「姫様姫様ー」
竹林に静かに佇む永遠亭。
廊下を歩いていた輝夜の元に、一匹の妖怪兎が駆け寄ってくる。
「あら、どうしたの因幡?」
肩で息をしながら見上げる兎の頭をよしよしと撫でながら輝夜は返事を返す。
撫でられた兎は気持ち良さそうに目を細めるが、用件を思い出したのかパチリと目を開き、疑問を投げかけてきた。
「永琳様の本当の名前って何て言うの?」
「……え?」
一体誰からその話を聞いたんだろうか。 恐らくは、月のイナバからだろう。 後でお仕置きしてやらなくちゃ。
だが、問題はその質問の中身だ。
永琳が月に居た頃に呼ばれていた名は、地上に住む者には発する事が出来ない言語である。
だから、もしこの因幡に伝えたとしても、その名を呼ぶ事は叶わないだろう。
しかし、自分を見上げる純真無垢なこの瞳を見ていると、断るのも気が引ける。
それになにより……ちょっと面白い事になりそうだった。
輝夜は努めていつも通りを振る舞い、普段から因幡達に向けているような優しい微笑みを浮かべながら兎の目線に座り込み、話し掛ける。
「いい? 永琳のほんっとうーの名前はね……?」
――
それから数時間後。
因幡達と広間で寛いでいた輝夜の元に、やや大きめの足音が迫ってくる。
音の調子を聞くに、どうやら件の人物は相当ご立腹のようだ。
廊下から聞こえてくる音は徐々に大きくなり、すぐ傍まで来ていた。
「――輝夜っ! 因幡達に何したの!?」
停止する勢いに身を任せ、良い音を奏でながら障子を滑り開けたのは、不機嫌な表情を顔に張り付けた永琳だった。
呆気に取られる兎達を尻目に、張りのある胸を更に大きく張りながら広間の中央に座り込む輝夜の元へと近づいて行く。
彼女の様子に思い当たる節でもあるのか、輝夜は微笑を浮かべながら永琳を仰いだ。
「あら、どうしたの永琳?」
「私が聞きたい事、分かってるわよね?」
「さあね。 言葉は口にしないと伝わらないわよ」
交わる視線、緊迫する空気。
兎達は怯えて部屋の隅や障子の裏へと隠れてしまうが、結果的には好奇心が優先したのだろう。 恐る恐る室内を覗き込んでいる。
無数の真っ赤な瞳とお餅耳に囲まれる中、永琳は輝夜を睨み続ける。 輝夜はそれに対し、沈黙を返している。
一向に口を開こうとしない輝夜に業を煮やした永琳は、自分が此処に来た理由を話し始めた。
「なんか兎達が急患で沢山運ばれてきてるんだけど、どういうことかしら?
運んできた兎に聞いても『舌を噛んだらしい』しか言わないし、状態を聞こうにも何言ってんだか分かんないし……」
腰に手を当て、溜め息を吐く永琳。
口に咥えた煎餅をもごもごする輝夜。
それを見た永琳は輝夜の口から煎餅を剥ぎ取ると、鼻先が触れる程の距離まで顔を近づけて話を続ける。
「で、どうもおかしいなって思ったのよ。 皆怪我してるのは同じ場所。 理由も同じ。
だから屋敷の中を見回って見たら、どこかで聞き覚えのある言葉を口にしようとしてるのよねえ、み・ん・な」
彼女の剣幕に視線を逸らす事もできず、輝夜は額から汗を一筋垂らしている。
数秒程にらめっこが続いた末、永琳は顔を離し、後ろに向き直った。
輝夜は顔を下げ、ほっと息を吐くが、不意に嫌な予感がして永琳の方を見上げる。
すると、目の前には先ほど背中を見せた筈の永琳が、笑顔の仮面を張り付けながら輝夜を見下ろしていた。 見計らったかの様なタイミング。
どうやら片足を軸に、ゆっくりと一回転したようだ。 退屈な事が嫌いな輝夜は、視線を逸らせばすぐに気を抜いてしまう。
互いの行動パターンを知り尽くした二人の挙動は、長年連れ添ってきた主従の信頼関係の大きさを窺わせるものだった。
「で、なんだけど!」
「は、はい!?」
細く絞った双眸とは似つかわしく無い怒気を孕んだ永琳の声に、思わず輝夜は居住まいを正す。
踏み鳴らされた畳の重い音に、兎達は蜘蛛の子を散らす様に逃げ去ってしまった。
「一体何処の誰かしら? 兎達に『私の名前』を教えたのは?」
「え、えへへ。 だって~」
笑いながら頭を掻く輝夜。
しかし諌める様な視線を送り続ける永琳に、流石にばつが悪くなったのか表情が固いものになる。
「だって良く考えたら、因幡達は貴方の本当の名前を知らないじゃない」
輝夜は永琳の目を見据えながら、そう告げた。
彼女の言葉に永琳は目を丸くさせ、立ち尽くしている。
暫しの間、空間を無言が支配する。
静寂を破ったのは、永琳だった。
睨めっこを続けていた視線を降ろす。
溜め息を浮かべながら兎達を一瞥すると輝夜の方へと向き直り、苦笑いと言った面持ちで輝夜へと視線を合わせる。
「別にそんなもの忘れてしまっても構わないわよ。 もう昔の事だし、どうでもいいし。
それに今の私には『永琳』という名前があるもの。 それで充分満足よ。」
永琳はそこまで言うと畳に座り込み、輝夜を正面に見据える。
彼女の返答に納得がいかないのか、輝夜は喉に小骨でも刺さったかの様な微妙な顔のまま、独り言の様に口を開く。
「それは分かってるんだけど、な~んか、ね……
じゃあ聞きたいんだけど、永琳は私の名前、覚えてる?」
「勿論よ。 蓬莱山輝夜。 忘れる訳無いじゃないの」
「そうじゃなくって」
要領を得ない返答。 恐らく、いや確実に分かっててのものだろう。 それが分からないほど浅い付き合いではない。
やや苛立った風に顔を近づける輝夜に、再び永琳は溜め息を吐く。
「……勿論、覚えてるわよ。 忘れる筈無いわ」
「じゃあ言って!」
輝夜は先程とは一転、笑顔で彼女に飛びつく。
勢いとは裏腹な軽い衝撃にも関わらず、永琳はここにきて初めて焦りの表情を浮かべる。
両手を挙げ、暫しの間しどろもどろと言った風に所在無い手を動かしている。
二人の様子を陰から見守る兎達は心の中で「頑張れ永琳様!」とエールを送り続けている。
そんな彼女等の願いが通じたのか、永琳は自分を落ち着かせる様に一度深呼吸をし、静かに瞼を下げた。
次に目を開いた時には、焦燥に上気していた顔はいつもの色彩を取り戻していた。
遊ばせていた手を確りと輝夜の背中に回し、彼女の耳元へと唇を寄せていく。
「―――― 」
言い終わり、突き放す様に体を遠ざける永琳。 顔は耳まで真っ赤に染まっていた。
輝夜はそんな彼女を満面の笑みで見詰め続ける。
「こ、これは……意外と恥ずかしいわね、今更なのに……」
「……ぷっ」
「へ?」
「あっははははははははは! 永琳ったら、その顔!
まるで蛸みたい! あはははははははははははは!」
「う、五月蝿いわねぇっ! いい加減にしないと今日の晩ご飯抜きよ!」
「あははははは……ご、ごめんなさい、で、でも、あんまり珍しいもんだからつい……
はぁーっ、面白かったぁ」
「全くもう……」
指を指して笑い続ける輝夜に、永琳は機嫌を損ねた様にぷいとそっぽを向いてしまう。
しかし、すぐに顔を戻す。 これがおふざけなのだと分かっているからだ。
案の定、視線を戻した永琳の顔を、輝夜は未だ笑顔のままに見据えている。
「まあ、今となっちゃどうでもいい事よね。 どうせあっちに帰るつもりなんて無いんだし」
輝夜の呟きに頷く永琳。
彼女の意思表示を確認した輝夜は一層笑顔を深めると、更に言葉を続けた。
「ま、でも一緒に住んでる人の本当の名前を知らないってのも何でしょう?」
「咎を刻んだ者は総じて名前を偽るものよ」
「ついでに産地も?」
「ええ、産地も。 地球産よ私たち」
「他所の人達は誰も気付かないものね」
「ええ、『そして誰も知らなくなった』よ」
そう言って永琳は戯けてみせる。
輝夜はそれを笑顔で眺め見ていたが、やや間を置いて付け加える様に言葉を放つ。
「だけど、家族は皆知ってなきゃいけないことよ?」
真剣味を帯びた輝夜の一言に、ぴたりと永琳の動きが止まる。
きょとんと言った表情で呆気に取られる永琳の姿に、周りの兎達は俄に騒ぎ始める。
永琳の表情を確認しようと兎達は押すな押すなの喧嘩へと発展しようとしていたその時。
「……ぷっ」
ぷっ?
空気の漏れる様な小さな音に、兎達は一斉に静まり返り、音の先を注視する。
そこにはお腹を抱えて大笑いをする永琳の姿があった。
「――はははははは!
流石、輝夜ね! 敵わないわ!
あっははははははははははは!」
堰を切ったかの様に大声で笑い続ける彼女の姿に、兎達は良く分からないながらも、きっと楽しい事があったんだろうと一緒になって笑い始める。
楽しげな雰囲気に包まれ、自然と輝夜も声を大にして笑い声をあげる。
まるで宴の席の様な楽しげな喧噪が聞こえる永遠亭。
きっと明日になればまた静かながらも騒がしい一日が続くだろう。
それこそ、その名の通りずっと変わらずに。
だけど、ちょっとだけ変わった事があるとすれば、皆が永琳の本当の名前を知ったことだろう。
誰も口には出せないけれど、しかし皆が知っている。
輝夜にはそれだけで充分だった。
「――はぁ、笑った笑った……
で、居るんでしょう? 出てきなさい、イナバ」
漸く笑いの治まった輝夜が部屋の角に向けて声を放つ。
それを契機に、何も無い筈の空間が突如歪み、一匹の兎が姿を現した。
鈴仙・優曇華院・イナバ。
恐らくはこの小さな騒動の発端である彼女は緊張しているのだろうか、真剣な面持ちで永琳と輝夜の二人を見据えている。
「……ほら、何か言いたい事があるんじゃないの」
輝夜の促しに鈴仙は口籠り、体をもじもじとさせている。
二三度口を開いては閉じる素振りを見せるが、やがて意を決した様にぽつりと、しかし皆に聞こえる様に口を開いた。
「……師匠の」
「永琳の、なあに?」
「師匠の事、もっと皆に知ってもらいたかったんです……」
そう言い終えると、再びしゅんと縮こまってしまう。
長い耳も小さな丸い尻尾も項垂れ、今にも怒られるんじゃないかと怯えているのが手に取る様に分かる。
普段は捕らえ所の無い態度だが、元来気の弱い兎だと言う事は兎達でも知っている。
「そうだったの……」
永琳は緩慢な動作で立ち上がり、俯く鈴仙へと近づいていく。
一歩、また一歩と永琳が進む度に、鈴仙の体の震えが大きくなっていく。
後もう一歩でも踏み出せば鈴仙の眼前に到達する。 そんな時だった。
「鈴仙様を叱らないで!」
二人の間に唐突に割って入る一つの陰。
永琳が見下ろすと、鈴仙を守る様に仁王立ちした幼い妖怪兎が、永琳の事をじっと見詰めていた。
それに端を発したのか、周りに居た兎達がわらわらと寄せ集まっていく。
気付くと、永琳の目の前には兎達がずらりと並び、一つの長城を築き上げていた。
良く見ればてゐの姿も交じっている。 いやに静かだと思えば、どうやら彼女も舌を噛んでいたらしい。
「鈴仙様は悪く無いんです! だって元はと言えば私たちが……」
兎達の口からは、鈴仙を庇う言葉が次々と突いて出る。
真摯な表情で、一生懸命に。
だが、兎達は少しずつ事の異様に気付く。
永琳は笑っているのだ。 いや、どちらかと言えば呆れ笑い、と言った方が正しいだろうか。
「全く、馬鹿ねえ……そんなこと分かってるわよ。
悪いのはそんな事を広めた何処ぞの姫様よ。 ほら、どいて」
永琳の言葉に、兎達は素直に道を空ける。
その先には顔を上げ、でも何処か不安げな表情を浮かべたままの鈴仙が居た。
輝夜と兎達は静かに事の成り行きを見守っている。
永琳はゆっくりと手を挙げ、鈴仙へと近づけていく。
その仕草に、鈴仙はびくりと肩を跳ね上げて眼を瞑った。
しかし、いつまで経っても予想していた衝撃はやって来ない。
目を瞑ったままの鈴仙の額に、冷たい手の感触が伝わる。
「……?」
額に一瞬、柔らかな温もりが伝わる。
何をされたのだろうかと眼を開けた鈴仙の視界に、自分から遠ざかっていく永琳の姿が飛び込んできた。
「え……?」
混乱から抜け出せない鈴仙は、額を抑えながら永琳の事を見詰め続けている。
狼狽する彼女の姿に苦笑する永琳は、再び鈴仙へと近づいていく。
そのまま優しく彼女を抱きしめると、安心させる様に背中を撫で摩りながら、耳元で小さく囁きを向けた。
「馬鹿ね……本当に鈴仙ったら、馬鹿なんだから……」
「……師匠」
「ね、名前で呼んで頂戴。
私の本当の名前を、貴女の口から聞きたいわ」
鈴仙の体を放した永琳は、彼女の瞳を見詰めながらそう告げる。
頬を赤く染めた鈴仙は勿論と元気良く答え、皆に聞こえる様に大きく口を開いて彼女の名前を口にした。
「――くぁwせdrftgyふじこlp;@:「」!!!!」
「なんで貴女が噛むのよぉ~」
その名前はwwwwww
最後のソレで笑ってしまいました。
お見事。
姫様の本名はディア○・ソ○ルっていうんd(ス・キ・マ。
そうねぇ、親はデコ助って言うし友人はあだ名で呼ぶし
・・・はっ!?そう言えばこの半年ぐらい実名で呼ばれて無いかも?!
どんな発想をしてるんだwwwwww
こうくるとは思いもしませんでしたよ