「カレーライスって知ってる?」
名前だけは知ってると答えた。
けれど見た事も食べた事もないと答えた。
お前は食べた事があるのか、美味しかったのか、問う。
「何年も前に一度食べたきりだけど、うん、美味しかったわ」
その後もおぼろげな記憶を頼りにカレーライスの思い出を語ってくれたが、
味わいや感想を伝える言葉よりも何よりも、楽しそうな霊夢の笑顔が眩しかった。
それがきっかけだったと彼女は思う。
◆
「入れてくれ」
「どちら様ですか」
天気のいいとある朝のひととき、紅魔館に小包を持った来訪者。
どうやら人間のようだが、見覚えのない相手だ。美鈴は警戒心を強めた。
特に親交のない人間に入れてくれてと言われて、はいどうぞでは門番など務まらない。
友好的な態度を取ってはいても、紅魔館の吸血鬼を倒し名を上げようとしている身の程知らずかもしれない。
そういう馬鹿を撃退するのも門番の仕事だ。
そんな美鈴の考えに気づいているのかいないのか、人間はマイペースそうな笑顔で言う。
「ちょっとメイド長に料理の相談がしたいだけだよ。一応、咲夜とは知り合いだし」
「知り合い程度の人間を通す理由はありません。せめて友人になってから出直してください」
「霊夢はどのポジションなんだ? 咲夜の友達?」
「だと思いますけど……って、それよりあなたは博麗霊夢とはどういう?」
「知り合い程度の関係」
「お名前は」
「妹紅。迷いの竹林の、藤原妹紅」
頭の中の幻想郷人名図鑑をペラペラとめくる美鈴だが、藤原妹紅なんて名前は載っていないし、
門を通していい人妖の名前はしっかり覚えている。
咲夜と霊夢の二人と真実知り合いなのだとしても、この際関係ない。
なぜならレミリアからもパチュリーからも咲夜からも、門を通していい相手として伝えられていないからだ。
迷いの竹林の、と名乗った事から永夜異変の時に知り合ったのだろうと推測できるが、
生憎と異変で知り合った人妖を招いて宴会する博麗神社とは勝手が違う。
しかも用事は料理の相談ときた。
パーフェクトメイドの咲夜に相談という事は、この人間が助言を請う方だろう。
わざわざ知り合い程度のために、メイド長を手間取らせる必要はない。
「お帰りください。ただでさえ魔理沙に連敗続きで門を破られてるのに……」
「そおか、お前を負かせば通っていいんだな?」
「え」
美鈴が自らの失言に気づいた時、妹紅はすでに戦闘態勢に入っていた。
「ようし、手っ取り早くスペルカード1枚でケリをつけてやる!」
「ちょ、いきなり!? だがここで引き下がっては紅魔館門番の名が廃ります、いざッ!」
弾幕勝負が不得手なため、スペルカードルール創設以来負け星の増えている美鈴だが、
妖怪として平均以上の実力は持っているし、連敗続きとはいえあの霧雨魔理沙といつも戦っているのだ。
こんなろくに名前も聞いた事のない人間にまで負けるつもりはない。
「フッ、門番如き一撃で空の彼方までふっ飛ばしてくれるわ。この鳳凰の羽ばたきによって!」
だが藤原妹紅はあの蓬莱山輝夜とで殺し合いをする程度の実力の持ち主。
それを知らなかった美鈴は、わずかばかりの油断をしていた。
「な、なにぃ!? この弾幕は……!」
妹紅の極めて高い実力に気づいた時はもう遅い、渾身の攻撃が炸裂する。
「鳳翼天翔ー!!」
朝である。太陽が照っている時間である。
故に、レミリア・スカーレットの部屋の窓は真っ赤なカーテンで閉ざされている。
しかし気まぐれからちょっと青空を見ようかなと思い、咲夜に窓のカーテンを開けさせた。
直射日光の当たらぬ位置から見える青空の中、紅魔館の素敵な門番、紅美鈴が垂直にふっ飛んでいた。
頂点に達した美鈴は、頭から垂直に地面に落ちて行く。
開けたばかりのカーテンを、咲夜は黙って閉めた。
レミリアも今見たものを忘れようとするように、テーブルにあった赤ワインをゴキュゴキュと飲む。
何で紅魔館の門番は"ああ"なのだろう。
決して弱いはずじゃないのに、なぜいつもいつも"ああ"なのだろう。
美鈴が弾幕勝負は苦手とはいえ、それでもそこいらの人妖を軽く蹴散らす実力はある。
だのに何故、いつもいつも"ああ"なのか!
グラスを空にしたレミリアは、ふと、門を破ったのが霊夢だったらいいなと思った。
最近は宴会がないから、一緒に飲む機会もないし、久々に弾幕勝負をするのも悪くない。
その後、夜空に浮かぶ紅い月を見ながらワインを飲めたら、多分楽しいはずだから。
でも霊夢じゃなさそうだな、とレミリアは溜め息をつく。さて、誰が来たのだろう?
紅魔館の廊下を歩く人間が一人。
真っ赤な絨毯の踏み心地を堪能しながら、飾ってある絵画や甲冑などに興味を示し、
あっちへフラフラこっちへフラフラそっちへフラフラどこへ行く気やら。
「えーと、メイド長はどこにいるのかなぁ」
あんまりフラフラして地下に迷い込んでフランフランにされては後始末が面倒と、
紅魔館の廊下に音もなく出現するメイド服の人間。
「呼びましたか?」
侵入者の正体を確かめるべく、時間を止めて参上するは瀟洒なメイド十六夜咲夜。
魔理沙以外の侵入者は珍しいので警戒していたが、相手が見知った顔だっため、
逆に嫌な予感になってしまう。
「お、丁度いい所に。とりあえずこれ、つまらないものですがどうぞ」
そう言って差し出された小包を一応は受け取って礼を言う咲夜。
「まあ、わざわざどうも」
「来る途中、峠の茶屋で買ってきた団子だ。あとで食べてくれ」
「ありがたくいただくけれど、それとこれとは話が別。不法侵入は見逃しませんわ」
「だってあの門番が通してくれないし」
「美鈴は門を通していい相手とダメな相手はちゃんと区別つけるわよ。
それを破ったあなたは侵入者、美鈴には荷が重かったかしらね。
魔理沙以外の侵入者なんて久し振りだから、思う存分やらせてもらうわよ」
咲夜は団子の包みを消し去ると同時に、手の中に無数のナイフを出現させた。
お得意の種なし手品を見て、妹紅の唇が弧を描く。
「そういや……肝試しの時は二対一だったよな。丁度いい、ついでにリベンジさせてもらう」
手に冷たい銀のきらめきを握る咲夜と、手に燃え盛る紅蓮の揺らめきを握る妹紅。
「一対一でも結果は同じに決まっているわ」
「一対一でも結果が同じじゃつまらないよ」
◆
「食らえ、星も砕け散るフェニックスの羽ばたきを! 鳳翼天翔ー!!」
顔面から床に激突した咲夜は、鳳翼天翔ってこんな弾幕だったっけ? と疑問に思った。
何だかよく解らないうちに真上に吹っ飛ばされて、気づいたらこの有り様。
「残念だけど私の負けね」
念のため鼻血が出ていないかを確認してから咲夜は立ち上がり、
勝利の笑みを浮かべている妹紅へと向き直った。
「よーし、それじゃ私の頼みを聞いてもらおうか」
「うーん、仕事に支障が出ない範囲でなら」
「あのさ、お前カレーライス作れるか?」
やはり嫌な予感が的中したかと咲夜は息をつく、
そんなくだらない理由で紅魔館の門番をふっ飛ばされてはかなわない。
露骨に呆れた口調で咲夜は応じた。
「何でまたそんな物を」
「知ってるのか」
「ええ、まあ」
「食べた事は?」
「あるけど」
「じゃあ作れるよな?」
ガッツポーズを取って喜ぶ妹紅だが、咲夜は静かに首を振った。
「カレー粉がなきゃ作れないわ。もっとも幻想郷にはないみたいね」
「カレー粉? 必要なのはルーやレトルトじゃないのか?」
ルーとレトルトは知っているくせにカレー粉はしらないという偏った知識を披露され、
ややこしい事態に巻き込まれそうだと咲夜はわずかに顔を伏せた。
「カレールーやレトルトがあれば、そっちの方が簡単でしょうけど、どっちもないわよ」
「でも紅魔館なら何とかなるよね?」
「なる訳ないでしょ。どうしてそう思うのかしら」
ニカッと妹紅は笑う。
嫌な予感しかしない笑顔だ、どうせろくな事を言わないだろう。
「カレーってのは本来、色んな香辛料を混ぜたりして作る物らしいって慧音が言ってた」
「それはよかったわね。作り方が解っているなら、香辛料を集めればいいでしょう?」
「だからここに来たんだ」
やっぱり、ろくでもない事を言いそうだ。
咲夜は何を言われても溜め息をつかないようにしようと心がけた。
「紅魔館ってくらい真っ赤なら、辛い物って一通りそろってそうだろ?
カレーライスって辛いらしいから、香辛料もみんな辛いはずだ」
心がけて正解だった。咲夜は溜め息をつきたいのをこらえ、平静を努める。
「紅魔館の紅は辛い物じゃなく、血をイメージしたものなんだけど」
「え、炎の赤じゃないのか?」
「あなたの館になった覚えはないわよ、セルフ焼き鳥さん」
――その時、焼き八目鰻の仕込みをしていたミスティアに電流走る。
「ハッ!? どこかに焼き鳥扱いされる同士の小宇宙(コスモ)がッ!!」
しかし本編とは一切関係がないので忘れていい。
「香辛料ならたくさんあるけれど……」
食料庫の一角に案内された妹紅は、棚いっぱいに並べられたビンを見て唖然とする。
どれもこれもひらがなカタカナ漢字が一切使われていない。
アルファベットが読める程度の英語力では手も足も出ない。
しかも英語以外も混じってそうなので、妹紅は完全にお手上げ状態だ。
その中から適当に赤いビンを取って、咲夜は言う。
「香辛料からカレーを作る方法なんて知らないけど、これだけ色々あれば何とかなるかもとは思うわね」
「むううっ、確かに何とかなりそうだが、この香辛料をどう調理すればいいのかも解らない……」
「カレー粉の作り方を知ってる人がいないのなら、大図書館で調べる以外に手はなさそうね。
でもいきなりカレーライスだなんて、どういう風の吹き回し?」
咲夜が振り向いた時、手の中のビンが赤から白に変わっていた。
また種なし手品か、と妹紅は驚いた風も見せず答える。
「食べてみたいじゃないか。今まで見た事もないような、美味しい物をさ」
その気持ちは解るけれど、と言おうとして、咲夜はビンを棚にしまった。
自分はカレーライスに思い入れがある訳じゃないし、適当に終わらせて早く仕事に戻りたいのが本音。
本の世界だと妹紅は思った。
見渡す限りの本の山、まるでこの世のすべてが本に埋め尽くされてしまったかのような錯覚さえ覚える。
いったい何冊の本があるのかなんて、想像するだけで頭が痛くなる。
いいや本棚がいくつあるか考えるだけでも、十二分に想像を絶する。
咲夜の案内がなければ、この大図書館で遭難する自信が妹紅にはあった。
(迷いの竹林の案内人をやっている私が迷いそうな図書館って、何だ)
永遠の時間を持つ不死の肉体を持ってしても、この図書館の蔵書をすべて読むなど不可能だとさえ思う。
「こっちよ」
図書館の構造を把握しているのか、咲夜の足取りに迷いはない。
キョロキョロしながらあとをついていく妹紅、時折本棚に面白そうな本が見え、足を止めそうになる。
だが置いてきぼりにされてはたまらない。
しばらく歩くと、本の出し入れをしているのだろうか、それらしい音が聞こえた。
「パチュリー様ですか?」
「ほえ? 咲夜さん?」
本棚の陰から、蝙蝠の羽を頭と背中から生やした少女が姿を現す。
「あんたがパチュリーか。ちょっと調べ物を頼みたいんだけど」
「どちら様?」
咲夜の前に出てにこやかに声をかける妹紅だが、パチュリーらしき少女はいぶかしげな表情をする。
初対面の相手にいきなり名前を呼ばれれば仕方ない事だ。
「私は妹紅、迷いの竹林で道案内をする程度の人間だ。
この図書館の主のパチュリーに、ちょいと訊ねたい事があってさ」
「はぁ、そういう事はパチュリー様に言っていただかないと」
「あれ? あんたがパチュリー……じゃ、ないみたいだな」
口元を歪め、妹紅は咲夜をねめつけた。
咲夜は肩をすくめながら、冷めた眼差しで返す。
彼女がパチュリーだとは一言も口にしていないし、本棚の影にいたため最初から疑問系で声をかけている。
「小悪魔。パチュリー様はどちらに?」
妹紅への紹介の意味を込めて名前を呼ぶ咲夜。
だが妹紅からしたら、それが名前なのかと余計疑問に思ってしまう。
だって小悪魔だなんて、明らかに種族名じゃないか。
「パチュリー様でしたら、4696番の本棚にいらっしゃるかと」
「三日前、魔理沙の被害にあった本棚ね」
「私もパチュリー様のお探しになられていた本を見つけたので、ご一緒します」
小悪魔は5冊の本を抱えていた。
どれも辞書に負けず劣らずの分厚さで、筋力トレーニングにはもってこいに見える。
一日中、本ばかり読んでいる生活とはどんなものだろうと妹紅は想像して、すぐあきらめた。
咲夜を先頭に、小悪魔、妹紅と続き、4696番の本棚に向かうと、紫色の人影を見つける。
うつむいている彼女の前の本棚は、なぜか本が一冊も収められていない。
魔理沙の被害と咲夜は言っていたが、いったい何があったのだろうと妹紅は眉をしかめる。
「パチュリー様」
紫色が本棚の空白を憂う表情のまま振り向いて、咲夜を見、次に小悪魔を見て、視線を本棚に戻す。
どうやら妹紅には興味がないようだ。
「こういう時はあれか、また弾幕勝負して、勝てば話を聞いてもらえるんだな」
「小悪魔、本は?」
「はい、こちらに」
妹紅を無視してパチュリーは小悪魔から5冊の本を受け取り、表紙と題名を確認する。
『魔宮薔薇を栽培するには 入門編』
『理屈抜きで復活しても許されるには 鳳凰幻魔編』
『沙羅双樹と阿頼耶識』
『ラス アルグール ゴルゴニオ』
『ブルー・ドリーム 話せない夢が誰にもある』
うん、と小さくうなずいてようやくパチュリーは微笑を作った。
「ご苦労様。ところで咲夜、何か用?」
「こちらの紅白2号がカレーライスの作り方を調べたいそうです」
「髪の毛が白い分、1号より2号の方がより紅白らしいわね」
「まったくもって」
「で、霊夢なの? それとも魔理沙?」
意図の掴めない質問に咲夜と小悪魔は眉をしかめた。
妹紅はというと、思い当たる節があるのかパチュリーの目を真っ直ぐに見つめ返している。
「そういえば、霊夢がパチュリーの名前を出してたな」
「私にカレーライスの質問をしたのは魔理沙だけどね。
三日前、魔理沙がカレーライスを作りたいとか言って、料理関係の本を手当たり次第盗んでいったのよ。
霊夢も興味を持ってたみたいだから、そのどちらかと関わってると思ったんだけど大当たりみたいね。
とりあえず立ち話もなんだし、座りましょうか」
◆
陽射しの心地よい快晴で、釣り日和だった。
何も考えず川原に座り込んで、釣り竿を引っ張られるのを待ち続けるだけの時間を楽しむのも悪くない。
ついでに釣った魚を美味しくいただければ申し分ない。
だから藤原妹紅は釣りに出かけた。
「よう、霊夢も釣りか? お天道様が眩しいもんなぁ」
川原にあった大きめの岩に座って釣り竿を握っていた妹紅は、砂利を踏む足音に気づいて、
釣り具を持ってやって来た紅白衣装の霊夢を見つけて声をかけた。
霊夢もこちらに気づき、表情を変えないまま返事をする。
「釣れてる?」
「私もさっき来たばかりでさ」
「へえ、そう」
どうにも素っ気ない。
まあ片手で数えられる程度の数しか会ってないのだから、お友達のように接する必要もないのだろう。
霊夢は妹紅からやや離れた所にある岩に上ると、座り心地のよさそうな場所を探し始めた。
お互いが伸ばした手のひら程度の大きさに見える遠さのため、妹紅は大きな声で呼びかける。
「もっとこっちに座ればいいのに」
「あまり近くで釣り針を垂らしてたら、獲物の取り合いになっちゃうでしょ」
「それもそうか。釣れたらここで食ってくか? 焼いてやるぞ、火加減の調節は得意なんだ」
「魚くらい自分で焼けるわ」
「遠慮するなよ」
カラカラと笑う妹紅は、釣りという静かな時間をすごしたくてやって来たのだが、
元々家にいても竹林にいても基本的に独りなので、日当たりのいい川に来たのは気分転換にすぎない。
慧音は基本的に人里で暮らしているし、妹紅の家には遊びに来るがいつもという訳でもなく、
だから偶然とはいえ、知り合いに会って妹紅は嬉しかった。
でも、どうやら霊夢は違うようだ。
会話をするのが億劫なのか、妹紅の相手をするのが面倒なのか、ともかく歓迎はしていないように見える。
(あれ? 私、嫌われてる?)
と妹紅が不安になってしまうのも仕方なかった。
苔の生えた岩に腰を下ろした霊夢は、ゆったりとした仕草で釣り針にミミズを刺し、川に放り込む。
霊夢がつまらなそうな表情で水面を見つめ続けているのを、妹紅は見つめ続けていた。
お互いに一度も竿を引かれぬまま半時ほどがすきた頃、妹紅は声をかけた。
「元気ないな」
「別に」
「腹でも減ってるのか?」
「朝食はちゃんと食べたわよ」
「もしかして機嫌悪い?」
「別に」
「私、邪魔か?」
「……別に」
「やっぱり私、邪魔かな」
「違う」
淡々と答えていた霊夢の声色が、わずかに強まった。
邪魔ではないと思ってくれていると解って、妹紅の気持ちは鞠のように弾んだ。
白い歯を見せるような笑みを浮かべて、妹紅は続ける。
「魚、好きか?」
「食べられるなら何でもいい、美味しければ尚いいわ」
「そうなのか。私はさ、タケノコが好きなんだ。でもタケノコが好きだから竹林に住んでる訳じゃない。
竹林に住んでるからタケノコ好きになっちゃったの、ははっ」
「そう」
「やっぱり元気ないだろ、どうした?」
竿は動かない。
魚はいるのだろうかいないのだろうか。
腹の虫が鳴きそうだ。
念のためお弁当は持ってきてあるけれど、魚がないのは貧しい。
霊夢が振り向く。
気だるげな眼差し。
桜色の蕾が開く。
「妹紅」
「うん」
「あんたは、何か食べたい物とかある?」
「ん、そうだな。慧音が白味噌派でさ、たまには赤味噌が食いたいなぁ、なんて。
霊夢の所は、赤と白、どっちだ?」
「赤でも白でも構わないわ。混ぜる時もあるし」
「はははっ、さすが紅白巫女。じゃあ白黒魔法使いの所は白味噌なのかなぁ。
紅魔館は赤味噌……は、ないか。あそこ洋食だろうし。
あの半霊達の所はどうだろう? 白玉楼だから白味噌か? 幻想郷は白味噌派が多いな」
「衣装や名前に白が入ってるからって、そう決めつけられてもねぇ。
魔理沙は赤味噌派よ。よくうちで食べるから、私も赤味噌ばっかり」
「あ、そうなんだ。うちと一緒だな。慧音が白味噌派だから、私も白味噌ばっかりに……」
「それはもう聞いた。だいたい、あんたは魔理沙ポジションでしょ。慧音にご飯をたかりに行く……」
「いや、慧音がうちに来るんだよ。ちゃんとご飯を食べてるか確認しさ。
そのついでにご飯を作ってくれて――元気出てきたな」
「そう?」
何で元気がなかったのかなんて知らない。
でもそんなのは、知り合い程度の人間と、ちょっと世間話をする程度で何とかなったりするものだ。
でも霊夢は元気がない訳じゃなかった、物思いにふけっていただけだった。
でも妹紅が物思いから霊夢を引っ張り出したので、霊夢は物思っていた事を喋り出す。
「カレーライスって知ってる?」
「日本人のソウルフードはもはやカレーライスになりつつあるって慧音が言ってた。
だから名前だけは知ってる、見た事も食べた事もない」
「そうなんだ」
「お前は、霊夢は食べた事あるのか?」
「うん」
「美味しかった?」
晴天のお日様のような笑顔で、花びらを運ぶ春風のような声色で、霊夢は言った。
「何年も前に一度食べたきりだけど、うん、美味しかったわ」
「へえ、どんなの?」
「茶色いドロドロした泥のような物を、炊いたお米にかけるのよ。
見かけは最悪で、私も魔理沙も、最初は嫌がったんだけどね」
「うん? あの白黒魔法使いと一緒に食べたのか?」
「香霖堂ってお店でね、数年前、カレーライスの材料が偶然手に入ったの。
そこの店主とは懇意にしてるから、特別にご馳走になって。
味はちょっと辛くて、けれどそれが食欲をそそるの。
舌触りはまろやか。具のジャガイモやニンジンもとろけるようだったわ。
ご飯をさ、お茶漬けにしたり、味噌汁をかけたり、そういうのとは全然違うの。
さっぱりとかあっさりって食感じゃなくて、まったりって言えばいいのかな。
二人でおかわりしようとしたんだけど、もう品切れで、
それからしばらく香霖堂に行くたびにカレーライスが入荷してないか確認したわ。
でも、全然入荷する気配がなくて、いつの間にか私も魔理沙もカレーライスはあきらめたの」
太陽のような笑顔で話していたと思ったら、終盤になって北風のように寒々とした表情に変化する。
思い出して、よほど残念に感じているのだろう。
「それにしても、話を聞いてるだけでお腹が空いてくるな。
カレーライスって、横文字なんだから洋食だろ? 西洋出身の連中なら作れる奴いるんじゃないか?」
「アリスに聞いてみたけど、知らないって言ってた。
魔理沙はパチュリーに訊いてみたらしいけど、名前しか知らないってさ。
作り方は霖之助さんが、香霖堂の店主が覚えてはいたんだけど、材料がないと作れないって。
守矢神社の風祝が、最近外から来た人間だから、やっぱり訊いてみたわ。
作り方は知ってたけど、カレーの『ルー』か『レトルト』っていうのがないと無理みたい」
「ルー? レトルト? 何だそれ」
「味噌汁の味噌みたいなものらしいわ」
「ふーん……あいつは? 紅魔館のメイド。ええと、咲夜なら料理のレパートリー多そうだし」
「さあ、どうかしら……普段はカレーライスの事なんて忘れてるから、
思い出した時その場にいる相手に質問する程度よ。
今朝、カレーライスを食べてる夢を見て、妹紅に話すまでずっと思い出そうとしてたの。
カレーライスって、どんな味がしたかな……って」
「あれ? さっき解説してたよね」
「美化された思い出を適当に味付けして語っただけよ。記憶違いも混じってると思う」
「そうか」
妹紅はうなずいて、釣り糸の垂れる水面へと視線を戻した。
「……そうか」
もう一度うなずいて、妹紅はカレーライスとはどんな味がするのかを空想した。
いくら空想してもたどり着けぬと理解した上で。
釣果は坊主。
妹紅の梅おにぎりと、霊夢の塩おにぎりを一個ずつ交換して食べてから二人は別れた。
帰路の途中、妹紅は人里に寄り慧音を訪ね、カレーライスについて質問する。
すると、多数の香辛料を使って作る方法があるらしいと聞かされた。
カレーライスは辛い。
辛い香辛料は赤い物が多い。
赤といえば紅魔館。
紅魔館なら香辛料もいっぱい置いてそう。
聞いたら呆れてしまうような連想ゲームを経た妹紅は、
明日になったら道中にある峠の茶屋で団子でも土産に買って、紅魔館を訪ねようと決めた。
咲夜がカレーライスを作れるかもしれないし、噂の図書館なら作り方が解るかもしれない。
ちょっと遊びに行くついでに、カレーライスが食べられたらラッキーだ。
その程度の気持ちだったけど、カレーライスの美味しさを語った時の霊夢の笑顔、
思い出すだけで幸せな気持ちと未知への好奇心という名の食欲が湧いてくる。
明日になったら、紅魔館に。
◆
明日になった今日。
大図書館の一角にて、本棚へ背中を預けていた妹紅が、
テーブルで紅茶を飲んでいるパチュリーとその傍らで直立不動の咲夜に事の次第を語り終えていた。
「わぁ、私もカレーライスを食べてみたいです」
だが一番反応したのは妹紅の側で瞳を輝かせて聞いていた小悪魔だった。
気をよくした妹紅は、人懐っこい笑顔をパチュリーと咲夜に向ける。
「この図書館の主ならカレーライスの作り方くらいちょちょいと調べられるでしょ?
そこで料理上手な咲夜に、是非カレーライスとやらを作ってもらいたくてさ」
「お、おこがましいのを承知で私もお願いします!」
小悪魔も小犬のような顔をして懇願する。
するとパチュリー、咲夜の両名は顔を見合わせ、視線を交わらせる。
一秒か二秒、瞳で会話をして、二人は首を妹紅に向けると同時に口を開いた。
「自分で調べなさい」
「自分で作りなさい」
8901番の本棚は、すべての者を拒み絶望させる嘆きの壁のようであった。
いったい何段あるのか、そびえ立つ高さ。
両手いっぱい広げても半分にも届かぬ横幅は、果たして一列何冊の本を納められるのだろう。
この中にカレー粉の調合方法が書かれた本がある、かもしれない。
「もし……なかったら?」
「隣の本棚にある可能性が高いです」
「それは8900番の本棚か、8902の本棚か、どっちだ?」
「どっちかです。なければ8989番と8903番、次は8988番と8904番といった具合に」
「やめてくれ、気が遠くなる」
がっくりとうなだれた妹紅の隣で、小悪魔も同様にうなだれていた。
話に乗ってカレーライスを食べたいと言ってしまった小悪魔は、
図書館を散らかされないための監視の意味も込めて妹紅の手伝いを命じられてしまっていた。
「じゃあ妹紅さん、私は上段から調べていきますので、あなたは下段からお願いします」
「それっぽい題名の本を調べるだけでいいんだよね? いちいち全部調べなくてもいいよね?」
「全部調べた方が抜けがなくていいんですけど」
「うーん……そこまでして食べる価値はあるんだろうか、カレーライス……」
「食べてみなければ解りませんね……もし美味しくなかったり好みに合わなかったら……」
「やめてくれよぅ。やる前からそういう風に言われちゃ、やる気が萎える……」
こうして二人は本棚の本を片っ端から調べる事になった。
果たしてカレーライスの作り方は解明されるのか、それはまだ解らない。
そして戦いの火蓋は、切って落とされた!
十分後。
「カレイの調理方法発見ー」
「え、早いですね妹紅さん」
「うん、でもカレーじゃなくてカレイなんだよね。魚の」
「カレイの煮付けとかいいですよねー……って、そんなのいちいち報告しないでください」
「はい……」
三十分後。
「妹紅さん、それ料理漫画ですよね。トンデモ料理を食べてトンデモリアクションをする漫画ですよね」
「あ、いや、こういうのも料理作ってるシーンがあるし、カレーライス勝負とかあるかもしれないし」
「目次ページを見てカレーと関係ある話だけチェックしてください」
「あ、でも全部調べた方が……」
「目次ページだけで十分です、所詮漫画です」
「……はい」
「あ、でも私も読みたいのでキープしといてください」
「おいコラ」
一時間後。
「やった! 見つけたぞ小悪魔。カレーだ、カレーの写真が載ってる!」
「ほ、ホントですか!? 私にも見せてください!」
「ほら、外国語だからよく解らないんだけど、作り方も書いてあるみたいだ。
そしてこの写真! 霊夢から聞いたカレーと完全に一致する!!」
「まあ、茶色くてドロドロしてるジャガイモやニンジンも美味しそう……って、
ビーフシチューじゃないですかぁぁぁっ!!」
「ええぇっ!? 違うのぉぉぉ!?」
三時間後。
「あれ、雨降ってる?」
「え、そうですか? 図書館の中からじゃよく解りません……けど……」
「うん? どうした、顔色悪いぞ」
「いえ、何でもありません……雨……雨か……」
「あ、私ちょっとお手洗いに行ってくるわ。道教えてくれない?」
「ああ……その、ご案内しますよ」
「いや、いいよ。逃げ出そうとかサボろうとかしてるって疑ってるの?」
「いえ、館の中をフラフラ歩かれてフランフランにされても困りますから」
「本を調べるのに疲れてもうフラフラだってば」
「いえ、フランフランは桁が違いますから」
「フランフラン?」
五時間後。
「リザレクション!」
「うわっ、急に何ですか」
「いや、あまりの活字中毒につい意識と生命を手放してしまった」
「本探しくらいでリザレクションしないでください」
「ごめんごめ……リザレクショォォォンッ!!」
「キャアッ!? やめてくださいって言ったばかりですよ!」
「スパイスから作る本格カレー! スパイスって香辛料の事だよな? 見つけたぁッ!」
「え、意外と早く見つかりましたね。一週間程度の徹夜は覚悟してたんですけど」
「え、そんなに重い覚悟が必要だったの?」
「ま、見つかったからいいじゃないですか」
「ま、それもそうだね」
◆
カレーの作り方の要点をまとめてメモをした二人は、
メモに書いた材料を取りに食料庫へ向かった。
道中、小悪魔がやけにビクビクしていたが、何事もなく到着し、香辛料の棚を調べる。
「ええっと、タメリック? ターメリック? どれだ、これか、いやあれか?」
「シナモンやペパーは簡単に見つかりますね。あ、そこにあるのクミンじゃないですか?」
「さすが紅魔館、メモにあるの全部そろってそうだな。これでカレー粉を作れる」
「あ、野菜とお米も用意しないといけませんね。タマネギ、ジャガイモ、ニンジン……」
「肉はどうする? 鶏肉でも牛肉でもいいみたいだけど」
「うーんと、あっ、咲夜さんがいい牛肉が手に入ったって言ってました」
「じゃあ牛肉にしよう。あとはお米お米……おお、コシヒカリ発見!」
食料庫を物色した二人は、戦利品をかついで厨房を目指していた。
すると、紅い絨毯の敷かれた廊下を、紅白の衣装が歩いていた。
「あれ、あんたがこんな所にいるなんて珍しいわね。しかも小悪魔と一緒?」
幻想郷の腹ペコ巫女、博麗霊夢であった。
どうやら一戦交えたあとのようで、衣装がところどころ焦げている。
「霊夢こそ、どうしたんだそれ。異変でもあったの?」
「雨が降ってたからね」
薄々事態を把握しつつあった小悪魔は、霊夢の言葉で完全に確信した。
自分達が図書館で調べ物をしていた時、雨が降っていたらしい。
すなわちフランドールを館の外に逃がさないよう、パチュリーが魔法で雨を降らせたのだろう。
そんな事情を知らない妹紅はさっぱりで、すぐ頭を切り替える。
「それより、晩ご飯はどうするつもり?」
「今日は疲れたから、自炊も面倒だし、焼き八目鰻の屋台にでも行こうかなと」
「よかったら、ここで食べてけよ」
白い歯を見せて笑う妹紅。
立ち振る舞いから疲労の色がにじみ出ているのに、機嫌はすごくよさそうに見えた。
「ここで食べていけって、レミリアや咲夜じゃなく、妹紅が誘うの?」
「カレーライスを作るんだ」
子供のようにはしゃいだ様子で妹紅は言う。
「図書館でさ、何時間も調べて、ようやくカレーライスの作り方が解ったんだ。
たった今、食料庫から材料を持ってきたところ」
「これから作るの? 面白そうだし手伝おうか?」
と、霊夢は妹紅の荷物に両手を伸ばし、左手を引きつらせた。一瞬だけ口元が歪む。
「霊夢? どうしたんだ、怪我でもして……」
「……ちょっと転んだだけよ」
妹紅も、詳細までは解らずとも霊夢が弾幕勝負で負傷したらしい程度の事は察した。
しかし妹紅渾身の弾幕を、八雲紫の協力があったとはいえ初見で全弾回避し華麗に叩きのめした博麗霊夢が、
こうまでやられてしまうとはいったい誰と戦ったのか。
紅魔館の主、レミリア・スカーレットとは妹紅も戦った経験がある。咲夜と一緒に襲ってきた。
レミリアは強いし霊夢相手でも一定の勝率は保てるだろうが、こういった負傷をさせるとは思えない。
だったら、心当たりは……。
「フラフラ歩き回って、フランフランにされたのか?」
「フランの事、聞いてるんだ」
聞いていない。
小悪魔の言葉を思い出して、適当にかまをかけただけだ。
しかしどうやら、フランという名前の者か物が原因らしい。
だが霊夢の口振りから、面倒くささは感じても、嫌っているような素振りは見えない。
「フランっていうのは?」
「聞いてないの?」
霊夢は、妹紅の隣で荷物を抱えている小悪魔を見た。バツの悪そうな顔をしている。
「あの……フランドール様は、レミリアお嬢様の妹様でいらっしゃいます」
「妹……様?」
みょうちくりんな表現に、妹紅はクスリと笑った。
そしてなるほどレミリアの妹なら実力も相応のものがあるだろう。
「じゃあ、そのフランにもカレーライスをご馳走してやろう」
「気前がいいじゃない」
霊夢は笑ったが、小悪魔は大慌てだ。
「そ、そんな、駄目ですよ。レミリア様や咲夜さんのご許可もなく……」
「レミリアには私から話しておくわ。フランも、私と遊んで鬱憤は晴れてるはず。
しばらくはおとなしくしてくれてると思うけど」
「でも」
「たまには、いいじゃない? 姉妹でカレーライスをつっつくのもさ」
実は妹紅達がカレーライスを作ろうが作るまいが、レミリアとパチュリーの分は咲夜が作る事になっている。
というのも、一日でカレーライスの作り方を調べられるなんて咲夜は思っていなかったし、
仮に一日で解ったとしても素人が初めてスパイスから作ったカレーなんて信用していないのだ。
そういった事情を了解している小悪魔だが、
相手が博麗霊夢ではどうのこうのと説得説明したところでどうにもならぬだろう事は容易に想像できた。
だからあえて何も言おうとしなかったけれど、でも。
「じゃあ、楽しみに待っててよ。腕によりをかけて作るからさ」
「そうね、楽しみに待ってるわ。カレーライスなんて、本当に何年振りかな……」
紅白人間コンビはどちらもとても楽しそうに笑っていて、
まるでここだけ心地よい春風が吹いているかのような錯覚さえ感じてしまう。
幻想の春風は小悪魔の心を撫でるように通り抜け、温もりを残していく。
だから。
(まあ、いいか)
と、小悪魔が妹紅を手伝う理由に追加要素ができたのだった。
◆
紅魔館の厨房は大きい。
というのも、館に住まう大勢のメイド妖精達が自分達の分を作るためだ。
そして、その一角にメイド長専用エリアがある。
ここはレミリアとパチュリー、そしてフランドールの口に入る物を調理する場所だ。
故に他のエリアより設備が充実し、手入れも行き届いている。
さすがにメイド長専用エリアは使えないが、メイド長の許可を得てその隣の場所を確保した小悪魔。
丁度咲夜が夕飯の下ごしらえにジャガイモ、ニンジン、タマネギなどを切っていたので、
カレーに代用できると妹紅は分けてもらえないかと交渉したが、決裂。
「場所は提供して上げているのだから、それくらい自分でやりなさい」
との事。せっかく団子を持ってきて上げたのに酷い仕打ちだと妹紅は嘆いた。
「ともかく! まずは下ごしらえだ。野菜を切ろう!」
「いや、それよりカレーを作る方が先でしょう。時間かかるみたいですし」
「でも最初にタマネギをみじん切りにしないといけないから、ついでに野菜も切っちゃおう」
「タマネギはお任せしていいですか? 私はスパイスを分けておきます」
「よし任せろ!」
まな板の上に丸いタマネギをドンと置き、藤原妹紅は包丁を構えた。
普通の料理程度なら余裕でできる、タマネギをみじん切りにする程度で失敗するほど下手ではない。
「いざ!」
トン。
トン。
トン。
トン。
トン。
トン。
ザク。
リザレクション!
「って、何で本日三度目のリザレクショーンッ!?」
突然の炎をまとった復活劇に驚いた小悪魔は、持っていた香辛料をこぼしてしまった。
一方妹紅はというと、手首を押さえて涙目になっている。
「あの……図書館捜索の疲労が抜けないままタマネギ切ったせいか、
涙と目まいのダブルコンボでうっかり手首をザックリ……」
「リストカットと勘違いされるような傷跡を持つ蓬莱人ってマヌケですね」
「リザレクションで傷は消えたから大丈夫。でも切ったタマネギが血まみれに……。
これ、おたくのお嬢様に出そうか?」
「お嬢様に変な物を食べさせようとしないでください!」
「変な物? 私の血は変な物扱いなのか?」
「蓬莱人の血なんて変な成分が入ってそうでNGです!
咲夜さんとかガン無視してるじゃないですか!」
小悪魔の言葉通り、すぐ隣でタマネギを手早くスライスしていた。
その手際の鮮やかさたるや、芸術の域に達している。
無数のタマネギを均等に切り刻んだ咲夜は、フッと小さく笑って妹紅に目を向ける。
「この程度の事もできなくて、妹様のお口に物を入れようだなんて」
「な、なにぃ!?」
「霊夢はお嬢様にもカレーライスをお勧めしているようだけれど、
最終的には私の作る愛情大盛りディナーを選ばれるのよ」
「なにおう、こっちだって手作りカレー妹紅スペシャルで度肝を抜いてやる!」
「あら、度肝を抜くならご自分のをどうぞ。
もっとも私も霊夢も、蓬莱人の肝を食べたりなんかしませんけれど」
どうやら咲夜は、妹紅がでしゃばっているのが少々お気に召さないらしい。
せっかくいい牛肉が手に入って、腕によりをかけてディナーを振舞おうと思っていたのに、
妹紅達はその牛肉を使ってカレーライス作りに初挑戦で皆に振舞おうとしている。
牛肉は数キロほど確保してあるからカレーライスに使われた程度では問題ないのだが、
それを苦労して少しでもいいものをと仕入れてきた咲夜としては、
美味しいところ取りに見えてしまう。
けどそんな事情は、カレーライスの調理にまで漕ぎ着けた妹紅達の前では些細な事。
「よぉし、小悪魔。私達の全力を見せてやるぞ!」
「はい! 今回は妹紅さんの側でやらせていただきます!」
「フフッ、厨房の支配者がメイドである事を教えて上げるわ!」
こうして戦いの火蓋は、切って落とされた!
「それじゃ妹紅さん、みじん切りにしたタマネギを飴色になるまでバターで炒めてください」
「飴色になるまで……って書いてあるけど、飴色って何だ?」
「飴の色なんて、種類によって千差万別ですからねぇ。私はイチゴミルクの飴が好きで」
「じゃあ乳白色? でも黒飴とかあるよな」
「黒飴だと真っ黒コゲになっちゃうじゃないですか」
「ゴメン、疲れてるせいか火力の調節が……もう真っ黒コゲになってた」
「早っ!? どういう火力ですか、自分の火じゃなくコンロの火を使ってください!」
「なあ、このメモのガラムマサラって何だ?」
「え、知りませんよ。メモしたの妹紅さんでしょう?」
「本を読んだのは小悪魔だろ! 私はそれをそのまま写しただけだ!」
「解らないならちゃんと質問してくださいよ! 確認できないじゃないですか!」
「お前だって解ってないだろ! お前が確認しろ!」
「よし、牛肉をタマネギと一緒に炒めるぞ」
「あれ、先にスパイスを入れるんじゃ?」
「ええい、面倒。両方入れて火にかければいい!」
「ええっと、塩を入れて、甘みが足りなければ砂糖も……あれ? どっちが塩でどっちが砂糖です?」
「舐めてみれば解るさ。ペロリ。む! これは小麦粉ッ!」
「塩でも砂糖でもないじゃないですか!」
「まあ待て、という事は残ったこっちが塩と砂糖のどちらかだ……ペロリ。む! これはうどん粉ッ!」
「どう間違えたらそんな物を持ってきちゃうんですかー!」
「よし、これだけ煮込めば次の段階に移っていいだろう」
「ええっと、次はヨーグルトを混ぜるようです。生クリームでも可」
「ああ? 辛いカレーにそんなものを入れる訳ないだろ、疲れてたからメモを書き間違えたかな」
「あれ? でもさっき砂糖を入れましたよね? 辛いカレーなのに」
「あれ? 調味料のさしすせそだから気にしなかったけど……改めて考えると砂糖はおかしいな」
「うーん……ちょっと混乱してきちゃいました」
「ええっと、メモをもう一度最初から読み直してみよう」
「ここがこうで、これはやりましたよね」
「ここで作ったガラムマサラをこのあと加えれば出来上がりなんだよな」
「うーんと、ええ、多分。……あれ? ここ、違くないです?」
「いや、この通りやったよ。大丈夫大丈夫」
「そうじゃなくて、ここの」
「むうっ、でもこれはこうして、ああだから……」
「あ、じゃあ大丈夫ですかね。とりあえず味見でも……焦げ臭いですね」
「え、あ、ああッ!?」
「こ、焦げ、煙がー! うわぁ真っ黒コゲ再び! もう駄目です、最初から作り直さないと」
「予行練習だった! これは予行練習だったと思って、次が本番だ! 夕飯の時間にはまだ間に合う!」
◆
ロウソクのか細い火だけを頼りに地下室にやってきた霊夢は、薄明かりの中で目的の年上少女を見つける。
「フラン、いる?」
「んー……霊夢? また遊んでくれるの?」
部屋の隅で首のもげた人形と手足のもげた人形で遊んでいたフランドールは、
紅い瞳をらんらんと輝かせながら舌なめずりをした。
「あのね、今度は私が霊夢のスペルカードを破りたいの。
むそーてんせーってすごい奴でお姉様と咲夜をやっつけた事があるんでしょ?」
「ああ、永夜異変の時の? それはまた今度」
「じゃあ何をして遊ぶの?」
「上で一緒にご飯食べない? レミリアもパチュリーも一緒よ」
「ホントッ!? 一緒に食べていいの!?」
「レミリアの首は縦に振らせたわ。たまにはいいでしょ、みんなで食べるのも」
フランドールは人形を握りつぶすと、残骸を部屋の隅に放り捨て、霊夢に向かって飛びついた。
「わぁーい! 霊夢ありがとう!」
「はいはい、解ったから降りて降りて」
「ねえねえ、魔理沙も来てる? 魔理沙も一緒?」
「魔理沙はカレーを作ろうとして鍋を爆発させて永遠亭に入院したわ」
「そうなんだ、じゃあ霊夢で我慢する!」
「我慢するくらいなら来なくていいわよ」
「じゃあ我慢しない! 霊夢とご飯ー!」
霊夢の首にぶらさがっていたフランドールは、巫女装束の胸元を掴んで飛び上がった。
「レッツゴー!」
「降ろしなさい」
呆れた調子の霊夢を無視して、フランドールは霊夢を引っ張って通路を飛行した。
仰向けの状態でぶんぶん振り回されながら、何度か身体を壁にぶつけそうになる霊夢だが、
そのたび自分で軽く飛んで軌道修正して難を逃れていた。
「ねえねえ霊夢、今日のディナーはなぁに? 咲夜は何を作ってるの?」
「今日は咲夜の料理じゃなく、小悪魔達が作ったカレーライスよ」
妹紅の名前を出して、それが誰か説明するのが面倒だったので、
あえて小悪魔達という言い方をした霊夢。
幸いフランドールは『達』の部分を気に留めていないようだ。
「カレーライス! カレーライス! ねえ霊夢、カレーライスってなぁに?」
「ライスにカレーがかかってるのよ」
「カレー! カレー! じゃあ咲夜は何も作ってないの?」
「さあ? でもデザートくらいは作ってるんじゃないの?」
「プリンがいい! プリン!」
「私に言われてもね。リクエストしたいなら咲夜本人に言いなさいよ」
「うん、そうする!」
と、丁度地下から地上フロアに出たフランドールは、
霊夢を手放し厨房に向けて飛んで行った。
絨毯の上に転げ落ちた霊夢は、乱れた胸元を整えながらフランドールを追うかどうかしばし考えたが、
すでに見失い、厨房への道も知らないので、レミリアの待つ食堂へ向かった。
「プリン、プリン。プリンはプリンプリンだからプリンなのー」
意味不明の歌を廊下に響かせながら、フランドールは厨房に到着した。
「咲夜ー!」
声をかけながら入ると、小悪魔と見知らぬ人間が厨房の一角で歌っていた。
「はじめちょろちょろなかぱっぱ」
「じゅうじゅうふいたら火を引いて」
「赤子泣いてもふたとるな」
「ところで小悪魔、紅魔館に赤子はいるのか?」
「いませんね」
「赤子ってほど幼くはないもんなぁ、あいつ」
どうやら小悪魔が人間と一緒に何かを作っているらしい。
となると、二人が火にかけている鍋がカレーライスなのだろう。
名前の通り、ちゃんとライスの匂いがするから間違いない。
「うちじゃ釜で炊いてるんだけど、そうか洋館だと鍋で炊くのか」
「道具が違うだけで基本は同じですよ、多分」
では、二人のすぐ側にある鍋は何だろうか。
こちらも火にかけられているようだが、二人の注意が行っていないのですでに完成済みなのか。
何やら美味しそうな匂いがする。
カレーライスの鍋に夢中の小悪魔と人間より、もう一方の謎の鍋に好奇心を持ったフランドールは、
無言で鍋の所までトコトコ歩いて行き、フワリと飛んで蓋を取り鍋の中を覗く。
茶色くドロドロした物が入っていた。
これは多分アレだろう。
美味しそう。
フランドールは近くにあったおたまを握りしめた。
カレーライスじゃないのなら、食べちゃっても構わないはず。
「百里の道を行くものは九十九里をもって半ばとすべし。
つまり九割くらいまで進んでも、やっと半分まで来たという気持ちで、
最後の最後まで気をゆるめるなという戒めの言葉だ」
「いい言葉ですね、これでお米を炊くのに失敗したら全部台無しですもの」
「ああ、カレーだけ食べてても駄目だものな」
「味見してみて美味しかったですけど、あれは単体で食べるものじゃありませんよねぇ」
「単体で食べる馬鹿がいたら面白いのにな」
「あはは、そんなお馬鹿さんがいたら私達が迷惑しちゃいます」
二人は疲れていた。
五時間ぶっ続けで本を調べ、その後は初めてのカレー作りに四苦八苦。
集中力もかなり磨り減っており、目の前の炊飯に全神経を集中しながらも、
疲労を誤魔化すためにくだらない雑談をしていた。
今現在炊いているお米と、このくだらない雑談だけが、二人の意識を埋め尽くす。
それが悲劇となる。
「妹様、何をなさっているんですか!?」
悲鳴にも似た咲夜の叫びが、二人の注意をようやく炊飯以外に向けさせた。
ハッと振り向いてみれば、空のトレイを持った咲夜が厨房の入口に立っている。
咲夜の料理も、妹紅達のカレーライスもすでに完成間近だったため、
食堂のレミリア達に飲み物を持って行っていたのだ。
それが丁度、帰ってきて、何かとんでもないものを目撃し驚いているらしい。
咲夜は「妹様」と言った。
咲夜の視線は妹紅と小悪魔を挟んだ向こう、すぐ隣の、カレー鍋に向けられている。
嫌な予感が芽生えるより早く、条件反射で二人はカレー鍋に振り向いた。
レミリアによく似た、愛らしい金髪の少女が、カレーまみれのおたまを握っていた。
彼女が妹様、すなわちフランドールなのだろうと妹紅は理解した。
そこでようやく、嫌な予感というものが芽生えた。
そんな妹紅を無視して、フランドールはカレーで汚れた口元を隠しもせず言う。
「咲夜ー、デザートはプリンがいい! プリン!」
「かしこまりました……ですが妹様、何をなさっているんですか……」
「今日はカレーライスなんでしょ? だからこのビーフシチューは食べちゃった!」
カレー鍋を傾けて、綺麗に空にした様を見せつけながら、フランドールは満面笑顔。
一秒。
妹紅は図書館でカレーを調べていた時、ビーフシチューをカレーと勘違いした自分を思い出していた。
二秒。
妹紅は空になったカレー鍋の意味を考えた。カレーを作るまでの労苦を思い出していた。
三秒。
妹紅は先ほどの百里の道はどうのこうのという言葉を思い出していた。意味は思い出せなかった。
「ほ、ほ、ほほほほほ……鳳ォオ翼ッ天……!」
「うわー! 妹紅さんストップストーップ!」
「うろたえるな小悪魔ー!! 今こそ私は愛と正義と憎しみの聖戦士として巨悪を討つ!」
「うろたえてるのは妹紅さんです! 咲夜さん、助けてくださ〜い!」
プスプスと煙を立てて今にも発火しそうな妹紅の頭に、時を止めて用意した冷や水をかける咲夜。
その冷たさに驚いて妹紅が飛び上がり、矛先を咲夜へと転換した。
「はいはい、うろたえないうろたえない。それより妹様。
なぜここにいらっしゃるのか、ご説明願えると助かります」
妹紅の怒りを軽く流し、フランドールの精神がどの程度安定しているか様子を見つつ質問する。
上機嫌のフランドールは嬉々として説明を開始したので、
一応事情くらいは聞いてから怒鳴りつけてやろうと思った妹紅は黙って耳を傾ける。
毎日毎日地下で人形遊びをしていた事。
人形遊びに飽きて誰かと遊びたくなった事。
外に出ようとしてみたら雨が降っていた事。
霊夢が来た事。
霊夢と力いっぱい弾幕勝負をして惜しいところで負けちゃったけどすごく楽しかった事。
地下に戻って人形でさっきの弾幕勝負の再現ごっこをして遊んでいた事。
霊夢が地下室に迎えに来てくれた事。
みんなと一緒にカレーライスを食べられる事。
デザートにプリンが食べたかったので咲夜に頼みに来た事。
小悪魔と人間が作っているカレーライスの鍋の隣にビーフシチューの鍋があった事。
今日はみんなでカレーライスだからビーフシチューは食べちゃってもいいやと思った事。
ビーフシチューにしては奇妙な味がしたけどいつもと全然違う血が入っていたからそのせいだと思った事。
それ等を一生懸命順序立てながら、とても楽しそうに、
ところどころ思い出し笑いをしながら、語り終える。
「……いつもと全然違う血っていうのは……」
小悪魔は妹紅の左手首を見た。
傷跡はないが、妹紅は一度ザックリと包丁で切ってしまっている。
血のついたタマネギは破棄したはずだが、包丁を拭き忘れていたのか、
あるいはまな板に付着していた血が具についてしまったのか、
理由は定かではないが恐らくあの時の血で間違いないだろう。
蓬莱人の血だから、カレーとビーフシチューの差異を除いても全然違う味がしたんだろう。
もし血が入っていなかったら、フランドールはカレーを食べなかったかもしれない。
血が入っていない食べ物は未完成品か、あるいは自分の食べる物ではないからだ。
ほんのわずかでもカレーに血が混じってしまった妹紅達の不運を嘆くべきか、
それを勝手に食べてしまったフランドールを叱るべきか。
フランドール当人は説明を終えたものの、妹紅側の事情を把握しておらず、無邪気な笑顔を見せている。
姉や霊夢と一緒にご飯を食べられるとおおはしゃぎのフランドールの様子をずっと見ていた妹紅は、
すでに怒る気力をなくし、深い落胆のために床に膝をついてしまっていた。
小悪魔はどうしていいか解らず、助け舟を求めて咲夜にチラチラと視線をやっている。
そして、咲夜は。
「……解りました。でも妹様、つまみ食いはよくありません。
もう二度としないと誓ってくださるなら、食後のデザートはプリンにいたします」
「えー、つまみ食いしたーい。プリンも食べたーい」
「……では、つまみ食いする時は一声かけてからお願いします。
デザートはプリンにいたしますから、小悪魔と一緒に先に食堂で待っていてください」
「はーい」
咲夜は眼で小悪魔に合図をする。
瀟洒なメイドが何とかしてくれるだろうという信頼から、
小悪魔はフランドールと手をつないで厨房を出て行った。
「ねえ、小悪魔。カレーライスって美味しいの?」
「えっ? ええ、美味しい……と思います」
「そうなんだ。小悪魔が作ったんだよね」
「はい、妹紅さんと一緒に」
「お姉様や霊夢と一緒に食べられるんだ。どんな味がするんだろう、楽しみだなぁ」
「そうですね……楽しみですね、とっても」
そんな会話が、少しずつ遠ざかっていく。
聞こえなくなるまで、咲夜も妹紅もその場を動かなかった。
「……最初はさ」
誰にともなく語り出す妹紅。
その場に唯一いる人間咲夜に聞かせようという意図ではなく、ただ自分の気持ちを吐露したいだけなのだろう。
「最初は、ただの好奇心だったんだ。紅魔館に来れば、普通に食べられるんじゃないかって。
でも違った。咲夜はカレー粉の作り方を知らなかったし、パチュリーは調べてくれなかった。
自分でカレー粉の作り方の本を探してさ、何時間も、すっごく疲れたよ。
ここまでして食べたいもんじゃないし、何やってんだろうって、馬鹿らしく思えてきたんだ。
でも、カレー粉の、カレーライスの作り方が解った時は、すごく嬉しかった。
それに何よりも、カレーライスを食べさせてやるって言った時の霊夢が、すごく嬉しそうで……。
だから……なぁ……カレーライスを食べたいってだけじゃなくてさ、
食べさせてやりたいって……霊夢を、いや霊夢だけじゃない、
小悪魔も喜ばせてやろうとか、咲夜やパチュリーを驚かせてやろうとか、思った。
実際、作るのには難儀したし、何度も失敗したけど、作ってて楽しかったなぁ。
ホント、楽しかった……それで、まあ、いいかな……また今度、作れば……さ……」
途中から、妹紅の声は震えていた。
服の袖で目元をこすっている。
咲夜は妹紅の後ろに立っているから、何を拭っているのかなんて見えない。
妹紅の背中は、やけに小さく見えた。
「結局、残ってるのは真っ白いお米だけさ……うまく炊けたかなぁ、ははっ……」
ハッと、顔を上げたのは咲夜だ。
膝をついてうつむいている妹紅の隣を通り抜け、空になったカレー鍋を取る。
空といっても、舐め回された訳じゃないので、わずかにカレーは残っている。
いくらかき集めても、一人分の量にもならないが。
だが咲夜は、その色合いを見、続いて指ですくって感触を確かめ、ペロリと舐めた。
ちゃんとカレーの味がする。遠い昔、幻想郷に来る前に食べた味が。
それから、炊飯の鍋を開けて、ふっくらと炊けたお米を確認する。
カレーライスがどういう物かを知っているのは、実際に作っていた妹紅と小悪魔を除けば、
咲夜自身と、数年前に一度食べたきりで記憶もおぼろげだという霊夢だけ。
「妹紅」
咲夜は、再び妹紅の隣を通り抜け、自分の作っていた料理の前に立った。
「まさかあなた達がカレーライスをスパイスから作るなんて真似を、
たった一日で完成させるなんて……しかも夕食に間に合わせるだなんて、思ってなかったわ」
「だから、何だよ。今さら褒められたって……」
「だから、私はお嬢様達の分の夕食をちゃんと別に作っていたのよ」
「知ってるよ。それを、出せばいいだろ」
「ええ、出すけど」
咲夜は、自分の料理の鍋のふたを開けた。
香りがあふれ出て、妹紅の鼻腔をくすぐる。
「ひとつ作戦があるわ」
◆
紅魔館の食堂は、紅を灯したロウソクや、紅い花などで飾り付けられていた。
シャンデリアが宝石のようにキラキラと輝き、紅いカーテンの開けられた窓の外は見事な月夜。
白いテーブルクロスの上にある物で、口に入れられる物は先ほど咲夜が持ってきた赤ワインだけ。
唇を濡らしたレミリアが小悪魔に問う。
「ねえ小悪魔、カレーライスにワインって合うのかしら?」
「さ、さあ、どうでしょう……?」
ワインの香りを楽しみながらパチュリーも問う。
「味見くらいはしたんでしょう?」
「しました……けど……一口舐めた程度なので……」
すでに用意されたスプーンを握りしめたフランも笑顔で問う。
「ねえ、カレーライスはまだー?」
「まだ……かかるかもしれませんね……」
無理です、と小悪魔は心の中で呟いた。
フランドールご所望のカレーは、すでに彼女のお腹の中。
そして、この場で一番カレーライスを楽しみにしているだろう霊夢は、
テーブルに頬杖をついてあくびなんかしてる。
小悪魔は胃がキリキリと痛むのを感じた。
(うう、いっそ正直に話してしまいたい。
でも咲夜さんが何とかしてくれるかもしれないし、下手な事は言わない方が……。
ああ! でもでも、このままじゃ私の精神が持たないー!)
すべて暴露してしまおうかと小悪魔が血迷いかけた瞬間、ギイ、ドアが開いた。
一同の視線が向けられた先には、カートを押して入ってくる咲夜と妹紅の姿。
カートの上には、半球形のふたをかぶせられた皿が並んでいる。
計6皿。
咲夜は使用人なので同席は許されておらず、それは小悪魔にも言える事なのだが、
妹紅と協力してカレーライスを作ったため今日だけは特別に同席を許されている。
だから、レミリア、フランドール、パチュリー、霊夢、妹紅、小悪魔で6人分だ。
「お待たせいたしました」
咲夜は一礼し、カートをテーブルの脇まで押すと、
すぐあとをついてきた妹紅に席につくよう言う。
カートには3皿ずつ載せてあるため妹紅が半分手伝ったのだが、
テーブルに移す事までやらせてはメイドの怠慢になってしまう。
(妹紅さん、どうなったんですか!?)
怯えを孕んだ眼差しを向ける小悪魔。
(小悪魔、失敗したらゴメン)
言いたい事を察した妹紅は苦笑いで返した。
咲夜は構わず、テーブルを囲む面々の前にお皿を置いていき、最後に妹紅の前に置いた。
先ほどの小悪魔と同じように、瞳で短い会話をする二人。
(失敗したら、カレーライスは作れなかった事にして素直に謝りなさいよ)
(失敗したら、皿の上の物はお前が思いついた悪戯、ジョークだって事ですませろよ)
真実を話せば、フランドールが叱りを受ける。
久し振りに姉と、そして霊夢やみんなと一緒にカレーライスを食べられるとはしゃいでいるフランドールが。
それは妹紅も咲夜も望んでいなかったし、レミリアだってそうだろう。
霊夢と力いっぱい弾幕勝負をしてストレスや有り余った体力を発散したせいか、
フランドールの精神も安定しており、一緒にディナーを食べられる事をレミリア自身喜んでいるのだから。
うまくいけばすべてが丸く収まる。
皿を配り終え、レミリアのかたわらに移動した咲夜は、
内心の不安を気取られぬよう落ち着いた口調で言う。
「本日のメニューはゲストの藤原妹紅様が特別にお作りになられたカレーライスでございます。
皆様、どうぞご賞味くださいませ」
咲夜の右手が高々と上げられ、パチンと指が鳴らされる。
次の瞬間、皿の上にかぶさっていた半球形のふたがすべて、忽然と消えた。
もちろん指を鳴らした瞬間に時を止めた咲夜が、いちいちふたを取って回ったのだ。
たまにこういった事を咲夜はするので、
カレーライスという特別なメニューゆえのちょっとした演出だとレミリア達は受け取った。
そしてふたの取られた皿の上、そこにある料理を一同は目撃する。
真っ白いライスが、まるで海に浮かぶ三日月形の島のように在った。
海は茶褐色をしており、皿の表面の3分の2を埋めている。
濁った海は、しかし食欲をそそる香りをしており、
ジャガイモ、ニンジン、タマネギといった野菜達、そしてとろけそうな牛肉を浮かべていた。
咲夜はあえてここで沈黙し、おのおの方のリアクションを待った。
妹紅も真実を見抜かれぬよう薄ら笑いで皆の様子を見守っている。
小悪魔は、顔面蒼白になってライスにかかった茶褐色のそれを見つめていた。
そして、心の中で叫ぶ。
心の中でしか叫べないから叫ぶ。
雲を割り月にまで届きそうな勢いで叫ぶ。
(ビィーフシチュゥゥゥゥゥゥーッ!? これビーフシチューですよぉぉぉぉ!!)
それはカレーと呼ぶには色が濃すぎた。
匂いも味もまったく違う。
それはまさにビーフシチューだった。
レミリアは違和感を持ったのか、いぶかしげに眉根を寄せる。
パチュリーも、知識として知っているカレーライスと比べ神妙な表情だ。
もし、ここで騙されてくれれば、このままカレーライスで押し通す。
だが、見抜かれてしまったのなら潔くなるしかない。
(くっ……お嬢様とパチュリー様が疑っている。
それはそうよ、シチューなんて紅魔館じゃ珍しくないもの)
(あ、謝るべきか? 今がその時か? カレーを作れませんでしたと頭を下げるか!?)
(妹紅、まだよ、まだ誤魔化せるかもしれない。でも誤魔化せぬと解った時は素早い対応を!)
(私が謝罪したら、打ち合わせ通り咲夜が私を嘲笑する。
そしてこれは私を馬鹿にする意味も込めたジョークであると言い、
みんなで改めてビーフシチューを食べる!)
(でも、お嬢様やパチュリー様よりも、一番の問題は妹様!
もしご自分が食べてしまったのがカレーだと気づいてしまったなら)
(フランは悲しみ、レミリアは怒り、霊夢も落胆する。
――ハッ、霊夢!? 霊夢の反応は!?)
霊夢は、じぃっとビーフシチューライスを見つめ、記憶の糸をたどっているようだった。
そんな霊夢を凝視する妹紅。
カレーライスと偽ってビーフシチューを出してしまった事を申し訳なく思う。
しかし、ここは姉妹仲を守るため、騙されてくれ霊夢!
「これ――」
霊夢が、口を開き、顔を上げ、妹紅を見つめた。
唇が次の言葉を発するべく形を変えようとし、妹紅はもう駄目だと直感した。
一瞬、咲夜に視線をやる。咲夜は小さく顎を引き肯定の意を示した。
作戦失敗――。
先に霊夢に言われてはならぬ、妹紅は素早く叫ぼうとした。
「ご」
「カレーライスだーッ!」
場に漂っていた緊張感を一切合財無視して、底抜けに明るい声が食堂に響く。
一同の視線が向けられた先、声の発信主は、握りしめたスプーンを高々と掲げる少女。
フランドール・スカーレット!
キラキラとルビーのように輝く瞳には、疑いなんてものは微塵もふくまれていない。
大きく開いた口は、早く食べたい食べたいと、笑顔の形で開いている。
「お姉様、カレーライス! 小悪魔が作ったカレーライスだよー! 美味しそう!」
「え、ええ……そうね」
チラリ、と、レミリアは霊夢に目線をやる。
以前カレーライスを食べた事があるという霊夢に確認を求めたのだ。
霊夢は、スプーンでシチューとライスを同時にすくい、唇に運ぶ。
まぶたを閉じてモグモグと、しっかり味わって咀嚼して、一言。
「うん、何だか色が濃い気がするけどカレーライスね」
曖昧な記憶よありがとう!
美化された思い出よありがとう!
騙しちゃってごめんなさい――。
「そう? じゃあみんな、いただきましょうか」
レミリアもスプーンを取ったので、
フランドールは大喜びでビーフシチューライスをすくって食べた。
「美味しいー!」
パチュリーは疑わしげな眼をしたままだったが、
一口食べてみたら意外と美味しかったらしく黙々と食べ続けた。
小悪魔は、ホッと息を吐くと、まだ信じられないといった表情で咲夜と妹紅を見る。
妹紅は「うん」とうなずいた。咲夜も唇だけで微笑んで返した。
万事うまくいったと見て、咲夜は作戦成功時のプランを実行する。
「皆様。これはカレーライスの中でも、ビーフカレーと呼ばれる種類の物に御座います。
色が濃いのも当然。ビーフカレーはおおむね、普通のカレーより色が濃いものですから。
しかも藤原妹紅と小悪魔がオリジナルブレンドを施した特別なビーフカレー。
名づけるならば……『紅魔カレーもこあスペシャル』……!!」
オリジナルブレンドと偽る事で、カレーライスではない事を全力で誤魔化すその料理!
さらに!
もこう+こあくま=もこあ
という式の元、珍妙な名前でさらに誤魔化しっぷりを補強する!
あとは思い込みの力だ。心頭滅却すれば火もまた涼しと言うように、思い込みは強烈だ。
これはカレーライス、ビーフカレーだと思って食べれば、そういうものだと納得してしまう。
ビーフシチューとビーフカレー、名前が似てるから味も似ているだろうと思ってしまう。
皆を騙すのは、偽りのカレーライスを出すのは心苦しい。
でも。
「うんうん、やるじゃない妹紅! それから小悪魔も!
ずーっと食べたかったのよね、カレーライス。まさかまた食べられるなんて驚きだわ」
真実という潔さで霊夢の数年振りの期待を裏切り落胆させてしまうより、
偽りという優しさでもって数年振りの期待を満たして上げる方が、きっと幸せだから。
(今度――今度は、ちゃんと本物のカレーライスを作ってご馳走してやるからな)
ビーフシチューライス、もとい紅魔カレーもこあスペシャルを食べながら妹紅は、
霊夢や協力してくれた小悪魔と咲夜に、それから今ここで騙されているみんなに誓った。
普通のカレーライスだって言えば、まあ、大丈夫だろうから。
ふと、視線を感じて妹紅は振り向く。
苦笑を浮かべている小悪魔と視線が交じり合い、同じ事を考えていたんだとお互いに悟った。
妹紅はワイングラスを取ると、小悪魔に向けて掲げる。
意を汲み取った小悪魔も同様にワイングラスを取る。
二人は、同時に空中でグラスを軽くぶつけ合う仕草をした。
紅魔カレーもこあスペシャルに乾杯。
◆
デザートのプリンを食べてお開きになったあと、妹紅は小悪魔と一緒に厨房に戻っていた。
自分達で使った調理器具は、自分達で片付けるべきだからだ。
「それくらい私がやっておくわよ」
と咲夜は言ってくれたけど、妹紅も小悪魔も、自分の手で片付けたい気分だった。
それに厨房なら、真相を知る三人だけで話ができる。
妹紅がカレーの鍋を洗っているかたわらで、咲夜がシチューの鍋を洗っていた。
「二人とも、お疲れ様。お陰でお嬢様も妹様も楽しい時間をすごせたみたい」
「いや、礼を言うのはこっちさ。咲夜の機転のおかげで助かった」
「まったくですよ。お二人の作戦を聞かされてなかった私は、もう心臓バクバクで……。
しかもパチュリー様は最後まで無言でしたし、たまにこっちを見るし、怖くて怖くて」
「それにしても、あなた達よく食べたわね。3杯もおかわりして」
「図書館でずーっと調べ物してて、昼抜きだったからなぁ」
「咲夜さん。今度、一緒にカレーライスを作りましょうよ。
紅魔カレーもこあスペシャルもいいですけど、
ちゃんとしたカレーライスも食べてもらいたいですし、
咲夜さんだってカレーライスを香辛料から作れるようになったらレパートリーが増えます」
退屈な後片付けも、そこに談笑が交わればこんなにも楽しいひとときになる。
色々大変な目に遭ったけれど、紅魔館って楽しい場所だなと妹紅は思うのだった。
手際のいい咲夜と、二人がかりの妹紅と小悪魔は、ほとんど同時に器具を片付け終えた。
カレー粉の材料となる香辛料をお土産にもらった妹紅は、
二人に見送られながら紅魔館の玄関から出た。
すると、頭上から声がかけられる。
「妹紅」
見上げれば、かなり上の階の窓から身を乗り出している霊夢の姿。
「よぉ霊夢、まだ帰らないのか?」
「竹林より神社の方が近いしね、もうしばらくレミリアと呑んでるわ」
「ははは、あまり呑みすぎるなよ」
自然とこぼれる笑みの心地よさに胸をあたたかくしながら、
本物のカレーライスの誘いを今しようかなと妹紅は考えた。
「あのさ」
だが先に霊夢が何事かを言おうとしたので、妹紅は黙って耳を傾ける。
霊夢は言った。
「今度神社に来なさいよ。赤い味噌汁、飲ませて上げる」
「えっ――?」
何で急に、味噌汁? そういう会話の流れだっただろうかと妹紅は疑問に思った。
でも霊夢は自然に続く言葉を発する。
「たまには赤味噌が食べたいんでしょう?」
思い出す妹紅。
そういえば、釣りの時にこんな会話をした。
――あんたは、何か食べたい物とかある?
――ん、そうだな。慧音が白味噌派でさ、たまには赤味噌が食いたいなぁ、なんて。
あんな些細な言葉を、霊夢はいちいち覚えていてくれたのか。
「カレーライスのお礼、食べに来るでしょ?」
そして霊夢は紅魔カレーもこあスペシャルを、本物のカレーライスと信じている。
だったら。
「ああ、食べに行くよ。それと、今回のカレーライス……実は偶然の産物なんだ」
「へぇ、そうなの?」
「うん、一応形にはなってたけど、レシピ通りにいかなくってさ。
だからまたカレーライスをご馳走するよ。
今日よりもっとちゃんと作って、改良だって加えて、ほっぺが落ちるくらいのをさ」
「そう、楽しみにしてるわ。でも私の味噌汁が先よ」
「解ってるって。じゃあな霊夢、二日酔いには気をつけろよ」
足取りが軽い。
腹いっぱい食べたとはいえ、今日は慣れない事をたくさんして疲れているのに。
足取りが軽い。今なら空だって飛べそうだ。
「――って、実際飛べるんだけどね」
身体がフワフワするくらい上機嫌で、どんな上等な酒を呑んでもこんな気分にはなれないだろう。
これでは帰ってもすぐには眠れそうにない。
霊夢もレミリアと呑んでいるようだし、慧音を誘って一杯やろうか。
今日の出来事を肴にしてもいい。慧音にもカレーライスを食べさせてやろう。
ある程度カレーライスを上手に作れるようになったら、うんと辛いのも作ってみたい。
甘い物も好きだけど、辛い物だって好きだから。
そうだ、輝夜にも食べさせてやろう。火を吹くくらい辛いカレーを。
たまにはそんな悪戯も悪くない。名づけて妹紅カレー激辛スペシャルだ。
そして一通りカレーライスを楽しんだら、
紅魔カレーもこあスペシャルを再び食べてみるのも悪くない。
そう提案したら咲夜と小悪魔はどんな反応をするだろう。
呆れるだろうか、笑うだろうか。
でも多分、いや、絶対一緒に食べてくれると思う。
◆
「どうもお邪魔しました」
と、妹紅は門番に声をかけた。同時に覚えのある匂いに気づく。
「ああ、どうも」
門の脇に小さなテーブルが置かれてあり、美鈴は夜食を食べている最中のようだった。
その夜食とは。
「これは……紅魔カレーもこあスペシャル……?」
「咲夜さんから事情は聞いてますよ。ビーフシチューで誤魔化すとは恐れ入りました。
ちなみにこれはさっき咲夜さんが差し入れしてくれたもので」
「咲夜が? いつの間に……って、時間を止められるならいつでもできるか」
「でも残念でしたねぇ、カレーライス」
しみじみとした口調で言いながら、美鈴は牛肉をすくって食べた。
元々このビーフシチューのために咲夜が用意した牛肉だ、
カレーもどきにしてライスと一緒に食べるよりは、牛肉だけの方が正しい食べ方だろう。
「ああ、本当に残念でさ……丸くおさまったからいいけど。
本物のカレーライスはまた今度って事で。私も小悪魔も、もう作り方は覚えたし」
「フッフッフッ、挑戦状として受け取っておきましょう」
突然、美鈴の態度が大きくなった気がした。
眼差しも、鋭く凛々しく輝きを増しているような気がする。
「挑戦状とは大袈裟な」
「あっはっはっ、私はカレーライスにはちょいとうるさいですからね」
「へー、そうなん……えっ?」
美鈴の奇妙な物言いに妹紅は言葉を途切れさせた。
今の言い方は、何だろう、疲れた頭ではうまく認識できない。
あれでは、まるで――。
「こう見えて私もスパイスからカレーを作る本格派ですからね」
えっへん、と胸を張って美鈴は言った。
「もうスパイスのわずかな分量の違いも見極めて、その日の温度や湿度まで計算して、
その日その時だけの絶好の一品を作り上げるほどのカレーの鉄人、紅美鈴ですから」
衝撃ッ! 咲夜さんも知らなかった新事実!
スプーンをプラプラさせながら、こんなのどうって事ないよといった風に、
全然自慢してませんよというような態度で美鈴は自慢した。
それくらい、特に目くじらを立てるほど悪い態度という訳ではない。
むしろ可愛げがあるくらいだ。
だがしかし、藤原妹紅は違った。事情が違った。
図書館で五時間調べ通し。リザレクションを2回。
初めてのカレー作りに四苦八苦。リザレクションを1回。
完成させたカレーをフランドールに食べられてしまう事故。
でもフランドールを責めるなんてできなくて、一か八か優しい嘘の大作戦、
偽りの紅魔カレーもこあスペシャル。
今日一日の思い出が、走馬灯のように妹紅の脳裏をよぎった。
ああ、苦しくも楽しい時間だった。
しかし、しかしッ!
「あれ、どうしました?」
「……る、なら……」
「はい?」
「カレーを作れるなら……もっと早く言えぇぇぇッ!!」
小宇宙「鳳凰星座 ―鳳翼天翔―」
紅い月の綺麗な晩、星のまたたく夜空を翔る一筋の流れ星は紅美鈴。
彼女の何が悪かったのかというと、間、だろうか。
あるいは、運か。
少なくとも美鈴自身に悪い部分はなく、妹紅の怒りは理不尽なものだろう。
しかし理不尽でも怒らずにはいられなかった妹紅の悲劇。
咲夜からちょっと事情を聞かされた程度だったため今回の一件を軽く思っていた美鈴の悲劇。
彼女のご主人様が運命を操る程度の能力を行使して、
幸運とまではいかずともせめて不運にならない程度に操作してくれたなら、
きっと美鈴はもっと幸せいっぱいに笑っていられるに違いない。
さて、そのご主人様、永遠に紅い幼き月はというと――。
◆
漆黒の空間に紅き真円が描かれる静かな晩。
人払いをし、メイド長さえも入れぬ一室で、窓から射し込む月明かりに照らされた二人が、
窓辺の小さなテーブルで深紅の果実酒に唇を濡らし、酔いに頬を染めていた。
「久し振りにフランとディナーを楽しめたわ、ありがとうと言っておきましょうかしら」
「礼を言われる筋合いはないわよ、私がフランと一緒に食べたかっただけだし」
「そう。ところで霊夢、あなたはちゃんと気づいていた?」
試すようにレミリアは言いクスクスと笑ったが、霊夢は素知らぬ顔でグラスを傾ける。
「さあ、何の事やらまったく気づいてないですわ」
「ふぅん」
幼き容姿の吸血鬼は、窓の外に目を向けた。
真っ白い髪をなびかせて迷いの竹林へと飛んでいく小さな人影を、
吸血鬼の瞳は暗闇の中から正確に探し出して見つめる。
「あの蓬莱人、いい奴ね」
「あなたの自慢のメイドもね」
「フフッ。だって私の咲夜だもの、美鈴よりも誰よりも、ずっと気を"遣"えるわ」
「ネーミングセンスもまさしくあんたのメイドだったけど」
「あら、それはどういう意味かしら?」
「うーん、言葉通りの意味かなぁ」
紅白衣装の巫女は、相手側の空になったグラスに果実酒を注いでやる。
それを受けて、紅き吸血鬼も相手側のグラスに果実酒を注ぎ返す。
こんなにも気分がいいのは、喉を熱くする深紅だけのせいではあるまい。
改めてグラスをカツンと合わせた二人は、唇だけの小さな笑みを浮かべた。
「今宵のワインは格別ね」
「今夜のワインは最高ね」
FIN
名前だけは知ってると答えた。
けれど見た事も食べた事もないと答えた。
お前は食べた事があるのか、美味しかったのか、問う。
「何年も前に一度食べたきりだけど、うん、美味しかったわ」
その後もおぼろげな記憶を頼りにカレーライスの思い出を語ってくれたが、
味わいや感想を伝える言葉よりも何よりも、楽しそうな霊夢の笑顔が眩しかった。
それがきっかけだったと彼女は思う。
◆
「入れてくれ」
「どちら様ですか」
天気のいいとある朝のひととき、紅魔館に小包を持った来訪者。
どうやら人間のようだが、見覚えのない相手だ。美鈴は警戒心を強めた。
特に親交のない人間に入れてくれてと言われて、はいどうぞでは門番など務まらない。
友好的な態度を取ってはいても、紅魔館の吸血鬼を倒し名を上げようとしている身の程知らずかもしれない。
そういう馬鹿を撃退するのも門番の仕事だ。
そんな美鈴の考えに気づいているのかいないのか、人間はマイペースそうな笑顔で言う。
「ちょっとメイド長に料理の相談がしたいだけだよ。一応、咲夜とは知り合いだし」
「知り合い程度の人間を通す理由はありません。せめて友人になってから出直してください」
「霊夢はどのポジションなんだ? 咲夜の友達?」
「だと思いますけど……って、それよりあなたは博麗霊夢とはどういう?」
「知り合い程度の関係」
「お名前は」
「妹紅。迷いの竹林の、藤原妹紅」
頭の中の幻想郷人名図鑑をペラペラとめくる美鈴だが、藤原妹紅なんて名前は載っていないし、
門を通していい人妖の名前はしっかり覚えている。
咲夜と霊夢の二人と真実知り合いなのだとしても、この際関係ない。
なぜならレミリアからもパチュリーからも咲夜からも、門を通していい相手として伝えられていないからだ。
迷いの竹林の、と名乗った事から永夜異変の時に知り合ったのだろうと推測できるが、
生憎と異変で知り合った人妖を招いて宴会する博麗神社とは勝手が違う。
しかも用事は料理の相談ときた。
パーフェクトメイドの咲夜に相談という事は、この人間が助言を請う方だろう。
わざわざ知り合い程度のために、メイド長を手間取らせる必要はない。
「お帰りください。ただでさえ魔理沙に連敗続きで門を破られてるのに……」
「そおか、お前を負かせば通っていいんだな?」
「え」
美鈴が自らの失言に気づいた時、妹紅はすでに戦闘態勢に入っていた。
「ようし、手っ取り早くスペルカード1枚でケリをつけてやる!」
「ちょ、いきなり!? だがここで引き下がっては紅魔館門番の名が廃ります、いざッ!」
弾幕勝負が不得手なため、スペルカードルール創設以来負け星の増えている美鈴だが、
妖怪として平均以上の実力は持っているし、連敗続きとはいえあの霧雨魔理沙といつも戦っているのだ。
こんなろくに名前も聞いた事のない人間にまで負けるつもりはない。
「フッ、門番如き一撃で空の彼方までふっ飛ばしてくれるわ。この鳳凰の羽ばたきによって!」
だが藤原妹紅はあの蓬莱山輝夜とで殺し合いをする程度の実力の持ち主。
それを知らなかった美鈴は、わずかばかりの油断をしていた。
「な、なにぃ!? この弾幕は……!」
妹紅の極めて高い実力に気づいた時はもう遅い、渾身の攻撃が炸裂する。
「鳳翼天翔ー!!」
朝である。太陽が照っている時間である。
故に、レミリア・スカーレットの部屋の窓は真っ赤なカーテンで閉ざされている。
しかし気まぐれからちょっと青空を見ようかなと思い、咲夜に窓のカーテンを開けさせた。
直射日光の当たらぬ位置から見える青空の中、紅魔館の素敵な門番、紅美鈴が垂直にふっ飛んでいた。
頂点に達した美鈴は、頭から垂直に地面に落ちて行く。
開けたばかりのカーテンを、咲夜は黙って閉めた。
レミリアも今見たものを忘れようとするように、テーブルにあった赤ワインをゴキュゴキュと飲む。
何で紅魔館の門番は"ああ"なのだろう。
決して弱いはずじゃないのに、なぜいつもいつも"ああ"なのだろう。
美鈴が弾幕勝負は苦手とはいえ、それでもそこいらの人妖を軽く蹴散らす実力はある。
だのに何故、いつもいつも"ああ"なのか!
グラスを空にしたレミリアは、ふと、門を破ったのが霊夢だったらいいなと思った。
最近は宴会がないから、一緒に飲む機会もないし、久々に弾幕勝負をするのも悪くない。
その後、夜空に浮かぶ紅い月を見ながらワインを飲めたら、多分楽しいはずだから。
でも霊夢じゃなさそうだな、とレミリアは溜め息をつく。さて、誰が来たのだろう?
紅魔館の廊下を歩く人間が一人。
真っ赤な絨毯の踏み心地を堪能しながら、飾ってある絵画や甲冑などに興味を示し、
あっちへフラフラこっちへフラフラそっちへフラフラどこへ行く気やら。
「えーと、メイド長はどこにいるのかなぁ」
あんまりフラフラして地下に迷い込んでフランフランにされては後始末が面倒と、
紅魔館の廊下に音もなく出現するメイド服の人間。
「呼びましたか?」
侵入者の正体を確かめるべく、時間を止めて参上するは瀟洒なメイド十六夜咲夜。
魔理沙以外の侵入者は珍しいので警戒していたが、相手が見知った顔だっため、
逆に嫌な予感になってしまう。
「お、丁度いい所に。とりあえずこれ、つまらないものですがどうぞ」
そう言って差し出された小包を一応は受け取って礼を言う咲夜。
「まあ、わざわざどうも」
「来る途中、峠の茶屋で買ってきた団子だ。あとで食べてくれ」
「ありがたくいただくけれど、それとこれとは話が別。不法侵入は見逃しませんわ」
「だってあの門番が通してくれないし」
「美鈴は門を通していい相手とダメな相手はちゃんと区別つけるわよ。
それを破ったあなたは侵入者、美鈴には荷が重かったかしらね。
魔理沙以外の侵入者なんて久し振りだから、思う存分やらせてもらうわよ」
咲夜は団子の包みを消し去ると同時に、手の中に無数のナイフを出現させた。
お得意の種なし手品を見て、妹紅の唇が弧を描く。
「そういや……肝試しの時は二対一だったよな。丁度いい、ついでにリベンジさせてもらう」
手に冷たい銀のきらめきを握る咲夜と、手に燃え盛る紅蓮の揺らめきを握る妹紅。
「一対一でも結果は同じに決まっているわ」
「一対一でも結果が同じじゃつまらないよ」
◆
「食らえ、星も砕け散るフェニックスの羽ばたきを! 鳳翼天翔ー!!」
顔面から床に激突した咲夜は、鳳翼天翔ってこんな弾幕だったっけ? と疑問に思った。
何だかよく解らないうちに真上に吹っ飛ばされて、気づいたらこの有り様。
「残念だけど私の負けね」
念のため鼻血が出ていないかを確認してから咲夜は立ち上がり、
勝利の笑みを浮かべている妹紅へと向き直った。
「よーし、それじゃ私の頼みを聞いてもらおうか」
「うーん、仕事に支障が出ない範囲でなら」
「あのさ、お前カレーライス作れるか?」
やはり嫌な予感が的中したかと咲夜は息をつく、
そんなくだらない理由で紅魔館の門番をふっ飛ばされてはかなわない。
露骨に呆れた口調で咲夜は応じた。
「何でまたそんな物を」
「知ってるのか」
「ええ、まあ」
「食べた事は?」
「あるけど」
「じゃあ作れるよな?」
ガッツポーズを取って喜ぶ妹紅だが、咲夜は静かに首を振った。
「カレー粉がなきゃ作れないわ。もっとも幻想郷にはないみたいね」
「カレー粉? 必要なのはルーやレトルトじゃないのか?」
ルーとレトルトは知っているくせにカレー粉はしらないという偏った知識を披露され、
ややこしい事態に巻き込まれそうだと咲夜はわずかに顔を伏せた。
「カレールーやレトルトがあれば、そっちの方が簡単でしょうけど、どっちもないわよ」
「でも紅魔館なら何とかなるよね?」
「なる訳ないでしょ。どうしてそう思うのかしら」
ニカッと妹紅は笑う。
嫌な予感しかしない笑顔だ、どうせろくな事を言わないだろう。
「カレーってのは本来、色んな香辛料を混ぜたりして作る物らしいって慧音が言ってた」
「それはよかったわね。作り方が解っているなら、香辛料を集めればいいでしょう?」
「だからここに来たんだ」
やっぱり、ろくでもない事を言いそうだ。
咲夜は何を言われても溜め息をつかないようにしようと心がけた。
「紅魔館ってくらい真っ赤なら、辛い物って一通りそろってそうだろ?
カレーライスって辛いらしいから、香辛料もみんな辛いはずだ」
心がけて正解だった。咲夜は溜め息をつきたいのをこらえ、平静を努める。
「紅魔館の紅は辛い物じゃなく、血をイメージしたものなんだけど」
「え、炎の赤じゃないのか?」
「あなたの館になった覚えはないわよ、セルフ焼き鳥さん」
――その時、焼き八目鰻の仕込みをしていたミスティアに電流走る。
「ハッ!? どこかに焼き鳥扱いされる同士の小宇宙(コスモ)がッ!!」
しかし本編とは一切関係がないので忘れていい。
「香辛料ならたくさんあるけれど……」
食料庫の一角に案内された妹紅は、棚いっぱいに並べられたビンを見て唖然とする。
どれもこれもひらがなカタカナ漢字が一切使われていない。
アルファベットが読める程度の英語力では手も足も出ない。
しかも英語以外も混じってそうなので、妹紅は完全にお手上げ状態だ。
その中から適当に赤いビンを取って、咲夜は言う。
「香辛料からカレーを作る方法なんて知らないけど、これだけ色々あれば何とかなるかもとは思うわね」
「むううっ、確かに何とかなりそうだが、この香辛料をどう調理すればいいのかも解らない……」
「カレー粉の作り方を知ってる人がいないのなら、大図書館で調べる以外に手はなさそうね。
でもいきなりカレーライスだなんて、どういう風の吹き回し?」
咲夜が振り向いた時、手の中のビンが赤から白に変わっていた。
また種なし手品か、と妹紅は驚いた風も見せず答える。
「食べてみたいじゃないか。今まで見た事もないような、美味しい物をさ」
その気持ちは解るけれど、と言おうとして、咲夜はビンを棚にしまった。
自分はカレーライスに思い入れがある訳じゃないし、適当に終わらせて早く仕事に戻りたいのが本音。
本の世界だと妹紅は思った。
見渡す限りの本の山、まるでこの世のすべてが本に埋め尽くされてしまったかのような錯覚さえ覚える。
いったい何冊の本があるのかなんて、想像するだけで頭が痛くなる。
いいや本棚がいくつあるか考えるだけでも、十二分に想像を絶する。
咲夜の案内がなければ、この大図書館で遭難する自信が妹紅にはあった。
(迷いの竹林の案内人をやっている私が迷いそうな図書館って、何だ)
永遠の時間を持つ不死の肉体を持ってしても、この図書館の蔵書をすべて読むなど不可能だとさえ思う。
「こっちよ」
図書館の構造を把握しているのか、咲夜の足取りに迷いはない。
キョロキョロしながらあとをついていく妹紅、時折本棚に面白そうな本が見え、足を止めそうになる。
だが置いてきぼりにされてはたまらない。
しばらく歩くと、本の出し入れをしているのだろうか、それらしい音が聞こえた。
「パチュリー様ですか?」
「ほえ? 咲夜さん?」
本棚の陰から、蝙蝠の羽を頭と背中から生やした少女が姿を現す。
「あんたがパチュリーか。ちょっと調べ物を頼みたいんだけど」
「どちら様?」
咲夜の前に出てにこやかに声をかける妹紅だが、パチュリーらしき少女はいぶかしげな表情をする。
初対面の相手にいきなり名前を呼ばれれば仕方ない事だ。
「私は妹紅、迷いの竹林で道案内をする程度の人間だ。
この図書館の主のパチュリーに、ちょいと訊ねたい事があってさ」
「はぁ、そういう事はパチュリー様に言っていただかないと」
「あれ? あんたがパチュリー……じゃ、ないみたいだな」
口元を歪め、妹紅は咲夜をねめつけた。
咲夜は肩をすくめながら、冷めた眼差しで返す。
彼女がパチュリーだとは一言も口にしていないし、本棚の影にいたため最初から疑問系で声をかけている。
「小悪魔。パチュリー様はどちらに?」
妹紅への紹介の意味を込めて名前を呼ぶ咲夜。
だが妹紅からしたら、それが名前なのかと余計疑問に思ってしまう。
だって小悪魔だなんて、明らかに種族名じゃないか。
「パチュリー様でしたら、4696番の本棚にいらっしゃるかと」
「三日前、魔理沙の被害にあった本棚ね」
「私もパチュリー様のお探しになられていた本を見つけたので、ご一緒します」
小悪魔は5冊の本を抱えていた。
どれも辞書に負けず劣らずの分厚さで、筋力トレーニングにはもってこいに見える。
一日中、本ばかり読んでいる生活とはどんなものだろうと妹紅は想像して、すぐあきらめた。
咲夜を先頭に、小悪魔、妹紅と続き、4696番の本棚に向かうと、紫色の人影を見つける。
うつむいている彼女の前の本棚は、なぜか本が一冊も収められていない。
魔理沙の被害と咲夜は言っていたが、いったい何があったのだろうと妹紅は眉をしかめる。
「パチュリー様」
紫色が本棚の空白を憂う表情のまま振り向いて、咲夜を見、次に小悪魔を見て、視線を本棚に戻す。
どうやら妹紅には興味がないようだ。
「こういう時はあれか、また弾幕勝負して、勝てば話を聞いてもらえるんだな」
「小悪魔、本は?」
「はい、こちらに」
妹紅を無視してパチュリーは小悪魔から5冊の本を受け取り、表紙と題名を確認する。
『魔宮薔薇を栽培するには 入門編』
『理屈抜きで復活しても許されるには 鳳凰幻魔編』
『沙羅双樹と阿頼耶識』
『ラス アルグール ゴルゴニオ』
『ブルー・ドリーム 話せない夢が誰にもある』
うん、と小さくうなずいてようやくパチュリーは微笑を作った。
「ご苦労様。ところで咲夜、何か用?」
「こちらの紅白2号がカレーライスの作り方を調べたいそうです」
「髪の毛が白い分、1号より2号の方がより紅白らしいわね」
「まったくもって」
「で、霊夢なの? それとも魔理沙?」
意図の掴めない質問に咲夜と小悪魔は眉をしかめた。
妹紅はというと、思い当たる節があるのかパチュリーの目を真っ直ぐに見つめ返している。
「そういえば、霊夢がパチュリーの名前を出してたな」
「私にカレーライスの質問をしたのは魔理沙だけどね。
三日前、魔理沙がカレーライスを作りたいとか言って、料理関係の本を手当たり次第盗んでいったのよ。
霊夢も興味を持ってたみたいだから、そのどちらかと関わってると思ったんだけど大当たりみたいね。
とりあえず立ち話もなんだし、座りましょうか」
◆
陽射しの心地よい快晴で、釣り日和だった。
何も考えず川原に座り込んで、釣り竿を引っ張られるのを待ち続けるだけの時間を楽しむのも悪くない。
ついでに釣った魚を美味しくいただければ申し分ない。
だから藤原妹紅は釣りに出かけた。
「よう、霊夢も釣りか? お天道様が眩しいもんなぁ」
川原にあった大きめの岩に座って釣り竿を握っていた妹紅は、砂利を踏む足音に気づいて、
釣り具を持ってやって来た紅白衣装の霊夢を見つけて声をかけた。
霊夢もこちらに気づき、表情を変えないまま返事をする。
「釣れてる?」
「私もさっき来たばかりでさ」
「へえ、そう」
どうにも素っ気ない。
まあ片手で数えられる程度の数しか会ってないのだから、お友達のように接する必要もないのだろう。
霊夢は妹紅からやや離れた所にある岩に上ると、座り心地のよさそうな場所を探し始めた。
お互いが伸ばした手のひら程度の大きさに見える遠さのため、妹紅は大きな声で呼びかける。
「もっとこっちに座ればいいのに」
「あまり近くで釣り針を垂らしてたら、獲物の取り合いになっちゃうでしょ」
「それもそうか。釣れたらここで食ってくか? 焼いてやるぞ、火加減の調節は得意なんだ」
「魚くらい自分で焼けるわ」
「遠慮するなよ」
カラカラと笑う妹紅は、釣りという静かな時間をすごしたくてやって来たのだが、
元々家にいても竹林にいても基本的に独りなので、日当たりのいい川に来たのは気分転換にすぎない。
慧音は基本的に人里で暮らしているし、妹紅の家には遊びに来るがいつもという訳でもなく、
だから偶然とはいえ、知り合いに会って妹紅は嬉しかった。
でも、どうやら霊夢は違うようだ。
会話をするのが億劫なのか、妹紅の相手をするのが面倒なのか、ともかく歓迎はしていないように見える。
(あれ? 私、嫌われてる?)
と妹紅が不安になってしまうのも仕方なかった。
苔の生えた岩に腰を下ろした霊夢は、ゆったりとした仕草で釣り針にミミズを刺し、川に放り込む。
霊夢がつまらなそうな表情で水面を見つめ続けているのを、妹紅は見つめ続けていた。
お互いに一度も竿を引かれぬまま半時ほどがすきた頃、妹紅は声をかけた。
「元気ないな」
「別に」
「腹でも減ってるのか?」
「朝食はちゃんと食べたわよ」
「もしかして機嫌悪い?」
「別に」
「私、邪魔か?」
「……別に」
「やっぱり私、邪魔かな」
「違う」
淡々と答えていた霊夢の声色が、わずかに強まった。
邪魔ではないと思ってくれていると解って、妹紅の気持ちは鞠のように弾んだ。
白い歯を見せるような笑みを浮かべて、妹紅は続ける。
「魚、好きか?」
「食べられるなら何でもいい、美味しければ尚いいわ」
「そうなのか。私はさ、タケノコが好きなんだ。でもタケノコが好きだから竹林に住んでる訳じゃない。
竹林に住んでるからタケノコ好きになっちゃったの、ははっ」
「そう」
「やっぱり元気ないだろ、どうした?」
竿は動かない。
魚はいるのだろうかいないのだろうか。
腹の虫が鳴きそうだ。
念のためお弁当は持ってきてあるけれど、魚がないのは貧しい。
霊夢が振り向く。
気だるげな眼差し。
桜色の蕾が開く。
「妹紅」
「うん」
「あんたは、何か食べたい物とかある?」
「ん、そうだな。慧音が白味噌派でさ、たまには赤味噌が食いたいなぁ、なんて。
霊夢の所は、赤と白、どっちだ?」
「赤でも白でも構わないわ。混ぜる時もあるし」
「はははっ、さすが紅白巫女。じゃあ白黒魔法使いの所は白味噌なのかなぁ。
紅魔館は赤味噌……は、ないか。あそこ洋食だろうし。
あの半霊達の所はどうだろう? 白玉楼だから白味噌か? 幻想郷は白味噌派が多いな」
「衣装や名前に白が入ってるからって、そう決めつけられてもねぇ。
魔理沙は赤味噌派よ。よくうちで食べるから、私も赤味噌ばっかり」
「あ、そうなんだ。うちと一緒だな。慧音が白味噌派だから、私も白味噌ばっかりに……」
「それはもう聞いた。だいたい、あんたは魔理沙ポジションでしょ。慧音にご飯をたかりに行く……」
「いや、慧音がうちに来るんだよ。ちゃんとご飯を食べてるか確認しさ。
そのついでにご飯を作ってくれて――元気出てきたな」
「そう?」
何で元気がなかったのかなんて知らない。
でもそんなのは、知り合い程度の人間と、ちょっと世間話をする程度で何とかなったりするものだ。
でも霊夢は元気がない訳じゃなかった、物思いにふけっていただけだった。
でも妹紅が物思いから霊夢を引っ張り出したので、霊夢は物思っていた事を喋り出す。
「カレーライスって知ってる?」
「日本人のソウルフードはもはやカレーライスになりつつあるって慧音が言ってた。
だから名前だけは知ってる、見た事も食べた事もない」
「そうなんだ」
「お前は、霊夢は食べた事あるのか?」
「うん」
「美味しかった?」
晴天のお日様のような笑顔で、花びらを運ぶ春風のような声色で、霊夢は言った。
「何年も前に一度食べたきりだけど、うん、美味しかったわ」
「へえ、どんなの?」
「茶色いドロドロした泥のような物を、炊いたお米にかけるのよ。
見かけは最悪で、私も魔理沙も、最初は嫌がったんだけどね」
「うん? あの白黒魔法使いと一緒に食べたのか?」
「香霖堂ってお店でね、数年前、カレーライスの材料が偶然手に入ったの。
そこの店主とは懇意にしてるから、特別にご馳走になって。
味はちょっと辛くて、けれどそれが食欲をそそるの。
舌触りはまろやか。具のジャガイモやニンジンもとろけるようだったわ。
ご飯をさ、お茶漬けにしたり、味噌汁をかけたり、そういうのとは全然違うの。
さっぱりとかあっさりって食感じゃなくて、まったりって言えばいいのかな。
二人でおかわりしようとしたんだけど、もう品切れで、
それからしばらく香霖堂に行くたびにカレーライスが入荷してないか確認したわ。
でも、全然入荷する気配がなくて、いつの間にか私も魔理沙もカレーライスはあきらめたの」
太陽のような笑顔で話していたと思ったら、終盤になって北風のように寒々とした表情に変化する。
思い出して、よほど残念に感じているのだろう。
「それにしても、話を聞いてるだけでお腹が空いてくるな。
カレーライスって、横文字なんだから洋食だろ? 西洋出身の連中なら作れる奴いるんじゃないか?」
「アリスに聞いてみたけど、知らないって言ってた。
魔理沙はパチュリーに訊いてみたらしいけど、名前しか知らないってさ。
作り方は霖之助さんが、香霖堂の店主が覚えてはいたんだけど、材料がないと作れないって。
守矢神社の風祝が、最近外から来た人間だから、やっぱり訊いてみたわ。
作り方は知ってたけど、カレーの『ルー』か『レトルト』っていうのがないと無理みたい」
「ルー? レトルト? 何だそれ」
「味噌汁の味噌みたいなものらしいわ」
「ふーん……あいつは? 紅魔館のメイド。ええと、咲夜なら料理のレパートリー多そうだし」
「さあ、どうかしら……普段はカレーライスの事なんて忘れてるから、
思い出した時その場にいる相手に質問する程度よ。
今朝、カレーライスを食べてる夢を見て、妹紅に話すまでずっと思い出そうとしてたの。
カレーライスって、どんな味がしたかな……って」
「あれ? さっき解説してたよね」
「美化された思い出を適当に味付けして語っただけよ。記憶違いも混じってると思う」
「そうか」
妹紅はうなずいて、釣り糸の垂れる水面へと視線を戻した。
「……そうか」
もう一度うなずいて、妹紅はカレーライスとはどんな味がするのかを空想した。
いくら空想してもたどり着けぬと理解した上で。
釣果は坊主。
妹紅の梅おにぎりと、霊夢の塩おにぎりを一個ずつ交換して食べてから二人は別れた。
帰路の途中、妹紅は人里に寄り慧音を訪ね、カレーライスについて質問する。
すると、多数の香辛料を使って作る方法があるらしいと聞かされた。
カレーライスは辛い。
辛い香辛料は赤い物が多い。
赤といえば紅魔館。
紅魔館なら香辛料もいっぱい置いてそう。
聞いたら呆れてしまうような連想ゲームを経た妹紅は、
明日になったら道中にある峠の茶屋で団子でも土産に買って、紅魔館を訪ねようと決めた。
咲夜がカレーライスを作れるかもしれないし、噂の図書館なら作り方が解るかもしれない。
ちょっと遊びに行くついでに、カレーライスが食べられたらラッキーだ。
その程度の気持ちだったけど、カレーライスの美味しさを語った時の霊夢の笑顔、
思い出すだけで幸せな気持ちと未知への好奇心という名の食欲が湧いてくる。
明日になったら、紅魔館に。
◆
明日になった今日。
大図書館の一角にて、本棚へ背中を預けていた妹紅が、
テーブルで紅茶を飲んでいるパチュリーとその傍らで直立不動の咲夜に事の次第を語り終えていた。
「わぁ、私もカレーライスを食べてみたいです」
だが一番反応したのは妹紅の側で瞳を輝かせて聞いていた小悪魔だった。
気をよくした妹紅は、人懐っこい笑顔をパチュリーと咲夜に向ける。
「この図書館の主ならカレーライスの作り方くらいちょちょいと調べられるでしょ?
そこで料理上手な咲夜に、是非カレーライスとやらを作ってもらいたくてさ」
「お、おこがましいのを承知で私もお願いします!」
小悪魔も小犬のような顔をして懇願する。
するとパチュリー、咲夜の両名は顔を見合わせ、視線を交わらせる。
一秒か二秒、瞳で会話をして、二人は首を妹紅に向けると同時に口を開いた。
「自分で調べなさい」
「自分で作りなさい」
8901番の本棚は、すべての者を拒み絶望させる嘆きの壁のようであった。
いったい何段あるのか、そびえ立つ高さ。
両手いっぱい広げても半分にも届かぬ横幅は、果たして一列何冊の本を納められるのだろう。
この中にカレー粉の調合方法が書かれた本がある、かもしれない。
「もし……なかったら?」
「隣の本棚にある可能性が高いです」
「それは8900番の本棚か、8902の本棚か、どっちだ?」
「どっちかです。なければ8989番と8903番、次は8988番と8904番といった具合に」
「やめてくれ、気が遠くなる」
がっくりとうなだれた妹紅の隣で、小悪魔も同様にうなだれていた。
話に乗ってカレーライスを食べたいと言ってしまった小悪魔は、
図書館を散らかされないための監視の意味も込めて妹紅の手伝いを命じられてしまっていた。
「じゃあ妹紅さん、私は上段から調べていきますので、あなたは下段からお願いします」
「それっぽい題名の本を調べるだけでいいんだよね? いちいち全部調べなくてもいいよね?」
「全部調べた方が抜けがなくていいんですけど」
「うーん……そこまでして食べる価値はあるんだろうか、カレーライス……」
「食べてみなければ解りませんね……もし美味しくなかったり好みに合わなかったら……」
「やめてくれよぅ。やる前からそういう風に言われちゃ、やる気が萎える……」
こうして二人は本棚の本を片っ端から調べる事になった。
果たしてカレーライスの作り方は解明されるのか、それはまだ解らない。
そして戦いの火蓋は、切って落とされた!
十分後。
「カレイの調理方法発見ー」
「え、早いですね妹紅さん」
「うん、でもカレーじゃなくてカレイなんだよね。魚の」
「カレイの煮付けとかいいですよねー……って、そんなのいちいち報告しないでください」
「はい……」
三十分後。
「妹紅さん、それ料理漫画ですよね。トンデモ料理を食べてトンデモリアクションをする漫画ですよね」
「あ、いや、こういうのも料理作ってるシーンがあるし、カレーライス勝負とかあるかもしれないし」
「目次ページを見てカレーと関係ある話だけチェックしてください」
「あ、でも全部調べた方が……」
「目次ページだけで十分です、所詮漫画です」
「……はい」
「あ、でも私も読みたいのでキープしといてください」
「おいコラ」
一時間後。
「やった! 見つけたぞ小悪魔。カレーだ、カレーの写真が載ってる!」
「ほ、ホントですか!? 私にも見せてください!」
「ほら、外国語だからよく解らないんだけど、作り方も書いてあるみたいだ。
そしてこの写真! 霊夢から聞いたカレーと完全に一致する!!」
「まあ、茶色くてドロドロしてるジャガイモやニンジンも美味しそう……って、
ビーフシチューじゃないですかぁぁぁっ!!」
「ええぇっ!? 違うのぉぉぉ!?」
三時間後。
「あれ、雨降ってる?」
「え、そうですか? 図書館の中からじゃよく解りません……けど……」
「うん? どうした、顔色悪いぞ」
「いえ、何でもありません……雨……雨か……」
「あ、私ちょっとお手洗いに行ってくるわ。道教えてくれない?」
「ああ……その、ご案内しますよ」
「いや、いいよ。逃げ出そうとかサボろうとかしてるって疑ってるの?」
「いえ、館の中をフラフラ歩かれてフランフランにされても困りますから」
「本を調べるのに疲れてもうフラフラだってば」
「いえ、フランフランは桁が違いますから」
「フランフラン?」
五時間後。
「リザレクション!」
「うわっ、急に何ですか」
「いや、あまりの活字中毒につい意識と生命を手放してしまった」
「本探しくらいでリザレクションしないでください」
「ごめんごめ……リザレクショォォォンッ!!」
「キャアッ!? やめてくださいって言ったばかりですよ!」
「スパイスから作る本格カレー! スパイスって香辛料の事だよな? 見つけたぁッ!」
「え、意外と早く見つかりましたね。一週間程度の徹夜は覚悟してたんですけど」
「え、そんなに重い覚悟が必要だったの?」
「ま、見つかったからいいじゃないですか」
「ま、それもそうだね」
◆
カレーの作り方の要点をまとめてメモをした二人は、
メモに書いた材料を取りに食料庫へ向かった。
道中、小悪魔がやけにビクビクしていたが、何事もなく到着し、香辛料の棚を調べる。
「ええっと、タメリック? ターメリック? どれだ、これか、いやあれか?」
「シナモンやペパーは簡単に見つかりますね。あ、そこにあるのクミンじゃないですか?」
「さすが紅魔館、メモにあるの全部そろってそうだな。これでカレー粉を作れる」
「あ、野菜とお米も用意しないといけませんね。タマネギ、ジャガイモ、ニンジン……」
「肉はどうする? 鶏肉でも牛肉でもいいみたいだけど」
「うーんと、あっ、咲夜さんがいい牛肉が手に入ったって言ってました」
「じゃあ牛肉にしよう。あとはお米お米……おお、コシヒカリ発見!」
食料庫を物色した二人は、戦利品をかついで厨房を目指していた。
すると、紅い絨毯の敷かれた廊下を、紅白の衣装が歩いていた。
「あれ、あんたがこんな所にいるなんて珍しいわね。しかも小悪魔と一緒?」
幻想郷の腹ペコ巫女、博麗霊夢であった。
どうやら一戦交えたあとのようで、衣装がところどころ焦げている。
「霊夢こそ、どうしたんだそれ。異変でもあったの?」
「雨が降ってたからね」
薄々事態を把握しつつあった小悪魔は、霊夢の言葉で完全に確信した。
自分達が図書館で調べ物をしていた時、雨が降っていたらしい。
すなわちフランドールを館の外に逃がさないよう、パチュリーが魔法で雨を降らせたのだろう。
そんな事情を知らない妹紅はさっぱりで、すぐ頭を切り替える。
「それより、晩ご飯はどうするつもり?」
「今日は疲れたから、自炊も面倒だし、焼き八目鰻の屋台にでも行こうかなと」
「よかったら、ここで食べてけよ」
白い歯を見せて笑う妹紅。
立ち振る舞いから疲労の色がにじみ出ているのに、機嫌はすごくよさそうに見えた。
「ここで食べていけって、レミリアや咲夜じゃなく、妹紅が誘うの?」
「カレーライスを作るんだ」
子供のようにはしゃいだ様子で妹紅は言う。
「図書館でさ、何時間も調べて、ようやくカレーライスの作り方が解ったんだ。
たった今、食料庫から材料を持ってきたところ」
「これから作るの? 面白そうだし手伝おうか?」
と、霊夢は妹紅の荷物に両手を伸ばし、左手を引きつらせた。一瞬だけ口元が歪む。
「霊夢? どうしたんだ、怪我でもして……」
「……ちょっと転んだだけよ」
妹紅も、詳細までは解らずとも霊夢が弾幕勝負で負傷したらしい程度の事は察した。
しかし妹紅渾身の弾幕を、八雲紫の協力があったとはいえ初見で全弾回避し華麗に叩きのめした博麗霊夢が、
こうまでやられてしまうとはいったい誰と戦ったのか。
紅魔館の主、レミリア・スカーレットとは妹紅も戦った経験がある。咲夜と一緒に襲ってきた。
レミリアは強いし霊夢相手でも一定の勝率は保てるだろうが、こういった負傷をさせるとは思えない。
だったら、心当たりは……。
「フラフラ歩き回って、フランフランにされたのか?」
「フランの事、聞いてるんだ」
聞いていない。
小悪魔の言葉を思い出して、適当にかまをかけただけだ。
しかしどうやら、フランという名前の者か物が原因らしい。
だが霊夢の口振りから、面倒くささは感じても、嫌っているような素振りは見えない。
「フランっていうのは?」
「聞いてないの?」
霊夢は、妹紅の隣で荷物を抱えている小悪魔を見た。バツの悪そうな顔をしている。
「あの……フランドール様は、レミリアお嬢様の妹様でいらっしゃいます」
「妹……様?」
みょうちくりんな表現に、妹紅はクスリと笑った。
そしてなるほどレミリアの妹なら実力も相応のものがあるだろう。
「じゃあ、そのフランにもカレーライスをご馳走してやろう」
「気前がいいじゃない」
霊夢は笑ったが、小悪魔は大慌てだ。
「そ、そんな、駄目ですよ。レミリア様や咲夜さんのご許可もなく……」
「レミリアには私から話しておくわ。フランも、私と遊んで鬱憤は晴れてるはず。
しばらくはおとなしくしてくれてると思うけど」
「でも」
「たまには、いいじゃない? 姉妹でカレーライスをつっつくのもさ」
実は妹紅達がカレーライスを作ろうが作るまいが、レミリアとパチュリーの分は咲夜が作る事になっている。
というのも、一日でカレーライスの作り方を調べられるなんて咲夜は思っていなかったし、
仮に一日で解ったとしても素人が初めてスパイスから作ったカレーなんて信用していないのだ。
そういった事情を了解している小悪魔だが、
相手が博麗霊夢ではどうのこうのと説得説明したところでどうにもならぬだろう事は容易に想像できた。
だからあえて何も言おうとしなかったけれど、でも。
「じゃあ、楽しみに待っててよ。腕によりをかけて作るからさ」
「そうね、楽しみに待ってるわ。カレーライスなんて、本当に何年振りかな……」
紅白人間コンビはどちらもとても楽しそうに笑っていて、
まるでここだけ心地よい春風が吹いているかのような錯覚さえ感じてしまう。
幻想の春風は小悪魔の心を撫でるように通り抜け、温もりを残していく。
だから。
(まあ、いいか)
と、小悪魔が妹紅を手伝う理由に追加要素ができたのだった。
◆
紅魔館の厨房は大きい。
というのも、館に住まう大勢のメイド妖精達が自分達の分を作るためだ。
そして、その一角にメイド長専用エリアがある。
ここはレミリアとパチュリー、そしてフランドールの口に入る物を調理する場所だ。
故に他のエリアより設備が充実し、手入れも行き届いている。
さすがにメイド長専用エリアは使えないが、メイド長の許可を得てその隣の場所を確保した小悪魔。
丁度咲夜が夕飯の下ごしらえにジャガイモ、ニンジン、タマネギなどを切っていたので、
カレーに代用できると妹紅は分けてもらえないかと交渉したが、決裂。
「場所は提供して上げているのだから、それくらい自分でやりなさい」
との事。せっかく団子を持ってきて上げたのに酷い仕打ちだと妹紅は嘆いた。
「ともかく! まずは下ごしらえだ。野菜を切ろう!」
「いや、それよりカレーを作る方が先でしょう。時間かかるみたいですし」
「でも最初にタマネギをみじん切りにしないといけないから、ついでに野菜も切っちゃおう」
「タマネギはお任せしていいですか? 私はスパイスを分けておきます」
「よし任せろ!」
まな板の上に丸いタマネギをドンと置き、藤原妹紅は包丁を構えた。
普通の料理程度なら余裕でできる、タマネギをみじん切りにする程度で失敗するほど下手ではない。
「いざ!」
トン。
トン。
トン。
トン。
トン。
トン。
ザク。
リザレクション!
「って、何で本日三度目のリザレクショーンッ!?」
突然の炎をまとった復活劇に驚いた小悪魔は、持っていた香辛料をこぼしてしまった。
一方妹紅はというと、手首を押さえて涙目になっている。
「あの……図書館捜索の疲労が抜けないままタマネギ切ったせいか、
涙と目まいのダブルコンボでうっかり手首をザックリ……」
「リストカットと勘違いされるような傷跡を持つ蓬莱人ってマヌケですね」
「リザレクションで傷は消えたから大丈夫。でも切ったタマネギが血まみれに……。
これ、おたくのお嬢様に出そうか?」
「お嬢様に変な物を食べさせようとしないでください!」
「変な物? 私の血は変な物扱いなのか?」
「蓬莱人の血なんて変な成分が入ってそうでNGです!
咲夜さんとかガン無視してるじゃないですか!」
小悪魔の言葉通り、すぐ隣でタマネギを手早くスライスしていた。
その手際の鮮やかさたるや、芸術の域に達している。
無数のタマネギを均等に切り刻んだ咲夜は、フッと小さく笑って妹紅に目を向ける。
「この程度の事もできなくて、妹様のお口に物を入れようだなんて」
「な、なにぃ!?」
「霊夢はお嬢様にもカレーライスをお勧めしているようだけれど、
最終的には私の作る愛情大盛りディナーを選ばれるのよ」
「なにおう、こっちだって手作りカレー妹紅スペシャルで度肝を抜いてやる!」
「あら、度肝を抜くならご自分のをどうぞ。
もっとも私も霊夢も、蓬莱人の肝を食べたりなんかしませんけれど」
どうやら咲夜は、妹紅がでしゃばっているのが少々お気に召さないらしい。
せっかくいい牛肉が手に入って、腕によりをかけてディナーを振舞おうと思っていたのに、
妹紅達はその牛肉を使ってカレーライス作りに初挑戦で皆に振舞おうとしている。
牛肉は数キロほど確保してあるからカレーライスに使われた程度では問題ないのだが、
それを苦労して少しでもいいものをと仕入れてきた咲夜としては、
美味しいところ取りに見えてしまう。
けどそんな事情は、カレーライスの調理にまで漕ぎ着けた妹紅達の前では些細な事。
「よぉし、小悪魔。私達の全力を見せてやるぞ!」
「はい! 今回は妹紅さんの側でやらせていただきます!」
「フフッ、厨房の支配者がメイドである事を教えて上げるわ!」
こうして戦いの火蓋は、切って落とされた!
「それじゃ妹紅さん、みじん切りにしたタマネギを飴色になるまでバターで炒めてください」
「飴色になるまで……って書いてあるけど、飴色って何だ?」
「飴の色なんて、種類によって千差万別ですからねぇ。私はイチゴミルクの飴が好きで」
「じゃあ乳白色? でも黒飴とかあるよな」
「黒飴だと真っ黒コゲになっちゃうじゃないですか」
「ゴメン、疲れてるせいか火力の調節が……もう真っ黒コゲになってた」
「早っ!? どういう火力ですか、自分の火じゃなくコンロの火を使ってください!」
「なあ、このメモのガラムマサラって何だ?」
「え、知りませんよ。メモしたの妹紅さんでしょう?」
「本を読んだのは小悪魔だろ! 私はそれをそのまま写しただけだ!」
「解らないならちゃんと質問してくださいよ! 確認できないじゃないですか!」
「お前だって解ってないだろ! お前が確認しろ!」
「よし、牛肉をタマネギと一緒に炒めるぞ」
「あれ、先にスパイスを入れるんじゃ?」
「ええい、面倒。両方入れて火にかければいい!」
「ええっと、塩を入れて、甘みが足りなければ砂糖も……あれ? どっちが塩でどっちが砂糖です?」
「舐めてみれば解るさ。ペロリ。む! これは小麦粉ッ!」
「塩でも砂糖でもないじゃないですか!」
「まあ待て、という事は残ったこっちが塩と砂糖のどちらかだ……ペロリ。む! これはうどん粉ッ!」
「どう間違えたらそんな物を持ってきちゃうんですかー!」
「よし、これだけ煮込めば次の段階に移っていいだろう」
「ええっと、次はヨーグルトを混ぜるようです。生クリームでも可」
「ああ? 辛いカレーにそんなものを入れる訳ないだろ、疲れてたからメモを書き間違えたかな」
「あれ? でもさっき砂糖を入れましたよね? 辛いカレーなのに」
「あれ? 調味料のさしすせそだから気にしなかったけど……改めて考えると砂糖はおかしいな」
「うーん……ちょっと混乱してきちゃいました」
「ええっと、メモをもう一度最初から読み直してみよう」
「ここがこうで、これはやりましたよね」
「ここで作ったガラムマサラをこのあと加えれば出来上がりなんだよな」
「うーんと、ええ、多分。……あれ? ここ、違くないです?」
「いや、この通りやったよ。大丈夫大丈夫」
「そうじゃなくて、ここの」
「むうっ、でもこれはこうして、ああだから……」
「あ、じゃあ大丈夫ですかね。とりあえず味見でも……焦げ臭いですね」
「え、あ、ああッ!?」
「こ、焦げ、煙がー! うわぁ真っ黒コゲ再び! もう駄目です、最初から作り直さないと」
「予行練習だった! これは予行練習だったと思って、次が本番だ! 夕飯の時間にはまだ間に合う!」
◆
ロウソクのか細い火だけを頼りに地下室にやってきた霊夢は、薄明かりの中で目的の年上少女を見つける。
「フラン、いる?」
「んー……霊夢? また遊んでくれるの?」
部屋の隅で首のもげた人形と手足のもげた人形で遊んでいたフランドールは、
紅い瞳をらんらんと輝かせながら舌なめずりをした。
「あのね、今度は私が霊夢のスペルカードを破りたいの。
むそーてんせーってすごい奴でお姉様と咲夜をやっつけた事があるんでしょ?」
「ああ、永夜異変の時の? それはまた今度」
「じゃあ何をして遊ぶの?」
「上で一緒にご飯食べない? レミリアもパチュリーも一緒よ」
「ホントッ!? 一緒に食べていいの!?」
「レミリアの首は縦に振らせたわ。たまにはいいでしょ、みんなで食べるのも」
フランドールは人形を握りつぶすと、残骸を部屋の隅に放り捨て、霊夢に向かって飛びついた。
「わぁーい! 霊夢ありがとう!」
「はいはい、解ったから降りて降りて」
「ねえねえ、魔理沙も来てる? 魔理沙も一緒?」
「魔理沙はカレーを作ろうとして鍋を爆発させて永遠亭に入院したわ」
「そうなんだ、じゃあ霊夢で我慢する!」
「我慢するくらいなら来なくていいわよ」
「じゃあ我慢しない! 霊夢とご飯ー!」
霊夢の首にぶらさがっていたフランドールは、巫女装束の胸元を掴んで飛び上がった。
「レッツゴー!」
「降ろしなさい」
呆れた調子の霊夢を無視して、フランドールは霊夢を引っ張って通路を飛行した。
仰向けの状態でぶんぶん振り回されながら、何度か身体を壁にぶつけそうになる霊夢だが、
そのたび自分で軽く飛んで軌道修正して難を逃れていた。
「ねえねえ霊夢、今日のディナーはなぁに? 咲夜は何を作ってるの?」
「今日は咲夜の料理じゃなく、小悪魔達が作ったカレーライスよ」
妹紅の名前を出して、それが誰か説明するのが面倒だったので、
あえて小悪魔達という言い方をした霊夢。
幸いフランドールは『達』の部分を気に留めていないようだ。
「カレーライス! カレーライス! ねえ霊夢、カレーライスってなぁに?」
「ライスにカレーがかかってるのよ」
「カレー! カレー! じゃあ咲夜は何も作ってないの?」
「さあ? でもデザートくらいは作ってるんじゃないの?」
「プリンがいい! プリン!」
「私に言われてもね。リクエストしたいなら咲夜本人に言いなさいよ」
「うん、そうする!」
と、丁度地下から地上フロアに出たフランドールは、
霊夢を手放し厨房に向けて飛んで行った。
絨毯の上に転げ落ちた霊夢は、乱れた胸元を整えながらフランドールを追うかどうかしばし考えたが、
すでに見失い、厨房への道も知らないので、レミリアの待つ食堂へ向かった。
「プリン、プリン。プリンはプリンプリンだからプリンなのー」
意味不明の歌を廊下に響かせながら、フランドールは厨房に到着した。
「咲夜ー!」
声をかけながら入ると、小悪魔と見知らぬ人間が厨房の一角で歌っていた。
「はじめちょろちょろなかぱっぱ」
「じゅうじゅうふいたら火を引いて」
「赤子泣いてもふたとるな」
「ところで小悪魔、紅魔館に赤子はいるのか?」
「いませんね」
「赤子ってほど幼くはないもんなぁ、あいつ」
どうやら小悪魔が人間と一緒に何かを作っているらしい。
となると、二人が火にかけている鍋がカレーライスなのだろう。
名前の通り、ちゃんとライスの匂いがするから間違いない。
「うちじゃ釜で炊いてるんだけど、そうか洋館だと鍋で炊くのか」
「道具が違うだけで基本は同じですよ、多分」
では、二人のすぐ側にある鍋は何だろうか。
こちらも火にかけられているようだが、二人の注意が行っていないのですでに完成済みなのか。
何やら美味しそうな匂いがする。
カレーライスの鍋に夢中の小悪魔と人間より、もう一方の謎の鍋に好奇心を持ったフランドールは、
無言で鍋の所までトコトコ歩いて行き、フワリと飛んで蓋を取り鍋の中を覗く。
茶色くドロドロした物が入っていた。
これは多分アレだろう。
美味しそう。
フランドールは近くにあったおたまを握りしめた。
カレーライスじゃないのなら、食べちゃっても構わないはず。
「百里の道を行くものは九十九里をもって半ばとすべし。
つまり九割くらいまで進んでも、やっと半分まで来たという気持ちで、
最後の最後まで気をゆるめるなという戒めの言葉だ」
「いい言葉ですね、これでお米を炊くのに失敗したら全部台無しですもの」
「ああ、カレーだけ食べてても駄目だものな」
「味見してみて美味しかったですけど、あれは単体で食べるものじゃありませんよねぇ」
「単体で食べる馬鹿がいたら面白いのにな」
「あはは、そんなお馬鹿さんがいたら私達が迷惑しちゃいます」
二人は疲れていた。
五時間ぶっ続けで本を調べ、その後は初めてのカレー作りに四苦八苦。
集中力もかなり磨り減っており、目の前の炊飯に全神経を集中しながらも、
疲労を誤魔化すためにくだらない雑談をしていた。
今現在炊いているお米と、このくだらない雑談だけが、二人の意識を埋め尽くす。
それが悲劇となる。
「妹様、何をなさっているんですか!?」
悲鳴にも似た咲夜の叫びが、二人の注意をようやく炊飯以外に向けさせた。
ハッと振り向いてみれば、空のトレイを持った咲夜が厨房の入口に立っている。
咲夜の料理も、妹紅達のカレーライスもすでに完成間近だったため、
食堂のレミリア達に飲み物を持って行っていたのだ。
それが丁度、帰ってきて、何かとんでもないものを目撃し驚いているらしい。
咲夜は「妹様」と言った。
咲夜の視線は妹紅と小悪魔を挟んだ向こう、すぐ隣の、カレー鍋に向けられている。
嫌な予感が芽生えるより早く、条件反射で二人はカレー鍋に振り向いた。
レミリアによく似た、愛らしい金髪の少女が、カレーまみれのおたまを握っていた。
彼女が妹様、すなわちフランドールなのだろうと妹紅は理解した。
そこでようやく、嫌な予感というものが芽生えた。
そんな妹紅を無視して、フランドールはカレーで汚れた口元を隠しもせず言う。
「咲夜ー、デザートはプリンがいい! プリン!」
「かしこまりました……ですが妹様、何をなさっているんですか……」
「今日はカレーライスなんでしょ? だからこのビーフシチューは食べちゃった!」
カレー鍋を傾けて、綺麗に空にした様を見せつけながら、フランドールは満面笑顔。
一秒。
妹紅は図書館でカレーを調べていた時、ビーフシチューをカレーと勘違いした自分を思い出していた。
二秒。
妹紅は空になったカレー鍋の意味を考えた。カレーを作るまでの労苦を思い出していた。
三秒。
妹紅は先ほどの百里の道はどうのこうのという言葉を思い出していた。意味は思い出せなかった。
「ほ、ほ、ほほほほほ……鳳ォオ翼ッ天……!」
「うわー! 妹紅さんストップストーップ!」
「うろたえるな小悪魔ー!! 今こそ私は愛と正義と憎しみの聖戦士として巨悪を討つ!」
「うろたえてるのは妹紅さんです! 咲夜さん、助けてくださ〜い!」
プスプスと煙を立てて今にも発火しそうな妹紅の頭に、時を止めて用意した冷や水をかける咲夜。
その冷たさに驚いて妹紅が飛び上がり、矛先を咲夜へと転換した。
「はいはい、うろたえないうろたえない。それより妹様。
なぜここにいらっしゃるのか、ご説明願えると助かります」
妹紅の怒りを軽く流し、フランドールの精神がどの程度安定しているか様子を見つつ質問する。
上機嫌のフランドールは嬉々として説明を開始したので、
一応事情くらいは聞いてから怒鳴りつけてやろうと思った妹紅は黙って耳を傾ける。
毎日毎日地下で人形遊びをしていた事。
人形遊びに飽きて誰かと遊びたくなった事。
外に出ようとしてみたら雨が降っていた事。
霊夢が来た事。
霊夢と力いっぱい弾幕勝負をして惜しいところで負けちゃったけどすごく楽しかった事。
地下に戻って人形でさっきの弾幕勝負の再現ごっこをして遊んでいた事。
霊夢が地下室に迎えに来てくれた事。
みんなと一緒にカレーライスを食べられる事。
デザートにプリンが食べたかったので咲夜に頼みに来た事。
小悪魔と人間が作っているカレーライスの鍋の隣にビーフシチューの鍋があった事。
今日はみんなでカレーライスだからビーフシチューは食べちゃってもいいやと思った事。
ビーフシチューにしては奇妙な味がしたけどいつもと全然違う血が入っていたからそのせいだと思った事。
それ等を一生懸命順序立てながら、とても楽しそうに、
ところどころ思い出し笑いをしながら、語り終える。
「……いつもと全然違う血っていうのは……」
小悪魔は妹紅の左手首を見た。
傷跡はないが、妹紅は一度ザックリと包丁で切ってしまっている。
血のついたタマネギは破棄したはずだが、包丁を拭き忘れていたのか、
あるいはまな板に付着していた血が具についてしまったのか、
理由は定かではないが恐らくあの時の血で間違いないだろう。
蓬莱人の血だから、カレーとビーフシチューの差異を除いても全然違う味がしたんだろう。
もし血が入っていなかったら、フランドールはカレーを食べなかったかもしれない。
血が入っていない食べ物は未完成品か、あるいは自分の食べる物ではないからだ。
ほんのわずかでもカレーに血が混じってしまった妹紅達の不運を嘆くべきか、
それを勝手に食べてしまったフランドールを叱るべきか。
フランドール当人は説明を終えたものの、妹紅側の事情を把握しておらず、無邪気な笑顔を見せている。
姉や霊夢と一緒にご飯を食べられるとおおはしゃぎのフランドールの様子をずっと見ていた妹紅は、
すでに怒る気力をなくし、深い落胆のために床に膝をついてしまっていた。
小悪魔はどうしていいか解らず、助け舟を求めて咲夜にチラチラと視線をやっている。
そして、咲夜は。
「……解りました。でも妹様、つまみ食いはよくありません。
もう二度としないと誓ってくださるなら、食後のデザートはプリンにいたします」
「えー、つまみ食いしたーい。プリンも食べたーい」
「……では、つまみ食いする時は一声かけてからお願いします。
デザートはプリンにいたしますから、小悪魔と一緒に先に食堂で待っていてください」
「はーい」
咲夜は眼で小悪魔に合図をする。
瀟洒なメイドが何とかしてくれるだろうという信頼から、
小悪魔はフランドールと手をつないで厨房を出て行った。
「ねえ、小悪魔。カレーライスって美味しいの?」
「えっ? ええ、美味しい……と思います」
「そうなんだ。小悪魔が作ったんだよね」
「はい、妹紅さんと一緒に」
「お姉様や霊夢と一緒に食べられるんだ。どんな味がするんだろう、楽しみだなぁ」
「そうですね……楽しみですね、とっても」
そんな会話が、少しずつ遠ざかっていく。
聞こえなくなるまで、咲夜も妹紅もその場を動かなかった。
「……最初はさ」
誰にともなく語り出す妹紅。
その場に唯一いる人間咲夜に聞かせようという意図ではなく、ただ自分の気持ちを吐露したいだけなのだろう。
「最初は、ただの好奇心だったんだ。紅魔館に来れば、普通に食べられるんじゃないかって。
でも違った。咲夜はカレー粉の作り方を知らなかったし、パチュリーは調べてくれなかった。
自分でカレー粉の作り方の本を探してさ、何時間も、すっごく疲れたよ。
ここまでして食べたいもんじゃないし、何やってんだろうって、馬鹿らしく思えてきたんだ。
でも、カレー粉の、カレーライスの作り方が解った時は、すごく嬉しかった。
それに何よりも、カレーライスを食べさせてやるって言った時の霊夢が、すごく嬉しそうで……。
だから……なぁ……カレーライスを食べたいってだけじゃなくてさ、
食べさせてやりたいって……霊夢を、いや霊夢だけじゃない、
小悪魔も喜ばせてやろうとか、咲夜やパチュリーを驚かせてやろうとか、思った。
実際、作るのには難儀したし、何度も失敗したけど、作ってて楽しかったなぁ。
ホント、楽しかった……それで、まあ、いいかな……また今度、作れば……さ……」
途中から、妹紅の声は震えていた。
服の袖で目元をこすっている。
咲夜は妹紅の後ろに立っているから、何を拭っているのかなんて見えない。
妹紅の背中は、やけに小さく見えた。
「結局、残ってるのは真っ白いお米だけさ……うまく炊けたかなぁ、ははっ……」
ハッと、顔を上げたのは咲夜だ。
膝をついてうつむいている妹紅の隣を通り抜け、空になったカレー鍋を取る。
空といっても、舐め回された訳じゃないので、わずかにカレーは残っている。
いくらかき集めても、一人分の量にもならないが。
だが咲夜は、その色合いを見、続いて指ですくって感触を確かめ、ペロリと舐めた。
ちゃんとカレーの味がする。遠い昔、幻想郷に来る前に食べた味が。
それから、炊飯の鍋を開けて、ふっくらと炊けたお米を確認する。
カレーライスがどういう物かを知っているのは、実際に作っていた妹紅と小悪魔を除けば、
咲夜自身と、数年前に一度食べたきりで記憶もおぼろげだという霊夢だけ。
「妹紅」
咲夜は、再び妹紅の隣を通り抜け、自分の作っていた料理の前に立った。
「まさかあなた達がカレーライスをスパイスから作るなんて真似を、
たった一日で完成させるなんて……しかも夕食に間に合わせるだなんて、思ってなかったわ」
「だから、何だよ。今さら褒められたって……」
「だから、私はお嬢様達の分の夕食をちゃんと別に作っていたのよ」
「知ってるよ。それを、出せばいいだろ」
「ええ、出すけど」
咲夜は、自分の料理の鍋のふたを開けた。
香りがあふれ出て、妹紅の鼻腔をくすぐる。
「ひとつ作戦があるわ」
◆
紅魔館の食堂は、紅を灯したロウソクや、紅い花などで飾り付けられていた。
シャンデリアが宝石のようにキラキラと輝き、紅いカーテンの開けられた窓の外は見事な月夜。
白いテーブルクロスの上にある物で、口に入れられる物は先ほど咲夜が持ってきた赤ワインだけ。
唇を濡らしたレミリアが小悪魔に問う。
「ねえ小悪魔、カレーライスにワインって合うのかしら?」
「さ、さあ、どうでしょう……?」
ワインの香りを楽しみながらパチュリーも問う。
「味見くらいはしたんでしょう?」
「しました……けど……一口舐めた程度なので……」
すでに用意されたスプーンを握りしめたフランも笑顔で問う。
「ねえ、カレーライスはまだー?」
「まだ……かかるかもしれませんね……」
無理です、と小悪魔は心の中で呟いた。
フランドールご所望のカレーは、すでに彼女のお腹の中。
そして、この場で一番カレーライスを楽しみにしているだろう霊夢は、
テーブルに頬杖をついてあくびなんかしてる。
小悪魔は胃がキリキリと痛むのを感じた。
(うう、いっそ正直に話してしまいたい。
でも咲夜さんが何とかしてくれるかもしれないし、下手な事は言わない方が……。
ああ! でもでも、このままじゃ私の精神が持たないー!)
すべて暴露してしまおうかと小悪魔が血迷いかけた瞬間、ギイ、ドアが開いた。
一同の視線が向けられた先には、カートを押して入ってくる咲夜と妹紅の姿。
カートの上には、半球形のふたをかぶせられた皿が並んでいる。
計6皿。
咲夜は使用人なので同席は許されておらず、それは小悪魔にも言える事なのだが、
妹紅と協力してカレーライスを作ったため今日だけは特別に同席を許されている。
だから、レミリア、フランドール、パチュリー、霊夢、妹紅、小悪魔で6人分だ。
「お待たせいたしました」
咲夜は一礼し、カートをテーブルの脇まで押すと、
すぐあとをついてきた妹紅に席につくよう言う。
カートには3皿ずつ載せてあるため妹紅が半分手伝ったのだが、
テーブルに移す事までやらせてはメイドの怠慢になってしまう。
(妹紅さん、どうなったんですか!?)
怯えを孕んだ眼差しを向ける小悪魔。
(小悪魔、失敗したらゴメン)
言いたい事を察した妹紅は苦笑いで返した。
咲夜は構わず、テーブルを囲む面々の前にお皿を置いていき、最後に妹紅の前に置いた。
先ほどの小悪魔と同じように、瞳で短い会話をする二人。
(失敗したら、カレーライスは作れなかった事にして素直に謝りなさいよ)
(失敗したら、皿の上の物はお前が思いついた悪戯、ジョークだって事ですませろよ)
真実を話せば、フランドールが叱りを受ける。
久し振りに姉と、そして霊夢やみんなと一緒にカレーライスを食べられるとはしゃいでいるフランドールが。
それは妹紅も咲夜も望んでいなかったし、レミリアだってそうだろう。
霊夢と力いっぱい弾幕勝負をしてストレスや有り余った体力を発散したせいか、
フランドールの精神も安定しており、一緒にディナーを食べられる事をレミリア自身喜んでいるのだから。
うまくいけばすべてが丸く収まる。
皿を配り終え、レミリアのかたわらに移動した咲夜は、
内心の不安を気取られぬよう落ち着いた口調で言う。
「本日のメニューはゲストの藤原妹紅様が特別にお作りになられたカレーライスでございます。
皆様、どうぞご賞味くださいませ」
咲夜の右手が高々と上げられ、パチンと指が鳴らされる。
次の瞬間、皿の上にかぶさっていた半球形のふたがすべて、忽然と消えた。
もちろん指を鳴らした瞬間に時を止めた咲夜が、いちいちふたを取って回ったのだ。
たまにこういった事を咲夜はするので、
カレーライスという特別なメニューゆえのちょっとした演出だとレミリア達は受け取った。
そしてふたの取られた皿の上、そこにある料理を一同は目撃する。
真っ白いライスが、まるで海に浮かぶ三日月形の島のように在った。
海は茶褐色をしており、皿の表面の3分の2を埋めている。
濁った海は、しかし食欲をそそる香りをしており、
ジャガイモ、ニンジン、タマネギといった野菜達、そしてとろけそうな牛肉を浮かべていた。
咲夜はあえてここで沈黙し、おのおの方のリアクションを待った。
妹紅も真実を見抜かれぬよう薄ら笑いで皆の様子を見守っている。
小悪魔は、顔面蒼白になってライスにかかった茶褐色のそれを見つめていた。
そして、心の中で叫ぶ。
心の中でしか叫べないから叫ぶ。
雲を割り月にまで届きそうな勢いで叫ぶ。
(ビィーフシチュゥゥゥゥゥゥーッ!? これビーフシチューですよぉぉぉぉ!!)
それはカレーと呼ぶには色が濃すぎた。
匂いも味もまったく違う。
それはまさにビーフシチューだった。
レミリアは違和感を持ったのか、いぶかしげに眉根を寄せる。
パチュリーも、知識として知っているカレーライスと比べ神妙な表情だ。
もし、ここで騙されてくれれば、このままカレーライスで押し通す。
だが、見抜かれてしまったのなら潔くなるしかない。
(くっ……お嬢様とパチュリー様が疑っている。
それはそうよ、シチューなんて紅魔館じゃ珍しくないもの)
(あ、謝るべきか? 今がその時か? カレーを作れませんでしたと頭を下げるか!?)
(妹紅、まだよ、まだ誤魔化せるかもしれない。でも誤魔化せぬと解った時は素早い対応を!)
(私が謝罪したら、打ち合わせ通り咲夜が私を嘲笑する。
そしてこれは私を馬鹿にする意味も込めたジョークであると言い、
みんなで改めてビーフシチューを食べる!)
(でも、お嬢様やパチュリー様よりも、一番の問題は妹様!
もしご自分が食べてしまったのがカレーだと気づいてしまったなら)
(フランは悲しみ、レミリアは怒り、霊夢も落胆する。
――ハッ、霊夢!? 霊夢の反応は!?)
霊夢は、じぃっとビーフシチューライスを見つめ、記憶の糸をたどっているようだった。
そんな霊夢を凝視する妹紅。
カレーライスと偽ってビーフシチューを出してしまった事を申し訳なく思う。
しかし、ここは姉妹仲を守るため、騙されてくれ霊夢!
「これ――」
霊夢が、口を開き、顔を上げ、妹紅を見つめた。
唇が次の言葉を発するべく形を変えようとし、妹紅はもう駄目だと直感した。
一瞬、咲夜に視線をやる。咲夜は小さく顎を引き肯定の意を示した。
作戦失敗――。
先に霊夢に言われてはならぬ、妹紅は素早く叫ぼうとした。
「ご」
「カレーライスだーッ!」
場に漂っていた緊張感を一切合財無視して、底抜けに明るい声が食堂に響く。
一同の視線が向けられた先、声の発信主は、握りしめたスプーンを高々と掲げる少女。
フランドール・スカーレット!
キラキラとルビーのように輝く瞳には、疑いなんてものは微塵もふくまれていない。
大きく開いた口は、早く食べたい食べたいと、笑顔の形で開いている。
「お姉様、カレーライス! 小悪魔が作ったカレーライスだよー! 美味しそう!」
「え、ええ……そうね」
チラリ、と、レミリアは霊夢に目線をやる。
以前カレーライスを食べた事があるという霊夢に確認を求めたのだ。
霊夢は、スプーンでシチューとライスを同時にすくい、唇に運ぶ。
まぶたを閉じてモグモグと、しっかり味わって咀嚼して、一言。
「うん、何だか色が濃い気がするけどカレーライスね」
曖昧な記憶よありがとう!
美化された思い出よありがとう!
騙しちゃってごめんなさい――。
「そう? じゃあみんな、いただきましょうか」
レミリアもスプーンを取ったので、
フランドールは大喜びでビーフシチューライスをすくって食べた。
「美味しいー!」
パチュリーは疑わしげな眼をしたままだったが、
一口食べてみたら意外と美味しかったらしく黙々と食べ続けた。
小悪魔は、ホッと息を吐くと、まだ信じられないといった表情で咲夜と妹紅を見る。
妹紅は「うん」とうなずいた。咲夜も唇だけで微笑んで返した。
万事うまくいったと見て、咲夜は作戦成功時のプランを実行する。
「皆様。これはカレーライスの中でも、ビーフカレーと呼ばれる種類の物に御座います。
色が濃いのも当然。ビーフカレーはおおむね、普通のカレーより色が濃いものですから。
しかも藤原妹紅と小悪魔がオリジナルブレンドを施した特別なビーフカレー。
名づけるならば……『紅魔カレーもこあスペシャル』……!!」
オリジナルブレンドと偽る事で、カレーライスではない事を全力で誤魔化すその料理!
さらに!
もこう+こあくま=もこあ
という式の元、珍妙な名前でさらに誤魔化しっぷりを補強する!
あとは思い込みの力だ。心頭滅却すれば火もまた涼しと言うように、思い込みは強烈だ。
これはカレーライス、ビーフカレーだと思って食べれば、そういうものだと納得してしまう。
ビーフシチューとビーフカレー、名前が似てるから味も似ているだろうと思ってしまう。
皆を騙すのは、偽りのカレーライスを出すのは心苦しい。
でも。
「うんうん、やるじゃない妹紅! それから小悪魔も!
ずーっと食べたかったのよね、カレーライス。まさかまた食べられるなんて驚きだわ」
真実という潔さで霊夢の数年振りの期待を裏切り落胆させてしまうより、
偽りという優しさでもって数年振りの期待を満たして上げる方が、きっと幸せだから。
(今度――今度は、ちゃんと本物のカレーライスを作ってご馳走してやるからな)
ビーフシチューライス、もとい紅魔カレーもこあスペシャルを食べながら妹紅は、
霊夢や協力してくれた小悪魔と咲夜に、それから今ここで騙されているみんなに誓った。
普通のカレーライスだって言えば、まあ、大丈夫だろうから。
ふと、視線を感じて妹紅は振り向く。
苦笑を浮かべている小悪魔と視線が交じり合い、同じ事を考えていたんだとお互いに悟った。
妹紅はワイングラスを取ると、小悪魔に向けて掲げる。
意を汲み取った小悪魔も同様にワイングラスを取る。
二人は、同時に空中でグラスを軽くぶつけ合う仕草をした。
紅魔カレーもこあスペシャルに乾杯。
◆
デザートのプリンを食べてお開きになったあと、妹紅は小悪魔と一緒に厨房に戻っていた。
自分達で使った調理器具は、自分達で片付けるべきだからだ。
「それくらい私がやっておくわよ」
と咲夜は言ってくれたけど、妹紅も小悪魔も、自分の手で片付けたい気分だった。
それに厨房なら、真相を知る三人だけで話ができる。
妹紅がカレーの鍋を洗っているかたわらで、咲夜がシチューの鍋を洗っていた。
「二人とも、お疲れ様。お陰でお嬢様も妹様も楽しい時間をすごせたみたい」
「いや、礼を言うのはこっちさ。咲夜の機転のおかげで助かった」
「まったくですよ。お二人の作戦を聞かされてなかった私は、もう心臓バクバクで……。
しかもパチュリー様は最後まで無言でしたし、たまにこっちを見るし、怖くて怖くて」
「それにしても、あなた達よく食べたわね。3杯もおかわりして」
「図書館でずーっと調べ物してて、昼抜きだったからなぁ」
「咲夜さん。今度、一緒にカレーライスを作りましょうよ。
紅魔カレーもこあスペシャルもいいですけど、
ちゃんとしたカレーライスも食べてもらいたいですし、
咲夜さんだってカレーライスを香辛料から作れるようになったらレパートリーが増えます」
退屈な後片付けも、そこに談笑が交わればこんなにも楽しいひとときになる。
色々大変な目に遭ったけれど、紅魔館って楽しい場所だなと妹紅は思うのだった。
手際のいい咲夜と、二人がかりの妹紅と小悪魔は、ほとんど同時に器具を片付け終えた。
カレー粉の材料となる香辛料をお土産にもらった妹紅は、
二人に見送られながら紅魔館の玄関から出た。
すると、頭上から声がかけられる。
「妹紅」
見上げれば、かなり上の階の窓から身を乗り出している霊夢の姿。
「よぉ霊夢、まだ帰らないのか?」
「竹林より神社の方が近いしね、もうしばらくレミリアと呑んでるわ」
「ははは、あまり呑みすぎるなよ」
自然とこぼれる笑みの心地よさに胸をあたたかくしながら、
本物のカレーライスの誘いを今しようかなと妹紅は考えた。
「あのさ」
だが先に霊夢が何事かを言おうとしたので、妹紅は黙って耳を傾ける。
霊夢は言った。
「今度神社に来なさいよ。赤い味噌汁、飲ませて上げる」
「えっ――?」
何で急に、味噌汁? そういう会話の流れだっただろうかと妹紅は疑問に思った。
でも霊夢は自然に続く言葉を発する。
「たまには赤味噌が食べたいんでしょう?」
思い出す妹紅。
そういえば、釣りの時にこんな会話をした。
――あんたは、何か食べたい物とかある?
――ん、そうだな。慧音が白味噌派でさ、たまには赤味噌が食いたいなぁ、なんて。
あんな些細な言葉を、霊夢はいちいち覚えていてくれたのか。
「カレーライスのお礼、食べに来るでしょ?」
そして霊夢は紅魔カレーもこあスペシャルを、本物のカレーライスと信じている。
だったら。
「ああ、食べに行くよ。それと、今回のカレーライス……実は偶然の産物なんだ」
「へぇ、そうなの?」
「うん、一応形にはなってたけど、レシピ通りにいかなくってさ。
だからまたカレーライスをご馳走するよ。
今日よりもっとちゃんと作って、改良だって加えて、ほっぺが落ちるくらいのをさ」
「そう、楽しみにしてるわ。でも私の味噌汁が先よ」
「解ってるって。じゃあな霊夢、二日酔いには気をつけろよ」
足取りが軽い。
腹いっぱい食べたとはいえ、今日は慣れない事をたくさんして疲れているのに。
足取りが軽い。今なら空だって飛べそうだ。
「――って、実際飛べるんだけどね」
身体がフワフワするくらい上機嫌で、どんな上等な酒を呑んでもこんな気分にはなれないだろう。
これでは帰ってもすぐには眠れそうにない。
霊夢もレミリアと呑んでいるようだし、慧音を誘って一杯やろうか。
今日の出来事を肴にしてもいい。慧音にもカレーライスを食べさせてやろう。
ある程度カレーライスを上手に作れるようになったら、うんと辛いのも作ってみたい。
甘い物も好きだけど、辛い物だって好きだから。
そうだ、輝夜にも食べさせてやろう。火を吹くくらい辛いカレーを。
たまにはそんな悪戯も悪くない。名づけて妹紅カレー激辛スペシャルだ。
そして一通りカレーライスを楽しんだら、
紅魔カレーもこあスペシャルを再び食べてみるのも悪くない。
そう提案したら咲夜と小悪魔はどんな反応をするだろう。
呆れるだろうか、笑うだろうか。
でも多分、いや、絶対一緒に食べてくれると思う。
◆
「どうもお邪魔しました」
と、妹紅は門番に声をかけた。同時に覚えのある匂いに気づく。
「ああ、どうも」
門の脇に小さなテーブルが置かれてあり、美鈴は夜食を食べている最中のようだった。
その夜食とは。
「これは……紅魔カレーもこあスペシャル……?」
「咲夜さんから事情は聞いてますよ。ビーフシチューで誤魔化すとは恐れ入りました。
ちなみにこれはさっき咲夜さんが差し入れしてくれたもので」
「咲夜が? いつの間に……って、時間を止められるならいつでもできるか」
「でも残念でしたねぇ、カレーライス」
しみじみとした口調で言いながら、美鈴は牛肉をすくって食べた。
元々このビーフシチューのために咲夜が用意した牛肉だ、
カレーもどきにしてライスと一緒に食べるよりは、牛肉だけの方が正しい食べ方だろう。
「ああ、本当に残念でさ……丸くおさまったからいいけど。
本物のカレーライスはまた今度って事で。私も小悪魔も、もう作り方は覚えたし」
「フッフッフッ、挑戦状として受け取っておきましょう」
突然、美鈴の態度が大きくなった気がした。
眼差しも、鋭く凛々しく輝きを増しているような気がする。
「挑戦状とは大袈裟な」
「あっはっはっ、私はカレーライスにはちょいとうるさいですからね」
「へー、そうなん……えっ?」
美鈴の奇妙な物言いに妹紅は言葉を途切れさせた。
今の言い方は、何だろう、疲れた頭ではうまく認識できない。
あれでは、まるで――。
「こう見えて私もスパイスからカレーを作る本格派ですからね」
えっへん、と胸を張って美鈴は言った。
「もうスパイスのわずかな分量の違いも見極めて、その日の温度や湿度まで計算して、
その日その時だけの絶好の一品を作り上げるほどのカレーの鉄人、紅美鈴ですから」
衝撃ッ! 咲夜さんも知らなかった新事実!
スプーンをプラプラさせながら、こんなのどうって事ないよといった風に、
全然自慢してませんよというような態度で美鈴は自慢した。
それくらい、特に目くじらを立てるほど悪い態度という訳ではない。
むしろ可愛げがあるくらいだ。
だがしかし、藤原妹紅は違った。事情が違った。
図書館で五時間調べ通し。リザレクションを2回。
初めてのカレー作りに四苦八苦。リザレクションを1回。
完成させたカレーをフランドールに食べられてしまう事故。
でもフランドールを責めるなんてできなくて、一か八か優しい嘘の大作戦、
偽りの紅魔カレーもこあスペシャル。
今日一日の思い出が、走馬灯のように妹紅の脳裏をよぎった。
ああ、苦しくも楽しい時間だった。
しかし、しかしッ!
「あれ、どうしました?」
「……る、なら……」
「はい?」
「カレーを作れるなら……もっと早く言えぇぇぇッ!!」
小宇宙「鳳凰星座 ―鳳翼天翔―」
紅い月の綺麗な晩、星のまたたく夜空を翔る一筋の流れ星は紅美鈴。
彼女の何が悪かったのかというと、間、だろうか。
あるいは、運か。
少なくとも美鈴自身に悪い部分はなく、妹紅の怒りは理不尽なものだろう。
しかし理不尽でも怒らずにはいられなかった妹紅の悲劇。
咲夜からちょっと事情を聞かされた程度だったため今回の一件を軽く思っていた美鈴の悲劇。
彼女のご主人様が運命を操る程度の能力を行使して、
幸運とまではいかずともせめて不運にならない程度に操作してくれたなら、
きっと美鈴はもっと幸せいっぱいに笑っていられるに違いない。
さて、そのご主人様、永遠に紅い幼き月はというと――。
◆
漆黒の空間に紅き真円が描かれる静かな晩。
人払いをし、メイド長さえも入れぬ一室で、窓から射し込む月明かりに照らされた二人が、
窓辺の小さなテーブルで深紅の果実酒に唇を濡らし、酔いに頬を染めていた。
「久し振りにフランとディナーを楽しめたわ、ありがとうと言っておきましょうかしら」
「礼を言われる筋合いはないわよ、私がフランと一緒に食べたかっただけだし」
「そう。ところで霊夢、あなたはちゃんと気づいていた?」
試すようにレミリアは言いクスクスと笑ったが、霊夢は素知らぬ顔でグラスを傾ける。
「さあ、何の事やらまったく気づいてないですわ」
「ふぅん」
幼き容姿の吸血鬼は、窓の外に目を向けた。
真っ白い髪をなびかせて迷いの竹林へと飛んでいく小さな人影を、
吸血鬼の瞳は暗闇の中から正確に探し出して見つめる。
「あの蓬莱人、いい奴ね」
「あなたの自慢のメイドもね」
「フフッ。だって私の咲夜だもの、美鈴よりも誰よりも、ずっと気を"遣"えるわ」
「ネーミングセンスもまさしくあんたのメイドだったけど」
「あら、それはどういう意味かしら?」
「うーん、言葉通りの意味かなぁ」
紅白衣装の巫女は、相手側の空になったグラスに果実酒を注いでやる。
それを受けて、紅き吸血鬼も相手側のグラスに果実酒を注ぎ返す。
こんなにも気分がいいのは、喉を熱くする深紅だけのせいではあるまい。
改めてグラスをカツンと合わせた二人は、唇だけの小さな笑みを浮かべた。
「今宵のワインは格別ね」
「今夜のワインは最高ね」
FIN
楽しく読めましたよ。
妹紅や小悪魔がドタバタとしながらもカレーをつくる様は
見てて面白かったです。
レミリアたちの優しい気遣いも良かったです。
前作とあわせて非常に面白かったです。
妹紅がいきいきとしてるなぁw
そんなことはどうでも良くなったんだぜ
ビーフシチューをご飯にかけるとハヤシライスになるNE!
紅白1号2号、珍しい組み合わせだけど違和感無く楽しめました
紅魔館の皆さんも素敵過ぎます。特にフランが無邪気で可愛くてたまりません
レミリアと霊夢の締めは個人的にどうにかなっちゃいそうなくらい嬉しい…
やっぱり紅魔郷は針巫女でクリアしなきゃね!
まず妹紅と小悪魔のコンビというのが珍しくて二人の掛け合いも素敵でした。
まっすぐで少しどじな妹紅は最高です。
次回作も期待してます
ビーフシチュ−に香辛料混ぜたらカレーっぽくなったかもねw
おなかが減るお話、ありがとうございました
一輝大好きなオレにこのネタはたまらなかったぜ。
妹紅がなんかすごい良かったです
フラン食べすぎw
キャラ同士の会話が弾んでいて楽しかったです。
ダイエットしないと知りませんよ、飛べなくなりますよ!
あとタマネギ刻みでリザレクションしないでください>妹紅さん
しかしフラン食い過ぎにもほどがあるだろww
妹紅とこあのカレー。もこあスペシャル作ってきます。
知らなかったんだから仕方ないさ
思うんだがビーフシチューをゴハンにかけたらハヤシライスになるんじゃ