「いえない」
ざぁざぁと雨の降りしきる鬱陶しい天気の中、突如家を尋ねてきたアリスに、こんな日にどうしたのかと聞いた時の返答である。
「いえない」
アリスは同じ意味の言葉を何度かくり返した。
何やら言いたくないような事情があるらしい。
「いえない」
まぁ、その日は私にとってちょっとした厄日であったわけなのだが、その顛末について語りたいと思う。
そもそもの発端は私がふとマスタースパークの改造案を思いついたときにまでさかのぼるんだろう。お風呂につかりながらぼんやりしているときは、どうしてこうも閃きが生まれやすいのかそれを研究の題材にしてもいいくらいに謎に思うが、さておきその改造案というのは今までの『太く大きく数増やしてみたり』というスタンスから一転、『密度を高めて威力を上げる』というものだった。もとよりマスタースパークには一撃必殺の威力があるのでこれ以上その底上げを行っても無駄だといわれればそれは確かなのだが、どんな固い結界も一発で打ち抜くようなとんでも威力というロマンが湯に火照った体を妙にくすぐって、さっそくその日の夜から開発は行われた。
それはもうすさまじいペースだった。
近頃宴会や事件もなくて暇していたところだったのもあってか、私は本来長い時間をもって費やされるべき時間や労力の密度からして高め、ものすごいハイペースで試行錯誤を重ねたのだ。三日ほども徹夜すると、そこには新しい魔法が一つできていた。
外を見てみると、ちょうど空がよく晴れ渡った小春日和である。
私はうきうきとした気分で小躍りしながら家を出た。概して徹夜明けのテンションというのはそんなものだろうし、誰も見てないからと筆舌にしがたいびみょんなポーズをとってみたり。
そんなことをやりながら、箒に乗って空に上がる。
そして。
私はどきどきと脈打つ心臓の鼓動を強く感じながら、青空ににじむように輝いている太陽へ向けて改造版マスタースパーク第一射を放ったわけだ。
正確には放とうとした。
空へ向けて、放とうとした。
だが。
現実としては。
「あ」
という声を漏らしていたかどうかは覚えていないが、ともかくそれくらいの驚きを私にもたらした。別に想像を絶するぱぅわーだったとかそんなことでもないのだが、なんと、寝る間も惜しんで作り上げた魔法は……寝る間を惜しんで作ってしまった魔法は誤作動を起こしたのかなんなのか全然コントロールが効かなくなり、紅い悪魔の妹が振り回す剣がごとく、明後日な方向へ縦横無尽駆け巡ることになったのだった。
具体的には大地へ向かった。
魔法の森を豚切った。
いつもよりは控えめな大きさの、いつもよりはるかに高威力な魔砲はのどかというよりじめっとした魔法の森の湿度を焼き払うようにごうごうと進んでいって、徐々に角度を上げながら再び空へといたり、そこら辺で魔力供給が尽きて空気に消え入るように姿を消した。
「……」
なんというか、そのときの私の気持ちをどう表せばいいのか。
呆然。
忘我。
棒立ち。
正確には箒の上に座っている状態だったが、危うくバランスを崩して落ちかけたりはした。箒がなくては飛べないわけでもないが、それにヒヤッとしたものでようやく我を取り戻すことができた。
木々がなぎ倒され地面に抉れた跡を残す魔法の森には、よくよく見ると一部煙が出ているところもあった。この森は本当にじめじめしているのでそうそう火事になったりはしないと思うが、一応火の手は消しておいたほうがいいだろう。
そんなことを考えた。
と。
ぴた……と、何かが頬に触れて遠い地面へと落ちていく。
空を見上げた。
ついさっきまで晴れていたはずの空が、いつの間にか曇りわたっている。
そして。
ぽつ、ぽつ……ざー……。
と、あっという間に強く降り始めた。青天の霹靂とはこのことだが、唖然としている間にも雨は服をぬらし続ける。私はあっという間に体を水浸しにしてくれやがった雨を呪いつつ、まぁ火のほうはこの雨でなんとかなるだろうと結論付けて、そそくさと家の中へ避難するのだった。
家に入った私はひとまずタオルで頭を拭いて、服を着替えてリビングのソファにどかりと腰掛けた。新魔法には失敗するし、いきなり雨は降ってくるしでこの時点ですでに今日は厄日だなぁと思っており、ぼんやりと虚空を見つめながらそういえば三日ほど寝ていないのだということを思い出し、このままソファに寝転がってまどろんでいればさぞや気持ちいいだろうと思って実行しようとしたあたりでチャイムが鳴った。
せっかくのお昼寝タイムがっ!
誰なんだ。
こんな雨の日に。
しかめっ面になりながら、ひどくのろのろとした動作で私は動き始めた。これで妖精かなんかのいたずらだったりした日には私は火を吹いたかもしれない。びしょぬれになった後だったので、どちらかというと風邪をひく可能性のほうが高かったが、とかく私は不機嫌そうな、どたどたという足音を隠しもせずに玄関へ向かった。
鍵を外し、乱暴な手取りでドアを開ける。
「んんっ……?」
アリスがいた。
そこにはアリスが立っていた。
全身びしょぬれにしつつ、それだけならまだ納得がいくものの、この雨の中にいたせいで魚にでもなってしまったのか、死んだような目をして、口をまぬけそうに半分ほど開いて、ぼんやりとこちらを見てきている。
「あ、アリ……ス……?」
思わずどもりながら尋ねた。
だが、アリスは何も答えない。髪からぽたぽたと水滴を滴らせながら、墓から蘇ってきたようなおぼろげな雰囲気でただ佇んでいるだけだ。「どうしたんだ?」だの「女は水が滴っても大概怖いだけだぜ」だの「何か悪いもんでも食ったのか? キノコとか」だのと話しかけてみるのだが、そのどれにも答えが返されることはなかった。
だんだん不安になってきた。
アリスはハイライトが消えたような薄ぼけた視線を向けてくるだけだ。ホラーじみてる。
焦りのにじんだ声で、言う。
「頼むから何か喋ってくれよ……ど、どうしたんだ?」
すると、無表情無行動だったアリスにようやく若干の変化が現れた。
もそ。
と大型の草食動物が首を持ち上げるみたいな動作で目を合わせてくる。
「いえ、ない……」
そして、水面で口をぱくぱく開け閉めしてる金魚みたいに切れ切れ喋った。
言えないらしい。
言えないらしく、結局なにがあったのかはさっぱりわからないままなのだが、最低限反応を返してくれただけでもどこかほっとして、ほっとすると同時、アリスがいまだ家の外で、雨にさらされていることに遅ればせ認識した。
「とりあえず家に入れ。このままだと風邪を引く」と、らしくもなく気遣いの言葉を投げかけながら家へ誘い込む。アリスは機械みたいな動きで入ってくる。彼女が実は巧妙に作られた偽者で、本物はすでにすりかえられているのだとか言われても信じてしまえそうな気がするくらい無機物的だった。
そして、先ほどまで寝ようと思いながらくつろいでいたリビングへ通す。
タオルを渡してから、ひとまず紅茶を用意した。
そうする間アリスはずっと同じ様子だった。
テーブルを挟んで座り、アリスが緩慢に紅茶を飲むのを見てからこちらも一口嚥下する。
外気に触れてまた少し冷えていた体に熱がいきわたって、内側から意識が冴えていくような感じだった。
だが実際それ以前にもう目はすっかり冷めていた。
タライ一杯の水をぶっかけられたみたいに。
アリスの様子は非常に気がかりだった。
いつもならこんな様相を見せることはまずない。何か気落ちするようなことがあっても一人で解決してしまおうとするのが常であることを私は知っているつもりだし、少なくとも私の前でしおらしかったり余裕がなかったりする態度を取ったことはなかったと思う。
それだけ衝撃的な何かがあったのだ。
こうまでも茫然自失とした人間を作り出してしまえるような、何かが。
「アリス、何があったんだ……?」
なので、私は再三聞いた。
このもやもやを解決しないことには三年たっても寝れそうにない。
アリスは特にこれといったレスポンスを返さず、相変わらずぼんやりと虚空を眺めていた。
外で今も降りしきっているらしい雨の音にかき消されそうになりながら、時計の針の音が自分の存在を叫んでいる。沈黙があまりにも長かったものだからか、ふと私のお腹の虫が鳴き出すほどだ。そういえば食事もろくにとっていなかった。なくのは空だけで十分なんだけどなぁと思いながら、このままでは埒が明かないからともう一度口を開こうとして……。
「いえない」
それより早く、アリスが口を開いた。
思わず、まじまじ見てしまった。
ほんの少し意識を外したうちに、アリスは幽霊のような先ほどの様子とは明らかに異なって、理性とか理知とか言われるものを目に宿している。それはいつもの様子そのものであり、どうやら忘我の淵からは回復したらしい。一瞬「いえない」という発言の意味もわからなかったのだが、先ほどの質問に対する答えだということに気づき、空も疑念も晴れそうにないかと落胆していると、「ねぇ」と口火を切り、唐突アリスは思いもしなかったことを言ってきた。
「私は今あなたの家にいるわね」
「あ、ああ」
だからなんだと言うんだろう。疑問を目に浮かべて返す。
「同様に、あなたが私の家に来たこともある」
「まぁ……あるな」
いつもなら、ここらで軽口の一つでも飛ばすのだが、先ほどのアリスの尋常ならざる様子と、淡々と、しかし何かしらの感情を確かににじませるように喋る今の様子に若干気圧されて、歯切れ悪げに私は答えていた。
アリスが続けて聞いてくる。
「あなたは方向音痴だったっけ?」
「方向音痴は森なんかには住まないな」
「そう」
「そうだ。……え、えーとだな。アリス……ほんとにいったいどうしたんだ……?」
切実な疑問だった。どこか茫然かつ呆然としていたついさっきまでのことと、いまいち要領を得ない質問を投げかけてくる今現在。そろそろ解説が欲しいところだ。私曰く、方向音痴は森の中に住んだりはしないらしいが、やっぱりガイドが欲しいかもしれない。
そんなことを考えていると、ふとアリスがじぃっ、とこっちを見ていることに気づいた。
「なんだ……?」
という問いをかけようとして、飲み込む。そのアリスの視線に含まれている感情が、不機嫌な色を帯びていることに気づいたからだ。なにやら怒っている。このじぃっ、と張り付くように湿った梅雨の空気みたいな視線も、言ってしまえばじと目である。まるで同じ過ちを繰り返す愚か者を見るような、自分のしたことに気づかない痴れ者を見るような、そんな視線。白い。ものすごく白い。冬を目前に控えた時節とはいえ、これではあまりに春度が足りない。
しばらく何か怒らせるようなことをしたんだろうかと考えていた。
しかし思いつかない。
何も思いつかなかったのだ。
仕方がないので、素直に聞いてみることにした。
「な、何を怒ってるんだ?」
アリスの視線がもっと白くなる。今にも皮肉の一つか二つ言われそうな雰囲気である。
「春ね」
「手短に言われたっ!?」
「それより、本当にわからない?」
「流すのか! あっさり流すというのか! ちくしょう!」
「気づいていない?」
「……」
流すというより、スルーされた。
やはりふざける場面ではなかったらしい。
私はもう一度考えてみた。
いったい私が何をしたというんだろう。そもそもしばらくアリスとは会っていなかったはずだし、特にこの三日は引きこもって新魔法の開発をしていたのだ。アリスは少なくとも私に対しては一々物怖じしたりするような可愛らしい性格をしてはいないので、こうも不機嫌になるような何かがあったのならその日のうちにでもずかずか乗り込んできそうなものである。しかし現実としては、何か本気で呆然とした様子で家を訪れてきて、しばらくたって持ち直してからもこの状況。わからない。本気で何がどうなっているのやら。
「うむぅぅ……」
私は唸った。
わけもわからない哲学書を前にしたチルノのごとく唸りをあげるしかなかった。
「何を……私は何をしたんだ?」
「……本当の本当にわからない? とぼけてるんじゃなくて?」
「ああ」
「……」
率直に思うところを答えると、アリスはもうなんといっていいかわからない目で見てきた。疲れや呆れを混ぜつつも、その視線が死線であるような、おそろしく不機嫌な目である。私が胸中ひそかにたじろいでいると、アリスは搾り出すように言った。
「いえ、ない」
「は……?」
意味がわからず聞き返すと。
「いえ、ない」
「いや、だから、なにを……」
同じ言葉を繰り返す。
さっきからそればっかりだ。
そう言おうとした。
そのときだ。
そのとき、脳髄に電流が走った。
まるで、重要なパズルのピースが当てはまったみたいに、今までのアリスの不可解な質問の意味が急速に色を帯びていく。あまり嬉しい予想ではなかったので、どこか粗はないか整然と列を成した思考を点呼するも、不自然なところは見受けられなかった。
まさか。
まさかそうなのか……?
『方向音痴』。
『アリスの家』。
『いえない』。
そして暴発したマスタースパーク。
何で……何で今まで思い至らなかったんだろう。
自覚できなかっただけで、徹夜明けの頭は相当鈍っていたということか。
まずい。
だとすると本当にまずいことをした。
そして。
こいつぁやべぇ……! と思わず身震いしてしまいそうな私の対面で。
アリスが心なしかゆっくりと口を開く。
「いえが……」
そして叫んだ。
「家がないっ! マスタースパークでっ! 吹き飛んだのよおおおおおおおおおおおおおおおお!」
「ごめんなさああああああああああいっ!」
機嫌を直してもらうまでに二週間はかかりました。
オチが読めたのは中盤くらいでしたが、以降もにやにやしながら読みました。
鈍い自分はオチを読むまで気が付かなかったのは秘密だ。