魔理沙には、秘密がある。
今まで誰にも言えなかった秘密。
それは、自傷癖だ。
きっかけは過去にある。
昔、父親とまだ一緒に住んでいた頃の事、魔理沙は父親と喧嘩することが多かった。叱られ、時には暴力もあった。その度に、魔理沙は「自分は理解してもらえない」「私は、悪い子だ」と自責の念に囚われていた。
その頃に知った、自傷という行動。近所の人の話からであったか、はたまた新聞記事か。どういう経緯で知ったかは覚えていないが、いつの間にかそれは知識として入っていた。知った当初は、「こんなこと絶対するもんか」と、思っていたが、気持ちなんて簡単に変わってしまうものだ。ある日父親と大喧嘩して、カッとなった魔理沙は簡単に自傷の世界に足を踏み入れてしまった。
最初はほんの少しだけだった。切った後に傷口を押さえればうっすらと血が滲む程の、浅い傷。そうやって切ればこころがすっと落ち着きを取り戻すことを魔理沙は知った。
しかし、手首に傷が増える程、自分の心に亀裂が入っていく程、傷つける深さと頻度はどんどん増していく。
そして自己嫌悪と苛立ちに襲われる度、魔理沙は自分のハサミで自傷行為を繰り返していくようになった。
幻想郷に来た現在でも、その癖は未だ治らずにいる。
魔法を使うようになった今、血液は触媒になることもあるから、流れ出た自分の血の使い道が少しは出来たといえる。切った後に流れ出た血はボトルに詰めて保存していた。
けれど本当は人の血液であれば何でもよかった。だが自分の魔法の研究の為に誰かの血を貰うなんて申し訳なくて。それで自分の血液の使い道を見出した。まあ、それも自傷行為をするにあたっての自身の説得に過ぎないのだが。そんなに使わないというのに、保存魔法の掛けられた赤黒いボトルだけがひとつ、ふたつと溜まっていく。
しかし流石にそれを堂々と部屋に置くわけにもいくまい。来客だってあるし、いくら自傷行為をするとはいえ赤黒いボトルを部屋に置いていては落ち着かない。そんな訳でボトルは他の触媒と一緒に地下倉庫に眠らせてある。
それと同時に、自傷行為した後の腕を見られてもまずい。だから魔理沙は必ず腕に魔法をかける。傷が見えなくなる魔法。目くらまし用の魔法の応用だ。
ある日、魔理沙は実験をしていた。その日は朝から魔法の調子が悪く、材料も工程もアリスに教えてもらったレシピの通りなのに、何度やっても失敗してしまう。
ただ偶々今日の調子が悪いだけなのか、それとも……
──私の魔法の技術が足りないのか。
苛立ちが募る。どうしようもないことは自分でも分かっている。幾ら腹を立てたって失敗した実験結果が変わる訳でもない。だからそんな自分に余計に腹が立つ。
これ以上腹を立てたって仕方ない。そうやってすぐに気分を変えられたら良いのだが、生憎魔理沙はそんな簡単に気分を変えられる性格ではない。
徐ろに机の引き出しからハサミを取り出す。錆一つない綺麗な銀色のハサミ。
それを開いて鋭い面をそっと腕に当てる。そして力を込めてぐっと勢いよく引く。
ぐちゅりと肉の切れる感触。それが心地よく感じた私はもう末期か。
じわりと赤い液体が手首を伝う。それが床に零れてしまう前にボトルを取り出し、入れる。机の右にある棚の上から三番目を開けて、包帯を取り出す。あとはこれを適当に巻けばいい。どうせ魔法で他人からは見えなくなるんだから、例え血が滲んだとしても気にする必要は無い。
──これで何度目だろうか。数え切れない程切ってしまった腕は跡だらけでぼろぼろだ。
もう後悔なんてない、だってこうしなければ他に気分を紛らわせる方法が無いのだから。
気分は落ち着いたが流石に今日はもう実験はやめよう。また別の調子がいい日にすればいい。
そう判断した魔理沙は気分転換に霊夢のところへ行く事にした。準備を整えて博麗神社へと飛んで行く。
家は暖房完備で暖かいから忘れていたが、今は完璧な真冬だ。防寒具装備だとは言え、外の寒さの中では突き刺さるような痛みすら肌を掠める。霊夢の家に行けば暖かい炬燵が待っているんだろうなぁ。もしかしたら熱いお茶とあまーいお茶菓子が貰えたりするのだろうか、などと気分を紛らわして飛んでいくと、なんともあっさり到着してしまった。考え事をしている時の時間の経過は早いものだな、と思いながらそそくさと博麗神社の階段を登っていく。
雪の積もる博麗神社は中々に綺麗である。何度見ても幻想的な風景だ、と魔理沙はしみじみ思った。
「霊夢ー! 遊びに来たぜー!」
玄関先で大声を出すのは失礼なのだが、魔理沙はお構い無しだ。霊夢に気を使う必要はないという判断である。
「はいはい魔理沙ね、いらっしゃい」
ガラッとドアを開ける音が聞こえると同時に霊夢が顔を出す。どうやら霊夢も魔理沙の大声になんとも思っていないようだ。これが二人の日常なのである。
しかし、そこで霊夢は黙ってしまった。いつもであれば、寒いでしょうから中に入りなさい、と家に招き入れてくれるのだが、霊夢は固まったままだ。
魔理沙も違和感を覚えた。さっきの実験で出来た薬の匂いのせいだろうか。しかしあれは失敗したものだし匂いもなかった筈。
何故だ……と考えを巡らせる魔理沙が気付いたのは霊夢の目が見つめる先。
──魔理沙の腕だった。
極寒だというのに嫌な汗が魔理沙の頬を伝う。
まさか。だってちゃんと魔法をかけた筈なのに……。
そこで魔理沙の思考が止まる。
あぁ、今日は「魔法の調子が悪い」んだ。
何故気が付かなかったのだろう。あの実験が失敗したとすれば他の魔法だって失敗する可能性はあった。
そして予測は確信へと変わる。
「あんた……その腕どうしたの……」
──今日は本当に最悪な日だ。
くそ、霊夢にバレた。こんなのバレてしまえば絶交される。私なんて、引かれて、幻滅されて……そんなの嫌だ。
「あはは、ちょっとな……」
そう言って笑う。なんて言えばいいのかは分からないが、ここで黙り込んではいけないということくらいは分かる。
取り敢えず、ここから離れなければ。今日は自分の家で篭っていよう。
そう結論付け、自分の家へと引き返そうとする魔理沙。
「待ちなさい」
しかし、霊夢はそうさせてくれなかった。
「あんた、何を隠してるの」
これが巫女の勘というやつか。それとも長年の付き合いからか。
「あんたが笑って誤魔化す時は何か隠してる時よ」
それは、後者であった。
魔理沙は親友との友情を感じながらも、気づかれたことを恨んだ。
どうしようか。お節介な霊夢が黙って自分の誤魔化しを受け入れるはずもない。
「……その腕は、どうしたの」
霊夢がもう一度、はっきりと言う。何も言わないなんて選択肢は与えない、と告げるように。
「……今日は魔法の調子がちょっと悪くてな」
嘘はついてない。今日は本当に魔法の調子が悪かった。
……それが怪我の原因になったとは言っていないが。
霊夢がじっと魔理沙の目を見つめる。
しかし魔理沙はこれ以上何も言う気は無い。ここで黙り込めば霊夢も諦めてくれるだろう、そう考えたからだ。
沈黙した空気が重く、ごくっと唾を飲んだ音がやけにうるさく聞こえる。
「……まあいいわ、せっかく来てくれたのだもの、お茶くらい飲んでいきなさいよ」
このまま誤魔化して帰ろうと思っていたが、霊夢の強気な口調には抗えない。魔理沙はなるべくいつも通りを装って霊夢の家に入っていった。
「ほら、お茶。お菓子は?」
「……いる」
「甘いのとしょっぱいのがあるけど……まあ、あんたは甘いのよね」
「……うん」
やはり霊夢の家の部屋は炬燵と暖房のおかけでぬくぬくとしていたし、予想通り熱いお茶とお茶菓子も出してくれるそうだ。あの時、腕さえきちんと隠すことが出来ていれば、これから霊夢との幸せな時間が始まっていたというのに。
さっきから霊夢は色々と話しかけてくれるが、魔理沙は交わす言葉を減らして霊夢に何も悟らせないようにしている。それが霊夢を不審がらせる要因の一つであることも気付かずに。
ゴトッとお茶菓子の入ったお皿を炬燵の上に置く。羊羹だ。艶々とした如何にも甘そうなそれは、魔理沙の食欲をそそった。しかし、今はそれどころじゃない。
「……さ、その腕のことをゆっくり話して頂戴」
思っていた通りだ。霊夢は魔理沙の腕のことをどうやっても聞き出すつもりだ。
魔理沙は炬燵に深く入り込んだ。
「話してくれたっていいじゃない。どうせ大したことないんでしょう?」
その言葉に、魔理沙は拳をぐっと握りしめる。
「……お前に、何がわかる」
『大したことない』と言った霊夢に悪気が無いことは分かっていたが、その言葉に押されて、つい強気な言葉が口から飛び出てしまった。
しまった、と思った時にはもう遅い。
驚いた顔の霊夢が目に入る。
あぁ、また霊夢を怖がらせてしまった……。
「ご、ごめん……」
「……平気よ。気にしないで」
沈黙が再び訪れる。
魔理沙にそれ以上口を開こうとする気は無かった。
そして、静けさに先に耐えられなくなったのは霊夢であった。
「……包帯、変えてあげるわ」
魔理沙の腕に巻かれている血の滲んだ包帯を見て霊夢が言った。
「……いい。家に帰って自分でやる」
「いいから。させてよ」
「いやだ。自分で出来るから」
「それ、そんなに見られたくないの?」
今度は霊夢が強い口調になった。
いつになく真剣な顔をしている。興味本位の心配ではなく、霊夢は本気だ。
霊夢の良心に耐えられなくなり、魔理沙は目を逸らした。
「……あぁ」
霊夢の気に押されて、そう言うのが精一杯だった。
「私には、教えられないことなの?」
霊夢は疑問形の言葉を振り絞って一生懸命に話を続けようとしてくれている。私に寄り添おうとしているんだ。
でもそれが今の魔理沙には辛く思えた。心の距離を近づけて、霊夢を傷付けてしまうのが怖いから。
「……教えたく、ない」
「私じゃ、だめなの?」
「……」
「……そっか」
そう言って、霊夢は笑った。
困ったような、許しを乞うような笑み。
魔理沙はこの笑顔を知っていた。
この笑顔は、霊夢が悲しい時にするんだ。
魔理沙の心に何かが刺さる。
ずきん。
「無理に聞いちゃってごめん。やっばり、嫌だったよね」
あぁ、またやってしまった。
これ以上傷つけないように、と思って取った行動がまたも霊夢を傷つけてしまっていたのだ。
「いや、私の方こそ悪かった……。ごめん、やっぱり今日は帰る」
「……うん、わかった」
また、切らなきゃ。こんな気持ち、すぐに発散させてしまいたい。
寒い中、霊夢はわざわざ玄関の外まで見送ってくれた。
また改めて来るから、と手を振った魔理沙。
そして飛び立とうと箒を手に持った時。
「怪我、早く治るといいわね」
霊夢はそう言った。あの笑顔をして。
「……ありがと」
これからまた怪我を増やしてしまうというのに。
魔理沙は、何だか霊夢の気持ちを裏切ってしまうようで辛かった。
家に着いた魔理沙は、早速包帯を変えることにした。
もう血が表面にも染み出していて、外すと内側の周りの血が乾いて赤黒くなっていた。
「はぁ……」
霊夢に申し訳ない気持ちでいっぱいだ。本当は今すぐにでもきちんと謝らなくてはいけないというのに、今の魔理沙にそれをする余裕も勇気もなかった。
早くこの気持ちを紛らわせてしまいたい、その考えで頭が埋め尽くされていたのだ。
先程使ったハサミを手に取る。
霊夢にバレたショックからか、ぼうっとした頭で手に持ったハサミを勢いよく振り下ろす。
──ぐじゅっ。
魔理沙の耳に鈍い音が入る。
その音で、魔理沙ははっと意識を鮮明にした。
やばい。やり過ぎたか。
肉の切れた痛々しい音が鼓膜をリフレインする。目に飛び込んできたのは自分の腕からびゅっびゅっと鼓動に合わせて出る鮮血。
まさか、動脈まで……?
急いで近くにあったタオルを取って押さえつける。しかし、止血も虚しく真っ白だったタオルはどんどん赤に染まっていく。
まずい。一リットル以上出てしまえば死ぬことだって有り得る。早く治癒魔法で何とかしなければ……。
傷口に手をかざす。しかし一向に止まる気配のない鮮血。
──分かってはいたさ。どうせ使えないんだって。
でも、信じたくなかった。どうして、どうして今日に限って調子が悪いんだよ……。
どくどく、と止まることを知らないかのように送られてくる血液は、遂にはタオルに染み込みきれなくなって床にぽたり、ぽたりと落ちていく。
もう駄目だ。もしこのまま意識を失ってしまえば、もう二度と目覚めることは無いのだろうか……。
意識がどんどん薄れていく中、魔理沙は誰かの声を聞いたような気がした。
「れいむ……」
紡ぎ出された言葉と共に、魔理沙の意識は深い闇に落ちていった。
──────────
霊夢は、魔理沙の家の前で立ち止まっていた。
手に林檎の入ったバスケットを持って。
ドアをノックする前に、小声で魔理沙に伝えるセリフをもう一度練習する。
「……さっきはごめん。これ、紫からもらったものなんだけど、あんた林檎好きでしょう?お詫びにこれあげるから、食べて機嫌治しなさいよ」
いつも通り、自然に言おう。そうすればきっと大丈夫だ。
覚悟を決めて魔理沙の家のドアを三回ノックする。
しかし、反応はない。
……やっぱりまだ拗ねているのね。
霊夢は呆れながらもドアノブに手をかける。ガチャガチャと音を鳴らしていればしびれを切らして出てくるだろうという具合だ。
大きい音が出るように、勢いよくドアノブをくるっと捻る。するとガチャっという音と共にドアが開いた。
「わっ……」
まさか開くとは思っていなかった。腕に込めた力と共に前へ倒れそうになるも、そのままドアにつかまってなんとか踏みとどまった。
玄関の鍵をかけていないなんて……。
魔理沙にしては珍しいなと思いながら、霊夢は部屋の中へ入っていった。
「……っ!」
最初に霊夢の目に飛び込んできたものは、真っ赤に染まったタオルと、血にまみれたハサミと……
──床に倒れている、魔理沙。
中身の林檎なんか気にせず、バスケットを足元に落として、急いで魔理沙の元へ駆け寄る。
「まりさっ!?まりさぁっ!」
───────
「ん……、……霊夢?」
「まりさ、あんた……なにやってんの……」
目を覚まして最初に、心配そうな霊夢の顔が魔理沙の目に映る。どうやら自分は自室のベッドに横になっているらしい。霊夢の目には涙が溜まっている。
どうしてそんな顔を……と問おうとしてはっと気付く。自分はあれのせいで死にかけていたのだと。
「霊夢……わ、私……」
「家に行ったら、あんたが倒れてて、どうしようって……。それでアリスに頼んで、治して貰ったのよっ」
「え……それじゃあ……」
「アリスには魔理沙が実験に失敗したせいだって言ってあるから、心配はいらないわ」
どうやら霊夢の計らいによってアリスにはバレていないようだ。
ほっと胸を撫で下ろす。
血液が足りていないはずの体もちゃんと動くし、さすがアリスだ。傷口はもう閉じかけていてうっすらと血が滲むほどになっていた。
でも。そんなことより。今一番考えなくちゃいけないことは。
霊夢に、私が今までやってきた事を知られてしまったという、事実だ。
魔理沙が俯く。
きっと今酷い顔をしているだろうから。
……もう、私は終わりだ。
「──そうか、わかった。ありがとう。もう私は大丈夫だからさ、出ていってくれ」
柔らかく退出を促す。これ以上霊夢に迷惑はかけられない。
「でも、魔理沙、その腕……」
「いいんだ。もう体だって普通に動く。だから、お願いだ。出て行ってくれないか」
「だって……」
「いいから! 出てけ!」
今度ははっきりと拒絶の言葉を口にする。
こんなことを言ってしまえばもう二度と親友には戻れないことは分かっている。けれど、こうするしか無かったんだ。霊夢が側に居たら、我儘な自分が出てきてしまいそうだから。
「いやよ!」
しかし霊夢の口から放たれたのは、帰らない、とはっきり告げる意思表示の言葉。
「あんた、そのハサミで何してたの」
「うるさい! お前には関係の無いことだ!」
「関係あるわよ!」
「なんだよ、こんなの引くだろ? 私がこんなことして、気持ち悪いだろう! もうさっさと出ていってくれよ! お願いだから!」
言葉をまくし立てて、かな切り声で叫んだ。自分の喉が切れてしまいそうな程。
魔理沙の目元には薄らと涙が滲んでいた。
「……何度も言っているでしょう。私は出ていかない」
「どうして!」
起き上がってベットから身を起こした魔理沙。魔理沙は自分が縋るような目をしていることに気が付いていない。
最早魔理沙は駄々をこねる子供だ。理性を忘れ、感情を全てぶつける只の子供。霊夢は魔理沙の目を見てそう思った。それと同時に、同情とは違う、芯を持った、守りたい、という感情が芽生えた。
「やだったらやだ。あんたと私は友達でしょう? それにここで帰るなんてあんたを捨てて逃げてるようなものじゃない!」
そんなのいやだ、と霊夢は言い切った。
真剣な表情で魔理沙を見つめる。
魔理沙は霊夢の目に自分の全てを見抜かれたような気がした。何もかもを射てしまうような、真っ直ぐな視線。見つめられている自分が惨めに感じてしまう、そんな目だった。
正直で純粋な霊夢とは真逆。汚れきった心を持つ己が嫌になる。
魔理沙は自分を見つめ続ける霊夢を睨んだ。完全な八つ当たりなのは分かっている。けれど、もう己の感情を操ることは叶わず、どうしようもなくなっていた。
魔理沙に睨まれてもなお、霊夢は動じない。
霊夢の雰囲気に圧倒されたのか、それとも自暴自棄になってしまったのか。魔理沙は霊夢に自分の感情をぶつけることを止められなかった。
自分が惨めなのが嫌で。辛くて。それを霊夢に押し付ける。
魔理沙は、手元にあった血のついたハサミを乱暴に手に取り、霊夢の元へ襲い掛かる。
そして、そのまま勢いよく押し倒した。殆ど突き飛ばすような形だった。
後ろに倒れた霊夢の上に跨って、ハサミを振り上げる。
ハサミから霊夢の頬にぼたぼたと垂れる魔理沙の血。
しかし霊夢は抵抗する素振りすらなく、ずっと魔理沙の目を見つめ続けている。
「──ねえ、魔理沙。なにが、あったの」
そう優しく霊夢は言った。魔理沙を射るような視線は外さずに。
霊夢は気づいていた。魔理沙はきっと甘えたいのだと。誰かに自分の気持ちをわかって欲しいのだと。でもどうすればいいのか分からなくて、どうしようもなくて。それがこの結果の行動に至ってしまった。
こんなもの、長年の付き合いで分かるわよ。
霊夢は、魔理沙に微笑んだ。
大丈夫。私はここに居るから、何処にも行かないから、という気持ちを込めて。
魔理沙は、その微笑みから霊夢の覚悟と自分に対する気持ちを嫌でも分からざるを得なかった。
そして、理性を見失っていた自分がこれからしようとしたことに漸く、気付く。
「うっ、う、うぁぁ……」
溢れる涙は留まることなく魔理沙の頬を伝い、ぽたぽたと霊夢の服に染みを作っていく。
霊夢は、濡れる服にも構わず、そっと魔理沙の頬に手を添え、涙を拭ってやった。
そして霊夢の手が魔理沙の握るハサミを優しく包み込むように押さえると、魔理沙は力が抜けたように握りしめていたそれを離した。霊夢は魔理沙の手から落ちるハサミを受け取り、床にそっと置いた。
見上げれば、呪縛から解き放たれたように泣きじゃくる魔理沙が居た。
「霊夢……、ごめん……ごめんなさい……私、私……っ」
言葉にならない魔理沙の謝罪。
霊夢は少し体を起こして、腰の辺りに跨ったままの魔理沙の頭を優しく撫でてやる。
我慢ならなかったのか、魔理沙はそのまま霊夢にもたれ掛かる。霊夢の体温を求めるように。
霊夢はそれを受け入れ、何も言わずに魔理沙の頭を撫で続けた。
次第に魔理沙のすすり泣く音は小さくなっていき、いつしかそれは止んだ。
それを感じ取った霊夢は、ゆっくり、優しい声で魔理沙に言った。
「まだ、血が滲んでいるわ。私に……手当させてくれないかしら」
もう、魔理沙に拒絶する力なんて無かった。弱々しく頷き、近くの椅子にもたれた。
霊夢の手当の用意は速かった。
何度も訪れた魔理沙の家。道具の場所はなんとなく分かっていたのだ。
温かい霊夢の手が魔理沙の肌にそっと触れる。手当を受けている間、魔理沙はぽつりぽつりと今までやって来たこと、感じたことを言葉にして紡いだ。
「……霊夢は、引かないのか……? こんなの気持ち悪いって、思わないのか……?」
「……何故?」
「その……私が、こんな事してるから……」
「する訳ないじゃない」
霊夢はきっぱりと言い切った。何の迷いもない声で。
「だってこれは、あんたが辛かった証でしょう? 今まで、誰にも言えなかったのね」
「うん……」
「辛かったわね」
「……っ、うん……」
「よく、頑張ったわね」
「……」
霊夢の温かい言葉に優しく心が溶かされていく。気が付けば魔理沙の目から再び大粒の涙がほろっと溢れていた。
霊夢は、魔理沙の頭にふわりと手をのせた。
「……ん、できた」
魔理沙が腕を見ると、しっかりと巻かれた包帯があった。霊夢は、とても器用で、こういうのが上手で。そして何より、心がこもっているのがとても良く伝わってきた。包帯を見て、魔理沙は柔らかく笑みを零した。
「ありがと……」
「どういたしまして」
ふわっと笑う霊夢。
その笑顔は、魔理沙を安心させるような気分にさせた。胸のあたりがほんわかと温もっていくような感じだった。
「……ねえ、魔理沙。もしこれから何かあったなら、私に言いなさい」
「……へ?」
「だってそんなの、あんたが一人で背負うことないじゃない。辛い時は分け合えばいいの」
「でもそれじゃ、霊夢が」
「迷惑なんて思わないわよ。むしろこうやって 魔理沙が隠れて一人で苦しんでるほうが私は心配だわ」
「……そか、ありがとな」
そう言って魔理沙は、ふにゃりと笑った。
自身の言葉を素直に受け入れる魔理沙を見て、霊夢もつられて微笑んだ。
「……そうだ、紫から貰った林檎があるの。さっきのお詫びに渡そうと思って忘れていたわ」
「お詫びだなんて、霊夢は何も悪くないのに……」
「私も悪いわよ。今までこんなに近くで魔理沙を見てきたのに、魔理沙の辛さをひとつも分かってあげられなかったんだから」
そう言ってまた霊夢は魔理沙の頭を撫でる。
霊夢は私を小さい子だとでも思っているのだろうか。
でも、そんな扱いも悪い気はしなかった。
「……その林檎さ、一緒に、食べないか」
恐る恐る、霊夢の顔を見て魔理沙は言った。
「もちろんよ、一緒に食べましょう」
私が剥くから待っててね、と台所に行く霊夢。
「机、片付けておきなさいよ」
そんな声が、向こうの方から聞こえてきた。
魔理沙は、床に置きっぱなしだったハサミを手に取り、綺麗に血を拭って机の下にある鍵付きの棚に入れた。そして、そのままガチャリと鍵をかける。
「出来たわよ」
暫くして、霊夢が林檎の入ったお皿を持ってやって来た。
仄かに甘く、爽やかな匂い。
噛めばシャリっとした歯ごたえと、瑞々しい香りが魔理沙の心を癒していく。
「あんた、後でアリスの所へお礼言いに行きなさいよ」
「あぁ、そうだな、後でちゃんと行くよ」
そしてもう一口、林檎を頬張る。
「……なあ、霊夢。これ、持っていてくれないか」
そう言って差し出したのはさっきの鍵。
「……? なんの鍵よ、これ」
怪訝そうな表情を露わにして、霊夢が尋ねた。
「いいから、持っていてくれ。私にはもう必要ないものなんだ。お前に持っていて欲しい」
何かが吹っ切れたような魔理沙の表情を見て、霊夢は不思議に思いながらもその鍵を受け取った。
「……また、遊びに行くよ。お前の家に」
「ええ、いつでもどうぞ。待ってるわ」
──今日は爽やかな気分だ。
さっき食べたリンゴのように、魔理沙の心は甘く、満たされていた。
一点気になったことを
>幻想郷に来た現在でも、その癖は未だ治らずにいる。
記憶違いでなければ、魔理沙は幻想郷生まれ幻想郷育ち(一瞬魔界)ではないかと。
自傷をする精神的な面の不安定さと心の変化を表現したくて書きましたので、伝わってとても嬉しいです。
指摘の件について
ありがとうございます、私の記憶違いでした...汗
一人暮らしを初めてから、という意味で捉えてくださると有難いです。
ともかく救いのある終わり方で良かったです