八百万の神。
それはどんな物にも生命と呼ぶべきものがあり、だからこそどんな物にも慈しみを持って接しろ、という古人の生み出した教えであるのかも知れません。そうしてそれを忘れ、蔑ろにしてしまった時、神と称された生命は、人々に牙を向けるのかも知れません。故に八百万の神。古人は神を畏れておりました。
一.記憶を失くした者の手記
何故僕が此処に立っているのか、それを考えても終わりのない思考の渦に呑み込まれるばかりだった。空に浮かび、ぎらりと輝く太陽と、生温かな夏の風、煩わしい蝉の声。一目で夏だと判るはずなのに、僕は何故今が夏なのかどうか判らない。僕を取り囲む環境は何時から夏へと変化したのだろうか? そんな事を考えながら、僕はこうして文を書いている。一体僕の身に何が起こって、何も判らぬ状態となってしまったのか、まずはそれを判然とさせなければなるまい。
と云っても、やはり僕には何も判らない。唯一救いだったのは、何時の間にか僕が立ち尽くしていたという場所が、見た事のない神社の境内で、そこに住まう巫女らしき女性が、非常に情け深い人であった事だ。
両親の顔どころか自分の名前も自分と関わった人達の事も何も判らない僕が、茫然と立ち尽くしている時に、彼女は箒を手にしてやって来た。そこに会話は無かった。僕は勿論彼女の事を知り得なかったし、彼女もまた同様であったに違いない。しかし、物珍しそうな顔をするでもなく、また怪訝な眼差しを向けるでもなく、ただ僕を見詰める彼女に云い知れない何かを感じて、僕は興味が無いという風に立ち去る彼女の後を、ふらふらと付いて歩いた。
彼女は一寸振り返って僕の事を見たが、それでもやはり関心は無いようで、すぐに前へ向き直ると歩き出してしまった。僕は相変わらず病人のように覚束ない足取りで、何かに取り憑かれた者の如くその後を付いて行く。やがて僕達が玄関に差し掛かると、再び彼女は振り返って僕を見た。けれども何も云わない。僕もまた何も云わなかった。まるで僕達の間では言葉というものが存在していないかの如く、無言のまま向き合う時間が、少しの間流れていた。
やがて彼女はふいと前を向くと、さっさと家の中へと上がってしまった。そうして僕もその後を追い掛ける。何故だかそうしなければならないような気がして、失礼だの何だのといった事は、もはや頭の片隅にさえ有りはしなかった。が、そんな不審者と判じて間違いないはずの男が家の中にまで侵入して来ても、彼女は何も云わない。何だか妙な人だなと思い、僕は初めて彼女に対して声を掛けた。確か「あの」と口にした心持ちがする。
しかし、予想通りと云うべきか、彼女は如何なる反応も僕へ寄越さなかった。時折どうにかして僕の話を聞いて貰おうと、必死に喋る僕へ一瞥をくれる事もあったが、決して口を聞いてくれるという事はなく、僕はまあ何も云わないからには僕の行動は許されているのだろう程度に考えて、もしかしたら口の聞けない障害を持っている人なのかも知れないと、その人の事を判じると、誰も使っていない様子の寝室に居座ったのだった。
そうして今、こうして自らの現状を書いている。月の光だけが頼りになる心細い夜の中、僕は見知らぬ神社で一夜を過ごそうとしている。一応の許可は取ったつもりだが、この神社の巫女が会釈さえしてくれないので、確たる根拠はない。ともかく、明日からは自分が何故記憶を失くしているのか、その原因を探る為に動かねばならないだろう。今日の所は何も考えぬまま、深い眠りに就いてしまおうと思う。
二.記憶を失くした者の手記
八月二日 晴れ
朝になって目覚めると、障子の隙間より差し込む陽射しが酷く眩しく思われた。何だか久し振りに太陽の光を浴びた心持ちがする。朝という時間帯が僕にとって特別な時間帯となる理由は見当も付かないが、ともかく不思議な気分で僕は瞼を開いた。障子を開き、外を見渡すと、そこには未だ白霧の残る風景が広がり、空には朝焼けの光が雲を橙色に染め上げていた。しかし二度寝に興じようとは思えず、僕はふらふらと立ち上がると、母屋の中を徘徊し始めた。
誰も使っていない部屋が数多くある広い家屋の中は、酷く殺風景で、生活に最低限必要な物くらいしか存在していない。古びた箪笥、埃を被る鏡台、そんな物を時折見掛ける事がある。しかし玄関に近付いて行くに連れて、廊下の両側に見る事の出来る部屋という部屋には、次第に生活感が現れ始めた。どうやらこの神社の主である巫女は、必要な部屋以外は滅多に使わないと見える。母屋の一番奥にある部屋を使っている僕には、実に都合の好い事だった。
ところで、僕はこの日に現在の日付を知った。やはり何時八月二日になったのだかまるで判らないのだが、現状を知るには重要な手掛かりになるだろうと思い、今日からは日付を記す事にする。僕が如何にしてこの八月二日に辿り着いたのか、それを解明する事によって不可思議な今の僕の状態も明らかになる事であろう。
僕は取り敢えず外に出ようと思い立った。この神社が何処にあるのか、そして僕が住んでいた所が何処にあるのか、そういう基本的な情報すら持たぬ僕には、外出以外に先述した謎を解明する手段がない。その上この神社の巫女は話を聞いてくれない――これはもしかしたら何か事情が有るのかも知れないが――ので、一つ所に留まっているばかりでは事態は停滞し続けるばかりだと思ったからである。
そうして僕は外に出た。寒々しい空気が感じられるかのような、朝焼けの下に立ってみると何だか不思議な心持ちである。これは目覚めた時と同様の感想だと僕は推測した。そして、境内を一通り見渡した後母屋の裏手へ回ったり、高台に位置するこの神社の境内から、眼下の風景を眺望してみたりした。一体何時頃までそんな事を繰り返していたのだか判らないが、ともかく僕はそんな不毛な事を飽きる事もせずに続けていた。
今思えば実に可笑しいが、僕は何故だか神社の外には出なかった。気付けば夕暮れの光が辺りを赤く染め上げ、遠くに聳える稜線に太陽が沈み込んで行く所だったのだから、全く可笑しい。明日は一寸神社の外まで出てみなければなるまい。まさか神社の中に全ての謎が潜んでいる訳ではなかろう。
そういえば、寝室へと至る途中、僕はある一室で彼女の後姿を見た。足を崩して机の前に向き合っていたようだが、何をしていたのかまでは判らない。ただ手を頻りに動かして、熱心に机の前に座っていたから、僕と同じように日記でも書いていたのかも知れない。どちらにしろ、彼女に声をかける勇気は無かったので、僕は無言のままに母屋の奥へと歩き出した。今夜は夜空の綺麗な天気である。月明かりが酷く眩しい。天に手が届くかのようにも思われる。
好い心持ちである。そろそろ眠るとしよう。
三.或る巫女の日記
八月三日 晴れ
一昨日から妙な心持ちがする。私以外に誰も居ないはずの部屋の中で、何かが居る気配がする。妖怪だの幽霊だのといった類にはすっかり慣れてしまったはずだが、これにはどうにも慣れない。実害がないからか害意が感じられないからか、ともかくこの神社の母屋の中で、私に姿を見せる事なく何事かをしている者は、気配を感じさせるだけでこれといった目的を感じさせない。気の所為である事ほど好い事はなかろうが、私の勘が何かが居ると告げている為に、私は半ば確信染みた思いを抱きながら、奇妙な共同生活を送っている。
それにしても何がしたいのか、目的を全く知る事が出来ない。ある時は母屋を徘徊しているだけであったりするし、ある時は境内の中に気配を感じる。先刻などは背後の部屋の入口に誰かが立っている気さえした。到底気の所為で片付ける訳には行かず、最近はゆったりと眠る事も出来ない。早い所正体を暴いて追い出したいものだが、やはり姿が見えないのでどうする事も出来ずにいる。退魔の札で結界でも張ろうかと考えているが、元々妖怪にとっては近寄り難いはずのこの神社に長く居座っている為に、効果は期待していない。
ともかく考えても詮無き事かも知れない。今日の所は寝るとしよう。
四.記憶を失くした者の手記
八月五日 曇り
今日は件の巫女に客が見えたらしく、一人の少女が朝早くから居間に座っていた。その格好があまりに特異なもので、面食らった事を鮮明に記憶している。やたらと尖った三角帽子を被り、これもまた黒い装束に身を包み、箒が壁に立て掛けてあった。これが噂に聞く――と云っても何処で聞いたのだかは判らないが――魔女といった種族なのかも知れないとその時は思ったが、見るからに年端の行かぬ少女がそんな厳つい種族である訳がなかろうと、僕は対して気にもせず居間を通り過ぎた。
そして何時もの通り境内を徘徊したりしたのだが、可笑しな事に今日も気付けば神社の外に出ていなかった。昨日も同様である。神社の外に出ようと思っているのにも関わらず、何時の間にかその考え事態が忘却の彼方に置き遣られてしまって、気付けば母屋の中に居る。これは流石に妙だと思い、色々と試行錯誤を重ねてみたが、夜になっても結局神社の外に出る事は叶わなかった。まるで外に出ては行けないと、無意識の内に警戒しているようでもある。が、その自覚が毛頭ないから、殊更妙に思われる。幾ら考えても判らないので、僕はその内考えるのをやめてしまった。
先述した黒い少女は夜まで神社に居たらしい。先の試行錯誤の結果母屋の中を歩き回ったりしている内にこんな会話を聞いた。意味は好く判らなかったが、ともかく妙だったので記しておく事にする。
巫女「ねえ、何かおかしくない」
黒の少女「何がだ」
巫女「それは判らないけど、何か」
黒の少女「好く判らないが、別段面白い事はないぜ」
巫女「面白い事とは云ってないわ」
黒の少女「いや、面白い事はあるな。お前の言動だ」
僕の推測はこの会話を聞いた事によって間違いだと思い知らされた。巫女は流暢に喋るし、何だか気楽そうである。何か重大な問題を抱えた人間とは思われない。僕の言葉に耳を貸してくれないのは、他に理由があるようである。
黒の少女は口の悪い少女であった。巫女の話は真面目に聞いていなかったし、男のような口調で話すし、話の合間にはお茶請けを遠慮なく食っていた。余程親しい仲なのであろうが、それにしたって淑やかさに欠ける。口調を直した方が好かろうと思う。
しかしこの話で真に面白いのは、二人が僕の存在に気付かなかった事である。僕は部屋の入口の開け放たれた襖の間から堂々と二人の様子を窺っていたのだが、まるで気が付く素振りを見せない。これは妙だと不安になっている所だが、巫女の元に話を聞いて貰おうと試みる事は憚られた。今更何を云っているのだか、僕自身にも判らないが、何だか彼女に対して得体の知れない遠慮を感じてしまう。否、これは恐怖にも似ている。何だか話し掛けてはいけないような気がして、僕はこの神社に何時の間にか立っていた日以来、彼女と話をしようとは思わなくなっている。
――何故だか頭が酷く痛い。今日は眠るとしよう。影が背後から僕を飲み込もうと迫って来る心持ちがする。近来悪夢を見る理由も、僕が記憶を失くした原因にあるのだろうか。
五.或る魔法使いの研究日誌
八月八日 雨
雨天時にのみ地中から姿を現す茸の情報をにとりから提供して貰い、今日は妖怪の山へと探索に出掛けた。
結果
妖怪の山の中、生い茂る藪を掻き分けあらゆる所を探し歩いたが、それらしき物は発見出来ず。雨天時にのみ地中から姿を見せるという特異な性質を持つ茸だという話なので、知能を持った新たな植物かも知れない。引き続き調査を行う必要があるとみて、更なる情報収集を開始するつもりである。
ところで、妖怪の山から帰る途中、神社に寄った。霊夢が顔色を青くして廂から落ちる雨垂れを見て呆けていたが、何かあったのだろうか。そういえば先日妙な事を云っていたし、気に掛かる。近日中に再度神社へ訪れてみよう。夕飯を頂きに来たとでも云えば、何時もの調子に戻るかも知れない。今日の声をかけても相槌しか打たない霊夢には流石に異変を感じる。まさか妖怪の仕業という訳ではなかろうが、警戒するに越した事はあるまい。
八月九日 曇り
情報提供者のにとりの元へ行く。有益な情報が得られれば好いが……。
結果
見事に遊ばれてしまったようだ。前に云っていた茸など有りはしないと云う。偽りの情報に踊らされてずぶ濡れになりながら険しい山中を探索した私としては、許し難い。取り敢えず適当な罰を与えて帰って来たが、開発中の新薬の研究は滞りそうである。明日は魔法の森へ新種の茸を探しに行くつもりである。
再び神社を訪れてみたが、霊夢の様子は相変わらずだった。まるで何かに取り憑かれたかのように虚ろな表情をしている。近い内に紫あたりにでも診て貰った方が好いかも知れない。一応母屋の中を見て回ったが、不審な生物はおろか物ですら発見出来なかった。霊夢に限って有り得ない事だとは思うが、何らかの理由で妄想に囚われているのだろうか?
六.或る巫女の日記
八月十日 曇り?
視界が暗い。闇の中に始終佇んでいる心持ちがする。身体が重い。巨大な岩石に身体が括り付けられている心持ちがする。息苦しい。水の中に沈んで行く心持ちがする。一体何が起こっているのだろうか。考えられない。思考が途切れる。意識が遠退く。ただ意識を繋ぎ止める為だけにこれを書いている。何が起こっているのだろうか。判らない。やはり私の、私は間違っていなかった。何かがる。この家のかに。たしをころとしてのか。判らない。たすて。
七.記憶を失くした者の手記
(日付が書かれているようだが、字が乱雑過ぎて解読不能)
今朝は夢を見た。何時ものような悪夢ではなく、何だか暖かな光に抱かれて安楽の元に眠る夢である。最近は影に呑み込まれる不気味な夢ばかり見ていたから、今日ほど寝覚めの好い日は久し振りであった。しかし頭が痛い。どうにもならぬ痛みである。いっその事腕を引き裂いた方が楽になれるやも知れぬとまで思われるほどで、頭の中で鐘がごんごんとけたたましい音を鳴らしている。頭が割れそうだ。今朝はこんな事は無かったのに。
八月十日 曇り
昨日、あまりの痛みに耐えかねてこの神社の巫女に助けて貰おうと、彼女の部屋へと赴いた。その間中頭は際限なく痛んでいたが、やっとの事で彼女の部屋の中へ転がり込むと、嘘のように痛みが引いた。一体どんな仕掛けがあるのだか、僕には考えても判らぬ問題であったが、ともかく彼女の傍に居ると痛みが嘘のように引くのである。
巫女は何時かの日と同じように、机の前に座って熱心に何かを書いているようだった。私からは後ろ姿しか見えなかったが――彼女はやはり僕の存在には気付いていないようだった――今回は何だか前とは様子が違う。何だか息苦しそうにしている。そうしてその苦しさを紛らす為に、必死に何かを書き殴っているようにも思われる。その鬼気迫る姿が空恐ろしくなって、僕は情けない事に声を掛ける事も出来なかった。
しかし、頭痛に対する恐れの所為で逃げる事も出来ず、彼女の後ろで座っているばかりであった。それから糸の切れた人形の如く巫女が眠りに就くまで、僕はずっと同じ場所に留まっていた。それからの事はよく覚えていない。死んでしまったかのような巫女の姿が恐ろしくて、必死にこの部屋まで逃げ帰って来たのかも知れぬ。不思議と頭痛はなくなって、体調不良は完全に収まった。とにかく今日は何か考える事が恐ろしい。早い所眠りに就いてしまおうと思う。
八..或る巫女の日記
八月じゅいちち れ
助けて。
九.或る魔法使いの研究日誌
八月十一日 晴れ
不味い、紫の元へ向かわなければ。悔しいが、博麗の巫女の事を誰より知っているのはあいつ以外にいるまい。尤も今回の事件が「博麗の巫女」を原因としているのなら、だが。
八月十二日 雨
不味い。
十.賢者の手記
八月十一日 晴れ
幻想郷の歴史が大きく変わる事件になるかも知れない。現状を此処に記す。
慌てた様子で魔理沙が訪れて来た。何事かと訳を聞いてみれば、霊夢が失踪したらしい。生活の痕跡はそのままに、母屋から彼女の姿が無かったのだと云う。すぐに行ってみたが、神社はもぬけの空で、誰の気配もしなかった。これは私にも判らない。それを聞いて魔理沙は血相を変えて飛び出して行ったが、恐らく彼女も原因の究明に至る事はないだろう。藍と共に幻想郷の至る所を探したが、霊夢の痕跡さえ見付ける事は叶わなかった。
それどころか、霊夢が存在していたという証拠がない。あるのは記憶の中にある映像だけで、それ以外に霊夢が存在していたと示す物が何一つ見付からない。幻想郷の中で幻想となったのか? どちらにしろ現状を放っておく事は出来まい。このままでは人妖の均衡が崩れてしまう。大事になる前に、霊夢を見付けなければ大変な犠牲を被る事になる。まずは幻想郷に起こったと思われる欠陥について調査を開始しなければなるまい。
八月十二日 晴れ
博麗大結界に歪はなし。冥界にも変化はなし。結局これといった成果は得られず仕舞いとなった。魔理沙は方々で動き回っているらしい。彼女に何か成果が得られれば好いが。
十一.記憶を失くした者の手記
八月十二日 晴れ
漸く頭の痛みが治まった。あれは何だったのか、未だに判らないが、ともかく苦痛から解放された身体は酷く軽い。まるであの痛みが嘘であったかのように頭の中が清々しい。今なら何でも出来そうな心持ちがする。空でさえ飛べるような心持ちがする。僕が僕でないような気分で、酷く困惑しているが、今になって漸く興奮が収まった。
すると気が付いた事がある。母屋の中から、否、神社の中から巫女の姿が消えている。生活に必要と思われる道具はそのままに、彼女だけが姿を消してしまった。一時的にこの神社に宿泊しているだけだったのだろうか、ともかく今はこの広い母屋の中に僕一人以外には誰も居ない。
すると酷く腹が減って来たので、僕は台所に行って簡単な料理を作った。失礼だと思ったが、何故だかすぐに抵抗がなくなり、料理をしていると、まるでそれが本来あるべき姿のように思われて来る。そうこうしている内に夕飯に有り付いていると、これが此処に来て始めて食った飯なのだと気が付いた。不思議な事に、僕は今日まで何一つ口にする事なく生きていたらしいのだ。その上風呂にさえ入っていなかったし、今になって思えば眠りにも就いていなかった。
僕はこの日記を書き終える度に、茫然としながら夜の風景を見詰めていた。だとすれば、夢だと思っていたあの映像は、現実に起こっていた事なのかも知れない。それが何を示すのかは毛頭判らないが、何だか考えるのも面倒になって来た。今度は酷く眠い。今日こそは、本当の眠りに就くとしよう。
(筆跡が突如変わり、新しい文章が書かれている)
そういう事だったのか、と理解した。
元より僕、否、私は「そういう存在」だったのだ。
大いなる意思の元に生み出された存在意義。
明日には全てを忘れ、私は在るべき存在へと変わるのだ。
十二.或る魔法使いの研究日誌
八月十二日 晴れ
パチュリーに協力を仰ぐも成果は無し。依然として原因は不明。霊夢の行方は判らない。一体何が起きたのか、紫でさえ判らないと云っている。心当たりのある所は勿論、この幻想郷の全てを回って探したつもりだが、霊夢はおろか、霊夢の行方を示す証拠の塵すら見付からない。
外の世界に行ってしまったのかとも思ったが、そうなると余計に性質が悪い。術式で極限まで魔力を高めた魔法で、一時的に博麗大結界に穴を空ける事は可能だが、そんな事をすればどんな事が起こるか全く判らない上に、下手をすればこの幻想郷を破壊してしまう恐れもあると紫に忠告されて、何とか踏み止まった。紫は外の世界を一寸見て来ると云って出て行ったが、数日は戻って来ないらしい。結果を待つこの時間が何より惜しい。
結局私に出来る事は何一つないのかも知れない。空が暗い。私は霊夢の為に何をしてやれるのだろうか。
八月十三日 晴れ
(白紙)
八月十四日 曇り
(白紙)
八月十五日 曇り
(白紙)
八月十六日 雨
(白紙)
八月十七日 雨
(白紙)
十三.賢者の手記
八月十二日 雨
外の世界では連日雨が続いている。可能性が無いとは云い切れないので、外の世界へ調査に出向いたが、あらゆる場所を見ても霊夢の姿は見当たらない。博麗大結界に干渉する事なく外の世界に行けるとは、元々考え難かったのでこれ以上の諦念感もあるまいが、やはり失望してしまう。定期的に藍と連絡は取っているが、幻想郷でも変化はないらしい。博麗の巫女の失踪に妖怪が活性化する訳でもなく、何時もの日常が繰り返されている。
これは幸いな事だが、それも時間の問題だろう。早く問題を解決しなければ、取り返しの付かない事態になってしまう。しかし、現実問題として、外の世界を全て探し終えるのは結構な時間が必要だった。結果の良し悪しはあれど、幻想郷に再び戻れるのは夏も過ぎ去る頃だろう。尤も、それは霊夢を見付けられなかったらの場合だが。
八月十三日 雨
成果なし。
八月十四日 曇り
成果なし。
八月十五日 雨
成果なし。
八月十六日 雨
成果なし。
八月十七日 雨
成果なし。
十四.或る巫女の日記
八月十八日 晴れ
今朝、酷く顔色の悪い女性が私の元を訪れた。物凄い形相で駆け寄り、私の名前を何度も呼んでいたが、彼女を知らない私からすれば訳が判らない。挙句には泣き出す始末で、実に弱った。彼女が落ち着いた頃に話は聞いたが、何を云っているのかまるで判らず、私は困惑するばかりで一向に要領を得なかった。
何でも「何処に行ってたんだ」「何をしていたんだ」というような事を口々に喚いていたが、私は昨日も一昨日も変わらず境内の掃除をしたり、昼寝をしたりしていたので、やはり混乱するばかりだった。最終的に彼女は「お前は誰だ」と恐ろしいものでも見るような顔をして問い質して来るので、仕方なしに名を名乗ったら「違う」と叫ばれた。何度も違うと繰り返すものだから、私は好い加減嫌になって母屋に逃げ帰ったが、彼女はやはり境内で叫び続けていた。
これは不運に出くわしたと思って、母屋の中から彼女の様子を窺っていたが、その内彼女は叫び疲れたとみえて、箒に跨ると何処かへ飛び去ってしまった。あの様子からして、また此処に来ないとも云えないので、ほとほと困っている。取り敢えず今日の所はもう来なかったが、明日来るかも知れないと思うと気が滅入る。願わくば明日も何時もの日常を送りたいものだが、あの異常な様子はただ事じゃない様子だったし、気分はひたすらに憂鬱だ。
今日はもう眠ろう。
十五.或る魔法使いの研究日誌
八月十八日 晴れ
どういう事だか、全く判らない。まるで私の頭が可笑しくなっているかのようだ。紫は未だ帰って来ない。私はこの狂った幻想郷で、ひたすら孤独に耐えている。何故こんな事になっている? あれは確かに霊夢であるはずだった。しかし、あれは霊夢じゃない。全く違う人間だ。しかしそれを知る者が、私以外に居ない。
紅魔館の面々には鼻で笑われた。私達が博麗の巫女と接触する訳がないと、誰もが云う。冥界も永遠亭も人里も妖怪の山にいる妖怪達も、みんなが口を揃えて博麗の巫女と会った事はないと云う。霊夢と関わりのあった奴は全員その事を忘れている。いや、最初から知らないのかも知れない。しかしそんなはずがない。色んな奴を交えて宴会をした事も、私は鮮明に覚えている。この記憶が偽りのものだとは思い難い。しかしそれを確信する事が私にはできない。
私一人がおかしくなってしまったのだろうか? 記憶が著しく欠如し、一部が改変されているのか? 色々な奴に会って尋ねてみたが、あれを霊夢じゃないと云い張る奴は一人として居なかった。私だけが狂っている。正常であるべき世界の中で、私だけが歪な歯車となっている。頭がおかしくなりそうだ。否、もしかしたら既に私はおかしくなっているのかも知れない。私だけが、おかしい。本当にそうなのか? しかし、そう思わざるを得ない現実が、目の前にある。……
十六.或る神社での会話
九月五日 晴れ
紅白の巫女「何だか最近は毎日来ますね」
黒の魔女「此処で飲む茶は美味いからな」
紅白の巫女「最近、茶葉の減りが早いんですよ」
黒の魔女「今度買って来てやるぜ。約束はしないが」
紅白の巫女「当てになりませんね」
黒の魔女「元来そんなものだ、約束なんて」
紅白の巫女「まあ、別に好いんですけど」
黒の魔女「そうと決まったら、茶のお代わりを頼むぜ。――と」
紅白の巫女「……全く。――どうしました?」
黒の魔女「久し振りに見る奴が来たぜ」
紅白の巫女「私は会った事ありませんけど」
黒の魔女「まあ関わらない方が好いぜ、胡散臭い奴だから」
賢者「御機嫌よう、問題は解決したのかしら?」
黒の魔女「久し振りだな、何処に行ってたんだ? あと、問題なんて此処の所起きてないぜ」
賢者「え?」
黒の魔女「何だよ、妙な顔して。私の研究は順調だ」
賢者「何を云っているのよ。霊夢が戻って来たんでしょう」
黒の魔女「お前こそ何を云ってるんだ。霊夢は何時も此処でぐうたらしてるぜ」
紅白の巫女「失礼ですね。そんなにぐうたらしてません。――私の事を知っているんですか?」
黒の魔女「云っただろ、胡散臭い奴だって。何でも知っている振りをするんだよ、こいつは」
紅白の巫女「失礼ですよ。初めまして、博麗霊夢と申します」
賢者「貴方達……」
黒の魔女「変な奴だな。暫く見なかったと思えば、とうとう変になったか?」
賢者「何か、妙な事になっているみたいね」
黒の魔女「何も妙じゃないぜ。何時も通りの光景だ」
紅白の巫女「何か気になる事でもあるんですか?」
賢者「いいえ、もう判ったわ。そして、すぐに忘れる」
黒の魔女「本当に今日は変だな。まあ、今に始まった事でもないか」
賢者「そうよ、これは何時もの事だもの。……きっとね」
十七.賢者の手記
九月六日 雨
最近考える事がある。私は以前、幻想郷の中で幻想となる事が果たして有り得る事なのだろうかと考えた事がある。今までの事例から考えても、そんな例は見付からないので、到底有り得ない事だとは思うが、果たして本当にそうなのだろうか。
幻想郷は幻想が還る郷であり、幻想の逃げ場所である。異端となったものが此処に来て、幻想郷の一部として取り込まれる。そうしてそれが幻想郷を形作っている。
"異端"
私はこの言葉と、今回の事件とを深く関連付けて考察した。本来あるべきでないはずのもの、即ち「異端」。「霊夢」はまさしくそれに当て嵌まる人物と云えた。歴史を振り返ってみても、妖怪に慣れ親しみ、共に宴会を行う者などは例外を除いて居なかった。例えば人里の守護者は共存を果たしているが、それでも彼女は古くから里を守って来た、云わば人里に居なくてはならない存在だ。しかし霊夢はどうだったろうか? 果たして今までの霊夢は、本当に在るべき「霊夢」の、「博麗の巫女」であったのだろうか?
歴史から考えれば本来ある事のない図式、妖怪と人間が共に笑い合う平和な世界。しかしそれは逆に、幻想郷を危機に導くものであったのかも知れない。妖怪は人間を喰らう。そして人間を喰らった妖怪を博麗の巫女が退治する。かつてこれは殺しの連鎖となっていた。しかし、それが幻想郷の勢力の均衡を保つ一つの手段として確立されていた。
妖怪は人を喰らい、力を付けようとする。博麗の巫女はその妖怪を退治する。本来人間と妖怪はそういう関係だった。しかし博麗の巫女が霊夢の代となってから、幻想郷は少しずつ変化した。
"殺さないから殺さない"
それが今の幻想郷の在り方である。かつての常識は淘汰されつつあり、新たな常識が根ざし始めているのが、今の幻想郷である。私はこの変化こそが、今回の事件を引き起こす引き鉄となったのだと解釈している。尤もこれは私の勝手な妄想に過ぎず、確信はない。ただ可能性の一つとして此処に記しているだけである。
先述した"殺さないから殺さない"という幻想郷の在り方は、幻想郷を肥大化させる要因であると私は考えた。元々妖怪の力は強大で、人間が敵うものではない。が、その常識を超えて妖怪を殺すのが博麗の巫女である。だからこそ妖怪と人間の勢力は漸く均衡を保っていた。しかし、昔からある関係が崩れた今、人間と妖怪は共に増え始め、結果幻想郷を圧迫する原因となった。元々博麗大結界という籠で囲った世界が幻想郷である。増え過ぎた力を収める為の容量には当然の如く限界が来る。今回の事件は、この事態に対処するべく「幻想郷」が引き起こしたものではなかろうか。
あるべき関係を取り戻し、再び"殺したから殺す"という一見すれば馬鹿馬鹿しい常識のある世界に戻す為に、幻想郷が自らを守る為に、或いは幻想郷に生きる生物を守る為に働いた、「幻想郷」という一体の巨大な生き物の防衛本能だったのではなかろうか。
そこには矛盾がない。幻想郷に取り込まれた――云わば体内に存在する私達の情報は書き換えられ、次第に"殺さないから殺さない"の世界は失われて行く。今ある世界が当然のように映り、かつての世界の名残は例え物質であろうとも消去されて行く。今や私達の理解を超えるほどに成長した、幻想郷という巨大な生物の中に組み込まれた機能がそういう風に働くのならば、それは何も有り得ない事ではない。
そもそも、幻想郷を生物として捉えれば、増え過ぎた食物を胃液で溶かすのと同様の事である。そして「霊夢」「魔理沙」――それだけでなく幻想郷に住まう全ての生物、物質は新たな存在に生まれ変わる。幻想郷が自らを維持するべく産み出した新たな器官とでも云うべきか、ともかく次第に私達という存在は私達ではない存在へと移り変わって行くのである。
結果、私達という栄養は分解され、再びあるべき姿に再構築される。正しい幻想郷の血肉となって、幻想郷を形作る要素の一つとなるのである。私は昨日博麗神社の状況を目にした時に、その考えが正しいと思った。あの時私が殺されなかったのは、私の情報が書き換えられていなかったからであろう。私は幻想郷の体外に居た事によって一時的に情報の改変を回避した。けれども、この幻想郷に居る限り、知らぬ間に私はこの矛盾を忘れるのだ。今、この世界で、私はただ一人の矛盾である。そうして排除されつつある脆弱な生き物なのである。
しかし俄かに信じ難いこの話を、真に信頼する事は出来なかった。否、私自身この解釈を信じたくなかったのかも知れない。が、先刻から酷く頭が痛む。信じざるを得ない現実が目の前に現れようとしている。尤も、私には現れた事すら気付けないのだろう。幻想郷は残酷な性質を発現させながら存在し続けているのだ。
――いずれこの手記も消去され、私の記憶も消去されるのならば、考えても意味のない事だが、この悲しい機能を憂えずにはいられない。例え一瞬先には全てを忘れているとしても、こうして平和な幻想郷があったという事実を、忘れたくない。これは力なき大妖、賢者と皮肉られるべき私の最後の言葉である。
願わくば、幻想郷が再び平和になるように祈っている。
(以降、白紙が続く……)
十八.或る神社での会話
九月七日 晴れ
人里の男「巫女様! 巫女様は居られますか!」
紅白の巫女「どうしました、血相を変えて」
人里の男「人里の子供が妖怪に喰われました。どうか退治をお願いします」
紅白の巫女「判りました。場所は何処です」
人里の男「人里を一寸離れた場所にある道端です。一緒に居た子らは、妙な歌声を聴いたと云っています」
紅白の巫女「それは、きっと夜雀ですね。判りました。すぐに退治に向かいます」
人里の男「お願いします。喰われたのは私の娘です。どうか、奴を殺して下さい」
紅白の巫女「貴方の恨み、確かに承りました。貴方に代わって私がその恨みを晴らしましょう」
人里の男「……頼るばかりで、何も出来ない僕をお許し下さい」
紅白の巫女「いえ、気にしないで下さい。元より私はそういう存在なのですから」
――了
それはどんな物にも生命と呼ぶべきものがあり、だからこそどんな物にも慈しみを持って接しろ、という古人の生み出した教えであるのかも知れません。そうしてそれを忘れ、蔑ろにしてしまった時、神と称された生命は、人々に牙を向けるのかも知れません。故に八百万の神。古人は神を畏れておりました。
一.記憶を失くした者の手記
何故僕が此処に立っているのか、それを考えても終わりのない思考の渦に呑み込まれるばかりだった。空に浮かび、ぎらりと輝く太陽と、生温かな夏の風、煩わしい蝉の声。一目で夏だと判るはずなのに、僕は何故今が夏なのかどうか判らない。僕を取り囲む環境は何時から夏へと変化したのだろうか? そんな事を考えながら、僕はこうして文を書いている。一体僕の身に何が起こって、何も判らぬ状態となってしまったのか、まずはそれを判然とさせなければなるまい。
と云っても、やはり僕には何も判らない。唯一救いだったのは、何時の間にか僕が立ち尽くしていたという場所が、見た事のない神社の境内で、そこに住まう巫女らしき女性が、非常に情け深い人であった事だ。
両親の顔どころか自分の名前も自分と関わった人達の事も何も判らない僕が、茫然と立ち尽くしている時に、彼女は箒を手にしてやって来た。そこに会話は無かった。僕は勿論彼女の事を知り得なかったし、彼女もまた同様であったに違いない。しかし、物珍しそうな顔をするでもなく、また怪訝な眼差しを向けるでもなく、ただ僕を見詰める彼女に云い知れない何かを感じて、僕は興味が無いという風に立ち去る彼女の後を、ふらふらと付いて歩いた。
彼女は一寸振り返って僕の事を見たが、それでもやはり関心は無いようで、すぐに前へ向き直ると歩き出してしまった。僕は相変わらず病人のように覚束ない足取りで、何かに取り憑かれた者の如くその後を付いて行く。やがて僕達が玄関に差し掛かると、再び彼女は振り返って僕を見た。けれども何も云わない。僕もまた何も云わなかった。まるで僕達の間では言葉というものが存在していないかの如く、無言のまま向き合う時間が、少しの間流れていた。
やがて彼女はふいと前を向くと、さっさと家の中へと上がってしまった。そうして僕もその後を追い掛ける。何故だかそうしなければならないような気がして、失礼だの何だのといった事は、もはや頭の片隅にさえ有りはしなかった。が、そんな不審者と判じて間違いないはずの男が家の中にまで侵入して来ても、彼女は何も云わない。何だか妙な人だなと思い、僕は初めて彼女に対して声を掛けた。確か「あの」と口にした心持ちがする。
しかし、予想通りと云うべきか、彼女は如何なる反応も僕へ寄越さなかった。時折どうにかして僕の話を聞いて貰おうと、必死に喋る僕へ一瞥をくれる事もあったが、決して口を聞いてくれるという事はなく、僕はまあ何も云わないからには僕の行動は許されているのだろう程度に考えて、もしかしたら口の聞けない障害を持っている人なのかも知れないと、その人の事を判じると、誰も使っていない様子の寝室に居座ったのだった。
そうして今、こうして自らの現状を書いている。月の光だけが頼りになる心細い夜の中、僕は見知らぬ神社で一夜を過ごそうとしている。一応の許可は取ったつもりだが、この神社の巫女が会釈さえしてくれないので、確たる根拠はない。ともかく、明日からは自分が何故記憶を失くしているのか、その原因を探る為に動かねばならないだろう。今日の所は何も考えぬまま、深い眠りに就いてしまおうと思う。
二.記憶を失くした者の手記
八月二日 晴れ
朝になって目覚めると、障子の隙間より差し込む陽射しが酷く眩しく思われた。何だか久し振りに太陽の光を浴びた心持ちがする。朝という時間帯が僕にとって特別な時間帯となる理由は見当も付かないが、ともかく不思議な気分で僕は瞼を開いた。障子を開き、外を見渡すと、そこには未だ白霧の残る風景が広がり、空には朝焼けの光が雲を橙色に染め上げていた。しかし二度寝に興じようとは思えず、僕はふらふらと立ち上がると、母屋の中を徘徊し始めた。
誰も使っていない部屋が数多くある広い家屋の中は、酷く殺風景で、生活に最低限必要な物くらいしか存在していない。古びた箪笥、埃を被る鏡台、そんな物を時折見掛ける事がある。しかし玄関に近付いて行くに連れて、廊下の両側に見る事の出来る部屋という部屋には、次第に生活感が現れ始めた。どうやらこの神社の主である巫女は、必要な部屋以外は滅多に使わないと見える。母屋の一番奥にある部屋を使っている僕には、実に都合の好い事だった。
ところで、僕はこの日に現在の日付を知った。やはり何時八月二日になったのだかまるで判らないのだが、現状を知るには重要な手掛かりになるだろうと思い、今日からは日付を記す事にする。僕が如何にしてこの八月二日に辿り着いたのか、それを解明する事によって不可思議な今の僕の状態も明らかになる事であろう。
僕は取り敢えず外に出ようと思い立った。この神社が何処にあるのか、そして僕が住んでいた所が何処にあるのか、そういう基本的な情報すら持たぬ僕には、外出以外に先述した謎を解明する手段がない。その上この神社の巫女は話を聞いてくれない――これはもしかしたら何か事情が有るのかも知れないが――ので、一つ所に留まっているばかりでは事態は停滞し続けるばかりだと思ったからである。
そうして僕は外に出た。寒々しい空気が感じられるかのような、朝焼けの下に立ってみると何だか不思議な心持ちである。これは目覚めた時と同様の感想だと僕は推測した。そして、境内を一通り見渡した後母屋の裏手へ回ったり、高台に位置するこの神社の境内から、眼下の風景を眺望してみたりした。一体何時頃までそんな事を繰り返していたのだか判らないが、ともかく僕はそんな不毛な事を飽きる事もせずに続けていた。
今思えば実に可笑しいが、僕は何故だか神社の外には出なかった。気付けば夕暮れの光が辺りを赤く染め上げ、遠くに聳える稜線に太陽が沈み込んで行く所だったのだから、全く可笑しい。明日は一寸神社の外まで出てみなければなるまい。まさか神社の中に全ての謎が潜んでいる訳ではなかろう。
そういえば、寝室へと至る途中、僕はある一室で彼女の後姿を見た。足を崩して机の前に向き合っていたようだが、何をしていたのかまでは判らない。ただ手を頻りに動かして、熱心に机の前に座っていたから、僕と同じように日記でも書いていたのかも知れない。どちらにしろ、彼女に声をかける勇気は無かったので、僕は無言のままに母屋の奥へと歩き出した。今夜は夜空の綺麗な天気である。月明かりが酷く眩しい。天に手が届くかのようにも思われる。
好い心持ちである。そろそろ眠るとしよう。
三.或る巫女の日記
八月三日 晴れ
一昨日から妙な心持ちがする。私以外に誰も居ないはずの部屋の中で、何かが居る気配がする。妖怪だの幽霊だのといった類にはすっかり慣れてしまったはずだが、これにはどうにも慣れない。実害がないからか害意が感じられないからか、ともかくこの神社の母屋の中で、私に姿を見せる事なく何事かをしている者は、気配を感じさせるだけでこれといった目的を感じさせない。気の所為である事ほど好い事はなかろうが、私の勘が何かが居ると告げている為に、私は半ば確信染みた思いを抱きながら、奇妙な共同生活を送っている。
それにしても何がしたいのか、目的を全く知る事が出来ない。ある時は母屋を徘徊しているだけであったりするし、ある時は境内の中に気配を感じる。先刻などは背後の部屋の入口に誰かが立っている気さえした。到底気の所為で片付ける訳には行かず、最近はゆったりと眠る事も出来ない。早い所正体を暴いて追い出したいものだが、やはり姿が見えないのでどうする事も出来ずにいる。退魔の札で結界でも張ろうかと考えているが、元々妖怪にとっては近寄り難いはずのこの神社に長く居座っている為に、効果は期待していない。
ともかく考えても詮無き事かも知れない。今日の所は寝るとしよう。
四.記憶を失くした者の手記
八月五日 曇り
今日は件の巫女に客が見えたらしく、一人の少女が朝早くから居間に座っていた。その格好があまりに特異なもので、面食らった事を鮮明に記憶している。やたらと尖った三角帽子を被り、これもまた黒い装束に身を包み、箒が壁に立て掛けてあった。これが噂に聞く――と云っても何処で聞いたのだかは判らないが――魔女といった種族なのかも知れないとその時は思ったが、見るからに年端の行かぬ少女がそんな厳つい種族である訳がなかろうと、僕は対して気にもせず居間を通り過ぎた。
そして何時もの通り境内を徘徊したりしたのだが、可笑しな事に今日も気付けば神社の外に出ていなかった。昨日も同様である。神社の外に出ようと思っているのにも関わらず、何時の間にかその考え事態が忘却の彼方に置き遣られてしまって、気付けば母屋の中に居る。これは流石に妙だと思い、色々と試行錯誤を重ねてみたが、夜になっても結局神社の外に出る事は叶わなかった。まるで外に出ては行けないと、無意識の内に警戒しているようでもある。が、その自覚が毛頭ないから、殊更妙に思われる。幾ら考えても判らないので、僕はその内考えるのをやめてしまった。
先述した黒い少女は夜まで神社に居たらしい。先の試行錯誤の結果母屋の中を歩き回ったりしている内にこんな会話を聞いた。意味は好く判らなかったが、ともかく妙だったので記しておく事にする。
巫女「ねえ、何かおかしくない」
黒の少女「何がだ」
巫女「それは判らないけど、何か」
黒の少女「好く判らないが、別段面白い事はないぜ」
巫女「面白い事とは云ってないわ」
黒の少女「いや、面白い事はあるな。お前の言動だ」
僕の推測はこの会話を聞いた事によって間違いだと思い知らされた。巫女は流暢に喋るし、何だか気楽そうである。何か重大な問題を抱えた人間とは思われない。僕の言葉に耳を貸してくれないのは、他に理由があるようである。
黒の少女は口の悪い少女であった。巫女の話は真面目に聞いていなかったし、男のような口調で話すし、話の合間にはお茶請けを遠慮なく食っていた。余程親しい仲なのであろうが、それにしたって淑やかさに欠ける。口調を直した方が好かろうと思う。
しかしこの話で真に面白いのは、二人が僕の存在に気付かなかった事である。僕は部屋の入口の開け放たれた襖の間から堂々と二人の様子を窺っていたのだが、まるで気が付く素振りを見せない。これは妙だと不安になっている所だが、巫女の元に話を聞いて貰おうと試みる事は憚られた。今更何を云っているのだか、僕自身にも判らないが、何だか彼女に対して得体の知れない遠慮を感じてしまう。否、これは恐怖にも似ている。何だか話し掛けてはいけないような気がして、僕はこの神社に何時の間にか立っていた日以来、彼女と話をしようとは思わなくなっている。
――何故だか頭が酷く痛い。今日は眠るとしよう。影が背後から僕を飲み込もうと迫って来る心持ちがする。近来悪夢を見る理由も、僕が記憶を失くした原因にあるのだろうか。
五.或る魔法使いの研究日誌
八月八日 雨
雨天時にのみ地中から姿を現す茸の情報をにとりから提供して貰い、今日は妖怪の山へと探索に出掛けた。
結果
妖怪の山の中、生い茂る藪を掻き分けあらゆる所を探し歩いたが、それらしき物は発見出来ず。雨天時にのみ地中から姿を見せるという特異な性質を持つ茸だという話なので、知能を持った新たな植物かも知れない。引き続き調査を行う必要があるとみて、更なる情報収集を開始するつもりである。
ところで、妖怪の山から帰る途中、神社に寄った。霊夢が顔色を青くして廂から落ちる雨垂れを見て呆けていたが、何かあったのだろうか。そういえば先日妙な事を云っていたし、気に掛かる。近日中に再度神社へ訪れてみよう。夕飯を頂きに来たとでも云えば、何時もの調子に戻るかも知れない。今日の声をかけても相槌しか打たない霊夢には流石に異変を感じる。まさか妖怪の仕業という訳ではなかろうが、警戒するに越した事はあるまい。
八月九日 曇り
情報提供者のにとりの元へ行く。有益な情報が得られれば好いが……。
結果
見事に遊ばれてしまったようだ。前に云っていた茸など有りはしないと云う。偽りの情報に踊らされてずぶ濡れになりながら険しい山中を探索した私としては、許し難い。取り敢えず適当な罰を与えて帰って来たが、開発中の新薬の研究は滞りそうである。明日は魔法の森へ新種の茸を探しに行くつもりである。
再び神社を訪れてみたが、霊夢の様子は相変わらずだった。まるで何かに取り憑かれたかのように虚ろな表情をしている。近い内に紫あたりにでも診て貰った方が好いかも知れない。一応母屋の中を見て回ったが、不審な生物はおろか物ですら発見出来なかった。霊夢に限って有り得ない事だとは思うが、何らかの理由で妄想に囚われているのだろうか?
六.或る巫女の日記
八月十日 曇り?
視界が暗い。闇の中に始終佇んでいる心持ちがする。身体が重い。巨大な岩石に身体が括り付けられている心持ちがする。息苦しい。水の中に沈んで行く心持ちがする。一体何が起こっているのだろうか。考えられない。思考が途切れる。意識が遠退く。ただ意識を繋ぎ止める為だけにこれを書いている。何が起こっているのだろうか。判らない。やはり私の、私は間違っていなかった。何かがる。この家のかに。たしをころとしてのか。判らない。たすて。
七.記憶を失くした者の手記
(日付が書かれているようだが、字が乱雑過ぎて解読不能)
今朝は夢を見た。何時ものような悪夢ではなく、何だか暖かな光に抱かれて安楽の元に眠る夢である。最近は影に呑み込まれる不気味な夢ばかり見ていたから、今日ほど寝覚めの好い日は久し振りであった。しかし頭が痛い。どうにもならぬ痛みである。いっその事腕を引き裂いた方が楽になれるやも知れぬとまで思われるほどで、頭の中で鐘がごんごんとけたたましい音を鳴らしている。頭が割れそうだ。今朝はこんな事は無かったのに。
八月十日 曇り
昨日、あまりの痛みに耐えかねてこの神社の巫女に助けて貰おうと、彼女の部屋へと赴いた。その間中頭は際限なく痛んでいたが、やっとの事で彼女の部屋の中へ転がり込むと、嘘のように痛みが引いた。一体どんな仕掛けがあるのだか、僕には考えても判らぬ問題であったが、ともかく彼女の傍に居ると痛みが嘘のように引くのである。
巫女は何時かの日と同じように、机の前に座って熱心に何かを書いているようだった。私からは後ろ姿しか見えなかったが――彼女はやはり僕の存在には気付いていないようだった――今回は何だか前とは様子が違う。何だか息苦しそうにしている。そうしてその苦しさを紛らす為に、必死に何かを書き殴っているようにも思われる。その鬼気迫る姿が空恐ろしくなって、僕は情けない事に声を掛ける事も出来なかった。
しかし、頭痛に対する恐れの所為で逃げる事も出来ず、彼女の後ろで座っているばかりであった。それから糸の切れた人形の如く巫女が眠りに就くまで、僕はずっと同じ場所に留まっていた。それからの事はよく覚えていない。死んでしまったかのような巫女の姿が恐ろしくて、必死にこの部屋まで逃げ帰って来たのかも知れぬ。不思議と頭痛はなくなって、体調不良は完全に収まった。とにかく今日は何か考える事が恐ろしい。早い所眠りに就いてしまおうと思う。
八..或る巫女の日記
八月じゅいちち れ
助けて。
九.或る魔法使いの研究日誌
八月十一日 晴れ
不味い、紫の元へ向かわなければ。悔しいが、博麗の巫女の事を誰より知っているのはあいつ以外にいるまい。尤も今回の事件が「博麗の巫女」を原因としているのなら、だが。
八月十二日 雨
不味い。
十.賢者の手記
八月十一日 晴れ
幻想郷の歴史が大きく変わる事件になるかも知れない。現状を此処に記す。
慌てた様子で魔理沙が訪れて来た。何事かと訳を聞いてみれば、霊夢が失踪したらしい。生活の痕跡はそのままに、母屋から彼女の姿が無かったのだと云う。すぐに行ってみたが、神社はもぬけの空で、誰の気配もしなかった。これは私にも判らない。それを聞いて魔理沙は血相を変えて飛び出して行ったが、恐らく彼女も原因の究明に至る事はないだろう。藍と共に幻想郷の至る所を探したが、霊夢の痕跡さえ見付ける事は叶わなかった。
それどころか、霊夢が存在していたという証拠がない。あるのは記憶の中にある映像だけで、それ以外に霊夢が存在していたと示す物が何一つ見付からない。幻想郷の中で幻想となったのか? どちらにしろ現状を放っておく事は出来まい。このままでは人妖の均衡が崩れてしまう。大事になる前に、霊夢を見付けなければ大変な犠牲を被る事になる。まずは幻想郷に起こったと思われる欠陥について調査を開始しなければなるまい。
八月十二日 晴れ
博麗大結界に歪はなし。冥界にも変化はなし。結局これといった成果は得られず仕舞いとなった。魔理沙は方々で動き回っているらしい。彼女に何か成果が得られれば好いが。
十一.記憶を失くした者の手記
八月十二日 晴れ
漸く頭の痛みが治まった。あれは何だったのか、未だに判らないが、ともかく苦痛から解放された身体は酷く軽い。まるであの痛みが嘘であったかのように頭の中が清々しい。今なら何でも出来そうな心持ちがする。空でさえ飛べるような心持ちがする。僕が僕でないような気分で、酷く困惑しているが、今になって漸く興奮が収まった。
すると気が付いた事がある。母屋の中から、否、神社の中から巫女の姿が消えている。生活に必要と思われる道具はそのままに、彼女だけが姿を消してしまった。一時的にこの神社に宿泊しているだけだったのだろうか、ともかく今はこの広い母屋の中に僕一人以外には誰も居ない。
すると酷く腹が減って来たので、僕は台所に行って簡単な料理を作った。失礼だと思ったが、何故だかすぐに抵抗がなくなり、料理をしていると、まるでそれが本来あるべき姿のように思われて来る。そうこうしている内に夕飯に有り付いていると、これが此処に来て始めて食った飯なのだと気が付いた。不思議な事に、僕は今日まで何一つ口にする事なく生きていたらしいのだ。その上風呂にさえ入っていなかったし、今になって思えば眠りにも就いていなかった。
僕はこの日記を書き終える度に、茫然としながら夜の風景を見詰めていた。だとすれば、夢だと思っていたあの映像は、現実に起こっていた事なのかも知れない。それが何を示すのかは毛頭判らないが、何だか考えるのも面倒になって来た。今度は酷く眠い。今日こそは、本当の眠りに就くとしよう。
(筆跡が突如変わり、新しい文章が書かれている)
そういう事だったのか、と理解した。
元より僕、否、私は「そういう存在」だったのだ。
大いなる意思の元に生み出された存在意義。
明日には全てを忘れ、私は在るべき存在へと変わるのだ。
十二.或る魔法使いの研究日誌
八月十二日 晴れ
パチュリーに協力を仰ぐも成果は無し。依然として原因は不明。霊夢の行方は判らない。一体何が起きたのか、紫でさえ判らないと云っている。心当たりのある所は勿論、この幻想郷の全てを回って探したつもりだが、霊夢はおろか、霊夢の行方を示す証拠の塵すら見付からない。
外の世界に行ってしまったのかとも思ったが、そうなると余計に性質が悪い。術式で極限まで魔力を高めた魔法で、一時的に博麗大結界に穴を空ける事は可能だが、そんな事をすればどんな事が起こるか全く判らない上に、下手をすればこの幻想郷を破壊してしまう恐れもあると紫に忠告されて、何とか踏み止まった。紫は外の世界を一寸見て来ると云って出て行ったが、数日は戻って来ないらしい。結果を待つこの時間が何より惜しい。
結局私に出来る事は何一つないのかも知れない。空が暗い。私は霊夢の為に何をしてやれるのだろうか。
八月十三日 晴れ
(白紙)
八月十四日 曇り
(白紙)
八月十五日 曇り
(白紙)
八月十六日 雨
(白紙)
八月十七日 雨
(白紙)
十三.賢者の手記
八月十二日 雨
外の世界では連日雨が続いている。可能性が無いとは云い切れないので、外の世界へ調査に出向いたが、あらゆる場所を見ても霊夢の姿は見当たらない。博麗大結界に干渉する事なく外の世界に行けるとは、元々考え難かったのでこれ以上の諦念感もあるまいが、やはり失望してしまう。定期的に藍と連絡は取っているが、幻想郷でも変化はないらしい。博麗の巫女の失踪に妖怪が活性化する訳でもなく、何時もの日常が繰り返されている。
これは幸いな事だが、それも時間の問題だろう。早く問題を解決しなければ、取り返しの付かない事態になってしまう。しかし、現実問題として、外の世界を全て探し終えるのは結構な時間が必要だった。結果の良し悪しはあれど、幻想郷に再び戻れるのは夏も過ぎ去る頃だろう。尤も、それは霊夢を見付けられなかったらの場合だが。
八月十三日 雨
成果なし。
八月十四日 曇り
成果なし。
八月十五日 雨
成果なし。
八月十六日 雨
成果なし。
八月十七日 雨
成果なし。
十四.或る巫女の日記
八月十八日 晴れ
今朝、酷く顔色の悪い女性が私の元を訪れた。物凄い形相で駆け寄り、私の名前を何度も呼んでいたが、彼女を知らない私からすれば訳が判らない。挙句には泣き出す始末で、実に弱った。彼女が落ち着いた頃に話は聞いたが、何を云っているのかまるで判らず、私は困惑するばかりで一向に要領を得なかった。
何でも「何処に行ってたんだ」「何をしていたんだ」というような事を口々に喚いていたが、私は昨日も一昨日も変わらず境内の掃除をしたり、昼寝をしたりしていたので、やはり混乱するばかりだった。最終的に彼女は「お前は誰だ」と恐ろしいものでも見るような顔をして問い質して来るので、仕方なしに名を名乗ったら「違う」と叫ばれた。何度も違うと繰り返すものだから、私は好い加減嫌になって母屋に逃げ帰ったが、彼女はやはり境内で叫び続けていた。
これは不運に出くわしたと思って、母屋の中から彼女の様子を窺っていたが、その内彼女は叫び疲れたとみえて、箒に跨ると何処かへ飛び去ってしまった。あの様子からして、また此処に来ないとも云えないので、ほとほと困っている。取り敢えず今日の所はもう来なかったが、明日来るかも知れないと思うと気が滅入る。願わくば明日も何時もの日常を送りたいものだが、あの異常な様子はただ事じゃない様子だったし、気分はひたすらに憂鬱だ。
今日はもう眠ろう。
十五.或る魔法使いの研究日誌
八月十八日 晴れ
どういう事だか、全く判らない。まるで私の頭が可笑しくなっているかのようだ。紫は未だ帰って来ない。私はこの狂った幻想郷で、ひたすら孤独に耐えている。何故こんな事になっている? あれは確かに霊夢であるはずだった。しかし、あれは霊夢じゃない。全く違う人間だ。しかしそれを知る者が、私以外に居ない。
紅魔館の面々には鼻で笑われた。私達が博麗の巫女と接触する訳がないと、誰もが云う。冥界も永遠亭も人里も妖怪の山にいる妖怪達も、みんなが口を揃えて博麗の巫女と会った事はないと云う。霊夢と関わりのあった奴は全員その事を忘れている。いや、最初から知らないのかも知れない。しかしそんなはずがない。色んな奴を交えて宴会をした事も、私は鮮明に覚えている。この記憶が偽りのものだとは思い難い。しかしそれを確信する事が私にはできない。
私一人がおかしくなってしまったのだろうか? 記憶が著しく欠如し、一部が改変されているのか? 色々な奴に会って尋ねてみたが、あれを霊夢じゃないと云い張る奴は一人として居なかった。私だけが狂っている。正常であるべき世界の中で、私だけが歪な歯車となっている。頭がおかしくなりそうだ。否、もしかしたら既に私はおかしくなっているのかも知れない。私だけが、おかしい。本当にそうなのか? しかし、そう思わざるを得ない現実が、目の前にある。……
十六.或る神社での会話
九月五日 晴れ
紅白の巫女「何だか最近は毎日来ますね」
黒の魔女「此処で飲む茶は美味いからな」
紅白の巫女「最近、茶葉の減りが早いんですよ」
黒の魔女「今度買って来てやるぜ。約束はしないが」
紅白の巫女「当てになりませんね」
黒の魔女「元来そんなものだ、約束なんて」
紅白の巫女「まあ、別に好いんですけど」
黒の魔女「そうと決まったら、茶のお代わりを頼むぜ。――と」
紅白の巫女「……全く。――どうしました?」
黒の魔女「久し振りに見る奴が来たぜ」
紅白の巫女「私は会った事ありませんけど」
黒の魔女「まあ関わらない方が好いぜ、胡散臭い奴だから」
賢者「御機嫌よう、問題は解決したのかしら?」
黒の魔女「久し振りだな、何処に行ってたんだ? あと、問題なんて此処の所起きてないぜ」
賢者「え?」
黒の魔女「何だよ、妙な顔して。私の研究は順調だ」
賢者「何を云っているのよ。霊夢が戻って来たんでしょう」
黒の魔女「お前こそ何を云ってるんだ。霊夢は何時も此処でぐうたらしてるぜ」
紅白の巫女「失礼ですね。そんなにぐうたらしてません。――私の事を知っているんですか?」
黒の魔女「云っただろ、胡散臭い奴だって。何でも知っている振りをするんだよ、こいつは」
紅白の巫女「失礼ですよ。初めまして、博麗霊夢と申します」
賢者「貴方達……」
黒の魔女「変な奴だな。暫く見なかったと思えば、とうとう変になったか?」
賢者「何か、妙な事になっているみたいね」
黒の魔女「何も妙じゃないぜ。何時も通りの光景だ」
紅白の巫女「何か気になる事でもあるんですか?」
賢者「いいえ、もう判ったわ。そして、すぐに忘れる」
黒の魔女「本当に今日は変だな。まあ、今に始まった事でもないか」
賢者「そうよ、これは何時もの事だもの。……きっとね」
十七.賢者の手記
九月六日 雨
最近考える事がある。私は以前、幻想郷の中で幻想となる事が果たして有り得る事なのだろうかと考えた事がある。今までの事例から考えても、そんな例は見付からないので、到底有り得ない事だとは思うが、果たして本当にそうなのだろうか。
幻想郷は幻想が還る郷であり、幻想の逃げ場所である。異端となったものが此処に来て、幻想郷の一部として取り込まれる。そうしてそれが幻想郷を形作っている。
"異端"
私はこの言葉と、今回の事件とを深く関連付けて考察した。本来あるべきでないはずのもの、即ち「異端」。「霊夢」はまさしくそれに当て嵌まる人物と云えた。歴史を振り返ってみても、妖怪に慣れ親しみ、共に宴会を行う者などは例外を除いて居なかった。例えば人里の守護者は共存を果たしているが、それでも彼女は古くから里を守って来た、云わば人里に居なくてはならない存在だ。しかし霊夢はどうだったろうか? 果たして今までの霊夢は、本当に在るべき「霊夢」の、「博麗の巫女」であったのだろうか?
歴史から考えれば本来ある事のない図式、妖怪と人間が共に笑い合う平和な世界。しかしそれは逆に、幻想郷を危機に導くものであったのかも知れない。妖怪は人間を喰らう。そして人間を喰らった妖怪を博麗の巫女が退治する。かつてこれは殺しの連鎖となっていた。しかし、それが幻想郷の勢力の均衡を保つ一つの手段として確立されていた。
妖怪は人を喰らい、力を付けようとする。博麗の巫女はその妖怪を退治する。本来人間と妖怪はそういう関係だった。しかし博麗の巫女が霊夢の代となってから、幻想郷は少しずつ変化した。
"殺さないから殺さない"
それが今の幻想郷の在り方である。かつての常識は淘汰されつつあり、新たな常識が根ざし始めているのが、今の幻想郷である。私はこの変化こそが、今回の事件を引き起こす引き鉄となったのだと解釈している。尤もこれは私の勝手な妄想に過ぎず、確信はない。ただ可能性の一つとして此処に記しているだけである。
先述した"殺さないから殺さない"という幻想郷の在り方は、幻想郷を肥大化させる要因であると私は考えた。元々妖怪の力は強大で、人間が敵うものではない。が、その常識を超えて妖怪を殺すのが博麗の巫女である。だからこそ妖怪と人間の勢力は漸く均衡を保っていた。しかし、昔からある関係が崩れた今、人間と妖怪は共に増え始め、結果幻想郷を圧迫する原因となった。元々博麗大結界という籠で囲った世界が幻想郷である。増え過ぎた力を収める為の容量には当然の如く限界が来る。今回の事件は、この事態に対処するべく「幻想郷」が引き起こしたものではなかろうか。
あるべき関係を取り戻し、再び"殺したから殺す"という一見すれば馬鹿馬鹿しい常識のある世界に戻す為に、幻想郷が自らを守る為に、或いは幻想郷に生きる生物を守る為に働いた、「幻想郷」という一体の巨大な生き物の防衛本能だったのではなかろうか。
そこには矛盾がない。幻想郷に取り込まれた――云わば体内に存在する私達の情報は書き換えられ、次第に"殺さないから殺さない"の世界は失われて行く。今ある世界が当然のように映り、かつての世界の名残は例え物質であろうとも消去されて行く。今や私達の理解を超えるほどに成長した、幻想郷という巨大な生物の中に組み込まれた機能がそういう風に働くのならば、それは何も有り得ない事ではない。
そもそも、幻想郷を生物として捉えれば、増え過ぎた食物を胃液で溶かすのと同様の事である。そして「霊夢」「魔理沙」――それだけでなく幻想郷に住まう全ての生物、物質は新たな存在に生まれ変わる。幻想郷が自らを維持するべく産み出した新たな器官とでも云うべきか、ともかく次第に私達という存在は私達ではない存在へと移り変わって行くのである。
結果、私達という栄養は分解され、再びあるべき姿に再構築される。正しい幻想郷の血肉となって、幻想郷を形作る要素の一つとなるのである。私は昨日博麗神社の状況を目にした時に、その考えが正しいと思った。あの時私が殺されなかったのは、私の情報が書き換えられていなかったからであろう。私は幻想郷の体外に居た事によって一時的に情報の改変を回避した。けれども、この幻想郷に居る限り、知らぬ間に私はこの矛盾を忘れるのだ。今、この世界で、私はただ一人の矛盾である。そうして排除されつつある脆弱な生き物なのである。
しかし俄かに信じ難いこの話を、真に信頼する事は出来なかった。否、私自身この解釈を信じたくなかったのかも知れない。が、先刻から酷く頭が痛む。信じざるを得ない現実が目の前に現れようとしている。尤も、私には現れた事すら気付けないのだろう。幻想郷は残酷な性質を発現させながら存在し続けているのだ。
――いずれこの手記も消去され、私の記憶も消去されるのならば、考えても意味のない事だが、この悲しい機能を憂えずにはいられない。例え一瞬先には全てを忘れているとしても、こうして平和な幻想郷があったという事実を、忘れたくない。これは力なき大妖、賢者と皮肉られるべき私の最後の言葉である。
願わくば、幻想郷が再び平和になるように祈っている。
(以降、白紙が続く……)
十八.或る神社での会話
九月七日 晴れ
人里の男「巫女様! 巫女様は居られますか!」
紅白の巫女「どうしました、血相を変えて」
人里の男「人里の子供が妖怪に喰われました。どうか退治をお願いします」
紅白の巫女「判りました。場所は何処です」
人里の男「人里を一寸離れた場所にある道端です。一緒に居た子らは、妙な歌声を聴いたと云っています」
紅白の巫女「それは、きっと夜雀ですね。判りました。すぐに退治に向かいます」
人里の男「お願いします。喰われたのは私の娘です。どうか、奴を殺して下さい」
紅白の巫女「貴方の恨み、確かに承りました。貴方に代わって私がその恨みを晴らしましょう」
人里の男「……頼るばかりで、何も出来ない僕をお許し下さい」
紅白の巫女「いえ、気にしないで下さい。元より私はそういう存在なのですから」
――了
さて、今の霊夢は何代目だったのでしょうかね……。
これは一気に読み耽ってしまいました。
怖いけど面白かったです。
『もしも』の話であるから原作とは逸脱するのだろうけれど、よく考えられていると感じられます。
内容と文章の構成が非常に良い雰囲気を演出しています。
幻想郷の営みも、輪廻の如くも廻るんですねぇ。
妖怪が死ににくくなったため、外からやってくる妖怪が増え続けた結果、パンクする可能性もあるんだよなー。
博麗大結界をひとつの生物として捕える発想はなかった。
この解釈だと、人妖たちにとっての「平和」が幻想郷の「平和」であるとは限らないんですね。