0
「ちょっと頼みたい事があるんだ」
霧雨・魔理沙にそう告げられたのが三日前の事で、普段なら断るだろうそんな頼みをアリス・マーガトロイドが引き受けたのは、彼女の表情が普段のそれとは違う、少し沈んだものに見えたからだった。いつもの覇気が感じられないその様子が妙に気になってしまって、断るに断り切れなかったのだ。
頼まれたのは里で売られている羊羹だった。大納言という仰々しい名前の小豆を使っているというそれは、里で甘味を買う習慣のないアリスですら知っている商品だった。何気なく聞いた店員の話では、人間は元より妖怪達にも愛されている人気商品で、何気に歴史があるとかないとか。
「こんな物いつでも買えるでしょうに、どうして私に頼むのかしら」
小さく愚痴をこぼしながら、アリスは羊羹の入った包みを人形に持たせて霧雨邸へと向かう。
歩いていく森の中は陰鬱で、そして慣れている者でなければすぐに迷ってしまうほどに薄暗い。あの霊夢ですら迷う事があるのだから、その深さは推して知るべしだ。
「そういえばこの前、この辺りで魔理沙が茸を採っていたわね」
そう何気なく呟いて、人形に「あれはきもちわるかった」と答えさせようとし――視線の先に、その茸がみっしりと生えている事に気が付いた。それはまるで『我々は滅びぬ。何度でも蘇るさ!』と言わんばかりの繁殖ぶりで、その成長の速さと増殖力に恐怖を感じて逃げ出したくなる。どうして魔理沙はこんな茸を魔法に使えるのだろうか。ただの茸ならまだしも、この茸はねばねばとしていて何だか気持ちが悪いのだ。
「……嫌なもの見た……」
一気にテンションが下がるのを感じながら、アリスは少々早足で茸ゾーンを通り抜ける。途中、何かぬるりとしたものを踏んだような気がしたけれど、ぬかるんだ土か何かだと思い込む事にした。
そうして無心のまま早足で歩き続け……見えてきた霧雨邸の前で足を止めると、乱れた心を落ち着かせる為に軽く深呼吸。そして人形に持たせていた包みを手に取り、それが頼まれていた羊羹であるかどうかを確認すると、アリスは玄関の扉を軽くノック。
すると、こちらの訪問を待ちわびていたのか、すぐに扉が開かれた。
アリスは内側に開かれたそれを追うように一歩前へと進み、現れた顔に羊羹の包みを突きつけてやろうとして――相手の姿を確認した瞬間、突き出そうとした腕が止まった。
そこに普段の霧雨・魔理沙は居なかった。現れたのは癖のある金髪に櫛を通し、黒くシンプルなワンピースを纏った小柄な少女。普段着ているパニエ入りのスカートではなく、広がりの無いスカートから覗く足は白く細く、その印象をより華奢に見せているように感じられる。更には白黒の白であるエプロンが無い為、パッと見の印象はまるで別人だった。当然帽子も被っていない。
だから、だろうか。
「……何その格好」
挨拶よりも先にそんな無粋な言葉が出た。
女の子が可愛らしい格好をするのは当然の事だけれど、魔理沙がこういった大人しい格好をするとは思っていなかったのだ。とはいえ、アリスの中では『可愛いだろう?』と笑う魔理沙の姿が予測出来ていて、不躾な事を言っちゃったな、とは思いつつも特に悪気はなかった。
が、しかし、
「……似合ってないか?」
なんて、まるで年頃の少女が片思い中の男性を前に困惑しているみたいな不安たっぷりの表情と共に全く予測していなかった言葉が返ってきて、アリス・マーガトロイドは凄まじい勢いで己の発言を後悔し、同時に疑念が湧くのを感じた。
……なんだか、魔理沙が魔理沙らしくない。
確かに彼女は女の子らしい一面を持っている。しかし、ここまでしおらしく……というかこちらの一言ぐらいで不安そうな顔をして、真剣に自身の服装を見直し始めたりするような性格ではなかった筈だ。数日前、泥だらけになりながらも嬉々として茸を採集していた少女とは別人過ぎる。
何かがおかしい。そう脳の一部が警鐘を鳴らしているのを感じつつも、アリスはどうにか「似合ってるわ」と言葉を返した。ここで皮肉交じりの冗談でも言おうものなら、その全てを真剣に受け取られてしまう可能性がありそうで恐かった。もし泣かれでもしたら逃げるしかない。
こちらの言葉に安堵する魔理沙を見つつ、人形に満足なリアクションを取らせる事も出来ないまま、アリスは半ば呆然と霧雨邸へ入った。
■
通された部屋の様子は変わり無く、何かの魔法が働いている気配も、怪しげな香炉から奇妙な色の煙が出ている事も無い。霧雨邸は全くもって普段通りで、だからこそ普段とは全く違う魔理沙の存在が酷く浮いているような気がして、勝手知ったる霧雨邸だというのに居心地の悪さが尋常じゃあない。
そんな尻の座りが悪すぎる中、魔理沙が紅茶を淹れていく。しかし、なにかもうドッキリにでも嵌められているような気分なアリスからしてみれば、その淹れ方一つにしたって普段とは違う女の子らしさがあるように感じられてしまっていた。
いや、違う。いつもなら何か喋りながら、或いはアリス自身が読書に興じている為に気が付かなかっただけで、普段から彼女はこうやって優しく紅茶を淹れていたのかもしれない。こう見えて、魔理沙は一応礼儀作法を心得てはいるし。
……いや、いやいやいや、ちょっと待て。外見に騙されているだけなんじゃないのか自分。焦るな、落ち着け。魔理沙の様子や反応が普段と違うと言っても、その統合性を取ろうと過去を改竄するのは不味い。
でも、これは……うーん……。
「……アリス?」
「――へ?! あ、その、なにかしら?」
うわ、ものっそい声裏返った!
一気に顔が熱くなっていくのを感じつつ、変な奴だな、と柔らかく微笑む魔理沙から紅茶を受けとる。なんだか、一人で空回りしている感が凄く強くなってきた。
一旦心を落ち着かせる為、受け取った紅茶を口にする。
琥珀色のそれは桃を使ったフレーバーティーなのか、砂糖無しでも仄かな甘みがふわりと広がった。苦味も少なく、この紅茶はストレートで飲むのが一番なのかもしれない。変に甘みを追加しない方がその豊かな風味を楽しむ事が出来るからだ。しかし、嘆かわしいかな、世の中には味も見ずに砂糖を入れてしまう輩が多い。まずは一口味を感じ、その味が気に喰わないようなら砂糖でもなんでも入れれば良いのだ。けれど全く手をつけていない状態でそれを行うのは、その飲み物を用意してくれた相手に対する冒涜になるだろう――と全く関係の無い話題を考えながら現実逃避する事暫し。少し落ち着いてきた。
が。
「……」
普段なら、
「……」
気にならない、
「……」
沈黙が、
「……」
どうしてこう、
「……」
今日に限って、
「……」
気になって、
「……」
しまうのか……!
「…………」
「……ん、どうしたアリス?」
「や、なんでもない、なんでもないわ」
冷静を装いつつ笑顔で答えて、貰ったばかりだというのにもう残り少ない紅茶のカップをソーサーへと。流石にこのまま無言の状態を続けるのは辛いので、こちらから話を降る事にした。
「えっと、その……今日はメイクをしてるのね。ちょっと驚いたわ」
普段は化粧っけがないから一目で解る。そして、化粧というのはその人の印象をがらりと変える力を持つものだ。普段の魔理沙が毎朝騒がしく起こしに来る近所の幼馴染のようだとするなら、今日の彼女は深窓の令嬢といったところか。正直、可愛らしい。
でも、それを正直に告げるのは何か癪なので言わないでいると、
「ああ、ちょっとな……って、もしかして、どこか変か?」
まずい、降る話間違えた! なんて後悔した所でもう遅く、少々慌てながら手鏡を探そうとする魔理沙をそれ以上に慌てながら止めつつ、
「だ、大丈夫よ、変じゃない! 変じゃないから!」
「そ、そうか? なら良かった……」
そう呟いて安堵の息を吐く魔理沙へと気付かれないように、アリスは溜め息を一つ。
なんだろう、このやり難さ。一体彼女は何を考えているのだろう。一体彼女は何が狙いなのだろう。
「……」
普通に見れば、今日の魔理沙はおめかしをしているだけだ。しかし、『ただそれだけ』だと納得出来ないのは何故なのだろうか。ただ普段よりも物静かなだけだというのに、どうして今日の魔理沙に違和感を感じてしまうのだろうか。
そう、違和感。
今アリスの目の前に居るのは、霧雨・魔理沙であってそうではないモノのように見える。
誰かが魔理沙に成りすましているとか、そういった感じでは無い。確かに彼女は霧雨・魔理沙なのだ。でも、何かがおかしい。もどかしい。喉元まで答えが出掛かっているのに、それを引っ張り上げる最後の切っ掛けがないような、そんな気分。
なんだか気持ち悪い……。そう思いながら、部屋に入る前に渡しておいた包みを大事そうに扱う魔理沙を観察する。
しかし、すればする程目の前にいるのが霧雨・魔理沙だと解って、喉の奥に刺さった小骨のように『何か』が気になって止まらな――と、そうやって思考を続けていると、魔理沙から言葉が来た。
「……と、そうだ、すまんアリス。急かすようで悪いんだが、私はそろそろ出掛けるんだ。だから……」
「あ、そうだったの」
と、そう答えつつ、そもそも今日はお邪魔するつもりなど無かった事を思い出した。当初の予定では頼まれたブツを彼女へと渡し、ちょっと文句を言って、そしてさっさと家に帰るつもりだったのだ。
早く混乱から這い出さないと不味いわね、なんて考えつつ、アリスはすまなそうに表情を曇らせている魔理沙へと微笑み、
「そんな顔しないで。紅茶、美味しかったわ」
そう答えながら、魔理沙の変化について問い掛けようか迷う。普段の彼女なら、こういった状況になった場合は「後で埋め合わせするからさ」と笑顔で言ってくる筈だ。しかし今日の彼女は不安げな表情を持ったまま「ごめんな」と小さく告げると、何か思い詰めたような様子で手元の紅茶を眺め始めてしまっていた。
一体何なのだろう。これは、彼女に何かあったのだろうか。
と、そう思うアリスの思考を遮るように、玄関の扉が数回ノックされた。誰だろうかと無意識に玄関方面へと視線を向けると、「……来たか」という言葉と共に魔理沙が立ち上がった。恐らく、今日の外出は誰かと一緒なのだろう。
さて、やって来たのは誰だろうか。これでおめかしした霊夢が出てきたら更に驚くな、などと思いつつアリスは人形達を連れて立ち上がり、忘れ物はないか周囲を軽く確認。そのまま魔理沙の様子を窺うと、もう外出の準備は終わっているのか、小さなハンドバッグを手に取ろうとしている所だった。
その、箒も八卦炉も持っていないのだろう黒い少女の姿にちょっとした不安を感じる。しかし、流石にある程度の防衛手段は用意しているに違いない。そう思い込んで不安を押し殺し、アリスは先に玄関へと向かった。
脱いでいたブーツを履き直し、でもやっぱり魔理沙に詳しく話を聞こうかと悩みながら扉を開き――
「おや。こんにちは、アリス」
――いつの間にか降り出した霧のような雨の中、提灯を持ち、傘を差した長身の男が立っていた。
なんだ、そういう事、か。
「こんにちは、香霖堂さん」
努めて笑みでそう返し、一瞬前まで感じていた違和感なんて吹き飛ばす暗い怒りに囚われる。対する森近・霖之助はアリスの感情に気付く事無く、数拍遅れてやって来た魔理沙へと視線を向けると、
「すまない、少し遅れてしまった」
「いや、良いさ」
魔理沙はそう答えつつ玄関の鍵を閉め、そしてこちらへと視線を向け、
「羊羹、ありがとな。お礼はまた後でするから。……じゃあ、行こうか香霖」
そう言って、霧雨・魔理沙が歩き出す。対する霖之助はその細い体へと寄り添うように立つと、アリスへと向けて軽く頭を下げ、そして魔理沙よりに傘を傾けながら歩いていった。
アリスはその後姿を笑顔で見送ってから、
「……良いご身分だわ」
冷笑と共に言い放つ。
珍しく可愛くおめかししていると思ったらデートか。そうか逢い引きか。そりゃあさぞかしそわそわしただろう。だから今日の魔理沙に違和感を感じたに違いない。
そういう用件で菓子が必要だというのなら初めからそう言えば良い。それなら別に文句は言わないし、それをネタに魔理沙をからかう事が出来るから問題はない。しかし、そんな様子を全く見せない、というのには少々イラっと来た。プライドの高い魔法使いという生き物にとって、誰かに利用されるというのはとても癪に障る事なのである。
……とは言っても、相手は魔理沙だ。普段はそういった気配を見せない彼女だけに、気恥ずかしくて言い出せなかったのかもしれない。しかし、だとするなら、どうして出掛ける直前の状況でアリスを部屋に招いたのだろうか。そんな事をしなければ、こちらに知られる事無く霖之助と出掛ける事が出来ただろうに。この話を天狗に売られて、次の日の朝刊を飾る可能性は考えなかったのだろうか。……まぁ、そんな程度の低い嫌がらせはしないけれど。
さて考える。他にどんな可能性があるだろうか。
「自慢……じゃあ無いか」
あの古道具屋と魔理沙の付き合いが長い事はもう周知の事実だ。付き合い出した所で誰も驚かないし、それは無いだろう。むしろ普段とは違う魔理沙の様子が気に掛かる。あれはどうも不安げというより、何か困惑が入り混じっているようにも見えた。自分の格好に対して過敏に反応していたし、霖之助に対して変に思われたくないと思っていたのは確かだろう。となると、何かのアドバイスでも求めていたのだろうか。でも、そういった話題一つ降られてこなかった以上、その可能性も無いのだろうか。……あ、或いは「アリスに聞いたって解りはしないだろ」的な無言? だったら殺すな、うん。流石にそれは許せない。少なからずアンタよりは恋愛経験多いっつーの――って、思考が逸れた。
落ち着け私。
「……でも、どーでもいいか」
もう終わった事だ。一人で考えを巡らせたところで答えは出ない。
あとで魔理沙にはキッチリ落とし前を付けて貰うとして……さて今日はこれからどうしようかと考えつつ、アリスは魔法で雨を避けつつ歩き出す。
「……」
少しだけ淋しさを感じるのは、自分が独りだと思い出したからだろうか。
そういえば恋もご無沙汰だ。そう思いながら暗い森の中を進み、自宅が見えて来た所で、思ったよりも近くに魔理沙達の背中がある事に気が付いた。彼女達は雨の中で寄り添いあって歩いてる為、どうやら歩調がゆっくりになっているらしい。
思ったよりも広い店主の背中にドロップキックを喰らわせたら気持ち良いだろうか。なんて事を考えつつ、少し歩く速度を落とし……数メートル。
音も無く世界を包む霧雨の中、出歯亀な気持ちが鎌首をもたげ始めた。こけにされた腹いせという訳ではないけれど、彼女達の後を付けてみるのも面白いかもしれない。
何せあの魔理沙があそこまで気合を入れていたのだ。悪趣味かもしれないが、気になる気持ちが無いといったら嘘になる。
だから、
「……そういえば、買い忘れた物があったのよね。里にはあまり行かないから、つい忘れちゃったようだわ」
そう人形へと呟いて、アリス・マーガトロイドは先を行く二人の後をそっと追い始めた。
1
魔法の森を抜け、道沿いに真っ直ぐ進めば人里へと辿り着く。そしてその中間に香霖堂と名付けられた商店があり、アリスは魔理沙達がそこに立ち寄るだろうと予測して後を付け始めた。
しかし、どういう事か、彼女達は香霖堂を素通りしてしまった。そしてそのまま人里へと向けて歩いて行く。その様子を眺めながら、二人が何処へ向かうのか聞いておけば良かったと少し後悔する。
人里までならまだしも、それ以外の場所に向かわれてしまうと本格的に後を付ける事になり、『偶然同じ道を歩いていたんですよ』的な言い訳が通用しなくなってしまう。もしそんな状況でこちらに気付かれでもしたら、言い逃れる為にかなりの骨を折る事になる。それだけは避けたくて、しかし足を止める事が出来ないまま、アリスは二人を追っていく。
しかし、幻想郷の中でデートに向いた場所というのはかなり少ない。山と木々と湖、そして田畑ぐらいしかないような場所に、デートスポットと呼べるような所を求めるのが難しいのだ。……というより、妖怪が跋扈する中をのほほんとピクニックなんて事、普通は出来ない。
それでも、人間達の集まる人里には、一応二人で楽しめそうな場所――カフェや茶屋など――があるにはある。魔理沙はあまり里に近付きたがらないけれど、流石にこういった状況では向かうだろう。そうして冷たい飲み物でも飲みながら、普段とは違う雰囲気での会話を楽しむに違いない。
だが、そうなるとアリスに菓子を買わせた理由が解らなくなる。けれどそこはまぁ、恋する乙女の考えがあるのだろう、多分。
そんな事を考えつつ、ゆっくりと歩を進める魔理沙の後姿を眺める。普段はスカートや帽子のボリュームに隠れてしまっているけれど、その体はとても華奢だ。解っているはずなのに、彼女が人間の少女なのだという事を嫌でも再認識させられてしまう。なんだか、二人で終わらない夜を創り上げ、あの霊夢すら倒してみせた一夜の出来事が嘘のようだ。
「印象の違いって怖いわね……」
ただ着ている洋服が違うだけだというのに、ここまで感じ方が変わってしまうのだから。
と、不意に魔理沙達が足を止めた。見ればいつの間にか里の近くにまでやってきていたようだ。彼女達は何か二言三言話をすると、霖之助が魔理沙へと傘を預け――そして、少々早足で里の中へと入って行ってしまった。
「……香霖堂さん、一体何を考えているのかしら」
魔理沙を独り残して行くなんて、まさかトイレだろうか? だとしても一緒に里へ入るぐらいの事はするだろう。或いは、何か一人ではないと不味い用事でもあるのだろうか。
色々と思案しながら魔理沙の様子を眺めていると、すぐに霖之助が戻ってきた。その手には花束と思われるものがあり、彼はそれを買いに行っていたのだろう。魔理沙はそれを受け取ると、傘を彼へと預けて再び歩き出した。
「……益々解らない」
花を買うだけだったというのなら、どうして一人で里に入ったのだだろう。いや、そもそも別の理由があって、その埋め合わせの為に花を買ってきたのだろうか?
判断材料が少な過ぎて、まるで答えが見えない。
色々と思考しながら、アリスは二人の後を追う。いつの間にか、里での買い物の事などどこかへ飛んでいってしまっていた。
■
二人が進んでいくのは、人間が少なく妖怪が多めに生息している林の方向だった。里から少し離れた場所にあるその林は、様々な動植物が繁殖している、幻想郷の中でも一番原始的な場所だ。特にこの時期は青々とした緑が美しく、しかしそれを台無しにするぐらいに蝉が五月蝿い。それはまるで『霧雨程度で鳴くのを止めていられるかッ!』と宣言しているかのようで、鬱陶しいながらも何か切なさが感じられるほどだ。
「……まぁ、ここに入るのは今回で三回目ぐらいなんだけど」
幻想郷で暮らし始めて早数年。自宅の中だけで行動が完結してしまうインドア派魔法使いにとって、森から距離のあるこの場所に足を踏み入れる機会など殆どなかったのだ。
しかし魔理沙達はそうではないのか、躊躇う事無く細い林道へと入っていく。けれどその林道はそこかしこから生え出した雑草により荒れ始めていて、スカート姿の少女が進んでいくにはかなりの重労働に思えた。それなのに魔理沙は文句を零している様子も無く、むしろ霖之助よりも一歩前を歩いて進んで行く。
一体、彼女達はどこへ何をしに向かうつもりなのだろうか。
「……」
少し、嫌な予感がした。これが魔理沙の意思なのか、霖之助の意思なのか、或いはアリスの知らない第三者の意思なのか解らないのが引っ掛かる。
ただのデートだというのなら、こんな場所に――大きな声を上げようが、何か騒ぎを起こそうが、他者には簡単に気付かれないような場所に――やって来る事は無いだろう。
もし魔理沙達が決めた事だというのなら、まだ良い。けれど、もし彼女達以外の意思がそこに絡んでいた場合が恐ろしい。
今の魔理沙は箒も八卦炉も持っておらず、同行する霖之助も何か武器になるようなものは持っていない。もしこの状況で妖怪に襲われでもしたら、相手に攻撃する事も出来ないままに喰われてしまうかもしれない。流石に防衛手段は講じているだろうけれど、それでも普段の火力の半分以下になってしまっているのは明白だ。
「……仕方ないわね」
目の前で見知った人間が肉片に変わるのは見たくない。それに、何だかんだ言っても魔理沙達はアリスの生活に深く組み込まれているのだ。見てみぬふりなど出来る訳がなかった。
アリスは持参していた鞄の中から人形を取り出し、先を行く魔理沙達に気付かれぬようにそれを配置出きるポイントを探し始め――
――何の前触れも無く、霧雨・魔理沙がすっ転んだ。
「ッ?!」
一瞬何が起こったのか解らず、投げようとしていた人形を手にしたまま立ち尽くす。彼女の転び方はまるで何かに滑ったかのようで、つまずいて転んだ様子ではなかった。オノマトペで表現するなら『つるーん!』といった感じか。
とはいえ、物語のギミックとして登場する『バナナの皮』じゃあるまいし、細い林道に人間一人を滑らせる力を持つような物が落ちている訳が無い。一体何をやったのだろうかと思ったところで、どこからか笑い声が聞こえて来た。
子供よりも無邪気で馬鹿なその笑い声は、林の様々な場所から響いていて、
「……妖精か」
どうやらこの林道に何か仕掛けを施した妖精が居たらしい。妖精という生き物は悪戯好きだから、彼女は運悪くそれに引っ掛かってしまったのだろう。そう思うアリスの読み通りに、魔理沙達の前に数匹の妖精が現れた。
一瞬後には魔理沙に消されてしまうだろうに、妖精達はけらけらと笑い声を上げ続ける。自分達の考えたトラップに人間が引っ掛かった事がおかしくてたまらないのだろう。
そんな妖精達に対し、体を起こした魔理沙は魔法を放――たなかった。それどころか、俯き、汚れてしまった衣服に対して真剣に悲しんでいるようにも見える。
流石にその反応は妖精達も予想外だったのか、次第に笑い声が消え、その表情が少しずつ心配にそうに曇って行き――一匹が耐え切れぬように逃げ出すと、他の数匹も蜘蛛の子を散らすかのように逃げていった。
あとに残った黒い少女は、隣に立つ霖之助へとしきりに何かを訴えたかと思うと、悲しげに俯いてしまった。霖之助はそんな魔理沙を慰めるように軽く頭を撫でてて、そして先を促すように歩き始めた。
「……」
その様子を眺めつつ、アリスは自分が人形を持ったまま固まっていた事に気が付いた。それほどまでに魔理沙の行動が意外で、理解出来なかったのだ。
■
そうして林を抜けた先――そこには、見晴らしの良い小高い丘が広がっていた。
いつの間にか晴れ間の覗き始めた空の下、様々な花が咲き誇り、蝉の声すら遠くに聞こえるこの場所は、まるで神聖な聖殿のように思えた。まさか林を抜けた先に、こんなにも素晴らしい風景が広がっていたとは。
そんな風に純粋に感動を得ているアリスに気付かぬまま、魔理沙達は丘の頂上へと進んでいく。
それはまるで額に飾られた絵の中に広がる風景のようで。
現実感の抜け落ちた、どこか遠い別世界で行われている出来事のようで。
声を上げれば全てが崩れ落ちる筈なのに、その声はもう二人に届かなくなってしまったかのようで。
魔理沙達との間に、目に見える以上の距離を、疎外を、絶望を、失望を、孤独を感じて、
「……」
そして、今更のように気が付いた。
ここに立つ自分が、どこまでも異分子であるという、そんな当たり前の事実に。
「何やってんだろう、私……」
興味本位で二人の後を付け回して、そして見てしまったのがこんな風景か。
視線の先、静かに寄り添い合う二人に会話は無い。そんなものが必要ないくらい、今の彼女達は通じ合っているのだ。
「……帰ろうか」
結局投げる事のなかった人形へと小さく呟いて、魔理沙達に気付かれぬよう、静かに丘を後にする。
彼女達に対する心配よりも、今ここに立っている自分が惨め過ぎて、もうこの場所に居続ける事が出来なかった。
2
次の日。
人形を使って壊れた人形を修復しながら、アリスは静かに紅茶を飲んでいた。
自分自身の手で裁縫を行う訳ではない為、脳は常に指示を出し続け、普段の倍以上に集中していなければならない。それは傍から見ればかなり無駄のある行為のようで、しかし一度に複数の人形を操る人形遣いとしては、日々のトレーニングにもなる重要な行為だった。
とはいえ、今のアリスからしてみれば、余計な事を考えなくて済むから、という意味合いが強かった。ただただ無心で人形を操り、修復作業を続けていく。
そんな中、ふと、玄関の扉がノックされている事に気が付いた。
「……一体誰よ」
カップをソーサーへと戻し、ちまりちまりと針を動かしていた人形を机の上へ。一瞬居留守を決めこもうかとも思ったけれど、流石に止めた。
ゆっくりと立ち上がり、玄関へと歩いて行く。窓が無く薄暗いそこへ明かりを灯してから、鍵を開け、その向こうに誰も居ない事を期待しつつ扉を開き、
「よぅ、アリス」
一番逢いたくない存在が立っていた。
「……魔理沙」
今日の彼女は普段の霧雨・魔理沙だった。その服装は白と黒のツートンカラーで、ふわりと広がったスカートに、手には毎日のように被っている大きな帽子。そしてその顔にはいつも通りの楽しげな笑みがあった。
昨日の魔理沙が静だとしたら、今日の魔理沙は動だ。ただ立っているだけなのに、この場が一瞬で華やかになったような錯覚さえ覚える。笑顔の似合う娘、というのは彼女のような女の子の事をいうのだろう。まぁ、その分口が悪いが。
と、軽く現実逃避気味に思考し続けていると、彼女は抱えていた帽子の中からリボンの付いた箱を取り出し、
「昨日はすまなかったな。これ、使いっぱにしちまったお礼」
まぁ珍しい。魔理沙が私にお返しだなんて、明日は槍でも降るわね――なんて普段なら返していただろうけれど、今日は流石にそんな言葉を返す余裕が無かった。小さく「ありがとう」と告げつつ、可愛らしくラッピングされたそれを受け取ると、魔理沙が少し心配げに、
「なんか元気が無いが……何かあったのか?」
覗きこむようにして聞いてこられて、少々慌てて一歩後ろに下がる。そのまま「なんでもないわ」と答えようとして――足に鈍い痛みが走った。
「ッ」
落としそうになった箱をどうにか胸に抱えながら、思わず痛みの走った足へと手を伸ばす。そんな様子を見せれば余計に魔理沙に心配されると解っているのに、咄嗟の動きは止められなかった。
「まさか、怪我でもしてるのか?」
「……まぁ、ちょっと、ね」
昨日、あの丘から帰る途中、魔理沙の引っ掛かった妖精の悪戯にアリスも引っ掛かってしまったのだ。流石に尻餅を付く事は無かったものの、突然のそれに上手く対応する事が出来ず、足を挫いてしまっていた。
他の妖怪達とは違い、魔法使いというのは肉体的なスペックは人間と同程度しかない。魔法で治癒力を高める事が出来たとしても、その回復能力は人間と同程度しかないのだ。その為、治り切っていない足は咄嗟の動きに痛みを訴え、反射的に手が出てしまったのである。
さて魔理沙にどう説明しようか、と考えるよりも早く、彼女が靴を脱いで屋敷の中へと上がり込んできていた。そして「ほら、肩を貸してやるから」という言葉と共に、体を支えられてしまった。
その真剣な表情に何も言えず、アリスは魔理沙と共に部屋へと戻った。
■
少し前まで座っていた椅子に腰掛け直しながら、足の様子を聞いてくる魔理沙に大丈夫だと言葉を返す。彼女は心配そうな顔をしつつも納得はしてくれたのか、「解った」と小さく呟いて、アリスの対面にある椅子へと腰掛けた。
そして、机の上にある修復が終わったばかりの人形を手に取り、
「お、新しい衣装に替えたのか。この服、結構可愛いな」
などと、沈んだ感のある空気を和ませるように笑う。そうして彼女はその人形を胸に抱き、普段のように、聞いてもいないのに様々な事を語り出す。自分の事。魔法の事。本の事……そして、まるで世間話の延長であるかのように、その言葉が紡がれた。
「でな、実は昨日は――」
それがあまりにも自然で、なんて事の無い風な切り出し方だったから、逆に辛くなってしまって。
思わず、謝っていた。
「……ごめんなさい」
「ん? 何がだ?」
小さく首を傾げながら言う魔理沙へと、アリスは小さく言葉を紡いでいく。
「……実はね、昨日魔理沙と別れた後、貴女達二人の後を付けてまわっていたの」
魔理沙の様子が変だったから、とは言わなかったけれど、何か釈然としなかったという事を言葉に乗せる。
すると彼女は驚きの表情を浮かべたあと、『仕方が無いな』と言わんばかりに笑って、
「馬鹿。そういう時はすぐに言ってくれ。アリスも一緒に来てくれて良かったんだしさ」
「魔理沙……」
「でもまぁ、言っておかなかった私も悪いな。アリスもあれを見たなら解っただろうけど……」
悲しげに笑って、少女は言う。
「……昨日は、母さんの墓参りに行ってきたんだ。お盆だったし、その迎えも兼ねてな」
あの時アリスが見たのは、小さなお墓の前で、寄り添いあって両手を合わせる魔理沙と霖之助の姿。見晴らしの良い丘の上にあったそれは、彼女の母親のものだったのだ。アリスに買わせた羊羹は、恐らくそのお供えだったのだろう。
そんな二人に対し、下心を持って彼女達を追いかけた自分が酷く惨めになった。だからアリスは逃げるようにしてその場所を後にしたのだ。
「でも、どうしてあんな所にお墓が?」
景観の良い場所ではあるけれど、死者を弔うにはどうしても不便が多い場所に思えた。そう思って問い掛けたアリスの正面。人形を抱いた魔法使いの少女は、自身の持つ柔らかな金髪に軽く触れ、暫し何かを考えてから、
「ちょっと長くなるけど、良いか?」
その言葉に頷きを返すと、魔理沙は静かに語り始めた。
「……私はほら、この通り金髪だろう? でも、母さんも親父も……というより、霧雨の家系はみんな髪が黒かった。だから私が生まれてきた時、母さんは親族全員から疑いの目を向けられたんだ」
黒髪の夫婦から金髪の娘が生まれてくれば、当然のように疑いは妻に向く。それは至極当たり前の事で、だからこそ否定する事が難しくなってしまう。
でも、
「でもな、私の母さんは外の世界からやって来た魔法使いだったんだ。香霖が言うには、恐らく母さんの親族に金髪の人が混じっていたんじゃないかって話だった。つまり、隔世遺伝ってヤツ」
隔世遺伝とは、先祖返りとも言われる、世代を飛ばして遺伝しているように見える遺伝現象の事だ。古くから幻想郷に暮らす霧雨の家系はまだしも、外から入って来たという母方の家系からそれが顕在してもおかしくはない。
「けどさ、一度疑われるとどうにもならなかった。母さんは毎日のように責め立てられて、私は生まれてこなかった事にさえされかけた。里で商売をやっている家だから、妙な噂が立たれるのを恐れたんだろうさ」
「……狭い人里の中じゃ、七十五日も待てないか」
この広い幻想郷の中で、しかし人間のコミュニティというのはあまりにも狭い。そんな中で妙な噂が広まれば、尾びれ背びれどころか頭まで付くだろう。そうなってしまえば信用が地に落ちるのは目に見えているから、霧雨家の人間は躍起になったに違いない。
「でまぁ、私達は屋敷の離れに押し込められた。母さんは霧雨の家を悪く言うような人じゃなかったけど、アイツ等にしてみれば、母さんのどんな言葉も信用出来なかったんだろう。
そうして、私は母さんと暮らしていって――まぁ、変な風に思われないように、私は無理矢理髪の色を変えさせられてはいたけど――母さんは私を愛してくれたし、時折香霖が遊びにくるから淋しくは無かった。……でも、やっぱりストレスとかがあったんだろうな。母さんは次第に痩せ細っていって、眠るように死んでいったよ」
俯きながら、魔理沙が言う。その表情は解らないけれど、でも、声には悔しさが滲んでいるように思えた。
「それから後の事は、良く覚えてない。というか、思い出したくもない」
「……うん」
「……で、私は霧雨の家と絶縁する事になって、あの家を出た。初めは香霖を頼ろうと思ってたんだが、魅魔様が弟子入りを許してくれたんでな。魅魔様に勧められるまま、私はこの森で暮らし始めるようになったんだ。ここなら里の人間はそうそう近付いて来ないし、近所に香霖堂や神社がある。辛かったけど、どうにかはなったな。……って、私の話はどうでも良いか。
あんな場所に墓があるのは、親父の両親が母さんの事を許さなかったからなんだ。母さんを霧雨家の墓地に入れるのに最後まで反対しててさ、結果的にあの場所が選ばれたんだ。まぁ、その話を聞いたのは母さんの葬儀が終わったあとで、誰があの場所を選んだのか、とかそういった話は解らないままなんだけどな。……でもまぁ、弔って貰えただけでも良かったとは思ってる」
幻想郷には死肉を喰らう存在も居る。最近は減ったと聞くけれど、しかしゼロになった訳ではない。今でも里の周囲に死体を放置しておけば、朝には綺麗に無くなっているだろう。しかし魔理沙の母親はそういった惨い仕打ちを受ける事は無く、家族としての最後の世話だけはして貰えたのだ。
「これが、母さんがあの丘で眠っている理由。確かに不便な場所だけど、景色が綺麗だし、色々あった里からも離れられたから良かったんじゃないかと私は思ってる。それに、不便な場所だからって、私は母さんの墓参りだけは一度も欠かした事はないんだ。なにせ、墓守が私と香霖しか居ないからな」
そう言って、金髪の少女が悲しげに笑う。
対するアリスは何も答える事が出来ず、変わりに魔理沙の腕の中に居る人形を軽く動かし、その華奢な体を抱き返した。
魔理沙はそれに軽く目を見開き、そして笑みを取り戻すと、
「だからまぁ、アリスも一緒で良かったんだ。その方が母さんも喜ぶだろうし」
「……そう、かしら」
「ああ。さっきも言ったけど、母さんは魔法使いだったからな。お前レベルの人形操術はそうそうお目に掛かれないから、きっと興味深く迎えてくれたと思うぜ」
そう言って魔理沙は少年のように笑い、そして腕を伸ばしてアリスの飲みかけだった紅茶を手に取ると、それを一気に呷り――不意に、ぽつりと呟いた。
「……。……こんな話するの、アリスが始めてだ」
「……」
「霊夢にも言って無いんだぜ、これ」
「……そう」
小さく答えながら、昨日の事を思い出す。
彼女が着ていたあの黒いワンピースは喪服代わりだったのだ。盆に戻ってくる母親に恥ずかしい格好を見せないようにと、彼女なりに考えた結果だったに違いない。でも、他者から見て自分の格好が変ではないか気になってしまった。だからあんなにも不安そうだったのだろう。
昨日アリスを部屋に招いたのは、その不安を解消して欲しかったからなのかもしれない。衣服やメイクに付いて敏感に反応していたのも、その現れだったに違いない。
「……」
たかだか墓参りに大げさな、とは言えないだろう。
魔理沙にとってみればそれはただの風習ではなく、れっきとした事実なのだから。
「……」
仏教徒ではないアリスにはその詳しい概念は理解出来ない。でも、これだけは解る。
「……」
昨日、あの場所に、確かに魔理沙の母親は居たのだ。
「……まぁ、アレね」
「なんだ?」
「忘れないでおくわ。例え魔理沙が死んでしまったとしても」
アリスの言葉に魔理沙が目を丸くする。そして彼女は眉尻を上げ、
「べ、別にそういう意味で教えたんじゃない!」
「解ってるわよ、そんなの。ただ、私はその話を忘れないってだけ。そうすれば、魔理沙の想いも消えずに残り続ける。そうでしょう?」
「……まぁ、な」
視線を逸らしながら魔理沙が言う。その姿をよくよく見れば、今日も彼女はメイクをしていて、髪には櫛が通してあって、着ている衣服も洗い立てのように綺麗で。
今日の魔理沙も、母親に恥ずかしく思われないようにと可愛らしい格好をしていたのだ。
それなのに、いつもの霧雨・魔理沙に戻っていた、なんて思ってしまった自分が嫌になる。でも、アリスはそれを顔に出さないようにしながら、
「……じゃあ、そのカップを返して頂戴。新しい紅茶を淹れてあげるわ」
その言葉と共にゆっくりと立ち上がる。そのままキッチンへと向かいながら、昨日の魔理沙が感じていただろう不安を想い、今日の魔理沙が感じているだろう母への想いを想像し――
「私は馬鹿ね……」
そう、自己嫌悪と共に小さく呟く。
余計な詮索をして、彼女の想いを無駄にしてしまった。もし素直に問いを放っていれば、妖精の悪戯によって転んでしまった魔理沙を支える事だって出来ただろうに。
あとで改めて謝ろう。そう思いながら棚に手を伸ばし、茶葉を取り出すと、アリスはお茶の準備を進めていった。
3
数日後。
綺麗な青空が拡がったその日、里にある花屋で花を一束買ったアリスはその足で林へと向かっていた。前回は墓前で逃げ出してしまったようなものだったから、今度はちゃんと墓参りへと向かう事にしたのだ。
今日も必死に鳴き続ける蝉の声を聞きながら、一人ゆっくりと林の中を進んで行くと、前方から数人の人影が現れた。それは見たところ妖怪ではなく人間のようで――相手に気付かれる前に、アリスは木々の間に姿を隠した。彼等の戻ってきた方向に魔理沙の母親の墓がある事を知っている今、余計な面倒を起こすのは魔理沙に悪いと思ったのだ。
そうして、息を潜めるアリスに気付かずに、三人の人間達――若い男が二人と、中年の男性が一人――が進んでいく。
若い男はそれぞれに武器を持ち、中年の男性を護るように進んでいく。守られている中年の男性は手に畳んだ堤燈を持ち、少し俯きながら歩いていく。
その男性の事を、アリスはどこかで見掛けた事があった。けれど、よく思い出せない。
「里で、だったかしら。……うーん」
狭い人里の中でなら、同じ人物と何度も擦れ違う事がある。恐らくそれで記憶に残っていたのだろう。
そして人間達の姿が完全に見えなくなってから、アリスは墓前へと向かった。
「……やっぱり、綺麗な場所ね」
突き抜けるような青空の下に広がる丘はまさに別世界だ。まるでここだけ何かの結界に護られているかのような、そんな錯覚にすら陥ってしまう。
「さて、お花を――って、あら?」
どうやら先程の男性達は魔理沙の母親の知り合いだったようだ。小さく、しかし綺麗に整えられた墓には新たな花が添えられ、お供えだろう包みも二つに増えていた。
けれど、魔理沙は墓守が自分と霖之助しかいないと言っていた。それなのに、これは一体どういう事なのだろうかと考え……恐らく魔理沙の母親の親族なのだと結論付ける。きっと、絶縁状態にある魔理沙へと情報が伝わっておらず、彼女はその事実を知らないままなのだろう。……一瞬何かが気になったけれど、多分気のせいに違いない。
そうして、「自前で水や火を起こせるから魔法って便利よね」なんて事を人形へと呟きながら花瓶に水を満たし、持参した花を活けていく。そして線香に火を点けると、線香皿へとそっと置いた(先程の男性達があげていったのだろう線香は、既に半分ほど灰になっていた)。そして、改めて墓石の正面へ。
静謐な空気の中、アリスは両手を合わせ、
「……ごめんなさい」
あの時私が妙な疑いを持っていなければ、魔理沙が服を汚す事はありませんでした。ですから、汚れた格好でやってきた彼女を悪く思わないでください。悪いのは、私なのですから。
「……。……では、私はこれで」
小さく頭を下げて、両手を下ろす。
そして人形に持たせていた鞄を手に取り……ふと、数日前、魔理沙が帰り際に言っていた事を思い出した。
「前にさ、母さんの事を閻魔に聞いた事があったんだ。そうしたら酷く怒られたよ。『貴女は大切な人の成仏を祈る事も出来ないのですか?』ってな。それに、部屋の掃除や墓参りをしっかり行え、なんて説教まで受けちまった」
「そう。だったら言う通りにしなくちゃね。……見守ってくださっているお母様に笑われないように」
「全くだ」
そう言って笑った魔理沙は少し淋しげで、でも、それはいつもの彼女の笑みだった。
そしてそれは、悲しみを乗り越え、一人でもしっかりと生きている少女の姿でもあって。
「……」
思う。
もし自分が同じ状況に陥った時、果たしてああやって笑えるようになれるだろうか、と。
「……まぁ、多分私の方が先に死んでしまうんでしょうけど」
優しく微笑む『かみさま』の事を思い浮かべながら、小さく呟く。彼女の信仰が失われる事はないだろうから、魔界の住民が全て消えるまで、アリスの母は生き続けるのだろう。
多分それが神様の役目で、だからこそ、娘であるアリスにはやるせなくて。
「……帰ろう」
魔法の森にではなく、魔界に。そして、自分に出来る限りの親孝行をして、思い出を沢山増やしてあげよう。
そう思いながら、アリスは歩き出し――
不意に、風が吹いた。
思わず振り返ると、そこには広い丘と、どこまでも拡がる青空、そして小さな墓が見える。
美しく、それでいて物悲しさを感じる風景。けれど、沢山の花が――生者の想いが添えられた墓だけは、まるで団欒の中にいるかのように思えて。
だから、想像でしかない風景を幻視する。
それは、霧雨家の暖かな団欒。
そこで笑う魔理沙は、誰よりも幸せそうな笑顔を浮かべているような気がした。
end
仲の良い友達の違う一面を見ると色んな意味でドキっとしますよね。本当に色んな意味で…
魔理沙と父親が和解できるといいなと思いました。
アリスの幻視した風景が未来にありますように…
親父の哀愁がたまんねぇ。
2人の話かと思い、少し残念な気持ちになりましたがアリスとの友情も
良いですね。
墓参りは大事ですよね。
自分を好きでいるためにも。
こういう全体的に優しい雰囲気の話は大好きです
しおらしい魔理沙も良かった
切ない話で胸が締め付けられました
墓参りには精一杯身形を気遣う、その気持ちは分かるな。
アリスの見当違いな勘ぐりには苦笑しました。
この哀愁あふれる感じが好きです。
内容も楽しかったです。お疲れ様でした。