「八度五分。良かったわね、立派な風邪よ」
魔理沙の潤んだ瞳が、怨みがましくアリスを睨む。
そんなに睨まれても、別にアリスが風邪をひかせたわけではないのだ。
ただ体温を報告しただけに過ぎないのに。それで怨まれるなど、逆に腹を立ててもいいぐらいの理不尽さである。
「何をしてたんだか知らないけど、ここのところ不摂生な生活を続けていたようだから、風邪をひくのも当然でしょ。ただでさえ、季節の変わり目だからひきやすいってのに」
「……仕方ないだろ、面白そうな本を手に入れたんだ。それを一気に読まないなんて、蒐集家の名が廃るってもんだ」
「まあ、魔法使いらしくはあるけど」
古来より、不規則な生活であるほど規則的であるとしてきた魔法使いにとって、風邪はもはやひいて当然の病気であった。
特にまだ未熟な魔法使いほど、よく風邪をひいていたそうだ。
上級者ともなれば、より不規則な生活になるものの、薬一つで治せるから長引くことはない。アリスも風邪をひいたことは滅多にないが、それは単に日々の生活に気をつけているだけで、薬の腕は永琳の弟子にすら及ばない。
一方の古風な魔法使いはといえば、当然の如く薬学には疎いわけで、その癖に古来の魔法使い達が歩んできたような道を歩いている。
「つまりは職業病ってわけだ。労災降りるかな?」
「どこが出すのよ、そのお金」
木目も真新しいベッドの上に横になりながら、魔理沙は悩むように眉間に皺を寄せた。そうしていると、キノコ柄のパジャマも相俟って、まだ眠くてぐずる子供のように見える。
こんな手間の掛かる子供を、持った覚えはないのだが。
『当方の貴重な人(形)質は預かった。返して欲しくば、霧雨邸まで来るよろし』
などと新聞の記事を継ぎ接ぎして作ったような手紙を送られ、人形が一体無くなっているのを確認し、嫌々ながら来てみればこれだ。
風邪をひいたから看病してくれと言われた時は、よっぽどドールズウォーをかましてやろうかと思ったぐらいだ。
そこは、持ち前の忍耐力でカバーしたが。
「大体、どうして私が魔理沙の看病なんかしなくちゃならないのよ。呼ぶにしたって、もっとマシな人材はいたでしょ。永遠亭の薬師とか」
「アイツは看病と称して人体実験しそうだからパス」
「じゃあ、霊夢とかワーハクタクとか。面倒見良さそうな連中に頼めば良かったじゃない。何も、私じゃなくても……」
すると魔理沙は布団を口のところまで引っ張り、アリスを見ないようにしながら、
「お前に看病して欲しかったんだよ」
などと言った。もしもアリスの立ち位置にいたのが某魔女だったならば、「バッチコーイ!」と異常なテンションでネギを魔理沙のお尻へマスタスパークしていた頃だろう。
だが、生憎とアリスはシティ派。子供が上目遣いにあめ玉を欲しがって来ても、「お前、その程度の媚び方で何か貰えると思うなよ」とオデコにデコピンするようなシビアさを持っている。
「はいはい。とりあえず来た以上は見殺しにするわけにもいかないんで、出来る限りの事はするけど。ちゃんと八意永琳のところに行った方がいいわよ。あんなんでも、一応は一流なんだから」
予想外のクールな対応に、魔理沙は酷く不満げだ。
どういう返し方をして欲しかったというのか。
氷の塊を削りながら、アリスは頭を悩ませた。
「なあなあ、アリス。リンゴが食べたい」
氷嚢製作は順調に進み、後は氷を専用の袋に詰めるだけとなった。
とりあえず氷嚢を完成させたかったアリスは、魔理沙のその願いを却下することにした。
「悪いけど、今日はまだ重力が働いてないから。リンゴが一つも落ちてこなかったの」
「お前……断るにしてももう少しマシな断り方があっただろ」
呆れた口調で魔理沙が言った。心なしか、氷の詰め方が少し乱暴になる。
「別にリンゴを畑から盗ってきてくれって言ってるわけじゃない。保存庫にあるリンゴを取ってきて、擦ってくれたら良いだけだ」
「どっちにしろ手間が掛かるから嫌よ。水分が欲しいなら、唾液で我慢しなさい」
「かつてないほど冷酷な仕打ちだな。わかったよ、ならアリスの唾液で我慢す――」
小気味いい音と共に、氷を削っていたアイスピックが、魔理沙のベッドに突き刺さる。アイスピックの二十センチ横には、青くなった魔理沙の顔があった。
「ごめんなさい。手が滑ったわ」
棒読みの謝罪。
氷を削る作業は終わったはずなのに。
魔理沙には、そんなツッコミを入れる余裕すらなかった。
その時のアリスの表情に、鬼を見たとか見ないとか。後の魔理沙はそう語る。
「まったく……これで頭を冷やしてなさい」
アリスは完成した氷嚢を魔理沙の額に置くと、部屋の奥へと引っ込んでしまった。
ひんやりとした冷たい感触が、頭から熱を奪ってくれる。これで完治するわけではないが、何やら幾分と楽になった気がするから不思議だ。
窓の外からは、木々のざわめきと草の揺れる音が聞こえてくる。
とりたて忙しい生活をしていたつもりはなかったが、ここしばらくはこうした音を気にもとめなくなってしまった。
熱中しすぎると、どうにも周りが目に入らなくなる。
悪い癖なのだが、そこが長所でもあるので修正するつもりはない。
どうせまた風邪をひいて、立ち止まらなくてはならないようになるのだ。
魔法使いにとって風邪とは天敵であり、良き理性でもあった。
「なんてな」
皮肉げに笑い、魔理沙は側の棚に置いてあった馴染みの帽子を手に取る。
寝るには少々、日が高い。魔理沙は帽子を顔に乗せ、腕を枕に目を閉じた。
「呆れた。人に命令しておきながら、無視してのうのうと昼寝だなんて。ちょっと魔理沙、起きなさいよ」
うとうとと微睡んでいた意識はしかし、突如として飛び込んできた日の光によって覚醒させられる。
重いまぶたを開いてようやく、魔理沙はアリスに帽子を取られたのだと気づいた。
「病人なんだ。労ってくれよ」
「その病人の為にリンゴを擦ってあげたのに、寝ようとしてるのは何処の魔法使いよ」
「ここにいる、リンゴ好きの魔法使いだ。って、アリス。本当にリンゴを擦ってきてくれたのか?」
アリスの手の中には透明な器があった。ほのかに黄色いシャーベットのようなものが、器の中に納められている。
「また変なことを言われるのは御免だから。黙らせる為に作ってきたんだけど、どうやら無駄手間だったようね」
「いやいや、寝るのは夜でもできる。でも、作りたての料理を食べるのは今しか出来ないんだぜ」
「料理ってほど、手間は掛けてないんだけど。まあ、いいわ。ほら、スプーンもあるから布団にこぼさず食べなさい」
文句を言いながらも、細かい所まで気を利かしてくれる辺り、良いお嫁さんになると言わざるをえない。
定番のイベントをこなすのであれば、ここらで「あーん」というサッカリンより甘いシチュエーションを期待するところなのだが、魔理沙はそこより一歩踏み込んだ場所へ飛び立とうとしていた。
「うっ……」
右腕を押さえながら、苦悶の表情を浮かべる。
「どうしたの?」
「マズイ、ちょっと両腕が原因不明の痙攣を起こしたらしい。これはスプーンなど、持っていられるはずがない」
「………………」
迫真の演技なのだが、アリスの反応は何故だか冷たい。
それでも怯むことなく、魔理沙は芝居を続ける。
「やむを得ないな、アリス。実に心苦しいことだが、ここは口移しで私にリンゴを食べさせるしか方法はないな。そしてこの部屋にはアリス一人だけ。さて、これが何を意味するのか……」
「………………」
無言で魔理沙を見下ろしていたかと思うと、表情を崩して、アリスは深い溜息をついた。
「仕方ないわね、口移しで食べさせればいいのね?」
「えっ、おまっ、いいの!?」
自分から言っておいてなんだか、本当にやってくれるとは思っていなかった。
突然の積極的な発言に、魔理沙も思わず熱が上がる。病気の方じゃない熱が。
「病人の頼みだから、断るわけにもいかないでしょ。ほら魔理沙、目を閉じて」
「う、うん……」
言われるがままに、目を閉じる。心臓の鼓動が、より一層強く聞こえてきた。
まさかまさか、こんな展開になるとは。
どうせなら、リップクリームを塗っておけばよかったかもしれない。ああそれに、歯を磨いておけば。
などと考える魔理沙の耳元に、息を吹きかけるような距離からアリスの言葉が投げかけられる。
「こんなこともあろうかと、実は一緒にタコも持ってきてあるんだけど。これは何を意味するのかしらね?」
「えっ? それってどういう――」
ファーストキスは、墨の味がしたそうです。
ふと、魔理沙は目を覚ました。
いまだ休止状態の身体を伸ばしながら、寝ころんだままで窓の外へと目をやる。
まだまだ外は明るい。さしずめ、今は午後を回った辺りであろうか。
視線を窓から逆方向に移し、魔理沙の表情が僅かに緩む。
木製の椅子に座り、手を膝の上に置きながら、小さな寝息をたてる少女がそこにいた。
金色の小川のような髪が、窓の外から差し込む日光を照り返す。
呼吸に合わせて動く胸。口から垂れた涎の跡は、ご愛敬といったところか。
アリス・マーガトロイドがいるだけで、自室がさながら絵画の一部分になったような錯覚を覚える。
もうすることもないだろうに、家に残ってくれた律儀さに感謝を思えつつ、魔理沙は口元に残る墨を拭った。
「いや待てよ。ひょっとして、今ならいけるんじゃないか?」
先程は脆くも八本足の悪魔に阻まれた唇。堅牢な城門は今や焼かれた貝のように開かれ、フリーダムなままである。
しかも、当の本人は夢の世界をぐるりと一周してる真っ最中。この機をチャンスと呼ばずして、いつをチャンスと呼ぶのだろうか。
ゴクリと、唾を飲む音が聞こえる。
アリスに伸びた手が、小刻みに震えているのがわかった。
その手がアリスの肩に掛けられた瞬間、何の前触れもなく、部屋に弓矢が飛んできた。
「おおっと、いけない。リンゴとリンゴ好きの魔法使いを間違えてしまったようね」
白々しい台詞を吐きながら、オペラ座の地下に住んでそうな仮面をかぶった魔女が窓際にやってくる。その手には弓が握られていた。
「何しに来たんだ、パチュリー」
「パチュリー? 女神の名前かしら?」
「いや、だから何しにウチに……」
「私はウィリアム・輝元の孫。ちょっとリンゴを打ち抜きに、森の中を彷徨っていたの」
「和洋混ざり過ぎだ」
魔理沙のツッコミなど何処吹く風。ウィリアム・輝元(自称)は、窓ガラスの割れた部分から手を伸ばし、窓の鍵を勝手に開けた。
泥棒歴の長い者なら、思わず感心しそうなほどの手つきだった。ちなみに、魔理沙は感心した。
とはいえ、勝手に家に入ってくるのを見過ごすわけにはいかない。
「おいおい、私は家に入ってきてもいいなんて言ってないぞ」
「だって、私に撃ち抜かれたいっていうリンゴの声が聞こえて……ゴホン。魔理沙がアリスにキスしようとしてたのを見たから、慌てて飛び込んできたのよ」
建前と本音が逆である。
もっとも、建前の方もどうかと思うが。
「しかし、その言い草だとまるで最初から見てたような感じだよな」
「見てないわよ。アイスピッグを投げられたとこや、タコとキスしてたところなんて」
魔理沙は笑顔で口を開いた。
「帰れ」
「それで、どうして窓が割れて、部屋の中に弓矢が刺さってるのかしら?」
「いやな、ウィリアム・輝元の子孫が……」
アリスの手が額に置かれる。ひんやりとして、気持ちいい。
「熱は下がってるみたいだし、もしかして私に隠れてアルコールでも取ったの?」
「……もう、私の夢ってことっていいぜ」
細々と説明するのは面倒だし、理解して貰ってどうこうというわけでもない。
「別に魔理沙の家なんだから、窓が壊れて困ることはないけど。このまま帰って、翌日に凍死されたら気分が悪いじゃない」
壁に刺さった弓矢を引っこ抜き、アリスは割れた窓ガラスに顔を近づける。
「魔術的なもので壊れたわけでもないし、復元は難しそうね。魔理沙、あなたって復元の魔法は得意?」
「魔法はパワーだぜ」
「言うと思った。とすると、手作業で直すしかないようね。体力を使うのは苦手なんだけど。人形でも持ってこようかしら」
眉間に皺を寄せるアリス。当初はただアリスに看病して欲しかっただけなのだが、ここまでして貰うとさすがの魔理沙でも良心が痛む。
元は、人形を返して貰うためにアリスは霧雨邸へとやってきたのだ。
間違っても、魔理沙が心配だから来たのではない。
「なあ、アリス」
「何? また馬鹿を言うつもりなら、この弓矢投げるけど」
鋭い矢尻が魔理沙に向けられる。
冗談っぽい口調だったが、これまでの事を考えれば、投げる時は本当に投げてくるだろう。
もっとも、今回はそんな内容ではないのだが。
「アリスがここまでしてくれるのは、やっぱり人形の為なのか?」
「まあ、四割ぐらいはそれね」
「じゃあ、見殺しにするのは寝覚めが悪いから?」
「三割はそんなところ」
四足す三は、七。
十引く七は、三。
だとすれば、残りの三割の何の為に?
魔理沙が口を開くより早く、アリスは魔理沙に背を向けた。
「残りの三割は、とりあえずその他ってことにしておいて。それじゃあ、私は家まで人形を取ってくるから。これ以上、手間を掛けさせないでよ」
その他と言われては、これ以上の追求をするわけにはいかない。
魔理沙は喜ぶわけにも落ち込むわけにもいかず、酷く複雑な気持ちで布団から這い上がる。
割れた窓から吹いてくる風が寒い。身体だけでなく、心まで冷やしているのではないかと思うほどだった。
「せめてもの償いになればいいんだが……」
奥の部屋から一冊の本を持ってくる。魔理沙はそれをベッド脇の棚の上に置き、再び安眠の世界へと戻ることにした。
頭の上まで布団をかぶる。
風が冷たかったのだ。間違っても、落ち込んでいるわけではない。
そう、自分に言い聞かせながら。
友情なのか、同情なのか。それはアリス本人にもわからない。
上手く言葉にするには、この感情は曖昧過ぎた。
だから、先手をとって答えをはぐらかしたのだ。
「真相は藪の中、か」
人形と工具を篭の中に入れて、アリスは霧雨邸へと戻ってきた。魔理沙はベッドの上で、すうすうと寝息を立てている。
黙っていれば美少女なのに、とアリスは肩をすくめた。
なるべく音を立てないように作業しなくては。
アリスが篭から工具を取り出そうとしたところで、先程までは無かった物を見つけた。
棚の上に置かれた、一冊の本。それは永遠亭に行った時に見つけた本だった。
永琳から貸し出しは許可して貰ったものの、殆どの文章が古すぎて読めずに返却した。どうしてこれを魔理沙が持っているのだろうか。
本を手に取る。近くで見てようやく気づいたが、それは永遠亭にあった本とは微妙に異なっていた。
おもむろにページを捲る。そして、思わず息を呑んだ。
そこにあったのは古い言語の文章ではなく、慣れ親しんだ言葉の文章。
けして丁寧ではないが、一生懸命さが伝わる翻訳された言葉。
誰がやったかなど、言わずともわかる。
なるほど、これの為に徹夜を繰り返して風邪をひいたわけか。
馬鹿である。
馬鹿であるが、言葉に出して馬鹿とは言えない。
アリスは本をそっと抱き締めながら、魔理沙の繊細な髪の毛に手櫛を入れた。
きめ細やかな感触が、手の上を小川のように流れていく。
「ありがとう」
本人に伝わらない感謝の言葉を述べ、本を篭の中へそっとしまった。
残りの三割。
今はとりあえず、恩返しという事にしておこう。
魔理沙は気持ちよさそうに、すやすやと眠り続けたままだった。
ツンデレしてるアリスもいいけど、やはり自分の中ではこういうアリスが似合うと思われる。
八本足の悪魔はいったいどこから仕入れたんだw
原作に近いイメージで書くとこうなるのかな?
勉強になりましたw
最近ツンデレアリスばかり見ていたせいか実によろしい(ツンデレが悪いわけではないが
この友達以上恋人未満な関係が二人にぴったりです。
文章も上手くまとめてあるので読みやすくて面白かったです。
是非またこの微妙な関係を描いて欲しいです。
あんまり見ないけど個人的にはアリスはこういう性格だと思います。
話も良かったのですが、ウィリアム・輝元ことパチュリーにふきましたw
それでいてほんのり甘い。
個人的には魔理沙を普通にしてウィリ以下略を消した壊れがない普通のキャラ同士のやり取りが見たいけど、需要は全くないんだろうな。
風邪の特効薬とかノーベル賞ものだけど、蓬莱の薬がある幻想郷ではまあ普通の部類か。
アリスが原作に近く、ツンデレじゃないのが嬉しかった。まさに理想とするマリアリ。
これくらいの距離感がいい。
輝元わらった
家紋から矢繋がりですか?
それよりウィリアム・輝元はどっちがお好(オレハリンゴジャナ
これはいいアリス。
まことにごちそうさまでした。
自分の中でのアリス像はツンツンデレデレだったのですが、こちらの都会派なアリスもがっちりと心を掴ませられました。自然な感じで良いですね。
是非他のキャラクターたちとも絡ませてもらいたいです。
パチュリーの設定が良くわからなかったのが残念です。
対比的に助平な魔理沙もいいものですね。
さらに対照的に変人なパッチェさんは、どこが出不精の喘息持ちなのかと小一時間(ry
そこに盛り込まれた小ネタと呼ぶには面白すぎる内容を楽しませていただきました。
アリスがいいね。やっぱ都会派はクールでないとw
こんなアリスこそアリスらしいんだと思いました。
むっちゃツボに入ったwww
魔理沙→アリスのほうが私としては自然に思えますね。
私のアリス像にぴったり当てはまりました。
都会派いいよ都会派
やっぱりこういうクールアリスはいいな。
…ツンデレを否定する訳ではないけど。
まさに掘り出し物。
努力家な魔理沙ステキ。
いいなぁこのアリス
理想のマリアリです。