眠りが滑り込んでくる間際に、闇の中で風が動いた。
枕の向こう、音もなく襖の滑る気配がして、私は閉じ終えていた瞳を開けた。終わりかけていた一日が、その帰り道ではたりと足を停める。曇り空に月明かりもなく、永琳の気配だけを私は頭上に感じた。虫も鳴かぬ深更に、寝室までどんな用事があったのだろうか。珍しいことだった。
床に就いていた私をわざわざ確認して、騒がせた非礼を小さく小さく詫び、永琳の顔は、再び襖の向こうに消えた。
眠気に押し切られて私は再び瞳を閉じる。
終わりかけた一日が本当に終わる。
『――おやすみなさいませ』
今日の終わりにそれだけ、言いに来ただけだったらしい。
永琳のその仕草の呆気なさが、私は、途方もなく嬉しかった。
*
人は畏れを籠めて、迷いの竹林と呼んでいる。屋敷を厚く囲い込んだ自然の蓑だ。
鬱蒼と茂るさなかに道は無く、昼でも光は薄く、仄暗い情景に不似合いに白い毛並みの兎達が時折姿を現しては道無き道を切ってゆく。腐葉土の匂いが淀み、千々の葉漏れ陽はまことに細い。来し方も行方も方角も分からなくなる竹林の中で、不気味な風はどこから来たのかも告げず、細くしなやかに去ってゆく。
私は、筍を採りに行くと言った永琳を玄関で見送った。
この竹林も足許を見てみれば、本当は黄色く朽ちた竹がまだ元気な青いやつを縫うように、折り重なり倒れている。どんな竹藪でもそう。萌した分だけは確実に朽ちゆき、林の外から見えないところで倒れている。わがふるさと、月の盈虧のように、必ず倒れることを定められて聳えている。
朝の間に採れる筍が美味しいの、と永琳は言った。
降り敷いた落ち葉が、良い栄養になるのですよ――とも言いながら。
着物が汚れるからと言って、私は屋敷に残り、楽しみにしているわと門口に立って手を小さく振るだけの役目に回った。濃緑色の鳥が一羽、糸を引くように低く永琳の背中を追いかけた。やがて彼女をも追い越して竹林の一部になってゆく。
永琳が、不意につまづきよろめいた。竹林の地中には太い竹の根が沢山走っている。それらは湾曲して、時折地表へと顔を覗かせていることがあるのだ。竹林の中を歩くと、よくつまづく。
『気をつけていってらっしゃいな』
だから、そう一言だけでも、永琳に言えれば良かったものを、私の喉は未だに一言を紡ぐのに勇気を要している。
他人行儀――うさぎ達にまでそう言われると、返す言葉もなかった。
盛る者がいずれ朽ちることを、人は誰でも知っている。けれど盛る者に覆われながら目に見えず朽ちてゆくものがあり、朽ちゆく下で既に盛り始める者があることを人は知らない。
明日とはそんなにも当然だろうか? 誰もが、大切な人といとも簡単に別れゆきはしないか?
腐葉土の風に包まれた大切な人を、私は笑顔で見送っていた。
人はそこを、迷いの竹林と呼んでいた。
聞こえない「通りゃんせ」、それから「かごめかごめ」を、まるで風が唄っているように聞こえる。
*
昼食は、あっさり戻ってきた永琳と二人で食べた。
朝の内に採った筍は灰汁も少なく、また柔らかくて甘味が深い。長く生きていても、ああいう料理を何一つ達者に出来ない私も居る。もどかしいが、私は食べるだけの役から脱することが出来ずにいた。
まるで子供のようだ。
月の街から離れて、どれほど時間が過ぎただろうというのに?
行灯無しでは眠れなかった、稚い時代のことを思い出す。
行灯無しでは眠れなかった、ここへ来てすぐの時代のことを思い出す。
永琳は、こんな私の本当の臆病を、知っているだろうか?
御飯が終わったら久しぶりに、二人で散歩でもしないかしらと私は提案し、……そういえば、二人で用事もなく出歩くなんていつ以来だろうと思った。
『ごちそうさまでした』
作ってくれたごはんは美味しかった
だから、そう一言だけでも、言えれば良かった。
*
葉漏れ陽がまとまり次第に太くなる。未来を思えば、寂しさはいたずらに増幅される。遮る物の無くなった夏の暑気が降ってくる。気持ちばかりが、素直にならなければならない理想像ばかりが、早足で三歩先の影を踏む。
田圃の畦道の一人ぶんの幅を、縦に並んで真後ろで歩いた。丸太三本で渡した橋を、永琳の手につかまりながら二人きりで渡った。水田に滞る青鷺の大きなひとみに見つめられ、思わず視線を逸らした。蛙の淡い啼き声に追い掛けられ、羽黒蜻蛉に導かれ、田亀と源五郎、水面のささめきに縁取られて、そして街へ出る。長いようで短い、竹林からの道。
久しぶりの幻想郷の商店街は相も変わらず脈動している。活力により、時間は本来よりもずっと早く流れている。野菜も魚も醤醢も衣糧も家具も民芸品も茶菓も米麹の私はちょっと苦手なあの匂いも、楽しげに笑っている郷人の顔も、本当は長い時間で少しずつの入れ替わりがある。
そう思えば、いわゆる「無常観」というやつで、どこか寂しくなった。
突き当たりにある最後の酒屋で、白い濁りの酒を一本だけ購った。店を出た大通りの向こうで、遠くの荷馬車が「かぎろひ」によって揺らめいて見える。
かつてこの中に、月の使者の姿を探し、思えば目まぐるしく怯えていた時代もあった。
得てして、月の使者はいかなる所にも現われた――たとえば――大昔月で出逢った追捕の者達、頭からおびただしく真っ赤な血を流して佇む死んだはずの者達、果ては永琳と瓜二つの女の月人。
彼等が私達に殺される寸前、彼等は私達に永遠の幻術をかけていたのだろう。商店街、造り酒屋の白壁の向こう、神社の本殿やその御神木の影、迷いの竹林、永遠亭の厨や縁側、庭の向かい、厠一つにまで現われた、あの幻は厄介だった。
商店街もまた、私達に流れたのと同じぶんだけ、あれから時間が過ぎていた。
月見餅、という名前の白い大きなお饅頭を、鄙びた和菓子屋さんで永琳と一個ずつ買った。
「おい、子供が溺れてる!!」
――男のそんな叫び声が、どこかから聞こえた。
筍を採ってあっさり戻ってきてくれた永琳が、明日も戻ってくることは未だ誰にも保証されていない。不確定な未来に苛まれて、私は明るく怯える術をこの身体に染み込ませた。器用なのではない。それは、代替案に困りはてて発達しきった不器用だった。
前日ひねもす時雨れた天候が、子供には抗いきれない水嵩を作り出していた。子供達が河面と土手に分かれ、言葉にならない言葉を叫んでいる。
助けたい――ただ純粋に、思った。
私が走り寄る迄の僅かな時間さえも、子供達の顔が壊れてゆく。時が壊れてゆく。それを怖くて、見ていられなかった。
私は着の身着のままに、水の中へ飛び込んだ!
汀に四人と橋の上に三人、向こう側に二人、それぞれを結んだちょうど中央の辺りに小さな水柱が断続的に立ち上る。腕が届く刹那の手前で、少年は水の流れに呑まれて消えた。現在というものは壊れるのだ。いともたやすく、誰か力の強い者の指一つで簡単に割れてしまう硝子細工のようだ。
咄嗟に息を詰め、頭まで潜る。
潜ったところで水の濁りに視界を遮られ、いずれにしても先は見えなかった。私は寂しさではなく、本当は恐ろしさと戦っていたのではないか?
義心で世が渡れるなら――私は地上の泥だらけの河に飛び込んで、子供など助けたりはしなかった。真実には、幸せが壊されることへの途方も無い恐ろしさがあったのだろう。
流れに翻弄され、天地を失った私の喉へもしたたかに大量の水が流れ込んでくる。
良いのだ。
どうせ死にはしない。
私は蓬莱の薬を飲んだ身――決して、死にはしない。
そして永琳も死にはしない。ゆえにこの世界は、あらゆるものを失いながら尚存続している――その事実の客観的な恐ろしさに気づく。私と永琳と、忌々しい藤原妹紅という人間もひょっとしたら、もう気付いているか。
とても残酷なことなのだ!
何かを手にするたび人は、ずっと失う怖さと対面する。
何かを守ろうとする人は、ずっと失う怖さと対面し続けなければならない……
出鱈目にもがく小さな腕を、私はようやく引っ掴む。
途轍もない息苦しさと砂塵に軋む視界――私は、意識を失った。
日暮れ前に私達は、人混みをすり抜けて屋敷へと戻った。
濡れた服を着替えるとすぐに夕食で、永琳がいつの間にか商店街で買っていた岩魚を塩焼きにして、ご馳走してくれた。
風邪など引かないでくださいねと笑い、風邪になると辛いものねぇと私は返した。
囲炉裏にかけた、芋煮の湯気。囲炉裏の炎が落ちるまでは、今日という一日は続いてゆく。塩を利かせ、じわりと旨すぎる脂の乗った岩魚に冷酒の杯を添えて、無限の一日を嗜み終える。今日は少し、働きすぎてしまった。
永琳と団欒を過ごす。月見餅を、食べた。
夜風を通す雨戸の隙間から、青く細い光が見えている。
『これからは、気をつけてねっ?』
――あの子への言いつけを彼が守ってくれる限り、今しばらくは彼らの幸せが壊れる心配をしなくて済むという――それが、事実であろう。
言の葉は、葉である。竹林の屋敷に降り敷いた言の葉の落ち葉は、いつか朽ちても青い未来の糧となる。口から零れて一秒で消えてゆく短い言葉には、しかし必ず力強い言霊が宿っている。
眠りが滑り込んでくる間際に、闇の中で風が動いた。
枕の向こう、音もなく襖の滑る気配がして、私は閉じ終えていた瞳を開けた。終わりかけていた一日が、その帰り道ではたりと足を停める。
真っ白な障子がいつしか紙魚を泳がせるように。
縫い込まれて蒼い薫りを漂わせる畳が、いつしか解れてゆくように――
青葉は、落ち葉と名前を変える。言の葉は言霊と落ち葉に変わる。
終わりかけた一日が本当に終わる。
「――おやすみなさいませ」
今日の終わりにそれだけ、言いに来ただけだったらしい。
永琳のその仕草の呆気なさが、私は、途方もなく嬉しかった。
「おやすみっ! ……えへへ」
終わらない明日が、また楽しみになる言の葉さらさら。
(了)
雅で、廖としていて、うっすらとした可憐さがあって、まさに理想の輝夜。
素敵なお話でした。貴方の作品を来年も拝読できることを楽しみにしております。
しっくりと読めてとっても良いお話でした。あと、姫様可愛い。
何かと飾り気のない語り口が多い創想話ですが、時折このような文学趣味を匂わせる作品に出会えると嬉しくなります。
よくまとまった心地の良い小品でした。
二人の永遠は良いものであると同時にこわいものなんだろうなぁ
新年早々和やかな気持ちになれました。
オチは正直読めてしまいましたが、一つの作品として美しさを感じます。
とても奇麗でした。
反魂氏にとって、良い一年でありますように。
文章が美しいと登場人物も美しく感じる
その一端を垣間見たような、一方で永遠生きる者の安楽を垣間見たような、そんな心持ちになりました。