幻想郷が、誰かの見た幻想だと言うのなら―――
いったい誰が見た、幻想だったのだろうか―――
「最近異変もなくて退屈だぜー」
豊かな金髪をたたえた少女が、暇を持て余してるといった調子でぼやいた。
黙っていればどこかのお嬢様に見えなくもない気品さを漂わせているが、
悪戯っぽい表情と、男勝りな口調で台無しにしている。
彼女の名前は霧雨魔理沙。魔法の森に住む魔法使い(見習い)である。
服装も確かに黒と白を基調としていて、いかにも、と言った感じだ。
「霊夢も退屈だろ?」
魔理沙は隣で洗濯物を畳んでいた少女に話しかけた。
こちらの少女は対象的に黒髪で、紅白の巫女衣装を着ている。
袖口のところでなぜか布地が途切れていて、
腋の部分が露出した不思議なデザインをしていた。
彼女の名前は博麗霊夢。博麗神社という由緒正しい神社を管理する、
正真正銘の巫女さんである。
「一緒にしないでちょうだい」
霊夢は魔理沙の言葉にピシャリと応える。
「神社の清掃に結界の管理、私はあなたと違って暇じゃないわよ」
そんなに暇なら洗濯物片づけるの手伝ってくれないものかしら、と
内心ムッとしながらジト目を向ける。
「へぇ、噂には聞いてたけど本当に結界の管理ってやってるんだな
どうやってやってるんだ?いっぺん見せてくれよ」
そんな霊夢の内心に気づくことは一切なく、魔理沙は結界の話題に食いついた。
暇を潰せそうな話題が出た、と目を輝かせている。
「ダーメ、企業秘密。それに見ても面白いものじゃないわよ」
「なんだよ、けーちー」
おあずけをくらった犬のように恨めしい目で霊夢を見つめる。
なにガンくれてんだコラ、といわんばかりの目つきで睨み返された。
こいつ本当に神に仕える巫女なんだろうか。
「でもさー、結界の管理って霊夢がやってんだよな。
じゃあ霊夢がいなくなったら、幻想郷ってどうなるんだ?」
なんとなく思ったことを口にしてみた。
洗濯物も片づいたようだし、
このくらいの与太話につきあってくれてもいいだろう。
「いなくなるって何よ。家出癖のあるあなたじゃあるまいし、
急にいなくなったりしないわよ」
何を言い出すのやらと呆れた顔で霊夢が応える。
ちなみに魔理沙は9歳の頃に家を勘当され、最近まで放浪していた経験がある。
「さりげなく人の古傷をえぐるなよ…。
いなくなるっていっても色々あるぜ。
何か病気にかかってポックリ死んじまったりな」
魔理沙としては、ありえるケースの中で最もわかりやすいものを選んだつもりだった。
あくまで例えばの話。それ以上の他意などなかったのだが―――
「私が……………り……わ…」
ボソボソとまるで独り言のように霊夢は呟いた。
「え?」
霊夢の表情に幾分か翳りがさしたのを感じて魔理沙はギョッとする。
「ううん、なんでもない…。
それより今日、夕飯食べていくでしょ?
支度始めるから手伝ってよ」
「ぁ、ああ。わかった…」
霊夢が急に話題を変えたのを見て、
そんなに変な事を言っただろうかと内心首を傾げる。
よくはわからないが、聞かれたくない話題だったのかもしれないと思い、
それ以上は何も聞かなかった。
だが、魔理沙は霊夢のかすかな囁きを聞き逃してはいなかった。
意味がわからなかったので聞き違いかと考えたが、確かに霊夢は言っていたのだ。
『私が死ぬことなんてありえないわ』と―――。
「やぁいらっしゃい。頼まれてたもの出来てるよ」
中に入るなり、店主の森近霖之助が爽やかな挨拶で出迎えてくれた。
魔理沙は魔法の森の入り口にある道具屋『香霖堂』に来ていた。
魔法の触媒として使う八卦炉の修理を頼んでいたのだ。
魔理沙は修理の終わった八卦炉を手に取ると、しげしげと眺めた。
さながら愛しい娘でも見るような眼差しである。
「さすが霖之助だぜ、良い仕事するなー」
魔理沙が人の仕事を誉める時は大抵裏がある。
霖之助も長いつきあいでその辺りわかっている。
雲行きが妖しくなる前に、さっさとビジネスの話題を切り出した。
「ところで代金なんだけど…」
「悪い!」
ものすごい速度で切り替えされた。
「今持ち合わせが少なくてさ!今度来る時には用意しておくからツケといてくれないか!」
息つく暇もなく早口でまくし立てる。
やはり裏があったかと霖之助は肩を落とした。
「魔理沙…、ツケはこれでもう8回目だよ…。僕にも生活があるんだ、今回ばかりは…」
「昔からのよしみって事でさー、頼むよー!」
彼が断りの言葉を口にする前に魔理沙が言葉を遮る。
こうなると魔理沙は何としても引き下がらない。
それもまた、霖之助は長いつきあいでわかっている、悲しいことに。
半ば諦めが立ったが、せめて嫌味のひとつも言ってやろうと思った。
「ああ、あの可愛くて小さな子がこんな傍若無人に育つなんて、昔は考えもしなかったなぁ…」
「子供の頃の話を持ち出すなよ!卑怯だろ!」
「昔の話を持ち出して来たのは君が先なんだが…」
的確なカウンターを受けて魔理沙がプイっと顔を逸らす。
もしかしたらこの話題は魔理沙の弱点なのかもしれない。
霖之助は今回の交渉に一縷の望みを見いだし、追撃の手を模索しようとした。
しかし―――、
「まぁ可愛いのは今もだが…。ぉ、良いこと思いついた」
そう言うやいなや、魔理沙は霖之助の目をまっすぐ見つめ、とびきりの笑顔を作った。
「りんのすけおにいちゃん♪お代ツケにしてくれるとマリサうれしいなっ☆」
魔理沙のスターライトブリッコタイフーンが無防備な霖之助を直撃した。
まさかそんな手を打ってくるとは考えていなかった霖之助は、
動揺のあまり座っていた椅子から転げ落ちた。
もし彼が魔理沙の本性を知らなければ、一発で恋に落ちたかもしれない。
そのくらい、なんというか、美少女だった。
見習いとはいえ、さすが魔女である。
「ぐ、ぐぐ……。わ、わか…った…」
霖之助はガックリとうなだれた。今回も彼の負けである。
対する魔理沙はしてやったりという顔でニマニマしている。
ビジネスの話に女?の武器を持ち出してくる魔理沙こそ卑怯だ。
そう霖之助は思ったが、負け犬の遠吠えになるので口には出さなかった。
「ところで、霖之助って博麗神社とも取引あるんだよな?」
ここでふと、魔理沙は疑問を口にしてみた。
「ああ、祭具の製作や賽銭箱の修理を請け負ったりしてるよ」
「じゃあ霊夢の子供の頃とかも知ってんのか?
あいつの家行ってもアルバムとか無いから子供の頃の姿ってわからないぜ」
「いや?博麗神社と取引を始めた頃には霊夢はもう大人だったよ」
なんだ霖之助も知らないのか、と残念なような、安心したような気分になる。
だが霖之助の言葉には続きがあった。
「でも、おかしいな…」
何かに気づいた様子で、霖之助の表情が真剣味を帯びる。
「博麗神社と取引をし始めたのは今から12年以上前になる。
なのに、霊夢の姿はあの頃から変わっていない―――?」
霖之助は半妖であり、人に比べ非常に長寿であるため、時間の感覚が人のそれとは異なる。
なので12年という月日も、さして長い時間とは感じていなかった。
だが人間ともよくつき合いのある彼は知っている。
人にとっての12年は長いことを。
仮に最初に出会った頃が10代後半だったとして、今はもう30歳手前のはずである。
いまだ少女の面影を持つ霊夢に、違和感を抱かずにはいられなかった。
霖之助の表情が強ばっていくのを見て、内心を悟ったのか、
魔理沙は黙ったままだった。
人里にある一際大きな屋敷、その数多ある部屋の中の一つで、
稗田阿求は書をしたためていた。
彼女は見たところ十にも満たない幼子だが、幻想郷の歴史を
専属で記録している稗田家の現当主である。
軽快に筆を走らせていたのだが、途中でピタッと止まる。
なんだか外が騒がしいのだ。
何事かと思い廊下に出ると、家の者と来客―――むしろ前科から言えば強盗、
が押し問答をしていた。
「おや、あなたが人里に顔を出すとは珍しい」
来訪者、霧雨魔理沙はこちらに気づくと、嬉しそうに顔をほころばせた。
どうやら私に会わせろと押しかけて来たらしい。
「いつぞやか、幻想郷縁起を勝手に持ち出した事を謝りにでも来てくれたのかしら?」
そんな訳はないと思いながら、今後のためにも釘は刺しておく。
顔は笑顔だが当然目は笑っていない。
「いや、少し教えて欲しいことがあって…」
やけにしおらしい魔理沙の反応に違和感を覚える。
普段なら『ちゃんと返しただろうが!』と開き直りの一つもしそうなものなのに。
「幻想郷の歴史に関する資料とかいっぱいあるんだろ?」
「えぇ、まぁ」
む、やはり資料が狙いか、と身構える。
油断してはいけない。目の前にいるのは幻想郷一の泥棒(推定)である。
阿求が稗田家に伝わる資料泥棒撃退術『稗田三年殺し』の構えを取るのをよそに魔理沙は続けた。
「博麗神社の家系図とか、そういうのないのか?」
妙なことを聞いてきたので阿求は内心首を傾げた。
相手の意図は読めないが、とりあえず自分の知っている範囲の事を口にした。
「そんなプライベートな資料はさすがに…。
それに家系図なら必要ないでしょう。
博麗の家系には博麗霊夢、ただ1人だけなのですから」
知っている事を口にしただけなのだが、魔理沙の表情がなんだか怖い。
怒らせるような事でも言っただろうか、と阿求は不安になった。
「どういう、意味だ…?」
魔理沙の目つきはもはや睨みつけるそれであり、
このまま話を続ければ自分は殴られるのではないかと阿求は怯えた。
しかし、気がつけば両肩を魔理沙にがっちり掴まれ逃げ場がない。
早く続きを言えと目で脅される。
泥棒というより、もはやチンピラだ。
阿求は泣きそうになりながら、たどたどしく続けた。
「博麗の巫女も…、私と同様、むしろ…、私より早い間隔で―――」
魔理沙は自分の中の疑問が氷解していくのを感じた。
だというのに、一向に気分が落ち着かない。
人の生の枠から外れた人間というのも、幻想郷には少なからずいるのだ。
目の前にいる少女もそうであるし、中には永遠に生きる人間だっている。
しかし、魔理沙の心の中はざわざわと、言いようもない不安で渦巻いた。
友人に隠し事をされていたのがそんなにショックなのだろうか?
「―――転生を、繰り返しているのです」
阿求がその後も何か話していたが、魔理沙の耳にはほとんど届いていなかった。
「なぁ、霊夢。お前年はいくつなんだ?」
境内の掃除に取り組んでいた霊夢に、魔理沙は思い切って訊ねた。
「あら、レディに歳を聞くなんて無粋じゃない?」
魔理沙の様子に気づいてないのか、気づかないフリをしているのか、
霊夢は茶化すような口調で返す。
「いいから、答えてくれ!」
「…17、よ」
魔理沙の迫力に気圧され、霊夢がしぶしぶ答える。
「霖之助が、霊夢に初めて会ったのは12年も前だって言ってた。
それだとお前が5つの時ってことになる。
でも昔も今と同じ姿だった、って…。」
「…」
霊夢は何も答えない。
「いったい、何を隠してるんだ…?」
魔理沙はその答えをほぼ知っていたが、霊夢の口から教えて欲しいと思った。
実はたいしたことではないのだ、と
博麗神社では日常茶飯事、と笑い飛ばして欲しかったのだ。
しかし、答えは別の場所から返ってきた。
「博麗霊夢は、6年おきに転生を繰り返し、その身体を維持している―――」
声のした方に目を向けると、灯籠の影から1人の女性が姿を現す。
彼女の名は八雲紫。容姿こそ流れるような長い髪をした妙齢の美女だが、
その実態は幻想郷の始まりからこの世界にいると言われる妖怪の賢者である。
いつもは飄々とした態度をしているが、今日はどこか苛立っている様に見える。
霊夢は困惑した表情で紫を見つめた。
「どのみち、いつかは教えてあげないといけない事だったでしょう?」
紫がブーツを鳴らしながらこちらへ近づいてくる。
「そして、もう7年が経過しようとしている。
いい加減、転生する心づもりは出来たかしら?」
霊夢はぎゅっと手を握りしめると、勇気を振り絞るように声を出した。
「もう少しだけ、待ってもらえないかしら…」
この言葉に紫は心底ガッカリした様子で大きなため息をつく。
「またそれ…。気づいているでしょう?
あなたの体はもうとっくに限界よ。
このままじゃ肉体ごと、魂まで消滅するわよ」
突然の不穏当な言葉に魔理沙は考えがついていかない。
消滅―――?何を言っているんだ。
「ついでだから、教えといてあげる」
紫は魔理沙の様子に気づいたのか、妖しく笑うと語り始めた。
「博麗大結界の管理を出来るのは、博麗霊夢ただ1人。
でも、生きていればいつかは寿命がやってくる。
だから私が新しい身体を用意し―――、
霊夢がその身体に転生する。
そうやってずっと博麗霊夢は在り続けてきた―――」
おとぎ話でも口にするように、紫は朗々と続ける。
「だけど、新たに用意される身体は所詮仮初め…。
長くは保たない―――」
饒舌な紫を、責めるような目で霊夢は睨んだ。
紫はその視線を一向に怯むことなく受け止める。
「…これだけ転生を嫌がるのは、隣にいる人間のせいかしら?」
紫の言葉に霊夢はビクリと肩を振るわせた。
隣にいる人間、私のことか―――?
突然自分のことが話題に上がり、魔理沙は困惑する。
「何の、ことだ」
思わず口に出していた。
「転生すれば、博麗の巫女として最低限の知識を残して、他の全ての記憶を失うわ」
紫は感情の感じられない声で、事実だけを淡々と告げる。
その言葉を聞く霊夢の顔は今にも泣き出してしまいそうで―――
「早く別れを告げて、私と一緒に来なさい」
諦めるのね、と紫は霊夢を捉えようと手を伸ばした。
魔理沙はその手を横からパンと払いのける。
「…いったい、何のつもりかしら?」
不快感を露わに紫が声を出す。
周囲の空気が急速に冷たくなってゆくのを感じた。
「嫌がってるだろ…、やめろよ」
霊夢は呆然とこの魔理沙の行動を見ていた。
魔理沙が霊夢に小さく頷く。
霊夢はこれに頷き返すと、紫に対し、二人同時に構えた。
「少し、灸を据える必要がありそうね…」
本当にくだらない物を見せられたと、
蔑むように紫が呟いた。
示し合わせた訳でもなく、魔理沙が左、霊夢は右に展開し
同時に光弾を放つ。2方向からの見事な十字砲火。
阿吽の呼吸と評していいくらいに流れるような連携だった。
対する紫は微動だにしない。
紫の背後の空間に裂け目が出現した次の瞬間には
もうその姿はそこにはなかった。
完璧な連携攻撃が虚しく空を切る。
紫はどこへ、と魔理沙が考えたところで、霊夢がこちらへ叫んだ。
「魔理沙、左!」
もし霊夢の声がなければ、防御が間に合わず致命傷を受けていただろう。
しかし、致命傷こそ免れたものの、
咄嗟にあげた左腕には紫の蹴りが深々とめり込み、激しい痛みが魔理沙を襲った。
骨が砕けたのだろう。もう左腕は動かせそうになかった。
さらに追い打ちをかけようと、紫が魔理沙に迫る。
「たぁあーっ!!」
間一髪の所で霊夢の跳び蹴りが紫をとらえ、魔理沙から引きはがす。
体勢を大きく崩した紫に、魔理沙は片手で八卦炉を構えた。
恋符『マスタースパーク』
魔理沙が持つ魔法の中でも最大級の威力を誇る特大熱線。
ほぼ零距離からの無慈悲な攻撃に、さすがに紫も無事では済まないと
魔理沙は思った。
だが、信じられないものを見た。
眩い光の束を割るように手が生えてきたのだ。
手はゆっくりと、しかし確実に自分の方へ伸びてきている。
マスタースパークを真っ向から受けながら、前進している―――?
本能的な恐怖を感じ、出力を限界まで引き上げる。
だが、魔手の進行はまるで止まらない。
魔理沙は、実は自分は最初の一撃で意識を失っており、
この光景は倒れた自分が見ている悪夢の続きではないかと疑った。
そのくらい、冗談みたいな光景だった。
ついに紫の手が魔理沙の右手を掴んだ。
魔理沙の瞳が絶望の色に染まる。
「終わりよ―――」
紫の最後通牒が冷たく頭に響いた。
体がグラリと揺らいだかと思った次の瞬間、
熟れたトマトを叩き潰したように全身から血が噴き出した。
体を掴まれ、肉体の境界を直接操られたのだ。
魔理沙は悲鳴をあげることも出来ず、その場に崩れ落ちる。
「―――――ッ!!」
霊夢は自分でも聞き取れない雄叫びをあげ、紫に飛びかかっていった。
紫は軽蔑するような冷たい眼差しを霊夢に向けると、軽く指を振う。
飛び上がった霊夢の背後に一瞬で墓石が出現し、
一切の容赦なく、霊夢を真下へと押し潰した。
紫は霊夢を回収すべく、近づこうとした。
しかしその足を何者かに掴まれ動きが固まる。
見れば、血まみれの魔理沙が右手を伸ばし、自分の足首を掴んでいた。
「大事な友達なんだ…、連れて行かないでくれよ…」
息も絶え絶えにそう告げる魔理沙の目には、
懇願するような必死さが宿っていた。
しかし紫は意に介さない様子で、お構いなしに霊夢の方へ足を踏み出した。
ズルリ、ズルリ、足を踏み出すごとに不快な音が響く。
「離しなさい…」
どこにそんな力が残っているのか、魔理沙の右手は
足首に食い込んで離れない。
ギリギリと苛立ちが音になって聞こえてきそうな表情で紫は叫んだ。
「離しなさいと、言っているのよ!」
頭の中がカッとなった。もういっそ殺してしまおう、と
魔理沙の頭蓋を叩き割るべく紫の拳が振り下ろされる。
「やめてぇえええ!!」
墓石の下からはい出した霊夢は、悲壮に満ちた声で絶叫した。
紫の拳は寸前で軌道を変え、魔理沙の傍らの土を抉る。
「やめて、殺さないで…、言うこと聞くから、ついていくから…」
霊夢の声には逆らおう等という意志は微塵も残っていなかった。
魔理沙は愕然となる。
霊夢が人に媚びるところなど想像もつかなかったのだ。
何より、霊夢にそんな言動を取らせたのが、
自分の今の状態である事が深く自尊心を傷付けた。
そんな心の隙をついて、紫が魔理沙の手を強引に振り解く。
紫は倒れている霊夢の側まで近づき、引っ張り起こすと、
脇に抱えてその場から立ち去ろうとした。
「最後に、お別れをさせて。これで最後に、するから、お願い…」
霊夢が消え入りそうな小さな声で呟く。
「早く、なさい」
紫は一瞬戸惑ったが、霊夢を魔理沙の前まで運ぶと下ろしてやった。
ボロボロになった魔理沙の姿が、霊夢の胸を締め付ける。
奥歯を噛みしめて涙を堪えると、霊夢は努めて平静に言葉を紡いだ。
「本当言うとね、最初はあなたのこと、嫌いだったの。
いつも遠慮なしにズカズカ上がり込んできて」
まるで、遠い日を懐かしむように。
「私は1人でいたかったのに、追い返しても追い返しても、
何度も懲りずにやってくるし」
まるで、もう戻らない過去が至高の宝物だったと言うように。
「でも、たまに来ない日が続くとなんだかソワソワして落ち着かなくて。
あなたが姿を見せるとホッとして」
まるで、その日々が夢のような出来事だったと言うように。
「いつの間にかあなたといるのが楽しくなっていたのね。
あなたといると、役割以外の博麗霊夢になれる気がして…」
魔理沙は、やめろ、そんな事言うと二度と会えないみたいじゃないか、
と言ってやろうと口を動かしたが、何も言葉にならなかった。
代わりに涙が溢れた。何泣いてんだバカヤロウ、
と自分を罵倒したが、どうしても涙を止める事が出来なかった。
「でもやっぱりそれは気のせい。
私には役割以外何もない。何も望んじゃいけない」
霊夢はそう、自分に言い聞かすように言った。
その表情は俯いていて、伺い知ることが出来ない。
「きっと次の博麗霊夢はあなたの事を覚えていない、だから―――」
次の言葉を聞きたくない、と魔理沙は反射的に耳を塞ごうとした。
しかしボロボロの体はまるでいうことを聞かず、無様に蠢いただけだった。
「出来ればあなたも、私のことを忘れて」
これで終わりだと告げるように、霊夢は魔理沙から離れていった。
紫と霊夢を、空間の裂け目が飲み込んでいく。
「さよなら―――」
裂け目が閉じる寸前、霊夢が絞り出すように呟いた。
1人取り残された魔理沙は、悔しさで頭が爆発しそうだった。
実を言うと、魔理沙はかつて紫に勝ったことがある。
といっても、決められたルールの中でのじゃれ合い、お遊びだ。
どれほど手加減されていたのだろうか、と思うと息が詰まる。
「ふざけるな…」
とにかく2人の後を追いかけようと、
かろうじて動く右手を動かして、這うように何とか前に進んだ。
だが、2人がどこに行ったのか見当もつかない。
「ちくしょう…ッ!」
それ以前に、体がほとんど思うように動かない。
少し動かすだけで全身から悲鳴があがる。
仮に追いつけた所で自分にいったい何が出来るのか、
何がしたいのかすらわからず、
それでも衝動に突き動かされるように前へ。
もはや視界すら定かではなかったのだろう。
境内から続く石段を何段か転げ落ち、体を強かに打ち付けると、
魔理沙の意識はそこで途切れた。
「魔理沙、ほら、こっちよ魔理沙」
霊夢が楽しそうに手招きしている。
なんだよ、そんなに面白いもんでもあんのか。
ちょっと待ってろ、すぐそっちへ行ってやる。
「魔理沙、ほら、早く」
霊夢が少しずつ遠くへ離れていく。
あれ、おかしいな、全然前に進めない。
変なんだ、体が鉛みたいに重くてさ。
だから待てって。おい霊夢、聞こえてるだろ。
「魔理沙―――、さよなら」
霊夢が自分に背を向けて―――
「霊夢、行くな!」
無我夢中で手を伸ばす。
「ぁ―――」
飛び起きた魔理沙は永琳の腕をしっかりと握りしめていた。
永琳は白い目で魔理沙を見ると、
テキパキと魔理沙の身体の状態を見ていく。
八意永琳は幻想郷でもトップクラスの薬師で、
高い医療の知識を活かし、最近は診療所も開いている名医だ。
「もうすっかり良いみたいね」
一通りチェックし終えて、永琳はそう診断する。
完全に折れていたはずの左手も動かせるようになっていた。
月の医療技術ってすごい。
「私は―――、どうなって―――」
紫と霊夢の後を追いかけようとして、その後の記憶がない。
「天狗がズタズタになったあなたを見つけてここまで運んで来たのよ。
天狗に感謝することね。
ま、事件の匂いがするから、意識が戻ったら
是非インタビューさせて欲しいとも言ってたけど」
そうだ、事件だ。大事件なのだ。
こうしている場合ではない!
「私は何日寝てたんだ!?」
ひどい焦燥感に駆られ、叫ぶように訊ねる。
「丸三日だけど…」
返事を聞くなり、魔理沙は外に飛び出していった。
永琳はその姿を見送ると、1人ぽつりと呟いた。
「さて…、あの子はどういう選択をするのかしら…」
あの時からもう3日も経っている。
紫は時間がないと言っていた。
今更焦った所で、実はもう手遅れなのかもしれない。
それでも魔理沙は博麗神社へ急ぐ。
もし自分の知らない霊夢がいたらどうしよう、などと
悩む時間すら惜しい。
結果的に言えば、神社に霊夢の姿はなかった。
その代わり、魔理沙のよく知る人物がそこにいた。
「魅魔、様―――?」
藍色のローブに身を包んだ偉大な魔法使い。
家を勘当され彷徨っていた魔理沙を拾い、
生きる術と魔法を教えた、いわば魔理沙の師匠である。
「よぅ、久しぶりだね」
「―――どうして、ここに?」
魅魔がふらっといなくなってから随分と会っていなかった。
久方ぶりの再開を喜びたい気持ちもあったが、
このタイミングでの再開に疑問を感じる気持ちが勝った。
「霊夢の気配がしなくなったんだね。
もうそんな時期か、って思って見に来たのさ」
「…魅魔様は、知っていたんですか」
その問いに、魅魔はニヒルな笑みを浮かべて答えた。
「伊達に長いこと死んでない」
普段あまり意識しないが、魅魔は実は亡霊である。
本人がすこぶる快活なため、いつも忘れそうになる。
「…霊夢のことは諦めな」
魅魔は優しく諭すように話しかける。
「―――私みたいになるのがオチだよ」
魔理沙は魅魔の言葉にハッとする。
強い思いを残して死んだ者は亡霊になると言う。
では、魅魔が亡霊になった理由は―――
「昔の話さ…。
仲の良い女の子がいてね。
ちょいとばかりその子の身の上に同情して、
外に連れ出してやろうとした」
魅魔は空を見上げると、遠い昔を思い出すように語る。
「ところがその子のパトロンが逆上してね。
八つ裂きにされたのさ」
魅魔の表情に影が差した。
「その時のことが心残りでね…。
でも、次にその子に会った時、無邪気な顔で言われたよ。
『あなた成仏出来ないの?手伝ってあげましょうか?』って。
いやもうホント死にたくなったね。
…まぁ、もう死んでんだけど」
魔理沙は魅魔にどんな顔を向ければいいのかわからなかった。
「少しは笑って欲しいんだが…」
魅魔は拗ねるように言う。
しかし、とてもではないが笑える気はしなかった。
沈黙する魔理沙に魅魔は続ける。
「これはそういうシステムなのさ。
たった1人女の子を犠牲にして、この世界の有り様を守る…。
1人の犠牲で何千という人間と妖怪が幸せでいられるんだ。
賢いシステムじゃないか」
だからお前が気に病むことじゃない、と言いたいのだろうか。
でも、まるで説得力がない。
だってそんな事、本気で思っているはずがないのだ。
それが許せないからこそ、この人はいまだに―――
「そんなの…、納得出来ません…」
今なら、霊夢が人と馴れ合おうとしなかった訳がわかる気がする。
例え仲良くなっても、自分は相手のことを忘れてしまう―――
だからあいつは、いつだって1人でいようとしたのだ。
「そんなの、納得出来ません!!」
知らず、叫んでいた。
「みんなのために犠牲になって!
それなのにあいつはいつも1人ぼっちで!
そんなの、報われないじゃないですか!」
自分の思いを、ハッキリと形にする。
「私はあいつを―――、助けてやりたい」
その言葉に、魅魔は呆れたような嬉しいような、複雑な心境になる。
あんたやっぱり私に似てるよ、と魅魔は心の中でそっと呟いた。
「でも、どこへ向かえばいいのかどうせわかってないんだろう?」
ギクリとする。全くもって図星だった。
博麗神社に2人がいない以上、次にどこに行けばいいか思いつかない。
返答に窮する魔理沙を見て、魅魔がくっくっと笑う。
「2人がどこにいるか知ってるんですか!?」
「いや、2人の居場所は知らない。
でも、紫を呼び出す方法なら知ってる」
この言葉に魔理沙はきょとんとする。
犬笛ならぬ紫笛でも持っているのだろうか。
魅魔はニヤニヤしながら話を続ける。
「前に神社が倒壊したことがあったろう?
その時、紫は随分と取り乱したそうじゃないか」
魅魔は地面を指さすと実に楽しそうに言った。
「詳しい原理はわからないがね。
この神社も、博麗大結界に必要なパーツのひとつなのさ」
突然、博麗大結界に揺らぎが生じたのを察知し、紫は眉をひそめた。
霊夢の身柄を抑えている以上、心当たりは1つしかない。
しかし、博麗神社に手を出すような身の程知らずが、
あの天人以外にもいるとは考えにくい。
当の天人くずれだって自分に手ひどく打ちのめされ、十分懲りているはずだ。
いったい何事が、と神社の前に境界を開く。
「よぉ―――、紫―――」
そこには半壊し煙をあげる博麗神社と、1人の人間。
「リベンジマッチだ」
崩れた神社を背に、霧雨魔理沙が不敵に笑った。
「一度は永らえた命を、わざわざ捨てにくるなんて…
体は回復したようだけど、頭の方に後遺症でも残ったのかしら?」
半ば皮肉で言ったつもりだったが、
紫は正直、魔理沙の頭はどうかしてると思った。
あれだけ痛めつけられて、さらには一方的に別れを告げられて、
それでも立ち向かってくるなんて尋常じゃない。
魔理沙はこの紫の皮肉に何も答えず、代わりにビッと中指を立てた。
紫のこめかみにビキリと青筋が浮かぶ。
「上等だわ…。じわじわと、なぶり殺しにしてあげる…」
かくして第二ラウンドの火蓋が切って落とされた。
威勢良く戦いを仕掛けてきた割には、魔理沙の行動は逃げの一手だった。
牽制するように光弾を放ってくるが
とにかく紫と距離を取って、近づこうとしない。
「鬼ごっこのつもりかしらぁ?」
紫は光弾を叩き落としながら弾幕の中を悠然と進む。
「お前の顔は鬼よりおっかないけどなっ!」
魔理沙の挑発に、紫の顔がヒクヒクとひきつる。
「本当に、口だけは達者ねぇ!」
紫は目をつり上げて魔理沙の方へ突っ込んでいく。
これから起こる惨劇の予感に、空気が震えた。
だが次の瞬間、紫の死角から弾丸のような速さで魅魔が飛び出した。
かかった―――!
戦いが始まる前に、魔理沙と魅魔は作戦を立てていた。
内容は概ね以下の通りだ。
とにかく魔理沙が紫の注意を引きつけ、
その隙に魅魔が背後から紫を仕留める。
紫は後ろから高速で近づく魅魔の存在に気づいていない。
どう見ても回避不可能―――、そう思った時だった。
同じく弾丸のような速度で飛来した何かが、
魅魔を神社の奥の森へはじき飛ばした。
それは金色に輝く9つの尾を持つ妖狐、
八雲紫の式神にして最強の側近、八雲藍だった。
「追撃します」
「任せるわ」
短くやりとりを終えると、藍は魅魔を追って森の中へ消えていった。
紫は改めて魔理沙に向き直る。
「まさか…、今ので勝てるとでも思っていたのかしら?」
紫は嘲笑うかのような目で魔理沙を見た。
「まだ戦いは、始まったばかりだぜ!」
精一杯強がっては見たものの、魔理沙は内心めちゃくちゃ焦っていた。
魅魔様早く戻ってきて、このままじゃ魔理沙殺されちゃう、と。
もちろん最初の奇襲が失敗した場合の作戦も考えてはいた。
だがそれはあくまで魅魔と魔理沙、2人で戦う想定だった。
片方が相手を足止めし、もう片方が隙をつく。
魅魔は言ったのだ、1対1では絶対に勝ち目がない、と。
戦いを始める前に、魔理沙は魅魔から一通り紫への対策を教えられていた。
「紫の境界をいじる能力は、ハッキリ言って無敵だ」
魅魔はそう断言していた。
「境界を開いて閉じるだけで空間に断裂が走って、
触れればどんな物でも真っ二つ。
ところが、こちらの攻撃は境界に阻まれて、紫に一切届かない」
まさに最強の盾と槍、そう評した。
「だが、完全無欠の力って訳じゃない…。
境界を操るのは、距離に応じて時間がかかるのさ」
つまり、離れれば離れるほど、境界を開くのも閉じるのも遅くなるのだ、と。
「だから絶対に、紫の5歩圏内には近づくな」
それ以上近づけば瞬殺される―――
そう魅魔は魔理沙に教えていた。
2人で戦う想定が脆くも崩れた今、
魅魔が戻ってくるまで何とか1人でこらえるしかない。
魔理沙は腹をくくると、全力で弾幕を展開した。
紫の動きを少しでも阻害して、とにかく時間を稼ぐ―――
実は魅魔の紫対策講座の中で、攻略法も教わってはいるのだ。
曰く、どんな攻撃も防ぐ盾を持っているのなら
盾の届かない場所を攻めればいい―――つまり死角をつけ、と。
だが、仮に死角をつくことが出来ても、
人間と妖怪では肉体強度がまるで異なる。
最強の盾を突破してもなお、相手は全身に甲冑を着込んでいるようなものだ。
まともにダメージを与えられそうな大技は撃つまでに時間がかかるため、
遠距離からではまず間違いなく防がれる。
接近して隙を伺おうにも、その前に必殺の一撃が飛んでくるだろう。
魔理沙には紫を打倒する手段など1つもなかった。
「いや、迂闊だった。あんたが出てくるのを考えてなかった」
魅魔は自分の前に立ちはだかる藍に、してやられたという顔を向ける。
「通してくれと言っても、聞いちゃあくれないんだろうねぇ…」
藍はこの言葉に逆に質問で返す。
「どうして、魔理沙を止めなかったんです?」
「…」
「あなたは何としてでも魔理沙を止めるべきだった。
弟子が自分と同じ憂き目にあうのを、是とするあなたではないでしょう?」
魅魔はフッと笑って藍に答える。
「一度は止めたさ。でもあいつ頑固なんだよ。」
それに―――、と続ける。
「同じじゃあないさ。あいつは、私よりも強い」
魅魔はそう言ってニヤリと笑った。
勝ち目はまるでなかったが、そんな中でも魔理沙は全く諦めていなかった。
まともにやって駄目ならと、ひたすら小癪な手段に打って出る。
とにかく相手の隙を作るため、地面から土埃をあげて煙幕を作ってみた。
しかし自分も相手の姿を捉えられず、攻撃には成功しなかった。
次に、木々に隠れてのゲリラ戦法を思いつき、森に誘い込んだが
森ごと辺り一帯薙ぎ払われて、危うく巻き込まれかけた。
紫には自然を愛する気持ちが足りてない。
太陽を背にしての目くらまし戦法、土の中からの奇襲戦法、と
思いついたものを片っ端から試みたがことごとく失敗した。
そうこうしてる内に、辺りはすっかり暗くなっていた。
戦い続けている間に相当時間が経っていたようだ。
「魅魔が戻ってくるのを待っているようだけど―――、
難しいんじゃないかしら」
明日の天気でも占うような気軽さで紫は言う。
「私の見立てじゃ、あの2人の力は五分と五分。
こちらを気にかけてる余裕はないわ」
残念だったわね、と憐れむような目を向けてくる。
視線の先―――、魔理沙の姿は泥と汗にまみれており、
身体のあちこちに切り傷が出来ていた。
境界の裂け目をかろうじて避け続けてはいたものの、
避けきれず掠った分が赤い血の線を生じさせたのだ。
まだ自分が生きているのは幸運以外の何物でもない。
それとも、先刻のなぶり殺すという発言を紫は律儀に守っているのだろうか。
だとしたら、なんて嫌な律儀さだろうかとげんなりする。
魔理沙はもう立っているのもやっと、という感じだった。
しかし、その瞳からはいまだに闘志が消えていない。
「…魅魔様の出番は、どのみちないぜ。
私が、今からお前を倒すんだからな…!」
ゼェゼェと肩で息をしながら。
誰がどう見てもただのハッタリ―――
だが、恐るべきはその執念。
生かしておけばこの先も何度だって立ち上がるだろう。
「…終わりに、しましょう―――」
紫は目の前の人間の危険性を再認識すると、
魔理沙の身体を袈裟斬りにするように、境界を開いた。
もはや動けない魔理沙に、これを回避する術はない。
紫はクイッと手を捻り、境界を速やかに閉じた。
「―――!?」
魔理沙の姿が忽然と消えていた。
「パチュリーの体調が良いみたいだから、
3人で夜の散歩と洒落込んでみれば、
妙な所に出くわしてしまったわね?」
離れた場所から、少女の声が響いてくる。
声の主の名はレミリア・スカーレット。
紅魔館という洋館に住む、正真正銘の吸血鬼。
見た目は幼いが、齢五百を超える紅魔館の当主だ。
「スペルカードルール制定に携わった貴方が、
自らルールを破って殺し合いに興じるとは何事ですか!」
レミリアの従者、十六夜咲夜がいかにも優等生といった感じの発言をする。
見れば先ほど消えた魔理沙は、咲夜に抱きかかえられていた。
咲夜は時間を操る特殊な能力を持った人間だ。
時間を止めて、魔理沙を死地から拾い上げたのだろう。
「私は試合のルールを決めただけよ。殺し合いを禁じた覚えはないわ」
紫は飄々と答える。
1人この場の空気に馴染めずオロオロしている少女、
パチュリー・ノーレッジは魔理沙の姿を心配そうに見つめている。
3度の飯より本が好きな彼女は、普段紅魔館の図書室に引き籠もっていて、
こういう緊迫した場面にあまり慣れていない。
生まれつき魔法使いで、生粋の魔法技術を持っているというのに。
「あら、そうだったの。
闇に生きる者としては、殺し合いの方が向いてるから嬉しいわ」
自身の尖った牙を見せつけるようにレミリアは笑った。
「状況もわからず首を突っ込まないで欲しいのだけど。
見逃してあげるから、早くどこへなりと失せなさい」
紫はさも鬱陶しいといった調子で言う。
「と、友達が殺されそうになっているのに、放って行ける訳ないでしょ!?」
パチュリーは自分でもびっくりするような大声をあげた。
思わぬ形でパチュリーの本音を聞けて、魔理沙は少し嬉しくなる。
「ええ、パチェの言うとおりだわ。
それに、何?見逃してあげる?…誰が?誰を?」
見下されたことが気に食わないのか、レミリアの目つきが鋭くなっていた。
「癇に障ったかしら…。
てっきりあなたの事、外の人間が怖くてここへ逃げ込んできた臆病者だと
思っていたのだけど」
レミリアと咲夜から、ブチリという音が聞こえた気がする。
「咲夜、あいつぶっ飛ばしましょう」
「お嬢様の仰せのままに」
何の迷いも無く2人は言葉を交わす。
「おい、やめろ!お前達が敵う相手じゃない!」
魔理沙はレミリア達が臨戦態勢に入るのを見て声をあげる。
「失礼ね。私を誰だと思っているのかしら」
かえって火に油を注いでしまったようだ。
「それに、あなたが死んだら、妹の貴重な遊び相手が1人減ってしまうじゃないの」
「うちの門番もますますサボるようになりますね」
「貸した本、まだ返してもらってない…」
三者三様に応えると、レミリア達は紫に向かっていった。
そこからの戦いは見事としか形容出来ないものだった。
パチュリーが後方から多彩な魔法で紫の動きを封じ込むと、
レミリアが超高速で飛び回りながら紫の身体を削っていく。
魅魔は5歩圏内に近づくなと魔理沙に忠告していたが、
それはあくまで魔理沙の場合の話だ。
レミリアの動体視力を持ってすれば、境界が開くのを見てから回避が間に合うのだろう。
紫が反撃に出ようとすると、絶妙なタイミングで飛んできたナイフがそれを阻む。
咲夜が時間を止めて紫の行動を先回りしているのだ。
3人の連携にはまるで無駄がない。
完全に紫を圧倒している―――
殺し合いの方が向いているという発言はどうやら事実のようだ。
もしかするとこのまま本当に倒してしまうのではないかと、魔理沙は興奮した。
しかし、紫は集中するように目を閉じると、
周囲を覆い尽くすように大量の裂け目を発生させていく。
レミリア達はこれを見て皆一様に紫から距離を取った。
離れた場所に境界を展開するにはタイムラグが生じるので、
一度離れてしまえばどれだけ境界が広がろうと回避するのは造作もない。
だが、紫はお構いなしに境界を広げていく。
いったい何を、と咲夜は考えた所ではたと気づく。
この場には1人、動くこともままならない人間がいたのではないか、と。
「え―――」
レミリア達の戦いぶりに見とれていた魔理沙は反応が遅れた。
もう、すぐ側にまで境界が迫っている。
「しまった―――!」
初めから狙いは魔理沙だったのだ。
今からでは時間を止めても間に合わない、と咲夜は歯がみする。
しかし、逃げ遅れた魔理沙を強引に掴み、
この必殺の領域から素早く離脱していく者がいた。
「魅―――」
魅魔がようやく戻ってきてくれたのかと、魔理沙は声を弾ませる。
「残念だけど、魅魔じゃないわ」
魔理沙のその様子に苦笑して八意永琳が答えた。
もはや仕留められないと悟ったのか、境界が消えていく。
「貴方まで、いったい何の用かしら」
紫は苛立ちを隠しきれない様子で永琳を睨んでいる。
「自分の患者に手を出されて、黙ってる医者がいると思うの?」
永琳は怯むことなく軽口で答えた。
「ぁ、ありがとう…」
魔理沙はおずおずとお礼を口にする。
怪我を治してもらったり、永琳には世話になりっぱなしだ。
「いいわよ、あなた達には迷惑かけた事もあるし。
それに、治療費も払わずに死なれちゃ困るのよ」
それが本音かよ、と魔理沙は心の中でツッコミを入れた。
レミリア達も一旦こちらへ集結する。
これで状況は5対1。自分を戦力から外しても4対1だ。
この戦力差はいくら紫でも厳しいだろうと魔理沙は思った。
さすがに多勢に無勢という気もしたが、外の世界にある
テレビゲームというものでは魔王相手に4、5人でかかるのはザラらしい。
相手は正真正銘魔王なので、倫理上特に問題はないだろう。
「いい加減、考え直す時期に来てるんじゃないかしら?」
永琳は紫に問いかける。
永琳もきっと、この世界の仕組みを知っているのだろう。
「ふざけるな…」
だが、紫から戦闘の意志が消えることはない。
「どいつも、こいつも…!
なぜわからない!?
こうするしか、この世界を守る方法がないことが!」
むしろ、殺気をますます色濃くして。
あまりのプレッシャーに全員が気圧される。
これほどの殺意にさらされるのは初めてなのだろう。
パチュリーに至っては完全に硬直していた。
「この世界に、お前達は、要らない―――」
禍々しい気配が紫を中心に黒く、重く、渦巻いていく。
「美しく残酷にこの大地から往ね!!」
濃密な死の香りが爆発した。
―――八雲紫は揺るがない。
はるか遠い日に、1人の少女と約束をした。
彼女は人間で、自分は妖怪だったが、
共に人と妖怪を愛し、同じ理想を描いていた。
自分の力だけでは妖怪を守るのに限界があると嘆いた紫に対し、
少女は優しく手を差し伸べた。
少女には特別な力があった。
この世界を丸ごと外から切り離してしまえるような強力な力が。
しかし少女が人間である以上、命には限りがあった。
だから2人で話し合って決めたのだ。
転生を繰り返し、外界からの隔離を維持する方法を。
―――八雲紫は迷わない。
「私とあなたで、この世界を守りましょう」
少女は最初の転生を行う前に、紫とそう約束した。
次に目覚めた少女がその約束を覚えていなくとも、
紫の中にその約束は残り続けた。
何度も転生を繰り返したある時、
少女が転生するのを嫌がるそぶりを見せた。
紫はどうしていいのかわからず、
気がつけば少女の頬を平手で打っていた。
少女に手をあげたのは、それが初めてだった。
その後もときどき少女は転生を嫌がった。
これまで犠牲になった少女の分身達はどうなるのだ、と
その度に紫は声を荒げた。
泣いて拒む少女を無理矢理引きずって行ったのは
1度や2度ではなくなっていた。
―――八雲紫は気づかない。
紫の精神は少しずつ疲弊していく。
次第に、過去へ逃避するようになっていた。
転生の時期が来るまで眠り続ける時間が増えた。
夢の中で見る少女だけは、自分に優しく微笑みかけてくれた。
ある時、少女を解放しろと詰め寄る輩が現れた。
あまりにしつこいので、頭に来て殺してしまった。
少女はひどく悲しんだ。あんなに泣くとは思わなかった。
自分はちゃんと、こんなにも約束を守っているのに、
どうして彼女は笑ってくれないのだろう。
―――それでもなお、八雲紫は止まらない。
次の瞬間、咲夜の体が恐ろしい速度で吹っ飛んでいった。
その場にいたほぼ全員が事態を把握出来ていない中、
レミリアの卓越した動体視力だけは一部始終を捉えていた。
紫がたった一歩の踏み込みで咲夜の横に回り込み、がら空きの顔面に裏拳を見舞ったのだ。
レミリアの目は咲夜の首があらぬ方向に曲がるのを見た。
「咲夜ッ!!」
頭の中が真っ白になり、思わず叫んでいた。
すさまじい絶望感と焦燥感に突き動かされるように、
ピクリとも動かない咲夜に駆け寄ろうとする。
駆け寄ろうとして―――眼前に迫る敵――脅威から、致命的に、目を離した。
「つ か ま え た」
紫がレミリアの首を掴むと、レミリアの体が揺らぎ、ボシュッという音とともに霧散した。
一瞬で肉体の境界を崩壊させられたのだ。
この時、咲夜に駆け寄ろうとしていたのはレミリアだけではない。
永琳もまた、咲夜を重傷と判断し、治療を行うべく駆け出していた。
咲夜の状態を確認し、応急処置に取りかかろうとした所で後ろから声をかけられる。
「確か、蓬莱人はどんな傷を負っても瞬く間に再生するんだったわね。厄介だわ。
でも、体ごと別の時空に飛ばされたら、そんなの関係ないわよねぇ?」
良いことを思いついたと言わんばかりのニヤニヤ顔で、手を永琳に向ける。
暗い裂け目が永琳達を飲み込むと、跡形もなく消えてしまった。
恐るべき特殊能力を持ちながら、身体能力だけでもこの場にいた全員を凌ぐ。
幻想郷に敵う者など誰1人としていない。
これが妖怪、八雲紫―――。
「あ、ぁぁ…!」
家族のように親しい相手を一瞬で2人も失い、
元々白い顔をさらに白くしてパチュリーがへたり込む。
「バカ!立て!格好の的になるぞ!」
魔理沙は咄嗟にパチュリーを起こそうとした。
しかし、パチュリーの手を取った所で体に鈍い衝撃が走る。
視線を落とすと、自分の胸から腕が生えているのが見えた。
赤く染まった腕が引っ込むと、開いた穴から盛大に血が噴き出す。
それを見て、背中から胸を貫かれたのだとようやく理解する。
魔理沙は一度だけ小さく痙攣すると、力無くその場に崩れ落ちた。
「いやぁああああ!!」
パチュリーの絶叫が辺りに響いた。
厄介な能力を持つ人間と、厄介な身体を持つ蓬莱人を排除し、
身体能力で唯一自分を捉えられそうな吸血鬼は塵に変えた。
既に夜なため、吸血鬼はいずれ再生するだろうが、
粒子レベルまで分解されてはしばらく時間がかかる。
そして、力はこの場にいた誰よりも弱かったが、
誰よりも強い意志を持っていた人間は、この手で心臓を貫いて殺した。
1人残されたパチュリーは、もはや戦う気力など残っていないだろう。
だが、自分に仇なす者を完膚無きまでに粉砕したというのに、
紫の心は一向に晴れなかった。
むしろその心は苦々しい思いで満たされていく。
「これじゃ―――、これじゃ、まるで―――」
そう呟く妖怪の姿は、とても儚げで、
今にも崩れてしまいそうな、そんな危うさを秘めていた。
パチュリーは魔理沙の胸にあいた傷口を塞ごうと懸命に呪文を唱えていた。
しかしその顔は涙でクシャクシャで、
唱える声も上ずっていて言葉になっていない。
彼女は知っているのだ、もう魔理沙が助からないことを。
傷口を治すことは出来ても、失った心臓を修復する魔法を彼女は知らない。
それでも目の前で死にかけている友人に何もせずにはいられない。
なまじ知識があるからこそ、まるで望みが無くとも試みずにはいられないのだ。
いっそ自分に何も知識がなければ、ただ呆然と立ち尽くす事が出来たかもしれない、と
パチュリーは自分の半端さを心底妬ましく思った。
どれほど魔導の知識を持っていても、肝心な所で役に立たないではないか。
膨大な魔導書に目を走らせた私の日々はいったい何だったのか。
絶望感に支配されそうな心に、余計なことを考えるな、集中しろ、と自身で檄を入れる。
だが、パチュリーの努力も虚しく、魔理沙の体は次第に冷たくなっていった。
ついに魔理沙の目から光が完全に失われたが、
パチュリーは詠唱をやめようとはしなかった。
魔理沙が絶命する前に見たのはパチュリーの泣き顔だった。
なんとかパチュリーを泣きやましてやりたかったが、
体は痺れたように動かず、何一つ言葉を発することが出来なかった。
体温の低下に反するように、徐々に罪悪感がこみ上げる。
「これだけみんな巻き込んで、傷付けて、それでも何も出来なかった…。
私は本当にどうしようもない奴だ」
霊夢のことにもっと早く気づいていれば、
もっと違った結末になっただろうか、と後悔ばかり浮かんでくる。
せめて最後に、パチュリーへ感謝を伝えようと笑顔を作ろうとした。
しかし結局、顔の筋肉を動かすことも出来ず、
魔理沙の意識は深い闇に墜ちていった。
「ここは…、部屋―――?」
魔理沙がいたのは、一面黒と白のタイル張りで囲われた立方体のような空間だった。
「あの世にしては―――」
鬼もいないし、死神もいない。
それに何より静か過ぎる。まるで自分1人しかいないような―――
「あいにく、一歩手前だ」
突然声をかけられた。しかし驚きは少ない。
なぜなら自分はその声をよく知っている。
顔を向けるとそこには、自分と同じ姿をした人間、霧雨魔理沙が立っていた。
「まぁ立ち話もなんだ、座ろうぜ」
そう言うと、もう1人の魔理沙は指をならす。
壁しかなかった空間にアンティーク調の椅子が2脚、向かい合わせに出現した。
2人の魔理沙が椅子に腰掛け、向かい合う。
「お前、誰だ?」
魔理沙は全くもって無遠慮に聞いた。
自分に向かって遠慮する必要など無いのかもしれないが。
しかし、もう1人の魔理沙はそうくるだろうと読んでいたのか軽く微笑んだ。
「私はお前さ、念願叶って魔法使いになった、お前」
「魔法使いになった、私―――」
言われてみれば、どことなく雰囲気が成熟している。
鼻筋がシュッと通っており、美青年としても通じそうな整った顔立ち。
まつ毛は長く伸びており、癖のある金髪もどこか整えられて優雅さを宿している。
胸も一回りくらい成長していて、腰も良い感じにくびれている。
もう1人の魔理沙は、魔女と呼ぶにふさわしい妖艶さを全身から放っていた。
「わかりやすく表現するなら、お前の『可能性』だ」
我ながらいい女過ぎる、と見とれていた所でハッと我に返る。
「いずれ来るべき時に、表に出ようと待ち構えていた。
ところがその前に本体がバカやって死にかけてるもんだから、
こうして慌てて出てきたのさ」
もう1人の魔理沙は椅子に深くもたれかかると、ため息をついた。
「でも、手遅れだな。来るべき時は来ていないし、
外でパチュリーが何とかしようとしてるようだが、
どうやっても助からない」
もう1人の魔理沙は、つまらん、と悪態をついて目を閉じた。
口を開く者のいなくなった空間に静寂が満ちる。
見れば部屋の壁が徐々に崩れてきている。
ここも長くは保たないということか。
だが、魔理沙は自分がここに来た意味を既に確信していた。
自分がここで何をすべきなのかを。
「お前の力を、貸してくれ」
魔理沙の一言が、部屋に満ちる静寂を切り払った。
その言葉を待っていたといわんばかりに、もう1人の魔理沙の口元が吊り上がる。
「自分が何を言っているのか、わかっているのか?」
魔理沙は無言で頷く。
「『未来』に干渉すれば、『今』にどんな弊害が出るかわからないぜ?」
もう1人の魔理沙は実に愉快そうに訊ねてくる。
「どの道、このままじゃただ死ぬだけだ。
押せるボタンがまだあるのなら、私は迷わず押すぜ。
例えそれが、自爆ボタンだろうとな」
そう言い放つ魔理沙の瞳には、1人の少女の姿しか映っていないようだった。
「やれやれ―――、我ながら、霊夢の事となると見境がない―――」
もう1人の魔理沙は大仰に肩をすくめて見せた。
とっくに勝負がついたのだから、その場から立ち去るべきだったのだが、
紫は何をするでもなく、ただぼんやりとパチュリーの姿を眺めていた。
端から見ても、魔理沙はとうに事切れている。
パチュリーにもう死んでると教えてやるべきだろうか、
そうしたらあの子はどうするだろうか、
それでも詠唱を続けるだろうか、それとも自分に向かってくるだろうか、
と紫は思考を巡らせた。
このまま放っておけば、亡骸の前でずっとそうしていそうな、
そんな鬼気迫る様子だった。
痛々しすぎてもう見るに耐えない、と紫がパチュリーに近づこうとした時だった。
「―――ドン」
最初、パチュリーは魔法が暴発したのだと思った。
死んだ人間に向かって治癒魔法を唱え続けていたのだ。
行き場を失った余剰魔力がいつ暴走してもおかしくはない。
だが、異常な魔力の膨らみは、そこで弾ける訳でもなく、
魔理沙の亡骸を中心としてさらに膨らんでいく。
強烈な風が吹き荒れ、森の木々がたわみ、軋む。
その音は、偉大な者の誕生を祝福する歓喜の声のようでもあり、
恐ろしい者を呼び覚ました事におののく悲鳴のようでもあった。
パチュリーは聞いた。魔理沙の胸から脈打つ鼓動を。
紫は見た。魔理沙の髪が赤銅色に染まっていく様を。
髪が赤く紅く染まり切るのと同時に、魔理沙はもう紫に肉薄していた。
反射的にその場から飛び退けたのは長年の経験の賜物だと紫は思った。
自分がいた場所には巨大な穴―――、もしもまともに受けていれば
紫の体は粉々に砕かれていたことだろう。
魔力で肉体を強化している―――?
とかく冷静になって相手の力量を分析する。
完全に死んでいた人間が生き返った理屈は謎だが、
そんなことに思考を割いている余裕はなさそうだ。
先ほどの攻撃も紫の目にはほとんど捉えられていなかった。
恐らく身体能力は相手の方が上を行っている。
「でも―――」
相手の様子から察するに意識がないのだろう。
敵と認識した目標に向かって自動的に突っ込んでいる、そんな印象だった。
魔理沙の首がユラリと動き、次の行動へ移ろうと構える。
「来なさいバケモノ。
格の違いを教えてあげるわ―――」
凄絶な笑みを浮かべて、紫は脅威に対し正面から向き合った。
魔理沙は一切の躊躇無く、自分と紫を結ぶ最短経路に飛び込んでいった。
これに対し、迎え撃つ紫は正面に境界の裂け目を展開するのみ。
自然、魔理沙が裂け目に突っ込んでいく形になる。
どれほど身体能力が優れていようが、軌道が読めていれば迎撃は容易い。
紫は勝利を確信し、境界を閉じようとした。
しかし、紫の思惑とは裏腹に、
境界はパリンと小気味の良い音を立てて崩れた。
「なっ―――」
紫の目が驚愕に開かれる。
これまで幾度と無く立ち塞がる敵を屠ってきた必殺の一撃。
完全に命中して仕留め損ねた事などただの一度もない。
それが今、傷ひとつ付けることなく消え失せた―――!?
愕然とする紫に容赦なく敵が迫る。
もはや逃れることの叶わぬ間合いに入られ、
思考だけが緩慢に流れていく。
目の前にいる奴はなんだ?
人間ではありえない、妖怪ですらない。
もっと底の知れない、全て飲み込んでしまいそうな―――
私はいったい―――、何と戦っている―――?
魔理沙の振り下ろした拳がすさまじい速度で紫の体にめり込んだ。
紫は自分の背骨が砕ける音を聞いた。
地面に叩きつけられ、四肢がひしゃげていくのを感じた。
胸が圧力に押し潰され、肺の中の空気が全て押し出された。
そして、紫の思考はそこで途絶えた。
パチュリーはただ呆気にとられていた。
魔理沙の体が目の前から消えたと思ったら
背後からバキリバキリという世にもおぞましい音が響き、
恐る恐る振り返ったら倒れ伏した紫と、
仁王立ちする鬼がいたのだから当然だ。
唖然とするパチュリーの視界の中、
鬼の髪の色が紅から金髪へスーッと変わっていく。
それでもなおパチュリーの混乱は納まらず、
「えーっと…、魔理沙ー、どこー…?」
魔理沙を探してフラフラと立ち上がった。
魔理沙は倒れた紫を見つめていた。
辛うじて意識を取り戻した様だが、
憔悴仕切っていてもはや戦う力は残っていない。
「殺しなさい…」
紫が力無く呟いた。
「私が生きている限り、霊夢は博麗の呪縛に囚われる…」
この言葉に、魔理沙は首を横に振った。
「お前が死んだら、霊夢が悲しむ」
紫の目が面白いほど点になる。
ハトが豆鉄砲くらった様な顔とはこういう顔を言うのだろうか。
「アハ、アハハハハハハハハハ!!」
次いで爆笑。
「ハッ…、ゲホ、ゲホッ!」
むせやがった。
「い、いいわ。私の完敗よ…。もう、好きになさい」
紫が微かに指を動かすと空間に裂け目が開いた。
「入りなさい…。霊夢のいる所に繋がっているわ」
中は古代を思わせるような神殿になっており、
荘厳な造りの柱が奥へずっと続いている。
ここが幻想郷のどこかなのか、実は外の世界のどこかなのか、
魔理沙には判断がつかない。
暗く静かな通路を抜け、開けた場所に出る。
そこに博麗霊夢がいた。
見れば霊夢の体にはあちこち亀裂が生じており、
命が尽きかけているのは誰の目にも明らかだった。
「よぉ、助けにきたぜ―――」
魔理沙は本当に気軽に、いつも神社に遊びに行く時のような調子で声を出した。
この様子に、霊夢は自分が死ぬ前に幻を見てるのではないかと慌てる。
しかし、目の前の人物が幻ではないと気づくと、思わず涙が出た。
魔理沙の格好は至る所ボロボロで、
ここまで来るためにどれだけ無茶をしたのだろうと思うと胸が苦しくなる。
「間に合ったみたいで安心したぜ」
霊夢の様子を見る限り、まだ自分の事を忘れていないようだと
魔理沙は胸を撫で下ろした。
霊夢は魔理沙の様子に少し苦笑し、弱々しく応える。
「本当は…、すぐ転生するはずだったんだけど…
集中しなきゃいけないのに、魔理沙は無事に助かったかな、とか
また神社に1人になるのかな、とか考えちゃって、
ちっとも集中出来なかった…。
ハハ…、もたもたしてたら体もこんな風になっちゃった」
自分の体に視線を落とすと、霊夢は力無く笑う。
「本当に、死んじゃうんだな…」
魔理沙の問いかけに霊夢は小さく頷いた。
「あと2、3日しか保たないって紫が言ってた…」
それきり2人は何も言えなくなる。しばらく重々しい沈黙が続いた。
「なぁ、霊夢…」
魔理沙がようやく口を開いた。
「転生…しろ……」
それはもう、ほとんど死ねと言っているに等しい。
だが仕方がないのだ。
このまま何もしなければ霊夢は死んでしまう。
転生しても記憶を失ってしまう。
今の霊夢は、どのみち助からない。
「うん…、しょうが、ない…よね…」
友達にこんな事を言わせて、自分はどれほど迷惑な存在なんだろうかと
霊夢は自分を殴ってやりたい衝動に駆られた。
だが、すぐにそんな自分は消えてしまうのだと自虐的に笑う。
そうだ、もうすぐ自分はいなくなる。
でも最後にこれだけは聞いておきたかった。
「私が、あなたのことを忘れても…、
また…友達になって、くれますか?」
霊夢は涙に震えながら、精一杯声を絞り出して友人に訊ねた。
魔理沙はこの問いに―――
「え?なんで?」
底抜けに空気を読まない返事をした―――
先刻の紫のように、霊夢の目が点になる。
こいつらの先祖は共通のハトなんじゃないだろうかと魔理沙は考えた。
「いやいやいや、助けにきた、って言っただろ」
霊夢はもう、魔理沙が何を言ってるのか理解出来ない。
「お前は転生する。でも、私のことは忘れない」
阿求曰く、幻想郷一の泥棒は、
「私が、お前の『記憶』を盗む」
大胆不敵な笑みを浮かべて、犯行予告を行った。
「アハ、アハハハハハハハハハ!!」
霊夢が爆笑する。
「ハッ…、ゲホ、ゲホッ!」
やっぱりむせやがった。
こいつら行動パターンほんと似てんなー、と魔理沙は感心した。
「その話乗ったわ」
目元の涙を拭うと、霊夢は普段のふてぶてしさを取り戻していた。
「何なのよ、もう。1人で泣きまくって私バカみたいじゃない」
いや、実際かなり面白い顔してましたよ霊夢さん。
「でもおかげでようやく踏ん切りがついたわ。
ちょっと魔理沙。紫はどこにいるのかしら?」
はい、外におりますが、と教えてやる。
「私ずっと紫に言いたかったことがあるのよ」
霊夢は野獣のように凄みのある顔で言った。
元いた場所に出ると、剣呑な空気が漂っていた。
木っ端微塵になったはずのレミリアは完全に復活している。
自分も相当非常識な復活を果たしたが、やはり吸血鬼ほどではない。
真っ二つにしたら2人に増えるんじゃないかと想像して目眩がする。
咲夜と永琳の姿も見えた。2人とも紫に回収してもらえたのだろう。
咲夜は首に巻かれた包帯が痛々しかったが、概ね健康そうに見える。
永琳と一緒に飛ばされたのが幸いして、治療を受けられたようだ。
魅魔と藍もこちらに来ていた。
戦いを通して友情が芽生えたのか、ガッチリ肩を組み合って
お前やるな、あなたも、とかお互いに称え合ってる。
弟子が大変な目にあってたのに、何やってたんだこの人。
剣呑な空気の発生源―――紅魔館の面々は、紫を取り囲んで
この問題児にどんな制裁を加えてやろうかと議論が白熱しているようだった。
「すまきにして海に沈めましょう。スキマ妖怪だけに」
「名案です、お嬢様。…ですが、残念ながら幻想郷には海がありません」
「血の海に沈めるという意味よ、咲夜」
などと物騒なやりとりをしている。
紫は煮るなり焼くなり好きにしろといった感じでふてくされていた。
ようやく皆こちらに気づいて、霊夢の様子に息をのむ。
霊夢は皆に向かって一度頭を下げると、迷い無く紫の元へ歩を進めた。
紫は一瞬驚いた顔をしたが、慌ててすぐに顔を逸らす。
自分が死んだら霊夢が悲しむと魔理沙は言ったが、そんなはずがない。
もはや自分は霊夢にとって魂を縛り付ける呪いでしかないのだから。
そうでなければ、あの子がいつも自分に悲しげな顔をする理由がわからない。
いったい自分に何の用があるのだろうか。
恨みを晴らすべく、数多の罵倒で責め立てられるのだろうか。
いっそ自分にはその方がお似合いだ、と自虐的に笑う。
しかし、霊夢は紫の顔をむんずと掴むと、無理矢理自分の方へ向けさせた。
「紫、聞いて」
霊夢は力強い眼差しで紫を見つめる。
紫は困惑しきっていたが、お構いなしに続ける。
「私が転生するのを嫌がったのは…、魔理沙のこともあったけど―――」
霊夢は紫の顔を掴んでいた手を離すと、紫をぎゅっと抱きしめた。
「私はあなたのことだって、忘れたくなかったのよ」
記憶を失って、いつも最初に見る存在。
何度忘れられても、自分に微笑みかけてくれた存在。
そんな、自分にとって母にも等しい存在を、疎ましく思うことなど。
「あっ…、あああ…!」
つぅ、と紫の頬を涙がつたう。
紫はことここに至ってようやく間違いに気づいた。
自分はなんて愚かだったのだろう。
好きな相手に、自分のことを忘れろと詰め寄られるのは、どんな気分だろうか。
たったそれだけの事がわからなかった。
彼女はちゃんと自分のことを見ていたのに、
自分は彼女のことをまるで見ていなかった。
その姿にかつての少女の面影を重ねて、
もう戻らない、遠い日の幻想を見ていた。
「ごめん、な、さい゛ぃ…!
ご、めん゛ん゛…、な、さい…!」
嗚咽混じりにただただ謝罪の言葉を繰り返す。
謝っても謝り切れる気がしないが、それでも詫びずにはいられなかった。
紫はうわんうわんと、子供のように泣きじゃくった。
この主人の豹変ぶりに、藍は仰天した。
「お、お前達、見るんじゃない!
見るなっ、見るなぁー!!」
紫の前に立つと、精一杯体と尻尾を伸ばして主人を隠そうとする。
これに対して、先ほどまで不穏な空気を漂わせていた紅魔館の面々は、
「見まして、奥様?」
「ええ、見ましたわ。むっきゅりと…」
「いやだわぁ、八雲さんところの奥さんみっともない…」
と、意地の悪い笑みを浮かべている。
泣きわめく相手に追い打ちをかける気はさすがに起きないのだろう。
ここで藍は思い詰めた顔をすると、懐から猫じゃらしを取り出した。
何をするつもりかと、びっくりして咲夜が藍を止める。
「ええい、離せっ!
これであやせば紫様だって泣き止んでくれるはずだ!
橙はいつもこれで泣き止む!」
従者のこの行動に、紫はますます泣いた。
「え、なんで、神社、壊れてるの…?」
しまった。完全に忘れてた。
とりあえず一旦落ち着ける場所に戻ろうということで
神社に足を向けたのだが、失敗だった。
「いや、あの、ほら、あの後2人がどこに行ったのかわからなくてさ」
滝のように汗を流しながら魔理沙は経緯を説明する。
きっと情状酌量の余地が残されているはずだ。
「見つけようがないならおびき出すしかないってことで、その…」
やばい、霊夢が涙目だ。
「いや、言い出しっぺは魅魔様なんだぜ?
そう、魅魔様が!魅魔様がね!?」
ことさらに『魅魔様が』の所を強調してみる。
部下の失敗は上司の責任。弟子の失敗は師匠の責任である。
そう、だから私は悪くない!
「ま、魔理沙の…」
ちょっと待って霊夢さん、どうして拳を握るのですか。
私とあなた、トモダチ。暴力ヨクナイ。人類皆兄弟!
「魔理沙のオタンコナスーー!!」
魔理沙の世界平和を願う思いは届かず、
顔面に幻想郷最速と言われる幻の博麗右ストレートが炸裂した。
薄れゆく意識の中で魔理沙は思った。
そんなものがあるのなら、紫と戦った時に使ってくれよ、と。
本当に大変なのはそれからだった。
大見得を切ったはいいが、魔理沙の得意分野は物を壊す魔法。
記憶の魔法なんて専門外もいいところだ。
魔理沙はとにかくあちこち走り回って、
少しでも魔法や科学に精通してる者を幻想郷中からかき集めた。
だが、方法が完成する前に刻一刻とタイムリミットが迫る。
そこで、何とか霊夢を保たせようと咲夜に頼み込んで
何度も霊夢の時間を止めてもらった。
しかし、霊夢の命運が尽きる前に、力の使い過ぎで咲夜の命運が尽きかけた。
仕方がないので永琳のツテを使い、同じく時間を操る力を持つ蓬莱山輝夜が
担ぎ出された。
バテるたびに永琳が謎の薬品を飲ませ励ましていく。
そこに地獄のシフトワークが出来上がっていた。
咲夜の銀髪が段々白くなっていったのは、見間違いではないだろう。
さすがにそこまで霊夢の時間を止めると博麗大結界にも影響が出た。
綻びを修復するために紫と藍が奔走した。
「あんたこれで結界壊れたらマジで殺すわよ!?」
紫が涙目で叫んでいたが取り合わない事にした。
最後はもう神頼みだ、と現人神を引っ張り出して来た。
皆で取り囲んで一大奇跡コールを行ったが泣かせてしまった。
そして―――
箒にまたがった少女は目的地めざして一心不乱に飛んでいく。
その表情はニヤニヤと実に楽しそうだ。
眼前に迫った大きな鳥居を持つ神社の前で減速、どうやらここが目的地らしい。
境内に軽快に着地するなり、素早く神社の裏手に回り込むと、
少女は大きな声で叫んだ。
「おい霊夢、今、人里が大変らしいぜ!
なんでも空から『ゆっくりしていってね!』
って叫ぶ変な饅頭が大量に降ってくるんだと!」
「見たいような、見たくないような異変ね…」
黒と白の格好をしたテンションの高い少女に対し、紅と白の格好をした少女は気怠げに応える。
しかし、その表情はよく見るとどこか嬉しそうにも見える。
「おいおい、いいのか、やる気出さなくて。
そろそろ早苗が出しゃばってくる頃だぜ?」
「いいのよ、どうせあの子、毎回空回りしてるし」
「でも『そこがいい!』って男性信者が最近増えてるって話だぜ」
気怠げだった顔に幾分か真剣味が増す。
「ぬぅ…博麗神社の賽銭事情改善のためにも、一度あの子ノシた方がいいわね…」
「いや、異変解決しろよ…」
「ハイッ、魔理沙モタモタしない!
ぱぱっと片づけて博麗の巫女ここにあり、ってのを知らしめてやるわ!」
今日もまた、平和な幻想郷の空に2人の少女が駆けていった。
その空はどこまでも広く、どこまでも青く、澄み渡っていた―――
― 完 ―
ちょっと強引すぎるかな、と思いました。
個人的には好きな作品ですが、読む人を選ぶ作品ですねぇ。
ちょっと無理やり感が否めない