楚人有鬻盾与矛者
誉之曰 吾盾之堅 莫能陥也
又誉其矛曰 吾矛之利 於物無不陥也
或曰 以子之矛 陥子之盾 何如
其人弗能応也
春も深まり、ぽかぽかとした陽気が眠気を誘う頃。
見上げれば遥かに霞む、長い長い階段。
登りきった先は、極楽か、はたまた空の果てか。
そんな感想を抱かせる階段を、二本の足で地道に登る者がいた。
背には長弓。手には四角い包みを持って。
八意 永琳。
竹林の中に立つ永遠亭に住まう、『月の頭脳』の異名をもつ月人。
薄く積もった桜の絨毯を踏みしめながら、
彼女は息切れ一つせず、その長い階段を登り続ける。
「本当、長い階段ね。」
宙を飛んでいってもよかったが、別段急ぎの用事でもなし。
それに、周囲の桜の木々が余りに見事だったので、
景色を楽しみながら、のんびり登ることにしたのだ。
幸いにして、体力には自信がある。
そうして周囲の桜を眺めながら歩を進めていると、
ふと段上に人の気配を感じ、彼女は足を止めた。
見上げると、小柄な体躯の少女が、箒を手にせっせこ桜の絨毯を階段の端に寄せている。
階段は、まだまだ遥かに高い。
まさか頂上からここまで、律儀に箒で掃きながら下りてきたのだろうか。
そう予想し、少女の生真面目さに苦笑する。
すると、箒を持った少女がこちらに気付いた。
少女は眉根を寄せ、滅多に訪れない来客に、警戒を含んだ固い口調で尋ねてくる。
「これは、珍しい来客ですね。
この白玉楼にいかなる要件でしょうか。」
箒を振るう手を止め、柄の先端を握って長く持つ。
それは箒を振るう時とは違う、明らかに武器として用いる時の持ち方。
この少女が振るえば、箒とて十分な凶器となりうるだろう。
だが警戒する必要はない。
話してもわからない相手ではないし、
なにより、この少女では私を害することなどできはしない。
「お久しぶりね、魂魄 妖夢。
そんなに警戒しないでちょうだい。」
手に持った四角い包みを持ち上げ、
中を見せるように包みを開けた。
中から現れた包装紙には、『順風亭』と銘打たれていた。
幻想郷では名の知れた、銘菓の老舗である。
それを認めた妖夢は、幾分表情を和らげた。
「こちらの桜が見事だと聞いたものだから。上がってもよろしいかしら?」
「ええ、どうぞ。お嬢様も喜びます。」
ちゃんとした来客で、手土産まで持参してもらっては上がってもらわぬわけにはいかない。
桜の手入れを行っているのも妖夢だ。
それを褒められて、悪い気はしない。
妖夢は桜の花びらの掃除を中断し、永琳を白玉楼へと案内することにした。
* * *
白玉楼。
桜の花びらと、無数の霊魂が浮遊する、儚くも美しい雰囲気を纏った屋敷。
本来ならば、冥界に位置するこの屋敷に生者が簡単に入ってこれるはずが無いのだが、
いまは境界を分かつ結界が壊れてしまっているため、
冥界と顕界の往来が容易なものとなってしまっている。
というか、あの結界はいつになったら修復されるのだろうか。
畳敷きの茶の間に案内された永琳は、行儀よく座布団の上に正座して待つ。
開け放たれた襖の向こうには、立派な庭が一望できる。
思わず誰もが目を止める、見事な枯山水。
今は水の代わりを成すように、散った桜が桃色の水面を敷いている。
なるほど、聞きしに勝る絶景かな。
「あらまあ、いらっしゃい。遠かったでしょうに。」
絵に描いたような壮麗な庭に目を奪われていた永琳に、
ゆったりと間延びした少女の声がかかる。
洋服と和服が混同したような不思議な着物を纏った少女が、
妖夢に連れられて茶の間へと現れた。
「突然お邪魔してごめんなさいね。これ、つまらないものですが。」
「まあ、これはどうも。頂戴しますわ。」
彼女は滅多に訪れない来客を歓迎するように微笑みながら、
永琳から差し出された菓子折りを貰い受ける。
育ちのよさが伺える、品のある動作でちゃぶ台を挟んだ位置に腰を下ろした。
西行寺 幽々子。
白玉楼に住まう亡霊嬢。冥界の管理者。
その齢は、1000に届くとか、届かないとか。
「本日はどのようなご用件かしら。」
「ええ。幻想郷の桜を見るなら、こちらが一番綺麗だと聞いたものですから。
ご迷惑だったかしら?」
「まさか。歓迎しますわ。
妖夢、お茶を淹れてきて頂戴。」
「はい。」
幽々子に促され、幽々子の後方に控えるように座していた妖夢は席を立つ。
静かに、最小限の音だけを立てて、妖夢は茶の間を出て行った。
瞬間、茶の間の温度が数度下がった。
いや、実際に数度下がったわけではないだろう。
だが、そう勘違いしても仕方ないほどに、明らかにその場の空気が一変した。
「で、何の用?」
先ほどまでの団欒を目にしていたものがいれば耳を疑ったであろう、氷水のように冷え切った声。
永琳の正面に座る幽々子の目は、日本刀のごとく鋭く、冷め切っていた。
まるで、別人。
「今しがた言ったばかりでしょう? 桜を拝見しにきたのよ。」
「冗談の類は好きじゃないわ。」
そんな幽々子の明らかな敵意を、永琳は肩をすくめて受け流す。
茶化している様な永琳の態度だが、そんな永琳の様子を幽々子はまるで無視した。
幽々子は睨みつけるような半眼で、永琳に対し言葉を続けた。
「月人は花見に弓を持参するのかしら。だとしたら驚きね。」
もっともな指摘だった。
本当にただの花見ならば、弓を持参する意味など無い。
それに対し、永琳は悪びれもせず、しれっと答える。
「桜の元には怖い亡霊がいるのだもの。自衛の手段は必要でしょう?」
「得物を持った者を簡単に通すなんて。あの子はあとでお説教ね。」
明らかな棘を含んだ会話の応酬。
もはや周囲の空気は、言葉から飛び散った棘だらけで針のむしろのような有様だった。
が、
「失礼します。」
茶の用意を整えてきた妖夢が茶の間に戻ってきた時には、
そんな空気の名残など欠片もなく、
幽々子と永琳がにこやかに妖夢を迎え入れた。
「あら、妖夢。ご苦労様。」
「どうぞお構いなく。」
まるで真っ暗な部屋の中で、蛍光灯のスイッチを入れたかのような切り替わり。
妖夢がそれに気付けないのも、無理も無い話だった。
先の刺々しい空気は残滓すら残っていない。
湯気の立つ湯飲みを、永琳は軽く会釈で返しながら受け取った。
「さあ、せっかくだからいただきましょう。貴方も一緒にどうかしら?」
幽々子は先ほど受け取った菓子折りを、妖夢に受け渡す。
その提案に、永琳は首を振って返した。
「いいえ、私は結構です。貴方のために用意したものですから。」
「そう? なんだか申し訳ないわ。」
包装を外し箱を開けると、中身はまんじゅうだった。
薄い皮の中に、たっぷりの餡が詰まっている。
ひとつつまんで口に運ぶと、とろけるような、それでいて控えめな甘みが口を満たした。
うむ、おいしい。
さすが『順風亭』と言わざるを得ない。
「ふふっ、美味しい。これは結構なものを頂戴しましたわ。」
「あの、私もひとついただいても?」
「駄目。妖夢は後でね。」
「うぅ、はい。」
妖夢はかくりと肩を落とし、残念そうに茶をすする。
「それより妖夢、貴方には大事な使命があるわ。」
「はい? 使命、ですか?」
心当たりがまったくない。
真剣味の篭った表情で、幽々子は続ける。
「そう。『神凪屋』の大判焼を買ってくるという使命が。」
「ええ!? 『神凪屋』、ですか?」
「こんないいもの、もらいっぱなしじゃあ悪いでしょう。
こちらも相応のものを用意しないとね。」
「はぁ、ですが・・・。」
『神凪屋』というのは『順風亭』と並ぶ有名な和菓子屋である。
といっても『順風亭』ほどの歴史はなく、値段で言えば『順風亭』よりも安上がり。
だが美味い。
味なら『順風亭』とも見劣りせず、しかも安上がりとくれば庶民の人気も高い。
それゆえ、並ばないと手に入らない希少な品なのである。
それらを加味すれば、『順風亭』と比べても引けは取らないだろう。
「まあ。あそこの大判焼は美味しいと評判ですものね。」
永琳もまんざらでも無い様子で頷いた。
しかし、先も言ったように、並ばないと手に入らない品なのである。
今から人里へ飛んで行き、店の前に並んで、大判焼を購入し、飛んで帰ってくる。
となれば、結構な時間がかかるはずだ。
そこまで来客を待たせるというのも、どうなのだろうか。
「つべこべ言わず行ってらっしゃいな。20分もあれば戻ってこれるでしょう?」
「ええ!? それって結構・・・。うぅ、わかりました。」
「時間についてはお気遣いなく。その間は桜を楽しませていただきます。」
幽々子も永琳も、妖夢が買い出しに行く方向で決定らしい。
2:1で買い出しに行くほうに決まりだった。
ちくしょう、民主主義国家め。
「それでは行ってきます。なるべく早く戻ってくるようにします。」
「20分以内でね。」
「・・・善処します。」
そうして力なくうなだれた妖夢が、白玉楼を飛び去っていく。
その場に残されたのは、幽々子と永琳の二人だけ。
またいつの間にか、茶の間の温度が冷え切っていた。
「少し、歩きましょうか。」
* * *
白玉楼の外に広がる、広大な土地を有する庭。
立ち並ぶ桜の木々を縫うようにして、幽々子と永琳は庭を歩く。
実に見事な桜だが、二人はお世辞にもそれを楽しんでいるようには見えない。
一言の会話もなく、痛いほどの沈黙が続いていた。
ただ、桜の花びらを踏みしめるかすかな音だけが二人の耳に届く。
やがて、前を歩く幽々子が足を止めた。
そこは周囲の木々が開け、広場のような様相となっている庭の一画だった。
結構な距離を歩いてきたので、もう後ろを振り返っても屋敷は影も形もなかった。
360度、どこを見回しても桜の木々しか見当たらない場所。
「人を殺すにはうってつけね。」
永琳は軽口を叩くように冗談を飛ばしたが、
あまり冗談になっていないことに気付いて苦笑した。
振り返った幽々子の目は、まるで殺意を凍らせて削りだしたかのような冷たい瞳だった。
「なるほど。従者の前では猫を被りたいというわけね。」
幽々子を挑発するような皮肉気な色を含む笑みを浮かべるも、
そんな永琳を幽々子はまるで相手にしない。
ただ淡々と、感情の死んだような声で言葉を吐く。
「貴方のお遊びに長々と付き合うつもりはないわ。
それで、貴方の本来の目的はなに?
すぐに済む用件なら、さっさと済ませて帰って頂戴。」
「すぐに済まない用件なら?」
「済ませずにさっさと帰って。」
「まあ、非道い。」
単刀直入に言って、幽々子は永琳のことが嫌いだった。
蓬莱人。
不老不死の薬を服用し、死ぬことのなくなったモノ。
あらゆるものを死に誘う幽々子の能力とは、まさに対極に位置する存在。
だから嫌いなのだと思っていた。最初は。
だが、それは違うのかもしれない。
はるか昔に死を迎えた幽々子。
はるか昔に死を失った永琳。
どちらも、違いこそあれど、死という概念からもっとも縁遠い存在だ。
それゆえの、ある種の同属嫌悪。
そしてそれが同族嫌悪であるというのなら、
おそらくは、永琳も幽々子に対し、幽々子と似たような感情を持っているに違いない。
「ある国に、矛と盾を売る商人がいた。」
唐突に永琳が口を開いた。
「その商人は自らの売る盾を持ち、言った。この盾はいかなるものにも貫けないと。
また、商人は自らの売る矛を持ち、言った。この矛に貫けぬものなどないと。
それに、ある者が言う。ではその矛を以ってその盾を突けばどうなるのか。
商人は結局、それに答えることはできなかった。」
「『矛盾』ね。」
そう、これは『矛盾』という言葉の語源となったエピソードだ。
結局、商人が誇張を含んだ大言をしていたのがバレてしまった、という話。
だがそれがどうしたというのだ。
幽々子は仮面のような無表情の、片眉だけをわずかに上げた。
「もしこの商人が言っていたことが本当だったら、矛と盾はどうなっていたかしら。
もしこの盾が本当に何物にも貫けず、この矛があらゆるものを貫く矛だったら。」
「興味ないわ。」
それを短く切って捨てる幽々子。
それに永琳は、にやりと口元をゆがめる。
「言い方を変えましょうか。」
「絶対に死なない者と、あらゆるものを死に至らしめる能力がぶつかり合ったら、どうなるかしら?」
ぴくっ、と幽々子がその言葉に反応する。
幽々子の表情がようやく、はっきりとわかるほどに変化した。
凄絶な、裂けるような笑みに。
「それ、すごく興味あるわ。」
「でしょう?」
にっこりと、人の良さそうな笑みで返しながら、
永琳は背中の長弓を抜いた。
「あら、黙ってそこに突っ立っていればすぐに試してあげるのに。」
「私が一方的に攻撃を受けるんじゃあアンフェアでしょう?
だからこちらからも攻撃させてもらうわ。」
「ふむ、なるほど。」
腕を組み、わすがに考える素振りをする幽々子。
ようするに、永琳は始めからこのつもりで、弓を白玉楼に持ち込んだのだ。
「要約するわ。『殺し合いをしましょう』ってことでいいかしら。」
「ええ、的確な表現ね。」
「そう、よかった。」
にこり、と屈託の無い表情で幽々子が微笑む。
直後、風も無いのに周囲の桜がざわめいた。
急激な空気の変質に、桜の木々が慄いているかのように。
「それじゃあ始めましょうか。」
「ええ、始めましょう。」
永琳は矢筒から一本の矢を引き抜き、それを長弓に番えた。
対する幽々子は自然体のまま直立し、扇子を口元を隠すように広げる。
かくして、最も死に縁遠い者たちの、究極の殺し合いが始まった。
* * *
「うわぁ、長蛇の列!?」
『神凪屋』の前に並ぶ人、人、人。
遊園地のアトラクションだったら「先に余所を回ろう。」と思い直させるくらいの人の列。
それが遊園地のアトラクションだったら、代わりがあるからまだよかったのだが、
不幸にして『神凪屋』はそこ一軒しか店を構えていないのだった。
春深まる暖かな陽気も、この長蛇の列に拍車をかけていた。
20分で戻れって、どう考えても無理です。無理無理です。
飽きもせずに立ち並ぶ人たちを眺め、妖夢は呆然と立ち尽くすしかなかった。
「あら、妖夢じゃない。」
聞き覚えのある声がかかる。
はてと周囲を見回すと、今まさに『神凪屋』で大判焼を注文しようとしている少女がいた。
博麗 霊夢。
博麗神社に住まう、幻想郷の管理者。腋全開。
こんなところで会うとは予想外・・・、というほどのことでもなかった。
この『神凪屋』は、安さゆえに霊夢が贔屓にしている店だったからだ。
「霊夢に間食を買えるほどの経済的余裕があったとは驚きだ。」
「一緒に注文してやろうかと思ったが気が変わった。まだ辛うじてここから見える最後尾に並べ。」
「ああ、嘘ですごめんなさい。」
慈悲深い霊夢のおかげで、妖夢は予想よりも遥かに早く購入までこぎつけることができた。
霊夢はこしあんとカスタードとチョコレートを一つずつ。
妖夢はつぶあんとカスタードをそれぞれ二つずつ注文した。
霊夢が買った三つのうち二つは、謝礼ということで妖夢が奢ることになった。
2/3って・・・、半分以上かいッ!!
「あんがと、ゴチ。」
「おかしい。なんで世話になったはずの私のほうが霊夢から礼を言われている・・・。」
ほくほくと満足げな表情で、大判焼を咥えながら去っていく霊夢。
その後ろ姿を見送りながら、妖夢はなにか釈然としない面持ちで帰路についた。
* * *
春先だというのに、そこには凍てつかんばかりの冷気が満ちていた。
死と、そして虚無の気配。
そこに対峙しているのは、亡霊と言う名の死と、永遠という名の虚無。
「さて、まずは小手調べからよ。」
矢を番えた永琳が、まるで髪でもかき上げるかのような自然な動作でそれを放った。
速く、それでいて無意識の隙間に滑り込むような一矢。
それは幽々子の胸部中央、肋骨の隙間に吸い込まれるかのごとく精密に飛来する。
それを、幽々子は軽く身をそらせるだけで避け、
すれ違い様にその矢を扇子ではたき落とした。
見るものの心臓をも凍らせるほどの冷徹な殺意を、
顔色一つ変えることなく平然と。
「一歩すら動くまでも無いわね。そもそも―――」
足元に突き立った、今しがた叩き落としたばかりの矢を引き抜き、
手の中で弄ぶようにくるくると回す。
「―――こんな玩具で私を、亡霊を殺せると思っているの?」
人を殺すための道具に対し、幽々子はそれを玩具と言う。
幽々子にとっては、そんなものは玩具に過ぎないと。
そう、これは人を殺すための道具なのだ。
そんな程度のもので、亡霊は殺せない。
たとえその矢が幽々子を捕らえたとしても、
幽々子は指一つ動かすことなく自らの実体を消し、その矢は滑り抜けるだけに終わるだろう。
弓矢ごときで亡霊が殺せるはずがない。
「殺せますよ。」
が、永琳は平然とそう言ってのけた。
新たな矢を一本番え、それを幽々子ではなく、自らの頭上へと向けた。
太陽を撃ち抜かんとするかのごとく、真上へ。
そして、それを放つ。
矢は真っ直ぐに、空を目指して飛んで行く。
その過程に一つ、半透明の霊魂が浮かんでいた。
霊魂には、幽々子と同様に実体が無い。
その矢が霊魂を捕らえたとしても、当然矢は何の抵抗もなく抜けていく。
だが、
「・・・?」
矢が通り抜けていった霊魂が、その半透明の体を一瞬だけ濃くして、
まるで消しゴムで擦られたかのようにサラサラと体を薄くしていき、消えた。
消えた。すなわち消滅したのだ。
「霊とは純粋な死の具現です。プラスマイナスでいうところの、マイナスのエネルギー。
そこに生の要素、プラスのエネルギーをぶつけてやれば、
それらのエネルギーは互いに相殺し合い、果ては消滅するというわけです。」
永琳は矢筒から一本新たな矢を引き抜き、矢尻を見せるようにして掲げた。
その先端には、よく見ると無色の液体が塗られている。
毒、ではない。
むしろ逆、これは薬なのだ。
「この矢に塗られているのは蓬莱の薬です。
とはいっても、姫の力を注いでいない未完成品なので、効果はほんの一瞬。
大半の外傷なら瞬時に治癒させる、究極の治療薬です。
人間には効果が高すぎて人体の代謝のほうが耐えられないので、実際には使えませんがね。」
永琳の言う生の要素、プラスのエネルギーとは、
すなわち薬が生み出す治癒の効能のことだ。
それを究極まで突き詰めた蓬莱の薬は、亡霊である幽々子にとっては最高の劇薬となる。
「アンデットは薬に弱い。常識ね。」
―きゅん
空気を引き裂くような、弓矢独特の擦過音。
掲げていたその矢を、永琳はいつの間にか幽々子に向けて放っていた。
瞬きの瞬間を狙った、滑り込むような一矢。
当たるどころか、かすりでもしたらただではすまないであろうその矢を、
幽々子はまるで警戒した様子もなく、さらりとそれを回避する。
「まあ、どのみちかすりもしないから関係ないわね。」
既に二本の矢を回避したが、幽々子の足は開幕当初から一歩も動いていない。
動く必要すらない。
なんの小細工もなしに真っ直ぐに向かってくる矢を避ける程度、
幽々子にとっては警戒にも値しない、たやすい芸当なのだ。
「それで、貴方の手札はおしまいかしら?」
「まだですわ。」
にぃ、と永琳が嗤う。
放った矢を幽々子にたやすく避けられてなお。
「ッ!!」
幽々子がとっさに体をそらせた。
その一瞬前まで幽々子の体があった場所を、『後ろから飛んできた』矢が通過する。
気付けたのは、半分は永琳の視線、もう半分は勘のおかげだった。
運がよかったとしか言いようが無い。
そんなバカな。
どうして矢が後ろから飛んできた?
周囲にはさっきどころか、何者かが潜んでいる気配すらない。
間違いなく、この周辺には幽々子と永琳の二人しかいない。
その答えは、すぐにわかった。
今しがた通り過ぎていった矢が、彼方で大きく旋回して再びこちらに向かってこようとしている。
「まあ面白い。」
「お気に召されたようでなによりですわ。
矢尻には蓬莱の薬のほかに、もう一つ別の薬品が塗られています。
これが面白い薬品でして、空気に触れると対となる薬品と磁石のように引き寄せあうのですよ。
対となる薬品というのがいまどこにあるのかは、説明せずともおわかりですね?」
旋回してきた矢が、再び幽々子に襲い掛かる。
まるで吸い込まれるように、幽々子の腹部を目指して。
それに、幽々子は顔をしかめた。
「おまんじゅう、美味しかったのに。」
「薬品は無味無臭なので気付かなくても当然です。
それとも、気付いたからあの子に食べさせなかったのかしら?」
幽々子はそれには答えず、余裕に満ちた動作でゆらりと矢をかわした。
タネがわかってしまえばどうということはない。
結局、よければいいという点においては同じなのだ。
いとも簡単に矢を避けられているにも関わらず、永琳は涼しい顔のまま。
「まあ、『まだ』余裕で避けられるでしょうね。」
続いて、永琳は新たな矢を番えて、それを放つ。
当然、幽々子はそれを避ける。
すると通り過ぎたはずの一本目が再びそこに襲い掛かってきて、
幽々子は少しだけ鬱陶しそうに眉をひそめて、それもかわす。
だがそのときには既に、永琳が新たな矢を、三本同時に番えていた。
「おかわりいかが?」
「結構よ。」
「遠慮なさらずどうぞ。」
人差し指、中指、薬指、小指の四本で挟まれた三本の矢が、
同時に幽々子に牙を剥いた。
だがタイミングはどうしてもズレる。
完全に同時ではなかったその矢の隙間を縫うようにして、幽々子は体を反らせる。
そこへかわしたはずの二本目の矢が飛来し、その頃には永琳が新たな矢を番えて幽々子を狙っている。
一度宙に放たれた矢は彼方へと消えることなく再び戻ってきて、
さらに正面では機関銃のような勢いで永琳が矢を宙に放っている。
幽々子を狙う矢はあっという間に30を越え、50を越え、
ドーム状に形成された矢の群れが、まるでプラネタリウムに映り込む流星のように、
せわしなく幽々子を狙って旋回している。
その流星群は、まるで小さな銀河の体現であるかのようだった。
幽々子という天体を中心に形成される銀河と、その公転軌道を回り続ける矢の群れ。
「薬符『壺中の大銀河』。
まあ、スペルカードというほど大層なものでもありませんがね。」
幽々子を狙う矢は増える一方で、その一本すら数を減らすことは無い。
幽々子はその場で回避を続けるが、いずれ限界を迎えることは誰の目にも明らかだ。
このまま永琳が宙を舞う矢の数を増やし続ければ、やがて幽々子の回避が追いつかなくなる。
現に、もう幽々子の体が完全に止まっている時間はなくなっていた。
これでおしまいか。
永琳はわずかに落胆したように肩を落とし、
死蝶『華胥の永眠』
幽々子の体から、爆ぜるような勢いで夥しい数の蝶があふれ出した。
水風船を針で突いた様によく似ているほどに。
そして爆発的に噴き出した蝶の群れは周囲に旋回している矢を捕らえ、
それらを一瞬にして貪り尽くした。
そう表現するしかない。
永琳が放った木の矢は蝶に捕らえられ、枯れ、風化し、崩れ、瞬く間に消失したのだ。
瞬時にその命を食い潰した。
これが幽々子の、『死を操る程度の能力』。
「さて、今度こそ芸はおしまいね。」
50本を軽く越える本数の矢を全て貪り尽くした蝶の群れは、
次なる獲物を探すかのようにゆらゆらと周囲を舞っている。
次なる獲物。
その場に生ある者として立っているのは、一人しかいない。
手にした扇子を永琳に向け、幽々子は言い放った。
「許可するわ。あの生を食い潰しなさい。」
直後、それまで無秩序に舞っていた蝶の群れが、
急に指向性を持った動きで永琳を目指して動き始めた。
ゆらゆらと、ゆったりとした動きで、
それでいて、不思議なほどに速い。
「っと。」
軽く後ろに跳躍して、永琳は襲い掛かってきた一匹の蝶を避ける。
蝶にしては驚くほど速いが、しかし問題になる速度ではない。
これなら、永琳の放つ矢のほうが遥かに速い。
だが、その避けた先を狙って二匹の蝶が永琳を狙う。
両脇から襲ってきた蝶を、今度は前に出て回避する。
後ろに避けてもよかったが、後ろのほうが蝶の密度が高く見えたのだ。
前に出たほうが安全だと、永琳は瞬時に判断した。
そしてその判断は間違ってはいない。
それでも、さらなる蝶が永琳へと迫る。
(・・・これは!?)
永琳は気付いた。
襲い来る蝶を避けながら、次に避ける先をシミュレートしていって、
そして気付いた。
驚異的な計算スピードを持つ永琳の頭脳が、全てのパターンのシミュレーションを終えたから。
その結末は、
「あら、気付いた?」
悠然と、幽々子はあざ笑う。
その結末は、蝶に捕まるしかない。
周囲を舞う蝶の動きを目で追っていく中で、永琳は奇妙な点に気付いた。
全ての蝶が永琳を目指しているわけではないのだ。
一部の、いや、大半の蝶は永琳には向かわずに、まるで関係の無い方向に動いている。
それだけなら、単に幽々子が全ての蝶を操作し切れていないだけなのではないかと思った。
だが、次の回避先を模索していく中で、さっきの妙な動きをしている蝶が嫌な位置にいるのだ。
それは2手先、3手先、あるいはもっと先のタイミングで。
これだけの蝶の密度で、永琳が蝶を避ける逃げ先は、ほんの数通りしかない。
その先へ先回りして、逃げ道を潰している蝶がいる。
永琳はこれとよく似た感覚を知っている。
これはそう、まるで、
(詰め将棋・・・。)
触れれば確実に死に至る蝶。
となれば、それを受けることは出来ず、避けるしかない。
そうして避けた先に、幽々子の新たな一手。
また避けるしかない。そうすればその先にまた一手。
行き着く先は、『詰み』だ。
これが幽々子の戦闘スタイル。
ここに存在する無数の蝶の全てが永琳を狙っており、
同時に、全ての蝶が別の蝶を永琳に当てるための、ただの布石でしかない。
逃げ場を塞ぎ、相手を『詰み』へと落とし込んでいく、詰め将棋。
当たりさえすれば一撃必殺な点もまさに将棋そのものだ。
「くっ!!」
まずいとは思いつつ、しかし永琳には避ける事しかできない。
残されている逃げ道へ。
幽々子が用意した逃げ道へ。
『詰み』が待っているとわかっている逃げ道へ。
そして、
「はい、詰んだ。」
最後の逃げ道が、なくなった。
こうなることはわかっていたのに、どうしようもなかった。
それは仕方が無い。
そもそも、詰め将棋とはそういうものだ。
詰みに行く側の動きが完璧なら、詰まれる側には敗北しかない。
一匹の蝶が永琳の背に触れ、
それを皮切りにして、一斉に永琳の全身に蝶が群がった。
夥しい数の無数の蝶が群がり、ばたばたとせわしなく羽根を動かしている。
人の形をした蝶の柱が力なく地に崩れ落ちても、
蝶たちは構うことなく、貪るように群がっていた。
それはまるで、死体を啄ばむハゲタカの群れのようで、
美しい蝶であるにもかかわらず、正視に耐えないおぞましい光景だった。
やがて、蝶の群れが散っていった。
食欲を満たしたというより、もはや食うところもなくなったとでも言わんばかりに。
そこに転がる死体にまるで興味も無い様子で、次の獲物を探して揺らめいている。
そう、死体。
その体に宿る生という生を全て奪われた、死体。
その死体が、おもむろに口を開いた。
「さすがは白玉楼の亡霊嬢。噂以上だわ。」
幽々子はつまらないものを見るようなガラス玉のような瞳で、その死体を見下ろしている。
そんな幽々子の様子を意に介した風もなく、
その死体、八意 永琳は何事もなかったかのように立ち上がった。
「そんなつまらなさそうな顔しないでちょうだいな。
何度でも殺せるんだから楽しいでしょう?」
「金太郎飴を楽しめるのは子供だけだわ。」
蓬莱人の不老不死を金太郎飴に例えられて、永琳はおかしそうに笑った。
「それはもっともね。さあ、第二ラウンドを始めましょうか。」
服の裾についた土ぼこりを軽くはたいて飛ばし、永琳は次なる矢を番えた。
八意 永琳は死なない。
死なないがゆえに、この殺し合いで敗北することは無い。
そして、幽々子が敗北するまで無限に続く殺し合いの第二ラウンドが始まる。
* * *
人里を離れ、全速力で家路を走る妖夢。
霊夢のおかげで長蛇の列をほとんどタイムロスなしで切り抜けることが出来た妖夢だが、
しかし幽々子が挙げた20分を切るのはまだ厳しい試練だった。
このことからでも、幽々子が妖夢にぶつけた課題がどれだけ無茶振りだったかわかるだろう。
ここから全速力で走ったとして、間に合うかどうか。
そもそも、ここから白玉楼まで全速力で走り続けることが体力的に可能かどうかが疑問だったが、
それを考慮に入れると絶望的な話になるので、あえて目はそらしておく。
つねに未来に希望は持つべきだ。
「あら、妖夢じゃない。」
聞き覚えのある声がかかる。
全速力で街道を駆け抜ける妖夢に併走するようにして、
空中に開いた空間の裂け目から、のんびりとした声。
八雲 紫。
幻想郷でも指折りに強大な力を持つ大妖怪。怠惰全開。
紫が移動しているわけではなく、空中に開いたスキマが移動しているだけなので、
これだけの速度が出ているにもかかわらず、紫は電車の窓から覗くかのように気軽そうだった。
紫は窓枠に肘を置くようなだらしない姿勢のまま、必死こいて疾走する妖夢を眺めている。
「ご覧の通り、今死ぬほど急いでいます。半分死んでいますが、残りの半分も死にそうです。
なので、申し訳ありませんが要件があれば後にしていただけますか。」
「まあつれない。助けてあげようかと思ったのに。」
えっ、と期待のにじみ出るような顔で、妖夢は紫のほうへと振り返った。
それに対し、紫は人の良さそうな満面の笑顔で続ける。
「急いでいるんでしょう? スキマで運んであげるわよ。」
紫のスキマは空間に穴を開け、離れた場所と瞬時にその空間を繋げてしまう。
つまり、白玉楼に戻ることも一瞬で可能なのだ。
まさに渡りに船。
その申し出を断るはずもなかった。
「是非よろしくお願いします! 行き先は白玉楼で!」
「いいわよ。かわいい妖夢のためだものね。」
くいっ、と紫が指を上げると、紫の居た空間のスキマがさらに大きく裂け、
人一人が余裕で入れるくらいの大きさまで広がった。
そこに嬉々として足を踏み入れる妖夢。
「そうだわ! とても大事なことを言い忘れてた。」
紫は振り向く妖夢の両肩をがっしりと掴み、
滅多に見せることのない、真剣で深刻な表情になって、妖夢に告げた。
「私・・・、カスタードが好きなのよ。」
さっき『かわいい妖夢のため』とか聞こえた気がしたけど、きっと気のせいだった。
* * *
永琳ががくりと膝を折った。
ふくらはぎの辺りを蝶が掠めたのだ。
ただ掠めただけで、右足の感覚が完全に消失した。
見れば、右足の膝から先全体がどす黒く変色している。
痛みはまったくない。
痛みを伝える神経すら完全に殺されている。
動きの鈍った永琳を、幽々子が見逃すはずも無い。
永琳の全身は瞬時に蝶に覆われ、瞬く間に全身の生を奪いつくした。
永琳は3度目の死を迎える。
そして直後にこうして起き上がるのも、3度目。
「一方的にやられるのもつまらないわね。そろそろ負けてくれないかしら?」
「ごめんなさいね、大人気なくて。貴方と違ってまだまだ若いのよ。」
むくりと起き上がった永琳は、両の足で平然と立ち上がる。
先の右足は、まるで夢でも見ていたんじゃないかと思うほどに元通りになっていた。
医者の視点から見れば、先の右足は切断するしかなかっただろう。
もちろん普通の人間だったらの話で、蓬莱人にとってはまるで問題にはならない。
幽々子は内心で舌打ちする。
こいつは、本当に死なないのだ。
いや、確かに死んではいる。
死んで、すぐに蘇生する、といったほうが正しいのだろう。
なんにせよ、それはこの戦いにおいて、幽々子の勝利はありえないということに他ならない。
対する永琳は、幽々子に対して一撃必殺の一手を持つのだ。
これは、ひどく分の悪い勝負だった。
幽々子の足元の地面は、奇妙なほどに削られている。
それは幽々子が勝負の開始時から、一歩たりともその場所を動いていないからである。
動く必要が無い。
幽々子の攻撃の苛烈さと、常人離れした回避能力が、
この戦闘において歩くという行為を無用のものとしている。
それだけの戦力差がありながら、この殺し合いの果てには幽々子の敗北しかない。
敗北とは、すなわち消滅だ。
「無駄ですよ。」
時折飛来する永琳の矢をかわしつつ、再び幽々子が永琳を追い詰めた。
そして、永琳を殺す。
確実に、間違いなく殺した。
4度目の死。
それでも、永琳は立ち上がる。
「無駄です。私たちは『死ねない』んですから。」
永琳は、年老いた老婆のような表情で笑った。
酷く老成し、疲れたような笑みで。
「細切れしようが黒焦げにしようが蒸発させようが、無駄なことなんですよ。
肉体をどれだけ破壊しても、私たち蓬莱人は魂レベルで再構成されます。
魂に刻まれた情報を元に、無からでも再生される。」
蓬莱人でなくとも、不死と呼ばれるものは存在する。
たとえば吸血鬼などだ。
しかし吸血鬼といえど、完全な不死ではない。
毛の一本すら残さないほど完全に肉体を消滅させればさすがに死ぬ。
それは肉体に刻まれた情報、たとえばDNAなどを元に再生が行われるからで、
蓬莱人とは再生のシステムが根本的に違う。
一般に不死と呼ばれる『不完全な不死』は、大抵この肉体の情報を元に再生する。
だが蓬莱人は違う。
魂を元にゼロからですら再構成される、完全なる不死。
ゆえに、たとえ幽々子の力をもってしても蓬莱人は殺せない。
「ふっ、ふふ・・・。」
俯いていた幽々子が小さく肩を震わせる。
それに、永琳はいぶかしげに眉を顰めた。
「ふふふ、あははははっ、あっははははははははははッ!!」
突然、幽々子が大声を上げて笑い出した。
腹を抱えて、本当におかしそうに笑う。
「あははははっ!! なんだ、そんな簡単なことだったの!?
なら―――」
その無邪気な笑顔が、突然、ぞっとするような悪魔の笑みに変わった。
「―――なら、魂を殺せばいいのね?」
―ぞくっ
永琳の背筋を、なにか冷たいものがなぞる。
それはまるで、年端も行かない少女の腕を切断し凍らせた指先のような冷たいなにか。
同時に、いままでとは比較にならない量の、圧倒的な数の蝶が宙に湧いて出た。
隙間なく視界を埋め尽くす蝶、蝶、蝶蝶蝶蝶。
極彩に煌く存在するはずの無い無数の蝶が、びっちりとその空間に蠢いている。
永琳は、久しく感じておらず、もう二度と感じることがないであろうと思っていた感覚に襲われた。
殺される、という感覚。
魂を、殺すだと・・・?
本当にそんなことが可能だというのか?
いや、いまのこいつならやりかねない・・・!!
「さあ、そろそろ幕引きにしましょう。
『死して全て大団円』ということで。」
逃げ場などなかった。
あろうはずもない。
実際にはありえないほどの密度で空間を埋め尽くす蝶たち。
本物であれば、お互いの羽根が邪魔で飛ぶこともできないであろうほどに敷き詰められ、
それでもなお平然と漂う、蝶の擬態をした死の具現。
もはや壁といっても差し支えないその蝶の群れが、
永琳を中心にドーム状に覆いかぶさっており、
それが、徐々に中央に向けて収束し始めている。
終わりだ。完全な、詰み。
あと数十秒程度で、この殺し合いも決着する。
それに、永琳は小さく笑った。
ああ、まったく。この勝負は一から十までなにもかもが―――
「幽々子さまー? ただいま戻りましたよー!」
遠くで、少女の声が木霊する。
妖夢が戻ってきたのだ。
予想よりも、はるかに早い到着だった。
「残念。あの子に感謝しなさい。」
ぱちん、と幽々子が扇子を閉じる。
すると、周囲に蠢いていた無数の蝶が、まるで幻だったかのように瞬時に消滅した。
わずかに困ったような表情をする永琳を尻目に、
幽々子は勝負が始まってから初めてその場を歩いた。
妖夢が待っている。もう戻らなくては。
「ええ、本当に残念だったわね。
私の計算では、あと5分30秒は最低でもかかると思っていたのに。」
ぽつりと、本当に残念そうにこぼす永琳。
振り返りもせずに、幽々子は永琳に告げる。
「この勝負は引き分けでいいわ。」
引き分けでいい、という幽々子に、永琳は思わず苦笑する。
「ええ、そうね。引き分けということにしておいてあげる。」
その永琳の物言いに、幽々子は睨むような視線を後方に投げ、
―ひゅっ
びぃいん、と一本の矢が、幽々子の目と鼻の先を通過して足元に突き立った。
幽々子のさっきまで立っていた、奇妙に削れた地面の場所に。
「あと5分30秒は最低でもかかると計算していたのよ。
今日は快晴。小春日和。
となれば、庶民の味方の『神凪屋』には長蛇の列ができるでしょう?
データによれば、今日この時間帯には15~20人程度の列ができているはず。
その最後尾に並ぶとしたら、どんなに頑張ってもこんなに速くは帰ってこれないでしょうに。」
すらすらと言葉を並べる永琳を、幽々子は見ていない。
降ってきたその矢の一点に、全ての意識を集中していた。
「貴方はプライドが高いから、実力差を私に見せつけようとしたのね。
一歩もその場から動こうとしなかった。
まあ、私も貴方が動かなくても捌ける程度に、加減しながら攻撃していたのだけれど。
そのまま、あの時真上に放った矢が落ちてくるのを待てばそれで決まりだった。
貴方は一から十まで、全て私の計算通りに動いてくれたというのに、
まさか妖夢の方に計算を狂わされるなんてね。」
あと5分30秒、もし妖夢が遅れてきたとしたら、
果たして、いま立っているのはどちらだっただろうか。
「引き分けね。」
「ええ、引き分けで。」
空々しい笑みを交し合いながら、幽々子と永琳は屋敷へと戻っていった。
* * *
真っ暗な部屋。
一切の明かりもつけず、部屋の全てが泥のような闇に沈んでいる。
かすかな音もなく、わずかな光もなく、
そこには全てに忘れ去られたかのような空白が満たされていた。
そこへ、
「あっ、永琳。ちょっと出かけてくるから。
つか、明かりくらいつけたら?」
襖を開いた少女が、明かりを片手に闇の中へ声を投げた。
わずかな光が差し込んで、闇の中にぼうっと人影が写りこむ。
研究用の機材が詰まれたデスクに腰掛けているのは永琳だった。
「姫、お戻りはいつ頃?」
「うん、お夕飯までには戻ってくるわ。」
「いつものところですね。」
「ええ、いつものところ。」
姫、蓬莱山 輝夜はピクニックにでも出かけるような気軽さでそう答えた。
どこに行こうとしているのかは、聞かずともわかる。
輝夜や永琳と同じ蓬莱人、藤原 妹紅の元だろう。
そうして輝夜は、連日のように妹紅と殺し合いをしているのだ。
ピクニックにでも出かけるような気軽さで。
蓬莱人にとって一時の死など、その程度のものでしかない。
「・・・姫。」
「なに?」
奇妙な溜めのあと、永琳は輝夜に尋ねた。
「もしも、もしもの話ですが、
蓬莱人を完全に死に至らしめる方法があるとしたら、どうしますか?」
「んー?」
言葉の意図を測りかね、輝夜は首をかしげる。
かまわず、永琳は言葉を続けた。
「姫自身に使いますか? 藤原の娘に使いますか?」
それとも、私に使いますか?
その言葉は、かろうじて飲み込んだ。
後悔しているのではないか。不老不死になったことを。
悔いているのではないか。不老不死にしてしまったことを。
恨んでいるのではないか。不老不死にさせてしまった私のことを。
暗がりの中で、永琳の表情は窺えない。
だから、今永琳がなにを考えているのか、輝夜にはまるで伝わっていなかった。
輝夜はその問いかけについて深くは考えず、思ったことをそのまま答えた。
「や、別にいらないや。」
「いらない、ですか。」
「うん。あいつらと宴会してるのも楽しいし、もこたんと殺し合いしているのも楽しいから。
今はそれなりに楽しいよ。だから、いらない。」
意外な答えを聞いて、永琳は目を丸くして驚いた。
もちろん、そんな様子も輝夜には伝わらない。
「じゃ、行ってくるねー。」
永琳に向けて手を振りながら、輝夜は廊下を駆けていく。
その姿は、すぐに廊下の角に消えていった。
ふっ、と永琳は苦笑する。
いらない、か。
その答えはちょっと、意外だったなぁ。
いや、別に構わないんですけどね。
私もただ姫に習って暇潰しをしてみただけであって、
結果なんてどうであろうと、関係なかったんですから。
永琳は研究机の引き出しを開け、なにかを取り出した。
それは、手の中に納まる程度の小瓶。
その小瓶を透かして見るように目の前に掲げ、
そして、『廃棄』と書かれたボックスの中に、そっと置いた。
* * *
数日後、白玉楼に来客があった。
目の前で悠然とお茶をすするその姿に、幽々子の鋼鉄の微笑みがわずかに引き攣る。
「またいらっしゃったのね。今日はどのようなご用件かしら。」
「ええ。先日の大判焼が、とても美味しかったものですから。」
先日の大判焼とは、無論あの日に妖夢が購入してきた『3つ』の神凪屋の大判焼だ。
あの大判焼が大変お気に召したようで、永琳は再び手土産を持って参じたのである。
もちろん、今度は毒も薬も入っていない、ちゃんとした手土産を。
苦労の甲斐があった、と妖夢は一人喜んでいる。
幽々子と永琳の間に漂う、妙にギスギスした空気にまるで気付かない。
「あっ。幽々子様、お茶のおかわりお注ぎしますね。」
幽々子の湯飲みが空になっていたことに気付き、
妖夢は素早くその湯飲みを手に取る。
おかわりを注ごうと、視線を落とす妖夢。
その隙に、幽々子と永琳は内緒話をするように顔を寄せ合った。
(いっつか殺してあげる。)
(期待しないで待ってるわ。)
ことり、と湯気を立てる湯のみが幽々子の前に返されて、
「「うふふっ、うふふふふふふ。」」
二人は声を揃えて、背筋がむず痒くなるような気持ち悪い笑みを交し合っていた。
そんな二人の様子に妖夢は、
(あの二人、仲がいいんだなぁ・・・。)
やはり、まるで気付かない。
妖夢が居るときと居ないときの差が楽しかったです~
…もしかしてゆかりんは上空へ飛ばした矢でこのバトルの結果を読んで、妖夢に手助けをしたんでしょうかね?
だからこそバトルssならえーりんが幽々子様を狙う理由にもう一捻りあると
蓬莱人の暇潰しが必ずしもバトルでなきゃダメという訳ではないと思うので
「永夜異変で永遠亭に攻め込まれた意趣返し」とかえーりん自ら動く動機が欲しいなと
良かったです。
例「テラワロス。」って。をつけず、「テラワロス」ってかんじがいいのよ。
例えが悪い?ほっとけ
話自体は面白いから、余計にそういうのが気になっちゃうのよ
>また、商人は自らの売る盾を持ち、言った。この矛に貫けぬものなどないと。
後半の説明の部の「矛」と「盾」が入れ替わってますよ。
大団円のところがすごいよかったです
この後はゆかりんを交えて妖夢いびりですね。わかります。
妖怪の賢者って呼ばれるくらい頭いいし、スキマで二人の殺し合い見ててもおかしくないし