空を自由自在に飛ぶ力を手に入れても、石枝が複雑に入り組んでいては思うように宙を舞えない。代わりに腰を屈め、足で進むことを度々強いられる。岩石質の木の硬さはまるで触れることすら拒絶しているように押し戻してくるように思う。時には蜘蛛の巣のように張り巡らされた枝が行く手を阻むので、弾幕で隙間を作り、体を捩じ込むようにしてひたすら進む。
肉体が、人間の形をした肉体がいまだに馴染まない。関節が回るから腕が振られる。筋肉が張るから力が込められる。意思に基づく動作は肉体機能の受動的な結果になっていた。しかし頭はこんなにも回る。どこまでも羽ばたける気がする、想像の枠を越えて、幻想の外にさえ。心身の乖離がこんなにもどかしいと知っていれば、私は人間を羨むこともなかったのだろうか。
貝のときと比べればはるかに拡張した感覚の豊かさを、言葉で説明するにはまだ難しい。感じたことをそのまま肯定する術を知らないから。まだはるか遠くの天頂の光、これが降り注ぐところに手を置くと温かく、岩肌も心なしか柔らかいように感じる。一方で影の覆うところは冷たく、より固いように感じる。これはそういうことなのだろうか? 滝のようにしなだれるウェーブ状の金髪はいつの間にか付属品のように、頭を振っていなしている。これも、そういうことなのだろうか?
足の裏が痛い。腕を持ち上げるたびに肉が張る。胸が痛い。目が乾く。呼吸する。
魔理沙は光を正面から切り裂くように進み続ける。時々後ろを振り向いて、私に声をかけたり手を振ったりする。この世の真実について思索を繰り返していた頭の中は、疲労と不安から来る安息の渇望という、原始的な衝動の前では凪いでいた。
「まだ半分も来てないぜ」
「あなたが付いてこいって言ったんだよね?」
涼しい顔をして呼びかける彼女を見て、我ながら理不尽な苛立ちを覚えずにはいられなかった。そういった激情も大したことではないように、魔理沙は不敵な笑みを浮かべて言う。
「冗談が言えるうちは余裕なんだぜ」
あなたが決めることじゃない。そう言い返す前に、魔理沙は身軽に振り返った。腰よりも高い位置で真横に伸びていた梢を、膝を折り、腰を深く沈めて潜り抜ける。私は慌てて後に続く。そういった身のこなしですら、残像に体を当てはめるように真似しないと上手くいかない。
化石の森を抜けて、ようやく飛行することができた。風の涼しさがこんなにも嬉しいものだとは思わなかった。洞窟の暗がりが長く続き、黙々と先導する魔法使いの姿が離れないように気をつける。
やがて明るいところに出ると、奇妙な格好をした道祖神に呼び止められた。魔理沙は彼女に近づいて話し始める。私はその場で周囲を見まわし、背後にあるピラミッドに驚いた。これはエジプトにあるのでは? エジプトがどこかは知らないけれど。
魔理沙たちが何度も視線を投げかけてきたので、おずおず近づく。どうやら道祖神が私について問い質していて、魔理沙が受け応えてくれていたらしい。
「ただの妖怪だって。今回の異変をきっかけに、化石の森で生まれた。それだけ」
道神馴子と呼ばれた道祖神は、魔理沙のかいつまんだ説明に納得せず、より詳細を求める。魔理沙の億劫そうな顔がどんどん顕著になっていく。
「私の役割はここから危険を出さないことなんだから。分かってよ」
「それって、私が危険ってこと?」
私が尋ねると、彼女は目を丸くした。
「当然です。だってピラミッドから出てきたんですから」
「でしたら、安心してください。私こそが危険を幻想郷から遠ざける真実の使者です」
私は笑顔を浮かべた。努めて相手の信頼を得るよう心がけた。しかし馴子は表現に困る表情(後に魔理沙に聞くところ「呆けた」というらしい)で固まり、魔理沙は頭を抱えている。
私を他所にして両者の会話が続く。そうして、外に出ることを許されたらしい。
「霊夢のところに行くんだが、お前も来るか?」
「嬉しいけど、ここの仕事があるから行けないわ」
「そっか。じゃあまたな」
「さようなら」
私も別れの挨拶をしたのに、馴子は不服そうに返事をした。
「お前はまず自己紹介の仕方から覚えないとな」
「なんで? そんなのできるに決まってるでしょう」
「名前を名乗るだけならな」
私は箒の枝が先ほどより大きく震えているのに気づく。空気は徐々に熱を帯び、生暖かい風が精神を高揚させる。やがてある一点に、止めどない光の洪水が現れる。「待って」と言いかけたが、魔理沙はあっという間に光に飛び込もうと加速していく。まるで彼女の方が閉鎖空間から解放されたくて気が急いているように見えた。
洞窟の石壁に反響していた風の音があっという間に拡散し、私から離れていく。光の洪水の源はその場所を頭上高くに移し、太陽として空に座す。洞窟内とは比べ物にならないくらい、眩しい。白い綿が横滑りしていく青い平面の巨大さ、その下に位置する大地、密集する本物の木々。
ただ、圧倒された。来た道を振り向くと、そこは暗い穴でしかなかった。
「おい、大丈夫か?」
その場に留まっていた私を気遣う声も、大気中で泡のように消えしまいそうな気がした。私は頷いた。魔理沙の呼びかけに従い、再び空を駆ける。新しい場所で、また、幻想郷の一部になる。
化石だった時間と、貝として生を得て過ごした時間とを比較したら、きっと前者の方が長いのだろう。しかし真偽を知るために、正確な数値を頼ることはできない。おそらく知る術もない。
はっきりとしていること。
貝にしろ化石にしろ、そのように過ごした時間が全て残滓もないものと化していること。手のひらで砂をすくうように、自分の手元にあったという感覚は少しもない。
それから、目覚めてから一週間すら経っていないということ。
その一週間が今では何よりも長く、確かな生きた時間としてここにあること。
気づいたときには情報(ゆめ)の中にいた。そこで初めて人間を知った。言葉を知った。貝を、海を、山を……あらゆるものが私にとって新しさになる世界に巻き込まれていた。
ぐちゃぐちゃとして、歪んだりおぼろげだったり……私にはやはり言い表すことのできない、破滅か創造のどちらの瞬間でもあるような世界にあって、私は確かな標を見つけたのだ。
真実。
数多の人間が瞳に宿している憂いや苦しみを取り除く、唯一無二の光。これを脅かすものへ、偽りない怒りと不屈の精神を呼び覚ます象徴。まだ啓かれざる人間さえも同じ苦境にある同胞として無償に受け入れ、啓蒙を絶えず実践する救い。
真実の信者たちと同じように同じものを信じた。賛美する言葉を絶やさず、私は彼ら彼女らの学徒となり、理解者となった。そして幻想郷——地図上の走り書きと変わらなかった存在——に、素晴らしき知恵がそもそも存在しないことを知り、絶望した。そこで私は初めて真実の同志となり、忘れられた楽園の背後に潜む悪を憎んで、その身を賭す覚悟で戦い抜くことを誓った。
……はずだった。結果、幻想郷でしか通用しない他愛ない弾幕ごっこで敗れた。そして信じた全ては虚偽と諭され、挙句身の危険まで案じてもらうことになった。惨めだと、思うこともなかった。汚染された瞳を祓われてから、ある意味で初めて生まれたままの状態になったのだと、私は自覚した。
当時でこそ……いや、今だってまだ納得しきれているわけではない。真実を知らないことを、いったい誰が証明できるのか? 結局のところ、まだ誰も知らないものを本当に私が知っているということも、あるのではないか? 頭の片隅に居座るこの思考を、全面的に信用していないと同時に、締め出すこともできなかった。
確信の下で築いていた思想の城壁が瞬く間に破壊されてから、湧き出した感情。哀しみや悔しさ、不安や緊張、ある種の期待や興奮など。それを感受していること自体が生きていることの証左であることを、少しずつ私のなかに落とし込んではいるつもりだ。最終的に、虚無感よりも充実感が優ったとも思う。
そういった内的変化を経て、コペルニクス的転回とはいかないまでも、徐々に自己に向ける洞察の視点も変わっていた。私も何かの仲間になりたかった。過多情報の洗礼の最中で何も疑わなかった私を回顧すれば、原点は意外とそれくらい単純な動機なのかもしれない。
「静かだな。緊張してるのか?」
魔理沙が声をかけてきた。
「こういうとき、緊張以外の感情になることがあるの?」
「わくわくしているときも静かになるもんだぜ」
「……そんな感じはしないかな」
幻想郷を直に目撃したときは確かに驚きに満ちていたが、真実と邂逅したときほどの高揚には及ばない。
「ま、難しく考える必要はないぜ」魔理沙は見透かしたように言った。「ほれ、博麗神社に着くぞ」
私は魔理沙から地上へ視線を移す。遠目からでもかなり長いと分かる石段の頂上に、博麗神社はあった。自然に囲まれてぽつんと浮く人工物のように思えたが、少しの瞬きして見直すと、むしろ周りの何よりも昔からそこにあったようにも思えてくる。また、超然とした佇まいで一線を画すようにも、幻想郷を一望できるところから傘のように全体を包み込んでいるようにも見える。もしかしたら、どう言い表したとして、そこに在ることが最適だということにしかならないのかもしれない。最終的にそう思うことにした。
境内には晩夏の日差しが降り注ぎ、赤蜻蛉が地上に降りる私たちの道を開けていく。参道の石畳に着地して、私は足の裏に痛みを感じた。
「いたっ」
小石をたまたま踏んでしまったようだった。
「ああ、そういえば何も履いてなかったな」
「人間って不便ね……」
「それを言うなら妖怪だろ? ちょっと待っとけ」
魔理沙は社務所から草鞋を持って来て、私の足元に置いた。言われるまま、足の指に緒を引っ掛けようとする。惜しいところで草鞋を蹴飛ばしてしまい、落下先でぱたりと砂煙が立つのを何度も目撃する。
痺れを切らした魔理沙がしゃがむと、私の足首を掴み、そのまま無理やり持ち上げた。私は危うく転びそうになる。
「ちょっと、危ない!」
「肩に手を置けばいいんだよ」
魔理沙がぶっきらぼうに指差した彼女自身の肩に、私は慌てて手を伸ばした。そのまま重心をかけても、まるで岩にでもなったかのように魔理沙は平静としていて、あっという間に私の足に草鞋を履かせた。乾いた草地が足裏をなぞる感触に、今更肌が粟立つ。
しばらく境内を歩いて履き慣らしている私を他所に、魔理沙は社務所の裏手に回っていく。遅れて合流すると、開け放たれた襖の奥に霊夢の姿を見つける。彼女は畳に肢体を投げ打って、だらしなく横になっていた。
「おい。私がニナを迎えに行く間に、宴会の準備をしてるんじゃなかったか」
魔理沙が怒りを訴えるも、霊夢は淡々と返事だけする。
「しようと思ったけれど、暑くてやめた」
「怒るぞ」
「もう怒ってるじゃない」
霊夢は気だるげに上体を起こし、私を一瞥した。挨拶を交わす前に魔理沙が家の中に上がり込み、霊夢の傍に座り込んで会話を続ける。草鞋をすぐに脱いでしまうことが勿体無い気がして、私は縁側に腰掛けることにした。
庭先で季節外れの蝉の声を聞いて、ああまだ夏の運び手がいるんだなと思っていると、急に知らない妖気を肌に感じる。
妖精、火車、小人、狛犬、吸血鬼……彼女たちは機敏に私を取り囲み、好奇の目線を方々から投げかけてくる。ああ、油断した。もしかして罠だったのかしら。真っ先にそんなことを考えたが、始まったのは矢継ぎ早の質問攻めだった。
あなたは何の妖怪?
——蜃です。
どんな悪いことをしたの?
——特に何も。悪いのは世界の方です。
頭の貝、食べれるの?
——食べれません。舐めるのもダメです!
霊夢や魔理沙のどんな弾幕よりも、肩身の狭い空間だった。動物の妖怪は私の匂いまで嗅ごうとしてくるが、身を捩る余裕もないほど集まってきていたので、じっとしているほかない。
彼女たちの会話の節々に散りばめられた情報を繋ぎ合わせると、みな一様に霊夢たちに倒されたことがあり、それでいて彼女をなお慕っていることが分かる。
「どうしてやられたのに、そんなに嫌いにならないの?」
——だって、強いから。楽しいから。
優しいから。単純かつ底意のない回答が返ってくる。私も同じもの、少なくともその一端にはすでに触れているので、頷いた。いずれ幻想郷で過ごしているうちに、私も人間の彼女たちをこんな屈託のない笑顔で受け入れる日が来るのだろうか。見たことのない眩しさだった。宴会の準備のため家主に中断させられるまで、私は高速で切り替わる話題のなかで目を回す。
灯籠の光が境内に敷かれた筵(むしろ)を金色に照らす。即席の宴会場はあっという間に妖怪が集まって、神社というよりも溜まり場のようになっていた。霊夢はやはり妖怪巫女みたいだ。
馴染みのある者たちが固まっていく一方で、私は片隅に置いてけぼりにされていた。芋煮をよそってくれた妖怪が近づいてきてくれたおかげで、ようやく会話の相手を見つけることができた。というより、その妖怪が人里の居酒屋で働いていることを聞いて、私の興味が振り切れたのもある。人間という存在が寄せ集まって暮らしている空間こそ、私が出会うに至った真実の故郷だったから。
人里の住民でも食いついてくれそうな真実を語って聞かせて、反応を確かめてみた。ケムトレイル、幻想郷を裏で操る妖怪、アンゴルモアの大王……どれも奇妙な噂程度でしか受け取ってもらえなかった。
「本当に、こういった話は人里で出てこないの?」
「……あはは、残念ながらお客さんから聞いたことないですね。居酒屋に来る方は話のタネとして珍聞奇譚の類は詳しいですし、夜の深酒で口も軽くなってますから、なおさらないかな」
すでに霊夢たちに散々否定されていて、期待はそこまでしていなかったはずだった。しかし、人里で過ごす妖怪から面と向かって否定されると、より落胆を感じた。私がいまだに信じていたかった部分もあったと、暗に指摘されたようにも思う。
「あ、でも幻想郷を操る妖怪って話は、あるかもしれませんね」
「本当⁉」
「ええ。あ、でも……」
「でも」
「そういうことできそうな妖怪は山ほどいるという、当たり前な話になってしまいますが」
気遣いが逆に胸を痛めるという、一見矛盾している気がする体験を初めて味わった。
それから天狗が寄ってきて、再び私は質問攻めに合う。昼間は私自体のことを聞かれることが多かったが、今回は特に異変そのものについて話題が集中する。
あなた自身が今回の異変の黒幕なんですね?
——いえ、それは違います。
今回の件はまた月が関わっていると聞いていますが、ある意味であなたは被害者だと思われます。妖怪としての尊厳を脅かされて、思うところはありませんでしたか?
——えと、つまりどういうことですか?
私はただ真実に触れて目覚めただけです。
文の偏向報道に付き合う必要ないわ。質問を変えるけど、私の確かな情報筋から、あなたが永遠亭で密会をする予定があることが分かっています。異変は次の段階に進もうとしているということですか?
——その、そんな予定はありません。
おいお前たち、お得意の取材で言質を取りたいようだが、生まれたての妖怪なんだから容赦しなさい。とりあえずこれ。酒だ。
——あ、ありがとうございます。
秘神を名乗る女性から酒の注がれた盃を受け取り、天狗と一緒に去っていった。そもそも秘神ってなんだろう。姿を見せないのが神様なのに、秘密も何もあるのだろうか。
酒を飲む。初めての飲酒。美味しい。
酒には人妖問わず、正常な思考を奪う作用があることを知っていたように、味わい深く、解放感をもたらすことも知っていた。隣にいつの間にか座っていた鬼が、空になった盃に瓢箪を傾けて次々と酒を満たす。薫香をくゆらせる清酒は唇を添えるだけで滑らかに喉を通っていく。ああ、確かに世に言われる通りだ。
「飲むと幸せな気もちになる……これこそ真実ね!」
「そうだそうだ。いいぞ、もっと飲め!」
私の飲みっぷりに鬼の伊吹萃香も手を叩いて喜んでいた。
「楽しんでるのは結構だが、ほどほどにしとけよ」
魔理沙は嗜めてきたが、酒を片手に頬を赤らめて笑いかけてくる様子に今の私と同じような幸福感を見出す。それに発言とは矛盾して、私の空いた盃に徳利を傾けもする。私にはそれが無性に嬉しく思えて、また酒を煽るのだった。
伊吹萃香は高笑いをして、私の飲みっぷりを褒めた。
「あんた、元は貝だったけど。妖怪になってまだ間もないんだってな」
「そうです」
「せっかく生まれ変わったんだ。やりたいこととか、あるのかい?」
質問されるはるか前から、私自身が考えていたことだった。答えはまだない。悩んでいる姿から察して、萃香は「まあ、これからか」と呟く。
「ここにいる皆さんは、そういうものがあるんですか?」
「どうかな。適当に楽しく生きていられれば、何でもいいと思うよ。私は美味い酒が飲めればそれでいい」
そう言って湧き出る水のように酒が用意されるので、私は次々と飲み干す。だんだん、霊夢たちとの戦いに至る前の、生まれたときの高揚が酔いによって体の奥から這い出てくる。まるで深い眠りから目覚めた怪獣のように。
あの時は森羅万象の情報を手に入れ、あらゆる事象が知識の支配下となっていた気がした。どんな未来も私の思う通りに切り開けると思っていた。全能感への陶酔を思い出すほどに、今ではそこに生じた惨敗という瑕疵が疼き、怒りに変わる。
私だって、生き返るならもっと穏やかにしたかった! なんで起きてすぐに存在を否定されないといけないの。私は間違っていない! 何が異変よ!
——その後、聞いたところでは、完全に出来上がってしまった私は能力を暴走させて、幻を乱雑に生じさせていたらしい。害のない幻影が酒宴を闊歩し、参加者一同は即興の宴会芸だと思って楽しんでいたそうだ。見かねた霊夢が止めるまで続いたらしい。
客観的な状況把握は全くできていない。一方で酔いの渦に飲まれながらも、私自身の内面で展開されていたであろう精神的な光景はむしろはっきりと覚えている。
過去に信じていたものの残滓が影絵のように踊り出し、大袈裟に手を振って見せていた。それらは私を新しい楽園へ案内してくれるかのようで、実際は別れを告げている。そう心の底では疑っている。穴だらけの障子から抜けてくる冷気が私を再び石に戻し、千個の貝へと砕け散る。半分は踏み潰され、もう半分は去り行く真実と一緒に踊って消えていく。それからもう半分は、もう半分は……と二分の一の選別を繰り返し、果てには二つの私たちだけが残る。留め具をなくした箱のようにお互い殻を開き、妖怪としての私の顔をたくさんの盃に映して、一斉に歌わせる。聴衆も一緒に歌い出す。それは水中を昇る泡の音に近い。それからみんなが波になり、渦になり、迷子になる。殻を広げ続けていたから乾いて、だんだん水が欲しくなる。貝のころの水の潤沢な海底世界を思い出す。化石のころの死を思い出す。
今、私の手のひらにあるものは何だろう? もし、また虚偽のなかで溺れたとき、私は今と同じようにやり直すことができる?
***
翌日、ただし本当に翌日なのか定かでない。気もち悪い。体の内側で毒が意思を持ってのたうち回っているようだった。立ち上がっても内臓が重しになったかのように感じるし、踏み込むたびに頭が破裂しそうに痛む。これが世に有名な宿酔い(ふつかよい)と言うらしい。
布団に寝かされている間、魔理沙は額に当てるおしぼりを時折交換しに来てくれた。
「お前に何も言わなかった私も悪かったが、だからといってあんなに飲むとは思わなかったぜ。お前、あれで萃香に気に入られてたら、飲み仲間に加えられちまうぞ」
「それは、地獄……う」
気もち悪くなるなら喋るな! と魔理沙が声を張る。大声が頭蓋骨の内側で幾重にも反響して、快感を増長させる。やはり酒は悪、陰謀の種……。
神社に酔い覚ましの薬の備蓄がなかったらしい。それに私の体のことも分からないままなので、永遠亭に直接診察に行くのが良いだろうという話になった。
宿酔いの私をどう運ぶか。霊夢と魔理沙が悩んでいると、誰とも知れない声が響いた。「紫」と二人が、声の弾み具合とは裏腹に嬉しさは感じ取れない様子で、名前を呼んだらしいことを、まぶたの奥で察知する。何かの説明があり、近づいてくる音がある。瞑っていた目を少しだけ開こうとするが、敏感になった知覚にはいまだに部屋が眩しすぎるように見え、すぐに閉じ直してしまう。そうして柔らかな声だけが聞こえてくる。
いってらっしゃい。
朦朧とした状態でも、私が物のように扱われていたのを覚えている。いや、悪いようにされていたわけではない。おそらく屋敷の従者たちが体を支え持ち、看護のための部屋に運んでもらっていた。なすがままに衣類を着替えさせられて、布団に寝かせられる。せっかく手に入れたはずの体なのに、意識を通わせてもろくに扱うこともできず、他者に苦労させていることがひどく申し訳なく感じられた。
医師と思われる女性が部屋に入り、私の体を調べる。これから改造されるのかしら、そんなことに思考を飛躍させてしまう、そのことを私は反省する。それこそ事実を無視している。自己嫌悪と痛みが頭の中で同居し、共に鳴る。
医師の問診が投げかけられ、なんとか答えようとする。
……。
「はい、そうです。頭が痛いです。ガンガンとします。体には力が入らないし、気もち悪くて……あの、お酒に毒が入っていたわけではないと思います」
……。
「体調ではなく、種族を知りたい? ええと、蜃です……その、これも霊夢さんたちから言われただけです……はい、そうです。貝だったんです私。……え、いつの貝? あの、分かりません」
……。
「欲しいもの? ……とにかく楽になりたいです。あと、暑いです」
「——すぐにお薬用意しますね」
あ……。
去ろうとする医師をこのまま見ずに送ってはいけないと、私はようやく目を開ける。視界——これも人の成りとなって獲得した奇妙なものの一つ——がぼんやりとしたところから始まって、和室が夕暮れに赤く染まる姿を映す。秋の入りの鈴虫がしずしずと鳴くのを聞きながら、夢のなかで寝入る前の記憶を反芻していたのだと気づく。
おそらく偶然だが、起き上がってまもなく医師が襖を開けて現れた。ようやく姿をはっきりと見た。赤と青の綺麗に入り混じった衣服と、長い銀髪を結えた女性の顔。
「あ、ありがとうございます」
慌てて言えたのはそれくらいだった。医師は笑顔を浮かべた。
「様子を見に来ましたが、まだ具合の悪いところはありますか?」
私は考える。体と会話する。
「あの、お腹が空きました……」
「あらあら。元気になっている証拠ですね」
食事を用意させると言って医師は下がった。襖は手のひらを差し込める程度の隙間を残していて、その奥がどこまでも続いていそうな気配に惹きつけられて、気が済むまで視線を投げかけ続けた。やがて布団に横たわって、天井を見た。初めて見る天井。
兎の従者が運んできたお粥は美味しく、なによりも食べやすかった。噛まずに喉を通り、お腹が重たく感じることもない。薬味が混ぜられているらしいが、独特の味というのは全くない。そのことを従者に伝えると、なぜかとても誇らしそうにしていた。
食事を済ませた後、再び部屋で独り横になっていた。少し暑さを覚えて、障子が風にかたかた鳴るのに惹かれるようにして、障子を開け放つ。竹林の笹鳴りがにわかに大きくなり、西日に染まった塀と池の明るさが目に染みる。外気がすうっと首筋を撫でて、清々しさのなかに長らく続いていた苦しみが微塵も混じっていないことから、薬が効いていることを実感した。
霊夢が様子を見にきた。
「大丈夫そうね」
「ええ。丁寧に看病してもらったと思う。とても腕がいいのね」
霊夢は勢い口にしかけたことを飲み込んだ様子だった。時間をかけて口を開く。
「そりゃ……永琳が月の賢者だって、魔理沙に聞いてない?」
私は驚いた。
「じゃあ、ここって……月の勢力の?」
ある意味で、私が目覚めるきっかけになった。そう付け加えようとして、止めた。次の言葉を引き取るように霊夢が話を続ける。
「まあ、そういう反応になるのも仕方ないわ。あんたは気分悪くて大変だったし、伝えなくても良かったと思うけど」
魔理沙にしては疎いわね、そう独りごちた霊夢をよそに、私は急に居所のないような気もちに襲われた。夜の帷が徐々にのしかかる庭を見ながら、明るいうちに帰りたくなった。元々話す用があったらしく、霊夢のところに医師がやってきた。
「どうする? 先に帰ってる?」
自分でも分かるほどぎこちなく頷いて、永琳の視線を感じながらそそくさと場を離れようとする。
「あの、とても楽になりました。ありがとうございました」
「良かったです。まだ目覚めたばかりで慣れないだろうから、困ったときはいつでも来てください」
「は、はい。お気遣いありがとうございます」
あなたたちが、いやあなたの知るところが変化を受け入れたとしたら、私は生まれなかったんですか?
意味のない問いであることを理解していた。ただ、それ以上に向かい合って話す勇気がなかった。医師にして、月の賢者の言う通りに廊下を進み、当然のように玄関が現れる。そういえばまた靴を忘れたな、それから靴そのものが迎えにくるのを待つように少しぼっとしている。
***
雲叢(くもむら)に巻き立つ霧は朝露の名残だ。小雨は午の刻を前にして止み、今では清々しいほどの晴空に迎えられながら、人里へ向かっていた。
博麗神社からも、人里は小さな模型のように見えていた。距離のせいとは理解しているはずが、接近すればするほど拡大され、隅々まで観察できるようになったときに実感する知らないことの多さ。
魔理沙は見送りのために同伴してくれた。里の入り口が見えてきたとき、待ち人を見つけて大きく手を振る。相手も大きな袖から腕を露わにしながら、元気よく振り返した。本居小鈴と言うらしい。
「鈴奈庵って貸本屋の娘で、店員でもある」
「へえ、貸本屋の……魔理沙さんって人里にも同い年の知り合いがいるんですね」
「当たり前だろ、人間だからな」
人里の外にいる魔法使いがそもそも人間社会に混じることもないような気がしたが、無遠慮な質問だと思って言わない。他意はなかったと伝えると、彼女はそれ以上追求せず、代わりに説明の補足をした。
「実は小鈴も、私や霊夢と同じように妖怪と関わりを持つ人間だ。お前のことも伝えてある」
「そんなこと、していいんですね」
「例外はあるってことだ。まあ黙っていてもいいけど、あいつはそれなりに勘が……いや、想像力があるから。それに、まあ、そうでなくともすぐバレる」
最後の言葉に含みを感じたが、説明がないまま流されて、私は無駄に首を傾げて終わる。地上に降り立つと、小鈴は私に駆け寄ってきて、顔をぶつけてしまいそうな勢いで見つめてきた。
「渡里ニナさん、初めまして! 妖怪なんですってね、確かに浮世離れした雰囲気を感じます!」
「小鈴、盛り上がるのはもっと人目を気にしなくていいところにしろよ……」
二、三の言付けをして、魔理沙は去った。出鼻を挫かれたような気もちのまま大人しく小鈴の後ろに付いていくが、元気よく話しかけていた彼女はすぐに口数を減らした。私が訳を尋ねる前に、彼女は私の手を掴んで駆け出した。
「どうしたの⁉」
「あなたの格好、目立ってるのよ!」
慌てて貸本屋に案内され、着物を渡される。
「あの……服だけ変えても意味ないんじゃない?」
「つべこべ言わない! それに私が落ち着かない」
勢いのままに着物を着替えさせられた。やはり人里、一筋縄ではいかないか。
人の集まるところに行きたい。できればたくさん人がいればいい。
曖昧な注文をしたと思う。できるだけたくさん、見てみたいと思ったのは事実だ。私が妖怪になった源。さらにいえば妖怪の源。
小鈴はうまく応えてくれた。里の中でも一際大きな通りで、空を広く迎える直線上に人が壁のように行き交っているなかを手を引いて案内してくれたり、しばらく静観な住宅街を練り歩いて、ある角を曲がったところで、私たちがかろうじて並んで歩けるような路地裏も人々がぎゅうぎゅう詰めになっているところにも連れていってくれた。見世物、集会、買い物、商談……様々な動機から至る所で人が集っている。
陰謀の聖地——つまり、思想と言説が集中する人間社会の中心において、真実が芽吹く瞬間を見たかった。本当は。しかし、私は見つけられなかった。あるのはごく普通の日常と言われるものだったのだろう。今日のご飯、明日の天気、今年の収穫、隣の家の情事、賭け事への下馬表。目の前には目の前のことしか織り成されていない。例えば私が見出していたような、大いなる陰謀が空を覆い隠すように忍び寄っていることなど、誰一人として気にかけている様子もなかった。
それが当たり前なのだろう。
小鈴はまるで人里の名所であるかのように、稗田の屋敷を紹介した。確かに家の造りは素人目にも素晴らしく、それだけ財力や権力も備えているという暗示も私の好奇心を刺激した。彼女はここの主人と仲が良いらしい。門で来訪を取り次いでもらうときも、相手からほとんど二つ返事で許可をもらっていた。もっとも、小鈴と違って私に対する目線に含みがあることも気づいたが。
稗田阿求の前に通された後、小鈴はしばらく席を外し、私は対面で会話することになった。目的は事前に聞いていて、新しい妖怪を記録するためのインタビューをするらしい。
私は何遍も繰り返していた自己紹介をしたが、これに対する阿求の質問は深い知識や見識を要するものばかりで、二の句を告げるのが難しかった。私なんかより、彼女の方がよっぽど蜃について詳しい。しかし彼女が引用する蜃の記録や、射程を広げて展開する妖怪の情報のどれにも私は当てはまらない。それは自分でも想定していたことだった。
むしろ私が雄弁に語れたのは、貝のころの記憶だった。今ではもはや異なるものでしかない感覚を携えて、海底を這い、砂を舐めながら食をとり、隙間のない水に揺られていた日々のこと……。話した結果、妖怪の記録者は混乱していた。
「化石には古の生き物が石になったものがあると知っていたけれど、どれくらい昔のことなの? 神話に陸の誕生が神によって行われたことが書いてあるくらいだし、こんな山奥に海生まれのあなたが出てくることとは矛盾していない。じゃあ、神が生まれる前から普通に生き物はいたということ?」
私は反応に困った。神という存在は私からあまりにも程遠い。しかし混乱のなかにも興奮が見え隠れしているようにも感じる。
「あの、楽しそうですね」
「そう見えます? まあ、記録を生業としていますから、新しい編纂対象に出会ってしまうと一つでも多く見聞きして、書き留めたくなるんです」
「あなたが記録してきたもののなかに、世界の真実はありますか?」
「難しい質問ですね。ですが、私がはっきり言えるのは、真実とは記録できるものではないでしょう」
私は面食らった。
「私が記録したものすら、私から見た一側面の事実でしかありません。努めて客観的に、多くの見聞から精査を重ねようとしていますが、それも限りあるでしょう。だから、せめて同じく知識を求める人々に偏りだけは与えないようにしたいと考えています」
「私の話はどう思いました?」
「興味深くはありますよ。外界では、話していただいた『真実』を心の底から信じている方もいるのでしょう? その背景を紐解いてみたいですね。これが事実の元に築かれているならば、世界は想像以上に恐ろしい場所なんでしょう。でも、無知に由来する場合、己をおびやかすものへの恐怖や、内なる不平不満が礎となっているのかもしれません」
興奮冷めやらぬまま刻限となって、阿求は面会をお開きとする。
「あの、私は危険度はどれくらいになるんですか?」
「あら、もしかして幻想郷縁起を読んでくれてたんですか?」それまでの厳かな雰囲気が嘘のように、稗田阿求は笑顔を咲かせた。「それは書くまで秘密ですので、発刊されたらぜひご自身で見てください。意外と評判いいんですよ? 楽しみにしていてください」
小鈴には帰り道、奇妙なやつだったでしょ? と聞かれた。友人と豪語した当人から、その人を下げるような発言にまたも驚く。驚いてばかりだ。
「妖怪のことであんなに盛り上がるの、幻想郷でも珍しい方だからね」
「……それで言うと、あなたもなのでは?」
「それもそうね」
恥ずかしそうな笑顔が眩しかった。
小鈴が持参していたおにぎりを分けてもらった。空き地の縁石に腰掛けて、程よい木漏れ日を浴びながら昼餉を取る。のどかな食事だった。朝に炊いたばかりだという米はまだ弾力を宿していて、噛むほどに味わいが深まった。
「……美味しい」
「良かった。お米の甘さと塩のしょっぱさ、この塩梅には気をつけてるのよ」
「甘さと、しょっぱさ」
私は頷いたが、味の感想をそこまで具体的に考えついたわけではない。塩気は、なんとなく分かる。甘いは、舌に当たる米粒のどこから滲み出てくるものなのか。舌というよりも、口に全体にじっくりと溶けていくような感覚が、それなのだろうか。
「あなた、蜃だって聞いたけれど、どんな能力があるの?」
小鈴は好奇心を隠せない様子で聞いてきた。
「幻を見せる……ことができます」
「えー凄い! 幻覚で人間を惑わせることができるんだ」
新鮮な反応だった。素直な驚きと、人間に害を為す内容とは裏腹に特別さに対する賛辞が滲み出ている。持ち上げられて、私の方が少し恥ずかしくなる。
「そうかな。他でも同じ説明したけれど、あまり大したことじゃなさそうだった」
「そんなことないよ」
小鈴の声色にいくらか寂しさが混じっていたの、私にしては珍しく気づいた。
「私が……そういうことができたとして、きっともっと愉快な景色が見れたんだろうなって思うと、羨ましいよ」
別に未練があるわけじゃないんだけどね。裾を払いながら立ち上がる小鈴の表情は、言葉通りに割り切っていることを実感させるものだった。私も彼女に倣って服についた砂をはたき、遅れないよう隣に並んだ。
***
守矢神社に一言挨拶しにいった方がいいぜ。魔理沙の発言の意図を汲みかねて、私は首を傾げる。些細でもこういう意思表示が会話を進めるコツなのだと、少しずつ理解してきた。魔理沙は仕方ないといったふうに説明する。
「早苗に怪我させてたのを思い出してな。地上に出てきてのうのうと過ごしてたら、あそこの神様にいつ目をつけられるか分からんからな、先に謝りにいっとけってことだ」
「でも、悪気があったわけじゃないし、妖怪が人を襲うのは当然でしょう?」
「それはお前の言う通りなんだがな、こういうのは姿勢が大事なんだよ。言わないままじゃ、相手も不要な疑いを抱き続けるわけだし。そっちの方が無駄だろ?」
私が頷くのを躊躇っていると、「そういえば早苗は現人神だぜ」と言われる。駄目押しの仕方がずるい。
品物を包んで持っていくことになり、今度は買い物のために人里へ向かう。魔理沙と、面白がって霊夢も付いてきた。服装は着替えていたが、以前より明らかに目立っている。あなたたちの方がよっぽど危険視されてるんじゃないの!
二人は奇異の視線を物ともせず、私を引っ張り回す。
「早苗はこういう華やかな見た目のお菓子とか好きよ」
「そうか? 意外とゲテモノにも手を出すぜ」
「挨拶に行くのに初手から奇抜なものを提げていくのは良くないでしょう」
「神奈子と諏訪子への気回しは普通くらいでいいと思うけどな」
「それならなおさら無難にしましょうってこと」
人間社会と離れているわりにはちゃんとしてるのね……と内心で呟く。二人の会話も、巡り巡ったお店に陳列されている贈答品の数々も、今の私には情報量が多すぎる。ああ、ただ無心に情報を享受していれば良かったあの頃に比べて、あれやこれやと考えて選ぶことの大変さと言ったら。
私を置いてけぼりにした二人の議論は二転三転したが、結局は最初の方に候補に挙げられた和菓子の詰め合わせに落ち着いた。
「ありがとう、だけど本当に大丈夫……?」
「後ろめたいことしたわけじゃないんだから、堂々としてなさい。もしいじめられたら私が行くから」
霊夢は淡々と無茶なことを告げた。
長い徒歩の果てにロープウェイに到着し、ゴンドラの中央で佇む。ここまで来るにあたって、自分から確信をもって行動したという実感がない。言われるがまま、目的地へ近づいている。
空で飛んでいかないこと。これも言われたことの一つだったが、ゴンドラに乗っている間にその理由を察する。警護にあたっていると思われる山の妖怪の目線が痛い。もし上空から向かっていたら、通行するためにいちいち交渉しなければいけなかったかもしれない。正規の手順で大人しくしていれば、向こうも様子見以上のことはしてこなかった。
ゴンドラを降りると、広大な境内に巨大な鳥居、荘厳な社が視界に飛び込んできた。道中の単調な山の景色と、小さくなっていく麓の景色からの対比もあって、印象深いことは認めないといけないだろう。ロープウェイの機械的な駆動音も離れて、参道を踏みしめる音以外には、鳥の高らかな鳴き声だけが耳に響いてくる。
用件を果たすため、私は社務所に向かおうとしていた。
「おやおや、神社に来て一番にすることは参拝じゃない?」
背後から声をかけられて、私は飛び退いた。勢いのまま振り返ると、山高の帽子を身につけた少女がいた。つばを手で持ち上げた先には、無表情な顔にまるまると見開いた目があった。背筋が冷たくなる。
「すみません。確かに神社に来たからにはそうすべきでしたね」
「いいえ、そうとも限りません」
また背後から声をかけられる。振り返るよりも前に肩に手を置かれ、真後ろで肩を組まれる。もはや身動きも取らせてもらえそうにない。
「私たちが直接迎える分には、挨拶も一緒に済ませられる。ねえ?」
「神奈子、あんたそりゃやりすぎじゃないか。追い詰められた兎みたいに震えてるじゃないか」
「敵意を丸出しだったあなたには言われたくないわね」
背後の存在は確かに身丈の大きさを感じさせるので、呼ばれた通りに八坂神奈子のことなのだろう。であれば、目の前にいるのが洩矢諏訪子に当たるか。状況を整理することはできたが、次の一手は何の手がかりもない。
「あの、東風谷早苗さんに会いにきたんですが、いらっしゃいますか……?」
素直に用件を述べる。表情を見るに、行動も内容も外していないようだった。
「ちゃんといますよ」
肩を組んできた八坂神奈子につられて、強引に後ろに向けられる。見覚えのある巫女の姿が視界に一気に飛び込んでくる。お互いの距離感に見合った緊張が漂う一方で、相手の気まずそうな笑みに少し気もちが和らいだ。
「えと、ごめんなさい。先日の異変のときは襲いかかって。当時は、あの、本当に真実が全てだと思っていて、今もまだ自分のなかで気もちの落とし所を見つけている最中なんだけど、その、仕方ないこととはいえ、ああ開き直ってるわけじゃないんだけど、勢いづいて怖い思いさせたのを謝りたくて、ここに来たの。……あの、伝わってます?」
言葉を紡ぐのに必死で、一通り話し終えてから急に不安になった。勢いのままに余計なことを言ってしまってないか。話している途中に背後の神は離れて、すでに体は軽くなっているはずだったのに、今度は自重でくらくらする。
早苗はこらえきれないように吹き出して笑った。
「ふふっ、あはは。あなたの気もちは伝わったよ」早苗は近寄ってきた。「初めて見たときは目の焦点が合ってないような怖さがあったけれど、意外と話しやすかったんだね。私も事情も知らずに攻撃してごめんなさい」
私は気が抜けてしまって、しばらく呆けていたのだと思う。それまでの剣呑さが嘘のような呆気ない和解に、ちょっと理解が追いつかなかった。早苗が言った通りのことを、私も彼女に抱いていた。
手に持っていた包みを興味深そうに眺める彼女に気づいた。
「あ、これ……お菓子は持っていった方がいいって……」
私は操り人形のように腕を持ち上げて、仕込まれていた知恵をそのまま口にしていた。早苗はお礼を言いながら包みを手に取り、後ろで様子を見守っていた二柱も砕けた様子で中身を確認しにきた。和菓子に一つずつ熱心な視線を注いでいたので、霊夢と魔理沙の判断は合っていたらしい。
謝罪を兼ねた挨拶をやり遂げて帰ろうとしたが、早苗に呼び止められた。贈り物をもらったからにはお礼をしたいと言い、妖怪の山の案内を提案された。私は断ろうとした。
「それじゃあ謝罪に来た意味がなくなってしまうわ」
「大丈夫だよ。むしろフェアじゃない気がするもの」早苗は少し考えた。「まあ、それか私が単に案内したいだけだと思ってよ。人里は割と簡単に巡ることができるけれど、妖怪の山の中に入ろうと思ったら、見ず知らずの妖怪は冷たくあしらわれる可能性が高いし。せっかくなら見てみたいでしょう?」
親切も急に与えられると、未知の奸計の一手に見える。だが、私は受け入れることにした。なんとなく。そう、なんとなく、断った方が勿体ない気がした。早苗は嬉しそうにして、山の奥にある集落まで先導した。鬱蒼とした森林が広がる山間を里の小径のように駆けていく。
奥へ向かうほど、濃密な妖気が泥濘のように体へまとわりついていく。早苗は平気な顔をしているが、私には不慣れな環境だった。流石に辛くなって、川縁で一度休憩させてもらう。手のひらで川の水を掬い、顔を洗い、喉も潤す。冷や水が内へ外へと伝って、体に蓄積していた気怠さをさっぱり洗い流していく。
「ごめん、気が利かなくて」
「大丈夫。ちょっとびっくりしたけれど、時間をくれれば大丈夫そう」
妖怪たちの集落に着いたのは、夕立を思わせる厚い雲がまばらに空を覆っているころだった。太陽が橙に染まり始め、今日を終える準備を始めている。立ち並ぶ店からも呼びかけが盛んに行われていて、惣菜屋から立ち昇る蒸気の煙が夕日をまとって頭上を華やかに彩っていた。
早苗の足取りに迷いはなく、波のようにうねる混雑を滑らかに抜けていく。鮮やかな緑髪と青白の巫女服を頼りに、私はここでも追いかける方に回る。まったく何度こういう気分を味わうのかしら。
周りの妖怪は確かに似たような種族ばかりで、おおかた天狗や河童、山童の姿が目につく。向こうから注がれる奇異の視線に、人里ではなかった感情——おそらく攻撃的な感じを覚えて、早苗が言っていたことを思い出していた。
「あったあった」
ようやく隣に並び立つと、早苗は店の前で満面の笑みを浮かべながら、ある商品を指差した。両手で運べる大きさの酒壺だった。口を布で覆われ、側面には「本日絞り」と書かれている。
「これ、くださいますか?」
「神社への献上品扱いでしょうか」
「いいえ、私個人の買い物です。こちらの知り合いと飲んでもらいたくて」
「そうですか。すぐ飲まれるなら、柄杓とお猪口もつけましょう」
「ぜひ。ありがとうございます。お代はここに置きますね」
「こちらこそ、ご贔屓にどうも」
早苗は大事そうに酒壺を抱え持ち、私は柄杓とお猪口を預かった。
「これから飲むの?」
「ええ。お酒は強いって霊夢に聞いたよ」
私は笑って誤魔化した。
急勾配の山肌から迫り出すように物見台が建てられていて、その一つに向かう。敷地の広さからか、管理されないまま放置されている建物が散在しているらしく、ここもそうらしい。斜陽を遮る影よりも暗い闇が欠けた木材の隙間からいくつも見えていたり、苔の生す床に落ち葉が満遍なく散る様からも、長く出入りがされていないことがうかがえる。
建物の外を囲う柵に背中を預けながら、静かに酒を酌み交わす。あらしぼりと呼ばれる日本酒らしく、口の中で少し泡立つ感覚が面白く、それでいて重みのある辛さが沁みた。神社に帰らなかった理由を尋ねると、神奈子様と諏訪子様に囲まれていたら落ち着いて話せないだろうという彼女の気遣いだった。
早苗は私の来歴に興味があったようで、順を追って説明していくたび、外界にいた頃の知識との紐付けを試みていた。地球の誕生や地殻変動について科学的な説明を述べたが、その割に、実は地上で自由に動き回ることができる新種のヤドカリの末裔ではないか、先史時代の文明の伝承者かもしれないと、突飛な想像も流暢に差し込まれた。
「どこまで本気で言ってるのか分からないけれど、そんなことないと思うよ」
「えーそうかしら」
酔うと夢見心地になるのかもしれない。私は手元にスペルカードを用意して、言った。
「私が手にした真実は有史時代のもの、それに比較的最近のものばかりのはずよ」
早苗は横から覗き込み、一枚一枚をじっくりと鑑賞する。『アンゴルモアの大王』に気づいたとき、大きな声をあげて反応を見せた。
「ノストラダムスの予言だよね。人類が滅びるってやつ」
「そうよ」
「懐かしいなー。外にいたころ、滅亡の話で持ちきりになった時期もあった」早苗はしみじみと酒を口に含む。「私がいたのは田舎だったから情報が少なかったけれど、学校には世間とか都会の流行りだったり、オカルトに敏感な人が絶対にいるんだよね。ある人がすごい熱量で予言のことを周囲に話して回ってて、まるでノストラダムス本人に師事しているみたいに真剣だったの。みんなで怖いとか、ありえないとか言いながら、心の奥ではちょっと信じちゃってた」
その人、今ごろどうしてるんだろう。話題をとりとめもない方向に締めくくったのが、私のためなのか、本人の思うところによるものか、分からない。
「私は信じてたよ。つい最近まで」
早苗は妙な表情をしていた。意表を突かれたようにも、気まずそうにも見える。それが可笑しく、ちょっと笑ってしまった。変なの。やだ、からかわないでよ。私は話を続ける。
「私にとって真実はただ存在さえしてくれればよかったの、きっと。いつ起きるとか、どんなふうになるとか、重要なんじゃなくて。それが万物に通底する理であれば、世界の見え方はいくらでも変えられたから。そういう揺るがないものに縋りたかった」
「なんでもありすぎて、逆に何にも分からなかったってことだよね」
「そうね。そうかも」
酒壺から柄杓で酒を掬うと、透明な滝が生まれる。足元から空に向けて舞い上がる風が酒気をまとって、甘い香りを漂わせた。私のお猪口、早苗が差し出したお猪口をそれぞれ満たして、無言にお互い杯を乾かす。
さっきの話の続きなんだけど、と早苗は切り出した。
「予言を信じた人のことを内心冷ややかな目で見ていたけれど、実は私も同じような立場だった。幽霊が見える、神様がいるって言って、不思議ちゃん扱いで収まっていたけれど、みんなからしたら困ってたんだろうな。でも、私は確かに見えていた。なのに、疑わないといけなかった。見えていないことにしないといけなかった」
早苗は前髪を撫でた。
「誰も悪くなかったんだよね。それぞれの見方で正しいことを言っていただけ」
「幽霊も妖怪も、神様も、いるのが真実でしょう?」
「どうかな? もちろんそうだと、今は絶対言うけれど、ここは幻想郷なんだよ?」
婉曲な表現を、それを早苗自身が言っていることの重みを、私は理解した。
「私ね、実はあなたがどれくらい真実をまだ信じているのか、気になってたんだ。あんなに苛烈な攻撃に言動、そう簡単にできるようには思えなかったから」
私は、考えてから言った。
「まだ抜け出せてないよ」
「うん、そんな気がした。でも、囚われているわけでもない気がする」
「……うん」
私がもしまだ化け物のままだったとしたら、眼下に広がる幻想郷の景色を眺められることはなかったのだろう。だけど、私がどういう妖怪になっていくのか、まだ分からないままだ。
物見台の内側から物音がして、私と早苗はハッと中を覗き込む。陽がすっかり傾いて、黒い影が光を切り取ったように視界を隠す。姿勢を元に戻すと、私たちの間にあった酒壺がなくなっていることに気づいた。
奇妙なことが起きたと話していると、再び物音がする。今度は目の前から、宙に空間の裂け目ができたところから。ナイトキャップを被った妖怪が身を乗り出してきた。私たちの酒壺を手に持ち、気分良さそうに振って見せた。
「あー、紫さんだったんですね。ずいぶんご機嫌じゃないですか」
「このお酒、美味しいわね。珍しく酔っちゃった」
夢うつつの彼女をからかう早苗を見ながら、私は頭の片隅で、怪しい妖怪が私を監視していたんじゃないかという思考にいた。それが、私の素なのだろうと思った。少なくとも、今の時点で。きっと私はまだ危険な存在、排斥の候補……その真偽は別にして。そして、私を枠に閉じ込めているのは、私でもあった。
***
程よい酔いが心地よい。前の失敗に怯えずにお酒を飲んで良かった。早苗の酒選びにもセンスがあったのだろう。こういう酒宴ならば、いくらやってもいい気分だ。
大きくなった気分のまま、私は博麗神社に向かっている。同時に、これからやろうとしていることを冷静に理解しながら、それでも止まらない。止まらないままでいたい。
興奮で思考が先走ってしまいそうになるのを抑えようと、神社の麓に降りて階段を登っていくことにする。下から仰ぎ見ると鳥居がとても遠く感じた。一歩ずつ、時間をかけて石段に足をかけるたびに感じる張り裂けそうな胸の痛みが、むしろ正解へ向かっているような感覚を与える。錯覚だろうか。
霊夢を呼び出して、境内で私たちは相対する。彼女を正面から見据える。威圧感をもたらす立ち姿は守矢神社でちょうど目に焼きつけていたから、心持ち同じような格好を見せつけているつもりだった。その通りに伝わったかは分からなかったけれど、霊夢は神妙な顔つきで見つめ返してきた。
「何?」
私は言った。
「弾幕勝負をして」
言葉にしてから緊張が腕の自由を奪って、握り拳を作らせる。どうしてこうも不器用なんだろうか。もう少し頭をうまく使ってから行動すればいいのに。時間だっていくらでもかけられるはずだ。
でも、そうやって考えて今があるのなら、揺らいで倒れるよりも早く、足を踏み出さないといけない。
「私も暇じゃないんだけど」
「……まあ、不戦勝でも私はいいよ。博麗の巫女が妖怪から勝負をふっかけられて、みすみす背を向けたって言いふらすけど」
「はあ。戦う雰囲気じゃなさそうだから私なりに情けはかけたつもりだけど。思ったよりバカだったみたいね」
「それか本気か、よ」
退路を絶ってでも、もう一度戦って、今度こそ勝つ。そして存在を見せつけないといけない。今の私にできることがそれぐらいしかないのだから。
霊夢は幣を振るった。空を切る音が遠くからでも聞こえる。
「そこまで言うならいいわ。条件は?」
「負けを認めるまで」
「言う前に死なないでよ?」
お互い身構えた。一瞬の静寂。そこに余分な雑音が入ることを許さないかのように、私の楔弾と巫女の札が衝突して、勝負の口火が切られた。
初動の攻撃は勢いよく切り出せたが、すぐさま防戦に転じることとなり、早くもスペルカードを切ることになった。しかし、そこで誤算があったことに気づく。スペルカードの威力が全くもって足りない。
真実の目は弾幕の密度が甘く、プレッシャーをかけられずにかわされる。強固な信奉に支えられた秘密結社の名を関する弾幕も、相手の射撃でこじ開けられてしまう。ケムトレイルは儚く霧散し、レプティリアンという非人間的な像への曖昧な理解がそのまま弾幕の不規則さに現れる。
地球平面説は巫女の素早い軌道に釣られて歪曲していく。隙間を縫って飛行する霊夢に接近を許してしまい、至近距離からの射撃を喰らった。私が地に伏すのを見下ろしながら、霊夢は大声で言い放った。
「前に戦ったときの方が手強かったわよ!」
「そんなことない!」
去勢は張ったが、その通りだ。私の方が嫌でも分かる。きっとあの時ほど、無心にこれらの力を信じられなくなっているから、弱いんだ。
人間への理解を進めようとしている今では、人工災害への過激な印象も薄まってしまった。私が新世界の秩序を担うという意気込みも、どこにあるか分からない。タルタリアンも、チョコレートリバーも、幻想郷にないならばどこにある? 外の世界に依然あるならば、陰謀になる謂れがどこにある?
もはや戦闘ではなく、子どもが喧嘩をしかけて大人にいなされているような有様だった。惨めな思いを抱きながら最後まで足掻いたが、典拠も原文も知らない予言者の言葉に縋っている自分を自覚したことが強く心に突き刺さった。ぶっきらぼうに放ち続けた大玉、その軌跡に散りばめられた小玉が宙を埋め尽くしていくところを一望して、自分から消した。
霊夢がゆっくりと距離をつめてくるのも、私は止めなかった。彼女が語りかける。
「もう降参?」
私は、頷こうとした。
「……」
しかし、縦に振り下ろした頭をそのまま持ち上げることはなかった。意思の力か、ただの意地なのか。でも、きっと、後者だ。まるで首が石になったように動かせる気がしない。代わりに手は思いのままだった。まだ攻撃を繰り出すための、自由な手。
霊夢が次の言葉を紡ごうとする前に、私は口を開いた。
「……私だって、もう少し賢く自分を証明できるなら、そうしたかった」
土のついたつま先が月明かりに輝いた。
「それでも今すぐ変われないよ。あの時感じた真実への高揚が、私の原点なんだから。これを無くして、私は渡里ニナという妖怪ではいられない」
「その先でまた破綻に行き着くのよ」
「もし、突き詰めた結果がそうなら、それでいい。そのときこそあなたに本当に退治されるときなんだと思う」
胸がおかしくなるほど動悸する。手も口も震えて、積み上げていく言葉ひとつひとつが空中で風に奪い去られてしまいそうだった。
それでも、私は確かにここにいた。遠い過去の堆積を乗り越えた、今ここにある命として、巫女の前にいた。だから。
「だからこそ、私は自分と向き合っていかないといけないの」
私は両手を突き出すように掲げる。
「今ここで、私は自分を定義する!」
小さな両の手のひらに包まれた名もないスペルカードを見せながら、私は宣言した。
「ニナ、あなた……」
霊夢は心の底から驚いているようだった。
「行くよ——!」
私は目を瞑って、手のひらの先にある存在意義へ意識を集中させた。今に至るまでも符名をずっと考え続けたが、いくら頭を使ったところで結局心に嵌まるものはなかった。
そんなとき私はどうすればいいか、それだけは良く分かっていた。ただ、ひたすらに、全てを投げ出すほどに自分を委ねればいい。前と違うのは、光るものにただ堕ちるのではなくて、私を地盤にして踏み出すこと、それを知っていること。
力が集まって弾けた。溢れ出す光が瞳を突き破り、痛みと共に全てを白に染めた。
意識がはっきりとしてきた。まだ宙には浮いていたが、疲弊しきって自力で飛んでいるわけではないと理解した。それなら、どうして? 理由を考えて、霊夢に体を支えてもらっているのだと気づくまでには時間がかかった。
「全く、無茶しすぎよ。そのまま消えられても、私は別に困らないんだからね」
開口一番、容赦のない言葉が霊夢から投げかけられる。私は苦笑する余力もない。
「……どうなったの?」
「スペルカードは発動したわ。でも、無秩序で、不格好で、攻撃とは言い難かった。まあ有り体に言えば、自爆みたいな感じ」
「自爆……じゃあ、また命を救われたってことね」
私は落胆を隠せなかったが、霊夢の解釈は違った。
「向き先が定まっていない妖力が全方位に炸裂していたというだけよ。死ぬ気でやったわけじゃないんでしょう?」
「そうね」
「そういうことだから、考え過ぎないことね。助けたのは事実だけど」
そう言って、霊夢は降下を始めた。ゆっくりと、地上に近づいていく。得るもののないまま終わりを迎えることの無力感にひっそりと押し潰されないよう耐えながら。その時、霊夢の巫女服が風に翻って、抉るように破れている跡を認めた。千切れた裾の切れ端が焦げているところが、夜のどんなものよりも黒く目立っていた。
私の視線に気づいて、霊夢は言った。
「まあ、悪くなかったよ」
私は静かに目を伏せて、それから瞼の奥の闇に自分を溶かす。巫女として、霊夢として、その両方の側面から贈られた飾り気ない言葉の余韻を何度も確かめた。今、この心にあるものを祈りと呼ぼうと思った。
***
短い間で永遠亭にまたかかることになるとは、過去の私が知ったら不甲斐ないと思うだろう。今でもそう思う。しかも事由は筋肉痛だ。妖力の源から距離を置きつつあるなかで元のような活性は得られないらしく、人間の形態に則った苦労をより強いられることになるらしい。それが医師の診察だった。
であれば、この痛みも私が選んで手に入れたものだと言えるだろう。医師は「成長痛」という言い換えを教えてくれた。成長に至るための痛み、痛みの伴う成長。湿布を貼られた腕や脚を眺めながら、かすかな達成感を思う。
「あなたは月の賢者なんですよね?」
診療室から出る際、ずっと気になっていたことを聞いた。
「ええ、そうです。改めまして、八意永琳と申します」
「あ、渡里ニナです……」
偉い身分である医師に、恭しいお辞儀を添えて畏まった挨拶をされると思っていなかった。つい反応に遅れてしまい、そもそも次の会話を考えていなかった。八意永琳はすっと会話を続けた。
「これからどちらに向かわれるのですか?」
「聖域に、一旦戻ろうかと」
「そうですか。では、追加の湿布も出しておきましょうか?」
「そこまでしてもらわなくても大丈夫です! 前も無銭で良くしてもらっているし。本当にツケにしなくてもいいんですか?」
「ええ。元々稼ぎのためにしているわけではないですから。でも、頻繁に受診が重なるようであれば、有料化することも考えようかしら」
「やっぱり負担をかけてるんですね……」
「いえ、それが全てではないわ」八意永琳は微笑んだ。「金銭であれ何であれ、ちょっとした戒めが傷病の予防になるのであれば、医師の本懐は遂げたようなものなんです」
私は何も言わず頷いた。
聖域に向かう道中、湿布のツンとした匂いが鼻腔を刺激する。嗅ぎ慣れない独特さがあったが、痛みが、成長の兆しが傍にいてくれているような気分になる。
霊夢との弾幕勝負を終えて、化石の森にしばらく戻っていなかったことをふと思い出して、帰りたくなった。それ以上のことはない、なぜかと考えてみても、衝動というべきか直感というべきか。霊夢に相談してしまったが、わざわざ聞くまでもないという呆れ調子で「行けばいいんじゃない」と答えてもらった。
体にかかる風圧は強かったが、それでも速度を落とさなかった。まるで忘れ物を取りに行くような気もちだった。その例えは、もう一つの暗示も含めて的確だろう。帰った後、またすぐそこを離れることになるだろう。
ピラミッドまで戻ると、また道祖神のお目にかかる。道神馴子は縞柄のスティックを私の方に突き出した。
「パンはパンでも食べられないパンは?」
「食べられないということは、隠蔽された曰くつきのパンに違いないわ」
「社会派な回答ね」
「正解は何なの?」
「フライパンって言うらしんだけど……知ってる?」
元の住処に一時的に帰ってきたことを告げると、馴子は似たような言い分で出入りする事例が増えたとぼやく。眉間を揉みながら話す彼女は、真剣に悩んでいる様子だった。どうやら出入りを封じることが役目であるはずなのに、自由な往来が許されつつある現状に苦しめられているらしい。在り方に悩む番を前にして共感を覚える。
私はピラミッドの奥へ進んでいく。帰ってきたとは説明したものの、本当の意味で帰ってきたことなど一度もない。洞窟はひらすらに長く、段々と深まっていく暗闇に潜り込んでいくたび、生まれるときはみな闇よりいづるのだろうなんて思う。
ようやく化石の森に着く。しばらくは奇妙な生気を帯びて蠢いている節すらあったが、異変が沈静化して、これ以上のない停滞と静謐が蘇っていた。元は私もその一部だった。ここに立ち返って、なんとなく私は自分の目的を掴むことができた。私が生まれた場所に帰りたいんだ。
妖怪になりたてだった当時の、真実に目を焼かれた私が、ここを特別な場所として認識しているわけがない。だから目的地は何の手がかりもなく探すしかなかった。少し飛び回るだけでも、化石の森がどれだけ広いか察しがつく。行きもそう思ったように、石質の枝が空間のひびのように縦横無尽に伸び、進路を複雑にした。最初は丹念に見て回ろうとして、飛んだり歩いたり、飛んだり、歩いたり……しばらくして無駄に疲弊するだけだと感じ、考え直す。
そして、私は一つ決めた。とにかく落ちていこう。できれば一番深いところまで、難しいなら行けるところまで。その途中で見つけられれば幸運で、ダメならば帰ろう。
私はゆっくりと落ちていく。自由落下で、障害物とぶつかることはないよう制御しながら等速直線運動で。底に行くほど枝に裂かれた光が拡散し、影の綾模様が迷路のように空間に刻まれる。再び暗闇に潜っていく。何度でも。
呼びかける声に振り返り、その場でゆっくりと見回す。二つの人影を見つけた。特徴的なシルエットで、ユイマンと阿梨夜であることはすぐに分かった。彼女たちは石枝が網のように広がる空中を動き慣れた様子で近づいてきた。
ユイマンは自然と私の手を掴み、怪我をいたわるかのように手の甲をさする。
「久しぶりね。ちょうど姿を見かけないと思って、心配にしてたの」
「地上に行っていただけだよ。そういえば宴会したんだよ、誘われてなかったよね」
「そうなの? 阿梨夜、知っていた?」
「あなたが鹿狩りに夢中で山から山を駆け巡っていたときでしょうね」
阿梨夜は肩をすくめた。
彼女たちは異変の余波を残さないよう、定期的に聖域内の隅々を回っているらしい。私は生まれた場所を探しに来たのだと伝えると、ユイマンは二つ返事で案内をしてくれた。
「なんで覚えてるの?」
「ここで生まれた妖怪はあなただけだから、忘れるわけないですよ」ユイマンは無邪気に笑う。「あのときは気分も良かったですから。悪いことが起きていると分かっていても、何でも心に残るくらいに浮かれてたのかも」
「そこは、ニナさんが化石として存在していた場所ということかしら」
阿梨夜の質問を、私は頷いて肯定する。
道すがら、二人のこれからについて聞く。
「どうもこうもないかな。つまり、今まで通りここで情報の浄化を行うの」
「私もユイマンと同じね。あなたが捌ききれない情報を一時凍結する程度だけど」
「私の処理能力からしたら、欠かせないことよ。助かるわ」
それでいいの?
「私たちがここを放棄しても、また幻想郷の存続に関わりますから。結局、できることを全うすることが私たちの日常を守ることにも繋がります」
阿梨夜の目線はユイマンに向いていた。それに気づかないまま、ユイマンは言った。
「阿梨夜の言う通りよ。役割や仕事に抵抗があったとしたら、もっと早くに破綻していたわ。それにちょっと前は月の都の言いなりだったけれど、もう雁字搦めではなくなったから、全然マシよ」
今度は私に問われる。妖怪として生きて、もう少し幻想郷を見ていくつもり。その先のことは、これから決めていこうと思う。時を越えて再会し、柵(しがらみ)もなくなりつつあるなかで、なお己の立場を背負い続ける彼女たちに比べれば、ちっぽけな志だと思う。それでもささやかな肯定と祝福の言葉が贈られて、胸の奥が暖かいもので満たされる。
生まれた場所では、剥き出した地層が迫り出すように聳えていた。一部が欠けていたため、そこが貝として存在していた場所だと分かる。私にとっては全てをひっくり返してしまうほどの変化だったはずなのに、全体からすればごくわずかな変化でしかない。
空白を宿す窪みに触れ、ここに残していたものがあれば全て私のなかに還ってくるように願った。指先に力が込められ、熱すら感じる。これも変化としては小さく、私の内面にしか現れないことだった。同じ姿勢で居続けたのは、数回、呼吸を繰り返す程度の時間だけだった。
「私から贈れるものは限られていますが、」阿梨夜が言った。「普遍……不変ではなく、あまねくの方の普遍を覚えていてください。あまりにありふれていて、取り沙汰にされない一方で、そうでなくては途端におかしいもの。世界を揺るぎないものにしてくれている、大事な概念の一つです」
傾聴の姿勢を保って、続きを待つ。
「例えば、真実が太陽だとするならば、普遍は光、もっと具体的に言えば日向のようなものでしょう。光がなければ私たちは暗闇のなかで何も知覚できないままですが、日の元でそんなことを気にする者は、変人か狂人を除いて、いません。同時に、光が太陽から降り注いでいると知っていても、光そのものから太陽を知ることはできません。形質ではなく本質を洞察されたいならば、なおさら」
「それは、影も普遍になるのかしら」
「その通りです。夜も、暑気も、水鏡や光合成もそうなるでしょう」
「ありきたりなことがもっとも恐ろしい、ということはないの?」
「それについては妖怪の方が専門です。あるいは人間の方がよっぽど詳しいかもしれません。人が堕落や不道徳にいとも簡単に転げ落ちてしまうことを知っていて、これを防ぐために宗教や法律、教訓、戒律あるいは予言があるのですから」
ユイマンが口を挟んだ。
「だけど、変わらないものはない。そうでしょう?」
不変の女神は肯定する。
「ただし、生きている限り」
私は生そのものが普遍になっていくことを願う。
「ありがとう、あなたたちがいなければ、ここを見つけられなかったわ」
「ええ。いつでも帰ってきてください」
「次の宴会があったときはぜひ誘って!」
私は二者に別れを告げ、その場を去った。
***
化石の森から、地上へ。暗闇から、上方でさんざめくように照る光へ手を伸ばす。手のひらの輪郭は白光に溶け、眩しさに細めた目に散乱光の虹が散らつく。それも、今は何てことのないように思う。
あの先へ行きたい。手は体ではなく、意志から伸びている。意志の源泉である私のことを、私は知っている。
肉体が、人間の形をした肉体がいまだに馴染まない。関節が回るから腕が振られる。筋肉が張るから力が込められる。意思に基づく動作は肉体機能の受動的な結果になっていた。しかし頭はこんなにも回る。どこまでも羽ばたける気がする、想像の枠を越えて、幻想の外にさえ。心身の乖離がこんなにもどかしいと知っていれば、私は人間を羨むこともなかったのだろうか。
貝のときと比べればはるかに拡張した感覚の豊かさを、言葉で説明するにはまだ難しい。感じたことをそのまま肯定する術を知らないから。まだはるか遠くの天頂の光、これが降り注ぐところに手を置くと温かく、岩肌も心なしか柔らかいように感じる。一方で影の覆うところは冷たく、より固いように感じる。これはそういうことなのだろうか? 滝のようにしなだれるウェーブ状の金髪はいつの間にか付属品のように、頭を振っていなしている。これも、そういうことなのだろうか?
足の裏が痛い。腕を持ち上げるたびに肉が張る。胸が痛い。目が乾く。呼吸する。
魔理沙は光を正面から切り裂くように進み続ける。時々後ろを振り向いて、私に声をかけたり手を振ったりする。この世の真実について思索を繰り返していた頭の中は、疲労と不安から来る安息の渇望という、原始的な衝動の前では凪いでいた。
「まだ半分も来てないぜ」
「あなたが付いてこいって言ったんだよね?」
涼しい顔をして呼びかける彼女を見て、我ながら理不尽な苛立ちを覚えずにはいられなかった。そういった激情も大したことではないように、魔理沙は不敵な笑みを浮かべて言う。
「冗談が言えるうちは余裕なんだぜ」
あなたが決めることじゃない。そう言い返す前に、魔理沙は身軽に振り返った。腰よりも高い位置で真横に伸びていた梢を、膝を折り、腰を深く沈めて潜り抜ける。私は慌てて後に続く。そういった身のこなしですら、残像に体を当てはめるように真似しないと上手くいかない。
化石の森を抜けて、ようやく飛行することができた。風の涼しさがこんなにも嬉しいものだとは思わなかった。洞窟の暗がりが長く続き、黙々と先導する魔法使いの姿が離れないように気をつける。
やがて明るいところに出ると、奇妙な格好をした道祖神に呼び止められた。魔理沙は彼女に近づいて話し始める。私はその場で周囲を見まわし、背後にあるピラミッドに驚いた。これはエジプトにあるのでは? エジプトがどこかは知らないけれど。
魔理沙たちが何度も視線を投げかけてきたので、おずおず近づく。どうやら道祖神が私について問い質していて、魔理沙が受け応えてくれていたらしい。
「ただの妖怪だって。今回の異変をきっかけに、化石の森で生まれた。それだけ」
道神馴子と呼ばれた道祖神は、魔理沙のかいつまんだ説明に納得せず、より詳細を求める。魔理沙の億劫そうな顔がどんどん顕著になっていく。
「私の役割はここから危険を出さないことなんだから。分かってよ」
「それって、私が危険ってこと?」
私が尋ねると、彼女は目を丸くした。
「当然です。だってピラミッドから出てきたんですから」
「でしたら、安心してください。私こそが危険を幻想郷から遠ざける真実の使者です」
私は笑顔を浮かべた。努めて相手の信頼を得るよう心がけた。しかし馴子は表現に困る表情(後に魔理沙に聞くところ「呆けた」というらしい)で固まり、魔理沙は頭を抱えている。
私を他所にして両者の会話が続く。そうして、外に出ることを許されたらしい。
「霊夢のところに行くんだが、お前も来るか?」
「嬉しいけど、ここの仕事があるから行けないわ」
「そっか。じゃあまたな」
「さようなら」
私も別れの挨拶をしたのに、馴子は不服そうに返事をした。
「お前はまず自己紹介の仕方から覚えないとな」
「なんで? そんなのできるに決まってるでしょう」
「名前を名乗るだけならな」
私は箒の枝が先ほどより大きく震えているのに気づく。空気は徐々に熱を帯び、生暖かい風が精神を高揚させる。やがてある一点に、止めどない光の洪水が現れる。「待って」と言いかけたが、魔理沙はあっという間に光に飛び込もうと加速していく。まるで彼女の方が閉鎖空間から解放されたくて気が急いているように見えた。
洞窟の石壁に反響していた風の音があっという間に拡散し、私から離れていく。光の洪水の源はその場所を頭上高くに移し、太陽として空に座す。洞窟内とは比べ物にならないくらい、眩しい。白い綿が横滑りしていく青い平面の巨大さ、その下に位置する大地、密集する本物の木々。
ただ、圧倒された。来た道を振り向くと、そこは暗い穴でしかなかった。
「おい、大丈夫か?」
その場に留まっていた私を気遣う声も、大気中で泡のように消えしまいそうな気がした。私は頷いた。魔理沙の呼びかけに従い、再び空を駆ける。新しい場所で、また、幻想郷の一部になる。
化石だった時間と、貝として生を得て過ごした時間とを比較したら、きっと前者の方が長いのだろう。しかし真偽を知るために、正確な数値を頼ることはできない。おそらく知る術もない。
はっきりとしていること。
貝にしろ化石にしろ、そのように過ごした時間が全て残滓もないものと化していること。手のひらで砂をすくうように、自分の手元にあったという感覚は少しもない。
それから、目覚めてから一週間すら経っていないということ。
その一週間が今では何よりも長く、確かな生きた時間としてここにあること。
気づいたときには情報(ゆめ)の中にいた。そこで初めて人間を知った。言葉を知った。貝を、海を、山を……あらゆるものが私にとって新しさになる世界に巻き込まれていた。
ぐちゃぐちゃとして、歪んだりおぼろげだったり……私にはやはり言い表すことのできない、破滅か創造のどちらの瞬間でもあるような世界にあって、私は確かな標を見つけたのだ。
真実。
数多の人間が瞳に宿している憂いや苦しみを取り除く、唯一無二の光。これを脅かすものへ、偽りない怒りと不屈の精神を呼び覚ます象徴。まだ啓かれざる人間さえも同じ苦境にある同胞として無償に受け入れ、啓蒙を絶えず実践する救い。
真実の信者たちと同じように同じものを信じた。賛美する言葉を絶やさず、私は彼ら彼女らの学徒となり、理解者となった。そして幻想郷——地図上の走り書きと変わらなかった存在——に、素晴らしき知恵がそもそも存在しないことを知り、絶望した。そこで私は初めて真実の同志となり、忘れられた楽園の背後に潜む悪を憎んで、その身を賭す覚悟で戦い抜くことを誓った。
……はずだった。結果、幻想郷でしか通用しない他愛ない弾幕ごっこで敗れた。そして信じた全ては虚偽と諭され、挙句身の危険まで案じてもらうことになった。惨めだと、思うこともなかった。汚染された瞳を祓われてから、ある意味で初めて生まれたままの状態になったのだと、私は自覚した。
当時でこそ……いや、今だってまだ納得しきれているわけではない。真実を知らないことを、いったい誰が証明できるのか? 結局のところ、まだ誰も知らないものを本当に私が知っているということも、あるのではないか? 頭の片隅に居座るこの思考を、全面的に信用していないと同時に、締め出すこともできなかった。
確信の下で築いていた思想の城壁が瞬く間に破壊されてから、湧き出した感情。哀しみや悔しさ、不安や緊張、ある種の期待や興奮など。それを感受していること自体が生きていることの証左であることを、少しずつ私のなかに落とし込んではいるつもりだ。最終的に、虚無感よりも充実感が優ったとも思う。
そういった内的変化を経て、コペルニクス的転回とはいかないまでも、徐々に自己に向ける洞察の視点も変わっていた。私も何かの仲間になりたかった。過多情報の洗礼の最中で何も疑わなかった私を回顧すれば、原点は意外とそれくらい単純な動機なのかもしれない。
「静かだな。緊張してるのか?」
魔理沙が声をかけてきた。
「こういうとき、緊張以外の感情になることがあるの?」
「わくわくしているときも静かになるもんだぜ」
「……そんな感じはしないかな」
幻想郷を直に目撃したときは確かに驚きに満ちていたが、真実と邂逅したときほどの高揚には及ばない。
「ま、難しく考える必要はないぜ」魔理沙は見透かしたように言った。「ほれ、博麗神社に着くぞ」
私は魔理沙から地上へ視線を移す。遠目からでもかなり長いと分かる石段の頂上に、博麗神社はあった。自然に囲まれてぽつんと浮く人工物のように思えたが、少しの瞬きして見直すと、むしろ周りの何よりも昔からそこにあったようにも思えてくる。また、超然とした佇まいで一線を画すようにも、幻想郷を一望できるところから傘のように全体を包み込んでいるようにも見える。もしかしたら、どう言い表したとして、そこに在ることが最適だということにしかならないのかもしれない。最終的にそう思うことにした。
境内には晩夏の日差しが降り注ぎ、赤蜻蛉が地上に降りる私たちの道を開けていく。参道の石畳に着地して、私は足の裏に痛みを感じた。
「いたっ」
小石をたまたま踏んでしまったようだった。
「ああ、そういえば何も履いてなかったな」
「人間って不便ね……」
「それを言うなら妖怪だろ? ちょっと待っとけ」
魔理沙は社務所から草鞋を持って来て、私の足元に置いた。言われるまま、足の指に緒を引っ掛けようとする。惜しいところで草鞋を蹴飛ばしてしまい、落下先でぱたりと砂煙が立つのを何度も目撃する。
痺れを切らした魔理沙がしゃがむと、私の足首を掴み、そのまま無理やり持ち上げた。私は危うく転びそうになる。
「ちょっと、危ない!」
「肩に手を置けばいいんだよ」
魔理沙がぶっきらぼうに指差した彼女自身の肩に、私は慌てて手を伸ばした。そのまま重心をかけても、まるで岩にでもなったかのように魔理沙は平静としていて、あっという間に私の足に草鞋を履かせた。乾いた草地が足裏をなぞる感触に、今更肌が粟立つ。
しばらく境内を歩いて履き慣らしている私を他所に、魔理沙は社務所の裏手に回っていく。遅れて合流すると、開け放たれた襖の奥に霊夢の姿を見つける。彼女は畳に肢体を投げ打って、だらしなく横になっていた。
「おい。私がニナを迎えに行く間に、宴会の準備をしてるんじゃなかったか」
魔理沙が怒りを訴えるも、霊夢は淡々と返事だけする。
「しようと思ったけれど、暑くてやめた」
「怒るぞ」
「もう怒ってるじゃない」
霊夢は気だるげに上体を起こし、私を一瞥した。挨拶を交わす前に魔理沙が家の中に上がり込み、霊夢の傍に座り込んで会話を続ける。草鞋をすぐに脱いでしまうことが勿体無い気がして、私は縁側に腰掛けることにした。
庭先で季節外れの蝉の声を聞いて、ああまだ夏の運び手がいるんだなと思っていると、急に知らない妖気を肌に感じる。
妖精、火車、小人、狛犬、吸血鬼……彼女たちは機敏に私を取り囲み、好奇の目線を方々から投げかけてくる。ああ、油断した。もしかして罠だったのかしら。真っ先にそんなことを考えたが、始まったのは矢継ぎ早の質問攻めだった。
あなたは何の妖怪?
——蜃です。
どんな悪いことをしたの?
——特に何も。悪いのは世界の方です。
頭の貝、食べれるの?
——食べれません。舐めるのもダメです!
霊夢や魔理沙のどんな弾幕よりも、肩身の狭い空間だった。動物の妖怪は私の匂いまで嗅ごうとしてくるが、身を捩る余裕もないほど集まってきていたので、じっとしているほかない。
彼女たちの会話の節々に散りばめられた情報を繋ぎ合わせると、みな一様に霊夢たちに倒されたことがあり、それでいて彼女をなお慕っていることが分かる。
「どうしてやられたのに、そんなに嫌いにならないの?」
——だって、強いから。楽しいから。
優しいから。単純かつ底意のない回答が返ってくる。私も同じもの、少なくともその一端にはすでに触れているので、頷いた。いずれ幻想郷で過ごしているうちに、私も人間の彼女たちをこんな屈託のない笑顔で受け入れる日が来るのだろうか。見たことのない眩しさだった。宴会の準備のため家主に中断させられるまで、私は高速で切り替わる話題のなかで目を回す。
灯籠の光が境内に敷かれた筵(むしろ)を金色に照らす。即席の宴会場はあっという間に妖怪が集まって、神社というよりも溜まり場のようになっていた。霊夢はやはり妖怪巫女みたいだ。
馴染みのある者たちが固まっていく一方で、私は片隅に置いてけぼりにされていた。芋煮をよそってくれた妖怪が近づいてきてくれたおかげで、ようやく会話の相手を見つけることができた。というより、その妖怪が人里の居酒屋で働いていることを聞いて、私の興味が振り切れたのもある。人間という存在が寄せ集まって暮らしている空間こそ、私が出会うに至った真実の故郷だったから。
人里の住民でも食いついてくれそうな真実を語って聞かせて、反応を確かめてみた。ケムトレイル、幻想郷を裏で操る妖怪、アンゴルモアの大王……どれも奇妙な噂程度でしか受け取ってもらえなかった。
「本当に、こういった話は人里で出てこないの?」
「……あはは、残念ながらお客さんから聞いたことないですね。居酒屋に来る方は話のタネとして珍聞奇譚の類は詳しいですし、夜の深酒で口も軽くなってますから、なおさらないかな」
すでに霊夢たちに散々否定されていて、期待はそこまでしていなかったはずだった。しかし、人里で過ごす妖怪から面と向かって否定されると、より落胆を感じた。私がいまだに信じていたかった部分もあったと、暗に指摘されたようにも思う。
「あ、でも幻想郷を操る妖怪って話は、あるかもしれませんね」
「本当⁉」
「ええ。あ、でも……」
「でも」
「そういうことできそうな妖怪は山ほどいるという、当たり前な話になってしまいますが」
気遣いが逆に胸を痛めるという、一見矛盾している気がする体験を初めて味わった。
それから天狗が寄ってきて、再び私は質問攻めに合う。昼間は私自体のことを聞かれることが多かったが、今回は特に異変そのものについて話題が集中する。
あなた自身が今回の異変の黒幕なんですね?
——いえ、それは違います。
今回の件はまた月が関わっていると聞いていますが、ある意味であなたは被害者だと思われます。妖怪としての尊厳を脅かされて、思うところはありませんでしたか?
——えと、つまりどういうことですか?
私はただ真実に触れて目覚めただけです。
文の偏向報道に付き合う必要ないわ。質問を変えるけど、私の確かな情報筋から、あなたが永遠亭で密会をする予定があることが分かっています。異変は次の段階に進もうとしているということですか?
——その、そんな予定はありません。
おいお前たち、お得意の取材で言質を取りたいようだが、生まれたての妖怪なんだから容赦しなさい。とりあえずこれ。酒だ。
——あ、ありがとうございます。
秘神を名乗る女性から酒の注がれた盃を受け取り、天狗と一緒に去っていった。そもそも秘神ってなんだろう。姿を見せないのが神様なのに、秘密も何もあるのだろうか。
酒を飲む。初めての飲酒。美味しい。
酒には人妖問わず、正常な思考を奪う作用があることを知っていたように、味わい深く、解放感をもたらすことも知っていた。隣にいつの間にか座っていた鬼が、空になった盃に瓢箪を傾けて次々と酒を満たす。薫香をくゆらせる清酒は唇を添えるだけで滑らかに喉を通っていく。ああ、確かに世に言われる通りだ。
「飲むと幸せな気もちになる……これこそ真実ね!」
「そうだそうだ。いいぞ、もっと飲め!」
私の飲みっぷりに鬼の伊吹萃香も手を叩いて喜んでいた。
「楽しんでるのは結構だが、ほどほどにしとけよ」
魔理沙は嗜めてきたが、酒を片手に頬を赤らめて笑いかけてくる様子に今の私と同じような幸福感を見出す。それに発言とは矛盾して、私の空いた盃に徳利を傾けもする。私にはそれが無性に嬉しく思えて、また酒を煽るのだった。
伊吹萃香は高笑いをして、私の飲みっぷりを褒めた。
「あんた、元は貝だったけど。妖怪になってまだ間もないんだってな」
「そうです」
「せっかく生まれ変わったんだ。やりたいこととか、あるのかい?」
質問されるはるか前から、私自身が考えていたことだった。答えはまだない。悩んでいる姿から察して、萃香は「まあ、これからか」と呟く。
「ここにいる皆さんは、そういうものがあるんですか?」
「どうかな。適当に楽しく生きていられれば、何でもいいと思うよ。私は美味い酒が飲めればそれでいい」
そう言って湧き出る水のように酒が用意されるので、私は次々と飲み干す。だんだん、霊夢たちとの戦いに至る前の、生まれたときの高揚が酔いによって体の奥から這い出てくる。まるで深い眠りから目覚めた怪獣のように。
あの時は森羅万象の情報を手に入れ、あらゆる事象が知識の支配下となっていた気がした。どんな未来も私の思う通りに切り開けると思っていた。全能感への陶酔を思い出すほどに、今ではそこに生じた惨敗という瑕疵が疼き、怒りに変わる。
私だって、生き返るならもっと穏やかにしたかった! なんで起きてすぐに存在を否定されないといけないの。私は間違っていない! 何が異変よ!
——その後、聞いたところでは、完全に出来上がってしまった私は能力を暴走させて、幻を乱雑に生じさせていたらしい。害のない幻影が酒宴を闊歩し、参加者一同は即興の宴会芸だと思って楽しんでいたそうだ。見かねた霊夢が止めるまで続いたらしい。
客観的な状況把握は全くできていない。一方で酔いの渦に飲まれながらも、私自身の内面で展開されていたであろう精神的な光景はむしろはっきりと覚えている。
過去に信じていたものの残滓が影絵のように踊り出し、大袈裟に手を振って見せていた。それらは私を新しい楽園へ案内してくれるかのようで、実際は別れを告げている。そう心の底では疑っている。穴だらけの障子から抜けてくる冷気が私を再び石に戻し、千個の貝へと砕け散る。半分は踏み潰され、もう半分は去り行く真実と一緒に踊って消えていく。それからもう半分は、もう半分は……と二分の一の選別を繰り返し、果てには二つの私たちだけが残る。留め具をなくした箱のようにお互い殻を開き、妖怪としての私の顔をたくさんの盃に映して、一斉に歌わせる。聴衆も一緒に歌い出す。それは水中を昇る泡の音に近い。それからみんなが波になり、渦になり、迷子になる。殻を広げ続けていたから乾いて、だんだん水が欲しくなる。貝のころの水の潤沢な海底世界を思い出す。化石のころの死を思い出す。
今、私の手のひらにあるものは何だろう? もし、また虚偽のなかで溺れたとき、私は今と同じようにやり直すことができる?
***
翌日、ただし本当に翌日なのか定かでない。気もち悪い。体の内側で毒が意思を持ってのたうち回っているようだった。立ち上がっても内臓が重しになったかのように感じるし、踏み込むたびに頭が破裂しそうに痛む。これが世に有名な宿酔い(ふつかよい)と言うらしい。
布団に寝かされている間、魔理沙は額に当てるおしぼりを時折交換しに来てくれた。
「お前に何も言わなかった私も悪かったが、だからといってあんなに飲むとは思わなかったぜ。お前、あれで萃香に気に入られてたら、飲み仲間に加えられちまうぞ」
「それは、地獄……う」
気もち悪くなるなら喋るな! と魔理沙が声を張る。大声が頭蓋骨の内側で幾重にも反響して、快感を増長させる。やはり酒は悪、陰謀の種……。
神社に酔い覚ましの薬の備蓄がなかったらしい。それに私の体のことも分からないままなので、永遠亭に直接診察に行くのが良いだろうという話になった。
宿酔いの私をどう運ぶか。霊夢と魔理沙が悩んでいると、誰とも知れない声が響いた。「紫」と二人が、声の弾み具合とは裏腹に嬉しさは感じ取れない様子で、名前を呼んだらしいことを、まぶたの奥で察知する。何かの説明があり、近づいてくる音がある。瞑っていた目を少しだけ開こうとするが、敏感になった知覚にはいまだに部屋が眩しすぎるように見え、すぐに閉じ直してしまう。そうして柔らかな声だけが聞こえてくる。
いってらっしゃい。
朦朧とした状態でも、私が物のように扱われていたのを覚えている。いや、悪いようにされていたわけではない。おそらく屋敷の従者たちが体を支え持ち、看護のための部屋に運んでもらっていた。なすがままに衣類を着替えさせられて、布団に寝かせられる。せっかく手に入れたはずの体なのに、意識を通わせてもろくに扱うこともできず、他者に苦労させていることがひどく申し訳なく感じられた。
医師と思われる女性が部屋に入り、私の体を調べる。これから改造されるのかしら、そんなことに思考を飛躍させてしまう、そのことを私は反省する。それこそ事実を無視している。自己嫌悪と痛みが頭の中で同居し、共に鳴る。
医師の問診が投げかけられ、なんとか答えようとする。
……。
「はい、そうです。頭が痛いです。ガンガンとします。体には力が入らないし、気もち悪くて……あの、お酒に毒が入っていたわけではないと思います」
……。
「体調ではなく、種族を知りたい? ええと、蜃です……その、これも霊夢さんたちから言われただけです……はい、そうです。貝だったんです私。……え、いつの貝? あの、分かりません」
……。
「欲しいもの? ……とにかく楽になりたいです。あと、暑いです」
「——すぐにお薬用意しますね」
あ……。
去ろうとする医師をこのまま見ずに送ってはいけないと、私はようやく目を開ける。視界——これも人の成りとなって獲得した奇妙なものの一つ——がぼんやりとしたところから始まって、和室が夕暮れに赤く染まる姿を映す。秋の入りの鈴虫がしずしずと鳴くのを聞きながら、夢のなかで寝入る前の記憶を反芻していたのだと気づく。
おそらく偶然だが、起き上がってまもなく医師が襖を開けて現れた。ようやく姿をはっきりと見た。赤と青の綺麗に入り混じった衣服と、長い銀髪を結えた女性の顔。
「あ、ありがとうございます」
慌てて言えたのはそれくらいだった。医師は笑顔を浮かべた。
「様子を見に来ましたが、まだ具合の悪いところはありますか?」
私は考える。体と会話する。
「あの、お腹が空きました……」
「あらあら。元気になっている証拠ですね」
食事を用意させると言って医師は下がった。襖は手のひらを差し込める程度の隙間を残していて、その奥がどこまでも続いていそうな気配に惹きつけられて、気が済むまで視線を投げかけ続けた。やがて布団に横たわって、天井を見た。初めて見る天井。
兎の従者が運んできたお粥は美味しく、なによりも食べやすかった。噛まずに喉を通り、お腹が重たく感じることもない。薬味が混ぜられているらしいが、独特の味というのは全くない。そのことを従者に伝えると、なぜかとても誇らしそうにしていた。
食事を済ませた後、再び部屋で独り横になっていた。少し暑さを覚えて、障子が風にかたかた鳴るのに惹かれるようにして、障子を開け放つ。竹林の笹鳴りがにわかに大きくなり、西日に染まった塀と池の明るさが目に染みる。外気がすうっと首筋を撫でて、清々しさのなかに長らく続いていた苦しみが微塵も混じっていないことから、薬が効いていることを実感した。
霊夢が様子を見にきた。
「大丈夫そうね」
「ええ。丁寧に看病してもらったと思う。とても腕がいいのね」
霊夢は勢い口にしかけたことを飲み込んだ様子だった。時間をかけて口を開く。
「そりゃ……永琳が月の賢者だって、魔理沙に聞いてない?」
私は驚いた。
「じゃあ、ここって……月の勢力の?」
ある意味で、私が目覚めるきっかけになった。そう付け加えようとして、止めた。次の言葉を引き取るように霊夢が話を続ける。
「まあ、そういう反応になるのも仕方ないわ。あんたは気分悪くて大変だったし、伝えなくても良かったと思うけど」
魔理沙にしては疎いわね、そう独りごちた霊夢をよそに、私は急に居所のないような気もちに襲われた。夜の帷が徐々にのしかかる庭を見ながら、明るいうちに帰りたくなった。元々話す用があったらしく、霊夢のところに医師がやってきた。
「どうする? 先に帰ってる?」
自分でも分かるほどぎこちなく頷いて、永琳の視線を感じながらそそくさと場を離れようとする。
「あの、とても楽になりました。ありがとうございました」
「良かったです。まだ目覚めたばかりで慣れないだろうから、困ったときはいつでも来てください」
「は、はい。お気遣いありがとうございます」
あなたたちが、いやあなたの知るところが変化を受け入れたとしたら、私は生まれなかったんですか?
意味のない問いであることを理解していた。ただ、それ以上に向かい合って話す勇気がなかった。医師にして、月の賢者の言う通りに廊下を進み、当然のように玄関が現れる。そういえばまた靴を忘れたな、それから靴そのものが迎えにくるのを待つように少しぼっとしている。
***
雲叢(くもむら)に巻き立つ霧は朝露の名残だ。小雨は午の刻を前にして止み、今では清々しいほどの晴空に迎えられながら、人里へ向かっていた。
博麗神社からも、人里は小さな模型のように見えていた。距離のせいとは理解しているはずが、接近すればするほど拡大され、隅々まで観察できるようになったときに実感する知らないことの多さ。
魔理沙は見送りのために同伴してくれた。里の入り口が見えてきたとき、待ち人を見つけて大きく手を振る。相手も大きな袖から腕を露わにしながら、元気よく振り返した。本居小鈴と言うらしい。
「鈴奈庵って貸本屋の娘で、店員でもある」
「へえ、貸本屋の……魔理沙さんって人里にも同い年の知り合いがいるんですね」
「当たり前だろ、人間だからな」
人里の外にいる魔法使いがそもそも人間社会に混じることもないような気がしたが、無遠慮な質問だと思って言わない。他意はなかったと伝えると、彼女はそれ以上追求せず、代わりに説明の補足をした。
「実は小鈴も、私や霊夢と同じように妖怪と関わりを持つ人間だ。お前のことも伝えてある」
「そんなこと、していいんですね」
「例外はあるってことだ。まあ黙っていてもいいけど、あいつはそれなりに勘が……いや、想像力があるから。それに、まあ、そうでなくともすぐバレる」
最後の言葉に含みを感じたが、説明がないまま流されて、私は無駄に首を傾げて終わる。地上に降り立つと、小鈴は私に駆け寄ってきて、顔をぶつけてしまいそうな勢いで見つめてきた。
「渡里ニナさん、初めまして! 妖怪なんですってね、確かに浮世離れした雰囲気を感じます!」
「小鈴、盛り上がるのはもっと人目を気にしなくていいところにしろよ……」
二、三の言付けをして、魔理沙は去った。出鼻を挫かれたような気もちのまま大人しく小鈴の後ろに付いていくが、元気よく話しかけていた彼女はすぐに口数を減らした。私が訳を尋ねる前に、彼女は私の手を掴んで駆け出した。
「どうしたの⁉」
「あなたの格好、目立ってるのよ!」
慌てて貸本屋に案内され、着物を渡される。
「あの……服だけ変えても意味ないんじゃない?」
「つべこべ言わない! それに私が落ち着かない」
勢いのままに着物を着替えさせられた。やはり人里、一筋縄ではいかないか。
人の集まるところに行きたい。できればたくさん人がいればいい。
曖昧な注文をしたと思う。できるだけたくさん、見てみたいと思ったのは事実だ。私が妖怪になった源。さらにいえば妖怪の源。
小鈴はうまく応えてくれた。里の中でも一際大きな通りで、空を広く迎える直線上に人が壁のように行き交っているなかを手を引いて案内してくれたり、しばらく静観な住宅街を練り歩いて、ある角を曲がったところで、私たちがかろうじて並んで歩けるような路地裏も人々がぎゅうぎゅう詰めになっているところにも連れていってくれた。見世物、集会、買い物、商談……様々な動機から至る所で人が集っている。
陰謀の聖地——つまり、思想と言説が集中する人間社会の中心において、真実が芽吹く瞬間を見たかった。本当は。しかし、私は見つけられなかった。あるのはごく普通の日常と言われるものだったのだろう。今日のご飯、明日の天気、今年の収穫、隣の家の情事、賭け事への下馬表。目の前には目の前のことしか織り成されていない。例えば私が見出していたような、大いなる陰謀が空を覆い隠すように忍び寄っていることなど、誰一人として気にかけている様子もなかった。
それが当たり前なのだろう。
小鈴はまるで人里の名所であるかのように、稗田の屋敷を紹介した。確かに家の造りは素人目にも素晴らしく、それだけ財力や権力も備えているという暗示も私の好奇心を刺激した。彼女はここの主人と仲が良いらしい。門で来訪を取り次いでもらうときも、相手からほとんど二つ返事で許可をもらっていた。もっとも、小鈴と違って私に対する目線に含みがあることも気づいたが。
稗田阿求の前に通された後、小鈴はしばらく席を外し、私は対面で会話することになった。目的は事前に聞いていて、新しい妖怪を記録するためのインタビューをするらしい。
私は何遍も繰り返していた自己紹介をしたが、これに対する阿求の質問は深い知識や見識を要するものばかりで、二の句を告げるのが難しかった。私なんかより、彼女の方がよっぽど蜃について詳しい。しかし彼女が引用する蜃の記録や、射程を広げて展開する妖怪の情報のどれにも私は当てはまらない。それは自分でも想定していたことだった。
むしろ私が雄弁に語れたのは、貝のころの記憶だった。今ではもはや異なるものでしかない感覚を携えて、海底を這い、砂を舐めながら食をとり、隙間のない水に揺られていた日々のこと……。話した結果、妖怪の記録者は混乱していた。
「化石には古の生き物が石になったものがあると知っていたけれど、どれくらい昔のことなの? 神話に陸の誕生が神によって行われたことが書いてあるくらいだし、こんな山奥に海生まれのあなたが出てくることとは矛盾していない。じゃあ、神が生まれる前から普通に生き物はいたということ?」
私は反応に困った。神という存在は私からあまりにも程遠い。しかし混乱のなかにも興奮が見え隠れしているようにも感じる。
「あの、楽しそうですね」
「そう見えます? まあ、記録を生業としていますから、新しい編纂対象に出会ってしまうと一つでも多く見聞きして、書き留めたくなるんです」
「あなたが記録してきたもののなかに、世界の真実はありますか?」
「難しい質問ですね。ですが、私がはっきり言えるのは、真実とは記録できるものではないでしょう」
私は面食らった。
「私が記録したものすら、私から見た一側面の事実でしかありません。努めて客観的に、多くの見聞から精査を重ねようとしていますが、それも限りあるでしょう。だから、せめて同じく知識を求める人々に偏りだけは与えないようにしたいと考えています」
「私の話はどう思いました?」
「興味深くはありますよ。外界では、話していただいた『真実』を心の底から信じている方もいるのでしょう? その背景を紐解いてみたいですね。これが事実の元に築かれているならば、世界は想像以上に恐ろしい場所なんでしょう。でも、無知に由来する場合、己をおびやかすものへの恐怖や、内なる不平不満が礎となっているのかもしれません」
興奮冷めやらぬまま刻限となって、阿求は面会をお開きとする。
「あの、私は危険度はどれくらいになるんですか?」
「あら、もしかして幻想郷縁起を読んでくれてたんですか?」それまでの厳かな雰囲気が嘘のように、稗田阿求は笑顔を咲かせた。「それは書くまで秘密ですので、発刊されたらぜひご自身で見てください。意外と評判いいんですよ? 楽しみにしていてください」
小鈴には帰り道、奇妙なやつだったでしょ? と聞かれた。友人と豪語した当人から、その人を下げるような発言にまたも驚く。驚いてばかりだ。
「妖怪のことであんなに盛り上がるの、幻想郷でも珍しい方だからね」
「……それで言うと、あなたもなのでは?」
「それもそうね」
恥ずかしそうな笑顔が眩しかった。
小鈴が持参していたおにぎりを分けてもらった。空き地の縁石に腰掛けて、程よい木漏れ日を浴びながら昼餉を取る。のどかな食事だった。朝に炊いたばかりだという米はまだ弾力を宿していて、噛むほどに味わいが深まった。
「……美味しい」
「良かった。お米の甘さと塩のしょっぱさ、この塩梅には気をつけてるのよ」
「甘さと、しょっぱさ」
私は頷いたが、味の感想をそこまで具体的に考えついたわけではない。塩気は、なんとなく分かる。甘いは、舌に当たる米粒のどこから滲み出てくるものなのか。舌というよりも、口に全体にじっくりと溶けていくような感覚が、それなのだろうか。
「あなた、蜃だって聞いたけれど、どんな能力があるの?」
小鈴は好奇心を隠せない様子で聞いてきた。
「幻を見せる……ことができます」
「えー凄い! 幻覚で人間を惑わせることができるんだ」
新鮮な反応だった。素直な驚きと、人間に害を為す内容とは裏腹に特別さに対する賛辞が滲み出ている。持ち上げられて、私の方が少し恥ずかしくなる。
「そうかな。他でも同じ説明したけれど、あまり大したことじゃなさそうだった」
「そんなことないよ」
小鈴の声色にいくらか寂しさが混じっていたの、私にしては珍しく気づいた。
「私が……そういうことができたとして、きっともっと愉快な景色が見れたんだろうなって思うと、羨ましいよ」
別に未練があるわけじゃないんだけどね。裾を払いながら立ち上がる小鈴の表情は、言葉通りに割り切っていることを実感させるものだった。私も彼女に倣って服についた砂をはたき、遅れないよう隣に並んだ。
***
守矢神社に一言挨拶しにいった方がいいぜ。魔理沙の発言の意図を汲みかねて、私は首を傾げる。些細でもこういう意思表示が会話を進めるコツなのだと、少しずつ理解してきた。魔理沙は仕方ないといったふうに説明する。
「早苗に怪我させてたのを思い出してな。地上に出てきてのうのうと過ごしてたら、あそこの神様にいつ目をつけられるか分からんからな、先に謝りにいっとけってことだ」
「でも、悪気があったわけじゃないし、妖怪が人を襲うのは当然でしょう?」
「それはお前の言う通りなんだがな、こういうのは姿勢が大事なんだよ。言わないままじゃ、相手も不要な疑いを抱き続けるわけだし。そっちの方が無駄だろ?」
私が頷くのを躊躇っていると、「そういえば早苗は現人神だぜ」と言われる。駄目押しの仕方がずるい。
品物を包んで持っていくことになり、今度は買い物のために人里へ向かう。魔理沙と、面白がって霊夢も付いてきた。服装は着替えていたが、以前より明らかに目立っている。あなたたちの方がよっぽど危険視されてるんじゃないの!
二人は奇異の視線を物ともせず、私を引っ張り回す。
「早苗はこういう華やかな見た目のお菓子とか好きよ」
「そうか? 意外とゲテモノにも手を出すぜ」
「挨拶に行くのに初手から奇抜なものを提げていくのは良くないでしょう」
「神奈子と諏訪子への気回しは普通くらいでいいと思うけどな」
「それならなおさら無難にしましょうってこと」
人間社会と離れているわりにはちゃんとしてるのね……と内心で呟く。二人の会話も、巡り巡ったお店に陳列されている贈答品の数々も、今の私には情報量が多すぎる。ああ、ただ無心に情報を享受していれば良かったあの頃に比べて、あれやこれやと考えて選ぶことの大変さと言ったら。
私を置いてけぼりにした二人の議論は二転三転したが、結局は最初の方に候補に挙げられた和菓子の詰め合わせに落ち着いた。
「ありがとう、だけど本当に大丈夫……?」
「後ろめたいことしたわけじゃないんだから、堂々としてなさい。もしいじめられたら私が行くから」
霊夢は淡々と無茶なことを告げた。
長い徒歩の果てにロープウェイに到着し、ゴンドラの中央で佇む。ここまで来るにあたって、自分から確信をもって行動したという実感がない。言われるがまま、目的地へ近づいている。
空で飛んでいかないこと。これも言われたことの一つだったが、ゴンドラに乗っている間にその理由を察する。警護にあたっていると思われる山の妖怪の目線が痛い。もし上空から向かっていたら、通行するためにいちいち交渉しなければいけなかったかもしれない。正規の手順で大人しくしていれば、向こうも様子見以上のことはしてこなかった。
ゴンドラを降りると、広大な境内に巨大な鳥居、荘厳な社が視界に飛び込んできた。道中の単調な山の景色と、小さくなっていく麓の景色からの対比もあって、印象深いことは認めないといけないだろう。ロープウェイの機械的な駆動音も離れて、参道を踏みしめる音以外には、鳥の高らかな鳴き声だけが耳に響いてくる。
用件を果たすため、私は社務所に向かおうとしていた。
「おやおや、神社に来て一番にすることは参拝じゃない?」
背後から声をかけられて、私は飛び退いた。勢いのまま振り返ると、山高の帽子を身につけた少女がいた。つばを手で持ち上げた先には、無表情な顔にまるまると見開いた目があった。背筋が冷たくなる。
「すみません。確かに神社に来たからにはそうすべきでしたね」
「いいえ、そうとも限りません」
また背後から声をかけられる。振り返るよりも前に肩に手を置かれ、真後ろで肩を組まれる。もはや身動きも取らせてもらえそうにない。
「私たちが直接迎える分には、挨拶も一緒に済ませられる。ねえ?」
「神奈子、あんたそりゃやりすぎじゃないか。追い詰められた兎みたいに震えてるじゃないか」
「敵意を丸出しだったあなたには言われたくないわね」
背後の存在は確かに身丈の大きさを感じさせるので、呼ばれた通りに八坂神奈子のことなのだろう。であれば、目の前にいるのが洩矢諏訪子に当たるか。状況を整理することはできたが、次の一手は何の手がかりもない。
「あの、東風谷早苗さんに会いにきたんですが、いらっしゃいますか……?」
素直に用件を述べる。表情を見るに、行動も内容も外していないようだった。
「ちゃんといますよ」
肩を組んできた八坂神奈子につられて、強引に後ろに向けられる。見覚えのある巫女の姿が視界に一気に飛び込んでくる。お互いの距離感に見合った緊張が漂う一方で、相手の気まずそうな笑みに少し気もちが和らいだ。
「えと、ごめんなさい。先日の異変のときは襲いかかって。当時は、あの、本当に真実が全てだと思っていて、今もまだ自分のなかで気もちの落とし所を見つけている最中なんだけど、その、仕方ないこととはいえ、ああ開き直ってるわけじゃないんだけど、勢いづいて怖い思いさせたのを謝りたくて、ここに来たの。……あの、伝わってます?」
言葉を紡ぐのに必死で、一通り話し終えてから急に不安になった。勢いのままに余計なことを言ってしまってないか。話している途中に背後の神は離れて、すでに体は軽くなっているはずだったのに、今度は自重でくらくらする。
早苗はこらえきれないように吹き出して笑った。
「ふふっ、あはは。あなたの気もちは伝わったよ」早苗は近寄ってきた。「初めて見たときは目の焦点が合ってないような怖さがあったけれど、意外と話しやすかったんだね。私も事情も知らずに攻撃してごめんなさい」
私は気が抜けてしまって、しばらく呆けていたのだと思う。それまでの剣呑さが嘘のような呆気ない和解に、ちょっと理解が追いつかなかった。早苗が言った通りのことを、私も彼女に抱いていた。
手に持っていた包みを興味深そうに眺める彼女に気づいた。
「あ、これ……お菓子は持っていった方がいいって……」
私は操り人形のように腕を持ち上げて、仕込まれていた知恵をそのまま口にしていた。早苗はお礼を言いながら包みを手に取り、後ろで様子を見守っていた二柱も砕けた様子で中身を確認しにきた。和菓子に一つずつ熱心な視線を注いでいたので、霊夢と魔理沙の判断は合っていたらしい。
謝罪を兼ねた挨拶をやり遂げて帰ろうとしたが、早苗に呼び止められた。贈り物をもらったからにはお礼をしたいと言い、妖怪の山の案内を提案された。私は断ろうとした。
「それじゃあ謝罪に来た意味がなくなってしまうわ」
「大丈夫だよ。むしろフェアじゃない気がするもの」早苗は少し考えた。「まあ、それか私が単に案内したいだけだと思ってよ。人里は割と簡単に巡ることができるけれど、妖怪の山の中に入ろうと思ったら、見ず知らずの妖怪は冷たくあしらわれる可能性が高いし。せっかくなら見てみたいでしょう?」
親切も急に与えられると、未知の奸計の一手に見える。だが、私は受け入れることにした。なんとなく。そう、なんとなく、断った方が勿体ない気がした。早苗は嬉しそうにして、山の奥にある集落まで先導した。鬱蒼とした森林が広がる山間を里の小径のように駆けていく。
奥へ向かうほど、濃密な妖気が泥濘のように体へまとわりついていく。早苗は平気な顔をしているが、私には不慣れな環境だった。流石に辛くなって、川縁で一度休憩させてもらう。手のひらで川の水を掬い、顔を洗い、喉も潤す。冷や水が内へ外へと伝って、体に蓄積していた気怠さをさっぱり洗い流していく。
「ごめん、気が利かなくて」
「大丈夫。ちょっとびっくりしたけれど、時間をくれれば大丈夫そう」
妖怪たちの集落に着いたのは、夕立を思わせる厚い雲がまばらに空を覆っているころだった。太陽が橙に染まり始め、今日を終える準備を始めている。立ち並ぶ店からも呼びかけが盛んに行われていて、惣菜屋から立ち昇る蒸気の煙が夕日をまとって頭上を華やかに彩っていた。
早苗の足取りに迷いはなく、波のようにうねる混雑を滑らかに抜けていく。鮮やかな緑髪と青白の巫女服を頼りに、私はここでも追いかける方に回る。まったく何度こういう気分を味わうのかしら。
周りの妖怪は確かに似たような種族ばかりで、おおかた天狗や河童、山童の姿が目につく。向こうから注がれる奇異の視線に、人里ではなかった感情——おそらく攻撃的な感じを覚えて、早苗が言っていたことを思い出していた。
「あったあった」
ようやく隣に並び立つと、早苗は店の前で満面の笑みを浮かべながら、ある商品を指差した。両手で運べる大きさの酒壺だった。口を布で覆われ、側面には「本日絞り」と書かれている。
「これ、くださいますか?」
「神社への献上品扱いでしょうか」
「いいえ、私個人の買い物です。こちらの知り合いと飲んでもらいたくて」
「そうですか。すぐ飲まれるなら、柄杓とお猪口もつけましょう」
「ぜひ。ありがとうございます。お代はここに置きますね」
「こちらこそ、ご贔屓にどうも」
早苗は大事そうに酒壺を抱え持ち、私は柄杓とお猪口を預かった。
「これから飲むの?」
「ええ。お酒は強いって霊夢に聞いたよ」
私は笑って誤魔化した。
急勾配の山肌から迫り出すように物見台が建てられていて、その一つに向かう。敷地の広さからか、管理されないまま放置されている建物が散在しているらしく、ここもそうらしい。斜陽を遮る影よりも暗い闇が欠けた木材の隙間からいくつも見えていたり、苔の生す床に落ち葉が満遍なく散る様からも、長く出入りがされていないことがうかがえる。
建物の外を囲う柵に背中を預けながら、静かに酒を酌み交わす。あらしぼりと呼ばれる日本酒らしく、口の中で少し泡立つ感覚が面白く、それでいて重みのある辛さが沁みた。神社に帰らなかった理由を尋ねると、神奈子様と諏訪子様に囲まれていたら落ち着いて話せないだろうという彼女の気遣いだった。
早苗は私の来歴に興味があったようで、順を追って説明していくたび、外界にいた頃の知識との紐付けを試みていた。地球の誕生や地殻変動について科学的な説明を述べたが、その割に、実は地上で自由に動き回ることができる新種のヤドカリの末裔ではないか、先史時代の文明の伝承者かもしれないと、突飛な想像も流暢に差し込まれた。
「どこまで本気で言ってるのか分からないけれど、そんなことないと思うよ」
「えーそうかしら」
酔うと夢見心地になるのかもしれない。私は手元にスペルカードを用意して、言った。
「私が手にした真実は有史時代のもの、それに比較的最近のものばかりのはずよ」
早苗は横から覗き込み、一枚一枚をじっくりと鑑賞する。『アンゴルモアの大王』に気づいたとき、大きな声をあげて反応を見せた。
「ノストラダムスの予言だよね。人類が滅びるってやつ」
「そうよ」
「懐かしいなー。外にいたころ、滅亡の話で持ちきりになった時期もあった」早苗はしみじみと酒を口に含む。「私がいたのは田舎だったから情報が少なかったけれど、学校には世間とか都会の流行りだったり、オカルトに敏感な人が絶対にいるんだよね。ある人がすごい熱量で予言のことを周囲に話して回ってて、まるでノストラダムス本人に師事しているみたいに真剣だったの。みんなで怖いとか、ありえないとか言いながら、心の奥ではちょっと信じちゃってた」
その人、今ごろどうしてるんだろう。話題をとりとめもない方向に締めくくったのが、私のためなのか、本人の思うところによるものか、分からない。
「私は信じてたよ。つい最近まで」
早苗は妙な表情をしていた。意表を突かれたようにも、気まずそうにも見える。それが可笑しく、ちょっと笑ってしまった。変なの。やだ、からかわないでよ。私は話を続ける。
「私にとって真実はただ存在さえしてくれればよかったの、きっと。いつ起きるとか、どんなふうになるとか、重要なんじゃなくて。それが万物に通底する理であれば、世界の見え方はいくらでも変えられたから。そういう揺るがないものに縋りたかった」
「なんでもありすぎて、逆に何にも分からなかったってことだよね」
「そうね。そうかも」
酒壺から柄杓で酒を掬うと、透明な滝が生まれる。足元から空に向けて舞い上がる風が酒気をまとって、甘い香りを漂わせた。私のお猪口、早苗が差し出したお猪口をそれぞれ満たして、無言にお互い杯を乾かす。
さっきの話の続きなんだけど、と早苗は切り出した。
「予言を信じた人のことを内心冷ややかな目で見ていたけれど、実は私も同じような立場だった。幽霊が見える、神様がいるって言って、不思議ちゃん扱いで収まっていたけれど、みんなからしたら困ってたんだろうな。でも、私は確かに見えていた。なのに、疑わないといけなかった。見えていないことにしないといけなかった」
早苗は前髪を撫でた。
「誰も悪くなかったんだよね。それぞれの見方で正しいことを言っていただけ」
「幽霊も妖怪も、神様も、いるのが真実でしょう?」
「どうかな? もちろんそうだと、今は絶対言うけれど、ここは幻想郷なんだよ?」
婉曲な表現を、それを早苗自身が言っていることの重みを、私は理解した。
「私ね、実はあなたがどれくらい真実をまだ信じているのか、気になってたんだ。あんなに苛烈な攻撃に言動、そう簡単にできるようには思えなかったから」
私は、考えてから言った。
「まだ抜け出せてないよ」
「うん、そんな気がした。でも、囚われているわけでもない気がする」
「……うん」
私がもしまだ化け物のままだったとしたら、眼下に広がる幻想郷の景色を眺められることはなかったのだろう。だけど、私がどういう妖怪になっていくのか、まだ分からないままだ。
物見台の内側から物音がして、私と早苗はハッと中を覗き込む。陽がすっかり傾いて、黒い影が光を切り取ったように視界を隠す。姿勢を元に戻すと、私たちの間にあった酒壺がなくなっていることに気づいた。
奇妙なことが起きたと話していると、再び物音がする。今度は目の前から、宙に空間の裂け目ができたところから。ナイトキャップを被った妖怪が身を乗り出してきた。私たちの酒壺を手に持ち、気分良さそうに振って見せた。
「あー、紫さんだったんですね。ずいぶんご機嫌じゃないですか」
「このお酒、美味しいわね。珍しく酔っちゃった」
夢うつつの彼女をからかう早苗を見ながら、私は頭の片隅で、怪しい妖怪が私を監視していたんじゃないかという思考にいた。それが、私の素なのだろうと思った。少なくとも、今の時点で。きっと私はまだ危険な存在、排斥の候補……その真偽は別にして。そして、私を枠に閉じ込めているのは、私でもあった。
***
程よい酔いが心地よい。前の失敗に怯えずにお酒を飲んで良かった。早苗の酒選びにもセンスがあったのだろう。こういう酒宴ならば、いくらやってもいい気分だ。
大きくなった気分のまま、私は博麗神社に向かっている。同時に、これからやろうとしていることを冷静に理解しながら、それでも止まらない。止まらないままでいたい。
興奮で思考が先走ってしまいそうになるのを抑えようと、神社の麓に降りて階段を登っていくことにする。下から仰ぎ見ると鳥居がとても遠く感じた。一歩ずつ、時間をかけて石段に足をかけるたびに感じる張り裂けそうな胸の痛みが、むしろ正解へ向かっているような感覚を与える。錯覚だろうか。
霊夢を呼び出して、境内で私たちは相対する。彼女を正面から見据える。威圧感をもたらす立ち姿は守矢神社でちょうど目に焼きつけていたから、心持ち同じような格好を見せつけているつもりだった。その通りに伝わったかは分からなかったけれど、霊夢は神妙な顔つきで見つめ返してきた。
「何?」
私は言った。
「弾幕勝負をして」
言葉にしてから緊張が腕の自由を奪って、握り拳を作らせる。どうしてこうも不器用なんだろうか。もう少し頭をうまく使ってから行動すればいいのに。時間だっていくらでもかけられるはずだ。
でも、そうやって考えて今があるのなら、揺らいで倒れるよりも早く、足を踏み出さないといけない。
「私も暇じゃないんだけど」
「……まあ、不戦勝でも私はいいよ。博麗の巫女が妖怪から勝負をふっかけられて、みすみす背を向けたって言いふらすけど」
「はあ。戦う雰囲気じゃなさそうだから私なりに情けはかけたつもりだけど。思ったよりバカだったみたいね」
「それか本気か、よ」
退路を絶ってでも、もう一度戦って、今度こそ勝つ。そして存在を見せつけないといけない。今の私にできることがそれぐらいしかないのだから。
霊夢は幣を振るった。空を切る音が遠くからでも聞こえる。
「そこまで言うならいいわ。条件は?」
「負けを認めるまで」
「言う前に死なないでよ?」
お互い身構えた。一瞬の静寂。そこに余分な雑音が入ることを許さないかのように、私の楔弾と巫女の札が衝突して、勝負の口火が切られた。
初動の攻撃は勢いよく切り出せたが、すぐさま防戦に転じることとなり、早くもスペルカードを切ることになった。しかし、そこで誤算があったことに気づく。スペルカードの威力が全くもって足りない。
真実の目は弾幕の密度が甘く、プレッシャーをかけられずにかわされる。強固な信奉に支えられた秘密結社の名を関する弾幕も、相手の射撃でこじ開けられてしまう。ケムトレイルは儚く霧散し、レプティリアンという非人間的な像への曖昧な理解がそのまま弾幕の不規則さに現れる。
地球平面説は巫女の素早い軌道に釣られて歪曲していく。隙間を縫って飛行する霊夢に接近を許してしまい、至近距離からの射撃を喰らった。私が地に伏すのを見下ろしながら、霊夢は大声で言い放った。
「前に戦ったときの方が手強かったわよ!」
「そんなことない!」
去勢は張ったが、その通りだ。私の方が嫌でも分かる。きっとあの時ほど、無心にこれらの力を信じられなくなっているから、弱いんだ。
人間への理解を進めようとしている今では、人工災害への過激な印象も薄まってしまった。私が新世界の秩序を担うという意気込みも、どこにあるか分からない。タルタリアンも、チョコレートリバーも、幻想郷にないならばどこにある? 外の世界に依然あるならば、陰謀になる謂れがどこにある?
もはや戦闘ではなく、子どもが喧嘩をしかけて大人にいなされているような有様だった。惨めな思いを抱きながら最後まで足掻いたが、典拠も原文も知らない予言者の言葉に縋っている自分を自覚したことが強く心に突き刺さった。ぶっきらぼうに放ち続けた大玉、その軌跡に散りばめられた小玉が宙を埋め尽くしていくところを一望して、自分から消した。
霊夢がゆっくりと距離をつめてくるのも、私は止めなかった。彼女が語りかける。
「もう降参?」
私は、頷こうとした。
「……」
しかし、縦に振り下ろした頭をそのまま持ち上げることはなかった。意思の力か、ただの意地なのか。でも、きっと、後者だ。まるで首が石になったように動かせる気がしない。代わりに手は思いのままだった。まだ攻撃を繰り出すための、自由な手。
霊夢が次の言葉を紡ごうとする前に、私は口を開いた。
「……私だって、もう少し賢く自分を証明できるなら、そうしたかった」
土のついたつま先が月明かりに輝いた。
「それでも今すぐ変われないよ。あの時感じた真実への高揚が、私の原点なんだから。これを無くして、私は渡里ニナという妖怪ではいられない」
「その先でまた破綻に行き着くのよ」
「もし、突き詰めた結果がそうなら、それでいい。そのときこそあなたに本当に退治されるときなんだと思う」
胸がおかしくなるほど動悸する。手も口も震えて、積み上げていく言葉ひとつひとつが空中で風に奪い去られてしまいそうだった。
それでも、私は確かにここにいた。遠い過去の堆積を乗り越えた、今ここにある命として、巫女の前にいた。だから。
「だからこそ、私は自分と向き合っていかないといけないの」
私は両手を突き出すように掲げる。
「今ここで、私は自分を定義する!」
小さな両の手のひらに包まれた名もないスペルカードを見せながら、私は宣言した。
「ニナ、あなた……」
霊夢は心の底から驚いているようだった。
「行くよ——!」
私は目を瞑って、手のひらの先にある存在意義へ意識を集中させた。今に至るまでも符名をずっと考え続けたが、いくら頭を使ったところで結局心に嵌まるものはなかった。
そんなとき私はどうすればいいか、それだけは良く分かっていた。ただ、ひたすらに、全てを投げ出すほどに自分を委ねればいい。前と違うのは、光るものにただ堕ちるのではなくて、私を地盤にして踏み出すこと、それを知っていること。
力が集まって弾けた。溢れ出す光が瞳を突き破り、痛みと共に全てを白に染めた。
意識がはっきりとしてきた。まだ宙には浮いていたが、疲弊しきって自力で飛んでいるわけではないと理解した。それなら、どうして? 理由を考えて、霊夢に体を支えてもらっているのだと気づくまでには時間がかかった。
「全く、無茶しすぎよ。そのまま消えられても、私は別に困らないんだからね」
開口一番、容赦のない言葉が霊夢から投げかけられる。私は苦笑する余力もない。
「……どうなったの?」
「スペルカードは発動したわ。でも、無秩序で、不格好で、攻撃とは言い難かった。まあ有り体に言えば、自爆みたいな感じ」
「自爆……じゃあ、また命を救われたってことね」
私は落胆を隠せなかったが、霊夢の解釈は違った。
「向き先が定まっていない妖力が全方位に炸裂していたというだけよ。死ぬ気でやったわけじゃないんでしょう?」
「そうね」
「そういうことだから、考え過ぎないことね。助けたのは事実だけど」
そう言って、霊夢は降下を始めた。ゆっくりと、地上に近づいていく。得るもののないまま終わりを迎えることの無力感にひっそりと押し潰されないよう耐えながら。その時、霊夢の巫女服が風に翻って、抉るように破れている跡を認めた。千切れた裾の切れ端が焦げているところが、夜のどんなものよりも黒く目立っていた。
私の視線に気づいて、霊夢は言った。
「まあ、悪くなかったよ」
私は静かに目を伏せて、それから瞼の奥の闇に自分を溶かす。巫女として、霊夢として、その両方の側面から贈られた飾り気ない言葉の余韻を何度も確かめた。今、この心にあるものを祈りと呼ぼうと思った。
***
短い間で永遠亭にまたかかることになるとは、過去の私が知ったら不甲斐ないと思うだろう。今でもそう思う。しかも事由は筋肉痛だ。妖力の源から距離を置きつつあるなかで元のような活性は得られないらしく、人間の形態に則った苦労をより強いられることになるらしい。それが医師の診察だった。
であれば、この痛みも私が選んで手に入れたものだと言えるだろう。医師は「成長痛」という言い換えを教えてくれた。成長に至るための痛み、痛みの伴う成長。湿布を貼られた腕や脚を眺めながら、かすかな達成感を思う。
「あなたは月の賢者なんですよね?」
診療室から出る際、ずっと気になっていたことを聞いた。
「ええ、そうです。改めまして、八意永琳と申します」
「あ、渡里ニナです……」
偉い身分である医師に、恭しいお辞儀を添えて畏まった挨拶をされると思っていなかった。つい反応に遅れてしまい、そもそも次の会話を考えていなかった。八意永琳はすっと会話を続けた。
「これからどちらに向かわれるのですか?」
「聖域に、一旦戻ろうかと」
「そうですか。では、追加の湿布も出しておきましょうか?」
「そこまでしてもらわなくても大丈夫です! 前も無銭で良くしてもらっているし。本当にツケにしなくてもいいんですか?」
「ええ。元々稼ぎのためにしているわけではないですから。でも、頻繁に受診が重なるようであれば、有料化することも考えようかしら」
「やっぱり負担をかけてるんですね……」
「いえ、それが全てではないわ」八意永琳は微笑んだ。「金銭であれ何であれ、ちょっとした戒めが傷病の予防になるのであれば、医師の本懐は遂げたようなものなんです」
私は何も言わず頷いた。
聖域に向かう道中、湿布のツンとした匂いが鼻腔を刺激する。嗅ぎ慣れない独特さがあったが、痛みが、成長の兆しが傍にいてくれているような気分になる。
霊夢との弾幕勝負を終えて、化石の森にしばらく戻っていなかったことをふと思い出して、帰りたくなった。それ以上のことはない、なぜかと考えてみても、衝動というべきか直感というべきか。霊夢に相談してしまったが、わざわざ聞くまでもないという呆れ調子で「行けばいいんじゃない」と答えてもらった。
体にかかる風圧は強かったが、それでも速度を落とさなかった。まるで忘れ物を取りに行くような気もちだった。その例えは、もう一つの暗示も含めて的確だろう。帰った後、またすぐそこを離れることになるだろう。
ピラミッドまで戻ると、また道祖神のお目にかかる。道神馴子は縞柄のスティックを私の方に突き出した。
「パンはパンでも食べられないパンは?」
「食べられないということは、隠蔽された曰くつきのパンに違いないわ」
「社会派な回答ね」
「正解は何なの?」
「フライパンって言うらしんだけど……知ってる?」
元の住処に一時的に帰ってきたことを告げると、馴子は似たような言い分で出入りする事例が増えたとぼやく。眉間を揉みながら話す彼女は、真剣に悩んでいる様子だった。どうやら出入りを封じることが役目であるはずなのに、自由な往来が許されつつある現状に苦しめられているらしい。在り方に悩む番を前にして共感を覚える。
私はピラミッドの奥へ進んでいく。帰ってきたとは説明したものの、本当の意味で帰ってきたことなど一度もない。洞窟はひらすらに長く、段々と深まっていく暗闇に潜り込んでいくたび、生まれるときはみな闇よりいづるのだろうなんて思う。
ようやく化石の森に着く。しばらくは奇妙な生気を帯びて蠢いている節すらあったが、異変が沈静化して、これ以上のない停滞と静謐が蘇っていた。元は私もその一部だった。ここに立ち返って、なんとなく私は自分の目的を掴むことができた。私が生まれた場所に帰りたいんだ。
妖怪になりたてだった当時の、真実に目を焼かれた私が、ここを特別な場所として認識しているわけがない。だから目的地は何の手がかりもなく探すしかなかった。少し飛び回るだけでも、化石の森がどれだけ広いか察しがつく。行きもそう思ったように、石質の枝が空間のひびのように縦横無尽に伸び、進路を複雑にした。最初は丹念に見て回ろうとして、飛んだり歩いたり、飛んだり、歩いたり……しばらくして無駄に疲弊するだけだと感じ、考え直す。
そして、私は一つ決めた。とにかく落ちていこう。できれば一番深いところまで、難しいなら行けるところまで。その途中で見つけられれば幸運で、ダメならば帰ろう。
私はゆっくりと落ちていく。自由落下で、障害物とぶつかることはないよう制御しながら等速直線運動で。底に行くほど枝に裂かれた光が拡散し、影の綾模様が迷路のように空間に刻まれる。再び暗闇に潜っていく。何度でも。
呼びかける声に振り返り、その場でゆっくりと見回す。二つの人影を見つけた。特徴的なシルエットで、ユイマンと阿梨夜であることはすぐに分かった。彼女たちは石枝が網のように広がる空中を動き慣れた様子で近づいてきた。
ユイマンは自然と私の手を掴み、怪我をいたわるかのように手の甲をさする。
「久しぶりね。ちょうど姿を見かけないと思って、心配にしてたの」
「地上に行っていただけだよ。そういえば宴会したんだよ、誘われてなかったよね」
「そうなの? 阿梨夜、知っていた?」
「あなたが鹿狩りに夢中で山から山を駆け巡っていたときでしょうね」
阿梨夜は肩をすくめた。
彼女たちは異変の余波を残さないよう、定期的に聖域内の隅々を回っているらしい。私は生まれた場所を探しに来たのだと伝えると、ユイマンは二つ返事で案内をしてくれた。
「なんで覚えてるの?」
「ここで生まれた妖怪はあなただけだから、忘れるわけないですよ」ユイマンは無邪気に笑う。「あのときは気分も良かったですから。悪いことが起きていると分かっていても、何でも心に残るくらいに浮かれてたのかも」
「そこは、ニナさんが化石として存在していた場所ということかしら」
阿梨夜の質問を、私は頷いて肯定する。
道すがら、二人のこれからについて聞く。
「どうもこうもないかな。つまり、今まで通りここで情報の浄化を行うの」
「私もユイマンと同じね。あなたが捌ききれない情報を一時凍結する程度だけど」
「私の処理能力からしたら、欠かせないことよ。助かるわ」
それでいいの?
「私たちがここを放棄しても、また幻想郷の存続に関わりますから。結局、できることを全うすることが私たちの日常を守ることにも繋がります」
阿梨夜の目線はユイマンに向いていた。それに気づかないまま、ユイマンは言った。
「阿梨夜の言う通りよ。役割や仕事に抵抗があったとしたら、もっと早くに破綻していたわ。それにちょっと前は月の都の言いなりだったけれど、もう雁字搦めではなくなったから、全然マシよ」
今度は私に問われる。妖怪として生きて、もう少し幻想郷を見ていくつもり。その先のことは、これから決めていこうと思う。時を越えて再会し、柵(しがらみ)もなくなりつつあるなかで、なお己の立場を背負い続ける彼女たちに比べれば、ちっぽけな志だと思う。それでもささやかな肯定と祝福の言葉が贈られて、胸の奥が暖かいもので満たされる。
生まれた場所では、剥き出した地層が迫り出すように聳えていた。一部が欠けていたため、そこが貝として存在していた場所だと分かる。私にとっては全てをひっくり返してしまうほどの変化だったはずなのに、全体からすればごくわずかな変化でしかない。
空白を宿す窪みに触れ、ここに残していたものがあれば全て私のなかに還ってくるように願った。指先に力が込められ、熱すら感じる。これも変化としては小さく、私の内面にしか現れないことだった。同じ姿勢で居続けたのは、数回、呼吸を繰り返す程度の時間だけだった。
「私から贈れるものは限られていますが、」阿梨夜が言った。「普遍……不変ではなく、あまねくの方の普遍を覚えていてください。あまりにありふれていて、取り沙汰にされない一方で、そうでなくては途端におかしいもの。世界を揺るぎないものにしてくれている、大事な概念の一つです」
傾聴の姿勢を保って、続きを待つ。
「例えば、真実が太陽だとするならば、普遍は光、もっと具体的に言えば日向のようなものでしょう。光がなければ私たちは暗闇のなかで何も知覚できないままですが、日の元でそんなことを気にする者は、変人か狂人を除いて、いません。同時に、光が太陽から降り注いでいると知っていても、光そのものから太陽を知ることはできません。形質ではなく本質を洞察されたいならば、なおさら」
「それは、影も普遍になるのかしら」
「その通りです。夜も、暑気も、水鏡や光合成もそうなるでしょう」
「ありきたりなことがもっとも恐ろしい、ということはないの?」
「それについては妖怪の方が専門です。あるいは人間の方がよっぽど詳しいかもしれません。人が堕落や不道徳にいとも簡単に転げ落ちてしまうことを知っていて、これを防ぐために宗教や法律、教訓、戒律あるいは予言があるのですから」
ユイマンが口を挟んだ。
「だけど、変わらないものはない。そうでしょう?」
不変の女神は肯定する。
「ただし、生きている限り」
私は生そのものが普遍になっていくことを願う。
「ありがとう、あなたたちがいなければ、ここを見つけられなかったわ」
「ええ。いつでも帰ってきてください」
「次の宴会があったときはぜひ誘って!」
私は二者に別れを告げ、その場を去った。
***
化石の森から、地上へ。暗闇から、上方でさんざめくように照る光へ手を伸ばす。手のひらの輪郭は白光に溶け、眩しさに細めた目に散乱光の虹が散らつく。それも、今は何てことのないように思う。
あの先へ行きたい。手は体ではなく、意志から伸びている。意志の源泉である私のことを、私は知っている。