※この話は続編にあたります。興味のある方は「椛の記者見習生活<初日>」及び「<2日目>」をご覧になってからお願いします。
椛は自室の布団に籠もっていた。
あの日は非番であったため、椛は文に顔を合わせることなく帰った。
ここ3日、哨戒も見習いも休んでただただ体を丸めて泣いている。
水は昨夜口にしたが、食事は全くとっていない。それでも、なんの痛痒も感じなかった。
世界が崩れてしまった。
文の見習いになる前の、自分が誰からも必要とされていないと感じていた頃の自分に戻っていることを、椛は自覚する。
いや、あの時は忠誠心を振り絞って表面上は何事もないようにしていたが、取り繕う事すら放棄した今はなお悪いと言えよう。
「文様、どうして……」
何度繰り返したか分からない問いを呟く。
あの時の事を思い出してみる。
『椛に不満があるわけではありません。私の個人的な理由というか、こだわりというか。あの子の才能は保証しますし、他の人なり部署なりへの推薦状も持たせるつもりです』
同僚の烏天狗の問いに、文はそんな風に答えていた。
自分に落ち度がないという点は気を楽にしてくれたが、それは一時の誤魔化しに過ぎないとすぐに悟った。
文のかかえる理由やこだわりがどんなものであれ、それを超えるだけの関係を築くことができなかったという事実が椛に重くのしかかる。
自分はよい弟子を出来ていたと思うし、文は紛れもなくよい指導者だった。
見習いの後の私的な時間も、先輩後輩としての分別こそつけたが、親しくできていた。
期間延長を拒まれる理由がどうしても見つからない。
何をしていいのか分からない。
またいつもの病気が始まる。何をしたらいいか分からず、立ち止まったきり動けなくなってしまう。昔の自分に戻ってしまう。
しかし、己を浸食する暗い気持ちに、抗おうにも抗えない。
否、そもそも抗う気などないのではなかろうか? このままずるずると、堕ちていってしまいたいのではないだろうか?
瞳を閉じると、涙の筋がまた一つ、頬を滑っていった。
視界が闇に閉ざされ、椛の意識は暗闇に沈んでいくかにみえた。
「――――――」
にとりは白狼天狗の宿舎に来ていた。
椛がもう5日も部屋に閉じこもっているという話を聞き、見舞いにやっていたのだ。
「あら、にとり。椛の見舞いに来てくれたの?」
顔見知りの白狼天狗に迎えられ、にとりは椛の部屋へ案内してもらう。
「どんな様子なんですか?」
「部屋に閉じ籠もって出てこないのよ。ご飯も食べてないし」
「原因は、何か言ってました?」
「何にも。だけど予想はつく」
「射命丸様、ですか」
「やっぱりそこを考えるわよね。見習いになってから凄くいい感じだったのに、一体どうしたのやら」
話をしているうちに2人は椛の部屋の前に着いた。
「椛―、谷河童のにとりさんがお見舞いにきたよー。顔見せなさーい」
どんどんと扉を叩くが、反応はない。
「……出てきませんね」
「こうなったら強行突破ね。舎監に言って鍵を借りてきたわ」
「いいんですか?」
「5日も閉じこもっているから、体調管理の観点からも外に出させるのは必要との判断が出たわ」
白狼天狗はそういうと、椛の部屋の扉を解錠し中に進んだ。にとりもあとに続き、薄暗い部屋に入る。
「椛!! 射命丸様と何があったか知らないけどね、こんなにみんなを心配させてあんたいい加減に――ってアレ?」
「居ませんね」
踏み込んだ室内は照明が落とされて薄暗かったが、きちんと片付けられていた。布団も綺麗に畳まれており、当然そこには誰もいない。
後始末とか発つ鳥後を濁さずとか、そんな言葉が2人の頭をかすめる。
「いったいどこに……。ま、まさか世を儚んで!?」
「ちょ、縁起でもないことを言わないでください!!」
「可能性はゼロじゃないわ!! さ、探すのよ!! 何とか思いとどまらせないと!!」
「どうしたの2人とも? ヒトの部屋の中で?」
「椛が大変なのよ、椛も早く椛を探しに――って椛!?」
「もみっち、一体どこに行ってたのさ?」
部屋から出ようとした2人は廊下で当の椛と鉢合わせた。
「あの、ちょっと汗を流しにお風呂に行ったんだけど――」
その手には洗面器と服。首にはタオルが掛けられており体からは石鹸のよい香りが漂っている。
「……ごめん、心配かけちゃったね」
一気に脱力した2人に、椛はぺこりと頭を下げた。
「そうか、そんなことがあったの」
「それは部屋に籠もりたくもなる」
椛の部屋でお茶を飲みつつ事情を聞き、白狼天狗と河童は感想を述べた。
「それで、ひとっ風呂浴びてきたってことはもう立ち直れたの?」
同僚の問いに、椛は静かに首を横に振る。
「まだ駄目。すっごい落ち込んでる」
「そう言う割に、何だかいい表情してるよ?」
にとりに言われて椛は小さく笑った。
「文様が言ってたんだ。分からない事があったらとにかく調べること、って。私には、どうして文様があんなことを言ったのか、何を考えているかが分からない。だったら布団で悩んでるより、歩いて聞いて調べなきゃ。折角教えてもらったのに、思い出すまで5日もかかっちゃった」
照れくさそうに椛は頭を掻く。
「落ち込むのも文様なら復活も文様・・・・・・。椛ぃ? 私やにとりみたいに、部屋に押し入るくらいあんたを心配してるヤツがいる事も覚えときなさいよ!?」
「うん、分かってる。ありがとう」
素直に頷くと、椛は2人を極めて自然な動作でぎゅっと抱きしめた。
頬と頬がふれあい、石鹸の香りが漂う。
「ま、まあ分かってるならいいのよ、うん」
このままだとおかしな気分になる予感を感じ、先輩に操を立てている同僚は慌てて身を引く。
「うん、にとりだ」
同僚に逃げられた椛はにとりを抱きしめたまま、そんなことを言った?
「そりゃあ私は私だけど、どうしたんだい?」
唐突な行動と発言に面食らいながらにとりは尋ねる。
「多分、そういうことだと思うんだ」
これまたよく分からない返答をして、椛は頷く。
何だかよく分からないが、最悪の事態は避けられそうなことに、にとりと同僚は安堵した。
真実というものに自分が囚われたのは一体いつからだろう。
文は文花帳を眺めながら遠い昔に想いを馳せる。
そこに記された取材メモは、自分が実際に見聞きしたものであり、その意味では真実といえる。しかし、自分の見方が真実であるという絶対的な保証は存在しない。取材相手の語る話が真実と断定できるか、などは言うに及ばずである。
そんな曖昧なものを土台に、更に自分自身という主観が取捨選択をした結果が新聞になるのだが、それは驚くべき事に、ある意味での真実となった。
自分が作った真実をそのまま受け入れるものもいれば半信半疑なもの、頭から否定するものもいる。
それでも、誰かにとっての確固たる真実を、自分の手で作り出すという行為に、文は熱中した。
そうしているうちにふと立ち止まり、疑問が生まれる。
では、その真実を作り出している自分とは、一体誰なのだろう?
真実の自分とは、何なのだろう?
妖怪の山に住む烏天狗。
――それはただの記号だ。
新聞記者。
――それはただの記号だ。
里にもっとも近い天狗。
――それはただの記号だ。
伝統の幻想ブン屋
――それはただの記号だ。
最速の天狗
――それはただの記号だ。
実力はあるのに怠ける困った部下。
――それはただの記号だ。
自由奔放でおもしろい同僚。
――それはただの記号だ。
そして、ちょっぴりだらしないけど優しくて頼れる先輩。
――それも、ただの記号だ。
静かに文花帳を閉じて、椛の顔を思い浮かべる。
同僚の面接に臨席した際に見た、虎の巻通りの全くもって彼女自身というものが伝わってこない受け答えに、興味を覚えた。
自分を偽って決まり切っている事を言っているわけではない。
その場合なら、隠しきれない本人の個性というものが滲み出てしまうものだ。
彼女は違った。
この場はこういった事を言うべき場だから、それに即した事を言う。
本当にそれだけであり、彼女の本心がまるで感じ取れない。
似ているな、と思った。
幾つもの自分を持っていることと、一つたりとも自分がないということ。
その本質は同一のものに感じられた。
だから、文は賭けをすることにしたのだ。
自分を持たない彼女に自分を持たせることが出来たなら、自分自身も、真実の自分を見出せるのではないか。
結果は文の負けだった。
彼女に自分を持たせることはできたが、それが自分に影響を与えることはなかった。
何のことはない、椛には、本人が気づかなかっただけで真実の自分があったのだろう。それを教えたから自覚するようになった。
つまり、前提から間違えていたのだ。
同類相哀れむつもりだったが、それはただの独り相撲だったか、と文はため息をついた。
それ故、椛が続けて欠勤していることにも、特別な感情は抱かない。
あの時の話を人づてに聞いたか、そもそも本人が近くにいたのか、原因は自分の発言にあったのだろうと予想はできたが、何かをするということはない。
椛も暫くは落ち込むだろうが、彼女はにもはや確固たる自分があるのだ。誰かと特別な関係を築き、元気にやっていけるだろう。
そして自分は、また幾つもの「射命丸文」を演じるのを続ける。
それで終わる、はずだったのだが。
「射命丸様、ご迷惑をおかけしました」
報道部のデスク。
ぺこりと頭を下げる椛を前に、文は少なからず戸惑いを感じていた。
「あ、ええ。体の方はもう大丈夫なんですか?」
「はい。もうすっかり。あの、ご迷惑を重ねて恐縮なのですが、しばらく見習いの方を休ませて頂けないでしょうか?」
そういって、椛は書類を差し出す。既に関係各所の了承は得ているようだ。
「……それは、有給の範囲でしたら別にかまいませんよ?」
「ありがとうございます。私事ですが、大事な調べ物がありまして」
「何か手伝えることはありますか?」
「お気持ちだけ、頂きます」
そういってぺこりとお辞儀をして踵を返した椛の背中を、文はしばらくの間見つめていた。
書類を確認する。
次に彼女が自分の所に来るのは、半年の見習い期間の最終日。
一体何を企んでいるのだろう。
予期せぬ展開に、我知らず口元が笑みの形を作る。
それから2週間、椛の調べ物の内容を知った時の文は、さらに笑みを深くした。
それは喜びに満ちたものでは決して無く、冥い皮肉な笑みだった。
賭けは既に終わっている。
けれど――
「あの子は、どんな余興を見せてくれるんでしょうね」
そうして訪れた最終日、文の机には一通の手紙が伏せてあった。
果たし状。
ひっくり返すと、封筒にはそのように書かれていた。
記載されているのは場所と刻限のみだが、これほど簡潔に意志を伝えられるものもあるまい。
愛用の団扇を手に、文は指定の場所へと向かった。
指定された時間よりもだいぶ早かったが、椛はやはり、既にそこに居た。
哨戒部隊の支給品である盾と大剣ではなく、朱塗りの鞘の小太刀を腰に差している。
文が舞い降りると、閉じていた目がゆっくりと開かれる。
「お久しぶりです、射命丸様」
「椛さん、果たし状とは穏やかではありませんね。一体どういうつもりなのか説明してもらえますか?」
後輩の突然の奇行に驚く先輩、という自分を演じる文。
しかし椛は応えない。
「……こんな茶番、貴方には必要ありませんでしたね」
演技を止めて、文は団扇を構える。
その瞳は今まで椛が見たことのない鋭さだ。
「聞きましょう、貴方の調査の成果を」
団扇を一閃させ幾筋もの竜巻を椛に放つ。
風の渦に混じって、光弾が椛に迫る。
スペルカードではない。
ごっこ、ではない本当の戦闘だ。
「はぁっ!!」
椛も光弾を放ち、文の攻撃を相殺。
小太刀を抜いて文に肉薄する。
「椛、貴方はこの2週間、私に関する調査をしていましたね。それで、人づての情報と資料から読み取った<私>の真実は何でしたか?」
小太刀の斬撃を団扇の柄で受け止め、文は無表情に問う。
そこに期待は込められていない。
お前に何が分かるというのか、そんな拒絶の意志が込められていた。
「射命丸様のこと、出来る限り調べてみました。
上の方々から見れば実力はあるのに本気を出さない困った部下。
同僚の方々から見れば自由奔放で独創的な記者。
他の妖怪から見れば気さくなようで油断のならない観察者。
力のある人間にとっては強引な取材と新聞を押しつけてくる天狗。
里の人間にとっては午後のカフェのお供を書いている妖怪」
「そうね、それが私を形作る<真実>だわ」
やはりその程度か、と文は落胆する。
「けど、まだまだ不完全です。肝心なヒトの取材をしていませんから」
「ほう、それはどなたです?」
団扇で小太刀を跳ね上げ、空いた胴に光弾を叩き込む。
椛は跳ね上げられた力を利用して体をひねり、返す刀で弾幕を打ち消した。
「射命丸様、貴方は一体誰なんですか?」
可能な限り取材は本人に。
それは文が教えたことだ。
「さあ、誰なんでしょうね。自分でも、もはや忘れてしまいました。私の返答はこれで終わりですよ?」
団扇を袈裟斬りの軌道で振るい、高速の光弾を撃つ。
椛はこれを回避するが、その先に文が待っていた。
「真実の私、なんてものはどこにも居ません」
至近距離で炸裂する光弾。
椛は頭部に直撃を受け、地面に墜落する。
起き上がることはできたが、額の左側が裂け、流血が左目を塞ぐ。
追尾して地上に降り立った文は、そんな椛の惨状にも眉一つ動かさない。
「他人が観測する<個性的な私>それはどれも作られたものに過ぎない。ただの演技です。ではその演技をしている私が<真実の>なんでしょうか? それも否です。<演技をしている私>なんていうのも、本当はどこにもいません。では今貴方と話しているこの<私>が本物? いいえ、これも結局は<さも真実の私らしく振る舞う私>に過ぎません」
とどめを刺すべく、文は団扇を構える。
「昔の貴方と同じですよ。
私は自分を持たないが故に幾つもの自分を作った。
貴方は自分を持たないが故に周囲に流されていた。
個性的と無個性、評価が分かれたのは演じ方が上手いか下手かの違いがあるだけで、本質は同じです。
けれど貴方は自分を手に入れた。いえ、始めからあった自分に気づいた。
貴方は私とは違う。自分がない、私とは!!」
今までにない烈風と、鋭く大量の光弾が椛に迫る。
あとは椛を医療部に連れて行ってお終い、文はため息をついて目を閉じ、
「!?」
爆風を感じて再度開いた。
本気で放った風と光弾を突破し、椛が眼前に迫る。
「射命丸様、貴方は教えてくれました。新聞は真実を創る、と」
避けきれなかったらしく、傷が増え衣服もあちこち裂けている。けれど椛は何ら意に介さず、真っ直ぐに文を見つめた。
「真実を創造してこそ記者。貴方自身が忘れてしまって、もう誰も分からないというのなら――」
その瞳から迸る気合いに圧され、文はたまらず距離を取る。
気づけば、胸が激しく動悸していた。
「<本当の文様>は、私が創ります!!」
高らかに宣言した椛は光弾で土煙を起こし、突撃する。
文は風で煙を晴らすも、そこには既に椛はいない。
「文様、貴方は私にとって、かけがえのないヒトです。何にもなれなかった、成れると思っていなかった私を、<私>にしてくれました」
背後からの声に、文は振り向く。
先刻のように小太刀を団扇で受けるが、明らかに込められている力が違う。
「<真実の文様>それが、<私にとっての文様>を苦しめているのならっ!!」
「くっ……!!」
「そんなもの、私がやっつけてやる!!」
気合い一閃。
椛は団扇をそのまま押し切り、体制を崩した文に巨大な光弾を見舞う。
「ははっ、なんて自分勝手な理屈ですか!!」
吹き飛ばされながら、文はむしろ清々しさすら感じながら笑った。
それまでの歪んだ笑みではなく、心から笑えた。
「自分勝手で結構!! 暗い顔で悩んでいる文様なんて、私が笑顔に変えてやる!!」
放たれる全力の弾幕。
打ち返される弾幕。
「そしてまた、一緒に写真をとって、楽しく過ごす!! それが私の、絶対不変の<真実>だぁ!!」
叫びと共に、奔流のように光弾が舞う。
「やれるものならやってみなさいっ!!」
撃ちつ撃たれつ、壮大な破壊がまき散らされる中で、2人は笑っていた。
「あやや、もう夕暮れですか」
「本当だ、気づきませんでした」
「いけませんね、記者たるもの周囲の状況には常に気を配らなければ」
「はい、気をつけます」
満身創痍一歩手前の2人はそんなやりとりをしながら距離を詰める。
小太刀は半ばで折れ、団扇は柄だけになっていた。
「椛……、うまく言葉がまとまりませんが、楽しかったですよ」
「文様……、私もです」
次が最後の一撃になるであろうことはお互い理解していた。
お互いに微笑み合い、文が動く。
最速の名に恥じぬ、いやそれまでよりも更に一段上の速さだ。
未知の速度で椛に迫る。
――私はこんな速さも出せたんですね。
知らなかった自分を自覚し、文は笑った。
今日一日の椛との関わりで、自分は新しい自分に出会えた。
自分の中に<真実の自分>を探していた時には気づかなかったけれど、外にはまだまだ自分の知らない自分がいたのだ。
知らない自分を探すことは、<真実の自分>を探すのと同じか、それ以上に大切なことに思えた。
そしてきっと、間違いなく知らない自分を探す方が、楽しいに違いなかった。
そうして文が<真実の自分>を探すのを止めた時、誰かと目が合った。
他者と深く関わることを、自分が変わってしまうことを極端に恐れて、怯えている小さな少女。
――ああ、そんな所にいたんですか。
少女に微笑みかけた文を衝撃が襲う。
けれどそれは心地の良いもので、文はようやく出会えた少女を抱きしめたまま、意識を失った。
文が最速よりも更に速い一撃を仕掛けた時、椛は世界の全てを視た。
千里先まで見通す程度の能力。
椛は長らくこの能力を無用の長物だと感じていた。
哨戒の任務を遂行するのに、それほどの目の良さは必要ない。
しかし、文と戦う中で考えていた。
千里先まで見通すというのは、単純に直線で遠くの出来事を拡大して見るわけではない。
遮蔽物や障害物を越えて、その先にあるものを見透す能力。
それはつまり、驚異的な情報処理能力だ。
同一世界に存在している以上、あらゆる存在は、存在してるだけであらゆる存在に対して影響を与えている。
椛が見えない場所で起きていることを視えるのは、その場所の状態や出来事が自分の見える範囲に与えている影響の連鎖を処理して、再現しているからに他ならない。
つまりそれを更に進めれば、ある程度の未来予測も可能なのだ。
文の速度は、もはや知覚できたからといって避けられるものではない域にまで達していた。
だから椛は、見えるもの聞こえるもの全ての情報から予測した、何もない場所に最後の一撃を解き放つ。
その瞬間、まるで自ら望んでいるかのように文が現れ、直撃を受ける。
盛大に吹き飛んだ文に気力だけで追いすがり抱き留めると、椛はそのまま墜落し、意識を失った。
目を覚ました文は、自分が誰かに抱きしめられているのを感じた。
決して見失わないようにとこちらからも抱きしめ、それが気絶した椛だと気づく。
違ったけれど、違っていない。
「ありがとう椛、わたしをみつけてくれて」
傷に障らないように注意しながらも、文はもう一度、椛を強く抱いた。
「それでは椛の誕生日+1ヶ月を祝しまして、僭越ながら同僚白狼天狗の私が乾杯の音頭をとらせていただきます。かんぱーい!!」
乾杯の唱和と共に起きる自分への祝福に、椛は面映ゆい気持ちで応えた。
あの決闘の結果二人そろって入院の運びとなり、延び延びになっていた誕生祝いの宴がようやく開催されたのだ。
「おめでとうもみっちー」
「椛おめでとーう。一時はどうなることかと思ったけど、無事にお祝いできて良かったよ。あ、先輩っ!! 私の音頭、どうでしたか?」
「ははは、最高だったよ」
短髪の烏天狗が椛の同僚の頭をわしわしとなで回す。
「あのねえ、ヒトの祝いの席で2人の世界をつくってんじゃないわよ」
小柄な烏天狗が同僚を諫める。
「ああすまんすまん。椛ちゃんおめでとう。それにしても、肝心なヤツがまだ来てないじゃないか」
「また寝坊かしらね、まったくアイツは」
烏天狗達はぼやくが、椛は別に気にしていない。
そんなところもあの人らしさだ。
それに、
「あややややー、ごめんなさい椛、寝坊しました!!」
「もう、始めちゃいましたよ文様!!」
そこにいるだけで、あの人はこんなにも私を笑顔にしてくれるのだ。
椛は自室の布団に籠もっていた。
あの日は非番であったため、椛は文に顔を合わせることなく帰った。
ここ3日、哨戒も見習いも休んでただただ体を丸めて泣いている。
水は昨夜口にしたが、食事は全くとっていない。それでも、なんの痛痒も感じなかった。
世界が崩れてしまった。
文の見習いになる前の、自分が誰からも必要とされていないと感じていた頃の自分に戻っていることを、椛は自覚する。
いや、あの時は忠誠心を振り絞って表面上は何事もないようにしていたが、取り繕う事すら放棄した今はなお悪いと言えよう。
「文様、どうして……」
何度繰り返したか分からない問いを呟く。
あの時の事を思い出してみる。
『椛に不満があるわけではありません。私の個人的な理由というか、こだわりというか。あの子の才能は保証しますし、他の人なり部署なりへの推薦状も持たせるつもりです』
同僚の烏天狗の問いに、文はそんな風に答えていた。
自分に落ち度がないという点は気を楽にしてくれたが、それは一時の誤魔化しに過ぎないとすぐに悟った。
文のかかえる理由やこだわりがどんなものであれ、それを超えるだけの関係を築くことができなかったという事実が椛に重くのしかかる。
自分はよい弟子を出来ていたと思うし、文は紛れもなくよい指導者だった。
見習いの後の私的な時間も、先輩後輩としての分別こそつけたが、親しくできていた。
期間延長を拒まれる理由がどうしても見つからない。
何をしていいのか分からない。
またいつもの病気が始まる。何をしたらいいか分からず、立ち止まったきり動けなくなってしまう。昔の自分に戻ってしまう。
しかし、己を浸食する暗い気持ちに、抗おうにも抗えない。
否、そもそも抗う気などないのではなかろうか? このままずるずると、堕ちていってしまいたいのではないだろうか?
瞳を閉じると、涙の筋がまた一つ、頬を滑っていった。
視界が闇に閉ざされ、椛の意識は暗闇に沈んでいくかにみえた。
「――――――」
にとりは白狼天狗の宿舎に来ていた。
椛がもう5日も部屋に閉じこもっているという話を聞き、見舞いにやっていたのだ。
「あら、にとり。椛の見舞いに来てくれたの?」
顔見知りの白狼天狗に迎えられ、にとりは椛の部屋へ案内してもらう。
「どんな様子なんですか?」
「部屋に閉じ籠もって出てこないのよ。ご飯も食べてないし」
「原因は、何か言ってました?」
「何にも。だけど予想はつく」
「射命丸様、ですか」
「やっぱりそこを考えるわよね。見習いになってから凄くいい感じだったのに、一体どうしたのやら」
話をしているうちに2人は椛の部屋の前に着いた。
「椛―、谷河童のにとりさんがお見舞いにきたよー。顔見せなさーい」
どんどんと扉を叩くが、反応はない。
「……出てきませんね」
「こうなったら強行突破ね。舎監に言って鍵を借りてきたわ」
「いいんですか?」
「5日も閉じこもっているから、体調管理の観点からも外に出させるのは必要との判断が出たわ」
白狼天狗はそういうと、椛の部屋の扉を解錠し中に進んだ。にとりもあとに続き、薄暗い部屋に入る。
「椛!! 射命丸様と何があったか知らないけどね、こんなにみんなを心配させてあんたいい加減に――ってアレ?」
「居ませんね」
踏み込んだ室内は照明が落とされて薄暗かったが、きちんと片付けられていた。布団も綺麗に畳まれており、当然そこには誰もいない。
後始末とか発つ鳥後を濁さずとか、そんな言葉が2人の頭をかすめる。
「いったいどこに……。ま、まさか世を儚んで!?」
「ちょ、縁起でもないことを言わないでください!!」
「可能性はゼロじゃないわ!! さ、探すのよ!! 何とか思いとどまらせないと!!」
「どうしたの2人とも? ヒトの部屋の中で?」
「椛が大変なのよ、椛も早く椛を探しに――って椛!?」
「もみっち、一体どこに行ってたのさ?」
部屋から出ようとした2人は廊下で当の椛と鉢合わせた。
「あの、ちょっと汗を流しにお風呂に行ったんだけど――」
その手には洗面器と服。首にはタオルが掛けられており体からは石鹸のよい香りが漂っている。
「……ごめん、心配かけちゃったね」
一気に脱力した2人に、椛はぺこりと頭を下げた。
「そうか、そんなことがあったの」
「それは部屋に籠もりたくもなる」
椛の部屋でお茶を飲みつつ事情を聞き、白狼天狗と河童は感想を述べた。
「それで、ひとっ風呂浴びてきたってことはもう立ち直れたの?」
同僚の問いに、椛は静かに首を横に振る。
「まだ駄目。すっごい落ち込んでる」
「そう言う割に、何だかいい表情してるよ?」
にとりに言われて椛は小さく笑った。
「文様が言ってたんだ。分からない事があったらとにかく調べること、って。私には、どうして文様があんなことを言ったのか、何を考えているかが分からない。だったら布団で悩んでるより、歩いて聞いて調べなきゃ。折角教えてもらったのに、思い出すまで5日もかかっちゃった」
照れくさそうに椛は頭を掻く。
「落ち込むのも文様なら復活も文様・・・・・・。椛ぃ? 私やにとりみたいに、部屋に押し入るくらいあんたを心配してるヤツがいる事も覚えときなさいよ!?」
「うん、分かってる。ありがとう」
素直に頷くと、椛は2人を極めて自然な動作でぎゅっと抱きしめた。
頬と頬がふれあい、石鹸の香りが漂う。
「ま、まあ分かってるならいいのよ、うん」
このままだとおかしな気分になる予感を感じ、先輩に操を立てている同僚は慌てて身を引く。
「うん、にとりだ」
同僚に逃げられた椛はにとりを抱きしめたまま、そんなことを言った?
「そりゃあ私は私だけど、どうしたんだい?」
唐突な行動と発言に面食らいながらにとりは尋ねる。
「多分、そういうことだと思うんだ」
これまたよく分からない返答をして、椛は頷く。
何だかよく分からないが、最悪の事態は避けられそうなことに、にとりと同僚は安堵した。
真実というものに自分が囚われたのは一体いつからだろう。
文は文花帳を眺めながら遠い昔に想いを馳せる。
そこに記された取材メモは、自分が実際に見聞きしたものであり、その意味では真実といえる。しかし、自分の見方が真実であるという絶対的な保証は存在しない。取材相手の語る話が真実と断定できるか、などは言うに及ばずである。
そんな曖昧なものを土台に、更に自分自身という主観が取捨選択をした結果が新聞になるのだが、それは驚くべき事に、ある意味での真実となった。
自分が作った真実をそのまま受け入れるものもいれば半信半疑なもの、頭から否定するものもいる。
それでも、誰かにとっての確固たる真実を、自分の手で作り出すという行為に、文は熱中した。
そうしているうちにふと立ち止まり、疑問が生まれる。
では、その真実を作り出している自分とは、一体誰なのだろう?
真実の自分とは、何なのだろう?
妖怪の山に住む烏天狗。
――それはただの記号だ。
新聞記者。
――それはただの記号だ。
里にもっとも近い天狗。
――それはただの記号だ。
伝統の幻想ブン屋
――それはただの記号だ。
最速の天狗
――それはただの記号だ。
実力はあるのに怠ける困った部下。
――それはただの記号だ。
自由奔放でおもしろい同僚。
――それはただの記号だ。
そして、ちょっぴりだらしないけど優しくて頼れる先輩。
――それも、ただの記号だ。
静かに文花帳を閉じて、椛の顔を思い浮かべる。
同僚の面接に臨席した際に見た、虎の巻通りの全くもって彼女自身というものが伝わってこない受け答えに、興味を覚えた。
自分を偽って決まり切っている事を言っているわけではない。
その場合なら、隠しきれない本人の個性というものが滲み出てしまうものだ。
彼女は違った。
この場はこういった事を言うべき場だから、それに即した事を言う。
本当にそれだけであり、彼女の本心がまるで感じ取れない。
似ているな、と思った。
幾つもの自分を持っていることと、一つたりとも自分がないということ。
その本質は同一のものに感じられた。
だから、文は賭けをすることにしたのだ。
自分を持たない彼女に自分を持たせることが出来たなら、自分自身も、真実の自分を見出せるのではないか。
結果は文の負けだった。
彼女に自分を持たせることはできたが、それが自分に影響を与えることはなかった。
何のことはない、椛には、本人が気づかなかっただけで真実の自分があったのだろう。それを教えたから自覚するようになった。
つまり、前提から間違えていたのだ。
同類相哀れむつもりだったが、それはただの独り相撲だったか、と文はため息をついた。
それ故、椛が続けて欠勤していることにも、特別な感情は抱かない。
あの時の話を人づてに聞いたか、そもそも本人が近くにいたのか、原因は自分の発言にあったのだろうと予想はできたが、何かをするということはない。
椛も暫くは落ち込むだろうが、彼女はにもはや確固たる自分があるのだ。誰かと特別な関係を築き、元気にやっていけるだろう。
そして自分は、また幾つもの「射命丸文」を演じるのを続ける。
それで終わる、はずだったのだが。
「射命丸様、ご迷惑をおかけしました」
報道部のデスク。
ぺこりと頭を下げる椛を前に、文は少なからず戸惑いを感じていた。
「あ、ええ。体の方はもう大丈夫なんですか?」
「はい。もうすっかり。あの、ご迷惑を重ねて恐縮なのですが、しばらく見習いの方を休ませて頂けないでしょうか?」
そういって、椛は書類を差し出す。既に関係各所の了承は得ているようだ。
「……それは、有給の範囲でしたら別にかまいませんよ?」
「ありがとうございます。私事ですが、大事な調べ物がありまして」
「何か手伝えることはありますか?」
「お気持ちだけ、頂きます」
そういってぺこりとお辞儀をして踵を返した椛の背中を、文はしばらくの間見つめていた。
書類を確認する。
次に彼女が自分の所に来るのは、半年の見習い期間の最終日。
一体何を企んでいるのだろう。
予期せぬ展開に、我知らず口元が笑みの形を作る。
それから2週間、椛の調べ物の内容を知った時の文は、さらに笑みを深くした。
それは喜びに満ちたものでは決して無く、冥い皮肉な笑みだった。
賭けは既に終わっている。
けれど――
「あの子は、どんな余興を見せてくれるんでしょうね」
そうして訪れた最終日、文の机には一通の手紙が伏せてあった。
果たし状。
ひっくり返すと、封筒にはそのように書かれていた。
記載されているのは場所と刻限のみだが、これほど簡潔に意志を伝えられるものもあるまい。
愛用の団扇を手に、文は指定の場所へと向かった。
指定された時間よりもだいぶ早かったが、椛はやはり、既にそこに居た。
哨戒部隊の支給品である盾と大剣ではなく、朱塗りの鞘の小太刀を腰に差している。
文が舞い降りると、閉じていた目がゆっくりと開かれる。
「お久しぶりです、射命丸様」
「椛さん、果たし状とは穏やかではありませんね。一体どういうつもりなのか説明してもらえますか?」
後輩の突然の奇行に驚く先輩、という自分を演じる文。
しかし椛は応えない。
「……こんな茶番、貴方には必要ありませんでしたね」
演技を止めて、文は団扇を構える。
その瞳は今まで椛が見たことのない鋭さだ。
「聞きましょう、貴方の調査の成果を」
団扇を一閃させ幾筋もの竜巻を椛に放つ。
風の渦に混じって、光弾が椛に迫る。
スペルカードではない。
ごっこ、ではない本当の戦闘だ。
「はぁっ!!」
椛も光弾を放ち、文の攻撃を相殺。
小太刀を抜いて文に肉薄する。
「椛、貴方はこの2週間、私に関する調査をしていましたね。それで、人づての情報と資料から読み取った<私>の真実は何でしたか?」
小太刀の斬撃を団扇の柄で受け止め、文は無表情に問う。
そこに期待は込められていない。
お前に何が分かるというのか、そんな拒絶の意志が込められていた。
「射命丸様のこと、出来る限り調べてみました。
上の方々から見れば実力はあるのに本気を出さない困った部下。
同僚の方々から見れば自由奔放で独創的な記者。
他の妖怪から見れば気さくなようで油断のならない観察者。
力のある人間にとっては強引な取材と新聞を押しつけてくる天狗。
里の人間にとっては午後のカフェのお供を書いている妖怪」
「そうね、それが私を形作る<真実>だわ」
やはりその程度か、と文は落胆する。
「けど、まだまだ不完全です。肝心なヒトの取材をしていませんから」
「ほう、それはどなたです?」
団扇で小太刀を跳ね上げ、空いた胴に光弾を叩き込む。
椛は跳ね上げられた力を利用して体をひねり、返す刀で弾幕を打ち消した。
「射命丸様、貴方は一体誰なんですか?」
可能な限り取材は本人に。
それは文が教えたことだ。
「さあ、誰なんでしょうね。自分でも、もはや忘れてしまいました。私の返答はこれで終わりですよ?」
団扇を袈裟斬りの軌道で振るい、高速の光弾を撃つ。
椛はこれを回避するが、その先に文が待っていた。
「真実の私、なんてものはどこにも居ません」
至近距離で炸裂する光弾。
椛は頭部に直撃を受け、地面に墜落する。
起き上がることはできたが、額の左側が裂け、流血が左目を塞ぐ。
追尾して地上に降り立った文は、そんな椛の惨状にも眉一つ動かさない。
「他人が観測する<個性的な私>それはどれも作られたものに過ぎない。ただの演技です。ではその演技をしている私が<真実の>なんでしょうか? それも否です。<演技をしている私>なんていうのも、本当はどこにもいません。では今貴方と話しているこの<私>が本物? いいえ、これも結局は<さも真実の私らしく振る舞う私>に過ぎません」
とどめを刺すべく、文は団扇を構える。
「昔の貴方と同じですよ。
私は自分を持たないが故に幾つもの自分を作った。
貴方は自分を持たないが故に周囲に流されていた。
個性的と無個性、評価が分かれたのは演じ方が上手いか下手かの違いがあるだけで、本質は同じです。
けれど貴方は自分を手に入れた。いえ、始めからあった自分に気づいた。
貴方は私とは違う。自分がない、私とは!!」
今までにない烈風と、鋭く大量の光弾が椛に迫る。
あとは椛を医療部に連れて行ってお終い、文はため息をついて目を閉じ、
「!?」
爆風を感じて再度開いた。
本気で放った風と光弾を突破し、椛が眼前に迫る。
「射命丸様、貴方は教えてくれました。新聞は真実を創る、と」
避けきれなかったらしく、傷が増え衣服もあちこち裂けている。けれど椛は何ら意に介さず、真っ直ぐに文を見つめた。
「真実を創造してこそ記者。貴方自身が忘れてしまって、もう誰も分からないというのなら――」
その瞳から迸る気合いに圧され、文はたまらず距離を取る。
気づけば、胸が激しく動悸していた。
「<本当の文様>は、私が創ります!!」
高らかに宣言した椛は光弾で土煙を起こし、突撃する。
文は風で煙を晴らすも、そこには既に椛はいない。
「文様、貴方は私にとって、かけがえのないヒトです。何にもなれなかった、成れると思っていなかった私を、<私>にしてくれました」
背後からの声に、文は振り向く。
先刻のように小太刀を団扇で受けるが、明らかに込められている力が違う。
「<真実の文様>それが、<私にとっての文様>を苦しめているのならっ!!」
「くっ……!!」
「そんなもの、私がやっつけてやる!!」
気合い一閃。
椛は団扇をそのまま押し切り、体制を崩した文に巨大な光弾を見舞う。
「ははっ、なんて自分勝手な理屈ですか!!」
吹き飛ばされながら、文はむしろ清々しさすら感じながら笑った。
それまでの歪んだ笑みではなく、心から笑えた。
「自分勝手で結構!! 暗い顔で悩んでいる文様なんて、私が笑顔に変えてやる!!」
放たれる全力の弾幕。
打ち返される弾幕。
「そしてまた、一緒に写真をとって、楽しく過ごす!! それが私の、絶対不変の<真実>だぁ!!」
叫びと共に、奔流のように光弾が舞う。
「やれるものならやってみなさいっ!!」
撃ちつ撃たれつ、壮大な破壊がまき散らされる中で、2人は笑っていた。
「あやや、もう夕暮れですか」
「本当だ、気づきませんでした」
「いけませんね、記者たるもの周囲の状況には常に気を配らなければ」
「はい、気をつけます」
満身創痍一歩手前の2人はそんなやりとりをしながら距離を詰める。
小太刀は半ばで折れ、団扇は柄だけになっていた。
「椛……、うまく言葉がまとまりませんが、楽しかったですよ」
「文様……、私もです」
次が最後の一撃になるであろうことはお互い理解していた。
お互いに微笑み合い、文が動く。
最速の名に恥じぬ、いやそれまでよりも更に一段上の速さだ。
未知の速度で椛に迫る。
――私はこんな速さも出せたんですね。
知らなかった自分を自覚し、文は笑った。
今日一日の椛との関わりで、自分は新しい自分に出会えた。
自分の中に<真実の自分>を探していた時には気づかなかったけれど、外にはまだまだ自分の知らない自分がいたのだ。
知らない自分を探すことは、<真実の自分>を探すのと同じか、それ以上に大切なことに思えた。
そしてきっと、間違いなく知らない自分を探す方が、楽しいに違いなかった。
そうして文が<真実の自分>を探すのを止めた時、誰かと目が合った。
他者と深く関わることを、自分が変わってしまうことを極端に恐れて、怯えている小さな少女。
――ああ、そんな所にいたんですか。
少女に微笑みかけた文を衝撃が襲う。
けれどそれは心地の良いもので、文はようやく出会えた少女を抱きしめたまま、意識を失った。
文が最速よりも更に速い一撃を仕掛けた時、椛は世界の全てを視た。
千里先まで見通す程度の能力。
椛は長らくこの能力を無用の長物だと感じていた。
哨戒の任務を遂行するのに、それほどの目の良さは必要ない。
しかし、文と戦う中で考えていた。
千里先まで見通すというのは、単純に直線で遠くの出来事を拡大して見るわけではない。
遮蔽物や障害物を越えて、その先にあるものを見透す能力。
それはつまり、驚異的な情報処理能力だ。
同一世界に存在している以上、あらゆる存在は、存在してるだけであらゆる存在に対して影響を与えている。
椛が見えない場所で起きていることを視えるのは、その場所の状態や出来事が自分の見える範囲に与えている影響の連鎖を処理して、再現しているからに他ならない。
つまりそれを更に進めれば、ある程度の未来予測も可能なのだ。
文の速度は、もはや知覚できたからといって避けられるものではない域にまで達していた。
だから椛は、見えるもの聞こえるもの全ての情報から予測した、何もない場所に最後の一撃を解き放つ。
その瞬間、まるで自ら望んでいるかのように文が現れ、直撃を受ける。
盛大に吹き飛んだ文に気力だけで追いすがり抱き留めると、椛はそのまま墜落し、意識を失った。
目を覚ました文は、自分が誰かに抱きしめられているのを感じた。
決して見失わないようにとこちらからも抱きしめ、それが気絶した椛だと気づく。
違ったけれど、違っていない。
「ありがとう椛、わたしをみつけてくれて」
傷に障らないように注意しながらも、文はもう一度、椛を強く抱いた。
「それでは椛の誕生日+1ヶ月を祝しまして、僭越ながら同僚白狼天狗の私が乾杯の音頭をとらせていただきます。かんぱーい!!」
乾杯の唱和と共に起きる自分への祝福に、椛は面映ゆい気持ちで応えた。
あの決闘の結果二人そろって入院の運びとなり、延び延びになっていた誕生祝いの宴がようやく開催されたのだ。
「おめでとうもみっちー」
「椛おめでとーう。一時はどうなることかと思ったけど、無事にお祝いできて良かったよ。あ、先輩っ!! 私の音頭、どうでしたか?」
「ははは、最高だったよ」
短髪の烏天狗が椛の同僚の頭をわしわしとなで回す。
「あのねえ、ヒトの祝いの席で2人の世界をつくってんじゃないわよ」
小柄な烏天狗が同僚を諫める。
「ああすまんすまん。椛ちゃんおめでとう。それにしても、肝心なヤツがまだ来てないじゃないか」
「また寝坊かしらね、まったくアイツは」
烏天狗達はぼやくが、椛は別に気にしていない。
そんなところもあの人らしさだ。
それに、
「あややややー、ごめんなさい椛、寝坊しました!!」
「もう、始めちゃいましたよ文様!!」
そこにいるだけで、あの人はこんなにも私を笑顔にしてくれるのだ。
これは続編やこの話が絡んでくる話を期待していいですかね?
他に書きたいアイディアも幾つかあるのですが、
この設定を引き継いだあやもみモノは書き続けたいと思います。
今後とも宜しくお願いいたします。