食事は醜い行為だと思わないだろうか?
欲望の塊ではないか。排泄が不浄の行為だとするならば、それに対する食事も醜い行為ではないか。
にも関わらず、食事が憚られる行為として捉えられていないのは実に不思議である。生きるために必要という点であれば排泄も変わりが無いのに。
それはおそらく、『取り入れる』と『排出する』の差であろう。
『取り入れる』というのは自己の血肉にするという点で、自己同一化に大きく貢献している。『排出する』は不必要になって捨てるのだから、生産的なことは何も無い。
そして『取り入れる』のはハイリスクハイリターンである。だから味覚でその選別を行い、自分に不必要であれば不味く、必要であれば美味に感じる。
だが、魔法使いである私には栄養素的な面では食事を必要としていない。にも関わらず食事を摂るのは、『取り入れる』という事に重点を置くからだ。
「つまり、外部のものを自己に取り入れるという形式が大事なのであって、味などはどうでもいいのよ」
「言い訳はそれだけか? アリス」
「むう……」
ここはアリス・マーガトロイド邸。つまり、私の家。
こざっぱりとした洋風の佇まいに、アンティークな内装。棚には様々な人形が並んでいる。外観は白塗りに青い屋根と涼しげだが、内部は暖色を基調として暖かな雰囲気を演出しており、主人、客人ともにくつろげる空間を作り出している。
だが、今の私の心境はくつろぐには程遠いものだった。
なぜこんなことになったのだろう。魔理沙が居るのはこの際置いとくとしても。
ことの顛末はこうだ────
◇
遡ること、半日。
昼、私は霊夢の家で昼食をご馳走になった。……思えばここから既に、非日常へ天秤が傾いていた気がしないでもない。
博麗神社は大抵財政難で、霊夢自身が欠食気味となる程なので、宴会でもない限り神社に行っても料理を出されることはまず無い。せいぜいお茶が出る程度である。
だが食料持参なら話は別だ。
そう、この時魔理沙の右手には種々の野菜、左手には米の入った麻袋が握られていたのだ。
仁王立ちになる魔理沙の前で、まるで祈るかのごとく手を組み合わせて跪く霊夢の構図は非常に滑稽で思わず苦笑する。博麗神社の奉じる神は魔理沙か。
そして霊夢が厨房に立っている間、魔理沙はまるで自分の家に居る様に……いや、魔理沙の家には足を伸ばすスペースなど殆ど無いから、自分の家以上にくつろいでいた。
「ちょっと魔理沙くつろぎ過ぎよ」
「客人にくつろいでもらうのがホストの役目だろ」
「ウチに押しかけて飯を要求するのは客人じゃないと思うけど」
「いやー、たまにゃ霊夢の飯が食いたくなってな」
「そんなこと言って、あんた自分で作るのが面倒なんでしょ」
「んなわけないぜー」
居間とお勝手で雑談を交わす。滅多に料理してるのを見ないのだが、霊夢は手際良く野菜を刻んでいた。
まあ宴会で高速に消費される料理やつまみを用意するのだから、手際が悪くてはこなせないだろう。
「お昼をたかる為だけにウチに来るとも思えないけどね。おおかた、家に篭ってて食料切らしたかキッチンふっ飛ばしたか」
「今日はキッチンは無事だぜ。煙突は二つに増えたけどな」
「今朝の爆発はソレだったのね……。あんたよくそれでエプロンにススが付くくらいで済むわね」
「こいつの豪運は筋金入りだから」
「確かに、魔理沙なら家が吹っ飛んでもけろりとしてそうね」
「照れるぜ」
「「褒めてない」」
声が重なる。
事あるごとに何かを吹っ飛ばす魔理沙。研究もパワーとか言い出しかねない。
運も実力の内と言うから、確かに運が良いのは悪くないのだけれど、そんな運任せだといつか死ぬんじゃないだろうか。
「ま、食料持ってきてくれるんなら料理の手間くらい構わないけどね。アリス、あんたも食べてくでしょ?」
「え、私は別に……。食べなくても平気だし、二人で食べれば」
「何言ってんの。食料提供者をほったらかして私達だけ食べるなんて非礼は出来ないわよ」
そう、魔理沙の手にしていた食材は元々私の家に有ったものだ。それを昼に突然魔理沙が訪れてかっぱらって行った。有り体に言えば、強奪された。
そうでなければこんな所に私はいない。
食に困っているのであれば、貴重品でもなし、提供するのもやぶさかではないのだが……。
「それにアリスの分、もう作っちゃったし」
「んー、そういう事ならいただくわ」
食欲は無い。が、元々魔法使いには食欲自体が無いから関係あるまい。
「おー、そうしろ。一応どの食材も三人分は持ってきたしな」
「あんた妙なところで気を使うわね」
「おいおい、一応アリスに配慮してだな」
「食材を強奪していくこと自体に配慮は無いのかしら」
「断りでも入れろってか?」
「そう、せめて一言……」
せめて一言欲しい、というのは魔理沙相手には贅沢な要求か。
「でも、イエスでも取る、ノーでも盗るってんなら言うだけ無駄だろう」
「…………」
確かに、それも一理ある。
どうせ盗られるのなら許可を出すほうも面倒だ。
それもそうかしら、と思いかけた所で霊夢が口を挟む。
「そういう問題じゃないでしょうが。そんな不実な事やってるとまた閻魔にどやされるわよ。あんたはどうしてそう短絡的というか、実利しか見てないというか」
不実、か。儀式や形式を重んじる巫女らしい発言だ。もっとも、彼女自身がとても型にはまっているとは言い難いが。
「魔理沙が無頓着すぎるのよ。もっと誠実にしたら紅い館の本だってすんなり読めるでしょうに」
私も盗みには反対だが、それは不実かどうかよりも、リスクや社会的不利、将来的なリターンの減少といった効率面や利益面の意識の方が強い。
魔法使いにそんな道徳は通用しないのだ。
「はい、出来たわよ」
霊夢が茶碗を盆に載せて出てくる。
純和食。私は洋食を好んで摂っているが、別に和食が食べられないわけでは無い。箸だってきちんと使える。
「おお、美味いな」
「そうね」
「どうも」
魔理沙が来たのが昼過ぎだったから手早く仕上げてあるらしいが、シンプルながら素材を引き立てている。
そして私たちは穏やかに平和に昼食を終えた。
ここまではただの平凡な食事会だったのだ。
だがここでもやはり魔理沙が引き金になった。
「そういえば、アリスの料理って食べたこと無いな」
「言われてみればそうね」
「出したこと無いもの」
出したことは無い。むしろ、出さないように立ち回っていた。
「アリスは器用だから色々作れそうだよな」
「そこらの料理人より手際良いかもしれないわね」
「そんなこと無いわよ」
器用さを褒めてくれるのは悪い気はしないのだが、果たしてそれが料理と何の関係があろうか。むしろ不安である。
「一度食べてみたいなあ」
「そうね」
「…………」
少し雲行きが怪しくなってきた。努めて平静を装う。
だが魔理沙はそんな事はお構い無しだ。気遣いなど期待するだけ無駄。
「じゃあ今夜作ってもらおうぜ」
「は?」
予想通りの展開。だが、私は返事に疑問符をつけずには居られなかった。
「こ、今夜? あんた昼も夜も人の世話になるつもり?」
「あー? 別に良いだろ。一度に数人分作ったほうが安上がりで手間だって少なくて済むし」
「だからって急すぎるでしょ!」
「細かいことは気にするなよ」
細かいことかどうかはともかく、これ以上言っても無駄そうだ。
ならば別方向。来たくなくなればいい。
「私、和食作れないわよ」
「確かに和食派だが、別に和食しか食べられないわけじゃないぜ? 嫌いなわけでもないしな。だから好きに作ってくれ」
ハズしたか。
なら出来ないことをアピールするのはどうだろう。
「食材が無いわ」
「全部盗った訳じゃないし、まだいくらか残ってただろ」
「足りなければ、帰りに里で買ってくれば良いんじゃない? 魔理沙の金で」
「おいおい。ま、盗った分ぐらいの出費ならしても良いぜ」
なんでこんな時だけ殊勝なことを言うのだ。いや、常識で言えば払うのが当然なのだが。
いつもは対価を支払う事など無いくせに。
「今研究中で家の中汚いし……」
「別にそんなの気にしないぜ」
「私が気にするのよ」
「じゃあ片付ければ良いじゃないか。さっき見たときはそれほど散らかってるように見えなかったしな」
そういえば、魔理沙はさっき家の中を見ているのだった。これでは大掛かりな研究で家が使えないとかもダメだ。
「準備とか下ごしらえだって出来ないし」
「お? そんな本格的なの作ってくれるのか。ありがたいな」
「う、そんなわけじゃないけど」
「まあ適当なので良いからさ」
だめだ。こんな墓穴を掘るような事を言ってどうする。もはや逃げ道は無いのか。
ちらりと霊夢の方を見る。
そこには珍しいくらいの笑顔の霊夢が居た。
「私も楽しみにしているわ」
さすがに、この状況となってしまっては強く反対も出来まい。魔理沙ぐらい無神経ならば断れもしようが、生憎私はそこまで無粋にはなりきれなかった。
「……わかったわ。あまり期待はしないでね」
割と切実に言ったのだが、この会話の流れでは社交辞令にしか聞こえないだろう。
社交辞令とかなくなってしまえば良いのに。この言葉を一体何人が考えた事があるかは知らないが、私もその一員になりそうだった。
結局帰りに人里で買い物をして、何を作るべきか色々考えていたら日が落ちてしまった。何を作ってもダメそうで、空に浮かぶ五日月が嗤う。いや、嘲笑っているのは自分か。
早く沈んでしまえばいいのに。そうすれば、こんな料理を作るのに憂鬱を感じずに済むかもしれない。
そしてその欠けた月が沈んだ頃、私の家に集まって夕食を摂った。
何を話したかなんて覚えていない。なんせ初めての経験だ。動揺と不安でそれどころではなかった。
やがて日も暮れ、霊夢が立ち上がる。ちなみに魔理沙はソファでやはり自分の家以上にくつろいでいる。
「美味しかったわ、また食べさせて。それじゃあ」
これぞ社交辞令のお手本だろう。わざとらしい笑顔の前にこちらも笑顔で返さざるを得ない。
玄関まで見送って、霊夢がドアを閉じた直後、魔理沙が背後から冷たく言い放った。
「アリスって、料理下手だったんだな」
◇
そういうわけで、本来ゆっくりとリラックスしているべき夕食後の団欒にこんな疲れる思いをしているわけだ。
挑発に乗らなければいいだけの筈なのだが、どうにも魔理沙に乗せられている気がする。
「アリスが料理出来ないとはなー」
「何よ」
何か言いたげな魔理沙。いつもは直球に言うのにこんな時だけもったいぶるな。
「お菓子とか上手いから料理もできるのかと思ってたぜ」
「乙女に甘味は必需品でしょ? これはもう定理じゃなくて定義よね」
「料理だって生きるのに必要だぜ」
「私は食べなくてもいいから料理は不必要」
「いやでも魔法使いになる前は必要だっただろ」
「料理にかける時間があるなら魔法の研究してたわ」
「ふーん」
「くっ……」
思えば、霊夢は私が料理できない事に気が付いていたに違いない。勘の良い巫女だ、『楽しみにしているわ』と言った時のあの笑顔は絶対分かっていた。
なんと意地が悪いことか、と邪推までしてしまう。
「もう! 苦手なものがあったって良いじゃないの」
「私は単に器用なアリスにしては意外だなーと思ってるだけだぜ?」
「器用さなんて関係ないじゃない」
「そうかぁ? しかしまあ、こんなパワー以外の所で勝てるなんてな」
くっくっ、と嫌らしく笑う魔理沙。屈辱だ。
だが言い返せない。料理がダメなのは自覚していたし、だからこそ避けていたのに。
私に出来るのは机に突っ伏すことぐらいだった。
「うー……。もうあんた帰りなさいよ」
「いやいや」
そう言って何かを考える仕草をする。なんだ、まだ何か私を辱める事でも考えているのか。
しばらくニヤニヤと考え事をして、魔理沙が思いついたように手を叩く。
「うん、そうだ!」
「今度は何」
「これからアリスを特訓する!」
「はぁ?」
突然何を言い出すのだ。
思わず素っ頓狂な声をあげてしまう。
「いやだから、料理の特訓」
「意味は分かるわよ。意図を分かりかねるって言ってんの」
「だからー、アリスに料理を上手くなってもらうんだよ。今日みたいなことがあったら困るだろ?」
「困らないわよ。もう二度と食べさせないって誓ったもの」
「いや、迷い人とか」
「いいじゃない、不味くても。野草で飢えを凌ぐよりマシでしょ」
「そんなに卑下するなよ……。言うほど不味くないって」
「フォローしなくて良いわよ。悲しくなるから」
自分だって料理が不味いのは十二分に分かっているのだ。そんな不毛なことを言われても悲しいだけである。
だいたい、さっきまでからかっていたのは誰だと思っているのか。
「だから特訓するんだぜ」
「……一応、内容を聞いておくわ」
「これから毎日夕食を作るんだ。毎日違う料理でな。出来は私が審査してやるぜ」
「お疲れ様でしたー」
「ちょ、ちょっと待てよ!」
帰れ、と言わんばかりに玄関を差す。ついでに帽子まで取ってきてあげたのだが、魔理沙は不服らしい。珍しくもこんなにサービス精神旺盛なのに。
「毎日? 違う料理? そんなの無駄じゃない」
「そうやって手間を惜しんでちゃ上手くならないぜ」
「いや、上手くなりたくもないし」
上手くなっても食べさせる機会がレアなのだから意味が無いと思う。
「そしてあんたは……食べに来る……だけ?」
「アリスの特訓なんだから私が手伝っても仕方ないだろ?」
「でも調理法とか……」
「悪いが、私も忙しいんでなぁ~」
どう見ても忙しそうには見えないが。単に面倒なことはしたくないということか。
総合的に話をまとめる。
「それって、あんたが毎日夕食をたかりに来るって解釈でいいのかしら」
「たかるとは心外だな。審査だぜ」
「具体的には」
「食べて美味いか不味いか判断する」
「総菜屋で試食してるのと変わりないじゃない」
「ちゃんとコメントもするぜ? 『味の宝石箱やー』ってな」
「……なにそれ?」
一体どこまで本気なのか分からない。いや、むしろこんな戯言に相手する自分が悪いのか。
気が付くともう日が変わっている。いくら魔法使いが夜型とはいえ、これから帰ればもう寝る時間だろう。
「はいはい。もう……あんた帰らないの?」
「泊めてくれよ。星空の天井ってのもオツだが、露天で寝るのはさすがに寒い」
「シャボン玉もいい加減にしたら?」
「シャボン玉?」
「ほら、歌があるじゃない。『屋根まで飛んで、壊れて消えた』って」
「……それは『まで』違いだ。壊れて消えるのは屋根じゃないぜ」
そうだったか。
先日聞いて、てっきりシャボン玉と屋根が並んで飛ぶシュールな童謡だと思っていたのに。
「でもあんたの家の屋根は壊れて消えたんでしょ。まだ修理してないの?」
「消えるまではいってないぞ。ちょっと済ませておきたい実験があったんで修理は後回しなんだ。ココに泊まるつもりだったし」
「私の家はホテルじゃないんだけど」
「そうだな。なんせタダだもんな」
「……ベッド禁止ね」
この時はただの冗談だと思っていた。
◇
静かになったリビングで紅茶をゆっくりと飲む。既に時間は深夜であり、明かりも暗めにして、陰影深く部屋を照らしている。
魔理沙はとうに寝室に行ってしまった。
「やっとリラックスできたわね」
やれやれ、と嘆息する。
まったく、なんて騒がしい人間だ。食事一つに一日を費やして激論をするなど、とても無駄に思えるのだが。おちおち研究も出来やしない。
「退屈はしないけどねぇ」
退屈もしないが、私はそれほど飽いているわけでもない。時間は有限なのだから飽いている暇など無い。それは命の長さなどとは無関係だ。何事にも時期というものがあるのだから。
永い時を生きて飽いた、という話を時々聞くが、それは若輩の私から見ても視野が狭すぎると言わざるを得ない。千年、万年程度で飽くことが出来るほど世界はつまらなくは無い。やりたい事もやるべき事も山ほどあるというのに。
もしも不死に恐れが有るとすれば、それは死の知識を『体験できない』という欲だけだ。
「魔法使いでもこうなのに、人間って随分とヒマなのね。それとも、人間だからこそ?」
やる事が沢山あるのだから、それらには優先順位をつけなければならない。私にとって、料理はその中でもかなり低い方。それは魔法使いになって食を必要としなくなるとさらに下がった。
だが、人間には食欲がある。だから食にこだわるのかもしれない。
「それでも夕食を毎日たかろうなんて強欲にも程があるわ。魔理沙はアレもコレもと手を出すし……。人間は欲が多すぎるのよね。いや……浅く広くかしら」
寝室のほうを見る。そこにはきっと魔理沙が寝ているはずだ。つまり睡眠欲に縛られている。
それに対して魔法使いの私には睡眠欲も無いから気楽なものだ。
「欲に縛られるのは醜いとされるはずなんだけど、それでいて必要とする。人間って不思議な生き物よね」
食欲、睡眠欲、性欲。生命活動と種の保存に必要な欲だと言うならば、これらは美しい行動だとされてもおかしくないはずなのだが、どれも適度に控えるように、風習によっては、ともすれば歓迎されないことすらある。
そして、多くの聖人は往々にして無欲である。空腹であっても飢えはせず、眠りながらも起き、性を感じさせない中性的な存在。そして人々は聖人を望む。
となれば、人は欲を嫌ったのだろうか。
「それなら魔法使いだって欲を捨ててるから聖人として崇められても良いわよねー。別に崇められたくは無いけど」
ふと見ればもうカップの中は空だ。もう魔理沙が寝てから二時間は経ったか。
十分夜を愉しんだし、とっくにいい時間だろう。
「私もそろそろ寝ようかしら」
カップを片付けて寝室へ入る。予想通り、魔理沙はベッドのど真ん中を占領していた。
「ベッド禁止って言ったのに」
とりあえず魔理沙をベッドから蹴落と……すのはさすがに可哀そうなので、ベッドの淵ギリギリまで蹴っておくにとどめた。寝返りを打って落ちても知らないけど、今すぐに落とされなかっただけ感謝してもらいたいものだ。
広くなった空間を今度は私が占領する。
「ぬくい……」
そういえば日本の話に、主人の靴をサルが懐で温めておいて誉められたとかそんな話があった気がする。でも、ぬくい靴って気持ち悪いんじゃなかろうか。
まあ靴ならば多少は温かくても気にはならないだろう。だが、ことベッドに関しては少し冷えた布団に身を通すのが気持ち良いのではないだろうか。少なくとも私はそうだ。ぬくいベッドなどありがたくもなんとも無い。
もっとも、魔理沙に家主のために温めておくなどという殊勝な心がけあるとは思えないが。むしろ嫌がらせか。
もしかするとあの提案も嫌がらせの一種なのかもしれない。
気が付けばカーテンの隙間から星空が見える。その瞬きを見て思い出すのは、夕方に見た月の嗤い。魔理沙はまたあんな憂鬱な思いをさせようというのだろうか。
その脳裏に浮かぶ欠けた月の形は、魔理沙の笑いと重なって……私はカーテンを閉じた。
◇
次の日、本当に魔理沙が来るとは思ってなかった。いやまあ、もしかすると来るかもとは一応思っていたのだけれど。
「よう、夕食をご馳走になりに来たぜ」
「え」
「今日はどんな料理なんだ?」
「無いわよ」
特訓は冗談でも、ご飯をたかりに来るのは本気かもしれない、と思ってはいた。だが飢えても無い奴にわざわざ食わせる事もあるまい。
それに、昨日夜遅くまであんな事を考えていたから、非常にやる気が起こらなかった。何が悲しくてあの嗤いを再現せねばならんのか。
当然、何も用意をしていない。
「は?」
「いや、作ってないし」
「あー? 昨日言ったじゃないか。夕食を食べに行くって」
「本気だったのね」
魔理沙の言うことは嘘か冗談か本気か分かりづらいから困る。
「私が嘘吐いたことあるか?」
「いつも嘘ばかりじゃない。大体、あんたに夕食たからせる義理も無いし」
「友人には義理なんか無くたって快く提供するもんだろ?」
「提供するばっかりで、提供された覚えがないけど。親しき仲にも礼儀ありって、大切な言葉よねー」
「じゃあおまえは私が飢えてもいいって言うのか」
「一食抜いたくらいで飢えやしないわよ」
そう言うと魔理沙は拗ねたように後ろを向いてしまった。そのまま棚に歩み寄り、飾ってあった人形を手にとって独り言を喋り出す。
「なぁー上海、アリスが酷いんだぜ。私がせっかく楽しみにして腹空かせてやってきたのに料理は無いとか言うんだ。お前に食わせる物など無いとか言うんだ。空きっ腹を抱えて帰って寝ろって、そう言うんだ。」
そんなことは言ってない。帰ってから自分で作って食べれば良いじゃないか。
「人間は食べないと生きていけないんだぜ。死んじまうんだぜ。なのにアリスは私が飢え死にしても構わないって言うんだ。なんて冷たいんだ。冷血なんだ。都会の人は冷たいって聞いてたが、これほどとは思わなかったなあ、上海」
そう言いつつ、人形にウンウンとうなずく動作までさせる。
なんだなんだ、私が悪いのか? え?
確かに約束は破ったが、どう考えたってオオカミ少年な魔理沙の方が悪かろう。
「大体客人が来たら料理とか振舞って、もてなすもんじゃないのか? 前に妖精が来たときも紅茶と菓子を振舞ったそうじゃないか。道に迷った人間にだってそれくらいはするんじゃないのか。なのにアポまで取った私がこの扱いなんて酷すぎるぜ。お前のご主人がこれほど非常識とは」
ヤレヤレと肩をすくめる魔理沙。
今度は非常識と来たか。ここまで言われたら引き下がるわけにはいくまい。
いや、魔理沙の戯言など聞き流しても良かったのだが、この調子だと明日も腹を空かせてやって来るに違いない。そして作らなかったらきっと、毎日この調子で文句を言われる。それは非常に鬱陶しい。
「ああもう、分かったわよ。明日から作っとくから」
「よろしい」
「何でそんな偉そうなのよ……」
「私は指導する側、お前は指導される側。どう考えたって私のほうが上だろ? アンダスタン?」
「あ、特訓も本気だったのね」
「どこまでお前は信じようとしないんだ」
「嘘ばっかり言ってるからでしょ! 文句言う前に、自分の信用の無さを恥じなさいよ」
「むぐ……」
大体夕食をご馳走になるんだからそれだけでも敬意をあらわすのが礼儀ってものだ。
この傍若無人っぷりも、息を吐くようにナチュラルに嘘を吐くのも、多少は改善してもらいたいものだが。
「でも本気で私に作らせる気? 魔理沙が作ったほうが、絶対私の料理より、舌も腹も栄養も満足なものが出来ると思うのだけど」
「あん? だからアリスの特訓だって言ってるじゃないか」
「特訓してもあまり意味がない気がするわ」
「味なんてどうでも良いとか言ってると困ることだってあるぜ? 味覚がバカだと毒とか舐めても分からんじゃないか」
料理が下手でもお菓子は作る。だからそれほど味覚に鈍いとは思っていないのだが、確かに一理あるかもしれない。
でもなんか後付けの理由にも聞こえる。毒物は一般に苦いが、苦くない物だってあるのだから過信はできないし。
「んなこたいいからさ、とりあえずこの腹の虫を鳴き止ませたいんだが」
はぐらかされた気もしないでもないが、きっと追及するだけ無駄だろう。きっと深い考え無く、こいつは思いつきで決めたに違いないから。
魔理沙は思いつきで行動して、しかも人を巻き込むから困る。『インスピレーションは水物だ』なんて言っているが、だったら思いついたことをメモして熟考してから行動してほしい。
とりあえずは目の前のこいつを黙らせよう。手早く作れる料理なんてろくに知らないが、何かあるだろう。
「うーん、パンぐらいならあるから、サンドイッチとか」
「ま、いいか。でも明日からは不可な。サンドイッチは夕食じゃないし。あと人形に作らせるなよ?」
「む……面倒ねぇ」
「ちゃんと自分の手で作らないと意味ないじゃないか」
人形にやらせれば片手間で済むのだけれど、いたしかたあるまい。私自身が料理が出来ないのだから、人形にやらせると生ゴミが増えるだけだろうし。
私って押しに弱いのか、それとも引きに弱いのか。結局、なんだかんだでやる羽目になってしまった。
まあこの程度の戯れ事、4、5日も経てば飽きるだろう。研究の片手間に、適当に軽いものを作っておこう。そんな風に考えた。
◇
「これは……食べ物なのか?」
魔理沙の言葉には疑問符が付いている。だがそれも、目の前に置かれた皿を見れば仕方の無いことだろう。
目の前には蠢くゲル状の物体。私自身の目から見ても、とても料理には見えない。
「一応、一昨日と同じように作ったつもりなんだけど……。魔法薬でも混じったかな」
「料理を作って魔生物を生み出すなんて、一体どこのテンプレどじっ子だ! 大体なんでそんな物が混入するんだよ」
「次からはビーカーはよく洗うことにするわ」
「ビーカーで料理をするな! おまえ製菓用の調理器具持ってるだろ……」
「肉とか入れたくないもの」
肉とか魚とか生臭い物はあまり扱いたくない。臭いが移ると嫌だから。
まあそれ以前に研究の傍ら、料理を作るのにわざわざ調理器具を取り出してくるのも片付けるのも面倒だったからビーカーで代用しただけなのだけれど。
それでも魔理沙だってビーカーでコーヒーを入れたりしているのだから、人のことは言えない気がする。それともあれはコーヒー用のビーカーなのだろうか? 魔理沙ならそんな奇怪な物を用意してもおかしくは無い。
「で、食べるの? 審査してくれるんでしょ?」
「う……」
正直、食べられる代物とは思えない。踊り食いなる料理もあるにはあるが、蠢く料理では普通食指も動くまい。
味の保障以前に、食べて無事に済むかどうかも怪しいし。
だから、いつもの冗談の仕返しのつもりで言ってみただけだった。
ところが────
「ああ、食べるさ! 食べてやるよ!」
「冗談よ。食べてお腹壊してでもしたら……って魔理沙!?」
意を決したように目を瞑って口に放り込む魔理沙。驚いたのはこっちのほうだ。
「むぐ……」
「た……食べなくていいのに! ああ、こ、このコップに吐き出して、あと、えっと、お水お水……」
想定外の事に思わず取り乱してしまう。大概の事には動じないように心構えしているつもりだが、魔理沙があんな料理という名の生物を本気で食べるとは思いもよらなかった。
「だ、大丈夫?」
「ああ。単に口に入れただけだからな。さすがに飲み込めないぜ」
「飲み込んで死にでもしたら夢見が悪くなるところよ……」
とりあえず後片付けをして魔生物の入った皿も下げ、料理は魔法で焼却しておいた。
魔理沙は何ともなさそうだ。ほっと胸を撫で下ろす。コレで死んだら毒殺なのか何なのか、とにかく世にも珍しい死に方なのは間違いないだろう。
「その無謀なところ何とかならないの?」
「一応、審査するって言った手前な」
「馬鹿。こんなの審査するまでもなく不合格じゃない。いつも嘘吐いてるくせに、こんな時だけ律儀にやらないでよ」
「はは」
軽く笑う魔理沙はいつも通りで、少し安心した。
笑顔で奇行をしているのを見ているほうが、違和感が無くて安心する、というのも随分と変な話だ。魔理沙が奇人変人の部類に入るのは疑いようも無い事だが、それに慣れてしまっている自分も改めてどうかと思う。
ふと、腕に何かの感触を感じて見てみれば、魔理沙が腕を舐めていた。
しばらく眺めてから思う。あまりに自然にやっていたから気がつかなかったが、これも割と奇行なんじゃないだろうか。
「何やってんのよ」
「ん? 口直し。何となくアリスの味が気になったんでな」
また思いつきか。だが驚くには値しない。そう、さっきの料理を食べるより、こんな事をやっているほうが『自然』に見える。その状況に苦笑せざるを得ない。
少しくすぐったいが、それ以上でも以下でもない。だから放っておく事にした。
「齧らないでよ?」
「お、それもいいな」
「よくない」
まあ冗談に決まっている。もし齧ったら今度は爆弾という名の料理を食べさせてやる。
しかしペロペロとよく舐めるものだ。少し気になって聞いてみる。
「美味しいの?」
「舐めてみるか?」
そう言って腕を上げる魔理沙。少しだけ興味がわいたので、一口だけ舐めてみた。
「……特に変わった味はしないけど。少し苦いかしら」
「へぇ」
「これが魔理沙の味だとすると、魔理沙は毒なのね」
「あぁ? お前味覚おかしいんじゃないか? 私が毒なわけないだろ」
「あんたは十分毒だから、私は正常ね。うん」
毒か薬か、といえば間違いなく毒だろう。とはいえ、毒と薬は紙一重らしいからどちらともいえないのかもしれない。とりあえずアクの強いことは確かだ。
「表面は苦いかもしれんが、きっと内側は甘いぜ」
「遠慮しておくわ。内側まで毒で死んじゃうかもしれないし」
そんな他愛も無いやり取りで、時間は過ぎていった。
結局この日、魔理沙には私の腕とスープぐらいしか味わわせてやれなかった。夜空を飛び去る姿に、多少心が痛む。
空きっ腹を抱えて寝る、なんてのはもちろん冗談だろうが、二回も約束を反故にした形になってしまった。しかも、割と本気で腹を空かせて楽しみにしていた様子だ。それを無下にしてしまった。
曲がりなりにもアリスが作ったのだから良い、と魔理沙は言っていたが、あんなものは料理じゃないからノーカウントだろう。
やっぱりまともに作っておけば良かったか、と後悔しても仕方がない。
「しかも食べようとまでするなんて……」
空に浮かぶのは上弦の月。去り際の魔理沙の様な笑い。とても満足のいく内容ではなかった筈なのに、なぜそうも笑っていられるのだろう。
『また明日な』
そう言った魔理沙の言葉が耳に残る。あんな酷い料理だったいうのに、また明日も来るつもりらしい。明日もあんな料理かもしれないというのに。
「これじゃ真面目にやらざるを得ないじゃない」
夜の帳から口を開いた笑いのような月に、私は嘆息しか返せなかった。
◇
それから一応、真面目に食べられるものを作るようにした。変なものを作って倒れられてはかなわない。毎日タダ飯を食わせるのは気に食わないが、乗りかかった船だ、やってやろうではないか。
だが、私の持っているレパートリーなどたいした物では無く……。
「なあ」
「何よ」
「これ、昨日と変わり無くないか?」
「違う料理よ。ほら、これは白菜、昨日はキャベツ。毎日変えろって言ったのはあんたでしょ」
一応、毎日違う料理を作れという指示に忠実に従っていたのだが、無難な料理だとあまり違いが出ない。レシピに無いようなものを作って食べられなくなっても困るし。
「でも味が変わらないように感じるんだが……」
「そうかしら? 気にしてなかったわ」
「気にしろよ……特訓の意味ないじゃないか」
そういえばそうだった。これは味の上達を図るものということを失念していた。
今まで味に無頓着だったし、魔法使いになる前もいつも代わり映えしない物を食べていたから、気にならなかったのだ。
だが手段と目的を取り違えてしまってはつまらない。これは反省しなければ。
「つか、どう考えても煮過ぎだろコレ。こんなに煮たらどんな野菜だって違いがなくなっちまうぜ」
「そうなの? レシピに沿ってはいるんだけど」
「お前の持ってるレシピって何なんだ?」
「魔界で最も一般的な奴よ」
一応、ここに来る際に一冊、どの家庭にもあるような物を持ってきてはいた。というよりも前の家にはそれしかなかった。
使う機会があるとは思ってなかったが、お守りみたいなものだ。結局役には立っていないようだが、お守りなんてそんなものだろう。
「コレ、こないだまで本棚の奥で埃かぶってるところ引っ張り出してきたんだから」
「ふーん……」
魔理沙がペラペラとページを捲り、中を確認する。
誰にでも出来るようなものしか載っていないため、そう珍しい料理はないはずだ。
大抵の料理は、食材を適当に切り、煮るか、焼くか、揚げるかして塩コショウを加えて終わりという簡素なものである。
魔理沙の手が最後のページで止まる。
「第114版……って初版どんだけ古いんだよ。魔界の料理事情は進歩ゼロか?」
「だって、家にはそれしか無かったんだもの」
そう。殆どの家庭はこの本しかない。その簡素なもので事足りているのだから、料理事情など推して知るべしだろう。
「レシピも古臭いし……仕方ない、料理本やるよ。和食洋食中華一そろいな」
「貸してくれるの?」
「いや、いっそのことプレゼントだ。返してもらう手間が無くていい」
「魔理沙がプレゼントなんて、明日はキノコでも降るんじゃないかしら」
「そしたら大喜びだな。魔法にも料理にも使えるじゃないか」
「私は魔法には使わないわよ」
食べる分にはかまわないが、よくまああんな不安定な物を使うものだ。
確かに菌類は単細胞の集まりで構造が単純だから、場の魔力の影響を受けやすい。だがその分構成が不安定になりやすく、私のように精密で頭脳派な魔法には向かないのだ。
ぶっ放すだけなら良いのかもしれないけれど。
「ま、いくつか『紅魔館』の印が押してあったりするけど気にするな」
「……そんな事だろうと思ったわ」
魔理沙から本を借りるとしばしば、どころかしょっちゅうこうだ。
そしていつも、読んだ後は私が紅魔館に返しに行くのである。
「私は運送屋じゃないわよ」
「そうだな。なんせタダだもんな」
「いつから私はあんたの便利屋になったのかしら?」
こめかみにビキビキと青筋を浮かべながら笑う。だが魔理沙は意に介した様子も無い。
「まあ私の本はやるからさ、その対価だと思ってくれ」
「はぁ。仕方ないわね」
「別に律儀に返さなくたっていいんだぜ?」
「ちゃんと返すわよ。あんたと違ってね」
とはいえ、デメリットばかりでもない。
確かに本を持っていく労力は面倒だけれど、何のお咎めも無くあの図書館に入れるし、キチンと返すことを印象付ければ借りる事だって、時には探してもらう事だって容易になる。
それに魔理沙が盗ってきた本に返却期限が有るわけでもない。図書館にいく用事があればついでにもって行けばいいだけである。
すると魔理沙が立ち上がるなり一言。
「じゃあ持ってくるか」
「え、いまから? 雨降ってるのに」
「『思い立ったが吉日』ってな。アリスも来いよ」
そう言って今しがたまで舐めていた腕を引っつかんで、そのまま引っ張っていく。
「ちょ、ちょっと! いくらなんでも無茶ってもんでしょ!」
「無茶を可能にするのが魔法使いだろ?」
「本が濡れたらどうすんのよ!」
「その為にアリスがいるんじゃないか。雨避けの魔法頼むぜ」
「せめて雨が止んでから……」
「そんなの待ってたら明日になっちまうぜ」
突然腕を掴まれて驚く私の抵抗の声も空しく、気がつけば連行されてしまっていた。
◇
ふう、と一息つきながら紅茶を飲む。テーブルの上には魔理沙が持ってきた本が山と積まれている。
「また沢山持ってきたものねぇ」
あれから善は急げと言わんばかりに、雨中猛スピードで飛ぶ魔理沙に連れられてわざわざ霧雨邸まで取りに行き、魔理沙が選別した物を二人で私の家に運び込んだのだ。
雨は防いだから濡れてはいないが、湿気は本の大敵だ。劣化は免れまい。
「借りた本なのに酷い扱いね。パチュリーも気の毒に」
見た感じ、明らかに料理と関係ない本も数多くあるから、まとめて返却させようという魂胆なのだろう。一度に返すには多すぎるけれど。
それだけでも十分に立腹なのだが、さらに悪いのはごちゃごちゃに置かれている事だ。せめて分別してから置いていって欲しかった。
私は魔理沙に言われた物を持ってきただけだから、私が持ってきた本もやはり混沌としている。結局、人足として使われたにすぎない。
「私は運送屋じゃないって言ったのに」
これではくれると言った料理本も分からない。明日はきっとこの本の山を仕分ける作業になってしまうだろう。どう考えても対価に見合わない。後で魔道具でもせしめようか。
ま、もしかすると魔理沙の魔法書も混じっているかもしれないから、有ったら貰っておこう。
「さしずめ、宝探しってところかしら? それにしても、玉石混交ね。ピンからキリまで色々」
表紙やタイトルを見るだけでも、そこそこ力を持った魔法書からゴミに近い本まで様々だ。
いくら魔理沙でも『本棚のソコからココまで』なんて持ってきかたはしないだろうから、タイトルとか中身を見て気になったものを片っ端からピックアップしているのだろう。
「本当、欲張りね」
ちなみに魔理沙は、さっきまで本を読んでいたかと思うと『疲れた』とか言って勝手に風呂に入り、寝てしまった。ここはホテルじゃないというのに。
本当に目まぐるしい。欲が多いと忙しいのだ。欲に振り回されないか心配である。いくら本を持ってきたって、読む時間に追われて研究が出来なければ本末転倒なのだから。
「だからこそ、必要の無い欲は切り捨てるのだけれど」
食欲、睡眠欲、性欲は人の三大欲求と言われる。だけれど、これらは生命活動に必要なだけで、知的活動には邪魔になるばっかりだ。
だから魔法使いはそのうちの二つまでも、ともすれば三つとも棄てる。すなわち、生に対する欲求を棄てるということ。
となれば、魔法使いになるならば死ね、ということか。死ぬことで俗世を絶つのも聖者と変わらない。肉を棄て、知だけの存在となる。それによって食事や睡眠に捉われずに思考する。解脱とはそういうことだ。
「生死をいとわず知を追い求める、か。私は実際に死にたくは無いけど……修行不足かしらね」
不死になる一番の近道は死ぬことである。それは不死とはすなわち死でもあるという事に他ならない。
蓬莱の薬を使い、不死になった娘を見た。魔理沙は生きていると言ったが、私には『ソレ』は死んでいるように見えた。
だが、肉体への拘りが無くなると、自分の境界が測りにくい。肉体と違って精神は移ろう物だから、いかに強固な意志をもってしても身体以上には保持はできない。
だからだろうか、自分の存在が随分と希薄になってしまった気がする。
「魔理沙ぐらい欲張りで傍若無人なら、悩むことも無いんでしょうね」
必要の無い食事や睡眠を未だに続けているのも、未だに未練を捨て切れていないということか。湿気た服も未練がましく雨を語る。
結局、自分は人間にも魔法使いにもなりきれない、中途半端な存在だ。そんなだから自分が希薄だなんて思ってしまう。
窓からは雨の音が聞こえてくる。見上げた曇天の向こうには満月があるはずだ。
ちょうどいい、と思う。欠けの無い月は私には似合わない。あの夜のような歪んだ月のほうがお似合いである。
足りないものだらけの自分は色々な物で補って、それでも接ぎだらけの月は歪んでしまったんだ。
◇
「ん……これ、味付けたか?」
「え、どれかな」
「このサーモンだよ。味が薄くて生臭いぞ」
「あ、ごめん。味付けるの忘れてたわ」
「忘れないでくれよ……。こっちのスープは……」
スープをスプーンですくって口を付け、顔をしかめる。
やはり何か問題があったのだろう。私も倣ってスープを飲んでみた。
魔理沙と同じように顔をしかめる。
「塩辛えなぁ」
「本当ね」
飲めない程ではないが、一気に飲んだら気持ち悪くなりそうだ。とても高血圧には薦められない。
「ちゃんとレシピ通りに作ったのかよ」
「レシピには適当とか少々とかしか書いてないんだもの。2人分なんて中途半端な量も分かんないし」
「確かにそうだが……味見ぐらいしてから出してくれ」
「ごめんね。まあ味付けはセルフサービスって事で」
サーモンに塩をかけて食べる。あまり美味くは無い。焦げてないだけマシといったレベルか。
スープも湯で薄めてみたが、味も薄くなってしまって味気ない。
調理途中にいろいろやらかした気がするし、こんな小手先の調整だけやってもダメみたいだ。
きっと破片を集めて欠けた月を丸くしても、満月にはならないのだろう。
「はは、行き当たりばったりだなぁ」
「オリジナリティがあって良いでしょう」
「確かに他では食えないがな。好んで食うやつも居ないだろうし」
むしろレストランでこんな料理が出てきたらクレームがつく。私だって自分が作ったのに残したいくらいだ。
魔理沙はタダ飯のせいか気を遣ってか、よほどの味じゃない限り平らげていくが、無理しないでもと思ってしまう。
『無理して食べなくて良い』と何度か言ったのだが、『無理だったらとっくに吐き捨ててるぜ』などと答える。それをしなかったのはどこのどいつだか分かっているのだろうか?
「とりあえず、オリジナリティってのは他の基本がキチンとできてからやるもんだぜ」
「あんたの口から言われると、何か腹立つわね」
「あー聞こえないぜ」
耳を塞ぐ仕草をする。それは聞こえないんじゃなくて聞きたくないだけだろう、とツッコミたくなるが、今ツッコんでもやっぱり聞こえないだろうから止めた。
◇
「基本かぁ」
たしかに、基本がなってなければ応用ができないのは理である。魔法にしたって体術にしたってそうだ。
しかし、それを考えるとなると一つの問題にぶつかるのだ。
「味の基本って、何?」
人間が味覚を何のために有しているかといえば、体内に摂り入れる際に毒かどうか、体により必要かどうかを識別するためだ。
だが味となるとさらに別である。人間は時に苦みですら美味と感じることがある。肉体的には間違いなく毒であっても、少量であればと望んで摂る。
その基になるものといえば、食欲だろう。
だが魔法使いに食欲は無い。であればこそ味に関して中々積極的になれない。
それは盲目の人に色を教えるが如く、知識として得られてもどこか実感の無いものになってしまう。
「記憶を掘り起こしても、なかなか上手くいかないものね」
感覚すらも知識にできるのはいつになるだろうか。肉体を精神で代用する。そんなことを夢想する。
三欲が肉体に属する欲ならば、精神に属する欲は知識欲だろうか。知識欲は、知性が知性であろうとする叫び。知は知自身を考え、定義する。
そして知は肉を嫌う。
精神と肉体が分離していると考えるならば、すぐにこういう発想が思い浮かぶ。
つまり、人形の身体を作り、精神が魔法の糸で操ればいいのではないかと。そうすれば貧弱な肉体など必要無く、もっと端的に言えば身体そのものが要らなくなるはずだ。
なのに現実にはそんなことは無い。妖怪や幽霊といえども、みんな姿を持っていた。逆に精神の無い肉体はしばしば見られる。つまり、精神は肉体に従属しているのだ。
だからこそ、知は肉を嫉んで叫ぶのだ。
「総てを知識に、か」
きっと、他の欲を醜く感じるのも、そういうことなのだろう。不死を恐れる要因の一つもあるかもしれない。
でも、肉体だって精神のなすがままだからお互い様で、きっと肉も知を嫉んでいる。
一つの体であるのに知と肉はまるで二つの物であるかのように扱われ、いがみ合うとは。
気がつけば下弦の月が輝いている。これも同じ一つの月であるのに、光と闇で真っ二つに分かれている。
さながら目に見える半分が肉体で、見えない陰が精神か。
魔法使いも聖人も、無欲なわけじゃない。他の欲を棄てて、知識欲に変換しただけだ。この欠けゆく月の様に。
「まあレシピは基本を記してあるだろうから、さしあたってはレシピ通り作ればいいかしら」
自分にはまだまだ欠落した部分がある。それは分かっている。
それが何だか分からなければ、比べてみればいいのだ。基本が分からなくても、多くの資料が何らかの基準を与えてくれる。
そうすればきっと、欠けた部分を知ることも出来るはずだ。
◇
「ふむ。味は良くなったな」
「どういたしまして」
皿を下げながら答える。とりあえずオーケーということだろうか。これで面倒事から離れられる。
だが魔理沙は言葉を続ける。
「だけど、もう少し彩りを考えた方がいいな」
「えぇ? まだ続けるの?」
期待は裏切られた。どうやらまだ特訓は続くようだ。
「おまえなぁ、これじゃ貧相にもほどがあるぜ」
「む……でも彩りとか考えてもお腹に入っちゃえば全部同じじゃない」
「いやいや、料理は目で愉しむ物という言葉もあってだな」
「なによそれ。料理は食べるものでしょ」
少なくとも食欲を満たすためだけならば、彩りなどは必要ない。だが魔理沙の講釈は続く。
「例えば一方は湯気を立ててジュージュー焼け、バターが蕩けて肉汁滴るステーキ。もう一方はビーフジャーキー。どっちを食べようと思う?」
「ビーフジャーキー」
「そこはステーキって言う所だろ! 空気読め!」
「だって食器も要らないし保存も利くし便利じゃない。そもそも私、肉あんまり好きじゃないし」
野菜に比べれば消化はいいのでエネルギーを摂るなら良いかもしれないが、肉が好きな少女はそうはいまい。これはどう考えても喩えが悪い。
魔理沙もそう思ったのか喩えを変えてきた。
「じゃあ一方はこんがり狐色のタルトに綺麗に彩られたマーブルチーズケーキを載せ、様々なベリーとジャムをあしらったハイデベルチーズケーキ。もう一方はクリームチーズとフルーツだけのクラッカーサンド。どっちがいい?」
「なによそれ。全然モノが違うじゃない。材料から違うし」
「どっちがいい?」
「これじゃあ見た目以前に味まで違うわよ。比較には不適切なんじゃ」
「どっちがいい?」
「……ケーキ」
プレッシャーに負けて答えてしまう。それは確かに甘味ならば美味しそうに飾ってあったり、綺麗にトッピングしてあったりはするが、これでは『はい』と『イエス』しかないアンケートのようだ。
しかもあからさまに私の好物のチーズケーキを指摘してくるあたりあざとい。
だが自分が満足のいく答えが得られたからだろう、それを聞いて魔理沙が大きく頷いた。
「だろ? 見た目がいいと印象も良いし、美味そうに見える。美味そうと思って食べるのと不味そうと思って食べるんじゃ味だって変わるだろ?」
「むみ……」
確かに、人の感覚というものは曖昧なものだ。気分や体調ですぐに変わる。
味を良くするには味覚以外も大事ということか。
「それに色とりどりの食材は栄養素だって異なるから、バランスよく摂れて体にいいんだぜ」
「それを先に言った方が説得力あったんじゃないかしら」
「普通の少女なら綺麗な方が美味しそうって言った方が受け入れやすいと思ったんだ!」
「生憎、普通の人間以外ですから」
◇
「ん~」
人形を作っていた手を止めて、大きく伸びをした。体が硬いわけでもないからポキポキ、なんて少女に似つかわしくない音なんて出さない。魔理沙なら出しそうだけど。
「まあ、良い出来かしら。なかなか可愛く出来たわ」
無論、自分が作る人形に不出来なものなど有ろうはずも無い。何処かにミスがあれば、そのままで完成させるようなことなどしないのだから、全て上出来。
ちなみに、可愛いだけでなく不恰好や奇怪な形状のものまで何かしらの意味があるのだから、可愛くないからといって不出来だと決め付けるのは早計である。
「彩りか……」
別に料理を飾ることに抵抗があるわけではない。
七色の人形師を名乗っている以上、飾ったり彩ったりということが不得手であるはずも無く、綺麗に見せる術だってそれなりに心得ている。音楽や絵画といった芸術活動も人形には関連が深いため、それなりに造詣が深い。
「でも、料理かぁ」
料理は芸術だと言う者がいる。それは単に見た目が華やかだとか自然を表現しているとかそんなものではない筈だ。それではただの美術にすぎない。
絵画でも音楽でも、私の人形だって単純に美しさだけを表したものではない。それに、見た目を飾るだけならば料理である必要もない。
では味の機微だろうか? だが、残念ながら人の味覚はそれほど敏感に出来ていない。目を瞑って料理を食べれば、食感や味、匂いにある程度の差はあるものの、絵画や音楽ほどの多彩な表現は難しい。鼻までつまんで臭いを消してしまえば、何を食べているかはあまり判別できないと聞く。
「うーん。感情に訴えるなら、聴覚が一番だし……」
耳の力は偉大だ。脳に近いせいか、感情を大きく左右できるし、物騒だが洗脳するなら『聞かせ続ける』というのが有効な方法である。
しかし料理での音なんて、グツグツ煮る音とかジュウジュウ焼ける音ぐらいのもので、とても芸術とは言い難い。
「なら、それらを併せるか……さらに別の何かか」
視覚、味覚、嗅覚、聴覚、触覚。五感を動員して感情を揺さぶる、というのもある。
だが料理が表現するものは別にあるに違いない。
きっと……料理の芸術とは料理自体ではなく、『料理を貪る人間』を表現するもの。
貪欲に取り入れ、食い散らかされる美はまさに欲そのものであり、人の本質、縮図とも言えよう。
快楽と引き換えに破壊されるもの。本人は快感の絶頂にあるが、他人から見れば吐き気を催すほどに汚らわしく、忌み嫌われたもの。
「対価に、何を失うのかしらね。忌み嫌うのは自身もなのに」
欲とはすべからく、代償を支払うものなのか。
そして得るものは、常に支払ったものよりも大きい。まるで零れた水が戻らないように。
得たと思った瞬間零れ落ちる。残るのはいつも、物足りなさと喪失感。
後から悔やみ、自分を恨んで、欲深さを呪ってもどうしようもなく、いずれ再び欲してしまう。まるで麻薬のように。
窓を見ても月は地平線の下で、見えはしない。見える頃には大きく欠けた晦日の月が現れるはずだ。
食べられてしまった満月。色を失ったのを悲しむべきか、新たに色付けられると喜ぶべきか。
白い月を彷彿とさせるような丸い皿を見ながら、どう飾ろうかと考えていた。
◇
飾るのはそれほど大変ではなかった。クッキーやケーキなどのお菓子類は前々から作っているのだ。
料理のトッピングに気を遣い、テーブルクロスや調度品を含めたテーブルセッティングなどは乙女の嗜み程度には出来る。
「うん。彩り鮮やかでトッピングも良いし、食卓も華やか。実にうまそうじゃないか」
「うまそう、だけで味が良くなるなら楽なんだけどね」
「何言ってんだ。ちゃんと味も大丈夫だぜ」
「そう」
正直、あまり上達した気がしないのは毎日食べているからだろうか。レパートリーも増えたし、味も安定してきて前みたいな酷い料理は無くなったが、美味いかといわれると首をかしげざるを得ない。
「じゃあ仕上げでもするか。アレンジとか加えてオリジナリティを出そう」
「オリジナリティは基本が出来てからって言われた気がするのだけれど」
「調味料の量とか火の加減とか覚えたみたいだし、これなら大丈夫だろ」
「そうかなあ」
「味見すりゃそんなそこまで変な味にはならないって」
そうだろうか? 途中で味見できないものも多いし、出来上がって初めて調和とか分かる気もするのだけれど。
「で、具体的にどうすればいいのかしら」
「それはおまえが考えるんだろ。オリジナリティなんだから」
「それはそうだけど……」
「まあ簡単なところなら、味付けを変えたり別の物入れたりとかだな。カレーにリンゴをすって入れたり、スープに醤油を垂らしたり。ハーブで風味付けとか」
「ふーん」
確かに、料理に差を与える基本は味付けだろう。味付けが有るのと無いのとでは大違いなのはこないだ実証してしまったし。
「でも、それほど変わるものなのかしら」
「ゼロのところに少しだけ加えると結構変わるもんだぜ? それに玉子焼きとかシンプルな物ほど違いが顕著に出るからな。料理人の腕をソレで測るほどだ」
「へぇ」
玉子焼きに限らず、スープなど基本的な料理で腕を見る話は聞いたことがある。基本ながらその人の味が良く出るということか。
「他にも具を変えたり増やしたりとかかな。おまえ、このブロッコリーの芯はどうした?」
「捨てたわよ。固いし」
「そういうのを切ってスープに入れたりするんだよ。それだけで具が一種増えるだろ? 和食ならスイカの皮をおひたしにしたりエビの殻を揚げてみたり」
「アレンジというより節約術に聞こえるんだけど」
「霊夢が良くやってる事だからなあ。でも何が使えるとか知ってればバリエーションも増やせるし」
メインには出来ないけど一品増やすにはいいのかもしれない。大体のものは揚げれば食べられると聞いたこともあるが……。
「色々あるのね。出来るかどうか怪しいけど」
「ま、創作料理までしろとは言わないぜ。こんな短期間だし、やり方を覚えるくらいだな」
◇
「ふぅ」
くぴり、と紅茶を一口飲む。魔理沙が帰った後こうして紅茶を嗜むのもすっかり日課になってしまった。
「仕上げって事は、この特訓も終わりがあったのねぇ」
終わりがないと困るが。永遠にタダ飯を食わせるなんてごめんだ。
しかし終わりとなると少し物寂しい気もする。自分ですらこの特訓の終わりを忘れかけていた事に自嘲せざるを得ない。
「ちゃんとゴールを用意してるなんて、意外だわ」
もちろん、生きている以上何らかの目的があってゴールが有るのは当然のこと。
何かの目的を成すために生きるのであって、生きるために成すのではない。手段と目的の逆転。それは実に恐ろしいことだ。
だけれど人間は生への欲求が強すぎて、生きるために日々を暮らす者も多い。
「でも魔理沙なら、意外でもないかしら」
生に捉われていたら、あんな無茶や無謀なんかしない。好奇心に忠実には生きられない。
自分はどうだろうか? ふと考える。
自分は魔法使いだから、生に捉われてはいない。それでも。
『無茶を可能にするのが魔法使いだろ?』
以前言われたその言葉が、ずっと頭を離れない。
魔法使いは叶えたいことを叶える。その為の魔法だ。だから、自分の想いを叶えようとした。
叶えられないことも、困難なことも沢山有った。だけど、より強くなれば叶えられると思った。
より複雑な魔法、より強力な理論を組み、より大きな力を源とし、作り上げたシステムは膨大になっていく。叶えられる物事も、大きく、多くなっていく。
だけれど……最初の想いは何だったのだろうか?
その奔流の中で、叶えたかったはずの小さな願いは霞んで。
いつしか、力を得ることが目的になっていなかっただろうか?
そしてそれに縛られて、雨の中を飛ぶといった程度のことですら踏み出せなくなってしまっていた。
「魔理沙のほうが……よっぽど魔法使いだわ」
高い効率はたしかにより強い力を生む。が、求めるのは願いであって、効率を求めるのは副次的であるべきなのに。
手段と目的の入れ替わり。私もいつの間にか捉われていたのだろうか。
「…………ッ!」
ぐっと目を瞑り、頭を振る。
無用な考えを頭から振り払う。
魔法使いは、ネガティブに考えない。もちろんポジティブにも考えない。ただ冷静に、ひたむきに前に進むのだ。
私だって何もしなかったわけではないし、自分の想いも、力もそれなりに形に出来たはずだ。
壁に並ぶ人形が、それを物語る。
「そういえば、オリジナリティとか言ってたわね」
自分は常日頃言っているが、魔理沙の口から言われる日が来ようとは。
いや、魔理沙の論から言えば魔理沙のアレンジスペルもオリジナリティということか。
本のレシピは未完成なわけではない。著者が完成させた一つの形である。それに足し引きをして個性を作る。
99%の物に1%のアレンジ。積み上げられた積み木の上に屋根を置くが如く。
「は……そんなだから田舎魔法使いなのよ」
たしかにそれはオリジナリティかもしれないが、オリジナルではない。
オリジナルを作るのに一から十まで考える必要は無いだろう。しかしそれでも、一から九までの『構造』は知っておかなければならない。そうしなければ積み木の上に屋根が載せられるかどうかは分からない。
行き当たりばったりで載せてみるという手もある。だがそれでは魔理沙のように、屋根を吹き飛ばすなんて事態が頻発する。
構造を知れば、何がどれだけ載せられるかは自ずと分かるのだ。その上でなら、限界に挑戦するのもありだろう。
それがブレインってものだ。
「料理もブレインってね」
まだまだ作れる料理のレパートリーは少ないけれど、それでもいくらか思いつく。
一から九までを知れば、十の地点で派生がいくつも出てくる。一から八を使う事だって出来る。
いっそのこと、全部作ってしまおうか。とても現実的ではないが、魔法使いなのだから無茶だって出来る。
「料理を楽しむなんて、想像も出来なかったわ」
◇
「こりゃまた随分多いな」
「ちょっと作りすぎちゃって。まあ試しに種類作ってみただけだから、全部食べなくても良いわよ」
そう。ここ最近さまざまな料理を作っていたのだが、今日は違うバリエーションで同じ料理を作るのも面倒だったから、細かいアレンジは一度に小分けにやってみたのだ。
そうしたら、とても二人分の量ではなくなってしまった。
テーブルの上はさながらバイキング状態だ。
「しかしあれだな、他の奴に食わせるのがもったいないぜ」
「心配しなくてもあんた以外食べに来ないわよ」
「それもそうだな」
にししと笑う魔理沙。食いきれないだろうに何がそんなに嬉しいのか。
こいつは独占欲も強いのだ。悪く言えば意地汚い。身に余る欲は身を滅ぼすと言うが、そんなものは魔理沙の耳に念仏といった程度に過ぎないのだろう。
「あ、でもそれじゃあ特訓した意味が無いわね」
「あるぜ? 私の食生活が改善された」
「やっぱり意味が無いじゃない。魔理沙が自分で作った方が上等だもの」
「私の料理は早い安い不味いだぜ」
雑談をしながら取り皿を配る。とても全部は食べきれないからバイキング形式というか立食形式というか、自由に取ることにした。
さながらたった二人のパーティか。実際にやってみると狭いテーブルに毒々しいほどの色んな料理が並び、それが光量の足らないランプに照らされていて、字面ほど綺麗なものではない。
せめて明るくしたら綺麗に見えるだろうか。それともいっそ暗くして惑わせるか。照明のマジックは今後の課題だろう。
「でもこれだけあると目移りするな」
「適当に気に入ったのから食べれば良いじゃない。別に制限があるわけじゃないんだから」
「じゃあシェフのお勧めはどれだ?」
「そうねぇ。あっちのパスタとか上手くいったと思うけど……」
それから先は試食大会みたいなもの。コレは良いだのアレはいただけないだのやっていると、たった二人とはいえそれなりに楽しいものだ。
宴会のように酒やノリではなく、料理を愉しむなんてどれ程やっていなかったことか。
もしかすると……これが初めてかもしれない。たまにはこういうのも良い。
魔理沙に少しだけ感謝した。
◇
「うーん」
魔理沙が私の膝の上で唸っている。
「大丈夫? 無理に食べなくても良いって言ったのに」
そう、魔理沙は食べすぎで苦しくなり、横になっているのだ。欲張りにも程がある。
「無理してないぜ」
「じゃあこの有様はどう言い訳するのかしら」
「だってもったいないだろ」
「残して明日の朝とかに食べれば良いじゃない」
「できれば出来たてを食べたいじゃないか」
「だからって無理して食べなくても良いじゃない」
「無理してないぜ。気が付いたら食べ過ぎてたんだ」
それきり、無言の時が過ぎる。テーブルに置かれたランプが私たちの座っているソファを照らしている。
距離がある分、その光はずいぶんと暗く感じられるが、不便を感じるほどでもない。こうしてゆっくりと過ごすには適度だろう。
明るい満月のような光は、遠くから眺めるのが良い。近付き過ぎれば境界が際立ちすぎてしまう。境界が消えるのも怖いが、はっきり見せつけられるのも恐ろしい。それほどに自分は曖昧なのだから。
しばらくこの偽の黄昏を堪能しながら魔理沙の髪を撫でたあと、疑問だったことを訊いてみた。
「なんで、こんな特訓を?」
それは素朴で根本的な質問。
「迷惑だったか?」
「そりゃあね。今でこそ多少はマシだけど」
「そいつは良かった」
「それよりも気になるのは、あんたのメリットの事よ」
「あん?」
「確かにタダ飯ではあるけれど、最初はろくな食べ物じゃなかった。自分の舌に合うものが出来るなんて保障はどこにも無かったし、美味い物を食べるなら霊夢の所だって良かったはず。それに此処に毎日通うのだって時間がかかる上に、雨の日だってあった。普通に食べに行くだけなら自分のスケジュールまで縛らなくて良いのに、毎日作らせて毎日食べにきた。魔理沙にはメリットが少ないと思うのだけれど」
魔理沙なら思いつきというのも考えられたけれど、最初から珍しいくらい真面目だったし、すぐ飽きるかと思いきやこうしてひと月もやっている。
自分の研究時間を犠牲にしてまで私に付き合うのは、手間に見合わない。
魔理沙がしばらく考えをめぐらせて、口を開く。
「ま、半分は思いつきだ」
「やっぱり」
それはそうだろう。最初にこの計画を言ったときに、それほど念入りに考えたわけではなさそうだったし。世の中の多くの物事は思いつきだったりするし。赤い霧とか。
だがそれは半分だという。ならばもう半分は?
「もう半分は……あれだ、さっきも言ったろ? 食生活の改善だよ」
「はあ?」
「だっておまえ、何日も食べなかったり、そうかと思えば吐くまで食べたりしてただろ」
「…………」
「それに夕食とか言ってケーキの残りとかな」
「不健康だって言いたいの? でも私は魔法使いだし、問題ないわよ」
「それでもはたから見りゃ不健康は不健康だろ」
「む。だって……食事自体あまり好きじゃないもの。最初に言ったじゃない」
食事は醜い行為だと思わないだろうか?
咀嚼の音。飲み込む音。砕けた食物。口腔内を支配する感触。どうにも生理的に好きになれない。
それでも、魔法使いになる前は食べなければ死んでしまうから、食べなかったり、嫌悪感を忘れるぐらい夢中で食べたりしていた。
この食べ方は今でも変わっていない。今でも変わらず『人間と同じように』食事を摂っているし、御阿礼の子にもそう言った。一般的な食事かどうか知らないが、私はそれで生活していたのだから。
「そんなだから、胸が育たなかったんだろ」
「あ、あんただって似たようなもんでしょうが!」
「悪いが私はこれから育つんだ」
まだ勝ってないと言うのに、何故か勝ち誇った顔をする魔理沙。このまま同点かもしれないではないか。
「冗談は置いといて。ま、食事事情は私も同じだったわけだ」
「……不健康ね」
「そう。そして魔法使いと違って人間は不健康だと死んじまう。ところが一人だとなかなか改善できなくてな」
「へ? あんた結構料理できるでしょ? 私よりよっぽど上等な」
「いや、飯作るだけで腹いっぱいになって食べる気が失せるんだ」
その感覚は分からないでもない。総菜屋や食事処などに行くと食欲が無くなるのと似たようなものか。
「それで手伝いにも来なかったわけ?」
「まあそうだな」
結局はご飯を作るのが嫌だったから他人に作らせただけということか。
だがまだ疑問は残る。
「だったら霊夢にでも作らせれば良かったじゃない。食材さえ出せば大喜びで毎日作ってくれるわよ?」
「あー……」
魔理沙はしばし言いよどむ。が、またすぐに口を開いた。
「霊夢の料理はな。上手いんだよ」
「美味いならいいじゃない」
「いや美味いんじゃなくて上手いんだ。全てを和した様な料理。だから……」
「私達には合わない」
「と」
クスクスと二人で笑う。確かにたまに食べるには良いかもしれない。だが満月はたまに見るから美しいのだ。それにココには月に業雲の方が良いと思っているようなやつらしかいないのだから、これを笑わずしてなんとしよう。
「それに、アリスの料理なら食えると思ったんだ」
「なんで」
「なんとなくだぜ」
「ふーん」
それきり、魔理沙は向こうを向いてしまった。卓上のランプは暗く、魔理沙の表情は窺い知れないが、別に気にもならなかった。ゆっくりと過ごすのに顔色なぞ見る必要もあるまい。
またしばらくして口を開く。
「でも、夕食だけじゃ改善されたとはいえないんじゃないかしら」
「夕食しか食べないからいいんだよ」
「不健康ね」
「人のこと言えるのかよ」
まあ、三食全部料理するのはさすがに勘弁願いたい。手間がかかりすぎる。
朝昼は昨日の残りか、残らなければ食べなかったり軽くお菓子をつまんだりして。
夜は静かで、ペロペロと魔理沙が腕を舐める音だけが聞こえる。
「なにやってんの?」
「デザート」
舌が触れる感触に混じって時々齧られる感覚。が、やはり気にならなかった。
慣れとは恐ろしいものだ。知らず知らずの内に、色々なものに慣れていってしまう。
「それにしても、何がそんなに美味しいの」
「舐めてみれば分かるんじゃないか?」
「そうかしら」
伸ばしてきた魔理沙の腕を取り、舐めてみる。
やっぱり苦い。だがそれも慣れると次第に良いと感じてくる。ビールみたいなものだ。
苦いから毒は毒かもしれないけれど、甘美な毒。いつか毒されてしまうかもしれない。あるいは既に毒されたか。
もしかすると、魔理沙は舐めてはいけない麻薬だったのかも。
「でも……胡蝶夢丸よりは良い夢が見られるかもしれないわ」
きっとそれは実に騒がしくて大変な夢だろうけど。
しばらく舐めてから降ろすと、濡れた魔理沙の腕が光に煌めく。
ふと気がつけば、舌が腕をなぞる感触が止まっている。覗いてみれば魔理沙は腕を咥えたまま寝ていた。
「はあ。寝る瞬間まで咥えてるなんて……」
欲張り? ……それとも、あの蒐集癖は失うことへの恐怖だろうか?
得るということは同時に、別のものを失うことだから。
そういえば、と自分も蒐集家を名乗っている事を思い出し、苦笑する。
私も魔理沙と同じく、失うことを恐れているのだろう。
魔法使いになる代わりに、多くの物を失った。
感覚を失って知識を得る。もう私は『空腹』を忘れ、知識としている。その感覚はかつて自分が持っていた物の筈なのに、今では色あせてリアリティーを失っている。
いずれ自分自身の体験すら、他人の体験を見ている様になってしまうのではないかと思うと、空恐ろしくて体がすくむ。
だから未練がましくも未だに食事や睡眠を止められず……。
それらの失われた感覚の中で私は宙に浮かんでいるようで、その中で魔理沙の舐めた部分だけがとても熱い。それは私を繋ぎ止める鎖の様で安心する。
いつしか、魔理沙という枷を得て安堵している自分に驚く。だけれどそれも、今しばらくは悪くない。曖昧な自分にはまだ枷が必要なのだ。
魔理沙の口から離れた濡れた私の腕に、風が当たって肌寒い。
窓を人形の手を使って閉め、食卓の上のランプを別の人形に運ばせる。
「こんな所で寝かしてたら風邪引くわね」
寝ている魔理沙を魔法の糸で吊って運ぶ。なんせ手が塞がっているからこうするしかなかった。
魔理沙の口は腕から離れたが、手はいまだに掴んで放さないのだから。
「これじゃまるで手枷ね」
思わず笑いが零れた。
そのまま魔理沙をベッドに降ろし、自分もベッドに寝る。布団は人形に掛けさせた。さすがに魔法使いだ、手枷で縛られても不便は無い。
ふと窓を見れば沈みかけた三日月が見える。三日月? 魔法使いがこんなに早く寝るなんて、と苦笑する。魔理沙は徹夜でもしたのだろうか?
魔理沙を見れば同じく三日月の様な微笑。寝ているというのに何がそれほど嬉しいのだろう。
空の三日月と腕の中の三日月。二つの三日月に挟まれながら私は、カーテンを開けたまま目を閉じ────
私の特訓は終わった。
◇
あれから数日後。キッチンの前で。
「あ、作りすぎたわ」
何となく料理を作っていたら、思わず二人分作ってしまった。
なんど同じ過ちをしたことか。やはり慣れとは恐ろしい。
「まあ、また明日食べればいいか……」
皿に一人分を乗せ、テーブルにつく。
一人でいただきますを言ってから食事を口に運ぶ。
「ふーむ」
やはり、あまり上達した気がしないのは何故だろう。
一人になってからというもの、彩りとか飾り立てがおざなりになってしまっているからだろうか。
味気なく食事を摂っていると、唐突に爆発音が聞こえた。
「な、なに?」
家が僅かに揺れるほどの爆発と夜の闇を照らす閃光。それほど遠くない。
となるときっとあいつのシャボン玉だ。
ややあって、予想通りの顔が家のドアを勢い良く開ける。
「よう!」
「はあ……」
「人の顔を見るなりその反応は酷いぜ」
「で、どうして欲しいのよ」
どうせこいつが来るときは何かさせられるのが常だ。先に訊いておこう。
すると魔理沙が我が意を得たりとばかり意気揚々と話し出す。
まだやってあげるとは言ってないのだが。
「そうだな。まず一つ、宿を貸してくれ!」
「私の家はホテルじゃないんだけど」
「そうだな。なんせタダだもんな」
まあそんなとこだろうとは思った。
だが、『まず』ということは他にもあるということだ。
「次に、荷物をちょいと運んで欲しい。雨が降りそうなんでな」
「倉庫にでも避けておけばいいじゃない」
「今回は煙突なんてレベルじゃないからな」
「……私は運送屋でもないわよ」
「そうだな。なんせタダだもんな」
そういえば前回よりも大きな爆発だった。今度こそ屋根は壊れて消えてしまったのだろう。
それ程の事故でエプロンが煤けているだけで済んでいるのはすごいが。
きっと魔理沙の家は爆発が起きたら、屋根が吹き飛んで爆風を逃がす仕掛けになっているに違いない。
「あとは腹ごしらえだ! 腹が減っては戦は出来ぬ。美味いの頼むぜ」
「私が作るの?」
「その為の特訓じゃないか」
「私はシェフになったつもりは無いんだけど」
「そうだな。なんせタダだもんな」
タダ宿、タダ飯、タダ働き。
何でも屋をやっているのは私ではなく魔理沙のはずなのに、なぜこうも私が色々やっているのだろう?
「まあ、二人分作っちゃったからちょうどいいわ。それでいいでしょ?」
とりあえず、今のままでは彩りに乏しいので即席でトッピングを加える。特訓の意味がないと怒られては適わない。
まあ即席料理もある意味、特訓の成果かもしれない。
「準備いいな。さすが私専属シェフだ」
「シェフじゃないってば」
私の分も温め直して、あらためて食卓に並べ直す。
二人揃っていただきますを言い、口に運んだ。
「おお、ちゃんと美味いじゃないか。私の指導の賜物だな」
「あんたは殆ど何もしてないじゃない」
さっきまで食べていた料理。だが先ほど食べたときよりは味が良くなった気がする。
味付けは変わっていないはずなのに。
「いやいや、重要な仕事をしたじゃないか」
「なによ」
「一人で食べるよりは二人のほうが美味いんだ」
「そんなものかしら」
「そんなものだぜ」
ならばさしずめ、魔理沙は調味料といったところか。
あんな苦い調味料じゃあ、多くは入れられないわ、なんて思う。
しかしまあタダ飯の対価としては悪くない。タダ宿とタダ働きは未払いだけれど。
「あ、デザートも頼むぜ」
「タダ飯の上に追加注文までするか、あんたは」
魔理沙は強欲に私を振り回す。その時に生き生きとしているのは気のせいではないだろう。誰も彼も、欲で生きているのだから。
ふと、人形に欲を持たせてみようかと考える。そうしたら、欲に突き動かされて生を得るかもしれない。
「言っとくけど、用意なんてないわよ」
「目の前にあるじゃないか」
「また? どこがそんなに気に入ったのよ……」
「さあな。まあその前に荷物、頼むぜ」
「はいはい」
雨は今夜中にでも降りそうだ。早めに本とかは避難させといたほうがいいだろう。
だがちょっと待って欲しい。
「荷物をココに置くのはまあいいけど、もしかして住むつもり?」
「雨が止むまでくらい良いじゃないか。雨の中寝るのは星空より辛いぜ」
「これから梅雨だってのに」
まだしばらくは料理を提供しなければならないようだ。あきれたようにため息をつく。
が、私の心は裏腹に、それも悪くないと思っている。
悪びれた様子もなく笑う魔理沙。立ち込めた雲の隙間に光るのは欠けた月。
その二つの笑いに向かって、私は笑いを返したのだった。
おいらも二の腕は大好きですよw
次回作も楽しみにしてます
チョルパとか美味いから機会があればぜひ食べてみて下さい
日に日に上達していくアリスとそれを食べに来ていた魔理沙の
食生活の事実など読み応えも十分、飽きもこないで読めました。
魔理沙がアリスの腕を舐める行為ってちょっと可愛らしいですね。
アリスもなんだかんだ言いながら世話をしてるのも和みます。
面白かったですよ。
おまけに魔理沙のフェチっぽさも濃すぎずしつこすぎず、いい味のアクセントになってる、読みやすい文章のおかげで後味もまさにすっきり
文句なしの星☆み☆っ☆つ!
ほのぼのにテーマをうまくからめていて良いと思いました。
食欲が必要ないから~などの理由付けがしっかり描写されていて
違和感無く読むことができました。
確かに器用=料理が上手いとは限りませんね。お見事でした。
アリスが料理下手と言う理由付けやそれを使った話の進め方が上手かったです
魔法使いと人間の、その違いによって生まれる問題が潜んでいて、読んでてのめり込めました。
面白かったです!!
珍しいアリスを見せていただきました。
例えばギャグでもないのに霊夢貧乏ネタなんて使う必要性皆無だし
アリスが料理下手、とのアイディアは斬新だと思った。
すばらしい