星の降る丘、花を手に私は一人。
七夕の夜に彼女の墓参りをするのは、もうここ数年の習慣になってしまった。
いつ行っても彼女の墓は綺麗に整えられている。いつ行っても彼女の墓には新鮮な花が活けてある。彼女がこの世を去ってから何年も経つと言うのに、私は彼女の墓が少しでも汚れているのを見た事が無い。
何だかんだで、色んな人妖に好かれていた。中には一見粗暴に見える彼女の態度を良く思わない者も居たが、それでも決定的に彼女を嫌っている者はいなかったように思える。
きっと、どこまでも真っ直ぐな彼女の気質が、これまた真っ直ぐに相手の心へと届くからだと思う。空を駆ける姿は彗星。放つ魔法は全力。その姿には見る者を不思議と惹き付ける魅力があった。
これ以上綺麗にする必要は無いと思ったから、私は軽く埃を払うだけにした。持ってきた花を供えようとも思ったが、同じことを考えていた者が何人もいるのか、彼女の墓はちょっとしたお花畑状態だ。命日だから、仕方ないと言えば仕方ないのかもしれない。
花を握り締めたまま、反対の手で墓石に手で触れる。ひんやりした感触が、暑くなりつつある初夏の夜には心地良い。空を見上げれば、今にも落ちてきそうな程に綺麗に輝く天の川。
――考えている傍から、一つ。
流れ星に願いを届ける余裕など無かった。あんな一瞬で願いは叶う物ではないし、物理的に願いを三回唱えるなんて無理に決まっている。
それよりも、流れ星を見て彼女を――魔理沙を――思い出してしまう。彼女はまるで流れ星のように生きたから。一瞬の輝きのためにその身を燃やして生きた彼女は、正に彗星と呼ぶに相応しい。
彼女の事は忘れたい記憶では無いのだが、いくら時間が経っても私はまだ弱い。ともすれば今はもういない魔理沙の名を呼んで泣き叫んでしまいそうで、傷は癒えた後こそ痛む物だと再認識させられるのだ。
けれども、私はもうそれから背を向けて逃げようとは思わない。傷が痛むのなら痛むで、これから先の人生もその痛みと向き合って生きて行く。それが私が魔理沙に教わった事の一つだ。
「でも、今日ぐらいは良いよね……」
墓に手をついて空を見上げた姿勢のまま、私はゆっくりと目を閉じる。毎年この日は、この星の降る丘で思い出を掘り起こす日と決めている。
星の光だけが目蓋越しに流れ込んでくる中、私――アリス・マーガトロイドは回想へと沈んでいった。
――それは、とある不器用な魔法使いの物語。
――――――――
第一印象は、殆ど最悪に近い物だった。
唐突に、何の前触れも無く魔界に乗り込んできて、好きなだけマジックミサイルやらレーザーやらをばら撒いて行ったのだ。結局は魔界の創造主たる神綺―― 私にとっては母に等しい人――を倒して意気揚々と帰って行った。
勿論私も弾幕を交わした。それでいて魔理沙はその当時から人間離れした魔力の使い方をしていたから、最初に彼女の暴挙を止めようとした時も、二度目にグリモワールを解放して戦った時でさえ私は負けた。負けた理由はわかっている。 全力を出せる者と出せない者が戦えば、全力で戦った方に勝利の女神が微笑むに決まっているからだ。
魔理沙は常に全力だった。最初に弾幕を交わした時から、最後に異変を解決した時まで。手加減をする事はあっても、手を抜いて戦った事は一度も無かった様に思える。相手と、そして何より自分に失礼だから。魔法の絡む全ての物事に、彼女は誰よりも真剣に向き合っていた。
そしてそんな彼女の姿が、敗北した後の事を考えていつも全力を出さない――出せないのかもしれない――私には何より眩しく見えた。それは殆ど最悪に近い第一印象の中で、唯一ハッキリと彼女に「惹かれた」と言える部分だと思う。
時は流れ、私は魔界を出て幻想郷に住むようになった。目立たない魔法の森の一角に住居を構え、穏やかな日々の中で人形に関連する魔法と自立人形の研究をゆっくりと進める――筈だった。
今でも思い出す、あの冬の五月。普段ならもう桜が咲いて散る頃なのに、その年に限っては桜どころか、冬が終わる気配すら無かったのだ。
別段興味があったわけじゃない。ただ何となく春の気配の欠片を見つけて、フラリと家を出て周辺を散策するついでにその春の欠片を集めていただけだった。 手頃に春を集めたら、家に持って帰って暖を取るなり、研究するなりすれば良い。そんな息抜き程度の散策だったのに、魔理沙は突然私の前に現れたのだ。
魔界で最後に見た時とは、魔理沙は少し変わっていた。淡い青を基調にしていた服は白と黒になってより魔女らしさを出し、乙女らしい口調で理不尽を叩きつける物言いは男性的な物さえ感じる随分とサバサバした物へ。
それでいても箒を駆りながらマジックミサイルを撃つその瞳が昔と同じように輝いていたから、今度は私から弾幕勝負を仕掛けたのだ。昔にやられた時より、自分は進歩した実感があった。魔理沙の全力より私の全力に足らない力の方が勝る。そう思っていたから、私は人形操術の実戦演習も兼ねて戦いを挑んだ。
今は、それがどれ程浅はかな考えだったかがわかる。いや、最初に魔界でやられた時に、既に私は理解していた筈なのだ。全力に対して全力で対抗出来なければ、それは敗北を意味すると。精神の戦いに魔力の大小は関係ないと。
結果を言えば、私の魔法は全て破られた。一つ一つの人形に込めた魔力は、マジックミサイルの数発じゃ破られる事は無い。それは確かな実力の差だ。それでも私が三つ人形を展開する間に、魔理沙は数十の魔力を撃ちだし、幻想の星屑で私の弾幕を強引に薙ぎ払う。
本気を出せば、決して撃墜の追いつかない数の人形を展開する事も出来た? それは確かに事実だが、負けた後では事実も言い訳でしかない。そして弾幕の優美さ、優雅さも問われる弾幕ごっこにおいて、彼女の放った星の魔法をどうしようも無く美しいと感じてしまった事もまた、事実だ。
結局私がリベンジを果たす事は叶わず、一方魔理沙は春を一人占めしていた冥界の亡霊を弾幕ごっこで打ち倒し、異変を解決した。何でも満開になった事の無い桜の封印を解くために春を集めていたと聞いたが、今となってはそれももうどうでもいい。
何が彼女を強くするのだろうか。何が彼女を魔法へと向き合わせるのだろうか。
元々ただの人間である魔理沙が、どうして魔法使いとして生きようとするのか私には理解出来なかった。魔理沙が親に勘当されていたのは後から知った事だが、どうして人里での平穏な暮らしを投げ捨ててまで人外の世界に足を踏み入れようとしたのだろう。
そして私にはそれを知る術が無い。同じ蒐集家としてしばしば対立して、同じ森に住む魔法使いとしてしばしば話などするようになっても、それは変わらない。
単純に「どうしてそこまで必死になれるの?」と聞けば良かったのかもしれない。特に質問を深く捉える事も無く、お茶を飲みながら魔理沙は答えを返しただろう。でも私がその質問を魔理沙に投げかけたのは、枝分かれしていた運命がいつの間にか一本道になってる事に気付いてからだった。
けれど私は、最初に出会ったときには見えなかった魔理沙の色々な面が見えていく度に、自分の中に秘めた魔理沙への質問を抑えこんだ。次第に満たされていく現在を過ごしていると、過去は段々とどうでもよくなってくる。
実験に失敗して顔を煤だらけにした魔理沙に笑い、家の中に山積みになっている魔導書について意見を交わし合い、その魔導書の本来の持ち主であるパチュリーが現れた時には、黙って本を持ち出していた事をパチュリーと一緒になじった。その後は度々三人で顔を合わせては魔法の研究をしたりして、それこそ下手に過去の事に触れて何かが変わってしまうくらいなら……と、私は考えるようになっていった。
つまるところ、私は魔理沙から逃げていたのだ。
私の魔理沙に対する意識が変わり始めたのは、恐らくあの夏の終わりの異変だ。
夜空から満月が失われた。魔の象徴たる満月を失った妖怪は力が衰え、最終的には存在すら揺らいでしまう。だから取り返しがつかなくなる前に満月を取り返す為に、私は魔理沙に協力を煽いだ。
勿論、魔理沙が無償で動くなどとは考えていない。同じ蒐集家として喉から手が出るほど欲しいであろうマジックアイテム――私の秘蔵のグリモワールを数冊。餌として提供した。
「まぁ、私も満月が隠れてて良い気はしないからな。しょうがないから手伝ってやる」
口では半ば呆れたようなそうでないような、「困ってる人をしょうがなく助けてあげるオーラ」を出していたが、視線は私が差し出したグリモワールに釘付けになって離れていなかった。奪い取るようなスピードでグリモワールを受け取ると、奥の部屋へと駆け込んでいってドッタンバッタンと部屋中を引っくり返して行く。
数分と経たない内に、魔理沙は寝巻きから外出用のエプロンドレスへと着替えて出てきた。愛用の箒も、手の上で弄ぶ八卦炉も、恐らくは今支度した物だ。こと物欲が絡むと見境無い。その瞳はグリモワールの借りを今すぐに返す気で満々と言うよりは、とっとと異変を解決して研究に取り掛かりたくてしょうがない。そう語っていた。
が、出発前、仮初めの永遠に夜を閉じ込める術式を描き始めると、途端に魔理沙の表情は弛んだニヤケ顔から真剣な魔法使いの顔へと変わった。余りにも早い変わり身に、呆気に取られた私のほうが呪文を間違えそうになってしまうくらいだ。
やがて無事に永夜の術も終わり、あとは異変の元凶を叩くだけとなる。悠長な事をしていられるような時間の余裕は無い。早速空へと飛び出そうとする私を、魔理沙の声が留めた。
「ちょっと待て、アリス」
「何? 今になって面倒になったからやめた、何て無しよ」
「そんな事言うかよ、むしろ早く解決したくてしょうがない」
そう言うと魔理沙は、箒の後ろをポンポンと叩く。何事かと思って訝しげな視線を向けていると、瞳を輝かせて言った。
「後ろに乗った方が速いぜ」
正直言って驚いたし気恥ずかしくもあったが、私の飛ぶスピードは魔理沙より遅い。私にスピードを合わせていたら余計な時間がかかってしまうし、何より純粋な、屈託の無い笑顔で二人乗りに誘われたのに、恥ずかしいからと答えるのも妙な気がする。後ろに乗らない理由が無い。
箒に跨る魔理沙がやや前へと詰め、その後ろに私が横向きに腰掛ける。箒から落ちても私は飛べるから心配は無いのだが、一応グリモワールを構えるのとは反対側の手で柄に掴まっておいた。それを確認してから魔理沙は短い呪文を唱え、その場に満ちた魔力が箒を重力の束縛から解き放つ。
「それじゃ、いくぜ!」
言うが早いか、低空で静止していた箒はいきなり爆発を起こしたかのように加速した。一瞬の後には私の未経験のスピードで箒は空を駆けていて、森の木々の間スレスレをグレイズしながら、まだ見ぬ異変の元凶へと向かっていく。
こうして、私と魔理沙の永い夜は始まったのだった。
――――――――
実のところ、箒の後ろに乗りながら私は魔理沙に感心していた。
蛍を落とし、夜雀を沈めたところまではいつもと何ら変わらない、至って普通の弾幕ごっこだった。が、人間の里に近づいてしまい、里の守護者が出てきた辺りから少しずつ魔理沙の様子が変わっていったのだ。
「本当に何者だお前ら……? 『虚史「幻想郷伝説」』!」
元より里に危害を加える気は更々無いのだが、目の前で弾幕を展開する里の守護者は聞く耳を持たない。やむを得ず交戦しているのだが、先の蛍や夜雀とは比べ物にならない量の弾が襲い掛かってくる。右から迫り、左から迫り、やがてクロスして段々と私たちの逃げるスペースを制圧していく。
「……レーザーは此処に収束するから、動き回るのは逆効果だ」
が、避けきれない弾が来た時に備えて魔力を練る私と対照的に、魔理沙は瞬時に弾の方向性、規則性、速度を見破り、弾幕の抜け道を導き出す。無論、私も抜け道を探さないわけではない。が、どうしても緊急回避に思考を囚われる一瞬に、魔理沙との詰めがたい差が出来てしまう。
現に里の守護者の最後のスペルも、間合いを詰めるでも離すでもなく、僅かに横に動くだけで弾を避けてしまう。掠めた魔力の余熱が服の裾を焦がし、嫌な臭いが鼻腔をくすぐる。そうやって私が余計な事に思考を囚われている間にはもう、魔理沙はマジックミサイルを放っていた。
ほどなくして里の守護者は交戦を諦め、私たちが里に危害を加える目的で無い事を理解して去っていった。夜空を駆けながらの僅かなインターバル、私はいつの間にか口数も少なくなっていた魔理沙に声をかける。
「……勘、じゃ無いわよね」
「全て計算ずくだぜ」
言わんとした事を少ない単語から察したのか、前を向いて箒を傾けながら魔理沙は即答した。
「何度も色んな奴と弾幕を交わすうちに、自然と頭が働くようになった」
彼女の反射神経、状況判断力は人間にして魔法使いを名乗るだけはある。そしてそれは才能ではなく、実戦で磨かれたスキルなのだと彼女は言う。彼女の師匠――確か魅魔と言った――がどのような教えを授けたのかはわからないが、弾幕ごっこが人妖どちらにも通じる万能のルールである以上、彼女の能力はこれ以上なくシンプルに幻想郷での生活に役に立つ物だ。
が、私が不思議に思ったのは別の事だ。傍から見れば大した事は無いかもしれない。でも私にとっては、一瞬でも守りの姿勢に入らない彼女の戦い方こそが不思議であり、魅力だった。
「怖くないの?」
「何がだ?」
「弾が直撃するのが。何度か危ない場面があったじゃない」
危ないとは言っても少し深く衣服を掠めただとかその程度であって、魔理沙の目測はほぼ完璧に近い物ではあったが。いや、後ろに私が乗っている事を考えると、本来の魔理沙なら無意識に避けれてしまえるレベルなのかもしれない。
ただ、それが被弾を恐れないような戦法に通じるとは思えなかった。精神的な逃げ道を用意する事すらせず、ひたすら敵の弾を避け、自分の弾を撃ち込む。彼女の戦い方はこれ以上ない程シンプルで、そして搦め手を好む自分には無鉄砲にも見え、力強くも見え、魅力的で不思議な物にも見えたのだ。
しかしその僅かな思考の差が、実戦では色濃く勝敗に表れる事になる。どうしても一歩守勢に回ろうとした私では、先の守護者のスペルカードは弾の数に圧倒され、迫力に気圧されるがままに無駄な霊力を使ってしまったかもしれない。
いや、先の戦闘での最後のスペルカードで、場に張り巡らせた魔力の起爆用の人形は指を離れかかっていた。実際に魔理沙があと一瞬でも判断を遅らせたら、私はボムを撃っていただろう。
「当たりもしない弾に怖気づく魔理沙様じゃないぜ」
短いインターバルは終わり、竹林を駆ける私たちに、何処からか私たちの存在を嗅ぎつけた低級妖精の群れが次々と弾幕を放って行く。妖精に言ったのか私との会話の続きなのかは定かではなかったが、声に真剣味を増した魔理沙が前方を掃射しつつ懐に手を突っ込んだ。
「自信家なのか無謀なのか……」
絶え間ない攻撃に一瞬だけ出来た空白を見逃さず、視認出来る程に張られる弾幕が濃くなる。人形を媒介にしたレーザーで正面を薙ぎ払いながら私が呟くと、それを最後に攻撃は止んだ。同時に右手に八卦炉を握った魔理沙が、竹林から飛び出てくる影に目を遣りながら言う。
「切り札は大事な時まで取っておく、ってだけだ」
そう言って霊夢を見据える魔理沙の声。それは今までに聞いたどんな声とも違う、震える歓喜と覚悟の上の恐怖に満ちていた。
「ちょっと待て! 何だ、何時までも夜が明けないからおかしいと思ったら、魔理沙の仕業ね」
「おい、誤解だ。悪いのはこいつ一人だぜ」
だいぶ頭に血が上っているであろう霊夢の言葉に、薄情にも私を指差し答える魔理沙。敢えて調子付いた話し方をして、霊夢を怒らせようとしている節さえ見受けられる。
けれど、そう言った魔理沙の手が、肩が、声が。ほんの僅かに震えている事に、私は気がついてしまった。だから――
「何よ。あんたも同罪でしょ?」
――そ知らぬ顔で、話の調子を合わせてしまったのかもしれない。
――――――――
「魔理沙は、もう長くないわ」
永夜の異変を解決してから、どれほど経った頃だろうか。それから幾つかの異変を経て、幻想郷が少しずつ変わりながらも落ち着いて来た、そんな時。
魔法図書館でいつものように羽根ペンを走らせていると、不意にパチュリーはそう言った。
「長くない、って……え?」
「言葉通りよ。今のままだと、そう遠くないうちに死ぬ。そう言っているの」
私にはパチュリーの言っている意味が理解出来なかった。例えより具体的な形に言い直してくれたとしても、だ。現実感が湧かないだの無意識のうちに逃避しているだのそんな物の前に、唐突過ぎて全く意味がわからない。
確かに、ここのところ魔理沙は若干元気が無いように見えなくも無い。最後の異変からと言うもの、たまの図書館での研究にも顔を出したり出さなかったり。以前は貪るように知識を吸収しようとしていたから、今の様子に違和感を覚えない事も無い。現に今日も、調子が悪いと言った旨の手紙を魔法で送りつけてきた。
でもそれも、少し疲れが溜まっているんだろうとか、調子を崩し気味なんだろうとか、大して深い心配はしていなかった。それをいきなり「死」なんかと結び付けられても唐突も良い所だ。反応出来るはずもない。
「気付いてなかった?」
普段と同じような声色でとんでもない事を言うパチュリーに、私は黙って首を横に振る事で答えた。
「少し考えればわかる事でしょうに。そんなだから半人前なのよ」
パチュリーの物言いはいつも何かしら刺々しいが、今日はその棘が十倍にも二十倍にもなったように感じられる。パチュリーに半人前扱いされるのは初めてではないが、それがいつもより何だか癪に触る。
「どういう事? 最初から説明して」
つられて自分もキツイ喋り方になっている事を感じながら、私はパチュリーに説明を促した。七曜の魔女は読んでいた本を閉じ、顔を上げて真っ直ぐに私の目を見る。その双眸に淡い悲壮が見えた気がして、私も姿勢を正し、パチュリーの目を見つめ返した。
「過剰な魔力の負荷による浸蝕」
パチュリーの口から出た言葉は、聞き慣れた単語の聞き慣れない組み合わせ。「過剰な魔力」が「負荷」になって「浸蝕」する? そもそも自分に負荷が掛かるほどの魔力は行使しようと思うわないし、しようとしても普通は無意識にリミッターがかかる物だ。
「まだわからない?」
「わからないわ。まず魔力の浸蝕なんて起こした事が無いし……」
「それが普通よ。魔法使いなら、魔力の利便性と危険性が背中合わせな事なんて最初に覚える事だわ」
それはわかる。誰かしらに師事する場合でも、書物などから独学で学ぶ場合でも、魔法を扱う事に関しての危険性は何度も何度も繰り返し説明される。自分の扱える量以上の魔力を行使しようとすれば、それはそのまま自分の体を蝕む毒になる、と。
そうして何度も何度も繰り返し叩き込まれる内に、その言葉自体が一つの魔法となって体にリミッターをかける。だから魔法使いは普通、オーバーヒートなんて起こす筈が無い。
「でも、もし魔理沙がそれを無視して魔力を使い続けてるとしたら?」
そしてそのパチュリーの言葉でようやく、私は事の次第を朧気ながら理解した。
つまり、魔理沙は自分の身を省みずに魔法を使い続けていて、そのせいで体は魔力に蝕まれつつある……?
「バカな事言わないで!」
思わず椅子を蹴って立ち上がった私を、パチュリーは冷ややかな目で見つめ続けた。
「バカな事と言い切れる? アリス、貴方は魔理沙がどうやってあんな戦い方をしているのか考えた事はある? マスタースパークはどうやって撃ってる?」
「そんなの、私たちより大きい魔力を使って……」
言ってから、自分の言葉の孕む矛盾に気がついた。が、パチュリーは恐らくそれをわかった上で言葉を続けた。
「だから、どこから魔力を捻出して、どうやってその魔力を動かしているの?」
何も言い返せなかった。どう考えてもおかしいのだ。忘れかけていたが、魔理沙は魔法が使えるだけのただの人間だ。私たち種族としての『魔法使い』とは、体の作りが違う。ただの人間に、魔法を扱う為の魔術回路なんて用意されていないのだ。
「……じゃあ、魔理沙は魔力の危険性を知らないで魔法使いやってたって言うの?」
力が抜け、膝が崩れるようにして椅子に座った。魔理沙の師だったであろう祟り神に沸々と怒りが込み上げてくる。仮にも師と言われておきながら、魔法の基礎中の基礎も教えなかったのだろうか。
「いや、きっと知ってたでしょうね」
が、パチュリーはあっさりと私の考えを否定した。あんな大口径のレーザーぶっ放してたら、嫌でも体にかかる負担に気付くわよ。そう言って溜め息をつく。
「とにかく、私はこのまま魔理沙を放っておく事は出来ない。アリス、あなたは?」
パチュリーの言葉に、私も黙って首を縦に振る。けれど具体的にはどうすれば良いのか、それは思いつかなかった。
静かな午後の図書館、音は何も聴こえない。無音の空間に魔法使いが二人。静寂と言うよりは沈黙。
しかし私にはまだ、パチュリーの話を完全に信じるに至らない理由があった。
魔理沙が自分の体に負担をかけてまで魔法を使っていて、しかもそれが生命活動に支障をきたす程に深刻なレベルだとする。そこまでは理解できた。
じゃあどうして、魔理沙は人間である事を捨てて魔法使いにならないのだろうか。
今パチュリーが話した問題の全てを簡単に解決する方法がある。人間である事をやめて、「種族:魔法使い」になってしまえば良い。
人間であるから魔法を使うのに不都合が起きる。でもそれは、魔法に必要な物を自分の身を削って用意する事になるからだ。自分で生み出すだけの魔力じゃ足りないから魔法の森のキノコを触媒に使ったり、大き過ぎる魔力は制御が利かないから八卦炉の助けを借りたり、それは人間であるが故の面倒事。
魔法使いになると言う事は、魔法を使えるように体を作り変えると言う事と同義だ。人間が生命維持に活用するエネルギーはそっくりそのまま魔力へと還元出来る。生身で扱える魔力だって、人間のそれとは比べ物にならない。
それに加え、あくまでも私の主観でしかないが、魔理沙は人間をやめる事にそれ程否定的な感情を抱いている様には見えない。
「今すぐにでも人間やめるぜ!」とまではいかなくても、例えば自分の寿命も自然にあるがままの霊夢や、最後まで人間として死にたがっている咲夜なんかとは違って、魔法使いになる――妖怪化も選択肢の一つにはなっているだろう。
それじゃあ何故、人間である限り不可避である死が近づきつつある今になっても行動を起こさないのか。まだ手が打てる間に魔理沙に聞く必要がある。そう考えて、その日の研究はその場でお開きになった。
――――――――
紅魔館を出て家に帰る前に、魔理沙の家に寄って行く事にした。
体調不良の様子を見ると言うのもあるが、やはり先刻聞き、考えた内容をしっかりと問い質す必要がある。それでもし本当に魔理沙の体に限界が迫っているようなら、一時的に魔法の使用を制限させるくらいの事はしなければいけないだろう。
ただ、一つ気がかりな事があった。
「どうやって話を切り出そうか……」
調子が悪いと聞いてやってきたわ、までは思いつく。それから適当に雑用を片付けて適当に今日の研究成果を話して、……そうしたらもう何も無い。嫌でも本題を切り出さなきゃいけない。
話の切り口が見つからない。いきなり「パチュリーに聞いたのだけれど……」と切り出して良い物だろうか。或いは「最近、体調崩し気味ね?」と回りくどく攻めた方が良いだろうか。
いっそ、話を切り出さなくても良いのではないか――そこまで考えて、私は無意識に逃げ道を探していた事に気がついた。あの永夜異変の夜から、私は何も進歩していないではないか。
魔理沙が道を切り開くために「回避」するのなら、私はその場凌ぎでしかない「逃避」だ。弾を掻き消して、切り出し難い話題を避けて、じゃあその後の展開にどう繋げるのか? 弾幕はブレインだなどとのたまっておいて、その実私は何も考えていないのかもしれない。
「何を人の家の前でブツブツ呟いてるんだ?」
「ひゃっ!」
思考を遮って、目の前のドアから魔理沙が顔を覗かせた。いつの間にか、魔理沙の家に着いていたらしい。
それすら気付かない程に深く考え込んでいたと言う事かもしれないが、「調子が悪いと聞いてやってきたわ」なんてクールに装う予定は、風に吹かれてどこかに飛んでいってしまった。それどころか、間抜けな声を上げて後ずさってしまっている。
けれど、それが逆に良かったのかもしれない。
「ううん、調子が悪いと聞いたから。どう?」
不思議と凝り固まった緊張がほぐれ、喉からは自然な声が出せた。まぁ、ぼちぼちだな。そう言って魔理沙は私を家の中へ招き入れた。
家の中は、以前訪れた時と同じように混沌としていた。煮詰めて混ざり合った挙句に緑色になっている鍋だとか、床に積み重なって壁を形成している魔導書の山だとか、そんな物ばかりで足の踏み場も殆ど無い。
そんな中、魔理沙は本当に体が休まるのかわからないようなベッドでさっきまで寝ていたらしい。と言っても、一歩歩く度に埃は舞うし床は軋むしで、時を止めたかのように大人しくしていないと碌に神経が休まらないからしょうがない。それなら片付けたらどう、と私が言っても、この散らばったマジックアイテム自体が一つの魔法陣を形成しているらしく、片付けるに片付けられないとの事だ。
「人形を総動員して片付けようか?」
私がこの場を形成する魔力を中和しながら、同時進行で人形に作業をさせれば片付かない事も無い。作業スピードは早くは無いだろうが、下手に動かして溜まった魔力が暴走したり、面倒になって家ごとマスタースパークで吹き飛ばすよりは遥かにマシだろう。
「いや、このままで良い」
私の提案に、しかし魔理沙は首を縦に振らなかった。ガラクタの魔法陣の中で暮らすなんて、いかにも魔法使いらしいだろう? そう嘯きながら、ボフリと背中からベッドに倒れこんだ。途端に凄まじい量の埃が舞い上がり、まるで霧がかかったかのように視界を塞ぐ。
それからどれ程の間、二人して咳き込んでいたのだろう。ようやく落ちついた時には、魔理沙は申し訳なさそうな顔で私を見ていた。
「……なぁアリス、上手いこと埃だけ掃除する魔法は知らないか?」
「おお、まるで新築のゴミ屋敷のようだぜ!」
「それは褒め言葉と受け取って良いのかしら……?」
空間浄化の術式を走らせて半刻、家の中は見違える程綺麗に混沌としていた。矛盾しているようだが、散在するマジックアイテムはそのままに、埃やカビだけが綺麗さっぱり消え失せているのだから面白い。
「いや、本当に助かった。アリスが便利な魔法を知ってて助かったぜ」
相変わらず足の踏み場も無い廊下を四苦八苦して魔理沙の部屋へと向かいながら、心底ありがたそうに魔理沙は言った。ベッドに思い切り倒れこんでも、日干しした直後のように埃の一つも出さずに布団は魔理沙を受け止める。
私は何でもかんでも魔法に頼るのは好きではないし(人形操術は別だ)、日干しした後の布団の何とも言えないふんわり感が好きだから、余りこう言った生活用途の魔法は使わないのだけれど。
「便利だと思うのなら、魔理沙も覚えればいいじゃない。それほど複雑なわけでもないし」
だから、出来れば私に頼らずにこのくらい自分で出来ても良いんじゃない? そんな風に軽い意味で言ったつもりなのに、魔理沙はそれきり喋るのをやめてしまった。私に向けていた視線も、どこか自信無さ気に床へ向いてしまう。
何故、唐突に黙ってしまったのか。それを不思議に思う段階でようやく、私は今日ここにやって来た目的を思い出した。
「別に、使おうと思えば使えないわけじゃない」
でも覚えるのが面倒だから覚えてないだけだぜ。たっぷりの沈黙の後、そう言って魔理沙は床から視線を逸らし、天井を見上げた。
「それなら、別に良いんだけど……」
私が返す言葉も妙に歯切れが悪く、重い。つい数分前までは至って普通にやり取り出来ていた筈だ。それがどうしてこう、あっという間に重い空気に変わってしまうのだろう。早く元の軽い空気に戻さなければ――
「……出来れば、本当の事を話して欲しいの」
――そう考えて、やめた。今ここで話を切り出さずに話題を変える事は、「逃避」に他ならないと思ったからだ。
そしてこれは弾幕ごっことはわけが違う。逃避の先に待っているのは被弾と敗北なんて甘っちょろい物ではなくて、死と後悔だ。自らそんな物を望んで手に入れる程、私は自分が愚かではないと信じたい。
「なんだ、お見通しか」
そんな私の苦渋の決意とは裏腹に、魔理沙は極めて軽い調子で、口元に笑みすら浮かべながら言った。
「お察しの通り、私はそう遠くない未来に死ぬぜ」
口調は想像と裏腹でも、返答その物は極めてわかりやすい物だった。それでいて真っ直ぐに私の心に闇をもたらす。友人が近いうちに死ぬと言う事実を突きつけられて平然としていられる者がいるとすれば、それはきっと人の心を失った化け物だ。
「…………どうして?」
「そんなの、自分の事は自分が一番良くわかるに決まってるだろう」
じゃあ、近い未来の自分の死を突きつけられて、それでいて平然としている者は一体何者なのだろう。
「……どうして死ぬかはわかるの……?」
「魔力の負荷に、私の体が耐えられない。至極単純明快だろ?」
死ぬ理由を自覚した上で、こうもあっけらかんとしているのは一体何故なのだろう。
「……魔法使いになれば」
「おっと、その選択肢は今のところ却下だ。とは言っても、いつになれば選択肢に加わるかもわからないけどな」
自分の生命を繋ぐこれ以上ない簡単な方法を、あっさりと放棄してしまえるのは何故なのだろう。
「じゃあ、アンタはこのまま死ぬって言うの!?」
「ああ、そうだ」
叩きつけたありったけの感情を、日常の些細な事のように流されてしまうのは何故なのだろう――
――――――――
夢を見ていた。懐かしい、いつぞやの夏の夜の夢だった。
「さぁ! 終らない夜は、ここでお終いよ!」
夢のはずなのに、霊夢を敵に回した名状しがたい恐怖心だとか、手に握り締めた汗の感触だとか、そう言った物は生々しく再現されている。
「こればっかりは本気でいくぜ」
魔理沙の呟きを開幕の合図にしたように、瞬時に襲い掛かってくる針、お札、陰陽玉。それらの僅かな隙間を潜り抜けながら、私と魔理沙も対抗して弾幕を展開する。
本気で、と言った魔理沙は、確かに先刻までとは明らかに動きの質が違った。私が予想した方向とは全く別に箒を滑らせ、マジックミサイルを撃ち込みながらチラリと目をやると、私が予想した場所は弾の洪水に押し流されている。
何度も霊夢に挑んでるうちに自然と動きがわかるようになった、と後に魔理沙は語ったが、私はこの二人の交わす弾幕の中、一人孤独感を感じずにはいられなかった。現に私が展開する人形は片っ端から撃墜されていくし、霊夢が私の攻撃を眼中に捉えているようにも見えない。
二枚ほどスペルカードを撃ちあった後、霊夢はこちらの攻撃が落ち着いた隙をつき、後方へと離脱する。あの霊夢相手に優勢を保っている事が信じられなかったが、それは必ずしも自分がいるからではないと言うのもまた事実で、魔理沙に追撃を促す声も知らず低くなってしまう。
「アリス。私が合図をしたら、振り落とされないように努力してくれ」
再び妖精が編隊を組んで襲い掛かってくるのを薙ぎ払いながら魔理沙がそんな事を言ったとしても、言葉の意味をそのまま言葉通りに受け取るしかしなかったし、出来なかった。
霊夢には遥か遠く及ばない密度の薄い弾幕を潜り抜けると、目の前には再び霊夢。懐から取り出すスペルカードは、どんどん避けるのが難しい物になっていく。
だから魔理沙が八卦炉を両手で構えて「行くぜ」と小さく合図をしたのにも、私は疑問一つ抱かずに両手で箒にしがみつくだけだった。
「恋符――」
今ならわかる。それを撃っちゃいけない。それは一発ごとに、確実に魔理沙の寿命を磨り減らしていく。
けれど、夢の中の私は過去の行動をなぞるだけ。声を出す事も出来ない。頭が割れんばかりに撃つのを止めようとしているのに、脳内に自分の悲鳴じみた声が響くだけで体は動かない。
光が八卦炉に収束する。弾幕の隙間で身を捩る霊夢が、僅かに顔をしかめるのが見えた。対照的に魔理沙の口元が不敵に歪む。そして八卦炉が一瞬、一際強く光を放つ。
「――『マスタースパーク』!!」
膨大な魔力の奔流が視界に満ちた。針も札も陰陽玉もその全てを焼き尽くし、全力の魔力を霊夢へと叩きつけようとする。同時に魔力の余波で、箒が、木々が、空間が激しく振動する。
光の洪水は確かに霊夢を飲み込んだ。いかに霊夢とて、結界の一枚や二枚で防げる攻撃ではない。瞬時に側面へ周りでもしない限り、被弾は免れない。
マスタースパークの放射は一瞬にも思えたし、何分間にも思えた。目の前の魔理沙は両足で箒に懸命に掴まりながら、魔力のキックバックに耐えている。その腕は震え、歯はガチガチと音を立てる。何が彼女をそこまで必死にさせるのか、私にはわからない。
やがて光の帯は少しずつ幅を狭め、震えていた空間も静けさを取り戻し、魔理沙は八卦炉を握る手をブラリと下げた。
その時、フラリと魔理沙が揺らいだ。
私が事態を認識出来た時には既に両足が箒から離れ、力の抜けた体が地面へと落下していく。
咄嗟に手を差し出し、同時に下へと人形を走らせ、魔理沙の体を支える。幸い魔理沙はすぐに意識を取り戻し、私の手をしっかりと掴んだ。
人形と協力して魔理沙を箒へと引っ張り上げ、体勢を立て直す。が、もう弾幕は飛んで来なかった。
「……仕様が無いわね。悪巧みも程ほどにするのよ」
僅かに巫女服の裾を焦がした霊夢が負けを認め、お札を裾にしまって頭を掻く。私と魔理沙は顔を見合わせ、ほうと安堵の溜め息をついた。
けれど、それが素直に喜べたのは昨日までだ。今は一発ごとに魔理沙が焼け焦げて壊れていくようで痛々しくて、後は全て自分に任せて休んでくれとすら言いたくなる。
「霊夢、永遠の一回休みだ。じゃあな」
それでも魔理沙は数秒前までの冷や汗一つ見せずにニカリと笑って、竹林の中から姿を現した屋敷へと箒の先を向けたのだった。
――――――――
夢から覚めた私を待っていたのは、昨日よりも少し憂鬱な朝。昨日の私のヒステリックな声と飄々とした魔理沙の声が耳の中で残響している気がして、なんだか食欲も湧かずに朝食は紅茶を飲むだけで済ませた。
曇り空を眺めながら考える。今日はどうしようか、と。図書館に行って昨日の顛末をパチュリーに話す? 魔理沙の家に行ってもう一度説得を試みる? このまま今日は家の中で過ごす?
頭に浮かんだ案はどれもイマイチパッとしなくて、私は行く宛ても無いままに外行きの服に着替えた。悩んだ時に体が動かなくなるのは私の悪い癖だ。そういう時は当ても無く気の向くままに飛んでれば良いのよ、と、昔霊夢に言われた気がしないでもない。
……たまには、宴会じゃない時に神社に行くのも悪くないかもしれない。
魔法の森を抜け、幻想郷の外れへ。外と幻想郷とを隔離する大結界のすぐ傍に、博麗神社はある。
参拝客も殆どおらず、宴会の時を除けばいつも閑散としている静かな神社だけれど、その主であり博麗の巫女である霊夢はそれを別に何とも思っていない。そもそも霊夢が何かに強く執着している事を見たことが無い。ある意味、魔理沙とは正反対だ。
だから私が境内に降り立った時、竹箒を手に掃除をしていた霊夢は不思議な物を見るような目で私を見た。
「宴会でも無いのに珍しいじゃない、あんたが一人で神社に来るなんて」
「その言い方だと、私がいつも宴会で孤立してるみたいね」
ごめんごめん、と霊夢は笑った。箒を振るう手を止め、縁側に出してあった急須と湯呑みを私に差し出す。
「飲む? ちょうど休憩にしようと思ってたの」
「アナタは休憩の合間に仕事をしてるように見えるわね」
私はお盆を挟んだ霊夢の隣に腰掛け、緑茶を一口。流石に年中飲んでいるだけあって、霊夢は茶を淹れるのが上手い。ほう、と溜め息を一つつくと、少し気持ちが楽になった気がした。目の前の問題が消えてなくなったわけではないけれど、霊夢と居ると不思議と心が安らぐのだ。
「ねぇ、霊夢」
「何よ」
だから、今私が抱えてるどうにもならない問題も、ひょっとしたら少しだけ軽くしてくれるのではないか。そう思ってしまったのだ。
「もし、魔理沙が近いうちに死ぬとしたらどうする?」
「どうもしないわよ」
帰ってきた返答はこれ以上無いほどに素っ気無く、シンプルに私を突き放す物だった。
「どうもしない……って」
「言葉通りよ。魔理沙が死ぬのは、たかだか巫女でしかない私にはどうにも出来ないしする気も無い。本人がそれを望んでるのなら尚更」
呆然とする私を意に介す様子も無く、霊夢は茶を啜りながら淡々と続ける。その口調は温かくも無く冷たくも無く、正に「淡々」そのものだった。
魔理沙なんて死んでも死ななくてもどうでもいい? それとも魔理沙の意志を尊重したら何も手出しは出来ない? どう考えているのか、霊夢の心中は私には理解できそうも無かった。
「どうして……? どうして霊夢もパチュリーも、本人の魔理沙でさえも、そんなに冷静でいられるの……?」
悩みを軽くするつもりが、余計にこんがらがって取り乱しそうになる。自分以外がまるで心の冷え切った存在のような、逆に自分だけが異端のような孤立感と孤独感を覚えた。背筋を冷や汗が伝う。
頭を抱えて逃げ出したい衝動を抑える私に、霊夢は相変わらず温かくも冷たくもない声で私に言った。
「結局、あんたは魔理沙を信じてないのよ」
信じていない、とはどういう事なのだろう。私は少なくとも魔理沙をただの友人以上には思っているし、図書館での窃盗癖を除けば信頼に値する魔法使い仲間だとも思う。それでも私は魔理沙を信じていない……?
しばらく黙って考えてみたけれど、やっぱり意味がわからない。隣で表情一つ変えず茶を啜る霊夢に問い返そうと思って、私は顔を上げて――すぐにまた伏せた。理由は簡単だ。
「なかなか美味いお茶だな。霊夢、何かお茶請けを持ってきてくれ」
「黙って隣に座ってお茶を飲み始めて、あまつさえお茶請けまで要求だなんて、図々しいにも程があるわよ魔理沙」
いつの間にかやって来ていた魔理沙と、顔を上げた拍子に目が合ってしまったからだ。昨日一方的に声を荒げて魔理沙の家を飛び出してしまったせいか、気まずくてしょうがない。もっとも魔理沙の様子を見るに、気にしてるのは私だけのようだが。
「……どうして魔理沙が神社に来るのよ」
しょうがないので、頭を抱えて地面を見つめたまま話しかけてみた。霊夢が茶を啜る音が聞こえた後、魔理沙はあっけらかんと答える。
「いや、単に霊夢と弾幕ごっこをしに来ただけだが」
「弾幕ごっこって……アンタねぇ!」
そして私は、その答えが酷く気に入らなかった。思わず気まずさも忘れ、顔を上げて声を荒げてしまった。
魔力が体に負担をかけていると言うのに、今の状態での弾幕ごっこなんか余計な負荷をかけるだけだ。それを気にする素振りも無い魔理沙も、知っていて止めようともしない霊夢も、全てが気に入らなかった。
「良いの? どうせまた私が勝つわよ」
「今日は昨日出来たばかりの新しい魔法があるからな、今度こそわからないぜ」
二人は私を気に留めようともしない。気だるそうに霊夢は懐から御札を取り出し、魔理沙はお茶を一気に流し込んで箒に跨った。
「いい加減にしてよ!」
ヒステリックな声だと自分でも思った。けれど私は、無理矢理にでも大声を出さなければ意識も向けて貰えないだろうと思ったのだ。
流石に二人も私の方へと振り向いた。怪訝そうな顔を隠そうともしない。そんな二人に私は、形を為していないただの感情をぶつけてしまう。
「魔理沙はどうしてそんなにあっけらかんとしてられるのよ! 死ぬのよ? 生きてたく無いの!?」
「ちょ、ちょっと落ち着けアリス」
良く考えたら、魔理沙と軽口の応酬をした事はあっても、怒鳴りつけた事は無かった。魔理沙は若干引きながら、苦笑いを浮かべて私を宥めようとする。
けれど私の激情は収まらない。感情の矛先は霊夢に向く。
「霊夢も霊夢よ! 魔理沙が死んでもどうでもいいわけ!? 弾幕ごっこに付き合うだけなら、手を抜いてとっとと終わらせちゃえばいいじゃない!」
「アリス」
けれどそれを支離滅裂な内容のまま叩きつけてから、言ってはいけない禁止ワードに触れた事に気がつく。魔理沙が私を宥める声も、数段真剣味の増した物になっていた。
私を一瞥して、霊夢は溜め息を一つ。それから、呆れたように私を切り捨てた。
「やっぱり、あんたは魔理沙を信じてない」
「……で、いたたまれなくなって逃げてきた、と」
図書館の椅子に腰掛け、私はぐったりと項垂れていた。自分でも間違った事を言ってしまったとは自覚しているが、パチュリーの呆れた声が更に追い討ちになる。心が痛い。
「霊夢の言う通りね。アリス、あなたは魔理沙を信用しきれていないのよ」
「…………」
ぐうの音も出ない。さっきまでは靄がかかったかのように意味がわからなかった「魔理沙を信じていない」と言う言葉が、今は確かな実感を伴って私の心を抉る。
全力で今を生きる人に、いかなる理由があれど「適当に手を抜いて相手をしろ」だなんて、これ以上の侮辱は無いだろう。
魔理沙がいつでも本気なのは、私もよくわかっていた筈なのに。感情が昂ぶっていたからなんて言うのは免罪符にもならない。それなのに私は、「肉体の死」ばかりを気にして「精神の死」なんて考えもしなかった。例え永劫の命があったとしても、中途半端に手を抜いて日々を過ごす事は、魔理沙にとっては生きる屍に他ならないのだろう。
「……どうして、あそこまで弾幕ごっこに全力を出せるのかしら」
負け惜しみじみていると、口に出しながら思った。
「そんなの、私は魔理沙じゃないもの。わかるわけない」
パチュリーがそんな甘えを許さない事くらい、弱音を吐く前からわかっていた。
じゃあ、どうして霊夢もパチュリーも、……魔理沙自身も。そんなに魔理沙を信じていられるのだろう?
――――――――
とうとう魔理沙が私たちの前に姿を現さなくなった。パチュリーに魔理沙の余命宣告をされてから、半年と経たない頃だった。
パチュリーの図書館にも、博麗神社にも顔を出していないと言う。第一、同じ魔法の森に住んでいる私でさえ影を見かける事すらしないのだから、本格的に体が危うい事になっているのだろう。
何度も様子を見に行った。が、魔力で鍵をかけられた扉は固く閉じたままで、開く事は一度も無かった。声を掛けても反応は無い。とうに死んでいるのかと嫌な事この上ない想像が頭を掠めたりもしたが、術者が死んだら魔法は解ける筈で、扉が開かないわけはない。
結局は姿が見えない事で安心すると言う、奇妙な感覚を覚えるようになった。けれど、それは本当に一時凌ぎの安堵感でしかない。恐らくあと一月もしないうち、夏の暑さを感じるようになる前には恐れは現実になるだろう、とパチュリーは語る。
魔理沙の事を話す時に、パチュリーの肩が少しだけ震えるようになった。
「……魔理沙、起きてる? 様子を見に来たけど、具合はどう?」
そして今日も私は、半ば日課となりつつある魔理沙の家への見舞いの最中だった。
とは言っても、中まで入れた試しは一度も無い。いつも通り外から声を掛けて、うっすら魔力を纏った扉をダメ元で押したり引いたりしてみて、溜め息をついて帰る。いつもの様に、今日もそんな結果に終わる。声をかけた時点で、私は半ば諦めつつあった。
「やる事も無いけど起きてるぜー」
が、今日はいつもとは違った。中から返ってきたのは、久し振りに聞く緊迫感のまるで無い魔理沙の声。
慌てて扉を引くと、さしたる抵抗も無しに扉は開いた。強いて言えば積もりに積もった埃がいつぞやの訪問時のようにブワリと舞い上がって、思わず咳き込んだくらいだろうか。
思わず空間浄化の術式を走らせようとする。が、間髪入れずに廊下の奥から魔理沙の声が響いた。
「ちょっと待った! この家の中で魔法は使っちゃダメだ!」
切羽詰ったその声に驚き、慌てて詠唱を止めて術を掻き消す。魔法がダメと言われてはしょうがないので、付き添わせていた人形達も家の外に出させ、体を埃まみれにしながら私は廊下を突き進んだ。
「おうアリス、久し振りだな」
部屋の扉を開けると、積みあがった魔導書の壁に挟まれて魔理沙が手を挙げていた。その声は元気その物で、まるで調子が悪いようには見えない。いや、見えないだけで進行は深刻なレベルなのかもしれないが。
もう一度深く溜め息をつき、私は魔理沙に向かい合うように座った。
「で、調子はどうなの?」
「最悪だぜ」
挨拶もそこそこに話の要点を単刀直入に突いた返事がこれだ。ヘラヘラ笑いながら今にも死にそうだと宣言されると言うのは、矛盾の一言では説明しきれない違和感があった。
「どうやら私が思ってた以上に浸蝕が早くてな。あと一、二ヶ月はいけると思ったんだが」
全く笑えない話を、魔理沙は頭を掻いて苦笑いを浮かべながら軽い調子で話す。私は今にも怒鳴りつけそうになる喉に力を入れるので精一杯だった。やっとの事で言葉を搾り出す。
「……さっき私に魔法を使うなって言ったけど、それは何故?」
ああ、それはだな……と魔理沙は苦笑いをやめ、心底可笑しそうに笑いながら説明を始めた。
「魔力が浸蝕し過ぎて、今の私は魔力の塊みたいな物だ。ちょっとバランスが崩れただけで、スカーレットさん家のフランちゃんみたくドカーンだぜ」
「それの何処が笑い事なのよ!」
おどけながら軽口を叩く魔理沙に、耐え切れずに怒鳴り声を上げてしまった。けれどそれを意に介する様子も無く、魔理沙は人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべて続ける。
「いいじゃないか。きっと今なら霊夢にも勝てる。まぁこの家から出れるなら、だが」
魔理沙の言葉は激昂に充分値する物だったが、それよりも私は気に掛かる言葉があって、ひとまず怒りを治めた。
どうして魔理沙は、何かと霊夢に執着するのか。ずっと形を為さずに胸の中で燻ぶっていた疑問が、今ハッキリと形になった。体が動かなくなりつつある中でも、魔理沙は霊夢に弾幕ごっこを仕掛けていった。永夜の異変の時にも、魔理沙が切り札のマスタースパークを使ったのは霊夢だけだった。じゃあそれは何故?
「魔理沙、一つ聞きたい事があるの」
なんだ? と魔理沙は微笑んだまま聞き返してきた。真っ直ぐに眼を見つめ、思ったそのままを口に出せば良い。そうわかっていても、弱い心は中々核心に触れようとしてくれない。
それで良いわけが無い。逃避はもうやめにしようと誓って、まだ私は逃げるのか。必死に自分を奮い立たせる――
「魔理沙。あなたにとっての霊夢は、一体何?」
「超えなきゃいけない壁だ」
即答だった。その顔にはさっきまでのヘラヘラした笑いは無い。真剣その物の顔で私の眼を見つめ返していた。
「もうずっと昔……一番最初に弾幕を交わした時から今まで一度も、霊夢に勝てた試しが無い」
その時からずっと、霊夢を超える事を目標にしてきたんだ、と魔理沙は続けた。私は口を閉ざし、黙って魔理沙の話を聞く事にした。もっとも、私が口を挟む暇も無しに魔理沙は喋り続ける。
「でも、新しい魔法を開発して、霊夢の攻撃を研究して……それでもまだ追いつけないんだ」
魔理沙は天井へと視線を逸らし、悔しそうに眉をしかめて話を続ける。
「一つ魔法を開発して試しに戦ってみると、霊夢は私でも思いもしなかった避け方をする。研究した筈の攻撃も、次にやる時には違うパターンが混ざってる。あいつは底が知れないんだ」
当たり前だ。霊夢は博麗の巫女、幻想郷のバランサーたる存在だ。本気を出した霊夢に勝てるとしたら、隙間妖怪だとか地獄の閻魔だとか次元の違う存在じゃないといけない。そうでもないと、この人と妖怪の共存する幻想郷の管理など出来はしない。
けれど、その存在を超えなければいけないと魔理沙は言う。確かに魔理沙はただの人間とは思えない実力があるけれど、それでも霊夢の本気には及ばない。
「……あの永夜の異変は? あれは私たちが勝ったじゃない?」
私の問いに、しかし魔理沙は黙って首を横に振る。
「あれはノーカウントだ。だって……」
あの時アリスが手を掴んでくれなきゃ、私はとっくに死んで彼岸を渡ってたじゃないか。
魔理沙はその時一瞬だけ、本当に一瞬だけ泣きそうな顔になってから、再び笑みを顔に貼り付けた。けれど私は理解してしまった。この笑いは本当に無理矢理作っているだけだと。最後の弾幕ごっこを挑む事も出来ず、ただ死を待つしかない現状が魔理沙は悔しくてしょうがないと。
同時に、一つの恐ろしい考えが頭に浮かんだ。
――もしかしたら、あの時私がいなければ。魔理沙は勝てた事になるのだろうか。
「じゃ、じゃあ。魔法使いとして生まれ変わってからまた挑めばいいじゃない!」
今度は無理に私が笑顔を作る番だった。絶望でドス黒く染まる心を必死に隠して、努めて明るい声を出す。喉から搾り出した震えた声が明るく聞こえない事なんてわかっている。
「それじゃダメだ。ダメなんだ……」
魔理沙の笑みが剥がれる。頬の筋肉を痙攣させたまま、ついにはポロポロと涙が流れる。それを隠すように魔理沙は俯いて、悔しそうに呟いた。零れた涙がベッドシーツに染みを作る。
「私が妖怪になって霊夢に挑んだら、それはただの『異変』じゃないか……」
どうしようもなかった。全員揃ってのハッピーエンドを迎えるには、私達には時間も実力も選択肢も足りな過ぎる。
聞こえた嗚咽は、私と魔理沙とどっちの物だったのだろう。時間の感覚が消失するまで、私と魔理沙は何を言うでもなく涙を流し続けた。
――――――――
『いつからだろうな。霊夢を倒して強くなろうと思ってたのが、霊夢を倒すために強くなろうと思うように変わったのは』
――――――――
「……本当にバカなんだから」
おう、最高の褒め言葉だぜ。溜め息混じりのパチュリーの言葉にそう返しながら魔理沙は箒に跨る。雲一つ無い晴れた夜空に輝く天の川の下、霧雨魔理沙の生涯で最後の挑戦が行われようとしていた。魔理沙の目の前には、無表情で御札を構える霊夢。神社の境内は、張り詰めた空気に満ちて息苦しい。
弾幕ごっこを始めてしまえばそれに没頭出来る霊夢と魔理沙はともかく、縁側に座って見守る事しか出来ない私とパチュリーにはこの空気は辛い物がある。勝敗は戦う前から決まっているような物だし、勝敗がついた後にはもう、魔法使い三人が机を同じくして魔法を語り合うような日常は永遠に失われてしまうのだ。
魔理沙に最後の挑戦をさせてあげようと言い出したのはパチュリーだった。
家に閉じこもるしか無いまま衰弱して死ぬのを待つのは、魔理沙も望んでいない事は私にもわかった。だから結果的に賛成したにせよ、最後まで決断を渋り続けたのは別れを怖がる私の弱さでしかない。
その賛成だって、パチュリーに散々なじられ、呆れられ、説き伏せられた末に首を縦に振っただけだ。正直に言えば、最後のチャンスに飛び上がらんばかりに喜ぶ魔理沙を見ても、魔理沙の家の魔力を中和する作業に取り掛かっても、こうして縁側に座っている今でさえ。自分の決断が正しいかどうかはわからなかった。
「そんな顔するなよ、アリス」
魔理沙が箒に跨ったまま、視線を僅かにこちらに向けてそう言った。境内に少しずつ風が吹き始め、魔力が満ちて行くのを肌で感じる。始まりと終わりは近いのだと、無意識にそう思った。
「私は必ずチャンスを物にしてみせる。そうしたら魔法使いにでも何でもなってやるさ」
けれども魔理沙の口調は、今の今になっても強気でポジティブな物だった。生死を賭して戦おうとする魔理沙が明るくて、見守るだけの私が沈んでいるのはやっぱりおかしい。そう思ったから、今は魔理沙を心の底から信じてみようと思った。
「だから霊夢」
魔理沙は再び視線を霊夢へと戻す。今まで見た事が無い程に強く力の篭もる双眸に、隣でパチュリーが唾を飲み込む音が聞こえた。
「絶対に手加減しないでくれ。今日こそ私はお前を超えてみせる」
「言われなくても、あんた相手に手加減なんて出来ないわよ」
霊夢の言葉がリップサービスでない事はわかった。向かい合い、今にも弾幕ごっこを始めようとする二人の目は真剣そのものだ。手抜きや手加減なんてしたら、次の瞬間には無様に地面に這い蹲る事だろう。それ程までに二人の世界は研ぎ澄まされていた。
動き始めるのが怖い程の空気を動かしたのは、魔理沙だった。開幕の合図に、霊夢の足元目掛けて小型の星屑を乱射する。牽制に対して霊夢が飛び上がった時には、箒を銃身に魔力の弾丸を霊夢目掛けて撃ちだしていた。その勢いを利用して、魔理沙も空へと飛び上がる。
「始まっちゃったわね」
「……そうね、始まっちゃったわね」
憂いを孕んだ声でパチュリーが呟く。空中で派手な弾幕戦を繰り広げる二人から目を離せないまま、私もそれに応じた。二人の弾幕はまるで祭りの花火のように綺麗なのだけれど、線香花火が燃え尽きる最後の瞬間がずっと続いているかのような、いつ終わってしまうかわからない恐ろしさも同時に感じる。
「『アステロイドベルト』!」
「『二重結界』!」
「『スターダストレヴァリエ!』」
「『夢想封印』!」
「『ノンディレクショナルレーザー』!」
「『八方鬼縛陣』!」
二人がお互いの弾幕を掻い潜るたびに、私は何度も目を逸らしたい衝動に駆られた。早く終わって欲しいとすら思ってしまった。心臓が鷲づかみにされているような錯覚すら覚える。
とにかく、怖い。霊夢の放つ攻撃が魔理沙を捉えるのが、たまらなく怖い。それは即ち弾幕ごっこの終わりを意味し、弾幕ごっこの終わりは魔理沙の死を意味するからだ。私は魔理沙を失うのが怖かった。
しかし、時間は矢のように過ぎ去り、決着の瞬間は刻一刻と近づいている。私もパチュリーも、ただの一言すら発しない。見守る事しか出来ないのがこれほどまでに辛いとは思わなかった。
だから、魔理沙が懐から八卦炉を取り出した時。思わず私は手を組んで、誰とも知らぬ神に祈っていた。私がいなければ、あの永夜の異変の時に勝利を掴んでいたはずの切り札。
「『マスタースパーク』!」
光の奔流が全てを押し流した後、最初に私の瞳が捉えた物は――荒い息を吐きながら四肢を投げ出して地面に横たわる、魔理沙だった。
「魔理沙!」
パチュリーと同時に立ち上がり、魔理沙の許へと駆け寄る。すぐに霊夢も降りてきて、三人で魔理沙を囲む。魔理沙の脇腹は霊夢の御札の直撃を受けたのか、服が焼け焦げ皮膚が赤く染まっていた。
「……結局、最後まで勝てなかったぜ」
荒く息を吐き、腕の一本も動かせない大の字のまま、それでも笑みを浮かべて魔理沙は声を絞り出した。顔は先刻までとは打って変わって青白く、体を隅々まで蝕む魔力が周囲に漏れ出て、酸のように肌を刺激する。
「ねぇ魔理沙、あんた本当にこれで良かったの……?」
気丈な霊夢でさえ、罪悪感を隠せない様子で魔理沙に問い掛ける。魔理沙が望んだこととは言え、トドメを刺したのは霊夢である事に違いは無い。信じる、信じないの問題ではない。喪失の悲しみと言うのは、この場にいる全員が等しく感じている物だった。
「良いんだ、これで。むしろ本気でやってくれて感謝するぜ」
青白く、屈託の無い笑みを浮かべる魔理沙。心の底から感謝しているのでなければ、こんな笑みは出てこない。ただ、目尻から一筋の涙が伝った事を除けば、だが。
「本当にバカなんだから……」
肩を震わせて呟くのはパチュリー。覚悟をする事と、実際に現実を受け入れられるかは全く別の事だ。パチュリーはパチュリーなりに魔理沙の理解者であろうとして自分の感情を押し殺していたのかもしれない。本当はきっと、ずっと長い間喪失の恐怖に苛まれていたに違いないのだ。
「ああ、私はバカだな。バカの一つ覚えってのを身をもって表現する事になった」
魔理沙は霊夢に向けた笑顔とは別の、申し訳なさそうな苦笑いを浮かべてパチュリーを見た。笑いの中にある苦味成分は何なのか。自嘲? 悔恨? 何を感じるにしても、もう何もかも遅い。
「……嘘つき」
そして私はと言えば、たった一言を搾り出すので精一杯だった。言葉が出てこないのではない。溢れ出す言葉を押さえつけるので一杯一杯なのだ。
チャンスを物にしてみせるだなんて言って希望を持たせておいて、それなのにやっぱりダメだったと死んで行く目の前の魔法使いが、どうしようもなく腹立たしかった。
別れの言葉でまで怒鳴り声を上げてしまいそうで、喉まで出掛かった怒声を飲み込んだ。代わりに嗚咽が漏れ出す。悲しい。悔しい。こんな事なら、最後まで信じなければ良かった。
「何も言い返せないぜ。カッコ悪いな私は」
本当よカッコ悪すぎよだからカッコよくリベンジしなさいよ。言いたい事は全て喉で無理矢理塞き止めた。今それを言う事は、これまでの魔理沙の努力の全てを台無しにしてしまう事だったから。私は魔理沙から逃げる代わりに魔理沙の尊厳を守った――と言えるだろうか?
段々と魔理沙の呼吸が弱々しい物へと変わっていく。もう別れの時はすぐ側にまで迫っている。
どうせなら今日に永夜の異変を起こすべきだったのだ。そうすれば世界の摂理からこの夜だけを切り出して、魔理沙が勝つまで何度でも夜を繰り返してやるのに。
「……そろそろかな、目蓋が重くてしょうがないぜ」
けれどもそれは、現実味の欠片も無い妄想だと言う事はわかりきっている。今日この夜に魔理沙が死ぬのは、今更どうしようもない決定事項だ。
「ああ、死ぬ前に言っておく。私が死んだら、家にある魔導書は全部図書館に返しておいてくれ」
パチュリーは黙って頷く。元々「死ぬまで借りるだけ」と言う約束だったから至極当然な筈なのだけれど、何故だろう。「魔導書の百や二百はくれてやるから死なないでくれ」とパチュリーが言いたがっている気がしてならないのだ。
「八卦炉は香霖かな。作った張本人だし、雑には扱わないだろ」
渡しておくわ、と霊夢が呟く。魔理沙の声は、ちょっとした風の音で掻き消えてしまいそうな程に弱々しくなっていた。
「箒は……アリス、お前が頼む。私以外にあの箒に乗ったのはお前だけだしな」
そして私は箒を受け継ぐことになった。少し離れた所に転がっている箒を一瞥すると、今までどれ程の弾幕を共に潜り抜けてきたのだろう、無数の小さな傷が柄に刻み付けられていた。まるで持ち主みたいだ……と一瞬考えて、すぐに視線を魔理沙に戻す。
「ありがとうな。なんだかんだで楽しかったぜ」
私たち三人をゆっくりと見回した後、その言葉を最後に魔理沙は瞳を閉じ、やがて穏やかにその呼吸を止めた。
――――――――
魔理沙の葬式が終わってから、一ヶ月ほどが経った。
容赦なく幻想郷を照りつける夏の陽射し。向日葵が咲き誇る太陽の畑。その日一日の暑さを耐え凌ぐ事に精一杯の人妖達。
魔理沙がいない夏は、魔理沙がいない分を除けば例年通りの夏だった。そしてこれからは、魔理沙のいない夏が「例年通り」になる。
その夏の半分を、私は誰と会う事も無く家に引き篭もって過ごした。
ショックで塞ぎこんでいたわけではない。研究に没頭していたわけでもない。ただ単に外へ出ようとすると無性に面倒になって、結局大した用も無い為にベッドに体を投げ出して、必要の無い惰眠を貪る。
それでも魔法使いは死なないように出来ているから、私はただ死なないと言うだけで日々を過ごしていた。以前は精力的に進めようとした物が全てつまらなく、どうでもいいように思えて、私は唐突に目標を見失った。
そうして私はカーテンを閉め切った部屋の中、昼夜の時間の感覚も忘れかけてただ生きていたのだ。
これではいけないと思ったのは、八月も半ばを過ぎた頃だった。
窓を何かが叩きつける音で目が覚め、それが雨音だと気付いてしばらく呆然とベッドの縁に腰掛けていた。パタパタと窓を叩く雨音もどこか現実味が無く、鼓膜を揺らされるのが鬱陶しくすら感じる。
いつの間にか、雨音は止んでいた。寝てはいなかったのだが、意識は明らかに外の世界には向けられていなかったから、私がそれに気付いた頃には、恐らくカーテンの向こうで燦々と太陽が煌いている時だった。
やがて段々と太陽光線は地面を照り付け、ジワジワと暑さが襲ってくる。まだ私は暑さを感じる事が出来たのか、と少しだけ驚いたのだが、驚いた所で涼しくなるわけもない。しょうがないので私は家の中に空間冷却の術式を走らせ――詠唱が思い出せなかった。
おおよそ一ヵ月半ぶりに、私の心に動揺すると言う概念が復活した。以前は息を吐くように出来ていた呪文の詠唱が、今はまるで鳥が飛び方を忘れたように思い出せない。
慌てて記憶と言う記憶をサルベージして、三十分後には詠唱呪文を思い出す事は出来たのだが、その時にはもう冷房が必要無い程に背中に冷たい汗が流れていた。
冷や汗を感じると同時に、私は危機感を抱いた。もし今のままの生活が続いたら、私は魔法使いでなくなってしまうかもしれない。
七夕の夜以来、ずっと玄関に立て掛けてある魔理沙の形見の箒に目をやる。なんだか触れてはいけない物の気がして手に取るのも怖かったのだが、私は箒の柄をしっかりと握り締めた。魔法使いでなくなる事は、魔理沙やパチュリーと過ごした日々も全て嘘になってしまう事だと、そう感じたからだ。
少しずつ外に出るようになった。最初は森の中を気ままに散策するだけ。そこから少しずつ行動範囲を伸ばして、一週間後には人里に買い物に行った。
家事も再開した。溜まった洗濯物を片付けてみる。料理をして食事を摂ってみる。人形の手入れをしてみる。最初こそ失敗も多かったが、段々と感覚を思い出していった。
魔法だけは忘れないように、研究も再開した。新しい魔法も幾つか出来た。ただ、弾幕ごっこだけはしなかった。出掛けた途中で遊び半分に勝負を挑まれても、いざ人形を構えた途端に敗北のイメージが頭の中を埋め尽くす。結局は調子が悪いと言って逃げ帰るのだが、家に帰って扉を閉めて、ガタガタ震えている自分の手に気付く。
勝てるイメージが湧かないのは、勝ちたい目標を見失っているからだ。何かを強く乗り越えたいと思っているから、人は必死になって努力を積み重ねる。それは魔理沙を見ていた私には、ハッキリわかる。だから目標を見失った私は、弾幕ごっこが怖い。
じゃあ、元々私の目標とは何だったのだろう?
もしかしたら、私の目標は魔理沙だった?
一度で良い、魔理沙と全力で真正面から向き合っておくべきだった。
大人ぶって手を抜いて勝負して、負けても地団太を踏む事も無く溜め息をつくだけで、そんな私は最後まで魔理沙に負けていた。実力でではなく、心で。
今となっては、もう挑戦する事も叶わない。挑戦する前から負けていた。本気を出せば勝てる、だなんて心の何処かで思っていた。現実はそんな事は無いのに。
結局私は最後まで、自分から「逃避」していたのだ。
――――――――
夏も終わり、実りの秋が幻想郷一杯に豊作をもたらしている頃。私は唐突に秋の味覚を夕餉に添えてみようと思い立って、人里まで買い物に行ったのだった。
秋の味覚と言えば、やはり秋刀魚や松茸。松茸を見てキノコから魔理沙を連想して一瞬心が揺らいだりもしたが、結局は晩餐に私にしては珍しい和食のおかずが並ぶ事になった。
その帰り道。松茸から想起した魔理沙は中々頭の中から消えてくれず、鬱々とまではいかないまでもどこか釈然としない心持で私は魔法の森へと飛んでいた。その時に、偶然香霖堂が視界の隅に映ったのだ。
気がつけば私は、商売っ気のまるで無い店の扉を開けていた。久しぶりに見る店主、森近霖之助は最初こそ私を見て僅かに動揺を顔に浮かべたが、すぐに普段通りの顔へと表情を戻した。
「何かお探しかい?」
いえ、何となく立ち寄っただけ。そう言い返して買うつもりも無しに売り物を物色する私は、さぞかし店からすれば不要な客なのだろう。けれど他に客は見えず、年中開店休業状態の香霖堂にとっては私などいてもいなくても関係ない。
しばらくぼんやりと時間を潰してから、私は買った秋刀魚が痛む事を思い出して店を出ようとした。
「大丈夫かい?」
扉に手をかけた時に、不意に後ろから店主の声がした。
振り返ると森近は元の場所に腰掛けたまま、視線を真っ直ぐ私に向けていた。表情は相変わらず仏頂面だったが、鼓膜を揺らした声には確かに私への心配が籠められている。
「大丈夫か、って……どういう事?」
「普段通りに振舞っているように見えて、君は結構な無理をしているように見えるからさ」
今度はハッキリと、目に見えて表情が変わる。いや、私がこの店主を見る目が変わったのだろうか。
「……別に無理なんてしてないわ」
ただ、私が森近の言葉を受けて、少なからず動揺してしまっている事は確かだった。返した言葉が百パーセント真実なのかと問われれば、首を縦には振れない。無理矢理自分に言い聞かせて体を動かしている部分も、ある。
「どうしてこうも、魔法使いってのは揃って不器用なんだろうか」
「随分と失礼ね。そんなだからこの店も閑古鳥が鳴きっ放しなのよ」
的を射た森近の言葉に、理性的な反論は難しかった。しかし私は私なりに延々と悩んでいるのだから、それを不器用だなんて一言で片付けられるのはやはり悔しい物がある。
「……パチュリーも君の事を心配してたよ」
私の非理性的な反論は、森近にとっては痛い物だったらしい。僅かに言葉を詰まらせて巧みに話題をすり替えた。ただ、すり替えた話題の内容は私にとって気にかかる事の一つだった。
パチュリーは今、どうしているのだろうか。彼女は私たちの中でも魔女としての人生が長くて、三人で研究をしている時には彼女の幅広く、深い知識に助けられる場面が何度もあった。そのパチュリーも、もう数ヶ月は連絡をとってすらいない。
「どうしてパチュリーの事を知っているの?」
だから、もう一度会って話が出来たなら、少しは気持ちも軽くなるかもしれない。そう思った。森近は小さく溜め息をついた後、僅かに微笑んで語る。
「パチュリーは最近よく訪ねて来るんだ」
ただ、私にはそう言った森近の言葉が不可解でならなかった。咲夜が買い物に来るならともかく、一年の殆どを図書館の中で過ごしていたパチュリーが、頻繁に香霖堂に足を運んでいる。それにはどうしても違和感を感じずにはいられない。
「で、ここに来てパチュリーは何をしているの?」
動かない大図書館を動かすだけの何かが香霖堂にあるとは、私には思えなかった。何て事の無いように森近は言う。
「八卦炉を見せてくれと言っては、数時間もウンウン唸って帰っていくよ」
新しい魔法を試したいから、久し振りに図書館に来ないか――と、そんな意味合いの言伝を訪ねてきた咲夜から聞いたのは、この香霖堂での一件から一ヶ月と経たない頃だった。
――――――――
「行けばいいじゃない」
心底どうでもいい事のように霊夢はそう言ってお茶を一口。霊夢にとっては、恐らく本当にどうでも良い事なのだろう。
七夕の夜から私やパチュリーが少しずつ変わってしまっても、霊夢だけはまるきり以前と変わらないように見えた。夏が過ぎ、秋が深まっても、いつものように参拝客の見えない境内を箒で掃除しては、縁側に腰掛けてお茶を飲む。
私にとって様変わりしてしまった世界は、霊夢にとっては昨日とも先月とも去年とも、大して変わらぬ世界なのかもしれない。
「そんな事は無いわよ。何よ人を心の無い人形みたいに言って」
と言う旨の事を話したら、流石に怒られてしまった。それは確かにそうだ。霊夢は人間であって人形ではない。そうでなかったら、あの七夕の夜に見せた罪悪感で苦しそうな表情も嘘になってしまう。
パチュリーから言伝が届いて数日、私は図書館に行こうか行くまいか悩んでいた。
もちろん、パチュリーと顔を合わせて話をしたかったのは確かだ。ただ、森近から聞いた「八卦炉を見てウンウン唸る」と言う様子が気に掛かる。八卦炉が魔理沙の物であった事は、パチュリーは勿論知っている。問題は何のために八卦炉を観察していたか、だ。
そして言伝にあった「新しい魔法を試したいから」の件だ。八卦炉と魔法、この二つのキーワードが重なると、私はもう一つの事しか思い浮かばない。そしてそれは魔理沙の寿命を恐ろしい勢いで磨り減らした、私にとってはタブーに近い魔法だ。
マスタースパーク。あれが無ければ、魔理沙はもしかしたら違った生き方が出来たのかもしれない。そんな考えが紅魔館に向かおうとする私の足を掴んで離さない。
悩んだ挙句、足は博麗神社に向いた。霊夢は久し振りの再会に少し意外そうな表情を浮かべたが、その後はすぐに「休憩にするけど、お茶飲む?」といつも通りのやりとりを交わす。
お茶を飲みながら、何て事のない近況報告をし合ったりした。しかし私は長く家の中に閉じこもっていたし、霊夢は霊夢で殆ど変わらない日々を過ごしていたわけだから、話題が尽きるのは早い。
とは言え冗長に会話を続けてもしょうがないだけだから、私は単刀直入に図書館に行こうかどうか悩んでいる事を教えた。
「行けばいいじゃない」
その返事がこれだ。数日も悶々と悩んでいたのがバカバカしくなるほどの軽さで、霊夢は溜め息をついて一言、行けばいいじゃない。と。
「それに、マスタースパークがあったって無くたって、どっちみち魔理沙は止まらなかったわよ」
続く台詞はこれだ。全く持って霊夢は、私が途方も無い時間をかけて考えている事にすっぱりと単純明快な答えを出してしまう。
わかっている。マスタースパークの有無なんて関係無しに、どっちみち魔理沙は遅かれ早かれ死んでしまっていた。私はそれを理由に、在りもしないifを考えているだけだ。
「だいたいね、あんたもパチュリーも魔理沙とは違うんでしょ? 居もしない魔理沙の影を追い求めてるのは、見てるこっちが辛いわよ」
視線を空に向けたまま、ぶっきらぼうに霊夢は言う。口調だけを捉えれば、魔理沙の事なんて今ではどうでもいいとすら聞こえなくも無い。現に私はその冷たく見える態度をなじろうと、喉から言葉が出掛かっていた。
でも、直前で気が付いてしまった。霊夢が魔理沙に対して正面から向かい合って、挑戦を受けた末に間接的に魔理沙を殺してしまって、それでも現実を受け止めた上で魔理沙を話に出す理由。
「霊夢、あなたは……」
霊夢が面倒臭そうに私に目を向ける。ただ、ほんの少し口の端が歪んでいるのは見逃さなかった。
「……そう。信じるって、こういう事だったのね……」
魔理沙の事を信じるから、その思いを真正面から受け止める。中途半端な事をするのは相手から逃げている事になるから、自分も全力を出す。その先にどんな悲しい結果が待っていたとしても、それはお互いが望んだ事だから後悔はしない。
「……でもそんなのって、やっぱり悲しすぎるじゃない…………」
「何が悲しいのよ。魔理沙の全力を受け止められるのが私だったんだから、むしろ私は自分と魔理沙を誇りに思うわ」
そう言いながら再び空に視線を戻す霊夢の目は、少し赤くなっていた気がした。
「魔理沙って、最初に会った時から一度も私に勝てなくてね」
しばらく無言で空を見続けた後、珍しく霊夢から口を開いた。黙って耳を傾ける。紅く染まった木々が風に揺られて音を立てる。
魔理沙が何度も何度も霊夢に挑んで、そのどれもが白星をつけられずに終わった話。不思議と飽きなかったが、一つだけ疑問があった。
「あの永夜の異変の時は?」
魔理沙は、あの時の勝利を無い物と考えていた。それから私は、私さえいなければ魔理沙は勝利を掴めていたのではないのかと、どれ程考えた事だろうか。
「『あれはアリスがいたからノーカウントだ」
霊夢の言葉を全て聞くのを待たず、私はガックリと肩を落とした。やっぱり私は足手まといだったのだ。私がいなければ魔理沙は死ぬ事も無かったのだ……と一人落ち込む私を尻目に、霊夢は気に留める様子も無く続ける。
「アイツがいなかったら、気を失うまで全力で魔法は使えなかった』って言ってた」
一瞬、時が止まった気がした。耳にした文章の意味が良くわからない。私がいたから全力を出せなかったのじゃなくて、私がいなければ全力が出せなかった?
「少なくとも、魔理沙はあんたを信じてたのよね」
止まった時が動き出すと同時に、私はただ静かに涙を流していた。
魔理沙が私を信じてくれていた事が嬉しくて、最後まで心の何処かで魔理沙を信じ切れなかった私が情けなくて、嗚咽も漏らさずに静かに涙が頬を伝う。
今からでも魔理沙を信じて良いだろうか。答えは私が出すしかない。
神社からの帰り道、私は図書館に行こうと思った。
パチュリーの全力を受け止めて、私の全力を受け止めて貰おう。私が魔理沙を信じるには遅すぎるだろうか。いやきっとそんな事は無い。
思考にかかっていた靄は、今はもう綺麗さっぱり消え去っていた。
――――――――
「久し振りね、調子はどう?」
「今までに無いくらいに清々しいわ。パチュリーも元気そうで何より」
良く晴れた週末の午後、私は紅魔館の図書館に居た。晴れ間が続いたおかげなのか、図書館の空気も閉め切っている割には心地よく感じられる。
出された紅茶を飲みながら、私とパチュリーは時に笑みさえ交えながら話に花を咲かせる。会わなかった間の事、魔法の事、魔理沙の事。話したい事は幾らでもあった。
話し始めたのは昼を過ぎた辺りだったと思うのに、一段落ついた頃にはもう陽が暮れかかっていた。時間の感覚を狂わせる程に話に夢中になるのは、一体何年振りだろう。もしかしたら初めてかもしれない。
「ところでアリス、一つ聞きたい事があるの」
何度目かわからない紅茶のお代わりを咲夜に頼んだ時、パチュリーが私に質問を投げかけた。何かしらと問い返すと、パチュリーは私の隣の椅子に立て掛けてある箒を指差した。
「それは何?」
魔理沙の箒よ、それがどうしたの。特に深く考えずにそう返すと、パチュリーは黙って首を横に振った。口元がはにかんだ様に歪んでいるのは、気のせいだろうか。
箒を持ってきたのには、特に特別な考えは無い。ただ、私が見る限り魔理沙と最後の最後まで――魔界に攻め込んで来た時から、最後の霊夢との弾幕ごっこまで――共に戦った相棒だから、それを私の家の玄関で埃を被らせておくのは魔理沙に申し訳ない。ただそう思っただけだ。
けれど、それをパチュリーはやたらに喜んでいるようだ。元が物静かでインドア体質なパチュリーだから余り大騒ぎをしないだけで、言葉ではなく表情で喜びを表現するパチュリーは本当に珍しい。
「ちょっとは向き合ってみようかなって、そう思ったのよ」
「本当に珍しいわね、きっと明日は雹が降るに違いないわ」
何だか妙に気恥ずかしくて、そっぽを向きながら理由を付け加える。それでも皮肉を言うパチュリーに、私もつられて頬が弛んだ。
「そういえば、完成した新しい魔法って言うのは……」
陽が完全に沈んだ頃。ようやく溜まりに溜まってた話も消化し終わって、私は今日この図書館に呼ばれた本来の目的を切り出した。
魔法を見せるとは言っても、ただ単に試射してハイ終わり、と言うわけではない。魔法はそれに適した状況で使って、初めて最高の形になる物。簡単に言えば、実戦の中で受けなければ、それは魔法でも何でもないただの魔力の塊に成り下がってしまう。
「弾幕ごっこなんて、もうどれ程やってないのかしら」
魔導書を手に立ち上がりながら、そう漏らすパチュリー。元々好き好んで動き回る方ではなかったけれども、魔理沙が逝ってからは一度も弾幕ごっこなんてしていないのではないか。まぁ、それは私も同じなのだけれど。
「パチュリー。一つお願いがあるの」
なに? と顔を動かさずに言うパチュリー。僅かながら動作がぎこちないのは、ひょっとして緊張でもしているのだろうか。
「お互い、手は抜かないでやりたいの」
少し間を置いた後に、当然じゃない何言ってるの、と言って微笑むその顔には、既にぎこちなさの跡形も無かった。心の中でどうしようか迷っていた……のかもしれない。
向かい合って視線を交わした時には、既にその眼は真剣その物へと変わっていた。私も、一切妥協するつもりは無い。
お互い無言のまま、図書館には少しずつ魔力の渦が形成される。陳列されている本が僅かに音を立てる。左手に持つ箒が場に呼応するように熱くなる。パチュリーが本を開く……。
「火金符」
無音だった図書館に、バラバラと勢い良く本の捲れる音が響く。それに呼応するようにパチュリーの掲げた両手にはあっという間に火球が形成されていく。箒を握り締め、負けじと魔力を練り上げる。
「『セントエルモピラー』」
火球が真っ直ぐに私目掛け投げつけられるのはわかっている。私は横に飛び、火球が爆ぜるよりも早く数体の人形を展開した。時間差で弾幕を張るように指示してあるそれらよりも一足先に、小粒の魔弾を射出してパチュリーを牽制する。
パチュリーは練成した刃で魔弾を相殺するが、時間差で襲う人形の弾幕に回避行動を取らざるを得ない。その隙に新たに人形を展開して、一体を残して弾幕を張った人形を回収、入れ違いにランスを構えた上海をパチュリーに向かわせる。
私は魔理沙やパチュリーとは全力の出し方が違う。魔理沙の全力がありったけの魔力を有無を言わさずに相手に叩きつける疾風怒濤で、パチュリーの全力が多彩なスペルを組み合わせた変幻自在なら、私の全力は果てしない計算と先読みで組み立てる絶対包囲。搦め手に搦め手を重ねて相手を捕らえる。
私には魔理沙のように後先考えず全力を出す事は出来ないし、パチュリーの魔法は私よりずっと長い魔女生活の上に成り立つ知識と経験の賜物だ。私が一朝一夕で真似できる物ではない。だから私は理詰めで勝負する。弾幕はブレイン、良い言葉だ。
ふと、足元に微かな水気を感じた。思わず後ろに飛び退くと、一瞬遅れて間欠泉の如く魔法の水脈が噴き出す。私が飛び退いた事で上海もコントロールが僅かに乱れ、私の下へと戻ってくる。すかさず本を構えて追い討ちしようとしたパチュリーに、仕掛けておいた人形からの弾幕が襲い掛かる。
上海と人形弾幕を相手にする乱戦の中、本体である私に奇襲をかけるパチュリー。正直言って驚いた。決して手は抜いていない。抜いていないが、パチュリー の側にも多少の余裕が残っている事がまた面白い。
上海と人形弾幕によるラッシュに、私自身が火薬入りの人形を投げつける事で密度を上げる。しかしパチュリーは上海の刺突に防護障壁を張り、弾幕を水の弾丸で掻き消し、私の人形を空中で撃ち落す。傍から見れば攻めているのは私だが、攻め手に慣れてきたのか、段々とパチュリーの反応するスピードが早くなっていく。
場所を変え、角度を変え、多方面から攻め込んでも、パチュリーの反応が鈍る事は無い。残存魔力も枯渇には程遠いだろう。一度大きく手を打ってみる必要があった。
配置させた人形に、新たに術式を走らせる。人形の数は全部で四体、ちょうど正方形を描くようにパチュリーを取り囲んでいる。条件としてはこれ以上無く良い物だった。
術式を取り込んだ人形は互いに魔力を交わし、簡素な魔法陣を描く。パチュリーもそれに気が付き、詠唱を始める。私は全ての攻め手を止め、同時に魔法陣に魔力を収束。図書館の床に光が走る。
「魔符『アーティクルサクリファイス』!」
収束した魔力が爆発を起こす。突風が吹き、積みあがった本の山を崩して騒がしい音を立てた。が、もうもうと起こった埃の煙が晴れた時、パチュリーは傷一つ無しに立っていた。
「月符『サイレントセレナ』」
見ればパチュリーの足元には、私が描いたのとは別の新しい魔法陣。この程度で勝敗がつくとは思っていないけれども、改めてパチュリーの魔法使いとしての実力は相当な物だと感心した。
ほう、と溜め息をつき、パチュリーは再び本を開く。栞代わりにしているスペルカード、それを掲げながら私に笑いかけた。
「まだやれるでしょう?」
賢者の石、と呟く。瞬時に展開されたのは五色のマジックアンプ。具合を確かめるように賢者の石を一瞥して、パチュリーは空中へと飛び上がった。
「今のは全力の一割四分三厘ってところね」
箒に魔力を込め、跨る。かつて魔理沙がそうしていたように、私もしっかりと柄を握り締めた。重力の束縛から解放された空間で、第二ラウンドが始まる。
――――――――
箒の操縦は思ったよりも難しかった。加減がわからないせいで必要以上に勢いがついて、慣性に何度か体が放り出されそうになる。
こんな箒を乗りこなし、瞬時に弾幕の隙間を見つけ、懇親の一撃を叩き込み……。魔理沙がいかに無理をしていたかが良くわかる気がした。ただの人間がこれを苦も無く乗りこなした上で弾幕ごっこに参加するのは、きっと並大抵の努力ではなかっただろう。
「木符『グリーンストーム』」
パチュリーの宣言と共に、凄まじい風と雨のような弾幕が襲い掛かってくる。しっかりと箒を太腿で挟み、弾の速度、軌道、安全地帯を演算する。勿論こちらも人形を展開して波状攻撃を仕掛ける事を続ける。
『当たりもしない弾に怖気づく魔理沙様じゃないぜ』
鼓膜を揺らすのは聞こえる筈の無い声。在り得ない筈の幻聴は、しかし私の追い風となる。
箒が言う事を聞くようになった気がした。弾と弾の間をすり抜け、パチュリーとの間合いを詰める。次のスペルを詠唱するその隙に、人形と共に一斉に攻め入る。そうすれば今度は、スペルで防御される事も無い筈だ。
やがて風が弱まる。来るべき瞬間に備えて八方に人形は展開済みだ。箒の柄から右手を離し、上海を抱き留める。後は魔導書を捲って詠唱する隙に、私の全力を持って地面に叩き落す。
完全にグリーンストームが終わる。そしてパチュリーは魔導書を手にし――
――私の予想とは裏腹に、魔導書をバタリと閉じた。
閉じると同時に、パチュリーの周囲をゆっくりと回転していた賢者の石が発光する。私が瞬きする瞬間に賢者の石は結晶から球体へと形を変えた。
五色に輝き、パチュリーの周囲を回転するその形には見覚えがあった。いつか魔理沙が使っていたオービット、彼女はそれをオーレリーズサンと呼んでいた。
賢者の石、否、オーレリーズサンは再び強く光を放つ。呆けていた私が魔力の集約に気が付いたのは、もう左右から交差するレーザーが私を挟みこんでいる頃だった。
「ッ上海!」
咄嗟に手にしていた上海を媒介にし、魔力をレーザー状にしてパチュリーの賢者の石の一つにぶつける。狙い済ました一撃はその賢者の石を砕き、レーザーの挟み撃ちは免れた物の、数秒後には再び結合・再生して回転しながらレーザーを放つ。
「『ノンディレクショナルレーザー』、魔理沙はそんな名前をつけてたわ」
元々は私が使っていた魔法だけれど、とパチュリーは閉じた魔導書を両手で抱えながら呟く。魔理沙が借りっぱなしだったのは本だけでは無いらしい。
が、今はそんな事はどうでも良かった。高い再生能力を持つオービットに守られたパチュリーは、まさにラクトガールと呼ぶに相応しい。レーザーは気を抜かなければ避けられない事も無いだろうが、攻め手に欠いてはどうしようもない。パチュリーの魔力切れを待つにも、魔力を消費し続けているのは私も同じだ。分が悪い。
ダメ押しとばかりにパチュリーが詠唱する。その隙も今や容易につけ込める物ではなく、それどころか下から水脈やら土の槍やらが襲い掛かってくる。配置してある人形は六体、無理矢理賢者の石の守りを崩すには、六旁星の魔法陣じゃ威力が足りない。状況は完全に私に不利になった。
いや、不利ではすまない。再びレーザーが交錯する。真下には水脈を呼び出す魔法陣。頭上を見上げると、一瞬前に突き出した土の槍が、重力に従って私へと落ちて来る。左右はレーザー、下は水脈、上は槍。逃げ場が、無い。
『本当に? 本当にどうにも逃げる場所が無い? もし無かったとして、そんな簡単に負けを認めてしまうのか?』
じゃあどうすれば良い。これじゃ逃げたくても逃げられない。上下左右から攻撃が来てるのに、どうしろって言うの? ……教えてよ、魔理沙。
聞こえない筈の幻聴に向かって、私は咄嗟に手を伸ばした。あの永夜の異変の時のように。今度は私が魔理沙に引っ張り上げて貰う番だと、そう思っていた。
けれどもその声は、私の伸ばした手を優しく振り払った。『逃げるんじゃない。避けるんだ。先に繋げるんだ』――そんな言葉を残して。
先に繋げる。その言葉で私の思考は落ち着きを取り戻した。先々の先を取るためにはどうする。このまま空中でアレコレ避けた所で、次のピンチは必ずやって来る。
じゃあどうすれば良い。簡単な事だ。
私は上海を抱え、蹴り飛ばすようにして箒を飛び降りた。
ダイヤモンドのような槍と魔力を孕んだ間欠泉とが私の体を掠める。蹴り飛ばした箒は勢い良くパチュリーの頭上を越え、向こう側へ落ちた。
私は地面が近づきつつある中で体勢を整え、両足に魔力を集めてクッションにする。飛行用の魔力は全て箒に詰めていた。一瞬では飛行に移れる程の魔力は練れない。
咄嗟の判断のせいで衝撃が完全には殺しきれず、地面に着地してから数メートルを後ろ向きに滑り、ようやく私は止まった。
「面白い発想ね。でももうチェックメイトよ」
そして顔を上げた私の前には、地面に降り立ったパチュリーが私を見つめていた。上下左右がダメなら、空中を捨てて地上に戻れば良い。そんな単純な考えを、パチュリーが想定していないわけがない。
「残念。チェックメイトには一手遅かったわよパチュリー」
「……一手間に合わなかったのはあなたの方でしょう?」
今だ自信を失わない私に対して、パチュリーは訝しげな表情を浮かべた。しかしそれもすぐに真剣な物へと戻る。
「約束どおり、見せてあげるわ。私の新しい魔法」
パチュリーが魔導書を地面に置き、右手を私へとかざした。途端にそれに呼応するように賢者の石が光り始める。やがて完全な光の塊と化し、五色の光がパチュリーの右手へと集まり、再び形を為す。
光が治まった時にその右手に握られていたのは、魔理沙の物と寸分違わぬ八卦炉だった。
「やっぱり、マスタースパークか……」
わかっていても、八卦炉を目にした途端に今までとは違う感情が胸の中で渦巻く。怖い。怖い。私が壊れてしまうのが、パチュリーが壊れてしまうのが怖い。
「どうする? 今ならまだ、降参を受け入れるわよ」
パチュリーの言葉に、屈してしまいそうな自分がいる。魔理沙への後悔を引き摺っている自分がいる。
「……言ったでしょパチュリー。全力で戦ってって、手は抜かないでって」
けれど、もう私は逃げない。このマスタースパークは壊すためではなく、創る為の物だ。何を? 覚悟を。未来を。信頼を。
「来て、パチュリー。あなたの全てを受け止めて見せる」
私の言葉にパチュリーは躊躇いがちに頷き、しかしキッと私を見据えて八卦炉を構えた。私も人形を一体取り出す。魔力を充分に籠めたそれは、しかしマスタースパークの前では塵に等しい。
その場の空気が、魔力が、或いは空間全体が八卦炉に飲み込まれていくような錯覚。光が収束していくだけでそれ程のインパクトがある魔法、それを私は誰よりも間近で見て、感じたんだ。怖い物など何も無い。
「行くわよ」
パチュリーが小声で呟いたのに、私は首を縦に振る事で返した。
「恋符『マスタースパーク』」
パチュリーの声は、魔理沙のどこまでも響くような威勢の良い声とは違い、冷酷な死刑宣告のようにすら聞こえる。
八卦炉から溢れ出す光の激流。それが私を飲み込む直前、私は手にした人形を思い切りパチュリーの足元の床へと投げつけた。小規模な爆発はマスタースパークその物に対抗する事は不可能だが、手元をわずかに狂わせるには充分だ。ほんの少し上に向いたマスタースパークは、屈んだ私の頭の上を掠めて行く。
「魔操――」
同時に、パチュリーの足元の爆発を始点にして、配置してある人形へと魔力の線が走る。それは瞬く間に一つの巨大な八角形の魔法陣を形成し、マスタースパークの余波がそのまま防護障壁になっているパチュリーへと収束する。
「――『リターンオブイナニメトネス』」
私の全身全霊の魔力が、図書館に炸裂した。
――――――――
月を模した飾りがカツン、と音を立てて、パチュリーのナイトキャップが床に落ちた。
吹き飛んだ本棚やら余波を受けた魔導書やらで濛々と埃が立ち込めていたのがようやく落ち着いた時、私は床に大の字になっているパチュリーを立ったまま見下ろしていた。
「どうして……?」
まだ理解が追いついてない様子のパチュリー。咄嗟の判断とは言え、それが状況を一気に逆転させたのだ。自分の優勢を信じて疑わなかったパチュリーが理解し切れないのも無理は無い。
「人形は六体しかいなかった筈なのに、私に攻撃がギリギリ届かない数なのに、どうしてあんな大魔法が使えたの?」
自らのマスタースパークが図書館の壁に穿った大穴を眺めながら、パチュリーは仰向けのまま言った。姿勢を正す事もしないのは、それほどまでに計算が外れた物だったからだろう。
確かに、配置していた人形は六体。でも「リターンオブイナニメトネス」は八角の魔法陣を描く必要があるから、それでは勘定が合わない。じゃあ、どうやって私は数を合わせたのか。簡単な事だ。
「人形じゃ無い物を使っただけよ」
あらかじめ配置していた六体。起爆に投げつけた一体。そして最後の一つは魔理沙の助けとも言える。
「……そうか、箒に籠めた魔力を…………」
参ったわ、やられたわね。そう言ってパチュリーは体を起こした。転がっているナイトキャップを手に取り、埃を払って被り直す。
どうやら私は勝利したらしい。魔理沙の箒が無ければ作戦は成立しなかったから、魔理沙的な考え方をするならばノーカウントなのだけれど。
それでもパチュリーの全力に真正面から向かい合えたのは確かだから、私はそれがとても嬉しかった。
「それにしても、ああも簡単に軌道が曲げられるなんてね……」
再び壁の大穴に目を移し、パチュリーは溜め息を一つ。いかに必殺の威力を持とうとも、爆発一つで曲げられたら意味が無い。何が違うのだろう――と言った溜め息だろうか。
永夜異変の時に間近で見たマスタースパークと、ついさっきパチュリーが使ったマスタースパーク。パチュリーのマスタースパークの欠点を、恐らく私は気付いていた。
「構えが違ったのよ」
「構え?」
釈然としない様子で首を傾げるパチュリー。確かに八卦炉単品を見ただけじゃ、魔理沙の構えまではわかりようが無い。私は続けて解説する。
「パチュリーは八卦炉を持った右手を左手で押さえていたけれど、あれじゃ衝撃に耐え切れない。魔理沙は両手でしっかりと構えていたもの」
身振り手振りを交えた私の解説に、パチュリーは感心の溜め息をついて、一言。
「……アリス。あなたは本当に魔理沙を見ていたのね」
弾幕ごっこの決着が着いてから数分後、タイミング良く咲夜が夕餉の支度が出来た事を知らせに来た。いや、知らせに来ただけの筈なのだが、咲夜は図書館の惨状を目の当たりにして、流石に瀟洒さ溢れるメイドの表情を保っていられずに、眉間に皺を寄せた。
「パチュリー様。一つ確認しますけれど、ここは図書館ですよね?」
「ええ、そうよ」
咲夜が青筋を浮かべるのも無理は無い。床は所々が剥がれ、本棚は一部が倒壊し、密度の濃い魔法のやり取りをしたせいで共鳴した魔導書がカタカタと音を立て、オマケに壁には本来在り得ない大穴。地下にある筈の図書館の壁から星空が見えると言うのは、色んな物に目を瞑ればロマンチックに思えない事も無い。
そしてそんな惨状を片付け、修理するのは他でもない妖精メイドで、それを指揮するのは咲夜。これで文句一つ言わずに作業に取り掛かれるメイドがいるとしたら、それは既に人間ではなくなっていると思う。
「まぁ、やり過ぎたのは反省するわ。代わりに私の所の司書を貸し出すから、好きなように扱き使ってやって」
倒壊した本棚と本棚の間から、己の不幸な身の上をさめざめと泣く声が聞こえた気がした。
「もうしばらくは図書館で弾幕ごっこは出来ないわね」
するつもりも無いけれど、と呟いて、パチュリーはティーカップを口に運ぶ。食後の紅茶を飲みながら、私とパチュリーは勝負の後の不思議な余韻に浸っていた。
いつもは弾幕ごっこなんて勝敗がつけばすぐに忘れてしまっていたけれど、何故だか今回は違う。何度も何度も、私の頬を掠めた刃だとか、咄嗟に反応して撃ったレーザーだとか、そういう記憶が走馬灯のように頭の中を駆け巡る。そのせいで興奮が中々冷めてくれない。
「咲夜もだいぶ怒ってたみたいね。出入り禁止にされなければ良いけど……」
そして恐らく、魔理沙は毎回のようにこの感覚を味わっていたに違いないのだ。全力を出し切った後の心地よい気だるさは、私が今まで体験した事の無い未知の感覚だった。
「大人しくしてる限りは大丈夫よ。大人しくしてる限り、は」
薄ら笑いを浮かべるパチュリーにつられて、私もクスリと笑う。私たちにはそれで充分だった。魔理沙はいないけれど、また以前のような日々が戻ってくる……そう直感していた。
「……また図書館で研究でもする?」
でも、だからこそ。また前のような日々に戻りたいから、そのために私が乗り越えるべき壁がまだ一つある。だから私はパチュリーの提案に対して首を横に振った。
「……少し時間をちょうだい。そう、…………七月には、きっと答えが見つかるから」
私の考えている事を薄々察したのか、パチュリーは黙って頷いた。
『良いのか? ――強いぜ、霊夢は』
心の何処かで求めている魔理沙に、きちんと別れを告げられるように。弱かった自分と、きちんと決別出来るように。全力で霊夢にぶつかろうと思った。
――――――――
満点の星空の下、私は霊夢と向かい合って箒に跨っていた。
霊夢の手には構えた御札。僅かに巫女服の裾がたなびいているのは、すぐにでも空へ飛び上がれる証拠。私のどのような行動に対しても、即座に対応できる状況と言える。
天気は晴れ。風は殆ど無し。七夕の夜空には、見事な天の川が主役として輝きを放つ。これ以上無い弾幕日和だった。
「本当に、それで満足するの?」
霊夢が私に問い掛ける。僅かに孕んだ憂いは疑念なのか哀れみなのか、私にはわからない。わからなくて良い。大事なのは、今この時を全力で駆け抜ける事。今はもういない彼女に、私はそう教わったのだから。
答えを口にする代わりに、無言で箒を握る手に力を込めた。そんな私を見て霊夢も何か思うところがあるのか、すっと目を閉じる。私も合わせて目蓋を下ろす。
静まり返った神社の境内で、私と霊夢がそうしていたのはどれ程の時間だっただろうか。一分だったかもしれないし、一時間だったかもしれない。ただ私と霊夢が同時に「黙祷」を終えた時には、思考は弾幕ごっこの為の物へと切り替わっていた。
「行くわよ」
「いつでも」
開始の合図に一発、小さな魔力の弾を撃つ。それと同時に地を蹴り、私を乗せた箒は高く高く、一気に星へと近づいた。勿論霊夢がそんな牽制の弾に被弾する事は無いから、私と霊夢は再び空中で向かい合う事になる。
しかし、今度の間は短い。間髪入れずに針や御札が激流のように押し寄せ、入れ替わりに私の放った魔法が四方八方から交錯して霊夢へと襲い掛かる。数瞬前までは穏やかだった七夕の夜空は、あっという間に弾幕と閃光が演じるパレードの舞台へと変わってしまった。
集中力を研ぎ澄ませて弾幕を見切る。魔術回路をフルに稼動させて攻め手を継続する。二手先、三手先を読んで人形を展開する。
全力を出して戦う事は、何度やっても慣れる物じゃない。こんな戦い方を繰り返していた彼女は、やはりただの人間ではなかったのだと認識を改めさせられる。
それでもやっぱり彼女はただの人間だったから、今はもういないのだけれど。
「その程度? 魔理沙はそんなもんじゃなかったわよ」
「まだまだ、私もこんなもんじゃないわ」
交錯する互いの弾幕。埋められていく空間の隙間。それでも勝ちを狙いに行くのだから、妥協はしないし、出来ない。けれど確実に、私の体力も魔力も削り取られていく。
一瞬の好機が訪れるのと、私が限界を迎えるのと。どっちが早いだろうか。
「……いつまでそうやって、膠着状態を演じようとしてるの」
それまでの針と御札に加えて陰陽玉まで混ざるようになった弾幕をすり抜けていると、弾幕の向こうからそんな声が聞こえた。私の展開する人形も、弾を撃つ前に数機が撃墜されてしまう。
体力が追いつかなくなって弾幕に少しずつ綻びが出てくる私に対して、霊夢は息の一つも乱していない余裕の戦いっぷり。幻想郷の守護者である博麗の巫女にそう簡単に勝てるとは思っていないけれど、やはり霊夢の実力が天井知らずである事を嫌でも痛感する。
こんな。こんな圧倒的な存在に挑んでいた彼女は――魔理沙は。太陽に近づいたばかりに命を落とした、まるでイカロスだ。
避けたはずの陰陽玉が空間に反射したかのように軌道を変え、再び私に襲い掛かる。僅かに反応が遅れた。直接被弾こそしなかったが、箒を掠めた衝撃は予想以上に強い。グラつく私を見て、霊夢は苛立ったように声を荒げる。
「もういいじゃない。魔理沙だってあんたが傷つくのを望んでるとは思えないわよ――アリス」
「魔理沙が望んでなくたって、私が望んでるの。それに、あなたを倒すのなんて私には造作も無いわ」
目に力を込め、ブレる視界にしっかりと霊夢を捉え、睨みつける。躊躇したのか最終警告なのかは知らないが、弾幕は怒涛の勢いを保ったまま、まるで私を威嚇するように私から逸れて通り過ぎて行く。
「さっきから私に掠りもしてないのに?」
荒れた息を抑え付け、体勢を立て直す。一瞬弛んだように見えた霊夢の攻め手は、私が弾幕ごっこを続行する姿勢を見せたことで再び激しくなった。
「知ってる? 切り札は大事な時までとっておく物なのよ」
それでも。それでも私は、もう逃げる事はやめると決めた。目の前の霊夢に、力になってくれたパチュリーに、私を信じてくれた魔理沙に。真正面から向き合う事でしか、信頼は証明できない。
ただ空に在るだけの星じゃ太陽には敵わない。けれど、夜空を駆け抜ける彗星なら違うかもしれない。例えその身を焦がして彗星は輝くのだとしても、今日だけは私は魔理沙の意志を継ぐのだと決めたのだ。
一枚のスペルカードを取り出す。パチュリーのアレンジをヒントにオリジナルを尊重して、そこに私なりのアレンジを加えたそのスペルカードは、まさしく三人分の想いが篭もっている。
一瞬攻め手が疎かになった私の隙を見逃さんと、雨のように弾が降り注ぐ。それで構わない。体が悲鳴を上げていても、集中力だけはますます研ぎ澄まされていくからだ。降り注ぐ弾の雨も抜け道が見える。全ての弾幕の動きを演算出来る。唯一の好機は、私の限界と共に訪れた。
残る私の全てを、このスペルカードに。
「恋符」
収束した魔力が八卦炉の形を為す。今度こそ霊夢の顔にハッキリとした動揺が浮かぶ。かつて魔理沙がそうしていたように、しっかりと両手で八卦炉を霊夢へと向けて構える。
魔力と言う魔力を、八卦炉を構える両手に集める。意識は朦朧として定かではなく、喉は焼けたように渇ききって熱い。全身の血液が流れるのを止めたようで、箒に跨っているのも辛いほど体が重い。
それでも私は魔力の行使を止めない。最後の最後まで全力を出せなければ、私はいつまでも魔理沙から離れられない。妥協を許せば、私はまた逢えない魔理沙を心のどこかで頼ってしまう。
もう逃げるのは止めだ。この魔砲を、私から魔理沙への別れの言葉の代わりにする。
「『マスタースパーク』」
光が爆ぜた。八卦炉から吐き出された膨大な魔力の奔流は、七夕のロマンチックな天の川を全てを押し流す激流へと変える。
針は溶けて消えた。御札は焼き尽くされた。陰陽玉は砕け散った。霊夢が咄嗟に結界を張るのが見えたが、それもいつまで保つか。
が、キックバックも半端ではない。魔力を絞り尽くした体には、尋常ではなく堪える。意識だけは失わないように、と渾身の力を振り絞って体を支える。大丈夫、私には私だけじゃない。パチュリーがいる。魔理沙がいる。三人分の魔力を集めれば、いかに霊夢とて勝てるだろう。
だから、今だけは私の意識を持たせなければ――
『今度は私の番だな』
八卦炉を必死に構える両手が、何か温かい物に包まれる。
痺れて感覚も無くなりかけていた両手に、確かな熱が通う。血の巡りを感じる。途切れかけていた意識は、再び鮮明に世界を捉えた。
「魔理沙……?」
返答は無い。七色の魔力の奔流が視界一杯に広がる中、けれどもいつかの夜に箒の後ろで感じた温もりが、私を包み込むように……。
――空に流れ星が一つ。煌いたのを確認した時には、八卦炉からの魔力の放出は終わっていた。
魔理沙の声が何処から聞こえたのかがわからなくて、慌てて辺りを見回す。聞こえる筈が無いなんて事は考えていなかった。確かに私は聞いたのだ、魔理沙の 声を。確かにこの手に触れたのだ、魔理沙の手が。
「痛たたた………」
声の聞こえた眼下を見ると、尻餅をついた霊夢がしきりに腰を摩っていた。……と言う事は、この勝負は私の勝ち、なのだろうか……?
ゆっくりと高度を下げ、箒から降りた私に、霊夢は痛みのせいか目尻に涙を浮かべて言った。
「やられたわ。あんたらの勝ちよ」
その言葉を聞いて安堵してしまったのか、それを最後にその夜の記憶は途切れる。
――――――――
――長い回想を終え、私は閉じていた目を開けた。月はさっきに比べると、目に見えてわかる程に移動している。結構長い間こうしていたようだった。
立ち上がり、魔理沙の墓を軽く撫でる。埃一つ無い渇いた墓石に落ちた水滴は、きっと天気雨か何かだ。……そうだとしたら、私の瞳はいつから隙間妖怪と同じ気質を身につけたのだろう。
見上げる天の川も、滲んで良く見えない。今年こそは平気だろうと思っていたが、この分だと来年や再来年も同じ調子になる事だろう。誰に見せるでもない自嘲気味な笑みを浮かべた。
「あらアリス、来てたの」
背後から声が聞こえて、私は慌てて服の袖で目を拭う。聞き慣れた声は間違いない、パチュリーだ。
「私もいるわよ」
振り返ると霊夢もいた。二人の手には花が握られていたが、魔理沙の墓と私の手元の花とを順に一瞥し、目を合わせて苦笑いを浮かべる。誰も考える事は同じらしい。
「まぁ、余り花が似合うような乙女ってわけでもなかったしね」
苦し紛れにそう言った霊夢に、私とパチュリーは小さく笑った。花も恥らう乙女なら、唐突に魔界に乗り込んできて荒らし回ったり、図書館から無断で本を持ち出す事を咎められたりする事は無いだろう。
「でも、この花はどうしようかしらね」
「要は、花じゃなければ良いんでしょう?」
パチュリー、ちょっと手伝って。パチュリーに耳打ちで考えた事を伝えると、楽しそうに微笑んだ。
私は霊夢とパチュリーから花を受け取って地面に並べ、パチュリーに合図を送った。パチュリーがブツブツと詠唱を始めると、並べた花の下にはうっすらと魔法陣が浮かび上がってくる。
やがて花がそれに呼応するように光り始め、溶けて行くかの様に形を崩す。完全に不定形になると、今度は再び形を為していく。が、元の花の形ではない。元々花だった物は、今は大小様々な金平糖のようになっていた。
「ちょっとちょっと、何なのよ二人して」
不満げな霊夢を笑顔で誤魔化しながら、私とパチュリーは金平糖を薄い魔力の膜で包み込む。やがてそれは子供程の大きさがある一つの玉になった。
人形を数体取り出し、その玉を抱えさせる。上昇を指示すると、人形達は少しもバランスを崩すことなく上空へ飛び上がり、砂粒ほどの大きさにしか見えなくなった所で静止した。
「じゃ、霊夢。最後の仕上げは任せるわ」
私の言葉に何とも訝しげな表情を浮かべる霊夢。まぁ、目的を話していないからこの反応にも無理は無い。
「あの玉を狙って」
パチュリーが促して、ようやく霊夢は袖口から御札を一枚取り出した。わけがわからないと言う表情を浮かべつつも、遥か遠くの玉目掛けて御札を飛ばす。
放たれた御札は寸分も外れる事無く玉を捉え、玉が弾け飛ぶ。
そして、幻想の星屑が夜空一杯に広がった。
それはあたかももう一つ天の川が生まれたかのような光景。仕掛けた張本人であるにも関わらず、思わず私たちは感嘆の溜め息をついていた。
「随分と風情のあるお供え物ね」と霊夢。
「お手製スターダストレヴァリエってところかしらね」とパチュリー。
「天の川だから、どちらかと言えばミルキーウェイじゃないかしら」と私。
それに魔理沙が答えたように流れ星が一つ煌いて、私たちは目尻を拭って微笑んだのだった。
――それは、とある不器用な魔法使いと、彼女と共に時を駆けた少女達の物語。
何か大切なものを思い出させてもらいました。
いい余韻にひたれました。
でもパチュリーやアリスが魔理沙のマスパをこれほどの短期間で打てるようになるのは違和感を感じる。
それなりの努力が必要なはずだし。パチュリーは研究していたからできるとしても、アリスがいくら良く見ていたからぱぱっと打ててしまうのはどうか、と思いました。
…魔理沙の生き様に涙したのは俺だけじゃないはず
魔理沙が霊夢に一度も勝ててない……ということはまずあり得ません。
書籍の記述だと魔理沙が4割程の勝率であった筈です。
また萃夢想や緋想天の各ストーリーから実際に魔理沙が霊夢に勝利しています。
個人的にキャラクター全体に違和感が続きましたが
文章がとても綺麗で、ストーリーも判り易く特に後半の盛り上がり方は凄く考えられていると思います。
文章は良く出来てるんですが、始終違和感が拭えないって言うのが一番痛い
特に14氏が書かれているような公式完全無視の過去描写が違和感に拍車をかけています
オリジナル設定などが良くないとかそんな事は全然ありませんが
オリジナルに沿わないなら、そういった内容ですよという事を
冒頭なり、後書なりに自分から触れておくとおぉなるほどってまた受け取り方が変わってきます。
これだけだと「ゲームやった事あるの?」ってなってしまうかも
そう言って頂けると、作者冥利に尽きますね。
ありがとうございます。
>9
ありがとうございます。
その言葉で次も頑張れます。
>10
間にワンクッション描写を挟むべきでしたか。
冗長になる気がして削ったんですが……次は気をつけないと。
>13
涙するとまで言われると、こっちが泣きますw
>14
そこのところを、最初からあとがきに書いておくべきでしたね。すいません。
キャラクター全体の違和感は、書いてるうちに安定してくると思いますので、気が向いたらまた目を通していただけると幸いです。
>15
まぁ……そう思われても仕方が無い内容ですよね。
後書きに追記と言う形で足しておきましたが、こういう具合で良いのでしょうか?
>16
ありがとうございます。
次も頑張りたいと思います。
>18
そこは正直、上で出てる「違和感」の一つかもしれませんが……。
話に説得力を持たせるのは難しいですよね。