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(アリスの服の色ってアリスブルーってんだな)
(そうよ)
(青空を見てるみたいだ。その瞳の色も────)
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「──でさ、その見つけたキノコ、何かに使えないかと思って持って帰ったんだ。見たこと無い奴だったし」
「へぇ、魔理沙でも見たこと無いキノコがそんな所に?」
「別に私はキノコマイスタって訳じゃないぜ。菌類って何万種もあるからな。人里で知られてる普通のキノコだけでも千以上もあるし。ましてや魔法の森なら、見たこと無いのが普通ぐらいだぜ」
「十分詳しいと思うけど」
目の前の彼女から辟易としたような嘆息が聞こえる。
細くしなやかな金髪に白磁の様になめらかなミルク色の肌。
人形のように形の整った薄い唇から漏れるその溜息は、ただの空気なのに彼女と同じように綺麗な気がする。
テーブルを囲んで、今日もなんでもない雑談に花を咲かせている私達。それほど大きくないテーブルに小洒落た白いテーブルクロスが掛けられ、その上には蔦と葉を象った紋様の入った紅茶のカップが二つ。
落ち着いた調度品に整然とした静かな部屋は、静謐とした彼女の雰囲気にぴったりで、まさにここが彼女、アリス・マーガトロイドの家であるということを感じさせた。
「いやいや、趣味の範疇だぜ。それでそのキノコ煮ても焼いても、魔力も毒も出てこないんだ。こりゃハズレかと思って齧ってみたら」
「そんなわけの分からないキノコ齧らないでよ」
アリスは魔法薬とかを扱うタイプではないから、キノコには詳しくない。
魔法使いである以上それなりの知識は持っているが、あくまで知識としてどんな毒があるかとかどんな魔法薬になるかとかを知っているだけで、どんな味付けをしたら美味いとか香り高い焼き方とかは知らない。
単純にキノコが嫌いなだけかもしれない。
それでも私の下らないキノコ話をキチンと聞いてくれる。
概して他人の趣味話など面白くもなんとも無いものだ。なのにこうして相槌を打って聞いてくれるのは、これはいわゆる聞き上手という奴か。
「だってもったいないじゃないか。毒だって無さそうだし、煮たら美味そうだったんだよ」
「いくら美味しそうでも食べないでしょ普通」
「むぅ。まあ流石に一気には食わないぜ。齧っただけだ」
「確かに舌での識別は常套手段よね」
「そ、そう、識別だぜ。で、肝心の味が……シメジだったんだな。単にシメジに苔が付いて変色してただけだったという」
「ふふ。やっぱり魔理沙はドジねぇ」
「だってすごくバランスよく模様のようになってたんだぜ。あれがただの変色だなんて思わないって」
「でも、キノコに詳しかったからすぐにシメジだって分かったんでしょ? 私なら齧っても分からないわ」
クスクスと小さく笑うアリス。その動きに合わせて髪が揺れ、蜂蜜色の髪がキラキラと陽を反射して、繊細に作られたガラス細工の様に煌く。
ふわりと、肩に掛けられたストールとそれを留めるリボンが風に揺れて、細くて折れそうにさえ見える白い腕をくすぐる。
と、その細い腕が同じ風に乗ったように軽く、微かに動いた。
「お茶、おかわり要る?」
話の頃合だと思ったのだろう、空になったティーカップを指して尋ねてくる。
しばらく前から空にはなっていたのだが、話の腰を折らないようにしていたみたいだ。
喉も渇いた所だ。促されるままに頂く事にする。
「ああ。シメジより美味いの頼むぜ。なんか口の中にシメジの味が甦って来ちまったからな」
「残念。私にはシメジより不味いお茶は淹れられないから、リクエストしても無意味よ」
む。香りマツタケ味シメジって言うくらい美味いんだぞ。シメジは。
とはいえシメジ味も悪くは無いが、お茶請けのクッキーにはとても合わない。
やっぱり彼女が焼いたクッキーには彼女の選ぶ紅茶が一番合う。
椅子から立ち上がってキッチンに向かう彼女。
お茶を運んだり椅子を引いたりといった雑用は人形にやらせるけれど、いつもお茶を淹れるのは手ずからやってくれるのだ。
テーブルから去っていくその背中を見つめて──目を細める。
トン、と軽い足音。私が歩いてもドスドスとしか鳴らないのに、ロングスカートから覗くブーツに覆われたスラリとした足は、床を軽快に叩くだけで体重を感じさせない。
翻るスカートとリボン。ゆっくりとしたその動きは空気に浮かぶ様に軽やかで、ふわりと浮いたストールは羽根のようにすら見える。
光に溶けるような金髪と細くて白い首筋に、服に包まれていても分かる細いシルエット。力を込めれば折れてしまいそうな。
不意に、その細い身体を抱きしめたくなった。
今更言うまでも無いけれど、私はアリスの事が好きだ。
それも……その、友人としてとかじゃなくて恋愛の対象として。
同性で恋愛などおかしいと言うかもしれないが、こうして抱きしめたくなったり見てるだけで胸が高鳴ったりするのが恋愛でなくてなんだっていうんだ。
いつから、と訊かれればよく分からないと言うしかない。自覚しだしたのは永夜事件の頃からだろうか。
いつもどこか澄ました様な顔をして、いつでも本気で無いような、いつだって余裕があるような、そんな態度が気に食わなかった。
近所だから何度も出会って、何度も宴会で席を共にして、何度も弾幕ごっこをして。そうして比較的仲良くなった後もその態度は変わらくて。
私がいくら本気で立ち向かってもどこか一歩引いていて、何度弾幕をしたってそれ以外の顔には出会うことが無くて、それがとても気に入らなかった。
私は親しくなったと思っているのに、彼女にとって自分は、顔見知り程度の庭師や騒霊と変わらないっていうのか?
だからよく突っかかって行っては喧嘩をして、犬猿の仲だなんて周りから言われたりもした。あんまりにも気に入らなかったから私自身でもあいつの事が嫌いだと思ってた。
それがあの日の夜、私の家に、あいつから来てくれたんだ。
『人手が足りてたら、あんたなんて絶対に────』
彼女はそう言ってたけれど、それでも私は嬉しかったんだ。
アリスは何でも一人でこなす方で、だからこそ誰の手も借りようとせず、接触を好まないようなそんな雰囲気があった。
まあ一人でやりたがるのはアリスに限らず魔法使い全般に言えることだから、それについてはとやかく言うつもりは無い。
ただ、人手が足りなかった時に……一人でこなせないと感じた時に、私を第一に選んでくれたのが嬉しかった。
もしかすると単に家が近かったからかもしれない。それでも、少なくとも背中を預けるに足る相手だと、そう信頼してくれているのが分かっただけでも十分で。
『なんで、私なんだ?』
そう聞き返してみたら。
『なんでって……最初に頭に浮かんだのがあんたの顔だったから』
なんて答えが返ってきて。
顔が熱くなるのを感じて思わず帽子を深く被って顔を隠した。
緩む口元。それを理性で引き締めようとして、やっぱり抑えきれずにへらりと歪む顔。
いま私はどんなにか滑稽な顔をしていることだろう。
……そういうのは反則だぜ。
帽子の鍔で隠したアリスの顔は見えないけれど、こっちの顔を見られないためには仕方が無い。
出来ればこう、毛布か何かを持ってきてくるまってうずくまり、枕を抱きしめるなりベッドを叩くなりしたいくらいだ。いや夏だから毛布は暑いか……ってそんな事どうでもいいじゃないかああもう。
アリスの目の前で立ち去る事も出来ず、上ずった声しか出なさそうで返事も出来ずに立ち尽くしていると、落とした視線の先に本が差し出される。
報酬と称してアリスが持ってきた
流麗な筆記体で書かれたAlice=Margatroidの文字。彼女の名前。
それが記された本は間違いなく彼女の所有物だった物で、それをくれるというのは普通のプレゼントよりもなんか特別な気がした。
『悪いわね、私が使ってた物だけど……』
『い、いや、それは別に構わないぜ』
むしろくれ。もちろん口には出さないけど。
受け取ったときに触れた指がばかに熱い。
『じゃあ……一緒に来てくれる?』
『ああ、いいぜ』
平静を装って答える。大丈夫だ、この胸の動揺は声から隠せてる。
まだ顔は見せられないけど、だいぶ落ち着いてきたから引き締めるのにも成功しそうだ。
そんな事を考えながら俯いたままでいると。
『……ありがとう』
頭上から聞こえたいつもと違う調子の声に、思わず顔を上げる。
どきんと一つ、心臓が金槌で殴られたように大きく響く。
──そこには彼女の、見た事の無い微笑みがあった。
それはほっとした安堵のような表情。
それはそうだ。いつもは一人でこなすアリスがこうして頼みに来るんだ。よほど困っていたのだろう。しかも断られまいとこんな物まで用意して。
吸い込まれるようなその蒼い瞳に縫い止められたように、視線を動かせない。
視界の真ん中に映る、彼女のその初めての表情を見ればきゅうと締め付けるように胸が疼く。
ここにきてはっきりと自覚した。いやまあ薄々は気が付いていたけれど。
この気持ちは、恋だ。
あれから何度、その立ち振る舞いに心躍らせ、流れ出る言葉に一喜一憂したことだろう。
何度その唇に触れたくてじっと見つめては不思議な顔をされ、何度その華奢な身体を抱きすくめたくなっては両手を広げかけたことだろう。
でもその度に私はグッと我慢してきた。
何故って、私にはまだその資格は無いから。私は『友人』という称号は手に入れたけれど、まだ『恋人』という称号は手に入れてないから。
でももう限界だ。衝動が胸のダムを超え、穿ち、決壊して、言葉が口を衝いて出る。
その輝かしい称号を得るために、口が自然と動く。
「アリス──」
この口が憶えるくらいに幾度と無く呼んだ三文字の言葉。
その名前を声に出してみた。
けれど彼女は振り向く気配も無い。そのままキッチンに入り、カウンター越しに手を動かす。戸棚からお茶っ葉の缶を取り出し、匙で何杯かすくって丸型のガラス製のティーポットに入れる。
聞こえなかったのだろうか? それとも、聞こえなかったふりをしているのか?
どっちでも構わない。本題は次だ。次さえちゃんと伝えられればいいんだ。
椅子から立ち上る。ガタンと椅子が音を立てるが、これからする事で頭が一杯の私の耳には入らない。
この音でアリスがこっちを向いてくれたらとさえ思うけれど、やっぱりアリスは顔を背けたままで。
やっぱり私が振り向かせないとダメなんだ。
大きく息を吸って、吐き、もう一度大きく息を吸って畏縮しそうになる喉から声を絞り出した。
「好きだ。付き合ってくれ」
お湯を沸かす為に背を向けたアリスに向かって、宣言する。
それでも手を止めないアリス。小さな鍋に水を入れて火にかけ、熱せられた水がチリチリと音を立てている。
今度こそ聞こえなかったはずは無い。
静謐としたこの家で、他の何者にも勝る声量で言ったんだから。
それでも返事が無いのは何か考えているから?
変わらない表情。だけどその表情の中に僅かに、別の色が混じった気がした。
沈黙が続く。
アリスは喋らないし、私も喋らない。
アリスは私の事を無視したりなんかしない。それを信じているから待ち続ける。
ただひたすら、彼女の一挙一動を見つめ続ける。
返事を待つ間、心のどこかに隙間が空いたようで、期待と不安がないまぜになってその隙間の中で渦巻く。
小さな鍋に入った水の量は僅かで、ものの数分もしないうちにシャワシャワと沸き立つ音が聞こえてきた。それを火から下ろして、保温の魔法がかかったティーポットに湯を注ぐ。
静かな空間の中で、湯を注ぐ音だけが心の隙間に何かが注がれるように響く。
だけど注いで欲しいのはそんなお湯なんかじゃない。お湯よりももっと温かな、君の言葉を注いで欲しい。
ティーポットが一杯になると今度は二つのティーカップにも湯を注ぎ、カップを暖める。
鍋の水が空になり、二つのカップに適量の湯がぴったりと注がれた後、ゆっくりと鍋を置いたアリスから、その動きよりもさらにゆっくりと声が返った。
「……答えは、言わなくても分かるわよね?」
「いいや、分からないぜ」
本当は分かっている。
俯いたその顔はこの位置からじゃよく見えないけれど、表情は見えなくてもアリスの口振りからも十分に伝わっている。
九割九分は予想通りの答えだろう。でも残りの一分だって有り得るんだ。
だから、答えをちゃんと聞いておきたかった。おまえだって、もしも勘違いされたら嫌だろう?
透明だったお湯を、茶葉からにじみ出る色がじわじわと染めていく。
それは複雑な模様を描いては上下する茶葉と一緒に拡散し、やがて均一になって。
ふっ、とアリスが頬を緩めるのが分かる。
「答えは……ノーよ」
「やっぱり、ダメか……」
残りの一分に期待してみたのだが、そんな奇跡は起こるはずも無く。
私は見事敗北を喫したのだった。
何だよ。この前山で買った恋愛成就のお守りだって効きやしない。
奇跡を操るどこぞの巫女が『奇跡は起こらないから奇跡って言うんですよ』なんて嘲笑ってる気がする。
「しかしあんたもしぶといわねぇ。これで何回目だっけ」
「69回目だぜ」
「それだけ振られて、よく諦めないものだわ」
「振られても、好きだからな」
一分だって69回繰り返せば五割になる。この前ヒマだった時に電卓ならぬ魔卓をぽちぽち打って計算したんだから間違いない。
じゃあその五割が実らない私は不運なのか?
現実はそんな単純な確率だなんてぜんぜん思っちゃいないけど、それでも繰り返し続ければいつか実るんじゃないかって、そう信じた。
そう信じずにはいられなかった。
「だいたい、恋色魔法使いから恋を奪っちゃ悪いじゃない」
「恋は実ったら恋じゃないってか? だったら愛色魔法使いにでも転職するさ」
「ふふ。ずいぶん間抜けな字面ね。少女らしさが激減よ」
くすりと口に手を当てて笑うアリス。
だけど私は笑わなかった。
なぁ、アリス。私が聞きたいのはそんな答えじゃないんだ。
「……なぁ」
なんで、どうして私じゃだめなんだ?
私には、その称号を得る資格は無いのか?
それとも、誰か他の奴ならいいのか?
例えば、アイツなら。アイツの候補になりそうな奴の顔が頭に浮かぶ。霊夢、咲夜、パチュリー、早苗……最近はミスティアや文や幽香だって。
だけどそれらは声になる事は無く、代わりに察したようにアリスの口から答えが返った。
「そんな顔をしないで、魔理沙。他にここに来る奴なんか居ないし、告白されたって受ける気は無いから」
「じゃあ!」
「でもあなたのも受けられないわ」
「なんで……」
「同情とか責任感で想われても、嬉しくないもの」
「そんなんじゃ……」
「そう? でも、あなたが告白してきたのは、アレ以降」
アリスが顔を上げて私を見る。
均整の取れた顔立ち。
さらりと揺れる金髪。
蒼い──抜ける空のような澄んだ瞳。
人形の様だと評される、その綺麗な身体が私に向き直る。
けれど一つだけ、綺麗なその身体に似つかわしくない部分があった。
顔に、痛々しい大きな傷痕。
額から顎までも伸びるその傷痕は、鉤を作りながら左目を走っている。傷に蹂躙された左目は輝きを失い、白く濁った瞳を覗かせていた。
どこまでも澄んで魅入られる様な右目との対比が、よりいっそう左目の生気の無さを際立たせる。
そしてその顔を見る瞬間、いつも私は息を呑むんだ。
「この傷が出来る前は、一度だって告白してこなかったじゃない?」
その言葉はアリスの傷以上に心に深く突き刺さる。
けれど重苦しくならないようにとの配慮だろうか。言葉の内容とは裏腹に、アリスはさらりと軽く微笑みを交えていて。
いつもと変わらない表情で、軽口でも言い合うかのように。
もちろん、傷が以前からあったわけじゃない。
半年ほど前だろうか。
あるダンジョンの中を二人で探索していた時に、少しばかり強い魔物と出会った。
問題ないレベルの相手だった。だが相手の力をしっかりと測るアリスと違い、私には少しばかりの慢心があった。
アリスに良い所でも見せようと、相手もろくに見ずに笑いながら魔法を唱える。
そして『危ない!』とアリスの声が響いた時、魔物と私との間にあったはずの距離は一瞬で無くなっていた。
予想外の素早さ。予想外の位置。予想外の出来事に反応できずに固まる私を突き飛ばす手。
隙を衝かれた私を庇ったアリスはその顔に傷を負い……。
倒れたアリスに二撃目を加えようとする魔物を最大出力で消し飛ばし、すぐに駆け寄った。
けれど、治癒の魔法は私の得意分野じゃない。私の魔法では止血程度の応急処置しか出来ず、すぐに引き返したものの、怪我人を連れての脱出は余分な時間を費やして。
結果、治療が遅れた。
もちろん医者には診せたが、既に左目は視力を失い、顔にも大きな傷が残ってしまったのだった。
肉体的には人間とさほど変わらない魔法使いだから、命があっただけで十分だとアリスは言うのだが……人形の様に綺麗だった顔は、失われてしまったのだ。
アリスの言葉に反論しようとして、言葉に詰まる。
なんで私は、告白をしなかったのだろう。
なんで私は、ちゃんと想いを伝えなかったのだろう。
「それは────」
ただ一緒に居るだけで、楽しかったから。言葉にしなくても想いは伝わると思い込んで。
ずっと同じように、傍に居続けられると思ってた。
あえて言葉にする事をしなかったのは、言いそびれたから? 臆病だったから?
どっちにしても、言わなかったという事実は変わらない。だったら、何を言われても仕方が無いんだ。
今更それを言ったところで、そんなのただの言い訳だから。
それでも。
それでも、どうしても伝えずには居られなくて……
「でもこの気持ちは……」
「ねぇ」
伝えようと更に言葉を重ねようとする私を、アリスの声が遮る。
気が付けばアリスの前の人形の手にはトレイが握られていて、運ぶ準備が出来たというのを示すようにアリスの胸の高さまで持ち上がっていた。
その上に載せられたティーポットには紅い液体が満たされ、カップを暖めていた湯は用済みになっていつの間にか捨てられて、同じく紅茶が注がれている。
「話の続き、しましょ? ほら、紅茶のおかわりも入ったし」
少し首を傾げていつもの様に笑うアリス。
でもその表情は少しだけ哀しそうな顔で。
「──……」
そんな顔をされたら引き下がるしかないじゃないか。
言葉の続きをぐっと飲み込んで、椅子に腰を降ろす。
キッチンに向かった時と同じ道筋を、トントンと軽い足音が踏んでいく。
トン。トン。トン。
俯いてテーブルを見つめる私の視界はテーブルクロスの白だけで、耳に入る音はアリスの軽いブーツの音だけで、香る匂いは淹れたての紅茶の香りだけで。
トン。トン。トン。
出し損ねた言葉を握り潰すようにぎゅっと握り締めた手は、なんにも意味を成さずにエプロンドレスの裾を掴んで皺を増やすだけ。
トン。トン。トン。
足音がテーブルの傍まで来て止まる。
トレイが音も無くテーブルの真ん中に置かれるのを目の端で見る。
カチャ。
私の前にいつもの人形の手ではなく、アリスが手ずからティーカップを載せたソーサーを置いてくれる。
顔を上げてみれば私に向かって微笑む顔が見えた。
そんな気遣い要らないのに。
こんな事にはよく気が付くくせに、どうして私の気持ちには気が付いてくれないのだろう。
部屋は再び静寂に満ちたけれど、それは静謐ではなく沈黙で。
沈黙を紛らわせるために紅茶を一口飲む。
美味い。
それはいつもと変わらない美味しさで、アリスは告白を聞きながら淹れていたのに私の気持ちにも告白にも関係なく変わらない味で、目の前でお茶を飲むアリスはいつもと変わらない静かな綺麗な顔で。
舌がおかしくなったのだろうか? いつもと変わらない味なのになぜか物足りなくて、なぜか悲しくなった。
ゆっくりと静かに閉じる扉。
すっかり陽が落ちて暗くなった森を、この家の窓から漏れる光が照らす。
その窓から、星が瞬き始めた暗い空へ魔理沙の箒が飛んでいくのを見届けてカーテンを閉めた。
「はぁ……」
椅子に腰掛けて溜息を漏らす。
今日も魔理沙に辛そうな顔をさせてしまった。どうして自分はこんなにも至らないんだろう。
テーブルに肘をついて、自己嫌悪に頭を抱える。
向かい側で引かれたままの椅子は今さっきまで魔理沙が座っていた椅子。
その椅子を見れば、そこで笑いながらキノコ話をしていた魔理沙の顔が浮かぶ。
そして告白した後の俯いていた顔も。
テーブルの上に置かれたティーカップには飲みかけのお茶が残されていて、淹れ直したおかわりのお茶も丸々ポットに残ったままで。
肘をついて体重をかけたせいで皺になってしまった白いテーブルクロス。その中央に添えられたお皿にはまだ半分もクッキーが残ってる。
私はキノコは別に好きじゃないけれど、楽しそうに話す魔理沙の顔が好きだからずっと聞いてても飽きる事なんて無かった。
でも結局あの後は話が弾む事なんか無くて、少ない会話の中でただ時間だけが過ぎていって。
朝早起きして焼いたクッキーも、湯加減も濃さも口に合うように何度も練習した紅茶も、魔理沙は美味しいと言ってくれた。
それでもあんな顔をさせてしまうのは私に原因があるせいだ。
やっぱり告白を受ければ良いのかしら?
でも、どうしてもそれを受け入れるのは躊躇われるの。
別に魔理沙が嫌いなわけじゃない。むしろ好き。
それも、たぶん友人としてじゃなく恋人として。
私には恋人と言えるような相手は居なかったから、魔理沙が私の初恋で。
だから恋なんて実際よく分からないけれど……でも日がな一日頭に浮かぶのが魔理沙の顔だったり、会ったばかりなのに離れればすぐに会いたくなったり、永夜の朝に魔理沙の布団で眠ったりして香る魔理沙の匂いに胸をときめかせたりするのが恋だというならこれは恋なのだろう。
つまり魔理沙の言葉を素直に受け取れば両想いという事になるんだけど……。
でも、と思う。
この傷を利用して魔理沙を手に入れるのは、やっぱり卑怯なんじゃないかしら。
魔理沙が告白してきてくれるのはきっと罪悪感とか責任感で。
憐れみは恋に通じるとは言うけれど、それはやっぱり恋とは違うと思う。
魔理沙は優しいから憐れみなんかじゃないと言うけれど、その告白が罪悪感から来たものじゃないってどうして言える?
あの事件以来、急に告白をするようになったのは何故?
純粋な気持ちで、事件の事やこの傷が無かったとしてもあなたは告白してくれた?
きっとそんな事無い。
そうやって無理をして、自分の心に嘘を吐いて、負い目を作って結ばれても幸せになんかなれない。
それに────
カーテンを少しずらして魔理沙の飛んで行った空を見つめる。
均一でないガラスを通した星空は少し歪んでいて、潤んだ星の輝きは魔理沙が私を見る瞳のようで。
暗い窓ガラスに自分の顔が映る。
そこには額から顎までも伸びる大きな傷痕と白く濁った瞳が映っている。
それに──私じゃあなたを笑わせる事は出来ないから。
私があなたを見るたびにあなたはいつも息を呑む。
私が傍で笑ってもあなたは笑ってくれない。
この傷が、あなたを苦しめる。
私が傍に居れば、魔理沙はこの顔を見るたびに辛そうにするに違いないから。
だから私は傍には居られない。
化粧などで隠してしまえばいいのだろうか。それでもきっと、隠れた傷を思い出しては同じ顔をするだろう。
無理をして隠せば隠すほど、悲しい顔をするだろうから。
そっと傷のある頬に触れると、窓に映った私も同じように頬に手を当てる。
顔に傷が残ってしまった事自体は、私は別に構わない。自業自得だから。
いつでも余裕があるようなフリをして、自分はまだ本気じゃないなんてフリをして驕っていた報い。
現実は本気なんて出す間も無く終わる。
本気を出そうと思ったときには手遅れで、自分の本気はこんな物じゃないと思いつつ終わるのだ。
そして私にはその本気の力さえなかった。
私の魔法はじわじわと追い詰める事は出来ても力が無い。頭脳派なんていって本気を悟られないように誤魔化しているだけ。
あの時、私に力があれば。魔理沙が隙をつかれた時に一瞬で敵を倒せるだけの魔法があれば、魔理沙を危険な目にあわせずに済んだのに。
いくら後悔したところで意味が無い。
結果的に魔理沙を守る事は出来たけど、あの魔物を倒したのは魔理沙で、私は結局守られただけで。
命を賭して守る、なんて弱者の言い訳に過ぎない。
力があれば賭す必要も無い。
そう。この傷は、戒め。自分の弱さを誤魔化してきた事への罰。
だから魔理沙は何も悪くないのに。
この戒めにあなたまで縛られる必要は無いの。
それでも、私みたいに狡くなくて真っ直ぐなあなたは自分のせいだと思うのでしょう。
時計を見て気が付けばだいぶ時間が経っていた。
カップを洗わないと茶渋がこびり付いて取れなくなっちゃう。
急に思考が現実に引き戻される。
余った紅茶は冷やしておいて、クッキーは明日の朝ご飯にでもしよう。テーブルクロスは次に魔理沙が来るまでに洗って。
あはは、と自嘲的な笑みが零れた。
こんなところだけ妙に現実的な自分が嫌になる。
今までの悩みを吹き飛ばすくらい無機質な、事務的な処理。きっと脳が悩み疲れたから、何も考えなくて良い家事に頭が向くんだろう。
まあいいや。頭の言うとおりに家事でもしよう。
テーブルの上のポットとカップをトレイに載せて……手を止めた。
あ……魔理沙の、紅茶。
ティーカップに残ったままの液体。
魔理沙の唇が触れて、口に含まれ、舌で撫でられた紅い蜜。
……いやいやいや。家事をしようかと思えば今度は間接キス? 現金にも程がある。
だいたい他人の飲み残しを飲んで興奮するなんて変態みたいじゃない。
でも洗うにはカップを空にしないといけないし、わざわざ淹れたのを捨てるのはもったいないし、なんだか急に喉が渇いたし、ここは私の家で他に誰も居ないし……。
震える手でティーカップを持ち上げ、魔理沙が口を付けていた辺りに口を付けて残っていた紅茶を飲む。
魔理沙との間接キス。
だけどそのキスは高鳴る胸と熱くなる身体とは裏腹に、苦くて冷たかった。
◇
:
:
:
(青空を見てるみたいだ。その瞳の色も)
(そういう魔理沙は、いつも黒いのね)
(だって暗くなけりゃあ、星が輝けないだろ?)
(じゃああなたの瞳は星かしら。その髪の毛は
:
:
:
「なあ、アリス! 朗報だぜ!」
家に来るなり嬉しそうに大声をあげる魔理沙。ノックもせずにドアを開け放っている……のはいつもの事だけど。なにか良い事でもあったのかしら?
玄関からリビングまでの距離ももどかしいのかダンダンと床を踏み鳴らして駆けて来る。
元気の良い足音。この音が好き。
いつでも、魔理沙が来たんだって実感させてくれる。
床と靴がぶつかる音。ただそれだけの音なのに私の心はなんだか温かくなり、楽しくなってくるの。
「もう。家の中で走らないでよ」
床が抜けたらどうするのだろう。つんのめって怪我でもしたら大変じゃない。そんなにヤワな床では無いけれど、これが杞憂というものだろう。
小言みたいな事を言うのも習慣のようなもので、本当に嫌なわけじゃない。
リビングに姿を現した魔理沙に向かって微笑む。
決してその目は見ないで。
あなたを見つめて笑えばあなたのその笑顔は曇ってしまうから。
来て早々にそんなのは嫌だもの。
「う、悪い悪い」
全く悪びれる様子の無い笑顔。きっと魔理沙も私がその足音が好きだという事をわかっているのだろう。
今日も楽しい一日が始まる。魔理沙が居るだけでこの家は華やかになる。
いつもの様に雑談をして、いつもの様に紅茶を飲んで、いつもの様に読書をして。
「それで? 朗報ってなに?」
そしていつもの様に告白されて、いつもの様に断って、いつもの様にあなたを悲しませて。
その時を想えば憂鬱だけれど、やっぱりこの時間は楽しくて。
あなたが告白して、私が断る。
ずっと平行線の会話。
だけどこうも思うのだ。
──平行線なら、ずっと並んで歩けるわね。
「おお、そうそう。えっとなー」
私は卑怯だと思う。
本当なら、こんな関係なんて良くないに決まってる。
受けられない告白をのらりくらりとかわして、変に期待をさせるから悲しませる。
きっぱりと断ってしまえばいいのに。
それなのに魔理沙が来てくれるのが嬉しくて、魔理沙が来なくなるのが嫌で、私は言い出せない。
魔理沙の唇が動いて言葉を紡ぐ。
何か新しい発見をしたのかしら? それともまた何かドジを踏んだの? あるいはどこかの本の話?
何だっていい。下らない無駄話だってただの声の掛け合いだって、あなたと話してるだけで幸せだから。
今日の楽しい会話をするために、耳を傾ける。
魔理沙から流れ出た言葉は────
「その傷、治るかもしれないんだぜ!」
体の中から熱が逃げていくのを感じた。
冷え性にでもなったかのように足の裏から冷たさが登っていく。
太陽が雲に隠れたのか急に窓から射す光が暗くなる。
浮かべた微笑はこわばって顔に張り付いて。
何でそんな事を言うのだろう。
私はあなたと、いつも通りのなんでもなくて他愛無いお話がしたいのに。
「永琳が言うには視力を取り戻すのは難しいけど、傷痕だったら比較的簡単に消せるって──」
「そう……。ねぇ……別の、お話し、しましょう……?」
かすれた私の声が魔理沙の言葉を遮る。自分の声なのに自分の声じゃ無いみたい。
それでも、無理矢理でも声を絞り出して魔理沙の言葉に割り込んだ。
お願い。その話は聞きたくないの。
だってその話はいつもあなたを悲しませるから。
なにより、この傷のためだけに魔理沙が来たという事実。それが嫌でたまらなかった。
彼女は私に会いに来てるんじゃなくて傷に会いに来てるんだ。贖罪の為に此処に来るんだって。
現実を見せられた気がした。
「そう、って……傷、無くなるんだぜ?」
「……誰に見せるわけでも無いもの。必要なら化粧とかで誤魔化せるし。それとも魔理沙はこの顔だと困る?」
「そういうわけじゃ……ないけど……」
この傷は戒め。だから消す必要なんか無い。
だけどやっぱりこの傷は、あなたを縛らずにはいられないのだろうか?
あなたから笑顔を奪って、それでも足りずにあなたの言葉を奪う。
俯く魔理沙。弱くなった陽の光は被ったままの帽子に遮られてその表情を暗く隠す。
そういえば、魔理沙はまだ帽子も取っていなかったんだ。帽子も取らぬ間にその下の陽色の瞳を翳らせてしまった。
「……もしかして知ってたのか? 傷を消せる事。永琳が渋々としか言わなかったのも、アリスが既に知ってたからなのか?」
「……ええ」
この傷が残って視力が戻らないとなったときに、私は一度永琳の所に行った。その時にこの話はもう聞いたのだ。
傷は手術で消せるって、永琳はそう言ったけれど私はそれを断った。
「じゃあ何で……費用か? だったら私が出す! なんだったらコレクションを売ったって構わ────」
「魔理沙!」
「あ……」
私の大きな声にしまったという表情をして、言葉を飲み込む。
こんなものの為にあなたが犠牲を支払うなんて馬鹿げてる。
肩を落として謝る魔理沙。
「……ごめん」
静かな部屋の中で、その言葉だけがやけに耳に残った。
言葉が尽きて二人とも立ち尽くす。
陽が雲の切れ目から再び部屋を照らし出して、魔理沙の金髪をキラキラと輝かせる。だけど、その帽子の下の陽は未だ翳ったまま。
風がさらさらとカーテンを揺らしてリボンの裾をなびかせても、溜まった澱のような空気は流れない。
そう、消そうと思えば消せる。永琳もそう言ったし、私は人形師で人形の顔を綺麗に整えたり化粧したりは頻繁にやっているから、隠すのぐらいはわけはない。
だけど瞳は戻せない。
画竜点睛を欠くとはよく言ったものだ。人形だって目は魂。なのに私の目は欠けたままで還らない。
中途半端に治った私の顔を見て、あなたはどう思うのだろう?
「やっぱり魔理沙は、この傷を気にして来てくれるのね」
「違う! そうじゃない!」
「じゃあこの傷が無くてもあなたは来てくれる?」
「当たり前だぜ──」
「じゃあこの傷を隠せたら、あなたは笑ってくれる?」
「────」
再び言葉に詰まる魔理沙。もう何度こんな事を繰り返したのだろう。
二人が逢えばこの傷の話ばかり。
この傷はティーカップにこびり付いた茶渋のようなものだ。中身があるうちは目立たないけれど、飲み干してしまえば……いつもの誤魔化しの会話が無くなれば露わになる。
今日は最初に注いだ紅茶が無かっただけ。
長い沈黙の後で魔理沙がゆっくりと口を開いた。
「アリスは……笑わなくなった」
「そうかしら? 私は元々こんなものだけれど」
「だって、昔は頻繁にじゃなかったけど声を上げて笑ってくれたりしたのに、今は微笑みばかり」
「……そう、かもね」
昔を思い返せば確かにそうかもしれないと思った。
この顔は笑い方を忘れてしまったけれど、笑った記憶は確かにある。
でもそれは、魔理沙が居たからだ。
私が元々こんなものだというのは嘘じゃない。あなたが居た時しか、私はそんなに笑っていないもの。
あなたが笑ってくれたから、私もつられて笑ってたの。
でも……
「でも私に言わせれば魔理沙の方が笑わなくなったわ」
「…………」
魔理沙に微笑みかける。今日初めて、目を見て。
そうすればいつもあなたは息を呑んで、言葉を失って。
ほら、その顔。
あなたが笑えば私は笑えるけど、その逆は出来ないの。
「笑っても苦しそうな笑顔ばかり」
「……ごめん」
また謝る。そんな顔は見たく無いのに、私ができるのはこんな事ばかり。
でも私にはあなたを笑わせる方法が分からない。何をすればいいのか分からない。
私が笑うたびにあなたは悲しそうな顔をしてるの。
私が辛い時ならあなたは笑ってるのかなぁ?
やっぱり、私が悪いのだ。
私が傍に居るだけであなたを苦しめるのなら、傍に居ない方がいい。
それが決意できなかった卑怯者の私が今更そんな事を言うなんて、自分勝手すぎて尚更嫌になるけれど、傷の上塗りを続けるよりはいいだろう。
だから。
「そんなに辛いなら、来なければいいのに」
ここはどこだろう。
混濁した意識の中で、足が固いものを踏む。
床だ。
私の家のようにギシギシと鳴らない床は、踏み慣れたあの家のフローリング。
顔を上げれば開いた窓から光が射し込んでいる。
風に揺れるレースのカーテンは目に見えぬはずの風を彩り、陽を彩ってきらきらと零れる木漏れ日のように幾本もの光の筋を床へと伸ばす。
風が吹いてカーテンが揺れれば、その光の筋も扇がれてさらさらとなびく。
その少し淡い黄金色の金糸はまるで彼女の髪のようだと思った。
いや……良く見れば陽に溶けるような芯の細い金の髪が、テーブルの上でさらりと揺れている。
椅子に座って佇み、どこかを見つめている少女。
窓から覗いたその光景は一枚の印象派の絵画のようで、鮮やかでありながらどこかに淡さと儚さを仄めかせていた。
見ている私には気が付かずに、紅茶を燻らせてどこかを見つめ続けている。
決して私に向く事は無いその蒼い目は、その瞳の色を映したような蒼い空を眺めて。
しばらくその光景に見入った後、扉の前で一息ついて、そして顔を笑わせてから扉を開ける。
大股で歩いて床を鳴らしながら歩き、彼女に近づく。
そうした方が彼女が喜ぶから。
足音に気が付いた彼女が顔を上げて私に顔を向ける。決してその瞳は私に向けずに。
彼女が私に向かって微笑む。その張り付いたような笑顔で。
「なあアリス! その目、治るかもしれないんだぜ!」
「そう。でも私には必要ないわ」
私の精一杯明るく出した声から、アリスの冷ややかな声が一気に熱を奪う。
でもその顔はずっと微笑んだままで、なんだか仮面のようだと思った。
揺れる陽の光も湯気を立てる紅茶も何一つ変わらない、なにかのままごとの様。
「なんで? どうして治るのに……」
「どうして? そんな事も分からないの? 魔理沙」
すっと瞳がこちらを向く。その視線に息が詰まる。
私はおまえが見つめるたびに息を呑むけれど、それはその傷が辛いからじゃないんだ。
ただ、おまえの顔が綺麗で、好きで、私に向けられるその瞳が肺を掴んでぎゅっと絞るから、だから呼吸が止まるほどに見入ってしまうんだ。
けれど微笑む顔と優しい視線とは裏腹に、アリスの厳しい声が耳を刺す。
「いいえ。分からないんじゃないわ、分かりたくないだけ。ずっと声から逃げ回って」
その蒼い光の前じゃあ全てが曝け出される。
青空に引きずり出された星は、輝きを失った唯の石ころ。
でこぼこで歪なその形も、輝きよりもずっと小さなその中身も全部曝け出して、しゃれこうべのようにつまらなく転がっている。
そうだ、分かりたくないんだ。見たくないものから目をそらして。
アリスの優しい視線に耐え切れずに俯く。
「いつもみたいに、言わないと分からないのなら何度でも言ってあげる」
目をそらしても頭上から降り注いでくるアリスの声。
俯いたせいか、急に部屋が薄暗く見える。
耳を塞いで、うずくまって、その影に隠れてしまいたい。
けれどあいつの目の中に青空があるから何処にも隠れられない。
「だってこの傷は、あんたのせいで付いたのよ」
「自分勝手に振り回して傷を付けて」
「それで傷が付いたら『直す』なんて身勝手にも程があるんじゃない?」
「私はあんたの蒐集品じゃないわ」
「この傷は、あんたの罪の証」
耳を塞いだせいか声がどっちから聞こえてくるのかよく分からなくなって、周囲全部から声が響いてくる。まるで沢山の彼女に囲まれているみたいだ。
なのに耳を塞いでも言葉の内容だけははっきりと耳に届いて。
周りのアリスがいつもと変わらない微笑を仮面のように浮かべて私を取り囲み、断罪の言葉を述べていく。
人形裁判。
私は冥途の十王裁判だって恐れやしない。けど、私の大好きなおまえの声で責められるのはとてもこたえるんだ。
俯いていると涙が零れそうになったから顔を上げた。裁判長を見上げるように、顔を上げてアリスを見る。
すぐ近くにあるアリスの顔。目に映るのはアリスの微笑み。
そして白く濁った目が私を見据えて────
「この傷は、あんたに対する恨みを忘れないために遺すのよ」
「……リス──!」
そこで目が覚めた。
うなされていたのか? 肩を上下させて荒い息を吐いている自分を一気に醒めた頭が捉える。
周囲は暗い闇で、叫び声の余韻が夜の静寂の中でこだましていた。
はっ、自分の声で目が覚めるなんて驚きだぜ。初体験だ。
いい話のネタになる。明日アリスに話して……
「…………」
いや、ダメだ。アリスに会いになんか行けない。
アリスに拒絶されてしまったから。
来なければいいのにって、あんな顔をされて行けるほど私は無神経になれないし、無理して行ったって敏感なアリスを騙し通せるほど器用でもない。
やっぱり行かない方が良い。
天窓を通して目の前に月が白く光って見える。
白くて丸い瞳のような月。アリスの肌のように白い月。
ベッドに横たわったままその月に向かって手を伸ばす。
「アリス──」
自分の声にハッとする。
無意識の内に口から流れ出た言葉は、彼女の名前。
その動きをこの口が憶えるくらいに唱えた三文字の言葉。
朝起きれば唱え、昼君に会えば唱え、夜寂しくなれば唱え、眠った夢の中ですらも唱える。
「アリス──」
なのにこれだけ唱えたって、肝心の君には届かない。
何で届かない、なんて考えるのも傲慢だ。
そうだ、分からないんじゃなくて分かりたくないだけ。普通に考えれば分かる事なのに。
私は馬鹿だ。私が訪れてもアリスは嫌な顔一つしないから勘違いして。
アリスは私のせいで傷ついたのに、どうして自分を好いてくれるなんて思える?
勝手に振り回しておいて、それで受け入れてもらおうだなんてそんな虫のいい話あるわけない。
簡単な確率の計算。一分をどんどん掛けていっていつかは叶うと信じたけれど。一分なんかじゃなくてゼロだ。ゼロはいくら掛けたってゼロなんだ。
身体を起こして空を見る。
白い月の光がガラスを通して歪んで見える。歪になった空の瞳。
そうだ。なんて自分勝手。
目が治る、だって? 馬鹿な話だ。
傷だけ隠したところでアリスの目が戻るわけじゃないのに。
それなのに私の目に映らないように隠そうとして。ただの自己満足もいい所だ。
それだけじゃない。最初っから私は卑怯だった。
同情とか責任感で告白しているわけじゃないけれど、打算なしで告白してるなんてどうして言える?
アリスの怪我にかこつけて、弱ってるところを狙い済まして思いを打ち明けて。
文句も言わずに私の与太話を聞いてくれて、あんなに気遣ってくれるのに、家に押しかけるたび自分勝手に気持ちを押し付けて。
私は言った。押して駄目ならさらに押す。でもそれで相手が傷を負う事にまで気が回らなかった。
傲慢で自分勝手な魔法使い。
「アリ、ス──」
白い月は彼女のなめらかな肌のようで、射す月光は静かに淡い彼女の髪のよう。
その光景にさっきの夢のアリスの顔を思い出す。
いつもと変わらない微笑の顔。昔から変わらないあの顔。
彼女はいつも澄まして、いつも手の内を隠していて、全てをさらけ出したりなんかしなかった。
怒るときも、泣くときも、笑うときも、どこかに余力を残している。理性の上に、感情を乗せているふうで。
それでも、時々は──ふとした日常にいつもと違う笑いを見せたり、弾幕の時にキュッと相手を見据えたり、私を見て心底呆れ返ったり。
こんな顔は、他の誰も知らないだろうな、なんて。
そうして、見たことも無い顔を見れば胸を高鳴らせ、もっと色んな顔を見たいと願って。
だけど、脳裏に浮かんだ微笑が私に冷たく言い放つ。
『私はあんたの蒐集品じゃないわ』
そうだ。
本当に私はその表情にときめいていたのだろうか?
『見た事の無い顔を見る事』に心を躍らせてなかったか?
まるでモノを集めるようにコレクションしてただけ。
この感情は愛情などではなく、ただの優越感だったのではないか?
「……違う」
自分だけが知っているアリスの顔を見て、自分の特別性を自慢して悦に浸って。
珍しい表情を集めて……単に蒐集癖が高じただけのものなんじゃないか?
「ちがう! 私はアリスを……!」
本当に?
魔理沙、お前は……私は、本当に……本当に、アリスを愛しているのか?
「アリスを──!」
闇に叫んでも声は止まらない。目を瞑ればアリスの蒼い目が暗闇から見つめてくる。
止めろ! 見ないでくれ! 閉じた目をさらに力を込めて瞑り、ぎゅっと布団を握り締める。
愛しいはずのその瞳を、私は見ることが出来ない。
アリスの顔に傷が残ると分かった時──私はほくそ笑んだんだ。
これで、皆近寄らない。
私だけが、独り占めできる。
そんなエゴで塗れた恋。
「私……は……」
彼女の中で輝く星になろう、そう思ったのに。
その蒼い瞳を見ては息が詰まる。
その煌きはどんな星よりも綺麗で、遥かに高みの空のように深い色のその蒼はどんなものだって飲み込むように深遠で、そしてその輝きは私の影をくっきりと照らし出す。
暗くなけりゃ星は光る事なんか出来ない。暗くなけりゃ私は居られない。
だからアリスの蒼の中に、私は居ない。
陽の下じゃ、星は輝けないんだ。
「アリス……」
自然と零れるその名前。
だけど私にはその名前を呼ぶことすらおこがましいのかもしれない。
アリスは好きだ。だけどそれは愛と呼ぶにはあまりに歪んでいる。
アリスに会いたくたって会ってはいけない。もともと拒絶されなくたって会うべきじゃなかったんだ。
だからあるべき形に戻っただけ。
それなのにこの胸は未練がましく焦がれてる。
「ぐす……くそっ!」
思わず零れた涙を唇を噛んで堪える。
上体をベッドに叩きつけるように倒して、天窓から見える月に向かってマスタースパークをぶっ放した。
天井に穴が開く。この袋小路も、あの天井のようにぶち抜ければいいのに。
窓枠も歪んだガラスも無くなって空が良く見える。
瞬間、流れ星が視界を長い尾を引いて横切っていった。
なあ、おまえは自分の願いは無いのか?
流れ星は、他人の願いばかり叶えてるんだ。自分の願いだって叶えたくなるもんだろう?
私だって、こんな出来損ないの流れ星だって叶えたい願いがあるから魔法を使うんだ。光を失った出来損ないじゃあ他人の願いは叶えられないけどな。
それでも叶えてくれるのなら、叶えて欲しい。
そう思って願いを捧げようと思ったけど。
「アリスに……私は……何をしたい?」
自分の願いが分からなかった。
自分の願いも見失って、他人の願いも叶えられない。
じゃあ何の為の魔法なんだ?
アリスの傷も直せない。私の想いも届かない。我が身だって守り損ねて、他人を傷つけた。
魔法を覚えて、本当に役に立ったことが有っただろうか?
私は手を固く握り締めて、もう一度だけ月に八卦炉を向けた。
夜の空を見上げて一人佇む。
もう何時間たったのだろう。時間の感覚が全く無い。
私は椅子に座ったまま、魔理沙が去っていった空をぼんやりと眺め続けていた。
灯りもつけずに真っ暗闇の中でじっとしている。声も出さない。
開け放たれた窓から見えるのは雲がかかって明かりの少ない空。聞こえるのは風にざわめく森の音。
これで良かった。
未だに胸は疼くけれど、コレで彼女が笑ってくれるのならそれで良いわ。
私はそれを遠くから見守るだけでいい。
たとえその笑顔が私に向けられる事が無くても。
だって、流れ星はただ一人の為に流れるんじゃない。万人に向かって輝くから。
あなたが誰にでも向けるその笑顔を、独り占めしようなんて傲慢でしょ?
暗闇の中でそっと目を閉じる。と、自分の境界が曖昧になって闇に自分が溶けるような気がした。
黒に溶けて、攪拌されるように空へと広がっていく自分。茶葉から紅茶が滲み出るように。
時折窓から吹き込む風が肌に触れて、私と空の境界を主張するだけで、それすらも次第に曖昧になってくる。
昔私は、空になりたいと思ったの。
この地上を覆う空に。
空を飛びたいとは思わなかったけど、空になりたいと願っていた。
もちろんそんな願いは叶えられるはずも無い。あまりに抽象的過ぎて魔法をもってしても不可能。
だけど想いだけはやっぱり空に飛ばして。
彼女と出会ったとき私は、彼女が輝ける、彼女の為の空になろうと想った。
だけど────
突然、閉じた瞼が明るく光る。
その明るさに目を開けてみれば、黒い森から一条の眩い光が空に向かって伸びていた。
それは何度も見た事のある魔法。彼女の眩く力強い光。
ああ、彼女が輝ける空になろう、そう思ったのに。
暗い空に伸びる光の帯を見て、両手で自分の身体を抱いて震える。
彼女の光は強くて、あらゆる星も、月さえも飲み込む。
私に成れるのはせいぜいこの窓で仕切られた狭い空で、映る光景は僅かな星ばかり。強い光は収めきれない。
これだけ強く輝くんだもの。狭い空なんて必要ない。
なんて自惚れだったんだろう。彼女を私の狭い空で捉えようだなんて。
部屋の中を、昼間の太陽よりも明るく照らす、彼女のその魔砲に見とれる。
風が吹いてざわざわと木々を鳴らすけれど、彼女の光は揺らめきもしない。
パワーの極みとも言える一途な魔法。まっすぐで意志の強さを表すような魔法。
その魔法を見るたびに私は自分の力の無さを痛感するの。
あなたのその力に、何度歯噛みした事だろう。
私は『弾幕はパワーだ』なんて言い切れる程の力なんて持ってない。
私は魔法使いの肉体を持っているけれど、それほどまでの力は持っていない。
長い時を生きる事ができ、それに応じて彼女よりも知識が深く、より複雑な魔法を使えるけれど、単純なパワーでは及ばない。
それは何も不思議な事じゃない。
魔法はその身体に宿るものではなく、心に宿るものだから。
魔法使いの力は、その想い。
魔理沙の力の源は焦がれる恋で、私の力の源は滲む夢だ。
花火のように燃え上がる恋は炭火のようにくすぶる夢よりも激しく一瞬で、刹那的で強大な力。
そんな力は私には出せない。
私も恋を力の源にすれば、彼女のようなパワーが出るのかな。
そう思って、昔に一度だけ習得しようと試みてみた。
だけどそこで止めてしまった。
だってその想いはあまりに深く、奈落を見るがごとく黒々と闇の穴が広がっていて先が見えなかったから。
自分の全てをなげうってなお、暗闇を見通すことは出来そうも無く、それにもかかわらずその闇を降りていかねばならない。
そして私は、入り口で足がすくんで踏み出せなかったの。
私には怖くて、手の出せなかった魔法。
それをためらいも無く使えるあなたが眩しい。
光が消えて、辺りは再び闇に閉ざされる。
呼応したように風の音も、虫の声も止んで静寂が周囲に立ち込めた。
あまりに強い光だったからだろうか。光が止んだ今でも、その輝きが瞼に焼き付いて離れない。
眩んだ目は星を見ても目に捉えられず、ただ闇を映すのみ。
暗闇の中でただ立ちすくむ。魔理沙は眩しくて、あなたを見てしまえば他のものなんて見えない。魔理沙が照らしてくれないと、目の前の足元すら暗すぎて歩けない。
だけど、そのうちに目は再び闇に慣れてきた。星も再び目に映る。
あなたを見なければ、再び周りが見えてくるのかしら。今は寝ても覚めてもあなたの顔ばかり思い浮かぶけれど、それ以外も見えるのかな。
「あ────」
瞼から光の余韻も消えた頃、夜空を一つの流れ星が踊った。
願い事を叶えるシューティングスター。だけど私の心は微塵も動かない。
指を組んで願い事を捧げる事も、早口で願い事を唱える事もしない。それどころか慌てて願い事を考える事すらしない。
流れ星に願い事を唱えたって叶うはずも無いって、知ってしまっているから。
その輝きは奇跡の光なんかじゃなくただの摩擦熱。その星は願いを叶える神の秘石なんかじゃなくてただの塵埃。
そんな物に願いを捧げたところで叶うはずも無く、唱えるだけの徒労に終わってしまう。
そうしていつの間にか願いを考える事すら止めてしまった。
流れ星を信じるような幼い頃、魔法使いなら何でも出来ると思ってた。世界は輝きに満ちていると思ってた。
でも実際は出来ない事のほうが多くて。世界の輝きは識れば識るほどに色を失い、だけどいつしかそれにも慣れていった。
沢山の叶わない事を知って諦めたのはいつから? 届かない事に満足してしまったのはいつからだろう? 成長とは、限界を知り、壁を見据えることだったの?
そして、いつしか諦観の壁を見つめることにすら慣れてしまった。
魔法使いは願いを叶える為に魔法を使うはずなのに、叶えられる願いしか望まなくなった。
人の願いなんて無数にある。
だけど全部が叶えられるわけじゃない。
全部叶えようとして、失うなんてことはもう何度も繰り返した。
叶えられなかった願いは無念に泣いて。悔しくて、辛くて、ただ手のひらを握り締める事しか出来ない。
そんな思いをさせるくらいなら最初から願わなければいい。
力だってそうだ。
積み上げ続けてきた物が、指の間から零れ落ちる感覚。
それは自信だったり、あるいは力だったり。全てが私の手からすり抜けて落ちていく。
だったら最初から隠して、手に乗せなければいい。
流れ星が消えていった闇に向かって手を伸ばす。
手を星に重ねて、何かを掴むような仕草で手を握り締めた。
伸ばした手を下ろせば、その先には星が変わらずに瞬いている。
もちろん手には何も掴んでやしない。
握り締めた手をゆっくりと開いて手のひらを見つめる。
もう何度も繰り返した仕草。
手を伸ばすのは何かを掴むためじゃない。
伸ばした手は虚を掴んで、自分の手には何にも残らない。それを再確認するために、自分に言い聞かせるために手を伸ばすの。
さらさらと穏やかな風が、白いレースのカーテンを揺らす。
暗闇なのに白だと分かるのは、それが記憶にあるから。
人は記憶に頼って生きている。目は移動を動的なものとして捉える事は出来ない。
現在という刹那の瞬間を切り取って蓄え、それを連続したフィルム映画のように記憶へと変換してやっと識る事ができる。
そうする事で感覚は知識になり知恵となってその身を支えるのだ。
この左目はもう何も映さない。新しい感覚はこの目から入ってくる事は無い。
だけどこの目はゴミなんかじゃなく、今でも大切な物なの。
私のこの目は外の景色を映さないけれど、記憶の光景は未だ鮮明に焼きついてる。
この左目に最後に映していたのは、星の瞬きのような金の瞳と天の川のような金の髪。
その輝きを閉じ込めて、ずっと大事に仕舞ってる。
だから、それで十分。
あなたが居ない時も、瞳を閉じて眠るときも、その光だけはずっと消えない。
あなたのその笑顔が私に向けられる事が無くなっても、きっとこの光が足元を仄暗く照らしてくれるから。
あなたの輝きにはとても届かないけれど、私のような狭い空にはきっと十分だから。
空が再び輝きだす。
天を貫く光の奔流が再び目を灼くのを手で遮り、私は目を閉じた。
◇
:
:
:
(だって暗くなけりゃあ、星が輝けないだろ?)
(じゃああなたの瞳は星かしら。その髪の毛は天の川)
(なら私はさしずめ夜空ってことだな)
(そうね。青空と夜空は同時には見られないけれど────)
:
:
:
「ん……」
激しく地面を打ち付ける水の音で目が覚めた。
どうやらそのまま眠ってしまったらしい。窓辺の机に突っ伏している自分に気が付く。
開けたままの窓から吹き込む風は湿って冷たく、外が雨である事を示している。
まあそれ以前に激しい雨音がこれでもかと言うくらい今の天気を主張してるけれど。
風が少ないから吹き込んではきていないようだけど、部屋の中が濡れては困るのでそっと窓を閉めた。
白いカーテンが湿り気を帯びて重たくなっている。乾かさないとまずいかもしれない。
窓から見える景色は白く煙ってすぐ傍らの木々すら白み、森全体が雲に覆われたよう。
流石にこんな雨では魔理沙も来られないかな。って、自分で断っておいて何を望んでるんだろう。
こんな天気じゃ身動きが出来ない。雨に濡れた魔理沙が雨宿りに来る事も無い。
一日人形でも作って過ごそうか。それとも研究に明け暮れる?
とにかく何かしないと、あなたを思い出してしまいそうだから。
閉じた窓からは、開け放していた先ほどよりも少し小さくなった雨音が聞こえ続けている。耳に騒々しかったその音は、音量を下げてざあざあと部屋を単調なノイズで満たし、逆に静寂を引き立てた。
此処には私一人だけしかいないという実感。いや、私はずっと一人だったんだ。今まで魔理沙が同情でも来てくれていたから気が付かなかっただけで。
静かな音が真綿で締め付けるようにゆっくりと、しかし確実に重たく私を押し潰しにかかる。
冷たいものが背筋を走る。ぶるりと震える身体。それを振り払うように大きくかぶりを振った。
何もしないのは何かに押しつぶされそうで恐ろしい。何か予定は無かっただろうかとカレンダーを見ると。
「あ、いけない」
一つ予定があったのを忘れていた。里に人形劇を見せに行く日だ。
ここ最近ごたごたしていたから危うく見落とすところだった。危ない危ない。
他にも見落としが無いかと予定を見てみる。カレンダーには多くの書き込みがされていて、インドアな魔法使いだけど意外と沢山予定が入っているものねと改めて気が付いた。
でも内容を見ていくうちにまた気が付いた。殆どが魔理沙との約束である事に。メモには魔理沙の字の物だってある。魔理沙が予定の無い日を狙って、勝手に書いていった物。私もそれを見てその日を過ごしていた。
片っ端からそれらの魔理沙との予定を消していくとカレンダーは殆ど真っ白になって。
自分の毎日がどれだけ彼女で占められていたかがわかる。
カレンダーを前に立ち尽くした。
白くなった予定表。それらは一人で過ごす日。静かな、静かなこの家で一日を過ごす。
「……研究が進んでちょうどいいわ」
声に出して、自分に言い聞かせる。
そうだ、魔法使いの本分は研究だ。人形も作らないといけないし、一人でもやることなんていっぱいある。
いつもみたいに魔理沙が隣に居なくたって、一人で出来る行動のはず。
人形劇だって、魔理沙が居なくたって出来るのだ。
とはいえ今回はちょっと問題が。
この雨で、人形劇に行けるのかな?
場所は屋内を借りればいいけれど、さすがに土砂降りの中で人形を運搬するのは大変だ。魔理沙が居れば私が雨避けの魔法を使うのだけれど。って、魔理沙はいないんだってば。ぶんぶんと首を振る。
まあ……昼までには止むかもしれないし、一応準備はしておこう。
何かしてないとやっぱり思い出してしまうから。
そして今は空に太陽が昇っている。結構早く止んだものだ。
昨日の夜も晴れてたから一時的な雨だったのかしら。
これが夕立ならぬ朝立というものなのね。話にはよく聞くけれど、朝の雨ってそんなに珍しいものかしら?
人形を詰めた大きなスーツケースを人形達に持たせて玄関を出る。
しんしんと降りしきる雨音の中で物言わぬ人形をスーツケースに入れる作業はそれなりに気分が落ち込んだけど、外の陽の光を見ると若干元気が出た。
フードを目深に被って空へ舞う。里に出るから傷は化粧で隠した上で、目立たないように髪を被せ、フードで影にしている。
そもそも人形劇に人は要らない。人形を見てもらう劇だから。
人が目立っては困るから、顔なんていつもフードと髪で隠している。
そう。創造主は、必要ないのだ。
神々は人を創ったかもしれないが、人々は神を必要とはしてない。
私が目指す自立人形も、創造主の私を必要としない人形だ。
もしもそんな人形が出来たなら、きっと私は和気藹々と賑やかな人形たちを、一人で眺めているのだろう。
創造主は箱庭に入っていく事は出来ない。もしも入るならば、箱庭の世界にまで自身を落とし込まなければならない。
だから私は、わが手が要らない人形劇を眺めているだけ。そうでなければ自分が人形になってしまうから。
だけど。
私も人形みたいなものだと思った。
陽は明るく照っていて、雨上がりの森は霧に覆われ、飛べば風がこの身に当たるのに暑さも寒さも感じない。
地に足をつけてもふわふわと雲の上を歩いているようで実感が無い。
私は空だと、そう思う。
空は、何も無い空虚な空間が広がっているばかりなんだ。
中身の無い場所を陽が照らして色付いているだけ。私自身は透明な空気みたいなもので。
流れ星はその中に輝ける芯の石を……意志を持っている。
けれど私はそんなもの持っていない。
だからその空虚な空の中に、あなたのような光が欲しかった。
ふわふわとした地面を踏んで、里の大通りを歩く。
いつもと同じ光景のはずなのに、どこかがおかしい。
雨が降ったあとだから? 陽が照っているから? きっと違う。
それはあなたが居ないから。空いた私の隣が、寂しい。
いつだってあなたが傍に居た事を思い出せる。あなたの元気良く大股で歩く姿が目に浮かぶ。
ただこうして歩いているだけでもあなたが隣で歩いている気がするのに、隣にあるのはただの空気だけ。だから奇妙な感じがする。
でもこの違和感だっていずれ消えるはず。慣れてしまえば大丈夫。
中が空っぽだとしても、暗闇で閉じてしまえば分からない。
私はフードを目深に被って、大通りを踏みしめていった。
「げほ……ごほ」
「大丈夫? 魔理沙」
「ああ。悪いな、霊夢」
天井をマスタースパークで吹き飛ばした夜。アレから何日か経って、私はちょっと体調を崩していた。
いや、ちょっとじゃなくて結構。
頭はぼんやりして頭痛がするわ身体は寒気がするわ咳と鼻水は止まらないわで散々な日々を過ごしていた。
それもこれも自業自得といえばそうなんだけど。
天井を吹き飛ばした次の朝、雨が急激にめちゃめちゃ降った。
露天になってた私の家は、当然雨漏りなんてレベルじゃなく降られて、その朝私は水浸しの布団で目覚めたわけだ。
このまま放っていては床が濡れて腐ってしまう。板が反り返るのは仕方ないとしても、腐って使えなくなるのは免れたい。
だから夢の中で水浴びなんかしているわけにもいかずに飛び起きて、屋根にビニールシートを敷く作業を大急ぎでやったのだ。
合羽を着ていてもずぶ濡れになる雨の中、重たい石や風に舞うシートとマイ歴史に残りかねない大格闘をしていた。
雨避けの魔法はアリスが得意なのに、そこにアリスは居ないから濡れ鼠になるしかなくて。
そして格闘に決着が付いた頃、空には晴れ間が覗いていたんだ。
なんて馬鹿らしい。
あがいて、あがいて、そしてそれを手にした頃にはただの徒労に終わって。結局何にも掴めない。
あがく事は無駄じゃないとずっと自分に言い聞かせてきたけれど、このときばかりは前日の事もあってかなりへこんだ。
乾いた笑いを上げて、水が滴る服をつまみ上げる。
その時点ですでに少し寒気がしたから、やばいかな、とは思っていたけれど、身体がだるくて動くのが億劫で。
緩慢な動きで重たくなった服を脱ぐ。下着まで濡れ切って肌に張り付いていたから下着も脱いで。
出かける気も無かったからそのままショーツとキャミソールだけ身に着けて寝ようと思って、着替えてベッドに倒れこめばびしょ濡れで。あまりの冷たさにきゃあとらしくない悲鳴を上げてしまった。
本当に散々な日だった。
濡れた布団を何とか物干し竿に放り投げた後はもう動く気にもなれない。
何とかタオルケットを探し出して、でも寝る場所なんか無いからおんぼろなソファに無理やり身体を押し込めて。
そんな事をしていたから当然次に目が覚めたときには、見事に風邪をひいてしまっていたのだった。
「うつされたりしなけりゃ別に構わないけどね。もしうつしたらぶっ飛ばすけど」
「ただの不養生だからうつらないと思うぜ」
キノコを使った魔法薬には多少心得があるし、備蓄もあったから風邪薬を調合して飲んでおいた。
おかげで体調はだいぶ回復して、一番キツイ所は越えたみたいだ。
これならボッタクリの永遠邸から薬を買わなくたって数日で治るだろう。
キノコの力は偉大だと思う。
「まったく……。あんたが病気だってのに、あんたの恋人はどうしたのよ?」
「…………」
私の恋人? キノコの事か? キノコなら私の病気を治すために大活躍してるぜ。
それともまさかアリスの事? いや、それはないか。アリスはまだ恋人じゃないもんな。
私の恋は結局実る事は無く。恋という名のわがままは相手を苦しめるだけだと気付いた。
恋人だと望む事だって私には出来やしない。
色んな事を思い出してしまって、何も答えられずに俯く。
「はー……」
あきれたようにため息をこぼす霊夢。答えなかったのが何か気に障ったのだろうか。
まあ珍しく訪ねてきて出てきたのが青い顔した病人だったのだから、ため息もつきたくなるかもしれない。
無駄に気を使うし、ヘタしたらうつりそうだもんな。
部屋だって汚いし、床はボロくなってるし、座る椅子は無いし。
窓から射す光は清々しいかと思いきや、部屋の中の舞っている埃を浮かび上がらせて逆に不健康そうに見える。
こんなんじゃ自分の用事だって出来やしまい。
「……そういやおまえ、何しに来たんだ」
「文句を言いに来たのよ」
「は?」
「だってあんた真夜中に魔砲二発もぶっ放したでしょ。すっごい迷惑だっつーの。しかも神社に来た時に文句言おうと思ったら何日も来ないし」
魔法は夜に思いっきり使うもんだぜ。
わざわざそんな事の為に来るとは、霊夢もヒマな奴だ。
まあそれぐらいヒマじゃなきゃ看病なんてしてくれないか。
「じゃあ来てから文句が増えたわけだな」
「そうね。看病なんて無駄に仕事が増えちゃったわ」
「たまには甲斐甲斐しく尽くせばいいと思うぜ。花嫁修業だ」
軽口を言い合って鬱々とした空気を吹き飛ばす。
暗い話は好きじゃない。病気だからといって暗い話をしてたら病状が悪化しそうだから。
病気だって半分治ってるんだ。暗くなって無駄に気を使われてもこっちも困る。
治りかけならきっとこういう下らない話をしてる方が薬になるだろう。
花嫁という単語に反応して眉根をひそめる霊夢。
「……間違っても私にときめいたりしないでね。アリスに恨まれるのは嫌だもの」
「お前は私を何だと思ってるんだ」
「ノンケでもお構いなく喰っちまう女?」
「おま……私が好きなのはアリスであって女が好きなわけじゃないぜ」
「本当かしら?」
「ああ、安心しろ。おまえみたいなぐうたらにときめくわきゃあない。むしろ何でおまえがアリスじゃないのか恨めしいぐらいだ」
「あっそー」
「それに……私が誰を好きになったところで、アリスは恨んじゃなんかくれないさ」
「…………」
と、そこで会話が途切れた。
霊夢が何か返してくるかと思ったけれど、沈黙しか返ってこない。
静かになった部屋。頭にさっき言った自分の言葉が反芻されてくる。
ぽんぽん言い合っている間は内容なんてろくに考えもしないけれど、立ち止まれば染み入ってくる。
自分の言葉が胸に刺さって痛い。
そうだった。私がアリスを好きでも、アリスには関係ない。私が誰と付き合ったところでアリスは意に介さないだろう。むしろしつこく言い寄る奴が居なくなってせいせいするかもしれない。
アリスが別の誰かと付き合えば私は嫉妬するだろうけれど、アリスにとって私は隣人以外の何者でもないのだから。
僅かに涙が滲むのを唇を噛み締めて抑える。手に視線を落として皺になるくらい布団を握り締めた。
ふと、霊夢の手が震えているのに気が付く。何かを溜めているように……?
「はああああああぁぁぁぁ~……」
長い、無駄に長いため息が聞こえた。
なんだ、やたら強調した溜息なんかついて。こっちはそれなりに落ち込んでいるのに失礼な奴だ。
確かに自爆かもしれないけど、そんなに呆れなくたっていいじゃないか。
「まったく、あんたらときたらも~……」
「あんたらじゃないぜ、私一人だ。アリスは何にも悪くないからな」
「はいはい、どっちでも一緒よ。何があったか知らないけど……アリス、呼ぼうか?」
とんでもない事を言う。こいつは状況を分かっているのだろうか? いや分かってないんだった。
そりゃあ出来ればアリスに看病してもらいたい。多分即座に元気になって飛び回る。
だけど今はアリスに会いたくない。
私がアリスを見る目が、蒐集品を見る目と同じだというのなら、そんな目をアリスに向けたくは無い。
そんな淀んだ恋心で会えるはずも無いじゃないか。
「……いや、いい。呼ばないでくれ」
「そう? アリスならそれこそ花嫁というか新妻のように付きっ切りで看病してくれると思うけど」
「それはアリスが優しいからだ。私が特別なわけじゃない」
「……はぁ。言っとくけど、私は来てあげないわよ」
「ああ、大丈夫だ。後は寝てりゃなおるさ」
それから何度目になるか分からないため息を聞きながら、雑談を続けた。
その間も事あるごとにため息をついてたけど。霊夢の癖ってため息だったっけ?
ため息をつくと幸せが逃げるというけれど、逃げるだけの幸せがあるのが羨ましいぜ。
私はいつだってため息を噛み殺してきたけれど、今が幸せだとは言い難い。
逃がさない方法の前に、幸せを得る方法が分からない。魔法は幸せを得る手段だけど、目的が分からないから手に入らない。
そして陽が赤くなる頃に霊夢は帰っていった。
それからは毎日寝て過ごした。
朝寝て、昼寝て、夜も寝る。睡眠と睡眠を睡眠で繋ぐ日々。
寝すぎた頭はぼーっとして、そしてすぐに眠たくなる。怠惰に塗れた時間をただ無為に過ごす。
風邪はとっくに治っていたが、惰性でそんな日を過ごしているばかりだった。
それでも、寝ていれば何にも考えなくて済むから楽。浅い眠りは疲れるばかりだけれど、夢も見ないで済む。
アリスの事も、自分の事も全部頭から追い出して。虚ろな目でただ移り変わる空の色を眺めてる。
昼は晴れた青空。雲ひとつ無い空は高すぎて、開放的なその様相に気分が塞ぐ。自由はあまりに傲慢で、此処で沈んで動けない私には目を背けたくなる物だ。
夜は照らす月明かり。穏やかな光はアリスの淡い髪の色のように優しいけれど、その優しさが胸に刺さる。周りで輝く星々は、私を嘲笑うかのようにチカチカと目障りだ。私は月を取り囲む無数の星の一つに過ぎないんだ。
寝起きじゃ全然食欲が湧かない。
だけどこんな状態だからずっと寝起きみたいなもので、だからずっと食欲が湧かない。
食物を見るたびに、がっつく自分が思い浮かんで、そのあさましくて醜い姿が嫌いで食べるのが嫌になる。
アリスの愛を得ようとしてがっついていた私もきっと、アリスから見れば大層あさましくて醜かったに違いない。
そんなこんなでずっと食べずにいて。
そしたら足元がふらついて、これはやばいと思っては一気食い。
まだやり残した事があるから、死にたくは無い。
でも生きるためにするべき事が全部億劫だった。
「ぁリ……す……?」
いつものように口が覚えてしまった三文字を何とはなしに呟いてふと気が付く。
口がひりついて上手く発音できない。
そういえば水を飲むのすら忘れてたなあ。人間って一日何リットル必要なんだっけ。ここ二、三日でコップ三杯ぐらいしか飲んでない気がする。
一人で寝てばかりだと喋ることも無くて喉が渇くのにも気が付かなかった。下手したらうっかり死んでしまうかもしれない。こんな所で孤独死は避けたい所だぜ。
気が付いてしまうと急に喉が渇いた気がする。人間は曖昧なものだ。気が付かなければ問題にもならなかったものが、気が付いてしまえばとても気に障るようになる。
このアリスへの想いだって気が付かなければ問題は無かったのに。
今は夜か。部屋の中は暗くて月明かりだけが頼りだ。
喉が渇いて眠れないので飲まないわけにもいかず、台所で水を汲んで飲んだら喉に詰まった。飲まなさ過ぎて喉の粘膜が乾いてしまったらしい。上手く飲み込めない。
無理矢理コップ一杯を流し込んで一息つく。
そのついでに、自分の身体の衰弱の事も気になりだした。体重が減ったのは良いけど、貧血でふらつくのはどうにかしたい。
実験室の棚からがさごそと大きな瓶を取り出してくる。
私特製のキノコエキス。ちなみに飲んでも等身が伸びたりはしないし、筋骨隆々になったりもしない。ついでに言えば胸も大きくならない。残念ながら。
味はキノコブレンドで飲みやすいように少し味付けしてある。ベースはシメジ。
原液だと味が濃すぎていかなキノコ好きでも飲めやしないので炭酸水とかで割るのが基本だ。
黄色く泡が立ち上っているそれをぐいっと一気。ファイト一発。
体中に染み渡るその味の感想を一言で言うなら。
「……味気ないなあ」
不健康な味だ。
いつもは結構おいしく飲めた気がするのに、今日はなんだかとても不味かった。
体中に広がって、養分が指先にまで与えられる。コレを飲めば大体一晩ぐらいは調子が良い。滋養強壮には良いはずなのに、どうしても人工感が鼻につくんだ。
水も、栄養ドリンクも味気ない。ただ水分や栄養を取るためだけの液体。身体に必要なものを補ってくれるのに、何かが全然足りていない。
ソレが何なのかは良く分からないけど、ソレを補える物は知っている。飲めばきっと、満足できる物。
頭の中に、湯気を立てる赤い液体が思い浮かんだ。
「紅茶が……飲みたいなあ」
思い立ったが吉日と思って、戸棚から茶葉を取り出して湯を沸かす。日本茶派の私の家には紅茶の茶葉は殆ど無かったけど、いつかアリスがくれた物がずっと取ってあった。
『あんたも紅茶の良さが分かるようになりなさい』なんて言ってたっけ。紅茶の良さなんてアリスのおかげで十分分かってるんだがなあ。それとも淹れるのも醍醐味ということか? 結局、自分でやっても急に美味しい紅茶が出せるわけもなく、アリスの家に行けば美味い紅茶が飲めるから、茶葉は殆ど使っていないけど。
一杯分の水はあっという間に沸く。ポットが無いから急須で淹れて、でも急須だと紅茶の色が分からないから適当な時間で注ぐしかない。そうして淹れた紅茶をコップに注いで飲んでみた。
やっぱり自分で淹れたのは美味くない。ただ苦くて、ミルクを入れても味が合わなくて美味しくならない。
同じように人が煮出した飲料なのに、どうしてこうも違うのだろう。
アリスは色々と注意事項を言っていた気がする。水は最低二杯分だの、沸騰した直後の水を使えだの、丸いポットを使えだのと。
それらを全部守れば美味しくなるのか? 君が淹れたように。
とてもそうは思えない。アリスが淹れないと、ダメなんだ。
周囲を見渡すと、ここ数日ほったらかしになっている部屋の様相が見える。並ぶフラスコ。散乱するメモ用紙。詰まれた魔道書。どこかで拾ってきた標識とか鉄の箱といった蒐集品。
それに混じってとりわけ目に留まるものがある。
茶葉の缶。本棚に並べられた二冊のグリモワール。地底に行った時にもらった通信人形。それに掛けられた青いケープ。
全部アリスがくれた物。それは混沌とした部屋の中にありながら目を引いて。
湯気を立てる紅茶。鳴るべきじゃないのにギシギシと鳴る床。君の肌のように白いミルク。窓から差し込む君の髪のような淡い色の月明かり。
どれもこれも君を想わせる物なのに、肝心の君を見られない。
届かない月に向かって手を伸ばす。せめて光だけでも届かせたい。周りの星々に笑われない輝きで。そうしたら君の家からでも私の光が見えるだろうか?
窓を開け放ってからミニ八卦炉を構える。
「マスタースパー……ク?」
あれ? なんだこのションボリレーザーは。
八卦炉から出た光はとてつもなく弱弱しく、空の途中で掻き消えてとても月には届きそうも無い。
そんなに衰弱していただろうか? いや、さっき栄養ドリンク飲んで肉体だけはまあまあ元気だ。それに魔力は肉体に影響しない。疲れれば精神も弱るから弱くなるのだけれど……。
あ、そうか。精神がダメなんだ。私の力の源は恋だから。
君が居ないと力が出ない。君さえ居れば、どんなに疲れていても最高の魔法が撃てるのに。
二人が一緒なら何でも出来ると思ってた。
あの夜二人で飛んだ時、アリスと一緒に手を重ねて放った魔法は、その胸の高鳴りを示すようにかつて無いほどの威力で、まさに向かうところ敵無しだった。
君が私の名前を呼ぶたびに、無限に力が湧いてきて。
これだけの魔法なら、叶えられない事なんて無いって、そう思った。
だけどソレは大きな勘違いで、その結果がいま目の前の現実だ。
アリスの事は守れずに、想いは届かずに。パワーだけじゃあ何一つ叶わない。そのパワーですら失って。
手から何かが零れ落ちるような感覚。この手に持っていた光は指の隙間から零れて。
流れ星はその身を焦がして、欠けていって。そうして輝きを失っていく。
光を失った流れ星じゃあ何にも叶えられない。流れ星失格だ。
弾幕はブレイン。アリスはそう言った。私もそう思う。
威力が弱くても拡散した方が強いから。
あの時私はパワーだなんて言ったけれど、それは私がパワーに頼った使い方しか出来ないだけで。
アリスはもっと強い魔法を使えるはずなんだ。それでもブレインを巧みに使って最高の弾幕を構築する。
私はアリスみたいに器用じゃないから、そうはいかない。
コレでもアリスの真似をしてみた事はあるんだけど……。
「シュート・ザ・ムーン……」
アリスのスペルを参考にして作ったスペル。魔力を込めた使い魔を使って、魔法を多角的に使えばパワーを使わなくても強力なスペルになる。
沢山の光の腕が月を掴もうと天に伸びて。
だけどやっぱりその弱々しい光は到底月には届かなくて、夜の空に吸い込まれて消えるだけ。
アリスくらい器用で頭脳的ならば、月までも届くだろうか。こんな風に地上から手を伸ばすだけじゃなく、色んな手を講じることが出来るはず。
だけど今の私には、こうして空を眺めて寝転がる事しか出来なかった。
◇
:
:
:
(なら私はさしずめ夜空ってことだな)
(そうね。青空と夜空は同時には見られないけれど)
(夕方なら見られなくもないけどな)
(でもその間は赤で染まってるわよ。青空は、赤く染まらないと夜空には出会えない────)
:
:
:
思ったよりは、寂しさは感じなかった。
毎日人形作りや研究に勤しんでいれば本当に感情は表に出す必要が無い。
同時に身だしなみもかなり乱れてしまっているけれど、誰が来るでもないからかまいやしないわね。
本を読み耽っては研究をして、人形を作っては寝る。あれ、食事は?
魔理沙が来ないから紅茶を入れたりお菓子を焼いたりもせずにキッチンは放置状態だ。
振舞う相手もいないのに一人で作る食事は不味くて、作るたびにあなたを思い出すからやりたくない。幸い、食事は必要ない身体だから放置してある。
と、そこに呼び鈴が鳴った。
私の家にわざわざ来る奴なんか居ただろうか? それとも迷い人?
まさか、魔理沙が来たのだろうか? 魔理沙なら呼び鈴鳴らした後勝手に入ってくるから、その可能性は低いと思うけれど。
とりあえずこんな格好で外に出ては少女として終わっている。ぼさぼさの髪と皺だらけの服を慌てて整えて、カチューシャをつけて扉を開けた。
「……?」
誰も居ない? ピンポンダッシュ……をこんな森の奥まで来てやる奴は居ないだろうけど。
右見て左見て、そして上を見る。人は上には注意が向きにくいものだけれど、幻想郷は飛べる奴が多いから上に相手が居る事も結構ある。だから普通の人里なら右見て左見て終わりかもしれないけど、上だって見ないと見落とす事になる。
そしてやっぱり相手は上に居た。何故か斜めに傾いて。
「どうも。汚く歪んだ斜命丸です」
「射命丸じゃなかったの?」
「ええそうです。今、清く正しい射命丸に戻りました」
くるんと空中で一回転して地面に降り立つ。
「で、何の用かしら」
「宴会のお知らせです」
「宴会、ねぇ」
「あ、魔理沙さんも来ますよ」
「…………」
なぜあからさまに魔理沙の話を出すのだろう。
いや、魔理沙が私に告白していたのは結構知られてしまっているけど、わざわざ魔理沙が来るという事を伝えるという事は今仲違いしている事を知ってるという事だ。
だって普通に考えればこいつがわざわざ宴会を知らせに来なくたって、魔理沙から私に伝わるのだから。
ニコニコと営業スマイルを絶やさない文。このウザさは意図的にやっているのかしら。
「行かな──」
「行かれないのですか? 冷たいお方ですねー」
「はぁ?」
「ああ、言い忘れてましたが今回の宴会は『魔理沙の復帰を祝う会』だそうです。名目上は、ですけど」
「復帰?」
「おや、知らない。風邪でずっと寝込んでたんですよ、魔理沙さん」
わざとらしく驚いてみせる文。その顔はどう見ても私が知らないのを知っていた顔。
挑発しているのが見え見えだけれど、イラっと来るのは確かだ。
それにしても、魔理沙は風邪をひいていたのね。この前弱い光が伸びていたから心配ではあったのだけれど。身体は大丈夫なのだろうか? 宴会に参加するぐらいだから回復したと信じたい。
「まあ知らなかったのなら見舞いに行けなかったのは仕方ないですけどー。でも復帰ぐらい祝ってあげましょうよー。『友人』なんですからー」
「…………」
何の真似だか知らないが語尾を延ばして喋る文。外の世界ではこんな喋り方をする人種が居ると聞くけれど。とりあえず私をイラつかせるのは成功している、と褒め称えておこう。
すると突然、素に戻って話しかけてきた。
「それとも……顔も見たくないほど嫌いなんですか?」
「そんなわけじゃ……」
「じゃあ来て下さい。何があったかは知りませんが、それぐらいはいいでしょう?」
「……分かったわ」
「と、いうわけであんたが主賓だから」
「ちょ、ちょっと待てよ!」
急に来た霊夢にいきなり宴会と言われて混乱する。
私の復帰を祝う会だ? 今まで風邪引いた時だってそんな宴会した事一度だって無いだろ!
どうせ何か口実を作って飲みたいだけだ。なのになんで私を祭り上げるんだ。
大体復帰とは言うが私はまだ全然復帰してないぜ。魔砲だってションボリだ。
「私はまだ復帰してないんだが……」
「風邪は治ってるでしょうが。恋の病なんて知ったこっちゃ無いわ」
「恋……っておまっ」
「とーにーかーく! 仮にもメインゲストなんだから不参加は許されないわよ!」
『仮にも』って言っちゃったよこいつ。
でも反論しようにも目が怖くて反論できない。すごく有無を言わさないオーラが漂っている。宴会は嫌いじゃないが、強制参加ってのは良くないと思うぜ、うん。
でもやっぱり口には出せなかった。
うーん。でもなあ。
「な、なあ、霊夢……」
「何よ。まだ文句あるの?」
「いやそうじゃなくてだな」
霊夢は最初から文句なんて聞く耳もたなさそうだったが、それはもう諦めた。
それよりも普通に物理的に困る事を伝えればいい。
「私、今飛べないんだが……」
「…………」
アシが無ければ行く事も出来まい。歩いて行けなくも無いが、復帰を祝う会なのに病み上がりに歩かせてダウンしたら笑うに笑えんだろう。
どきどきしながら顔色を伺う。
「……はぁ。仕方ないわね」
お? 効いたか?
やっぱりこういう奴には理屈に限る、と思っていたら。
「送ってもらいましょ。紫ー。ゆーかーりー!」
虚空に向かって叫びだす霊夢。
なんという事だ。あのスキマ妖怪に運ばせるつもりらしい。
あいつが居れば確かに足には困らないけどさ!
「ダメね。寝てるのかしら」
霊夢の努力は徒労に終わった。
が、このぐうたら巫女は何故か今日だけやる気を見せている。
「しょうがないから私が運んであげるわよ。ほら」
手を差し出してくる。
こいつが自ら労働を請うなんてとても珍しい。レアイベントだ。
そんなに宴会がしたいのかよ。私抜きですればいい気もするのだが。
なんにせよ私は逃げられないらしい。
諦めて霊夢の手を握る。
「箒借りるわね。その方が効率いいから」
そう言って、霊夢が箒に跨る。巫女と箒って境内を掃除する分には似合ってるけど、跨るとかなり異色だぞ。
ふわりと宙に浮く箒。それに連れて私も箒に乗る。
「軽……はぁ……。無理しちゃってもう……。しっかりつかまってなさいよ」
「ああ」
人の操る箒に乗るなんて変わった気分だ。
なんだか久々に箒に乗った気がするなあ。箒に乗るだけでアリスが隣を飛んでいるような感覚に陥る。
そういえばアリスは宴会に来るのだろうか。こんな私の姿を見たらどう思うだろう。
それを考えるとアリスには会いたくない。
ただの何の価値も無いつまらない人間。そう思われるのが、嫌だった。
宴会に向かう私の心は、弾んでいた。
魔理沙に会うのは避けたいところ、と思ってはいても、勝手に心は期待に膨れる。
何かを話そうとは思っていない。けれど久々に魔理沙の顔を見れると思うと理性がどんなに自制したって頬が緩んできてしまって。
もうこれは身体の反射反応と言っても差し支えないんじゃないだろうか。それほどまでに、魔理沙が私に染み付いている。
神社に着いた時、魔理沙はまだ来ていなかった。準備は殆ど終わっている様子で、主賓待ちということだろう。
空は晴れていて雨も降りそうに無い。宴会にはもってこいの天気。木々から花は散ってしまっているけれど、まだ暑くなるには早いから気温も暑すぎず寒すぎずで最適だ。
境内の石畳を踏みしめる。此処に来るのも結構久方ぶりかしら。
相変わらずの年代がかった殿堂に真っ赤な鳥居。
境内に集まっているのは人妖入り乱れと言うよりも妖怪のほうが多いくらい。特に今は、人間代表の霊夢と魔理沙が居ないから咲夜と早苗ぐらいしか人間が居なくて本当に妖々跋扈ね。
みんなワイワイと騒ぎながら魔理沙を待っている。
やがて森の方角から二人が姿を現した。仲良く箒に二人乗りで。
……あの二人は昔から仲がいいから。だから別に気にする事なんかじゃない。
大体、魔理沙が誰と付き合おうと、私にはもう関係ないことなのに。
胸の痛みを押し殺して、魔理沙を迎える。
箒から降りた魔理沙を見て、思わず近寄ろうとして手を上げたけど。
私が彼女の方を向いた瞬間、ふいっと顔を逸らされた。それっきり周りの誰かと話をして、こっちの方は一度も見ない。
上げかけた手は行き場を失って、ゆっくりと降ろすしかなく。
私は何を期待していたんだろう? これがあるべき姿で、あるべき形に収まっただけなのに、何を落胆しているの?
あなたが笑っているのだから、これで良い。これが望んだ形。
人妖に囲まれて笑う魔理沙を、私は少し離れて眺めていた。
席順はなんか意図されたのかなんなのか判断し辛い所だ。
よりにもよって魔理沙の隣とは。まあ今までの宴会で魔理沙の隣だったし、周りもそれぞれで固まっていくから自然とこうなってしまったのかもしれない。
でもこの位置は今回だけは避けたかった。隣り合ってどうなるかは予想できたから。
私の右に居る魔理沙はずっと右隣の霊夢と話していて自分の方には話すこともしない。時折、二言三言言葉を交わすだけで、会話らしい会話も無い。
仕方が無いから私は一人で静かに酒を嗜んで、どこかでバカ騒ぎをやっているのを眺めているだけ。
酒が入ってきて陽も落ちるとだんだんと適当になってくる。萃香が突然巨大化したり、御柱が降ってきて境内に突き刺さったり、兎が脱いだりと、宴もたけなわと言ったところだ。
それでも私と魔理沙の距離は縮まる事は無く、二人の間はまるで壁で仕切られたみたいで。ほんの十センチほどしかない間隔が果てしなく遠い。
ずっと平行線で、触れ合う事の無い手。決して踏み出すことは出来ない、この距離。
と、そこに突然、幽香の声が響いた。
「ああもう、じれったいわね!」
「ああもう、じれったいわね!」
突如響いた幽香の声に、霊夢との会話を中断して幽香の方を見る。
さっきから萃香が暴れたり早苗が自分の神をボコボコにしてたり咲夜がタネ無し手品をやってたりしていたが、それらとはなんか様子が違った。
勢い良く傘を地面に突き立てる幽香。天子の剣じゃあるまいし地震は起こらない。
と、思っていたらいきなり周囲からツタがボコボコと生えてきた。
「うわっ!」
何事かとうろたえている間に幽香の操るツタが私の手足を縛り上げる。
周囲でいくら騒ごうが気にはしないけれど、まさか自分に矛先が向いてるなんて思わないじゃないか。
周りを見ても他に誰も縛られちゃ居ないのに……?
なんとなく予感がして左を向いた。予想通り、アリスも縛られている。
なんてこった。何をしようとしているのかモロ分かりだぜ。
とはいえ私には何も出来ない。周りでやんやと囃し立てている奴らめ、覚えてろ。
新たなツタが伸びてきて二人の身体をまとめて縛れば、向き合って身体が密着する。身体の前面に色んなものが当たって顔が熱くなる。
とっさの事に判断が出来ない。アリスって細いけど、意外と柔らかくて暖かいんだな。そんなことを考えたりしているうちにツタはさらに増えて。
その間もずっとアリスは顔を伏せたままで、私を見てはいない。視線を合わせなかったのは私のほうだけど。
ツタが頭に巻きつく。
ん? まさか?
気が付けば、目の前にアリスの顔が迫って────
おい、待てよ! こんなキスって有るもんか。確かにずっとこの唇を熱望してはいたけれど、こんな強制的なやり方なんて無い。キスはお互い見詰め合ってするもんじゃないのか? それでもやっぱり目の前の薄桃色の唇はとても魅力的で。
心の準備が出来ないまま、その瞬間が来てしまいそう。
どうすればいいか分からなくなって、とっさに目を瞑った。
次の瞬間訪れたのは、束縛からの解放感と落下感。
ぱちくりと目を開けてみれば、人形が剣を持ってツタを両断していた。
「あ……」
尻餅をつく私の横にアリスが立って幽香を睨みつけている。
蒼い瞳が一直線に幽香を射して。宙に浮いた人形は剣を幽香に向けて。
毅然としたその姿はやっぱり美しくて、つい見とれてしまう。
「もう酔っ払ったのかしら? 四季のフラワーマスターさん」
「ええそうかもね。世話焼きなんて私らしくもなかったわ」
「妖怪は酒に強いと思っていたのだけれど」
「あんたみたいに暗くチビチビ飲んでるわけじゃないもの」
肩をすくめる幽香と手を水平に上げて牽制するアリス。
急に静かになった境内に、アリスと幽香の声だけが響き渡る。
「それに酔っててもあんたよりは頭はしっかりしてるけどね」
「なんですって?」
「だってあんたの行動はずーっと酔っ払ったようにふらふらしっぱなしじゃない。ねぇ? 千鳥足の人形遣いさん」
「そんな事無いわ」
「そう? その割には人形を操る腕が落ちたみたいだけれど。人形劇も研究も人形作りも芯が入ってなくてふらふらふらふらと」
「…………」
「そこの黒白の事だって。目を失くしてから心まで盲いたのかしら。なんだかんだと引き伸ばして。悲劇のヒロインでも気取ってるの?」
幽香が近寄ってくる。人形が剣を構えている事もお構いなしだ。
そのまま歩きながら言葉を続けて。
「あんた、忘れてるんじゃない? 魔理沙がずっと傍に居るわけじゃないって事」
私とアリスのちょうど真ん中で立ち止まって、腕を掴んで私を立たせる。
顔はアリスの方に向けたままだから、ちょっと持つ場所が悪くて痛かった。
「あんまりのんびりしてると、ほら」
そしていきなり幽香が振り返って私の目の前に顔を近づけた。
周囲からどよめきが上がる。
私は、一体何をされているんだ?
幽香の手が腕を強く掴んで離れる事も出来ない。
ほんの一、二センチの距離で幽香が囁く。
「(あんたは黙ってキスされてるフリしときなさい)」
そうか。アリスから見ればちょうど口元は見えない。そのためにこの位置取りをしたのか。
私と幽香を見て固まるアリス。その手は動いてくれるだろうか?
でも人形の剣はピクリとも動かずに時間だけが過ぎていく。
多分十秒ぐらいだろう。幽香の顔が離れていって、再びアリスに向き直る。
「私が盗っちゃうわよ?」
そして唇をペロリと舐める仕草をした。
てらりと赤い肉が夜のかがり火に妖艶に煌く。
しばらくアリスは黙っていたが、やがて口を開いて。
「……そう」
ただその一言だけだった。
たったそれだけなのか? 盗られても構わないのか? 心が落胆に沈む。
私が誰と付き合ったところでアリスには関係が無い。それを見せ付けられた。
やっぱり、アリスと今日会うべきじゃなかったんだ。会わなければ希望だけでも、アリスに好かれていると思うことが出来たのに、もうそれすらも叶わない。
「ごめんなさい。お先に失礼させていただくわ」
「(あ、あれ?)」
それだけ言って背を向けて、神社を後にするアリス。
幽香が小さな声で戸惑うような声を上げるのが聞こえる。
それから後は霊夢とか早苗とかが寄ってきて囂々と口喧嘩を始めだした。
「あんた気が短すぎんのよ! 大失敗じゃない!」
「なによ! やる事やったんだから良いでしょ! 途中をちょっと端折ったくらい」
「端折りすぎですよ!」
「だってアレじゃあ進展が──! ──!」
「────!」
それらの喧騒も全く耳に入ってこない。その場に立ち尽くしたまま身動きも出来ない。
霊夢がアリスの後を追うように飛んでいって、幽香が何か色々言われてたけど、その間もずっと私はアリスが飛んでいった空を見つめるだけだった。
「ちょっと! 待ちなさいよ!」
「あら、霊夢」
家に向かって飛んでいると、霊夢が後ろから追いかけてきた。
それなり速度で飛んでいたと思うのだけれど、それで追いついてきたということはだいぶ速く飛んだのだろう。
息を荒げて私の前に立ちはだかる。
「先に帰って悪かったわ」
「そんなのどうでもいいわ。それより何でなんにも言わないのよ!」
「なぜ? 誰が魔理沙を好きになったって、それはその人の自由じゃないかしら」
「でも、あんたは魔理沙が好きだったんじゃないの?」
「仮にそうだとして、それで私が嫉妬するのはお門違いじゃない?」
にっこりと微笑む。
心の中は霊夢の言うとおりどす黒い感情で荒れ狂っているけど、そんなのは微塵も出さない。
だって、誰かを好きになるのは自由なのに、それを妨害するのは愚かな事でしょう?
嫉妬は、謂れの無い憎しみ。向けられる側にとっては理不尽この上ない。
第一、私は魔理沙のことで嫉妬するべき権利すら持ってはいないのに。
「その笑顔、本当にいつも通り」
私の顔を見て呟く霊夢。
いつも通りということは、いつもの様に感情は隠せているという事だろう。一安心である。
下手をすればこの黒い感情は漏れ出てしまいそうだから、そうなったら霊夢に悪い。
感情は伝染するものだから、うつらないように自分の中に溜めておくのが正しい処置。
いかに内心が荒れていても、いかに拳を握り締めていても、顔だけは笑顔でなければならない。
「本当に、器用ね」
「……どうも」
霊夢が憎々しげに呻く。それに対して礼を述べた。
理不尽な感情は、隠さなければならない。だからそれは誉め言葉。
しばらく沈黙が続いて、星の瞬きの中でただ対峙している。
「魔理沙は、今飛べないわ」
「え?」
「魔法が使えないって言ってるのよ。あんたのせいでね」
ああ、なるほど。私は魔理沙の恋も奪ってしまったのか。
恋色魔法使いを休職させる事になってしまうとは。
「そう……でも、いずれ幽香あたりが復活させてくれるんじゃないかしら」
「あんたは、復活させてやらないの?」
「私には出来ないわよ。霊夢だって見たでしょ? 魔理沙はもう私を見てないもの」
魔理沙は失恋したから恋を失ったんじゃない。
恋心が消滅したから恋を失っただけ。
私には復職は出来そうに無い。
「もういいかしら? ちょっと、一人になりたいの」
何か言いたげな霊夢をすり抜けて、私は家へと帰っていった。
家に帰って、一人佇む。
魔理沙はどうしたのだろう。きっとまだ境内で笑っているんだろうな。
沢山の人妖に囲まれて。
ほら、私なんか必要ない。私じゃあ笑わせられないけれど、他の皆なら笑わせられる。
そうして、それを見るたびに自分の気持ちが分からなくなる。
私は魔理沙が好き。
でもその『好き』は一体何?
私はその感情が友人としてなのか恋人としてなのか、ずっとよく分からない。
私には親友と言えるような人も恋人と言えるような相手も、未だかつて居なかったから、判断する事が出来ない。
会話を交わす友人ぐらいはいた。けれどそれはごく日常的な会話で、一緒に何かする事も皆無で、プライベートな所まで関わる事なんか無かった。幻想郷に来てからはその人たちとも疎遠になって、元々有って無いが如き関係など霧散してしまった。
だからわざわざ家に招いてこうして笑いあうなんて魔理沙が初めてだったし、一緒に異変を解決しに行って同じ部屋で眠ったりなんてのも初めての経験だった。
異変解決に魔理沙を誘う時だってどうすればいいのか分からなくて。それ以前にも魔理沙に宴会とか弾幕とか誘われて親しくはしてくれてたけど、自分から誘う方法なんて分からなくて、とりあえず喜びそうなものを持っていったりした。
いつだって魔理沙は優しくしてくれて、私なんかにも笑いかけてくれて。
ただ友人として接してくれたのを、恋と勘違いしたんじゃないの?
いくつもの体験が初めてだったから、その期待と不安をトキメキと間違えたんじゃないの?
「違う……」
どう違う?
彼女を見た時、私はどう思った?
人懐っこく人気者で、可愛らしい容姿に真っ直ぐな心根。強引で傍若無人な所もあるけれど嫌悪感を与えない魅力。弁が立つわけじゃないのに人を引き付ける会話。周囲には笑いが絶えず、どこかの幸福ウサギよりも幸福を惜しげもなくばら撒いている。
全部、全部自分に無いものばかり。
私は空で、何も無い。彼女は星で、意志と輝きを持っている。
だから私も空虚な空の中に、魔理沙の様な光が欲しくて。
あなたが羨ましい。
この感情は愛情などではなく、ただの羨望じゃないの?
それで彼女を欲してたの?
皆の目を引き付ける彼女を、私も追いかけて……それは単にアイドルに憧れるファンに過ぎなかったんじゃないかしら?
「違う!」
羨望じゃないなんて言えないでしょ?
魔理沙に嫉妬したことなんて、何度だってある。
ほら今日だって。
彼女は風邪が治ったというだけで宴会が催される。
皆に囲まれて祝ってもらえる。
そんなの私には無い。あなたは輪の中心で、私は輪の周りの一人。
恋人に嫉妬するなんて。
あなたのその気持ちは、本当に恋?
「ちがうちがうちがう────!」
叫んでもここにそれを受け止める相手は居ない。
ここに居るのは私一人だけど、それでも叫ばずにはいられなかった。
自分に言い聞かせるように、何度も否定の言葉を叫ぶ。
幽香が魔理沙にキスをした時、幽香に嫉妬したのは事実。
でも幽香への嫉妬以上に、自分自身が嫌だった。
自分は何にも出来ないくせに、嫉妬する権利なんてあるはずも無い。
諦めた筈なのに、嫉妬だなんておこがましい。
本当に愛しているならば、彼女が笑顔になってくれただけで幸せなはず。
なのに私は、自分が笑わせたいなんて気持ちをどこかで持っていて。
皆に囲まれて笑う魔理沙を見て、黒い気持ちが湧き上がってきた。
それが自分で許せなかった。
部屋の隅でうずくまって目を閉じる。
まあ、それももう関係ない。魔理沙はもう来る事も無いだろうし。
そう思ってもう寝ようと思った時、呼び鈴が鳴った────
「まったく!」
私の目の前で幽香が腰に手を当てて怒っている。
他の奴らは酒を飲んでいる。どうやら幽香が謎の責任を負わされて私の対応に当たっているらしい。
その仕草はなかなかに可愛らしかったが、絶大な力を持っている妖怪という事を思うと微妙に怖い。
「せっかくのお膳立てしたっていうのに、何で肝心のあんたがアリスを避けるのよ!」
「い、いや、だって……どんな顔すればいいか分からなくて」
たじたじになりながらも答える。ホントは答えたくなかったが相手が相手だ。黙ってたら殺されかねん。
鋭い眼光が私を射して後ずさりしそうになるのを何とか堪える。
「普通にしてりゃいいのよ」
「普通……って、どんなだ?」
「あん?」
普通といわれたって困る。アンケートなら一番ダメな答えだ。
私は彼女の前じゃ普通じゃいられないのだから何にも意味が無い。
「だって、彼女の顔を見るたびに私は息を飲んで、そして何も考えられなくなる」
「でも前はそれで普通に接してたんじゃないの?」
「そうだけど……でも今はダメなんだ……。私が話をしたって、気が付いたら傷の話をしてアリスに辛い思いをさせるだけで。それだったら最初から話さなければいいって」
「あんた、まだあの傷の事気にしてんの?」
「気にするなって方が無理だろう。アレは私のせいで負ったんだ」
「気にするからあの子が嫌がるのに」
「そりゃもちろん出来るだけ避けるさ。でもやっぱり何らかの形で償わなきゃじゃないか」
「なに? それであんたは告白してんの? そんな理由で想われたんじゃやっぱり受ける気にはならないわよ。あの子もかわいそうに」
「ちがう! ソレとコレとは別だ! 私はアリスが好きで……」
「だったら気にしないほうがアリスの為。アリスを笑わせるために、あんたはアタックしてるんじゃないの?」
「そう、そうだけど……でも、私じゃアリスは笑ってくれないんだ」
最初は、そう思ってた。アリスを笑わせてやろうと思って。私が傍に居れば悲しい顔なんかさせないと誓った。
けれど見せてくれるのはいつも通りのあの笑顔で、あれじゃあ心から笑ってるとは言えない。
いくら通ったってあの顔しか見られなくて、それもそうだ、私ばっかり恋を押し付けたって笑うわけが無い。
私が笑わせてやるなんてそんなの思い上がりだったって、この間やっと気が付いたんだ。
「それに、私はアリスを愛してないんじゃないかって思って」
「はぁ?」
「私はアリスの普段見せない部分を蒐集してるだけなんじゃないか。傷ついたから直すなんて、そんなつもりじゃ無いけど、心の奥底ではそう思ってるんじゃないか。そんな事を考えるんだ」
「…………」
「アリスを好きなのに、アリスのして欲しい事をやってあげれてないと思うんだよ。愛って、相手の望むものを与え合うもんだろ?」
「…………」
「私は恋を押し付ける事しか出来ないんだ。相手が望むものを与える愛を持ってない。そう思ったら、アリスの前で何を話せばいいのか分からなくて……?」
さっきから幽香が押し黙っている。
じっくり聞いているのかと思ったけどなんか様子が違う。
手が動いているから寝てるわけでもなさそうだ。
「幽香……?」
返事が無い。ただの屍のようだ……じゃない。
良く聞けば何か呻いていた。
かろうじて聞き取れるぐらいの声で。
「だ、か、ら」
何か気合を腹に溜めている様子。ゴゴゴゴとか擬音が聞こえてきそうな勢いで。
手がゆっくりと動いて、私のほうを向いて……?
「それがじれったいって言ってんのよおおおおおおおお!」
「うわっ!?」
幽香の叫び声が空へと木霊し、極太の光撃が私の髪の毛を掠めて夜空を撃ち抜いていった。
境内の石灯籠を吹き飛ばして木々の枝を巻き込み、星の彼方へと消えていく。
驚いてバランスを崩した私の胸倉をいきなりガッと掴み、顔を近づけて怒鳴りだす。
「そんなんだから魔砲がションボリになっちゃうのよ!」
「か、関係有るのか? それ」
「恋? 愛? そんなの英語にすればどっちもLOVEよ! ラーブ! エル・オー・ブイ・イー!」
「確かにそうだが……」
「重要なのはコレだけ! あんたはアリスを好きなの!? 嫌いなの!?」
「好き、です……」
「じゃあアリスはあんたを好きなの!? 嫌いなの!?」
「多分……きら……」
「多分じゃない! 実際どうなのかって訊いてんの!」
「……分かりません」
「そこよ! そこ! あんたはまだ好きとも嫌いとも言われて無いでしょうが!」
そこまで捲くし立ててから、ふっと息を夜空に吐いて私の胸倉を離した。
魔砲とあまりの大声に、宴会で飲んでいた奴らも静かになっている。
気迫に押されて思わず敬語になってしまっていたが、良く考えれば確かにアリスには好きとも嫌いとも言われてなかった。
目から鱗が落ちた気分だ。
「あんたがどう恋の決着をつけようが知らないけどさ。せめて返事を聞いてから終わりなさいな」
「……ああ!」
なんか元気が湧いた。
そうだ、アリスに返事を聞きに行こう。アリスに会おう。
アリスに会いたいと思うと、恋心も奮い立つ気がする。
現金なものだが、まだ完全に恋の火が消えていなかったのを知って安心した。
「ほれ」
幽香から投げて寄越されたのはミニ八卦炉。それと同時に傘を構える。
傘に隠れた顔から不敵な笑みがちらりと見えて。
その一瞬で幽香のしたい事を理解した。
八卦炉を力強く握り締めて掲げて。
「マスタースパーク!」
その傘に向かって、魔砲を放った。
激しい光が傘にぶつかって弾ける。星の奔流が天の川の様に連なって激突し、星屑となって夜空に溶けていく。
光が弾けて消えた後、幽香が笑ってこっちを見ていた。強大な妖怪として恐ろしいはずの笑顔。だけどその力強い微笑みは恐ろしくは無く、頼もしい。
「じゃあ、行ってくるぜ」
「行ってらっしゃい。なんだったらアリスにも魔砲撃って怒鳴りあげて来るけど?」
「いや、それは遠慮しとくぜ。私がちゃんとやってみせる」
箒を掴んで浮かび上がる。久々の自力飛行。空を飛ぶってこんなんだったんだなあ、としみじみ思う。
二、三回転練習がてら境内の上空を旋回し、そして、森の方角へ柄を向けて箒を翔けた。
◇
:
:
:
(でもその間は赤で染まってるわよ。青空は、赤く染まらないと夜空には出会えない)
(なら、星が青空で輝けばいいぜ)
(そんなに明るい星があるかしら)
(無ければ、成ってみせるさ。だから────)
:
:
:
突然鳴った呼び鈴。その後返事を待たずにドアが開く音。大股で歩いて、床を鳴らすその足音は、聞き慣れていたはずの懐かしい音。だいぶ長いこと聞いていなかった。
家の明かりは全く点けていないから私が何処にいるか分からないと思うのだけど、その足音は迷い無くリビングに入ってきた。
ゆっくりとリビングの扉が開く。
「……魔理沙?」
扉の前のシルエットが身じろぎする。
窓から離れていて月明かりも届かないから、誰が居るのか顔は分からない。
けれど小柄な身体に大きな帽子のその影に合致する人物は、私の知る限り一人しか居ない。
呼吸を整えるように、深呼吸をする息遣いが聞こえた気がした。
静かに、その人の声が部屋に響く。
「ああ」
その声は私が最も聞きなれた声で、すぐに誰だか分かる。
もう会うことは無いと思った矢先にコレだ。私の予想は大ハズレ。
明かりを点けて無くてよかったと思う。此処が部屋の隅でよかったと思う。
此処なら月明かりは届かないから、顔を見られずに済む。乱れた服も掻き毟って荒れた髪も見えない。
そして何より、どんな顔をして魔理沙に会えばいいか分からなかったから、声だけで済むのが助かる。
「何しに……来たの?」
そうだ。魔理沙は何をしに来たのだろう。それが疑問。
魔理沙はもう何日も来なかったのに。それは風邪を引いていたせいかもしれないけれど。
でも少なくとも宴会ではもう私と顔を合わせようともしなかった筈なのに。
それが急に会いに来るなんて何か事情があるとしか思えない。
たとえば……私との決別とか。
「最後の、告白をしに来た」
最後ということはやっぱり誰か相手を見つけた報告だろうか。
箒に乗って自力で飛んできたみたいだから、恋は復活したのだろう。
随分と早い復活だけど、なんにせよ恋色魔法使いを廃業しなくてすむなら良いことだわ。
もの寂しくはあるけれど、自分の罪を誰かが癒してあげたのなら感謝してもいいくらい。
「……そう。相手は、幽香?」
「違うぜ」
「じゃあ霊夢かしら」
「違う」
口付けを交わした幽香でも無ければ箒に相乗りしていた霊夢でもないの?
じゃあ一体誰かしら。他にいい人が居るのかな。
暗闇の影が一呼吸待ってから声を発する。
「アリス……おまえだ」
「え……?」
「さっきは無視して悪かった。ごめん。でもこれだけは言っておくぜ。私の好きな相手は、ずっとおまえだけだ」
まだ、諦めていなかったのね。本当に諦めが悪いけれど、実直で意志が強い人。
その力強さが、私の目には眩しくて、妬ましい。
シルエットが動いて、部屋に入ってくる。
思わず、拒絶の言葉を発した。
「来ないで」
一瞬たじろぐ影。
しかし次の瞬間には再び歩き出して、向かってくる。
月明かりの届く場所まで来ると、魔理沙の顔が見えた。
夜の暗さの中でなお輝く金色の瞳。どんな星よりも明るく目立って。
月の淡い光を反射して煌く金髪。天の川の様にさらさらと連なっていて。
こっちの位置ははっきりとは分からないはずなのに、その金の双眸で私をまっすぐに突き刺してくる。
「来ないで……告白ならソコでも出来るでしょう?」
「大切なことだからな。今度こそ、おまえの瞳を見て、言いたい」
歩みを全く止めようともしない。
瞳を見て、だって? この青い瞳を見るのだろうか。この白く濁った左目も見るのだろうか。目を逸らすことも許されずに、あなたのその光で突き通すの?
今まで魔理沙はこの目を見てもたじろいでいたのに、今日はやり遂げようとする強い意志がその目に宿っている。
そんなの眩しすぎる。きっと耐えられない。だけど見て欲しい。
私には無いその光をこの目に宿したい。
魔理沙のその光が好きで、羨ましくて、妬ましい。
それでも嫉妬なんかしちゃダメで。私を含めた皆を均等に照らすその星は、私一人が独占してはいけない筈。
星が近付いてくる。もう二、三歩で届く距離。
近くなりすぎればその星をこの手に掴みたくなってしまう。
星は手が届かないものだと、毎晩暗闇に手を伸ばしては言い聞かせてきたのに、思わず手が伸びてしまうに違いない。
ソレは掴めない物。掴んだら壊れる物。そして指の間からすり抜ける物。
掴んでは、いけない物。
だから手の届く距離にあってはいけないのに、魔理沙はお構いなしに進んでくる。
「それ以上、近寄らないで」
暗闇から魔理沙の目の前に現れる人形。戸棚の上から操って魔理沙の前に立ちはだかる。
そして彼女の足はそこで踏みとどまった。
目の前に突きつけた銀の輝き。私がよく人形に持たせている、銀の槍。魔理沙は最初それが何なのか近すぎて分からない様子だったが、ややあって槍だと理解した様だ。
しばらく時が止まった。槍を突きつけられた魔理沙は動けないし、私も動けない。
ただ魔理沙の双眸を見つめる。魔理沙は月明かりに晒されているのに私は陰に隠れているから、魔理沙からは私の目は見えないだろう。
自分だけ隠れて、卑怯者の私。私にはそんな日陰な生き方しか出来ない。
戦うときもブレインと称しては人形の影に隠れ、日常でも何か困れば笑顔を浮かべて流す。
あなたの様なストレートな、周囲を照らすような生き方は私にはできないのだ。
それでも、こうして刃を突きつけられれば、立ち止まらざるを得ないでしょう?
しかし魔理沙は唾を一度飲み込むと、そのまま一歩踏み出してきた。
「あ……危ない!」
叫ぶと同時に指を動かす。と、すぐに人形が飛びのき、突きつけた槍が逸れた。
魔理沙の目尻の下の方に赤い線が走る。
万が一を思ってすぐに動けるようにしてはいたが、あまりに近かったから槍の先端が掠ってしまった。
それでも、ひるんで目を閉じる事もせずに魔理沙は私への視線を絶やさない。
「バカ……! 危ないじゃない!」
「突きつけたのはアリスだぜ」
「それはそうだけど……なんで……」
「お揃いになろうと思ったんだ」
「え……?」
まさか、この左目の様に潰して、対等になろうというの?
いや、とても対等なんかじゃない。私の左目はあの日の記憶を留めているけれど、今魔理沙の目を潰してしまえば暗闇しか残らない。
なぜそれほどまでに全てをなげうって行動が出来るの?
あなたは失うことが怖くは無いのだろうか?
「もしその目のせいで負い目を感じてるんなら、私のこの目だって潰せばいい。そうしたら釣り合いが取れるだろ」
「違……そうじゃ……そうじゃないの」
この瞳は関係ない。それでもあなたは責任感が強くて、この傷の為の犠牲を厭わない。
なんて強い意志だろう。
もしも釣り合っていないところがあるとすれば、この傷ではなくその心。
相応しくないのは私の全て。あなたを包むには狭すぎる空。
「アリス」
「ひぁ……」
気が付けば魔理沙はすぐ目の前でしゃがみこみ、私の目の前に居た。
月明かりが届かない暗い角。だけど流石にこの近さだと目の輝きとか息遣いとかまではっきりと分かる。
俯いた私の目を下から覗きこんでくる金の灯火。思わず目を逸らそうとして。
「アリス」
魔理沙の声に押しとどめられる。目の前の煌いた星が私の目を刺して縫いとめて、視線を動かすことが出来ない。
そんなに見ないで。隠れる所が無い私はとても小さくて弱くて醜いから。
あなたに相応しくあろうと思った。けれど私はとても小さくて、あなたの様にはなれなかった。
そうしたら知識だのブレインだのでガワだけでも取り繕うしかなくて。そう思って頑張ってきたけれど。
でも結局は中身が、芯がない
そして今は目を逸らすことも許されない。
魔理沙の息遣いが聞こえる。息を吸って、吐いて、また吸って。そしてそのままおもむろに口を開く。
「私はアリスが、好きだ。アリスはどうなんだ?」
回答に詰まる。喉から声が出てこない。
いつもの告白とは違った。これはイエス、ノーじゃ答えられない。
おなじ二択でも好き、嫌いじゃあ全然違う。逃げられない。
「正直に答えてくれないか」
「私は……」
魔理沙の事は好きだ。
だけどこれを魔理沙の言うように好きと言ってしまっていいのだろうか?
自分の感情が分からない。本当にこれは恋なのか? 魔理沙に理想を重ねてるだけじゃないの?
それを単純に、好きと纏めてしまっていいのか?
「私の事が嫌いならそれでかまわない。私は嫌われるに足るだけの事をしたからな。あるいは全く興味が無いでもいい。眼中に無いって事が分かればいいんだ」
「ううん。魔理沙の事は──好き、よ」
「アリス」
訊かれたからには答えねばなるまい。
自分でも良く分かっては居ないけど、どんな形であれ好きなのは間違いないと思ったから。
だけどソレを訊いた魔理沙が今にも泣きそうな顔で言う。
「好きな奴に好きって言うのに、そんなに辛そうな顔をする奴なんていない」
「……!」
「本当のコトを言ってくれないか」
しばらくの静寂。
魔理沙の事が好き。これは正しい。じゃあ辛そうに見える要因はなんだろう?
好きな人にただ好きと言えないのはなぜだろう?
それはきっと、私が魔理沙を素直に愛していないから。自分に足りないものを重ねて、羨望に歪んでいるから。
好きと言う度に胸が疑問を投げかけて、それが胸の中で黒く疼くから。
「……嫌いよ」
「……うん」
「そう、嫌い。そのあどけない顔も! 長い髪も! 澄んだ瞳も! 口も! 腕も! 指も! 足も! 声も! 性格も! パワーも! 何度だって告白してくるような所も!」
思いつく限りの、私が愛して止まないあなたの要素を叫ぶ。
口にするたびに魔理沙のそれが頭の中に鮮明に思い浮かんで煌く。
どうしてあなたはそんなにも魅力的なのか。
「身体は頭のてっぺんからつま先まで全部。心だって魔法だって全部。あなたがする行動やたてる音だって全部……!」
あなたが私を惹きつけるものは全部いとおしくて。
あなたを見るたびに身体が熱くなって。
その身体は言わずもがな。声や足音を聞くだけでもこの心を躍らせるには十分で。
「全部全部、私を……皆を惹きつける物ばかり!」
そう、誰も彼もを惹きつける程にあなたは魅力的だから、私だけの好きな部分が見当たらないの。
私も、皆と同じように魔理沙が好きなだけ。
誰が愛したって変わりやしない。自分の想いが、特別なのかどうか分からない。
「どうしてそんなに真っ直ぐでいられるの? どうしてノーと言われても何度と無く告白できるの? どうして目を捨てようとするほどまでに、自分の物をなげうってしまう事が出来るの?」
どうして、奈落のような恋に恐れずに、突き進む事が出来るの?
私は足がすくんで歩けない。魔理沙が照らしてくれないと一歩すら踏み出せないと言うのに。
なぜあなたは何も恐れるものなど無いように生きていられる?
「そんな事自分には出来ない。私は臆病で、影に隠れて、保身の事ばっかり考えてる」
私が欲しいと思うものをあなたは沢山持っていて。
逆にあなたが欲しいと思うものは私は殆ど持っていない。
与えるものなんか何も無いから、与える愛は不釣合い。
「だからあなたのそんな所全てが好きで、好きで……嫌いなの」
あなたの光が照らすたびに、私の嫌なところが浮き彫りになる。
その光が眩しくて、いとおしくて、疎ましい。
だけど、本当に嫌いなのは魔理沙じゃない。そんなの自分が一番分かってる。
「嫌い……嫌いなのよ! 魔理沙を羨ましいって思う自分が! 魔理沙に嫉妬する自分が! 素直に喜んで、賞賛できない自分が……」
嫉妬は理不尽な恨み。恋人を怨む恋がどこにある?
私は欲深くて罪深いのだろう。持っていないからって他人の持っていないものを欲しがって。
それだけじゃない。自分一人が優越感を持とうとしている。
ただ欲しがるだけじゃなくて独占しようとさえする。
醜く欲望に塗れている私。
「そして独り占めしたいって思う自分が、嫌いよ……」
部屋の隅で縮こまっているアリス。
華奢な身体を丸めて、私よりも背が高いはずなのに、とても小さく見えた。
泣いているのか。体を震わせて、暗闇に雫が光っている。
それを見て、たまらなくなって思わず抱きしめた。
まだ『恋人』にはなっていないけれど、我慢できなかった。
「──!?」
「ありがとう」
「何で、礼を言うの?」
「だって、やっと本音で喋ってくれたから」
それは本心だった。
今までずっとノーと言われてきたけれど、嫌いとは言われなかったからずっと不完全燃焼で。
それが今やっとハッキリしたんだ。
笑顔でアリスに向かって笑いかける。
「はっきり嫌いって言われたのに何でそんなに嬉しそうなのよ」
「実際嬉しいからな。嬉しいときには、自然と口が緩むもんだろ」
「嫌いって言ってるんだから離れなさいよ」
「嫌だぜ」
「何でよ」
「私もアリスと同じで、アリスが嫌いだからだ。だから離れてやらない」
アリスの顔がはっと止まって、そして涙が溢れる。
ああ、コレは。
私のコレクションの中でも、とびきりだ。
胸を叩いて、締め付ける、どんな蒐集品なんかよりも魅力的。
「何よ……好きだって言ったじゃない」
「ああ。好きで、好き過ぎて嫌いなんだ」
「屁理屈ね」
「アリスの言った事だぜ」
「……バカ」
私だって、アリスが羨ましい。私には無い器用さにブレイン。その気配り。美しい容姿。夢をしっかり持って、ひたむきに努力する所。
闇の中で煌く青い瞳はとても綺麗で。
夜の昏さの中にあって、澄んだ青空を想わせる。
「そうだ」
「な、何?」
一つ思い立ってアリスの腕を引っ張って立ち上がった。
此処じゃ暗くてはっきり見えないから、最後の舞台はもっと相応しいところにしたい。
家から飛び出して箒を握り締める。
「しっかり掴まってろよ!」
「えぇ?」
アリスの手をしっかりと握り締めて、箒をぶっ飛ばした。
天の真ん中に高く昇っている月に向かって、真っ直ぐに翔ける。
景色が猛スピードで流れて、夜空の星が尾を引く無数の流れ星の様に見える。
これだけ流れ星があれば全部の願いを唱えられそうだ。唱えたって叶うかどうかは分からないけれど、一つぐらいは叶うだろう。そうしたら唱えないよりもずっと良い。
「なあ! アリスの質問に答えるぜ!」
「え?」
「どうしてそんなに真っ直ぐでいられるか? アリスが道を示すからだぜ!」
アリスの青空が私を照らすから。だから曲がった事なんて出来やしない。
「どうしてノーと言われても何度と無く告白できる? アリスが恋の炎を何度でも灯すからだ!」
何度消されたってアリスを見るたびに再び燃え上がって、諦めきれないから。
「どうして自分の物をなげうってしまう事が出来るか? アリスになら、何を捧げたって惜しくないんだぜ!」
私が捧げるのはその傷のためじゃない。アリスのためになら何をあげたって構わない。
空高く昇る。
森の家も、篝火の見える神社も豆粒のように小さくなり、雲だって眼下に見える。
上には雲ひとつ無い空が広がって、空っぽな中に私達二人だけが居る。
「アリス……キス、したいんだ」
「え……」
思わず出した台詞に逡巡するアリス。当たり前か。
私は欲深い人間だ。さっき抱きしめたのに今度はキスまでねだるとは。
けれど、返ってきたのは肯定の言葉だった。
「うん……いいわ」
その言葉を聞いて、箒を手放す。箒が私の前を飛んでいき、更に高みに上っていった。身体を捻って後ろを向く。
慣性でそのまま身体は上昇し、重力に引かれて減速して、やがて頂点に達して。
私のほうが前を飛んでいた分、風が当たって先に頂を迎える。
後から来たアリスとの距離が縮まり。
そうして無重力に浮きながら、アリスの両肩に手を添えるようにして、キスをした。
唇を重ねるだけの、淡いキス。
熱い。
自分のじゃない体温が、こんなに熱いだなんて思わなかった。
いきなりキスされて驚いているのか目を見開いて私を見るアリス。
その瞳の蒼空の中には私の黄色い瞳と金髪が映っていて。青空の中の一等星と天の川。
ああ……青空でも、ちゃんと輝ける星もあるんだ。それを想うと、満足感が心を満たした。
上昇から下降に転じるその一瞬がとても長く思えて。永遠より長い一瞬とはこのことだろうか。
長い永いその時間が過ぎても、まだ私は唇は離さなかった。
落ち始める私の……私達の身体。感じる落下感。
けれどその落下感から来る恐怖なんて何も感じなかった。
今度はアリスのほうが下で風を受けているから、私はしがみ付いているわけではないけど、離れたりはしない。
そのまま淡いキスを続けていたら、背中に何かが触る感触があった。
背中に回されたアリスの手。抱きしめられている。
それに応じて唇を重ねるだけだったキスが、唇を押し付けあうキスになって。
月明かりに照らされた二人の体。瞳は閉じて、唇の感触をひたすらに求める。景色なんか目に入らない。
やがて落下感が消える。つられて周りの景色も止まる。下になったアリスがブレーキをかけたらしい。気が付けば結構地面が近くて、黒々とした森がすぐ眼下に見えていた。
私は全体重をアリスに預けて、宙に留まっている。
「魔理沙……あなた箒が無いと飛べないんだから無茶しないでよ」
「アリスなら支えてくれるだろ?」
「私にはちょっと支えきれないかもしれないわ」
「だったらこの手を離してくれたって構わないんだぜ?
「……そんなの、できるわけ無いじゃない」
「そうか? ほれ」
そう言って私が手をアリスから離すと、アリスが私を抱きしめる力が強くなった。
落とさないように必死にしがみ付いて痛いくらいだ。
不安そうに顔が歪んでいる。
「……ごめん」
「……卑怯者」
非難するような目で私を見る。
冗談のつもりだったんだが、悪いことをしたな。
「刃を避けようとしないのだって、今回だって、私がそう出来ないのを分かっててやるんだもの」
「それは違うぜ。アリスの為なら目を捨てたって良かったし、アリスが支えられないならこの身を捨ててくれたって良いと思ったから、そうしたんだ」
「……だから卑怯なのよ。そんなことしたら、私が後悔するじゃない」
「……そうだな。悪い」
私がアリスを掴みなおしても、アリスの抱きしめる力は強いままだった。
しばらく経って、箒が上空から帰ってくる。
その箒が、私達の横で止まった。
「でもやっぱり、支え続けるのは疲れちゃうわ」
「疲れたら私がアリスを支えるさ」
腕の中の魔理沙を箒に乗せる。
抱きしめたときに初めて気が付いた。
魔理沙の身体はとても細くて、驚くほど軽い。ずっと抱きしめていたのにさほど疲れもせず重さを感じない。これほどまでに魔理沙は軽かっただろうか?
もしかして前より痩せたのかしら。それが私のせいならば本当に悪いことをしたと思う。
「乗せてもらって良い?」
「ああ」
魔理沙と並んで箒に腰掛ける。
二人乗りの箒は少しバランスが悪かったけれど、魔理沙が身体を支えてくれた。
じっと見詰めて、魔理沙が問いかけてくる。
「あの、さ……もう一度訊いていいか?」
「何を?」
「アリスは……私の事好きか?」
さっきとほぼ同じ質問。だけど、今度は素直に言える気がする。
「……ええ。好きよ」
「じゃあ……付き合ってくれるか?」
「……答えは────」
言わなくても分かる、じゃない。そんな逃げは許されない。
自分でちゃんと言わなければ、不誠実。ちゃんと目を見て言ってくれた魔理沙に対して酷い仕打ちをする事になるわ。
「イエス、よ」
そうしたら、それを聞いた魔理沙の目から雫がポロリと零れだした。
金の星が潤んで、ぽろぽろと水滴が流れていく。
「あ、あれ……? 何で涙が……」
今気が付いたように魔理沙がうろたえる。
服の裾で後から後から湧く涙を拭って。
「袖で拭ったら目が傷ついちゃうわ」
「あれ、あれれ……何で止まらないんだ? アリスの前じゃずっと笑ってようと思ったのに何で……」
その言葉に胸が締め付けられる。
そうだ。魔理沙はいつも笑ってくれてた。私の前ではずっと笑顔だったけれど。
その笑顔の裏で、何回、一人で泣いてたの?
振られて悲しくないわけ無いのに、ずっと一人で泣いてたに違いない。
そんな事にも気が付かずに、勝手に話をこじらせて。
本当、自分勝手なのは私の方だ。
「ごめん……ごめんなさい」
「何でアリスが謝るんだよ……。悪いのは私のほうなのに……くそ」
唇を噛み締めて涙を止めようとする魔理沙。
「こうすればいつも止まるのに……」
「無理、しないで。無理に笑わなくていいから」
噛み締める力を込めたのか、その薄桃の唇が切れて血が滲んだ。
「魔理沙!」
目を拭おうとする手を押さえつけて、唇を唇で塞ぐ。
口の中に血の味が広がった。痛みを含んだ、鉄の味。
切れた唇を労わるようにそろりと舐める。ピクリと反応して唇が動くけれど、それを無視して舐め続ける。
じわりじわりと湧き続ける血を舐め続けて。
血が止まった頃に、唇を離した。
「無理に笑わないで。素直に泣いてくれたほうが嬉しいから……」
「……うん」
舐めている間に、涙は止まってくれたようだ。
目には未だに涙を湛えて潤んでいたけれど、魔理沙の顔は無理をしてる様子は無いから一安心だ。
目尻に溜まった涙をまた魔理沙は拭おうとしたから、手を押さえて唇を近づけた。
「拭ったら、目が傷ついちゃうから」
涙を舌で拭う。しょっぱくて温い。だけどそれをとても美味しいと思った。
しばらく魔理沙の髪を梳くように指を通して撫でる。長い髪をさらりと梳くと、指を流れる滑らかな感触が心地よい。これは長い髪特有の愉悦だろう。
この手に掴んだ天の川。月と星に照らされてきらきらと煌いている。
だけど、天の川は天にあって皆を照らすものなのに、この手に在っていいのだろうか?
「でも、こんなキズモノの私でいいのかしら」
「言っとくが、傷が付いてたって付いてなくたって、私は好きだからな」
「そう? でもこの瞳、醜いでしょう?」
髪をずらして魔理沙に見せる。こんなに近くではっきりと見せるのは初めてかもしれない。
左目は見えてはいないが、魔理沙の視線を感じる。
魔理沙はしばらく見つめていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「私は最低な奴だな」
「え?」
「傷が付いていて、嬉しいんだ」
「嬉し……い?」
「私との思い出が、目に見えて刻まれてるって。その目は、私だけを留めてて、他の誰も見ないんだって。その瞳は、私の物だって」
「……うん」
「エゴに満ちた独占欲だよな。アリスは辛いはずなのに、嬉しいなんて」
「ううん。そう思ってくれるなら、私も嬉しい」
「……そう、か。ずっと考えてたんだ。どうすればその目を償えるのかって。元に戻せれば一番だろうけど、私にはそれは出来ないし、医者に頼ったってどうにもならない」
「あなたは償わなくてもいいのに……」
「いや、私が自分を許せないからな。そして自分に出来る事は無いのかって、そう考えて、一つだけ思いついたんだ」
そうして顔を近づける魔理沙。
私の頭に手を回し、耳元で囁くように告げる。
「治せないなら、その瞳を精一杯愛してやりたいって」
熱が、左の瞼に広がった。左目は見えないから最初何をされたのかわからなかったが、感触で舌で舐められているんだと気が付いた。
髪を掻き揚げるように根元に指を差し入れて私の頭を引き寄せ、魔理沙の舌が左瞼を蹂躙する。瞼を濡らして、睫毛に唾液が付くのが分かる。
そうして存分に濡らした後、今度は左の眼球に直接、熱が伝わった。
熱い。目の芯まで熱が染み渡る。
死んだ目には触覚も痛覚も無いけれど、舌の圧迫感が直接触れているんだということを示している。
右目を閉じてその感触に集中すれば、魔理沙の愛撫が手に取るように伝わって。
眼球を舐めれば瞼にキスを落とし、目尻を、目頭を舌がなぞっていって、そして瞼の裏にまで舌が這いずる。
粘膜と唾液が混ざり合って涙のように目から垂れ、顎を伝って落ちていく。
ピチャピチャと舐める水音が左耳と頭蓋を伝って耳を犯し、脳を痺れさせていく。
それは、官能と呼んでもいいほどの快楽だった。
ちゅ、という音と共に舌が瞳から離れる。右目を開けてみれば目の前で魔理沙が笑っていて。
「その瞳が、最高にいとおしいぜ」
夜の星空を二人でドライブする。
冷えた夜風が肌に当たって、濡れた瞳を冷やしていく。
言葉はあまり交わさなかったけれど、手はしっかりと握り締めて。
交わるはずの無い平行線が交わったら、それは一本の直線。ずっと離れる事は無いわ。
「それにしても、長かったぜ」
「何の話?」
「告白。70回目にしてようやく叶った」
「70回目? 71回目じゃないかしら」
「あー? あの事件の後、告白してから私はずっと数えてたんだぜ? あと一回はいつだ?」
「私もずっと数えてたわよ。だから71回目」
「うーん……」
腕を組んで悩みだす魔理沙。
まああの一回は私の思い込みだと思うから。
だからこそ、その時は応えられなかったんだけど。
夜空に光の線が奔った。
「お、流れ星だ」
「本当ね」
「何を願ったんだ?」
「え……何も……」
願いを考える事すら思いつかなかった。
願っても叶わないのは分かっているから。
「じゃあ今からでも願えばいい」
「でも、もう消えちゃったわ。もう遅いわよ」
いつだって願うときは手遅れで、過ぎた願いは後悔という名でしかない。
だけど、もしも今からでも間に合うのなら、叶えて欲しい願いはいっぱいある。
「おまえだけの流星が叶えてやる。こんな出来損ないの流れ星だけど……こ……恋人……の願いぐらい頑張って叶えてみせるぜ」
顔を真っ赤にして消え入りそうな声で『恋人』と言う魔理沙。
その様子があまりに可愛らしかったから、ささやかな願いを一つだけ叶えて貰うことにした。
これからも一杯叶えてもらう事になるだろうけれど、最初の一つとして。
「じゃあ……もう一度、キス、して欲しいな」
◇
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(なら、星が青空で輝けばいいぜ)
(そんなに明るい星があるかしら)
(無ければ、成ってみせるさ。だから……)
(だから?)
(だから……空にずっと、その星を掲げていて欲しい。昼も夜も輝くから、ずっと一日中映していて欲しい)
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読後もすごくすがすがしい気分で、実際の文章量より多い量の文章を楽しんだ後のような感覚でした。
心理描写もちゃんとあって、とても良かったです。
読んでいて凄く続きが気になったし、終わり方も好きでした。
良い作品を読ませてもらいました。
ありがとうございます。
アリスへの想いをエゴと捉えてしまう魔理沙のすれ違いが切ない……。
その分だけ、後半の展開はぐいぐいと引き込まれました。
心理描写が丁寧かつうまくて、とても良かったです。
霊夢・幽香GJ!
最後の眼を舐めるとこで興奮が有頂天した
俺は醜い人間だorz
すばらしい
良いマリアリだった!!!
願わくばこの二人の恋がいつまでも続きますように。
超長編なのに、途中でだれずに読むことができたのがすごい、
素晴らしかったです。
GJ
良いマリアリでした。
私的に理想のマリアリ像。ご馳走です。
あと……18に…要望がない…だと…?ありすぎて困る。是非加筆版をイカロに……。
最後がハッピーエンドで終わって良かった、本当に良かった。
アリスの空とティーカップのところの描写が特にすごかったと思います。素晴らしい文章をありがとうございました!
やっぱりマリアリは切なくて良いです。
ああもう、思い出したらまた泣いてしまいそうになるのでこの辺で失礼いたします。
素晴らしきマリアリに乾杯!
まさにGJ!
まさにGJ!
ゴンさ…(以下略)