森の中を二つの影が行く。
一つは人間。
働き盛りの年頃なのだろう、適度に鍛えられた体だと服の上からもわかる。
樹が生い茂り、決して動きやすいとは言えない森の中を全力で駆け抜ける。
その顔には汗の玉が浮かんでおり、余裕は全く見当たらない。
もう一つも人の形をしている。
しかし、その動きは人間のものではない。
前者のように地を駆けるのではなく、樹の幹を蹴りつけて駆けている。
人間でも、よほどの軽業師ならば不可能ではないかもしれない。
そして、何より人間離れしていたのはその肌の色。
上半身が裸のその人型は、腕だけが真っ黒だった。
人間は、あんな墨のような色にはならない。
何があっても。
二つの人影の距離は徐々に縮んでいく。
追いかけっこが終わる。
近付く足音の恐怖に耐え切れなくなった男が後ろを振り向いて――――
眼を閉じる。
少し、気分が悪くなった。
いくら見えるだけだとは言っても、音が聞こえないと言っても。
気持ちがいいものではない。
幻想郷では、スペルカードルールによって人が喰われる事は少なくなった。
人間と妖怪の実力の差を埋めて、対等に勝負ができるようになったからだ。
一方では、妖怪による異変もおきやすくはなったけれど。
そんなわけで、今では里で共存できるほどに二つの種族の距離は近くなった。
しかし、人間を主食とする妖怪は少なくない。
そんな妖怪は、里の獣人や神社の巫女の警戒から外れたところで人を喰う。
今の光景も、そんなところなのだろう。
恐らく人間が、森の奥に入りすぎたのだ。
何の目的があったかは、私が知るところではない。
何より千里を見通す眼があっても、私の手は千里先まで届かない。
「……酒でも飲みたくなってきた」
任務中なのに、不謹慎だと思う。
酒の代わりにと、先ほど滝から汲んだ水を飲んだ。
味は無いが、冷たさが少し頭をクリアにする。
仕方が無いことだと、私は割り切ることにした。
そろそろ真面目に任務をこなさないと、上司に目をつけられる。
私は振り返って、次の場所に移動しようと
「もーみじ♪」
何、このどアップ。
「……射命丸様ですか」
「リアクションは?」
「特には」
「つまんないの」
何故かはわからないが、鴉天狗の射命丸様は私によく絡んでくる。
射命丸様といえば、最近山に越してきた神社やら天狗やらの仲介役となった方だ。
私もその際にいろいろと指示されたりしていたが、監視だけだから手間取ることもなかった。
今では、射命丸様は鴉天狗の中でも有名な天狗になっている。
あー、その時の縁で絡んできてるのだろうか?
いまいちよくわからない。
「何かネタは転がってませんでしたか?」
「……人間が喰われました」
「へ?」
「妖怪の食事風景です」
「……それを記事にすると、いろんなところからお叱りが来そうです」
「もう里の菓子屋の新味饅頭でも取材してきたらどうですか」
かつてない漉餡という看板が見える。
なにがかつてないのだろう。
危ない豆でも使ってるのだろうか。
お前の頭がかつてないよ店主。
「まーそれでもいいですかねー」
「やる気ないですね」
「妖怪の山から買いに行く天狗もそんなにいないでしょうし、話のタネくらいにはなるでしょ」
そう言うと、射命丸様は一陣の風を残して消えた。
実際は消えたのではなく、高速で移動しただけなのだが。
さて、今度こそ任務に戻ろう。
侵入者なんかほとんどいないから、単なる散歩かもしれない任務に。
「はい、お土産」
「……これがかつてない漉餡」
大天狗への最終報告を終え、家に帰ろうかと思っていたらまた射命丸様がやってきた。
見た目は至って普通の饅頭を手渡され、微妙に困惑する。
……とりあえず一口。
普通に甘い。
ただの餡子としか、思えない。
一体何がかつてないのだ。
詐欺か、詐欺なのか。
「詐欺記事でも書けますね、これ」
「お茶いる?」
「いただきます」
まぁ普通に美味しい。
お八つには丁度いい美味しさ。
餡子には緑茶が合う。
「これじゃ記事にはできませんねぇ」
「里の美味いもの特集にすら載りませんね」
射命丸様も食べている。
すごく普通。
食べ終わっても、特に感想が無かった。
「そういえば、射命丸様が気づいているかわかりませんが」
「何ですか?」
「あの店主、ヅラです」
「……マジで?」
その後は、他愛もない雑談が続いた。
カメラの話とか、ヅラの話とか、千里眼とカメラがあれば最強でも犯罪とか。
いつものことだ。
雑談の話題が尽きれば、互いの家に帰っていく。
適当に夕食を作り、食べてすぐに風呂に入って布団に入った。
任務をこなして、射命丸様に絡まれて、家に帰って泥のように寝る。
今日も概ね、日常をなぞって終わる。
また別の日、私の部隊は滝の裏で休憩していた。
ひんやりとした空気に、僅かに届く日光が滝に乱反射して美しい。
私は昨日もらった饅頭を部隊の皆におすそ分けした。
一晩経っても普通の饅頭だ。
滝壺に響く瀑音と、洞穴の中での将棋の音が付け合わせ。
「ところで椛」
「何」
部隊の一人が私に尋ねる。
眼を輝かせて、何かを期待している。
まるで特ダネを見つけた射命丸様のようだ。
「射命丸様とは最近どうなのよう」
「どうって……?」
「あの射命丸様と喋ってるなんて、白狼の中じゃあなただけよ」
「そうなのか」
「鴉天狗なんて、普段私たちなんか見向きもしないのに」
てっきり、他の白狼天狗にも声をかけていると思っていた。
白狼天狗の千里眼と鴉天狗の速度なら、ネタも探しやすいはずだ。
階級から見ても下の白狼天狗。
もっと配下を増やしているものだと、てっきり。
そういえば、私は本気でネタを探せなんて言われたことがない。
「自分の力で見つけないと、意味がないんだとさ」
「へぇ」
「射命丸様なんか特に、幻想郷を走り回ってるじゃない」
「確かに」
なら、さらにわからない。
私に、何故、絡んでくるのだろう?
「あ、休憩時間終わり」
「なら行こうか。ほら将棋やめろ」
滝の裏から出る時に濡れるのが、此処の欠点だと思う。
待機場所を変えてもらえないかと何度か進言しているが、全く聞き入れられない。
見晴らしがいい滝の上のほうが、見張りとしては最高だと思うのだが。
今日は、射命丸様は来なかった。
見渡しても、影すらない。
あの人も忙しい時があるのだろう。
そんな日もある。
一応大天狗に聞いてみたら、目を丸くしながらも教えてくれた。
今日は、天狗と守矢神社の宴会の準備をしているのだとか。
そういえば、月に一度くらいはそんなことをしていた気もする。
直接関わっていない私は、そのことを失念していたわけだ。
いやぁうっかりうっかり。
「しかし、お前がなぁ」
誰かとつるむようになるとはなぁと、上司の大天狗は言う。
別につるんでいるわけではないと言い返しておいた。
上司はニヤニヤとしているだけで、取り付く島もない。
上司を放置して、私はいつも通りに家に帰って布団にもぐった。
今日は天気が悪い。
寒くはないけれど、朝から空は一面の灰色。
今のところ雨が振る様子はない。
どっちにしても、本日非番の私には関係が無いことだ。
寝て過ごすことにしよう。
……と思ったけど、そういえば食材が無くなっていたんだった。
ということで買出し。
天狗といっても、別に人間や妖怪と食べるものは変わらない。
肉魚野菜果物肉。
飼育された肉ではなく、山の鹿や猪の肉。
牧草地なんかないし、牛やら豚やらを育てようという気がない。
あるものを食べるのが天狗や河童の流儀である。
その帰り道、河童の露店で珍しい物を見つけた。
妖怪の山に住む種族同士、繁華街での露店自体は珍しくない。
翡翠でできた香炉、蒸気を吐くよくわからないカラクリなどの派手なものに混じって木で作られた地味な万年筆。
匂いからして、素材は桐。
全体的には細身で、黒い羽の蒔絵がある。
確か射命丸様のペンは、すでにボロボロだったはずだ。
以前に聞いた時は、もういつから使っているのか判らないと言っていたと思う。
その時私は何を思ったのか、この地味な万年筆を購入してしまった。
……まぁ渡さずとも、私が使ってもいいか。
二本買った。
職人の手作りらしく、微妙に形が違う。
私用に買ったのは、黒く塗られたものに紅葉の蒔絵がある。
何の気の迷いだろう。
そもそも今月、結構厳しかった気がする。
「本当に、何をしてるんだろうなぁ」
窓際に腰掛け、ぬるく湿気った風を浴びる。
ひどく不快なこの風は、激しい雨を呼ぶ。
雨が降り始める前に帰ってこれたのは、ちょっとした幸運。
日ごろの行い。
そんなわけで、私は窓の外を眺める。
千里眼で見れば、同僚が空を駆けている。
その動きは見回りというよりは、待機場所に戻ろうとしているようだ。
やはり雨の匂いを感じ取っているのだろう。
私たち天狗は、雨が少し苦手である。
小雨程度ならば無視できる。
でも、体が濡れると少し動きづらくなる。
それでは任務にも支障が出る。
そういうことだ。
遠くの空に雷鳴が聞こえる。
それを追うように、幽かな雨の音。
雷が連れてくる雨は、いつも激しいと相場が決まっている。
にわか雨となるだろう。
妖怪の山のみならず、見える範囲の森には動くものが見当たらない。
皆、自分の塒に帰ったようだ。
雷鳴が近付いてくる。
音からして、結構な大きさのようだ。
見事な稲光が見えることだろう。
いい暇つぶしを見つけた、と思う。
千里眼を用いれば、とても臨場感溢れる映像が見れる。
言わば私は特等席にいる。
僥倖僥倖。
「お」
丁度良く、雷雲から稲光が迸る。
そろそろいいモノが見れるはずだ。
私は千里を見通す能力を使う。
次の瞬間、無数に枝分かれした稲光が視界を真っ白に染めて―――
私は、信じられないものを見た。
稲光が消えた直後、轟音が響き渡る。
それとほぼ同時に、豪雨が追いかけてきた。
私は部屋着のまま、雨具も身に付けずに窓から外へ飛び出した。
窓から出たほうが、稲光が落ちた場所に近い。
あっという間に居住区を抜け、いつもの滝壺まで辿り着く。
「もみじーそんなところで何をしてるのさー」
豪雨で視界は良くないはずだが、滝の裏からでも私を確認できたらしい。
同僚が不思議な顔をして、私を見ている。
「文様が雷に打たれた! 安否がわからない! 至急応援がほしい!」
本当は、構っている余裕はない。
一刻も早く駆けつけなければならないと、感情は焦るばかり。
でも残っている冷静な部分は、助けを求めろと叫んでいる。
私一人が駆けつけても助けられないかもしれない。
他の天狗に伝われば、助かるかもしれない。
私は少しでも、最善を尽くすことを選択した。
「場所は!」
「先の落雷の真下付近! 私が先行するから、後を追ってほしい!」
雨で匂いが流れるかもしれない。
しかし、そんなことを気にしている余裕はない。
未だ鳴り続けている雷鳴を避けるように、私は川原を駆けていく。
空を飛んで、自分まで雷に打たれてはただの間抜けだ。
時々千里眼で辺りを見回し、文様の姿を探す。
薄暗い中で、本気で眼を凝らす。
石を蹴り飛ばしながら駆ける。
千里先を視ることが出来ても、千里先に手は届かない。
自分で考えたことが、今はとても重く感じる。
伸ばした手は空を掴むばかり。
唇を強く噛むと、紅く錆びた鉄の味がした。
まだ、文様に手は届かない。
少し前まで、あんなにも近くにいたのに。
暫く走り続けて、どれほどの距離を駆けたのかわからなくなった頃。
半身を河に沈めた文様を見つけた。
「文様!」
駆け寄って身体を抱きかかえて揺さぶる。
雨に打たれ続けていたからか、身体が冷えきっている。
呼吸はしているが、意識はないようだ。
外傷は見当たらない、心臓の鼓動もあるかどうかわからない。
まだ応援は来ないのか。
早く。
早く。
早く!
不安だけが募っていく。
また雷鳴が轟き、その音はまるで私たちをあざ笑っているように思えた。
文様は眼を覚まさない。
「お願いです……眼を覚ましてください……」
自分でも、頼りない声だと他人事のように感じた。
雨が鬱陶しい。
瞼が妙に熱いのは、雨が眼に沁みたからだ。
「やぁ」
「軽いですね」
「あの程度なら全然平気ですよ?」
大雨から数日後、私は射命丸様が打ち上げられていた場所に居た。
見舞いである。
あの後、射命丸様は応援に駆けつけた天狗によって天狗の病院に運ばれた。
見立てどおりの軽い打撲と火傷。
とりあえず、命に関わることではないらしい。
不幸中の幸いというか。
なんというか。
つーかまだ入院してなきゃいけないはずだろう。
なんでこんなところに居るんだ。
「そんなわけで、お見舞いの……多分林檎です」
「何その曖昧さ」
「怪しい河童の露店で買ったので」
嘘だ。
ちゃんと、青果店の高級品を探してきた。
これで腹を壊したなら店主に報復を行う次第。
おもむろに林檎を剥き始める。
できあがった林檎を射命丸様に渡しながら、何故助かったのか聞いてみた。
金属製のカメラめがけて奔る雷からは、天狗の速度からも逃れることはできまい。
そして、射命丸様がカメラを捨てるわけもない。
射命丸様は、とっさに持っていた小銭を空にぶちまけたと言う。
何故かと言えば、勘としか言いようが無いとのこと。
まぁ予感ぐらいしか、かわす手段は無い。
しかし、囮とはいえ小銭全部は豪奢すぎだ。
笑いながら泣いている。
「いやー椛にも可愛いところがあったんですねぇ」
指切った。
痛い。
「……何を」
「実はですね、意識はあったんですよ。椛が来た時」
何だと?
あの時ぴくりとも動かなかったじゃないか。
「いえいえ、身体に力入らなかったんですよ」
「……痺れたとか?」
「感電しましたからねー。カウンターでしっかり稲光は抑えました。それに何より」
「椛が私のために泣いてくれたのが嬉しくて嬉しくて」
顔に火がつくとは、このことなのだろう。
火どころではなく、熱して燃えている油をぶっかけられたようだ。
「な、何を言っているんですか! 本気で心配したんですよ!」
「ええ、ありがとうございました」
「……! そ、それは仲間だからであって!」
「そうです。私たちは同じ天狗という仲間ですね」
「射命丸様が落ちたのを見つけたからつい!」
「あれ?」
射命丸様が、小首を傾げる。
「今日は文って呼んでくれないんですね」
「!!」
限界だ。
限界だった。
「い、いいいいい加減にしてください! 見舞いの品は置いていきます! あとこれもどうぞ!」
「これは?」
手のひらより少し大きい程度の小箱。
中身はもちろんアレだ。
もう、反応なんか見てられるか。
「で、ではちゃんと養生してくださいね!」
「あの、これは?」
「自分で確かめてください!」
駆け出して、すぐに空へ。
満身創痍の射命丸様は、私の速度にも追いつけまい。
気まぐれなんか、起こすものではない。
私は今回、それを痛いほど実感した。
もう金輪際、気の迷いなんか起こさないぞ絶対に。
「んー、悪戯がすぎたかな? せっかくのヒーローインタビューでもしようと思ったのに」
川原に取り残されて、文は一人ごちる。
手渡された箱を、手のひらで弄ぶ。
カタカタと中身が揺れ、存在感をかもし出す。
「……こんなに見舞い品渡されても、持って帰るのが大変だわ」
椛が持ってきた果物の量は意外と多かった。
蜜柑に桃に林檎に……謎の果物。
今の文では、飛んでる最中は安定しないだろう。
「とりあえず、もらったものを拝見しましょうか、ね」
文は小箱を開け、まず目を丸くした。
そして微笑んで、蓋を閉じる。
「こんなものを頂いたんじゃ、早く身体を直さないと」
椛が消えた空を向いて、胸を張って宣言する。
文の中ではたった今、次回の新聞の見出しが確定した。
『落雷の中を駆けた、心優しい白狼天狗』
「あー、でも記事にしちゃったら二人の秘密にならないか……あとで考えよう」
荷物を抱えて、文は抜け出した病院に向けて翼を広げた。
いつもでは考えられないほどゆっくりと、余韻を楽しむように穏やかに。
二人が去った後には、文の羽。
それに重なるように、まだまだ青い葉が舞い降りる。
まるで、本人たちの代わりとでも言うように。
手をつないだ。
了
椛がどっちの万年筆を渡したのか気になるー
こういうこしょばいのがもっと世の中には溢れていてもいいのに、ねぇ?
いい関係
え、だってそうでしょ?
二人の別の物語も読みたくなった。
つまり、理想の文もみということです。
淡々とした椛の語りが良かったです。
こういうの待ってました