!注意事項!
この作品は「走れヒナナイ、駆けろヤクモ。」の続編になります、前作を知っていることが前提なので、必ずそちらから先にお読み下さい。
中国舞踊について書かれたシーンがありますが、作者が十分程度調べた知識で書いただけの代物です。
生暖かい目でスルーしつつ、「本物はこんなんじゃねーぞ!」と思った方がいれば、容赦なくなじってください、お願いします。
今回、やんごとなき事情からツイッター上で未完成品を公開しましたが、公開した部分でいくつか変更点があります。
・副題を『闇足の歩み』→『幻想のカタチ』へと変更。
・女苑と紫苑のシーンを"二箇所"追加。
・一部台詞など書き直し。
・公開部分最後のシーンを書き直し。
長々と失礼しました、お楽しみ下さい。
人は誰しも疑問に思うらしい、自分がどうして生まれ何処へ行くのか。
ならば妖怪は果たしてそんなことを考えるのか? そんなことを尋ねられたことがある。
決まってる。考えるに決まっている。
私達はどこから来てどこへ向かうのだろう、もう何万回と思考し続けてきたこと。
けれどわかりきったことだ、私たちは闇から生まれて、影に落ちる。
人はみな、突いた薮から蛇が飛び出すことを期待してる、暗がりの向こうに脅威があるから、人は闇に目を向けられるのだ。
人が闇に火を灯すための贄として、私たち妖怪は生まれてきた。人々が恐怖を望んだから、私たちは現れた。
人が人として歩むため、まだ見ぬ闇を開拓するための必要悪として生まれ落ち、都合の良い捨て駒として消えていく。
見よ、あまねく夜の地上に広がる星々を! 本物の星明かりすら駆逐し、天上にすら手を伸さんとする、光り輝く鋼鉄の檻こそ、我ら妖怪が礎となり達成した成果である!
人類は進歩しました、もう彼らに夜の敵は必要ありません。だから私たち妖怪は大人しく空想の彼方に消え去りましょう。
冗談じゃない。私たちはデストルドーを組み込まれ必滅の存在として生まれてきた、それでも何かを生み出すリビドーだってあるはずだ。
ただ人といがみ合い、追い立てられ、悲しさだけを背負って朽ち行く以外にも道はあるはず。
私達だって生きられる、じゃないと、あんまりにも虚しすぎるじゃない。
生きて、生きて、生きて、そして――誰かを助けられるはずだ。
人が子を産むように、我ら妖怪から産まれるものを探したい。
だから、どうかお願いします。
世の理の端の端に、夜の理よあれ。
夜の中から生まれる光よあれ。
明日へ続く希望よあれ。
幻想に救いよあれ。
行き場のなくなった者たちが、終わることなく生きていける場所。
それが私の望みです。
かつて八雲紫と比那名居天子は敵対していた。
それはやはり天子がしでかした異変の顛末が発端であるが、それはあくまできっかけに過ぎず、真の原因は二人の在り方が真逆だからこそ故だ。
二人はお互いを羨み、怒り、悲しみ、いくつもの激情を力一杯の暴力と涙で表現し、しかしてその末に触れた相手の核心を、自分の胸へと大事にしまいこんだ。
理解り合い、認め合い、結びついた、のだが――
「むむむむむむむ…………」
時は昼下がり。スキマの大妖、八雲紫は自宅の居間で机の前に陣取りながら、腕を組んで深いうねりを上げていた。
眉間にシワを寄せる一家の長を見て、橙は興味深げに瞳を開き、藍はこれまた渋い顔で口を開く。
「どうしましたか、そんなに唸って」
「いや、ねぇ……比那名居天子が本格的に輝針城に住み始めて、そこに竜宮の使いや貧乏神も加わったことは知ってるでしょう?」
「紫様から聞きましたからね、それでそれが何か」
とりあえず藍が尋ねてみると、紫は大口を開けて声を荒げた。
「ずるくない!? こっちは暇な時しか天子と一緒にいられないのに、他のメンバーは朝から晩まで同じ城で暮らして同じ屋根の下で寝てるのよ!?」
「紫様、乙女ムーブもいいですけどカリスマ忘れないで下さいね!?」
この妖怪、根はけっこう純情だった。
走れヒナナイ、駆けろヤクモ。 -幻想のカタチ-
式神の藍は、ここのところ判明した主人の側面に頭が痛かった。
先日、顔をボコボコに腫らした紫が家に帰ってきて「天子と喧嘩してきたわ」と晴れ晴れした声色で嬉しそうに言ってきた時は、頭までやられたのかと心配したのだが、実際のところ真性だった。
紫は元々こういう性格だったのだ、それを不安だとか責任感だとかでがんじがらめに縛り上げ、胡散臭い振る舞いで大物ぶっていたのだが、天子と心を通じ合わせた結果色々とリミッターが振り切れてしまったらしい。
敬愛する主人が本音を言えるようになったことは嬉しいが、それはそれとしてあまりのギャップに藍としては未だに慣れず、どう対応すべきか迷うところである。
「あぁ~、こうやってる間にも天子はみんなと仲良くやってるのよね……天子に気になる人とかできちゃったらどうしましょう……」
「じゃあ今すぐ会いに行ったらどうですかー?」
「そうは言うけどね橙。あんまり頻繁に顔出してうざがられでもしたら怖いし……」
対して橙は、今までにない振る舞いを見せる紫にも柔軟に対応していた。
子供ゆえの適応能力と言うべきか、むしろ隠し事をしないぶん接しやすいらしく、以前よりも紫と仲が良い。
天子との距離感に頭を抱えている紫を見て、藍は溜息を吐いた。
「最初はあれだけ嫌ってたのに、どんだけ天子のこと好きなんですか」
「す、好きだなんてそんな! ただちょっと気になるだけよ、もう藍ったら」
「うわぁ、面倒くさい……」
「藍様、可哀想だから言ってあげないでおきましょうよ」
藍はもとより橙からも地味に酷い言葉を吐かれてるが、当の紫は天子のことに夢中で、悩ましげに身体をくねらせている。
「好きっていうか……そりゃあまあ、この前のことで天子も優しいってこともわかったし、あんなに力一杯怒れるのも素敵っていうか、私にはないものでキラキラ輝いて見えるけど、私はただ天子と仲良く遊べて、たまにちょっと手でも握れればそれだけで良いというか」
「はあ、もうそれでいいです。存分に青春楽しんで下さい」
天子と盛大に喧嘩して以降、紫は天子と急激に距離を縮め、よく天子と一緒に遊んでいるようだ。
弾幕ごっこでの決闘をすることも多いが、幻想郷の名所に出かけたり、あるいは室内で囲碁や将棋などで遊んだりしてきて、紫は帰ってきてから夕食の席でよくそのことを話してくれる。
「藍様からはアドバイスないんですか? 天子のハートをゲットする方法とか」
「うぅん、私も普通の恋愛はしたことないからなぁ」
なんだかんだで、藍もこんな紫のことを本心では疎んでるわけでなかった。
藍は白面金毛九尾の狐として、様々な王朝で男を誑かしてきた実績があるが、まともな恋愛経験はないのだ、だからこそ純真な恋というのは余計に眩しく見えるし、紫がそれを経験できることは祝いたいと思う。
「あえて言うなら、あんまり姑息な手段には頼らないほうが良いということですね。私はそれでしっぺ返し食らって、人間たちに追い立てられることになりましたから。最近はあんまりスキマから覗き見とかしてないようですし、そこは感心します」
「あー、いや、それはね……」
紫は気まずそうに藍から目を逸らす。
「喧嘩してから、天子は私の気質にすごく敏感で、覗いたらすぐにバレてスキマに手を突っ込まれて引きずり出されるのよ。だからできてないだけで……」
「まあ何でも良いです。せっかくですから今までの自分とは違うやり方で仲良くなる方法を探して良いと思いますよ」
「そうね、ありがとう……あら、そろそろ天子との約束の時間だわ。出かけてくるわね」
「はい、夕飯は天子たちとでしたね?」
「えぇ、それじゃあ行ってきます」
「行ってらっしゃいませ」
「いってらっしゃーい!」
家族に見送られ、紫はスキマに身を投じると家から消えていった。
空席を眺め、藍が感慨深そうに呟く。
「……変わるもんだなぁ、誰も彼も」
「藍様は、変わるのは嫌ですか?」
「まさか、あの歳でもまだ成長できるんだ、嬉しいさ」
実際のところ藍も紫の実年齢については知らないのだが、それでも自分よりもはるか昔から存在するということはわかっている。
普通なら老成し、ただ散りゆくのみだろうに、ここに来て紫は躍進し人生における新たなステージに踏み出した。
これは何でもないようなことに見えて、妖怪としては革新的なことのように感じるのだ。
「だが心配でもある。我ら妖怪の行先が、果たして人よりいでた者と同じ方を向くことが出来るのか」
「藍様の言うことは難しくてよくわかんないです、でも大丈夫だって思いますよ」
一抹の不安を抱く藍に、橙は素敵な笑顔を向けた。
「だって、紫様毎日楽しそうですもん!」
「……そうだな、心配することはないか。橙に教えられたな」
「へへーん、どんなもんです」
胸を張る橙の頭を、藍は撫でながら、主人が楽しそうに天子との出来事を語っている時の顔を思い出し、自分もまた笑みを深めた。
◇ ◆ ◇
妖怪の賢者が青春の悩みを吐露していたころから、時は少し戻って。
輝針城で丸テーブルに座って、お昼ごはんを取る天子は、鼻歌交じりに納豆をかき混ぜていた。
「ふんふんふふ~ん♪ 納豆も初めて見た時はナニコレって思ったけど、慣れたら案外美味しいのよねぇ~」
天子は今日の昼食の当番が自分だということで、張り切ってご飯を用意した。
ほうれん草のおひたし、カレイを使った煮付け、ジャガイモにニンジンにシャキシャキの長ネギをぶち込んだボリューム満点のお味噌汁。
紫苑から料理を学んでまだ日が浅いので改善の余地ありだが、それなりに美味しく出来たと自負している。
天子は手慣れた調子で納豆をご飯の上に乗せ、更にネギでトッピングすると口にかき込み、幸せそうに頬を緩ませた。
「うーん、美味しいー!」
「臭いが、天子様はよくそんなの……と失礼しました」
テーブルの向かい側から衣玖が納豆の臭気に思わず言葉をこぼしてきた、両脇にいる針妙丸と紫苑は気にせずご飯を食べているが、衣玖は納豆が嫌いらしい。
天子と同様、最近下界に来るようになったばかり衣玖は、納豆のような独特な食べ物は苦手らしく、事前に「納豆はいる?」と尋ねたら「NO!」と力強く答えてくれた。
そのため、天子が納豆を用意したのは自分と紫苑のぶんだけである、針妙丸も衣玖と同様に断ってきた。
「えー、美味しいのに。何度か食べてれば好きになるわよ、紫苑もそう思うでしょ?」
「うんうん、食べられれば何でも美味しいわ。腐ってくれた大豆さんありがとうー」
「さっすが紫苑。針妙丸は?」
「好きとか以前に、私が納豆食べようなんてしたら身体中ネバネバだらけになっちゃうよ。そんなの見たい?」
「見たい」
「あっ、私も見たいです」
「見たいわー」
「悪趣味な居候多すぎない!?」
天子にくっついてきた衣玖と紫苑であったが、もうすっかり輝針城を住まいとして馴染んでしまっていた。
急に増えた二人に針妙丸としては思うところがあるようだが、天子たちでご飯を用意して、その時に針妙丸のぶんも提供することで機嫌を取り、なんとか追い出されることなく済んでいる。
「で、どうどう、お味の方は? このカレイの煮付けとか頑張ったんだけど?」
「えぇ、美味しいですよ」
「海の幸なんて久しぶり。美味しいわー」
「初めてにしてびっくりするくらい美味く出来てるよ」
「よっし!」
天子は手応えに拳を握りしめて笑みを深める、料理を始めてまだ日が浅いが、これがなかなか楽しいと感じていた。
工夫をこらし美味しいものを創る、もちろんただ創った天子が満足なだけに終わらず、みんなが食べて満足できるものを追求する。一連の流れがとても面白くてやりがいがあるし、みんなの笑顔を見ることで達成感も覚えた。
そうしてみんなから認められたご飯は、これまた美味しく感じるのだ。
天子は嬉しそうな顔で納豆かけご飯をもりもり食べると、ほうれん草を三口ぶんくらい豪勢に箸で摘み上げ、一気に口に放り込み頬を膨らませてガシガシ噛んで、触感を楽しみながら歯ですり潰す。
豪快な食べっぷりの天子に対し、ちまちまご飯を食べていた紫苑は感心して呟きを漏らした。
「天子ってばよく食べるねー」
「これからまた紫と約束あるからね、あいつと会うんなら、いつバトっても良いように力つけなくっちゃ。って言っても今日は人里だからないかもだけど」
「すっかりあの妖怪と仲良くなったわねー。油断ならないやつだったのに」
実は今食べているカレイも紫の提供だ。最近料理にはまっているから、珍しい料理を作ってみたいと言うと、レシピと一緒にプレゼントしてくれた。
紫苑は紫にこき使われたこともあり、あの妖怪には懐疑的だったが、天子と紫の仲が良いのは本当だとよくわかっていた。
「まあ、あいつは私の愚痴聞いてくれたり、鬱憤晴らしに付き合ってくれたし。って言っても端的に言えば喧嘩なんだけど」
「遠くから眺めてましたが、すさまじい争いでしたね」
「やだ、衣玖ってば見てたの?」
「あの時は天界にいましたから、あれだけ派手に暴れてれば目に付きますよ。衝撃がビリビリきて、お腹の底にまで響きましたし」
「へぇー、そんなにすごかったんだ」
「もしかして奉仕活動の最後の日? あの日は天子、スッキリした顔で帰ってきたよね」
「そうそう、あいつとぶつかったのはあの日よ」
以前、天子は奉仕活動をするようにと紫から強制的に押し付けられた。
その中で、ある一件から天子は抱え込んでいたものを爆発させ、紫とお互いの激情をぶつけ合ったのだ。
「私も紫もほとんど殺す気で戦ってたからね」
「笑って言うことじゃないよねそれ!?」
「あの紫がそこまで殺意バリバリで戦うなんてよっぽどねー。そういうのはぐらかしそうなタイプなのに」
「だって私よ? 比那名居天子よ?」
「うん、納得いったわー」
「というかそんなのでよく仲良くなれたね」
「確かに、痛かったけどね」
肉体的にという意味だけでない、紫との戦いは、自らの矛盾と傷を抉る凄惨なものだった。
だがだからこそ、天子は自分のすべてを懸けて剣を振るえた。自分自身の核心に辿り着けた。
その先で、天子はただただ自らの存在意義を否定し、生きる意味すら見失ったのだが、その時に紫は手を差し伸べてくれた。
「色々あったけど、最後には、私のことを認めて優しくしてくれたから。だから全部良いかなって」
天子は、あの時紫が撫でてくれた頬にそっと自分の手を重ね、過去に思いを馳せ、照れくさそうに目を伏せた。
そんな天子に、見ていた三人は苦笑いを浮かべていた。
「甘いっ、衣玖さん渋いお茶!」
「私は出来る女、すでに用意できております」
「えっ、何その反応」
「だって、ねえー?」
針妙丸、衣玖、紫苑の三者は互いに顔を見合わせ、細めた眼に胡乱げな気配を浮かべて口々に声を上げた。
「奉仕活動明けから、急に紫を連れてきて一緒に遊んだり」
「天子様は妙にスキンシップ多くてベタベタしてるし」
「紫も、二人きりの時は天子のほっぺたぷにぷにしてたわー」
「ちょ、最後の見てたの!?」
慌てた天子が箸を取りこぼしそうになる。外で遊んでた時の一幕だったが、紫苑に見られていたとは不覚だった
「明らかにあの妖怪の態度が天子が関係してきた時だけ違うもん。ベタ惚れでしょあれは」
「ベタ惚れって、そんなんじゃないわよあいつとは!」
「そんなヌルいこと言ってたらダメだよ天子! もっと紫とも仲良くなってもらわないと!」
「は、はあ? なんでそんなの強制されなきゃいけないのよ、どゆこと?」
声を荒げる天子に、針妙丸が妙に必死な態度で言葉を重ねてきた。
「怖いんだよ、あの妖怪! 目の前で天子と話してたら、嫉妬がこもった恨めしそうな眼で睨み付けてきて!!」
「まっさかー、いくらあいつでもそんなみっともない真似……いや、しそうよねあいつのことだし」
「そこで納得するんですか」
「あいつは私なみに面倒よ」
紫はあれで、とことん融通が利かない一面がある。
そういう性質を持っている者は、ともすれば嫉妬や憎しみなど悪い方向に転がってしまうものだ。そんな頑固さを持っているからこそ紫はぶつかってきて、結果的に天子は助けられたが、一方で身を持って紫の厄介さを思い知っている。
そんなに紫が好いていてくれていると考えるのは嬉し恥ずかしだが、もしそうなら嫉妬くらいしてもおかしくなさそうだ。
「天子って、みんなと出かける時にも紫を連れてくるじゃん。その度に殺されそうな眼で睨み付けられるのは勘弁だよ、どうにかして」
「どうにかって、どうすればいいのよ」
「嫉妬って、ようは取られるかもって不安から来ると思うんだよ。だから不安解消のため、天子はもっと紫とも仲良くなること、これ家主命令だよ!」
「仲良くって、今でも十分仲良いと思うけど」
天子は自分で言ってて少し恥ずかしくなって、指先で頬をかいた。
今日だって二人で出かける約束なのだ、友達としてどこにも問題はないはずだ。
「天子様は、紫さんともっとこうしたいとかはありませんか?」
「うーん、あいつと一緒にあっちこっち行きたいとかそういうのなら」
「それもいいですが、紫さんからして貰いたいこととか、逆にしてあげたいこととか。単純に楽しみたいことじゃなく、こうなったらより幸せだなと思うようなことです」
「幸せ、ねえ……大げさな言い方だと思うけど、そうねえ……」
ピンとこなくて天子は悩む――いや、むしろピンと来すぎているから悩んだ。
幸せになれること、それはもう達成している。紫と真正面からぶつかった日、涙を流しながら紫に抱き締められた時、あれが幸せというか、救われた時だった。
紫から自分の奥底を認めてもらえた瞬間から、自分はもう満たされていて、それ以上を求める必要がなくなったのかもしれないとも考えた。
普段の日々に紫がやってきて隣で笑いかけてくれる、それだけで自分の存在を肯定してくれていることになるし、それで十分と思えていた。
「やっぱ、別にないかなー、私としては今でのままで良いわ」
「以外ねー。天子ってもっと欲深い人だと思ってたわ」
「紫苑の言う通り欲は深いけど、今は満たされてるからねえ。そのうちあれこれして欲しいって浮かんでくるかもしれないけど」
「おっと、サラッと惚気けられたぞぉ」
「惚気って、そんなんじゃないわよ」
針妙丸に言われてしまったが、紫とのことを突っ込まれると妙に恥ずかしい。
「なら逆に、紫さんのして欲しいことを叶えてあげるのはどうでしょうか」
「あっ、それ良いかもね」
衣玖の提案に、今度こそ天子は食いついた。
「でもあいつのして欲しいことって何かしら……」
「そこを自分で考えてあげることが大事だと思いますよ。相手のために努力し心を寄せる、その過程があるからこそ、喜ぶような結果が付いてくるのではないでしょうか」
「衣玖さん頼りになるわねー」
「ふふふ、伊達に龍神様におべっか使ってませんからね。お悩み相談は得意ですとも」
天子は考え込み、それで本当に紫が喜んでくれたなら、なんて素敵なことだろうと思う。
喜んで笑う紫の顔を思い浮かべる。自信たっぷりに見えてその実、臆病さを抱えた彼女が、胡散臭い仮面を脱いで、素直な気持ちになれたなら、天子としてもこれ以上嬉しいことはないと思う。
想像の紫につられて、天子もみんなの前で笑みを浮かべた。
「よっし、考えてたらやる気湧いてきたわ。みんなもありがと、応援してくれて」
「……やっぱり天子、前と随分変わったなぁ」
天子の前向きさを目にした針妙丸が、感慨深そうに呟いた。
「そう?」
「そうだよ、天子も自分でわかってるでしょ?」
「……うん、そうね」
針妙丸にそう言ってもらえ、天子は胸に手を当てて少し前のことを考える。
怠惰で堕落した天界の気質に憤り、どこにも受け止めてもらえないままさまよい歩いたかつての自分。
自分で退治されるために異変を起こし、完全憑依異変でも我を忘れたくて針妙丸と共に暴れまわった。
けど今は、もうそんなことをする必要はない。例え同じことを繰り返したとしても、その意味合いは大きく違うだろう。
自分はもう、自己を否定されなくてもいいのだ、ただあるがままに目の前のことを楽しんでいいのだ。
「前より、ずっと心が自由になった。紫とぶつかって吐き出して、慰めてもらって、あいつが助けてくれたから今の私がいる……」
紫には恩がある、感謝がある。この気持ちを伝えたいし、同じだけのものを紫と分かち合いたい。
「だからそのぶん、私から紫にいっぱい恩返ししなくちゃよね。頑張るわ!」
これ以上ないくらい満面の笑みを輝かせ宣言する天子の威光に、針妙丸と衣玖は愕然として項垂れた。
「あま、あまいぃ……」
「羽衣婚活、真剣に考えようかしら……」
「えっ、えっ?」
幸せオーラに当てられて打ちひしがれる二人を他所に、紫苑は何事も変わりないかのごとくご飯を味わっている。
ハナから幸せとは無縁の貧乏神の身だ、いまさらこんなのを見せられるまでもなく、自分がそういった幸福から遠い存在だと思い知っている。
とは言え、天子が幸せなのは良いことであるし、それに水を指すつもりはないので、後ろ向きなことはわざわざ言わないようにした。
「頑張ってね天子。私、そういう幸せなのかとかあんまりわからないけど、愚痴くらいは聞けるから」
「あ、うん、ありがと」
紫苑はとりあえず適当にそれっぽい言葉を掛けてから、うなだれる針妙丸と衣玖を見つめて、ああまで一喜一憂できることに少し羨ましいなと考えながら、あったかい味噌汁をすすってほどよい塩味にほんわりした。
◇ ◆ ◇
輝針城を出た天子は、人里にある龍神像前で待っていたのだが、待ち合わせの紫が中々来ないことに少し苛立ってきていた。
龍神像の白色の瞳と手に持った時計を見比べて鼻で唸る、もう十五分も過ぎている。
辺りを見渡しても紫の姿はない、あの妖怪のことだから寝坊でもしてるのだろうか。
まさかとは思うが、待ちぼうけを食らった自分をスキマから覗いて笑ってるんじゃあるまいなと、試しに気質を利用した探知を使用してみた。紫との戦いで思いついた利用方法だ、例えスキマ越しに覗いていようが敏感に察知できる。
するといつのまにか、自分のすぐ背後に紫の気質を発見して、驚いて振り返った。
「紫!? 遅いじゃないの、一体いつ……から……」
だが天子は見えた人物に目を剥いて立ち尽くした。
普段、天子よりも背が高くて首を少し上に向けないと見えないはずの顔が、何故か天子の胸元くらいの位置にある。
紫色のドレスを身にまとった、天子より背丈の小さいその少女は、見覚えのある金髪をそよ風で揺らしている。
「ふふふ、ようやく気付いたの? もう天子ったらいつまで経っても見つけてくれないんだから」
訂正、見知らぬわけではなかった、小さな少女は気さくに声を掛けてきた。その声はいつもより声質が高いが、ここで待ち合わせしていた友人の声によく似ている。
しかしこれにどう対応するべきか、若作りする少女を見下ろす天子はしばし考え込んだが、やがて踵を返した。
「さぁーて、本屋でも寄って小説買って帰ろっと!」
「待ちなさい」
「ぐげっ」
空色の髪の毛のさきっぽを少女に掴まれて、天子は後ろにのけぞって足を止めさせられた。
天子が観念して振り向いてじろりと睨み付けると、少女はニコリと幼さに似合わぬ母性のある笑みで視線を受け止めた。
その笑い方を天子は知っている、こうまで慈悲深い笑みを作れるのは天子の知識に唯一人。
「あっ、わかった紫の隠し子だ!」
「八雲紫本人よ」
「やめて! 私のライバルが年齡気にしすぎたせいで、頭がおかしくなって歳を誤魔化し始めたなんて残酷な事実知りたくない!」
「人聞きが悪いわ! 変装よ変装!!!」
酷く狼狽える天子は落ち着いた後、改めてここで待っていた八雲紫に話しかけた。
「……でさ、二人で人里を歩くのに、なんでロリ姿?」
天子の目の前の紫は、その姿をいつもと違うものへと変化させていた。
具体的には背が小さい。あと胸も小さい。紫色のドレスを着た今日の紫は、あまり背の高くない天子よりも更に背丈が低い。
その癖まとった妖美な雰囲気はそのままだから酷くアンバランスで、幼さと成熟さのコントラストに眼がクラクラさせられる。
天子はこの姿の紫が現れて驚いたが、別段紫ほどの妖怪なら身体を変化させられてもおかしい話ではない、問題はその意図なわけで。
ボケで本来の年齡を忘れたのかと疑っていると、ロリ紫はフリルの付いたスカートを振り回して年端もいかない少女の姿を天子へ見せびらかした。
「前も言ったでしょう、私はあまり人里に干渉するべきではないと。この姿は変装よ」
「でも近くに居たからわからなかったけどさ、離れて見てみれば知り合いには即バレでしょそれ。三度見くらいしてわかるわ」
小さくなっているが髪の毛や顔立ち、特に全身にまとった妖美な雰囲気はそのままだ。
さっきの天子は紫の高身長を目印に高い位置を見渡していたから見過ごしていたが、子供には不釣り合いなこのオーラは、元の紫を知っていれば彼女だと気付くだろう。
「身分を隠してる、ということ自体が重要なの。慎重に行動しているというポーズよ。他の妖怪も、人里では同じようなことしてるもの」
「あー、そういうことね。しょうがないか」
とりあえず紫の気が狂ったわけではないと知り安心する。
天子は理解したようだが、納得しかねたように頬を指でかいて抑揚な声を出した。
驚いてもらった紫はさっきまで満足そうだったが、調子の変な天子を前にして、身体を傾けて下から覗き込んだ。
「あら、残念だったかしら?」
「残念っていうか、いつもの姿を隠してるのは見てて窮屈っていうか」
「ふふっ、私の心配をしてくれるなんて、殊勝になったものね」
もしや天子には気に入らなかったのかと心配した紫だったが、起因する感情が不安だと知り、却って愉快そうに笑みを零す。
自分の心を案じてくれていることは嬉しいが、それは杞憂というものだ。
「以前なら、大した用もないのにこうやって人里をうろつこうだなんて考えなかった。実際に地に足を着け歩いてるだけ自由にやってるわ」
「でもねー」
「でもじゃない」
お互いにのびのび過ごしたいと思っている天子が口を尖らすのを、紫は小さな指先を立てて封じ込めた。
言葉を引っ込めた天子に、紫は期待を瞳に込める。
「憂うより、私のこと楽しませてくれませんこと。素敵な天人さん?」
心配なら、なおのこと楽しくさせて欲しいと、わずかな挑発を含めた言葉を投げかける。
天子は不意を突かれて目を瞬かせると、すぐに得意げな顔をしてその期待に返してみせた。
「へへ、それもそうね」
例え窮屈で息が詰まっても、盛大に笑わしてやってその息を抜かせてやればいい。簡単な話だったと、我に返った気分だった。
「よっしじゃあ行くわよ!」
「ちょ、ま、天子、手!」
早速天子が紫の手を握って駆け出そうとするのを、慌てた紫が静止した。
「なによ?」
「いや、いきなり手を掴むから……」
そう言われてから、初めて天子は紫の手を握っていることに気がついた。
「あぁ、背がちっこいから、なんかつい取っちゃったわ。嫌だったら離すけど」
そう言って天子は手の力を緩め引き抜こうとしたが、そうする前に紫が手を握り返して引き止めてきた。
「嫌じゃ……ないわ」
わずかに頬を赤らめて、羞恥に肩をすくめた紫は目をそらしながらも言い切った。
細められた眼にチラリと視線を向けられて、天子は何故か胸がどきりとするのを感じた。
「そ、そっか……それじゃ行こっか」
「えぇ……」
いがみ合った相手と手を握り合い、奇妙な感覚に包まれた二人は、なんとなく二人だけでどこまでも歩いていたい気持ちになったが、今日のところは人と合う予定が詰まっていた。
二人がまずやってきたのは、人里の一角にあるお寺だ。
昔から人里にあるお寺で、幻想郷においては命蓮寺よりも古く、地元の人に慣れ親しまれた場所だ。
ここに来たのは、先日天子が知り合ったある少年に会うためだ。
紫の手を引く天子は、寺の門を潜り境内に足を踏み入れると、箒で落ち葉を掃いていた坊主の姿を見て声を上げた。
「おーい、源五郎ー。元気してた?」
「天人様! こんにちは、いらっしゃいませ」
天子に気付いた坊主は掃除を止め、急いで天子の元へと駆け寄っていた。
この坊主の名は源五郎、彼と天子は紫の差金で知り合った。
元々は問題を抱えた家庭環境の中で、愛猫を拠り所に耐えていた少年だったが、天子との出会いがきっかけで愛猫を失いつつも自立の道を選ぶ決意を持ち、自ら出家してこの寺に来たのだ。
源五郎は坊主にふさわしいツルツルした頭を陽射しで光らせて、天子にお辞儀した。
「わざわざお越しいただいて、ありがとうございます」
「良いのよ別に。それに私のことは天子って呼んでくれていいわ」
「そんな恐れ多い」
「良いって良いって、私なんて親の七光りで天人になったってだけなんだから。一人でもやろうってなったあんたのほうが立派よ」
源五郎のことが気になる天子は、こうやってちょくちょく様子を見に来ている。
天子に褒められた源五郎は照れ臭そうに苦笑していると、本堂の方から法衣を来た老齢の男性が現れて天子たちの前に歩み出て来た。
「こんにちは天人様。よくぞお越しくださいました」
「あぁ、住職さんこんにちは」
この寺の住職は、もう還暦に差し掛かった痩せ気味の老人だ。
しかしながら姿勢は真っすぐで、呼吸には少しの乱れもない。彼の内で循環する気は穏やかに巡っているのが天子にも感じ取れる。
「天人様、そちらの方はどなたですかな?」
住職が目を細めたのに天子は気付いた。
勘のいい御老体だ、それだけ聖職者として誠実に修業を重ねてきたのだろう。
そして、天子が握っていた紫の手が、わずかに強張るのが伝わってきた。
天子は軽く笑ってその手をもみほぐすよう力を込め、住職に軽くも芯のある声色で言葉を返した。
「こいつは私の友達、ただの少女よ。それで良い?」
「……そのようですね、人里に害せぬなら、ただの女の子でしょうとも」
元より幻想郷の人里では、他にも妖怪が人に紛れて闊歩しているのだ。住職は天子のことを信用していることもあり、それ以上は何も言わなかった。
紫もそんな住職の態度に合わせるように、微笑んだまま口をつぐんでいた。
「今日はどのようなご用件ですかな」
「こいつと一緒に遊ぶ約束してたからね、そのついでによ」
「左様ですか。改めてお礼をしたいと考えてましたが、長く引き止めないほうが良さそうですな」
「悪いわね、そのうちお願いするわ」
「源五郎を導いてくれたことに感謝しております。彼を後押ししてくれたこともそうですが、私も妻に先立たれてから跡継ぎがおらず困っておりましたので。源五郎が来てくれたことは正に仏様のお導き」
温かく受け入れられた源五郎は、住職の言葉を受けて気恥ずかしそうに苦笑いを浮かべた。
「渡りに船か、坊さんも難儀してるわね」
「特に近頃は命蓮寺が衆目を集めておりますからな、地元の寺は意識されなくなりつつあります」
「例の妖怪寺ね。あそこのトップとは顔を合わせたことがあるわ」
命蓮寺の実質的なトップである聖白蓮とは完全憑依異変の折に天子は顔を合わせている、話によると紫とも一悶着があったそうな。
人妖平等を掲げる命蓮寺は、幻想郷の新勢力として力をつけてきていると聞いている。
力を持った妖怪が跋扈する幻想郷には不似合いなようにも思うし、隣りにいる賢者のことを考えるとお似合いのようにも思える。
天子がそう考えていると、それまで黙って様子を見ていた紫が、突然口を開いた。
「時に住職さん、人里に元々いた坊主として、命蓮寺のことはどう映るかしら?」
「ゆか――」
「シッ」
咄嗟に名前を呼びかけた天子の唇を、紫が小さく細い指を伸ばして塞いだ。
住職は真意を推し量ろうと、妖しい少女を見つめていたが、紫が彼に向き直ってニッコリと笑いかけると、それを受けてぽつぽつと語り始めた。
「そうですね……時代の移り目かな、と感じます」
その言葉に、天子は幻想郷の歴史を振り返る。
後から知った程度の話だが、幻想郷と呼ばれていたこの地に妖怪たちが集まり、現実と幻想を隔てる博麗大結界が作られ、今の状況になるまで血なまぐさい戦もあったらしい。
きっと妖怪の賢者である紫も、裏で奮闘したことだろう。
そうした犠牲と努力の末、平穏になった世界で変わるものとはなんだろうか。
「近頃、幻想郷は何かと異変が起き、情勢が変わりつつある。元々は妖怪などの間だけでの話でしたが、段々と保護されている人里にもその影響が出始めている。特に件の命蓮寺や、山の上の神社、それに仙人などは積極的に信仰を得ようとしております」
「時代の変化ですね、歓迎すべきことでしょうか」
「難しいことです。恐れを知らずに言わせてもらえば、幻想郷そのものが妖怪と人間の共依存のもとに組み立てられている。歴史上、このような形態の国はありませんでしたから、過去から学ぶことも難しい。しかしながら、変化自体は受け入れるべきことかと存じます」
問いかけに指摘を返されても、紫は涼しい顔だ。
住職は構わず話を続ける。
「停滞すれば衰退し、滅び行くのみ。流れる水は腐らずとも言いますし、それを無理に堰き止めようとすればそれこそ災いの元となりましょう。重要なのは、その変化の行先を見極めて、道を踏み外さないように気を付けることです」
「ならば、どういった道こそが幻想郷のためになると考えますか?」
「……近年では、人間と妖怪の距離が縮まりつつあります。急激な接近は危険ですが、今のところは一部同士が混じり合っている程度。ならばこれを止めず、人間と妖怪、そして超人や神々も含めた交わりの中で、新たな可能性を探ることが、幻想郷全体の益になると考えます」
「それは、共存ということでしょうか?」
「そう受け取っていただいてよろしいかもしれません。あるいは共存という概念すら捨てて、当然のごとく寄り合う可能性もあるかもしれません。そう、今しがた感じました」
住職の目は、天子と、その隣の紫とを並べて捉えていた。
紫はやんわりと、見かけの年齡に似合わないほど穏やかに微笑み、軽く会釈した。
「……そう、ありがとう。とても興味深い意見でしたわ」
「私などの言葉が、何かに響いたなら幸いです」
話し終えた住職がチラリと源五郎に目をやると、まだ歳幼い彼に難しい話は慣れないのか、少し退屈そうに呆けていた。
住職は苦笑すると、改めて天子に頭を下げる。
「天人様、私はしばらく散歩をして参ります。お連れの方とともにご自由にしていて下さい」
「ありがとう、お気遣いに感謝するわ」
「いえいえ、とんでもない。源五郎、失礼のないようにな」
「あ、はい、もちろんです」
住職はそれだけ言い残すと、寺の門をくぐって天子たちの前から去った。
その背中を見送って天子がポツリと零す。
「良い住職だわ、あんたの心配はしなくて大丈夫ね」
「はい、突然の出家を受け入れてくれましたし、とても優しい方で尊敬しています」
「それにしても……」
天子は源五郎に顔を向けると、眉間にシワを寄せじっと見つめた。
その視線の先は源五郎本人でなく、ピカピカに光った彼の頭頂部。
出家にあたって綺麗さっぱり剃られた頭を見て、天子はシワをほぐすと面白そうに声を上げて笑った。
「あははははは、いやー見事なつるっぱげね~。触ってみていい?」
「い、嫌ですよ天子様。まだこの頭、恥ずかしいんですから」
「あはは、冗談よ、半分は。あんたならすぐにその頭が似合う、カッコいい大人になれるわ、精進なさい」
源五郎は恥ずかしそうに頭を手で押さえながらも、カッコいいなどと言われては満更でもないらしい。
しかし恥ずかしいことには変わりがないようで、話を逸らそうと天子の隣りにいる少女に目をやった。
「ところで、天子様。そちらの子は……」
「うふふ、私が誰だかわからないかしら?」
そう言うと紫は天子の手を離してふらりと後ろに倒れ込むと、瞬時に開いた亜空間へのスキマへと入り込んで影も形も消してしまった。
あっという間の神隠しに源五郎が驚いて目を剥いていると、彼の背後に新たなスキマが開き、そこからいつもどおりの胡散臭い美女の姿で紫が現れ、源五郎の顎に背後から手を回した。
「この前はせっかく助けて差し上げましたのに」
「うわああ!?」
驚いて飛び上がった源五郎は、咄嗟に飛び出して天子の背中に逃げ込んだ。
女にすがって様子を見てくる少年に、紫は喉を鳴らして満足げな笑いを漏らすと、またスキマに飲み込まれ、再び可憐な少女の姿で躍り出る。
自在に姿を変じるヒトガタを見て、源五郎は上ずった声で叫ぶ。
「な、なんですかこの人!?」
「紫、あんまり脅かしちゃ駄目だってば」
「あらあら、天子に怒られるなんて私も落ち目かしらね」
「どういう意味よコラ」
天子が睨み付けても、案の定、紫は涼しい顔で受け流す。
「て、天人様!? この人は……」
「私の友達で、妖怪よ」
「これで会うのは三度目ですね。八雲紫と申しますわ」
スカートをつまんで丁寧にお辞儀する紫に、源五郎は大層驚いている様子だったが、かつて天子が自分の母親に剣を振り上げた時、止めに入った人物が紫であることはなんとか飲み込めた。
だがどちらにせよ衝撃は大きい。人里の住人のほとんどにとって妖怪は恐るべき存在であり、里という安全地帯には容易に入ってこないと思い込んでいるからだ。
「よ、妖怪!? 人里に……」
「あー、こいつのことは内緒にしてて、バレたら色々とまずいから。まあこいつは厄介だけど里の人間には安全なほうよ」
少年の驚きはもっともだが、天子は騒ぎにならないよう誤魔化すよう笑って煙に巻く。
こういうのは自分より紫のほうが得意なのになと思いながら、源五郎から離れて紫の傍に付くと、紫の小さな背中を叩いて改めて紹介した。
「私と源五郎を引き合わせてくれたのもこいつなのよ。あんたの母親を助けたこともあるし、そこら辺、感謝しときなさい」
「は、はあ、ありがとうございます。妖怪なのに気を使っていただいて……?」
「感謝される謂れはありませんよ。どす黒く濁った家庭を目の当たりにした天子が苦悩するさまを愉しみたいだけでしたから」
「素直じゃないわねー、こいつ」
どうせ源五郎の家庭のことで気を揉んでいたであろうに、つれない態度を取る紫に天子は頬をニヤつかせた。
そこで天子は両手を構えると、紫の両脇に差し込んで指をワシャワシャと動かして敏感な場所をくすぐった。
「そんなひねくれ者にはこうよ!」
「うひゃっ!? ちょっと、天子、止めなさいはしたなひゃひゃひゃ!」
あられもない声を上げる紫を面白がって、天子は更に身体を寄せて本格的にくすぐりにかかる。
気心の知れた仲だからこそできる光景を見て、源五郎はぽかんと口を開けて呆気にとられていた。
「逃さないわよー。賢しいことばかり言ってないで、正直に白状しちゃいなさい。このー!」
「あひゃひゃ! べ、別に隠し事なんてしてにゃんかひゃあ!」
天人と妖怪が仲良さそうに笑い声を上げる奇妙な光景に、源五郎もやがて釣られて口角を上げる。
相反するはずの二人なのに、なんて楽しそうなんだと、おかしな関係に思わず声を上げて笑った。
「ぷっ……ははははは!」
しばらくの間、寺の境内に楽しそうな声が響くのだった。
◇ ◆ ◇
「はい、こちらお団子とお饅頭です」
「ありがとねー」
「ごゆっくりどうぞ」
にこやかなスマイルを浮かべた店員が、お盆を手に去っていく。
二人は寺でひとしきりじゃれ合った後、源五郎に別れを告げて、手をつないで甘味処までやってきた。
店先に設置された長椅子に腰を下ろしてお団子やまんじゅうを頼んで甘味を楽しんでいるが、紫は団子を頬張った頬を膨らませ、不機嫌そうに眉を寄せていた。
「まったく、天子のせいでとんだ恥さらしだったわ」
「あんたが素直に、源五郎を助けられて良かったって言わなかったからでしょ」
「私は助けてなんていません。あの子が自分で助かっただけです」
「どっちにしろ嬉しいのは同じくせに」
幻想郷の住人一人ひとりに気を配っているのが紫だ、源五郎が勇気を出して出家したことで天子以上に喜んだことだろう。
とは言えだからこそ恥ずかしくもあり、紫はそっぽを向くばかりだった。
「ふんだ」
「ごめんごめん、まんじゅうあげるから許してって」
顔を背けた紫が目を向けると、笑った天子がまんじゅうを一つ摘んで差し出していた。
「はい、あーん」
紫は一度周囲に警戒を配り、知り合いがいないことを確認すると、恐る恐るといった様子でまんじゅうへと口を開く。
「あー……ん」
柔らかな生地に歯を立てた瞬間、差し出してくれた天子の手がまんじゅうを支えている力を一瞬だけ感じる。
こうやって、人から食べさせてもらう感触は不思議なものだ。
天子に食べさせてもらったまんじゅうは、存外に甘く、美味しかった。
「どう、機嫌治った?」
「……まあ少しは」
「良かった、あんた甘いの好きなのね」
安心した天子がまた笑うのに、紫はちょっとだけ寂しくなって唇をすぼめた。
あなたがくれたものだから美味しいのにと、わかってもらえないのが少し悔しい。
言えば済むことだけれど、人に好意を伝えることに慣れない紫にはどうにも難しかった。
「そうじゃないのに」
「へっ?」
「何でもありませんよ」
でもまあそれもいい、こうやって一喜一憂を表現できるだけで紫には幸せだ。
普段の紫なら、何か思うところがあってもあれやこれやと言葉を並べ、うろんな仕草で煙に巻いて心を隠してしまう、そういうサガだ。
だが天子が隣りにいる時は、自然と気持ちが表に出てきてくれるし、天子もそれを受け止めてくれる。
その奥のさらなる本心までは中々言い出せないのはもどかしくもあったが、今まで味わったことのないこの青春のような距離感は心地よかった。
気持ちを切り替えた紫は表情を明るくすると、天子が手に持っていたまんじゅうをひったくり、更には皿からもう一つまんじゅうを掠め取って食いついた。
「あっ、コラ二つもはナシでしょ!?」
「賢者的には食べたい気分だったのよ」
「だったらあんたのお団子寄越しなさいー」
「イーヤーよー」
甘味の奪い合いが勃発し、気軽にじゃれ合う二人の姿は、端から見ても微笑ましいものだった。
その光景に、通りがかった黒衣の人物が足を止める。
「あら、あなたたちは……」
団子の皿を取り合っていた紫と天子が声に気づいて顔を向けると、そこにいたのは命蓮寺の聖白蓮と、尸解仙の豊聡耳神子の二人だった。
「あっ、いつかの僧侶と仙人」
「いつかの天人ではないか。こんなところで何をしておる」
「見て分かんないの? 友達と甘いの食べてるのよ」
「友達な……」
神子はあからさまな意味を込めて呟き、天子の隣で団子とまんじゅうを楽しむ紫を見据える。
天子がすぐに気付けなかったのは普段との身長差からだ、ちゃんと意識して視界におけば紫の持つ特異な妖美さを間違えるはずがない。
「はて、ただの友達にしては些か風変わりであるな」
「ふん、何言ってるのよ、こいつはただの女の子よ」
「そう、その通り」
冷たい視線を浴びせられる紫は低い声で答えると、短い足を振って長椅子から降りて天子の前に出る。
そして左手を腰に当て、ピースサインを作った右手を目元で横向きで添えて、バッチリポーズを決めるとキャピキャピした甲高い声を上げた。
「わたし美少女ゆかりんっ、今年でピッチピチの九歳になります! よろしくねっ!」
冷たい風が通りを吹き抜ける、聖と神子は見てはいけない物を見てしまったかのような青い顔をして呆然としている。
紛れもなくドン引きであった。
「お、おう、そうか悪かった……」
「ゆかりんって呼んでね!」
「わかった、わかったから気色悪い声を止めてくれ」
「プッ、ク、アハハハハ! 九歳ってアンタ鯖読みすぎでしょー!」
「フンッ!」
「グハァ!?」
笑う天子の鳩尾に、紫の振り向きざまの正拳がめり込んだ。
轟沈した天子は痛む身体を押さえてピクピクと痙攣していたが、すぐに立ち上がって中指を立てて紫へ詰め寄る。
「オイコラババア、里の外まで出ろ。もっぺんその顔ボコボコに変えてやるわよ」
「いつまで経っても失礼なガキね、年上への礼儀というものを叩き込んであげましょうか」
「何なのだこいつら……」
仲よさげかと思えばあっさり敵意をぶつけ合う二人に神子は呆れている様子だが、聖はむしろ関心するようにじゃれあい見つめていた。
以前の完全憑依異変の折に、聖は神子とタッグを組んで異変解決に臨んだが、紫に利用され黒幕の情報を探るための当て馬となった。
そのためかの妖怪のことを油断ならぬ相手として警戒していたのだが、天子と睨み合う今の紫は、以前とは違った雰囲気に感じられた。
そして天子もそうだ、彼女とも戦ったことはあるが、その時よりも感情を表しながらもどこか穏やかさがある。
変化した二人の様子に聖はやがて意を決すると、声を掛け歩み出た。
「お二人とも、お隣よろしいですか?」
「へっ? まぁいいけど」
了承を得て席に着く聖を見て、神子も「ふむ……」と唸り思案すると、続いて椅子に腰掛けた。
「では私も同席しようか」
「しょうがないわね。紫、決着は後よ」
「はいはい、あと今の私はゆかりんね」
「あんたそれで通す気か……」
「店員さん、注文よろしいですか? 私はお饅頭を二つ」
「団子を三つ頼む」
「私らも追加、饅頭と団子三つずつ!」
「よく食べるわね」
「あんたが私のまで手を出すからでしょーが」
気のいい店員さんに追加注文を持ってきてもらう。
左側から神子、聖、紫、天子と並んだ四人は、甘味を味わいながら言葉を交わし始めた。
「お二人はどうして人里へ?」
「ただ遊んでるだけよ、ついでに知り合いの顔も見ときたかったしね」
「知り合いか、天人と妖怪が民と繋がりがあるとはな」
「ゆかりんですっ!!」
「わ、わかったから……」
しつこくロリっ娘アピールするゆかりんに神子はタジタジになりながらも、身を乗り出して天子に顔を向ける。
「ところで天人よ。どうすれば我も天界へと上がれるのだ」
「そんなの空飛んで雲超えればすぐよ」
「そうではない、天界に認められ天人になる方法を聞いているのだ」
神子のような仙人にとって、天人とは目指すべき到達点と言っていい、正に天上の存在だ。
しかし天界の実態は下界で言われているような世界ではないと、身をもって知っている天子は団子を口に入れながらつまらなそうに言葉を返す。
「無理よ、天界なんてとっくの昔に硬直しきってる。身内で馴れ合ってて、今更余所者が入りたいって言ったって追っ払われるだけよ」
「何だそれは、すべての天人がそういうわけではあるまい」
「全員よ。どいつもこいつも、安全な縄張りで贅沢することしか考えてない。あんなとこ行ったって、どんな聖人だろうと腐るだけよ」
「まさか、本当に……? お前が馴染めていないだけじゃないのか」
「失礼ね、あんな場所に馴染んだらそれこそおしまいよ」
冷たい返答に神子がショックを受け押し黙ってしまうのを見て、天子は無理も無いなとため息をついた。
天子とて天人という存在に尊敬を持ち、理想を目指したこともある。その理想を裏切られる気持ちはわかりすぎるほどだった。
「嘆かわしい、天上に至った者たちがそんな云われようとは」
「地に足つけて生きることね。それに鶏口となるも牛後となるなかれとも言う、天界に行ったらどんな才能があろうと埋まるだけ、弟子も居るんだしこっちで頑張んなさい」
天子が見たところ、神子とて地上ではかなりの傑物だ。仙人の中で一番ランクの低い尸解仙でありながら仲間を束ね、またたく間に地上の勢力として頭角を現したと聞いている。
天界に上がらずとも、せめて地上で人のためにその力を振るえばいいと、天子なりの慈悲だった。
まんじゅうを齧りながら苛立ちを抑えきれない神子の様子に、聖は困った顔をしていたが、彼女なら自分の問題は自分で解決できるだろうと思い、別の話を始めた。
「それにしても、お二人は仲良しだったのですね。風の噂であなた方は犬猿の仲だと聞き及んでおりましたが」
素朴な疑問に紫と天子は目を丸くし、お互いに見つめ合うと、突如として笑いあった。
ちょっと前までは聖の言う通り険悪な関係だったのに、今はこうして肩を並べているギャップが面白くて、冗談めかして口を開く。
「ははは、悪いも悪い、こいつとは殺し合うくらい最悪よ」
「まったくもっていけ好かない小娘だと常々思っておりますわ」
しかし何も嘘は言っていない、それなのに仲良くしていられる、奇妙なほど深く混じり合った関係だった。
一見しただけでは二人の絆がどこにあるかわからず、不思議そうな顔をする聖と神子に向かって、今度は紫が口を開く。
「そういうあなたたちこそ、商売敵なのに随分と仲がよろしいこと。先日の異変でも一緒だったではありませんか」
「敵同士だからこそ使い道というのがある。少し煽ってやれば私の前にある小石まで拾ってくれるありがたいやつさ」
「御仏は邪教の信者すら掌で救い上げてくださるもの。競争相手というだけで、慈愛を分けてはならない理由にはなりません」
それぞれ別の思惑で手を結んでいるようだが、恐らくそれだけではあるまい、と天子は考えた。
少し見ただけでもこの二人の宗教家の間には確かな信頼がある、仏教徒の妖怪と道教の仙人となれば、本来ならその垣根は深いはずだ。
それなのに、この幻想郷においては一緒に居られる。
「あるいは共存という概念すら捨てて、か」
「どういう意味ですか?」
「独り言よ気にしないで」
先ほど、紫が住職から引き出した答えに納得した気持ちだった。
聖は気になったが追求を止めて別の話を始めた。
「……天人様も、そちらの妖怪も、異変の際にお会いした時とはまるで別人ですね」
「まあこいつはまるっきり姿かえてるもんねー」
「いへん? なんのこと? ゆかりん難しいことわかんなーい、キャハッ!」
「そ、それも含めてですね」
「あんたそのブリッ子ハマってきてるな」
「いっそアイドルデビューでもしてみようかしら」
「やめい」
ゆかりんが両手に作ったピースサインをいかに可愛く配置するか練習しだすのを見て、聖は苦笑しながらも言葉を続ける。
「ゆかり……んさん、あなたのことは信用ならないと思いましたし、その考えは今も変わりませんが、案外普通の友人としてなら付き合えそうですね」
「あら、あらあらあら」
そう言われた紫は、解いた手を膝の上に置き、大層驚いた様子で目をまあるく開かせた。
わずかに呆然としたあと、やんわり嬉しそうに表情を緩め、口元を指先で隠しながら微笑を零した。
「……ふふ、嬉しいお誘いですわ。けれど足元を掬われないよう、お気をつけくださいね」
「もちろんです。ですので気兼ねなくお寺に遊びに来て下さい」
紫からの牽制するような言葉にも、聖は快く受け止めてみせた。
新しい交友関係が芽生えるのを天子が眺めていると、聖の向こうから神子が顔をのぞかせて天子に話しかけてきた。
「天子と言ったか。以前よりかはマシな面構えになったようだな」
「当然よ、日々是精進、私は常に高みを目指している。今日という日をより楽しめるようにね」
「ふむ、ならば我らが神霊廟に来るといい。特別に食客としてもてなそうぞ」
「お断り、私にはもう住む場所が決まってる。それに仙人程度に下るほど落ちぶれちゃいないわ」
あれだけ偉そうなのに益と見るやすぐに勧誘とは、地上の聖人も中々逞しいなと天子は内心感心した。
しかしながら天子にも自分の生活がある。妖怪と小人と貧乏神と、滅茶苦茶な種族が集まった雑多な家を捨てる気はない。
「とは言うが、お前も私と聖のタッグには敵わなかったがな」
「あれは完全憑依して間もなかったからね。有利な条件で勝った程度で、鬼の首を取ったように誇るのは滑稽だね」
「ほう、ならばあの時の再戦と行くか? 今はもう完全憑依はできなくなっているが」
「ククク、いいわよ。あの時と同じであんたら二人で来ればいい、その代わり」
再戦の機会と見るや目を光らせた天子は、紫の背中を叩いて声を張り上げた。
「私はこの紫と組む!」
「知らないわ、勝手にやっててちょうだい」
「ちょおーい!?」
紫と一緒なら100%無敵だと踏んでいた天子が、釣れない態度の紫に信じられないと叫んだ。
「なんでよ!? 戦いなさいよ、ノリ悪いわね!」
「このままノコノコ戦っちゃ変装した意味ないでしょうがバカちんが。私は見物させてもらいます」
「さて聖、天人殿は私たち二人を相手に余裕だそうだが」
「そうですね、甘く見られるわけにも行きませんし、全力でのしてしまいましょう」
「あっ、卑怯よあんたら二人がかりで! せめて人里の外で、じゃないと私の場合、被害大きすぎて本気出せないし!」
「問答無用!」
聖までやる気を出してきたのに天子が焦るが、椅子から飛び降りた神子が天子の胸元を掴み上げて上空へと引き上げてしまった。
往来で決闘が始まったと見るや、野次馬根性の強い里人がすぐに気付いて集まってきた。
「また決闘だぞ。面白そうだ、見ていこうぜ」
「ありゃ妖怪の僧侶と仙人か、向かいのは誰だっけ、最近よく見るらしいが」
「おーい、こっちだ! 早く来いって、見ものだぞー!」
慌ただしくなる雑踏の後ろで、紫は団子を齧りながら空を見上げて毒づいた。
「……もう、喧嘩を売れるなら誰でも良いのかしら」
紫のボヤキが喧騒に消えて行った。
◇ ◆ ◇
完全憑依異変を引き起こした疫病神の依神女苑だが、今は姉と離れ、人里の家に一人暮らしを始めていた。一部屋しかない小さな家だ、心機一転でやり直すにはこの手狭さがちょうどいいと女苑は思っている。
日が出てる内に、散歩兼これから取り付く人間の下見をしてきた女苑は、家に帰ってきて扉を開くと、玄関にまだ見慣れない赤いスニーカーがあるのが目に入った。
視線を上に向けると、姉である紫苑が畳の上に寝転がったが手を上げた。
「やっほ」
「あっ、姉さん来てたんだ」
「うん」
女苑は靴を脱いで家に上がると、高級コートを脱いでシワがつかないように畳んでから、部屋の隅に放り込んだ。身軽になって畳の上に腰を落ち着けると、紫苑も起き上がり膝を抱えて座った。
紫苑の隣には、持ってきたらしい鞄が置いてある。この姉が余計な荷物を持つこと自体が今までを考えると珍しい。
「今日はどうしたの?」
「天子が紫と出かけて、しばらく帰ってこないから」
「そっか、他のやつ不運にするから追い出されたか」
女苑が姉の不幸を誤魔化すようにケラケラ笑う。
しかし紫苑から帰ってきた答えは、女苑の推測とは違っていた。
「いや、自分で出てきたの。天子がいなかったらヤバイかもって言ってないし」
「へえー、そうなんだ」
女苑は少し驚いてしまい、目をしばたかせ押し黙った。
姉妹で一緒に居た頃の紫苑は、もっと自己中心的で回りへ配慮するような性格ではなかったのに。
いつも無気力で、人のことまで心配するような心のゆとりがなかった姉が、自発的に行動したのを見て女苑は不思議な気持ちになった。
「姉さんもちょっと変わったわね」
「女苑のほうが変わったよ」
「私と比べることないんじゃない?」
姉に変わったと言われるのは嬉しいが、そうやって自分を卑下されると面白くなく、女苑は不機嫌そうに眉を寄せる。
普通ならこの時点で自分の失言を疑いそうなものだが、こういう反応に慣れすぎていた紫苑は気にせず言葉を飛ばした。
「女苑は上手くやってる?」
「まあボチボチ」
「そっか」
短い返答に、紫苑はほぼ反射的に相槌を打つ。数秒遅れで思考が追いついて、ようやく首を傾げて女苑に問い質した。
「……女苑、ホントに上手くやれてるの?」
「だからやれてるって、何なのその粘っこい視線は」
「お寺で修行してから心を入れ替えたみたいなこと言ってたけど、それで生きられるのかなって」
元々、疫病神と貧乏神という誰からも疎まれる存在である二人だ、にもかかわらず女苑は一度命蓮寺で節制した生活を送ったことで、今までにない慎ましい生活を始めようと決心した。
その心変わりだけでも紫苑はすごいと思っているが、だからといってこれまで人の不幸を利用してきた自分たちが、いまさら生き方を変えることが出来るのか疑問だったのだ。
「ほら、私たちの力なんて人を不幸にすることばっかりじゃない」
「そうでもないわよ、最近そこら辺わかってきた気がするんだ」
女苑は得意げに口端を吊り上げると、得意げに講釈を述べ始めた。
「私の能力ってさ、要はお金を使わせる力じゃん。でさ、お金の流れと運って言うのが比例してるってわかってきたのよ」
「うん? お金を使えば運が良くなるってこと?」
「近いけど、ちょっと違うわね。身の丈にあったお金の使い方なら良い方に転ぶってこと」
そもそもお金が寄り付かない性質の紫苑には未知の話で分かりづらかったが、必死に妹の話を聞こうとした。
「今の私が狙ってるのはね、ちょっとだけ遊ぶお金はある、でも不安が先に立ってお金を使うことが出来ない人。こういうやつって、お金を守るために思考も行動も保守的になって、何もできなくなっちゃうのよね。でも実際にはお金って働かないと手に入らないじゃん、そこを私の能力で突っつくのよ」
紫苑にもなんとか理屈はわかる。
「お金は使ったら、そのぶん稼がなくっちゃって思うようになる。保守的な人間からお金を使わせてやると、やる気になってかえってお金が入ってきたり、そうじゃなくても普段の生活態度が良くなったりするみたいなのよ。だから私は、そういうやつらが気持ちよくなれるようお金を使わせてやって、そのおこぼれを頂いてるってわけよ」
「へえー、そういう力の使い方が……」
「水でも金でも何でも、流れが止まると濁って運がなくなるからさ、それを吐き出させるようにすると、私も得しながら誰も不幸にならないってわけ」
「ほえー……」
「むしろ社会のお金の流れを整えることで貧富の差も縮まってみんなハッピー! あはははは、そのうち疫病神から福の神に転職できたりして!」
「すごい、すごいわ女苑!」
紫苑は半分くらい理解が追いつかなかったが、女苑なりに周りに迷惑にならない、むしろ世のため人のためになる生き方を模索していることが十分伝わってきた。
思わず興奮して自分のことのように目を輝かせる紫苑に、女苑は照れ臭そうに頭をかく。
しかしすぐに紫苑は気を落として、視線を落としてぺたんと畳に打ち付けた。
「……すごいなぁ、女苑は。私なんて天人様にべったりしてるだけ」
「……なにさ、そんなふうにすぐ卑屈ぶるのは姉さんの悪い癖だよ」
この紫苑の癖が、昔から女苑にとっては目障りだった。
気分を盛り下げられ、へそを曲げた女苑が言い返す。
「あんな金も運もあるやつの舎弟になれてるんだ、私よりもよっぽど成功してるじゃない」
「舎弟って……でもまぁ、近いかもねぇ……」
小さなあばら家に住まう女苑に対して、紫苑は天子に引っ付いていったお陰で、輝針城と言う名の妙ちきりんだが立派な城に住まわせてもらってるのだ。
周りから見れば紫苑のほうが上手く生活している風に見えるかも知れない。
しかし紫苑にはそうは思わなかった、所詮自分は天子の力で住まわせてもらってるだけ。例え小さくても自力でこの家を構えている女苑のほうが立派に思っていた
「女苑は変わって、それはすごく良いことだけど、私は変わってなんてなくて、なんか置いてけぼりにされた気がするのよね。だからって、女苑みたいに新しい生き方を考えてみても思い浮かばないし」
「姉さん……」
ネガティブな紫苑にとうとう女苑まで気が滅入り始める。
紫苑はそこにきて、ようやく自分の発言が妹を落ち込ませていると気付き、慌てて首を振った。
「ごめんね、女苑は頑張ってるのに盛り下げること言って」
「……そうよ、私はこれからだって言うのに、勝手に落ち込んでやる気なくなるようなこと言って」
「うぐっ」
容赦なく言葉のボディーブローが浴びせられ、紫苑は苦しそうに胸を押さえる。
相変わらず言われっぱなしの脆い姉に、女苑はやれやれと首をすくめると、暗さを打ち消すように高らかな声を響かせた。
「でもまぁ、姉さんはほっといたらすぐダメになっちゃうやつだからさ、一人で落ちぶられても迷惑だし、こうやって愚痴られる方がマシよ」
「女苑……もしかして慰めてくれてる?」
「う、うるさい」
しかしこの返しは予想外だったので、女苑はすぐ恥ずかしがった。前までの姉なら、慰めにも気付かずグチグチうるさいはずだったのに。
ペースを乱され、改めて女苑から話題が切り出された。
「ところで今晩はウチで食べるんだよね? どこ食べに行こっか」
「あっ、それなら私が作るわ」
「……姉さんが? 自分から?」
「最近はお城で順番にご飯作ってるのよ、新しく覚えたのあるから作ってあげようって思って」
そう言って紫苑が自分の鞄を、中から取り出したのは一升瓶の醤油。
「にへへ、みんなにお願いして調味料持ってきちゃった」
今まで見たことなかった紫苑の笑顔が、女苑の胸に刺さる。
別に醤油くらいは家にあるし、そんな空回りが姉らしいが、自分から重たい荷物を持ってきてまで笑顔を届けてきたことが、女苑にとっては特大の衝撃だった。
無気力で、自己中で、周りに流されて言うこと聞くばかりだった姉が、今は自分の意志でやりたいことをやっている。
女苑は寂しい半面、そんな姉が誇らしかった。
「変わったね、姉さん」
「へっ?」
◇ ◆ ◇
人里の往来で行われた二対一の戦いは、やはりというか天子の負けで終わった。
しかしながら、天子は常に要石を周囲に浮かばせることで挟み撃ちされても要石の盾として使い、幾度も攻撃をしのいでかなり善戦したのだ。ギャラリーの里人も大盛り上がりであったし、宗教家たちも天人恐るべしと天子を評価したことだろう。
とは言え負けは負けである、天子はゆかりんに手を引かれながら、重い頭を項垂れていた。
「あー、負けた~。悔しぃー……」
「自業自得よ、無鉄砲を反省なさいな」
「あーあ、紫が協力してくれたら楽勝だったのになぁ」
「はいはい、そのうちリベンジさせてあげるから、元気出しなさい」
天子の落ち込みようを見て、少し意地悪しすぎたかなと紫はちょっぴり反省していた。
だが人里で大見栄張って戦うわけにも行かないし、やはりその辺を考慮せず突っ走った天子の自業自得かもしれない。
「それより、あなたの仕事場が見えてきたわよ、シャッキリなさい」
「ん。そうね、ずっと腐ってちゃつまんないわ」
遊ぶ約束をしていた天子と紫だが、今日はずっと二人きりというわけではなかった。
次に二人が向かったのは、人里の大通りから少し離れたところにある場所だった。
民家に囲まれた中に一際大きな建物があり、その前では羽衣をゆらゆらさせている衣玖が二人のことを待っていた。
「お二人とも、こちらですよ」
天子と紫に気付いた衣玖が、手を上げて呼び寄せる。
「やっほー、衣玖さっきぶり」
「お久しぶりです、変わり無いようでなによりですわ」
「紫さんは随分と変わられたようで」
「人里ですから、変装みたいなものですよ」
挨拶もそこそこに、天子は大きな建物――稽古場を見やった。
「へえー、道場使ってやってるんだ」
「普段は剣道に使われていますが、週一でダンス教室に貸してもらってるんですよ」
今日は衣玖がバイトをしているダンス教室に、特別講師として天人たる天子が招かれたのだ。
仕事を引き受けてくれた天子に、衣玖が改めて頭を下げる。
「今日はお越しくださってありがとうございます」
「まあ同居人のよしみ、ちょっとくらいは贔屓してあげないとね」
「でも良かったんですか、せっかく二人で遊ぶ日だったのに」
「いいのいいの、紫とはいつでも会えるんだし」
「天子様は能天気なのでいいですが……」
「どういう意味よ?」
衣玖は少し申し訳なさそうに、天子の隣に立つ紫に視線を配る。
しかし紫はにっこりと笑い、衣玖の心配を払った。
「私としても構いませんわ、この教室については気になることもございましたし」
「……そうですか。しかし授業中は」
「心配しなくとも大丈夫ですよ。ただ様子を直に見てみたいだけです」
意味深げな会話をする二人に、天子は首を傾げる。どうやら天子が知らないことがあるようだが。
「何の話してるの?」
「見れば分かるわ。ただし、彼女は無害だからそっとしておくように」
疎外感を感じて少し口を尖らせる天子だったが、まあわからないものは楽しみにしようと気を取り直すことにした。
衣玖に案内される形で天子と紫は敷居をまたぎ、靴を脱ぐと道場に上がり込む。
すでに中には生徒や講師たちが集まっており、衣玖は軽く会釈しながら他の講師たちに話しかけた。
「おはようございます、例の人をお連れしましたよ」
「あら衣玖さん! おはようございます、頼んで下さってありがとうね」
初老に差し掛かったおばさま方がゲストを迎え入れる。
衣玖の後ろから続きながら、天子の注意はある一点に注がれていた。
「ははーん、なるほど……」
天子は道場でまばらに散った生徒たちを眺め、後ろの方にいる、ある生徒に注目した。
その生徒は一見すると何でもないただの町娘だ、肩まで伸ばした艶のある黒髪は綺麗に整えられていて、浮かべる笑みは柔らかく品がある。身にまとった淡い桜色の着物はそこそこ良い品だが、それが彼女の雰囲気によく似合っていた。
他の生徒と仲良さそうに談笑しているが、皮一枚隔てた向こう側から人間とは違う気質が感じ取れる。
陰から生まれた者共の暗い力。人里の人間に混じって、妖怪がダンス教室にやってきているのだ。
そのことを天子が見定めていると、不意に紫が手を握ってきた。
「天子」
「はいはい、わかってるわよ。無害無害」
衣玖然り、紫然り、天子の周りにも人里に入ってきている妖怪はいるのだ、暴れてるわけでもないなら今更騒ぐことでもない。
天子が他の講師たちと軽く自己紹介を済ませると、講師たちの中でもまとめ役らしいらしい中年の女性が手を叩き、雑談していた生徒を集めた。
整列する生徒たちの前で、天子が他の講師たちと並んで立って紹介を受ける。紫もその隣にいた。
「今日は衣玖さんが特別ゲストを連れてきて下さいました。天子さん、お願いします」
「天人の比那名居天子よ、今日は特別に私自ら舞いを見せてあげるわ。隣のは連れの……」
「天子お姉ちゃんの付き添いのゆかりんです! 今日は見学に来ましたぁ!」
「ブッフォ!?」
油断していた衣玖が腹筋にウィンクをばちこーんと撃ち込まれ、生徒たちの前で盛大に吹き出していた。
肩を震わせ必死に笑いを押さえる衣玖に、他の講師が心配して声を掛けた。
「どうしたんですか衣玖さん?」
「な……何でもな……ひ、酷い不意打ちを……」
「てへっ☆」
惨劇に見舞われた衣玖に天子は苦笑いを浮かべると、咳払いをして仕切り直した。
「それじゃあまずは私の舞いを見なさい。あなた達が習ってる踊りとは根本から違うから、技術とかそういうのを学ぶつもりで観る必要はないわ。心をまっさらにして感受性を高めなさい、舞いに込められた本質を掴むのよ。衣玖、来なさい」
「私ですか?」
「舞うにもパートナーがいたほうが盛り上がるでしょ」
「そうかもしれませんが……」
衣玖はそっと天子の隣を覗き見る、奥にいるのは当然ながら紫だ。
ジェラシーが漏れ出しまるで紫色のオーラが漲っているようにすら感じる、怨念がこもった暗い視線が衣玖に突き刺さった。
「こわい」
「なに?」
「いえ、謹んでお受けいたします」
断っても天子は聞かないだろうし衣玖は受けることにした。どうせ後で八つ当たりを受けるのは天子本人であるだろう、朴念仁には存分に苦しんでもらえばいい。
嫉妬をビシバシ感じながら衣玖は天子の前へと歩み出た。邪魔にならないように他の講師や紫は退き、生徒たちの前で天子と衣玖が向き合う。
「演目はどうします?」
「即興。大陸の型を本格的に教えるわけじゃないんだし、そっちの方が良いでしょ。できないとは言わせないわよ」
「やれやれ期待が重いですね」
二人の話を聞いていた生徒の一人が、手を上げて天子に尋ねた。
「即興で踊りを作れたりするものなんですか?」
「大陸の古典舞踏は意を以って行うものだからね。つまりは胸の内の本心を、全身の一挙一動を通じて表現するの。極まればその場のアドリブで合わせるくらいはできるわ」
「単なるリズムやステップだけでなく、表情や呼吸まで含めての舞いですから難易度は高いですがね。広い世界にはこういうのもあると、知っていただけたら良いかと」
「じゃあ始めるわよ」
天子と衣玖は生徒たちに身体を向けるとお互いに距離を取り、生徒たちから見て右側に天子が、左側に衣玖が並んで、観客に一礼した。
演奏も何もない二人だけの舞いだ、どんなものなのか生徒たちが興味を引かれる中で、先に動き始めたのは天子だった。
足を肩幅に広げ、力を抜いた手を揺らめかせ、掌で周囲の大気をかき乱す。まるで指先で水面をなぞり、そこから出る波紋を眺めるように、今そこにあるものに触れ、楽しんでいることを表していた。
やがて丹念に目に見えぬ何かを練ると、力強く手を握りしめてはすぐに開き、晴れ晴れしい表情で自らの成果を感じ入る。
天子は軽やかにその場で身体を回転させた。空色の長髪と極光で彩られたスカートを広げて、再び衣玖に身体を向け膝を突いて大きく胸を張り、緩やかに手を伸ばした。
対する衣玖は深く頭を沈み込ませ敬意を表しながら、両手を広げ天子から伝わってきた波紋を全身で感じ取るように四肢を弛ませた。
そして胸元に右手を当て、左手を天子へと差し向けながら、弓の弦を絞るように上半身を引かせ、意を決して天子へ向かって身を飛び込ませた。
羽衣を揺らすと、手足を回し穏やかな円を描いた衣玖は、天子から差し出された手に手を重ねたが、その瞬間に天子は手を持ち上げ衣玖を誘った。
衣玖はそのまま天子の背後へと滑り込み、背中合わせになって跪く。
見物していた生徒たちはもとより、講師の面々も舞いに見入っていた。演奏もなく、わずかほんの十秒足らずの動きであったが、見事に心を鷲掴みにされたのだ。
一連の舞いには、自らの意思が世界を揺らすことを楽しむ天子と、そんな天子に感銘を受け、付き従う衣玖の敬愛の念が感じ取れた。
だが天子はただ衣玖を配下とすることを良しとせず、できるだけ対等であるように背中を預けることを許した。
数十年、数百年を掛けて練り上げられた舞踏に込められた情報量に、誰もが圧倒されていた。
紫も今は嫉妬を忘れ、二人の舞いに感じ入っていた。
演者たちがお互いの気持ちを確かめ合うため間を置いてから、再び美しい踊りを伴って物語が動き始める。
笑顔で身を躍らせながらステージを横断する天子に、衣玖が続けて舞って後を追う。すべての動作が洗練されていて、手足の挙動だけでなく指の先の先から揺れる髪の毛の一本に至るまで、演者の意識の元に置かれ、鮮やかな音色を奏でているかのようだった。
しかしヒートアップする天子の踊りに次第に衣玖が遅れていき、床に倒れ込んでしまったがこれも舞いの一部だ。
衣玖は開脚した姿勢で上半身を胸から床に倒し、そんな衣玖に天子が一転して重しを付けられたような踊りにより、自らの浅慮で付き人を傷つけたことを悔い悲しむ。
己に憤りを感じた天子は、激しく身を回転させ、与えられたステージから退場しようとするが、身を揺らして起き上がった衣玖が縋り付くように後を追った。
振り向いた天子に衣玖がもう一度跪き、今度は衣玖の方から手を伸ばして天子を誘う。
衣玖の手を、天子は甘んじて受け、再び背中を預け合った。
舞いは最終局面に達し、憂いを忘れた二人は思い思いに手足を振り回し、高鳴る鼓動を刻むよう宙を跳び、生の歓びを謳歌する。
そして最後、夜の静けさを感じさせる穏やかな舞いで、天子は衣玖を労り、衣玖はそれを受け止めるよう開脚した姿勢で腰を落ち着け、背中から床に身体を倒して身を休めた。
そのそばで天子は膝を突き、自分に付いてきてくれた衣玖を守るようそっと寄り添った。
静寂が続き、観客に終わりを伝える。
しばし誰もが言葉を忘れそれを眺めていたが、紫が手を叩き二人を称えると、彼女に続いて生徒や他の講師たちも拍手を鳴らし、演者を賞賛した。
余韻を残したまま天子と衣玖は立ち上がり、深く息をつきながら観客に一礼を以って終幕とした。
「とまあ、天界の踊りはこんなのよ。何か感じたものがあれば嬉しいわ」
「素晴らしいです! 流石は天人様と天女様です」
講師たちの中から、先程のまとめ役の女性が前に出て二人を褒め称えた。
「洗練された技術と意の融合、しかと拝見しました。さぞや練習を重ねたことでしょう」
「まあね、これだってダラダラ生きてれば勝手に覚えるもんじゃないわ。と言うか衣玖もけっこうやるじゃないの、予想以上で驚いたわ」
「それはどうも、と言うか知らないで誘ったのですか」
「なんとなく踊りが上手そうだなとは思ったからね」
「無茶振りが過ぎますよまったく」
衣玖の呆れを笑い飛ばし、天子は生徒たちに顔を向けた。
「自らの心を表現するというのはとても大事なことよ。私たちのレベルに達するにはそれこそ生涯かけてでもないと無理だけど、少しでも近づけるように頭の隅に置いときなさい。そして踊りの基礎や細かい技術も、そういった気持ちを支える大切な要素だから手を抜かないように。わかったかしら」
『はい!!』
「よしいい声! やる気があっていいわ」
特別ゲストによる舞いが終わり、通常の授業が始まる。
他の講師たちが生徒に教える中、天子も教室を見て回っては、生徒の姿勢の乱れや癖など気が付いたことを教えていた。初めて会ったはずだが指摘は的確で、他の講師も感心する指導ぶりだった。
紫はと言えば、一応は本来の姿を隠しているのであるし、道場の隅っこで膝を抱えて座り込み、天子や、生徒に混じったとある妖怪の様子を見つめていた。
つつがなくダンス教室の授業は終了し、天子たちは感謝とともに謝礼を受け取ると、衣玖を残して稽古場を後にした。
支払われた給金を持って、すぐに近くの喫茶店に足を運ぶ。
「あー、お仕事終わった後の甘味は格別だわー」
「食べすぎでしょさっきから、太るわよ」
「どっかのぐーたら妖怪と違って運動してるから大丈夫なんですー。教える側に回るのも楽しいもんね、またお願いされたら来てみよっかな」
「良いんじゃない。あなたも意外に向いてるようだし」
四人がけのテーブルを使い、紫と天子は向かい合って座って水羊羹を突く。
ひんやりした甘みを口の中で転がして味わう。満足の行く美味しさだ、店の雰囲気もいいしお客も多い。
程よい喧騒を楽しみながら、二人で話し合った。
「ところで天子、さっきの生徒に混じっていた彼女、あなたから見てどうだったかしら?」
「そうね、気質も穏やかで安定してたし、変な気を起こすようなタイプじゃなさそうね。踊りも熱心にやってたし、他の人間にも積極的に溶け込もうとしてた。まったくもって問題なしよ」
意見を述べた天子は、周囲に注意を払ってから、机に身を乗り出し小声で紫に話しかけた。
「人里って、あんなに妖怪が溶け込んでるものなの?」
「そうね……彼女は少し特殊なパターンかしら。人里に混ざって店で買物をしたり、お酒を楽しんだりしている者は多い。けれどあそこまで熱心に、人間から学ぼうとしているのは珍しいわ」
「ふぅん、わざわざ教室に習いに来るなんてよっぽどよね、かなり真剣だったし」
紫の言葉を聞きながら、天子は椅子に座りなおす。
その妖怪の授業態度は、他の生徒たちよりよっぽど真面目だった。単なる興味本位とは少し違う、天子にはあれは何かしら理由や目的意識があるように感じられた。
その意思の向かう先が何なのか気にはなったが、なったが今はそれよりも天子にとって重要な話題がある。
「それはそうと、私の踊りはどうだったよ。即興にしては中々のもんだったでしょ」
「……ギリギリ及第点と言ったところかしらね」
「えー、何よそれ」
自信満々で尋ねた天子だったが、紫は不機嫌そうに顔を背けてしまった。
踊りでミスしたところもないはずであるし、心当たりがない天子は気に入らなそうに紫に刺々しい視線を送った。
「完璧だったでしょあれは、どこが悪かったってのよ」
「まずは自分の胸に聞いてみることね」
「どういうことよ意味わかんないってば」
ツンとした態度の紫に天子が困っていると、店の入口から見栄えの良い緋色がチラついて、そちらに目をやると、さっき別れたばかりの衣玖が店内を見渡しているのと眼が合った。
「天子様、ゆかりんさん、良かったここに居ましたか」
「衣玖? どうしたのよ」
衣玖が店の中に足を踏み入れる、その後ろから彼女に続いてくる影があった。
入り口から現れたその影が着た桜色の着物を見て、天子と紫は驚いて少しばかり目を見開いた。さっきまで話題にしていた、件の妖怪がそこにいた。
妖怪を連れ、天子たちの前まで来た衣玖が二人に尋ねる。
「少し相談がありまして、いいでしょうか」
「……ん、良いわよ座りなさい」
「ではこちらの席へどうぞ」
紫は自然に自分の席を譲りつつ、ちゃっかり天子の隣に腰を下ろした。
衣玖はちょっと機嫌が良くなった紫の変化を目敏く感じながら、何も言わず町娘風の妖怪を連れて天子たちの前に腰掛けた。
新しいお客に店員がすぐさまやってきたので、適当に団子を二人分注文し、持ってきてもらってから、まず衣玖から口を開いた。
「こちらはダンス教室に来ている生徒の金剛さんと言います」
「は、初めまして金剛です」
「へえ、けっこう勇ましい名前ね」
紹介を受けた金剛は、少し戸惑いながら頭を下げた。
雰囲気の割には大げさな名前だ、とは言え彼女の内側から感じる力は中々のものだ、案外名前通りの人物かもしれない。
しかし表向きの態度は少し気弱で、良く言えば女の子らしいが、天人を前にして萎縮しているようで隣に衣玖に顔を向けた。
「あの、衣玖さん……」
「大丈夫ですよ、お二人は信用に値する方です。秘密は守りますし、あなたの気持ちを無碍にするような人たちではありませんよ」
衣玖から優しく言われ、金剛はオドオドしながら天子たちに向き直る。
天子が言葉を待ってお茶をすすっていると、やがて金剛は戸惑いがちに口を開いた。
「あ、あの……私……」
「なに?」
「私……実は妖怪なんです!!」
思いっきり叫ばれた内容に思わず天子がお茶を吹き出した。
金剛の隣にいる衣玖も、迂闊な発言に眼を丸くしている。
「ブホッ、ゲホッ! い、いきなり何言うのよあんたは!?」
「すみません、驚きますよねこんなこと!」
「じゃあないわよ! あんたの秘密なんてとっくにわかってるのよ、それよりそんな大声で言ったら周りにバレるでしょ!」
「あっ!!」
天子から言われてようやく自分の失言に気付いたようで、金剛は泡を食って辺りを見渡した。あまりしっかりしてる性格じゃないらしい。
しかし不思議なことに、店にいる他の客や店員は、天子たちを気にしているものは誰一人としていなかった。
誰も金剛の言葉に気が付かず、思い思いの時間を過ごしている。
「あ、あれ?」
「防音の結界を張っておきました、音しか防げないので気を付けて下さい」
困惑する金剛に、紫がため息を付きながら言った。
「えっと、この人って」
「あー、あんたと同類よ。胡散臭いやつだからあんまり気にしないでいいわ」
「胡散臭い……結界……ゆかりん……知り合いから聞いたことが、もしかして妖怪の賢者の?」
「なんのことー? 私は美少女ゆかりん九歳です!」
「そ、そうなんですか……」
「マジこいつの奇行は気にしないでいいからね、うん」
キャピキャピと若作りする紫に、一同引き気味であった。
気を取り直して話を再開する。
「それで相談って何よ」
「はい、あの、とても恥ずかしいことなので、内密にお願いしたいのですが……」
「黙っといてあげるわ、面白いことなら歓迎よ」
「面白いことじゃないと、思いますが」
金剛は前置きを挟み、もじもじと肩を動かした。
いい加減、内気な金剛に天子が急かしたくなってきていると、金剛は照れ臭そうに火照った頬を押さえて悩みを告白した。
「実は……私、人間の殿方に恋してるんです」
打ち明けられた想いに、天子は驚いて息を呑むと、すぐに目をキラキラと輝かせて身を乗り出した。
「えぇー!? 誰と? 誰と!?」
「その、里の退治屋の方でして。凛々しいお姿を見て、一目惚れしてしまって……」
「良いわねわ良いわね、一目惚れなんてロマンチック……あっ、わかったそれでダンス教室に来てたんだ!」
「はい、人間の女らしさを学べればと思って。他にも幾つか女の子らしい習い事を……」
金剛が恥ずかしながらも話す内容に、天子は興味津々で聞き入っている。
天子とて女の子なのだ、この手の話題は大好物だ。
同時に、紫がこの妖怪を気にしていた理由もなんとなく掴めてきた。
「なるほど、それで私のところに話を持ってきたのね」
「はい、私も先程金剛さんから事情を聞きまして、私よりもお二人のほうがお力になれるかと思って」
「いい判断よ衣玖、この比那名居天子様に任せなさいって」
天子は恋愛経験もないはずだが、自信満々に胸を張っている。あまりの調子の乗りっぷりに、衣玖は逆に不安を感じ始めてしまっていた。自身も色恋沙汰にはとんと関わりがなかったので、荷が重いと感じて天子たちを頼ったが、本当に大丈夫だろうか。
衣玖の心配を他所に、金剛は団子を食べることも忘れて、熱い眼差しを天子へ送っている。
「お願いします天子さん! あの人に振り向いてもらいたいんです、協力して下さい!」
「あっはっは、良いわよ良いわよ。大船に乗ったつもりでドンと頼りなさい!」
「朴念仁のくせに……」
「紫、なんか言った?」
「なんにも」
どうも昼間の宗教家相手のいさかいから紫の様子がおかしいが、今はそれより金剛だ。
「もう話しかけたりはしてみたの?」
「いえ、まだです。向こうも巫女ほどではないですが妖怪の専門家ですから、まず人里に隠れるのが慣れてからと思いまして。でも噂を聞いた限り、色んな女性が狙ってるらしくって……」
「あぁそっか、まずは妖怪なのを隠して仲良くなったほうが有利だもんね」
「嘘をつくようで信条に反してしまいますが、何分、人間から妖怪への心象は良くないですから」
「まあ、その程度の工夫は必要よね。でもみんな狙ってるってことは、まだ相手が居ないんでしょ? 十分チャンスがあるじゃない」
「そうでしょうか……? 戦いならいざしらず、恋の駆け引きなどにはとんと疎くて自信が……」
恐縮して肩を狭める金剛だが、天子はそれほど彼女が不利だとは思えなかった。
確かに人と妖怪の垣根は深いが、彼女には好きな男のために人里に紛れ込む行動力がある。
「やれるやれる! 好きな人のために習い事までするなんて普通のやつは出来ないわよ。そこまで必死になれるんだから、恋の戦争だって勝ち抜けるわよ」
「……ありがとうございます、天子さん」
その後、天子たちは店に長居して、金剛から意中の人の話を根掘り葉掘り聞き、明日には実際にその退治屋を見てみようということになり、ひとまずそれで解散した。
◇ ◆ ◇
金剛からの情報収集が終わった頃には、すっかり日が暮れてしまっていた。
金剛と衣玖に手を振って別れた天子と紫は、最後はのびのびと飲もうと人里を出て夜雀がやっているという屋台に足を向けていた。
道すがら、天子は星がまたたく夜空に握り拳を掲げ、固まった背筋を伸ばしていた。
「んー! 今日は面白い話を聞けたわね、ナマの恋バナなんて初めて、ワクワクしてくるわ! でもダンス教室の後は二人で遊ぶ約束だったのに。すっかり話し込んじゃったわね」
「そう思うならさっさと話を切り上げなさい、金剛はどんな風に人里で過ごしてるのかとか、ほとんど関係ないことまで聞き出そうとして」
「あはは、ごめんって」
棘のある言葉を零す紫は、もういつもと同じ大人の女性の姿へと変わっている。
天子が慣れ親しんだ綺麗な顔は、ため息を吐きながらも眉間のシワを解いた。
「……まあ、あの妖怪の様子を直接知れたのは良かったわ。天子、これからもお節介を焼くつもりなら慎重にね」
「ん、わかってるわよ」
天子はこれから金剛の恋が実るまで手助けをするつもりだ。
だがそれとは別に、隣のいる友人のことで気になることがあった。
「紫ってさ、なんで金剛のこと気に掛けてるの?」
「あら、私が幻想郷の住人のことを気に掛けるのはいつものことでしょう?」
紫が言ったことは嘘ではない、以前には源五郎の家に天子を導いたこともある、幻想郷の事情を一番知っているのは紫だろうし、いちいちそれに気を揉む性分なのであろう。
だがこれは誰かが傷つけられているような事件ではない。
「紫が優しいのは当然だけど、ただの恋愛事にわざわざ首を突っ込みたいほど興味を持つとも思えない。何か目的があるんじゃないの?」
「……ふふ、私は優しくなんかないわ」
柔らかく微笑んで、紫は足を早め天子の前に出ると、月明かりを帯びた背中を見せた。
「でもあなたになら、教えても良いかも知れない。私の最終目的を」
思いもよらぬ言葉に天子が足を止めて息を呑んだ。
最終目的、それはつまり、この幻想郷を創った理由そのものだろう。
ただの恋からとんでもないところに話が飛躍した。
驚く天子の前で、紫は胸の内を曝け出した。
「それは妖怪という幻の存在を種として確立し、半永久的に存続させることよ」
それはどこまでも紫らしいと天子が感じるような、優しく壮大な計画だった。
元々、妖怪は人々が闇夜に恐れる気持ちを発端として誕生した存在だ。
だが人類の科学が進歩し、暗闇に潜む妖をまやかしだと証明することで、信じられなくなり、忘れられることで妖怪たちは消滅するしかなかった。
そこで紫が妖怪の勢力を増すための妖怪拡張計画を唱え、幻と実体の境界として博麗大結界を創ることで、その内側では生存を約束されたが、それでも妖怪はいつ消えるかも知れない不確かな存在だ。
すでに外界では妖怪のほとんどは忘れられており、一部はまだ外にいるがいずれにせよ衰退の一途を辿っている。近い将来、完全に立ち行かなくなり、幻想郷への避難を余儀なくされるだろう。
「妖怪は人の恐怖に依らなければ自らを保てない虚ろな存在。私は妖怪が生き残るため、新たな道を模索している」
「それって、人が居なくても生きていられるようにしたいってこと?」
「近いけど、少し違うわね」
紫は閉じた扇子を取り出すと、天子へ先端を突き付けた。
「考えてもみて、もし妖怪が人間なしで生きていられるようになったとしたら、人間と妖怪の関係は果たしてどうなる?」
「……ただの敵になるわね。今でも人間から見たらそうだけど、妖怪から見たら人間が必要だから、幻想郷のバランスが成り立ってる」
「その通り、そのまま妖怪が自立しただけでは、人間との戦争になるでしょうね」
幻想郷において人里内では人間は保護されている。博麗大結界の内部に置いても、妖怪の存在を信じ、そしてそれを恐れる人々がいなければ存在を維持できないからだ。
だがその必要がなくなればどうだ、人間など妖怪にはただの肉程度にしか映らないだろう。
「そして幻想郷の人間を食い尽くした妖怪は、やがて外界にも手を伸ばすわ。けどそうなったなら確実に妖怪は滅亡する。如何に妖怪が強くとも、無限に科学を進歩させる外の人間にはいずれ追い越される」
結局のところ、人間には敵わないからこそ妖怪は忘れられたのだ。互いに憎み合い、戦い合う関係にしてはならない。
紫の願いは妖怪が人間に勝ることではないのだ、すべては生存のためにある。
「私の目的は、人と妖怪がお互いを認め合って受け入れる世界を作ること。幻想郷はそのための実験場。角が生えてるとか、翼が生えてることが、ただの個性である世界にする」
なんて遠い理想だろうか。果たしてそんな世界が来る日があるのか、天子にはとても信じられない。
「……馬鹿げた理想ね。あんた、私のこと馬鹿にするくせして、あんたのほうが大馬鹿者じゃない」
「馬鹿な理想ですとも。けれどこれを達成しない限り、妖怪に生存の道はない」
紫は天子へ背を向け、一歩また歩み出た。
その背中は固く、悲壮な決意で満ちている。かつて天子も似たような姿であったが、その背にのしかかっているものは天子以上だろう。
紫は誰よりも賢いからこそ、未来がいかに妖怪にとって残酷かわかってしまっている、この全てを受け入れる幻想郷がその暗示だ。
本当に紫は妖怪全てを救おうとしているのだ、全てを利用しながら、その努力を知るものはわずかだけで。
「だから幻想郷内部で様々な勢力が発達し、繁栄することは新しい可能性を生み出す歓迎すべき事柄なのよ。ましてや人と妖の恋、ある意味私の理想に非常に近い……あの妖怪の恋を助けるのも、それが私の助けになるが故」
すべてを聞き、天子は合点が言っていた。通りで金剛のことを気にするわけだ。
語り終えた紫は、その後に少しだけ言葉を続けた。
「私は自分が寂しいのが嫌だから、そうならないように周りを助けてるだけ。優しさなんてない、ただのエゴイストよ」
そう零す紫の顔は、自らの冷血さに悲しみ、寂しそうな顔をしていた。
紫は優しくありたいと思った、誰かを助けたいと思った。だがそれはただの嘘、所詮は我が身が可愛いから他人を利用してるだけ。
我欲から抜け出せず、限界のある慈愛に紫は、いかに自分が矮小な存在かを自覚し、悔しさに胸が詰まる。
「あなたと戦った時、出てきた結論にそれを知れたわ」
天界で天子と争った最後、地上に落ちてきて見出した自分の本心は、天子と一緒にいると楽しいという、ただそれだけのことだった。
助けたいから天子に手を伸ばしたのでなかった、紫はただ楽しい遊び相手を手放したくないから手を差し伸べたのだ。
あまりに情けない己に、紫の気持ちが暗く沈む。
「でも、私はそのエゴに心の隙間を埋めてもらえた。そんな紫だから救ってもらえた」
その心に、一筋の光が差し込んだ。
紫の隣に歩み出た天子が、頑なな紫の拳を上から握りしめる。
「だから何度でも言うわよ、ありがとうって」
紫は愚かだったかも知れない、だがその愚かさが天子を助けたのだ。
自分の道程を体現するよう笑いかけてくれる天子に、紫は拳を解いて握り返した。
「……そう言ってくれて、ありがとう」
やはり、天子と知り合えて良かったと、繰り返すよう胸に思った。
「――ところで、それはそれとして、今日のあなたの態度について問い質したいんだけど。天子?」
「へっ? 私?」
打って変わって目の端を尖らせた紫に、天子はあっけにとられる。
その呆けづらに、紫は片手に握った扇子を突き立てた。
「私がそばにいるのに喧嘩を売りつけて! 教室でもあんな風に竜宮の使いとの踊りを見せつけてきて!」
「えっ、えっ、ちょ、何よ、怒ってるの?」
叩かれた額を赤くさせ、天子はわけがわからず慌てふためく。
紫の言っている意味がわからなかったが、やがて輝針城で針妙丸に言われたことを思い出した。
「もしかして、紫ってば嫉妬してるの?」
尋ねてみると、紫は顔を真赤にして押し黙って、何も言わないままそっぽを向いてしまった。
天子は図星を突いてしまったことに気がつくと、釣られて恥ずかしくなってしまい同様に顔を背ける。
ただし二人共、繋いだ手を離そうとしないまま、むしろ強く握りしめていた。
「も、もう、勝手に怒んじゃないわよバカ」
「あなただって、節操なく突っ走ってばかりで」
「……ごめん、置いてけぼりにして」
「……こっちこそ、子供みたいなこと言ってごめんなさい」
相手の心に、そして自分の心に、かつては憎んだ敵がどれだけ食い込んでいるのか思い知り、お互いに心臓が早鐘を打つ。
胸を張り上げる痛いほどの好意が、肌を熱くさせた。
しばらく何も言えずに居たが、やがて天子の方から話しかけた。
「まあその、そんなに嫉妬するくらいならさ、紫が会いたい時にはいつでも来てくれていいから、それで勘弁してよ」
「本当!?」
真っ赤な耳でそれを聞いた紫は、ぐりんと首を回して天子に赤い顔を向けた。
「ああでも毎日会いに行ったりしたら鬱陶しくない!?」
「い、いや別にそれくらいは」
猛烈な勢いで突っかかってくる紫に、天子は驚きながらも足を退かせはしない。
胸の高鳴りを耳元に恥ずかしくなり、握り合った手を持ち上げ、自分の手の甲で口元を隠した。
「その、紫だったら、毎日だって歓迎だし……」
しどろもどろに言葉を紡ぎ、天子は時折目をそらしながらも、上目遣いで紫を覗いた。
潤んだ瞳で見つめられ、紫は眼の前の少女の可愛さに、緊張で手の平を汗ばませる。
お互いに相手の興奮が筒抜けの状態で、再度天子から口を開いた。
「期待しちゃうわよ」
「なら期待に応えてみせるわ」
強すぎる自分の気持ちに、相手が退いてしまわないか不安がりながらも、想いを口にした。
見つめ合っていた二人は、お互いに気持ちを受け止め合ったことを理解すると、ふにゃりと強張らせていた頬を緩ませる。
「え、えへへ……」
「ふふ……」
自分でも怯えるくらいに相手を想っても、逃げずに受け止めてくれる。
幸せとはこういうものだなと思った。
「夜は長いわ。まずは今日を楽しみましょう」
「うん……絶対来てよ」
「えぇ、絶対よ」
「約束だからね!」
憂いを払い、想いを通じ合わせた二人の楽しい夜は、輝かしい笑い声を伴って更けていった。
◇ ◆ ◇
夜も更けてきた頃合い、貧乏神と疫病神の姉妹は近況を語り合い、姉の作ったご飯を美味しくいただいた後、姉妹並んで布団に入った。
別々に暮らす新しい生活にも慣れてきたが、やはり家族とこうやって同じ屋根の下で寝るのは心地が良い。
紫苑は安心感の中、まどろみに身を委ねていると、左隣で寝返りを打つ音がした。
「ねえ……姉さん、起きてる?」
「んー? 起きてるわー」
「……そっち行っていい?」
眠りかけてた紫苑だったが、その質問に一瞬で目が覚めた。
いつもうだつの上がらない姉の前に立ち、どこか見下しながらも引っ張ってくれてきた女苑が、こうやって甘えてくるのは珍しい、というか今までにない。
「うん、いいよ」
「ありがと……」
短く言葉が交わされ、女苑が這いずって紫苑のテリトリーに侵入してくる。
紫苑が少し右側へ身を引いてスペースを作ると、掛け布団の下から顔を出した女苑が、吐息まで届く距離に収まった。
「どうしたの女苑?」
「うん……」
一つの布団の右側に紫苑、左側に女苑。
紫苑は身体を女苑に向けて話しかけるが、妹は天井を向いたまま視線を返してくれない。
紫苑が静かに困惑し始めていると、ようやく女苑はおずおずと口を開き始めた。
「さっきはさ、私の能力っていうかさ、疫病神としての性質についてあれこれ話したじゃん」
「うん」
「でも、ほとんどまだ実践できてないっていうか。私が頭悪いなりに考えてみたものばっかりで、机上の空論でね。偉そうなこと言いながら、まだ全然結果を出せてない」
「良いじゃないそんなの。考えついただけ私よりずっと立派よ」
「……姉さんだってすごいよ。巫女と戦ったときも、天人と戦ったときも、結局私よりもずっと先に行って。置いてかれたのは私の方」
女苑が一人で活動を始めた一番のきっかけが、戦いの場での姉の背中だった。
女苑がどうしようもないと思った状況で勝手にキレて、自分の力を発揮して暴れる姉の姿は、凄まじい変化の濁流のように感じ取れた。
初めて姉のことが頼もしく思えて、そして思いっきり力を奮って走る姿が眩しくて、憧れすら感じて、置いていかれたくないと思ったから、女苑も必死に駆け出した。
だが不安なのだ。
「姉さん、私も、頑張れるかな」
女苑は布団の中を手で探ると、姉の手を見つけ、その不健康で細い手に指を絡ませた。
紫苑は驚いていたが、すぐに自分も手に力を込め、妹と手を握り合わせる。
「……女苑はもう十分頑張ってるわよ。ちゃんと上手く出来てるわ、これからも」
「そっか……良かった……」
あの日の姉の姿に少しでも近づけたなら、女苑としては上出来に感じられて、自分で自分を褒めたいとまで思えた。
「姉さん、私、しばらく一人で頑張ってみたいけど、たまにはうちに来て……欲しいな、なんて」
「うん、女苑が辛い時にはそばにいるわ」
「……ありがとう。姉さんなら、そう言ってくれると思った」
口に出してから、初めて姉の優しさに気付く。ずっと自分のわがままを聞いてきてくれてたんだなと、ようやく女苑は家族のありがたみを信じられた。
素直な心を曝け出した女苑に、紫苑はくすりと笑う。
「でもこんな風に女苑が甘えてくれるの、新鮮で嬉しいなー」
「……姉さん、一言余計よ」
「だってね、私だって姉をやれてるか不安だったもん。女苑だって私のこと見下してたし」
「それはその……」
図星が故に女苑は何も言えなかった。
申し訳無さに揺れる女苑の姿が、紫苑から見れば愛しく感じられて、妹の身体に覆いかぶさるよう空いた右手で抱き締めた。
「やっ、姉さん近いっ」
「私たち、前とは随分変わっちゃって心細かったけど。こんな女苑が見れてよかった」
女苑としては恥ずかしいことこの上ないが、嬉しそうな姉の声を聴くとそれもどうでもよく思えてきた。
次第にやすらぎを覚え始め、思いまぶたを閉じながらぼんやりと呟く。
「……戦いの時の姉さん、カッコよかったな」
「今は?」
「あんまりカッコよくない」
「ひどぉい」
「でも、そんな姉さんもいいかな……」
女苑の言葉を聞き、紫苑も満足そうに笑って瞳を閉じる。
いつしか声が上がることもなく、姉妹は仲良く眠りに落ちた。
◇ ◆ ◇
天子と遊んだ翌日、紫の日常はいつもどおりだった。
朝、朝食だと藍に呼ばれ、寝ぼけ眼で起き上がると顔も洗わないまま家族とご飯を食べ、二度寝。
十二時頃、藍から博麗大結界のメンテナンスの報告書に目を通しながら昼食を食べ、然る後、三度寝。
午後三時、おやつの時間。今度はちゃんと顔も洗って起き出し、かわいい橙におやつをあげて孫可愛がりした後、四度寝。
黄昏時、西の空に沈む夕日に、昼と夜の境界を察知して起きたが、やっぱ寝たいから五度寝。
「それで、まだ寝てるんですか紫様」
「すんごい幸せそうな顔して寝てるよ」
主人が眠る自室を前にして、九尾と黒猫が廊下に膝を突いて話し合う。
そっと襖を開いて薄暗い寝室を覗くと、お布団にくるまった紫は、寝巻きを崩してだらしない寝言を呟いていた。
「うぇへへへへへへ……てんしぃ……」
藍と橙は揃って困った顔をする。この自堕落妖怪、まるで起きる様子がない。
これで本人には時間を無駄に過ごしているつもりはない、むしろ起きようと思えば起きられるのだ、その証拠にちゃっかり食事におやつは楽しんでいる。
あえて惰眠を貪ることを幸福とし、自ら寝ているのだから始末に負えない。
「もう夜になるって言うのに、ぐっすりですね」
「昨日は帰ってくるの遅かったからなぁ、いやだからって寝過ぎだが……というわけだ」
「案内ご苦労さま、ここからは私がやるわ」
式神たちのあいだを、少女が通り過ぎていく。
襖を開き部屋に足を踏み入れた彼女は、お腹の底から声を張り上げて飛び上がった。
「おっきろぉー、紫ぃー!!!」
揃えられた膝小僧が、紫の腹部に布団の上からよくねじ込まれた。
ばっちり助走をつけて加えられた衝撃に、眠りこけていた紫も「ふぎゃあ!?」と悲鳴を上げて、眠気も吹っ飛んだ目を見開く。
「な、なになになに!? 敵襲! らーん何事!!?」
「遅いわよ紫、もう外は明るいの通り越しちゃったじゃない!」
起こりながらも愉しげな声を聞き、紫が顔を起こしてみると、布団の上から紫にまたがった天子の姿がそこにあった。
「て、ててて天子!? 何であなたがウチに!?」
「にゃはは、待ちきれなくって黒猫のほうとっ捕まえて連れてきてもらっちゃった」
悪戯っぽい笑みが紫の網膜を刺激する。
寝ぼけた脳に次々とショックを与えられ慌てまくる紫に、天子は手を伸ばすと胸ぐらを掴みあげた。
「それより、一緒に金剛のとこ行くわ。昨日の続きよ!」
「いやいや、私はあんまり関わらないほうが」
「なーに言ってんのよ、そんなこと言ってちゃ変わるもんも変わらないわよ。あんただって気にしてるんだから来い」
「いや、ちょっと待……っていうかまだ化粧してないっ!!!」
起きて早々、天子に振り回される紫の姿を、式神達が陰から生暖かい眼で見守っていた。
「早く早く!」
「急かさないでって言ってるでしょ!? まず顔洗って、歯磨きして、化粧して、ご飯食べて」
「えーいいじゃんそのままで、私だってすっぴんよほらほら」
「だからあなたはお子ちゃまなのよ、ナチュラルメイクで手早く済ますから」
「ほら、早く服脱いで着替えて! うわっ、下着白っ、エロっ」
「キャアアアアアアアアアア!!!?」
「へぶしっ!?」
寝間着を剥ぎ取られ下着まで見られた紫は、顔を真っ赤にさせて足を振り上げた。
すべすべの足裏で顎を打ち抜かれた天子は、そのまま部屋の外にまで蹴っ飛ばされて、藍と橙の前をゴロゴロと転がったのだった。
しばらくして、ようやく本格的に活動を始めた紫は、昨日と同じくロリモード化して天子と共に人里にほど近い森にまでやってきた。
踏み均された道を歩き、人里の入り口に向かって歩きながら紫は眉を寄せる。
「せっかく気持ちよく寝てたのに」
「いやいや寝すぎでしょ、丸一日って」
「ちゃんとご飯の時には起きてたわ」
「大して変わらんわっ」
「ところで、今日は何なのかしら? あんまり私が出張るべきじゃないと思うんだけど」
だからこそ天子に一任したはずなのだが、任された本人は脳天気な笑いを浮かべて紫の心配を払い除けた。
「まあまあ、良いじゃない。あんただって本当は金剛のこと見てあげたいんでしょ?」
「まあそうだけど……はあ、本当にお構いなしね」
干渉することに対して心配しすぎだろうというのは紫も自分で思っている、勇気が出ない自分の手を彼女が引いてくれるならそれはそれで良いだろう。
「今日は金剛の想い人が退治に出かけるらしくってね、こっそり様子を見に行こうって話になったのよ」
天子に説明を受けながら歩いていると、人里から少し離れた木陰で金剛が待っており、二人に近づいて手を振った。
「お二人とも、今日は忙しいところありがとうございます」
「いいのよこれくらい、こいつなんて今日一日中グースカ寝てるくらい暇だし」
「失礼な、寝るのに忙しかったのよこちらは」
「あはは……すみません来ていただいて」
「金剛さんが謝ることではありませんわ。憎むべきはこの身勝手不良天人」
「おっ、やるかー?」
「安眠妨害の罪は重いと知りなさい」
「あの、すみませんが喧嘩は後にしていただければ……」
ヒートアップしそうになったりもしたが、とかく三人は闇に紛れて行動を開始した。
できるだけ草木の間を選んで歩き、件の退治屋を探してジリジリと進みながら、天子が問いかけた。
「で、金剛。詳しくはどうだっけ?」
「はい、まず近頃バラバラになった外来人の死体が発見されまして、どうやら妖怪に食べられたようです。それは別に良いのですが、それで人間の味を強く覚えてしまったらしく、里の外に出た人間にまで襲いかかる事件が起こっているようです」
「あー、たまに外から迷い込むんだってね」
「……主に自殺願望者がね」
「ああそう、犠牲が出るのも仕方なしか、で続きは?」
紫の表情が曇るのを察して、天子は話を終わらす。
「今のところは怪我だけで済んでますが、危険なので退治屋の……名前は雫さんと仰るのですが、彼に退治の依頼が来たというわけです」
幻想郷で妖怪退治と言えば博麗霊夢が思い浮かぶが、彼女一人で人里の事件すべてをカバーしているわけではない。霊夢以外にも人里に在住する退治屋がいて、小さな問題は彼らが自分たちで片付けている。
雫という男はその一人だ。
「この先にいるのよね?」
「恐らくは。事件が起こっているのがこの付近です、もう少し歩いたら森の中でも開けた場所がありますので、彼ならそこに陣取るかと。問題は退治中は気配に敏感だと思われることですが」
「なーに、心配ないわ。どうにかするわ、紫が!」
「妖怪頼みなんて情けない天人ね」
「天道を行く私には細かいことを覚える必要がないのよ。とにかくあんたなら気配遮断の結界でも何でも用意できるでしょ」
「もう展開してるわよ、私中心に半径三メートル。勢い余って飛び出さないことね、あなたせっかちなんだから」
軽口を叩きながら歩くこと数分、金剛が鼻をピクピクさせて匂いを嗅ぐと、突如目を見開いて立ち止まった。
「――居ます、この先です。お静かに」
「おっ、わかるんだ」
「もちろんです、あの方の匂いを気配を、何より澱みのない殺気を間違えるはずありません」
それまで慎み深く三歩後を歩くことを実践していた金剛だったが、瞳に鋭い光を宿すと先頭に歩み出た。
ゆっくりと慎重に歩を進める金剛に、天子と紫も後に続く。
やがて金剛が立ち止まる。天子は彼女の隣に付くと、茂みから向こう側を覗いた。
開けた空間の中心に、弓を手にした着物の男がいる。そこだけ遮る木々がないお陰で、月明かりに照らされていて男のことがよく見えた。袴には大小二振りの刀を差し、背中には矢筒、後腰には道具を包んだ複数の巾着を垂らしている。
長身の男だ、普段の紫と同じくらいの背丈だろう。弓の弦に矢をあてがったまま手を止め、顔を俯かせたまま神経を研ぎ澄ませている。里の退治屋となれば博麗の巫女には及ばない実力らしいが、集中力は中々のもので、下手に騒げば紫の結界があっても気付かれそうだ。
金剛の他にも狙っている女がいるだけあってイケメン。目元で月明かりが反射した。銀縁の細長い眼鏡を掛けている。
天子から小声で金剛へ話しかける。
「眼鏡なんだ。目が悪いって、退治屋としては良くないんじゃない?」
「伊達眼鏡だそうですよ」
「そうなんだ、金属を身に着けて魔除けかな」
「どうでしょうか、あの方のことですから、あえて見つけられやすいように、かも」
天子は言葉の意味がわからなかったが、男の足元に香炉が煙を吐いていることに気が付いた。
嗅覚に集中してみれば、わずかに香の匂いがした。天界にも様々な用途なお香があり天子もいくつか知っていたが、これはあまり嗅いだことのない匂いだ。
後ろから紫が口を開いた。
「金剛さん、気を静めて下さい。飲まれますよ」
「はい、わかっています。抑えますとも」
「何のことよ紫?」
「お香を炊いているでしょう。あれは妖怪の気を昂ぶらせるものよ」
通りで天子の覚えにない匂いなわけだ、そんな限定的な効果の香など見たこともない。
「それって危険じゃないの?」
「それが彼のやり方です。ああやって妖怪をおびき出して真正面から対峙する」
「人間が妖怪に挑むにしちゃ愚策も良い気がするけど……」
元より人間と妖怪の間には身体能力で大きな開きがある。仙人や天人にもなれば真正面からでも互角に戦えるが、本来なら人間が妖怪を相手取る時は手練手管を凝らし、時には卑怯な手も使って闇に潜む妖怪の首を裏からかくものだ。
むしろ妖怪の気を静める香を仕込み、油断したところで闇討ちするべきだと天子は思うが。
「天子、お目当てのものを見つけたけれど、金剛と彼を結ぶ策はあるのかしら?」
「うーん、一つ考えてたのはあるんだけどね」
「何ですか?」
金剛も興味を持ち、退治屋から目をそらし天子へ振り向いた。
「まず妖怪に金剛を襲わせる。それをあの退治屋に助けさせて、後はこの間のお礼だ何だの言って家に押しかけてご飯でも作ってあげればイチコロって寸法よ」
「イチコロかどうかはともかく、王道な展開だけど。悪役のアテはあるのかしら?」
「衣玖にお願いしてみたけど断られた」
「でしょうね」
仮にも人里で働いてる妖怪に頼むようなことじゃないだろう、下手をすれば里に出入り禁止になりかねない案件だ。
「どこかに悪役にピッタリの胡散臭い妖怪居ないかなー、チラリ」
「私はイヤよ」
「えー、そう言わずに。いいじゃん、どうせあんたそういう役回り得意でしょ」
「バカおっしゃいな。ただの里の退治屋相手に賢者が退いたなんて、そんなみっともない真似したら妖怪全体の品格が落ちるというものよ」
「私もあまり嘘を重ねるのは信条に反するというか……それに紫さんくらいならともかく、並の妖怪に襲われたフリなんてプライドが許しません」
「そう言えば、金剛って何の妖怪だっけ?」
てっきり金剛をそこら辺にいる十把一絡げの雑魚妖怪のように考えていた天子だが、耳にした言葉に薄ぼんやりと強大なものを感じてようやく正体について問いかけた。
「あら、言ってませんでしたっけ、私は――」
金剛が一度額を両手で多い、それまで押さえつけていた妖怪としての姿を取り戻す。
わずかな妖気が吹き出し紫の結界内に充満する。血の気配と共に金剛の手の下から現れたのは、額に生えた血よりも赤い、艶のある朱色の二本角。
「鬼の金剛と申します。改めてよろしくおねがいしますね」
「え……えぇー!? 鬼ー!!?」
思いもよらない正体に天子が叫んだ、と同時に退治屋の男も顔を上げた。紫の結界で声は届いていないはずだが、何かしら感じ取ったようで一同の方向へと首だけで振り返て鋭い切れ長の目を向けてきた。
紫と金剛は必死に天子の口元を手で押さえ込み、身を伏せて草陰に身を隠し息を殺す。
やがて男の視線がまた自分の足元に戻ったのを気配で感じ取ると、天子の口枷を外して三人とも息を吐いた。
青い顔をする天子に、紫がじろりと睨み付ける。
「天子ぃー?」
「あはは……ご、ごめんごめん。驚いちゃって」
「気付かれたかと思いましたよ……」
「いや、あれは気付いていますよ。無視しているだけです」
「標的以外眼中なしか、肝の座った男ね」
もう一度三人が身を起こして男の様子を見てみると、再び集中し始めたようだった。相変わらず微動だにしていない。
「っていうか、鬼なのによく人里で生活なんてできてるわね……」
「それはもう頑張りました。元から粗暴な生活しか知らなかったので、口調を直すだけでもかなり時間がかかりましたよ」
「あっ、もしかして、紫のこと知ってたけど、それって萃香から……?」
「はい、そうですよ。天子さんも萃香さんとお知り合いなのですか?」
「あいつ一時期天界に居座ってたからね。まあ面白いやつだったわよ」
意外な交友関係が明らかになり、いつも酒で顔を赤くしていた小鬼のことを思い出す。
天子としても萃香のことは嫌いじゃなかった、かつて山の四天王と呼ばれていたらしいが、あの小さな体に込められたパワーは凄まじい。単純な力比べであれば天子よりも強いだろう。
「天子さんも萃香さんに気に入られてたんですね。懐かしいなぁ、恥ずかしながら昔は私もヤンチャでして、よく勇んで萃香さんに殴り合いを挑みましたが、毎回ボコボコにやられちゃいました」
「あれとやり合うってだけでも相当なもんでしょ」
お淑やかな顔をしていながら見た目以上の傑物だ、なるほどこれはそこらの妖怪を並と呼ぶのも頷ける。
しかし鬼は嘘を嫌うと聞いていたが。それほど強い鬼が、信条に反して身を偽り、性格まで変えるような荒行をやってみせるとは。
金剛の恋心の強さを思い知らされ、天子は改めて彼女のことをいたく気に入った。
「――シッ、お二人とも来ましたよ」
紫が小声で言った直後、男が――雫が顔を上げる。精錬された澱みのない意識が一箇所に向けられ、ゆっくりと弓を構えると、番えた矢を引き絞った。
天子たちがいる茂みのちょうど反対側から、草木をかき分けて何者かが現れた。
ボロボロの袴の下に素足をのぞかせて、両腕まで毛が生えたの大男。上唇が異様に大きく、顎の近くまで垂れている。
天子が小声で紫に問いかけた。
「狒々か」
「えぇ。もう御老体で我慢が効かなくなったのね、人を喰う歓びだけを思い出してしまった」
香の匂いにつられ、興奮のまま連れ出されたようだ。退治屋の姿を見て罠だと気付いたようだが、止まる気はなさそうだ。
狒々の妖怪が、涎の引いた口を開いて、しわがれた笑い声を漏らした。
「きしひひひ……お前は、人の退治屋か」
「如何にも」
雫が短く答えた。冷静な声色だ、いかなる怯えも戸惑いもない。
天子が隣に目をやってみると、金剛は雫の一挙一動一言を捉えて逃すまいと雫に視線が釘付けだ。
「儂を殺さんとするか」
「如何にも、いずれあなたは人を喰らう。その前に僕が殺す」
「遅い、遅いわ……人などいくらでも食い散らかした……」
狒々が過去を思い出す老人の眼をした。
「お前のような若造は知らんだろうな。昔は妖怪の天下だった、いくらでも人が喰えた。人間どもはみな我々に恐怖して……」
「黙れ、興味がない」
郷愁に浸り、喜悦を思い出していたところに、冷徹な声が飛び真顔に戻った。
雫は無表情のまま、ただどうやって引き絞った矢を当てるかだけを考えながら口を開く。
「すべては結果で決まる、だがお前では何も遺せない」
「ひひ、ひひひひひひひひひひひひひ! ……あぁそうかい」
狒々が大笑いの後、不機嫌そうに喉を鳴らして両手の爪を伸ばした。獰猛な瞳が退治屋の姿を捉え離さない。対する雫は呼吸を乱さず、真っ直ぐ妖怪を見据えて、矢の先端を向けている。
だがお互いの距離はおよそ十メートル、妖怪相手には遠すぎる、そのまま矢を放てば狒々は軽々とかわして退治屋へ襲いかかるだろう。本当なら狒々の方は牽制に努めじわじわと攻めるべきと天子は見るが、お香の効果によりそんなまどろっこしい真似はできないらしい。
今にも飛びかからんと身を低くし、機をうかがう狒々。一瞬の隙を突いて矢で射抜くため、一切の迷いなく弓を構え続ける雫。
先に我慢が効かなくなったのは、やはり狒々の方だった。地面を蹴り、土を掘り返しながらジグザグに走って退治屋へと襲いかかった。
一歩ごとに三メートル。身軽な狒々は風を切ってまたたく間に距離を詰めるが、雫は動かない。
二歩、そして三歩。わずか一メートルの距離、今度は矢を放つには近すぎて狙いづらい、狒々が唇を目元まで吊り上げて笑い、笑声を上げて食らいつこうとした。
その最後の踏み込みの一瞬、地面を蹴る直前のわずかに動きが鈍る瞬間へ目掛けて、雫の矢が放たれた。
めくれ上がった狒々の上唇に、裏側から矢が貫通し鼻頭にまで貫通した。
雫は矢を放つと同時に即座に行動を移していた、矢が突き刺さった時には弓を捨て脇差に手をかけている。
その時、お互いの距離はわずか五十センチメートル足らず。脇差から引き抜かれた刃は、閃光のごとく駆け抜け、狒々の首を一閃し断った。
笑ったままの狒々の首が宙を舞い、思考を失ったまま前のめりに倒れようとしていた胴体を、雫は草履の裏で蹴飛ばして跳ね除けた。
草むらの上に胴体が背中から倒れ、その上に矢の刺さった生首が落ちる様子を見て、金剛が感嘆のため息を吐いた。
「あぁ……やはり素晴らしいな……真正面から命知らずのしのぎあい。生死の瀬戸際を顔色一つ変えずに踏破する、あれこそ勇者だよ惚れ惚れする」
よっぽど興奮してるのだろう、口調が鬼らしいものに戻っている。
だが隣にいる天子は、顎に手を当て神妙な表情で、雫が刀の血を払い鞘に納めるのを見ていた。
「んー……」
「どうかしたのかしら、天子」
そんな天子に、紫は気軽に問い掛ける。答えがわかった口ぶりだ。
天子は答えないまま、立ち上がると茂みに手をかけた。
「行ってくる、あんたらはここで待ってて」
「えっ、天子さん!?」
「やっぱりね」
驚く金剛を置いて、天子は草木をかき分け歩み出た。
雫は狒々の顔から矢を引き抜き矢筒にしまうと、風呂敷で生首を包んでいる最中だったが、隠蔽の結界から抜け出て姿を表した天子に気付くとすっと立ち上がり本差に手をかけた。
「あなたは……」
「やあ、見ていたよ。技量は中々なもんね」
それまで隠れていた天子に雫は警戒しているが、すぐに目付きが変わる。どうやら妖怪ではないと睨んだらしい。
「自己紹介させてもらうわ。私は比那名居天子、俗に言う天人様さ」
「天人……最近、困った天人がよく地上で悪さをしてると聞きますが」
「そうそれそれ。情報に敏いのは良いことだよ、特にあなたみたいな職業は」
「……ボクは、坂上(さかのうえ)雫と申します」
雫は一応危険が無いと判断したらしく本差から手を放すが、警戒は続けている様子だ。
「今回は勝てたようだけど、ひ弱な人間の戦い方にしちゃだいぶ愚かだね」
「狒々は覚のように人の心を読むと聞きます。下手な小細工を弄しては却って危険かと」
「それでもやりようはあるはずだ、心を読まれようが関係なく有利な状況を作ればいい。それができなきゃ博麗の巫女にでも頼めば良かったのよ。自らを危険に晒すのは感心しないな」
ズケズケと踏み込んでいく天子に、後ろで見ていた金剛は勝手なことを言ってくれるなと怒り半分、不安半分だったが、言われた雫は表情一つ変えていない。
「生憎と、僕はこれ以外のやり方を知らないものでして」
「そんな戦い方では早晩に死ぬよ」
「ならばそれが天命かと」
「甘い。天命は人事を尽くしたものにのみ降りてくる。無力さを知り、もっとみっともないくらいあがきなさい。でなければお前の望むようなものは与えられまいよ」
雫の眉が僅かに揺れる。ドヤ顔で言いのける天子に、茂みの影では金剛がいきり立っていた。
「何ですかあの人はー! 雫さんはあの戦い方が乙ってなもんなのに!」
「余計なちゃちゃ入れたがるタイプですから」
お淑やかさを忘れた金剛が飛び出しそうなのを、紫は後ろから押さえながら内心「お前が言うな」と思っていた。
「まあ、似合わない忠言はこの程度にしておくわ。今日はあなたに頼みたいことがあるのよ」
「ずいぶんと一方的で不躾ですね」
「聞くくらいしてちょうだいよ。おーい、金剛! こっち来なさい!」
名前を呼ばれ、興奮していたはずの金剛はドキリと身を震わせ目を丸くした。
「えっ、えっ、ちょ、あの人何言ってるの、私なにも聞いてない!?」
「やっぱりこうなったわね、あの考えなし天人」
「金剛聞いてるでしょ、来なさいって。あ、ちょっと待っててね!」
雫が「金剛……?」と首を捻っている前で、天子は茂みの影に戻ってくるとまだ角を出しっぱなしの金剛の手をむんずと掴み引っ張り始めた。
「行くわよ金剛、ゴーゴー!」
「やあっ、まだ心の準備がー!?」
「頑張りなさい、大和撫子よ」
紫にハンカチを振られて送り出された金剛は、慌てて角を引っ込めて人の姿に化けると、雫の前に連れ出された。
天子が引っ張ってきたか弱そうな女性を見て、雫が目を細める。
「その女性は……」
「こいつは金剛。里の外で失せ物があるから一緒に探してたんだけど、私は急いで帰らないといけなくなっちゃってね。あなたに人里まで送ってやって欲しいのよ」
「は……ひゃじめまして金剛です!」
「初めましてお嬢さん、坂上雫です」
「ひゃ、ひゃい知てます!」
「おや、そうですか。あなたのような可憐な乙女に覚えていてもらえたとは光栄です」
「か、かれんにゃ……!」
案外口が達者な雫におだてられ、金剛は顔を真赤にして熱い頬を両手で押さえた。
金剛の混濁する目を天子が覗き込み、耳打ちする。
「いい? あんたは母親の形見を探しに来たけど見つからなかった、そういう設定よ。嘘でもなんでも有効活用しなさい」
「わ、わかりました……!」
嘘については渋っていた金剛だが、切羽詰まった状況に押し出された今は乗り気になったようだ。
雫も無害そうな金剛を前にして頷く。
「わかりました。その程度のことならお受けいたしましょう」
「助かるわ。男としてエスコートしてあげなさい」
「ふ……ふつつかものですがよろしくおねがいします!」
「はい、短い旅路ですがこちらこそよろしく。すぐに帰り支度をするのでしばしお待ちを」
雫は薄い笑みを作って頭を下げると、再び狒々の生首を風呂敷に包み始め、足元に転がっていた香炉も火を消して腰に結んだ。
「御婦人を送るというのに、無粋なものと一緒で申し訳ない。討伐の証を持ち帰らなければならなくて」
「いえ、そんなこと! お仕事お疲れ様です」
「はは、では行きましょうか。こちらへ、私のそばから離れず着いてきて下さい」
「じゃあねーお二人とも、ばいばーい」
天子に見送られ、男女二人が連れ添って人里へと帰っていく。
二人の影が見えなくなると、小さな紫が茂みから出てきて、狒々の死体の前に立って見下ろした。
「彼は里の人間に怪我はさせても殺しはしなかった、自分がこの場所に合わないと悟って、戦いに来てほしかったのね。討たれる瞬間、笑って逝けた……一瞬でも楽めたかしら……」
そう言い、小さな手を合わせ静かに祈る。
天子は呆れたように息を吐くと、紫の隣に並んで同じように手を合わせた。
「真正面から挑むあの男の行動は、人間にとっては愚かでも、妖怪にとっては救いだわ」
「……で、この流れはまたお墓づくりなわけ?」
「見届けた以上はね。手伝ってくれるの?」
「しょーがないでしょ」
天子は腰に手を当て肩をすくめると紫へと笑いかけた。
紫は朗らかな表情を浮かべると、スキマから大きめのシャベルを二本取り出して、片方を天子に預ける。
猫と来て今度は妖怪の埋葬だ。二人はシャベルを足で押し込んで土を掘り返しながら話をした。
「なんか思ったよか危なっかしい男だったわね」
「そうね。死に急ぐような戦い方だわ、この前の誰かさんみたいに」
「失敬な、私はもっとエキセントリックよ」
「誇るな誇るな……実はね、あの坂上雫という人間、親を妖怪に殺されてるの」
「えっ!?」
紫から明かされた事実に、天子は思わず声を上げて手を止める。
「……なんであんた、それ金剛に言わないのよ」
「言って止まるような女じゃないわ。なら余計なことは知らずに突っ走ったほうがいい」
「まあ確かに……」
紫は作業を続けながら、経緯を説明し始めた。
「坂上家は昔からある退治屋の家系よ。強力な血筋じゃないけど、技術と度胸で妖怪と張り合っている。坂上雫は生まれて間もなく母親が病で亡くなり、男手一つで育てられたけど、仕事に出かけた父親が妖怪の返り討ちに遭い全身を喰われた。坂上雫が十五の時のことよ、そして彼は遺された父の剣を握った」
「あいつが退治屋を継いだのは敵討ち?」
「多分違うわ、父を殺した妖怪は、当時の博麗の巫女がすでに退治してるし。それに、あなたも見たでしょう?」
「……雫の戦い方は憎しみを叩きつける感じではなかったわね」
「その通り。もっとも父の死に何も思っていない、というわけではない気がするけれど」
雫の戦い方自体はとても洗練され滑らかで、流れる水のようなものだった。憎悪に起因する戦いなら、もっと荒々しいだろう。
だが自らを危険に放り込むような戦い方をするのは普通でない。死線に置いて一切の乱れがない精神が、むしろ異常さを際立たせていた。
「しかし彼が危うい心の均衡のもとに立っているのは事実。金剛の恋が上手く両方のためになれば良いけど」
テキパキと穴を掘り、名も知らぬ狒々の弔いを終える。
天子は手の平の土を払うと、また明るい顔で紫へと向き直る。
「それじゃあ紫、スキマ! 金剛たちの出歯亀よ、まだ間に合うかも!」
「はいはい、言うと思ったわ。今開くから」
紫は寝かせたスキマを椅子代わりにすると、目の前にスキマを開いて金剛たちのそばに繋げた。
紫の隣に天子も腰を下ろし、肩を寄せ合い様子を覗き見る。
「ありがとうございます、家まで送っていただいて」
「いえ、もう夜も遅いですしこのくらい当然ですよ」
どうやら金剛が人里で使っている住まいに付いたところのようだった。
何度も頭を下げる金剛に、雫が手の平を見せて謙遜している。
「おっ、良いとこじゃない。そこよ金剛、家に誘っちゃいなさいよ。ねえ紫、これ金剛に声送れないの?」
「滅多なことしたら退治屋に気付かれるわよ、黙って見守りましょう」
「あーもう、せっかく話すチャンスなのに行っちゃうわよ」
天子が心をはやらせる前で、雫は踵を返してしまった。
「それじゃあ僕はこれで……」
「……あ、あのお待ち下さい!」
金剛が男の背中を引き止めたことに、覗き見ていた二人は「おっ」と驚きを吐息に乗せる。
雫が足を止めてもう今一度振り向くと、金剛が勇気を出して真っ赤な顔でまくし立てた。
「今日のことは大変嬉しくて! そ、その……今度、お礼に伺ってもよろしいでしょうか!?」
金剛の恋の冒険に、二人の観客は「おぉー」と期待に声を漏らし前のめりになる。
熱い息を吐く金剛に、雫は驚いたように口を薄く開いて考え込むと、口の端を嬉しげに結んで言葉を紡いだ。
「実は金剛さんのことは、以前から見かけて気になっていました」
「うぇ!?」
驚く金剛だけでなく、天子と紫も「おぉー!?」と歓声を上げて目を大きく見開いた。
金剛はあられもない言葉を出して、しまったと口を抑えていたが、雫は気にすることなく、むしろ純情な乙女心を楽しむように笑みを零す。
「僅かな所作から、友人と楽しそうに話す姿まで可憐な大和撫子で、つい目を引かれたものですよ。あなたで良ければ、いつでも家にいらして下さい。仕事がない時以外は基本、暇を持て余していますから」
「は、はい!すぐ行きます明日行きます絶対行きます!!」
前から見られていたとは思わず、慌てっぱなしの金剛だったが、このチャンスを逃すわけにはいかないと音を立てて首を縦に振りまくった。
改めて雫が「それではお休みなさい」と言い残して去っていく、それに金剛が大声で「お休みなさい!!」と言って見送る。一連の様子をスキマにしがみついて観察していた二人は背筋を元に戻すと、仲間内で見つめ合う。
嬉しそうな顔をする紫に、天子も釣られてにんまり笑い、二人は目を輝かせて手を叩きあった。
「「いえーい!」」
◇ ◆ ◇
「――と言うことがあったのよ、っと」
金剛と雫を引き合わせた一夜から一ヶ月ほど経った日、天子は輝針城の自室で筆を執り、手紙をしたためていた。
あの日以来、金剛は少しずつ雫と交流を深め、練習したお茶や料理を振る舞っているらしい。
天子は一度窓から青空に目を向ける。ひっくり返った輝針城から見れば下に広がった空に、白い雲が浮かんでいるのを眺めると、流暢な手付きで『天子より』でしめる。紙をひらひらと振って墨を乾かしてから、折りたたんで封筒に詰めた。
よし、と満足げな顔をすると部屋を出て、共有スペースに顔を出した。
「衣玖ぅー、いるー? 手紙書けたんだけど」
「はい、こちらですよ」
部屋の中では、座布団に座った衣玖が、ちゃぶ台の上にうつ伏せで寝転がった針妙丸の背中に、細い指を押し付けているところだった。
「あぁ~、きくぅー」
「何やってるの?」
「マッサージです」
「大丈夫? べちゃって潰れて内蔵出たりしない?」
「出ない出ない。怖いこと言わないでよ、小さくてもそんな脆くないから。もういいよ衣玖さん、ありがとう」
「どういたしまして」
針妙丸は机の上で身を起こして座ると、乱れた着物を直し始めた。
小人を尻目に天子はさっき書いた手紙を衣玖へと手渡した。
「手紙、書いたからまたお願い」
「わかりました」
「あら、何の手紙かしら?」
突然割り込んできた囁きが、天子の耳元から吐息とともに飛び込んできた。
天子が「うひゃあ!?」と驚いて飛び退くと、そこにはスキマから上半身を出したロリ紫の姿があった
「なんだぁ、また紫か。うち来るのは良いけど脅かさないでよね」
「ちょっとー、ここ私の城!」
「これは少名様、失礼いたしましたわ。どうか怒りをお鎮め下さい、こちらはお土産のお菓子です。有名店のカステラですよ」
「うむ! よきにはからえ!」
怒った声を上げる針妙丸だったが、紫がにっこり笑って包装された箱を机の上に差し出せば、あっさり手の平を返した。
高そうなパッケージに、天子が不満そうな目を向ける。
「紫ってば私と一緒の時はそんな高そうなの出さないじゃない」
「あなた何でも美味しい美味しい言うじゃない、安物で十分よ。それで何の手紙?」
「違いが分かる上流階級に失敬な。手紙なんて珍しいもんじゃないでしょ、言う必要なし」
「ふぅーん、大した孝行者だわね……」
「うっさい! わかってて聞くなババア!」
紫は手紙を渡された衣玖をジトぉーっと見つめて困らせると、天子に詰め寄って顔を近づける。
「私がスキマで届けてあげましょうか?」
至近距離で話し続ける紫に、衣玖と針妙丸は「近い近い」「私と張り合ってますね」と小声で呟く。
しかし天子は対して驚きもせず真顔で返した。
「いや、衣玖に任せるわよ。人の手を伝って渡して欲しいし」
「……そう」
「シュンとしてるね」
「すごいシュンとしてます」
「うふふ、静かにしてもらえます?」
努めて笑顔を浮かべた紫に見つめられ、衣玖と針妙丸はバッと顔を反らした。触らぬ神になんとやら、あまりつつきすぎるとあとが怖い。
「天子様、私はこのあと暇ですし、今から総領様に渡してまいります。私のぶんの夕食はなしで」
「あいあいー。紫苑も今日は妹のところよね。針妙丸、今日はどうせだし外で食べる?」
「おっ、いいねぇー。噂の八ツ目鰻の屋台行ってみたい」
「ああそこ、この前紫と行ったけど美味しいわよー」
「屋台か……私も行きたいけれど、前日までに言っとかないと藍が怒るのよね」
「残念、また今度ね。美味しいご飯作ってくれることを感謝して噛み締めときなさいよ」
「言われるまでもありませんわ。あなたこそ我が身の豊かさを感謝しておきなさい」
「二人共、あんまり相手の悪口言ってると嫌われちゃうよ」
「そんなことないわ!」
「そんなことないし!」
「……まあしばらく大丈夫そうだけど」
息ぴったりの二人に針妙丸としては、だったら喧嘩するなよと呆れ半分、称賛でも送りたい気持ちが半分だった。
気を取り直して紫が話を戻す。
「なら来週の宴会は一緒に飲みましょうか」
「ああ、博麗神社でやるやつね、話しは聞いてるわ。みんな来るって話だけど……」
天子は話の途中だったが、遠くからドンドンと城の戸を叩く音が聞こえてきて中断した。
空に浮かぶこの逆しまの城に、紫以外の部外者が来ることは滅多にないのだが。針妙丸が珍しそうに声を上げた。
「来客? 誰か見てきてよ」
「私が行ってきます」
「お願いねー。ところでそのカステラいつ食べる? 今?」
「明日にしようかなー。今からじゃ晩ごはん食べられなくなっちゃう……あっ! 天子勝手に食べないでよ!」
「わかってるわよ、一緒にね一緒に」
「この図々しい天人、自分も食べるのは確定済みみたいね」
「分けるのは良いけど、一番は家主の私だからねー」
残った三人で話し込んでいると、廊下から客人を出迎えた衣玖が戻ってきた。
「あのー、すみません皆さん」
「誰だったの?」
「それが……」
部屋に入ってきた衣玖に続き、恐る恐る歩いてきたのは、角から頬までまっかっかの金剛だった。
プルプル身を震わせる鬼を見て、天子と紫は少しばかり驚く。
「金剛じゃない、どうしたのよウチまで来て」
「あ、あの……衣玖先生と天子さんたちに、ほ、報告したいことが……」
「……とりあえず座りなさい」
座布団に金剛を案内したが、彼女は焦点のあってない目で、じっと机を見つめているままだ。
とりあえず天子がお茶を淹れて机に置いたが金剛は手に取る気配がない、見かねた衣玖が金剛の震える肩に手をかけた。
「金剛さん、落ち着いて下さい。ゆっくりと息を吸って」
「すぅー、はぁー……あ、ありがとうございます先生」
深呼吸した金剛は、一度湯呑を手にとった、波打つ水面を凝視すると、口をつけることもなく机に戻す。
そしてもう一度深く深呼吸をして、ようやく事態を告白した。
「あの……その……私……雫さんに大事な話があるからと、今晩デートに誘われましたー!!!」
「なんですってー!?」
「まあ!」
「おお」
一番声を張り上げたのは天子だったが、紫も中々の驚きようだった。両手で口を押さえ、目をキラキラと輝かせている
一方、針妙丸は天子や衣玖から事情は聞いていたが、金剛本人を見るのも初めてで話についていけずにいた。
「この妖怪、天子と衣玖さんが話してた人里の?」
「そうそう、人里の男に恋してたやつ! いやー、良かったじゃない、もう交際まで秒読みじゃない!」
「は、はい! でも私、緊張しっぱなしで……」
「ふむ……しかしそろそろ正体を隠すのも限界では? この辺りで打ち明けないと後が怖いですよ」
「で、ですよね……鬼だなんて嫌われないかな……」
「えっ、鬼なの!? 小槌に魔力入れてもらえるかも……」
「今度にして頂戴」
慌てて小槌を取り出そうとする針妙丸を、紫がピシャリと言い放ち睨み付けた。
針妙丸も「はい」とだけ返して静かにする他なく、怯えのあまり真顔にまでなった小人の前で、恋バナは加速していく。
「言うしか無いですよね、言うしか、私もとうとう明かす時が……」
「まあまあ、そんな自分追い詰めてないで、それよりうんとおめかしして行きましょ!」
「は、はい! 同じ教室の友達に、お化粧得意な人間がいるので、その人に見てもらってから行くつもりです。この前の安売りで、良い着物買っててよかったぁー」
「きっと上手く行きますよ。金剛さんはうちのダンス教室でも一番頑張ってますし、他の習い事の成果もその人の前で披露したのでしょう?」
「はい、お茶とかお弁当とか……でも、鬼をどこまで受け入れてくれるか……」
金剛が不安そうに自分の角を指でいじった。デートまで時間がないのにわざわざ輝針城まで来た理由が、この不安なのだろう。
怯え、戸惑っている。鬼として産まれた彼女は身が傷つくことに恐れなど無いが、心の機微には慣れず、自分の恋心にすら若干ついていけていない。
分水嶺を目前として迷いを浮かべる金剛に、紫が身を乗り出し落ち着いた声で話しかけた。
「あなたの頑張りを彼は見てくれている。あなたの行動が本心から出た誠のものなら、必ず彼の心に響いているわ」
それは優しく澄んだ音色で、金剛の胸の隙間に入り込んだ。
裏側を知りながら、目を背けることなく見守ってきた紫だからこそ出せる言霊が迷いを優しく包み込む。
金剛は目を輝かせると決心し、伸びていた角を引っ込め人化すると、深く頷いて周囲を見回し、自分を支えてくれた皆に目を合わせた。
「ありがとうございます! 勇気が出てきました!」
握りこぶしを作り鬼の娘が立ち上がる。
鼻息を荒くし、瞳に希望を浮かばせて奮起した。
「鬼の金剛、一世一代の大勝負! しっかり決めてきますから、吉報を待ってて下さい!!」
「よっ、その意気よ! 期待してるわ」
「はい! すみませんがこれで、急いで支度してきますのでー!」
天子にはやし立てられ、金剛は駆け足で部屋を出ていってしまった。
見送りもできないまま置いていかれ、傍観していた針妙丸がぼんやりと呟く。
「慌ただしく行っちゃったねえ」
「いやあ、でも上手く行きそうな感じで良かったわ」
天子が相槌を打ちながら、金剛が飲まなかった湯呑を手に取り、茶をすすってから少し考える。
「ねえ、紫ー? 今晩は一緒にいない?」
「ダ、メ、よ! どうせスキマで生中継して楽しもうとか考えてるんでしょう。無粋な真似しないで、今日くらいは大人しく待ってなさい」
「ぶ~、ケチー」
紫としても二人の行く末については気になるところだが、流石に告白の場面はそっとしておいてあげたい。
話も終わり、落ち着いたところで衣玖が腰を上げた。
「さて、私は今度こそ天界へ行ってきます」
「んじゃ私らも出よっか針妙丸」
「うん。紫さんも、戸締まりしたいから帰ってね」
天子が机に手をやると、針妙丸が腕を伝って天子の肩に登ってきた。
「仕方ありませんわ、今日のところはお暇します」
「紫」
紫も帰ろうとしたところで声を掛けられ、振り返ると針妙丸を肩に座らせた天子が、日を映した水面のような滑らかな瞳で見つめてきていた。
「良かったわね」
「……ふふ、気が早いわよ天子」
微笑に返し、それだけに留める。
紫は自分のスカートの端をつまみお辞儀した。
「それでは皆様方さようなら」
天子たちに見送られながら、紫は背後にスキマを開いてその中に倒れ込んだ。
真っ暗闇が視界を支配し、胸に温かさを抱いて漂いながら大人と子供の境界を操り姿形を変化させる。
スキマを通じて幻想郷の空に現れた紫は、すっかりいつもの姿に戻って、緑豊かな大地を見渡し口を開く。
「ふふ、あはは」
柄にもなく楽しい笑い声が小さく響く。
妖怪の山を眺めた紫は、すぐにスキマを開き今度は人里の近くに現れた。
人々が行き交う大通りを眺め、今度は地底へ、薄暗さに負けぬ喧騒を耳に楽しみ、次は魔法の森へ。
スキマを潜るたび映る景色のコントラスト、幻想郷という小さな世界に広がる鮮やかな色彩を目で見て、ざわめきを耳で聞き、芳しさを鼻で嗅ぎ、味まで想起し、風を肌で感じた。
幻想郷はここまできた、ここまでどれだけの苦労を積み重ねただろう、妖怪のためと謳いながら、紫は多くのものに不自由を課してきた。
結果的には妖怪をこの地に封じ込めたし、人里の人間は妖怪を活かすための人柱だ。無論、幻想郷に招き入れた人間は人の世に馴染めずあぶれた者を選んで集めたが、それで消える罪ではない。
だが彼らに罪悪感を覚えても、罪を背負ったこと自体には悔いも憂いもない。今はただただ進化する幻想に紫の気持ちは舞い上がった。
「嗚呼、素晴らしいわ、美しきかな恋。良いわ、もっともっと盛り上げて」
長い長い、果てがないような紫の理想が、今その一つの形を示そうとしている。
こんなに嬉しいことはそうないだろう、相方がいれば舞の一つでも踊りたい気分だ。
そしてこれで、雫と金剛の二人が幸せになってくれれば、もうこれ以上のことはない。
感極まった紫は、いつのまにか博麗神社の屋根の上で、腰を下ろして胸の高鳴りを感じていた。
高揚する頬を風が気にかけてくれ、火照りを冷ましながら幻想郷を一望する。
「おい霊夢、厄介なの来てるぞ」
「はあ? うわ、ほんとだ」
下を向くと、霊夢と魔理沙が屋根の上を見上げて来ていた。
小さく手を振り、にこやかに笑いかける。
「はぁい、元気してたかしら二人共?」
「今はげんなりしてるわよ」
「意味深に笑って、今度は何企んでるんだ?」
「うふふ、内緒」
相変わらず信用されてないが、そのように振る舞ってきた自分の自業自得だから何も言わない。
気に病む必要はない、自分の気持を理解ってくれる人はすでにいる。
「どうするあいつ?」
「んー、まあほっときゃ良いでしょ」
「だな、好きにさせるか。それより本当なのか? 今度の宴会に――」
「えぇ、もう業者にも話が行ってるらしくって――」
不気味だが楽しそうなのを感じ取り、霊夢と魔理沙は屋内に引っ込んだ。
他人を気遣う心を持つ可愛らしい少女たちにも、紫は喜びを感じ、地平線を眺める。
落ち始めた日が、柔らかな赤で世界を包む。夕焼けに萌える自然の空で、妖精が飛んでいるのが夕日に浮かんで見えた。
幻想郷の各地では帰り支度を始めている頃だろう、あるいは天子たちのように外で食べようと却って活発に動き始めたものもいる。
この地に住む全てが、せめて今だけでも安息であるよう祈りを胸に湛える。
移り行く昼と夜の境界が、幻想郷を塗り変える様子を、紫は感慨深そうに見つめていた。
◇ ◆ ◇
「女苑、来たわよ……じょおーん?」
何日かぶりに女苑の様子を見に来た紫苑だったが、家の扉を開けるとムッとした重い空気が出迎えた。
輝針城ではあまり感じない空気に眉を潜めて家に入ると、畳の上で高級コートを着たままの女苑が倒れているのが見つかった。
「女苑どうしたの!?」
「う……姉さん……」
声を掛けると、女苑は苦しそうな声を出して、むくんだ顔を向けてきた。
「どこか痛むの?」
「痛むっていうか、失敗して自己嫌悪で、やけ酒してぶっ倒れてた」
慌てて駆け寄ったが、実際には大したことなかったらしい。
てっきり取り憑いた時に下手を打って暴力でも振るわれたかと思ったが、やけ酒程度で安心した。
家に入った時の嫌な空気は、充満した酒気だったようだ。
「あー、良かった。心配したわ」
「良くなんか無いよ、あーあーもうやんなっちゃう。せっかく上手くいってた感じなのにケチ付いちゃった」
舌打ちをして女苑は起き上がる、随分とだるそうだ。
「どうしたの一体?」
「それが聞いてよ! って、いたた、頭が……」
「水汲むわね」
水瓶からコップに水を汲み差し出す。
受け取った女苑は一気に水をあおると、プハァーと溜まっていたものを吐き出すような息をついた。
「この前話したプランを実行しようと思ってさ、手始めにやる気なさそうな若者なら男も女も関係なく取り付いて、ちょっとおだてながら金を巻き上げて撤退っての繰り返してたのよね。そしたらとんでもないのに当たっちゃって」
「とんでもないの?」
「うん、顔は良いんだけどね……あっ男なんだけど、最初に取り憑いた辺りは困りながらも付き合ってくれる感じだったのに、酒を飲ませたあと鬱憤とか出させるように突っついてみたんだけど、いきなり人の命ができるだけ長く活かされるにはとか妙ちきりんな持論を語り出すわ、世の愛なんてガラクタに過ぎないだなんて言い出すわでさー」
「大変だったのねー」
貧乏くじを引いてしまったということらしい。
世の中には色んな人がいるんだなー、と紫苑はぼんやり聞いていた。
「まったく、ようやく理想の女が手に入ったとか言って、女の子をモノ扱いするところにも腹立つわー。里でも優秀な退治屋だか知らないけど、ありゃ相当なもん抱えてるわ」
「……うん?」
退治屋、というところに紫苑の脳裏で嫌な予感がよぎる。
天子から、最近妖怪と退治屋の恋を手助けしているという話を聞いていたが。
「ね、ねえ、その退治屋ってどんな名前?」
「名前ー? なんで姉さんがそんなの気になるのさ」
「いいから、なんて人だったの!?」
「えー、あんまりよく覚えてないよ……何だっけ、水っぽい名前って思ったような」
「もしかして、坂上雫?」
「あっ、そうそうそいつ! 姉さん知り合いなの? 止めたほうが良いよあんなやつ」
「女苑!」
「な、なによ、姉さんってばマジな目して」
いつにない真剣な姉の表情に女苑は戸惑っていたが、構わず紫苑は問い詰めた。
「その人の話、もっと良く聞かせなさい」
◇ ◆ ◇
日がほとんど大地に沈み、東の空では星がまたたき始めた頃。
人里の広場では人気が少なくなり始めていたが、金剛は龍神像の元へと急いでいた。
メイクはばっちり、着物も桜の柄のちょっと良いやつ。あまり慌てすぎて汗をかかないよう気を付けながら早足で歩く。
待ち合わせの時間には少し早かったが、すでに龍神像の前には雫が待っていた。
「こんばんは雫さん! ごめんなさい、待たせてしまって」
「こんばんは。気にしないで、僕もついさっき来たところさ」
雫は腰に刀を差し、後腰からは幾つか包を垂らしていた。
妖怪退治の時の風貌に近いことに、金剛は疑問を持ちながらもひとまず会釈する。
「きょ、今日はお誘いいただいてありがとうございます」
「いや、こちらこそ僕のわがままに付き合っていただいてありがたい。金剛さんに伝えたいことがあってね……」
「な、何なりと!」
「はは、そう固くならないで、まずは見せたいものがあるんだ。付いてきてくれるかな」
そう言って雫は金剛に背を向けて歩き出した、腰から提げた香炉が揺れる。
香炉には火が吐いて煙が漏れていた。金剛にとっては嫌な臭い、魔除けの類だ、とはいえこの程度は我慢できるので、顔に出さないようにする。
「雫さん、どちらへ?」
「実は里の外に用があってね」
「外、ですか?」
「あぁ、でも心配いらないよ。僕が付いてるし、妖怪除けのお香も準備してきた」
「はい、それは勿論です」
そもそも金剛自身が力を持った鬼だ、身の危険について心配など無いが、里の外にまで連れて行って見せたいものはなんだろうかと気になった。
篝火で照らされた里の門を超え、人がいるべしと定められた境界を超え、妖怪が潜む夜の領域へと雫が足を運んでいく。
雫が松明を片手に闇夜を進む後ろを、金剛は三歩遅れて付き従うよう気を付けた。
歩くこと数分、途中で道を外れ森に沿って野原を歩いていく。この先には見晴らしがいい場所も特になかった気がするが。
やがて雫が足を止めた場所にあったのは、草のない地面に突き刺さった四角い石の柱だった。
金剛が雫の隣で立ち止まり、松明に照らされた石柱を夜目を凝らしてよく見てみる。
柱の表面はザラザラしていて、素人が大岩を削って作った代物らしいことしかわからない。
「これは……」
「お墓さ、僕が作った」
墓と言われればそう見えるかもしれない、だが名も刻まれていないのは妙だ。
「実はね、僕の父親は退治屋だったが、妖怪に喰われたんだ」
「えっ!?」
疑問も忘れ、金剛はただ驚く。
胸に到来したのは、その事実を知らずに雫へ近付こうとしたことの罪悪感。
彼が好きで、彼に好きになってもらいたくて、そして彼と一緒に幸せになりたかったというのに、そんな雫を相手に自分の身を偽っていたことが、どれだけ彼の心を抉るのか不安に思い狼狽えた。
「ご、ごめんなさい、私そんなこと知らずに雫さんに近づいて……」
「ふふ、何で金剛さんが謝るんだい、おかしいなぁ」
雫は笑い飛ばしたが、金剛はますます秘密を打ち明けにくくなってしまった自分を恥じた。
「じゃあこれは、雫さんのお父様の……」
「いや、父の墓じゃない。骨も残さず喰われたけど、一族の墓が里にあるんで、そっちで遺品を弔ったよ」
「そうなんですか。でもこのお墓は」
「これは、父を食らった妖怪の墓さ。博麗の巫女に退治されたから、僕が作ったんだ」
金剛が首を傾げる。
「妖怪のお墓を、どうしてわざわざ」
「僕は父を喰った妖怪を恨んじゃいないってことさ。むしろ感謝してるくらいさ」
「かんしゃ……?」
どういうことだろう、感謝など、人間たちの価値観なら自分の親に失礼なものではないのか。
「香が切れたね、新しいのを焚くよ」
雫は後腰から垂らしていた香炉を外すと、地面に屈んで香炉を置き、新たな香を松明にかざして火を付けた。
香は香炉の中に収められたが、そこから臭ってきたものに金剛は目を剥いて口元を押えた。
この臭い、さっきまでのものと違うが嗅いだ覚えがある、雫が妖怪退治の際に炊いている妖怪誘いの香だ。
妖怪の本能が叫び、牙が伸び始めるのを口の上から抑え込む。
「あ、あの、お香を間違っていませんか? さっきと臭いが違うような」
「ん? そうかな。素人に分かるもんじゃないと思うけど」
「えーと、鼻が良いんですよ、私っ」
「まあ細かいことは良いですよ、もし無粋な輩が襲ってきても僕が退治しますから」
「そ、そうかもしれませんが……」
金剛の背中で嫌な予感が冷たいものとなって流れるのに、体の内側は熱くなるのが止められない。
充血する眼球で視界が真っ赤に染まったような錯覚を覚え、荒くなった息が聞かれまいか怖くなる。
いや怖いよりも、とにかく何かおかしい気がする。雫の態度はいつもどおり物静かなように見えるが、この頑なさはなんだ。
「僕の回りの人達は、父が喰われたことについて口々に失敗したと言いました。だけど実際には違う、父は失敗なんかしちゃいない、間違ったとしたら喰われる相手を間違ったんだ。すぐ巫女に退治されて、喰われ損じゃないか」
そう言って、雫が新たな香に火を付けた。
むせ返る臭いに、今度こそ金剛の中で牙が育つ、もう手で押さえなければ喋っただけで気付かれるくらい、妖怪の本性が自己主張を始めた。
髪の毛の下では額の皮が引っ張られ、朱い角まで現れ始めていた。
「に、臭いがつよっ……!?」
「どうしたんですか、そんなに口を押さえて」
雫が屈んだまま、伊達眼鏡の下から漆黒の目で睨めあげてきた。
およそ悪意のない人間がするものでない、混沌とした矛盾に満ちた者の目だ。
「あ、あなた、もしかしてわかってやって……!?」
「父は見つけたんだ、こんな狭い世界で人が救われるすべを。人間なんて長く生きても百年に満たない、けど妖怪はどうだ、平気で何百年も生き続ける。人間を支配するあなた達こそ、全てを得るに相応しい」
松明が地面に捨てられ、輝きを踏みにじられた。
明かりがなくなり真っ暗になる中で、雫の手が刀に伸びるのを、夜目が効く金剛は気付いた。
すべては罠、退治される――そう思っていたのに、雫は大小の刀を鞘ごと腰から引き抜いて何もない場所へと投げ飛ばされた。
意図が読めず金剛が固まる前で、雫は狂気に濡れた目で女を見つめながら、自らの襟首を掴んで胸元を広げて肌を見せつけた。
「さあ、僕の肉体はどうだ金剛さん!? この日のために一日も気を休めず練り上げてきた身体だ! あなた達にとっては極上の餌だろう!?」
見せつけられた肉体からは、妖怪の理性を奪う強烈な酒気。
極限までに判断を狂わせた先にどうさせたいのかとうとう理解した金剛は、頭が燃え立つ中、目に涙を浮かべてその場から逃げ出した。
「う……わあああああああああああ!!!」
悲鳴をあげる金剛を、雫は愉しむように恐ろしい笑みを作ると、着物を脱ぎ捨てて鍛え抜かれた身体を月明かりの下に誇示した。
「どうして逃げる!? 僕はずっと、君のような僕を食べるに相応しい妖怪を探してきたんだ!」
靴下に褌まで脱ぎ捨て、眼鏡以外は何も身に着けていない完全な裸体になり、その健脚で金剛の後を追った。
金剛は一瞬後ろを見て、裸の男に恐怖して短く悲鳴を上げると、無我夢中で逃げようとする。しかし香に酒気とで理性が乱れ、足が思うように進んでくれない。本当なら人間など簡単に振り払えるのに。
対して雫は俄然元気になって、筋肉質な身体を存分に動かして、素足で荒れた地面をも走り抜けてくる。
「君なら妖怪の秩序に溶け込んでこの先もずっと生きていける! 僕は君に食べられて、君の血肉となり永遠を過ごすんだ! これはただの死じゃない、一体化という通過点を経てお互いの存在が昇華されるんだ! 君は僕を食べ、更なる高みへと登るんだよ! これが正しい進化への道のりなんだ!」
「い、いやああああああああああ!!!」
無力な悲鳴が夜に木霊した。
◇ ◆ ◇
金剛達がいる場所から遠く離れたところで、天子とその肩の針妙丸は満足げにお腹を擦って、酒気に帯びた息を吐いていた。
「やー、やっぱ美味しいわねー夜雀の屋台」
「だねー、妖怪侮りがたし」
女の危機など知らずのほほんとしている、このまま輝針城まで歩いて帰って酔いを覚ますつもりだ。
「妖怪の作るものって言えば、紫のとこの九尾が作る料理も激ウマなのよ。お弁当食べたけど美味しかったわ」
「へえー、いいなあ天子ばっかり。私も食べたーい」
「隙きを見てみんなでご馳走してもらおっか」
ちょっとした悪巧みを話していると、進行方向から見覚えのある透き通った青いオーラが見えてきた。
一瞬人魂でも浮かんでるかと思ったが、それが近づいてくると紫苑だということがわかった。
「て、天子、ここにいたの! 探したわ!」
「どうしたの紫苑、そんなに慌てて」
相当急いで天子たちを探し回っていたのだろう、肩で息をする紫苑は垂れた涎をすすりながら必死に声を絞り出す。
「こ、金剛が、金剛が危ないの!」
眉をひそめる天子を前にして、何をどう説明するかわからなくなる。
紫苑は一瞬悩んだ後、とにかく女苑に聞いて思ったことを吐き捨てた。
「――雫って退治屋の男、本当はとんでもない変態なのー!!!」
「いいいいい!!?」
◇ ◆ ◇
金剛はもつれそうな足で必死に人里に逃げ込もうとしていた、正体がどうのと考えてる余裕はない、とにかく他の人に雫の蛮行を止めてもらわなくては。
だが足は千鳥足、角はもう完全に伸び切って、捕まえられて囁かれたら、思い余って喰らおうとしてしまうかも知れない。
頭を振り、本能を抑えながら走る背後で、追いかけてくる裸の雫が大声を上げた。
「逃げても無駄だぞ! 服の下にはたっぷり妖怪特攻の毒手を塗り込んだ、大事なとこまでなあ! 嗅いだだけでも酔いまくって、さぞや人間が美味しくみえることだろうさ!!」
勢いに乗った雫が地面を蹴って宙を舞い、金剛の身体に飛びかかってきた。
背中から抱きつかれた金剛が、耐えきれずに草むらの上に倒れ込む。
「捕まえたあ!!」
「いやあ、離して!!」
ますます酒気が漂ってきて、金剛から力を奪う。
雫が金剛を抑え込んだまま仰向けにさせると、その上にまたがりながら、金剛の両頬を押さえて額の二本角を覗き込んだ。
「ああ、いい、素晴らしいぞ金剛さん。この朱い角、まさしく人ならざるものの表れだ。人より強く、長くを生きる。君のようなお淑やかで生き残る資格のある女の妖怪をずっと探していた、その可憐さ、僕を喰らうに相応しい!」
感極まった雫が、目の前の角に唇を付けて歯を立てる。
角から伝わってきた脳が痺れるほど嫌悪感に、金剛は腕に力を込めた。
「や、やめてえ!」
なけなしの力が雫を跳ね除け、角から涎が糸を引いてすぐに途切れた。
だが雫は受け身をとってすぐに立ち上がると、再び金剛を抑え込んで発情したみたいに熱い息を吹きかける。
「結婚なんて下らない、どちらか一方が死ねば愛は終わりじゃないか、父さんはずっと寂しそうだった」
「いや……いや……」
「だが君に食べてもらえば僕はずっと血肉となってそばに居続ける。永遠の愛だ!! これ以上のものはどこにある!?」
「やだ……そんなのやだよぅ……」
泣きわめく金剛は、心まで悲鳴を上げ、抵抗する力が抜けていく。
鬼からか弱い女に成り果てた彼女を、雫は振り向かせると仰向けに寝かせると、その上にまたがって最後に身に着けていた伊達眼鏡も捨て去った。
「君に食べてもらえるなんて光栄だなぁ……さあ、僕を見ろ!! その美しくも恐ろしい眼で僕の姿を脳みそに焼き付けろお!!!」
産まれた姿に戻った雫の背後に、月明かりを背にした何者かが、棒状のものを振り上げるのが金剛の目に映った。
「あ……」
呆気にとられて声を漏らした直後、桜色の閉じた傘が雫の顔を横合いからブチ込まれた。
衝撃を受けた雫が、白目をむいて唾を散らしながら吹き飛ばされる。横たわった金剛の前に立っているのは、美しい金髪に紫色の道士服
金剛が会ったときとはその姿は違っていたが、同じ妖怪であっても恐ろしいと感じる妖気から、それが誰だかすぐわかった。
「紫、さん……」
呆然と呟くそばで、雫が頭を押さえながら起き上がった。
「な、なんだおまグハァ!」
もう一発、スイングされた傘が雫を打つ。猛烈な殴打に、鍛え抜かれた雫も一瞬意識を奪われた。
朦朧とする男の前に、怒気を漲らせた紫が、紫色の妖気を瞳に宿して睨み付ける。
「女を泣かせる甲斐性なしが、喰らう価値など何処にもないわ!」
叫び、今度は傘の先端が雫の鳩尾を打つ。痛みで悶絶する男を前に、紫は一切の抵抗を許さない。
天子が紫苑から話を聞いたのがついさっき、金剛の身を案じた天子は、紫と最速でコンタクトを取るために八雲家の周辺に震度3の地震を引き起こした。
わがまま娘に怒り心頭で顔を出した紫だったが、紫苑から話を聞いてすぐに金剛を探し出し、事態を知ると今度は怒りの矛先を雫に向けてきたのだ。
金剛の純粋な恋心を踏みにじられたこと、自分の理想が目前で崩れ去ったこと、何もかもが心に突き刺さり、紫は怒りを漲らせている。
「失せろ小童が! 貴様に彼女の意思を決める資格などありはしない!」
「うっ、く、くそ! なぁ金剛、君なら分かるよな? 君は妖怪なんだ、僕のことを食べてしまいたいと思ったことが一度くらいあるだろう!?」
いくら殺気を飛ばしても、しつこく妄執にすがる男に、紫は苛立って舌打ちを鳴らす。
ムシャクシャを叩きつけようと傘を振り上げようとしたが、背後から金剛の呟きが聞こえて手を止めた。
「ありません……一瞬も……私はただ、あなたと一緒にありたかっただけなのに……」
涙を流しながら答えられた言葉に、雫ばかりか、紫まで目を見張る。
雫は自らの理想を裏切られ、力なく肩を落とした。
「そんな、そんなこと……嘘だ……」
我に返った紫がもう一度傘を打つ。
もんどり打って倒れた雫に、再三殺気を浴びせ怒鳴りつけた。
「もう一度言うぞ、失せろ」
「く……くそ、くそ、くそぉ!!」
雫は自らの失敗を感じ、悪態を付きながら駆け出した。
逃げゆく男の背中から紫は視線を切り、泣き腫らす金剛に跪いてハンカチを頬に当てた。
「うぅ……ぐす……」
「金剛さん、お可哀そうに……」
今回の一件、どれだけこの娘は傷ついたことだろう。
涙と泥を拭っただけでは到底足りない。
「やはり、これだけじゃ腹の虫が治まらないわね」
紫は立ち上がって彼方を睨んだ。
「はっ……はっ……はっ……」
裸のまま走る雫は、ひとまず置いてきた服を取り戻しにお墓の場所まで戻ろうとしていた。
「は、あはははは、金剛さんは嘘を吐いている! 妖怪は人間を喰う、人間は喰われる、それが正しい形なんだ、間違いなんてありっこない!」
だが彼には諦めた様子がない。金剛の口から否定されてもなお、まだ妄執にとらわれていた。
「出直そう。もう一度アプローチを掛けて今度こそ僕は、彼女の愛に包まれて……」
「――何を喚いているの?」
不意に耳元で声を聞かされ、驚いて雫は足をもつれさせて転がり込んだ。
裸の肌が地面にさらされ擦り傷ができたが、それよりも気になるのは声の主の正体。
雫が慌てて振り向くと、そこには青い髪の女がふよふよと浮かんでいた。
「何だお前!?」
「私? 私は貧乏神よ、ちょうどよく不幸になりそうな人間がいるから取り憑いちゃった」
そう言って紫苑と名乗った女は喉を鳴らして笑う。
今彼女は自らをなんと言ったのだ?
「貧乏神って」
「これからあなたに不運が襲うわ、逃れようのないね」
その意味を雫が考えていると、少し離れた場所から草を踏み分ける音が聞こえてきた。
今度はそちらへ目をやると、そこには黒いスカートを身に着けて、頭に御札のリボンを付けた幼い少女が、月の光の下に現れた。
「何だお前変態かー? でも中々身が引き締まってて美味そうなやつ」
こんな時間、里の外に普通のこどもが出てくるわけがない。こいつは間違いなく妖怪。
「里の外にこんな時間でいるんだから、食べちゃってもいいよねー?」
豚を見る目で、闇の妖怪は涎が垂れた唇を指でなぞった。
「う、うわあああ!!!」
雫は一目散に逃げ出して人里へと走り出した。
恐怖を浮かべる男に、取り憑いた貧乏神が横から細い声で問いかけてくる。
「何を逃げているの? あなたはさっきは妖怪に食べられたがってたじゃないの、望みが迫っているわ、すぐそこよ」
「ち、違う、冗談じゃない! あんな愛の一つも知らないやつに喰われてなんてたまるか! 僕は僕を愛してくれる女性に喰われて一つになるんだ! それが究極の愛、辿るべき道だ!」
「愛だなんておかしいな、そんなもの何処にもない、空想にすら満たない妄想よ」
「違う!」
雫が叫んだ直後、足の裏から鋭い痛みを感じて、再び地面に倒れ込んだ。
どうやら裸足で駆け回った結果、足を怪我してしまったらしい。足が引きつり、立てそうにない。なんて不運だ。
身体中擦り傷だらけで地面に倒れ伏す雫に、貧乏神は背中から肩に手を置いてしつこく囁いてくる。
「ねえ知ってる? 人間は細胞っていう肉の粒が数十兆個集まって出来てるけど、それは毎日どんどん入れ替わってるんだって。あの妖怪にあなたが食べられても一年も満たない内に、あなたから得た栄養は全部入れ替わってされる。行き着く果ては糞と小便と垢にすぎない」
「う、嘘だ! もし肉が消えても僕の魂はそこに遺る!」
「そんなわけないじゃない、死んだ人間はあの世に行くのよ。あなたはきっと大地獄ね。遺るものなんてなにもないのよ」
「何もない……? 無……? そんなはず……」
背後の貧乏神から自らが信じたものを打ち崩される中、雫の前にはさっきの妖怪が両手を広げて楽しそうに近づいてくる。
大きく開けた口で、鋭い牙が月明かりを反射した。
絶望感に包まれる雫に、貧乏神が更なる追い打ちを仕掛けてきた。
「ほらそこよ! そこまで無が来てるわ! 大口開けてあなたをぱっくり飲み込もうとしてる! ほら、あなたはあれに食べられて、なんにもならないまま惨めな糞尿に成り果てるのよ!」
「ち、ちが……そんな……やだ……」
いくら否定しようが、完璧にまで無意味な死が目の前にまで迫ってきていた。
「いやだあああああああああそんなことおおおおおおおおおお!!!」
子供のように泣きわめくしかなかった雫の前に、どこからか緋色の剣が飛び込んできて地面に突き刺さった。
雫と妖怪とを遮った剣は、刀身から緋い閃光を周囲に放ち、視界が真っ白になるほどの光量で周囲を照らし出した。
わけがわからずまぶたを閉じる雫だったが、光の向こうから幼い声が聞こえてくる。
「やあー、眩しいー! なにこれー!」
軽い足音が遠ざかっていき、しばらくしたあと、光は徐々に止み始めた。
恐る恐る目を開けると、そこにはいつか会った天人が肩に小人を乗せながら、緋き剣を握り締め雫を見下ろしていた。
「あ……あ……天人……」
天人は緋い剣の刀身をかき消すと、足音を立てて雫へと近づいてくる。
「あ、ありが」
お礼を言おうとしたその横っ面に、今度は天子の拳が突き刺さった。
下手すれば首ごとふっ飛ばしかねない馬鹿力がねじ込まれ、雫の意識は完全に刈り取られた。
にもかかわらず天子は雫の上にまたがると、両手を握りしめ、左右交互に雫の顔をぶん殴り続ける。拳が血に染まり、端正な顔がまたたくまに腫れ上がった。
黙々と殴り続ける天子に針妙丸と紫苑がどうしようか悩んでいると、金剛を引き連れて歩いてきた紫が、天子の暴虐を見つけるなり慌てて駆け寄ってきた。
「天子、ストップストップ、それ以上やると死んじゃうから」
止めに入られた天子がムカっ腹を立てた顔で振り向いて、紫を睨み付けた。
「なんで止めるのよ紫! こんなクソ男死んじゃったほうが世のため人のためよ!」
「若干同意するけど、彼もここの住人……だから止めなさいって拳を振り上げない」
紫は仕方なく天子の腕を握り力づくで止めにかかる。源五郎の母親の時もそうだったが、どうやらこれが役割らしかった。
「金剛は彼を殺そうとはしなかったのよ、私たちがやってるのは全部八つ当たり、裁くのは彼女に任せなさい」
「ぐぬぬっ……」
なんとか納得してくれたようで、天子は悔しさを顔に浮かべながらも拳を解いて立ち上がった。
天子が落ち着いたのを見て、紫は紫苑へと話しかける。
「礼を言うわ依神紫苑、少しはあの男も肝が冷えたでしょう」
「いいわよ、これくらい。何だかちょっと楽しかったし」
さっきまでのことはすべて紫の企みだ。
紫苑を雫に取り憑かせて不運を呼び込み、後はシチュエーションに合わせてその心を折るよう、紫がスキマから囁いて紫苑へ台詞を指示したのだ。
雫も勘がいいほうだが、ああまで焦燥していては裏に気付かなかったらしい。
「そう、でも快楽にはまらないようにね。決して良いものじゃないわ」
「うん、それは同意するけど」
紫苑は一度頷くと、控えめにはにかんだ。
「ちょっとでも人の役に立つのって、嬉しいな」
不機嫌そうな天子から、針妙丸が飛び降りて倒れ伏した雫に近寄る。紫苑もなんとなくそれに倣った。
裸のまま大の字で倒れる男の姿は、この上なく哀れなものだった。
「へえー、これが噂のイケメン退治屋かぁ」
「もう見る影もないけどねー」
「全裸で女の子追いかけ回すとか、紫苑の言ってた通りの変態だね。針であそこ縫い留めてたほうが良いんじゃない?」
「それで止まるかなあ、変態だし」
「変態こわー」
針妙丸と紫苑が話しているあいだ、天子は金剛に近づくと涙に濡れた鬼の顔を覗き込んだ。
「天子さん……」
「金剛、その変態の性癖は聞いたわ、あんた危なかったわね。こいつどうする? いっそ殺っちゃって良いと思うけど」
恐らく、雫は自分を食べてくれる理想の女妖怪を前から探していたんだろう。
金剛はその候補の一人だったのだ、道理で交際までスムーズに進んだわけだ。
恋心を弄んだ女の敵に天子は怒り心頭だが、金剛は泣きながらも首を横に振る。
「ぐす……とりあえず、服、着させててげて下さい。寒そうです」
「あ、そう……」
とんでもないことになったと言うのに、慈悲を見せる金剛に、天子は毒気を抜かれて口をつぐむ。
「後は全部、私に任せて……」
悲しさで顔を歪ませながらも、そう言われては誰も何も言えず。
ただ紫が、大きな大きなため息を吐いただけだった。
◇ ◆ ◇
「それで、まだ寝てるんですか紫様」
「ああ、まだ落ち込んでらっしゃる」
二人の式神が、薄く開けられた襖から部屋の中を除く。
室内には廊下からの明かりが差して、盛り上がって丸まった布団が見えた。
「……ぐすっ」
鼻をすする音が聞こえる。妖怪の恋心を襲った事件から一週間、あれからずっと紫は傷心に浸り自室にこもり続けていた。
ご飯の時には出てきてくれたが、それとトイレ以外ではずっと布団でダンゴムシだ。布団の中で膝を抱えたまま寝転んでいる。
今日はもう夕方だが、このままでは二週間目に突入しかねない。
「よっぽどショックだったんですね、金剛って妖怪のこと」
「優しいが故に繊細な方だからなぁ……というわけだ」
「わかったわ。ここは私に任せて、あんたたちは先に神社に行ってなさい」
そしてまた、天子が式神たちのあいだを通り抜け、紫の部屋へ足を踏み入れた。
襖がパタンと小さな音を立てて閉められれば、明かりは窓から入ってくる夕暮れ時の外の光だけで、部屋の中は薄っすら暗い。
「紫、来たよ」
返事はない、だが聞こえているようで一瞬すすり泣くのが止まったのがわかった。顔が見えないが、きっと悲しさで歪んでいることだろう。
相変わらず泣き虫だな、なんて天子は苦笑しながら、布団の上で座り込み紫に背中を預ける。
「金剛たちのことそんなにショックだったか」
「……当たり前よ」
上ずった声でようやく愚痴を漏らしてくれた。
天子はそれに少しずつ問いかける。
「二人のこと、そんなに応援してたんだ」
「えぇ……」
「それって幻想郷のため?」
「……わからない」
「どうなって欲しかったの?」
「……みんな、幸せになれればいいって思ってた」
難しい理想を追う女だ、きっと本気で言っているんだろう。
「上手く行かないものね、何もかも」
「案外そうでもないわよ」
不意に天子が喉を鳴らして笑ってみせた。
そうして立ち上がると、紫が被った布団の端を華奢な手でむんずと掴む。
「そーら紫! そろそろ顔見せてよ!」
バサリと布団が剥ぎ取られる、はためく掛け布団を部屋の隅へと追いやり、膝を抱えたままで寝ている紫の前に天子が回り込んだ。
紫の顔を覗き込んでみたなら、案の定、涙の跡が幾重にも残り、目は真っ赤に充血して、おまけに髪はボサボサという有様だった。
泣き止んではいるが、それにしたって酷い顔だ。
「あっはは、変な顔」
「うるさいわ、いつまで経ってもデリカシーないんだから」
「ごめんごめん、良いもの見せてあげるから気分治してよ」
「良いもの……?」
睨み付けてくる紫を、天子が持ち上げて起き上がらせる。
布団に座らせた紫へ、天子が真正面から顔を突き合わせて悪戯っぽく笑いかけた。
「あんたさ、あれから金剛たちの様子確認してないでしょ」
「うっ……」
紫が嫌そうな声を漏らす。失敗に終わり、期待を裏切られ、その後の顛末を確認するのが怖くてずっと見ないでいたのだ。
「怖いのはわかるけどさ、一度見てみてよ。そうね、雫の家でも覗いてみなさい」
「でも……」
目を伏せ渋る紫に、天子が手を伸ばして手を取った。
緊張を解すように紫の細い手を揉んで笑いかける。
「勇気を出して、私が傍にいるから」
紫はしばらく何も言わずに手のぬくもりだけを感じていたが、ずっと微笑んでくれている天子の顔に目をやると、ようやく口を開いた。
「……わかったわ」
強張った声で頷く紫の隣に、天子が座り込んで肩を抱いた。
付き添ってもらいながら紫が目の前に境界を敷く、開きかけたスキマを前にして、空間を繋げる前に深呼吸した。
もう一度天子を覗き、前を向いた彼女の笑顔を見てから、いよいよスキマを開いた。
境界を繋げたのは、天子が提案した通りあの退治屋の家。
そこから見えたのは目を見張るものだった。
「――オラ! あんた何だい今日の戦いのへっぴり腰は!」
「イダッ! ごめんって金剛さん! でもあんまり妖怪の裏をかくような真似は慣れてなくて、卑怯っていうか……」
「だったら慣れるんだよ! 人間は人間らしくせせこましく生き延びろってんだ!」
傷だらけの雫の尻を蹴り上げて、角を伸ばした鬼の顔で叱りつける金剛がいた。
「……は?」
状況がよくわからず紫、変な声を出してしまう。隣では天子が声を殺して笑っている。
声を荒げていた金剛は、一度咳払いしてペースを戻すと、角を引っ込め人間らしい優しい顔つきで薬箱を引っ張り出してくる。
「ほら、雫さん傷を見せて下さい、手当しますから」
「い、いや自分で出来るよこのくらい」
「だーめーでーす。雫さんは他人の気持ちをもっと受け取れるようになるべきです。独りで殻にこもってるから変な変態に目覚めたりするんです」
「変態ってそんなんじゃ、僕はただね……」
「他人に喰われるのが愛とか変態でなくて何なんですかー!」
怒鳴りつけた金剛は、嫌がる雫の手を取ると妖怪にやられたらしい切り傷に消毒液を浸した布を押し当てる。
上半身の服を脱がしてまで、丁寧に手当てをする光景からスキマを閉じた紫は、天子と顔を見合わせて呆然と呟いた。
「……どういうこと?」
「金剛の恋心は本物だったってこと」
金剛に感化されたように、天子は優しい顔で紫の疑問を迎え入れる。
「あいつさ、泣き止んでからは、雫さんの性根を叩き直してやるー、って張り切りだしちゃって。今じゃあんなふうに押しかけ女房で面倒見ちゃってるわけ。雫の方も追い出さない辺り、満更じゃないんじゃない?」
天子から語られる言葉を、紫は瞳を震わせて聞いていた。
とうに涙は流しきったと思っていたのに、また目の奥が熱くなって胸の奥がうずき出す。
「安心して紫、あんたがやってきたことは無駄じゃなかった。おかしな関係だけど、あれもまたこの幻想郷に産まれた新しい人と妖怪のカタチよ」
天子自身も、この結果を喜び、感嘆を込めた言葉を送る。
やがて紫はふるふると肩を震わせ、大粒の涙をこぼし始めると、感極まって天子に飛びついた。
「――――てんしぃー!!!」
嬉しさで滅茶苦茶に笑いながら涙を流し、ぎゅーっと天子の身体を目一杯抱きしめる。
天子は締め付けられる痛さに苦い笑いを浮かべながらも、満足そうに紫の背中をぽんぽんと叩いた。
「よかった……よかったほんとうにぃ……!!」
「よしよし、もー泣き虫なんだから」
純情で、自分では優しくないと言いながら、どこまでも優しくあれる紫に、天子は彼女の温かさを感じられることに喜びと誇りを感じていた。
金剛が道を見つけられた以上に、紫が報われたことがとてつもなく嬉しい。
「で、紫! 喜ぶのは良いけど、今日は大事な約束があるでしょ」
しかしこれで満足してはいられない。天子は紫を引き剥がすと、泣き顔を見つめる。
「やくそく……?」
「博麗神社で宴会! 一緒に飲もうって言ったじゃない、忘れたの?」
交わした言葉を思い出して、紫が「あっ」と呟いた。
「ほら、涙を拭いて。みんなもう待ってるわ、胸を張って行きましょ!」
「……えぇ、ありがとう」
◇ ◆ ◇
泣き顔を洗い、ボサボサの髪の毛を天子に梳いてもらった紫は、身なりを整えて天子の手を取った。
恥ずかしげに笑いあった二人は、スキマをくぐって博麗神社の境内の端に姿を現した。
今日の宴会は豪華なものだ、あちこちにシートと料理がならべられ、勝手に飲み始めた妖怪たちがやんややんやと騒いでいる。
「もうだいぶ集まってるわね」
「そうね、聞いてたより大きな宴会……あら?」
敷かれたシートの合間を抜きながら歩いていると、紫が境内の端にステージが築かれていることに気が付いた。
「あれは何なのかしら」
「あぁ、なんかバンドが突発ライブするんだってさ。なんだっけ、キラキラした感じの名前の……」
「もしかしてプリズムリバーwith H!?」
「そう、それそれ」
名を聴くなり、紫は目を輝かせて、まだ主演のいないステージを見上げると、うっとりと緩む頬を押さえた。
「良いわ、素敵だわ。最高の肴が来てくれるなんて!」
「紫、そいつら好きなの?」
「そいつらじゃないわ、プリズムリバーwith Hよ。元々は騒霊三姉妹の楽団で、その頃から目をつけてたんだけれどね、その頃は個々の主張が強すぎて音がバラけ気味だったの。でも最近になって太鼓の付喪神を加わって、彼女の刻むビートが三姉妹の潤滑油になって音を繋ぎ合わせるようになってね、まるで境界を敷くようにそれぞれの音楽が際立つようになって、完成度が格段にアップしたのよ」
「へえー」
熱弁する紫に、天子は興味深そうに声を漏らした。だがプリズムリバーという楽団に興味があるというより、どちらかと言えば紫の反応を面白がっているほうだ。
妖怪の賢者などと呼ばれ、皆から胡散臭いやつと警戒される紫が、こうやって趣味を爆発させている様子をそばで見られることに優越感も感じる。
「あぁ、楽しみだわー、完全憑依異変の時は忙しくってちゃんと聞けなかったのよね。胸がウキウキしてきちゃう、今日は嬉しいことづくしね!」
「以外ねー、紫も案外俗っぽいんだ」
「あら、私だって心躍らせるものの一つや二つありますわ」
普段の自分らしい反応ではないと、紫自身もわかっているのだろう、茶目っ気たっぷりの口調で天子へとウィンクを送った。
笑い合う二人は喧騒の中を進み、先に来ていた友達と家族が待つ席へと歩み寄った。
「みんなおっ待たせー!」
「いらっしゃいませ天子様、こっちはもう食べ始めてますよ」
手を振った衣玖の隣では、針妙丸と紫苑が皿に料理をよそってガツガツと食らっている。
同席していた藍と橙が紫へと頭を下げた。
「紫様、元気になったようで何よりです」
「ごめんなさいね、心配掛けたわ」
「いえそんな……それに紫様がか弱い乙女だってことは、ここ最近で十分わかりましたから」
「ちょっと、どういうことかしら?」
紫が目くじらを立てるのを、藍は涼しい顔でかわす。
「ひゃあー、これが噂の式神ご飯! 美味しいー!」
「私も藍様のお手伝いしたんだよ!」
「おいひー! おいひー! こんな美味しい料理が食べ放題って素敵すぎるー! 幸せだわー!」
藍と橙が事前に用意して重箱に詰めてきたお弁当に、針妙丸と紫苑はご満悦のようだった。
天子も席に付きながら、紫と一緒に食べたお弁当の味を思い出して涎を飲み込んだ。
「よーし、私もいただきまー……」
「紫~、お久しぶりね」
しかし聞き覚えのある声に天子は言葉を中断し、紫もまた座ろうとしていたのを立ち直り、声の方を見る。
そこには青白い着物を揺ら揺らさせて、小さく手を振る亡霊、西行寺幽々子の姿があった。
「あら幽々子、こんばんは」
尋ねてきてくれた親友に、紫は思わず嬉しさを顔に浮かべて近寄った。
「もう、紫ったらここのところ会いに来てくれいんだもの」
「ごめんなさい、寂しくさせちゃったかしら?」
「ふふ、埋め合わせ期待してるわよ」
「妖夢はどうしたの?」
「今は厨房でお料理作ってくれてるわ」
幽々子には天子のことで相談を持ちかけたりしたが、天子と喧嘩と仲直りを経てからは一度顛末を報告したくらいで、最近はあまり顔を合わせていなかった。
一方、幽々子と紫の関係を知らない天子は困惑した顔で尋ねる。
「えと、あんた異変の時にも天界まで来た亡霊よね。紫と知り合いだったの?」
「そうよー、そちらも久しぶりね天人さん。紫とは知り合いなんてもんじゃないわ、亡霊になった頃から付き合いの大親友よ」
幽々子が見せつけるように紫に身を寄せ、肩に撓垂れ掛かる前で天子が頬を引きつらせる。
「へ、へぇー、紫って私と萃香以外に友達いたんだ……」
「どういう意味よ」
「ははーん……」
眉を尖らせる紫に戸惑いを見せる天子、二人を見比べた幽々子は合点が行ったようにほくそ笑んだ。
「ささ、紫。こっちで二人で飲みましょ」
「えっ? でも天子が……」
「しばらくぶりだもの、私のわがままを聞いてくれてもいいじゃない」
紫は天子に目を向けて少し悩んだものの、最近は幽々子と話していなかったことを考えると幽々子の側についた。
「しょうがないわね、積もる話もあるし……。それじゃあみんな、また後で会いに来るわ」
「……わかったわよ、あんまり飲みすぎないでよね」
「はいはい、あなたもね」
天子は不満げだったが、そのくらいはいつものことなので紫は気にせず行ってしまった。
縁側で並んで腰を下ろす紫達を見て、天子が渋い顔をしながら盃を手にして酒を一気に飲み込んだ。
更に酒を継ぎ足す天子へ、衣玖が苦言を呈する。
「天子様、酒は微酔にですよ」
「わかってるわよそんなこと!」
「あらら……」
早速荒れ始めた天子に、紫苑は困った声を漏らしながら新しい料理へ箸を伸ばした。
そんな一行とは別れ、紫は酒を少しずつ楽しみながら幽々子と軽やかに話し合う。
「天子とは仲良くやれてるようじゃない」
「えぇ、あなたのおかげよ幽々子」
「私は背中を押しただけよ」
幽々子は大したことはしてないと謙遜するが、紫にとってはその後押しが何よりもありがたかったと心底感謝していた。
紫は近くにあった酒瓶を掴むと、幽々子の盃に酒を注ぐ。そして自分の盃にも新たに酒という名の命の滴を満たした。
「喧嘩して仲良くなったなんて聞いた時は、紫にもそんなことが出来るんだって驚いたけど」
「私も、自分でもあの時のことが夢みたいに感じる」
紫は盃から酒を一口含むと、味わって飲み込み、手元に残った水面に過去の己を覗き込む。
天子と本気でぶつかったことは、自分の人生にとって大きな意味を持つことだったと紫は思う。
後にも先にも憂いを抱くことなく、ただただその一瞬の衝動に身をやつし己の全力を振るうあの感覚は、生涯感じたことのない感動があった。
「でも全部本当のこと、私は全力で駆け抜けることも出来た。それだけじゃなく、天子といると今までやれなかったことに次々手を伸ばせるの。人の目がある場所で思いっきりふざけられるなんて、ちょっと前は思わなかった」
だから紫は天子にも感謝している、彼女がいたからようやく紫は自らの本心を引き出して、やりたいと思ったことを素直な気持ちでやれるようになった。
出家した源五郎に顔を出したり、直接金剛を勇気づけたり、一昔前の紫ならそんな気は起こらなかった。やりたいと想っても、実行には移せなかった。
賢者だからとか、そういうのは言い訳に過ぎない、単に紫が臆病で、自分が直接触れたらお互いに傷つけ合うことになるのが不安だから何も出来なかった。
だがもう今は違う、自分のすることで世界がどう動くのか、期待に胸が膨らみ輝かんばかりの目で色んな光景を見ていられる。
熱く語る紫に、幽々子がクスリと微笑んだ。
「紫ったら、天子に夢中なのね。そんなキラキラした顔初めてみた」
「む、夢中だなんてそんな」
我に返った紫が熱い頬を手で隠した。じんわりにじむ熱に、自分の浮かれ具合を自覚して余計に熱くなる。
「ねえねえ、天子とはどんなことしたの?」
「どんなことって、普通の友達よ。て、手を繋いだりとか」
ちょっと声が上ずったことに他意はない、自分と天子はただの友達だと紫は思っている。
しかし幽々子は違うようで、瞳の奥に怪しい光を漂わせた。
「私と紫が手を繋いだことはあったかしら?」
「それくらいはあるでしょう、ほら……多分」
「そうねぇ、他には天子とどんなことしたの?」
そう言って幽々子は紫へと擦り寄り、お互いの手を重ねた。
少し紫は驚いたが、相手が幽々子なら嫌な気はしない。しかし遠くで天子が歯ぎしりしていることに気付いていないようだ。
「もう、幽々子ったら、みんなが見てるじゃない」
「みんなお酒に夢中で気になんかしてないわよ。それより天子とはこんなことした?」
「んふ、くすぐったいわ」
幽々子は紫の肩に頬を擦り付け、甘える仕草で密着する。
紫はいつもより距離が近い親友に困った顔をしていたが、別段嫌な気持ちはなく、間近にある幽々子の横顔を肴に酒を愉しむ。
「ぐ、ぐぅぅ―……!」
「天子様ー、お酒が零れてます」
「うるさいっ!」
天子は怒鳴り声を上げるが紫へは届かず、ヤケになって酒を煽る。見かねた藍が、衣玖に顔を近づかせ小声で囁いた。
「なあ、永江衣玖と言ったか? この天人はいつもこうなのか?」
「いえ、最近は落ち着いてたほうなんですが……まああの亡霊の方のせいですねはい」
「幽々子様も人が悪い……」
とは言え、最近の紫が会いに来なかったことに、幽々子も不満があったのだろう。天子ばかりに構いすぎたツケがきたようだ。
「なあに、どうしたのよ幽々子。妙に人懐っこい真似してきて」
「ほら見て紫、あの天人。私たちのこと睨んできてるわよ」
「えっ?」
そこでようやく、紫は天子へと目を向けて、さっきより不機嫌になった不良天人に気が付いた。
楽しい宴会なのに何がそんなに気に入らないのだろうと首をかしげる賢者に、幽々子が顔を近づけ耳元でささやく。
「ふふ、嫉妬してるのね彼女ったら」
「嫉妬なんてそんな、あの娘がコロコロ機嫌変えるのはいつものことよ」
「あら……うふふ」
鈍感なのか、あるいは気付いてて誤魔化しているのか、とぼけた態度を取る親友を見て、幽々子はおかしそうに笑っている。
仲睦まじそうな二人を遠くから眺めていた天子は、腹を立つのを通り越して段々と意気消沈してきた。
紫は天子と一緒にいる時は楽しそうにしてもすぐ不機嫌になって喧嘩したりする、だが幽々子といる今の紫は終始楽しそうで穏やかだ。
天子は紫と一緒にいるのは楽しかったし、同じように紫を楽しませられていると自負していたが自惚れだったのだろうか。
でも紫とは一緒にいたい、複雑な心境の板挟みに胸が苦しみだす。膝の上で盃を両手で支え、迷いに酒を揺らがせた。
「天子、行ってきたら?」
落ち込む天子へ、針妙丸から声が飛んだ。
「針妙丸……」
「私、なんとなくだけどスキマ妖怪が、天子の何を視ていたかわかる気がするよ。走る天子が好きなんだよ。迷惑かけられたって、あの妖怪は恨んだり悔やんだりしないと思う」
天子と心で繋がり、一番間近で共に戦ったから針妙丸は、頭でなく心で天子の持つ本質的な力を受け取っていた。
彼女の力を信じ、言葉を贈る。
「走って、ぶつかりなよ」
それが出来る素敵な人なのだと、針妙丸は信じているのだ。
いや、針妙丸だけでない、衣玖も紫苑もそれがわかっているからこそ、頷いて同調する。
「無鉄砲なのが天子様の取り柄ですよ、いつもみたいに胸を張ればよろしいのです」
「私は、何でも力づくで拓いていける天子が好きよ」
疑いのない視線を受け、天子は厚い信頼に体の奥が震えた。
だがこれは初めて感じるものじゃない、前にも一度似たようなことがあった。
紫からも、天界で命を掛けて魂からぶつかり合った翌日、湖のほとりで心を通わした時にも、自分はこれと同じ想いを受け取っていたではないか。
それを思い出した天子は、脳裏に光がよぎるのを感じて、輝く眼で口を開いた。
「……うん、針妙丸、それにみんなありがとう」
その様子を、藍と橙も眺めていた。
天子は盃を下に置くと立ち上がり、宴の合間を縫って縁側へと近づいた。
「紫!!」
名前を挙げられ、紫がやってくる天子を見てキョトンとする。
天子は早足で紫の元へ行くと、その手を取って引っ張った。
「こっち来て!」
「ちょっと、天子?」
紫は慌てて盃を置いて、天子に付いていくが、流石に戸惑って幽々子に首だけで振り向いた。
しかし幽々子は小さく手を振り、笑顔で紫の門出を見送る。
「いってらっしゃーい」
二人の影が神社の裏手へと消えていく。
幽々子は二人分の盃を回収すると、藍たちの元へと足を運んだ。
「うふふ、振られちゃったわ」
「そのようですね」
笑顔で語る幽々子に藍が言葉を返す。
「紫様は良き相方と巡り会えられた」
「そうね、あんなにあっさり手を引いていっちゃって、私のほうが妬けちゃうわ」
「私たちが、ですよ」
「まあ……うふふ、そのようね」
そんな喧騒から離れ、静かな場所まで来た天子は、物陰でようやく足を止める。
「天子っ、離しなさい、腕が痛いわ」
説明も受けずに連れてこられた紫が、眉をひそめながら言うが、天子はろくな言葉を返さない。
そればかりか紫を引っ張って、神社の壁に押し付けると、紫を囲うように両手を壁に突き立てた。
「天子?」
流石に不審に思い紫が名を呼ぶが、天子は紫の胸の高さから眉を狭めた頑なな表情で見上げてくる。
「紫、ごめん。私はやっぱり、わがままだ」
天子は以前、嫉妬した紫へ勝手に怒るなと言葉を投げかけたことを思い出す。
それこそ身勝手な言葉だったなと悔やみながら、それでも止まれずに心は足を動かす。
「これじゃ、嫉妬するななんて紫に言えない」
「てん――!?」
不意に天子が爪先を立てて背伸びした。
二人の顔の距離が縮まる、あっという間に視界が相手の顔で一杯になる。
驚く間もなく、天子の唇が、紫の唇へと重ねられ、突き刺さるような柔らかさが脳髄を痺れさせた。
「――!? んー!?」
「ん……ぷはぁ」
目をしばたかせて混乱する紫に、慌ててキスしたものだからすぐに息苦しくなって天子が顔を離した。
「て、天子!? いきなり……」
「こんなんじゃダメ、もう一度」
そう言って近づいてくる天子に、紫は慌てて空気を吸い込んで息を止めた。
再び唇が重なり合う。今度は覚悟していたぶん、長く、じっくりと熱を分け合う。
天子は背伸びした爪先をぷるぷる震わせ、真っ赤な顔で口を押し付けた。
お互いに息もできず、緊張で身体を固まらせながらも、相手の熱を起点に心をもみほぐした。
最初は驚いてばかりだった紫も、やがて瞳を伏せて、この瞬間を堪能し始めた。それ見て天子も顔を無理に押し付けるのを止め、ちょうどいい力加減で繋がり合う。
細めた眼で相手と見つめ合う、紫のこめかみから頬に掛けて一滴の汗が垂れるのを天子は近くで見ていた。
どれくらい密着していたのだろう、やがて息が続かなくなって天子が唇を離し、二人共溜まっていた息を口から吐き出した。酒気を帯びた生温かな息が、鼻腔に漂い酔いが増すようだった。
「天子……」
「ごめんね、紫……」
了承も取らず、いきなり唇を貪る無作法に、天子が悔いて申し訳ないと表情を曇らせる。
しかし紫は優しい顔で天子の頬に手を当てて、丸っこい輪郭を指の腹でなぞった。
「……そんな辛い顔しないで」
そう言って、紫の側からは天子の額に唇を落とした。
「私にだけは、どれだけわがままでいていい。全部受け止めたいから」
その言葉に天子は救われて、強張っていた肩から力を抜いた。
何の前ぶりもない交わりだったが、この瞬間には気持ちが通じているのだと信じて、紫は天子の身体を胸に抱きしめる。
「ただし、他の誰かに同じことしちゃ駄目よ?」
「……紫だけよ、こんなの」
「……嬉しいわ」
突然だったけど、紫は嬉しかった。天子がこうやってあらゆる垣根を飛び越えて強烈に想いを突き立ててくれることが、本当に嬉しかった。
こういう激しさに紫は惹かれたのだから。
紫が腕を緩めると、天子は顔を上に向けて、眼と眼を合わせてくれた。
「紫、私は、紫に私だけ見ていて欲しい。私に優しくしてくれて、私に甘えて、私だけに全部を見せて欲しい」
「その気持も嬉しい、けれどあなたの期待に応えることは出来ない」
「うん、知ってた」
紫はもっとたくさんのものを見る必要がある、義務がある。天子だけに没頭する訳にはいかない。
「天子、あなたを部屋に閉じ込めて、私だけで満たしたい。あなたの幸せも喜びも、私が全部与えてあげたい」
「ありがとう、でも紫だけじゃ満足できないの」
「えぇ、知ってるわ」
天子はもっとたくさんのものを感じたい。この地に住む者たちと色んな体験を交わし、生の歓びを謳歌したい。
「紫、すっごく熱い目してる。あの時みたい」
天子が手を伸ばし、紫の頬に指を這わす。
指の先に嵌められた眼球には、燃え盛らんばかりの妖しい灯火が宿っている。
懐かしい、あの天界での決戦の時もこうだった。そして天子の眼にも同種の輝きが宿っている。
「ねえ紫。あの時、思いっきり戦って、ボロボロになって痛かったけど、とっても楽しかったわよね」
「えぇ、生きてるんだって、心の底から思えた」
「私の全部を受け止めてもらうのも、紫の想いを受け止めるのも、全部嬉しかった」
あらん限りの自分を表現したあの戦いは、自らの存在を証明しているかのような一時だった。
そんな体験ができたのは、目の前の愛しい彼女がいるから。その存在にありがたみに、二人共が息を熱くさせた。
「ねえ、紫。妖怪の道を模索したいなら、私たちがその理想に――」
ぼんやりと呟いた天子がもう一度距離を詰め。
「――なあ霊夢、本当に見回りなんてする必要あんのか?」
「何言ってんのよ、今回うまく行くかどうかで、プリズムリバーが神社で定期ライブするかどうか決まるのよ!?」
「プリズムリバーwithHな」
「どっちでもいいわよ、細かいわね」
「「うひ!?」」
聞こえてきた声に、二人は奇声を上げて距離を取る。
ドキドキしながら声の方向を見つめていると、壁の向こうからお祓い棒を持った霊夢と魔理沙が現れた。
「いやー、しっかり聴いてみたら結構ハマってな、プリズムリバーwithH! ファンも多いんだぜ、妹紅なんかも好きみたいだな。パッと聞いた感じうるさい音楽なんだけど、聴き込んでみたら中々……」
「あっそ、なら尚更協力なさいよ。今回は宴会しながらってことだから大した収入にならないけど、次からは出店もやってバーっと金策に……って、何やってんのよあんたら、こんなとこで」
妙な珍客に霊夢が疑惑の視線で睨み付ける。
もちろん何をしていたかなんて言えるはずもなく、紫と天子は口早に誤魔化した。
「な、なんでもないわよなんでも! ねえ天子!?」
「そ、そうそう! ちょっと酔いを覚ましてただけで」
「怪しい……」
何も知らないがわから見たら、幻想郷きっての胡散臭い大妖怪と、騒ぎで回りを巻き込むことに掛けてはピカイチな不良天人が、顔を突き合わせて妙なことを話し込んでいるのだ。
疑わしきは罰するぞとばかりに、霊夢は声を上げてお祓い棒を振り回した。
「あんたら、幻想郷の二大厄介者が集まって何してるかしらないけど、今日は本当に大事な日なんだから余計なことしたらタダじゃおかないからね。隠れてコソコソしてんじゃないわよ、ほら散った散った!」
「「はぁ~い……」」
しょうがなく紫と天子は肩を落としてその場から立ち去る。
再び宴会場へと出てきて、喧騒に包まれながら顔を見合わせた。
「なんか雰囲気壊れちゃったわね……」
「そうね、でももうライブが始まるみたいよ。一緒に見に行きましょ」
紫がステージを指差せば、そこには壇上に立つ楽器を持った影が四つ。
そうするかと気を取り戻した天子に、紫が手の平を上にして差し出した。
「手、お願いしても良い?」
「うん、勿論」
二人は手を触り合い、宴の中を進んでいく。
ステージにはライブを期待して人だかりができており、二人は列の後ろ側に加わった。
『えー、宴会中のみなさん失礼します。私たちはプリズムリバーwithHというバンドで、今日は新しいライブの形を模索したくて、今回の宴会に相乗りさせてもらう形でライブをすることにしました。皆酔っ払いながら聞いて下さって構いません、私たちの音楽を肴にして、好きに盛り上がって下さい』
リーダーのルナサ・プリズムリバーが前口上を述べる。宴会の半数以上は騒いでばかりでこの言葉も聞いていない。
だが音楽家たちは気にすることなく、各々の楽器に心を通わすと、リズムを取って音楽を奏で始めた。
様子を見るようにゆっくりしたイントロから、段々とテンポを上げていって喧騒をも飲み込んでうねりを上げる。
四人の音楽家たちの奏でる音が、一体感を持って大きな一つの生命のように波紋し、広がって行くのを鑑賞して、天子は関心した声を漏らす。
「おぉー、確かにこれは良い演奏」
「宴の喧騒の中で聴くのも乙なものね……」
紫はうっとりと目の端を緩める。
ライブが始まって一部の者達は騒ぐのを止めて耳を傾けているが、背後からはまだまだ騒いでいる魑魅魍魎も多い。
だが音楽と喧騒とは決してぶつかりあうことなく、奇妙な一体感を持って場に満ちていた。
透明な音の流れに天子は、胸の澱みを吐き出すように息を吐いた。
「曲調は早くて勢いがあるけど、なんだろう、この音楽に込められた虚無感……」
「本来命を持たないはずの騒霊と付喪神だからこそ、表現できる世の虚しさ、儚さ……これを聴いたものは皆、深淵を覗き込んだかのような気持ちになれる……」
紫は瞳を閉じ、握り合った手をゆるく握り直す。
「酒を飲んでいる者たちも、騒ぎながらも同じ体験を通して、気持ちを通じあわせている」
「うん……こういう一体感も良いわね」
天子も視界を閉ざし、世界が広がる、
波打つ振動に身を預け心を漂わせる。
さっき紫と視線を合わせた時のような感覚で、紫に限らずこの場にいる全員と繋がっているように感じられた。
「まあ、音楽のセンスなら私のほうが上だけどね」
「ふふ、まさかー、ありえないわ」
「はあ?」
「はあ?」
お互いに手が離れた。
ニヒルなリズムが意識から遠のき、眼前の敵と睨み合う。
「いや私は天人ですから、あなた達みたいな感性に貧しい可愛そうな地上のやつらと違って、歌も踊りも芸術関連はバッチリマスターしてるし」
「はっ、何がマスターなのかしら。この間のダンス教室での踊りだってへっぴり腰だったじゃない」
「はあー? どこの平行世界の話? 見てなかったの? さては寝てたの? あるいは馬鹿なの? 節穴なの? 誰が見ても華麗な踊りだったじゃない!」
「何が華麗よ、ヒラメの間違いじゃないかしら? ダンス教室の時は先走りすぎて相方にフォローしてもらってたのによく言うわ。あの竜宮の使いから教えてもらったほうがマシになるんじゃない?」
「パートナーを信頼してたと言って欲しいわね……あー! あんたさては、まだ衣玖と踊ったこと根に持ってるなー!」
「持ってませんー、識者として偏見のない厳正な評価ですわー」
周りの者がうるさいなぁと呆れるが、その時点で彼女たちを止めるべきであった、いや止めてもどうにもならなかった可能性が高いが。
もはやどっちが悪いかなど関係ないほど無限に噛みつき合う二人は、悪口エンジンを加速させヒートアップしていく。
「大っ人気なー! よくあんたそんなんで賢者気取ってられるわね」
「そっちこそ、反省したかと思えば簡単に人のこと見下してきて。いつまで天上人でいてるつもり?」
「私が優秀なのはなんだろうと変わらない事実ですしおすし!」
「何が優秀よ、運がいいだけじゃないかしら!」
「運も実力の内よ、そんなこともわからないのボンクラ妖怪!」
「言うに事欠いて、ボ、ン、ク、ラ、ですってこのガキ……!?」
遠くで飲んでいた藍や衣玖たちが気が付いた時には、二大厄介者は空に浮かび上がり、宴の直上で激しい火花をちらしあっていた。
喧嘩の様子が、もはや宴会場にいる者全員の目につく。
スキマに座る紫と、要石に乗った天子がいがみ合い、己の得物を乱暴に振り回した。
「だあー! もう! やっぱりあんたは何遍喧嘩しても足りないくらいムカつくわ!」
「こっちの台詞よ、無駄に小鳥みたいにピーピーさえずって! 今度はあなたの顔をお嫁に行けないくらい滅茶苦茶にしてあげようじゃない!」
「やってみろー! どうせあんたの細腕じゃ蚊一匹だって殺せませーん!」
「だったらゆっくり試させてもらいましょうか。そこに直れ!!」
「イヤでーす! ブー、だ! 捕まえられるもんなら捕まえてみろババアー!」
言葉は罵倒になり、罵倒は弾幕となり、ライブを背に閃光が交差する。
はた迷惑な二人の火花が、とうとう他にも引火した。
「「いい加減にしやがれお前らー!!!」」
怒声が上がり、特大の光線と火の鳥が打ち上げられる。
紫と天子は割って入ってきた攻撃を避け、光線の元を視線で辿ると、箒に乗って浮かび上がってきた魔理沙と、炎の翼を羽ばたかせる妹紅の姿がそこにあった。
「人がせっかく気持ちよくライブを楽しんでたのに、鬱陶しい罵詈雑言聞かせてきやがって!」
「そうだそうだー! もう勘弁ならん!!」
気がつけば魔理沙たちと同様の視線が他にも集まってきていた、ちょっと突っつけば暴発するだろう。だが他には、更なる狂騒を望んで期待する視線も少なくなかった。
ならばこの二人が、ここで退くわけもなく。
「へんっ、面白くなってきた」
「天子、対決は一時お預けよ」
「わかってる! 行くわよ紫!!」
一気に頭を冷やしながらも、天子は喜び勇んで前へ出た、そして紫も当然のように後に続いた。
二つのタッグがぶつかり合い、会場は熱狂に包まれる。空に散りばめられる色とりどりの弾幕に歓声が上がり、物見高い幻想郷住人たちはこぞってこの戦いをはやし立てた。
そしてステージの上で演奏している音楽家たちも、この状況を嫌がるどころかニヤリと笑う。
「さすが博麗神社、早速始めたね」
三姉妹の末っ子が鍵盤に指を滑らせ、音の流れを確かめる。
「これこそが今回私たちが求めてきたもの」
楽しげな次女が、宙に浮かせたトランペットから陽気な音を流し続け歓声に乗る。
「雑音など何一つなくすべては音楽。あらゆる音色と同調し、リズムを高める」
太鼓から生まれた付喪神が、ドラムを叩き弾幕に負けじと空気を揺らした。
「さあ、この狂騒をものにするわ。波に乗るわよみんな!!」
ルナサの音頭に頷いて、音楽団のライブは新たな局面を迎えた。
繰り広げられる空の争いを彩る音が広がっていき、熱狂は加速し続ける。
光線が奔る音、剣が空気を切り裂く音、それらに合わせて演奏が飛ぶと、一つに合わさり世界が爆発的に広がっていく。
音の世界と光が融合し、まったく新しい光景が広がっていく。
見知らぬ景色に会場の誰もが声を上げ、胸の鼓動を一つにする。
「おー、いいぞ喧嘩だやれやれー!」
「綺麗な弾幕に音楽も最上、いやー風情がある」
「うわっち、料理焼けちゃったわ。おーい、おかわり持ってきてー!」
「片や天人と大妖怪、片や蓬莱人と普通の魔法使い。どっちか勝つか張った張ったー!」
「面白そー、私もやるー!」
決着が付かぬうちから新たなチャレンジャーが現れる、興奮が蛮勇を刺激し無謀がはしゃぎ立てる。
まだまだ冷めぬ熱に、紫と天子の二人は止まることなく、生きることを楽しみ全力で力を振るい続ける。
次々と移り変わっていく対戦者に合わせ、演奏もまた音程を変えていく。時に沈み、時に浮き上がり、熱く、冷たく、変貌する。
大宴会に相応しい激闘に、会場の端で笑う鬼の姿があった。
「なはははは、何だよ紫と天子のやつ。仲良くやってんじゃん! 私まで血が騒いでくるね」
「あっ、もしかして……萃香さーん!」
「おろ?」
空を見上げて喝采を贈っていた萃香が、名を呼ばれて振り返る。
そこにいたのは見覚えのある朱い二本角の女性と、彼女の手を握った眼鏡の男性。
「んん……? あー!? もしかして金剛か!?」
「はい、お久しぶりです萃香さん。この人が楽団好きって言うから来てみちゃいました」
「いやー、何年ぶりかな? 元気してた? そっちの兄ちゃんは……」
金剛と共にいた男は、すっと相方の手から逃れると、萃香の手を握りしめた。
「初めましてお嬢さん、僕は坂上雫と申します。金剛さんのお友達ですか? かわいい顔をしている、何より角が立派なのが素晴らしい」
「お、おう?」
「良ければ趣味とか教えていただく」
目の色を変えて尋ねてきた雫だったが、背後から伸びてきた金剛の手が彼の耳をひっつかんだ。
笑顔のまま頬を引きつらせる金剛に引っ張られ、雫は苦しそうな声を上げる。
「雫サーン? 妖怪と見たら誰でも品定め始めるのは止めて下さいー。あと角の大きさはともかく美しさは私も負けてませんからねー?」
「あだだだだだ! ちょ、金剛さん千切れる! 耳千切れるから!」
見事な夫婦漫才に、萃香は狂騒を忘れて思わずほおーと唸りを漏らした。
萃香の知ってる金剛は気に入らないことがあれば即実力行使の、鬼の中でもとびきり凶暴なやつだったが、今の彼女はそれと違う。
「なんだい、金剛、お前けっこう変わったね」
「はい、愛の力です!」
「愛なら手加減をばー!!」
ニッコリ笑う金剛と、泣きを言う雫とを見比べて、萃香は快活な気持ちの良い声を上げた。
「はっはっは、良いよ良いよこりゃ愉快だ! あんまり邪魔しちゃ悪そうだね、私は喧嘩の方に混じってくるから、お二人は仲良くしてなよ」
「はい! 萃香さん、ぶちかまして来て下さい!」
「おうともさ、でっかいの期待してなよー?」
金剛に見送られ萃香が飛び上がり、戦いの渦へ身を投じる。
闘争は波及し、中心にいる二人の熱が伝播していく。
「のう聖、ここは改めて私たちの力を誇示するべきかと思うが」
「力をひけらかす趣味はありませんが、争いを鎮めるのもまた修行の一つ」
「よし、あやつらを我々の踏み台にしてやろう!」
「いざ、南無三!」
宗教家たちが我こそがと声を上げる。
「姉さん!」
「あ、女苑も来てたのね」
「うん、けどまたすごい騒ぎねあの天人。紫も加わって余計滅茶苦茶だわ」
「どうせなら一緒に行く?」
「良いわよ、久しぶりに元祖最凶最悪コンビ見せてやろうじゃん!」
名乗りを上げる神が、己が権能を叫び誇る。
「幽々子様、新しいお料理お持ちしました」
「ありがとう妖夢、でも先に運動してからにしましょうか」
「えー、私まだ何も食べてないのに」
「行くわよ妖夢」
「あっ、待って下さい幽々子様ー!」
楽しい姿に釣られた冥界の主達が、今宵は儚さを忘れ命に煌めく。
「藍様、私たちもー!」
「そうだな、どうせなら見るだけより踊るほうが楽しかろう。だが橙、私に付いてこれるかな?」
「むー、馬鹿にしないで下さい! 私だって成長してるんですから!」
「よし、なら行こうじゃないか。紫様を驚かせてやろう」
「はい!」
心を持った式神が、反乱を企てしなやかな手脚で飛びかかる。
「すっごい騒ぎー。衣玖さん、私たちも行く?」
「いえ、私はここでのんびり観戦させてもらいます」
「そっか、私は行ってみてくるね。正邪のやつ来てないかしら?」
お椀に乗っかった小人も、小槌を振り回して飛び出ていった。
残った竜宮の使いは、心地よさそうな顔で酒を煽り、広がる波動に身を任せ、心を揺蕩わせる。
観戦するだけのものは他にもいた、境内の端っこで、並んだ男女が光を見上げる。
「あれは、この前の妖怪と天人だ。仲が良いんだね」
「はい、そうみたいですよ」
雫が一時上空から目を離し、隣で楽しそうにしている金剛を盗み見た。
視線を戻し、今まで隠していた捻くれた精神が口を衝く。
「君もよくやるね。妖怪が人間の隣に来るなんて窮屈なことばっかりだろうに。頭の悪い僕のファンに、うるさいクチバシで突かれたりもしてるんじゃないかい」
「……はい、習い事の教室でも、最近あからさまに態度が悪くなった友達がいて、ほとんど辞めちゃいました」
雫の本性はそれはもう歪んだものだったが、それでも顔は良いのでファンはいる。
いきなり現れたポッと出の小娘が彼の家に泊まり込みで世話を焼いてるのだ、当然逆恨みするものもいた。
それに関して金剛は寂しくないと言えば嘘になる、浅い友情だったのだなと納得する他ないが、そんなものでも少しは惜しい。
「でも構いません。私は、ここが良い」
鬼として、妖怪として、自分のあり方は特殊だろうと金剛は思う。
だが構わない、どれだけ後ろ指をさされようと、隣りにいる男が自分を拒絶しないならそれでいい。
死を前にして立つ雫の姿を思い出す、それは人間として歪でやがては抜け出さないといけない生き方であったが、それでも金剛は昔見た光景を忘れない。
妖怪を前にして凛と立ち、己の使命をやり遂げる、そんな強さを持った雫に、彼女は惚れたのだ。
「他の妖怪がどうとかはわかりません。でも私は、一瞬一秒でも長く、雫さんの隣りにいたい」
雫はくすぐったくなって、こっそり頬をかいた。
父が死に、あまりにも人は儚いものだと知り、自分もいつかそうなるんだと思うと怖くなった。
だから妖怪に喰われたかった。相応しい妖怪の血肉に混じることで、できるだけ長いあいだ自分の存在を残そうとした。
だが、そんなことをする必要はないのだと、そう気付きつつあった。
わざわざ喰われなくたって、遺るものはきっとある。
「愛してます、雫さん……」
「……こんな未熟者で良ければ」
ひっそりと手を繋ぎ、夜の下で愛を交わした。
視線の先で、なおも宴は白熱する。
「どうしたの、これで終わりかしら!?」
「ハハハッ! 紫、あんたもけっこうノリノリじゃない!」
「あなたに合わせてあげてるだけよ。隙が多いパートナーだと合わせるのが大変だわ」
「信頼してると受け取って欲しいわね。ほら次が来るわよ、背中は任せた!」
「まったく、しょうがない!」
現れる挑戦者を千切っては投げ千切っては投げ、過激でいて歌劇のような戦いが繰り広げられる。
さあ次はどいつだと剣が振りかざされたところで、ひときわ危険な怒鳴り声が会場を貫いた。
「いい加減にしろあんたらあああああ!!!」
その声に覚えのあるものはみな青い顔をして肝を冷やす。
人から妖怪から神々まで、みんなが盃を箸を取りこぼす。
小さな悲鳴がそこかしこから上がり、神社の本殿へと目をやると、そこには神聖苛烈なオーラを身にまとった紅白の巫女の姿があった。
「つまみがなくなったから作りに行って、戻ってきたらこの騒ぎ! 覚悟出来てんでしょうね!?」
「うわあ! 霊夢が怒ったぞみんな逃げろ!」
「退散退散! 泣く子も黙る巫女様だー!」
「きゃははははは、もう訳分かんなグボゲボグギャア!!!」
笑い転げていた妖精が、霊夢の一睨みで陰陽玉が飛びかかりボコボコにのされた。
さっと波が引き蛮勇を気取る愚か者は逃げ帰る、空中に残るは夜と極光の化身のみ。奏者からは重苦しい音程が奏でられ、事態の危機を知らしめる。
けれど最も大馬鹿者な二人は後に退かない。
向かう先はこの幻想郷の中心、生まれ持ってのの最強無敵、楽園の素敵な巫女様。
誰よりも彼女の実力を知る紫は、楽しげに笑って扇子を開き風を仰ぐ。
「さあ、今宵の舞も最終局面よ、覚悟はいいかしら?」
「当然! あんたはどう? 怖気づいたんじゃないでしょうね」
自信満々で仁王立つ天子が、足元の要石に剣を突き立て胸を張る。
お互いに笑っていることを理解り合い、彼女と共に走れる歓びを噛みしめる。
「まさか、馬鹿なことを考えずに前を見なさい。まだまだこんなところじゃ遊び足りないわ」
「よっし、このまま何処までだって行ってやるわよ!」
撃ち放たれた弾丸か、爆進する暴走列車か。手には勇気を、背には理想、それでも飽き足らぬと二人が駆ける。
他の追随を振り切って、この幻想郷の最先端を突っ切り邁進す。
「――手紙を持ってきてくれた竜宮の使いから、地上で宴があると聞いて、こっそり来てみれば」
遅れて会場にやってきた身なりの良い男が、空を見上げた。
巫女と混じり合った緋と紫が激突し、力がビリビリと胆まで伝わってくる。
その輝きの中で、楽しさを全身に伝えて剣を振るう少女を見て、感慨深そうに男は息を零した。
「天子、お前はそんなふうに笑える子だったんだなぁ」
戦いは白熱する、ギャラリーは熱狂し、天と地の狭間が荒れ狂う。
入り交じる緋と紫が織り成す色彩へ、更に加えること陰と陽、波打つ波長が九重を結ぶ。
降りてきた夜に差す極光が理想を体現し、忘れられた者達に、新たな希望を指し示す。
「深弾幕結界、夢幻泡影!」
「全人類の緋想天!」
走れ比那名居、駆けろ八雲。
これもまた、新たな幻想のカタチ。
この作品は「走れヒナナイ、駆けろヤクモ。」の続編になります、前作を知っていることが前提なので、必ずそちらから先にお読み下さい。
中国舞踊について書かれたシーンがありますが、作者が十分程度調べた知識で書いただけの代物です。
生暖かい目でスルーしつつ、「本物はこんなんじゃねーぞ!」と思った方がいれば、容赦なくなじってください、お願いします。
今回、やんごとなき事情からツイッター上で未完成品を公開しましたが、公開した部分でいくつか変更点があります。
・副題を『闇足の歩み』→『幻想のカタチ』へと変更。
・女苑と紫苑のシーンを"二箇所"追加。
・一部台詞など書き直し。
・公開部分最後のシーンを書き直し。
長々と失礼しました、お楽しみ下さい。
人は誰しも疑問に思うらしい、自分がどうして生まれ何処へ行くのか。
ならば妖怪は果たしてそんなことを考えるのか? そんなことを尋ねられたことがある。
決まってる。考えるに決まっている。
私達はどこから来てどこへ向かうのだろう、もう何万回と思考し続けてきたこと。
けれどわかりきったことだ、私たちは闇から生まれて、影に落ちる。
人はみな、突いた薮から蛇が飛び出すことを期待してる、暗がりの向こうに脅威があるから、人は闇に目を向けられるのだ。
人が闇に火を灯すための贄として、私たち妖怪は生まれてきた。人々が恐怖を望んだから、私たちは現れた。
人が人として歩むため、まだ見ぬ闇を開拓するための必要悪として生まれ落ち、都合の良い捨て駒として消えていく。
見よ、あまねく夜の地上に広がる星々を! 本物の星明かりすら駆逐し、天上にすら手を伸さんとする、光り輝く鋼鉄の檻こそ、我ら妖怪が礎となり達成した成果である!
人類は進歩しました、もう彼らに夜の敵は必要ありません。だから私たち妖怪は大人しく空想の彼方に消え去りましょう。
冗談じゃない。私たちはデストルドーを組み込まれ必滅の存在として生まれてきた、それでも何かを生み出すリビドーだってあるはずだ。
ただ人といがみ合い、追い立てられ、悲しさだけを背負って朽ち行く以外にも道はあるはず。
私達だって生きられる、じゃないと、あんまりにも虚しすぎるじゃない。
生きて、生きて、生きて、そして――誰かを助けられるはずだ。
人が子を産むように、我ら妖怪から産まれるものを探したい。
だから、どうかお願いします。
世の理の端の端に、夜の理よあれ。
夜の中から生まれる光よあれ。
明日へ続く希望よあれ。
幻想に救いよあれ。
行き場のなくなった者たちが、終わることなく生きていける場所。
それが私の望みです。
かつて八雲紫と比那名居天子は敵対していた。
それはやはり天子がしでかした異変の顛末が発端であるが、それはあくまできっかけに過ぎず、真の原因は二人の在り方が真逆だからこそ故だ。
二人はお互いを羨み、怒り、悲しみ、いくつもの激情を力一杯の暴力と涙で表現し、しかしてその末に触れた相手の核心を、自分の胸へと大事にしまいこんだ。
理解り合い、認め合い、結びついた、のだが――
「むむむむむむむ…………」
時は昼下がり。スキマの大妖、八雲紫は自宅の居間で机の前に陣取りながら、腕を組んで深いうねりを上げていた。
眉間にシワを寄せる一家の長を見て、橙は興味深げに瞳を開き、藍はこれまた渋い顔で口を開く。
「どうしましたか、そんなに唸って」
「いや、ねぇ……比那名居天子が本格的に輝針城に住み始めて、そこに竜宮の使いや貧乏神も加わったことは知ってるでしょう?」
「紫様から聞きましたからね、それでそれが何か」
とりあえず藍が尋ねてみると、紫は大口を開けて声を荒げた。
「ずるくない!? こっちは暇な時しか天子と一緒にいられないのに、他のメンバーは朝から晩まで同じ城で暮らして同じ屋根の下で寝てるのよ!?」
「紫様、乙女ムーブもいいですけどカリスマ忘れないで下さいね!?」
この妖怪、根はけっこう純情だった。
走れヒナナイ、駆けろヤクモ。 -幻想のカタチ-
式神の藍は、ここのところ判明した主人の側面に頭が痛かった。
先日、顔をボコボコに腫らした紫が家に帰ってきて「天子と喧嘩してきたわ」と晴れ晴れした声色で嬉しそうに言ってきた時は、頭までやられたのかと心配したのだが、実際のところ真性だった。
紫は元々こういう性格だったのだ、それを不安だとか責任感だとかでがんじがらめに縛り上げ、胡散臭い振る舞いで大物ぶっていたのだが、天子と心を通じ合わせた結果色々とリミッターが振り切れてしまったらしい。
敬愛する主人が本音を言えるようになったことは嬉しいが、それはそれとしてあまりのギャップに藍としては未だに慣れず、どう対応すべきか迷うところである。
「あぁ~、こうやってる間にも天子はみんなと仲良くやってるのよね……天子に気になる人とかできちゃったらどうしましょう……」
「じゃあ今すぐ会いに行ったらどうですかー?」
「そうは言うけどね橙。あんまり頻繁に顔出してうざがられでもしたら怖いし……」
対して橙は、今までにない振る舞いを見せる紫にも柔軟に対応していた。
子供ゆえの適応能力と言うべきか、むしろ隠し事をしないぶん接しやすいらしく、以前よりも紫と仲が良い。
天子との距離感に頭を抱えている紫を見て、藍は溜息を吐いた。
「最初はあれだけ嫌ってたのに、どんだけ天子のこと好きなんですか」
「す、好きだなんてそんな! ただちょっと気になるだけよ、もう藍ったら」
「うわぁ、面倒くさい……」
「藍様、可哀想だから言ってあげないでおきましょうよ」
藍はもとより橙からも地味に酷い言葉を吐かれてるが、当の紫は天子のことに夢中で、悩ましげに身体をくねらせている。
「好きっていうか……そりゃあまあ、この前のことで天子も優しいってこともわかったし、あんなに力一杯怒れるのも素敵っていうか、私にはないものでキラキラ輝いて見えるけど、私はただ天子と仲良く遊べて、たまにちょっと手でも握れればそれだけで良いというか」
「はあ、もうそれでいいです。存分に青春楽しんで下さい」
天子と盛大に喧嘩して以降、紫は天子と急激に距離を縮め、よく天子と一緒に遊んでいるようだ。
弾幕ごっこでの決闘をすることも多いが、幻想郷の名所に出かけたり、あるいは室内で囲碁や将棋などで遊んだりしてきて、紫は帰ってきてから夕食の席でよくそのことを話してくれる。
「藍様からはアドバイスないんですか? 天子のハートをゲットする方法とか」
「うぅん、私も普通の恋愛はしたことないからなぁ」
なんだかんだで、藍もこんな紫のことを本心では疎んでるわけでなかった。
藍は白面金毛九尾の狐として、様々な王朝で男を誑かしてきた実績があるが、まともな恋愛経験はないのだ、だからこそ純真な恋というのは余計に眩しく見えるし、紫がそれを経験できることは祝いたいと思う。
「あえて言うなら、あんまり姑息な手段には頼らないほうが良いということですね。私はそれでしっぺ返し食らって、人間たちに追い立てられることになりましたから。最近はあんまりスキマから覗き見とかしてないようですし、そこは感心します」
「あー、いや、それはね……」
紫は気まずそうに藍から目を逸らす。
「喧嘩してから、天子は私の気質にすごく敏感で、覗いたらすぐにバレてスキマに手を突っ込まれて引きずり出されるのよ。だからできてないだけで……」
「まあ何でも良いです。せっかくですから今までの自分とは違うやり方で仲良くなる方法を探して良いと思いますよ」
「そうね、ありがとう……あら、そろそろ天子との約束の時間だわ。出かけてくるわね」
「はい、夕飯は天子たちとでしたね?」
「えぇ、それじゃあ行ってきます」
「行ってらっしゃいませ」
「いってらっしゃーい!」
家族に見送られ、紫はスキマに身を投じると家から消えていった。
空席を眺め、藍が感慨深そうに呟く。
「……変わるもんだなぁ、誰も彼も」
「藍様は、変わるのは嫌ですか?」
「まさか、あの歳でもまだ成長できるんだ、嬉しいさ」
実際のところ藍も紫の実年齢については知らないのだが、それでも自分よりもはるか昔から存在するということはわかっている。
普通なら老成し、ただ散りゆくのみだろうに、ここに来て紫は躍進し人生における新たなステージに踏み出した。
これは何でもないようなことに見えて、妖怪としては革新的なことのように感じるのだ。
「だが心配でもある。我ら妖怪の行先が、果たして人よりいでた者と同じ方を向くことが出来るのか」
「藍様の言うことは難しくてよくわかんないです、でも大丈夫だって思いますよ」
一抹の不安を抱く藍に、橙は素敵な笑顔を向けた。
「だって、紫様毎日楽しそうですもん!」
「……そうだな、心配することはないか。橙に教えられたな」
「へへーん、どんなもんです」
胸を張る橙の頭を、藍は撫でながら、主人が楽しそうに天子との出来事を語っている時の顔を思い出し、自分もまた笑みを深めた。
◇ ◆ ◇
妖怪の賢者が青春の悩みを吐露していたころから、時は少し戻って。
輝針城で丸テーブルに座って、お昼ごはんを取る天子は、鼻歌交じりに納豆をかき混ぜていた。
「ふんふんふふ~ん♪ 納豆も初めて見た時はナニコレって思ったけど、慣れたら案外美味しいのよねぇ~」
天子は今日の昼食の当番が自分だということで、張り切ってご飯を用意した。
ほうれん草のおひたし、カレイを使った煮付け、ジャガイモにニンジンにシャキシャキの長ネギをぶち込んだボリューム満点のお味噌汁。
紫苑から料理を学んでまだ日が浅いので改善の余地ありだが、それなりに美味しく出来たと自負している。
天子は手慣れた調子で納豆をご飯の上に乗せ、更にネギでトッピングすると口にかき込み、幸せそうに頬を緩ませた。
「うーん、美味しいー!」
「臭いが、天子様はよくそんなの……と失礼しました」
テーブルの向かい側から衣玖が納豆の臭気に思わず言葉をこぼしてきた、両脇にいる針妙丸と紫苑は気にせずご飯を食べているが、衣玖は納豆が嫌いらしい。
天子と同様、最近下界に来るようになったばかり衣玖は、納豆のような独特な食べ物は苦手らしく、事前に「納豆はいる?」と尋ねたら「NO!」と力強く答えてくれた。
そのため、天子が納豆を用意したのは自分と紫苑のぶんだけである、針妙丸も衣玖と同様に断ってきた。
「えー、美味しいのに。何度か食べてれば好きになるわよ、紫苑もそう思うでしょ?」
「うんうん、食べられれば何でも美味しいわ。腐ってくれた大豆さんありがとうー」
「さっすが紫苑。針妙丸は?」
「好きとか以前に、私が納豆食べようなんてしたら身体中ネバネバだらけになっちゃうよ。そんなの見たい?」
「見たい」
「あっ、私も見たいです」
「見たいわー」
「悪趣味な居候多すぎない!?」
天子にくっついてきた衣玖と紫苑であったが、もうすっかり輝針城を住まいとして馴染んでしまっていた。
急に増えた二人に針妙丸としては思うところがあるようだが、天子たちでご飯を用意して、その時に針妙丸のぶんも提供することで機嫌を取り、なんとか追い出されることなく済んでいる。
「で、どうどう、お味の方は? このカレイの煮付けとか頑張ったんだけど?」
「えぇ、美味しいですよ」
「海の幸なんて久しぶり。美味しいわー」
「初めてにしてびっくりするくらい美味く出来てるよ」
「よっし!」
天子は手応えに拳を握りしめて笑みを深める、料理を始めてまだ日が浅いが、これがなかなか楽しいと感じていた。
工夫をこらし美味しいものを創る、もちろんただ創った天子が満足なだけに終わらず、みんなが食べて満足できるものを追求する。一連の流れがとても面白くてやりがいがあるし、みんなの笑顔を見ることで達成感も覚えた。
そうしてみんなから認められたご飯は、これまた美味しく感じるのだ。
天子は嬉しそうな顔で納豆かけご飯をもりもり食べると、ほうれん草を三口ぶんくらい豪勢に箸で摘み上げ、一気に口に放り込み頬を膨らませてガシガシ噛んで、触感を楽しみながら歯ですり潰す。
豪快な食べっぷりの天子に対し、ちまちまご飯を食べていた紫苑は感心して呟きを漏らした。
「天子ってばよく食べるねー」
「これからまた紫と約束あるからね、あいつと会うんなら、いつバトっても良いように力つけなくっちゃ。って言っても今日は人里だからないかもだけど」
「すっかりあの妖怪と仲良くなったわねー。油断ならないやつだったのに」
実は今食べているカレイも紫の提供だ。最近料理にはまっているから、珍しい料理を作ってみたいと言うと、レシピと一緒にプレゼントしてくれた。
紫苑は紫にこき使われたこともあり、あの妖怪には懐疑的だったが、天子と紫の仲が良いのは本当だとよくわかっていた。
「まあ、あいつは私の愚痴聞いてくれたり、鬱憤晴らしに付き合ってくれたし。って言っても端的に言えば喧嘩なんだけど」
「遠くから眺めてましたが、すさまじい争いでしたね」
「やだ、衣玖ってば見てたの?」
「あの時は天界にいましたから、あれだけ派手に暴れてれば目に付きますよ。衝撃がビリビリきて、お腹の底にまで響きましたし」
「へぇー、そんなにすごかったんだ」
「もしかして奉仕活動の最後の日? あの日は天子、スッキリした顔で帰ってきたよね」
「そうそう、あいつとぶつかったのはあの日よ」
以前、天子は奉仕活動をするようにと紫から強制的に押し付けられた。
その中で、ある一件から天子は抱え込んでいたものを爆発させ、紫とお互いの激情をぶつけ合ったのだ。
「私も紫もほとんど殺す気で戦ってたからね」
「笑って言うことじゃないよねそれ!?」
「あの紫がそこまで殺意バリバリで戦うなんてよっぽどねー。そういうのはぐらかしそうなタイプなのに」
「だって私よ? 比那名居天子よ?」
「うん、納得いったわー」
「というかそんなのでよく仲良くなれたね」
「確かに、痛かったけどね」
肉体的にという意味だけでない、紫との戦いは、自らの矛盾と傷を抉る凄惨なものだった。
だがだからこそ、天子は自分のすべてを懸けて剣を振るえた。自分自身の核心に辿り着けた。
その先で、天子はただただ自らの存在意義を否定し、生きる意味すら見失ったのだが、その時に紫は手を差し伸べてくれた。
「色々あったけど、最後には、私のことを認めて優しくしてくれたから。だから全部良いかなって」
天子は、あの時紫が撫でてくれた頬にそっと自分の手を重ね、過去に思いを馳せ、照れくさそうに目を伏せた。
そんな天子に、見ていた三人は苦笑いを浮かべていた。
「甘いっ、衣玖さん渋いお茶!」
「私は出来る女、すでに用意できております」
「えっ、何その反応」
「だって、ねえー?」
針妙丸、衣玖、紫苑の三者は互いに顔を見合わせ、細めた眼に胡乱げな気配を浮かべて口々に声を上げた。
「奉仕活動明けから、急に紫を連れてきて一緒に遊んだり」
「天子様は妙にスキンシップ多くてベタベタしてるし」
「紫も、二人きりの時は天子のほっぺたぷにぷにしてたわー」
「ちょ、最後の見てたの!?」
慌てた天子が箸を取りこぼしそうになる。外で遊んでた時の一幕だったが、紫苑に見られていたとは不覚だった
「明らかにあの妖怪の態度が天子が関係してきた時だけ違うもん。ベタ惚れでしょあれは」
「ベタ惚れって、そんなんじゃないわよあいつとは!」
「そんなヌルいこと言ってたらダメだよ天子! もっと紫とも仲良くなってもらわないと!」
「は、はあ? なんでそんなの強制されなきゃいけないのよ、どゆこと?」
声を荒げる天子に、針妙丸が妙に必死な態度で言葉を重ねてきた。
「怖いんだよ、あの妖怪! 目の前で天子と話してたら、嫉妬がこもった恨めしそうな眼で睨み付けてきて!!」
「まっさかー、いくらあいつでもそんなみっともない真似……いや、しそうよねあいつのことだし」
「そこで納得するんですか」
「あいつは私なみに面倒よ」
紫はあれで、とことん融通が利かない一面がある。
そういう性質を持っている者は、ともすれば嫉妬や憎しみなど悪い方向に転がってしまうものだ。そんな頑固さを持っているからこそ紫はぶつかってきて、結果的に天子は助けられたが、一方で身を持って紫の厄介さを思い知っている。
そんなに紫が好いていてくれていると考えるのは嬉し恥ずかしだが、もしそうなら嫉妬くらいしてもおかしくなさそうだ。
「天子って、みんなと出かける時にも紫を連れてくるじゃん。その度に殺されそうな眼で睨み付けられるのは勘弁だよ、どうにかして」
「どうにかって、どうすればいいのよ」
「嫉妬って、ようは取られるかもって不安から来ると思うんだよ。だから不安解消のため、天子はもっと紫とも仲良くなること、これ家主命令だよ!」
「仲良くって、今でも十分仲良いと思うけど」
天子は自分で言ってて少し恥ずかしくなって、指先で頬をかいた。
今日だって二人で出かける約束なのだ、友達としてどこにも問題はないはずだ。
「天子様は、紫さんともっとこうしたいとかはありませんか?」
「うーん、あいつと一緒にあっちこっち行きたいとかそういうのなら」
「それもいいですが、紫さんからして貰いたいこととか、逆にしてあげたいこととか。単純に楽しみたいことじゃなく、こうなったらより幸せだなと思うようなことです」
「幸せ、ねえ……大げさな言い方だと思うけど、そうねえ……」
ピンとこなくて天子は悩む――いや、むしろピンと来すぎているから悩んだ。
幸せになれること、それはもう達成している。紫と真正面からぶつかった日、涙を流しながら紫に抱き締められた時、あれが幸せというか、救われた時だった。
紫から自分の奥底を認めてもらえた瞬間から、自分はもう満たされていて、それ以上を求める必要がなくなったのかもしれないとも考えた。
普段の日々に紫がやってきて隣で笑いかけてくれる、それだけで自分の存在を肯定してくれていることになるし、それで十分と思えていた。
「やっぱ、別にないかなー、私としては今でのままで良いわ」
「以外ねー。天子ってもっと欲深い人だと思ってたわ」
「紫苑の言う通り欲は深いけど、今は満たされてるからねえ。そのうちあれこれして欲しいって浮かんでくるかもしれないけど」
「おっと、サラッと惚気けられたぞぉ」
「惚気って、そんなんじゃないわよ」
針妙丸に言われてしまったが、紫とのことを突っ込まれると妙に恥ずかしい。
「なら逆に、紫さんのして欲しいことを叶えてあげるのはどうでしょうか」
「あっ、それ良いかもね」
衣玖の提案に、今度こそ天子は食いついた。
「でもあいつのして欲しいことって何かしら……」
「そこを自分で考えてあげることが大事だと思いますよ。相手のために努力し心を寄せる、その過程があるからこそ、喜ぶような結果が付いてくるのではないでしょうか」
「衣玖さん頼りになるわねー」
「ふふふ、伊達に龍神様におべっか使ってませんからね。お悩み相談は得意ですとも」
天子は考え込み、それで本当に紫が喜んでくれたなら、なんて素敵なことだろうと思う。
喜んで笑う紫の顔を思い浮かべる。自信たっぷりに見えてその実、臆病さを抱えた彼女が、胡散臭い仮面を脱いで、素直な気持ちになれたなら、天子としてもこれ以上嬉しいことはないと思う。
想像の紫につられて、天子もみんなの前で笑みを浮かべた。
「よっし、考えてたらやる気湧いてきたわ。みんなもありがと、応援してくれて」
「……やっぱり天子、前と随分変わったなぁ」
天子の前向きさを目にした針妙丸が、感慨深そうに呟いた。
「そう?」
「そうだよ、天子も自分でわかってるでしょ?」
「……うん、そうね」
針妙丸にそう言ってもらえ、天子は胸に手を当てて少し前のことを考える。
怠惰で堕落した天界の気質に憤り、どこにも受け止めてもらえないままさまよい歩いたかつての自分。
自分で退治されるために異変を起こし、完全憑依異変でも我を忘れたくて針妙丸と共に暴れまわった。
けど今は、もうそんなことをする必要はない。例え同じことを繰り返したとしても、その意味合いは大きく違うだろう。
自分はもう、自己を否定されなくてもいいのだ、ただあるがままに目の前のことを楽しんでいいのだ。
「前より、ずっと心が自由になった。紫とぶつかって吐き出して、慰めてもらって、あいつが助けてくれたから今の私がいる……」
紫には恩がある、感謝がある。この気持ちを伝えたいし、同じだけのものを紫と分かち合いたい。
「だからそのぶん、私から紫にいっぱい恩返ししなくちゃよね。頑張るわ!」
これ以上ないくらい満面の笑みを輝かせ宣言する天子の威光に、針妙丸と衣玖は愕然として項垂れた。
「あま、あまいぃ……」
「羽衣婚活、真剣に考えようかしら……」
「えっ、えっ?」
幸せオーラに当てられて打ちひしがれる二人を他所に、紫苑は何事も変わりないかのごとくご飯を味わっている。
ハナから幸せとは無縁の貧乏神の身だ、いまさらこんなのを見せられるまでもなく、自分がそういった幸福から遠い存在だと思い知っている。
とは言え、天子が幸せなのは良いことであるし、それに水を指すつもりはないので、後ろ向きなことはわざわざ言わないようにした。
「頑張ってね天子。私、そういう幸せなのかとかあんまりわからないけど、愚痴くらいは聞けるから」
「あ、うん、ありがと」
紫苑はとりあえず適当にそれっぽい言葉を掛けてから、うなだれる針妙丸と衣玖を見つめて、ああまで一喜一憂できることに少し羨ましいなと考えながら、あったかい味噌汁をすすってほどよい塩味にほんわりした。
◇ ◆ ◇
輝針城を出た天子は、人里にある龍神像前で待っていたのだが、待ち合わせの紫が中々来ないことに少し苛立ってきていた。
龍神像の白色の瞳と手に持った時計を見比べて鼻で唸る、もう十五分も過ぎている。
辺りを見渡しても紫の姿はない、あの妖怪のことだから寝坊でもしてるのだろうか。
まさかとは思うが、待ちぼうけを食らった自分をスキマから覗いて笑ってるんじゃあるまいなと、試しに気質を利用した探知を使用してみた。紫との戦いで思いついた利用方法だ、例えスキマ越しに覗いていようが敏感に察知できる。
するといつのまにか、自分のすぐ背後に紫の気質を発見して、驚いて振り返った。
「紫!? 遅いじゃないの、一体いつ……から……」
だが天子は見えた人物に目を剥いて立ち尽くした。
普段、天子よりも背が高くて首を少し上に向けないと見えないはずの顔が、何故か天子の胸元くらいの位置にある。
紫色のドレスを身にまとった、天子より背丈の小さいその少女は、見覚えのある金髪をそよ風で揺らしている。
「ふふふ、ようやく気付いたの? もう天子ったらいつまで経っても見つけてくれないんだから」
訂正、見知らぬわけではなかった、小さな少女は気さくに声を掛けてきた。その声はいつもより声質が高いが、ここで待ち合わせしていた友人の声によく似ている。
しかしこれにどう対応するべきか、若作りする少女を見下ろす天子はしばし考え込んだが、やがて踵を返した。
「さぁーて、本屋でも寄って小説買って帰ろっと!」
「待ちなさい」
「ぐげっ」
空色の髪の毛のさきっぽを少女に掴まれて、天子は後ろにのけぞって足を止めさせられた。
天子が観念して振り向いてじろりと睨み付けると、少女はニコリと幼さに似合わぬ母性のある笑みで視線を受け止めた。
その笑い方を天子は知っている、こうまで慈悲深い笑みを作れるのは天子の知識に唯一人。
「あっ、わかった紫の隠し子だ!」
「八雲紫本人よ」
「やめて! 私のライバルが年齡気にしすぎたせいで、頭がおかしくなって歳を誤魔化し始めたなんて残酷な事実知りたくない!」
「人聞きが悪いわ! 変装よ変装!!!」
酷く狼狽える天子は落ち着いた後、改めてここで待っていた八雲紫に話しかけた。
「……でさ、二人で人里を歩くのに、なんでロリ姿?」
天子の目の前の紫は、その姿をいつもと違うものへと変化させていた。
具体的には背が小さい。あと胸も小さい。紫色のドレスを着た今日の紫は、あまり背の高くない天子よりも更に背丈が低い。
その癖まとった妖美な雰囲気はそのままだから酷くアンバランスで、幼さと成熟さのコントラストに眼がクラクラさせられる。
天子はこの姿の紫が現れて驚いたが、別段紫ほどの妖怪なら身体を変化させられてもおかしい話ではない、問題はその意図なわけで。
ボケで本来の年齡を忘れたのかと疑っていると、ロリ紫はフリルの付いたスカートを振り回して年端もいかない少女の姿を天子へ見せびらかした。
「前も言ったでしょう、私はあまり人里に干渉するべきではないと。この姿は変装よ」
「でも近くに居たからわからなかったけどさ、離れて見てみれば知り合いには即バレでしょそれ。三度見くらいしてわかるわ」
小さくなっているが髪の毛や顔立ち、特に全身にまとった妖美な雰囲気はそのままだ。
さっきの天子は紫の高身長を目印に高い位置を見渡していたから見過ごしていたが、子供には不釣り合いなこのオーラは、元の紫を知っていれば彼女だと気付くだろう。
「身分を隠してる、ということ自体が重要なの。慎重に行動しているというポーズよ。他の妖怪も、人里では同じようなことしてるもの」
「あー、そういうことね。しょうがないか」
とりあえず紫の気が狂ったわけではないと知り安心する。
天子は理解したようだが、納得しかねたように頬を指でかいて抑揚な声を出した。
驚いてもらった紫はさっきまで満足そうだったが、調子の変な天子を前にして、身体を傾けて下から覗き込んだ。
「あら、残念だったかしら?」
「残念っていうか、いつもの姿を隠してるのは見てて窮屈っていうか」
「ふふっ、私の心配をしてくれるなんて、殊勝になったものね」
もしや天子には気に入らなかったのかと心配した紫だったが、起因する感情が不安だと知り、却って愉快そうに笑みを零す。
自分の心を案じてくれていることは嬉しいが、それは杞憂というものだ。
「以前なら、大した用もないのにこうやって人里をうろつこうだなんて考えなかった。実際に地に足を着け歩いてるだけ自由にやってるわ」
「でもねー」
「でもじゃない」
お互いにのびのび過ごしたいと思っている天子が口を尖らすのを、紫は小さな指先を立てて封じ込めた。
言葉を引っ込めた天子に、紫は期待を瞳に込める。
「憂うより、私のこと楽しませてくれませんこと。素敵な天人さん?」
心配なら、なおのこと楽しくさせて欲しいと、わずかな挑発を含めた言葉を投げかける。
天子は不意を突かれて目を瞬かせると、すぐに得意げな顔をしてその期待に返してみせた。
「へへ、それもそうね」
例え窮屈で息が詰まっても、盛大に笑わしてやってその息を抜かせてやればいい。簡単な話だったと、我に返った気分だった。
「よっしじゃあ行くわよ!」
「ちょ、ま、天子、手!」
早速天子が紫の手を握って駆け出そうとするのを、慌てた紫が静止した。
「なによ?」
「いや、いきなり手を掴むから……」
そう言われてから、初めて天子は紫の手を握っていることに気がついた。
「あぁ、背がちっこいから、なんかつい取っちゃったわ。嫌だったら離すけど」
そう言って天子は手の力を緩め引き抜こうとしたが、そうする前に紫が手を握り返して引き止めてきた。
「嫌じゃ……ないわ」
わずかに頬を赤らめて、羞恥に肩をすくめた紫は目をそらしながらも言い切った。
細められた眼にチラリと視線を向けられて、天子は何故か胸がどきりとするのを感じた。
「そ、そっか……それじゃ行こっか」
「えぇ……」
いがみ合った相手と手を握り合い、奇妙な感覚に包まれた二人は、なんとなく二人だけでどこまでも歩いていたい気持ちになったが、今日のところは人と合う予定が詰まっていた。
二人がまずやってきたのは、人里の一角にあるお寺だ。
昔から人里にあるお寺で、幻想郷においては命蓮寺よりも古く、地元の人に慣れ親しまれた場所だ。
ここに来たのは、先日天子が知り合ったある少年に会うためだ。
紫の手を引く天子は、寺の門を潜り境内に足を踏み入れると、箒で落ち葉を掃いていた坊主の姿を見て声を上げた。
「おーい、源五郎ー。元気してた?」
「天人様! こんにちは、いらっしゃいませ」
天子に気付いた坊主は掃除を止め、急いで天子の元へと駆け寄っていた。
この坊主の名は源五郎、彼と天子は紫の差金で知り合った。
元々は問題を抱えた家庭環境の中で、愛猫を拠り所に耐えていた少年だったが、天子との出会いがきっかけで愛猫を失いつつも自立の道を選ぶ決意を持ち、自ら出家してこの寺に来たのだ。
源五郎は坊主にふさわしいツルツルした頭を陽射しで光らせて、天子にお辞儀した。
「わざわざお越しいただいて、ありがとうございます」
「良いのよ別に。それに私のことは天子って呼んでくれていいわ」
「そんな恐れ多い」
「良いって良いって、私なんて親の七光りで天人になったってだけなんだから。一人でもやろうってなったあんたのほうが立派よ」
源五郎のことが気になる天子は、こうやってちょくちょく様子を見に来ている。
天子に褒められた源五郎は照れ臭そうに苦笑していると、本堂の方から法衣を来た老齢の男性が現れて天子たちの前に歩み出て来た。
「こんにちは天人様。よくぞお越しくださいました」
「あぁ、住職さんこんにちは」
この寺の住職は、もう還暦に差し掛かった痩せ気味の老人だ。
しかしながら姿勢は真っすぐで、呼吸には少しの乱れもない。彼の内で循環する気は穏やかに巡っているのが天子にも感じ取れる。
「天人様、そちらの方はどなたですかな?」
住職が目を細めたのに天子は気付いた。
勘のいい御老体だ、それだけ聖職者として誠実に修業を重ねてきたのだろう。
そして、天子が握っていた紫の手が、わずかに強張るのが伝わってきた。
天子は軽く笑ってその手をもみほぐすよう力を込め、住職に軽くも芯のある声色で言葉を返した。
「こいつは私の友達、ただの少女よ。それで良い?」
「……そのようですね、人里に害せぬなら、ただの女の子でしょうとも」
元より幻想郷の人里では、他にも妖怪が人に紛れて闊歩しているのだ。住職は天子のことを信用していることもあり、それ以上は何も言わなかった。
紫もそんな住職の態度に合わせるように、微笑んだまま口をつぐんでいた。
「今日はどのようなご用件ですかな」
「こいつと一緒に遊ぶ約束してたからね、そのついでによ」
「左様ですか。改めてお礼をしたいと考えてましたが、長く引き止めないほうが良さそうですな」
「悪いわね、そのうちお願いするわ」
「源五郎を導いてくれたことに感謝しております。彼を後押ししてくれたこともそうですが、私も妻に先立たれてから跡継ぎがおらず困っておりましたので。源五郎が来てくれたことは正に仏様のお導き」
温かく受け入れられた源五郎は、住職の言葉を受けて気恥ずかしそうに苦笑いを浮かべた。
「渡りに船か、坊さんも難儀してるわね」
「特に近頃は命蓮寺が衆目を集めておりますからな、地元の寺は意識されなくなりつつあります」
「例の妖怪寺ね。あそこのトップとは顔を合わせたことがあるわ」
命蓮寺の実質的なトップである聖白蓮とは完全憑依異変の折に天子は顔を合わせている、話によると紫とも一悶着があったそうな。
人妖平等を掲げる命蓮寺は、幻想郷の新勢力として力をつけてきていると聞いている。
力を持った妖怪が跋扈する幻想郷には不似合いなようにも思うし、隣りにいる賢者のことを考えるとお似合いのようにも思える。
天子がそう考えていると、それまで黙って様子を見ていた紫が、突然口を開いた。
「時に住職さん、人里に元々いた坊主として、命蓮寺のことはどう映るかしら?」
「ゆか――」
「シッ」
咄嗟に名前を呼びかけた天子の唇を、紫が小さく細い指を伸ばして塞いだ。
住職は真意を推し量ろうと、妖しい少女を見つめていたが、紫が彼に向き直ってニッコリと笑いかけると、それを受けてぽつぽつと語り始めた。
「そうですね……時代の移り目かな、と感じます」
その言葉に、天子は幻想郷の歴史を振り返る。
後から知った程度の話だが、幻想郷と呼ばれていたこの地に妖怪たちが集まり、現実と幻想を隔てる博麗大結界が作られ、今の状況になるまで血なまぐさい戦もあったらしい。
きっと妖怪の賢者である紫も、裏で奮闘したことだろう。
そうした犠牲と努力の末、平穏になった世界で変わるものとはなんだろうか。
「近頃、幻想郷は何かと異変が起き、情勢が変わりつつある。元々は妖怪などの間だけでの話でしたが、段々と保護されている人里にもその影響が出始めている。特に件の命蓮寺や、山の上の神社、それに仙人などは積極的に信仰を得ようとしております」
「時代の変化ですね、歓迎すべきことでしょうか」
「難しいことです。恐れを知らずに言わせてもらえば、幻想郷そのものが妖怪と人間の共依存のもとに組み立てられている。歴史上、このような形態の国はありませんでしたから、過去から学ぶことも難しい。しかしながら、変化自体は受け入れるべきことかと存じます」
問いかけに指摘を返されても、紫は涼しい顔だ。
住職は構わず話を続ける。
「停滞すれば衰退し、滅び行くのみ。流れる水は腐らずとも言いますし、それを無理に堰き止めようとすればそれこそ災いの元となりましょう。重要なのは、その変化の行先を見極めて、道を踏み外さないように気を付けることです」
「ならば、どういった道こそが幻想郷のためになると考えますか?」
「……近年では、人間と妖怪の距離が縮まりつつあります。急激な接近は危険ですが、今のところは一部同士が混じり合っている程度。ならばこれを止めず、人間と妖怪、そして超人や神々も含めた交わりの中で、新たな可能性を探ることが、幻想郷全体の益になると考えます」
「それは、共存ということでしょうか?」
「そう受け取っていただいてよろしいかもしれません。あるいは共存という概念すら捨てて、当然のごとく寄り合う可能性もあるかもしれません。そう、今しがた感じました」
住職の目は、天子と、その隣の紫とを並べて捉えていた。
紫はやんわりと、見かけの年齡に似合わないほど穏やかに微笑み、軽く会釈した。
「……そう、ありがとう。とても興味深い意見でしたわ」
「私などの言葉が、何かに響いたなら幸いです」
話し終えた住職がチラリと源五郎に目をやると、まだ歳幼い彼に難しい話は慣れないのか、少し退屈そうに呆けていた。
住職は苦笑すると、改めて天子に頭を下げる。
「天人様、私はしばらく散歩をして参ります。お連れの方とともにご自由にしていて下さい」
「ありがとう、お気遣いに感謝するわ」
「いえいえ、とんでもない。源五郎、失礼のないようにな」
「あ、はい、もちろんです」
住職はそれだけ言い残すと、寺の門をくぐって天子たちの前から去った。
その背中を見送って天子がポツリと零す。
「良い住職だわ、あんたの心配はしなくて大丈夫ね」
「はい、突然の出家を受け入れてくれましたし、とても優しい方で尊敬しています」
「それにしても……」
天子は源五郎に顔を向けると、眉間にシワを寄せじっと見つめた。
その視線の先は源五郎本人でなく、ピカピカに光った彼の頭頂部。
出家にあたって綺麗さっぱり剃られた頭を見て、天子はシワをほぐすと面白そうに声を上げて笑った。
「あははははは、いやー見事なつるっぱげね~。触ってみていい?」
「い、嫌ですよ天子様。まだこの頭、恥ずかしいんですから」
「あはは、冗談よ、半分は。あんたならすぐにその頭が似合う、カッコいい大人になれるわ、精進なさい」
源五郎は恥ずかしそうに頭を手で押さえながらも、カッコいいなどと言われては満更でもないらしい。
しかし恥ずかしいことには変わりがないようで、話を逸らそうと天子の隣りにいる少女に目をやった。
「ところで、天子様。そちらの子は……」
「うふふ、私が誰だかわからないかしら?」
そう言うと紫は天子の手を離してふらりと後ろに倒れ込むと、瞬時に開いた亜空間へのスキマへと入り込んで影も形も消してしまった。
あっという間の神隠しに源五郎が驚いて目を剥いていると、彼の背後に新たなスキマが開き、そこからいつもどおりの胡散臭い美女の姿で紫が現れ、源五郎の顎に背後から手を回した。
「この前はせっかく助けて差し上げましたのに」
「うわああ!?」
驚いて飛び上がった源五郎は、咄嗟に飛び出して天子の背中に逃げ込んだ。
女にすがって様子を見てくる少年に、紫は喉を鳴らして満足げな笑いを漏らすと、またスキマに飲み込まれ、再び可憐な少女の姿で躍り出る。
自在に姿を変じるヒトガタを見て、源五郎は上ずった声で叫ぶ。
「な、なんですかこの人!?」
「紫、あんまり脅かしちゃ駄目だってば」
「あらあら、天子に怒られるなんて私も落ち目かしらね」
「どういう意味よコラ」
天子が睨み付けても、案の定、紫は涼しい顔で受け流す。
「て、天人様!? この人は……」
「私の友達で、妖怪よ」
「これで会うのは三度目ですね。八雲紫と申しますわ」
スカートをつまんで丁寧にお辞儀する紫に、源五郎は大層驚いている様子だったが、かつて天子が自分の母親に剣を振り上げた時、止めに入った人物が紫であることはなんとか飲み込めた。
だがどちらにせよ衝撃は大きい。人里の住人のほとんどにとって妖怪は恐るべき存在であり、里という安全地帯には容易に入ってこないと思い込んでいるからだ。
「よ、妖怪!? 人里に……」
「あー、こいつのことは内緒にしてて、バレたら色々とまずいから。まあこいつは厄介だけど里の人間には安全なほうよ」
少年の驚きはもっともだが、天子は騒ぎにならないよう誤魔化すよう笑って煙に巻く。
こういうのは自分より紫のほうが得意なのになと思いながら、源五郎から離れて紫の傍に付くと、紫の小さな背中を叩いて改めて紹介した。
「私と源五郎を引き合わせてくれたのもこいつなのよ。あんたの母親を助けたこともあるし、そこら辺、感謝しときなさい」
「は、はあ、ありがとうございます。妖怪なのに気を使っていただいて……?」
「感謝される謂れはありませんよ。どす黒く濁った家庭を目の当たりにした天子が苦悩するさまを愉しみたいだけでしたから」
「素直じゃないわねー、こいつ」
どうせ源五郎の家庭のことで気を揉んでいたであろうに、つれない態度を取る紫に天子は頬をニヤつかせた。
そこで天子は両手を構えると、紫の両脇に差し込んで指をワシャワシャと動かして敏感な場所をくすぐった。
「そんなひねくれ者にはこうよ!」
「うひゃっ!? ちょっと、天子、止めなさいはしたなひゃひゃひゃ!」
あられもない声を上げる紫を面白がって、天子は更に身体を寄せて本格的にくすぐりにかかる。
気心の知れた仲だからこそできる光景を見て、源五郎はぽかんと口を開けて呆気にとられていた。
「逃さないわよー。賢しいことばかり言ってないで、正直に白状しちゃいなさい。このー!」
「あひゃひゃ! べ、別に隠し事なんてしてにゃんかひゃあ!」
天人と妖怪が仲良さそうに笑い声を上げる奇妙な光景に、源五郎もやがて釣られて口角を上げる。
相反するはずの二人なのに、なんて楽しそうなんだと、おかしな関係に思わず声を上げて笑った。
「ぷっ……ははははは!」
しばらくの間、寺の境内に楽しそうな声が響くのだった。
◇ ◆ ◇
「はい、こちらお団子とお饅頭です」
「ありがとねー」
「ごゆっくりどうぞ」
にこやかなスマイルを浮かべた店員が、お盆を手に去っていく。
二人は寺でひとしきりじゃれ合った後、源五郎に別れを告げて、手をつないで甘味処までやってきた。
店先に設置された長椅子に腰を下ろしてお団子やまんじゅうを頼んで甘味を楽しんでいるが、紫は団子を頬張った頬を膨らませ、不機嫌そうに眉を寄せていた。
「まったく、天子のせいでとんだ恥さらしだったわ」
「あんたが素直に、源五郎を助けられて良かったって言わなかったからでしょ」
「私は助けてなんていません。あの子が自分で助かっただけです」
「どっちにしろ嬉しいのは同じくせに」
幻想郷の住人一人ひとりに気を配っているのが紫だ、源五郎が勇気を出して出家したことで天子以上に喜んだことだろう。
とは言えだからこそ恥ずかしくもあり、紫はそっぽを向くばかりだった。
「ふんだ」
「ごめんごめん、まんじゅうあげるから許してって」
顔を背けた紫が目を向けると、笑った天子がまんじゅうを一つ摘んで差し出していた。
「はい、あーん」
紫は一度周囲に警戒を配り、知り合いがいないことを確認すると、恐る恐るといった様子でまんじゅうへと口を開く。
「あー……ん」
柔らかな生地に歯を立てた瞬間、差し出してくれた天子の手がまんじゅうを支えている力を一瞬だけ感じる。
こうやって、人から食べさせてもらう感触は不思議なものだ。
天子に食べさせてもらったまんじゅうは、存外に甘く、美味しかった。
「どう、機嫌治った?」
「……まあ少しは」
「良かった、あんた甘いの好きなのね」
安心した天子がまた笑うのに、紫はちょっとだけ寂しくなって唇をすぼめた。
あなたがくれたものだから美味しいのにと、わかってもらえないのが少し悔しい。
言えば済むことだけれど、人に好意を伝えることに慣れない紫にはどうにも難しかった。
「そうじゃないのに」
「へっ?」
「何でもありませんよ」
でもまあそれもいい、こうやって一喜一憂を表現できるだけで紫には幸せだ。
普段の紫なら、何か思うところがあってもあれやこれやと言葉を並べ、うろんな仕草で煙に巻いて心を隠してしまう、そういうサガだ。
だが天子が隣りにいる時は、自然と気持ちが表に出てきてくれるし、天子もそれを受け止めてくれる。
その奥のさらなる本心までは中々言い出せないのはもどかしくもあったが、今まで味わったことのないこの青春のような距離感は心地よかった。
気持ちを切り替えた紫は表情を明るくすると、天子が手に持っていたまんじゅうをひったくり、更には皿からもう一つまんじゅうを掠め取って食いついた。
「あっ、コラ二つもはナシでしょ!?」
「賢者的には食べたい気分だったのよ」
「だったらあんたのお団子寄越しなさいー」
「イーヤーよー」
甘味の奪い合いが勃発し、気軽にじゃれ合う二人の姿は、端から見ても微笑ましいものだった。
その光景に、通りがかった黒衣の人物が足を止める。
「あら、あなたたちは……」
団子の皿を取り合っていた紫と天子が声に気づいて顔を向けると、そこにいたのは命蓮寺の聖白蓮と、尸解仙の豊聡耳神子の二人だった。
「あっ、いつかの僧侶と仙人」
「いつかの天人ではないか。こんなところで何をしておる」
「見て分かんないの? 友達と甘いの食べてるのよ」
「友達な……」
神子はあからさまな意味を込めて呟き、天子の隣で団子とまんじゅうを楽しむ紫を見据える。
天子がすぐに気付けなかったのは普段との身長差からだ、ちゃんと意識して視界におけば紫の持つ特異な妖美さを間違えるはずがない。
「はて、ただの友達にしては些か風変わりであるな」
「ふん、何言ってるのよ、こいつはただの女の子よ」
「そう、その通り」
冷たい視線を浴びせられる紫は低い声で答えると、短い足を振って長椅子から降りて天子の前に出る。
そして左手を腰に当て、ピースサインを作った右手を目元で横向きで添えて、バッチリポーズを決めるとキャピキャピした甲高い声を上げた。
「わたし美少女ゆかりんっ、今年でピッチピチの九歳になります! よろしくねっ!」
冷たい風が通りを吹き抜ける、聖と神子は見てはいけない物を見てしまったかのような青い顔をして呆然としている。
紛れもなくドン引きであった。
「お、おう、そうか悪かった……」
「ゆかりんって呼んでね!」
「わかった、わかったから気色悪い声を止めてくれ」
「プッ、ク、アハハハハ! 九歳ってアンタ鯖読みすぎでしょー!」
「フンッ!」
「グハァ!?」
笑う天子の鳩尾に、紫の振り向きざまの正拳がめり込んだ。
轟沈した天子は痛む身体を押さえてピクピクと痙攣していたが、すぐに立ち上がって中指を立てて紫へ詰め寄る。
「オイコラババア、里の外まで出ろ。もっぺんその顔ボコボコに変えてやるわよ」
「いつまで経っても失礼なガキね、年上への礼儀というものを叩き込んであげましょうか」
「何なのだこいつら……」
仲よさげかと思えばあっさり敵意をぶつけ合う二人に神子は呆れている様子だが、聖はむしろ関心するようにじゃれあい見つめていた。
以前の完全憑依異変の折に、聖は神子とタッグを組んで異変解決に臨んだが、紫に利用され黒幕の情報を探るための当て馬となった。
そのためかの妖怪のことを油断ならぬ相手として警戒していたのだが、天子と睨み合う今の紫は、以前とは違った雰囲気に感じられた。
そして天子もそうだ、彼女とも戦ったことはあるが、その時よりも感情を表しながらもどこか穏やかさがある。
変化した二人の様子に聖はやがて意を決すると、声を掛け歩み出た。
「お二人とも、お隣よろしいですか?」
「へっ? まぁいいけど」
了承を得て席に着く聖を見て、神子も「ふむ……」と唸り思案すると、続いて椅子に腰掛けた。
「では私も同席しようか」
「しょうがないわね。紫、決着は後よ」
「はいはい、あと今の私はゆかりんね」
「あんたそれで通す気か……」
「店員さん、注文よろしいですか? 私はお饅頭を二つ」
「団子を三つ頼む」
「私らも追加、饅頭と団子三つずつ!」
「よく食べるわね」
「あんたが私のまで手を出すからでしょーが」
気のいい店員さんに追加注文を持ってきてもらう。
左側から神子、聖、紫、天子と並んだ四人は、甘味を味わいながら言葉を交わし始めた。
「お二人はどうして人里へ?」
「ただ遊んでるだけよ、ついでに知り合いの顔も見ときたかったしね」
「知り合いか、天人と妖怪が民と繋がりがあるとはな」
「ゆかりんですっ!!」
「わ、わかったから……」
しつこくロリっ娘アピールするゆかりんに神子はタジタジになりながらも、身を乗り出して天子に顔を向ける。
「ところで天人よ。どうすれば我も天界へと上がれるのだ」
「そんなの空飛んで雲超えればすぐよ」
「そうではない、天界に認められ天人になる方法を聞いているのだ」
神子のような仙人にとって、天人とは目指すべき到達点と言っていい、正に天上の存在だ。
しかし天界の実態は下界で言われているような世界ではないと、身をもって知っている天子は団子を口に入れながらつまらなそうに言葉を返す。
「無理よ、天界なんてとっくの昔に硬直しきってる。身内で馴れ合ってて、今更余所者が入りたいって言ったって追っ払われるだけよ」
「何だそれは、すべての天人がそういうわけではあるまい」
「全員よ。どいつもこいつも、安全な縄張りで贅沢することしか考えてない。あんなとこ行ったって、どんな聖人だろうと腐るだけよ」
「まさか、本当に……? お前が馴染めていないだけじゃないのか」
「失礼ね、あんな場所に馴染んだらそれこそおしまいよ」
冷たい返答に神子がショックを受け押し黙ってしまうのを見て、天子は無理も無いなとため息をついた。
天子とて天人という存在に尊敬を持ち、理想を目指したこともある。その理想を裏切られる気持ちはわかりすぎるほどだった。
「嘆かわしい、天上に至った者たちがそんな云われようとは」
「地に足つけて生きることね。それに鶏口となるも牛後となるなかれとも言う、天界に行ったらどんな才能があろうと埋まるだけ、弟子も居るんだしこっちで頑張んなさい」
天子が見たところ、神子とて地上ではかなりの傑物だ。仙人の中で一番ランクの低い尸解仙でありながら仲間を束ね、またたく間に地上の勢力として頭角を現したと聞いている。
天界に上がらずとも、せめて地上で人のためにその力を振るえばいいと、天子なりの慈悲だった。
まんじゅうを齧りながら苛立ちを抑えきれない神子の様子に、聖は困った顔をしていたが、彼女なら自分の問題は自分で解決できるだろうと思い、別の話を始めた。
「それにしても、お二人は仲良しだったのですね。風の噂であなた方は犬猿の仲だと聞き及んでおりましたが」
素朴な疑問に紫と天子は目を丸くし、お互いに見つめ合うと、突如として笑いあった。
ちょっと前までは聖の言う通り険悪な関係だったのに、今はこうして肩を並べているギャップが面白くて、冗談めかして口を開く。
「ははは、悪いも悪い、こいつとは殺し合うくらい最悪よ」
「まったくもっていけ好かない小娘だと常々思っておりますわ」
しかし何も嘘は言っていない、それなのに仲良くしていられる、奇妙なほど深く混じり合った関係だった。
一見しただけでは二人の絆がどこにあるかわからず、不思議そうな顔をする聖と神子に向かって、今度は紫が口を開く。
「そういうあなたたちこそ、商売敵なのに随分と仲がよろしいこと。先日の異変でも一緒だったではありませんか」
「敵同士だからこそ使い道というのがある。少し煽ってやれば私の前にある小石まで拾ってくれるありがたいやつさ」
「御仏は邪教の信者すら掌で救い上げてくださるもの。競争相手というだけで、慈愛を分けてはならない理由にはなりません」
それぞれ別の思惑で手を結んでいるようだが、恐らくそれだけではあるまい、と天子は考えた。
少し見ただけでもこの二人の宗教家の間には確かな信頼がある、仏教徒の妖怪と道教の仙人となれば、本来ならその垣根は深いはずだ。
それなのに、この幻想郷においては一緒に居られる。
「あるいは共存という概念すら捨てて、か」
「どういう意味ですか?」
「独り言よ気にしないで」
先ほど、紫が住職から引き出した答えに納得した気持ちだった。
聖は気になったが追求を止めて別の話を始めた。
「……天人様も、そちらの妖怪も、異変の際にお会いした時とはまるで別人ですね」
「まあこいつはまるっきり姿かえてるもんねー」
「いへん? なんのこと? ゆかりん難しいことわかんなーい、キャハッ!」
「そ、それも含めてですね」
「あんたそのブリッ子ハマってきてるな」
「いっそアイドルデビューでもしてみようかしら」
「やめい」
ゆかりんが両手に作ったピースサインをいかに可愛く配置するか練習しだすのを見て、聖は苦笑しながらも言葉を続ける。
「ゆかり……んさん、あなたのことは信用ならないと思いましたし、その考えは今も変わりませんが、案外普通の友人としてなら付き合えそうですね」
「あら、あらあらあら」
そう言われた紫は、解いた手を膝の上に置き、大層驚いた様子で目をまあるく開かせた。
わずかに呆然としたあと、やんわり嬉しそうに表情を緩め、口元を指先で隠しながら微笑を零した。
「……ふふ、嬉しいお誘いですわ。けれど足元を掬われないよう、お気をつけくださいね」
「もちろんです。ですので気兼ねなくお寺に遊びに来て下さい」
紫からの牽制するような言葉にも、聖は快く受け止めてみせた。
新しい交友関係が芽生えるのを天子が眺めていると、聖の向こうから神子が顔をのぞかせて天子に話しかけてきた。
「天子と言ったか。以前よりかはマシな面構えになったようだな」
「当然よ、日々是精進、私は常に高みを目指している。今日という日をより楽しめるようにね」
「ふむ、ならば我らが神霊廟に来るといい。特別に食客としてもてなそうぞ」
「お断り、私にはもう住む場所が決まってる。それに仙人程度に下るほど落ちぶれちゃいないわ」
あれだけ偉そうなのに益と見るやすぐに勧誘とは、地上の聖人も中々逞しいなと天子は内心感心した。
しかしながら天子にも自分の生活がある。妖怪と小人と貧乏神と、滅茶苦茶な種族が集まった雑多な家を捨てる気はない。
「とは言うが、お前も私と聖のタッグには敵わなかったがな」
「あれは完全憑依して間もなかったからね。有利な条件で勝った程度で、鬼の首を取ったように誇るのは滑稽だね」
「ほう、ならばあの時の再戦と行くか? 今はもう完全憑依はできなくなっているが」
「ククク、いいわよ。あの時と同じであんたら二人で来ればいい、その代わり」
再戦の機会と見るや目を光らせた天子は、紫の背中を叩いて声を張り上げた。
「私はこの紫と組む!」
「知らないわ、勝手にやっててちょうだい」
「ちょおーい!?」
紫と一緒なら100%無敵だと踏んでいた天子が、釣れない態度の紫に信じられないと叫んだ。
「なんでよ!? 戦いなさいよ、ノリ悪いわね!」
「このままノコノコ戦っちゃ変装した意味ないでしょうがバカちんが。私は見物させてもらいます」
「さて聖、天人殿は私たち二人を相手に余裕だそうだが」
「そうですね、甘く見られるわけにも行きませんし、全力でのしてしまいましょう」
「あっ、卑怯よあんたら二人がかりで! せめて人里の外で、じゃないと私の場合、被害大きすぎて本気出せないし!」
「問答無用!」
聖までやる気を出してきたのに天子が焦るが、椅子から飛び降りた神子が天子の胸元を掴み上げて上空へと引き上げてしまった。
往来で決闘が始まったと見るや、野次馬根性の強い里人がすぐに気付いて集まってきた。
「また決闘だぞ。面白そうだ、見ていこうぜ」
「ありゃ妖怪の僧侶と仙人か、向かいのは誰だっけ、最近よく見るらしいが」
「おーい、こっちだ! 早く来いって、見ものだぞー!」
慌ただしくなる雑踏の後ろで、紫は団子を齧りながら空を見上げて毒づいた。
「……もう、喧嘩を売れるなら誰でも良いのかしら」
紫のボヤキが喧騒に消えて行った。
◇ ◆ ◇
完全憑依異変を引き起こした疫病神の依神女苑だが、今は姉と離れ、人里の家に一人暮らしを始めていた。一部屋しかない小さな家だ、心機一転でやり直すにはこの手狭さがちょうどいいと女苑は思っている。
日が出てる内に、散歩兼これから取り付く人間の下見をしてきた女苑は、家に帰ってきて扉を開くと、玄関にまだ見慣れない赤いスニーカーがあるのが目に入った。
視線を上に向けると、姉である紫苑が畳の上に寝転がったが手を上げた。
「やっほ」
「あっ、姉さん来てたんだ」
「うん」
女苑は靴を脱いで家に上がると、高級コートを脱いでシワがつかないように畳んでから、部屋の隅に放り込んだ。身軽になって畳の上に腰を落ち着けると、紫苑も起き上がり膝を抱えて座った。
紫苑の隣には、持ってきたらしい鞄が置いてある。この姉が余計な荷物を持つこと自体が今までを考えると珍しい。
「今日はどうしたの?」
「天子が紫と出かけて、しばらく帰ってこないから」
「そっか、他のやつ不運にするから追い出されたか」
女苑が姉の不幸を誤魔化すようにケラケラ笑う。
しかし紫苑から帰ってきた答えは、女苑の推測とは違っていた。
「いや、自分で出てきたの。天子がいなかったらヤバイかもって言ってないし」
「へえー、そうなんだ」
女苑は少し驚いてしまい、目をしばたかせ押し黙った。
姉妹で一緒に居た頃の紫苑は、もっと自己中心的で回りへ配慮するような性格ではなかったのに。
いつも無気力で、人のことまで心配するような心のゆとりがなかった姉が、自発的に行動したのを見て女苑は不思議な気持ちになった。
「姉さんもちょっと変わったわね」
「女苑のほうが変わったよ」
「私と比べることないんじゃない?」
姉に変わったと言われるのは嬉しいが、そうやって自分を卑下されると面白くなく、女苑は不機嫌そうに眉を寄せる。
普通ならこの時点で自分の失言を疑いそうなものだが、こういう反応に慣れすぎていた紫苑は気にせず言葉を飛ばした。
「女苑は上手くやってる?」
「まあボチボチ」
「そっか」
短い返答に、紫苑はほぼ反射的に相槌を打つ。数秒遅れで思考が追いついて、ようやく首を傾げて女苑に問い質した。
「……女苑、ホントに上手くやれてるの?」
「だからやれてるって、何なのその粘っこい視線は」
「お寺で修行してから心を入れ替えたみたいなこと言ってたけど、それで生きられるのかなって」
元々、疫病神と貧乏神という誰からも疎まれる存在である二人だ、にもかかわらず女苑は一度命蓮寺で節制した生活を送ったことで、今までにない慎ましい生活を始めようと決心した。
その心変わりだけでも紫苑はすごいと思っているが、だからといってこれまで人の不幸を利用してきた自分たちが、いまさら生き方を変えることが出来るのか疑問だったのだ。
「ほら、私たちの力なんて人を不幸にすることばっかりじゃない」
「そうでもないわよ、最近そこら辺わかってきた気がするんだ」
女苑は得意げに口端を吊り上げると、得意げに講釈を述べ始めた。
「私の能力ってさ、要はお金を使わせる力じゃん。でさ、お金の流れと運って言うのが比例してるってわかってきたのよ」
「うん? お金を使えば運が良くなるってこと?」
「近いけど、ちょっと違うわね。身の丈にあったお金の使い方なら良い方に転ぶってこと」
そもそもお金が寄り付かない性質の紫苑には未知の話で分かりづらかったが、必死に妹の話を聞こうとした。
「今の私が狙ってるのはね、ちょっとだけ遊ぶお金はある、でも不安が先に立ってお金を使うことが出来ない人。こういうやつって、お金を守るために思考も行動も保守的になって、何もできなくなっちゃうのよね。でも実際にはお金って働かないと手に入らないじゃん、そこを私の能力で突っつくのよ」
紫苑にもなんとか理屈はわかる。
「お金は使ったら、そのぶん稼がなくっちゃって思うようになる。保守的な人間からお金を使わせてやると、やる気になってかえってお金が入ってきたり、そうじゃなくても普段の生活態度が良くなったりするみたいなのよ。だから私は、そういうやつらが気持ちよくなれるようお金を使わせてやって、そのおこぼれを頂いてるってわけよ」
「へえー、そういう力の使い方が……」
「水でも金でも何でも、流れが止まると濁って運がなくなるからさ、それを吐き出させるようにすると、私も得しながら誰も不幸にならないってわけ」
「ほえー……」
「むしろ社会のお金の流れを整えることで貧富の差も縮まってみんなハッピー! あはははは、そのうち疫病神から福の神に転職できたりして!」
「すごい、すごいわ女苑!」
紫苑は半分くらい理解が追いつかなかったが、女苑なりに周りに迷惑にならない、むしろ世のため人のためになる生き方を模索していることが十分伝わってきた。
思わず興奮して自分のことのように目を輝かせる紫苑に、女苑は照れ臭そうに頭をかく。
しかしすぐに紫苑は気を落として、視線を落としてぺたんと畳に打ち付けた。
「……すごいなぁ、女苑は。私なんて天人様にべったりしてるだけ」
「……なにさ、そんなふうにすぐ卑屈ぶるのは姉さんの悪い癖だよ」
この紫苑の癖が、昔から女苑にとっては目障りだった。
気分を盛り下げられ、へそを曲げた女苑が言い返す。
「あんな金も運もあるやつの舎弟になれてるんだ、私よりもよっぽど成功してるじゃない」
「舎弟って……でもまぁ、近いかもねぇ……」
小さなあばら家に住まう女苑に対して、紫苑は天子に引っ付いていったお陰で、輝針城と言う名の妙ちきりんだが立派な城に住まわせてもらってるのだ。
周りから見れば紫苑のほうが上手く生活している風に見えるかも知れない。
しかし紫苑にはそうは思わなかった、所詮自分は天子の力で住まわせてもらってるだけ。例え小さくても自力でこの家を構えている女苑のほうが立派に思っていた
「女苑は変わって、それはすごく良いことだけど、私は変わってなんてなくて、なんか置いてけぼりにされた気がするのよね。だからって、女苑みたいに新しい生き方を考えてみても思い浮かばないし」
「姉さん……」
ネガティブな紫苑にとうとう女苑まで気が滅入り始める。
紫苑はそこにきて、ようやく自分の発言が妹を落ち込ませていると気付き、慌てて首を振った。
「ごめんね、女苑は頑張ってるのに盛り下げること言って」
「……そうよ、私はこれからだって言うのに、勝手に落ち込んでやる気なくなるようなこと言って」
「うぐっ」
容赦なく言葉のボディーブローが浴びせられ、紫苑は苦しそうに胸を押さえる。
相変わらず言われっぱなしの脆い姉に、女苑はやれやれと首をすくめると、暗さを打ち消すように高らかな声を響かせた。
「でもまぁ、姉さんはほっといたらすぐダメになっちゃうやつだからさ、一人で落ちぶられても迷惑だし、こうやって愚痴られる方がマシよ」
「女苑……もしかして慰めてくれてる?」
「う、うるさい」
しかしこの返しは予想外だったので、女苑はすぐ恥ずかしがった。前までの姉なら、慰めにも気付かずグチグチうるさいはずだったのに。
ペースを乱され、改めて女苑から話題が切り出された。
「ところで今晩はウチで食べるんだよね? どこ食べに行こっか」
「あっ、それなら私が作るわ」
「……姉さんが? 自分から?」
「最近はお城で順番にご飯作ってるのよ、新しく覚えたのあるから作ってあげようって思って」
そう言って紫苑が自分の鞄を、中から取り出したのは一升瓶の醤油。
「にへへ、みんなにお願いして調味料持ってきちゃった」
今まで見たことなかった紫苑の笑顔が、女苑の胸に刺さる。
別に醤油くらいは家にあるし、そんな空回りが姉らしいが、自分から重たい荷物を持ってきてまで笑顔を届けてきたことが、女苑にとっては特大の衝撃だった。
無気力で、自己中で、周りに流されて言うこと聞くばかりだった姉が、今は自分の意志でやりたいことをやっている。
女苑は寂しい半面、そんな姉が誇らしかった。
「変わったね、姉さん」
「へっ?」
◇ ◆ ◇
人里の往来で行われた二対一の戦いは、やはりというか天子の負けで終わった。
しかしながら、天子は常に要石を周囲に浮かばせることで挟み撃ちされても要石の盾として使い、幾度も攻撃をしのいでかなり善戦したのだ。ギャラリーの里人も大盛り上がりであったし、宗教家たちも天人恐るべしと天子を評価したことだろう。
とは言え負けは負けである、天子はゆかりんに手を引かれながら、重い頭を項垂れていた。
「あー、負けた~。悔しぃー……」
「自業自得よ、無鉄砲を反省なさいな」
「あーあ、紫が協力してくれたら楽勝だったのになぁ」
「はいはい、そのうちリベンジさせてあげるから、元気出しなさい」
天子の落ち込みようを見て、少し意地悪しすぎたかなと紫はちょっぴり反省していた。
だが人里で大見栄張って戦うわけにも行かないし、やはりその辺を考慮せず突っ走った天子の自業自得かもしれない。
「それより、あなたの仕事場が見えてきたわよ、シャッキリなさい」
「ん。そうね、ずっと腐ってちゃつまんないわ」
遊ぶ約束をしていた天子と紫だが、今日はずっと二人きりというわけではなかった。
次に二人が向かったのは、人里の大通りから少し離れたところにある場所だった。
民家に囲まれた中に一際大きな建物があり、その前では羽衣をゆらゆらさせている衣玖が二人のことを待っていた。
「お二人とも、こちらですよ」
天子と紫に気付いた衣玖が、手を上げて呼び寄せる。
「やっほー、衣玖さっきぶり」
「お久しぶりです、変わり無いようでなによりですわ」
「紫さんは随分と変わられたようで」
「人里ですから、変装みたいなものですよ」
挨拶もそこそこに、天子は大きな建物――稽古場を見やった。
「へえー、道場使ってやってるんだ」
「普段は剣道に使われていますが、週一でダンス教室に貸してもらってるんですよ」
今日は衣玖がバイトをしているダンス教室に、特別講師として天人たる天子が招かれたのだ。
仕事を引き受けてくれた天子に、衣玖が改めて頭を下げる。
「今日はお越しくださってありがとうございます」
「まあ同居人のよしみ、ちょっとくらいは贔屓してあげないとね」
「でも良かったんですか、せっかく二人で遊ぶ日だったのに」
「いいのいいの、紫とはいつでも会えるんだし」
「天子様は能天気なのでいいですが……」
「どういう意味よ?」
衣玖は少し申し訳なさそうに、天子の隣に立つ紫に視線を配る。
しかし紫はにっこりと笑い、衣玖の心配を払った。
「私としても構いませんわ、この教室については気になることもございましたし」
「……そうですか。しかし授業中は」
「心配しなくとも大丈夫ですよ。ただ様子を直に見てみたいだけです」
意味深げな会話をする二人に、天子は首を傾げる。どうやら天子が知らないことがあるようだが。
「何の話してるの?」
「見れば分かるわ。ただし、彼女は無害だからそっとしておくように」
疎外感を感じて少し口を尖らせる天子だったが、まあわからないものは楽しみにしようと気を取り直すことにした。
衣玖に案内される形で天子と紫は敷居をまたぎ、靴を脱ぐと道場に上がり込む。
すでに中には生徒や講師たちが集まっており、衣玖は軽く会釈しながら他の講師たちに話しかけた。
「おはようございます、例の人をお連れしましたよ」
「あら衣玖さん! おはようございます、頼んで下さってありがとうね」
初老に差し掛かったおばさま方がゲストを迎え入れる。
衣玖の後ろから続きながら、天子の注意はある一点に注がれていた。
「ははーん、なるほど……」
天子は道場でまばらに散った生徒たちを眺め、後ろの方にいる、ある生徒に注目した。
その生徒は一見すると何でもないただの町娘だ、肩まで伸ばした艶のある黒髪は綺麗に整えられていて、浮かべる笑みは柔らかく品がある。身にまとった淡い桜色の着物はそこそこ良い品だが、それが彼女の雰囲気によく似合っていた。
他の生徒と仲良さそうに談笑しているが、皮一枚隔てた向こう側から人間とは違う気質が感じ取れる。
陰から生まれた者共の暗い力。人里の人間に混じって、妖怪がダンス教室にやってきているのだ。
そのことを天子が見定めていると、不意に紫が手を握ってきた。
「天子」
「はいはい、わかってるわよ。無害無害」
衣玖然り、紫然り、天子の周りにも人里に入ってきている妖怪はいるのだ、暴れてるわけでもないなら今更騒ぐことでもない。
天子が他の講師たちと軽く自己紹介を済ませると、講師たちの中でもまとめ役らしいらしい中年の女性が手を叩き、雑談していた生徒を集めた。
整列する生徒たちの前で、天子が他の講師たちと並んで立って紹介を受ける。紫もその隣にいた。
「今日は衣玖さんが特別ゲストを連れてきて下さいました。天子さん、お願いします」
「天人の比那名居天子よ、今日は特別に私自ら舞いを見せてあげるわ。隣のは連れの……」
「天子お姉ちゃんの付き添いのゆかりんです! 今日は見学に来ましたぁ!」
「ブッフォ!?」
油断していた衣玖が腹筋にウィンクをばちこーんと撃ち込まれ、生徒たちの前で盛大に吹き出していた。
肩を震わせ必死に笑いを押さえる衣玖に、他の講師が心配して声を掛けた。
「どうしたんですか衣玖さん?」
「な……何でもな……ひ、酷い不意打ちを……」
「てへっ☆」
惨劇に見舞われた衣玖に天子は苦笑いを浮かべると、咳払いをして仕切り直した。
「それじゃあまずは私の舞いを見なさい。あなた達が習ってる踊りとは根本から違うから、技術とかそういうのを学ぶつもりで観る必要はないわ。心をまっさらにして感受性を高めなさい、舞いに込められた本質を掴むのよ。衣玖、来なさい」
「私ですか?」
「舞うにもパートナーがいたほうが盛り上がるでしょ」
「そうかもしれませんが……」
衣玖はそっと天子の隣を覗き見る、奥にいるのは当然ながら紫だ。
ジェラシーが漏れ出しまるで紫色のオーラが漲っているようにすら感じる、怨念がこもった暗い視線が衣玖に突き刺さった。
「こわい」
「なに?」
「いえ、謹んでお受けいたします」
断っても天子は聞かないだろうし衣玖は受けることにした。どうせ後で八つ当たりを受けるのは天子本人であるだろう、朴念仁には存分に苦しんでもらえばいい。
嫉妬をビシバシ感じながら衣玖は天子の前へと歩み出た。邪魔にならないように他の講師や紫は退き、生徒たちの前で天子と衣玖が向き合う。
「演目はどうします?」
「即興。大陸の型を本格的に教えるわけじゃないんだし、そっちの方が良いでしょ。できないとは言わせないわよ」
「やれやれ期待が重いですね」
二人の話を聞いていた生徒の一人が、手を上げて天子に尋ねた。
「即興で踊りを作れたりするものなんですか?」
「大陸の古典舞踏は意を以って行うものだからね。つまりは胸の内の本心を、全身の一挙一動を通じて表現するの。極まればその場のアドリブで合わせるくらいはできるわ」
「単なるリズムやステップだけでなく、表情や呼吸まで含めての舞いですから難易度は高いですがね。広い世界にはこういうのもあると、知っていただけたら良いかと」
「じゃあ始めるわよ」
天子と衣玖は生徒たちに身体を向けるとお互いに距離を取り、生徒たちから見て右側に天子が、左側に衣玖が並んで、観客に一礼した。
演奏も何もない二人だけの舞いだ、どんなものなのか生徒たちが興味を引かれる中で、先に動き始めたのは天子だった。
足を肩幅に広げ、力を抜いた手を揺らめかせ、掌で周囲の大気をかき乱す。まるで指先で水面をなぞり、そこから出る波紋を眺めるように、今そこにあるものに触れ、楽しんでいることを表していた。
やがて丹念に目に見えぬ何かを練ると、力強く手を握りしめてはすぐに開き、晴れ晴れしい表情で自らの成果を感じ入る。
天子は軽やかにその場で身体を回転させた。空色の長髪と極光で彩られたスカートを広げて、再び衣玖に身体を向け膝を突いて大きく胸を張り、緩やかに手を伸ばした。
対する衣玖は深く頭を沈み込ませ敬意を表しながら、両手を広げ天子から伝わってきた波紋を全身で感じ取るように四肢を弛ませた。
そして胸元に右手を当て、左手を天子へと差し向けながら、弓の弦を絞るように上半身を引かせ、意を決して天子へ向かって身を飛び込ませた。
羽衣を揺らすと、手足を回し穏やかな円を描いた衣玖は、天子から差し出された手に手を重ねたが、その瞬間に天子は手を持ち上げ衣玖を誘った。
衣玖はそのまま天子の背後へと滑り込み、背中合わせになって跪く。
見物していた生徒たちはもとより、講師の面々も舞いに見入っていた。演奏もなく、わずかほんの十秒足らずの動きであったが、見事に心を鷲掴みにされたのだ。
一連の舞いには、自らの意思が世界を揺らすことを楽しむ天子と、そんな天子に感銘を受け、付き従う衣玖の敬愛の念が感じ取れた。
だが天子はただ衣玖を配下とすることを良しとせず、できるだけ対等であるように背中を預けることを許した。
数十年、数百年を掛けて練り上げられた舞踏に込められた情報量に、誰もが圧倒されていた。
紫も今は嫉妬を忘れ、二人の舞いに感じ入っていた。
演者たちがお互いの気持ちを確かめ合うため間を置いてから、再び美しい踊りを伴って物語が動き始める。
笑顔で身を躍らせながらステージを横断する天子に、衣玖が続けて舞って後を追う。すべての動作が洗練されていて、手足の挙動だけでなく指の先の先から揺れる髪の毛の一本に至るまで、演者の意識の元に置かれ、鮮やかな音色を奏でているかのようだった。
しかしヒートアップする天子の踊りに次第に衣玖が遅れていき、床に倒れ込んでしまったがこれも舞いの一部だ。
衣玖は開脚した姿勢で上半身を胸から床に倒し、そんな衣玖に天子が一転して重しを付けられたような踊りにより、自らの浅慮で付き人を傷つけたことを悔い悲しむ。
己に憤りを感じた天子は、激しく身を回転させ、与えられたステージから退場しようとするが、身を揺らして起き上がった衣玖が縋り付くように後を追った。
振り向いた天子に衣玖がもう一度跪き、今度は衣玖の方から手を伸ばして天子を誘う。
衣玖の手を、天子は甘んじて受け、再び背中を預け合った。
舞いは最終局面に達し、憂いを忘れた二人は思い思いに手足を振り回し、高鳴る鼓動を刻むよう宙を跳び、生の歓びを謳歌する。
そして最後、夜の静けさを感じさせる穏やかな舞いで、天子は衣玖を労り、衣玖はそれを受け止めるよう開脚した姿勢で腰を落ち着け、背中から床に身体を倒して身を休めた。
そのそばで天子は膝を突き、自分に付いてきてくれた衣玖を守るようそっと寄り添った。
静寂が続き、観客に終わりを伝える。
しばし誰もが言葉を忘れそれを眺めていたが、紫が手を叩き二人を称えると、彼女に続いて生徒や他の講師たちも拍手を鳴らし、演者を賞賛した。
余韻を残したまま天子と衣玖は立ち上がり、深く息をつきながら観客に一礼を以って終幕とした。
「とまあ、天界の踊りはこんなのよ。何か感じたものがあれば嬉しいわ」
「素晴らしいです! 流石は天人様と天女様です」
講師たちの中から、先程のまとめ役の女性が前に出て二人を褒め称えた。
「洗練された技術と意の融合、しかと拝見しました。さぞや練習を重ねたことでしょう」
「まあね、これだってダラダラ生きてれば勝手に覚えるもんじゃないわ。と言うか衣玖もけっこうやるじゃないの、予想以上で驚いたわ」
「それはどうも、と言うか知らないで誘ったのですか」
「なんとなく踊りが上手そうだなとは思ったからね」
「無茶振りが過ぎますよまったく」
衣玖の呆れを笑い飛ばし、天子は生徒たちに顔を向けた。
「自らの心を表現するというのはとても大事なことよ。私たちのレベルに達するにはそれこそ生涯かけてでもないと無理だけど、少しでも近づけるように頭の隅に置いときなさい。そして踊りの基礎や細かい技術も、そういった気持ちを支える大切な要素だから手を抜かないように。わかったかしら」
『はい!!』
「よしいい声! やる気があっていいわ」
特別ゲストによる舞いが終わり、通常の授業が始まる。
他の講師たちが生徒に教える中、天子も教室を見て回っては、生徒の姿勢の乱れや癖など気が付いたことを教えていた。初めて会ったはずだが指摘は的確で、他の講師も感心する指導ぶりだった。
紫はと言えば、一応は本来の姿を隠しているのであるし、道場の隅っこで膝を抱えて座り込み、天子や、生徒に混じったとある妖怪の様子を見つめていた。
つつがなくダンス教室の授業は終了し、天子たちは感謝とともに謝礼を受け取ると、衣玖を残して稽古場を後にした。
支払われた給金を持って、すぐに近くの喫茶店に足を運ぶ。
「あー、お仕事終わった後の甘味は格別だわー」
「食べすぎでしょさっきから、太るわよ」
「どっかのぐーたら妖怪と違って運動してるから大丈夫なんですー。教える側に回るのも楽しいもんね、またお願いされたら来てみよっかな」
「良いんじゃない。あなたも意外に向いてるようだし」
四人がけのテーブルを使い、紫と天子は向かい合って座って水羊羹を突く。
ひんやりした甘みを口の中で転がして味わう。満足の行く美味しさだ、店の雰囲気もいいしお客も多い。
程よい喧騒を楽しみながら、二人で話し合った。
「ところで天子、さっきの生徒に混じっていた彼女、あなたから見てどうだったかしら?」
「そうね、気質も穏やかで安定してたし、変な気を起こすようなタイプじゃなさそうね。踊りも熱心にやってたし、他の人間にも積極的に溶け込もうとしてた。まったくもって問題なしよ」
意見を述べた天子は、周囲に注意を払ってから、机に身を乗り出し小声で紫に話しかけた。
「人里って、あんなに妖怪が溶け込んでるものなの?」
「そうね……彼女は少し特殊なパターンかしら。人里に混ざって店で買物をしたり、お酒を楽しんだりしている者は多い。けれどあそこまで熱心に、人間から学ぼうとしているのは珍しいわ」
「ふぅん、わざわざ教室に習いに来るなんてよっぽどよね、かなり真剣だったし」
紫の言葉を聞きながら、天子は椅子に座りなおす。
その妖怪の授業態度は、他の生徒たちよりよっぽど真面目だった。単なる興味本位とは少し違う、天子にはあれは何かしら理由や目的意識があるように感じられた。
その意思の向かう先が何なのか気にはなったが、なったが今はそれよりも天子にとって重要な話題がある。
「それはそうと、私の踊りはどうだったよ。即興にしては中々のもんだったでしょ」
「……ギリギリ及第点と言ったところかしらね」
「えー、何よそれ」
自信満々で尋ねた天子だったが、紫は不機嫌そうに顔を背けてしまった。
踊りでミスしたところもないはずであるし、心当たりがない天子は気に入らなそうに紫に刺々しい視線を送った。
「完璧だったでしょあれは、どこが悪かったってのよ」
「まずは自分の胸に聞いてみることね」
「どういうことよ意味わかんないってば」
ツンとした態度の紫に天子が困っていると、店の入口から見栄えの良い緋色がチラついて、そちらに目をやると、さっき別れたばかりの衣玖が店内を見渡しているのと眼が合った。
「天子様、ゆかりんさん、良かったここに居ましたか」
「衣玖? どうしたのよ」
衣玖が店の中に足を踏み入れる、その後ろから彼女に続いてくる影があった。
入り口から現れたその影が着た桜色の着物を見て、天子と紫は驚いて少しばかり目を見開いた。さっきまで話題にしていた、件の妖怪がそこにいた。
妖怪を連れ、天子たちの前まで来た衣玖が二人に尋ねる。
「少し相談がありまして、いいでしょうか」
「……ん、良いわよ座りなさい」
「ではこちらの席へどうぞ」
紫は自然に自分の席を譲りつつ、ちゃっかり天子の隣に腰を下ろした。
衣玖はちょっと機嫌が良くなった紫の変化を目敏く感じながら、何も言わず町娘風の妖怪を連れて天子たちの前に腰掛けた。
新しいお客に店員がすぐさまやってきたので、適当に団子を二人分注文し、持ってきてもらってから、まず衣玖から口を開いた。
「こちらはダンス教室に来ている生徒の金剛さんと言います」
「は、初めまして金剛です」
「へえ、けっこう勇ましい名前ね」
紹介を受けた金剛は、少し戸惑いながら頭を下げた。
雰囲気の割には大げさな名前だ、とは言え彼女の内側から感じる力は中々のものだ、案外名前通りの人物かもしれない。
しかし表向きの態度は少し気弱で、良く言えば女の子らしいが、天人を前にして萎縮しているようで隣に衣玖に顔を向けた。
「あの、衣玖さん……」
「大丈夫ですよ、お二人は信用に値する方です。秘密は守りますし、あなたの気持ちを無碍にするような人たちではありませんよ」
衣玖から優しく言われ、金剛はオドオドしながら天子たちに向き直る。
天子が言葉を待ってお茶をすすっていると、やがて金剛は戸惑いがちに口を開いた。
「あ、あの……私……」
「なに?」
「私……実は妖怪なんです!!」
思いっきり叫ばれた内容に思わず天子がお茶を吹き出した。
金剛の隣にいる衣玖も、迂闊な発言に眼を丸くしている。
「ブホッ、ゲホッ! い、いきなり何言うのよあんたは!?」
「すみません、驚きますよねこんなこと!」
「じゃあないわよ! あんたの秘密なんてとっくにわかってるのよ、それよりそんな大声で言ったら周りにバレるでしょ!」
「あっ!!」
天子から言われてようやく自分の失言に気付いたようで、金剛は泡を食って辺りを見渡した。あまりしっかりしてる性格じゃないらしい。
しかし不思議なことに、店にいる他の客や店員は、天子たちを気にしているものは誰一人としていなかった。
誰も金剛の言葉に気が付かず、思い思いの時間を過ごしている。
「あ、あれ?」
「防音の結界を張っておきました、音しか防げないので気を付けて下さい」
困惑する金剛に、紫がため息を付きながら言った。
「えっと、この人って」
「あー、あんたと同類よ。胡散臭いやつだからあんまり気にしないでいいわ」
「胡散臭い……結界……ゆかりん……知り合いから聞いたことが、もしかして妖怪の賢者の?」
「なんのことー? 私は美少女ゆかりん九歳です!」
「そ、そうなんですか……」
「マジこいつの奇行は気にしないでいいからね、うん」
キャピキャピと若作りする紫に、一同引き気味であった。
気を取り直して話を再開する。
「それで相談って何よ」
「はい、あの、とても恥ずかしいことなので、内密にお願いしたいのですが……」
「黙っといてあげるわ、面白いことなら歓迎よ」
「面白いことじゃないと、思いますが」
金剛は前置きを挟み、もじもじと肩を動かした。
いい加減、内気な金剛に天子が急かしたくなってきていると、金剛は照れ臭そうに火照った頬を押さえて悩みを告白した。
「実は……私、人間の殿方に恋してるんです」
打ち明けられた想いに、天子は驚いて息を呑むと、すぐに目をキラキラと輝かせて身を乗り出した。
「えぇー!? 誰と? 誰と!?」
「その、里の退治屋の方でして。凛々しいお姿を見て、一目惚れしてしまって……」
「良いわねわ良いわね、一目惚れなんてロマンチック……あっ、わかったそれでダンス教室に来てたんだ!」
「はい、人間の女らしさを学べればと思って。他にも幾つか女の子らしい習い事を……」
金剛が恥ずかしながらも話す内容に、天子は興味津々で聞き入っている。
天子とて女の子なのだ、この手の話題は大好物だ。
同時に、紫がこの妖怪を気にしていた理由もなんとなく掴めてきた。
「なるほど、それで私のところに話を持ってきたのね」
「はい、私も先程金剛さんから事情を聞きまして、私よりもお二人のほうがお力になれるかと思って」
「いい判断よ衣玖、この比那名居天子様に任せなさいって」
天子は恋愛経験もないはずだが、自信満々に胸を張っている。あまりの調子の乗りっぷりに、衣玖は逆に不安を感じ始めてしまっていた。自身も色恋沙汰にはとんと関わりがなかったので、荷が重いと感じて天子たちを頼ったが、本当に大丈夫だろうか。
衣玖の心配を他所に、金剛は団子を食べることも忘れて、熱い眼差しを天子へ送っている。
「お願いします天子さん! あの人に振り向いてもらいたいんです、協力して下さい!」
「あっはっは、良いわよ良いわよ。大船に乗ったつもりでドンと頼りなさい!」
「朴念仁のくせに……」
「紫、なんか言った?」
「なんにも」
どうも昼間の宗教家相手のいさかいから紫の様子がおかしいが、今はそれより金剛だ。
「もう話しかけたりはしてみたの?」
「いえ、まだです。向こうも巫女ほどではないですが妖怪の専門家ですから、まず人里に隠れるのが慣れてからと思いまして。でも噂を聞いた限り、色んな女性が狙ってるらしくって……」
「あぁそっか、まずは妖怪なのを隠して仲良くなったほうが有利だもんね」
「嘘をつくようで信条に反してしまいますが、何分、人間から妖怪への心象は良くないですから」
「まあ、その程度の工夫は必要よね。でもみんな狙ってるってことは、まだ相手が居ないんでしょ? 十分チャンスがあるじゃない」
「そうでしょうか……? 戦いならいざしらず、恋の駆け引きなどにはとんと疎くて自信が……」
恐縮して肩を狭める金剛だが、天子はそれほど彼女が不利だとは思えなかった。
確かに人と妖怪の垣根は深いが、彼女には好きな男のために人里に紛れ込む行動力がある。
「やれるやれる! 好きな人のために習い事までするなんて普通のやつは出来ないわよ。そこまで必死になれるんだから、恋の戦争だって勝ち抜けるわよ」
「……ありがとうございます、天子さん」
その後、天子たちは店に長居して、金剛から意中の人の話を根掘り葉掘り聞き、明日には実際にその退治屋を見てみようということになり、ひとまずそれで解散した。
◇ ◆ ◇
金剛からの情報収集が終わった頃には、すっかり日が暮れてしまっていた。
金剛と衣玖に手を振って別れた天子と紫は、最後はのびのびと飲もうと人里を出て夜雀がやっているという屋台に足を向けていた。
道すがら、天子は星がまたたく夜空に握り拳を掲げ、固まった背筋を伸ばしていた。
「んー! 今日は面白い話を聞けたわね、ナマの恋バナなんて初めて、ワクワクしてくるわ! でもダンス教室の後は二人で遊ぶ約束だったのに。すっかり話し込んじゃったわね」
「そう思うならさっさと話を切り上げなさい、金剛はどんな風に人里で過ごしてるのかとか、ほとんど関係ないことまで聞き出そうとして」
「あはは、ごめんって」
棘のある言葉を零す紫は、もういつもと同じ大人の女性の姿へと変わっている。
天子が慣れ親しんだ綺麗な顔は、ため息を吐きながらも眉間のシワを解いた。
「……まあ、あの妖怪の様子を直接知れたのは良かったわ。天子、これからもお節介を焼くつもりなら慎重にね」
「ん、わかってるわよ」
天子はこれから金剛の恋が実るまで手助けをするつもりだ。
だがそれとは別に、隣のいる友人のことで気になることがあった。
「紫ってさ、なんで金剛のこと気に掛けてるの?」
「あら、私が幻想郷の住人のことを気に掛けるのはいつものことでしょう?」
紫が言ったことは嘘ではない、以前には源五郎の家に天子を導いたこともある、幻想郷の事情を一番知っているのは紫だろうし、いちいちそれに気を揉む性分なのであろう。
だがこれは誰かが傷つけられているような事件ではない。
「紫が優しいのは当然だけど、ただの恋愛事にわざわざ首を突っ込みたいほど興味を持つとも思えない。何か目的があるんじゃないの?」
「……ふふ、私は優しくなんかないわ」
柔らかく微笑んで、紫は足を早め天子の前に出ると、月明かりを帯びた背中を見せた。
「でもあなたになら、教えても良いかも知れない。私の最終目的を」
思いもよらぬ言葉に天子が足を止めて息を呑んだ。
最終目的、それはつまり、この幻想郷を創った理由そのものだろう。
ただの恋からとんでもないところに話が飛躍した。
驚く天子の前で、紫は胸の内を曝け出した。
「それは妖怪という幻の存在を種として確立し、半永久的に存続させることよ」
それはどこまでも紫らしいと天子が感じるような、優しく壮大な計画だった。
元々、妖怪は人々が闇夜に恐れる気持ちを発端として誕生した存在だ。
だが人類の科学が進歩し、暗闇に潜む妖をまやかしだと証明することで、信じられなくなり、忘れられることで妖怪たちは消滅するしかなかった。
そこで紫が妖怪の勢力を増すための妖怪拡張計画を唱え、幻と実体の境界として博麗大結界を創ることで、その内側では生存を約束されたが、それでも妖怪はいつ消えるかも知れない不確かな存在だ。
すでに外界では妖怪のほとんどは忘れられており、一部はまだ外にいるがいずれにせよ衰退の一途を辿っている。近い将来、完全に立ち行かなくなり、幻想郷への避難を余儀なくされるだろう。
「妖怪は人の恐怖に依らなければ自らを保てない虚ろな存在。私は妖怪が生き残るため、新たな道を模索している」
「それって、人が居なくても生きていられるようにしたいってこと?」
「近いけど、少し違うわね」
紫は閉じた扇子を取り出すと、天子へ先端を突き付けた。
「考えてもみて、もし妖怪が人間なしで生きていられるようになったとしたら、人間と妖怪の関係は果たしてどうなる?」
「……ただの敵になるわね。今でも人間から見たらそうだけど、妖怪から見たら人間が必要だから、幻想郷のバランスが成り立ってる」
「その通り、そのまま妖怪が自立しただけでは、人間との戦争になるでしょうね」
幻想郷において人里内では人間は保護されている。博麗大結界の内部に置いても、妖怪の存在を信じ、そしてそれを恐れる人々がいなければ存在を維持できないからだ。
だがその必要がなくなればどうだ、人間など妖怪にはただの肉程度にしか映らないだろう。
「そして幻想郷の人間を食い尽くした妖怪は、やがて外界にも手を伸ばすわ。けどそうなったなら確実に妖怪は滅亡する。如何に妖怪が強くとも、無限に科学を進歩させる外の人間にはいずれ追い越される」
結局のところ、人間には敵わないからこそ妖怪は忘れられたのだ。互いに憎み合い、戦い合う関係にしてはならない。
紫の願いは妖怪が人間に勝ることではないのだ、すべては生存のためにある。
「私の目的は、人と妖怪がお互いを認め合って受け入れる世界を作ること。幻想郷はそのための実験場。角が生えてるとか、翼が生えてることが、ただの個性である世界にする」
なんて遠い理想だろうか。果たしてそんな世界が来る日があるのか、天子にはとても信じられない。
「……馬鹿げた理想ね。あんた、私のこと馬鹿にするくせして、あんたのほうが大馬鹿者じゃない」
「馬鹿な理想ですとも。けれどこれを達成しない限り、妖怪に生存の道はない」
紫は天子へ背を向け、一歩また歩み出た。
その背中は固く、悲壮な決意で満ちている。かつて天子も似たような姿であったが、その背にのしかかっているものは天子以上だろう。
紫は誰よりも賢いからこそ、未来がいかに妖怪にとって残酷かわかってしまっている、この全てを受け入れる幻想郷がその暗示だ。
本当に紫は妖怪全てを救おうとしているのだ、全てを利用しながら、その努力を知るものはわずかだけで。
「だから幻想郷内部で様々な勢力が発達し、繁栄することは新しい可能性を生み出す歓迎すべき事柄なのよ。ましてや人と妖の恋、ある意味私の理想に非常に近い……あの妖怪の恋を助けるのも、それが私の助けになるが故」
すべてを聞き、天子は合点が言っていた。通りで金剛のことを気にするわけだ。
語り終えた紫は、その後に少しだけ言葉を続けた。
「私は自分が寂しいのが嫌だから、そうならないように周りを助けてるだけ。優しさなんてない、ただのエゴイストよ」
そう零す紫の顔は、自らの冷血さに悲しみ、寂しそうな顔をしていた。
紫は優しくありたいと思った、誰かを助けたいと思った。だがそれはただの嘘、所詮は我が身が可愛いから他人を利用してるだけ。
我欲から抜け出せず、限界のある慈愛に紫は、いかに自分が矮小な存在かを自覚し、悔しさに胸が詰まる。
「あなたと戦った時、出てきた結論にそれを知れたわ」
天界で天子と争った最後、地上に落ちてきて見出した自分の本心は、天子と一緒にいると楽しいという、ただそれだけのことだった。
助けたいから天子に手を伸ばしたのでなかった、紫はただ楽しい遊び相手を手放したくないから手を差し伸べたのだ。
あまりに情けない己に、紫の気持ちが暗く沈む。
「でも、私はそのエゴに心の隙間を埋めてもらえた。そんな紫だから救ってもらえた」
その心に、一筋の光が差し込んだ。
紫の隣に歩み出た天子が、頑なな紫の拳を上から握りしめる。
「だから何度でも言うわよ、ありがとうって」
紫は愚かだったかも知れない、だがその愚かさが天子を助けたのだ。
自分の道程を体現するよう笑いかけてくれる天子に、紫は拳を解いて握り返した。
「……そう言ってくれて、ありがとう」
やはり、天子と知り合えて良かったと、繰り返すよう胸に思った。
「――ところで、それはそれとして、今日のあなたの態度について問い質したいんだけど。天子?」
「へっ? 私?」
打って変わって目の端を尖らせた紫に、天子はあっけにとられる。
その呆けづらに、紫は片手に握った扇子を突き立てた。
「私がそばにいるのに喧嘩を売りつけて! 教室でもあんな風に竜宮の使いとの踊りを見せつけてきて!」
「えっ、えっ、ちょ、何よ、怒ってるの?」
叩かれた額を赤くさせ、天子はわけがわからず慌てふためく。
紫の言っている意味がわからなかったが、やがて輝針城で針妙丸に言われたことを思い出した。
「もしかして、紫ってば嫉妬してるの?」
尋ねてみると、紫は顔を真赤にして押し黙って、何も言わないままそっぽを向いてしまった。
天子は図星を突いてしまったことに気がつくと、釣られて恥ずかしくなってしまい同様に顔を背ける。
ただし二人共、繋いだ手を離そうとしないまま、むしろ強く握りしめていた。
「も、もう、勝手に怒んじゃないわよバカ」
「あなただって、節操なく突っ走ってばかりで」
「……ごめん、置いてけぼりにして」
「……こっちこそ、子供みたいなこと言ってごめんなさい」
相手の心に、そして自分の心に、かつては憎んだ敵がどれだけ食い込んでいるのか思い知り、お互いに心臓が早鐘を打つ。
胸を張り上げる痛いほどの好意が、肌を熱くさせた。
しばらく何も言えずに居たが、やがて天子の方から話しかけた。
「まあその、そんなに嫉妬するくらいならさ、紫が会いたい時にはいつでも来てくれていいから、それで勘弁してよ」
「本当!?」
真っ赤な耳でそれを聞いた紫は、ぐりんと首を回して天子に赤い顔を向けた。
「ああでも毎日会いに行ったりしたら鬱陶しくない!?」
「い、いや別にそれくらいは」
猛烈な勢いで突っかかってくる紫に、天子は驚きながらも足を退かせはしない。
胸の高鳴りを耳元に恥ずかしくなり、握り合った手を持ち上げ、自分の手の甲で口元を隠した。
「その、紫だったら、毎日だって歓迎だし……」
しどろもどろに言葉を紡ぎ、天子は時折目をそらしながらも、上目遣いで紫を覗いた。
潤んだ瞳で見つめられ、紫は眼の前の少女の可愛さに、緊張で手の平を汗ばませる。
お互いに相手の興奮が筒抜けの状態で、再度天子から口を開いた。
「期待しちゃうわよ」
「なら期待に応えてみせるわ」
強すぎる自分の気持ちに、相手が退いてしまわないか不安がりながらも、想いを口にした。
見つめ合っていた二人は、お互いに気持ちを受け止め合ったことを理解すると、ふにゃりと強張らせていた頬を緩ませる。
「え、えへへ……」
「ふふ……」
自分でも怯えるくらいに相手を想っても、逃げずに受け止めてくれる。
幸せとはこういうものだなと思った。
「夜は長いわ。まずは今日を楽しみましょう」
「うん……絶対来てよ」
「えぇ、絶対よ」
「約束だからね!」
憂いを払い、想いを通じ合わせた二人の楽しい夜は、輝かしい笑い声を伴って更けていった。
◇ ◆ ◇
夜も更けてきた頃合い、貧乏神と疫病神の姉妹は近況を語り合い、姉の作ったご飯を美味しくいただいた後、姉妹並んで布団に入った。
別々に暮らす新しい生活にも慣れてきたが、やはり家族とこうやって同じ屋根の下で寝るのは心地が良い。
紫苑は安心感の中、まどろみに身を委ねていると、左隣で寝返りを打つ音がした。
「ねえ……姉さん、起きてる?」
「んー? 起きてるわー」
「……そっち行っていい?」
眠りかけてた紫苑だったが、その質問に一瞬で目が覚めた。
いつもうだつの上がらない姉の前に立ち、どこか見下しながらも引っ張ってくれてきた女苑が、こうやって甘えてくるのは珍しい、というか今までにない。
「うん、いいよ」
「ありがと……」
短く言葉が交わされ、女苑が這いずって紫苑のテリトリーに侵入してくる。
紫苑が少し右側へ身を引いてスペースを作ると、掛け布団の下から顔を出した女苑が、吐息まで届く距離に収まった。
「どうしたの女苑?」
「うん……」
一つの布団の右側に紫苑、左側に女苑。
紫苑は身体を女苑に向けて話しかけるが、妹は天井を向いたまま視線を返してくれない。
紫苑が静かに困惑し始めていると、ようやく女苑はおずおずと口を開き始めた。
「さっきはさ、私の能力っていうかさ、疫病神としての性質についてあれこれ話したじゃん」
「うん」
「でも、ほとんどまだ実践できてないっていうか。私が頭悪いなりに考えてみたものばっかりで、机上の空論でね。偉そうなこと言いながら、まだ全然結果を出せてない」
「良いじゃないそんなの。考えついただけ私よりずっと立派よ」
「……姉さんだってすごいよ。巫女と戦ったときも、天人と戦ったときも、結局私よりもずっと先に行って。置いてかれたのは私の方」
女苑が一人で活動を始めた一番のきっかけが、戦いの場での姉の背中だった。
女苑がどうしようもないと思った状況で勝手にキレて、自分の力を発揮して暴れる姉の姿は、凄まじい変化の濁流のように感じ取れた。
初めて姉のことが頼もしく思えて、そして思いっきり力を奮って走る姿が眩しくて、憧れすら感じて、置いていかれたくないと思ったから、女苑も必死に駆け出した。
だが不安なのだ。
「姉さん、私も、頑張れるかな」
女苑は布団の中を手で探ると、姉の手を見つけ、その不健康で細い手に指を絡ませた。
紫苑は驚いていたが、すぐに自分も手に力を込め、妹と手を握り合わせる。
「……女苑はもう十分頑張ってるわよ。ちゃんと上手く出来てるわ、これからも」
「そっか……良かった……」
あの日の姉の姿に少しでも近づけたなら、女苑としては上出来に感じられて、自分で自分を褒めたいとまで思えた。
「姉さん、私、しばらく一人で頑張ってみたいけど、たまにはうちに来て……欲しいな、なんて」
「うん、女苑が辛い時にはそばにいるわ」
「……ありがとう。姉さんなら、そう言ってくれると思った」
口に出してから、初めて姉の優しさに気付く。ずっと自分のわがままを聞いてきてくれてたんだなと、ようやく女苑は家族のありがたみを信じられた。
素直な心を曝け出した女苑に、紫苑はくすりと笑う。
「でもこんな風に女苑が甘えてくれるの、新鮮で嬉しいなー」
「……姉さん、一言余計よ」
「だってね、私だって姉をやれてるか不安だったもん。女苑だって私のこと見下してたし」
「それはその……」
図星が故に女苑は何も言えなかった。
申し訳無さに揺れる女苑の姿が、紫苑から見れば愛しく感じられて、妹の身体に覆いかぶさるよう空いた右手で抱き締めた。
「やっ、姉さん近いっ」
「私たち、前とは随分変わっちゃって心細かったけど。こんな女苑が見れてよかった」
女苑としては恥ずかしいことこの上ないが、嬉しそうな姉の声を聴くとそれもどうでもよく思えてきた。
次第にやすらぎを覚え始め、思いまぶたを閉じながらぼんやりと呟く。
「……戦いの時の姉さん、カッコよかったな」
「今は?」
「あんまりカッコよくない」
「ひどぉい」
「でも、そんな姉さんもいいかな……」
女苑の言葉を聞き、紫苑も満足そうに笑って瞳を閉じる。
いつしか声が上がることもなく、姉妹は仲良く眠りに落ちた。
◇ ◆ ◇
天子と遊んだ翌日、紫の日常はいつもどおりだった。
朝、朝食だと藍に呼ばれ、寝ぼけ眼で起き上がると顔も洗わないまま家族とご飯を食べ、二度寝。
十二時頃、藍から博麗大結界のメンテナンスの報告書に目を通しながら昼食を食べ、然る後、三度寝。
午後三時、おやつの時間。今度はちゃんと顔も洗って起き出し、かわいい橙におやつをあげて孫可愛がりした後、四度寝。
黄昏時、西の空に沈む夕日に、昼と夜の境界を察知して起きたが、やっぱ寝たいから五度寝。
「それで、まだ寝てるんですか紫様」
「すんごい幸せそうな顔して寝てるよ」
主人が眠る自室を前にして、九尾と黒猫が廊下に膝を突いて話し合う。
そっと襖を開いて薄暗い寝室を覗くと、お布団にくるまった紫は、寝巻きを崩してだらしない寝言を呟いていた。
「うぇへへへへへへ……てんしぃ……」
藍と橙は揃って困った顔をする。この自堕落妖怪、まるで起きる様子がない。
これで本人には時間を無駄に過ごしているつもりはない、むしろ起きようと思えば起きられるのだ、その証拠にちゃっかり食事におやつは楽しんでいる。
あえて惰眠を貪ることを幸福とし、自ら寝ているのだから始末に負えない。
「もう夜になるって言うのに、ぐっすりですね」
「昨日は帰ってくるの遅かったからなぁ、いやだからって寝過ぎだが……というわけだ」
「案内ご苦労さま、ここからは私がやるわ」
式神たちのあいだを、少女が通り過ぎていく。
襖を開き部屋に足を踏み入れた彼女は、お腹の底から声を張り上げて飛び上がった。
「おっきろぉー、紫ぃー!!!」
揃えられた膝小僧が、紫の腹部に布団の上からよくねじ込まれた。
ばっちり助走をつけて加えられた衝撃に、眠りこけていた紫も「ふぎゃあ!?」と悲鳴を上げて、眠気も吹っ飛んだ目を見開く。
「な、なになになに!? 敵襲! らーん何事!!?」
「遅いわよ紫、もう外は明るいの通り越しちゃったじゃない!」
起こりながらも愉しげな声を聞き、紫が顔を起こしてみると、布団の上から紫にまたがった天子の姿がそこにあった。
「て、ててて天子!? 何であなたがウチに!?」
「にゃはは、待ちきれなくって黒猫のほうとっ捕まえて連れてきてもらっちゃった」
悪戯っぽい笑みが紫の網膜を刺激する。
寝ぼけた脳に次々とショックを与えられ慌てまくる紫に、天子は手を伸ばすと胸ぐらを掴みあげた。
「それより、一緒に金剛のとこ行くわ。昨日の続きよ!」
「いやいや、私はあんまり関わらないほうが」
「なーに言ってんのよ、そんなこと言ってちゃ変わるもんも変わらないわよ。あんただって気にしてるんだから来い」
「いや、ちょっと待……っていうかまだ化粧してないっ!!!」
起きて早々、天子に振り回される紫の姿を、式神達が陰から生暖かい眼で見守っていた。
「早く早く!」
「急かさないでって言ってるでしょ!? まず顔洗って、歯磨きして、化粧して、ご飯食べて」
「えーいいじゃんそのままで、私だってすっぴんよほらほら」
「だからあなたはお子ちゃまなのよ、ナチュラルメイクで手早く済ますから」
「ほら、早く服脱いで着替えて! うわっ、下着白っ、エロっ」
「キャアアアアアアアアアア!!!?」
「へぶしっ!?」
寝間着を剥ぎ取られ下着まで見られた紫は、顔を真っ赤にさせて足を振り上げた。
すべすべの足裏で顎を打ち抜かれた天子は、そのまま部屋の外にまで蹴っ飛ばされて、藍と橙の前をゴロゴロと転がったのだった。
しばらくして、ようやく本格的に活動を始めた紫は、昨日と同じくロリモード化して天子と共に人里にほど近い森にまでやってきた。
踏み均された道を歩き、人里の入り口に向かって歩きながら紫は眉を寄せる。
「せっかく気持ちよく寝てたのに」
「いやいや寝すぎでしょ、丸一日って」
「ちゃんとご飯の時には起きてたわ」
「大して変わらんわっ」
「ところで、今日は何なのかしら? あんまり私が出張るべきじゃないと思うんだけど」
だからこそ天子に一任したはずなのだが、任された本人は脳天気な笑いを浮かべて紫の心配を払い除けた。
「まあまあ、良いじゃない。あんただって本当は金剛のこと見てあげたいんでしょ?」
「まあそうだけど……はあ、本当にお構いなしね」
干渉することに対して心配しすぎだろうというのは紫も自分で思っている、勇気が出ない自分の手を彼女が引いてくれるならそれはそれで良いだろう。
「今日は金剛の想い人が退治に出かけるらしくってね、こっそり様子を見に行こうって話になったのよ」
天子に説明を受けながら歩いていると、人里から少し離れた木陰で金剛が待っており、二人に近づいて手を振った。
「お二人とも、今日は忙しいところありがとうございます」
「いいのよこれくらい、こいつなんて今日一日中グースカ寝てるくらい暇だし」
「失礼な、寝るのに忙しかったのよこちらは」
「あはは……すみません来ていただいて」
「金剛さんが謝ることではありませんわ。憎むべきはこの身勝手不良天人」
「おっ、やるかー?」
「安眠妨害の罪は重いと知りなさい」
「あの、すみませんが喧嘩は後にしていただければ……」
ヒートアップしそうになったりもしたが、とかく三人は闇に紛れて行動を開始した。
できるだけ草木の間を選んで歩き、件の退治屋を探してジリジリと進みながら、天子が問いかけた。
「で、金剛。詳しくはどうだっけ?」
「はい、まず近頃バラバラになった外来人の死体が発見されまして、どうやら妖怪に食べられたようです。それは別に良いのですが、それで人間の味を強く覚えてしまったらしく、里の外に出た人間にまで襲いかかる事件が起こっているようです」
「あー、たまに外から迷い込むんだってね」
「……主に自殺願望者がね」
「ああそう、犠牲が出るのも仕方なしか、で続きは?」
紫の表情が曇るのを察して、天子は話を終わらす。
「今のところは怪我だけで済んでますが、危険なので退治屋の……名前は雫さんと仰るのですが、彼に退治の依頼が来たというわけです」
幻想郷で妖怪退治と言えば博麗霊夢が思い浮かぶが、彼女一人で人里の事件すべてをカバーしているわけではない。霊夢以外にも人里に在住する退治屋がいて、小さな問題は彼らが自分たちで片付けている。
雫という男はその一人だ。
「この先にいるのよね?」
「恐らくは。事件が起こっているのがこの付近です、もう少し歩いたら森の中でも開けた場所がありますので、彼ならそこに陣取るかと。問題は退治中は気配に敏感だと思われることですが」
「なーに、心配ないわ。どうにかするわ、紫が!」
「妖怪頼みなんて情けない天人ね」
「天道を行く私には細かいことを覚える必要がないのよ。とにかくあんたなら気配遮断の結界でも何でも用意できるでしょ」
「もう展開してるわよ、私中心に半径三メートル。勢い余って飛び出さないことね、あなたせっかちなんだから」
軽口を叩きながら歩くこと数分、金剛が鼻をピクピクさせて匂いを嗅ぐと、突如目を見開いて立ち止まった。
「――居ます、この先です。お静かに」
「おっ、わかるんだ」
「もちろんです、あの方の匂いを気配を、何より澱みのない殺気を間違えるはずありません」
それまで慎み深く三歩後を歩くことを実践していた金剛だったが、瞳に鋭い光を宿すと先頭に歩み出た。
ゆっくりと慎重に歩を進める金剛に、天子と紫も後に続く。
やがて金剛が立ち止まる。天子は彼女の隣に付くと、茂みから向こう側を覗いた。
開けた空間の中心に、弓を手にした着物の男がいる。そこだけ遮る木々がないお陰で、月明かりに照らされていて男のことがよく見えた。袴には大小二振りの刀を差し、背中には矢筒、後腰には道具を包んだ複数の巾着を垂らしている。
長身の男だ、普段の紫と同じくらいの背丈だろう。弓の弦に矢をあてがったまま手を止め、顔を俯かせたまま神経を研ぎ澄ませている。里の退治屋となれば博麗の巫女には及ばない実力らしいが、集中力は中々のもので、下手に騒げば紫の結界があっても気付かれそうだ。
金剛の他にも狙っている女がいるだけあってイケメン。目元で月明かりが反射した。銀縁の細長い眼鏡を掛けている。
天子から小声で金剛へ話しかける。
「眼鏡なんだ。目が悪いって、退治屋としては良くないんじゃない?」
「伊達眼鏡だそうですよ」
「そうなんだ、金属を身に着けて魔除けかな」
「どうでしょうか、あの方のことですから、あえて見つけられやすいように、かも」
天子は言葉の意味がわからなかったが、男の足元に香炉が煙を吐いていることに気が付いた。
嗅覚に集中してみれば、わずかに香の匂いがした。天界にも様々な用途なお香があり天子もいくつか知っていたが、これはあまり嗅いだことのない匂いだ。
後ろから紫が口を開いた。
「金剛さん、気を静めて下さい。飲まれますよ」
「はい、わかっています。抑えますとも」
「何のことよ紫?」
「お香を炊いているでしょう。あれは妖怪の気を昂ぶらせるものよ」
通りで天子の覚えにない匂いなわけだ、そんな限定的な効果の香など見たこともない。
「それって危険じゃないの?」
「それが彼のやり方です。ああやって妖怪をおびき出して真正面から対峙する」
「人間が妖怪に挑むにしちゃ愚策も良い気がするけど……」
元より人間と妖怪の間には身体能力で大きな開きがある。仙人や天人にもなれば真正面からでも互角に戦えるが、本来なら人間が妖怪を相手取る時は手練手管を凝らし、時には卑怯な手も使って闇に潜む妖怪の首を裏からかくものだ。
むしろ妖怪の気を静める香を仕込み、油断したところで闇討ちするべきだと天子は思うが。
「天子、お目当てのものを見つけたけれど、金剛と彼を結ぶ策はあるのかしら?」
「うーん、一つ考えてたのはあるんだけどね」
「何ですか?」
金剛も興味を持ち、退治屋から目をそらし天子へ振り向いた。
「まず妖怪に金剛を襲わせる。それをあの退治屋に助けさせて、後はこの間のお礼だ何だの言って家に押しかけてご飯でも作ってあげればイチコロって寸法よ」
「イチコロかどうかはともかく、王道な展開だけど。悪役のアテはあるのかしら?」
「衣玖にお願いしてみたけど断られた」
「でしょうね」
仮にも人里で働いてる妖怪に頼むようなことじゃないだろう、下手をすれば里に出入り禁止になりかねない案件だ。
「どこかに悪役にピッタリの胡散臭い妖怪居ないかなー、チラリ」
「私はイヤよ」
「えー、そう言わずに。いいじゃん、どうせあんたそういう役回り得意でしょ」
「バカおっしゃいな。ただの里の退治屋相手に賢者が退いたなんて、そんなみっともない真似したら妖怪全体の品格が落ちるというものよ」
「私もあまり嘘を重ねるのは信条に反するというか……それに紫さんくらいならともかく、並の妖怪に襲われたフリなんてプライドが許しません」
「そう言えば、金剛って何の妖怪だっけ?」
てっきり金剛をそこら辺にいる十把一絡げの雑魚妖怪のように考えていた天子だが、耳にした言葉に薄ぼんやりと強大なものを感じてようやく正体について問いかけた。
「あら、言ってませんでしたっけ、私は――」
金剛が一度額を両手で多い、それまで押さえつけていた妖怪としての姿を取り戻す。
わずかな妖気が吹き出し紫の結界内に充満する。血の気配と共に金剛の手の下から現れたのは、額に生えた血よりも赤い、艶のある朱色の二本角。
「鬼の金剛と申します。改めてよろしくおねがいしますね」
「え……えぇー!? 鬼ー!!?」
思いもよらない正体に天子が叫んだ、と同時に退治屋の男も顔を上げた。紫の結界で声は届いていないはずだが、何かしら感じ取ったようで一同の方向へと首だけで振り返て鋭い切れ長の目を向けてきた。
紫と金剛は必死に天子の口元を手で押さえ込み、身を伏せて草陰に身を隠し息を殺す。
やがて男の視線がまた自分の足元に戻ったのを気配で感じ取ると、天子の口枷を外して三人とも息を吐いた。
青い顔をする天子に、紫がじろりと睨み付ける。
「天子ぃー?」
「あはは……ご、ごめんごめん。驚いちゃって」
「気付かれたかと思いましたよ……」
「いや、あれは気付いていますよ。無視しているだけです」
「標的以外眼中なしか、肝の座った男ね」
もう一度三人が身を起こして男の様子を見てみると、再び集中し始めたようだった。相変わらず微動だにしていない。
「っていうか、鬼なのによく人里で生活なんてできてるわね……」
「それはもう頑張りました。元から粗暴な生活しか知らなかったので、口調を直すだけでもかなり時間がかかりましたよ」
「あっ、もしかして、紫のこと知ってたけど、それって萃香から……?」
「はい、そうですよ。天子さんも萃香さんとお知り合いなのですか?」
「あいつ一時期天界に居座ってたからね。まあ面白いやつだったわよ」
意外な交友関係が明らかになり、いつも酒で顔を赤くしていた小鬼のことを思い出す。
天子としても萃香のことは嫌いじゃなかった、かつて山の四天王と呼ばれていたらしいが、あの小さな体に込められたパワーは凄まじい。単純な力比べであれば天子よりも強いだろう。
「天子さんも萃香さんに気に入られてたんですね。懐かしいなぁ、恥ずかしながら昔は私もヤンチャでして、よく勇んで萃香さんに殴り合いを挑みましたが、毎回ボコボコにやられちゃいました」
「あれとやり合うってだけでも相当なもんでしょ」
お淑やかな顔をしていながら見た目以上の傑物だ、なるほどこれはそこらの妖怪を並と呼ぶのも頷ける。
しかし鬼は嘘を嫌うと聞いていたが。それほど強い鬼が、信条に反して身を偽り、性格まで変えるような荒行をやってみせるとは。
金剛の恋心の強さを思い知らされ、天子は改めて彼女のことをいたく気に入った。
「――シッ、お二人とも来ましたよ」
紫が小声で言った直後、男が――雫が顔を上げる。精錬された澱みのない意識が一箇所に向けられ、ゆっくりと弓を構えると、番えた矢を引き絞った。
天子たちがいる茂みのちょうど反対側から、草木をかき分けて何者かが現れた。
ボロボロの袴の下に素足をのぞかせて、両腕まで毛が生えたの大男。上唇が異様に大きく、顎の近くまで垂れている。
天子が小声で紫に問いかけた。
「狒々か」
「えぇ。もう御老体で我慢が効かなくなったのね、人を喰う歓びだけを思い出してしまった」
香の匂いにつられ、興奮のまま連れ出されたようだ。退治屋の姿を見て罠だと気付いたようだが、止まる気はなさそうだ。
狒々の妖怪が、涎の引いた口を開いて、しわがれた笑い声を漏らした。
「きしひひひ……お前は、人の退治屋か」
「如何にも」
雫が短く答えた。冷静な声色だ、いかなる怯えも戸惑いもない。
天子が隣に目をやってみると、金剛は雫の一挙一動一言を捉えて逃すまいと雫に視線が釘付けだ。
「儂を殺さんとするか」
「如何にも、いずれあなたは人を喰らう。その前に僕が殺す」
「遅い、遅いわ……人などいくらでも食い散らかした……」
狒々が過去を思い出す老人の眼をした。
「お前のような若造は知らんだろうな。昔は妖怪の天下だった、いくらでも人が喰えた。人間どもはみな我々に恐怖して……」
「黙れ、興味がない」
郷愁に浸り、喜悦を思い出していたところに、冷徹な声が飛び真顔に戻った。
雫は無表情のまま、ただどうやって引き絞った矢を当てるかだけを考えながら口を開く。
「すべては結果で決まる、だがお前では何も遺せない」
「ひひ、ひひひひひひひひひひひひひ! ……あぁそうかい」
狒々が大笑いの後、不機嫌そうに喉を鳴らして両手の爪を伸ばした。獰猛な瞳が退治屋の姿を捉え離さない。対する雫は呼吸を乱さず、真っ直ぐ妖怪を見据えて、矢の先端を向けている。
だがお互いの距離はおよそ十メートル、妖怪相手には遠すぎる、そのまま矢を放てば狒々は軽々とかわして退治屋へ襲いかかるだろう。本当なら狒々の方は牽制に努めじわじわと攻めるべきと天子は見るが、お香の効果によりそんなまどろっこしい真似はできないらしい。
今にも飛びかからんと身を低くし、機をうかがう狒々。一瞬の隙を突いて矢で射抜くため、一切の迷いなく弓を構え続ける雫。
先に我慢が効かなくなったのは、やはり狒々の方だった。地面を蹴り、土を掘り返しながらジグザグに走って退治屋へと襲いかかった。
一歩ごとに三メートル。身軽な狒々は風を切ってまたたく間に距離を詰めるが、雫は動かない。
二歩、そして三歩。わずか一メートルの距離、今度は矢を放つには近すぎて狙いづらい、狒々が唇を目元まで吊り上げて笑い、笑声を上げて食らいつこうとした。
その最後の踏み込みの一瞬、地面を蹴る直前のわずかに動きが鈍る瞬間へ目掛けて、雫の矢が放たれた。
めくれ上がった狒々の上唇に、裏側から矢が貫通し鼻頭にまで貫通した。
雫は矢を放つと同時に即座に行動を移していた、矢が突き刺さった時には弓を捨て脇差に手をかけている。
その時、お互いの距離はわずか五十センチメートル足らず。脇差から引き抜かれた刃は、閃光のごとく駆け抜け、狒々の首を一閃し断った。
笑ったままの狒々の首が宙を舞い、思考を失ったまま前のめりに倒れようとしていた胴体を、雫は草履の裏で蹴飛ばして跳ね除けた。
草むらの上に胴体が背中から倒れ、その上に矢の刺さった生首が落ちる様子を見て、金剛が感嘆のため息を吐いた。
「あぁ……やはり素晴らしいな……真正面から命知らずのしのぎあい。生死の瀬戸際を顔色一つ変えずに踏破する、あれこそ勇者だよ惚れ惚れする」
よっぽど興奮してるのだろう、口調が鬼らしいものに戻っている。
だが隣にいる天子は、顎に手を当て神妙な表情で、雫が刀の血を払い鞘に納めるのを見ていた。
「んー……」
「どうかしたのかしら、天子」
そんな天子に、紫は気軽に問い掛ける。答えがわかった口ぶりだ。
天子は答えないまま、立ち上がると茂みに手をかけた。
「行ってくる、あんたらはここで待ってて」
「えっ、天子さん!?」
「やっぱりね」
驚く金剛を置いて、天子は草木をかき分け歩み出た。
雫は狒々の顔から矢を引き抜き矢筒にしまうと、風呂敷で生首を包んでいる最中だったが、隠蔽の結界から抜け出て姿を表した天子に気付くとすっと立ち上がり本差に手をかけた。
「あなたは……」
「やあ、見ていたよ。技量は中々なもんね」
それまで隠れていた天子に雫は警戒しているが、すぐに目付きが変わる。どうやら妖怪ではないと睨んだらしい。
「自己紹介させてもらうわ。私は比那名居天子、俗に言う天人様さ」
「天人……最近、困った天人がよく地上で悪さをしてると聞きますが」
「そうそれそれ。情報に敏いのは良いことだよ、特にあなたみたいな職業は」
「……ボクは、坂上(さかのうえ)雫と申します」
雫は一応危険が無いと判断したらしく本差から手を放すが、警戒は続けている様子だ。
「今回は勝てたようだけど、ひ弱な人間の戦い方にしちゃだいぶ愚かだね」
「狒々は覚のように人の心を読むと聞きます。下手な小細工を弄しては却って危険かと」
「それでもやりようはあるはずだ、心を読まれようが関係なく有利な状況を作ればいい。それができなきゃ博麗の巫女にでも頼めば良かったのよ。自らを危険に晒すのは感心しないな」
ズケズケと踏み込んでいく天子に、後ろで見ていた金剛は勝手なことを言ってくれるなと怒り半分、不安半分だったが、言われた雫は表情一つ変えていない。
「生憎と、僕はこれ以外のやり方を知らないものでして」
「そんな戦い方では早晩に死ぬよ」
「ならばそれが天命かと」
「甘い。天命は人事を尽くしたものにのみ降りてくる。無力さを知り、もっとみっともないくらいあがきなさい。でなければお前の望むようなものは与えられまいよ」
雫の眉が僅かに揺れる。ドヤ顔で言いのける天子に、茂みの影では金剛がいきり立っていた。
「何ですかあの人はー! 雫さんはあの戦い方が乙ってなもんなのに!」
「余計なちゃちゃ入れたがるタイプですから」
お淑やかさを忘れた金剛が飛び出しそうなのを、紫は後ろから押さえながら内心「お前が言うな」と思っていた。
「まあ、似合わない忠言はこの程度にしておくわ。今日はあなたに頼みたいことがあるのよ」
「ずいぶんと一方的で不躾ですね」
「聞くくらいしてちょうだいよ。おーい、金剛! こっち来なさい!」
名前を呼ばれ、興奮していたはずの金剛はドキリと身を震わせ目を丸くした。
「えっ、えっ、ちょ、あの人何言ってるの、私なにも聞いてない!?」
「やっぱりこうなったわね、あの考えなし天人」
「金剛聞いてるでしょ、来なさいって。あ、ちょっと待っててね!」
雫が「金剛……?」と首を捻っている前で、天子は茂みの影に戻ってくるとまだ角を出しっぱなしの金剛の手をむんずと掴み引っ張り始めた。
「行くわよ金剛、ゴーゴー!」
「やあっ、まだ心の準備がー!?」
「頑張りなさい、大和撫子よ」
紫にハンカチを振られて送り出された金剛は、慌てて角を引っ込めて人の姿に化けると、雫の前に連れ出された。
天子が引っ張ってきたか弱そうな女性を見て、雫が目を細める。
「その女性は……」
「こいつは金剛。里の外で失せ物があるから一緒に探してたんだけど、私は急いで帰らないといけなくなっちゃってね。あなたに人里まで送ってやって欲しいのよ」
「は……ひゃじめまして金剛です!」
「初めましてお嬢さん、坂上雫です」
「ひゃ、ひゃい知てます!」
「おや、そうですか。あなたのような可憐な乙女に覚えていてもらえたとは光栄です」
「か、かれんにゃ……!」
案外口が達者な雫におだてられ、金剛は顔を真赤にして熱い頬を両手で押さえた。
金剛の混濁する目を天子が覗き込み、耳打ちする。
「いい? あんたは母親の形見を探しに来たけど見つからなかった、そういう設定よ。嘘でもなんでも有効活用しなさい」
「わ、わかりました……!」
嘘については渋っていた金剛だが、切羽詰まった状況に押し出された今は乗り気になったようだ。
雫も無害そうな金剛を前にして頷く。
「わかりました。その程度のことならお受けいたしましょう」
「助かるわ。男としてエスコートしてあげなさい」
「ふ……ふつつかものですがよろしくおねがいします!」
「はい、短い旅路ですがこちらこそよろしく。すぐに帰り支度をするのでしばしお待ちを」
雫は薄い笑みを作って頭を下げると、再び狒々の生首を風呂敷に包み始め、足元に転がっていた香炉も火を消して腰に結んだ。
「御婦人を送るというのに、無粋なものと一緒で申し訳ない。討伐の証を持ち帰らなければならなくて」
「いえ、そんなこと! お仕事お疲れ様です」
「はは、では行きましょうか。こちらへ、私のそばから離れず着いてきて下さい」
「じゃあねーお二人とも、ばいばーい」
天子に見送られ、男女二人が連れ添って人里へと帰っていく。
二人の影が見えなくなると、小さな紫が茂みから出てきて、狒々の死体の前に立って見下ろした。
「彼は里の人間に怪我はさせても殺しはしなかった、自分がこの場所に合わないと悟って、戦いに来てほしかったのね。討たれる瞬間、笑って逝けた……一瞬でも楽めたかしら……」
そう言い、小さな手を合わせ静かに祈る。
天子は呆れたように息を吐くと、紫の隣に並んで同じように手を合わせた。
「真正面から挑むあの男の行動は、人間にとっては愚かでも、妖怪にとっては救いだわ」
「……で、この流れはまたお墓づくりなわけ?」
「見届けた以上はね。手伝ってくれるの?」
「しょーがないでしょ」
天子は腰に手を当て肩をすくめると紫へと笑いかけた。
紫は朗らかな表情を浮かべると、スキマから大きめのシャベルを二本取り出して、片方を天子に預ける。
猫と来て今度は妖怪の埋葬だ。二人はシャベルを足で押し込んで土を掘り返しながら話をした。
「なんか思ったよか危なっかしい男だったわね」
「そうね。死に急ぐような戦い方だわ、この前の誰かさんみたいに」
「失敬な、私はもっとエキセントリックよ」
「誇るな誇るな……実はね、あの坂上雫という人間、親を妖怪に殺されてるの」
「えっ!?」
紫から明かされた事実に、天子は思わず声を上げて手を止める。
「……なんであんた、それ金剛に言わないのよ」
「言って止まるような女じゃないわ。なら余計なことは知らずに突っ走ったほうがいい」
「まあ確かに……」
紫は作業を続けながら、経緯を説明し始めた。
「坂上家は昔からある退治屋の家系よ。強力な血筋じゃないけど、技術と度胸で妖怪と張り合っている。坂上雫は生まれて間もなく母親が病で亡くなり、男手一つで育てられたけど、仕事に出かけた父親が妖怪の返り討ちに遭い全身を喰われた。坂上雫が十五の時のことよ、そして彼は遺された父の剣を握った」
「あいつが退治屋を継いだのは敵討ち?」
「多分違うわ、父を殺した妖怪は、当時の博麗の巫女がすでに退治してるし。それに、あなたも見たでしょう?」
「……雫の戦い方は憎しみを叩きつける感じではなかったわね」
「その通り。もっとも父の死に何も思っていない、というわけではない気がするけれど」
雫の戦い方自体はとても洗練され滑らかで、流れる水のようなものだった。憎悪に起因する戦いなら、もっと荒々しいだろう。
だが自らを危険に放り込むような戦い方をするのは普通でない。死線に置いて一切の乱れがない精神が、むしろ異常さを際立たせていた。
「しかし彼が危うい心の均衡のもとに立っているのは事実。金剛の恋が上手く両方のためになれば良いけど」
テキパキと穴を掘り、名も知らぬ狒々の弔いを終える。
天子は手の平の土を払うと、また明るい顔で紫へと向き直る。
「それじゃあ紫、スキマ! 金剛たちの出歯亀よ、まだ間に合うかも!」
「はいはい、言うと思ったわ。今開くから」
紫は寝かせたスキマを椅子代わりにすると、目の前にスキマを開いて金剛たちのそばに繋げた。
紫の隣に天子も腰を下ろし、肩を寄せ合い様子を覗き見る。
「ありがとうございます、家まで送っていただいて」
「いえ、もう夜も遅いですしこのくらい当然ですよ」
どうやら金剛が人里で使っている住まいに付いたところのようだった。
何度も頭を下げる金剛に、雫が手の平を見せて謙遜している。
「おっ、良いとこじゃない。そこよ金剛、家に誘っちゃいなさいよ。ねえ紫、これ金剛に声送れないの?」
「滅多なことしたら退治屋に気付かれるわよ、黙って見守りましょう」
「あーもう、せっかく話すチャンスなのに行っちゃうわよ」
天子が心をはやらせる前で、雫は踵を返してしまった。
「それじゃあ僕はこれで……」
「……あ、あのお待ち下さい!」
金剛が男の背中を引き止めたことに、覗き見ていた二人は「おっ」と驚きを吐息に乗せる。
雫が足を止めてもう今一度振り向くと、金剛が勇気を出して真っ赤な顔でまくし立てた。
「今日のことは大変嬉しくて! そ、その……今度、お礼に伺ってもよろしいでしょうか!?」
金剛の恋の冒険に、二人の観客は「おぉー」と期待に声を漏らし前のめりになる。
熱い息を吐く金剛に、雫は驚いたように口を薄く開いて考え込むと、口の端を嬉しげに結んで言葉を紡いだ。
「実は金剛さんのことは、以前から見かけて気になっていました」
「うぇ!?」
驚く金剛だけでなく、天子と紫も「おぉー!?」と歓声を上げて目を大きく見開いた。
金剛はあられもない言葉を出して、しまったと口を抑えていたが、雫は気にすることなく、むしろ純情な乙女心を楽しむように笑みを零す。
「僅かな所作から、友人と楽しそうに話す姿まで可憐な大和撫子で、つい目を引かれたものですよ。あなたで良ければ、いつでも家にいらして下さい。仕事がない時以外は基本、暇を持て余していますから」
「は、はい!すぐ行きます明日行きます絶対行きます!!」
前から見られていたとは思わず、慌てっぱなしの金剛だったが、このチャンスを逃すわけにはいかないと音を立てて首を縦に振りまくった。
改めて雫が「それではお休みなさい」と言い残して去っていく、それに金剛が大声で「お休みなさい!!」と言って見送る。一連の様子をスキマにしがみついて観察していた二人は背筋を元に戻すと、仲間内で見つめ合う。
嬉しそうな顔をする紫に、天子も釣られてにんまり笑い、二人は目を輝かせて手を叩きあった。
「「いえーい!」」
◇ ◆ ◇
「――と言うことがあったのよ、っと」
金剛と雫を引き合わせた一夜から一ヶ月ほど経った日、天子は輝針城の自室で筆を執り、手紙をしたためていた。
あの日以来、金剛は少しずつ雫と交流を深め、練習したお茶や料理を振る舞っているらしい。
天子は一度窓から青空に目を向ける。ひっくり返った輝針城から見れば下に広がった空に、白い雲が浮かんでいるのを眺めると、流暢な手付きで『天子より』でしめる。紙をひらひらと振って墨を乾かしてから、折りたたんで封筒に詰めた。
よし、と満足げな顔をすると部屋を出て、共有スペースに顔を出した。
「衣玖ぅー、いるー? 手紙書けたんだけど」
「はい、こちらですよ」
部屋の中では、座布団に座った衣玖が、ちゃぶ台の上にうつ伏せで寝転がった針妙丸の背中に、細い指を押し付けているところだった。
「あぁ~、きくぅー」
「何やってるの?」
「マッサージです」
「大丈夫? べちゃって潰れて内蔵出たりしない?」
「出ない出ない。怖いこと言わないでよ、小さくてもそんな脆くないから。もういいよ衣玖さん、ありがとう」
「どういたしまして」
針妙丸は机の上で身を起こして座ると、乱れた着物を直し始めた。
小人を尻目に天子はさっき書いた手紙を衣玖へと手渡した。
「手紙、書いたからまたお願い」
「わかりました」
「あら、何の手紙かしら?」
突然割り込んできた囁きが、天子の耳元から吐息とともに飛び込んできた。
天子が「うひゃあ!?」と驚いて飛び退くと、そこにはスキマから上半身を出したロリ紫の姿があった
「なんだぁ、また紫か。うち来るのは良いけど脅かさないでよね」
「ちょっとー、ここ私の城!」
「これは少名様、失礼いたしましたわ。どうか怒りをお鎮め下さい、こちらはお土産のお菓子です。有名店のカステラですよ」
「うむ! よきにはからえ!」
怒った声を上げる針妙丸だったが、紫がにっこり笑って包装された箱を机の上に差し出せば、あっさり手の平を返した。
高そうなパッケージに、天子が不満そうな目を向ける。
「紫ってば私と一緒の時はそんな高そうなの出さないじゃない」
「あなた何でも美味しい美味しい言うじゃない、安物で十分よ。それで何の手紙?」
「違いが分かる上流階級に失敬な。手紙なんて珍しいもんじゃないでしょ、言う必要なし」
「ふぅーん、大した孝行者だわね……」
「うっさい! わかってて聞くなババア!」
紫は手紙を渡された衣玖をジトぉーっと見つめて困らせると、天子に詰め寄って顔を近づける。
「私がスキマで届けてあげましょうか?」
至近距離で話し続ける紫に、衣玖と針妙丸は「近い近い」「私と張り合ってますね」と小声で呟く。
しかし天子は対して驚きもせず真顔で返した。
「いや、衣玖に任せるわよ。人の手を伝って渡して欲しいし」
「……そう」
「シュンとしてるね」
「すごいシュンとしてます」
「うふふ、静かにしてもらえます?」
努めて笑顔を浮かべた紫に見つめられ、衣玖と針妙丸はバッと顔を反らした。触らぬ神になんとやら、あまりつつきすぎるとあとが怖い。
「天子様、私はこのあと暇ですし、今から総領様に渡してまいります。私のぶんの夕食はなしで」
「あいあいー。紫苑も今日は妹のところよね。針妙丸、今日はどうせだし外で食べる?」
「おっ、いいねぇー。噂の八ツ目鰻の屋台行ってみたい」
「ああそこ、この前紫と行ったけど美味しいわよー」
「屋台か……私も行きたいけれど、前日までに言っとかないと藍が怒るのよね」
「残念、また今度ね。美味しいご飯作ってくれることを感謝して噛み締めときなさいよ」
「言われるまでもありませんわ。あなたこそ我が身の豊かさを感謝しておきなさい」
「二人共、あんまり相手の悪口言ってると嫌われちゃうよ」
「そんなことないわ!」
「そんなことないし!」
「……まあしばらく大丈夫そうだけど」
息ぴったりの二人に針妙丸としては、だったら喧嘩するなよと呆れ半分、称賛でも送りたい気持ちが半分だった。
気を取り直して紫が話を戻す。
「なら来週の宴会は一緒に飲みましょうか」
「ああ、博麗神社でやるやつね、話しは聞いてるわ。みんな来るって話だけど……」
天子は話の途中だったが、遠くからドンドンと城の戸を叩く音が聞こえてきて中断した。
空に浮かぶこの逆しまの城に、紫以外の部外者が来ることは滅多にないのだが。針妙丸が珍しそうに声を上げた。
「来客? 誰か見てきてよ」
「私が行ってきます」
「お願いねー。ところでそのカステラいつ食べる? 今?」
「明日にしようかなー。今からじゃ晩ごはん食べられなくなっちゃう……あっ! 天子勝手に食べないでよ!」
「わかってるわよ、一緒にね一緒に」
「この図々しい天人、自分も食べるのは確定済みみたいね」
「分けるのは良いけど、一番は家主の私だからねー」
残った三人で話し込んでいると、廊下から客人を出迎えた衣玖が戻ってきた。
「あのー、すみません皆さん」
「誰だったの?」
「それが……」
部屋に入ってきた衣玖に続き、恐る恐る歩いてきたのは、角から頬までまっかっかの金剛だった。
プルプル身を震わせる鬼を見て、天子と紫は少しばかり驚く。
「金剛じゃない、どうしたのよウチまで来て」
「あ、あの……衣玖先生と天子さんたちに、ほ、報告したいことが……」
「……とりあえず座りなさい」
座布団に金剛を案内したが、彼女は焦点のあってない目で、じっと机を見つめているままだ。
とりあえず天子がお茶を淹れて机に置いたが金剛は手に取る気配がない、見かねた衣玖が金剛の震える肩に手をかけた。
「金剛さん、落ち着いて下さい。ゆっくりと息を吸って」
「すぅー、はぁー……あ、ありがとうございます先生」
深呼吸した金剛は、一度湯呑を手にとった、波打つ水面を凝視すると、口をつけることもなく机に戻す。
そしてもう一度深く深呼吸をして、ようやく事態を告白した。
「あの……その……私……雫さんに大事な話があるからと、今晩デートに誘われましたー!!!」
「なんですってー!?」
「まあ!」
「おお」
一番声を張り上げたのは天子だったが、紫も中々の驚きようだった。両手で口を押さえ、目をキラキラと輝かせている
一方、針妙丸は天子や衣玖から事情は聞いていたが、金剛本人を見るのも初めてで話についていけずにいた。
「この妖怪、天子と衣玖さんが話してた人里の?」
「そうそう、人里の男に恋してたやつ! いやー、良かったじゃない、もう交際まで秒読みじゃない!」
「は、はい! でも私、緊張しっぱなしで……」
「ふむ……しかしそろそろ正体を隠すのも限界では? この辺りで打ち明けないと後が怖いですよ」
「で、ですよね……鬼だなんて嫌われないかな……」
「えっ、鬼なの!? 小槌に魔力入れてもらえるかも……」
「今度にして頂戴」
慌てて小槌を取り出そうとする針妙丸を、紫がピシャリと言い放ち睨み付けた。
針妙丸も「はい」とだけ返して静かにする他なく、怯えのあまり真顔にまでなった小人の前で、恋バナは加速していく。
「言うしか無いですよね、言うしか、私もとうとう明かす時が……」
「まあまあ、そんな自分追い詰めてないで、それよりうんとおめかしして行きましょ!」
「は、はい! 同じ教室の友達に、お化粧得意な人間がいるので、その人に見てもらってから行くつもりです。この前の安売りで、良い着物買っててよかったぁー」
「きっと上手く行きますよ。金剛さんはうちのダンス教室でも一番頑張ってますし、他の習い事の成果もその人の前で披露したのでしょう?」
「はい、お茶とかお弁当とか……でも、鬼をどこまで受け入れてくれるか……」
金剛が不安そうに自分の角を指でいじった。デートまで時間がないのにわざわざ輝針城まで来た理由が、この不安なのだろう。
怯え、戸惑っている。鬼として産まれた彼女は身が傷つくことに恐れなど無いが、心の機微には慣れず、自分の恋心にすら若干ついていけていない。
分水嶺を目前として迷いを浮かべる金剛に、紫が身を乗り出し落ち着いた声で話しかけた。
「あなたの頑張りを彼は見てくれている。あなたの行動が本心から出た誠のものなら、必ず彼の心に響いているわ」
それは優しく澄んだ音色で、金剛の胸の隙間に入り込んだ。
裏側を知りながら、目を背けることなく見守ってきた紫だからこそ出せる言霊が迷いを優しく包み込む。
金剛は目を輝かせると決心し、伸びていた角を引っ込め人化すると、深く頷いて周囲を見回し、自分を支えてくれた皆に目を合わせた。
「ありがとうございます! 勇気が出てきました!」
握りこぶしを作り鬼の娘が立ち上がる。
鼻息を荒くし、瞳に希望を浮かばせて奮起した。
「鬼の金剛、一世一代の大勝負! しっかり決めてきますから、吉報を待ってて下さい!!」
「よっ、その意気よ! 期待してるわ」
「はい! すみませんがこれで、急いで支度してきますのでー!」
天子にはやし立てられ、金剛は駆け足で部屋を出ていってしまった。
見送りもできないまま置いていかれ、傍観していた針妙丸がぼんやりと呟く。
「慌ただしく行っちゃったねえ」
「いやあ、でも上手く行きそうな感じで良かったわ」
天子が相槌を打ちながら、金剛が飲まなかった湯呑を手に取り、茶をすすってから少し考える。
「ねえ、紫ー? 今晩は一緒にいない?」
「ダ、メ、よ! どうせスキマで生中継して楽しもうとか考えてるんでしょう。無粋な真似しないで、今日くらいは大人しく待ってなさい」
「ぶ~、ケチー」
紫としても二人の行く末については気になるところだが、流石に告白の場面はそっとしておいてあげたい。
話も終わり、落ち着いたところで衣玖が腰を上げた。
「さて、私は今度こそ天界へ行ってきます」
「んじゃ私らも出よっか針妙丸」
「うん。紫さんも、戸締まりしたいから帰ってね」
天子が机に手をやると、針妙丸が腕を伝って天子の肩に登ってきた。
「仕方ありませんわ、今日のところはお暇します」
「紫」
紫も帰ろうとしたところで声を掛けられ、振り返ると針妙丸を肩に座らせた天子が、日を映した水面のような滑らかな瞳で見つめてきていた。
「良かったわね」
「……ふふ、気が早いわよ天子」
微笑に返し、それだけに留める。
紫は自分のスカートの端をつまみお辞儀した。
「それでは皆様方さようなら」
天子たちに見送られながら、紫は背後にスキマを開いてその中に倒れ込んだ。
真っ暗闇が視界を支配し、胸に温かさを抱いて漂いながら大人と子供の境界を操り姿形を変化させる。
スキマを通じて幻想郷の空に現れた紫は、すっかりいつもの姿に戻って、緑豊かな大地を見渡し口を開く。
「ふふ、あはは」
柄にもなく楽しい笑い声が小さく響く。
妖怪の山を眺めた紫は、すぐにスキマを開き今度は人里の近くに現れた。
人々が行き交う大通りを眺め、今度は地底へ、薄暗さに負けぬ喧騒を耳に楽しみ、次は魔法の森へ。
スキマを潜るたび映る景色のコントラスト、幻想郷という小さな世界に広がる鮮やかな色彩を目で見て、ざわめきを耳で聞き、芳しさを鼻で嗅ぎ、味まで想起し、風を肌で感じた。
幻想郷はここまできた、ここまでどれだけの苦労を積み重ねただろう、妖怪のためと謳いながら、紫は多くのものに不自由を課してきた。
結果的には妖怪をこの地に封じ込めたし、人里の人間は妖怪を活かすための人柱だ。無論、幻想郷に招き入れた人間は人の世に馴染めずあぶれた者を選んで集めたが、それで消える罪ではない。
だが彼らに罪悪感を覚えても、罪を背負ったこと自体には悔いも憂いもない。今はただただ進化する幻想に紫の気持ちは舞い上がった。
「嗚呼、素晴らしいわ、美しきかな恋。良いわ、もっともっと盛り上げて」
長い長い、果てがないような紫の理想が、今その一つの形を示そうとしている。
こんなに嬉しいことはそうないだろう、相方がいれば舞の一つでも踊りたい気分だ。
そしてこれで、雫と金剛の二人が幸せになってくれれば、もうこれ以上のことはない。
感極まった紫は、いつのまにか博麗神社の屋根の上で、腰を下ろして胸の高鳴りを感じていた。
高揚する頬を風が気にかけてくれ、火照りを冷ましながら幻想郷を一望する。
「おい霊夢、厄介なの来てるぞ」
「はあ? うわ、ほんとだ」
下を向くと、霊夢と魔理沙が屋根の上を見上げて来ていた。
小さく手を振り、にこやかに笑いかける。
「はぁい、元気してたかしら二人共?」
「今はげんなりしてるわよ」
「意味深に笑って、今度は何企んでるんだ?」
「うふふ、内緒」
相変わらず信用されてないが、そのように振る舞ってきた自分の自業自得だから何も言わない。
気に病む必要はない、自分の気持を理解ってくれる人はすでにいる。
「どうするあいつ?」
「んー、まあほっときゃ良いでしょ」
「だな、好きにさせるか。それより本当なのか? 今度の宴会に――」
「えぇ、もう業者にも話が行ってるらしくって――」
不気味だが楽しそうなのを感じ取り、霊夢と魔理沙は屋内に引っ込んだ。
他人を気遣う心を持つ可愛らしい少女たちにも、紫は喜びを感じ、地平線を眺める。
落ち始めた日が、柔らかな赤で世界を包む。夕焼けに萌える自然の空で、妖精が飛んでいるのが夕日に浮かんで見えた。
幻想郷の各地では帰り支度を始めている頃だろう、あるいは天子たちのように外で食べようと却って活発に動き始めたものもいる。
この地に住む全てが、せめて今だけでも安息であるよう祈りを胸に湛える。
移り行く昼と夜の境界が、幻想郷を塗り変える様子を、紫は感慨深そうに見つめていた。
◇ ◆ ◇
「女苑、来たわよ……じょおーん?」
何日かぶりに女苑の様子を見に来た紫苑だったが、家の扉を開けるとムッとした重い空気が出迎えた。
輝針城ではあまり感じない空気に眉を潜めて家に入ると、畳の上で高級コートを着たままの女苑が倒れているのが見つかった。
「女苑どうしたの!?」
「う……姉さん……」
声を掛けると、女苑は苦しそうな声を出して、むくんだ顔を向けてきた。
「どこか痛むの?」
「痛むっていうか、失敗して自己嫌悪で、やけ酒してぶっ倒れてた」
慌てて駆け寄ったが、実際には大したことなかったらしい。
てっきり取り憑いた時に下手を打って暴力でも振るわれたかと思ったが、やけ酒程度で安心した。
家に入った時の嫌な空気は、充満した酒気だったようだ。
「あー、良かった。心配したわ」
「良くなんか無いよ、あーあーもうやんなっちゃう。せっかく上手くいってた感じなのにケチ付いちゃった」
舌打ちをして女苑は起き上がる、随分とだるそうだ。
「どうしたの一体?」
「それが聞いてよ! って、いたた、頭が……」
「水汲むわね」
水瓶からコップに水を汲み差し出す。
受け取った女苑は一気に水をあおると、プハァーと溜まっていたものを吐き出すような息をついた。
「この前話したプランを実行しようと思ってさ、手始めにやる気なさそうな若者なら男も女も関係なく取り付いて、ちょっとおだてながら金を巻き上げて撤退っての繰り返してたのよね。そしたらとんでもないのに当たっちゃって」
「とんでもないの?」
「うん、顔は良いんだけどね……あっ男なんだけど、最初に取り憑いた辺りは困りながらも付き合ってくれる感じだったのに、酒を飲ませたあと鬱憤とか出させるように突っついてみたんだけど、いきなり人の命ができるだけ長く活かされるにはとか妙ちきりんな持論を語り出すわ、世の愛なんてガラクタに過ぎないだなんて言い出すわでさー」
「大変だったのねー」
貧乏くじを引いてしまったということらしい。
世の中には色んな人がいるんだなー、と紫苑はぼんやり聞いていた。
「まったく、ようやく理想の女が手に入ったとか言って、女の子をモノ扱いするところにも腹立つわー。里でも優秀な退治屋だか知らないけど、ありゃ相当なもん抱えてるわ」
「……うん?」
退治屋、というところに紫苑の脳裏で嫌な予感がよぎる。
天子から、最近妖怪と退治屋の恋を手助けしているという話を聞いていたが。
「ね、ねえ、その退治屋ってどんな名前?」
「名前ー? なんで姉さんがそんなの気になるのさ」
「いいから、なんて人だったの!?」
「えー、あんまりよく覚えてないよ……何だっけ、水っぽい名前って思ったような」
「もしかして、坂上雫?」
「あっ、そうそうそいつ! 姉さん知り合いなの? 止めたほうが良いよあんなやつ」
「女苑!」
「な、なによ、姉さんってばマジな目して」
いつにない真剣な姉の表情に女苑は戸惑っていたが、構わず紫苑は問い詰めた。
「その人の話、もっと良く聞かせなさい」
◇ ◆ ◇
日がほとんど大地に沈み、東の空では星がまたたき始めた頃。
人里の広場では人気が少なくなり始めていたが、金剛は龍神像の元へと急いでいた。
メイクはばっちり、着物も桜の柄のちょっと良いやつ。あまり慌てすぎて汗をかかないよう気を付けながら早足で歩く。
待ち合わせの時間には少し早かったが、すでに龍神像の前には雫が待っていた。
「こんばんは雫さん! ごめんなさい、待たせてしまって」
「こんばんは。気にしないで、僕もついさっき来たところさ」
雫は腰に刀を差し、後腰からは幾つか包を垂らしていた。
妖怪退治の時の風貌に近いことに、金剛は疑問を持ちながらもひとまず会釈する。
「きょ、今日はお誘いいただいてありがとうございます」
「いや、こちらこそ僕のわがままに付き合っていただいてありがたい。金剛さんに伝えたいことがあってね……」
「な、何なりと!」
「はは、そう固くならないで、まずは見せたいものがあるんだ。付いてきてくれるかな」
そう言って雫は金剛に背を向けて歩き出した、腰から提げた香炉が揺れる。
香炉には火が吐いて煙が漏れていた。金剛にとっては嫌な臭い、魔除けの類だ、とはいえこの程度は我慢できるので、顔に出さないようにする。
「雫さん、どちらへ?」
「実は里の外に用があってね」
「外、ですか?」
「あぁ、でも心配いらないよ。僕が付いてるし、妖怪除けのお香も準備してきた」
「はい、それは勿論です」
そもそも金剛自身が力を持った鬼だ、身の危険について心配など無いが、里の外にまで連れて行って見せたいものはなんだろうかと気になった。
篝火で照らされた里の門を超え、人がいるべしと定められた境界を超え、妖怪が潜む夜の領域へと雫が足を運んでいく。
雫が松明を片手に闇夜を進む後ろを、金剛は三歩遅れて付き従うよう気を付けた。
歩くこと数分、途中で道を外れ森に沿って野原を歩いていく。この先には見晴らしがいい場所も特になかった気がするが。
やがて雫が足を止めた場所にあったのは、草のない地面に突き刺さった四角い石の柱だった。
金剛が雫の隣で立ち止まり、松明に照らされた石柱を夜目を凝らしてよく見てみる。
柱の表面はザラザラしていて、素人が大岩を削って作った代物らしいことしかわからない。
「これは……」
「お墓さ、僕が作った」
墓と言われればそう見えるかもしれない、だが名も刻まれていないのは妙だ。
「実はね、僕の父親は退治屋だったが、妖怪に喰われたんだ」
「えっ!?」
疑問も忘れ、金剛はただ驚く。
胸に到来したのは、その事実を知らずに雫へ近付こうとしたことの罪悪感。
彼が好きで、彼に好きになってもらいたくて、そして彼と一緒に幸せになりたかったというのに、そんな雫を相手に自分の身を偽っていたことが、どれだけ彼の心を抉るのか不安に思い狼狽えた。
「ご、ごめんなさい、私そんなこと知らずに雫さんに近づいて……」
「ふふ、何で金剛さんが謝るんだい、おかしいなぁ」
雫は笑い飛ばしたが、金剛はますます秘密を打ち明けにくくなってしまった自分を恥じた。
「じゃあこれは、雫さんのお父様の……」
「いや、父の墓じゃない。骨も残さず喰われたけど、一族の墓が里にあるんで、そっちで遺品を弔ったよ」
「そうなんですか。でもこのお墓は」
「これは、父を食らった妖怪の墓さ。博麗の巫女に退治されたから、僕が作ったんだ」
金剛が首を傾げる。
「妖怪のお墓を、どうしてわざわざ」
「僕は父を喰った妖怪を恨んじゃいないってことさ。むしろ感謝してるくらいさ」
「かんしゃ……?」
どういうことだろう、感謝など、人間たちの価値観なら自分の親に失礼なものではないのか。
「香が切れたね、新しいのを焚くよ」
雫は後腰から垂らしていた香炉を外すと、地面に屈んで香炉を置き、新たな香を松明にかざして火を付けた。
香は香炉の中に収められたが、そこから臭ってきたものに金剛は目を剥いて口元を押えた。
この臭い、さっきまでのものと違うが嗅いだ覚えがある、雫が妖怪退治の際に炊いている妖怪誘いの香だ。
妖怪の本能が叫び、牙が伸び始めるのを口の上から抑え込む。
「あ、あの、お香を間違っていませんか? さっきと臭いが違うような」
「ん? そうかな。素人に分かるもんじゃないと思うけど」
「えーと、鼻が良いんですよ、私っ」
「まあ細かいことは良いですよ、もし無粋な輩が襲ってきても僕が退治しますから」
「そ、そうかもしれませんが……」
金剛の背中で嫌な予感が冷たいものとなって流れるのに、体の内側は熱くなるのが止められない。
充血する眼球で視界が真っ赤に染まったような錯覚を覚え、荒くなった息が聞かれまいか怖くなる。
いや怖いよりも、とにかく何かおかしい気がする。雫の態度はいつもどおり物静かなように見えるが、この頑なさはなんだ。
「僕の回りの人達は、父が喰われたことについて口々に失敗したと言いました。だけど実際には違う、父は失敗なんかしちゃいない、間違ったとしたら喰われる相手を間違ったんだ。すぐ巫女に退治されて、喰われ損じゃないか」
そう言って、雫が新たな香に火を付けた。
むせ返る臭いに、今度こそ金剛の中で牙が育つ、もう手で押さえなければ喋っただけで気付かれるくらい、妖怪の本性が自己主張を始めた。
髪の毛の下では額の皮が引っ張られ、朱い角まで現れ始めていた。
「に、臭いがつよっ……!?」
「どうしたんですか、そんなに口を押さえて」
雫が屈んだまま、伊達眼鏡の下から漆黒の目で睨めあげてきた。
およそ悪意のない人間がするものでない、混沌とした矛盾に満ちた者の目だ。
「あ、あなた、もしかしてわかってやって……!?」
「父は見つけたんだ、こんな狭い世界で人が救われるすべを。人間なんて長く生きても百年に満たない、けど妖怪はどうだ、平気で何百年も生き続ける。人間を支配するあなた達こそ、全てを得るに相応しい」
松明が地面に捨てられ、輝きを踏みにじられた。
明かりがなくなり真っ暗になる中で、雫の手が刀に伸びるのを、夜目が効く金剛は気付いた。
すべては罠、退治される――そう思っていたのに、雫は大小の刀を鞘ごと腰から引き抜いて何もない場所へと投げ飛ばされた。
意図が読めず金剛が固まる前で、雫は狂気に濡れた目で女を見つめながら、自らの襟首を掴んで胸元を広げて肌を見せつけた。
「さあ、僕の肉体はどうだ金剛さん!? この日のために一日も気を休めず練り上げてきた身体だ! あなた達にとっては極上の餌だろう!?」
見せつけられた肉体からは、妖怪の理性を奪う強烈な酒気。
極限までに判断を狂わせた先にどうさせたいのかとうとう理解した金剛は、頭が燃え立つ中、目に涙を浮かべてその場から逃げ出した。
「う……わあああああああああああ!!!」
悲鳴をあげる金剛を、雫は愉しむように恐ろしい笑みを作ると、着物を脱ぎ捨てて鍛え抜かれた身体を月明かりの下に誇示した。
「どうして逃げる!? 僕はずっと、君のような僕を食べるに相応しい妖怪を探してきたんだ!」
靴下に褌まで脱ぎ捨て、眼鏡以外は何も身に着けていない完全な裸体になり、その健脚で金剛の後を追った。
金剛は一瞬後ろを見て、裸の男に恐怖して短く悲鳴を上げると、無我夢中で逃げようとする。しかし香に酒気とで理性が乱れ、足が思うように進んでくれない。本当なら人間など簡単に振り払えるのに。
対して雫は俄然元気になって、筋肉質な身体を存分に動かして、素足で荒れた地面をも走り抜けてくる。
「君なら妖怪の秩序に溶け込んでこの先もずっと生きていける! 僕は君に食べられて、君の血肉となり永遠を過ごすんだ! これはただの死じゃない、一体化という通過点を経てお互いの存在が昇華されるんだ! 君は僕を食べ、更なる高みへと登るんだよ! これが正しい進化への道のりなんだ!」
「い、いやああああああああああ!!!」
無力な悲鳴が夜に木霊した。
◇ ◆ ◇
金剛達がいる場所から遠く離れたところで、天子とその肩の針妙丸は満足げにお腹を擦って、酒気に帯びた息を吐いていた。
「やー、やっぱ美味しいわねー夜雀の屋台」
「だねー、妖怪侮りがたし」
女の危機など知らずのほほんとしている、このまま輝針城まで歩いて帰って酔いを覚ますつもりだ。
「妖怪の作るものって言えば、紫のとこの九尾が作る料理も激ウマなのよ。お弁当食べたけど美味しかったわ」
「へえー、いいなあ天子ばっかり。私も食べたーい」
「隙きを見てみんなでご馳走してもらおっか」
ちょっとした悪巧みを話していると、進行方向から見覚えのある透き通った青いオーラが見えてきた。
一瞬人魂でも浮かんでるかと思ったが、それが近づいてくると紫苑だということがわかった。
「て、天子、ここにいたの! 探したわ!」
「どうしたの紫苑、そんなに慌てて」
相当急いで天子たちを探し回っていたのだろう、肩で息をする紫苑は垂れた涎をすすりながら必死に声を絞り出す。
「こ、金剛が、金剛が危ないの!」
眉をひそめる天子を前にして、何をどう説明するかわからなくなる。
紫苑は一瞬悩んだ後、とにかく女苑に聞いて思ったことを吐き捨てた。
「――雫って退治屋の男、本当はとんでもない変態なのー!!!」
「いいいいい!!?」
◇ ◆ ◇
金剛はもつれそうな足で必死に人里に逃げ込もうとしていた、正体がどうのと考えてる余裕はない、とにかく他の人に雫の蛮行を止めてもらわなくては。
だが足は千鳥足、角はもう完全に伸び切って、捕まえられて囁かれたら、思い余って喰らおうとしてしまうかも知れない。
頭を振り、本能を抑えながら走る背後で、追いかけてくる裸の雫が大声を上げた。
「逃げても無駄だぞ! 服の下にはたっぷり妖怪特攻の毒手を塗り込んだ、大事なとこまでなあ! 嗅いだだけでも酔いまくって、さぞや人間が美味しくみえることだろうさ!!」
勢いに乗った雫が地面を蹴って宙を舞い、金剛の身体に飛びかかってきた。
背中から抱きつかれた金剛が、耐えきれずに草むらの上に倒れ込む。
「捕まえたあ!!」
「いやあ、離して!!」
ますます酒気が漂ってきて、金剛から力を奪う。
雫が金剛を抑え込んだまま仰向けにさせると、その上にまたがりながら、金剛の両頬を押さえて額の二本角を覗き込んだ。
「ああ、いい、素晴らしいぞ金剛さん。この朱い角、まさしく人ならざるものの表れだ。人より強く、長くを生きる。君のようなお淑やかで生き残る資格のある女の妖怪をずっと探していた、その可憐さ、僕を喰らうに相応しい!」
感極まった雫が、目の前の角に唇を付けて歯を立てる。
角から伝わってきた脳が痺れるほど嫌悪感に、金剛は腕に力を込めた。
「や、やめてえ!」
なけなしの力が雫を跳ね除け、角から涎が糸を引いてすぐに途切れた。
だが雫は受け身をとってすぐに立ち上がると、再び金剛を抑え込んで発情したみたいに熱い息を吹きかける。
「結婚なんて下らない、どちらか一方が死ねば愛は終わりじゃないか、父さんはずっと寂しそうだった」
「いや……いや……」
「だが君に食べてもらえば僕はずっと血肉となってそばに居続ける。永遠の愛だ!! これ以上のものはどこにある!?」
「やだ……そんなのやだよぅ……」
泣きわめく金剛は、心まで悲鳴を上げ、抵抗する力が抜けていく。
鬼からか弱い女に成り果てた彼女を、雫は振り向かせると仰向けに寝かせると、その上にまたがって最後に身に着けていた伊達眼鏡も捨て去った。
「君に食べてもらえるなんて光栄だなぁ……さあ、僕を見ろ!! その美しくも恐ろしい眼で僕の姿を脳みそに焼き付けろお!!!」
産まれた姿に戻った雫の背後に、月明かりを背にした何者かが、棒状のものを振り上げるのが金剛の目に映った。
「あ……」
呆気にとられて声を漏らした直後、桜色の閉じた傘が雫の顔を横合いからブチ込まれた。
衝撃を受けた雫が、白目をむいて唾を散らしながら吹き飛ばされる。横たわった金剛の前に立っているのは、美しい金髪に紫色の道士服
金剛が会ったときとはその姿は違っていたが、同じ妖怪であっても恐ろしいと感じる妖気から、それが誰だかすぐわかった。
「紫、さん……」
呆然と呟くそばで、雫が頭を押さえながら起き上がった。
「な、なんだおまグハァ!」
もう一発、スイングされた傘が雫を打つ。猛烈な殴打に、鍛え抜かれた雫も一瞬意識を奪われた。
朦朧とする男の前に、怒気を漲らせた紫が、紫色の妖気を瞳に宿して睨み付ける。
「女を泣かせる甲斐性なしが、喰らう価値など何処にもないわ!」
叫び、今度は傘の先端が雫の鳩尾を打つ。痛みで悶絶する男を前に、紫は一切の抵抗を許さない。
天子が紫苑から話を聞いたのがついさっき、金剛の身を案じた天子は、紫と最速でコンタクトを取るために八雲家の周辺に震度3の地震を引き起こした。
わがまま娘に怒り心頭で顔を出した紫だったが、紫苑から話を聞いてすぐに金剛を探し出し、事態を知ると今度は怒りの矛先を雫に向けてきたのだ。
金剛の純粋な恋心を踏みにじられたこと、自分の理想が目前で崩れ去ったこと、何もかもが心に突き刺さり、紫は怒りを漲らせている。
「失せろ小童が! 貴様に彼女の意思を決める資格などありはしない!」
「うっ、く、くそ! なぁ金剛、君なら分かるよな? 君は妖怪なんだ、僕のことを食べてしまいたいと思ったことが一度くらいあるだろう!?」
いくら殺気を飛ばしても、しつこく妄執にすがる男に、紫は苛立って舌打ちを鳴らす。
ムシャクシャを叩きつけようと傘を振り上げようとしたが、背後から金剛の呟きが聞こえて手を止めた。
「ありません……一瞬も……私はただ、あなたと一緒にありたかっただけなのに……」
涙を流しながら答えられた言葉に、雫ばかりか、紫まで目を見張る。
雫は自らの理想を裏切られ、力なく肩を落とした。
「そんな、そんなこと……嘘だ……」
我に返った紫がもう一度傘を打つ。
もんどり打って倒れた雫に、再三殺気を浴びせ怒鳴りつけた。
「もう一度言うぞ、失せろ」
「く……くそ、くそ、くそぉ!!」
雫は自らの失敗を感じ、悪態を付きながら駆け出した。
逃げゆく男の背中から紫は視線を切り、泣き腫らす金剛に跪いてハンカチを頬に当てた。
「うぅ……ぐす……」
「金剛さん、お可哀そうに……」
今回の一件、どれだけこの娘は傷ついたことだろう。
涙と泥を拭っただけでは到底足りない。
「やはり、これだけじゃ腹の虫が治まらないわね」
紫は立ち上がって彼方を睨んだ。
「はっ……はっ……はっ……」
裸のまま走る雫は、ひとまず置いてきた服を取り戻しにお墓の場所まで戻ろうとしていた。
「は、あはははは、金剛さんは嘘を吐いている! 妖怪は人間を喰う、人間は喰われる、それが正しい形なんだ、間違いなんてありっこない!」
だが彼には諦めた様子がない。金剛の口から否定されてもなお、まだ妄執にとらわれていた。
「出直そう。もう一度アプローチを掛けて今度こそ僕は、彼女の愛に包まれて……」
「――何を喚いているの?」
不意に耳元で声を聞かされ、驚いて雫は足をもつれさせて転がり込んだ。
裸の肌が地面にさらされ擦り傷ができたが、それよりも気になるのは声の主の正体。
雫が慌てて振り向くと、そこには青い髪の女がふよふよと浮かんでいた。
「何だお前!?」
「私? 私は貧乏神よ、ちょうどよく不幸になりそうな人間がいるから取り憑いちゃった」
そう言って紫苑と名乗った女は喉を鳴らして笑う。
今彼女は自らをなんと言ったのだ?
「貧乏神って」
「これからあなたに不運が襲うわ、逃れようのないね」
その意味を雫が考えていると、少し離れた場所から草を踏み分ける音が聞こえてきた。
今度はそちらへ目をやると、そこには黒いスカートを身に着けて、頭に御札のリボンを付けた幼い少女が、月の光の下に現れた。
「何だお前変態かー? でも中々身が引き締まってて美味そうなやつ」
こんな時間、里の外に普通のこどもが出てくるわけがない。こいつは間違いなく妖怪。
「里の外にこんな時間でいるんだから、食べちゃってもいいよねー?」
豚を見る目で、闇の妖怪は涎が垂れた唇を指でなぞった。
「う、うわあああ!!!」
雫は一目散に逃げ出して人里へと走り出した。
恐怖を浮かべる男に、取り憑いた貧乏神が横から細い声で問いかけてくる。
「何を逃げているの? あなたはさっきは妖怪に食べられたがってたじゃないの、望みが迫っているわ、すぐそこよ」
「ち、違う、冗談じゃない! あんな愛の一つも知らないやつに喰われてなんてたまるか! 僕は僕を愛してくれる女性に喰われて一つになるんだ! それが究極の愛、辿るべき道だ!」
「愛だなんておかしいな、そんなもの何処にもない、空想にすら満たない妄想よ」
「違う!」
雫が叫んだ直後、足の裏から鋭い痛みを感じて、再び地面に倒れ込んだ。
どうやら裸足で駆け回った結果、足を怪我してしまったらしい。足が引きつり、立てそうにない。なんて不運だ。
身体中擦り傷だらけで地面に倒れ伏す雫に、貧乏神は背中から肩に手を置いてしつこく囁いてくる。
「ねえ知ってる? 人間は細胞っていう肉の粒が数十兆個集まって出来てるけど、それは毎日どんどん入れ替わってるんだって。あの妖怪にあなたが食べられても一年も満たない内に、あなたから得た栄養は全部入れ替わってされる。行き着く果ては糞と小便と垢にすぎない」
「う、嘘だ! もし肉が消えても僕の魂はそこに遺る!」
「そんなわけないじゃない、死んだ人間はあの世に行くのよ。あなたはきっと大地獄ね。遺るものなんてなにもないのよ」
「何もない……? 無……? そんなはず……」
背後の貧乏神から自らが信じたものを打ち崩される中、雫の前にはさっきの妖怪が両手を広げて楽しそうに近づいてくる。
大きく開けた口で、鋭い牙が月明かりを反射した。
絶望感に包まれる雫に、貧乏神が更なる追い打ちを仕掛けてきた。
「ほらそこよ! そこまで無が来てるわ! 大口開けてあなたをぱっくり飲み込もうとしてる! ほら、あなたはあれに食べられて、なんにもならないまま惨めな糞尿に成り果てるのよ!」
「ち、ちが……そんな……やだ……」
いくら否定しようが、完璧にまで無意味な死が目の前にまで迫ってきていた。
「いやだあああああああああそんなことおおおおおおおおおお!!!」
子供のように泣きわめくしかなかった雫の前に、どこからか緋色の剣が飛び込んできて地面に突き刺さった。
雫と妖怪とを遮った剣は、刀身から緋い閃光を周囲に放ち、視界が真っ白になるほどの光量で周囲を照らし出した。
わけがわからずまぶたを閉じる雫だったが、光の向こうから幼い声が聞こえてくる。
「やあー、眩しいー! なにこれー!」
軽い足音が遠ざかっていき、しばらくしたあと、光は徐々に止み始めた。
恐る恐る目を開けると、そこにはいつか会った天人が肩に小人を乗せながら、緋き剣を握り締め雫を見下ろしていた。
「あ……あ……天人……」
天人は緋い剣の刀身をかき消すと、足音を立てて雫へと近づいてくる。
「あ、ありが」
お礼を言おうとしたその横っ面に、今度は天子の拳が突き刺さった。
下手すれば首ごとふっ飛ばしかねない馬鹿力がねじ込まれ、雫の意識は完全に刈り取られた。
にもかかわらず天子は雫の上にまたがると、両手を握りしめ、左右交互に雫の顔をぶん殴り続ける。拳が血に染まり、端正な顔がまたたくまに腫れ上がった。
黙々と殴り続ける天子に針妙丸と紫苑がどうしようか悩んでいると、金剛を引き連れて歩いてきた紫が、天子の暴虐を見つけるなり慌てて駆け寄ってきた。
「天子、ストップストップ、それ以上やると死んじゃうから」
止めに入られた天子がムカっ腹を立てた顔で振り向いて、紫を睨み付けた。
「なんで止めるのよ紫! こんなクソ男死んじゃったほうが世のため人のためよ!」
「若干同意するけど、彼もここの住人……だから止めなさいって拳を振り上げない」
紫は仕方なく天子の腕を握り力づくで止めにかかる。源五郎の母親の時もそうだったが、どうやらこれが役割らしかった。
「金剛は彼を殺そうとはしなかったのよ、私たちがやってるのは全部八つ当たり、裁くのは彼女に任せなさい」
「ぐぬぬっ……」
なんとか納得してくれたようで、天子は悔しさを顔に浮かべながらも拳を解いて立ち上がった。
天子が落ち着いたのを見て、紫は紫苑へと話しかける。
「礼を言うわ依神紫苑、少しはあの男も肝が冷えたでしょう」
「いいわよ、これくらい。何だかちょっと楽しかったし」
さっきまでのことはすべて紫の企みだ。
紫苑を雫に取り憑かせて不運を呼び込み、後はシチュエーションに合わせてその心を折るよう、紫がスキマから囁いて紫苑へ台詞を指示したのだ。
雫も勘がいいほうだが、ああまで焦燥していては裏に気付かなかったらしい。
「そう、でも快楽にはまらないようにね。決して良いものじゃないわ」
「うん、それは同意するけど」
紫苑は一度頷くと、控えめにはにかんだ。
「ちょっとでも人の役に立つのって、嬉しいな」
不機嫌そうな天子から、針妙丸が飛び降りて倒れ伏した雫に近寄る。紫苑もなんとなくそれに倣った。
裸のまま大の字で倒れる男の姿は、この上なく哀れなものだった。
「へえー、これが噂のイケメン退治屋かぁ」
「もう見る影もないけどねー」
「全裸で女の子追いかけ回すとか、紫苑の言ってた通りの変態だね。針であそこ縫い留めてたほうが良いんじゃない?」
「それで止まるかなあ、変態だし」
「変態こわー」
針妙丸と紫苑が話しているあいだ、天子は金剛に近づくと涙に濡れた鬼の顔を覗き込んだ。
「天子さん……」
「金剛、その変態の性癖は聞いたわ、あんた危なかったわね。こいつどうする? いっそ殺っちゃって良いと思うけど」
恐らく、雫は自分を食べてくれる理想の女妖怪を前から探していたんだろう。
金剛はその候補の一人だったのだ、道理で交際までスムーズに進んだわけだ。
恋心を弄んだ女の敵に天子は怒り心頭だが、金剛は泣きながらも首を横に振る。
「ぐす……とりあえず、服、着させててげて下さい。寒そうです」
「あ、そう……」
とんでもないことになったと言うのに、慈悲を見せる金剛に、天子は毒気を抜かれて口をつぐむ。
「後は全部、私に任せて……」
悲しさで顔を歪ませながらも、そう言われては誰も何も言えず。
ただ紫が、大きな大きなため息を吐いただけだった。
◇ ◆ ◇
「それで、まだ寝てるんですか紫様」
「ああ、まだ落ち込んでらっしゃる」
二人の式神が、薄く開けられた襖から部屋の中を除く。
室内には廊下からの明かりが差して、盛り上がって丸まった布団が見えた。
「……ぐすっ」
鼻をすする音が聞こえる。妖怪の恋心を襲った事件から一週間、あれからずっと紫は傷心に浸り自室にこもり続けていた。
ご飯の時には出てきてくれたが、それとトイレ以外ではずっと布団でダンゴムシだ。布団の中で膝を抱えたまま寝転んでいる。
今日はもう夕方だが、このままでは二週間目に突入しかねない。
「よっぽどショックだったんですね、金剛って妖怪のこと」
「優しいが故に繊細な方だからなぁ……というわけだ」
「わかったわ。ここは私に任せて、あんたたちは先に神社に行ってなさい」
そしてまた、天子が式神たちのあいだを通り抜け、紫の部屋へ足を踏み入れた。
襖がパタンと小さな音を立てて閉められれば、明かりは窓から入ってくる夕暮れ時の外の光だけで、部屋の中は薄っすら暗い。
「紫、来たよ」
返事はない、だが聞こえているようで一瞬すすり泣くのが止まったのがわかった。顔が見えないが、きっと悲しさで歪んでいることだろう。
相変わらず泣き虫だな、なんて天子は苦笑しながら、布団の上で座り込み紫に背中を預ける。
「金剛たちのことそんなにショックだったか」
「……当たり前よ」
上ずった声でようやく愚痴を漏らしてくれた。
天子はそれに少しずつ問いかける。
「二人のこと、そんなに応援してたんだ」
「えぇ……」
「それって幻想郷のため?」
「……わからない」
「どうなって欲しかったの?」
「……みんな、幸せになれればいいって思ってた」
難しい理想を追う女だ、きっと本気で言っているんだろう。
「上手く行かないものね、何もかも」
「案外そうでもないわよ」
不意に天子が喉を鳴らして笑ってみせた。
そうして立ち上がると、紫が被った布団の端を華奢な手でむんずと掴む。
「そーら紫! そろそろ顔見せてよ!」
バサリと布団が剥ぎ取られる、はためく掛け布団を部屋の隅へと追いやり、膝を抱えたままで寝ている紫の前に天子が回り込んだ。
紫の顔を覗き込んでみたなら、案の定、涙の跡が幾重にも残り、目は真っ赤に充血して、おまけに髪はボサボサという有様だった。
泣き止んではいるが、それにしたって酷い顔だ。
「あっはは、変な顔」
「うるさいわ、いつまで経ってもデリカシーないんだから」
「ごめんごめん、良いもの見せてあげるから気分治してよ」
「良いもの……?」
睨み付けてくる紫を、天子が持ち上げて起き上がらせる。
布団に座らせた紫へ、天子が真正面から顔を突き合わせて悪戯っぽく笑いかけた。
「あんたさ、あれから金剛たちの様子確認してないでしょ」
「うっ……」
紫が嫌そうな声を漏らす。失敗に終わり、期待を裏切られ、その後の顛末を確認するのが怖くてずっと見ないでいたのだ。
「怖いのはわかるけどさ、一度見てみてよ。そうね、雫の家でも覗いてみなさい」
「でも……」
目を伏せ渋る紫に、天子が手を伸ばして手を取った。
緊張を解すように紫の細い手を揉んで笑いかける。
「勇気を出して、私が傍にいるから」
紫はしばらく何も言わずに手のぬくもりだけを感じていたが、ずっと微笑んでくれている天子の顔に目をやると、ようやく口を開いた。
「……わかったわ」
強張った声で頷く紫の隣に、天子が座り込んで肩を抱いた。
付き添ってもらいながら紫が目の前に境界を敷く、開きかけたスキマを前にして、空間を繋げる前に深呼吸した。
もう一度天子を覗き、前を向いた彼女の笑顔を見てから、いよいよスキマを開いた。
境界を繋げたのは、天子が提案した通りあの退治屋の家。
そこから見えたのは目を見張るものだった。
「――オラ! あんた何だい今日の戦いのへっぴり腰は!」
「イダッ! ごめんって金剛さん! でもあんまり妖怪の裏をかくような真似は慣れてなくて、卑怯っていうか……」
「だったら慣れるんだよ! 人間は人間らしくせせこましく生き延びろってんだ!」
傷だらけの雫の尻を蹴り上げて、角を伸ばした鬼の顔で叱りつける金剛がいた。
「……は?」
状況がよくわからず紫、変な声を出してしまう。隣では天子が声を殺して笑っている。
声を荒げていた金剛は、一度咳払いしてペースを戻すと、角を引っ込め人間らしい優しい顔つきで薬箱を引っ張り出してくる。
「ほら、雫さん傷を見せて下さい、手当しますから」
「い、いや自分で出来るよこのくらい」
「だーめーでーす。雫さんは他人の気持ちをもっと受け取れるようになるべきです。独りで殻にこもってるから変な変態に目覚めたりするんです」
「変態ってそんなんじゃ、僕はただね……」
「他人に喰われるのが愛とか変態でなくて何なんですかー!」
怒鳴りつけた金剛は、嫌がる雫の手を取ると妖怪にやられたらしい切り傷に消毒液を浸した布を押し当てる。
上半身の服を脱がしてまで、丁寧に手当てをする光景からスキマを閉じた紫は、天子と顔を見合わせて呆然と呟いた。
「……どういうこと?」
「金剛の恋心は本物だったってこと」
金剛に感化されたように、天子は優しい顔で紫の疑問を迎え入れる。
「あいつさ、泣き止んでからは、雫さんの性根を叩き直してやるー、って張り切りだしちゃって。今じゃあんなふうに押しかけ女房で面倒見ちゃってるわけ。雫の方も追い出さない辺り、満更じゃないんじゃない?」
天子から語られる言葉を、紫は瞳を震わせて聞いていた。
とうに涙は流しきったと思っていたのに、また目の奥が熱くなって胸の奥がうずき出す。
「安心して紫、あんたがやってきたことは無駄じゃなかった。おかしな関係だけど、あれもまたこの幻想郷に産まれた新しい人と妖怪のカタチよ」
天子自身も、この結果を喜び、感嘆を込めた言葉を送る。
やがて紫はふるふると肩を震わせ、大粒の涙をこぼし始めると、感極まって天子に飛びついた。
「――――てんしぃー!!!」
嬉しさで滅茶苦茶に笑いながら涙を流し、ぎゅーっと天子の身体を目一杯抱きしめる。
天子は締め付けられる痛さに苦い笑いを浮かべながらも、満足そうに紫の背中をぽんぽんと叩いた。
「よかった……よかったほんとうにぃ……!!」
「よしよし、もー泣き虫なんだから」
純情で、自分では優しくないと言いながら、どこまでも優しくあれる紫に、天子は彼女の温かさを感じられることに喜びと誇りを感じていた。
金剛が道を見つけられた以上に、紫が報われたことがとてつもなく嬉しい。
「で、紫! 喜ぶのは良いけど、今日は大事な約束があるでしょ」
しかしこれで満足してはいられない。天子は紫を引き剥がすと、泣き顔を見つめる。
「やくそく……?」
「博麗神社で宴会! 一緒に飲もうって言ったじゃない、忘れたの?」
交わした言葉を思い出して、紫が「あっ」と呟いた。
「ほら、涙を拭いて。みんなもう待ってるわ、胸を張って行きましょ!」
「……えぇ、ありがとう」
◇ ◆ ◇
泣き顔を洗い、ボサボサの髪の毛を天子に梳いてもらった紫は、身なりを整えて天子の手を取った。
恥ずかしげに笑いあった二人は、スキマをくぐって博麗神社の境内の端に姿を現した。
今日の宴会は豪華なものだ、あちこちにシートと料理がならべられ、勝手に飲み始めた妖怪たちがやんややんやと騒いでいる。
「もうだいぶ集まってるわね」
「そうね、聞いてたより大きな宴会……あら?」
敷かれたシートの合間を抜きながら歩いていると、紫が境内の端にステージが築かれていることに気が付いた。
「あれは何なのかしら」
「あぁ、なんかバンドが突発ライブするんだってさ。なんだっけ、キラキラした感じの名前の……」
「もしかしてプリズムリバーwith H!?」
「そう、それそれ」
名を聴くなり、紫は目を輝かせて、まだ主演のいないステージを見上げると、うっとりと緩む頬を押さえた。
「良いわ、素敵だわ。最高の肴が来てくれるなんて!」
「紫、そいつら好きなの?」
「そいつらじゃないわ、プリズムリバーwith Hよ。元々は騒霊三姉妹の楽団で、その頃から目をつけてたんだけれどね、その頃は個々の主張が強すぎて音がバラけ気味だったの。でも最近になって太鼓の付喪神を加わって、彼女の刻むビートが三姉妹の潤滑油になって音を繋ぎ合わせるようになってね、まるで境界を敷くようにそれぞれの音楽が際立つようになって、完成度が格段にアップしたのよ」
「へえー」
熱弁する紫に、天子は興味深そうに声を漏らした。だがプリズムリバーという楽団に興味があるというより、どちらかと言えば紫の反応を面白がっているほうだ。
妖怪の賢者などと呼ばれ、皆から胡散臭いやつと警戒される紫が、こうやって趣味を爆発させている様子をそばで見られることに優越感も感じる。
「あぁ、楽しみだわー、完全憑依異変の時は忙しくってちゃんと聞けなかったのよね。胸がウキウキしてきちゃう、今日は嬉しいことづくしね!」
「以外ねー、紫も案外俗っぽいんだ」
「あら、私だって心躍らせるものの一つや二つありますわ」
普段の自分らしい反応ではないと、紫自身もわかっているのだろう、茶目っ気たっぷりの口調で天子へとウィンクを送った。
笑い合う二人は喧騒の中を進み、先に来ていた友達と家族が待つ席へと歩み寄った。
「みんなおっ待たせー!」
「いらっしゃいませ天子様、こっちはもう食べ始めてますよ」
手を振った衣玖の隣では、針妙丸と紫苑が皿に料理をよそってガツガツと食らっている。
同席していた藍と橙が紫へと頭を下げた。
「紫様、元気になったようで何よりです」
「ごめんなさいね、心配掛けたわ」
「いえそんな……それに紫様がか弱い乙女だってことは、ここ最近で十分わかりましたから」
「ちょっと、どういうことかしら?」
紫が目くじらを立てるのを、藍は涼しい顔でかわす。
「ひゃあー、これが噂の式神ご飯! 美味しいー!」
「私も藍様のお手伝いしたんだよ!」
「おいひー! おいひー! こんな美味しい料理が食べ放題って素敵すぎるー! 幸せだわー!」
藍と橙が事前に用意して重箱に詰めてきたお弁当に、針妙丸と紫苑はご満悦のようだった。
天子も席に付きながら、紫と一緒に食べたお弁当の味を思い出して涎を飲み込んだ。
「よーし、私もいただきまー……」
「紫~、お久しぶりね」
しかし聞き覚えのある声に天子は言葉を中断し、紫もまた座ろうとしていたのを立ち直り、声の方を見る。
そこには青白い着物を揺ら揺らさせて、小さく手を振る亡霊、西行寺幽々子の姿があった。
「あら幽々子、こんばんは」
尋ねてきてくれた親友に、紫は思わず嬉しさを顔に浮かべて近寄った。
「もう、紫ったらここのところ会いに来てくれいんだもの」
「ごめんなさい、寂しくさせちゃったかしら?」
「ふふ、埋め合わせ期待してるわよ」
「妖夢はどうしたの?」
「今は厨房でお料理作ってくれてるわ」
幽々子には天子のことで相談を持ちかけたりしたが、天子と喧嘩と仲直りを経てからは一度顛末を報告したくらいで、最近はあまり顔を合わせていなかった。
一方、幽々子と紫の関係を知らない天子は困惑した顔で尋ねる。
「えと、あんた異変の時にも天界まで来た亡霊よね。紫と知り合いだったの?」
「そうよー、そちらも久しぶりね天人さん。紫とは知り合いなんてもんじゃないわ、亡霊になった頃から付き合いの大親友よ」
幽々子が見せつけるように紫に身を寄せ、肩に撓垂れ掛かる前で天子が頬を引きつらせる。
「へ、へぇー、紫って私と萃香以外に友達いたんだ……」
「どういう意味よ」
「ははーん……」
眉を尖らせる紫に戸惑いを見せる天子、二人を見比べた幽々子は合点が行ったようにほくそ笑んだ。
「ささ、紫。こっちで二人で飲みましょ」
「えっ? でも天子が……」
「しばらくぶりだもの、私のわがままを聞いてくれてもいいじゃない」
紫は天子に目を向けて少し悩んだものの、最近は幽々子と話していなかったことを考えると幽々子の側についた。
「しょうがないわね、積もる話もあるし……。それじゃあみんな、また後で会いに来るわ」
「……わかったわよ、あんまり飲みすぎないでよね」
「はいはい、あなたもね」
天子は不満げだったが、そのくらいはいつものことなので紫は気にせず行ってしまった。
縁側で並んで腰を下ろす紫達を見て、天子が渋い顔をしながら盃を手にして酒を一気に飲み込んだ。
更に酒を継ぎ足す天子へ、衣玖が苦言を呈する。
「天子様、酒は微酔にですよ」
「わかってるわよそんなこと!」
「あらら……」
早速荒れ始めた天子に、紫苑は困った声を漏らしながら新しい料理へ箸を伸ばした。
そんな一行とは別れ、紫は酒を少しずつ楽しみながら幽々子と軽やかに話し合う。
「天子とは仲良くやれてるようじゃない」
「えぇ、あなたのおかげよ幽々子」
「私は背中を押しただけよ」
幽々子は大したことはしてないと謙遜するが、紫にとってはその後押しが何よりもありがたかったと心底感謝していた。
紫は近くにあった酒瓶を掴むと、幽々子の盃に酒を注ぐ。そして自分の盃にも新たに酒という名の命の滴を満たした。
「喧嘩して仲良くなったなんて聞いた時は、紫にもそんなことが出来るんだって驚いたけど」
「私も、自分でもあの時のことが夢みたいに感じる」
紫は盃から酒を一口含むと、味わって飲み込み、手元に残った水面に過去の己を覗き込む。
天子と本気でぶつかったことは、自分の人生にとって大きな意味を持つことだったと紫は思う。
後にも先にも憂いを抱くことなく、ただただその一瞬の衝動に身をやつし己の全力を振るうあの感覚は、生涯感じたことのない感動があった。
「でも全部本当のこと、私は全力で駆け抜けることも出来た。それだけじゃなく、天子といると今までやれなかったことに次々手を伸ばせるの。人の目がある場所で思いっきりふざけられるなんて、ちょっと前は思わなかった」
だから紫は天子にも感謝している、彼女がいたからようやく紫は自らの本心を引き出して、やりたいと思ったことを素直な気持ちでやれるようになった。
出家した源五郎に顔を出したり、直接金剛を勇気づけたり、一昔前の紫ならそんな気は起こらなかった。やりたいと想っても、実行には移せなかった。
賢者だからとか、そういうのは言い訳に過ぎない、単に紫が臆病で、自分が直接触れたらお互いに傷つけ合うことになるのが不安だから何も出来なかった。
だがもう今は違う、自分のすることで世界がどう動くのか、期待に胸が膨らみ輝かんばかりの目で色んな光景を見ていられる。
熱く語る紫に、幽々子がクスリと微笑んだ。
「紫ったら、天子に夢中なのね。そんなキラキラした顔初めてみた」
「む、夢中だなんてそんな」
我に返った紫が熱い頬を手で隠した。じんわりにじむ熱に、自分の浮かれ具合を自覚して余計に熱くなる。
「ねえねえ、天子とはどんなことしたの?」
「どんなことって、普通の友達よ。て、手を繋いだりとか」
ちょっと声が上ずったことに他意はない、自分と天子はただの友達だと紫は思っている。
しかし幽々子は違うようで、瞳の奥に怪しい光を漂わせた。
「私と紫が手を繋いだことはあったかしら?」
「それくらいはあるでしょう、ほら……多分」
「そうねぇ、他には天子とどんなことしたの?」
そう言って幽々子は紫へと擦り寄り、お互いの手を重ねた。
少し紫は驚いたが、相手が幽々子なら嫌な気はしない。しかし遠くで天子が歯ぎしりしていることに気付いていないようだ。
「もう、幽々子ったら、みんなが見てるじゃない」
「みんなお酒に夢中で気になんかしてないわよ。それより天子とはこんなことした?」
「んふ、くすぐったいわ」
幽々子は紫の肩に頬を擦り付け、甘える仕草で密着する。
紫はいつもより距離が近い親友に困った顔をしていたが、別段嫌な気持ちはなく、間近にある幽々子の横顔を肴に酒を愉しむ。
「ぐ、ぐぅぅ―……!」
「天子様ー、お酒が零れてます」
「うるさいっ!」
天子は怒鳴り声を上げるが紫へは届かず、ヤケになって酒を煽る。見かねた藍が、衣玖に顔を近づかせ小声で囁いた。
「なあ、永江衣玖と言ったか? この天人はいつもこうなのか?」
「いえ、最近は落ち着いてたほうなんですが……まああの亡霊の方のせいですねはい」
「幽々子様も人が悪い……」
とは言え、最近の紫が会いに来なかったことに、幽々子も不満があったのだろう。天子ばかりに構いすぎたツケがきたようだ。
「なあに、どうしたのよ幽々子。妙に人懐っこい真似してきて」
「ほら見て紫、あの天人。私たちのこと睨んできてるわよ」
「えっ?」
そこでようやく、紫は天子へと目を向けて、さっきより不機嫌になった不良天人に気が付いた。
楽しい宴会なのに何がそんなに気に入らないのだろうと首をかしげる賢者に、幽々子が顔を近づけ耳元でささやく。
「ふふ、嫉妬してるのね彼女ったら」
「嫉妬なんてそんな、あの娘がコロコロ機嫌変えるのはいつものことよ」
「あら……うふふ」
鈍感なのか、あるいは気付いてて誤魔化しているのか、とぼけた態度を取る親友を見て、幽々子はおかしそうに笑っている。
仲睦まじそうな二人を遠くから眺めていた天子は、腹を立つのを通り越して段々と意気消沈してきた。
紫は天子と一緒にいる時は楽しそうにしてもすぐ不機嫌になって喧嘩したりする、だが幽々子といる今の紫は終始楽しそうで穏やかだ。
天子は紫と一緒にいるのは楽しかったし、同じように紫を楽しませられていると自負していたが自惚れだったのだろうか。
でも紫とは一緒にいたい、複雑な心境の板挟みに胸が苦しみだす。膝の上で盃を両手で支え、迷いに酒を揺らがせた。
「天子、行ってきたら?」
落ち込む天子へ、針妙丸から声が飛んだ。
「針妙丸……」
「私、なんとなくだけどスキマ妖怪が、天子の何を視ていたかわかる気がするよ。走る天子が好きなんだよ。迷惑かけられたって、あの妖怪は恨んだり悔やんだりしないと思う」
天子と心で繋がり、一番間近で共に戦ったから針妙丸は、頭でなく心で天子の持つ本質的な力を受け取っていた。
彼女の力を信じ、言葉を贈る。
「走って、ぶつかりなよ」
それが出来る素敵な人なのだと、針妙丸は信じているのだ。
いや、針妙丸だけでない、衣玖も紫苑もそれがわかっているからこそ、頷いて同調する。
「無鉄砲なのが天子様の取り柄ですよ、いつもみたいに胸を張ればよろしいのです」
「私は、何でも力づくで拓いていける天子が好きよ」
疑いのない視線を受け、天子は厚い信頼に体の奥が震えた。
だがこれは初めて感じるものじゃない、前にも一度似たようなことがあった。
紫からも、天界で命を掛けて魂からぶつかり合った翌日、湖のほとりで心を通わした時にも、自分はこれと同じ想いを受け取っていたではないか。
それを思い出した天子は、脳裏に光がよぎるのを感じて、輝く眼で口を開いた。
「……うん、針妙丸、それにみんなありがとう」
その様子を、藍と橙も眺めていた。
天子は盃を下に置くと立ち上がり、宴の合間を縫って縁側へと近づいた。
「紫!!」
名前を挙げられ、紫がやってくる天子を見てキョトンとする。
天子は早足で紫の元へ行くと、その手を取って引っ張った。
「こっち来て!」
「ちょっと、天子?」
紫は慌てて盃を置いて、天子に付いていくが、流石に戸惑って幽々子に首だけで振り向いた。
しかし幽々子は小さく手を振り、笑顔で紫の門出を見送る。
「いってらっしゃーい」
二人の影が神社の裏手へと消えていく。
幽々子は二人分の盃を回収すると、藍たちの元へと足を運んだ。
「うふふ、振られちゃったわ」
「そのようですね」
笑顔で語る幽々子に藍が言葉を返す。
「紫様は良き相方と巡り会えられた」
「そうね、あんなにあっさり手を引いていっちゃって、私のほうが妬けちゃうわ」
「私たちが、ですよ」
「まあ……うふふ、そのようね」
そんな喧騒から離れ、静かな場所まで来た天子は、物陰でようやく足を止める。
「天子っ、離しなさい、腕が痛いわ」
説明も受けずに連れてこられた紫が、眉をひそめながら言うが、天子はろくな言葉を返さない。
そればかりか紫を引っ張って、神社の壁に押し付けると、紫を囲うように両手を壁に突き立てた。
「天子?」
流石に不審に思い紫が名を呼ぶが、天子は紫の胸の高さから眉を狭めた頑なな表情で見上げてくる。
「紫、ごめん。私はやっぱり、わがままだ」
天子は以前、嫉妬した紫へ勝手に怒るなと言葉を投げかけたことを思い出す。
それこそ身勝手な言葉だったなと悔やみながら、それでも止まれずに心は足を動かす。
「これじゃ、嫉妬するななんて紫に言えない」
「てん――!?」
不意に天子が爪先を立てて背伸びした。
二人の顔の距離が縮まる、あっという間に視界が相手の顔で一杯になる。
驚く間もなく、天子の唇が、紫の唇へと重ねられ、突き刺さるような柔らかさが脳髄を痺れさせた。
「――!? んー!?」
「ん……ぷはぁ」
目をしばたかせて混乱する紫に、慌ててキスしたものだからすぐに息苦しくなって天子が顔を離した。
「て、天子!? いきなり……」
「こんなんじゃダメ、もう一度」
そう言って近づいてくる天子に、紫は慌てて空気を吸い込んで息を止めた。
再び唇が重なり合う。今度は覚悟していたぶん、長く、じっくりと熱を分け合う。
天子は背伸びした爪先をぷるぷる震わせ、真っ赤な顔で口を押し付けた。
お互いに息もできず、緊張で身体を固まらせながらも、相手の熱を起点に心をもみほぐした。
最初は驚いてばかりだった紫も、やがて瞳を伏せて、この瞬間を堪能し始めた。それ見て天子も顔を無理に押し付けるのを止め、ちょうどいい力加減で繋がり合う。
細めた眼で相手と見つめ合う、紫のこめかみから頬に掛けて一滴の汗が垂れるのを天子は近くで見ていた。
どれくらい密着していたのだろう、やがて息が続かなくなって天子が唇を離し、二人共溜まっていた息を口から吐き出した。酒気を帯びた生温かな息が、鼻腔に漂い酔いが増すようだった。
「天子……」
「ごめんね、紫……」
了承も取らず、いきなり唇を貪る無作法に、天子が悔いて申し訳ないと表情を曇らせる。
しかし紫は優しい顔で天子の頬に手を当てて、丸っこい輪郭を指の腹でなぞった。
「……そんな辛い顔しないで」
そう言って、紫の側からは天子の額に唇を落とした。
「私にだけは、どれだけわがままでいていい。全部受け止めたいから」
その言葉に天子は救われて、強張っていた肩から力を抜いた。
何の前ぶりもない交わりだったが、この瞬間には気持ちが通じているのだと信じて、紫は天子の身体を胸に抱きしめる。
「ただし、他の誰かに同じことしちゃ駄目よ?」
「……紫だけよ、こんなの」
「……嬉しいわ」
突然だったけど、紫は嬉しかった。天子がこうやってあらゆる垣根を飛び越えて強烈に想いを突き立ててくれることが、本当に嬉しかった。
こういう激しさに紫は惹かれたのだから。
紫が腕を緩めると、天子は顔を上に向けて、眼と眼を合わせてくれた。
「紫、私は、紫に私だけ見ていて欲しい。私に優しくしてくれて、私に甘えて、私だけに全部を見せて欲しい」
「その気持も嬉しい、けれどあなたの期待に応えることは出来ない」
「うん、知ってた」
紫はもっとたくさんのものを見る必要がある、義務がある。天子だけに没頭する訳にはいかない。
「天子、あなたを部屋に閉じ込めて、私だけで満たしたい。あなたの幸せも喜びも、私が全部与えてあげたい」
「ありがとう、でも紫だけじゃ満足できないの」
「えぇ、知ってるわ」
天子はもっとたくさんのものを感じたい。この地に住む者たちと色んな体験を交わし、生の歓びを謳歌したい。
「紫、すっごく熱い目してる。あの時みたい」
天子が手を伸ばし、紫の頬に指を這わす。
指の先に嵌められた眼球には、燃え盛らんばかりの妖しい灯火が宿っている。
懐かしい、あの天界での決戦の時もこうだった。そして天子の眼にも同種の輝きが宿っている。
「ねえ紫。あの時、思いっきり戦って、ボロボロになって痛かったけど、とっても楽しかったわよね」
「えぇ、生きてるんだって、心の底から思えた」
「私の全部を受け止めてもらうのも、紫の想いを受け止めるのも、全部嬉しかった」
あらん限りの自分を表現したあの戦いは、自らの存在を証明しているかのような一時だった。
そんな体験ができたのは、目の前の愛しい彼女がいるから。その存在にありがたみに、二人共が息を熱くさせた。
「ねえ、紫。妖怪の道を模索したいなら、私たちがその理想に――」
ぼんやりと呟いた天子がもう一度距離を詰め。
「――なあ霊夢、本当に見回りなんてする必要あんのか?」
「何言ってんのよ、今回うまく行くかどうかで、プリズムリバーが神社で定期ライブするかどうか決まるのよ!?」
「プリズムリバーwithHな」
「どっちでもいいわよ、細かいわね」
「「うひ!?」」
聞こえてきた声に、二人は奇声を上げて距離を取る。
ドキドキしながら声の方向を見つめていると、壁の向こうからお祓い棒を持った霊夢と魔理沙が現れた。
「いやー、しっかり聴いてみたら結構ハマってな、プリズムリバーwithH! ファンも多いんだぜ、妹紅なんかも好きみたいだな。パッと聞いた感じうるさい音楽なんだけど、聴き込んでみたら中々……」
「あっそ、なら尚更協力なさいよ。今回は宴会しながらってことだから大した収入にならないけど、次からは出店もやってバーっと金策に……って、何やってんのよあんたら、こんなとこで」
妙な珍客に霊夢が疑惑の視線で睨み付ける。
もちろん何をしていたかなんて言えるはずもなく、紫と天子は口早に誤魔化した。
「な、なんでもないわよなんでも! ねえ天子!?」
「そ、そうそう! ちょっと酔いを覚ましてただけで」
「怪しい……」
何も知らないがわから見たら、幻想郷きっての胡散臭い大妖怪と、騒ぎで回りを巻き込むことに掛けてはピカイチな不良天人が、顔を突き合わせて妙なことを話し込んでいるのだ。
疑わしきは罰するぞとばかりに、霊夢は声を上げてお祓い棒を振り回した。
「あんたら、幻想郷の二大厄介者が集まって何してるかしらないけど、今日は本当に大事な日なんだから余計なことしたらタダじゃおかないからね。隠れてコソコソしてんじゃないわよ、ほら散った散った!」
「「はぁ~い……」」
しょうがなく紫と天子は肩を落としてその場から立ち去る。
再び宴会場へと出てきて、喧騒に包まれながら顔を見合わせた。
「なんか雰囲気壊れちゃったわね……」
「そうね、でももうライブが始まるみたいよ。一緒に見に行きましょ」
紫がステージを指差せば、そこには壇上に立つ楽器を持った影が四つ。
そうするかと気を取り戻した天子に、紫が手の平を上にして差し出した。
「手、お願いしても良い?」
「うん、勿論」
二人は手を触り合い、宴の中を進んでいく。
ステージにはライブを期待して人だかりができており、二人は列の後ろ側に加わった。
『えー、宴会中のみなさん失礼します。私たちはプリズムリバーwithHというバンドで、今日は新しいライブの形を模索したくて、今回の宴会に相乗りさせてもらう形でライブをすることにしました。皆酔っ払いながら聞いて下さって構いません、私たちの音楽を肴にして、好きに盛り上がって下さい』
リーダーのルナサ・プリズムリバーが前口上を述べる。宴会の半数以上は騒いでばかりでこの言葉も聞いていない。
だが音楽家たちは気にすることなく、各々の楽器に心を通わすと、リズムを取って音楽を奏で始めた。
様子を見るようにゆっくりしたイントロから、段々とテンポを上げていって喧騒をも飲み込んでうねりを上げる。
四人の音楽家たちの奏でる音が、一体感を持って大きな一つの生命のように波紋し、広がって行くのを鑑賞して、天子は関心した声を漏らす。
「おぉー、確かにこれは良い演奏」
「宴の喧騒の中で聴くのも乙なものね……」
紫はうっとりと目の端を緩める。
ライブが始まって一部の者達は騒ぐのを止めて耳を傾けているが、背後からはまだまだ騒いでいる魑魅魍魎も多い。
だが音楽と喧騒とは決してぶつかりあうことなく、奇妙な一体感を持って場に満ちていた。
透明な音の流れに天子は、胸の澱みを吐き出すように息を吐いた。
「曲調は早くて勢いがあるけど、なんだろう、この音楽に込められた虚無感……」
「本来命を持たないはずの騒霊と付喪神だからこそ、表現できる世の虚しさ、儚さ……これを聴いたものは皆、深淵を覗き込んだかのような気持ちになれる……」
紫は瞳を閉じ、握り合った手をゆるく握り直す。
「酒を飲んでいる者たちも、騒ぎながらも同じ体験を通して、気持ちを通じあわせている」
「うん……こういう一体感も良いわね」
天子も視界を閉ざし、世界が広がる、
波打つ振動に身を預け心を漂わせる。
さっき紫と視線を合わせた時のような感覚で、紫に限らずこの場にいる全員と繋がっているように感じられた。
「まあ、音楽のセンスなら私のほうが上だけどね」
「ふふ、まさかー、ありえないわ」
「はあ?」
「はあ?」
お互いに手が離れた。
ニヒルなリズムが意識から遠のき、眼前の敵と睨み合う。
「いや私は天人ですから、あなた達みたいな感性に貧しい可愛そうな地上のやつらと違って、歌も踊りも芸術関連はバッチリマスターしてるし」
「はっ、何がマスターなのかしら。この間のダンス教室での踊りだってへっぴり腰だったじゃない」
「はあー? どこの平行世界の話? 見てなかったの? さては寝てたの? あるいは馬鹿なの? 節穴なの? 誰が見ても華麗な踊りだったじゃない!」
「何が華麗よ、ヒラメの間違いじゃないかしら? ダンス教室の時は先走りすぎて相方にフォローしてもらってたのによく言うわ。あの竜宮の使いから教えてもらったほうがマシになるんじゃない?」
「パートナーを信頼してたと言って欲しいわね……あー! あんたさては、まだ衣玖と踊ったこと根に持ってるなー!」
「持ってませんー、識者として偏見のない厳正な評価ですわー」
周りの者がうるさいなぁと呆れるが、その時点で彼女たちを止めるべきであった、いや止めてもどうにもならなかった可能性が高いが。
もはやどっちが悪いかなど関係ないほど無限に噛みつき合う二人は、悪口エンジンを加速させヒートアップしていく。
「大っ人気なー! よくあんたそんなんで賢者気取ってられるわね」
「そっちこそ、反省したかと思えば簡単に人のこと見下してきて。いつまで天上人でいてるつもり?」
「私が優秀なのはなんだろうと変わらない事実ですしおすし!」
「何が優秀よ、運がいいだけじゃないかしら!」
「運も実力の内よ、そんなこともわからないのボンクラ妖怪!」
「言うに事欠いて、ボ、ン、ク、ラ、ですってこのガキ……!?」
遠くで飲んでいた藍や衣玖たちが気が付いた時には、二大厄介者は空に浮かび上がり、宴の直上で激しい火花をちらしあっていた。
喧嘩の様子が、もはや宴会場にいる者全員の目につく。
スキマに座る紫と、要石に乗った天子がいがみ合い、己の得物を乱暴に振り回した。
「だあー! もう! やっぱりあんたは何遍喧嘩しても足りないくらいムカつくわ!」
「こっちの台詞よ、無駄に小鳥みたいにピーピーさえずって! 今度はあなたの顔をお嫁に行けないくらい滅茶苦茶にしてあげようじゃない!」
「やってみろー! どうせあんたの細腕じゃ蚊一匹だって殺せませーん!」
「だったらゆっくり試させてもらいましょうか。そこに直れ!!」
「イヤでーす! ブー、だ! 捕まえられるもんなら捕まえてみろババアー!」
言葉は罵倒になり、罵倒は弾幕となり、ライブを背に閃光が交差する。
はた迷惑な二人の火花が、とうとう他にも引火した。
「「いい加減にしやがれお前らー!!!」」
怒声が上がり、特大の光線と火の鳥が打ち上げられる。
紫と天子は割って入ってきた攻撃を避け、光線の元を視線で辿ると、箒に乗って浮かび上がってきた魔理沙と、炎の翼を羽ばたかせる妹紅の姿がそこにあった。
「人がせっかく気持ちよくライブを楽しんでたのに、鬱陶しい罵詈雑言聞かせてきやがって!」
「そうだそうだー! もう勘弁ならん!!」
気がつけば魔理沙たちと同様の視線が他にも集まってきていた、ちょっと突っつけば暴発するだろう。だが他には、更なる狂騒を望んで期待する視線も少なくなかった。
ならばこの二人が、ここで退くわけもなく。
「へんっ、面白くなってきた」
「天子、対決は一時お預けよ」
「わかってる! 行くわよ紫!!」
一気に頭を冷やしながらも、天子は喜び勇んで前へ出た、そして紫も当然のように後に続いた。
二つのタッグがぶつかり合い、会場は熱狂に包まれる。空に散りばめられる色とりどりの弾幕に歓声が上がり、物見高い幻想郷住人たちはこぞってこの戦いをはやし立てた。
そしてステージの上で演奏している音楽家たちも、この状況を嫌がるどころかニヤリと笑う。
「さすが博麗神社、早速始めたね」
三姉妹の末っ子が鍵盤に指を滑らせ、音の流れを確かめる。
「これこそが今回私たちが求めてきたもの」
楽しげな次女が、宙に浮かせたトランペットから陽気な音を流し続け歓声に乗る。
「雑音など何一つなくすべては音楽。あらゆる音色と同調し、リズムを高める」
太鼓から生まれた付喪神が、ドラムを叩き弾幕に負けじと空気を揺らした。
「さあ、この狂騒をものにするわ。波に乗るわよみんな!!」
ルナサの音頭に頷いて、音楽団のライブは新たな局面を迎えた。
繰り広げられる空の争いを彩る音が広がっていき、熱狂は加速し続ける。
光線が奔る音、剣が空気を切り裂く音、それらに合わせて演奏が飛ぶと、一つに合わさり世界が爆発的に広がっていく。
音の世界と光が融合し、まったく新しい光景が広がっていく。
見知らぬ景色に会場の誰もが声を上げ、胸の鼓動を一つにする。
「おー、いいぞ喧嘩だやれやれー!」
「綺麗な弾幕に音楽も最上、いやー風情がある」
「うわっち、料理焼けちゃったわ。おーい、おかわり持ってきてー!」
「片や天人と大妖怪、片や蓬莱人と普通の魔法使い。どっちか勝つか張った張ったー!」
「面白そー、私もやるー!」
決着が付かぬうちから新たなチャレンジャーが現れる、興奮が蛮勇を刺激し無謀がはしゃぎ立てる。
まだまだ冷めぬ熱に、紫と天子の二人は止まることなく、生きることを楽しみ全力で力を振るい続ける。
次々と移り変わっていく対戦者に合わせ、演奏もまた音程を変えていく。時に沈み、時に浮き上がり、熱く、冷たく、変貌する。
大宴会に相応しい激闘に、会場の端で笑う鬼の姿があった。
「なはははは、何だよ紫と天子のやつ。仲良くやってんじゃん! 私まで血が騒いでくるね」
「あっ、もしかして……萃香さーん!」
「おろ?」
空を見上げて喝采を贈っていた萃香が、名を呼ばれて振り返る。
そこにいたのは見覚えのある朱い二本角の女性と、彼女の手を握った眼鏡の男性。
「んん……? あー!? もしかして金剛か!?」
「はい、お久しぶりです萃香さん。この人が楽団好きって言うから来てみちゃいました」
「いやー、何年ぶりかな? 元気してた? そっちの兄ちゃんは……」
金剛と共にいた男は、すっと相方の手から逃れると、萃香の手を握りしめた。
「初めましてお嬢さん、僕は坂上雫と申します。金剛さんのお友達ですか? かわいい顔をしている、何より角が立派なのが素晴らしい」
「お、おう?」
「良ければ趣味とか教えていただく」
目の色を変えて尋ねてきた雫だったが、背後から伸びてきた金剛の手が彼の耳をひっつかんだ。
笑顔のまま頬を引きつらせる金剛に引っ張られ、雫は苦しそうな声を上げる。
「雫サーン? 妖怪と見たら誰でも品定め始めるのは止めて下さいー。あと角の大きさはともかく美しさは私も負けてませんからねー?」
「あだだだだだ! ちょ、金剛さん千切れる! 耳千切れるから!」
見事な夫婦漫才に、萃香は狂騒を忘れて思わずほおーと唸りを漏らした。
萃香の知ってる金剛は気に入らないことがあれば即実力行使の、鬼の中でもとびきり凶暴なやつだったが、今の彼女はそれと違う。
「なんだい、金剛、お前けっこう変わったね」
「はい、愛の力です!」
「愛なら手加減をばー!!」
ニッコリ笑う金剛と、泣きを言う雫とを見比べて、萃香は快活な気持ちの良い声を上げた。
「はっはっは、良いよ良いよこりゃ愉快だ! あんまり邪魔しちゃ悪そうだね、私は喧嘩の方に混じってくるから、お二人は仲良くしてなよ」
「はい! 萃香さん、ぶちかまして来て下さい!」
「おうともさ、でっかいの期待してなよー?」
金剛に見送られ萃香が飛び上がり、戦いの渦へ身を投じる。
闘争は波及し、中心にいる二人の熱が伝播していく。
「のう聖、ここは改めて私たちの力を誇示するべきかと思うが」
「力をひけらかす趣味はありませんが、争いを鎮めるのもまた修行の一つ」
「よし、あやつらを我々の踏み台にしてやろう!」
「いざ、南無三!」
宗教家たちが我こそがと声を上げる。
「姉さん!」
「あ、女苑も来てたのね」
「うん、けどまたすごい騒ぎねあの天人。紫も加わって余計滅茶苦茶だわ」
「どうせなら一緒に行く?」
「良いわよ、久しぶりに元祖最凶最悪コンビ見せてやろうじゃん!」
名乗りを上げる神が、己が権能を叫び誇る。
「幽々子様、新しいお料理お持ちしました」
「ありがとう妖夢、でも先に運動してからにしましょうか」
「えー、私まだ何も食べてないのに」
「行くわよ妖夢」
「あっ、待って下さい幽々子様ー!」
楽しい姿に釣られた冥界の主達が、今宵は儚さを忘れ命に煌めく。
「藍様、私たちもー!」
「そうだな、どうせなら見るだけより踊るほうが楽しかろう。だが橙、私に付いてこれるかな?」
「むー、馬鹿にしないで下さい! 私だって成長してるんですから!」
「よし、なら行こうじゃないか。紫様を驚かせてやろう」
「はい!」
心を持った式神が、反乱を企てしなやかな手脚で飛びかかる。
「すっごい騒ぎー。衣玖さん、私たちも行く?」
「いえ、私はここでのんびり観戦させてもらいます」
「そっか、私は行ってみてくるね。正邪のやつ来てないかしら?」
お椀に乗っかった小人も、小槌を振り回して飛び出ていった。
残った竜宮の使いは、心地よさそうな顔で酒を煽り、広がる波動に身を任せ、心を揺蕩わせる。
観戦するだけのものは他にもいた、境内の端っこで、並んだ男女が光を見上げる。
「あれは、この前の妖怪と天人だ。仲が良いんだね」
「はい、そうみたいですよ」
雫が一時上空から目を離し、隣で楽しそうにしている金剛を盗み見た。
視線を戻し、今まで隠していた捻くれた精神が口を衝く。
「君もよくやるね。妖怪が人間の隣に来るなんて窮屈なことばっかりだろうに。頭の悪い僕のファンに、うるさいクチバシで突かれたりもしてるんじゃないかい」
「……はい、習い事の教室でも、最近あからさまに態度が悪くなった友達がいて、ほとんど辞めちゃいました」
雫の本性はそれはもう歪んだものだったが、それでも顔は良いのでファンはいる。
いきなり現れたポッと出の小娘が彼の家に泊まり込みで世話を焼いてるのだ、当然逆恨みするものもいた。
それに関して金剛は寂しくないと言えば嘘になる、浅い友情だったのだなと納得する他ないが、そんなものでも少しは惜しい。
「でも構いません。私は、ここが良い」
鬼として、妖怪として、自分のあり方は特殊だろうと金剛は思う。
だが構わない、どれだけ後ろ指をさされようと、隣りにいる男が自分を拒絶しないならそれでいい。
死を前にして立つ雫の姿を思い出す、それは人間として歪でやがては抜け出さないといけない生き方であったが、それでも金剛は昔見た光景を忘れない。
妖怪を前にして凛と立ち、己の使命をやり遂げる、そんな強さを持った雫に、彼女は惚れたのだ。
「他の妖怪がどうとかはわかりません。でも私は、一瞬一秒でも長く、雫さんの隣りにいたい」
雫はくすぐったくなって、こっそり頬をかいた。
父が死に、あまりにも人は儚いものだと知り、自分もいつかそうなるんだと思うと怖くなった。
だから妖怪に喰われたかった。相応しい妖怪の血肉に混じることで、できるだけ長いあいだ自分の存在を残そうとした。
だが、そんなことをする必要はないのだと、そう気付きつつあった。
わざわざ喰われなくたって、遺るものはきっとある。
「愛してます、雫さん……」
「……こんな未熟者で良ければ」
ひっそりと手を繋ぎ、夜の下で愛を交わした。
視線の先で、なおも宴は白熱する。
「どうしたの、これで終わりかしら!?」
「ハハハッ! 紫、あんたもけっこうノリノリじゃない!」
「あなたに合わせてあげてるだけよ。隙が多いパートナーだと合わせるのが大変だわ」
「信頼してると受け取って欲しいわね。ほら次が来るわよ、背中は任せた!」
「まったく、しょうがない!」
現れる挑戦者を千切っては投げ千切っては投げ、過激でいて歌劇のような戦いが繰り広げられる。
さあ次はどいつだと剣が振りかざされたところで、ひときわ危険な怒鳴り声が会場を貫いた。
「いい加減にしろあんたらあああああ!!!」
その声に覚えのあるものはみな青い顔をして肝を冷やす。
人から妖怪から神々まで、みんなが盃を箸を取りこぼす。
小さな悲鳴がそこかしこから上がり、神社の本殿へと目をやると、そこには神聖苛烈なオーラを身にまとった紅白の巫女の姿があった。
「つまみがなくなったから作りに行って、戻ってきたらこの騒ぎ! 覚悟出来てんでしょうね!?」
「うわあ! 霊夢が怒ったぞみんな逃げろ!」
「退散退散! 泣く子も黙る巫女様だー!」
「きゃははははは、もう訳分かんなグボゲボグギャア!!!」
笑い転げていた妖精が、霊夢の一睨みで陰陽玉が飛びかかりボコボコにのされた。
さっと波が引き蛮勇を気取る愚か者は逃げ帰る、空中に残るは夜と極光の化身のみ。奏者からは重苦しい音程が奏でられ、事態の危機を知らしめる。
けれど最も大馬鹿者な二人は後に退かない。
向かう先はこの幻想郷の中心、生まれ持ってのの最強無敵、楽園の素敵な巫女様。
誰よりも彼女の実力を知る紫は、楽しげに笑って扇子を開き風を仰ぐ。
「さあ、今宵の舞も最終局面よ、覚悟はいいかしら?」
「当然! あんたはどう? 怖気づいたんじゃないでしょうね」
自信満々で仁王立つ天子が、足元の要石に剣を突き立て胸を張る。
お互いに笑っていることを理解り合い、彼女と共に走れる歓びを噛みしめる。
「まさか、馬鹿なことを考えずに前を見なさい。まだまだこんなところじゃ遊び足りないわ」
「よっし、このまま何処までだって行ってやるわよ!」
撃ち放たれた弾丸か、爆進する暴走列車か。手には勇気を、背には理想、それでも飽き足らぬと二人が駆ける。
他の追随を振り切って、この幻想郷の最先端を突っ切り邁進す。
「――手紙を持ってきてくれた竜宮の使いから、地上で宴があると聞いて、こっそり来てみれば」
遅れて会場にやってきた身なりの良い男が、空を見上げた。
巫女と混じり合った緋と紫が激突し、力がビリビリと胆まで伝わってくる。
その輝きの中で、楽しさを全身に伝えて剣を振るう少女を見て、感慨深そうに男は息を零した。
「天子、お前はそんなふうに笑える子だったんだなぁ」
戦いは白熱する、ギャラリーは熱狂し、天と地の狭間が荒れ狂う。
入り交じる緋と紫が織り成す色彩へ、更に加えること陰と陽、波打つ波長が九重を結ぶ。
降りてきた夜に差す極光が理想を体現し、忘れられた者達に、新たな希望を指し示す。
「深弾幕結界、夢幻泡影!」
「全人類の緋想天!」
走れ比那名居、駆けろ八雲。
これもまた、新たな幻想のカタチ。
くいなちゃんの幸せの在り方も好きではありますが、今作は光の波動が凄い(雫があんなに変態なのに)、心が洗われるようでした
同じテーマに別の解答が出されるのってすごく面白いです
ゆかてんがキスしたときは「うわー!!!いったー!!!!」ってなってちょっと耳が熱くなりました。そういう描写控えている感じがあったので、不意をつかれて驚きました。
そのあとすぐ喧嘩しちゃうのもこの2人らしいですね
ラストにどんどん盛り上がっていくところも、読んでいて気持ちが良くて口角上がりっぱなしです
良い作品をありがとうございました
あとがきでも触れられていますが、確かにドリルさんのゆかてんには直接的な描写が少なかった気がしますね。(キスどころか結婚してゆかりんが妊娠までする過去作から目をそらしつつ)
ご自身も相変わらずゆかてんに狂ってご健勝な様子で何よりです。(失礼)
すみません。シリアスで緊迫したシーンなのでしょうけど、雫くんが真っ裸で女の子を追いかけ回す様を想像したら笑ってしまいました
なんだか眼鏡のイケメンという風貌から、ふんどしこーりんを連想しちゃって
雫くんにはシリアスブレイカーの称号を勝手に送りたい
それにしても後半の展開には良い意味で予想を裏切られました
先の雫くんしかり、姉さん女房と化した金剛さんしかり
ハラハラドキドキさせられながらも、最後はふたりが上手いことくっついてくれて本当に良かったです
そして、この物語のテーマ
その最終的な着地点が紫と天子の共闘というのが実に良い締め方だなと
プリズムリバーwithHの演奏も演出として素晴らしく、なんだかこう劇場版的なムードが漂い、ラストに向けて気分が最高潮に盛り上がっていきました!
多分、プリズムリバーwithHの演奏が始まった辺りからスタッフロールが流れたりするんだ
原作の幻想郷らしさとこの作品で描かれた優しい幻想郷が調和した、大円団の最高のハッピーエンドで純粋な読者として大変に楽しめて面白かったです!
実は他人の恋路に首を突っ込む話って意外に少ない気がしますんで、ゆかてんを差し置いても面白かったです
>雫が一時上空から目を離し、隣で楽しそうにしている雫を盗み見た
変態は分身も容易く行うのだ
ゆかてん結婚したッッッッッッッッッ!!!はあああぁぁぁぁぁs4えdftこlp;:ltぅtぅ;つあぴおとあwthgふいあgh!!!
人から生まれ、人に生かされ、そして人に滅ぼされていく妖怪は種族的に見れば袋小路でしかなくて、あらがう意思はあれど踏み出せなかった大きな一歩は、これから先に生まれてくるであろう様々な幻想のカタチにとってひとつの指針になってくれるはずで、そして彼女たちもそのひとつなのだと心が暖かくなりました。はあぁぁゆかてん尊い……(邪魔を入れたレイマリのふたりはちゅっちゅしててね!!!)
妖怪や賢者というしがらみを脱ぎ捨てた紫の成長が素敵でした。ひとりでは走りだせなかった夢も、手を取り合い隣に並ぶ敵とも友とも呼べる彼女がいる限り、ふたりの幻想はどこまでも続いてくことでしょう(ハネムーンだね、やったね!)
キャラ同士のやり取りが面白く魅力的で、長さが気にならない(むしろ短く感じたくらい)展開ばかりで終始楽しめました。雫は変態だったけど(ルーミアがお腹壊さなくてよかった)戦闘場面では格好良かったし、金剛ちゃんも可愛くて、氏の書くキャラはオリキャラ含めて楽しい子が多くてとても好きです(雫は変態で変態で変態だけど(そのうち武装錬金しそうなくらい変態))
バラバラになった外来人の死体……私のことですねわかります(狒々が笑ったヒーヒッヒとか言ったのが悪かったんでしょうねきっと)
今回もとても素晴らしいゆかてんで楽しめました、これで私もジオンもあと十年は戦えます、ありがとうございました(走れヒナナイ、駆けろヤクモ。-ヴァージンロード-はいつ出ますか?(錯乱))
誤字脱字報告にて終わりたいと思います↓
そんな頑固さを持っているからこそ紫ぶつかってきて→紫は・も?
良いのよ別に。それに私のことは天子って読んでくれていいわ→呼んで
外界とを隔てる大結界が作られ→自信ない
話を反らそうと天子の隣りにいる少女に目をやった→そらそうと・逸らそうと
了承を得て席に付く聖を見て→着く・つく
その心代わりだけでも紫苑はすごいと思っているが→心変わり
「あっ、それなら私は作るわ」→私が
別に醤油くらいは家にあるのし→あるのに
鮮やかな音色を奏でているかのるようだった→いるかの
高鳴る鼓動を刻むよう宙を跳の→脱字?
天子はこらから金剛の恋が実るまで手助けをするつもりだ。
だがそれとは別に、隣のいる友人のことで気になることが合った。→これから・気になることがあった
雫は屋を放つと同時に即座に行動を移していた→矢
テキパキと穴を掘り、名も知らぬ狒々を弔いを終える→狒々の
遠くからドンドンと城の戸を叩く音が聞こえてきた中断した→聞こえてきて
「香が切れたね、新しいのを炊くよ」→焚くどこからか緋色の剣が飛び込んできた地面に突き刺さった。→飛び込んできて
「ぐす……とりあえず、服、着させて上げて下さい。寒そうです」→あげて
「紫ったら、天子に夢中なのね。そんなキラキラした顔始めてみた」→初めて・はじめて
その言葉に天子は救われて、強張っていた方から力を抜いた→肩
何の前ぶりもなかい交わりだったが→前ぶりもない
だっき紫と視線を合わせた時のような感覚で→さっき?
雫が一時上空から目を離し、隣で楽しそうにしている雫を盗み見た→金剛を盗み見た?
たしかに彼はどうしようもない変態で女の敵であることには間違いないのですが、彼にも歪みきるに至るまでの経過もあったはずで、そこまで否定されてしまうものなのか?という考えが最後まで拭いきれませんでした。一応同じ人間側である天子の「いっそ殺っちゃって良い」というセリフもなかなか苛烈で…。
とはいえ金剛により矯正されて二人は仲良く健全なカップルになるのでしょう。そこは救いがあって良いですね。
個人的にはシリアスなままであって欲しかった、という思いです。私がちょっと彼に入れ込み過ぎなのかもしれませんが。
最新の設定やオリキャラにも挑戦して作品を投稿するあなたはとても素晴らしいと思います。次回作も楽しみにしています。
紫の幻想郷への心……というより人妖が共に生きていける世界を目指す心を描写した作品は良いものですね。
前作は紫や天子自体にフォーカスが当たっていましたが、今作は幻想郷自体にフォーカスが当たっており、より「幻想郷が大好きで上手くいっているのが嬉しい紫」の魅力が出ていたなあと感じました。
天子も天子で、理解者を得たり、友達が増えたり、幸せそうでなにより。
最愛のパートナーがいる上で、他の友達との交流があったり皆で和気あいあいとやってたりというの、とても好きです。
いや本当に、皆が楽しそうな幻想郷は良いですね。
やっぱり身長差カップルの魅力は高低差ちゅっちゅですよね身長高い側が座り込んでキスするのも良いですけど身長低い側が背伸びするのもまた王道ですよね良いですよね。
良い作品を有難う御座いました。
ゆかてんは良かったけど、人間と妖怪については当人同士だけで解決するのを見守るという形をとったほうが個人的には良かったような気もします
それのが今後の二人のためになると、そこは見解の相違でしょうが、私はそう思いました
オリジナルの方々もいい味を出してると思います。なんというか、幻想郷という世界の拡がり、解釈を感じることができて、ステキなお話に仕上がっていると思います。
マッパのインパクトは強烈でしたが。ええ。
オリジナルキャラ達も、違和感なく物語に溶け込んでて凄いなと。
あと、藍と橙が仲良く紫の部屋を覗き見しているシーンにほっこりしましたw