「はぁ、はぁ、はぁ」
燐は必死に逃げていた。普段付けている、さとりに貰ったリボンをしない珍しい状態で、必死になって逃げ回っていた。
場所は博麗神社の境内。誰から逃げているのかと云えば、ここの巫女の霊夢である。
「撒いた、かな?」
建物の陰に入るように身を潜ませては、周囲を窺い霊夢がいないことを確認する。
当てはない。だけど逃げないといけない。
このまま此処にいては、霊夢に何をされるか判らない。
大きく溜め息。
ここに来たのは間違いだったと、深く思う。一緒に来た橙は、今どこでどうしているやら。
「……妖怪が憎いのかね。あのお姉さんは」
ボソリと、建物の影からちらりと壁の向こうを覗きつつ呟く。
「憎い子に、こんな世話を焼くと思う?」
「ひっ!」
燐は跳び上がった。霊夢は、すぐ背後にいた。
「い、いつの間に!」
跳んで距離を置き、振り向かずに駆け出す。
「はぁ、どうしてそんなに逃げるのよ」
咄嗟に反応が遅れたが、それでもすぐに追いかけてくる。
駆け足では勝っている。だが、この神社という敷地を出られない以上、ジリ貧。あの巫女を倒せばそれなりにどうにかなるが、それは今のところ考慮に入れるだけの余裕と実力がない。
どうしてこうなったのか。思い出してみれば、ここに来て最初に出されたお茶が始まりだった。
「お茶に薬って時点で、逃げるには充分でしょう……」
先に飲んだ橙が酔っぱらったみたいに蠢きだし、不審に思った燐はお茶を飲まなかった。そこに霊夢が来たので、とりあえず寝た振りをしたところ、大事なリボンを解かれてしまった。それを不審に思っている間に、更に霊夢の手が服に伸びた。その途端に、燐は飛び起きてそのまま逃げ出したのである。
何をされそうだったのかは判らない。ただ、凄まじく嫌な予感がする。
「はぁ、はぁ。助けを呼ぶべきかな……でも、橙を置いていけないし、それにリボンも」
今は霊夢が自分を追っている。けれど、追えないほど逃げれば橙がどうなるか。
「悪い人じゃないって思ってたけど、思ってるけど……でも、何考えてるか判らない人だからなぁ。どうしよう」
今すぐにでもさとりや空を呼べれば話は変わる。橙の保護者の紫や藍でもいい。その辺りの誰かに会えたのなら。いや、もう誰だって構わない。助けを求めれば、霊夢をどうにかしてくれるはずだと思っていた。
若干常識に欠ける部分があるから、誰かが諭してくれれば暴走しない人。それが、猫が人間に向けている評価であった。
そんなことを考えながら外を回っているが、来客は今のところ見えない。
「普段は結構妖怪がうろうろしてるのに!」
口惜しそうに呟きながら駆け回る。そして、気配がないと見るやすぐさま跳び上がり、屋根の上に逃げた。
「はぁ、はぁ……ここなら」
それでも不安があり、油断なく周囲を眺めてみる。誰も見えない。
「はぁ。さて、どうやって橙を連れ出そうかな。抱えてたら、絶対に連れ出せないし」
色々焦りながら考える。だが、良い案が浮かばない。時間を掛ければ、霊夢は橙をどうにかしてしまうかもしれないと思うと、どうしても落ち着いていられなかった。
変なことはすまい。そう思いながらも、自分の服を脱がそうとした行動を思うと、ひやっとする。
「あぁ、もう! 良く判らないなぁ、もう!」
頭を抱えて小さく呻く。
はぁ、と息を吐いてから、再びきょろきょろと周囲を窺う。地上にも、屋根の上にも霊夢は見えない。
まだ見つかっていない。
そう思った直後、屋根の縁に手が掛かる。
「いっ!?」
のそりと霊夢が顔を出す。
「あ、いたわね」
「にゃー!?」
霊夢を飛び越え、地上に降りて脱兎。今の霊夢の行動が、燐にはホラーにしか感じられなかった。
「もう、なんで逃げるかなぁ。マッサージみたいなものでしょうに」
霊夢もまた、手を放して地上に降りて燐を追う。
燐はただ全速力で走り回った。ぐるぐるぐるぐると。猫の姿になればもっと速いのだが、恐怖で動転した頭にはそんなことさえ浮かんでこない。
「お、落ち着け! あたい、落ち着くのだ!」
息を切らしながら、ただ気の向くままに走り気を静める。深呼吸は出来ないが、それでも意識を戻すことは出来た。
だが、角を曲がろうとした瞬間、角から急に手が伸びた。
「ぎゃー!」
気配を絶っていた霊夢の手が伸びる。そして、それは燐の手を取り逃し、袖から服に入ると、その内に秘められた下着、ブラジャーに到達した。
「確保ね。諦めなさい」
「ひぐっ!」
怯えつつ、相手はただの人間だと言い聞かせる。全力で逃げれば、体力でなら勝てるのだと。
「ま、まだまだぁ!」
燐は自分の背中に手を回し、狙った箇所を的確に指で突く。
カチッ
「なっ!?」
霊夢の手にあった抵抗が、急速に失われていく。
燐は、自分のブラジャーのホックを押し外したのである。一度外れてしまえば、胸が薄いので楽々抜けた。
「あ、あたい泣いてないから!」
そんな捨て科白を残し、燐は颯爽と駆けていく。
するりと脱げたことを喜びつつも、やはりそれなりのダメージを負っていた。
「……なんてトカゲの尻尾切り。しかし、黒レースとは……さとり、甘やかし過ぎじゃない?」
霊夢は空を見上げて飼い主の顔を思い浮かべる。浮かんだ顔は、お茶目に笑顔で決めていた。
ちなみにさとりは、三枚千円の品なのだとか。
燐と霊夢の鬼ごっこは続く。隙を見ては橙のいる居間に飛び込もうとするが、目的を決めて走ると、途端に霊夢に先回りされてしまい上手くいかない。
「か、勘が良すぎるよ、あのお姉さんは!」
それでも、燐は挑んだ。自分は何度も危うくなったが、まだ捕まっていない。だから、自分より体力のない霊夢が疲労を重ねているとすれば、これ以後捕まる率はグンと下がると考えた。
こちとら常に猫車押して駆け抜ける女。駆け抜けた道の長さが違う。
「勝ち目、出てきたじゃん」
ニッと笑う。そして、またも居間を狙い駆ける。途端、霊夢が跳びだしてきた。張っていたわけではなく、偶然ここに来たのだ。
足音を聞いたわけでもなければ、この道を通るのを推測したわけでもない。単純に、こっちじゃないかと思って来たのである。
その出会うのが当然という行動と表情に、燐は戦慄する。が、退かない。
「往け、あたい!」
駆け抜ける。霊夢が駆けながら手を伸ばすが、燐は霊夢の手が届かない軌道を駆けている。
この直線を駆け抜ければ、掴まれずに居間に飛び込める。
「勝った!」
問題は居間に入って橙を拾った後なのだが、そのことを考える余裕はなかった。
「甘いわよ」
しかし、霊夢の表情には余裕があった。
「なっ!」
霊夢は何か棒のような、いや、縄のようなものを燐に向かい伸ばした。それはそれほど長いものではなかったが、燐と霊夢を繋ぐには丁度良い長さである。
まずい。そう思うが、全力で駆ける足は止まらない。
―――ええい、縄の端が触れたって!―――
引っかかりはしないのだ。そう思い駆け抜けようとする。すれ違う瞬間、縄のようなものは燐の襟に触れ、引っかかった。
「なっ!? でも、これし……えっ!?」
振り返り、驚き固まってしまう。
襟を掴んだものは、ただの縄ではなかった。先端に釣り針のような金具があり、それが襟に引っかかったのだ。それがなんなのかと振り返り、思わず燐は背筋が凍り付くのを感じた。
「あ、あたいのブラ!」
それは、先ほどの軽量化の際に排除した装甲の一部であった。
「さぁ、無理に逃げると、この下着かあんたの服が裂けるわよ」
「ひ、卑怯ですよ! お姉さん!」
燐の足は完全に止まる。距離は最大限離れているが、迂闊に動けば、霊夢の云うとおり、さとりに貰った衣服が駄目になる。そうなると、さとりが泣く。それだけは避けたかった。
燐は、自分と霊夢を結ぶ架け橋となったブラジャーを睨む。
『ねぇ、あんた。あんたを捨てたあたいを恨んでいるのかい……すまない、でもあたいは、捕まるわけにはっ!』
『そんなこたぁありやせん。ただ、あっしは姐さんと一緒にいたいんでさぁ。すみません、弱いあっしを叱ってくだせぇ』
『あんた……』
※燐は錯乱していた。
頭を振る。錯乱していることに気づいたので、意識を落ち着けようとしているのだ。
逃げるにしても、攻撃するにしても、相手の気を逸らさないといけない。
「お姉さん。教えてくれ。あたいや橙に、何する気なんだい?」
「何って、決まってるでしょ」
呆れた顔。次に何を云おうとしたのか、燐は咄嗟に理解してしまった。
意識と服を奪い、自分と橙にしようとすること。
「あんたらを」
「あぁ! さとり様!」
「え?」
バレバレのフェイクにしっかり引っかかる霊夢であった。
「今っ!」
「え? あっ!」
燐は自分の衣服の結びを解くと、両手を万歳してスライディングを決めた。
『姐さん! あっしを置いていくんですか!』
「すまない! それでも、あたいは生きなけりゃならない!」
『姐さん!』
「強く生きな!」
※まだちょっと錯乱していた。
「待ちなさい、燐!」
霊夢が静止を命じるが、当然聞く耳持たない。
落ち着いた頭は、このまま居間に飛び込むことが危険だと告げていた。だから、燐は廊下に沿って駆ける。それを霊夢は追うが、単純な追い駆けっこになれば霊夢に勝ち目はない。
「これで距離を置いて、橙を抱えて飛び出せば……服は今度取りに来れば……うぅ、風が寒い」
素肌に吹く風は、春とはいえ少々肌寒いものであった。
駆ける。片手で胸を押さえる余裕もなければそもそもそんな気もないので、大きく手を振り全力疾走で駆け抜ける。
「よし、ここを曲がれば!」
壁を蹴っての急カーブを決めて、居間への道を走る。勝手知ったる他人の神社。
と、廊下の途中の襖が開く。
「いっ!?」
残念なことに、部屋を突っ切るという発想が足りていなかった。最たる近道だというのに。
慌てて方向転換をしようとした燐の耳に、聞いたことのある、というかさっき聞いたばかりの声が響く。
『わんすもあちゃれーんじ!』
「え!?」
駆けていた燐の黒い下着に、再度自分の黒ブラジャーの金具が引っかかった。
『きゃっちゆあはーと!』
「それはショーツ!」
丁寧にツッコミを入れる。が、相手は無機物。無駄である。
「あんた誰と会話してるの?」
霊夢が心底呆れた顔を浮かべて駆け寄る。
「ええい、今更下着の一つ!」
そう言うと跳び上がり、絵で表現する場合には最後の砦とも云える最後の下着を、まるで打ち上げロケットが個体ロケットブースタを切り離す様に脱ぎ捨てる。
「これで、本当にあたいの勝ち!」
あとは駆け抜けるだけ。そう思うと、燐はニッと笑う。逃げ切れる率は3割くらいかもしれないが、道は拓いた。
そう思った。
「残念だけど、衣服を犠牲にしたことがあなたの敗因よ」
「え?」
全裸になって廊下に降り立とうとした瞬間。
「いらっしゃいませー」
足下に隙間が発生した。
「キャー!?」
「1/1お燐、没シュート」
霊夢が酷薄に告げると、その場からお燐の姿は消えた。
「ナイス紫」
「どういたしまして。ついでだしね」
こうして、神社に平穏が戻った。
「濡れたら式落ちるー!」
「嫌ぁ、嫌だぁ! お風呂嫌いー!」
「はいはい大人しくする。あんたたちの飼い主の依頼なんだから」
両手と両足を縛られて、風呂場で体を洗われる二匹。
なんということはない。霊夢は紫とさとりに、何があってもお風呂に入ろうとしない燐と橙をお風呂に入れてくれとお願いされていたのである。
何故頼まれたのが霊夢なのか。紫にしてみれば、藍が忙しくて、自分では面倒だから。さとりにしてみれば、自分やこいしには無理そうで、ちょうど良く燐が霊夢に懐いたからである。
なお、霊夢がすぐに燐を捕らえなかったのは、巧くすれば服を脱がせる手間が省けるかも知れないと途中で思ったからである。具体的には、ブラジャーをゲットした辺りからだ。
「お、お姉さん! お風呂以外だったら素直に喜んで云うこと聞くから! ご勘弁!」
「わーん! 私お風呂いらないよー!」
「騒いでると、目や口に水と石鹸が入るわよ」
「「にゃー!」」
色々大混乱であった。
そんなこんながありまして、ぴかぴかになった二匹の猫は、めそめそと泣き言と愚痴を漏らしつつ、霊夢の作ったゼリーを自棄食いしていましたとさ。
「うぅ、これはお姉さんに辱められたと云わざるを得ない」
「紫様も酷いです。気がついたら縛られてるしお風呂場だし。事前に云って欲しかった」
云ったら逃げる癖に。と、思ったが霊夢は口にはしなかった。
愚痴は云っているが、意外にも湯船や体を洗うことが気持ち好かったこともあり、お風呂に対する文句はあまり出てこない。
その内好きになってくれると楽なんだけどなぁ、と思う霊夢であった。
賑やかな日常が、今日もまた穏やかに過ぎていく。
湯気漂う人と妖怪が肩を寄せて、気怠げに言葉を交わす。
相も変わらず、幻想郷は穏やかであった。
>気がついたら縛られてるし
ようじょを しばるとは けしからん! ハァハァ
ほのぼらー。
でも、猫にとっては飼い主とはこんなものなのかも。妖怪猫にとっての人間もこんなものなのかも。
ホラーというよりはスリラー?
笑わせていただきました。
そうですよねぇ、二人とも猫ですし、
風呂が嫌いっていうこともありますよね。
駄々をこねる二人がとても可愛らしいですよねぇ。
そして多段式のように下着を脱ぐお燐や霊夢の
没シュートなども笑みを誘われました。
ドタバタしてましたけど、ほのぼのとしたお話で面白かったです。
新しい!!!!
とっても面白いお話でした
もっと、もっとだ
燐の戦々恐々とした心境が下着さんとの会話からよっく伝わって参りました。今度映像にして下さい。
加えてお空も風呂苦手そうですね。
しかし良いにゃんにゃんだwww
こんなほのぼらーなら大歓迎ですね。
おりんりんランドはじまるよー