この作品は作品集37「恋の呪い」、作品集38「人間 霧雨魔理沙」、作品49「恋の始まり」の続編となっています。
本作品を読む前にこれらを読んでおくと内容が理解しやすいかもしれません。
あと名前や台詞は出ないけど霖之助と深く関わるオリキャラっぽいのも一人出ます。
以上の事を踏まえた上でお読みください。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
――彼女が僕の側にいる。
――まるで猫がじゃれて擦りつくような甘えた笑顔を向けている。
――彼女はいつだって明るく、元気で、愉快で、少々わがままだった。
――そんな彼女が僕の最愛の人だ。
――最愛の人と言ったが、出会った当初は彼女が苦手だった。
――男勝りな態度、何かに興味が湧いたら真っ先に飛びついていく節操の無さ、そしてとにかく騒ぐのが何よりも好き。
――インドア派の僕とは相成れない正反対の性格だ、第一印象がそれだ。
――彼女が僕の何に引かれたのか分からない。でも頻繁に僕の所に来ては手を引っ張って半強制的に外に連れまわされた。
――最初は鬱々しいと思っていたけど、実際に外に出ないと見つからない物もあると知り、次第に彼女の誘いに乗るようになった。
――それから色々あった。笑ったり言い合いをしたり、時には身の危険が迫った時もあった。
――彼女の表情はいつもころころと変わり慌しい、そして夕日の中で長い髪をなびかせて微笑む顔が美しかった。
――気付けば僕から告白して彼女はあっさりと受け入れ、僕達は恋人の仲となった。
――恋人になってから彼女と一緒の時間も当然増えた。もっともそれ程変化があったわけでもないけど。
――それでも彼女と一緒にいるだけで僕の心は満たされた。彼女と一緒にいればいるほど彼女が愛しくなった。
――末永く彼女と一緒にいられたらそれはどれだけ幸せだろう、そんな事を良く考えていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
薄暗い天井が見える。
首を回し辺りを見回せば様々な奇妙な形をした物体が棚の中に陳列し、窓から日差しが室内をほのかに照らし出している。
手元には開いたままの本を持っていて、そこでようやく現状を理解した。どうやら読書中に眠ってしまったようだ。
寝る姿勢が悪かったのか首と腰がギチギチと軋む。椅子に座りながら居眠りしてしまったのだから当然の結果ではあるけど。
まだ重いまぶたを擦り改めて部屋の中を見回す。
棚に並ぶ奇妙な形の人工物の数々が並び、その中には雑貨品が少々。見てくれは倉庫に見えなくもない。
窓からは日差しが差し込み僅かに室内を照らす。日の傾き具合からして午後の2時から3時といったところだろう。
少々肌寒い。ここ最近は昼間でも寒く感じるようになってきた。
本格的な冬の訪れも近いだろう、そろそろストーブの準備をしておいた方が良いかもしれない。
そんな事をぼんやりと考えながらも客らしき姿は見当たらないし誰か踏み込んだ形跡も無い事を確認。
つまり僕の店「香霖堂」は今日も閑古鳥を鳴かしているという事だ。
いつもの事ではあるけど、こうも現実を突きつけられると溜息もつく。
僕は一端の商売人であり、店に客がいないというのは商売人にとって最も避けるべき事態だ。
客が来ないなら客寄せするなりなんなりするべきだろう。だけど僕はそれをしない。しても効果が薄いからだ。
まず一つ目に、主な客となる人間が住む里から店までの距離が遠い。
妖怪が跋扈する幻想郷において好んで里の外に出ようなんて考える人間は少ない。
二つ目に、来たとしても殆どの人が道具の使い方を分からず冷やかすだけに終わってしまう。
道具の使い方を求められても、道具の使い方は分からない僕にも説明する事はできない。だから客も手の出しようが無い。
三つ目に、もし買ったとしても明らかに違う使い方で道具が使われるから。
この間なんてゲーム機を蹴鞠の様に蹴って遊んでいると天狗の新聞で知った。
あれはもっと式神も利用した高度な遊び道具のはずだ。なのにそれを蹴鞠代わりに使うなんて腹立たしい。
僕が集めた商品を間違った使われ方をされたくない、ちゃんと使い方が分かる人にこそ買ってもらいたいのだ。
それらの事情もあって客寄せの類は殆どしていない。だから客が来るまで本を読んで時間を潰すのが日課となってしまった。
もっとも、客が来なければゆっくりと読者に没頭できるためこれはこれで大事な安息の時間だと思っている。
だけど、たまにそんな安息の時間を破る不届き者達も存在する。
客ならそれは願ってもない者なのだが、その不届き者達は冷やかしどころか商品を勝手に持ち出したりもする者達だ。
幸い今日は来る気配がないからゆっくりと読書に専念できそうだけど。
「おーす、香霖いるか? あがらせてもらうぜ、いなくてもあがらせてもらうが」
噂をすればなんとやらと良く言うものだが、これで今日の僕の静かな時間は終わりを告げそうだ。
威勢の良い声と共に扉が開き、扉に備え付けておいた来客を知らせるベルが鳴る音を聞いて内心で溜息をつきながら音のした方向、玄関口へと顔を向ける。
僕が知っている人物の中で「香霖」と呼ぶ人物はまず一人しかいない。だから視界に入る前に何を言うべきか決まっていた。
「今は営業中だ。冷やかしなら帰ってくれ、魔理沙」
「酷いぜ」
冬には欠かさない黒いコートを羽織りトレードマークともいえる三角帽を被った来訪者、霧雨魔理沙は少々冷たい言葉で迎えられたにも関わらず気にしない様子で余裕ある笑みを返してくる。
追い返すのは失敗だ。もっとも、こんな事で彼女を追い返せるわけがないと分かっていたし追い返す気もなかった。
これは以前から何度も繰り返してきた掛け合い、いわば僕と彼女なりの挨拶みたいなものだ。
口で言っても言う事を聞かないため半分諦めてるとも言えるけど。
「そんな事言うなよ、ついさっき仕事を済ませてお疲れモードなんだ。一仕事終えた人に労を労ってくれても良いじゃないか」
「疲れてるなら真っ直ぐ自分の家に帰れば良いじゃないか。わざわざ僕の所に来る必要は無いはずだ」
「何言ってるんだ。一仕事済ませた後に飲むコーラが美味いからここに来るんじゃないか」
魔理沙はズカズカと部屋にあがり込み棚に並べてあったコーラを一本持ち出し、お気に入りなのだろう彼女の身長の半分以上ある壺の口に腰掛けてスカートのポケットを弄る。
取り出されたのは一本の栓抜きだ。
以前は買った人がすぐに飲めるようにとコーラの棚に一緒に置いてあったのだが、魔理沙達が勝手に飲んでしまうため自分で管理するようにしたのだが、どうやら魔理沙は無縁塚あたりで拾っていたようだ。
取り出した栓抜きを手馴れた様子で小気味良い音を立てながら栓を抜くとそのまま瓶を傾けて一気飲みをし始めた。
あれは口の中で弾ける飲み物で、慣れてない人が一気飲みすると酷い事になるのだが、魔理沙はそれをものともせずあっと言う間に瓶の中のコーラを飲み干してしまう。
「あーやっぱりこれだな、仕事終わったっていう達成感を感じるぜ!」
「どこか親父臭さを感じる声をあげない方が良いと思うよ。あと達成感を感じるのは大変よろしいけど、代金払ってくれたらなお良いのだけど?」
「何言ってるんだ、香霖の物は私の物、私の物は私の物って言うじゃないか」
「なんだいその自己中心極まる台詞は」
「この前に図書館にある本にあったんだ。ある町でブイブイ言わせてた大将の口説き文句なんだとさ」
「そんな台詞真似しないでほしいよ」
誰の言葉なのかは知らないけど、そんな唯我独尊な考えをするのだからあまり喜ばしい人物ではないのだろう。
できれば魔理沙の真似事は今回だけにしてもらいたい。
「それにしても最近は忙しいね。この間も仕事済ませたとか言ってたじゃないか」
「まーな、自分の店に加えて霊夢の家業も肩代わりとくれば忙しくもなる」
「まさか君が霊夢の家業を請け負うとは思わなかったよ」
「ま、身籠ってるやつを無理に動かすわけにはいかないからな、暫くは私が異変解決と妖怪退治の専門ってわけだ」
幻想郷を包んだ紅い霧、訪れない春、延々と続く夜、狂い咲く四季の花々……あれらの異変から何年経っただろう。
いまや霊夢や魔理沙は少女とは呼べない程に大きく成長した。
魔理沙の成長は著しい。座っている壺は以前の彼女だったら少し飛び上がらないと座れない高さだったのに今では簡単に腰掛けられるくらいになった。
霊夢に至っては嫁ぎ相手を見つけて腹に子を宿すまでになった。
博麗が滅びれば妖怪と人間のバランスが崩れ、幻想郷に大きな波乱を呼ぶ事になりかねない。生涯独身は許されないだろう。
だけどあの霊夢から嫁ぐ相手ができたと聞かされた時は失礼だが正直驚いた。何事にも興味無さげに振舞う彼女から嫁ぐと言葉を聞くなんて思いもしなかったからだ。
もしかして無理してないかとも思ったが、相手の事を話す霊夢の顔は穏やかだったから本人も悪い気はしていないようだ。
結ばれた後も相手との関係も順調のようで稀に訪れる客、主に魔理沙やメイド長からも悪い話は聞いてない。
だが身籠っていては妖怪退治や異変解決といった今までの体を動かす家業はできない。そこで名乗りを上げたのが魔理沙だった。
何を思って請け負ったのかは知らないが、霊夢も了承し今では「妖怪退治屋 霧雨魔法店」と名乗って頻繁に里を出入りしている。
霊夢の公認の退治屋ともあってか里の人間からの評判は上々らしく、魔理沙もそれを楽しんでいるようだ。
「妖怪退治は好評なんだけどな、本業の方は今でも依頼がなくて困ったもんだけどな」
「本業って泥棒家業の事かい? それならそっちの方が良い。泥棒は少なくて損は無いからね」
「おいおい私は泥棒じゃない、ただ死ぬまで借りてるだけだ。本業は何でも屋だ」
「でもその何でも屋は異変解決までこなすから結果として昔も今もあまり変わらないのだろう?」
「それもそうだな、ならいっそ私が巫女になるか。働かない霊夢より評判が出ると思うぜ?」
「君が巫女をやったとしても家業そっちのけで飛び回ってそうだ」
「まったくだ、何かあるまでジッとしてるなんて性に合わない。やっぱり私は自由に動く野良魔法使いが一番だ」
皮肉交じりの会話でも魔理沙は気にせずにニカリと歯を覗かせながら笑い、僕もつられて苦笑してしまう。
こうも晴々とした笑顔をされてはそう返す以外の事ができなくなってしまう。
昔からそうだ。自由気ままでわがままで、他人の事を思いやる発言は殆どしないし店の商品を勝手に持ち出す、外から見たらあまり良さそうな人物ではない。
だけどいつもいきいきとしている。あの笑顔を見るとこっちも不思議と気分が良くなる。
誰にも負けない有り余る元気の良さ、それが彼女の悪いところでもあり最も良いところでもある。
だから彼女の周りには多くの人が集まるのだろうと常々思う。
そんな事を考えているとまた玄関側から来客を知らせるベルの音が鳴る。
今日はわりと来訪者が多いな、今度こそ今日初めての客である事を期待しつつ玄関に顔を向ける。
そこには僅かにウェーブの掛かった金髪に人形ではないかと思わせるくらいに白みがかった肌をした少女が佇んでいた。
どうやら今度はちゃんとした客のようで安心した。
「ようアリス。今は営業中だ、冷やかしなら帰ってくれ」
「貴女は店の人間じゃないでしょう、そんな事を言われる筋合いは無いわ。大方、貴女がここに来た時に森近さんに言われた事を真似して言ってみただけでしょ。事実だからしょうがない事だけど」
「お前も酷いぜ。大体は合ってるけど」
来客者である少女、アリスに魔理沙は先ほど僕が魔理沙に言った台詞を真似て喋る。営業妨害だから止めて欲しい。
しかしアリスも魔理沙のそういった悪戯や事情などを知っているから慌てる事もなく冷静に突っ込みで返し、魔理沙は引っ掛からなかった事を残念そうに苦笑しながら溜息をついている。
これもまた長い事繰り返されてきた彼女達のやり取りだ、あえて何も言わない。
喧嘩するほど仲が良いとは言ったものだ。と言うより魔理沙は自覚して冷やかしに来ているのは勘弁してくれ。
「まぁそれはさて置き、今日はどういった用件だい」
「また材料が少なくなってきたから糸とかの補給にね。後は何か人形に使えそうな物はないかと思って」
「いつもの裁縫道具だね。他に人形に使えそうな物は入荷してないけどそっちは在庫があったはずだよ」
「やっぱりアリスは外に出てきたと思ったら人形いじりの材料集めか。いつまでも人形遊びとはお目出度いやつだな」
「そう言う貴女は泥棒家業の帰りかしら? いい加減足洗った方が良いわよ。でもできないでしょうね、所詮野良魔法使いには人の物漁るぐらいしかできないでしょうし」
二人の笑い声が耳に届き、同時に部屋の温度が2度ほど下がったような気がした。
裁縫道具を取り出そうと背後にあった棚を弄っているため二人の顔を見る事はできないが、明らかに作り笑いだと分かる乾いた笑い声とその場の少しピリっとした空気から笑い合いながらもこめかみあたりに青筋が立てて睨み合っている様子が容易に想像できる。
また二人の口喧嘩が始まるか、そう思うと溜息をつかずにはいられない。
「泥棒じゃない、死ぬまで借りてるだけだ。それにそれは脆弱な引き篭もり都会派にとっちゃできない事だろうな。いや悲しいねぇ人形なんか弄ってばっかりなゆえに……」
「あら、外に出ては泥棒という悪行三昧、周りから常に白い目で見られたくはないものね。乱暴な田舎魔法使いはもっと淑やかさを知った方が良いと思うわよ」
「あー? 引き篭もってばっかりだからそんな成長しない体なんだよ」
「捨食の魔法使ってるんだから成長しなくて当然でしょ。そっちこそ成長したわりにその程度のスタイルなのね」
「スレンダーなだけだ。そっちこそ半端なところで成長止めたな、ロリコン狙いか? 大層な趣味だ」
「どこぞの泥棒みたいに老いて朽ちていくよりマシよ」
「泥棒なんてどこにいるのやら」
「鏡見ると分かるんじゃない?」
そこで会話が止まる。
静かになった室内から聞こえるのは壁掛け時計が時を刻む音だけ。その静寂さが更に温度の低下を感じさせる。
あぁ、これだと口喧嘩だけでは済みそうに無さそうだ。
「どうやらその人形の事ばかり考えてる覚えの悪い頭に色々と叩き込まないといけないらしいな」
「あんたこそ野蛮な思考ばかりの捻じ曲がった根性を叩きなおしてあげないといけないようね」
「よーし良く言った、表へ出な!」
「望むところよ!」
とうとう二人の怒りが一定値を超えたらしい。
背後からどたばたと荒々しく足音が外に向かっていき、その後店の外から眩い閃光と轟音が響き渡る。
これもまたいつものやり取りではあるけど、店前で弾幕ごっこをされたら他の客が寄り付けないからやめて欲しいところだ。
でもああなった二人は口で言っても止める事ができないからどうしようもない。
今の僕にできる事は流れ弾が店に直撃しない事を祈る事、裁縫道具の他に救急箱の用意をしておく事、後はお茶請けの準備をしておく事ぐらいだろう。
香霖堂は今日もいたって変化の無い時間を送っている。
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
「くそー、寒くて厚着してなければあんな弾幕簡単に避けれたのにさ」
「負け惜しみは言わない事ね、何にせよ負けは負けなんだから負け犬らしく負けを認めて負けの味を噛み締めなさい」
「ここぞとばかりに負け負け言いやがって、嫌なやつ」
居間の机を囲みながら魔理沙は不機嫌そうに、アリスは悠々とした表情で湯飲みに淹れられたお茶をすすっている。
弾幕ごっこが終わった後の休憩時間というわけだ。
今回の勝負に軍配が上がったのはアリス。決め手は額に小粒弾のクリーンヒット。
敗因は身長による当たり判定の差と厚着による反応速度の低下だろう。
寒さに弱い魔理沙にとって冬場での弾幕ごっこには嫌でもハンディキャップが付く事になってしまう。
それでも腕前は結構なものだ。負けた魔理沙もそうだが、優越そうに喋るアリスもところどころに服の破けなどが見て取れる。
負けたと言っても大きな実力の差は無い、どちらが勝ってもおかしくはなかっただろう。
「服の方は結構破けてるみたいだけど、体自体には掠り傷程度で済んだから良かったよ。これなら跡にもならないだろう」
「それは良かった。麗しい乙女の肌に傷が残ったら一大事だからな」
「その言葉には共感するわ。誰だって傷跡のある体なんて望まないでしょうしね」
「アリスは私に感謝すべきだ。私が本気を出せばこんがり炭色の肌になってるところだ」
「感謝するのは魔理沙の方よ。私がその気になれば人形にしないと原型が分からないくらいバラバラになってたわ」
「強がりを言うぜ。ま、お前がいなくなったら当分は暇つぶしの相手がいなくなっちまうからそんな事しないぜ」
「奇遇ね、私も同じ事を考えてたわ。だから見逃してあげる」
「お互い様だな」
「お互い様ね」
お互い様と言い合ったところで二人の顔がヘラっとにやける。それには先程までの険悪さを感じる事はできなかった。
やはり何だかんだでこの二人は仲が良いのだ。
服の破け方からして勝負の激しさが伺えるが、そのわりにはお互い軽い掠り傷程度で済んでいる。
二人とも怒りながらの勝負ではあったがそこは長年弾幕ごっこをしてきたベテラン、相手を極力傷付けずに勝負を決める術と加減を知っているからだろう。
絆創膏を頬や腕に張って笑い合う姿が不思議と和ませられる空気を感じた。
ぶつかり合える仲がいるとは良い事だ。
「でも破けている服をそのままにする訳にもいかないだろう。ついでだから服の修理もしておこうか?」
「おお悪いな、それじゃ頼ませてもらうぜ」
「私は心配ないわ。服の修理、裁縫には慣れてるから。お茶飲み終わったらそのまま帰るわ」
「そうか、なら今の内に頼まれた商品を渡しておいた方が良いね。ほら、いつもの針と糸で良いかい?」
「ええ、ありがとう。それじゃあこれを」
事前に用意しておいた裁縫道具が入った紙袋をアリスに明け渡し、反対の手でアリスから料金を頂く。
アリスも今では香霖堂において数少ない常連の一人で、定期的に店に顔を出して買い物をしていってくれる。
手に掛かる銭の重み、嗚呼この時こそ僕が商売人である事を実証する時であり充実を感じる時だ。
「さて、一服頂いたし目的の品も手に入れたし、私はこれでお暇させてもらうわ」
「毎度ご利用頂きありがとうございます、またのご贔屓を」
「そうさせてもらうわ、それじゃ」
毎度の社交辞令とも言える言葉を交わしてアリスは立ち上がり軽く手を振りながら居間を去っていった。
社交辞令とはいったが、実際にアリスはいつも僕の店を利用してくれているし僕としてもありがたい限りだ。
互いに空々しい言葉に収まらないというのが毎度の挨拶でも嫌にならない。
立ち去るアリスを見送り魔理沙の方に振り返ると丁度破けたコートを脱ぐところだった。
どうやら破けたのはコートだけらしく、その下の洋服は無傷に見える。
そして脱いだコートを軽く投げて僕に渡してきた。
「それじゃ香霖、こいつを頼むぜ」
「幸い修理が必要なのはこれだけか。ふむ……今からだと直るのは明日になるけどそれで良いかい?」
「そうなのか。じゃぁ外は寒くてこのまま帰りたくないから今日はここに泊まっていくか」
「さっきのコーラ分の代金を出してくれたら考えても良いよ」
「代金は出せないが魔理沙様お手製の晩御飯をプレゼントだ。ついでにその他家事も全部請け負いでどうだ」
「なるほど、悪くない条件だね。今回はそれで良しとしよう」
「よしきた、なら今夜は覚悟しておけよ? 暫く他のものが食べたくなくなるくらい美味いもの作ってやるからな」
魔理沙はにやりとおなじみな白い歯を覗かせる笑いをしならが立ち上がり居間を飛び出していった。
コーラ一本で労せずに今日残りの家事をしなくて済むのなら悪くない条件だ。
それに魔理沙の料理は他の料理に手を付けられなくなる、とまではいかないが確かに美味い。
腕前からして味は並以上、どこに出しても恥ずかしくないだろう。
明るいし最近では里との交流も多い。嫁に欲しいという声があってもおかしくない。
考えてみれば、魔理沙に恋愛相手ができたという事を聞いた事がない。
どこかに問題でもあるのか、少し気になるところではあるけど。
「あー、コート直るまでここにあるどてら借りるぜ。あと良さげな道具も見つけたからこいつも借りるぜ、私が死ぬまでな」
もしかしたらあの我侭な性格が最大の問題なのではないか。
というより、居間から出たところにあるどてらといったら僕の所有物じゃないか。
「今夜は少し寒い夜になりそうだな」
日々寒さが増すこの季節、どてら無しで過ごす夜を考えると溜息が出る。
とにかく、こちらも作業に入ろう。あまり長引かせると魔理沙から催促が来てしまうからね。
裁縫道具を取りに行こうと立ち上がり歩くその足は心なしか重く感じた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
窓から薄ぼんやりと朝日が差し込んでくるが、冬の朝日で明るく照らすには無理がある。窓からの灯りだけでは店内は薄暗いままだ。
そこらに置かれている商品はどれも暗い青み掛かった色合いをしていて、肌を刺すような冷たい空気も相まってこの空間丸ごと時間が止まってしまったのではないかとも思ってしまう。
でもそれは所詮錯覚に過ぎない。壁掛け時計の時間を刻む音、何より寒さに小さく身震いする僕がいるから時間が止まっているはずなどないのだ。
この寒さはどうにかならないだろうか。
そういえば外の世界には断熱材という素材を家の壁に使って、夏は涼しく冬は暖かく過ごせるという。なんとも羨ましい、無縁塚に落ちていて欲しいものだ。
そんな事をぼんやりと考えていたら後ろからどてらを被った魔理沙がのそりと現れた。
どてらを被ってもまだ寒いのか両手で自分の体を抱えて身を縮めている。どんなに大きくなっても寒がりなのは変わりは無いようだ。
「ううー寒い、寒くて死ぬぜぇ。なんで冬ってやつはこんなに寒いんだ? 世の中暖かい方が良いに決まってるのにな」
「君の言いたい事は分かるよ、でも世の中それだけでは駄目なんだ。冬も生き物にとって大切な季節だよ」
暖かければ生き物達は様々な活動をするようになるけど長くやっているとそれも疲労し衰えてきてしまう。
そこに寒い時期を差し込む事で生き物達は活動を抑制し回復を図る、次の年に備えてね。
いわば冬は自然が生み出した生き物を休ませるために作り出された季節だと僕は考える。
「なんで大切なのか良く分からないが、私にとっては寒いのは嫌だ」
「まぁ寒いのはあまり好きではないというのは僕も賛成だよ。そろそろストーブを出す頃合だろう」
「香霖は良いなぁ、ストーブなんて便利な暖房器具があってさ」
「魔理沙は自分の家の下に温泉脈を引いて床暖房代わりにしてるから良いじゃないか」
「それもそうだけどな、ちょっと言ってみただけだ。とにかく朝飯にしようか、昨日の汁を使ったおじやで構わないよな?」
「問題ないよ、昨日の残り物をおいしく頂ける良い選択だね」
昨日の夜に出てきたのは鍋だった。
味噌をベースにしたスープに野菜を中心とした具材はあっさりとした味わいながら体が温まりおいしく頂けた。
きのこが妙に多めだったのはご愛嬌だけど。
多めに食べてはいたのだけど量が結構あり二人では食べきれず残してしまったが、出汁が味噌だから朝食にも合うだろうし結果としては残っていて良かったといったところだろう。
「あーそれとさっき居間で面白そうな本を見つけたから後で見て良いか?」
「それは隅に重ねて合った本の事かな。それだったら僕は読み終えたやつだから見ても良いよ」
「そうか、ならぱぱっと済ませて読むとするぜ。少し待ってろ、すぐに作るからな」
先程までの寒そうな仕草はどこへやら、魔理沙は嬉しそうに笑いながらそそくさと台所へと向かっていった。
寒がりではあるが何か決めて行動する際にはそれほど障害にならないのかもしれない。
さて、とりあえず今日の予定を考えておくとしよう。
魔理沙のコートは昨日の夜には仕立て直しておいたから、依頼は特に無し。
段々冷え込んできたし朝食を済ませたら物置からストーブを引っ張り出さないといけない。
その後は香霖堂開店。客が来るまでカウンターで本を読みつつ待機。
夜になったら閉店、自室で水タバコでもふかしながら本を読む。
ストーブを出す事と途中まで魔理沙がいる事以外はいつもと変わらない一日になりそうだ。
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
窓が多くない店内では時間の流れを感じ難い。
30分ほどしか経ってないと思ったら1時間以上過ぎていたりと体内時計が狂ってしまうものだ。
でも室内には壁掛け時計が常に何者にも阻まれる事無く正確に時間を刻んでいるからすぐに現時刻を知ることができる。
今は午後の4時を過ぎたあたり。午前10時ごろから開店しているけどいまだ客はゼロのままだと思うと溜息が出てしまう。
今日新しく読み始めた本は既に半分以上読み終えてしまった辺り、冷やかしも来ない静かな時間だった訳だ。
その冷やかしの一人が朝から部屋に入り浸っているからという理由もあるのだけど。
座っているカウンターの向こう側には倉庫から引っ張り出してきたストーブが稼動音していてその熱が店内を満遍なく暖めてくれている。
やはり文明の利器があると待ってる時も寒い思いをしなくて済む。改めてこいつは売り物にはできないと実感する。
そして距離としては歩いて6歩ぐらいだろうか、それ程離れてもいない位置に冷やかし常連の一人である魔理沙はいつもの壺に腰掛けながら今朝言っていたお目当ての本を朝から読みふけっている。
相手がいないからなのか、もしくは夢中になる程気になる内容なのか、店が開いてからまだ一度も会話を交わしていないな。
そんな事を思いながら見つめていると視線を感じたのか、ふと魔理沙が顔を上げ目が合った。
「どうした香霖そんなに見つめて。もしかして、今さら私の美貌に惚れたか?」
「いや、今日はあまり話してないなと思ってね」
「なんだ、私がいるのに喋らないのがそんなに物寂しいか。なんだったらここに住み着いても良いぞ? 家庭的で美しい押しかけ女房ができるなんて滅多に無い幸運だぞ」
「押しかけ女房なら君はいつもしているだろ。それにあまり印象のよろしくない言葉だから極力使わない事を薦めるよ」
「なるほど確かにその通りだ。でも今回は香霖の同意だったからそうでもないけどな」
押しかけ女房とは男性の同意無しに一方的に押しかける女性の事を指す。
その言葉を君が使うのはおかしいと指摘してあげると魔理沙はからからと笑いながら同意しつつ理屈で返してくる。
魔理沙の言い分はもっともだ。家事を任せるという条件のもと彼女を泊まらせた。
いわば僕が魔理沙を招き入れたといっても差し支えないだろう。
「じゃあさ、もし一緒に住みたいって言ったら、香霖はどうする?」
「……何がだい?」
「だから、私が店の整理もできない香霖のためにここで住んでやるって言ってるんだ。損は無い提案だぜ?」
魔理沙がいつもの歯を覗かせる笑みを見せながらジッとこっちを見ている。
でもその目はいつもの余裕の色は無い、まるで射抜くかのような真剣な目をしていた。
また始まったのか。そんな感想とともに呆れとも悲しみとも取れる感情が胸の中で湧くのを感じた。
これも何年目だろう、魔理沙がまるで誘い込むかのように僕に寄ってくるのは。
「損はある。香霖堂は2人分住める程広くはないよ」
「昨日私が泊まったじゃないか。二人分は問題無いだろ?」
「君が泊まったのは客間だよ。客間を埋める訳にはいかない」
「じゃあ香霖の部屋で寝れば良いんだ、これで万事解決だ」
「僕は一人で眠りたいんだ」
ムッと魔理沙の喉から唸るような声が聞こえたような気がする。
もしかしたらネタが尽きたのかもしれない。それ以降は魔理沙は口を開こうとしないが、視線だけは外そうとしない。
どこかの本に書いてあった気がする、動物の喧嘩は睨み合いから始まり目を逸らしたら負けだとか。
その知識は本当なのか分からない。だけどここで目を逸らしたりしたら付け入る隙を与えてしまうかもしれない。
だから僕も魔理沙から目を逸らさず見つめ返す。
互いに喋ろうともせずただ目を合わせ続ける。
2分くらい前はページをめくる音ぐらいはしていたが今ではそれさえしない。聞こえてくるのは時計の音とストーブが燃焼と続ける環境音だけだ。
黒い瞳が僕の目の中を覗き込んでくる。今、魔理沙は何を考えているのだろう。
受け入れない僕に対する恨みか?
それとも嘆きだろうか?
潤いのある瞳を僕も覗くが当然分かるはずも無い。
ふと気付けば耳から音がまた一つ消えていた。火が燃える音、つまりストーブの稼動音が消えていた。
「ストーブが止まったね、故障かもしれないから見てみよう」
「かもな、寒くちゃ会話も沈むからな」
いまだ魔理沙は視線を外さないが、この場を凌ぐには充分な理由が作れた。
カウンターから席を外しストーブに近づき、まずはしゃがみ込んで給油メーターを確かめると止まった原因はすぐ見つかった。
メーターの針が残量ゼロの部分を指している事から、灯油不足だというのが一目瞭然だ。
「どうやら灯油が無くなったらしいね。給油したいのはやまやまだけど、実は残りの灯油も無いし、暖かいところで本の続きが見たいなら君は家に帰った方が――」
「その心配をする必要はありません」
突然僕の声を遮る魔理沙のではない声。
この声は知っている。店に良く来る人だけど、どうも油断ができない雰囲気を持っているあの人、いや妖怪だ。
急に僕の頭上に影が落ちる。メーターから上へと顔を上げると、案の定そこにはどこか東洋を思わせる衣装を着た八雲紫が不敵な微笑みを見せながら僕を見下ろしていた。
「御機嫌よう、今年ももうすぐ冬眠の時期ですね」
「いらっしゃい、できれば部屋の中に現れるんじゃなくてちゃんと入り口から入ってきてくれると嬉しいのだけど」
「あら、それでは私の能力の意味がないではないですか」
「脅かしたりするのが君の能力かい」
「妖怪は人に恐怖を与えたり脅かしたりするのが義務みたいなものです。貴方も妖怪の血を持っているならそれを理解するべきですよ」
紫は手に持った扇子で口元を隠しながら紫はくすくすと笑う。
どうにも八雲紫という妖怪は掴みづらい。抜け目がないというか、何を言うにものらりくらりと避けられて気付けば丸め込まれしまう。
掴みどころが見つけられないからどうも苦手な部分もあるけど、外の世界の燃料を提供してくれるお得意さんでもある。
冬も近づいてきたしそろそろ現れるだろうと思っていたけど、なんとも都合が良い人だ。
とりあえずしゃがんだまま会話するのは失礼だと思い、立ち上がってから接客に応じる事にした。
「さて今日はどのようなご用件で……と、さっきそれらしい事言ってくれたね」
「えぇ、困っている店主様に救いの手をと思いましてね」
紫が口元を隠していた扇子を閉じ、自分の体の横に線を引くように扇子を動かす。
するとそこの空間に切れ目が入り、赤黒い空間を覗かせたかと思うと中から何かが鈍い音を立てながら床に落ちる。
赤くて四角くい物体、幻想郷ではまず見る事が無いそれは確かポリタンクと言っただろうか、それが三つ落ちてきたのだ。
「在庫もないそうだから多めに出してあげました。これだけあれば今年の冬ぐらいなら保ってくれるでしょう」
「そうか、いつも世話になるよ……でも当然代価は払うよね」
「それはもう、これは交換取引なのですから」
察しが良いと紫は再び目を細めながら口元を扇子で隠しながら微笑む。
紫もわりと店に来る方だが、どちらかというと交渉相手といった方が正しい、それも主導権は向こうにある。
特にストーブの燃料である灯油は現時点では紫から受け取るしか入手手段が無い。
紫は灯油の代償として店の品物を持っていく。
それは新しく仕入れた商品である事が多いが、彼女はその使い方が分かっているようだ。
僕が使い方を知らない物の使い方を知っていて、それを明け渡してしまうのは少し癪でもある。
でも使い方を知らない僕にとっては使い方が分かるストーブと灯油の方が今は価値が高いからあまり文句も言わない訳だけど。
「では今回は何をご志望だい? 生憎、最近はめぼしい物は仕入れていないのだけど」
「そうね、では貴方を頂くとしましょう」
「言ってる事が良く――」
分からない、そう言おうとした瞬間、紫の顔が間近に迫り後頭部と背中が押さえつけられたかと思うと、何かで口を塞がれた。
いったい何が起きた。僕は紫に何をされた。
唇に触れる暖かく柔らかい感触、紫が甘い声を漏らし吐息が顔に掛かる。
口を塞がれ紫の顔が目の前にある、つまり僕は彼女に口で口を、キスで言葉を遮られているのか。
いきなり何をするんだ、そんな言葉を投げつけてやりたくても僕の頭は紫の手と唇でしっかり押さえつけられてまともに声が出せない。
どうにかしようともがいてなんとか口を少しだけ開く事ができた。
が、今度はその開いた口に生暖かいものが入り込んできた。
口が塞がれている状況からして、これは舌か。
紫の舌が僅かに開いた口から中に侵入し、僕の口の中を舐め始めた。
舌を舌で絡め、歯茎の周りをゆっくりと舐め回し、口の中を吸ってくる。
紫が舐め回す度に、吸い付く度に口の中でにちゃにちゃと粘液質な音を立てるが彼女は気にせず僕の口を弄ぶ。
駄目だ、そろそろ息が苦しくなってきた。気が遠くなりそうだ。
だが次の瞬間、口を覆っていた圧迫感が無くなり、息が掛かるほど近かった紫の顔少しだけ遠くなった。
どうやら突然のキスもようやく終わったようだ。
「ん、ごちそう様」
「き、君はいったい何をしたんだ」
「何って親愛の証としての深い接吻をしただけの事です。知りませんでした? 親密な仲ではこれくらいはするのですよ」
何をした、だなんてありきたりだと思ったし、僕自身も何をされたかなんて言われなくても分かっている。
そう、僕は紫にディープキスをされたんだ。
分かっている、けどそんな台詞しか咄嗟に出てこなかった。
頭が回らない。心臓が激しく鼓動している。
突然キスされたって不快なだけだというのになんでこんなに動揺しているんだ。
反論するために口を開こうとしたが今度は紫が差し出した人差し指一本で口を制されてしまう。
「シャイな反応をして可愛いわね。でもそれ以上口を出しては駄目よ、私と貴方の仲を見せびらかす事になってしまうもの……ね」
紫はまるで子供をあやす母親のように優しい笑顔を向けてくる。その笑顔からは僕が知る八雲紫とはまったく違うものだ。
知らない、目の前にいるのは本当にあの紫なのだろうか。
「それで良いわ……それじゃ私はこれでさよならするわね。来年にまた会いましょ」
僕が口を閉ざした事に満足したのか、紫は指差しをしていた手を離し、軽く手を振りながら別れの挨拶をするとゆっくりと踵を返し扉から出て行った。
いったいなんだったんだろう。
奇妙な事を言ったり燃料の提供をしたりはいつもの事だ。でもそれ以降は何かが違う。
僕が知る八雲紫はあんな行為はしない。僕が知る八雲紫はあんな笑顔をしない。
だというのに、なぜか不思議とも不快とも感じなかった。それどころか心地良いくらいだ。
そう、僕はこの雰囲気を知っている。忘れかけていた懐かしい空気があの時の紫にあった。
でもあれは――
「用事を思い出した、私はもう帰る」
はっと我に返り振り向くと魔理沙は壺の上にはいなく、居間の奥から出てくるところだった。
体には仕立て直したコートを纏い、手には愛用の箒、帽子を深く被っていて表情は窺う事ができない。
魔理沙は途中で帽子が脱げないようにするためか、鍔を持ちさらに深く被りながらずかずかと音を立てて扉の入り口へと進んでいく。
「待ってくれ魔理――」
「灯油、手に入って良かったな。それとあの本は借りていくぜ。じゃあな」
何か言わなければいけない、そう思って止めようと手を伸ばし喋ろうとするも、魔理沙は少しトーンの下がった声で一言を言うやいなや扉を開けて外に出て行ってしまった。
何か言おうと思っておきながら止める事もできず、伸ばしかけた手は自分でも驚くくらい石のように固まり、唖然として出ていく魔理沙の背中を見届ける事しかできなかった。
寒い。開かれたままの扉から寒気を帯びた北風が流れ込んでくる。
ストーブが止まり、部屋を暖める要素が無くなった店内は北風によって急速に冷えていくのを僕は肌に感じていた。
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
窓からは月明かりさえ差し込んでこない。どうやら月が出ていないか雲に遮られているのだろう。
風も無く静まり返った寝室の中で一つの灯篭が薄ぼんやりと机を照らし出している。
机の上には置いてあるのは香霖堂新規開店の頃からつけ続けている会計帳簿だ。商売人たる者、一日の終わりに店の売り上げの計算を怠ってはいけない。
開かれた白いページに穴が開くのではないかと思うくらい何度も帳簿の数字を睨み間違いがないか確かめる。
それにしても暗い。いつも思うが、灯篭一つの灯りだけではどうしても心許無い。
なら灯篭をもっと増やせば良いじゃないかという話になりそうだけど、一部屋に大量の灯篭を置いたら足の踏み場がなくなってしまうし、もし倒してしまったら燃え広がって火事になりかねない。
だから人は一つしか灯篭を灯さない。
僕の商品にはスタンドライトという明るく照らす照明器具がある。
それさえ動かす事ができれば灯篭以上の光源が確保できるのだろうけど、生憎それはパソコンと同じで電力がないと動かす事ができないらしい。
外の道具の多くは電力で動く。いつか香霖堂に電力が供給できるようになれば今も眠っている商品の数々も扱えるようになり外の技術の恩恵を受ける事ができるのだけど。
そんな愚痴を誰に言うでもなく心の中でぼやきながら目を細めて帳簿の数字を確認し続ける、がやはり数字が見間違いや変化する事はない。
どう見ても今日の売り上げはゼロだ。今日の日付以前の会計も開いたページに書いてあるが、どれもなけなしの数字かゼロを示している。
元々来客が少なく、商品を買っていく人が殆どいないのだから当然といったら当然なのだけど。
救いとしては商品の多くは無縁塚で拾った物で仕入れはタダである事、そして数は少なくとも常連がいて定期的に商品を購入してくれる事だろう。
雀の涙程には変わりはないのだけど。
今日収入があったとしたら、今冬分の灯油が手に入った事、そして紫の突然で不可解な行動だろう。
冷静になった今考えてもまだ紫が取った行動を理解する事ができない。
僕と紫は実際キスするような親しい関係では無い、あくまで取引相手程度の関係にあるはずだ。例え紫がどう思っていたとしても今はそれ以上の関係であるはずが無い。
紫はいったい何がしたかった、何が目的であんな事をしたのだろか。
駄目だ、考えれば考える程深みにはまっていく。
「もうこんな時間か」
考えるのを途中で止めて背伸びしながらあくびを一つ掻きながら机に置かれた置き時計を見ると針はもうすぐ10時を指す頃だった。
明日の事もある、気になる事もあるがそれはまた明日にでも考える事にして今日はもう寝る事にしよう。
帳簿を閉じて、眼鏡を外し、羽織っていたどてらを脱いだら肌寒さから逃れるために事前に敷いておいた布団の中に潜り込む。
後は灯篭の灯火を消せば寝る準備は完了だ。
けど、その灯火を消せない、消す事ができなかった。
理由は物音、店の入り口方から微かに扉が開く音、そしてこちらに向かって一つの足音が近づいてくるのを感じた。
こんな時間に訪れる人がいるなんて、いったい誰だろうか。こちらに向かってくる以上、目当ては商品の強奪ではなさそうだ。
だとしたらこの家に住む人物、つまり僕に用事がある人の可能性が高い。
まさか妖怪がいきなり僕に襲い掛かろうとやって来た、とは考え難いが、警戒するに越した事はないと思い眼鏡を掛け直し、相手の登場を待つ。
やがて足音は寝室の目の前で止まり、襖がゆっくりと開かれる。
夜中の突然の来訪者、薄ぼんやりとした灯りではあったけど、その姿ははっきりと捉える事ができた。
現れたのは魔理沙だ。いつものトレンドマークともいえる帽子は被ってなく、黒いコート纏った状態で立っていた。
「鍵も掛けずに開けっ放しなんて無用心だな、驚いたぞ」
「それは今後気をつけるとして、驚いたのはこっちの方だよ。こんな夜遅くになんの用だい?」
質問された魔理沙は少しだけ視線を逸らし考え込むかのように黙り込んでしまう。
だけど意を決したのか、視線を戻し真っ直ぐ僕の目を覗き込んでくる。
「なぁ、何年前の話かは忘れたけど、香霖は私の事を成長してるって認めてくれたよな」
「……言ったね。現に今も成長してる」
「あぁ確かに私はこの耳で聞いてる間違いなんて無いはずだ。なら」
すると魔理沙の纏っていたコートが畳の上にするりと脱げ落ちた。
コートの下の格好はワイシャツとスカートだけで、コートを着用してたとはいえとても外出する際の格好じゃない。
そのまま魔理沙は歩み寄り、布団から上半身だけ起こした状態の僕の体に寄り掛かり上目遣いで覗いてくる。
「私を抱いてくれよ」
熱い吐息が感じられるほど近い距離から真っ直ぐな視線が僕を射抜く。
僕も魔理沙の覗き返すが、その瞳はまったく揺らぐ気配は無く、その間も肌を密着させるようにじりじりと擦り寄ってきてくる。
「知ってるんだろ? 私が香霖をどう思ってるのか、あの頃からずっと」
「大体は知っているつもりだよ」
「だったらいつまでもはぐらかさないで私の気持ちに応えてくれよ。それとも、私の方から言わないと駄目か?」
魔理沙が僕の浴衣を握る手が若干強くなる。
多分緊張していんだろう、先ほどまで真っ直ぐ僕を見ていた瞳も視線を背けたりと揺らぎが見て取れる。
やや大きめの深呼吸。これから口に出す決意の言葉のための準備だろう。
そして僕はこの先、魔理沙がなんと言うのかも予測がついている。
「私は香霖が好きだ。今に始まった事じゃない、ずっとずっと前から……香霖の事が好きなんだ」
そう、魔理沙は僕に恋心を抱いている。
彼女が僕に振り向いてもらおうとあらゆる事を試し、何をされても諦めずに今日という日まで過ごしてきた。
そんな事はとっくの昔に気付いている。
「私は香霖が欲しい。香霖のために私は良い女になったんだ。だから、今度は香霖が私に応えてくれよ」
魔理沙の顔がますます近寄ってくる。これだと顔が触れ合ってしまう。
いや、それが彼女の目的といって良いだろう。
つまり、魔理沙は僕にキスをせがんでいるんだ。
何も言わずに受け取ってほしいと体で表現してきているんだ。
今までの魔理沙の行動からは予測がつかない程に大胆で大きな賭けとも取れる。
これは彼女にとって大勝負だと言える。
「そうか、なら僕も応えよう」
そう、僕も魔理沙に応えなければいけない。
今まではぐらかしてきたけど、彼女が決死の行動に出た以上、僕も覚悟を決めなければいけない。
だから僕は覚悟を決めて魔理沙の肩を掴み、
「僕は、君を受け取る事はできない」
肩幅の小さい彼女の体を引き離した。
魔理沙の顔は引き離された瞬間、目を丸くして驚きの表情を見せる。
でもそれも一時の事で、瞬く間に彼女の目は鋭くなり怒りからだろうか体が震えているのが肩を持った手を通して伝わってくる。
「何でだよ……何で駄目なんだよ! こんなにお前の事を思ってるのに! 何で駄目なんだよ!」
「何が何でも、僕は君の思いを受け取れない」
「私は良い女になろうと色々してきた。料理だってできるし弾幕も使えるし異変解決だってこなせる、それに!」
魔理沙は僕の腕を荒々しく掴み動かすと、掌に柔らかい感触が伝わってくる。
強引に動かされた手の先にあるのは魔理沙のワイシャツ、丁度彼女の胸元に当たっていた。
「もう子供じゃない。こんなに良い体にもなった! それでもまだ足りないって言うのかよ!?」
柔らかくワイシャツ越しでも人肌の温もりを感じる。
そしてそれ以上に感じる魔理沙の胸の鼓動。
脈打つ心臓の鼓動は速すぎるのではないかと思うぐらいに高鳴っていて、彼女が極度の緊張状態にあるというのは明らかだ。
相手に体を委ねようとする、それがどれだけ心に負担を掛けるのかは知っている。
ましてや魔理沙はこんな事初めてなのだろうからなおさら緊張する事だろう。
ここで拒絶する事は彼女にどれ程の恥を掻かせるだろうかは理解しているつもりだ。
「……君は僕を選ぶより里にいる人間の男と付き合った方が良い。その方が君のためになる」
でも受け取れない。どうしても受け取る気になれなかった。
すると腕から魔理沙の握力が消え軽い開放感を感じ、瞬間、頬に強い圧迫感を感じ目の前が一瞬白くなり、勢い余って布団に倒れこむ。
頬からじんじんとした痛みを感じる。
まだ少し眩む目を上げると、握り拳をした魔理沙が見下ろしていた。
先程の衝撃はその強く握られた拳によるものだろう。
「馬鹿野郎」
感情を押し殺すような低い声で小さく呟いた魔理沙はコートを拾い上げ早々に纏うと走って部屋の外へと出ていった。
部屋の外から乱暴に扉を開ける音が響く。他のものに見向きもせずそのまま去ったようだ。
次第に痛みが増す頬を摩る。
少しだけ腫れてきている。それだけ彼女は本気で殴ったという事だろう。
今夜初めて魔理沙と正面からぶつかって、正面から拒否して、馬鹿野郎という言葉を残して彼女は去った。
誰から見ても決定的だろう。
僕は、魔理沙に嫌われた。
これで、魔理沙は僕に近寄らなくなる。
「これで、良かったはずだ」
静かになった室内に雨粒の滴る音が聞こえてくる。いつの間にか外は雨になっていたようだ。
冬の夜の雨、触れればさぞ冷たいだろう。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
――彼女が布団の中で眠っている。
――顔には四角い白い布切れが覆い被さっていて表情は窺えない。
――まだ治療薬が開発されていない病だったそうだ。
――あまりにも呆気ない突然の別れ。多分1年ほど付き合った頃だっただろうか。
――彼女はもう笑ってはくれない。不思議と涙は出なかったが酷い喪失感に襲われたのを覚えている。
――そして絶望した。人間と交わろうとすれば、深い感情を抱けば早く来る別れに苦しむ事に。
――だから僕は人間に深い感情を抱かないようにした。またあの喪失感を味わうのが嫌だったから。
――彼女を失い、そうするようになってからどれほど経っただろう。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
今日も今日とで客は来ない。
昨晩の雨は朝には止み、今日一日快晴、まさに営業日和だった。
だけどやっぱり客は来ない。
窓から差し込む光が橙色に染まっている。もうこんな時間か。
今日は本を読む気にもなれずにただカウンターに座って客が来るのをずっと待っていた。
なんだか一日が終わるのがやけに早い気がする。それも本を読んでいる時よりもだ。
何かが足りない。いつも日常のようにあってすっかり溶け込んでいたものが無い。
なんだろう、何が足りないと思うのだろう。
分かった、音が足りないんだ。
どんな音が足りないのだろう。
物音、違う。
時計の音、違う。
声、そうだ、人の声が足りない。
誰の声か、そんなの決まっている。
とにかくうるさくて、騒ぐのが大好きで、人の商品を代金も払わず持っていく、でも憎めなくて、それで夕日に映える姿が綺麗で。
そう、丁度玄関の扉の前で夕日の逆光を浴びて輝く金の髪が目を引く彼女が足りなかった。
「魔理沙」
「誰が魔理沙よ、人違いだわ」
「ん、え……なんだアリスだったか」
「なんだとは何よ失礼ね」
彼女の言葉にはっとして目を凝らすと確かに目の前にいるのは魔理沙じゃなかった。
そこには間違われたのが不快だったのか、眉をひそめたアリスが立っていた。
少し呆けていたとはいえ、常連の顔を間違えるなんてなっていない。
客が来ないものだから眠くなって思考能力が落ちていたのかもしれない。
「人違いをしてしまったのは申し訳ない。考え事をしててつい腑抜けてしまったみたいだ」
「つい腑抜けて、ねぇ。それはよっぽど大事な事だったのかしら? 私から見たら酷い上の空だったわよ」
「考え始めたら没頭してしまうタイプなんだよ。それにしてもどうしたんだい、この前買出しに来たばかりだというのにもう糸を切らしてしまったのかい」
「いいえ、今日は別の買い物よ。風邪に効く薬とか道具とかないかしら」
「風邪に効く物? 風邪薬だったらこの前入荷したかどそれで良いかい」
「じゃあそれでお願いしようかしら」
風邪薬はこの前無縁塚で拾った物だ。
幻想となって流れ着く物だから外に出回っている薬よりも効果が低いだろうけど、里で売られているものより高い効果が期待できるだろう。
カウンターから立ち上がり、最近仕入れた物を並べておいた棚を探る。
手に入れた薬は紙製の小さな箱に入っていて特徴的な色をしているからすぐに見つける事ができた。
「それにしても、魔法使いも風邪を引くものなんだね。不老とはいえそういうところまで変わらないって事なのかな」
「どうなのかしら? 私は魔法使いになってから一度も風邪を引いた事が無いから分からないわ」
「君は風邪を引いてない? じゃあ誰が風邪を引いたんだい」
「魔理沙が風邪を引いたのよ」
「え?」
「私が魔理沙の家を訪ねた時にはベッドの上でうなされててね、隣に濡れた服があったところ見るとしっかり体を拭かなかったのが原因でしょうね」
「そうだったのか……」
魔理沙はあの時に雨具も着けずに飛び出していったという事か。なんて無用心な事をしたんだ。
風邪を引いたというのは僕にとっても喜ばしくない。
彼女の気持ちは受け取る事はできなくても彼女は常に元気であって欲しいんだ。
「魔理沙の容体はどうなんだい」
「ちょっと高めの熱を出してるわ。死ぬ程でもないけど、暫くは安静にさせた方が良いわね」
「そうか、命に別状が無いのは安心した」
「体の方が確かに大丈夫だけど、問題は精神的な方かしら。話し掛けても殆ど会話しないし食べ物も殆ど食べようとしない。なんでこうなったのかも喋ろうとしないわ」
「多分、風邪にやられて気が沈んでるんだよ。治ればその内いつもの元気を取り戻すよ」
「それは無いでしょうね」
アリスは僕の予想をすぐさま否定した。
気付けばアリスの表情は険悪なものになっていた。
良く魔理沙と喧嘩する時に見せる表情とはまた違う、まるで見られているだけで押し返されてしまいそうな圧力感を持った鋭い目が射抜かんとばかりに睨み付けられていた。
こんなアリスは今まで見た事ない。まるでアリスでは無い別人がいるみたいだ。
それでいてその視線は酷く冷たい。目が合うだけで背中に嫌な汗が滲み出てくるのが分かる。
「私が買い物に来たのはただのお節介。本当は魔理沙から貴方への伝言も預かってるからここに来たの」
「……魔理沙は、何だって?」
「『二度と香霖堂には近寄らない。お前も近づくな』、だそうよ」
言葉も出なかった。
これは好きだという魔理沙の気持ちを拒否した当然の結果と言える。
でもこうもはっきりとした絶交の言葉を叩きつけられるとアリスの口からとはいえ言葉の意味の重さは凄まじい。
「あれはきっと雨に濡れたのね。最近降ったのは昨晩の事。つまり魔理沙が濡れるとしたらその時だった可能性が一番高い。その上であいつが森近さんに絶交の伝言をさせるという事は貴方との間で騒動があったというのは明らかだわ」
「良く推理できてるよ。殆ど当たってる」
「これはあいつと貴方の問題だから追究しないけど、これだけは確かに言えるわ。貴方は最低な事をした」
「耳が痛いよ……」
「……本当は他にも色々言いたいけど、あいつのところに帰らないといけないからこれで失礼するわ」
薬をひったくるように受け取ったアリスはカウンターに代金を置いてから早々と玄関口へと向かい取っ手に手を掛けた。
「森近さんはもう少し人の心が分かる人だと思ってたけど……幻滅だわ」
最後にそう一言だけ残して扉を開けて去っていく。
何も言い返す隙もなかったし、言い返す言葉さえ思い浮かばない。
結局僕は去っていくアリスの後姿を呆然と見送る事しかできなかった。
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
相変わらず心許無い灯篭の灯火が薄暗く室内を照らす。
あまり夜の時の作業には向かないけれど、長く使ってきたという事もあってこの灯りを見ると一日の終わりを実感させられる。
帳簿の記入も既に済んでいる。今日の収入も雀の涙程だ。
やる事は済ませた。後は寝るだけ、そのはずなのに横になってもどうしても眠る気になれない。
寝る時は天井のシミを数えると良いというけど、こう薄暗くてはシミを数える事もままならない。
「馬鹿野郎」。魔理沙の言葉が蘇る。
「貴方は最低な事をした」。アリスの言葉が頭を離れない。
あの時、薄暗くて良く見えなかったけど、きっとその顔は真っ赤に上気していただろう。
あの時、薄暗くて良く見えなかったけど、僕を見下ろすその目には涙を湛えてたように思える。
魔理沙は今何を思っているのだろう。
僕を恨んでいるだろうか。それとも悲しんでいるだろうか。
それとも風邪に苦しんでそれを考える余裕さえないだろうか。
見てもいないのにベッドの上で息苦しそうに横になっている魔理沙の姿が脳裏を過ぎる。
アリスはしっかり薬を届ける事ができただろうか。
薬の効果はあっただろうか。
少しは魔理沙の容体は楽になっただろうか。
考えた事は新たな考え事を増やし頭の中を埋めていく。
考えを遮ろうにも止まらない。
時間が経てば経つ程に魔理沙の事で頭が一杯になっていく。
本当に、僕はこれで良かったのだろうか。
「あら、こんなところに心の隙間がありますね」
声に気付いて頭を横に向けると、そこにはいつの間にか紫がしゃがみ込んで僕を覗き込んでいた。
口元は微かに微笑む柔らかいものだったけど、見下ろすその目は獲物を狙う猛禽類、いや絡みつくような視線は蛇のものといった方がしっくり来るかもしれない。
とにかく捕食者の目が僕を見下ろしていた。
「もう冬眠したのかと思ったらまだ起きていたのか。生憎、僕はこの通りもう寝るんだ、邪魔しないでもらえるかい」
「そうだったの? 私から見れば今にも起き上がってどこか行ってしまいそうなくらい目が開いてますが」
「気のせいだよ。それで君はこんな夜になんの用だい」
「それは分かっていて聞いているのでしょうか?」
質問を投げ掛けられた紫は楽しそうにくすくすと笑う。
そして体の位置をずらし、横になっている僕の上に跨り、細い手が頬を摩ってくる。
摩られた頬は丁度、魔理沙に殴られた部分だったけど今は腫れは殆ど引いて痛みもそれ程ない。
「冬眠に入る前に貴方の温もりを分けて貰いたいと思いまして」
瞬間、胸の高鳴りを感じた。
紫から吐かれる吐息、服の隙間から覗かせるうなじ、頬を摩ってくる手の感触、彼女の一つひとつの仕草から目が放せない。
彼女から漂ってくる匂いが鼻腔をくすぐる。微かに甘くて誘い込まれそうな香しい匂いでもっと近くで堪能したいと腕が動きそうになる。
さっきまで獲物を狙う獣のようだった目はすでに無く、それは愛しい者を見守るかのような穏やかな色をしていた。
仕草が、感触が、匂いが、視線が、様々な感覚が彼女の誘惑を受けてつい息を呑んでしまう。
まただ。なんで突然彼女がこれ程魅力的に感じてしまうんだ。
そして僕の様子が思惑通りだったのが満足だったのか、紫は悪戯が成功した子供のようにくすくすと笑う。
「そんなにどきどきさせてしまって、余程彼女の事が好きだったのですね」
「彼女? その言い方だとやっぱり君は何か細工をしているのか。いったい何をした」
「少しだけ貴方の記憶を覗いて昔の恋人の情報を引き出させてもらいました。貴方の中で今もくすぶっている女性の情報です」
「なんだって」
「引き出した情報を元に彼女の匂いと仕草、その空気を再現しているのです。多少の効果は期待していましたけど、まさかあの時突然接吻されても嫌だと思わない程になるとは予想以上の効き目でしたが」
思い出した。
紫のどこか懐かしさを感じる匂いや仕草、忘れ掛けていた彼女のものだ。
もう何年も前から二度と感じる事ができないと思っていたものを僕は感じているんだ。
「道理で……でも君はわざわざそんな事までして僕に何をしたいんだ」
「大層なものではありませんよ。先程も言った通り私は貴方の温もりが欲しい、そして貴方の心の隙間を埋めてあげたいのです」
「心の、隙間?」
「貴方は胸の中がぽっかりと開いてしまったような虚無感を感じている。他のものでは埋める事もできずに今日まで過ごしてきた、可哀想に」
頬を摩っていた手は顎へと移り、そのまま指で胸元までなぞられる。
なぞってぴたりと止まった一点に今度は心音を聞くかのように体を倒し委ねてくる。
いや、委ねてきたんじゃない、包まれたんだ。
紫は体を倒してきただけだというのに体全体を厚手の毛布で包まれたような暖かさと安心感を与えてくる。
それは包まれたといった表現の方が正しい。
「でも私なら心の隙間を埋めてあげられる。私なら貴方を満たす事ができる。さぁ受け入れて。全てを溶かして忘れてしまうくらいの至福を与えてあげる」
僕の中には空白がある?
今まで感じてきた虚しさを紫が埋めてくれる?
もし本当ならどれ程救われた気分になるのだろう。
紫から漂ってくる匂いがまた鼻腔をくすぐる。何度嗅いでも懐かしい彼女の匂いだ。
今、紫を受け入れれば楽になる。
そう考えた時には僕の腕は以前と動き出して紫の背中に回り込んで抱き込んでいた。
服越しではあるけどますます体が触れ合い、紫の体温をはっきりを感じ取れる。
人肌の温もり、香しい匂い、心も体も本当に溶けてしまいそうだ。
「二度目の正直といったところかしら、ようやく貴方は私のもの」
二度目の正直、そういえば以前にも紫が誘惑してきた事があった。
その時は拒否したのだけど、今はそんな事はどうでも良かった。
昔の事を考えるよりも、今のこの温もりを感じていたかった。
紫は満足そうに微笑みながら擦り寄り、交差するようにして顔を耳元に近づけてくる。
何か喋るのかもしれない。でも今の僕なら大した反応はしないだろ。
もう、考える事も、できなくなりそうだから。
「魔理沙なんて小娘の事は忘れてしまいなさい」
なんだろう、頭の奥で棘が刺さるような痛みを感じる。
紫の顔が遠い。さっきまであんなに近くにあったはずなのに。
何故遠くなった?
答えはすぐに見つかった。僕の腕が紫の肩を鷲掴みにして引き離しているからだ。
なんで、僕は紫を離そうとしているのだろう。
自分から温もりを離そうだなんて、おかしいじゃないか。
紫も今の状況が不満なのだろう、あの穏やかな笑顔がないじゃないか。
自分自身の行動に理解できない。
「ここまで来て何故、私を拒むのかしら?」
「魔理沙は、小娘なんかじゃない」
「小娘よ。霧雨魔理沙は何もできない弱い人間の半人前な小娘でしかないわ」
「違う、何も知らない君に彼女を小娘呼ばわりする資格なんて無い」
自分の口が開く度にモヤが掛かっていた思考が次第に晴れて鮮明になっていくのが分かる。
そうだ、人の記憶を勝手に覗き込んだ上にそれを利用するような人を相手に誘惑されてはいけないんだ。
それに魔理沙は半人前の小娘なんかじゃない。
一人で家事を難無くこなせるし料理だって美味しい。
弾幕勝負だって強い。異変解決も彼女に任せれば安心だ。
それでいて、金の髪を揺らして笑うその姿はとても綺麗で……。
「彼女は君が思っている以上に魔理沙はずっと前から一人前の女だ」
「なら、何故あの夜にあの子の誘いを拒絶したのかしら?」
「……君はどこまで知っているんだ」
「あの子を受け入れられないわだかまりが貴方にはあるからでなくて?」
「それは……」
「素直に認めなさい。貴方は、霧雨魔理沙が好きなのだと」
確かに僕は人に一定以上の感情を持たないようにしてきた。もうあのような思いはしたくないから。
だというのに、魔理沙の事を思い始めると次から次へと魔理沙の事が頭に浮んで離れない。
笑う顔を見ると安心する。
稀に見せる些細な仕草に胸が高鳴る時がある。
あの日の夜だって、体が触れ合った時は自分の高鳴った心音が聞かれてしまうのではないかと内心焦っていた。
紫が来る前だって魔理沙の事で頭が一杯で頭が回らなかった。
今でも魔理沙の事が心配だ。
風邪で寝込んでいる彼女の下に駆けつけたい。
アリスは大丈夫だと言っていたけど自分の目で確かめたい。
……もう自分の心に嘘をつく事はできないのかもしれない。
「僕は、魔理沙が好きだ」
「でもあの子に向けて言えない。昔の彼女の事も頭を離れないから」
頷く事も口に出す事もできない。それを認めるのが怖かったから。
でもその無言は充分な答えとなった。
紫の顔から優しそうな目の色が消え、いつもの何を考えているのか見通せない色に戻る。
散々漂っていた彼女の匂いも空気も掻き消すかのように薄れ、目の前には完全に僕が知る八雲紫になっていた。
紫は一つ溜息をつくと今までの執拗なまでに絡んでいたのが嘘のようにするりと僕の体から離れて立ち上がり、体が重なった際にできた服のよれを手で直し始める。
「興醒めですわ。二人の女の間に揺れてる貴方を手に入れたって面白みが無いですもの」
「僕も君のお遊びに付き合っても面白くはないよ」
「言うようになりましたわね。では私も言わせてもらいますが、今は亡き女性に囚われて今が見えない貴方はなんとも滑稽な姿に見えますよ」
意味ありげに不敵な笑みを浮かべながら紫は手を横振るとそこに隙間が開かれ、中から何かを取り出す。
一目にすればそれは本だ。
いきなりこの場に本を取り出す、いったい何をしようというのだろう。
するとさらに本のページとページの間に挟まれていた物を引き抜き僕に差し出してきた。
透明な色をした、確かプラスチックだったか。それでできた長方形の物体、いわば本のしおりだ。
しおりの中には何かが埋め込まれていて、細長い糸みたいな物の先端に一際目立つ黒い物がくっついてる影が見える。
「あの子が借りていくと言っていた本です。相当慌ててたのでしょうね、持ち出すのも中にある大事な物も忘れて出ていってしまったのですから」
「これは、黒百合が埋め込まれてる?」
「ご名答。それでいて傷の数からしても最近のものではないわね。そのしおりに籠められた思いはいったい何なのか、良く考えなさいな」
「このしおりの、意味」
「まぁそれはそれとして、一度ならず二度までも私の誘惑を振り切った貴方にはまたご褒美をあげないと」
紫が台詞を言い切る前に人差し指が僕の額に触れる。
すると今まで羽の様に軽かったまぶたが鉛のように重くなり体が揺れる。
眠い。あれだけ眠れる気配が無かったというのに、今はどうしようもないくらい眠い。
「今回のご褒美は貴方に快眠を。夢を見ながら朝までゆっくり眠りなさい」
近くで語られているはずなのにまるで壁越しで聞いてるかのようにくぐもって耳に届く。
君のご褒美なんていらない、そう言いたくても口まで重くなって動いてくれない。
体が軽い浮遊感に包まれたかと思うと何かに頭を支えられ、優しく何かの上に乗せられる感触が伝わる。
「では改めて、来年にまた会いましょ」
うまく聞き取れなかったけど、最後に紫はそんな事を言った気がする。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
――辺り一面暗くて何も見えない。唯一見えるのは暗闇を突き進む光の一本道だけ。
――僕はただひたすら一本道の上を歩く。
――理由は分からない。そうしなければいけない気がした。
――暫く歩くと目の前に一つの人影が見えてきた。
――それは魔理沙だった。
――魔理沙も僕に気付いたのかはっとするが、すぐに気まずそうに目を背ける。
――あんな事があった後だ、誰だって気まずくなる。
――それは僕だって例外ではない。魔理沙にどんな顔をすれば良いのか分からずつい背を向けてしまう。
――すると振り向いた先にも誰かいる。
――懐かしい、忘れるはずがない、彼女だ。
――久しぶりに会えた、喜びに彼女を触ろうと手が伸びる。
――でもその手は彼女に平手で弾かれ、返す刀で頬を叩かれた。
――唖然とする僕を彼女は怒りの目で睨みつけてくると、そのままの姿勢で幽霊のように音も無く後ろへ下がっていく。
――何故こんな事をするのか。慌てて彼女を追いかけようとすると、僕の後ろから何かがぶつかってきた。
――振り向けば僕の背中に魔理沙がいた。
――背中に顔を埋め、腕を精一杯伸ばして僕の脇腹から抱きつきしっかり捕まって離れようとしない。
――魔理沙は怯えているのだろうか小さく震えている。それに『行かないでくれ』と言っているような気もした。
――再び彼女を見ると既に手の届かない距離まで離れていた。
――でもその表情に怒りの色は無く、喜びと悲しみが混じったような顔になっていた。
――そして何かを振り切ったかのように、良く見ていた男勝りな笑顔を見せながら口を開く。
――『――――――――――――――――――』
――短い一言を言って彼女は煙のように薄れて消えてしまった。
――残ったのは僕と魔理沙の二人だけ。魔理沙は相変わらず背中で震えるばかり。
――彼女はもういない。そして、最後の台詞は僕の心を動かすのに充分な力があった。
――もう迷わない、嘘もつかない。僕は、前を見て歩くんだ。
――だから僕は抱きつく魔理沙の腕に手を乗せてどこにも行かないと告げてあげた。
――それ以降背中からの震えを感じる事はなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
窓の外から鳥のさえずりが聞こえてくる。
差し込んでくる日差しの角度から時間は昼を過ぎた頃だろう。
辺りを見回すが既に紫の姿はあるはずもなく、寝室には一人だけだ。
昨晩の事を思い出す。「貴方に快眠を」、確かにぐっすり眠れたけど、昼になるまで眠らせるのはやり過ぎではないかと思う。
それとも、あの夢のせいだろうか。
暗闇の中で魔理沙に出会い、彼女に出会い、そして、彼女との決別。夢の中の出来事は全部覚えている。
頬を軽く摩る。魔理沙に殴られた場所とは逆位置、夢の中で彼女に叩かれた方の頬だ。
夢の中とはいえ、叩かれたと思うとひりひりとした感覚がするような気がした。
女性二人から打たれるなんて、なんとも情けない話だ。
そして最後に言い残した彼女の言葉。
「『いつまでも死んだ女の尻追っかけるなこの唐変木』、か」
彼女らしい乱暴な言葉だとは思う。でもそれも辛気臭いのが嫌いな彼女なりの別れの挨拶だったんだとも思う。
叩かれた上にきつい言葉も添えられて、完全に振られてしまったな。
仲直りしたくても、多分もう夢の中でも彼女には会えないだろう。
だけどありがとう、ようやく自分の中でケリがついた。
ふと床を見ると紫が持っていた本、そして黒百合が封じ込められたしおりが置いてある。
「そのしおりに籠められた思いはいったい何なのか、良く考えなさいな」。紫の言葉が頭を過ぎる。
古惚けたしおり、僕と魔理沙のやり取りが続いて年を考えると大分前に作られたんだと思う。
これは魔理沙が僕に対する気持ちの現われ、魔理沙はずっと待っていた。
だけどずっと目を背けてきた結果、近寄るなと言われ本人も寝込んでしまった。
恨まれても仕方がないと思う、今更といった感じもあるかもしれない。
それでも伝えたい、本当の自分の気持ちを。
だから行こう、霧雨魔法店に。
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
店を出てすぐ裏側に広がる魔法の森。
領域内の殆どはじめじめとして光も殆ど入らないが、一部には湿気も少なく陽の当たる人が暮らすに適している箇所も存在する。
その一つに魔理沙の家、霧雨魔法店が佇んでいる。
やや横長な形に設計された一戸建ての建物の外壁には青々としたツタが生い茂っている。
なんでもそうした方が古ッぽさが出て魔法使いらしいから植栽したというのが魔理沙の弁。
室内からは灯火の揺らぎがいくつか見える。
中には魔理沙がいる。考えるだけで息を呑んでしまう。
やはり一度嫌われた人に自分から会いに行くというのは勇気がいる。ここから逃げ出したくもなる。
でも逃げてはいけない、散々逃げてきたのだから今度は立ち向かうないといけない。
一度大きく深呼吸。森の中の冷たい空気が少しだけ冷静さを取り戻してくれた気がした。
意を決して玄関の扉を軽くノックする。
返事は無い。風邪を引いているのだから応答しないのも当然か。
試しに扉の取っ手を捻ってみる。
すると扉はどうぞお入りくださいと言わんばかりに簡単に開き、少し呆気に取られてしまう。
僕には無用心だと言っていたけど君も充分無用心じゃないかと毒づきたいところだけど、とにかくは室内に入る事はできた。
魔理沙の家には何度か立ち入った事があるから彼女の寝室も知っている。
玄関から入ってすぐ左の扉、その奥が魔理沙の寝室だ。
今は魔理沙は起きているのだろうか、それと寝ているのだろうか。
聞き耳を立てるが室内からは何も聞こえない。
やはり声を出して確認しないといけないか。
「魔理沙、僕だ。起きているかい?」
「お前か。近寄るなってアリスが伝えたはずだぞ」
いた。熱のせいか気だるそうな声ではあるけど間違い無く魔理沙の声だ。
胸の鼓動がやたらうるさい。慌てるんじゃない、冷静であるようにするんだ。
「アリスから話は聞いている。でも、どうしても君と話がしたい」
「お前と話す事なんか一つも無い、とっとと帰ってくれ」
「いや帰らない。君に伝えたい大事な話なんだ、中に入れてくれないか」
「――入れよ、鍵なら開いてる」
魔理沙の言葉に従い扉を開けて中に入る。
室内は数個の壁掛けランプで照らされてわりと明るい。
が、ランプの灯りは室内の惨状をより鮮明に照らし出す結果となっていた。
テーブルの上にはビーカー等の様々な実験道具が無造作に置かれ、床には魔道書やら外の本やら分別されてない上で散乱して足の踏み場を探すのも難しい。
とても整理されているとは言い難い部屋の中に浮き立ったように綺麗な状態のベッドが一つありこんもりとした布団が身じろぎしている。
僕に見せる顔は無いという意味なのだろうか、頭まですっぽりと布団を被っていて姿は見えないけどあの中に魔理沙がいるんだろう。
「なんの用だ。言ってみろ」
「そうだね……風邪の具合はどうだい」
「一日寝たら大分楽になった」
「じゃあアリスはどうしたんだい」
「一人になりたかったから追い出した……まさかそんなくだらない事だけを言いに来た訳じゃないよな?」
当然違う。僕が言いたいのはこんな事じゃない。
いざ本人に対面すると緊張してしまうのは人としての性だろうか、つい別の話題を出してしまう。
さっきから胸が爆発してしまうのではないかと思うぐらい激しく鼓動している。こんなになるのは何年ぶりか。
それも今が重要な場面だというのを理解しているからだろう。
ここで失敗すれば魔理沙にさえ会えなくなってしまう、失敗は許されないんだ。
「僕は、君に謝りに来たんだ」
「そいつはあの夜の事か? お前が謝る事は無い、お前みたいな奴にあんな行動をした私の頭がどうにかしてたんだ」
「謝りたいのはそれだけじゃない。これまでの事を全部を謝りたい」
「私が謝れる事なんてあったか?」
「僕は、君の告白をいつもはぐらかしてきた、君の気持ちも知らないで。今更かもしれないけど、ごめん」
その場で頭を深く下げる。
布団を被っている魔理沙からは見えないだろうけど、それは関係無い。
見えていようがなかろうが、謝罪の気持ちは形にしないといけないんだ。
ベッドの方から微かに布が擦れる音がする。
僅かに顔を上げて見てみるけど、どうやら身じろぎをしただけだったようだ。
魔理沙は今も布団を被ったままだ。
「それも謝るな。お前の言う通り私は別の男を探せというのは正しい、お前にその気が無かったのに纏わり付かれてさぞ迷惑だっただろ」
「それも謝らないといけない、あの時の言葉も僕自身に嘘をついていたからね。だから、今この場で君に本当の気持ちを伝えたい」
「どうせまた変な理屈並べるんだろ? そんなの聞きたくない」
「……僕は魔理沙が好きだ」
心臓が止まるかと思った。
でも今も心臓は動いている。僕は生きている。
ばくばくと跳ねる鼓動が頭を揺らして、足が地に付いてないのではないかと思うぐらい体が不安定だ。
口の中が乾く。たった十字に過ぎない短い言葉だというのに酷く長い文を朗読したみたいだ。
「……お前にしては随分と洒落た嘘じゃないか。新鮮すぎて笑っちまうよ」
「嘘なんかじゃない、ずっと君が好きだった。君の元気な性格が好きだ。君の料理を食べるのが好きだ。君が話す他愛の無い話が好きだ。君の見せる笑顔が綺麗で、大好きだ」
「嘘も大概にしろ。それ以上言うと魔砲で吹き飛ばすぞ」
「したければすれば良いよ、でも僕は止めないしもう嘘をつかない。君が好きなんだ!」
自分でも驚くくらい次から次へと言葉が出てくる。
堰を切ったように思いが外に出ていく。
止まらない。もう止められないし止めたくない。
「そんなの機嫌取りだ! 私になんか興味ないんだろ!?」
「そんな事は無い! 僕は本気だ!」
今すぐ魔理沙の顔を見たい。その目で僕が本気である事を見せたい。
その布団から顔を出した魔理沙と面を向けて話し合いたい。
「魔理沙、僕の話を聞いてくれ」
「うるさい近寄るな!」
ベッドに近づき手を伸ばした瞬間、それを察したのか魔理沙の腕が僕の手を弾く。
そして腕を振った拍子に布団が勢い良く引き剥がされ、魔理沙の姿が露になった。
魔理沙の姿はピンク色で長袖のパジャマ姿で、顔は熱のせいか上気して髪の毛も寝癖でぼさぼさに膨らんでいる。
それにあまり眠れていないのか目元にはクマもできていた。
本人は楽になったと言ったけど、その顔はとても楽になったとは思えない。
腕を弾いた瞬間は怒りの表情だった魔理沙は目が合うとまるで怯えるように目を丸くし、「あっ」という小さな声を零したかと思うと素早く僕から背を向けた。
「見るなよ……こんな姿を見るなよ! あっち行け!」
「……いや、病人をそのままにあっちになんか行きたくない」
「お前なんかに心配されたくない!」
「それでも僕は魔理沙が心配だ」
震える肩にできるだけ優しく手を置く。
瞬間、魔理沙の体がねじれ、僕の頬に衝撃が走る。
揺らぐ視界の中で突き上げられた右腕と疲労した魔理沙の顔が見える。
どうやらまた殴られたらしい。
でもあの夜に食らったものに比べれば明らかに力の無いものだった。
魔理沙の息が荒い、体も震えたままで、なんとも苦しそうだ。
そんな苦しそうな姿にしたのは言うまでもなく僕だ。
もっと早く君に応えてあげればこうはならなかっただろう。
「魔理沙」
そう思った時には僕は魔理沙を抱いていた。
脇から腕を回し自分で自分の腕を掴み離れないようにしっかりと引き寄せる。
魔理沙の顔が丁度頭の横に来るまで密着させて、体温を感じるくらいに。
体温が僕より高い、熱く感じる。
無理に体を動かしたせいか少し汗ばんで息も荒いのが分かる。
胸の鼓動も分かる。僕に負けず劣らず早い脈が伝わってくる。
「ごめん」
「あっ、なっ、何するんだこの馬鹿野郎!」
背中が何かで叩かれる感覚がする。
きっと魔理沙が引き剥がそうと腕で抵抗しているのだろう。
でも離したくない。
まだ僕の思いは全部伝えていない。
「放せ!」
「放したくない」
「出てけ!」
「出たくない」
「馬鹿野郎!」
「馬鹿でも良い」
「お前なんか嫌いだ!」
「僕は君が好きだ」
「どっか行っちまえ!」
「もう、どこにも行かない。君の側にいる」
何度非難されても気持ちは曲げない、魔理沙がそうしてきたように。
自分の思いを伝える、今まではぐらかしてきた分全部を。
例え本当に絶交されたとしてもこの思いだけは伝えたい。
……魔理沙の腕が止まった。
止まった代わりにその腕で背中を掴んでくるけど服を握る程度で肉にまで達していない。
心なしか体の振るえも増したような気がする。
「……何度も何度も拒否されても諦めないで、少し進展があったと思ったらそれもぬか喜びで!」
「ごめん」
「人がどんな思いで夜這いしたと思う? あの時は本当に酷かったんだぞ!?」
「ごめん」
「それで何もかも嫌になって、お前を嫌いになろうとして、離そうとして、でも忘れられなくて苦しくて!」
「ごめん」
「なのに、お前は、のうのうと、っく、やって来て、っい、今更になって、好きだなんて言って……!」
耳元から喉を詰まらせる様な音が聞こえる。
震える体はますます強さを増し、服を握る握力も強くなる。
肩が濡れる感覚がする。この時期の水とは違う、冷たさを感じない水だ。
「ずるいぞ! ぞんなの我慢でぎる訳ないらろ! 私がぞの言葉をどれらけ待ってたんらと思ってるんら!」
「……本当に、ごめん」
「謝るなら最初がら受け止めれば良がったらろう香霖の馬鹿ぁ!」
それで本当に限界だったのだろう、魔理沙は肩に顔を埋めて大きな声で泣き出してしまった。
肩の生暖かい感覚が次第に広まってくるけどまったく不快には感じない。
今これ以上話す事は無粋だろう。
だから僕は何も言わずにもう一度魔理沙を強く抱いた。
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
「腹が減った、何か作ってくれ」。それが泣き終えた彼女の第一声だった。
どうもアリスが言っていた通り殆ど食べ物を食べていなかったらしく、泣いたら一気に空腹感が出たそうだ。
自分でいうのも難だけど、あれだけの場面の後に腹減った発言はさすがに拍子抜けされた。
でも空腹なのは本当だ。部屋中に響くくらいの腹の虫を鳴らしてせがまれては作る他無い。
台所を借り、消化の良さを考えて雑炊を作って魔理沙の下に戻る。
「香霖が食わせてくれ」
「なんだって?」
「だから香霖がそれを食わせてくれ。私は病人なんだから看病してくれても良いじゃないか」
「分かったよ」
散々泣きじゃくった魔理沙はその為に少し腫れぼったくなった目がじとりと睨んでくる。
正直、今の僕は彼女に頭が上がらない立場に追い込まれている。
ここでまた何かを拒否したら次こそ魔砲で吹き飛ばされかねない。
もっとも、僕も拒否するつもりもないから請け負うのだけど。
「しっかり冷ましてから運んでくれよ。舌を火傷したらお前の体が火傷するからな」
「分かってるって」
器に盛られた雑炊を蓮華ですくい上げ自分の息を吹きかける。
一回、二回、三回、四回、これぐらいで良いだろう。
その様子を見た魔理沙は自分から大きく口を開けて催促してくるからそのまま蓮華を口の中に運んであげる。
口が閉じたら蓮華を抜いてあげると、味わうようにしっかりと噛みながら飲み込んだ。
「味が薄いな、もっと濃くしてくれよ」
「病人にはこれぐらいが丁度良いものだよ」
「そっか」
短い返事を返した魔理沙はまた口を開いて次をよこせと催促してきた。
まるで餌を求める雛鳥みたいだと思ったけど、言ったら怒られそうだから口にはしない。
冷ました雑炊を口の中に運び、食べ終えたらまた口を開く。
それに応じて再び口の中に雑炊を与えてあげる。
今まで殆ど食べてなかったとあって魔理沙の食欲は旺盛だった。
少し多めに作っておいた雑炊は瞬く間に減っていき、用意した雑炊を全部平らげてしまった。
魔理沙は満腹気にお腹を摩り小さく息を吐く。
「ま、香霖にしては中々だったな。ごちそうさま」
「お粗末様」
さて、これから先はどうしよう。
思いを伝えるまでは良かったけど、その後の事はまったく考えてなかった。
さすがにすぐに去るのは空気が読めていない。
だからといってここに残って何をすれば良いのだろう。
行き当たりばったりとでもいうべきか、僕とした事が失敗した。
魔理沙は今も僕をじとりとした目で見ているし、なんともいづらい空気だ。
「なぁ香霖」
「あ、あぁなんだい魔理沙」
「私はまだ全部お前の事を許した訳じゃないからな。あんな言葉だけじゃ今までツケは返し切れないんだからな」
「僕もそう思ってる」
「だからこれからもずっと香霖堂から物を借りていってやる。ガラクタばかりにして雀の涙な収入も搾り取ってやる」
「……仕方ないね、甘んじて受けよう」
「だがその前に、お前には私の風邪が治るまで看病でもしてもらおうか。病人をそのままにはできないんだろ?」
「確かに言ったね、僕自身の言葉だから間違いない」
どうやら硬直状態にならずに済みそうだ。
確かに看病するなら僕がここに残る理由ができる。
何より魔理沙の容体が気になる、帰った後に病状が悪化したなんて事になったら困る。
僕の条件も魔理沙の条件も満たせる、なんとも合理的な答えなんだ。
「分かった。ならまずはゆっくり布団の中で安静していてくれ。店の戸締りがしたいからね」
「そうか……じゃぁ行く前にちょっとこっち来てくれよ」
ベッドの上から上半身だけ起こしている魔理沙が手招きをする。
何を考えているのかと思い誘い通りに近づく。
すると突然魔理沙の手が僕の頭を掴んだかと思うと魔理沙の顔が一気に近くなる。
同時に唇に何かが触れる。
豆腐のように柔らかくて絹のように滑らかな感触、それでいて暖かい。
頭を掴んでいた手が離れ元の位置に戻った魔理沙はそのまま体を倒し、肩まで布団を被る。
「今回は特別に看病代を出してやった。だから早く戸締り済ませて一分一秒でも早く帰って来い。お前にはやらせたい事が沢山あるんだからな、香霖」
魔理沙はあの白い歯を覗かせながら不敵に笑う。
上気している顔は風邪のせいかそれとも別の何かのせいか、僕には分からない。
「あぁそうだね、そうするよ」
ただその顔を見てるととても安心した。
そうだ、今日初めて魔理沙の笑顔を見たんだ。
たった数日ぶりだというのに随分久しく感じた。それだけ僕も彼女の笑顔が見たかったのだろう。
そして今も唇に残る柔らかい感触。
突然ではあったけど、決して悪い気にはならなかった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
薄暗い天井が見える。
首を回し辺りを見回せば様々な奇妙な形をした物体が棚の中に陳列し、窓から日差しが室内をほのかに照らし出している。
手元には開いたままの本を持っていて、そこでようやく現状を理解した。どうやら読書中に眠ってしまったようだ。
寝る姿勢が悪かったのか首と腰がギチギチと軋む。椅子に座りながら居眠りしてしまったのだから当然の結果ではあるけど。
まだ重いまぶたを擦り改めて部屋の中を見回す。
棚に並ぶ奇妙な形の人工物の数々が並び、その中には雑貨品が少々。見てくれは倉庫に見えなくもない。
窓からは日差しが差し込み僅かに室内を照らす。日の傾き具合からして午後の2時から3時といったところだろう。
少しだけ汗ばんでいる。ストーブの温度を上げ過ぎたのかもしれない。
便利といえど、取り扱いには気をつけないといけないな。
そんな事をぼんやりと考えながらお客らしき姿は見当たらないし誰か踏み込んだ形跡も無い事を確認。
つまり僕の店「香霖堂」は今日も閑古鳥を鳴かしているという事だ。
いつもの事ではあるけど、こうも現実を突きつけられると溜息もつく。
それでもたまに買い物に来てくれる者達も存在する。
その中の一人は特に頻繁に店に訪れてくれる。
といっても、その彼女は代金も払いもせずに借りていく厄介者なのだけど。
「おーす、香霖いるか? あがらせてもらうぜ、いなくてもあがらせてもらうが」
噂をすればなんとやら、その厄介者が今日もやって来たようだ。
どうやら、今日の残りも騒がしい時間になりそうだ。
読み掛けの本に黒百合が映えるしおりを挟み、僕はまず彼女に向けて苦笑いで応えよう。
今日も最愛の人との時間が始まる。
待った甲斐がありました。こういうハッピーエンドも二人らしくて良いですな。
ゆかりんの年期の入った策士ぶりもうわなにをするやめr(ピチューン)
二人とも可愛すぎる。
魔理沙の想いと霖之助の悩みが良かったです。
これで晴れて二人は幸せな道を歩いていってくれるのでしょうか。
今後の二人が気になるところではあります。
面白かったです。
誤字・脱字・その他諸々に関しての報告
>どうやら魔理沙を無縁塚あたりで~
正しくは、どうやら魔理沙は無縁塚あたりで~となるかと。
>先程までの寒そうな寒そうな~
これは重複しているかと。
他にも色々と見つけましたが・・・どこにあったか忘れました。(汗
ちょっと誤字脱字が・・・いや、うん多かったです。
私が見つけただけでも数箇所はあったはずです。
以上、報告でした。
ごちそうさまでした!
やっぱ魔理霖はいいなー
やっぱ最後はハッピーエンドがいいね
拒否(する)つもり。
さて、作品の感想ですが・・・これはこれは・・堪らんですよ。
魔理霖的にいい作品でした。完結ご苦労様です。
これは本当に堪能させていただきました。
特に乙女魔理沙の純情。これは魔理霖好きには堪らんですよ
二人の幸せな未来を想像させられます。
是非ともシリアス無しの幸せな二人の後日談が読みたい所です
と要望を出してみる。
最後に良い作品に出会えて幸せ♪
>雲 さん
続編を待っていただなんてありがたい事です。
なにぶん執筆速度が遅くて気分によっては書かなかったりする作者なので随分待たせてしまいましたが、気に入ってもらえたようで何よりです。
紫様は色んな事を熟知してる素晴らしい人ですよ、きっと。
>続き待ってました!
>二人とも可愛すぎる。
外から見たら可愛く見えるかもしれませんが、当の本人達は結構大変です。
>煉獄 さん
ありがとうございます。
魔理沙はとにかく一直線に目標まで進み、霖之助は色々と遠回りして目標に進む、という二人の性格が私の中ではあります。
結果として魔理沙は伝え続け、霖之助は迷い続けるという形に落ち着いたわけです。
二人の間にはまだまだ色んな事があるかもしれません。
でも一線を越える事できた二人なら乗り越えていけることでしょう。
誤字脱字報告ありがとうございます。
見直してみたら確かにかなりの量がありましたね、申し訳ないです。
報告してくれた箇所を含めて手直しさせていただきました。
>やっぱり恋する乙女魔理沙は可愛いですな~
>ごちそうさまでした!
恋する者に勝てるものなんて数えるほどしか存在しない!
>完結お疲れ様です
>やっぱ魔理霖はいいなー
ノーマルなカップリングなら私にとってこの上ないジャスティスです。
>御疲れさまです。
>やっぱ最後はハッピーエンドがいいね
ネガティブが嫌いな私はどうしても救いの手を出してしまうのでした。
>さて、作品の感想ですが・・・これはこれは・・堪らんですよ。
>魔理霖的にいい作品でした。完結ご苦労様です。
>これは本当に堪能させていただきました。
>特に乙女魔理沙の純情。これは魔理霖好きには堪らんですよ
>二人の幸せな未来を想像させられます。
>是非ともシリアス無しの幸せな二人の後日談が読みたい所です
>と要望を出してみる。
随分長いものになってしまいましたが、その分自分の思いも多く込める事ができました。
それが面白いと思ってもらえるのはなんとも嬉しい事です。
悩み苦労しましたが、書いて良かったと思えます。
後日談はどうでしょうね……
実は、書き出してはいませんがある程度の構想は頭の中にあったりします。
それも気が向いたらどこかに投下しているかもしれません。
まぁゆらゆらとしてる作者なのであまり期待しない程度で。
もう一度通して読んでみます
文章読んで泣くなんて滅多にないのにビビるわww
よかったなあ魔理沙( ;∀;)
>もう一度通して読んでみます
ありがとうございます。
過去作品を見られるというのはなんとも恥ずかしい気分になります。
>やばい、読んでる最中にマジで涙出てきた!
>文章読んで泣くなんて滅多にないのにビビるわww
>よかったなあ魔理沙( ;∀;)
なんと泣いていただけるとは、恐れ入ります。
やはり最後にはハッピーエンドで締めたいものですね。
ぐすっ・・・。
ところで、私の目からあふれる水は何でしょう?