄暗いキッチン、床に散らばる食器の破片。シンクの上を駆けまわるネズミ、それに馬乗りになった倫敦人形。アリスが目撃する前で、倫敦は手にするバターナイフをネズミの眉間に埋めこんだ。
ネズミは鋭い鳴き声を発し、くずおれた体を丸めながらコップにぶつかる。いっしょにシンクから床へと落ちていく。再び激しい音。痙攣するネズミをよそに、倫敦はバターナイフを抜き取って平然とその場を離れていこうとした。
悪夢をみせつけられたアリスが黙っているはずはない。倫敦を捕まえると血まみれのバターナイフをとりあげ、シンクへと投げ捨てる。
「何をしているの!」
悲痛な訴えだ。しかし人形に人の心が伝わるのなら苦労しない。アリスは自覚のない倫敦に動かなくなる魔法をあたえると、そのまま人形部屋へもっていった。汚れた服を剥ぎとってやり、裸の倫敦を机にそっと投げる。
アリスは肌寒い暗がりのなかで頭を抱える。まさか上海のみならず他の人形までおかしくなるとは思ってもみなかった。寝起きの乱れ髪が今のアリスにはひどく似合っている。
ふきとばされた眠気は取り戻せない。覚めたアリスはいつかのように箒と皮袋を持ち出した。スリッパを履いて、キッチンへ入ると粉々の食器を踏みつけながらネズミを皮袋へすばやく回収し、裏口の近くにもっていく。さらに、食器の破片も片付けなければならない。アリスにとってこんなに忙しい朝を経験したのは、ただの一度もない。
あらかたを終えた頃には朝日が部屋へさしこみはじめていた。さわやかな気分にもなれないアリスは、朝の支度をすべて放棄して寝室へむかう。病人のように力なく毛布をかきわけ眠りにつく。
目を覚ましたのは昼を過ぎた頃で、長時間の睡眠で体はこわばっていた。どうにか動かしながら遅すぎる朝の支度をはじめる。体を洗ったり、服を着替えたり。締めに朝食をつくって食べる。
アリスは卵焼きをのせた食パンをかじるかたわら、空いた手でパチュリー宛ての手紙を書く。倫敦人形が、上海人形と同じ症状に見舞われたということを記した。こうすれば自分にとっても状況の整理になってくれる。
手紙は封筒に入れる。倫敦は入れない。とりあえずの報告のためだから、まだ倫敦を手放すわけにはいかないとアリスは思った。ついで、今回はしっかり日付と名前を記している。
アリスは人里へと出かける。封筒を郵便屋へ持っていき、そこを通じてパチュリーへ渡すつもりだ。さすがに門番とのごたごたを二度は味わいたくなかったし、先の一見で魔理沙と鉢合わせる危険を知ったからだ。
人里の小さな郵便屋へいくと、制帽をかぶっているくせに紺色の着物を着ているという職員へ、カウンター越しに封筒を渡す。
(ちなみに、職員とは言うがここは幻想郷だ。上様とのつながりはない。幻想郷の郵便屋は惰性と人々の声で成り立っている)
「紅魔館の図書館へ。まあ書いてあるんだけど」
カウンターに肘をついて通りの向こうにある駄菓子屋を見つめながら、アリスは言う。紅魔館と聞いた職員の顔がけわしくなる。その理由は、里以外への配達はあまり行われておらず、なおかつ紅魔館の評判が芳しくないからだ。
アリスはいくらかの説明をうけたあと料金を払い、建物を出ようとする。職員に引き止められてこう言われる。
「アリス・マーガトロイドと封筒には書いてありますが、ご本人さまで?」
「ええ、まあ」
「でしたらちょうどよかった。パチュリーさまからお手紙をあずかっています。お渡ししましょう」
封筒を受け取ったアリスは建物を後にする。面倒くさい。やっぱり直に渡しにいったほうがいいかもしれない。などと考えながら、さっきまで眺めていた駄菓子屋へよる。
アリスは帰宅するとさっそく封筒をひらく。内容はアリスが期待していたものとは異なり、簡潔なもの。上海をいま調べている途中だがまだ異常はみられないのだという旨みが、いやに真面目な文体で記してある。アリスは手紙を読みながら水飴をねぶる。
魔理沙。という文字を探して、ないと分かるや安堵する。一方でやや苛立ちを覚える。前の手紙ではあんなに言及していた癖に、と。
アリスは水飴の最後のひとすくいを口に含んだまま人形部屋へむかった。机の上の倫敦を調べないといけない。そこで頬を赤く染める倫敦を見たときアリスは悲しくなった。こんな残忍な子を作ったつもりではないのに、その意に反する我が娘。
しずかに古グリモアをもち、倫敦に人差し指をあてる。心音を図るようだった。このときアリスはすぐに気づいた。この倫敦には防衛の役割なんてあたえていなかったことを。
「この子って、何やらせてたかしら」とつぶやく。アリスは、人形を飾っている棚を眺めてそのことを思い出そうとする。色とりどりの人形がでたらめに腰をおろしている棚だ。しばらく我を忘れたように眺めつづける。
人形がおちた。
アリスの目の前で、棚から仏蘭西人形がおちて床に転がった。仏蘭西は当たり前のように立ち上がると、あろうことか机にむかって浮遊しはじめる。急に自立をはじめた人形を、アリスは不思議な気分で観察する。そうして、彼女が机の糸切りばさみに近づいていったところで、はじめて愕然とする。
まさか。そう思って糸切りばさみに左手を伸ばした時にはおそい。仏蘭西は糸切りばさみを持ち上げるとアリスにむかい突き出してくる。アリスは慌てて手を引っ込めたが、同時にチクリと痛みを感じた。
仏蘭西が糸切りばさみを構えて、丸みを帯びる刀身を明らかに刺突させようという具合に迫ってくる。身の危険を感じたアリスは即座に立ち上がり、後ろ歩きにドアまで下がりドアノブを引っ掻き気味に回す。廊下へ脱出する。
アリスはドアを閉じながら左手のひらを見つめる。ほんのわずかに吹き出た血が手相にそって広がっている。軽傷だが動揺してしまう。
このドアを開きたくはなかったが、おかしくなった仏蘭西を人形部屋に置いておくと何をしでかすか分からない。どうしても開かねばならない。せめて仏蘭西を部屋から遠ざけようと考える。人形を細切れにされたくはなかった。
激しくなっていた鼓動を落ち着かせようと呼吸しながら、ドアをそっと内向きに開く。隙間ができる。するとそこから鈍い銀色の何かが飛び出してきて右手首を襲う。アリスが激痛と共にドアを開け放つと、仏蘭西とポケットナイフのはじき飛ばされる姿があった。それが凶器のようだ。
「なによ!」
アリスは叫んで、再びドアを閉じる。青ざめた顔で右腕の切られた部位を睨みつける。さいわい脈からは外れていた。だが混乱しきったアリスだ、痛みと、滲み出る血があるだけで恐ろしくなった。
キッチンへ駆け出すとテーブルにある手ぬぐいをとり、傷口へ巻きつけようとする。片方の手だけをつかい布を巻く。じれったいものだ。何度か試すが結び目があまく、ほどけてしまう。繰り返すたびに焦る。
「落ち着きなさいアリス。だいじょうぶ。落ち着きなさい。落ち着きなさい……」
早口で自分を慰めていたアリスは、間もなく手ぬぐいを巻き終わる。
まだ言葉を繰り返しながら廊下へ振り返り、またしても叫び声をしぼり出す。ポケットナイフを抱えた仏蘭西が、アリスへ向かって飛来してきた。迎撃するために弾幕を一つ二つと放つも、狙いはそれて、思いのほか足の速かった仏蘭西はたやすくキッチンまで侵入する。
アリスは壁越しに、仏蘭西を迂回するように移動する。廊下まで近づいたところで無我夢中に走りぬけ、距離の近かった寝室へ逃げこんだ。ドアを閉めてカギをかけるだけに留まらず、何度も噛みながら魔法を唱える。詠唱が引き起こした魔法はドアとその周辺をつつみ、堅牢にかためる。
まだアリスは安心していない。ドアのそばに固まるようにして廊下の様子をせいいっぱいにたしかめる。こつ、こつ、と何かが触れる音がする。仏蘭西だ。アリスは、そうする必要はないはずなのにドアにもたれて開かないよう力をこめる。
しばらくして、仏蘭西が離れていくのを感じると、ふらふら背後のベッドへ尻餅をついた。胸いっぱいのため息を吐く。余裕をとりもどすと色々なことを考えはじめる。この間の魔理沙と同じ状況になってしまっているのだと気づき、哀れな気持ちがこみあがってくる。
と、一つ思い出した。そういえば魔理沙は何かの障害物でバリケードを作っていた。
アリスはドアを見つめる。カギをかけて、魔法もかけて、簡単には開かないようにしているドアだ。記憶を鑑みてみると、たしか魔理沙は魔法はつかわず物理的に塞いでいた。そう考えると急に不安が舞い戻ってくる。
アリスは立ち上がると、部屋の隅にある鏡台に目をつけた。近づいて側面に体をあずけて思い切り体重をかける。配置してからずっと動かしていなかった鏡台は、なかなか一歩を踏み出してくれなかった。だがじっくりと移動を重ねてドアを塞ぐ。
力仕事をおえたアリスは両腕に、出血はひどくなっていないだろうかと、意気消沈した瞳をむける。手の平の血はもうかたまりかけ。右腕は、巻いた手ぬぐいが生々しく湿っぽい模様に彩られている。
アリスはベッドに横たわろうとする。向こうの壁にある窓が視界に入る。あれも塞いだほうがいいのかしら、などと考える。いや、塞ぐよりずっと良いことを思いついた。
アリスは窓を開いた。魔法の森の瘴気が、あるいは茸の胞子が、陽光に照らされチラチラとしながら舞いこんでくる。肺に悪そうな空気を嫌な顔ひとつせず吸ったアリスは、窓から身を乗り出す。
悪鬼を家内にほうっておくのはまずかったが、アリスは原因そのものを解決することを優先した。多少、人形たちがゴミにされたりネズミや虫の死骸を飾りつけられる羽目になったとしても我慢するつもりだ。空高く飛び上がると紅魔館の方角を目指す。
いい天気だった。抜けるような青空だ。風景を楽しんでいる余裕はアリスにはなかったが。
紅魔館までたどり着いたアリスは、門番とかるい挨拶をかわして図書館へ入る。気まずいとかいう、そういう些細な感情はもう抱くひまがない。
中へ入ると書籍に囲まれた書斎まで急いだ。そこにはいつも通り、眠たそうな目でページを繰り続ける魔女がいる。アリスも、やや息を切らしてはいたが、いつも通りに適当なイスを勝手にかりる。本を読み終わるのを待とうとする。ところが魔女はすぐに顔をあげた。
「その血のついた右手、急用かしら」
アリスは驚き、だがその気持ちは表に出さず、努めて平静に返答する。
「そうね。急用だわ。治してほしいなんて言うつもりはないわよ。ただ少し助言をもらいたいの」
「きっと人形絡みね。……上海のこと聞きたい?」
アリスは首をよこにふったあと、一連のできごとを話しはじめる。前触れもなく倫敦が狂ったこと、同じように仏蘭西が暴れだしたことを話す。安全だと思っていた他の人形までもが上海と化してしまったのだと、強調する。早口で事情を告げていく慌ただしいアリスを、パチュリーが真摯な態度でうけとめる。とても魔法使い同士の会話には見えない、真面目な相談の風景だった。
「私、自信なくしそう」
会話の締めにアリスは弱々しい言葉を吐く。頬杖をついてうつろな目をする。一方パチュリーは考えごとをしているような気配だ。
パチュリーは話だした。
「自信をなくす必要はなさそうね」
「そうかしら。子どもたちがみんなグレていくのよ」
「たぶん、その原因はあなたにも、あなたの作った子どもたちにもないわ。もっと関係のない。いや。関係がないわけではないけど、すくなくとも直接関わってはいないはず。私の見立てでは」
アリスとパチュリーの目線がつながる。
「どういうことよ」
「人形って人のかたちをとっているぶん、取り憑かれやすいんでしょう?」
「……ああ、まさか。ちょっと待ってそんなこと」
「悪い幽霊が住み着いているんじゃないかしら」
アリスはパチュリーをじっと見つめる。どうしても冗談で言っているようには見えない。しかし疑う。幽霊なんてそんな、ありきたりで、あっさりとしていて、面白みのない。
「じゃあ仮に幽霊だとしましょう。で、どうするの。塩をまけばいいの?」
「そうねえ。それなら私たちよりもうってつけの人がいるわ。そうでしょ、魔理沙」
魔理沙。その名前を聞いた瞬間アリスは背筋の縮み上がる思いがした。パチュリーの目線がうごき指し示すほうへ、ぎこちない動作で振り返る。本棚の影から魔理沙が居心地わるそうに現れた。魔理沙は少しためらったあと、テーブルのそばまでやってきて立ったまま話に加わった。
「うってつけの人って、まさか私じゃないよな」
「あなたがネクロマンサーだったら、そう言えたかもね。けど残念、ここにはネクロマンサーはいないわ。うってつけの人は、あなたのお友達よ。けどお友達、私たちがお願いしても断られそう。だからあなたからお願いしてほしいの」
魔理沙は口を開きかけて、またとじる。何とも答えかねているようだ。
「というわけで、今からお願いしに行くこと。アリスもついていって、事情を話すのよ。分かったならさっさと行きなさい。これ以上図書館にいると咲夜に追い出させるわよ」
勝手に話をまとめられ、アリスと魔理沙は図書館から出ざるをえなくなる。二人はいっしょに空を飛んで、パチュリーに言われたとおり博麗神社へ向かうことにした。
道中、横からするどく差しこんでくる陽光が眩しく熱い。この季節の太陽は、夏のソレとはまた違う鬱陶しさがある。
アリスは喋らない。魔理沙も喋らない。アリスは自分の失敗談にも近い話を魔理沙に聞かれていたのが、痛くて仕方なかった。さらに喧嘩別れのとき以来、一言も交わしていない。こんな状況を作りあげたパチュリーを恨む。
そうして喉のつまり具合といったら生半可ではない。会話をするべきだと圧迫されて、言葉を選び選び、けっきょく喋られない。二人は通じ合わないものだから空をいく速度も早く、順調に神社までの道のりを消化していく。
神社につくまでこの調子? そんな苦い目に会いたくなかったアリスは、どうにかしようとする。
「いつからいたの」
「お前が水飴を買っているところをさ、見たんだよ。で、そのあと、家に帰ったのかと思ったら」
「また私が飛んでたから追いかけたのね」
「……悪気はなかったんだぜ」
重たい。言葉を選び損ねたとアリスは思った。自分の口から呪いの言葉が吐き出されたような感じさえした。目を合わせまいとずっと前を見つめている魔理沙を横目に捉えていると、このまま逃げ帰ったほうがいいような気がしてきた。
だができない。うじうじした悩みを魔理沙に気取られないよう、ほんのすこし後ろを飛ぶ。パチュリーが追いだすように話をまとめあげた理由を、アリスはいま痛感していた。おせっかいにも仲直りの機会をもうけてやろうというつもりらしい。余計なお世話だ、とはアリスが言える立場ではない。
アリスはどうしようもない悩み事を蛇のようにのたうちまわして、その突破口を必死に探しまわる。考えに考えぬいたアリスは、とうとう意を決することにした。
彼女はなんの前触れもなくこう口を開く。
「謝るわ。ごめんなさい。上海のことね、ごめんなさい。私の責任よ。不甲斐ないわね。話聞いてたんでしょ。幽霊だって。笑っちゃうわね。死人に弄ばれるようじゃダメね。威張って悪かったわ。ほんとうよ。ごめんなさい」
勢いをつけて謝罪をはじめる。恥ずかしさから口早になり、誠実であろうとしてつい声を大きくする。いきなり畳みかけられた魔理沙は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をむける。
喋り終えたアリスは魔理沙の反応をみて、しまったと感じた。辛辣な態度で返されることを恐れる。だが、
「そうか」
魔理沙から返ってきたのはたった一言だった。
あっけない。だがトゲのない、やわらかい語感が、アリスの耳をこそばゆく過ぎていった。アリスはどきどきしながら聞き返そうとしたが、やめておいた。
ああ、これでよかったのか、とアリスは感じる。格好よくない、ちょっと卑下の入った謝罪でもよかったのかと感じる。てっきり嫌な顔をされるかと覚悟していたものだから、なおさらに。
その気持ちはすぐ顔に表れるから、アリスを恥ずかしくさせる。けどちらちら視界に入ってくる魔理沙の顔も、ほんの少しにやけている。二人は同じようだった。
このあと二人はまた喋らなくなってしまうが、むしろ二人にとっては穏やかな沈黙だった。アリスは風の音を聞きながら魔理沙についていく。
そうこうしているうちに二人は博麗神社へ到着した。アリスは一歩引いたところで待ち、魔理沙が霊夢へ事情をつたえて助力をたのむ。彼女はこう言う。
「へえ、そんなことが。でも私が行かなくてもよさそうね。……え、どうしても助けてほしいの? じゃ、これ、お札あげるからコレで何とかできるでしょう。人形についているのが幽霊なら、これを貼っちゃえばいいから。ナニに貼るって、人形に決まってるじゃない。幽霊に貼るつもりなの? ていうか、あんたら魔法使いのくせに幽霊も退治できないの?」
紅白のお札を退治用と予備に二枚もらった二人。わけようとはせず、二枚ともアリスが持つことになる。理由は、自分で落とし前をつけたいからだった。
神社を離れると今度は魔法の森へいく。アリスが先頭になって、ずいぶんな速さで飛行した。魔法の森の上空についてからはさらに速い。アリス邸の真上にいくまで、時間はかからなかった。
アリスは馴染んだ家を上空から眺める。斜のついた屋根は苔が生えていて黒っぽい。この下にある室内がどれだけ汚れているかを想像してため息をつく。
はやくも降り立とうとする魔理沙の肩を捕まえた。
「さあ。ここからは私の仕事よ。あんたにもう用事はありません」
「なんだよ。つれないな。一人より二人だぜ」
「また部屋に閉じ込められて干し芋みたいになりたいのかしら」
アリスは魔理沙の背中をかるく突き飛ばして、もう一度「私の仕事よ」と言い放つ。魔理沙はしぶしぶといった様子で自宅の方角へと飛んでいった。しっかり背中が見えなくなるまで見届けたアリスは、ひとり気合をいれなおし玄関から入っていく。これも帰宅と言えるのだろうかと、ぼんやり考えながら。
角度のせいかもしれない。月明かりが、濃密に茂る魔法の森の木々にじゃまされることなく、窓を突き抜けていた。暗がりのなかアリスの顔を照らし出す。アリスはイスに座り机に突っ伏したまま眠っていたが、ふと目を覚まし自分に降り掛かっていた一条をみとめて、つい寝てしまっていたことに気づく。
寝る前は家の片付けを行なっていた。アリスが思い浮かべていたとおり、いくつかの人形と汚い同居人たちが、仏蘭西人形の犠牲になっていた。それをせっせと綺麗にしていった。
犯人の仏蘭西人形。正確に言えば仏蘭西人形に取り憑いていた幽霊だが、仏蘭西にお札が貼り付けられたことで内部に封じられてしまっている。お札が貼っただけですっかり動かなくなった。
アリスにしてみれば、仏蘭西には申し訳ないがこんな人形を持っていても気分がよくない。近いうちに神社へ押し付けてお焚き上げをしてもらおうと考える。お札を何枚かもらって帰り、二度と迷惑な幽霊が家に入ってこないよう、貼ってみようとも考える。
机の上におかれている、すっかりキョンシーになってしまった仏蘭西を見つめるアリス。何を考えているのか当分はそうしていたが、急にイスから立ち上がる。両腕を抱き合わせながら足早に人形部屋を出る。体に掛けるものなしで夜中まで眠っていたから、芯まで冷えてしまっていた。
ちょっと遅い夜食をこしらえることにした。
そと、外ではない。家のなかだ。この部屋か? ちがう。もっと遠い。廊下でもない。どこかの部屋だ。
アリスはベッドから身をあげるとスリッパを履き、寝間着の上にガウンを羽織り、ある部屋へと向かう。人形部屋だ。人形部屋は文字通り、アリスが人形をつくるための作業部屋で、そうして出来上がった作品たちがところ狭しと飾られている部屋だ。人形部屋のまえにやってきたアリスは、ドアノブを握るのを少しためらい、ドアの後ろへと耳をすませる。
アリスのやや疲れた顔が集中でかたくなる。部屋から淡々と鳴る音には聞き覚えがあった。糸をのばしたり、布をやぶいたり。裁縫をしていれば必ず耳にする音ばかり。誰かが人形をつくっているのだろうか。アリスは一瞬そう考えたがすぐに取りやめた。一つの嫌な想像をした。部屋においてある人形がネズミか何かにつつき回されているのではないかと。
顔をゆがめるアリス。目のくまが目立つ。思い切って部屋へはいった。窓はあるが、外からたくましい魔法の森の木々が月明かりをさえぎっているから暗い。アリスは手馴れた様子で右手をつきだし人差し指に光を灯す。部屋中が青く濡れる。アリスはようやく音の正体をみつける。そのとき息を呑んで、じぶんの作業机の上へと目を釘付けにさせられた。
机のうえには二人の人形がいる。どちらもアリスが作りだした人形で、片方は上海人形、もう片方は仏蘭西人形。上海人形はぺたりと座りこみ、ヒザに仏蘭西人形の上半身をのせている。いま、上海が仏蘭西の、左腕のつけねの糸をらんぼうに引きちぎっているところだった。右腕はすでに取り外されていて、糸くずと共に彼女のそばへ放りだされている。両足は一見すると見当たらず、頭は首もとに糸数本でぶらさがる。上海は左腕を取りはずすために黙々と作業をする。
アリスは信じられないといった目付きで上海を見、こわごわ近づいていくとその体を両手で持ち上げる。そのせいで仏蘭西の左腕がとれてしまう。
「何してるの。ダメよこんなことしちゃ」
子へ言い聞かせるような口調。アリスは真剣な表情で手元の上海を叱る。人形である上海の顔には何の心もこもっていない。しかしアリスの言葉に反応して彼女をみあげ、うなづいてみせる。アリスはもう一度だけ強く叱ったあと、上海をもといた棚へともどす。机の上でバラバラになっている仏蘭西をかたづけにかかる。寝てしまいたかったが、この作業を明日へもちこすことは、アリスの性格ではできない。
四肢切断されてしまった仏蘭西だが、いまさら直すつもりはアリスになかった。一人減ったところで痛みはない。パーツを集めるとまとめてゴミ箱へ放りこむ。ゴミ箱の底にはよく似た姿のゴミがたくさんあった。
アリスは人形部屋を離れるさいに棚のほうをむく。そこには仏蘭西を解体してしまった犯人が、まわりの人形と同じように座っている。それをしっかりと非難の目で見つめたあと、やっと部屋から離れた。
その日の夜はなにもなく、翌日も、上海がふたたび問題をおこすことはなかった。
アリスがその上海について疑問に思いはじめたのは、案外おそく三日後のこと。それまでは頭の片隅においやられていた。
三日後、つまりしあさっての夕方になる。洗濯物をしまい終えたアリスは一息つくために紅茶を注いで、リビングに落ち着いた。簡素なイスの簡素な背もたれへ背をあずけて、次は何をしようかとぼんやり悩む。心地よい悩み事だ。読みかけの本、作ろうと思っていた人形。
彼女の思考がいきついた先はおとといの上海人形だ。
なぜあんな風に仏蘭西人形をつぶしてしまったのだろうか。同じ人形に手をだす理由とは、何だったのか。アリスの記憶によると、人形同士でケンカが巻き起こったことは一度もない。そもそもケンカをしてくれるほどの自我をもった人形など、今の実力では作れない。
アリスは思う。上海へほどこした役割が問題だったのではないかと。彼女が作る各人形にはそれぞれ役割があたえられている。たとえば弾幕につかう。お供としてはべらせている人形もいる。どれもソレ専用の役割をする。もちろんアリスが命令すればほかの仕事をやってはくれるものの、自らすすんで行おうとはしない。この役割分担は例の上海にもまちがいなく与えられていることだ。
上海にはどんな役割をさせていたか。アリスの記憶が正しければ、それは防衛だ。弾幕ごっこのとき、ふいの方向から飛んでくる弾幕を打ち消すために盾をもたせて守らせている。ずるい? 巫女に比べたらこんなもの。
アリスは紅茶の注がれたカップを手にしたまま廊下へ出る。人形部屋にむかう。
あの上海は防衛という自らの役割を誤解してしまったのではないだろうか?
とても簡単な話だ。要するに敵をまちがえてしまったのだ。ありふれた話だとは思わないだろうか。アリスは、いつか、どこかで読んだ覚えのある、SFの小説を思い出していた。そこでは強力な知能をもったコンピュータが書かれていた。そのコンピュータは自分に与えられた役割を、持ち前の知能によって飛躍させ、暴走していった。主であるはずの人間を守るはずだったのに、人間を殺していった。
その皮肉のきいたストーリーと、完全に自立する無機物を描いた話には、アリスは一時期のめりこんだものだ。まさか自分の身近で起こるとは、などと自嘲するような笑みをこぼしつつ人形部屋へ入る。
三日ぶりに、作業机の上で凄惨な光景が繰り広げられていた。仏蘭西人形だけではなく蓬莱人形、同じ型同士の上海人形も、七八体ほどが血のかわりに糸くずをまきちらしている。そこら中に藁が散らばっているのを見ると、恐らく藁人形まで犠牲になっている。中心にいてせっせと人形解体をつづけているのは、やはりあの上海だった。
アリスは目にした瞬間こそ驚いたが、すぐにやれやれといった表情をとる。
「またなのね」
そう愚痴る。
アリスは熱心な上海をつかんで、ほかの人形から引き離す。一言やめなさいと言ったあとに、そのまま何の動作もなく魔法をかける。上海はもうぐったりと動かなくなってしまう。アリスは机を綺麗にした。
その場のイスに腰をおろし、上海を机に置く。左腕で頬杖をつきながら囁く。
「あなたはどうしちゃったのかしらねえ。悪い子ねえ。あなたがさっき壊した仏蘭西人形はお気に入りだったのよ。かわいく作れたし懐いていたし」
上海は動かなければ反応もしない。当然だ。アリス自身が彼女の働きを止めたのだから。
アリスは小さなため息をつきながらぶ厚く古いグリモアを持ちだしてきて、かすれたページと上海を交互に見つめだした。常人にはまず読めない、ゲルマン語に属している、しかしどこの言語とも分からぬ専門語をブツブツ呟きながら、ときおり上海の頭を人差し指でふれる……といった作業をはじめた。アリスは上海にあたえられている役割を書きかえていく。自分のあたえたソレに不備があったから味方を殺すようなマネをしているのだと考えた。
作業はすぐに終わる。ふたたび立ち上がる上海を眺めるアリスは、不安そうだ。何日かは様子見。アリスはそう思いながら、上海を棚へもどして人形部屋から離れる。
来客。
ノックが強く二回鳴り、呼び出されたアリスがドアを開く。ドアの前に立っていたのは魔理沙だ。
「よお。ちょっと借りたいものがあるん」
「ダメよ」
にこやかに接する魔理沙の話をさえぎり、アリスはドアを閉じるとカギをかけた。せわしいノックが始まる。幼さって、こういうところで露出してくるものなのね、などと考えながら廊下へと走る。このときアリスは右手に箒を、左手に丈夫な布袋をもっていた。
廊下の真ん中に、あろうことか血溜まりができている。血を吐き出しているのは既に事切れたネズミだ。誰がやったのだろう。もちろんアリスではない。
この災難はお昼どきに起きて、昼食の支度をするつもりでいたアリスの健気な勢いを奪いさってしまった。朝にはいなかったはずのネズミの死骸が、昼にこつ然と姿をあらわす。不機嫌なアリス。追いやられる魔理沙。時期がわるかった。
ネズミはほんの最近いのちを落とした様子だ。ついさっきまで生きていたのだな、という気配が毛並みや傷口から克明に感じられる。死体を観察していても気持ちが沈むだけなので、アリスはさっさと箒で掃いて布袋へおしこみかたく結ぶ。裏口のちかくに遠ざける。何枚もの雑巾をもってくると血溜まりを拭きにかかったが、それはアリスが思っているほど多量の血ではない。雑巾は一枚だけ汚れた。
アリスはすっかり覇気のない表情をする。ネズミ殺しの犯人には見当がついていたので、人形部屋へはいった。棚を眺めたときすぐさま気づく。あの上海がいなくなっている。アリスは人形部屋を探しまわるも上海を見つけられない。廊下も探し、廊下とつながっている寝室やリビングや、普段つかわない物置部屋まで足をはこんだが、いない。
お腹が鳴る。アリスはしかたがないので、せめてパンだけでも詰めこんでおこうと思った。
リビングで一切れのかたいパンをつまみながら、うなだれたまま考える。
上海の役割を書き換えたのは三日前になる。それから上海がバラバラ事件を起こすことはなくなった、ように思われた。どうやら標的を変えたに過ぎなかったらしい。さらには行方までくらましている。頭痛のタネにはもってこい。
パンを食べ終わったアリスは、さっさとネズミを捨てようと裏口へもどり、その皮袋をもちながら裏口のドアを開いた。
「おっ……」
と、声を漏らしたのはアリスではなく魔理沙だ。なぜか裏口の正面にいた。
「何やってたの」
「いやあ、新しい知識の探求をだな」
魔理沙は両手に細長い金具を持っている。どこで覚えたのか、新しい知識とは“鍵開け”のことを指しているらしい。そうと分かった瞬間には、死骸入り皮袋をぶつけてやろうかというほど、忌々しさを感じたアリスだったが、ひとつの提案がかき消してくれる。
「そうだ魔理沙。あなた私に用事があるのよね。本でしょう」
魔理沙はへらへらと笑いながらうなづく。
「私のお願いを聞いてくれたら、目当ての本を読ませてあげないこともないわ」
「本当か。さっきはすぐに閉めだしたくせに心変わりが早いな。怪しいぜ。受けてやろう」
魔理沙を家へと招き入れるアリス。皮袋はこの間に外へ出しておいた。
アリスは上海のできごとを簡潔に伝えて、彼女を探しだせば目当ての本を貸してやろうと言う。探すにあたってどの部屋へ好きに入っても構わないが、寝室には何があっても近づくなと忠告する。魔理沙はとても楽しそうに引き受けてくれた。
「私は出かけるから、あとよろしく」
「なんだ、一緒に探すんじゃないのか?」
「私はもう探したの。それに片付けたいものがあるから」
ネズミの死骸だ。
魔理沙を留守番させ、裏口から外にでたアリスは皮袋を持って空をとぶ。家から離れた場所、どこと決めたわけでもないが、とにかく普段は近寄らなくてよい場所までいくと、空から皮袋を乱暴に捨ててしまう。ふかい魔法の森のどこかだ。誰も気づきはせず放っておけば勝手に腐る。知っているのは自分だけ、しかしいずれ忘れさってしまうだろう。ときおり、ふいに記憶の彼方からやってくることもあるだろうが、ソレはソレ。
ほんのちょっとスッキリした気分になれたアリスは、このまま人里の方角を目指して飛ぶ。パン一つで満足できるほど少食ではないアリスだ。ついでと言うのもなんだが、久しぶりに然るべき店で腹ごしらえをしようと考える。つまり外食だ。上海は魔理沙が見つけてくれるだろうと鷹を括った。
アリスが帰路についたのはもう何時間か過ぎたあとのこと。
質のよい食事をすませたことで、だいぶんいつもの調子を取り戻して軽快に空を駆けていく。これで魔理沙が上海を見つけてくれていたら万々歳、といったところだろうか。実はそれを見越してちょっとしたお土産も買ってきていた。ご近所付き合いは円滑に、だ。
家にもどったアリスは、魔理沙の名前を呼びながらリビングへむかう。出てこない。
お土産袋をテーブルに置くと、魔理沙を探しにかかる。やはり名前を呼びながら部屋を覗いていった。物置部屋のドアにちかづく。
そこで奇妙な音を耳にする。くぐもって、もやもやする人の声。物置部屋から聞こえてくる。なに? とアリスは眉をひそめる。
「魔理沙なの?」
そう言いながらドアの前にいく。魔理沙の声が聞き取れる。
「アリスか、開けろ、早く開けろ! 開けてくれ! 開けろ! 開けろ!」
必死な顔が思い浮かべられるほどに切羽詰まった様子で言ってくる。ただごとではないとアリスは感じて、魔理沙の言う通りドアを開けようとする。
アリスはドアノブに触れたとき、そこに群がる魔力を感じ取る。ドアに魔法がかけられているようだ。
「ちょっと何これ。あんた何してるの」
「私じゃない! 早く開けろ! 開けろったら」
魔理沙は、声は力のかぎり放っているわりにドアを叩いたりはしない。アリスはその理由に察しがついて眉をひそめる。つまり、叩いても解決しない状態ということだ。ドアに何かしらの魔法が付与されておりそれを魔理沙は解けずじまい。だから出られない。
「待ってなさいよ。いまドアを開けてあげるから」
「たのむ早くしろ! 殺される!」
殺される。さすがにその言葉にはアリスも急かされる。さっきから魔理沙の必死な様子が変わらないことを考えると、冗談とは思えなかったので、てきぱきドアの開錠にとりかかった。
ドアを封じていた魔法はあんがい簡単に解くことができた。その瞬間、ドアは勢いよく開かれて中から魔理沙が飛び出してくる。アリスは不意をつかれて尻餅をつく。
魔理沙をみてみると、顔は土気色の汗まみれ。襟とひだりの袖元が赤く汚れているのはなぜだろうか。アリスはそれもふくめて事情を尋ねようとしたが、いつのまにか怒りを顕にする魔理沙に遮られる。
「こういうことかよ。こんな危ないことさせやがって。知ってて、私だけに探させたな」
歪んだ少女の顔。魔理沙は別れの挨拶をいわず家から出ていった。怒りのこもった態度とは裏腹に動作はしょぼくれていた。アリスは状況こそ理解したものの、魔理沙があまりに勢いつけて帰ってしまったので口を挟む機会をうしなった。
魔理沙。誤解している。まさか“あなた”まで襲われるとは思ってもいなかったのよ。
言い訳をぽつりぽつりと思いついては酸っぱい思いにかられた。
アリスは肩をおとして物置小屋へ入る。間取りとしては広いはずの部屋だが、あふれる物のせいで狭く、複雑に入り組む。床には点々と血の跡がみえる。魔理沙の血か。首と左手を怪我していたのだろうか。積んでいた物が崩れているところもある。暴れた形跡がある。
上海は、同輩をいたぶり、ネズミをいじめた次に、魔理沙を狙った。防衛という役割があらぬほうへネジ曲がっていることが、こんなに深刻になるとは。それにしても、ドアを閉めきって侵入者を逃がすまいとしたのは賢い。憎たらしい賢さだ。アリスの怒りをあおる。
「よくできてるじゃない。ねえ。さすがは私の人形ねえ。誇らしいわ」
アリスはそんな独り言をもらしつつ物置部屋のなかをしらみ潰しに探しまわった。
夕方になっても上海は現れなかった。
アリスが住まう家は洋風だがそれほど大きくない。部屋数は五六だが、そのほとんどを人形制作、そして魔法の道具と材料が埋めている。見た目のわりに狭い。とても狭い。アリスのほかに住居人は人形たち。ゴキブリとネズミもいる。ダニとノミは分からないが恐らくいる。
アリスはゴキブリやネズミを探すように、行方不明の上海人形を探した。あぶれる物がうみだす影の山を崩していく。手をつっこむ。ひかえめな金髪にほこりがついても構わない。副次的に部屋の整理整頓をしなければならなくなる。目的のものは見つからない。
何日かはそうしていたアリスも、しまいには疲れ果てて腕をとめてしまった。無駄だったと自分に囁く。
実は魔理沙が襲われたあの日以来、上海がいるらしき形跡がなくなった。家からいなくなった。そう考えるのが妥当なところ。いなくなってくれたのなら、厄介者が消えたわけでアリスにとってはありがたい。一方で、もっとあの上海について調べておけばよかったと後悔も芽生える。貴重な実験材料をのがしてしまった、と。染み付いた研究者の気質が後ろ髪を引く。
上海はどこへ行ったのか。アリスは考えをめぐらして一つの可能性にたどりついた。魔理沙のところだ。魔理沙が襲われてから上海がいなくなったから。アリスは思い出す。たしか魔理沙は怒りながら帰っていったはずだ。まさか、あのときついていった?
アリスは霧雨邸がどうなっているかをぼんやりと想像した。アリス邸以上に掃除のできていない、魔法の森の瘴気を具現化したようなひどい家。あそこでネズミやゴキブリを狩りとっているのか。それとも。
背筋の寒くなるアリス。じっとしてはいられなくなる。半ダースほどの好戦的な人形を従えて家を飛び出す。霧雨邸へむかった。
アリスはたくさんの人形と共に玄関前に降り立つ。魔理沙と名前を呼び、丁寧にドアをノックする。返事はない。
「魔理沙、開けるわよ。あいてるかしら」
ドアノブをさわる。アリスは手垢まみれたドアノブの鉄に血脈のように流れる魔力を感じた。顔にきつい皺をよらす。ドアが封じられていると分かるや、適当な魔法を放ってドアごと打ち破った。
玄関にはいってまず彼女の足をためわらせたものは、床にへばりつく何か昆虫の死骸。アリスはそれをまたぎ越える。中には同じような死骸がいくつもあった。虫の種類はだいたい決まっており、家に住み着く種類ばかりだ。いくら魔理沙といえども死骸を掃除しないワケはないので、犯人は把握できる。
「魔理沙、どこにいるの返事しなさい。死んでないわよね」
死んでないわよね。冗談のつもりではあったが、あながちそうとも言い切れない状態。
アリスは書斎とおぼしき部屋の前にきた。内開きのドアを開こうとすると、向こう側から抑えこまれている。何かが物理的に邪魔をしている。
「ここにいるの? 魔理沙、返事をしなさい」
「…………いるよ……」
魔理沙の声が聞こえた。とてもかすかだ。力がこもっていない。アリスはひとまず安堵する。
「よかった。ドアの前に置いているものはなに。とにかく出てきてちょうだい」
「いやだ。……その前に上海を何とかしてくれ……」
「上海? 上海人形がここにいるのね。分かったわ。何とかするわ」
そのときだ。アリスの引きつれる人形たちがあらぬ方向へ注目しだしたので、アリスもつられてそっちへ首をまげた。そこにはいつの間にか上海がいて、人形の一人を捕まえ腕をもぎとっているところだった。
アリスは刺し貫きそうな目をむけて言う。
「みんな、そいつを捕まえていなさい。暴れて手がかかるようなら潰しなさい」
アリスのまわりに浮遊していた人形たちが、命令と同時にいっせいに上海を取り囲む。それは腕をもがれている最中の人形でさえも例外ではない。上海がたちまち拘束されて、動けなくなったところまで確認したアリスは、再び魔理沙に話しかける。
「上海を捕まえたわ。もう大丈夫よ魔理沙。ほら、出てきて」
アリスはできるかぎりやさしく語りかける。ドアの向こうで重たい何かが引きずられる音が聞こえてくる。やがてドアが開かれると魔理沙が出てきた。寝起きのような、ずっと運動を続けていたような、汚れくたびれた服をきている。なによりアリスの目を引いたのが、顔のあちこちについた切り傷だ。血が固まって黒い模様をつくる。
何日かずっと書斎にたてこもっていたらしい。使いふるしの紙のようになっている魔理沙をみて、アリスは何と声をかければいいか分からなくなる。
「あの、だいじょうぶ?」
アリスが言う。魔理沙は無言で、人形たちが取り押さえている上海のほうを見る。疲れきった目だ。アリスはその目線の意図をくみとろうと思った。
「上海は問題いらないわ。私が片付けておくからね。もうこんなことはさせないから」
「……」
「あの、誤解しているかもしれないけど、私のせいじゃないわよ。上海が勝手に、ね。こんなに危険なことする子とは思ってなかったし」
上海にあたえられていた魔理沙の目線は、そのままアリスを射ぬいた。アリスはすこしムッとする。
「なにかしゃべってよ」
すると、魔理沙の表情がいっきに壊れて、苦々しい泣き顔をみせた。
「お前のせいだよ! お前のせいだ! ぜんぶお前の!」
魔理沙は涙と唾を一方的にとばした。帰れ、という言葉をしつこく叫びはじめる。アリスは口の挟みようがなくなってしぶしぶ霧雨邸をあとにした。
「なにあいつ。助けてやったのに」
そう悪態をつく。
とは言うもののアリスも責任を感じていないわけではない。あの狂った上海を作りだしてしまったのはアリス自身だ。親というか保護者というか、そういった立場にいる。少々はこちらにも非があるのだろうと考える。だが、あくまで少々だ。アリスは、やはり大まかに見れば自分のせいではないと決めつけていた。だから魔理沙からあんな暴言を言われたことに腹をたてる。
魔理沙の怒り方は幼子のようだった。アリスはそこに理不尽さを読み取る。いかにも感情にとらわれていた姿を、見下さずにはいられなかった。しばらく距離をおいておこう、などと冷静を気取る。
帰宅したアリスは人形部屋へ直行する。やっと捕まえることのできた上海を、作業机にむけて人形たちに投げさせる。アリスはその上海を手早くつかみとって行動不能にさせる。この問題児をどうしてやろうかと考える。もう、ほとんど決めかけていたが、いちおう頭の中で列挙してみる。
処分、保管、研究、どれがいいかしら。ああでも、こんな事情は滅多にないし、利用しないなんて惜しいわね。調べよう。けど、それは明日になってからね。
アリスは動かない上海をぞんざいに放り投げる。
雨の日。ぬるい風。鉛色の空。雨合羽を着た不格好なアリスが飛び立つ。太い雨粒にうたれながら目指した先は紅魔館。吸血鬼の館だが、目当ては吸血鬼ではない。そんなものに興味はない。館の図書館にいく。暗く、しずかで、空気はつめたい。魔法使いにふわさしい陰気なところだ。事実、なぜか幻想郷の魔法使いはここに集まりたがる。ただし、僧侶はまだ訪れていない。
アリスも陰気につられる一人だった。
紅魔館の門の前で、雨合羽を着た門番とかるい挨拶をかわし、庭に入ると正面へは進まず図書館へいく。小さなドアから図書館に入れば、雨音から解放される。アリスは雨合羽をぬぎながら一息つく。
図書館の主をみつけるために大理石の床を歩く。アリスはとちゅうで司書とも呼べる小悪魔と出会う。小悪魔は不思議な表情をしていた。
「おや、魔理沙さんとご一緒じゃないんですか」
「どうしてあいつと?」
「だって、さっき来ていましたもの。もう出ていかれましたが。入れ違いですよ」
アリスは虚をつかれて、それを隠すために愛想笑いをうかべる。小悪魔は微笑みを返しながら曲がり角へ吸い込まれていった。
魔理沙がここの常連であることをすっかり忘れていたアリス。ケンカ別れになったあの日からせいぜい三日しか経っておらず、その一件についての悩ましさも忘れがたい。いま顔をあわせるのは気まずい。
恐る恐る図書館の主の元にむかった。こじんまりしたテーブルとイスが、本棚から取り出された素の本にかこまれてぽつんと用意されている場所に、彼女はいる。あけっぴろげだが、彼女にとっての書斎がここにあたる。
パチュリーが一人でいるのを確認してはじめて、アリスは柔らかな表情で前に出る。
「ごきげんよう」
アリスの挨拶にパチュリーは答えない。頬杖をつきながらハードカバーに目を落としている。何があろうとキリのいいところまで読み進めたいつもりだ。誰だってそうだとは思う。少なくともアリスはソレを分かっているから、何も言わずに空いているイスを借りる。
パチュリーを待つ。そのあいだに音もなく咲夜が訪れ、紅茶とお茶うけを置いていき、去り際にはアリスの雨合羽を受け取る。
何回目かのページを繰る音が聞こえたところで、ハードカバーは閉じられる。やっと顔をあげたパチュリーがアリスをみて遅めの挨拶をかえす。
「ごきげんよう。魔理沙ならもう帰ったわよ」
「知ってる」
アリスはあえてぶっきらぼうに告げる。
「魔理沙のことで図書館にきた。ちがう? 私に相談しにきた?」
「相談じゃない。愚痴を言いにきたのよ」
「魔理沙も同じこと言ってた」
パチュリーはにやけている。いやらしい弓なりの唇だ。アリスはうってかわって仏頂面になる。来なければよかったと、はや後悔をはじめる。
「ここは魔法使いの相談所じゃないんだけどね」
パチュリーが淹れたての紅茶を一口ふくむ。
「あなた、殺人人形を作ったんだってね。魔理沙から聞いたわよ」
「そんな物騒なもの作ってない」
「そうなの? 魔理沙、怒ってたわよ。アリスのやつは謝ってくれなかったって」
「あなたは知らないのでしょうけど、私に謝る必要なんてない。私のせいじゃないもの」
「そうね。あなたのせいじゃないわね。詳しくないから憶測で言うけど、人形を作ったのはあなただけど魔理沙を閉じ込めて殺しかけたのはあなたじゃないものね。私のことばに間違いはないわよね?」
アリスは、ムラサキの魔女の笑顔をひっぱたいてやりたいと思った。
「イヤミったらしい。被害をうけたのは魔理沙だけじゃないんだからね、私だって」
「なるほど。主人まで殺そうとするとは、殺人人形の名前はダテじゃないってわけね」
アリスは突き刺すような目をパチュリーへ向ける。パチュリーはすずしげに紅茶を一口。
「ところでさあ、見たいわね。あなたたちをすっかり困らせるほどなお人形さんを」
「いいわよ。夜中に枕元へ置いておきましょうか」
「寝首をかくってヤツ?」
パチュリーだけがくっくっと笑い、アリスは手をつけていない紅茶の溜りに目をおとす。水面にうつる自分の顔の、人当たりがわるそうなことを知る。
「魔理沙は子どもだわ」
間をおいたのちに、アリスはぽつりと、何気なくつぶやいた。パチュリーへ聞かせるためではなさそうな、小さな声だ。しかし耳に届いていた。
「ふうん。魔理沙は子どもなんだ」
そう尋ねられるとは思っていなかったアリスは、声を聞いてハッと顔をあげる。そうして何も考えず、ただ与えられた刺激に反応がかえったといった感じで口がうごく。
「あんなの、いきなり喚き散らしたりなんて、ダメね」
「そうなのね。喚き散らしたのね。たしかに子どもっぽいわね。そもそも魔理沙って、まだ幼いし。私たちに比べたら尚更。まあ私から見れば、アリスも充分若いんだけど。もしくは、私があなたたちに比べて年をとっちゃっているのかも」
「その言い方。まるで私まで子どもみたいだって言ってる」
実際そうなのではないかとアリスは思った。パチュリーのさっきからの皮肉がこもったセリフたちは針で突付くよう。本人自体それが分かっている顔をしている。薄ら笑い。
アリスはパチュリーの顔を見ていると、魔理沙が早々に帰っていった理由がどことなく分かってきた。
魔理沙がパチュリーの毒気にあきれて帰っていったのだとしたら、なんて堪え性がないのだろう。私ならまだまだ堪えられるし、毒をそっくりそのまま返すことだってできる。何でもかんでも、すぐに感情を表立たせてしまうようなお子様とは違う。
アリスに沸き立つ、素直でない気持ち。
アリスはそれまでのかたい表情をあらため、自然な作り笑いをうかべてみせる。カップの縁をなぞりながらパチュリーへ言う。
「魔理沙もあなたへ愚痴を漏らしにきたんでしょう」
肯定するパチュリー。
「どんな感じだったか教えてよ」
「いいの?」
「もったいぶらないで。おもしろそう」
そうねえ、などと言いながらパチュリーは深く考えこむフリをしてみせて、わざと難しげなうなり声をあげて天井を仰ぐ。たっぷりと時間をとり、口から飛び出てきたものは、
「あなた、みたいだった」
それまでじっくりと火の加えられていた感情が一気に沸騰したアリスは、勢いよく立ち上がりイスを蹴散らす。目を白黒させるパチュリーをいっぱいに見つめながら口をあぐあぐと開いて何かを言おうとする。だが、その熱が相手にむかって解き放たれることはなかった。
「もういいわ、帰る」
アリスは言いながらイスもなおさず足早に出入り口へとむかう。すると魔女が笑いだした。その品のない男から出るような声が耳障りだったので、アリスはほとんど走るように出入り口へ。黒い木造ドアのそばには、咲夜が雨合羽を腕にかけて立っていた。アリスは雨合羽を奪い取るように受け取り、さっさと羽織って外に出る。
行きのころより雨脚が盛んになっている中を、アリスは帰っていく。ときおり雨合羽の隙間から侵入する水玉が服を濡らしていく。アリスは家に帰るまでの道で嫌というほどソレを感じていた。
こう激しい雨の日となると、魔法の森をおおう瘴気はすっかり押しこまれて息をひそめる。洗い流されるべきものが洗い流される一日だ。アリスはネズミを放りこんで捨てた皮袋を思い出し、中身が想像もしたくない状態になっているであろうことを想像する。捨てた場所はとうに忘れ果てていた。
家を見つけるとすばやく落下し中へ入る。玄関で雨合羽を壁のフックにかける。余所行きの服から普段着へ着替えたあと、人形部屋へ入る。机にはあの上海と、なじみのグリモアがおいてある。
ずっと上海の解剖をしていた。解剖といってもハラワタを抉るのではない。上海へあたえている役割を一から見なおしていた。役割は魔法で構成されているから、別な言い方をするなら魔法の解体と言える。
イスに座ったアリスは、気だるそうに上海を見つめる。ここまでくると、怒りの流動はすっかり淀んで冷めていた。
図書館でのやりとりがイヤでも浮かびあがってくる。これでは魔理沙に会えないだけでなくパチュリーへ会いにいくのも気まずい。どうしたものだろうかと内心で頭を抱える。上海を見つめていると魔理沙の言葉がよみがえる。お前のせいだ。アリスにとって上海にこそぶつけてやりたい言葉だった。
その上海。アリスは数日前から調べているが何も分からずじまい。上海へ植えつけた“防衛”の役割は、他の同じ役割をもった人形と比べてみても違いはなく、しかし動かしてみると確実に牙をむく。
さすがにアリスも薄々感づいていた。何がおかしいか、ではなく、どこがおかしいかを見極めなければいけないことを。恐らく上海へかけられた役割は精巧なはずだ。異変を引き起こしているのはそこ以外。この上海と、他の人形では異なるもの。
からだ。そう、からだ。規格としては上海人形という一つの存在ではあるが、他の上海人形とこの上海はもった体が異なっている。……当然といえば当然の話だが。しかしアリスはいまだかつて、人形の体が役割に関わってくるという事実に触れたことはない。あるいは今あるコレがその事実なのかもしれない。だいたい、今まで同じように、いつもの手順で、何一つ変わりなく作ってきた人形の一つではないか。いったい何がどう異なるというのだろう。
謎かけを解くためにアリスが行ったのは上海の再現だった。いつも通り作業机の上に人形をつくる準備をはじめると、黙々と取りかかる。
いつも通りでは再現できないだろうな、と、アリスはぼんやり考えていた。
刃を剥くポケットナイフを掲げる露西亜人形は飛び上がり、腰掛けるアリスへ切っ先を光らせ突撃する。アリスのまわりにいた四人の上海人形は躍り出ると、露西亜のナイフをそれぞれ受け止め、力を合わせてはたき落とす。露西は落ちたナイフを拾いに向かい、拾うやいなや再びアリスへ襲いかかる。やはり阻止される。
何度か行われたあとに、アリスは露西亜へ「ごくろうさま」と告げる。露西亜はたちまち硬直してナイフごと床へ倒れる。
攻撃のみをおこなうようにされた露西亜をつかい、例の上海をトレスしようと試みて作られた上海たちに防衛させる。その結果はさきほどの通り。実におとなしく防衛という役割に準じてくれた。不満足な結果だ。
露西亜を回収するアリスの顔はうかない。目の隈がひろがっている。隈があるのはしょっちゅうだが、最近は特に。寝る間を惜しんで人形をこしらえ、ひととおり使い。得たものと言えば“再現はとてもできそうにない”という答えくらい。
机へ飾るように立たせてある上海を見るたび、鬱屈とした気分がせりあがってくるアリス。今、自分がこうしている理由がそこにある。
アリスは上海を、本当の意味で解剖してしまおうかと悩んでいた。糸をときほぐして体をばらばらにする。そうすれば中身を事細かに調べられる。
だがそうすると元に戻せなくなるだろう。一度ばらしたあと、見た目のうえでは元通りに修繕できたとしても、もう前のような暴走はきっと見られない。アリスはそれを恐れている。そのくらいデリケートなものだと捉えている。
アリスはもどかしい。実は解剖なんて乱暴なマネをしなくとも、中身を調べられる方法がある。だが自分にはできそうもない。だからもどかしい。
少し考えこみ、そのあとペンをとり、取り出した紙へさらさらと文を書きはじめた。書き終わるのは早い。すると紙を大きめの封筒の中へいれ、さらに上海もつっこむ。わずかに膨らむ封筒。
着替えたアリスが封筒をもって外出する。
厚い曇り空の下をゆるやかに進んでいった行き先は、紅魔館だった。門の直前に降り立ったアリス。にこやかに会釈をする門番へ近づく。
「どうも。入ってよろしいですよ。図書館ですよね」
「入らないわ」
そう否定された美鈴はすこし驚いた顔をみせる。アリスは何か言われてしまう前に距離をつめて、持ってきた封筒を渡す。美鈴が目を泳がす。
「え。……ああ、贈り物をなさるんで」
「パチュリーに渡して。他言無用。今すぐ渡す。いきなさい」
「今すぐ、ですか。休憩のときにでも渡しにいきますから」
「今すぐ渡す。パチュリー以外には誰にも喋らない。さっさとしなさい」
「仕事中なんで……」
「融通をきかせる。わかった?」
二人がもめる。アリスは手紙と上海のはいった封筒を今すぐパチュリーに見せたかった。直接会うのはまだはばかられるので、回りくどいことをする。いっぽう美鈴は仕事場を離れることを拒む。そもそも手紙や届け物を屋敷まで送るのは、彼女ではなく郵便屋のすることだ。アリスのように門番だからと勘違いで渡してくる者がいたときだけ、承りはするが。
「いいから渡しにいきなさい! そのくらいできるでしょ」
アリスは押し切ろうとする。引くに引けなくなっていた。注文をつけられている美鈴は困惑顔で口をもごもご動かす。圧力に負けそうで喋られなくなっていた。
ふと、美鈴の目線があらぬ方向をさした。アリスは見逃さない。アリスも追って後ろを振り返ると鉛の空を飛ぶ誰かを見つける。遠いが、なんとか見分けたアリスは表情に焦りをあらわし、もう無理矢理に封筒を美鈴へもたせる。
「ぜったいに渡しておく、誰にも喋らない、空飛んでるアイツにもよ! 分かったわね」
アリスはいそいで周囲を取り囲む林へと身を潜めた。そこから門のあたりをじっと見守る。美鈴が封筒を持て余しているところ、間もなくして魔理沙が降り立ってくる。二人の会話はアリスの場所からでも聞き取れた。
「よお。さっき誰かいたな。誰だったんだ」
「ええっと……ちょっとした人ですよ」
魔理沙がとつぜんこちらのほうを指さしてきたので、アリスの心臓は大きく跳ねる。
「あっちに逃げてったけど」
「妖怪でしたからね。妖怪は薄暗い場所を好むものです。林とかね」
「ふうん。で、その封筒、妖怪からもらったのか」
尋ねられた美鈴は答えもせず意味深な笑顔で対応している。それでは怪しまれるだろうと気が気でないアリスだ。
納得していない様子で、眉間をよせていた魔理沙は、しかしそれほど興味をそそられなかったらしい。美鈴と二言か三言か言葉をかわしたあと門をくぐっていく。アリスは魔理沙の背中が消えていく最後まで見守り続けてから、林を出る。美鈴と目をあわして肩の力を抜く。
「封筒を渡しにいくのは後でいいわ。あと、私がいたことを魔理沙には言わないでよ。私がいたこと、バレてないわよね」
アリスは遠方からでも魔理沙を見分けることができたが、魔理沙のほうはどうだろうか。もしかしたら見られて正体も知られたのかもしれない。アリスはそういう意味をこめて喋った。
「魔理沙さんが指をさしたときは、てっきり私はバレたのかと思いましたけどね」
美鈴はちがう意味でうけとっていた。
アリスは話の咬み合っていないことに呆れて、もういちど魔理沙のいないことを確認してから帰路につく。
ところで、アリスがパチュリーに宛てた手紙の中身はどんなものだったか。そこにはこのように書かれていた。
“まどろっこしい手紙の約束事は一切ナシで書かせていただきます。無礼と思われるかもしれないけど、あんたも私に失礼な態度をとったからお互い様よね。
同封されていた上海人形はご覧になって? 捨てないでよ。それは私にとって貴重なものなんだから。なぜそんな貴重なものをあんたへ渡したか、考えてみなさい。いちおう言っておきますが、その上海人形があんたの寝首をかくようなマネは絶対にありません。
もっとも、あんたが人形術を知っていて、今は眠っているその子を起こすことができるというのなら話は別だけど。あんたは獰猛な番犬が安らかにしているところを、わざわざ起こすほど間抜けではないはずよね。
その上海人形が、魔理沙を襲って私を困らせた悪魔の子です。私はこの子がなぜ悪魔じみた行動をとるようになってしまったか、時間をかけて調べていました。けど全然ダメ。どれだけ叩こうが埃も落ちてこない。残された手段は何だと思う? その子を、その子が他の人形へしたように、残酷に傷つけてしまうこと。
なぜそうしないのかって、思うかもね。けど、あんたも知識が大好物な魔法使いなら分かるでしょう。貴重なサンプルを失ってしまうのがどれだけ哀しいことであるかを!
ここまで読めば、私がなぜあんたへ手紙と人形をよこしたか。もしかしたら理解してもらえたかもしれないわね。もちろん説明はさせていただきます。
あんたにしてほしいことは上海人形を傷つけず物理的に中身を調べてもらうこと。結果があんたにとってつまらないものであろうと、全て私に教えなさい。全て、詳細に。受けてくれるかしら? 念のためにお願いをしておくわ。
Please.
あんたへのお願いはこれだけじゃありません。魔術的な考察もよろしく。私のほうで充分おこなったつもりではあるけど、見落としがあるかもしれない。あんたが見つけてくれたら嬉しいわね。
調べ終えたら、上海人形は私のもとへ返してください。返してくれないのなら取り返しにいくので覚悟しておくように。あんたが人形に興味をもつとは思えないし、ましてや泥棒を働くところも想像できないけどね。
あと、魔理沙には話さないように。魔理沙については私だけで何とかします。あんたの悪戯心がうごき出さないことを願っておくわ。
私からあんたへの頼みごとは以上よ。
次に現時点でわかっている上海人形のことを教えておきます。
・上海人形には人形術が施されており、それはその子を防衛という役目につかせる
・防衛の役目はうまく機能していないか、機能しすぎている模様。過剰な防衛行動を働く傾向にある(本が好きなパチュリー。あんたならこういうシチェーションの作品を知っているかもね)
・上海人形が過剰な防衛行動をとった者は、知りうる範囲では他の人形(同型も含む)、ネズミ、虫、人間
・防衛の役目がうまく機能していないと記したが、私が調べた限りで異常はみられない
・異常があるのは上海人形にかけられた人形術ではなく、上海人形の体そのものと思われる“
翌日、アリスのもとに舞いこんできた一枚の手紙があった。パチュリーから届けられたものだが、その内容はこうだ。
“拝復
あなたのお願いごとはよく分かったわ。受けてさしあげます。さしあたり、早急に司書のちからも借りて上海人形の究明にあたらせてもらうわ。あなたが要求したとおり、壊すことなく物理的に彼女の中身をあきらかにする。できる限り早く済ませましょう。ところで、あなたはどこで、私がこういう作業を行えるということを知ったのかしら。答えなくて構わないけど。
そして私からあなたへ尋ねておきたいことがある。あなたは上海人形を分析して何かに利用するつもりのようだけど、それより重要なことがあるでしょう。魔理沙はどうするつもり?
あえてきつい言葉を使わせてもらう。人形遊びにかまけている暇があるならさっさと謝ってしまうことをお勧めするわ。あなたが闇雲に自尊心を張ったり、先輩風を吹かそうとするから、面倒なことになるのよ。狭い幻想郷のなか、数人ばかりの魔法使い。しかもあなたは魔理沙とご近所さま。近すぎず遠すぎずの距離が一番のはず。あなたのほうがよく分かっているのではなくて?
魔理沙ね、私の観察では、あなたのことを断じて許してやらない、と言う態度でもないのよ。そりゃあ初めはプリプリ怒っていたけど、数日も経てば平気を取り戻してきたようだし。傷が残らないうちに片付けてしまいなさい。私まで気まずくなるのは勘弁してほしいのよ。あなたたちの子守役じゃないんだから。
説教臭くなったからもうおしまい。
上海人形を調べてわかった結果については後日また手紙を送るから。あなたが思っているより早く結果をみせてあげましょう。 かしこ
◯◯年 ◯◯月◯◯日 パチュリー・ノーレッジ
追伸
私は別に手紙の約束事についてあれこれと文句をつけるつもりではないけど、せめて名前と日付くらいは書いておいてほしいわね。時間が経ってから読み返すことになったとき、いつ、誰から送られてきたものかが分からないと困るの。個人的な話だけど。お願いね“
リビングで手紙を読みきったアリスは、苦虫を噛みつぶしたような表情で手紙をもと入っていた封筒へもどす。空いている手で自分の滑らかな金髪を撫でる。
「分かってる、分かってるわよ。手紙でまで言わなくていい。先輩風を吹かしてるのはどっちよ。ああもう!」
ひとりごちる。
アリスだって考えなしに上海に着眼しているのではない。上海を調べた結果おもいも寄らなかった真実が分かったとき、上海を作り直せるようになるだろう。治療のすえに素直になった上海を魔理沙に見せてやろうと考えていた。これでいける! まちがいない。上海は引き裂かれた仲を紡ぐ天使。このような言葉を臆面もなく考えついていた。
パチュリーからの手紙は、アリスを正気にもどすのには充分だった。アリスは凍りつき、腹をたて、気がすめば果てしのない虚無感にとらわれた。
まだ日も出ていない早朝に事件は起きる。
何かの割れる音が、まだ夢見心地だったアリスの耳をつんざいた。アリスは飛び起きて何事かと目を皿にする。気のせいか、夢のせいか、などと考えているうちに再び音が炸裂したので、寝ぼけ眼をギョロつかせながら音のほうへ走っていく。
薄暗いキッチン、床に散らばる食器の破片。シンクの上を駆けまわるネズミ、それに馬乗りになった倫敦人形。アリスが目撃する前で、倫敦は手にするバターナイフをネズミの眉間に埋めこんだ。
ネズミは鋭い鳴き声を発し、くずおれた体を丸めながらコップにぶつかる。いっしょにシンクから床へと落ちていく。再び激しい音。痙攣するネズミをよそに、倫敦はバターナイフを抜き取って平然とその場を離れていこうとした。
悪夢をみせつけられたアリスが黙っているはずはない。倫敦を捕まえると血まみれのバターナイフをとりあげ、シンクへと投げ捨てる。
「何をしているの!」
悲痛な訴えだ。しかし人形に人の心が伝わるのなら苦労しない。アリスは自覚のない倫敦に動かなくなる魔法をあたえると、そのまま人形部屋へもっていった。汚れた服を剥ぎとってやり、裸の倫敦を机にそっと投げる。
アリスは肌寒い暗がりのなかで頭を抱える。まさか上海のみならず他の人形までおかしくなるとは思ってもみなかった。寝起きの乱れ髪が今のアリスにはひどく似合っている。
ふきとばされた眠気は取り戻せない。覚めたアリスはいつかのように箒と皮袋を持ち出した。スリッパを履いて、キッチンへ入ると粉々の食器を踏みつけながらネズミを皮袋へすばやく回収し、裏口の近くにもっていく。さらに、食器の破片も片付けなければならない。アリスにとってこんなに忙しい朝を経験したのは、ただの一度もない。
あらかたを終えた頃には朝日が部屋へさしこみはじめていた。さわやかな気分にもなれないアリスは、朝の支度をすべて放棄して寝室へむかう。病人のように力なく毛布をかきわけ眠りにつく。
目を覚ましたのは昼を過ぎた頃で、長時間の睡眠で体はこわばっていた。どうにか動かしながら遅すぎる朝の支度をはじめる。体を洗ったり、服を着替えたり。締めに朝食をつくって食べる。
アリスは卵焼きをのせた食パンをかじるかたわら、空いた手でパチュリー宛ての手紙を書く。倫敦人形が、上海人形と同じ症状に見舞われたということを記した。こうすれば自分にとっても状況の整理になってくれる。
手紙は封筒に入れる。倫敦は入れない。とりあえずの報告のためだから、まだ倫敦を手放すわけにはいかないとアリスは思った。ついで、今回はしっかり日付と名前を記している。
アリスは人里へと出かける。封筒を郵便屋へ持っていき、そこを通じてパチュリーへ渡すつもりだ。さすがに門番とのごたごたを二度は味わいたくなかったし、先の一見で魔理沙と鉢合わせる危険を知ったからだ。
人里の小さな郵便屋へいくと、制帽をかぶっているくせに紺色の着物を着ているという職員へ、カウンター越しに封筒を渡す。
(ちなみに、職員とは言うがここは幻想郷だ。上様とのつながりはない。幻想郷の郵便屋は惰性と人々の声で成り立っている)
「紅魔館の図書館へ。まあ書いてあるんだけど」
カウンターに肘をついて通りの向こうにある駄菓子屋を見つめながら、アリスは言う。紅魔館と聞いた職員の顔がけわしくなる。その理由は、里以外への配達はあまり行われておらず、なおかつ紅魔館の評判が芳しくないからだ。
アリスはいくらかの説明をうけたあと料金を払い、建物を出ようとする。職員に引き止められてこう言われる。
「アリス・マーガトロイドと封筒には書いてありますが、ご本人さまで?」
「ええ、まあ」
「でしたらちょうどよかった。パチュリーさまからお手紙をあずかっています。お渡ししましょう」
封筒を受け取ったアリスは建物を後にする。面倒くさい。やっぱり直に渡しにいったほうがいいかもしれない。などと考えながら、さっきまで眺めていた駄菓子屋へよる。
アリスは帰宅するとさっそく封筒をひらく。内容はアリスが期待していたものとは異なり、簡潔なもの。上海をいま調べている途中だがまだ異常はみられないのだという旨みが、いやに真面目な文体で記してある。アリスは手紙を読みながら水飴をねぶる。
魔理沙。という文字を探して、ないと分かるや安堵する。一方でやや苛立ちを覚える。前の手紙ではあんなに言及していた癖に、と。
アリスは水飴の最後のひとすくいを口に含んだまま人形部屋へむかった。机の上の倫敦を調べないといけない。そこで頬を赤く染める倫敦を見たときアリスは悲しくなった。こんな残忍な子を作ったつもりではないのに、その意に反する我が娘。
しずかに古グリモアをもち、倫敦に人差し指をあてる。心音を図るようだった。このときアリスはすぐに気づいた。この倫敦には防衛の役割なんてあたえていなかったことを。
「この子って、何やらせてたかしら」とつぶやく。アリスは、人形を飾っている棚を眺めてそのことを思い出そうとする。色とりどりの人形がでたらめに腰をおろしている棚だ。しばらく我を忘れたように眺めつづける。
人形がおちた。
アリスの目の前で、棚から仏蘭西人形がおちて床に転がった。仏蘭西は当たり前のように立ち上がると、あろうことか机にむかって浮遊しはじめる。急に自立をはじめた人形を、アリスは不思議な気分で観察する。そうして、彼女が机の糸切りばさみに近づいていったところで、はじめて愕然とする。
まさか。そう思って糸切りばさみに左手を伸ばした時にはおそい。仏蘭西は糸切りばさみを持ち上げるとアリスにむかい突き出してくる。アリスは慌てて手を引っ込めたが、同時にチクリと痛みを感じた。
仏蘭西が糸切りばさみを構えて、丸みを帯びる刀身を明らかに刺突させようという具合に迫ってくる。身の危険を感じたアリスは即座に立ち上がり、後ろ歩きにドアまで下がりドアノブを引っ掻き気味に回す。廊下へ脱出する。
アリスはドアを閉じながら左手のひらを見つめる。ほんのわずかに吹き出た血が手相にそって広がっている。軽傷だが動揺してしまう。
このドアを開きたくはなかったが、おかしくなった仏蘭西を人形部屋に置いておくと何をしでかすか分からない。どうしても開かねばならない。せめて仏蘭西を部屋から遠ざけようと考える。人形を細切れにされたくはなかった。
激しくなっていた鼓動を落ち着かせようと呼吸しながら、ドアをそっと内向きに開く。隙間ができる。するとそこから鈍い銀色の何かが飛び出してきて右手首を襲う。アリスが激痛と共にドアを開け放つと、仏蘭西とポケットナイフのはじき飛ばされる姿があった。それが凶器のようだ。
「なによ!」
アリスは叫んで、再びドアを閉じる。青ざめた顔で右腕の切られた部位を睨みつける。さいわい脈からは外れていた。だが混乱しきったアリスだ、痛みと、滲み出る血があるだけで恐ろしくなった。
キッチンへ駆け出すとテーブルにある手ぬぐいをとり、傷口へ巻きつけようとする。片方の手だけをつかい布を巻く。じれったいものだ。何度か試すが結び目があまく、ほどけてしまう。繰り返すたびに焦る。
「落ち着きなさいアリス。だいじょうぶ。落ち着きなさい。落ち着きなさい……」
早口で自分を慰めていたアリスは、間もなく手ぬぐいを巻き終わる。
まだ言葉を繰り返しながら廊下へ振り返り、またしても叫び声をしぼり出す。ポケットナイフを抱えた仏蘭西が、アリスへ向かって飛来してきた。迎撃するために弾幕を一つ二つと放つも、狙いはそれて、思いのほか足の速かった仏蘭西はたやすくキッチンまで侵入する。
アリスは壁越しに、仏蘭西を迂回するように移動する。廊下まで近づいたところで無我夢中に走りぬけ、距離の近かった寝室へ逃げこんだ。ドアを閉めてカギをかけるだけに留まらず、何度も噛みながら魔法を唱える。詠唱が引き起こした魔法はドアとその周辺をつつみ、堅牢にかためる。
まだアリスは安心していない。ドアのそばに固まるようにして廊下の様子をせいいっぱいにたしかめる。こつ、こつ、と何かが触れる音がする。仏蘭西だ。アリスは、そうする必要はないはずなのにドアにもたれて開かないよう力をこめる。
しばらくして、仏蘭西が離れていくのを感じると、ふらふら背後のベッドへ尻餅をついた。胸いっぱいのため息を吐く。余裕をとりもどすと色々なことを考えはじめる。この間の魔理沙と同じ状況になってしまっているのだと気づき、哀れな気持ちがこみあがってくる。
と、一つ思い出した。そういえば魔理沙は何かの障害物でバリケードを作っていた。
アリスはドアを見つめる。カギをかけて、魔法もかけて、簡単には開かないようにしているドアだ。記憶を鑑みてみると、たしか魔理沙は魔法はつかわず物理的に塞いでいた。そう考えると急に不安が舞い戻ってくる。
アリスは立ち上がると、部屋の隅にある鏡台に目をつけた。近づいて側面に体をあずけて思い切り体重をかける。配置してからずっと動かしていなかった鏡台は、なかなか一歩を踏み出してくれなかった。だがじっくりと移動を重ねてドアを塞ぐ。
力仕事をおえたアリスは両腕に、出血はひどくなっていないだろうかと、意気消沈した瞳をむける。手の平の血はもうかたまりかけ。右腕は、巻いた手ぬぐいが生々しく湿っぽい模様に彩られている。
アリスはベッドに横たわろうとする。向こうの壁にある窓が視界に入る。あれも塞いだほうがいいのかしら、などと考える。いや、塞ぐよりずっと良いことを思いついた。
アリスは窓を開いた。魔法の森の瘴気が、あるいは茸の胞子が、陽光に照らされチラチラとしながら舞いこんでくる。肺に悪そうな空気を嫌な顔ひとつせず吸ったアリスは、窓から身を乗り出す。
悪鬼を家内にほうっておくのはまずかったが、アリスは原因そのものを解決することを優先した。多少、人形たちがゴミにされたりネズミや虫の死骸を飾りつけられる羽目になったとしても我慢するつもりだ。空高く飛び上がると紅魔館の方角を目指す。
いい天気だった。抜けるような青空だ。風景を楽しんでいる余裕はアリスにはなかったが。
紅魔館までたどり着いたアリスは、門番とかるい挨拶をかわして図書館へ入る。気まずいとかいう、そういう些細な感情はもう抱くひまがない。
中へ入ると書籍に囲まれた書斎まで急いだ。そこにはいつも通り、眠たそうな目でページを繰り続ける魔女がいる。アリスも、やや息を切らしてはいたが、いつも通りに適当なイスを勝手にかりる。本を読み終わるのを待とうとする。ところが魔女はすぐに顔をあげた。
「その血のついた右手、急用かしら」
アリスは驚き、だがその気持ちは表に出さず、努めて平静に返答する。
「そうね。急用だわ。治してほしいなんて言うつもりはないわよ。ただ少し助言をもらいたいの」
「きっと人形絡みね。……上海のこと聞きたい?」
アリスは首をよこにふったあと、一連のできごとを話しはじめる。前触れもなく倫敦が狂ったこと、同じように仏蘭西が暴れだしたことを話す。安全だと思っていた他の人形までもが上海と化してしまったのだと、強調する。早口で事情を告げていく慌ただしいアリスを、パチュリーが真摯な態度でうけとめる。とても魔法使い同士の会話には見えない、真面目な相談の風景だった。
「私、自信なくしそう」
会話の締めにアリスは弱々しい言葉を吐く。頬杖をついてうつろな目をする。一方パチュリーは考えごとをしているような気配だ。
パチュリーは話だした。
「自信をなくす必要はなさそうね」
「そうかしら。子どもたちがみんなグレていくのよ」
「たぶん、その原因はあなたにも、あなたの作った子どもたちにもないわ。もっと関係のない。いや。関係がないわけではないけど、すくなくとも直接関わってはいないはず。私の見立てでは」
アリスとパチュリーの目線がつながる。
「どういうことよ」
「人形って人のかたちをとっているぶん、取り憑かれやすいんでしょう?」
「……ああ、まさか。ちょっと待ってそんなこと」
「悪い幽霊が住み着いているんじゃないかしら」
アリスはパチュリーをじっと見つめる。どうしても冗談で言っているようには見えない。しかし疑う。幽霊なんてそんな、ありきたりで、あっさりとしていて、面白みのない。
「じゃあ仮に幽霊だとしましょう。で、どうするの。塩をまけばいいの?」
「そうねえ。それなら私たちよりもうってつけの人がいるわ。そうでしょ、魔理沙」
魔理沙。その名前を聞いた瞬間アリスは背筋の縮み上がる思いがした。パチュリーの目線がうごき指し示すほうへ、ぎこちない動作で振り返る。本棚の影から魔理沙が居心地わるそうに現れた。魔理沙は少しためらったあと、テーブルのそばまでやってきて立ったまま話に加わった。
「うってつけの人って、まさか私じゃないよな」
「あなたがネクロマンサーだったら、そう言えたかもね。けど残念、ここにはネクロマンサーはいないわ。うってつけの人は、あなたのお友達よ。けどお友達、私たちがお願いしても断られそう。だからあなたからお願いしてほしいの」
魔理沙は口を開きかけて、またとじる。何とも答えかねているようだ。
「というわけで、今からお願いしに行くこと。アリスもついていって、事情を話すのよ。分かったならさっさと行きなさい。これ以上図書館にいると咲夜に追い出させるわよ」
勝手に話をまとめられ、アリスと魔理沙は図書館から出ざるをえなくなる。二人はいっしょに空を飛んで、パチュリーに言われたとおり博麗神社へ向かうことにした。
道中、横からするどく差しこんでくる陽光が眩しく熱い。この季節の太陽は、夏のソレとはまた違う鬱陶しさがある。
アリスは喋らない。魔理沙も喋らない。アリスは自分の失敗談にも近い話を魔理沙に聞かれていたのが、痛くて仕方なかった。さらに喧嘩別れのとき以来、一言も交わしていない。こんな状況を作りあげたパチュリーを恨む。
そうして喉のつまり具合といったら生半可ではない。会話をするべきだと圧迫されて、言葉を選び選び、けっきょく喋られない。二人は通じ合わないものだから空をいく速度も早く、順調に神社までの道のりを消化していく。
神社につくまでこの調子? そんな苦い目に会いたくなかったアリスは、どうにかしようとする。
「いつからいたの」
「お前が水飴を買っているところをさ、見たんだよ。で、そのあと、家に帰ったのかと思ったら」
「また私が飛んでたから追いかけたのね」
「……悪気はなかったんだぜ」
重たい。言葉を選び損ねたとアリスは思った。自分の口から呪いの言葉が吐き出されたような感じさえした。目を合わせまいとずっと前を見つめている魔理沙を横目に捉えていると、このまま逃げ帰ったほうがいいような気がしてきた。
だができない。うじうじした悩みを魔理沙に気取られないよう、ほんのすこし後ろを飛ぶ。パチュリーが追いだすように話をまとめあげた理由を、アリスはいま痛感していた。おせっかいにも仲直りの機会をもうけてやろうというつもりらしい。余計なお世話だ、とはアリスが言える立場ではない。
アリスはどうしようもない悩み事を蛇のようにのたうちまわして、その突破口を必死に探しまわる。考えに考えぬいたアリスは、とうとう意を決することにした。
彼女はなんの前触れもなくこう口を開く。
「謝るわ。ごめんなさい。上海のことね、ごめんなさい。私の責任よ。不甲斐ないわね。話聞いてたんでしょ。幽霊だって。笑っちゃうわね。死人に弄ばれるようじゃダメね。威張って悪かったわ。ほんとうよ。ごめんなさい」
勢いをつけて謝罪をはじめる。恥ずかしさから口早になり、誠実であろうとしてつい声を大きくする。いきなり畳みかけられた魔理沙は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をむける。
喋り終えたアリスは魔理沙の反応をみて、しまったと感じた。辛辣な態度で返されることを恐れる。だが、
「そうか」
魔理沙から返ってきたのはたった一言だった。
あっけない。だがトゲのない、やわらかい語感が、アリスの耳をこそばゆく過ぎていった。アリスはどきどきしながら聞き返そうとしたが、やめておいた。
ああ、これでよかったのか、とアリスは感じる。格好よくない、ちょっと卑下の入った謝罪でもよかったのかと感じる。てっきり嫌な顔をされるかと覚悟していたものだから、なおさらに。
その気持ちはすぐ顔に表れるから、アリスを恥ずかしくさせる。けどちらちら視界に入ってくる魔理沙の顔も、ほんの少しにやけている。二人は同じようだった。
このあと二人はまた喋らなくなってしまうが、むしろ二人にとっては穏やかな沈黙だった。アリスは風の音を聞きながら魔理沙についていく。
そうこうしているうちに二人は博麗神社へ到着した。アリスは一歩引いたところで待ち、魔理沙が霊夢へ事情をつたえて助力をたのむ。彼女はこう言う。
「へえ、そんなことが。でも私が行かなくてもよさそうね。……え、どうしても助けてほしいの? じゃ、これ、お札あげるからコレで何とかできるでしょう。人形についているのが幽霊なら、これを貼っちゃえばいいから。ナニに貼るって、人形に決まってるじゃない。幽霊に貼るつもりなの? ていうか、あんたら魔法使いのくせに幽霊も退治できないの?」
紅白のお札を退治用と予備に二枚もらった二人。わけようとはせず、二枚ともアリスが持つことになる。理由は、自分で落とし前をつけたいからだった。
神社を離れると今度は魔法の森へいく。アリスが先頭になって、ずいぶんな速さで飛行した。魔法の森の上空についてからはさらに速い。アリス邸の真上にいくまで、時間はかからなかった。
アリスは馴染んだ家を上空から眺める。斜のついた屋根は苔が生えていて黒っぽい。この下にある室内がどれだけ汚れているかを想像してため息をつく。
はやくも降り立とうとする魔理沙の肩を捕まえた。
「さあ。ここからは私の仕事よ。あんたにもう用事はありません」
「なんだよ。つれないな。一人より二人だぜ」
「また部屋に閉じ込められて干し芋みたいになりたいのかしら」
アリスは魔理沙の背中をかるく突き飛ばして、もう一度「私の仕事よ」と言い放つ。魔理沙はしぶしぶといった様子で自宅の方角へと飛んでいった。しっかり背中が見えなくなるまで見届けたアリスは、ひとり気合をいれなおし玄関から入っていく。これも帰宅と言えるのだろうかと、ぼんやり考えながら。
角度のせいかもしれない。月明かりが、濃密に茂る魔法の森の木々にじゃまされることなく、窓を突き抜けていた。暗がりのなかアリスの顔を照らし出す。アリスはイスに座り机に突っ伏したまま眠っていたが、ふと目を覚まし自分に降り掛かっていた一条をみとめて、つい寝てしまっていたことに気づく。
寝る前は家の片付けを行なっていた。アリスが思い浮かべていたとおり、いくつかの人形と汚い同居人たちが、仏蘭西人形の犠牲になっていた。それをせっせと綺麗にしていった。
犯人の仏蘭西人形。正確に言えば仏蘭西人形に取り憑いていた幽霊だが、仏蘭西にお札が貼り付けられたことで内部に封じられてしまっている。お札が貼っただけですっかり動かなくなった。
アリスにしてみれば、仏蘭西には申し訳ないがこんな人形を持っていても気分がよくない。近いうちに神社へ押し付けてお焚き上げをしてもらおうと考える。お札を何枚かもらって帰り、二度と迷惑な幽霊が家に入ってこないよう、貼ってみようとも考える。
机の上におかれている、すっかりキョンシーになってしまった仏蘭西を見つめるアリス。何を考えているのか当分はそうしていたが、急にイスから立ち上がる。両腕を抱き合わせながら足早に人形部屋を出る。体に掛けるものなしで夜中まで眠っていたから、芯まで冷えてしまっていた。
ちょっと遅い夜食をこしらえることにした。
緊張感があり、キャラも立っていて面白かったです。
あっさりめの真相も解決も、これはこれで。僕は好きですよ。
何ともあっけない終わり方…
オチがあっさりすぎるかと
チャイルドプレイなんかの、人形による悲劇という気持ち悪さが十分に描かれていました。
自分の可愛い人形が、喧嘩友達が可愛がっている人形が突然襲ってきて動揺する心境も上手く書かれてましたし。
オチがあっさりしているのは私も思いましたが、
内容が濃かったので逆にこれくらいあっさりと終わった方が良かったと思いました。
・・・ソフトでなくて人形に新しく組み込んだOS自体にバグがあるのかと思ってしまいましたがw
これってそういう話でしょ?
チープなくらいに簡単で、種が割れてしまえば「なんだ、そんな事かぁ」と言ってしまえるくらいのアッサリ感が丁度良いです。
なので、色々言われていますけど、これはこれで良いと思います。
淡々と、静かに調子を乱して精神的に追い詰められて行くアリスの様子が、サイコホラーって感じで良かったです。
最後、パチュリーを頼らないで部屋に籠城してしまっていたらどうなっていたんでしょうね。
それじゃアリスがただの馬鹿だよね
コメ18の人の言う通りだと思います
どこかが狂っている雰囲気が表現できていて
面白かったです
原因が悪霊なのは問題ないのだけど、料理の仕方が駄目なのかな。
例えば、なぜ人形に悪霊が取りついたのか、この後もう一度悪霊が取りついたらどうするのか、そもそもこの悪霊はどこからやってきたのか、等々。
個人的に一番疑問だったのは、上海はアリスを攻撃しないのに、仏蘭西はなぜアリスを狙ったのか。
これらを解決する糸口が全く見えないままに終わっているので、オチの中途半端さが目立つ結果となっています。
このままでは、作者が物語に書くのを飽きて途中で投稿したように見えてしまうかもしれません。
読者には分からなくても、作者自身には何かしらの答えを持って完結してほしかったです。
後、3人称で書くのは不慣れなためか、ところどころで視点がおかしい部分がありました。
誰がそ行動をしているのかをもっと意識して書くといいと思います。
パチュリーが笑い声をあげるシーンなんて、東方らしくはないけど
魔(少)女の描きかたとしてとってもナイス
オチはもっとぶん投げで良かった気がします
霊夢のセリフの直後くらいとかで切っちゃうとか
正体が分かればなんて事はない所も同じw
ぬえたんぇ・・・