その夜、闇の中で、黒い少女に出会った。
◆現在(一)
月の無い夜の森は、静謐な暗闇に包まれていた。
「遅くなっちゃったわね……」
私はランタンの灯りを頼りにしながら、森の中の細い道を足早に歩いている。
この魔法の森に新居を構えて、最初の新月だった。私は新月の夜しか花を咲かせないという魔法草を摘みに、森の奥に足を踏み入れた。無事に目当ての草は手に入ったが、資料が古かったせいか群生地の地図が不正確で、少しばかり彷徨う羽目になってしまったのだ。
手元の仄かな光が、夜の帳の下りた森の景色を照らし出す。この魔法の森は、虫の声も鳥の声もほとんどない。あるのは風に揺れる木々のざわめきぐらいのものだ。
もちろん、この程度の闇に怯えるほど、やわな神経はしていない。
しかし、視界を奪う闇というのは、意識せずともじわじわと精神を蝕むものだ。
知らず、私は急ぎ足になっていた。そうでなくても、この魔法の森に居を構えてまだ間もない。勝手に間借りしている空き家までの帰り道は記憶しているが、それでも家に帰り着くまでは気の休まらないのも事実だった。
風が吹く。梢が、ざざぁっ、と耳障りな旋律を奏でた。
頭上を振り仰ぐ。木々の葉に覆われ、夜空はほんの小さくしか見えない。まして、そこにある星の光など見えるはずもなかった。
ランタンの炎が頼りなく揺れた。私は首を振る。この闇に乗じて、あるいはこの森に潜んでいる腹を空かせた妖怪が、獲物を求めてうろついているかもしれない。――早く帰ろう。
摘んだ魔法草を入れた籠を確かめて、私は半ば小走りに木々の間を通り抜けた。
ほどなく視界は開け、我が家が闇の中に姿を現した。
思わず私は息を吐き出す。思っていた以上に、気を張ってしまっていたようだ。
暮らし始めて数日の空き家が、これほど安心する場所に思えたのは初めてかもしれない。
魔法の森の中の、白い壁の小さな洋館。この魔法の森に居を構えようと決めたのは、この家を見つけたからだった。元の住人がどこへ行ったのかは知らないが、おそらくは私と同じ魔法使いだったのだろう。埃の積もった家の中には、魔導書や魔法具の類がいくつも放置されたままになっていた。それを掃除し、整頓して、私は自分の家にした。空き家もこのまま無人で朽ちていくよりは、誰かに使われた方が幸せに違いない。
家の中は闇に包まれている。私はランタンを消さず、ドアノブに手を掛けて、
――家の中に、誰かの気配を感じた。
私は身を強ばらせた。――誰かがいる。私が留守の間に、家の中に入り込んでいる。
誰だろう。一番ありそうなのは、この家の元の住人という可能性だ。数年ぐらいふらりと放浪していて、今帰ってきたところなのかもしれない。そうだったら――謝るしかないか。私はため息をつく。せっかく見つけた新居だが、さすがにまだ住む誰かがいたのなら、大人しく引き下がるしかないだろう。
しかし――と、私は窓を見やって目を細めた。確かに中に気配がある。しかし、それならなぜ、灯りがつかないのだろう?
あるいは、腹を空かせた妖怪が、食料目当てに潜り込んできたのかもしれない。
私は警戒心を強めて、ゆっくりとドアを引いた。家の中は、濃い暗闇に満ちている。ランタンの灯りをその闇に翳して、
「――誰かいるの?」
家の中に身を滑り込ませ、鋭くそう誰何する。気配はまだ存在していた。
私はゆっくりと上がり込む。気配は書斎の中にあるようだった。――書斎?
ドアの前に立ち、意を決して、そのノブを引く。軋んだ音をたてて、書斎のドアが開く。
古書の独特の匂いと、埃っぽい空気がドアから流れ出て――そして。
闇の中、その影は溶け込むような黒を身に纏っていた。
黒い上着、黒いスカート、そして黒い三角帽。――おおよそ、《魔女》という言葉から連想される出で立ちというものをそのまま具象化したような、その姿。
書棚を前に、暗闇の中で立ちつくしていたその影は、ゆっくりとこちらを振り向いた。
黒い姿に不釣り合いな、鮮やかな金髪。三つ編みが、淀んだ空気にふわりと揺れる。
「――あんた、誰だ?」
小柄な少女だった。彼女は訝しげに目を細めて、こちらを見つめる。
私は小さく肩を竦めて、ランタンを傍らの棚の上に置いた。燭台に火を灯すと、闇に包まれていた書斎に明るさが戻る。その光に、少女は眩しそうに目を細めた。
「それは、こっちの台詞なんだけど。――貴女、ひょっとしてここの住人?」
私の言葉に、少女はひとつ首を傾げた。
「半分正解だぜ」
なぜか少年のような口調で、少女はそう答える。
「半分って」
「この家の中を片付けてくれたの、あんたなのか?」
肩を竦めた私に構わず、少女は言葉を続けた。「そうだけど」と私は頷く。
「そうなのか――ここに住むのか?」
「そのつもり、だけれど」
私の答えに、少女はひどく曖昧な表情で頷いた。笑っているような、泣いているような。
「ここは、貴女の家ではないのね?」
「半分、そうだぜ。――私の友達の家だ」
少女は帽子を目深に被り直して、そう言った。
「そのお友達は?」
「もう、居ない」
「じゃあ――私が住んでも、構わないのね?」
「ああ」
頷いた少女に、私は息をつく。要するにこの少女は、友人の住んでいた家を訪ねていただけらしい。その友人がどうなったのかは、私の知るところではなかった。私にとっては、ここが空き家で、居住の許可が得られたというだけで僥倖だった。
「あんた、名前は?」
不意に、少女が声を上げた。私は振り向く。少女は私を見上げていた。
――思えば、この魔法の森にやって来て、話の通じる相手と出会ったのはこれが最初だった。彼女は私と同じように、このあたりに住んでいる魔法使いなのだろう。それならば、少しぐらいは親しくしておいてもいいかもしれない。
「アリス・マーガトロイド」
「……マーガロイド?」
「マーガトロイド。アリスでいいわよ。――貴女は?」
その言い間違いも慣れたものだ。私は苦笑混じりに、少女に問い返す。
少女は、すこし躊躇うように視線を彷徨わせて、もう一度帽子を目深に被り直した。
「魔理沙」
「まりさ?」
「霧雨、魔理沙。普通の魔法使いだぜ」
そして少女は、にっと歯を見せて笑った。ひどく無邪気なその笑みに、私は目を細める。
――こんな風に誰かに笑いかけられたのは、いつ以来だっただろう。
思い出そうとしてみたけれど、上手くいかなかった。
それが、私と普通の魔法使い、霧雨魔理沙の出会いだった。
◆四年前(一)
新月の闇が、魔法の森を隅々まで覆い尽くしていた。
「ったく、やれやれだぜ」
その暗さに悪態をつきながら、私は森の中の細い道を歩いていた。月の光がほとんど届かない森の夜は元から暗いが、新月の夜は尚更だった。足元すら満足に見えない闇の中、頼りになるのは手元の採集してきた発光キノコだけという有様である。
「こんなに暗くなるとは思わなかったな……ランタンでも持ってくりゃ良かったな」
ひとりごちたところで、答えてくれる者などない。この魔法の森では虫の声も獣の声もほとんど無く、あるのはただ風に木々の梢がさざめく音だけだ。
闇と静寂は、人の感覚を狂わせる。迷わないように一歩一歩、私は確かめるように進む。
こんな新月の夜に出歩いたのは、魔法薬の材料にするキノコの採取のためだった。目当てのキノコは無事確保できたのだが、夜の森の暗さを侮っていた結果がこれである。
この魔法の森に居を構えてまだ数日。いささか不用心に過ぎたかもしれない。
「妙な妖怪でも出なきゃいいんだがな」
蝕むような不安を紛らわすように、そう呟く。この暗闇に乗じて、腹を空かせた妖怪にでも襲われたらたまらない。最低限、身を守れる程度の魔法は身につけているが、それが通用しない妖怪だったら終わりである。
昔に比べれば減ったと言われるとはいえ、人間は妖怪にとっては捕食対象なのだ。
――そんな人間のくせに、この魔法の森に居を構える自分は、相当な物好きなのだが。
「迷子の迷子の人間ちゃん、あなたを食べてもいいですか――ってか」
笑えない。首を振り、私は少し足を速める。
とにかく、まずは家に帰り着かないことには。暮らし始めて数日で、森で迷って行方知れずなんて笑い話にもなりはしない。ほれ見たことか、と実家に呆れられるのが目に見えて、その憤りを私は足を動かすエネルギーに変えた。
魔法に理解のない父親と喧嘩して、家を飛び出してやって来た、この魔法の森。
魔力に満ちたこの場所で、魔法使いとして暮らしていくのだ。
まだまだ自分は、魔法使いとしては新米だけれども――。
ざざざっ――、と、草木がざわめいた。
はっと足を止めた私は、次の瞬間に戦慄を覚えた。
何かの気配が、こちらを伺っている。
ポケットから、ミニ八卦炉を取り出した。自分の魔法具。何かあれば、ここから放つ魔法で、弱い妖怪程度なら追い払える。そのはずだ。
神経を張り詰めて、私は周囲を伺う。ざざ、ざざ、ざざ。風が強まる。
深く黒い新月の闇の中、潜む気配の息づかいが、はっきりと感じ取れるほど近付いて、
「――ッ!」
背後だった。咄嗟に振り向き、詠唱もそこそこに私は八卦炉から一発、光の砲弾を放つ。
大した威力も無いだろう攻撃だったが、
「へぶっ」
情けない声とともに、何かが草の上に墜落した。――当たった?
私は息を吐き出し、そちらを見やった。近くの草むらに身体を突っ込むようにして、倒れている影がある。金色の髪の、幼い少女の姿をしていた。人間? いや――妖怪か。
闇に溶けるような黒い服と、金髪を彩る赤いリボン。
目を回しているその妖怪に、私は少しの好奇心を覚えて近付いた。
そういえば、この魔法の森に来てから、自分以外に人間の姿をした相手を見かけたのは、これが始めてだった。あるいは、話の通じる妖怪かも知れない。
私が手を伸ばそうとすると、不意に少女は「うー」と唸って首を振った。私は慌ててもう一度八卦炉を構える。襲いかかってきたら、今度はもっと強烈なのをお見舞いしてやる。
けれどその少女は、不意にこちらを見上げて、「ほえ」と間抜けな声をあげた。
「妖怪?」
「残念だが、人間だぜ」
目をしばたたかせるその少女に、私は少し毒気を抜かれてそう答えた。
「食べてもいい人間?」
「食べられるのは勘弁だな」
「そーなのかー……」
ぐうう。盛大に鳴り響いたのは、どうやら目の前の少女の腹の虫のようだった。
「……腹減ってるのか?」
「うん」
素直に頷く少女に、私は肩を竦める。――何だ、この気の抜けた妖怪は。私を食べようと襲いかかってきたのだろうが、それにしちゃ一撃で倒れるわ、間抜けな問答をするわ、いささか人食いの妖怪にしては。緊張感が無さすぎる。
「食べていい?」
「人間以外は食えないのか?」
ふるふる、と少女は首を横に振る。
「じゃあ、うちに来るか? キノコ料理ぐらいなら用意できるぜ」
――そんな言葉をかけてしまったのは、きっと自分も人恋しかったのだろう、と思う。
人食いの妖怪でもいい。この暗い新月の闇の中、誰かにそばにいてほしかったのだ。
「キノコ?」
「嫌いか?」
「食べる!」
目を輝かせて起きあがった少女は、しかし再びへなへなとくずおれた。どうやら本当に空腹で動くこともままならないらしい。
「よし、ついてこい。ただし、私を食わないって約束するなら、だぜ」
こくこく、と少女は頷いた。私はにっと笑いかけて、少女に背を向けて歩き出す。
少女はふわふわとその場に浮き上がると、「待ってー」と私を追いかけてきた。
「美味いか?」
「おいしい!」
「そっか。まだあるから好きなだけ食え」
キノコのソテーとキノコサラダ、キノコスープ。食卓に並ぶキノコ尽くしの料理を、貪るように少女は口に運ぶ。本当に腹を空かせていたようだ。
そんな姿を見ながら、私はこっそり膝の上でメモを取っていた。
「大丈夫か?」
「なにが?」
「いや、何でもないぜ」
「そーなのかー」
どうやら、幻覚症状やら麻痺、痙攣などは起きていないようだ。あのキノコは食用、と。
要するに、毒味役が欲しかったのである。この魔法の森では、光が届かずじめじめとしているせいかキノコはやたらと沢山採れるのだが、食用なのかどうかがはっきりしない。自分の身体でいちいち試していたら命がいくらあっても足りない。
目当ての発光キノコのついでに採ってきたキノコを一通り目の前の妖怪に食べさせてみたわけだが、どうやらどれも食べられるものらしい。これで食糧事情には困らなさそうだ。
「げふ」
「ほれ、お茶でも飲め」
食べ終え、満足したか腹をさする少女に、お茶を差し出す。
「やさしい人間だねー」
「普通だぜ」
「食べてもいい?」
「それは断る」
「そーなのかー。残念」
どうやら彼女の口癖らしい。人食いの妖怪にしては、やはり緊張感に欠ける口癖だ。
「美味しかったー」
「食べ終わったら、ごちそうさま、って言うもんだぜ」
「そーなのかー。ごちそうさま」
妹がいれば、こんな感じなのかもしれない。そんなことをふと思う。私はひとりっ子だったので、ひどく新鮮な感覚だった。
「ねー、人間」
「人間って呼ばれ方はちょっとな」
お茶を啜りながら、私は苦笑する。
「魔理沙だ。霧雨魔理沙」
「まりあ?」
「魔理沙、だ。お前は?」
ほえ、と少女は首を傾げ、それからぱっと笑って、なぜか両腕を広げた。
「なんだ、そのポーズ」
「聖者は十字架に磔られました」
「いや、意味がわからん」
「ルーミア」
「ん?」
「名前。ルーミア」
少女はそう繰り返した。相変わらず、両手を広げたポーズのまま。
「るーみゃ?」
「ル、ー、ミ、ア」
一語一語区切るようにはっきりと、少女――ルーミアは言い直す。
名前を教え合うという行為自体、随分と久しぶりのような気がした。
「ルーミア、か。このへんに住んでるのか?」
「うん」
「そうか、なら腹が減ったら、人間襲う前にうちに来い。キノコぐらいなら食わせてやるぜ」
私がにっと笑ってそう言うと、ぱっとルーミアは目を輝かせて――そのままテーブルを飛び越えて、私に抱きついてきた。広げていた両腕はそのためだったのか、と気付いたときには椅子が傾いで、私はそのまま椅子ごと後ろに倒れ込む。
ごつん、としたたかに後頭部を打ちつけて、私は呻いた。ついでに重い。
「いってぇ……」
「魔理沙」
「何だよ、てゆかどいてくれ、起きあがれん」
私の不平も意に介さず、ルーミアは笑ったまま訊ねてくる。
「やっぱり食べちゃだめ?」
「お前、馬鹿だろ」
盛大なため息が、食卓の空気に溶けて消えていく。
それが私と、宵闇の妖怪、ルーミアの出会いだった。
◆現在(二)
元々、私は空き家に勝手に間借りさせてもらっている立場である。
だからあまり、元々この家に馴染みの人物に強くものは言えないのは解っている。
解っているのだが――。
「よ、アリス。お邪魔するぜ」
「……また来たの? というか、ノックぐらいしなさいってば」
来客――魔理沙はいつものように、私が本を読んでいたリビングに勝手に上がり込んできた。私は本を閉じて、ため息混じりにその三角帽子を軽く睨みつける。魔理沙はそんな視線も意に介さず、勝手に椅子に腰を下ろす。
「何読んでるんだ?」
「この家にあった魔導書よ。結構変わった本があって、興味深いわ」
「ふうん――」
何か思うところでもあるのか、魔理沙はその言葉に目を細めた。
「ここに住んでたお友達も、魔法使いだったんでしょう?」
「いや、違うぜ」
しかし、魔理沙は首を振る。私は鼻を鳴らした。これだけ魔導書や魔法具が揃っていて、魔法使い以外の誰が住んでいたというのだ。
「あいつは、ただの弱い妖怪だ。アリスと同じ、勝手にここに住み着いてたのさ」
「ふうん――」
「魔導書も読めないような奴だったから、宝の持ち腐れってもんだぜ」
魔理沙はそう言って苦笑する。
「半分、っていうのは、つまりそういうこと?」
「うん?」
「貴女、その宝目当てにここに入り浸ってたんじゃないの?」
あのとき、勝手に上がり込んで書斎の中にいたのも、つまりはそういうことなのだろう。誰かの残していった魔導書や魔法具。それに興味も持たず住み着いた妖怪。その妖怪と親しくなり、家に入り浸って蔵書を漁っていたのだろう、この少女は。
「――そうだな、そんなもんだ」
目を細め、少女はまた目深に帽子を被り直した。家の中でぐらい、脱げばいいのに。
私は閉じた本を安楽椅子に置いて、立ち上がった。
「お茶でも淹れるわ」
「いただくぜ」
「はいはい。上海」
私が命ずると、テーブルの上に座っていた人形は立ち上がり、戸棚から茶葉の入った缶を取り出した。魔理沙はその様子を、興味深げに見つめる。
上海人形は、私の操る人形の一体である。私が魔法使いとして主に研究しているのは、完全自立人形を製作する手段だ。その研究過程の産物として、あるいは個人的な目的で作った様々な人形たちは、私の命ずるままに動き、与えられた役割を為す。
「その人形、どうやって動かしてるんだ?」
「簡単な命令を、魔法の糸で伝えているのよ。自立しているわけじゃないわ」
「ふうん――」
沸いたお湯をティーポットに注ぐ。この森に来る前、人里で購入した紅茶は、最近のお気に入りだった。余計な来客のせいで、このところ減りが早いのが悩みの種だったが。
「魔理沙は、何の魔法を研究しているの?」
「うん?」
カップを差し出した私の問いに、魔理沙はひとつ目をしばたたかせた。
毎日のようにやって来る同業者。普段何をやっているのか、魔理沙は自分からは話そうとしない。そのぐらいは聞いても罰は当たるまい。
「魔法使いなんでしょ?」
「ああ――そうだな」
魔理沙は「いただきます、だぜ」と律儀に言って、紅茶を口にする。勝手に家に上がり込んでくるわりには、食前食後の挨拶を欠かさないあたりはよく解らない律儀さである。
「星の魔法、だな」
「……星?」
「流れ星の魔法、だ」
何だそれは。得意げに言った魔理沙に、私は肩を竦める。
私の表情に、魔理沙は少し不満げに眉を寄せた。
「変か?」
「というか、よく解らないわ」
「流れ星は、流れ星だぜ」
そう言われても、流れ星と魔法の間にどんな関係があるというのか。
けれど魔理沙はそれ以上答えるつもりは無さそうで、「ごちそうさま、だぜ」とカップを置くと、立ち上がって安楽椅子の方へ歩み寄った。私が読んでいた魔導書を取り上げて、勝手にページを捲っている。相変わらず、図々しいというか何というか。
「貴女に押しかけられてたその妖怪も、大変だったでしょうね」
「そうでもないぜ。あいつは――馬鹿だったからな」
本に目を落としたまま、魔理沙は呟くように言った。
「馬鹿な妖怪のくせに、魔導書が読めれば、強い妖怪になれると思いこんでた」
その言葉に滲んだ寂寥に、私ははっと息を飲む。
もう居ない、と魔理沙は言った。ここに住んでいた妖怪は、もう居ないと。
それが、去っていったという意味ではなく、――もう、この世に居ないという意味で。
彼女がその妖怪と友人だったなら、私の言葉は少しばかり、無神経に過ぎたかもしれない。
「……ごめんなさい」
「なんで謝るんだ? アリスは悪くない」
本を閉じ、魔理沙は苦笑した。
「私、ここに住んでいて良かったのかしら」
「いいんだ。――あいつにとっても、きっと、その方が」
魔理沙はそう言って、「お邪魔したぜ」と軽く手を挙げて、私に背を向けた。
リビングを出て行くその背中を見送って、私は紅茶の水面に映る自分の顔を見下ろしながら、ひとつ息をつく。
魔理沙は一体、何を求めてこの家に毎日のようにやって来るのだろう。
友人の住んでいた家に、勝手に住み着いた魔法使い。
彼女は私をどう思っているのだろう。なぜ、ここに住むことを認めたのだろう?
考えれば考えるほど、霧雨魔理沙という存在のことが、解らなくなる。
テーブルの上、ちょこんと座り込んだ上海人形を撫でて、私は紅茶を口にした。
冷めかけた紅茶は、少し渋く感じた。
◆四年前(二)
「魔理沙、なに読んでるのー?」
「ん? 魔導書だぜ」
結局あれから、ルーミアは私の家に居着くようになった。特に行く場所があるわけでもなく、何か目的があるわけでもないらしい。私の家は、ルーミアにとって格好の暇潰しスポットになってしまったようだった。
「まどーしょ?」
「魔法について書かれた本だ。こいつに書かれた魔法を色々試してみるのも、魔法使いの醍醐味のひとつだぜ。なかなか上手くはいかないんだけどな」
「そーなのかー」
両手を広げたいつものポーズで、ルーミアは感心したように頷く。
「お前、その口癖は何とかした方がいいぜ?」
「ほえ?」
「その、『そーなのかー』ってやつだ」
「そーなのかー?」
「ほら、まただ」
指先でその額を小突く。うー、と唸ったルーミアに、私は肩を竦める。
「ただでさえ馬鹿なのに、何でも『そーなのかー』って言ってたら、ますます馬鹿に見えるぜ」
「そ、そーなのかー」
「馬鹿だろ、お前」
ため息ひとつ。やっぱりこの妖怪は馬鹿だ。既に解りきっていたことではあるが。
出会った日の翌朝、家の外に出ると突然闇の塊がこちらに迫ってきたときには驚いたものだ。その闇に飲みこまれ、上下左右すら定かでない闇にこちらが狼狽していると、「魔理沙ー」という彼女の声がして、私の横を何かが通り過ぎる気配がした。そして、ごつん、と壁に何かが激突して、闇はそこで突然消滅し、あとには目を回したルーミアが残されていた。
つまるところ、彼女の能力は闇を生み出すものだった。光すら飲みこむ、完全無欠の暗闇を自分の周囲に広げる。それが宵闇の妖怪、ルーミアの力。その闇に飲みこまれた人間はまず恐慌をきたす。その隙に人間を捕食するのだとしたら恐ろしい能力なのだが――。
ルーミアはどうやら、自分の闇の中では自分も何も見えていないらしい。しかも、そのこともよく解っていないらしかった。出会ったときに闇が無かったのは、どうやら新月だったかららしい。新月の闇は元から深いから、闇を展開する必要が無いようである。
家の中でも構わず闇を広げるルーミアに、止めるように諭すのは一苦労だった。何しろルーミアの闇に包まれてしまえば相手の姿も満足に見えないのだ。結局数刻に渡る押し問答の末に、どうにか闇を展開させるのを止めさせることができた。なので今は、ルーミアは私の家にいる間は闇を展開していない。もっとも、私が止めさせた理由をルーミアが理解しているかどうかは甚だ怪しかったけれども。
「馬鹿じゃないもん」
「馬鹿はみんなそう言うんだ」
「魔理沙、ひどい人間。食べてもいい?」
「だから私を食うな。キノコでも食え」
帽子の中から、昨日採ってきたキノコを取り出す。「いただきまーす」とルーミアはそれにかぶりついて、瞬間、顔を真っ赤にして目を白黒させた。
「か、からいー!」
「お前、この前もそれ食って涙目になってたの忘れたのか?」
「からい! いたい! 魔理沙ひどい!」
「こら、落ち着けっての。全く――」
頬を膨らませて殴りかかってくるルーミアに、私は肩を竦める。人食いの妖怪といっても、ルーミアの腕力は見た目よりやや強いぐらいで、人間とあまり変わらない。ぽかぽかと叩かれても少し痛いぐらいで住んでいる。
「うー」
「馬鹿だから、馬鹿にされるんだぜ。賢くならなきゃな」
「かしこく?」
「そうだ。知識は力だぜ。賢くなれば、他人からも一目置かれる。一目置かれるってことは、強くなるってことだ」
「そーなのかー」
この口癖、直りそうにない。私は苦笑する。まあ、それもルーミアらしいか。
「読んでみるか?」
私は読みかけの魔導書を差し出す。「ほえ」とルーミアは目をしばたたかせた。
魔導書は専門知識の集合体である。ルーミアに読めるとも思えなかったが、ルーミアは私の差し出した本の表紙を興味深げにしげしげと見つめた。
「読めば、かしこくなる? 強くなる?」
「読めればな。そうなれるかもしれないぜ」
「読む!」
魔導書を受け取り、ルーミアはページを開いた。けれど、すぐに目を落としたまま硬直する。その顔にハテナマークが乱舞しているのを見て、私は苦笑した。
「どうした?」
「…………わからない」
「ま、そりゃそうだろうな」
ルーミアの手から魔導書を取り上げて、私は栞を挟んだ。というか、この妖怪にそもそも読み書きが出来るのだろうか。妖怪の生活に、それが必要とも思えないが、『読む』という行為の仕方は知っているようだから、多少は解るのだろうか。
「お前にゃ無理だ、諦めろ」
「そーなのかー……」
しょんぼりと肩を落とすルーミア。その姿に、私は肩を竦めた。
「なんだ、そんなに残念か?」
「んー」
ひとつ唸って、ルーミアは顔を上げ、私を不意に真剣な表情で見つめた。
「つよくなりたい」
「どうした、急に」
「つよくなれば、お腹空かなくなる?」
「……まあ、強くなりゃ、食い物にも困らなくはなるだろうな」
「つよくなりたいの」
真剣な顔でルーミアは言う。その姿に、どう答えていいか解らず、私は目を細めた。
ルーミアが強くなり、食べるものに困らなくなる、ということ。
それは即ち、彼女が自力で人間を捕らえて食べられるようになる、ということだ。
少女の姿をしていても、ルーミアは人食いの妖怪なのだ。
普段、この家でキノコを美味しそうに頬張っていても――妖怪の本能として、人を喰らうという行為は、忘れられないのだろうか。
「強くなって、どうする? ――私でも食べるか?」
冗談めかして私が笑うと、ルーミアはふるふると首を横に振った。
「魔理沙は食べないよ。魔理沙は、いい人間だから」
「――そうでもないぜ」
私は帽子を目深に被り直して、そう苦笑した。
ルーミアに食事を与えているのだって、自分が食われないための保険であり、採ってきたキノコの毒味役としてだ。純粋に善意からではない。打算あってのことでしかない。
ただ――この頭の弱い、宵闇の妖怪のことは。
たぶん自分は、結構気に入っているのだと、私は思う。
ルーミアは馬鹿だけれど、嘘はつかないし、素直だ。相手をしてやるのは疲れるけれど、楽しくなくはない。人間も妖怪も近寄らないこの魔法の森は、研究に打ちこむには最適なのかもしれないが――私はそこまで、世捨て人にはなれないようだった。
「ねー、魔理沙」
「うん?」
「この本、読めるようになれば、つよくなれる?」
「――そうだな、そうかもしれないぜ」
私が苦笑混じりにそう答えると、ルーミアは目を輝かせて頷いた。
「じゃあ、がんばる」
「……そうか、頑張れ」
魔導書を胸に抱えて、ルーミアは真剣な顔で頷いた。
読みかけの魔導書を奪われてしまったが、蔵書は他にもあるし、あの本に書いてあることはそれほど興味深い内容でもなかった。ルーミアが読めるようになるかどうかはともかく、友達に一冊ぐらい本をくれてやるのも、悪くない。
――友達。
ひどく自然にルーミアをそう形容している自分に気付いて、私は小さく息を飲んだ。
「魔理沙?」
「ああ……いや」
首を振る。友達……友達、か。
目の前のルーミアの、きょとんとした表情に目を細める。
自分を食べようと襲いかかってきた妖怪と、こうして友達になる。
それもまた、あるいは魔法使いらしい生き方かもしれない。
「なあ、ルーミア」
「なにー?」
――お前は、私の友達か?
そんなことを、当の本人に尋ねるのは、野暮も野暮か。
ルーミアが結局、私のことを本気で食べるつもりでいるのかどうかなど解らないが。
人食い妖怪と人間が友達になるというのも、陳腐ではあるが、そう悪くもない。
「私の魔法、見てみるか?」
「ほへ?」
「お前も、私みたいに魔法使えるようになってみたいだろ?」
こくこく、と頷いたルーミアに、よし、と私は立ち上がった。
「本当は、夜の方が見栄えのいい魔法なんだけどな」
森の中はほとんど陽も差さないが、まだ陽は中天近いはずだ。じめじめと薄暗いとはいえ、今は昼。森全体はまだ、夜に比べれば随分と明るい。
「暗くすればいいのかー?」
「お前の闇の中じゃ、私の魔法もたぶん見えなくなっちまうぜ」
闇を広げようとしたルーミアを制して、私はミニ八卦炉を取り出した。その裏側に札を貼る。魔力を封じたその札は、私の使える魔法のひとつ、その呪文を刻み込んだものだ。これで詠唱抜きでも魔法を発動できる、便利なシステムである。
「ほれ、よく見てろよ」
八卦炉を、頭上に高く掲げる。魔力が集束し、札に刻み込まれた呪文が八卦炉を経由して自動で詠唱され――光が、弾ける。
魔符「スターダストレヴァリエ」――。
「わ、あ――」
八卦炉から、噴水のように弾けたのは、無数の星屑だ。
薄暗い魔法の森の空気を切り裂いて、色とりどりの星屑はあちらこちらへ奔放に弾け飛び、無節操に撒き散らされる。辺り一面、無差別にばらまくだけの無節操な光の魔法。その見た目を、星形に弄くったのがこの魔法だった。
散らばった星屑は、単なる魔力エネルギーの塊なので、やがて拡散して消えていく。頭上高く噴き上がって、無数に流れて消えていくそれは、流星群のような光景になる。そんな派手な見た目が、個人的にはお気に入りの魔法だ。
「――どうだ?」
傍らを振り向くと、ルーミアは陶然と、その光の奔流を見上げていた。
「すごい」
「だろ?」
こうも素直に感心されると、こっちも気分がいい。得意になって私は笑う。
「きれい――」
星屑にルーミアは手を伸ばしたが、それはルーミアの手に届く前に拡散して消えた。
「当たったら痛いぜ?」
「そーなのかー」
私が言うと、ルーミアはそれ以上は手を伸ばさず、黙って流れ消えていく星屑を見上げた。
「流れ星みたいだろ?」
「ながれぼし?」
きょとん、とルーミアは首を傾げる。――ひょっとして、流れ星も知らないのか。
いや、いつも自分の展開する闇の中にいるのならば、あるいはそうかもしれない。
何も見えない闇の中で、星の輝きすら知らずにいたのだろうか、この妖怪は。
「流れ星ってのは、夜空の光があんな風に、流れて消えていくんだ」
「よぞらの、ひかり」
「綺麗だぜ。私の魔法よりも、もっとな」
「そーなのかー」
ルーミアはを頭上を見上げた。木々の梢に覆われて、ここからは空は見えない。
次の流星群の夜は、ルーミアと一緒に見に行くか。
今ならそれも悪くない、と私は思った。
◆現在(三)
「さて、新たな旅に出た騎士の行く先には、また幾多の出会いと困難、そして強敵が待ち受けているのですが、それはまた別のお話――」
私の指先が操る人形が、ぺこりとお辞儀をする。それに合わせて私も一礼すると、観衆からぱらぱらと拍手が起こった。足元の籠に小銭が投げ込まれる。「ありがとうございます」と頭を下げ、人形に手を伸ばそうとした子供をやんわりと遠ざけた。
人里の通りの一角。空き地の前で、私は人形劇を披露していた。他愛もない、騎士とお姫様の冒険譚だが、娯楽の少ないこの人里では、子供たちは真剣に聞き入ってくれる。魔法の森に移り住む前から、人里でこうして人形劇を披露するのは、私の生活の糧になっていた。
無論のこと、本業はあくまで魔法の研究である。とはいえ、それだけで暮らしていくにはやはり、いろいろと不便はある。人里には便利なものも揃っているし、魔法の森だけで暮らしていこうとしたらキノコばかり食べる羽目になるのだから、こうして人里で人形劇を見せて日銭を稼ぐのも必要なことだった。
観衆が去ると、私は人形を仕舞って、集まった小銭を軽く数える。魔理沙に飲まれて減った紅茶とか、いろいろと買い足しておかなければならないものは多かった。
様々な人や、ときに妖怪が行き交う人里の中をゆっくりと歩く。私自身、妖怪ながらこうして人里で暮らす人間と交流しているわけだが――不思議な話だ、とときどき思う。
私のようにそうでない妖怪もいるとはいえ、基本的に妖怪というものは人間を食らうものだ。もちろん人間を食らわなくても生きてはいけるから、妖怪が無節操に人間を襲うこともないわけだが――その関係は本来、捕食者と被捕食者。対等ではない。
しかし、と私は街角の店先に視線をやる。ときどき人里で見かける九尾の妖狐が、豆腐屋で油揚げを買っていた。あんな風に、妖怪が人間の店で普通に買い物をしているのが、この人里では日常の光景として存在している。
あたかも、妖怪と人間が対等のように。
親しき友人同士であるかのように――。
私は首を振る。考えても詮無いことだった。買い物を済ませて、家に帰ろう。
目当ての店の前で、私は足を止める。《霧雨店》の看板の下がるその店は、この人里でも一番の大手道具屋である。新しい人形の材料を、私はよくここで買い求めていた。
店の戸をくぐろうとして、ふと私は意識に引っかかるものを感じる。
――霧雨。その名を、最近どこかで聞いた気がした。
少し考え、すぐに思い至る。ここ最近で、私が名前を聞いた相手はひとりだけだ。
霧雨魔理沙。彼女はそう名乗った。
霧雨店、と書かれた看板に、私は目を細める。――霧雨。そうある姓ではないだろう。だとしたら、彼女はこの店の血縁者なのだろうか? しかし、彼女は――。
「いらっしゃい」
気難しそうな壮年の店主に声をかけられ、私は息をついて店の戸をくぐる。
――魔理沙という少女は、あなたの娘ですか?
店主にそう訊ねるのは、さすがに不躾に過ぎる。
しかし――と、私は思う。
霧雨魔理沙と名乗る、あの魔法使いの少女。彼女はいったい、何者なのだろう。
「よ、お邪魔してるぜ」
家に戻ると、魔理沙は我が物顔でリビングに陣取り、勝手に紅茶まで飲んでいた。
私は盛大にため息を漏らして、魔理沙を無視して買ってきたものを片付け始める。
「スルーはひどいぜ?」
「居直り強盗にする挨拶は無いのよ」
「ここは、半分私の家だって言ったはずだぜ」
心外だ、とばかりに魔理沙は頬を膨らませた。あれはそういう意味だったのか。気付かなかった私も迂闊である。
「貴女、いつもここに来てるけど――どこに住んでるの?」
「うん? ……この森のどこかだぜ」
私の問いかけに、魔理沙は苦笑するようにそう答えた。
霧雨魔理沙。人里の道具屋、霧雨店。目の前の少女の顔に、私は目を細める。
「ねえ、魔理沙」
「なんだ?」
「貴女――人間だったの?」
そう、訊ねた瞬間。
魔理沙の顔色が、はっきりと、変わった。
それを隠そうとするように、また魔理沙は帽子を目深に被り直して、立ち上がる。
「私は、魔法使いだ。――それ以上でも、それ以下でもないぜ」
その答えは、それ以上の追求を拒否していた。魔理沙はそのまま、ドアの方へ向かう。
「帰るの?」
「ああ――お邪魔したぜ」
それ以上かける言葉はなく、魔理沙の姿はドアの向こうに消える。私は首を振った。
霧雨魔理沙。彼女はやはり人間なのか? しかし、だとしたらあまりにも――。
魔法使い、というのは、種族であり、職業でもある。魔法を使う人間も、魔法使いを名乗ることがある。私は前者だ。そして、魔理沙は――。
詮無いことだ。この魔法の森で暮らす私の生活に、我が物顔で割り込んでくる奇妙な少女。霧雨魔理沙とはそれだけの存在で、どちらかといえば疎ましいもののはずなのに――。
彼女はいったい、私に何を求めているのだろう?
魔理沙は何を求めて、私がこの家で暮らすことを認めて――通ってくるのだろう?
どうして霧雨魔理沙は、アリス・マーガトロイドに関わってくるのだろう――。
思考を振り払うように、私は首を振った。止めよう。考えても仕方ない。魔理沙は魔理沙で、私は私だ。彼女の過去に何があり、彼女の出生に何があるのだとしても、それは私には関係のない、魔理沙の物語でしかない。
私は立ち上がり、リビングを出た。書斎へ向かう。思考を断ち切る為に、魔導書でも読もうと思った。紅茶でも飲みながら、ゆっくりと、ひとりで。
紙と埃の匂いがする書庫に足を踏み入れる。昼間でも書庫は薄暗い。書棚に無秩序に詰め込まれ、床にも積み上げられた本の背表紙に、私は目を細める。いつ見ても、結構な量の蔵書だ。ここに暮らしていた魔法使いは、結構な蒐集家だったのだろう。
しかし、整頓能力は低かったとみえる。書棚にはまだ隙間があるのに、床にも乱雑に本が積み上げられている。詰めれば書棚に入るだろうに――。
「……あら?」
その中の一冊に目が留まったのは、偶然といえば偶然だった。
全体的に古びて色褪せた背表紙の中に、一冊だけ、やや真新しいものが紛れている。
その背表紙には、何も書かれていない。私はその一冊に手を伸ばし、取り出した。
表紙も、何も書かれていなかった。何だろう、この本は。タイトルの無い魔導書だろうか。私はその表紙を捲り――目を見開く。
開いた最初のページの、片隅に。
そんなに綺麗でもない文字で、署名が為されていた。
霧雨 魔理沙
その署名は、確かにそう読めた。
◆四年前(三)
ここのところ、ルーミアの様子が少しおかしかった。
「魔理沙ぁ」
「どうした?」
「おなかすいた……」
「さっき食っただろ、キノコ」
これである。前はキノコ料理を食わせておけば満足していたのだが、最近はキノコを与えてすぐでも、ことあるごとにルーミアは空腹を訴えてくるようになった。
「そんなにたくさんキノコは無いぜ。我慢しろよ」
「そーなのかー……」
力なく頷いて、ルーミアはテーブルの上にまたあの魔導書を広げた。相変わらず、読めてはいないようだったが、眺めているだけでも強くなれると信じているかのように、真剣な顔をしてページを睨んでいる。そんな姿に、私は小さく苦笑した。
やっぱり、ちゃんと読み書きを教えてやるべきかもしれない。
最近、そんなことを思う。
ルーミアの訴える空腹。つよくなりたい、というルーミアの願い。それが意味するところが何なのかということは、解っている。妖怪としての本能だ。
キノコで満たされない飢餓は、――人食いとしての本能によって満たされるだろうか?
しかし、そうだとしたら、目の前の少女が最初に食らうのは、きっと私だ。
彼女の一番近くにいる人間は、この霧雨魔理沙なのだから。
「ルーミア」
「なに?」
「ほれ、食え」
帽子の中からとっておいたキノコを差し出すと、ルーミアは「いただきまーす」と嬉しそうにかぶりついた。
それでもおそらく、空腹は満たされないだろう。けれど、幸せそうにキノコを頬張るルーミアの姿に、私はただ目を細めた。
――どうして私は人間で、ルーミアは人食いの妖怪なのだろう。
ルーミアが、人食いとしての本能の赴くままに、私を食らおうとしたら。
私は――自分の身を守って、ルーミアと戦うのだろうか?
それとも、ルーミアにその身を捧げるのだろうか?
「……どっちも、勘弁だな」
「ん?」
「なんでもない、独り言だ」
苦笑して、私はルーミアの額を軽く小突いた。う、と唸ったルーミアに、私は笑う。
今からでも、間に合うのだろうか。
たとえば、ルーミアに知識を与え、知恵を与えれば。ルーミアが人食いの衝動に突き動かされる前に、それをルーミア自身が抑制できるようになるだろうか?
「ごちそうさま」
律儀にそう言うルーミア。私の友達。
「満足したか?」
「んー……」
眉を寄せる彼女に、私は苦笑して肩を竦める。「さすがにもう無いぜ」と。
――あとは、私自身しかない。
それならルーミア、お前は私を食らうか?
お前にとって私は、友達か? ――食料か?
どっちなのかは、今でもまだ、訊ねられないままだった。
「ああ、そういや流星群がそろそろか……」
ふと呟いた私の言葉に、「りゅうせいぐん?」とルーミアが顔を上げた。
私が読み返していたのは、実験結果のメモ代わりに使っている本だった。実験結果のついでに日記代わりにも使っている。その記述をなんとなく見返していて、気付いたのだ。
何年かに一度、大規模な流星群が見られる夜がある。今年は確か、その年のはずだ。記憶が確かなら、二週間後の夜だったはずだ。
「魔理沙、りゅうせいぐんってなに?」
「流星群ってのはあれだ、流れ星が山ほど流れていくんだ」
「ながれぼし……魔理沙の魔法だね」
「ああ、私の魔法の元ネタだ」
「そーなの、……そうなんだ」
そーなのかー、という口癖が馬鹿っぽい、という私の指摘は、最近ようやくルーミアも気にするようになってきたようだ。そんな微笑ましい反応に、私は目を細める。
「私の魔法より、すごいぜ? 何たって、夜空に星がいくつもいくつも落ちて消えていくんだからな。願い事のバーゲンセールだ」
「ねがいごと?」
「流れ星に願い事をすると、その願いが叶うって言われてるんだ」
迷信だけどな、と私が苦笑すると、そーなのかー、とルーミアは頷いて、すぐにしまった、という顔をした。口癖はやはり、そう簡単に抜けはしないのである。
「魔理沙の魔法も、ねがいごと、かなう?」
「ん? そいつは無理だぜ。私のは作り物の星屑だからな」
ルーミアの問いに、私は苦笑を返す。そういえば、結局あの魔法を見せてやって以降も、ちゃんとルーミアと星空を眺めたことはなかった。
本物の夜の星を知らない、宵闇の妖怪。
星の魔法を使う私と、そんなルーミアが出会ったのは、偶然だろうか、それとも。
――いや、そんな言い回しは陳腐に過ぎるだろう、と私は思う。
どんな形であれ、今こうして私はルーミアと、この魔法の森で過ごしている。
偶然であろうが、運命であろうが――それが大切であるということは、変わらない。
そう思える程度には、私の中でこの妖怪の占める部分は、大きくなっていた。
「再来週だな。森の外に、よく見える場所があるぜ。一緒に、見に行くか」
「りゅうせいぐん?」
「ああ。願い事も叶え放題だぜ」
「うんっ」
満面の笑顔で頷くルーミアに、――この笑顔を見続けていたいと、心から願った。
◆現在(四)
「アリス。五日後の夜、空いてるか?」
その日、ふと思いついたように、魔理沙はそんなことを言い出した。
あの後も結局、魔理沙は何事もなかったようにこの家にやって来て、私もそれ以上、魔理沙の過去については触れないことにしていた。
「……空いてるけど?」
突然なんだろう、と私が眉を寄せると、魔理沙はにっと笑った。無邪気な笑顔。
「流星群が、あるんだ。……見に行かないか?」
私は目を細めた。流星群? どうしてまた急に、そんなことを――。
「なによ、急に」
「なんでもないぜ。ただ、アリスを誘いたかっただけだ」
笑顔のまま、こちらを見つめる魔理沙の視線に、私は目を細める。
「どうして、私なの?」
「そりゃあ――アリスが、私の友達だから、だぜ」
思いがけない言葉に、私は目をしばたたかせた。――友達? 私と、魔理沙が?
「……いつの間に、私は魔理沙の友達になったのよ」
「友達ってのは、いつの間にかなっているもんなんだ」
魔理沙は真剣な顔をして、そう言い返す。
「そういうもんなんだぜ」
私は首を振る。――友達。私と魔理沙の妙な関係に、その響きはあまり、似つかわしくない。
「私は、魔理沙を友達とは、……思ってないわ」
「……そうなのか?」
「そうなの」
すげなく返した私に、「そうなのか……」と魔理沙は落胆を隠さずにうなだれる。
「でも、流星群は一緒に見に行こうぜ」
「どうして?」
「アリスに、見てほしいんだ」
それでもまっすぐに、魔理沙はそう言った。私を正面から見つめたまま。
――霧雨魔理沙とは、本当に、何なのだろう。関わるほどに解らなくなる。
彼女がこうして、私に関わり合おうとする理由も。
その不可解な存在自体も――何もかも。
霧雨の向こうに霞む景色のように、ひどく朧なのだ。
「考えておくわ」
「ああ、考えておいてくれ」
逃げるような私の言葉に、魔理沙はそれでも、満足げに頷いた。
「願い事、叶え放題だぜ」
「生憎、そんなに強欲じゃないわ」
「それでもいいさ。――アリスが来てくれれば、いいんだ」
また、目深に帽子を被り直して、魔理沙は立ち上がる。そういえば結局、魔理沙が帽子を脱いだところを、未だに見た事がないということを思い出した。
「アリス」
去り際、魔理沙は私を振り返って、目を細めた。
「ありがとう」
――どうして、そんなことを言うのか。
私には、解らないままだった。
魔理沙の立ち去った家の中を見渡して、私は上海人形を抱き寄せる。
「……魔理沙」
目を閉じれば、魔理沙が私に見せたいくつもの表情が浮かんだ。無邪気な笑顔、どこか寂しげな微笑、少しの驚いた顔、それから――。
魔理沙は、五日後の流星群で、私に何を求めるのだろう。
私は、霧雨魔理沙という少女の物語の中で、どんな位置を占めているのだろう。
それが解らないから、私は振り回されるばかりなのだ。
ため息をついて、私は立ち上がる。あれをもう一度読んでみよう、と思った。書斎で見つけた、タイトルのない魔導書。――霧雨魔理沙の、日記代わりの魔導書。
あれのことを、魔理沙の前で口に出さなかったのはどうしてだろう。
隠されていた日記だったからだろうか、それとも――。
私は書斎に足を踏み入れる。あの魔導書は、机の上に置いておいたはずだった。
「……あら?」
けれど、そこにその魔導書はない。
私は慌てて書棚を見やる。しかし、そこに並ぶのは色褪せた背表紙ばかりで――あの、少し真新しく、何も書かれていない背表紙は、書棚にも、床に積み上げられた本の中にも見当たらなかった。――消えた? どうして?
他の場所に? いや、そんなはずはない。あれは見つけたその日にここで読んで、ここに置いておいた。書斎の外には持ち出していない。だとすれば、
誰かが、勝手に書斎から持ち出した?
――そうだとすれば、可能性があるのはひとりしかいない。
「魔理沙、が……?」
魔理沙が、書斎に入り込んで、あの魔導書を盗んでいった? いや、あれは魔理沙の書いたものなのだから、回収していった、というべきだ。しかし、どうして今さら? しかも私に黙って、こっそりと――。
魔理沙が、魔理沙の書いた魔導書を、持ち出した。
「――まさ、か」
ひとつの可能性に思い至って、私は慄然とその場に立ちすくんだ。
霧雨魔理沙。魔法使いの少女。人里の霧雨店。この家にいつも来る。半分、自分の家。友達の妖怪。もう居ない――この家の住人は、もう居ない。
一度目を通した、霧雨魔理沙の日記の文面が、脳裏を駆け巡った。
ルーミアという、宵闇の妖怪との出会いから、その触れ合いを楽しげに綴った日記――。
まさか。
魔理沙が、私をこの家に住まわせて、毎日のようにやって来ていたのは――。
「……魔理沙、貴女、は――」
呟く言葉に、答える影は今はなかった。
――そしてそれから、魔理沙はこの家に、姿を現さなくなった。
◆四年前(四)
流星群は、明日の夜だった。
「やれやれ、参ったな――」
だというのに、昼間から降り続いている雨は、いっこうに止む気配が無かった。明日の夜までに止んでくれよ、と思いながら、私は森の細い道を急ぎ足で歩いていた。せっかくの流星群も、曇っていては見られない。
湿気のおかげで、キノコがたくさん採れたのが、救いといえば救いだった。
「ルーミアの奴、腹空かせてるだろうな――」
おなかすいた、と不満たらたらの顔で訴える友達の顔を思い浮かべて、私は苦笑する。
今日は大盤振る舞いだ。ここのところあまりたくさん食べさせてやれなかったから、今日は好きなだけ、腹一杯食べさせてやろう。
魔理沙、と笑ってくれるルーミアの顔が浮かんで、それだけで少し幸せだった。
だから私は、なるべく急いで、我が家へと向かっていたのだ。
ルーミアが私の帰りを待っている、我が家へ。
――異変に気付いたのは、我が家の玄関まで辿り着いたときだった。
家の中から、一切の灯りが漏れていない。ルーミアはいないのか? それとも眠ってしまったのか。訝しみながら、私は玄関のドアを開けた。
気がつくべきだった。全く、一切の灯りが無いというおかしさに。
それは即ち、――完全なる闇に包まれているのだ、ということに。
「な――」
ドアを開けた瞬間、そこは見慣れた我が家ではなくなっていた。
そこにあったのは、ただの闇。上下左右すら定かでない、純然たる漆黒の世界。
それが何なのか、私には咄嗟に理解できず。
ただ、闇の中に放り出されて、その圧倒的な虚無に私は我を失って、
赤い瞳が、
――私を、ひどく凶暴に、見つめていた。
「るーみあ、」
その時になって、ようやく気付いた。
これは、ルーミアの生み出した闇だ、と。
魔法を繰り出す暇も無かった。きっと、それすらもこの闇は飲みこんでしまうだろう。
私が、その名前を闇の中に発した瞬間、
――視界を、その赤い瞳が覆い尽くして、
衝撃と、焼けるような激痛に、私の意識は焼き切られた。
* * *
『魔理沙、魔理沙』
『ん?』
『魔理沙の帽子って、中になんでも入ってるねー』
いつだっただろう。ルーミアは私の帽子を見上げて、興味深そうにそう言った。
『おっと、触ると危険だぜ?』
笑って答えた私に、ルーミアは不思議そうに首を傾げた。
『きけん?』
『爆発物も仕舞ってあるからな。迂闊に触ったらどかん、だ』
『ま、魔理沙、だいじょぶなの?』
『そこはそれ、私だからな』
ほへー、と感心したように頷くルーミアに、私は苦笑する。信じるなよ。
そこで話は終わりのつもりだったのだけれど、ルーミアはなおも、私の帽子を見つめていた。
『なんだ? 被ってみたいのか?』
こくこく、とルーミアは頷く。仕方ないな、と私は帽子を脱いで、中に仕舞っていたものを取り出すと、ルーミアに手渡した。
『ほれ、これなら危なくないぞ』
『わあ』
ルーミアは満面の笑みで受け取ると、帽子をずぼっと深く被った。顔の半分が一気に隠れてしまい、『お? おお? おおおー?』とよろけ、そのままずっこける。私は噴き出した。
『なにやってんだ、お前』
『ま、前が見えないー』
『馬鹿だなあ、本当』
帽子を引っぱってやると、ルーミアは目をしばたたかせて、『魔理沙!』と叫んだ。
『ほれ、こうやって被るんだよ』
その頭に、改めて帽子を軽く乗せてやる。『わはー』とルーミアは両手を広げ、ふわふわと周囲を嬉しそうに飛び回った。たかが帽子で何をそんなに喜んでいるのか。
『なんだ、そんなにその帽子が気に入ったのか?』
『んー、だって、魔理沙のだからー』
帽子のつばを押さえて、ルーミアはそう答えた。
『ちょっと、魔理沙になったきぶん』
『なんだそりゃ』
『すたーだすとればりえー』
もちろん、その掲げた両手から星屑は生み出されないけれど。
無邪気に自分の帽子を被って笑うルーミアの姿に、笑みが浮かぶのを堪えきれなかった。
――そんな、在りし日の幸せな思い出。
* * *
気がついたときには、闇の中、左腕の感覚が既に無かった。
「……ルーミア」
失われたのは、おそらく痛覚もだった。精神が耐えきれないほどの痛みは、きっと脳が勝手に遮断してくれるのだろう。そうでなければ、ただ熱の感覚だけが存在するのが説明できない。
そして、ただ熱だけを持った、動かない左腕に、――食らいついている、影がある。
「ルーミア」
私は、その名前を呼んだ。たぶん、掠れた声になっていた。
答えは無かった。「魔理沙」と、呼び返してはくれなかった。
何も見えない闇の中、ただその存在の気配だけが、あまりにも確かで。
「……私が妖怪なら、腕の一本ぐらい、いくらでもくれてやったんだけどな」
ああ、それじゃあダメか、と私は言ってから苦笑する。
ルーミアの衝動は、人食いであって、妖怪を食らうことではないのだから。
「なあ、ルーミア」
答えはない。ただ、何かを咀嚼する音だけが、闇の中に響いている。
――ルーミア。私の肉は美味いか?
お前を友達だと思っていた、人間の肉は――。
いや。違う。
――今でも、お前に食われている今でも、私はお前を、ルーミアを――。
「流星群、明日だったんだぜ」
それが声になっているのかも、もう解らなかった。
「お前と、見に行きたかったんだけどな」
ただ、届いて欲しかった。
「綺麗な流れ星、お前に――見せて、やりたかったんだけど、な――」
すぐそこにいるはずの、大切な友達に、自分の言葉が。
「雨で、見えないかも、しれないけどさ」
たとえそれが、人と妖怪の、報われぬ友情だったのだとしても。
「そのときは、私がまた、流れ星の魔法、見せてやるから――」
それでも、私がルーミアを、好きだったことは。
「お前に、あの流れ星の魔法、教えてやるつもりで――」
それだけは、変わらない、私の――。
「ちゃんと、魔導書、作っておいたんだけど、な――」
視界が霞んでいく。意識が、薄れていく。
「るー、み、あ」
ぽたり、ぽたり。私の頬に落ちる熱いものは、私自身の血潮だろうか?
「………………――――あ」
それとも――それと、も――………………。
…………――――。
◆現在(五)
流星群の夜は、冷たい雨が降っていた。
私はそれを、リビングの窓から無言で見つめていた。
魔理沙はあれから、ずっと姿を現していない。
彼女は結局――もう、目的を果たしてしまったのかもしれない。
私はやはり、彼女の物語に途中から入り込んだ、脇役でしかなかったのだろうか。
しかし、だとしたら。
だとしたら、魔理沙はなぜ、最後に。
『そりゃあ――アリスが、私の友達だから、だぜ』
あんなことを、口にしたのだろう。
上海人形を抱き寄せて、私はベッドの上で息を吐く。
霧雨魔理沙。そう名乗った少女は、私に何を求めて、あんなことを――。
ドアを叩く、音がした。
私は飛び起きる。――この家を訪ねる人物など、ひとりしかいない。
けれど彼女はいつも、ドアをノックなんてしなかった。
いつも勝手に上がり込んで、私の迷惑も顧みずに、好き勝手に振る舞って――。
私は玄関へ飛び出す。ドアは閉ざされている。ノックの音は錯覚だったのだろうか? いや、確かに聞こえた。ドアを叩く音。流星群の夜に――ここを訪れる者。
私は意を決して、ドアを開けた。
雨音が、ざあっ、と大きくなって、耳朶を打ちつけた。
そして、その雨の中に。
「――迎えに、きたぜ。アリス」
濡れ鼠な姿で、黒ずくめの少女は笑っていた。
「……馬鹿でしょ、貴女。こんな天気じゃ、流星群なんて」
「ああ――そうだな」
泣き出しそうな笑顔で、少女は答えた。雨の降りしきる空を仰いだ。
「雨なら――その時は、私が、流れ星の魔法、見せてやるつもりだったんだけどな――」
どこか、遠くへと向けたような声で、少女はそう呟いて。
私はゆっくりと首を振って、雨の中に足を踏み出した。
「アリス?」
「――流星群の見える場所に、連れていってくれるんでしょう?」
どうしてそんなことを言ったのか、自分でも解らなかったけれど。
少女は、私の言葉に、「――ああ」と力強く、頷いた。
「だけど、どこに行けば、見えるかな――」
もう一度空を仰いで、少女は呟く。私は黙って、頭上を指差した。
「雲の上」
「うえ?」
「雲の上まで出れば、雨は降っていないわ」
「――アリスは天才だぜ」
「貴女が馬鹿なだけよ」
「ああ、そうだな」
苦笑し合い、そして私は少女の手を掴んだ。少女の細い指が、握り返した。
「飛べるわよね?」
「当然だぜ。――魔法使い、だからな」
そして、私たちは雨の中に飛び立った。雲の上、遥か天上を目指して。
「ねえ――ひとつ聞いていい?」
切り裂くような雨粒の中、私は傍らの少女に問いかける。
「なんだ?」
少女は、雲を見上げたまま問い返した。
「どうして――私を、友達って言ったの?」
その問いに、少女はこちらを振り向いて。
「アリスが、私の友達に、似てたから」
満面の笑みで、そう答えた。
そして――厚い雲を、私たちは突き抜ける。
「あ――」
夜を敷き詰めたような、漆黒の空。
そこに、まるで宝石をぶちまけたような、無数の光の粒が煌めいていた。
そのひとつが、きらりと軌跡を描いて、流れる。
またひとつ、ひとつ。いくつも、無数の光が、闇を切り裂いて、光芒を描いて、消える。
「流れ星――」
少女が、泣き出しそうな声で、呟いた。
いつの間にか、少女がいつも被っていた黒い三角帽子は、風に飛ばされて無くなっていた。
初めて見る、少女の帽子の下、柔らかな金色の髪には。
赤いリボンが、結ばれていた。
「あれが、流れ星だね、魔理沙――」
少女は――ルーミアは、消えていく無数の光芒に、そう、口にしていた。
私はその言葉に目を細めて、その少女を――後ろから、そっと抱き締めた。
「アリス……?」
「――ねえ、私はそんなに、本物の霧雨魔理沙に似ていたの?」
私の問いに、「……あはは」とルーミアは、ただ苦笑した。
「いつから、バレてたのかな」
「貴女が、魔理沙の日記を持ち出したときから」
「そー、なのかー……」
ゆっくりと首を振って、ルーミアはただ、ぎゅっと目を閉じる。
「……私に、見つけて欲しかったんでしょ? 霧雨魔理沙の書いた本を。貴女は結局、字が読めないままだったから」
「魔理沙が、おしえてくれなかったから」
ひどいよね、とルーミアは笑った。本だけくれて、読み方教えてくれなかった、と。
「魔理沙の書いた本なら、読めるかと思ったんだけど、やっぱり、読めなかった」
――魔理沙は、流れ星の魔法、教えてくれるって、言ったのに。
その言葉は、震えて、掠れて、ほとんど聞き取れなかったけれど。
「それなら、――私が教えてあげる」
「あり、す?」
「文字の読み書きも、魔理沙が貴女に残そうとした星の魔法も――私が」
「……どう、して?」
そんなの、と、私は笑った。
きっと、心から笑えたと、そう思う。
「貴女が、私の友達だからに、決まってるじゃない」
その言葉に、ルーミアは目を見開いて。
「そーなのかー」
そう、満面の笑顔で、笑った。
流れ星は、いつまでも尽きることなく流れ続けていた。
それは、友達のために友達であろうとした、ひとりの少女の残した魔法のように。
いつまでも、いつまでも、終わることなく――。
章の区切りと最初の二章の終わりの一文の重なりで『ああ』って感じになりました。
そこで先がある程度わかってしまったわけで、ニヤニヤしつつ、読んでいくにつれて泣きそうになりました。
アリスが賢くて使いにくそうだなぁ、なんて思ってましたがうまく料理されていたように思います。魔理沙は二役かってるのかな?
綺麗な話であっただけに、もう少し長くてもよかったなぁ、と。あとコミカルさをもう少し。
ちょっとした小ネタも嬉しかったです。
読めないとか、真っ黒な服装とか、もらった洋服とか。
そしてなにより、『そーなのかー』が素晴らしかった。
食べた存在になりかわる、というのは大抵ホラーになりがちですが、こうも綺麗にまとめるとは。
良いお話をありがとう。
軽くミステリっぽいのもグッドです
いいお話をありがとう
そーなのかー、魔理沙死んじゃってるのかー……でもこれ、他の色んな話を魔理ルー入れ替わりで置き換えていくと凄く妄想が広がりますね(あれ?)
すっかりあなたの術中にはめられました、ええ。
服装や食前食後の挨拶、「そうなのか」などさりげない複線を回収してるのもうまい
終わりも綺麗で隙のないいいお話でした
そのせいか展開はなんとなく読めた…けどいい話なのに変わりはないですね
それにしても綺麗な文章ですね。読み易い。多分この話に大して嫌悪感が湧かないのは、そういうのもあるんでしょうねぇ。
俺もだいぶ前から成り代わりの話を書いてるんですが、果たしてこれ程上手くまとめられるか;ww
どれもが巧くて素敵でした。物語の仕組みに気付いたとき、鳥肌立ちましたもの。
最後のシーンも、綺麗な描写で印象的。
原作知らないから楽しめたのかな?
伏線の扱い方や話の構成など非常に綺麗でまとまった印象をうけます。
「食べてもいい魔理沙」から知って読んだのですが、両作品共に楽しませてもらいました。
涙出た。
これは面白かった。
よかったです。
魔理沙として、生きるルーミアはどんな気持ちだったんでしょうかね・・・。
自然な感じで涙を誘う作品に仕上がっていてとても良かったと思います!
最後に一言。そーなのかー!