「うーん、これは…。」
研究に行き詰まり、気晴らしのつもりで散歩していたアリスの目の前には見渡す限り、花が咲き乱れていた。
季節は冬、大地の表層から聞こえる生命の息吹はか細く、大気を冷気が覆い、静寂が横たわる。
アリスの頭の中で刹那、幻想郷に来て初めて冬を迎えた時のことが横切る。
気温がやたらめったら下がったと思ったら、空から見たこともない白い綿のような物体が降ってきた。
それが『雪』と呼ばれるものであり、水と同じ成分であるということを突き止めたときにはその雪があたり一面を覆い尽くし、彼女の生活の邪魔をした。
その他にも様々な、魔界にいた頃には想像もつかなかった現象が当時のアリスを戸惑わせた。
「あの時はひどい目にあったわ。でも…。」
今、アリスの眼前に広がる光景はこれまで彼女が積み上げてきた幻想郷の冬の常識を壊すのに十分な程のインパクトを持っていた。
南天、シクラメン、クリスマスローズ―アリスが見たことのない花もあるが、恐らくどれも冬に咲く花なのだろう―無数の花々が曇天の下、色鮮やかに咲いている光景を、少なくともアリスはこれまでの幻想郷の冬で見たことはない。
軽い気分転換のつもりだったがそうも言ってられない、アリスはそう思った。
「これは間違いなく異変ね。早速調査してみないと…。」
指で数えられる程度だが、これまでいくつかの異変に関わり、時には解決に携わった魔法使いの直観がそう告げていた。
異変は人間が解決するもの―幻想郷の少女たちの間で密に交わされている暗黙のルールは彼女も遵守している。
だがアリスの頭に思い浮かぶその人間というのがいまいち頼りにならない。
神社の巫女はまずやる気がない。
自分と同じく魔法の森に住む白黒は鈍感過ぎる。
吸血鬼の館のメイドはこの3人の中では最もマシなのだろうが、主人に関わりがない限り動くことはない。
更に言えば、この3人は皆自分勝手だ。
この3人に限らず、アリスが今まで出会ってきた人妖は皆そうだろう。
花見のために幻想郷中の春を奪った亡霊は自身の退屈しのぎで地震をひき起こそうとした天人、信仰のために第二の太陽とも言われる神の力を頭の中身がプティングの如くとろけた烏に授けた山の神…等々、挙げればキリがない。
(ほんと、田舎者は嫌よねぇ)
そんなことを考えながらアリスは花畑を精査する。
香りの少ないパンジーゼラニウムを摘み、色付きや葉の具合を見てみるが花そのものに異常はない。
「花に問題はないわね。この咲き方が原因…。誰かが花を無理矢理咲かせてる…?」
「無碍に詰むなんて可哀そう。その子は2日前に咲いたのよ。綺麗でしょ?」
アリスは声の方へ振り向いた。
そこには先ほど頭に浮かんでいた幻想郷の少女たちの中でも、とりわけ性質の悪い妖怪がいた。
風見幽香―かつて魔界にフラリとやってきて暴虐の限りを尽くした、魔界出身のアリスにとっては忘れようにも忘れがたい妖怪。
いつだったか、無数の花々が幻想郷中に無節操極まりなく咲いた異変で霊夢たちが会ったという話を聞いていたが、アリス自身は究極の魔法を携えて対決して以来会っていない。
「久しぶりね、元気だった?」
アリスに優しく微笑みかける性質の悪い妖怪。
「これ、貴方の仕業なの…?」
アリスの手から放られるパンジーを追っていた幽香の視線は、哀れな冬咲きの二色の花が地面に落ちた瞬間、放り出したブロンドの少女に向けられる。
「そうよ。花の芽吹かない季節なんて面白くないじゃない。だから―」
幽香が手を差し出し、指を広げる。
彼女の掌には深い藍色を示す花が優雅に咲いていた。
「ねぇ、綺麗でしょう?この子はビオラ、『誠実な愛』の言葉を持つわ。」
「誠実な愛、ねぇ。」
幽香の手にある小パンジーを、アリスは何の感慨もなく見る。
アリスは対応に困っていた。
目の前に異変の元凶がいるのだが、この妖怪の暴挙を一人で止めるのは少々骨が折れる。
(一度帰って霊夢なり魔理沙なり連れて来るべきかしら?)
アリスの緊張とは対照的に、幽香は静かに笑みを浮かべている。
「ところであなた…、どこかで会ったことあったかしら?」
「私のこと覚えてないの?」
アリスは呆気にとられた。
魔界で敗れた時のことを、アリスは今でも覚えている。
あの時の悔しさ、自分の力への失望というのはそれまで味わったことのないものだった。
一方で、その経験もあって今の自分を確立できたのも揺ぎ無い事実である。
しかし今アリスと対峙している、今のアリスのスタンスを形作った原因は、かつて負かした魔界人の少女を忘れていた。
アリスの心中は複雑だったが、これはチャンスでもあった。
このまま幽香が忘れていてくれれば、ひとまずこの場での戦いは避けられる。
異変の解決は態勢を整えてからでも遅くはない、アリスはそう考え、自分の額を平手で打つ。
「あちゃー、ごめんなさい、私の思い違いみたいだわ。私もあなたのような妖怪に会ったことないもの。初対面よ、しょ・た・い・め・ん。」
笑顔で初めて会ったことを強調するアリスを怪訝な顔で見つめる幽香。
ややあって幽香は再びほほ笑む。
「思い出したわ。あの時の魔法使いね。ずいぶんと大人びたわね。成長期?」
「思い出さなくても良かったのに。」
アリスの期待は崩れた。
だがまだチャンスはある。
要はこの場を何事もなく去ればいいのだ。
すばやく思考を切り替える。
「そうだ!私、大事な研究があるんだったわ。それじゃ。」
そう言って身を翻したアリスは奇妙な違和感を覚える。
無数の殺気が自分に向けられている。
良く見ると、足もとから広がる無数の花々が自分の方を向いている。
「懐かしいわ。あの時はとっても楽しかった。」
再び幽香の方を振り返るアリス。
「これも貴方の仕業かしら?」
「そんなことどうでもいいでしょう。せっかくだからしましょうよ。積もる話。」
「そんなものあるわけないわ。」
「じゃあ―」
幽香の右手にある日傘がアリスに向けられる。
「積もる弾幕でもいいわ。」
「それはごめんだわ。」
アリスは溜息をつく。
幻想郷の連中というのはどうしてこうも好戦的なのか。
「手に持ってるその本、あの時の魔道書でしょ?あの時よりももっと面白いものをみせてくれるんじゃなくて?」
「まぁ、ある意味では面白いとは思うわよ。ある意味では。」
そう言いつつ、アリスは左手の指を動かし、人形たちを操る準備を整えると同時にスペルカードの構成をすばやく組み立てる。
魔法の森に住む人形使いのモットーは『弾幕はブレイン』。
戦う前からスペルカードバトルは始まっているのだ。
「どうしてもヤる気?」
アリスの恫喝にも幽香は笑みを絶やさない。
「別にヤらなくてもいいわよ。でもヤらずにここから出ることができるかしら?」
周囲の花は自分に向いている。
(幽香は十中八九花を操る能力を持っている。たぶん花を使った攻撃もできるわね。となると…。)
自分が戦いを拒否した瞬間、周囲の花々が一斉に攻撃を仕掛けるのだろう。
そうなればスペルカードバトルのルールが適用されているとはいえ、ただではすまない。
アリスは再び溜息をつき、幽香を見据え構える。
「降りかかる火の粉は払わねばならないようね。」
「あら、あなたは上野というよりは大久保よ?」
「大久保は私の美学に反するわ。」
生よりも死のイメージが付きまとう冬にふさわしい冷たく、張りつめた空気。
二人の間に先程までとは明らかに違う空気が流れる。
冬の乾いた風に吹き、花びらが舞う。
「操符『乙女文楽』!」
「花符『幻想郷の開花』…!」
二人同時にスペルカードを宣言する。
次の瞬間、花妖怪の作った穏やかな花畑は弾幕の舞う戦場と化す。
アリスの操る人形が赤い光線を放ち、幽香が日向葵をかたどった魔力を散らす。
花々の儚い命のダンスは一層激しさを増す。
幽香は宙に浮き、魔法の花を雨とばかりに降らす。
花のつぶてはアリスの人形を次々に撃ち落とす。
「くっ…、呪符『ストロードールカミカゼ』!」
アリスが二枚目のスペルカードを宣言する。
その瞬間、黄金色の魔力を纏った人形達が幽香に向かって飛んでいく。
情勢は幽香に向いていた。
幽香は自らの攻撃は緩めることなく、アリスの繰り出す人形の戯れをじっくりと観察していた。
(人形…?ずいぶん面白いことしてくれるわね。…っ!)
人形が幽香の頬をかすめる。
「随分と余裕があるようね。」
アリスが幽花を見上げ、挑発する。
幽香の頬に赤い筋が刻まれ、そこから血が滴っていた。
「ええ。」
幽香が傷口を拭うと、その傷は霞のように消えていた。
「楽しませてもらっているわ。あなたは楽しんでる?」
「お陰様でね。」
幽香の傘がアリスに向けられる。
「でもまだよ。まだそれがあるでしょう?」
幽香の視線はアリスの右手に抱えられた究極の魔道書に注がれていた。
その様子を見たアリスは唇の右端を吊り上げる。
「使ってほしいなら、使わせてみなさいよ。」
「そのつもりよ。…幻想『花鳥風月、嘯風弄月』…!」
「咒詛『魔彩光の上海人形』!」
二人のスペルカードが再び同時に宣言され、戦いは熾烈を極める。
無数の花びらと人形が確実に相手の懐を狙い、二人はお互いにその攻撃を紙一重で避ける。
二人の弾幕はさながら、凍てついた冬の幻想郷に凛と咲く花のように美しく咲き誇る。
その美しい魔法の花も散り際が訪れようとしていた。
刹那訪れたアリスの隙、百戦錬磨の花妖怪はそれを見逃さなかった。
幽香の持つ日傘に膨大な量の魔力が集約されていく。
「これで終わりね。あれが見れないのは残念だけど…。」
アリスが気づいたときは既に遅く、幽香の日傘から魔理沙のマスタースパークに酷似した魔力の奔流が、哀れな犠牲者に向けて放たれていた。
爆音と閃光が過ぎ去った後、花畑はもはやその本質を語る姿にはなかった。
雪は溶け、岩盤が剥き出しになり、土埃と黒煙の混ざった煙幕が立ち昇っている。
幽香は下界を見下ろしていた。
もはやあの魔法使いは生きてはいまい。
(ちょっと熱くなりすぎたかしら?)
人形を使った弾幕は楽しく、受けていて心沸きたった。
そして何よりあの魔法…、幾千幾万の闘いの中で数えるほどの、背筋に冷たい物が走るような興奮を与えてくれたあの弾幕をもう一度見たかった。
幽香は自分の悪い癖を微かに憎んだ。
その時彼女の目に嬉しい誤算が映った。
幽香は確かにアリスを跡形もなく消すつもりで魔砲を放った。
事実花畑は荒野になり、辺り一帯の生命は死に絶えたが、彼女は生きていたのだ。
「あいたたたぁ…。」
衝撃で尻もちをついたアリスが涙目になりながら自らの下半身をさする。
彼女の周りには主との絆を断たれ、生気を失った優秀な僕たちが転がっていた。
アリスは上空の幽香に目をくれることなく、人形を拾い上げる。
「あぁ、ボロボロになっちゃったわ。服もまた作ってあげなくちゃいけないじゃない。」
人形を自らの目線まで持ち上げ、頭をなでる。
「ったくあのスパーク馬鹿、これじゃキノコ馬鹿と一緒じゃない。前と全然―」
「私をあの子と一緒にしないでくれる?」
しまった。
自分の迂闊さをアリスは恨んだ。
幽香は無表情で日傘の切っ先をアリスの後頭部に向けている。
眼は目の前で人形を愛でている少女に対する怒りに満ちていた。
アリスの頬に緊張を示す汗が伝う。
「もう勝負はついたでしょう?もういいでガフッ!」
勝負を収めようとしたアリスは、後頭部を幽香の突き付けていた日傘で思い切り小突かれ、頭から思い切り前方につんのめる。
「良くないわ…。なんなのあなた…。」
「何がよ…って、すっごい血ぃ出てるわね私…。」
再び涙目になった顔を上げ、後頭部をさすったアリスの手にはべったりと血がついている。
「なんで私との勝負より人形を大事にするのかしら…?なんであの魔法を使わないのかしら…?」
表情を変えず、しかし瞳に湛えた怒りは更に熱を上げて、幽香は倒れこんだアリスに近づく。
アリスの目線に合うようしゃがんだ幽香は顔をアリスに近づける。
アリスは思わず幽香から視線をそらす。
「もしかして私、なめられてるのかしら?答えなさい…。」
しばらく黙りこんだあと、アリスは静かに口を開く。
「出さないのよ、本気なんて。」
幽香のこめかみが微かに動く。
アリスは魔道書に視線を向ける。
「以前グリモワールを使って貴方達と戦ったとき、私は全力…いや、全力以上で戦ったわ。」
「そうよ、私はそんなあなたと戦いたいの。」
「でもあの後は悲惨なもんだったわ。神社でこきつかわれるわ、吊るし上げくらうわ、メイドにされるわ、ストーキングに逢うわ…そりゃあもうひどいもんだったわよ。」
「…」
そんなこともあったかしら?幽香は思考を過去に戻すが、そんな些細な顛末はどうでも良かったのであった。
「何より、そんな状況にあって何もできない自分が一番情けなかったわ。そりゃそうよね。全力以上で勝てない相手にどんなことしたって逆らえないんだもの。」
アリスは溜息をつく。
かつての自分を思い出し、呆れているようだ。
「それから考えたわ。全力で戦えば後がない。私は勝負に負けてもいいの。そりゃ勝つ方が嬉しいわよ。でも…。」
幽香は黙ってアリスの話を聞きいる。
「負けても生きてれば何かしらやり方が見えてくるわ。私はそれでいいのよ。最後に笑うのは私なんだから。」
それまで黙ってアリスの話を聞いていた幽香が静かに口を開く。
「言いたいことはそれだけ…?」
「ええ、そうよ。さ、煮るなり焼くなり好きになさいよ。」
そう言ってアリスは大きく息を吸う。
多少の拷問は甘んじて受けよう、覚悟を決め目を瞑る。
その瞬間顎に強い衝撃が走り、アリスは後ろに飛ぶ。
幸い今度は出血してない。
アリスは顎をさすりながらその衝撃の原因を見る。
幽香は笑顔だった。
どういうわけかわからないが、花妖怪は怒りの矛を収めているようだ。
しかし『煮るなり焼くなり』とは言ったものの、アッパーは予想がつかなかった。
「あの…、こういう目に見えるとこの攻撃はやめてくれる?もっとこう、狙うなら目に見えない部分をね…。」
哀れなアッパーの被害者の抗議を気にすることなく、幽香は笑顔を絶やさぬまま腰を上げ、アリスに背を向ける。
「今日は楽しかったわ。この次は…そうね、ゼ○ダの話でもしながらお茶でも飲みましょう。」
顔だけ自らの方を向け語る妖怪の考えを、アリスは読めないでいた。
正直なところ、人間にせよ妖怪にせよ、幻想郷で出会った連中の考えを理解できたことなどないのだが。
「ゼル○…?なにそれ、おいしブッ!」
幽香の放った謎の言葉の答えを聞こうとしたアリスの顔に、黄色い四角形の板がぶつけられる。
「勉強不足ね。一週間、時間を上げるわ。せめてハート3クリアくらいはしなさい。キーワードは『ロトここにねむる』よ。」
幽香の周りに花吹雪が舞う。
花吹雪が消えた後、幽香の姿はなかった。
アリスに残されたのは荒れ果てた花畑と壊れた人形、そして黄色い板きれだった。
「なんなのよ、もう…。」
立ち上がり、スカートの埃を払う。
兎にも角にも生き残った。
術は残されたのだ。
「何よこれ!?」
その夜、自宅で手入れを施していた人形―昼間の闘いでボロボロになった人形の一体に突然異変が起きた。
突然関節の隙間からツタが溢れ、毒々しい色の花を咲かせたのだ。
「シャ、シャンハーイ。」
人形は困ったように手足をばたつかせる。
その様子を見てアリスは溜息をつく。
「ハァー、何がしたいのよあいつは。さっぱりわからない…ん?」
人形から生えたツタの一本に手紙が絡まっていた。
アリスはその手紙を取り、書かれている文を目で追う。
『親愛なるアリスへ
今日は本当に楽しかったわ。
いずれあなたの本気を見せてもらうからその時はよろしく。
それまで精々ご慈愛なさい。
追伸
やっぱりあなたは上野より大久保よ。
卑怯で臆病なところなんかもうそっくり。
風見 幽香より、愛を込めて』
「フンヌゥーッ!」
手紙を読み終えたアリスは手に持っていた手紙を力の限りに破る。
「誰が大久保よ!あんたなんか五反田じゃない、この力馬鹿!」
もはや手紙とは言えない紙屑を罵倒するアリス。
その時、ギィっと玄関の扉が開く音がする。
「よぉアリス、いつもの如く飯食わせてくれ。」
静かな夜の来客は呑気な普通の魔法使い、霧雨魔理沙だった。
アリスにとってはもう腐れ縁とも言える知り合いである。
本人の言う通り、いつもの如く夕飯を御馳走になりに来たのだ。
「あー?あんたに食べさせるご飯なんて無いわよ。」
怒りの収まらないアリスは突然の来訪者を邪険にする。
そんな態度にも魔理沙はペースを崩さない。
「こりゃまた随分荒れてるな。…ん?」
魔理沙の興味は怒れる人形使いからその後ろでもがく人形に向けられる。
その珍妙な姿に、白黒の魔法使いは思わず吹き出す。
「プッ、アハハッ。なんだよ上海。イメチェンか?」
「シャンハーイ…。」
「んなわけないでしょ。ろくでなしにやられたのよ。」
魔理沙が再び向けた視線の先には、頭に包帯を巻き、顎に絆創膏を貼った少女の姿があった。
「良く見るとお前もずいぶん思い切った格好だなー。」
「全くよ。今日はひどい目にあったわ。」
アリスは肩をすくめるポーズを取り、台所に向かう。
床では人形がまだツタに絡まれたままもがいている。
「おーい、いいのか?このままでも?」
「後で処置するわ。…あ、そうだ。」
アリスが魔理沙の方を振り向く。
「あの…、ツインファミコン…持ってる?」
劇終
研究に行き詰まり、気晴らしのつもりで散歩していたアリスの目の前には見渡す限り、花が咲き乱れていた。
季節は冬、大地の表層から聞こえる生命の息吹はか細く、大気を冷気が覆い、静寂が横たわる。
アリスの頭の中で刹那、幻想郷に来て初めて冬を迎えた時のことが横切る。
気温がやたらめったら下がったと思ったら、空から見たこともない白い綿のような物体が降ってきた。
それが『雪』と呼ばれるものであり、水と同じ成分であるということを突き止めたときにはその雪があたり一面を覆い尽くし、彼女の生活の邪魔をした。
その他にも様々な、魔界にいた頃には想像もつかなかった現象が当時のアリスを戸惑わせた。
「あの時はひどい目にあったわ。でも…。」
今、アリスの眼前に広がる光景はこれまで彼女が積み上げてきた幻想郷の冬の常識を壊すのに十分な程のインパクトを持っていた。
南天、シクラメン、クリスマスローズ―アリスが見たことのない花もあるが、恐らくどれも冬に咲く花なのだろう―無数の花々が曇天の下、色鮮やかに咲いている光景を、少なくともアリスはこれまでの幻想郷の冬で見たことはない。
軽い気分転換のつもりだったがそうも言ってられない、アリスはそう思った。
「これは間違いなく異変ね。早速調査してみないと…。」
指で数えられる程度だが、これまでいくつかの異変に関わり、時には解決に携わった魔法使いの直観がそう告げていた。
異変は人間が解決するもの―幻想郷の少女たちの間で密に交わされている暗黙のルールは彼女も遵守している。
だがアリスの頭に思い浮かぶその人間というのがいまいち頼りにならない。
神社の巫女はまずやる気がない。
自分と同じく魔法の森に住む白黒は鈍感過ぎる。
吸血鬼の館のメイドはこの3人の中では最もマシなのだろうが、主人に関わりがない限り動くことはない。
更に言えば、この3人は皆自分勝手だ。
この3人に限らず、アリスが今まで出会ってきた人妖は皆そうだろう。
花見のために幻想郷中の春を奪った亡霊は自身の退屈しのぎで地震をひき起こそうとした天人、信仰のために第二の太陽とも言われる神の力を頭の中身がプティングの如くとろけた烏に授けた山の神…等々、挙げればキリがない。
(ほんと、田舎者は嫌よねぇ)
そんなことを考えながらアリスは花畑を精査する。
香りの少ないパンジーゼラニウムを摘み、色付きや葉の具合を見てみるが花そのものに異常はない。
「花に問題はないわね。この咲き方が原因…。誰かが花を無理矢理咲かせてる…?」
「無碍に詰むなんて可哀そう。その子は2日前に咲いたのよ。綺麗でしょ?」
アリスは声の方へ振り向いた。
そこには先ほど頭に浮かんでいた幻想郷の少女たちの中でも、とりわけ性質の悪い妖怪がいた。
風見幽香―かつて魔界にフラリとやってきて暴虐の限りを尽くした、魔界出身のアリスにとっては忘れようにも忘れがたい妖怪。
いつだったか、無数の花々が幻想郷中に無節操極まりなく咲いた異変で霊夢たちが会ったという話を聞いていたが、アリス自身は究極の魔法を携えて対決して以来会っていない。
「久しぶりね、元気だった?」
アリスに優しく微笑みかける性質の悪い妖怪。
「これ、貴方の仕業なの…?」
アリスの手から放られるパンジーを追っていた幽香の視線は、哀れな冬咲きの二色の花が地面に落ちた瞬間、放り出したブロンドの少女に向けられる。
「そうよ。花の芽吹かない季節なんて面白くないじゃない。だから―」
幽香が手を差し出し、指を広げる。
彼女の掌には深い藍色を示す花が優雅に咲いていた。
「ねぇ、綺麗でしょう?この子はビオラ、『誠実な愛』の言葉を持つわ。」
「誠実な愛、ねぇ。」
幽香の手にある小パンジーを、アリスは何の感慨もなく見る。
アリスは対応に困っていた。
目の前に異変の元凶がいるのだが、この妖怪の暴挙を一人で止めるのは少々骨が折れる。
(一度帰って霊夢なり魔理沙なり連れて来るべきかしら?)
アリスの緊張とは対照的に、幽香は静かに笑みを浮かべている。
「ところであなた…、どこかで会ったことあったかしら?」
「私のこと覚えてないの?」
アリスは呆気にとられた。
魔界で敗れた時のことを、アリスは今でも覚えている。
あの時の悔しさ、自分の力への失望というのはそれまで味わったことのないものだった。
一方で、その経験もあって今の自分を確立できたのも揺ぎ無い事実である。
しかし今アリスと対峙している、今のアリスのスタンスを形作った原因は、かつて負かした魔界人の少女を忘れていた。
アリスの心中は複雑だったが、これはチャンスでもあった。
このまま幽香が忘れていてくれれば、ひとまずこの場での戦いは避けられる。
異変の解決は態勢を整えてからでも遅くはない、アリスはそう考え、自分の額を平手で打つ。
「あちゃー、ごめんなさい、私の思い違いみたいだわ。私もあなたのような妖怪に会ったことないもの。初対面よ、しょ・た・い・め・ん。」
笑顔で初めて会ったことを強調するアリスを怪訝な顔で見つめる幽香。
ややあって幽香は再びほほ笑む。
「思い出したわ。あの時の魔法使いね。ずいぶんと大人びたわね。成長期?」
「思い出さなくても良かったのに。」
アリスの期待は崩れた。
だがまだチャンスはある。
要はこの場を何事もなく去ればいいのだ。
すばやく思考を切り替える。
「そうだ!私、大事な研究があるんだったわ。それじゃ。」
そう言って身を翻したアリスは奇妙な違和感を覚える。
無数の殺気が自分に向けられている。
良く見ると、足もとから広がる無数の花々が自分の方を向いている。
「懐かしいわ。あの時はとっても楽しかった。」
再び幽香の方を振り返るアリス。
「これも貴方の仕業かしら?」
「そんなことどうでもいいでしょう。せっかくだからしましょうよ。積もる話。」
「そんなものあるわけないわ。」
「じゃあ―」
幽香の右手にある日傘がアリスに向けられる。
「積もる弾幕でもいいわ。」
「それはごめんだわ。」
アリスは溜息をつく。
幻想郷の連中というのはどうしてこうも好戦的なのか。
「手に持ってるその本、あの時の魔道書でしょ?あの時よりももっと面白いものをみせてくれるんじゃなくて?」
「まぁ、ある意味では面白いとは思うわよ。ある意味では。」
そう言いつつ、アリスは左手の指を動かし、人形たちを操る準備を整えると同時にスペルカードの構成をすばやく組み立てる。
魔法の森に住む人形使いのモットーは『弾幕はブレイン』。
戦う前からスペルカードバトルは始まっているのだ。
「どうしてもヤる気?」
アリスの恫喝にも幽香は笑みを絶やさない。
「別にヤらなくてもいいわよ。でもヤらずにここから出ることができるかしら?」
周囲の花は自分に向いている。
(幽香は十中八九花を操る能力を持っている。たぶん花を使った攻撃もできるわね。となると…。)
自分が戦いを拒否した瞬間、周囲の花々が一斉に攻撃を仕掛けるのだろう。
そうなればスペルカードバトルのルールが適用されているとはいえ、ただではすまない。
アリスは再び溜息をつき、幽香を見据え構える。
「降りかかる火の粉は払わねばならないようね。」
「あら、あなたは上野というよりは大久保よ?」
「大久保は私の美学に反するわ。」
生よりも死のイメージが付きまとう冬にふさわしい冷たく、張りつめた空気。
二人の間に先程までとは明らかに違う空気が流れる。
冬の乾いた風に吹き、花びらが舞う。
「操符『乙女文楽』!」
「花符『幻想郷の開花』…!」
二人同時にスペルカードを宣言する。
次の瞬間、花妖怪の作った穏やかな花畑は弾幕の舞う戦場と化す。
アリスの操る人形が赤い光線を放ち、幽香が日向葵をかたどった魔力を散らす。
花々の儚い命のダンスは一層激しさを増す。
幽香は宙に浮き、魔法の花を雨とばかりに降らす。
花のつぶてはアリスの人形を次々に撃ち落とす。
「くっ…、呪符『ストロードールカミカゼ』!」
アリスが二枚目のスペルカードを宣言する。
その瞬間、黄金色の魔力を纏った人形達が幽香に向かって飛んでいく。
情勢は幽香に向いていた。
幽香は自らの攻撃は緩めることなく、アリスの繰り出す人形の戯れをじっくりと観察していた。
(人形…?ずいぶん面白いことしてくれるわね。…っ!)
人形が幽香の頬をかすめる。
「随分と余裕があるようね。」
アリスが幽花を見上げ、挑発する。
幽香の頬に赤い筋が刻まれ、そこから血が滴っていた。
「ええ。」
幽香が傷口を拭うと、その傷は霞のように消えていた。
「楽しませてもらっているわ。あなたは楽しんでる?」
「お陰様でね。」
幽香の傘がアリスに向けられる。
「でもまだよ。まだそれがあるでしょう?」
幽香の視線はアリスの右手に抱えられた究極の魔道書に注がれていた。
その様子を見たアリスは唇の右端を吊り上げる。
「使ってほしいなら、使わせてみなさいよ。」
「そのつもりよ。…幻想『花鳥風月、嘯風弄月』…!」
「咒詛『魔彩光の上海人形』!」
二人のスペルカードが再び同時に宣言され、戦いは熾烈を極める。
無数の花びらと人形が確実に相手の懐を狙い、二人はお互いにその攻撃を紙一重で避ける。
二人の弾幕はさながら、凍てついた冬の幻想郷に凛と咲く花のように美しく咲き誇る。
その美しい魔法の花も散り際が訪れようとしていた。
刹那訪れたアリスの隙、百戦錬磨の花妖怪はそれを見逃さなかった。
幽香の持つ日傘に膨大な量の魔力が集約されていく。
「これで終わりね。あれが見れないのは残念だけど…。」
アリスが気づいたときは既に遅く、幽香の日傘から魔理沙のマスタースパークに酷似した魔力の奔流が、哀れな犠牲者に向けて放たれていた。
爆音と閃光が過ぎ去った後、花畑はもはやその本質を語る姿にはなかった。
雪は溶け、岩盤が剥き出しになり、土埃と黒煙の混ざった煙幕が立ち昇っている。
幽香は下界を見下ろしていた。
もはやあの魔法使いは生きてはいまい。
(ちょっと熱くなりすぎたかしら?)
人形を使った弾幕は楽しく、受けていて心沸きたった。
そして何よりあの魔法…、幾千幾万の闘いの中で数えるほどの、背筋に冷たい物が走るような興奮を与えてくれたあの弾幕をもう一度見たかった。
幽香は自分の悪い癖を微かに憎んだ。
その時彼女の目に嬉しい誤算が映った。
幽香は確かにアリスを跡形もなく消すつもりで魔砲を放った。
事実花畑は荒野になり、辺り一帯の生命は死に絶えたが、彼女は生きていたのだ。
「あいたたたぁ…。」
衝撃で尻もちをついたアリスが涙目になりながら自らの下半身をさする。
彼女の周りには主との絆を断たれ、生気を失った優秀な僕たちが転がっていた。
アリスは上空の幽香に目をくれることなく、人形を拾い上げる。
「あぁ、ボロボロになっちゃったわ。服もまた作ってあげなくちゃいけないじゃない。」
人形を自らの目線まで持ち上げ、頭をなでる。
「ったくあのスパーク馬鹿、これじゃキノコ馬鹿と一緒じゃない。前と全然―」
「私をあの子と一緒にしないでくれる?」
しまった。
自分の迂闊さをアリスは恨んだ。
幽香は無表情で日傘の切っ先をアリスの後頭部に向けている。
眼は目の前で人形を愛でている少女に対する怒りに満ちていた。
アリスの頬に緊張を示す汗が伝う。
「もう勝負はついたでしょう?もういいでガフッ!」
勝負を収めようとしたアリスは、後頭部を幽香の突き付けていた日傘で思い切り小突かれ、頭から思い切り前方につんのめる。
「良くないわ…。なんなのあなた…。」
「何がよ…って、すっごい血ぃ出てるわね私…。」
再び涙目になった顔を上げ、後頭部をさすったアリスの手にはべったりと血がついている。
「なんで私との勝負より人形を大事にするのかしら…?なんであの魔法を使わないのかしら…?」
表情を変えず、しかし瞳に湛えた怒りは更に熱を上げて、幽香は倒れこんだアリスに近づく。
アリスの目線に合うようしゃがんだ幽香は顔をアリスに近づける。
アリスは思わず幽香から視線をそらす。
「もしかして私、なめられてるのかしら?答えなさい…。」
しばらく黙りこんだあと、アリスは静かに口を開く。
「出さないのよ、本気なんて。」
幽香のこめかみが微かに動く。
アリスは魔道書に視線を向ける。
「以前グリモワールを使って貴方達と戦ったとき、私は全力…いや、全力以上で戦ったわ。」
「そうよ、私はそんなあなたと戦いたいの。」
「でもあの後は悲惨なもんだったわ。神社でこきつかわれるわ、吊るし上げくらうわ、メイドにされるわ、ストーキングに逢うわ…そりゃあもうひどいもんだったわよ。」
「…」
そんなこともあったかしら?幽香は思考を過去に戻すが、そんな些細な顛末はどうでも良かったのであった。
「何より、そんな状況にあって何もできない自分が一番情けなかったわ。そりゃそうよね。全力以上で勝てない相手にどんなことしたって逆らえないんだもの。」
アリスは溜息をつく。
かつての自分を思い出し、呆れているようだ。
「それから考えたわ。全力で戦えば後がない。私は勝負に負けてもいいの。そりゃ勝つ方が嬉しいわよ。でも…。」
幽香は黙ってアリスの話を聞きいる。
「負けても生きてれば何かしらやり方が見えてくるわ。私はそれでいいのよ。最後に笑うのは私なんだから。」
それまで黙ってアリスの話を聞いていた幽香が静かに口を開く。
「言いたいことはそれだけ…?」
「ええ、そうよ。さ、煮るなり焼くなり好きになさいよ。」
そう言ってアリスは大きく息を吸う。
多少の拷問は甘んじて受けよう、覚悟を決め目を瞑る。
その瞬間顎に強い衝撃が走り、アリスは後ろに飛ぶ。
幸い今度は出血してない。
アリスは顎をさすりながらその衝撃の原因を見る。
幽香は笑顔だった。
どういうわけかわからないが、花妖怪は怒りの矛を収めているようだ。
しかし『煮るなり焼くなり』とは言ったものの、アッパーは予想がつかなかった。
「あの…、こういう目に見えるとこの攻撃はやめてくれる?もっとこう、狙うなら目に見えない部分をね…。」
哀れなアッパーの被害者の抗議を気にすることなく、幽香は笑顔を絶やさぬまま腰を上げ、アリスに背を向ける。
「今日は楽しかったわ。この次は…そうね、ゼ○ダの話でもしながらお茶でも飲みましょう。」
顔だけ自らの方を向け語る妖怪の考えを、アリスは読めないでいた。
正直なところ、人間にせよ妖怪にせよ、幻想郷で出会った連中の考えを理解できたことなどないのだが。
「ゼル○…?なにそれ、おいしブッ!」
幽香の放った謎の言葉の答えを聞こうとしたアリスの顔に、黄色い四角形の板がぶつけられる。
「勉強不足ね。一週間、時間を上げるわ。せめてハート3クリアくらいはしなさい。キーワードは『ロトここにねむる』よ。」
幽香の周りに花吹雪が舞う。
花吹雪が消えた後、幽香の姿はなかった。
アリスに残されたのは荒れ果てた花畑と壊れた人形、そして黄色い板きれだった。
「なんなのよ、もう…。」
立ち上がり、スカートの埃を払う。
兎にも角にも生き残った。
術は残されたのだ。
「何よこれ!?」
その夜、自宅で手入れを施していた人形―昼間の闘いでボロボロになった人形の一体に突然異変が起きた。
突然関節の隙間からツタが溢れ、毒々しい色の花を咲かせたのだ。
「シャ、シャンハーイ。」
人形は困ったように手足をばたつかせる。
その様子を見てアリスは溜息をつく。
「ハァー、何がしたいのよあいつは。さっぱりわからない…ん?」
人形から生えたツタの一本に手紙が絡まっていた。
アリスはその手紙を取り、書かれている文を目で追う。
『親愛なるアリスへ
今日は本当に楽しかったわ。
いずれあなたの本気を見せてもらうからその時はよろしく。
それまで精々ご慈愛なさい。
追伸
やっぱりあなたは上野より大久保よ。
卑怯で臆病なところなんかもうそっくり。
風見 幽香より、愛を込めて』
「フンヌゥーッ!」
手紙を読み終えたアリスは手に持っていた手紙を力の限りに破る。
「誰が大久保よ!あんたなんか五反田じゃない、この力馬鹿!」
もはや手紙とは言えない紙屑を罵倒するアリス。
その時、ギィっと玄関の扉が開く音がする。
「よぉアリス、いつもの如く飯食わせてくれ。」
静かな夜の来客は呑気な普通の魔法使い、霧雨魔理沙だった。
アリスにとってはもう腐れ縁とも言える知り合いである。
本人の言う通り、いつもの如く夕飯を御馳走になりに来たのだ。
「あー?あんたに食べさせるご飯なんて無いわよ。」
怒りの収まらないアリスは突然の来訪者を邪険にする。
そんな態度にも魔理沙はペースを崩さない。
「こりゃまた随分荒れてるな。…ん?」
魔理沙の興味は怒れる人形使いからその後ろでもがく人形に向けられる。
その珍妙な姿に、白黒の魔法使いは思わず吹き出す。
「プッ、アハハッ。なんだよ上海。イメチェンか?」
「シャンハーイ…。」
「んなわけないでしょ。ろくでなしにやられたのよ。」
魔理沙が再び向けた視線の先には、頭に包帯を巻き、顎に絆創膏を貼った少女の姿があった。
「良く見るとお前もずいぶん思い切った格好だなー。」
「全くよ。今日はひどい目にあったわ。」
アリスは肩をすくめるポーズを取り、台所に向かう。
床では人形がまだツタに絡まれたままもがいている。
「おーい、いいのか?このままでも?」
「後で処置するわ。…あ、そうだ。」
アリスが魔理沙の方を振り向く。
「あの…、ツインファミコン…持ってる?」
劇終
でも、私もゼルダとかは必要ないと思います。
それが無くても十分に面白いお話になってますし、
加えたことで若干、損ねていると感じます。
ちょっとそういうネタで残念でしたけど、面白い話でした。
大体予想通りの酷さでした。