『アーリー・タイムズ①』
1
寒さに震えながら目を覚ますと、女苑はもそもそと体を起こした。二日酔いに霞む目を擦りながら、欠伸を噛み殺し、部屋の中を睥睨する。世界中の悪意を凝縮したような悪臭は隣から漂ってきていた。親父の屁で目覚めるのとどっこいどっこいの、最悪な目覚めだった。
姉の呑気な寝顔に蹴りを入れてやりたい衝動は、眠っている細胞を活気付けるのに一役買ったが、そうはしなかった。この浮世でも五本の指に入るほどの不幸な存在を、これ以上貶めてやる理由が見つからなかったし、余分な体力を使いたくもなかったし、なにより体の節々が痛んだ。姉の体を跨ぎながら、自由気ままに入り乱れる自分の髪を一つに束ねる。たったそれだけのことで、肩がズキズキと痛む。
部屋の綺麗さに比例して精神状態の良し悪しも決まると言うが、この部屋にもその言葉が当てはまるなら、女苑のメンタルはミキサーでかき混ぜたみたいにぐちゃぐちゃになっていることになる。台風でも通ったような荒れ具合だ。食い散らかした惣菜のプラスチック容器、炭酸水のペットボトルにウイスキーの瓶、酎ハイの空き缶は組み立てれば車くらいなら作れそうなほどの量で、足の踏み場もないという言い回しがあるが、この部屋に関して言えば空き缶の上こそが足の踏み場だった。見てるだけで胸焼けしそうだ。
ゴミを蹴散らしながら、シンクの前を通り過ぎる。以前、蛇口を捻ったら赤い水が出てきたことがある、曰くつきの流し台だ。それ以来、それまでも吝嗇していたわけではないが、ミネラルウォーターを買うようにしている。
冷蔵庫の中を改めるも、命の水はどこにもない。部屋を詳しく検める気力もなければ、このクソ寒い中をわざわざ出かけて買いに行くのも我慢ならない。
シンクに戻った女苑は蛇口を捻った。一見して毒が混じってるようには見えないが、罠とは罠らしく見えないものだ。少し前に、水道水を飲んだら脳味噌をアメーバだかなんだかに食われて死んだ人間のニュースを見たことがある。
が、それは外の世界の話で、さらに言えば海外の話だ。ここは幻想郷で、自然が豊かで、さらに言えばこのアパートは河童が建てて、水道だってやつらが引いてきたはずだ。だからと言って赤い水のことをぜんぶ忘れてやることはできないが、河童どもが水に関して不手際を起こすとは思えない。なにせ、河童だし。
懸念としては──女苑は振り返り、だらしなく体を伸ばして眠る姉を睨んだ。ギネスに登録されてたっておかしくないほどの不幸体質な姉と暮らしているということ。同じ服を着続けると臭いが移るように、あの姉の不幸体質が自分に移っていたとしてもおかしくはない。むしろ、そういう風に出来ているのだから。
意を決して蛇口を捻る。出てきたのは透明な水。どこからどう見てもまっさらな水。ちょいと気の利いた器に入れてやれば、健康や体形に悩んでる中高年に高く売りつけてやれそうな、綺麗で澄んだ水。
一瞬、悩んだ。喉の渇きは限界を迎えていた。シンクの底を叩きつける水の柱にむしゃぶりつくと、景気よく喉を鳴らした。
それからしばらく、腹や喉に異変が出ないか待ってみる。脳味噌はさっきからグラグラしているが、それがこの水の影響なのか、昨日の酒が原因なのかははっきりしなかった。
五分経ってもなんの影響がないとわかると、女苑は自分の布団の方に取って返し、枕もとにお守りのように置いてあるタバコを拾い、またぞろゴミの上を歩いて、外に出、柵に肘をかけてタバコに火をつけようとした。寒風が何度も吹き抜け、火が何度も消えた。
行き交う人はどいつもこいつも年を越せそうにないし、越したって意味なんかないように見える。ここに来る前はどこに身を隠してたんだ?と言いたくなるような風体のやつばかりだ。
華やかな人里では決してお目にかかれないような連中が、この街じゃ幅をきかせている。河童どもが余ってる土地に工場を建てようってんで、幻想郷じゃほとんど人も妖怪も寄り付かない妖怪の山の西の方を更地にし、バカスカ工場を建てまくった。で、今度は人手が足りないってんで、人を呼びまくった。金が回ると、河童どもは調子に乗って工場以外にもさまざまな事業に手を出し始めた。やがて人が集まり、単なる工場地帯だったこの場所は街のように発展した。
「モータウン、ね」女苑はタバコをふかしたり、体を手で擦ったりした。「幻想郷で車が走るのは、外の世界で車が空を飛ぶ頃かな」
ひとりごち、タバコをおしまいまで吸い、部屋に戻ろうとしたところで、猛烈な腹痛に襲われた。他のすべての内臓が腸の中に収まってしまったかのような激痛だった。声も出せなかった。なんとかドアを開ける。嫌な予感は、紫苑が布団から姿を消しているのが始まりだった。
「姉さん、くそ……」トイレのドアをガンガン叩き、痛む腹を抑えて声を張り上げた。「姉さん、ちょっと!」
返事がない。
冷静になって、ドアに耳を押し当ててみる。
微かな寝息が中から聞こえてきた。
──姉さんめっ!それから、河童めっ!
このアパートを借りるにあたって、河童から「備品などを故意に壊したら一千万円支払う」旨の同意書にサインさせられたが、そんなことは知ったことか!女苑は二、三歩後退し、渾身の力でドアを蹴破った。
「んがっ⁉︎」
引き剥がされたドアは便座に座っていた紫苑の頭に直撃した。動かなくなった紫苑を引っ張り出し、女苑はトイレに縋るように座った。
──河豚は食いたし命は惜しし、じゃあやっていけないってことね……
そんなことを考えながら、幾らかかっても構わないから浄水器を取り付けようと、女苑は決心した。
2
話は一月ほど前に遡る。
姉の紫苑とちょっとしたいざこざがあった。女苑にとってはクソ忌々しい比那名居天子絡みの案件で。要はそいつのせいで女苑が紫苑にないがしろにされたということなのだが、天子は紫苑のこともないがしろにした。故郷に帰るときが来たのだ。だれかのヒモになる以外生きる術を持たない紫苑は、泣く泣く女苑に縋りつくも「今更わたしに頼るとはどういう了見だ」と一蹴した。が、女苑にとっても紫苑は唯一無二の肉親なので、幻想郷に住む他の姉を持つ者たちのようには冷たくはなれなかった。
そこで、二人が現在住んでいる、河童が妖怪の山の西側──河童のリーダー、河城にとりの名を取って「ニトロイト」と呼ばれる──の工場が人手を欲していることを教えてやった。面接にまで付き添ってやった。あとは姉さん次第さ、女苑は姉に申し渡した。行き着くところまで行き着いたやつが集まるような場所だし、姉さんでも務まるだろ。
が、結果は散々だった。紫苑からしてみれば普通に働いているだけなのに、機械は壊れるわ、他の作業員を殺しかけるわ、製品は欠陥だらけになるわで、とてもではないが仕事にならなかった。そのせいで紫苑は工場内でも孤立し、女苑の「姉さんでも務まるだろ」という言葉を思い出しては枕を涙で濡らし、ついには精神を病み、二週間もしないうちに女苑に泣きついたのだった。
女苑からしてみれば、実姉の情けなさを疎んじるよりも先に、なんやかんや心配していたというのもあって、頼られたことへの嬉しさが勝った。女苑も姉がいなくて寂しかったのだ。二本ある歯ブラシや、二人分の食器や布団を眺めては姉の存在を思い出さずにはいられなかった。そんな精神状態でいたときに、渦中の人から「わたしには女苑が必要なの」などと言われれば、今までの一切合切を水に流してやろうという気にもなる。
それとは別として、ニトロイトに興味があるというのもほんとうだった。女苑にとって退屈は貧乏と同じくらい耐え難いもので、とどのつまり、寺や人里で暮らすのに飽き飽きしていた。ニトロイトという名前には、かつて二人が暮らしていた外の世界の街のような、先進的な響きが満ちていた。
「けど、実際はどうだ?」天井で気怠げに回るファンを眺めながら、女苑は独り言を喋った。「どっちを向いても、どうしようもねえやつばっかさ」
どうしようもねえ場所には、どうしようもねえやつが集まる。ニトロイトにしたって、すぐれた作家ならば迫真のプロレタリアート小説を書けそうな界隈だ。だけど、どうしようもねえもの同士がかけ合わさると、どういうわけかそこに凄みや、殺傷力と言ったものが備わる。日に日に増してくるこの街への嫌悪感にはほとほとうんざりさせられていたが、女苑が出て行かない理由の一つは、そういった世の中を支配する一抹の真実味に魅力を感じているからだ。
「女苑も手伝ってよー」細い腰を曲げながら、紫苑は散乱している空き缶を拾い集めていた。「朝から部屋の掃除なんかしたくないよお」
「じゃあ、昼になったらやんの?」
女苑は顔だけをそちらに向けて言った。紫苑が顔を逸らした。
「働いてんのはわたしなんだから、口答えせずにちゃんとやれ」
紫苑はまた聞くに値しないことをぶつくさ言いながら、ほとんどは女苑が空にした缶を拾い集める。
働いてる、か。女苑は乾いた唇を舌で舐めた。紫苑から「あれが仕事だって言うの?」的なことを言われたら一も二もなくブチ切れてやるところだが、自分自身、胸を張っていまやってることをだれかに話せるかと訊かれたら、絶対に首を横に振る。職に貴賤がないなんて馬鹿も休み休み言え。春をひさぐやつらは卑しいし、子供を拐かすやつなんてもっと卑しい。職に貴賤がないってことは、つまり金のためならなんでもやるってことだ。
女苑が思い出したように言った。紫苑は缶拾いに集中して聞こえていなかったらしい。
「缶、いつものところに持ってってよ」女苑は繰り返し言った。
真冬だと言うのに汗をかいている紫苑が女苑の方に顔を向けた。心底嫌そうな表情を浮かべている。
「これだけ集めて、幾らになるのよ?」ゴミ袋の中の缶を指差しながら紫苑は言った。
「金は少しでもあった方がいいだろ」
「でも……」反論の材料を探すように、紫苑は目をあちこちへ向けた。「外、雪降ってるよ」
女苑は窓の外に目を向けた。紫苑の言う通りだった。
「昔さ、姉さんと外の世界で暮らしてたときさ」女苑は近くに落ちていたコートを着込みながら喋った。「冬なのにかき氷が食いたいつって、かき氷を出す店を探し回ったことがあるじゃん」
女苑の言いたいことをなんとなく理解した顔で、紫苑は応えた。「あれは狂気的だったね」
「でさ、ほとほと諦めかけてたときに、雪が降ってきたろ?」
紫苑はじっとりした目で女苑を見つめた。
勿体をつけたのがいけなかった。携帯電話がニトロイトで流行りの曲を鳴らした。意味を差っ引いた言葉の羅列と、排泄音のような重低音。初めて店で聴いたときも耳障りだと思ったものだが、携帯の着信音に設定(若者にはウケがいいので設定している)してからは殺意すら覚える。女苑は、相手を確認せずに通話ボタンを押した。
「もしも……」
「ちょっと、女苑ママ⁉︎」
不快な周波数が耳に滑り込んでくる。女苑は通話口から顔を離して、紫苑に見せつけるようにため息を吐いた。
「どうしたの?」なるべく甘い声音で尋ねる。
「さっきの客、最悪だったんだけど!」
鼓膜に深刻なダメージを与えそうな声量で、電話の向こうの相手は愚痴を喋り倒した。ここには書けないようなことを客にされたらしい。女苑は話半分にしか聞かなかった。この手の話は日がな聞いていて、最初のうちは楽しくないでもなかったが、いまじゃ着信音のヒップホップほどに辟易させられる。
そうか、わかったよ。女苑が真摯に対応すると、相手は金の話をいくつか持ち出し、鼻持ちならないことを言った。それでも女苑は「愛してるよ」などと囁いた。そうしなければならないなりの理由があるのだが、紫苑の侮蔑の目が気に食わない。
「後で行くから、まってて」女苑は通話を切り上げ、紫苑をキッと睨みつけた。「なによ。なに見てんだ、この野郎」
「たいへんだね」
女苑は舌打ちをした。
この街を出られないもう一つの理由に会いに行かなければならない。
「行くの?」
紫苑が尋ねると、女苑は頭から余計なことを振り落としたいとばかりに何度も頷いた。
「じゃあ、これ」
空き缶が詰まったゴミ袋を差し出される。
「なに?」
「外行くんなら、ついでにこれも行ってきてよ」
「……」
「おねがい」
少し思考した間のあとに、女苑はゴミ袋を受け取った。
「その代わり、今日の晩飯は姉さんが作ってよ」
面倒ごとを引き受けてくれたからか、紫苑は嫌な顔ひとつせずに頷いた。それを認めると、女苑は履くのに恐ろしく手間のかかるブーツに足を収めてゆく。
「そんな格好で寒くないの?タンクトップなんかで」
「タンクトップじゃないわ!ノースリーブってんだよ。いいんだよ、コートも着るし」
「でもぉ……」
「いいか」ブーツを履き終え、立ち上がってから女苑は言った。「いい女はいつだってノースリーブなんだよ」
外に出ると、凍えるように寒い風が吹いてきた。女苑はへっちゃらなふりをして白い息を吐き、階段の方へ歩いた。
「女苑!」と、見送ってくれていた紫苑が呼びかけた。「缶を忘れてるよ!」
「あっ!」
振り返った刹那、足を滑らせた女苑は階段に尻をしこたま打ちつけ、焦って急いで立ち上がろうとしては二転三転した。コートや自慢のノースリーブがびっしょり濡れた。ようやく落ち着いたころには、立ち上がるどころか、今日という一日への関心を無くしていた。
「じょ、女苑……」
それでも、なんとか立ち上がろうとして、また滑って柵で脇腹を打った。柵が壊れなかったのは不幸中の幸いかもしれない。
「大丈夫?」
女苑はなにも言わずにゴミ袋をひったくり、確固たる足取りで階段を降りて行った。
クリスマスまであと一週間もなかった。
3
季節が移ろうことで見える景色が変わるように、いま見ている惨めな光景もまた、春が来れば違った見え方をするかもしれない。ダンボールに身を包む浮浪者や、その浮浪者を踏みつけにする若者や、その若者に軽蔑の眼差しを向けるブルーカラーを眺めながら、取り止めもなくそんなことを考えた。
それから、だれかれ構わず声をかける女。石を投げれば娼婦に当たるような界隈だ。女どもがなにを考えているのか、さっぱりわかりゃしない。金を持ってそうなやつに声をかけるなら、その行動は至極真っ当なものとして受け入れられるが、あからさまに金を持ってなさそうなガキや落伍者相手にまで声をかけるのは、いったいどういう理由があるんだ?この世を回してんのは金だけじゃないってことか?
女苑にしたって、声をかけられまくる。この界隈で「女苑ママ」のことを知らない女はいない。
──女苑ママ、ねえ……
愛想をウイルスのように振り撒きながら、女は女苑ママ、女苑ママ、と彼女に付き纏ってくる。いまも、女苑は一人の女に付き纏われていた。名前は忘れた。このアコギな商売をやっていくのに、女の名前を覚える必要はなかった。
「ねえ、ママぁ」女苑に追いすがる金髪の女は、シンナーで歯が溶けかけていた。
「やめろ、そのママっていうの」女苑は振り返らずに言った。「わたしはおまえなんか産んだ覚えはないぞ」
「でも、ママはママだしぃ」
「なんでついてくるんだ?」女苑は凍った地面に足を取られないよう、しっかりとした足取りで振り返った。「金ならもう貰っただろ」
金髪が足を止め、口元に指を置き、歪な歯を見せて笑った。
「だって、女の子のポン引きなんて珍しいしぃ」
凍りつくような息を吐きながら、女苑はまた前を向いて歩き出した。
なにをするにしたって、金が必要だ。ニトロイトは刺激的な遊び場に困らない。この街で金のかからない遊びと言ったら性行為くらいのもので、女苑はそこに目をつけた。女が性を売るのは人類史始まって以来の不変の理だ。女苑はニトロイトに来たばかりの人間、妖怪、果ては妖精を、さながらアイドルを発掘する敏腕プロデューサーのように甘言で誘惑し、客をつけ、金を稼がせた。一晩、四十分で三万。そのうちの二万を女苑がいただく。不平を漏らす女はいなかった。
シノギは上々、しかし、困ったことがある。それは、女苑が商品である女に気に入られてしまったこと。男のポン引きと言えば、女のことを本当に商品かなにかとしか思ってないやつばかりで、客を斡旋することと金のこと以外に考えてることはない。
その点は女苑も同じはずだったのだが、どういうわけか、自分では上手くやっているはずなのに、すべてが裏目に出てしまう。どこでも嫌われるはずの自分という存在が、ニトロイトでは好かれてしまっていた。木の葉が沈み、石が流れるような事態が現実に起こっているのだ。
居心地の悪さを感じ、街を出ようと考え始めた頃には、もう遅かった。この街には女苑なしでは生きていけない女が増えすぎていた。
──だから、なんだってんだ……?
歯の溶けた女、薬物に脳味噌を誑かされた女、酒に溺れる女、そんなのがどうなろうが、自分となにか関係があるのか?
──くそったれ……
「ねえ、女苑ママ。わたしね、旧都で生まれたの。知ってる?地底にあるんだよ」
女苑はなにも言わずに歩き続けた。この手の女の不幸話には、もううんざりしていた。借金やら貧乏やら虐待やらなんやら、その上に「性的」とつくことも少なくない。この金髪にしたって大した違いはなかった。親がどっちとも薬物中毒で、おまけにスワッピングにたいへんハマっていたという。
「地上に新しく街ができるって聞いて、変われるかなって出てきたんだけどね。ここも、旧都と大した違いはなかったな」
金髪は少し間を開けた。女苑の反応を確かめたかったのかもしれない。
「女苑ママがいてくれて、ほんとによかったぁ」
「やい、コラ」女苑は振り返り、金髪の胸ぐらを掴んだ。「勘違いすんなよ、わたしはおまえのことなんかぜんぜん気にかけてないんだからな」
どれだけ凄んでみても、金髪はヘラヘラ笑った。その顔を見るにつけても、普段なら一発食らわせてやりたいという気持ちになるはずだった。
女苑は手を離し、また歩き出した。
「おい、本当にわたしのことを慕ってるんだったら」尚もついてくる金髪に女苑は言った。「とっとと金を稼いでこいよ」
足音がひとつになった。
「あはあ、りょうかぁい」
それから、金髪の気配がなくなった。
雨が降ろうが雪が降ろうが槍が降ってようが稼がせてやる。
女苑はタバコに火をつけようとしたが、目的地のホテルが目の前だったのでやめ、中に入るかというところでやっぱり火をつけた。これから起こるであろう面倒な事態の対処に、気分転換は必要なプロセスだった。
4
「遅いよ、女苑ママ!」
部屋に入るなり、ビールの缶が飛んできた。軽くかわすと、女苑はベットの上で次のビールを開けようとする娼婦に近づく。
「荒れてるな」この部屋に来るまでに整えていた声音で女苑は喋った。「なにかあった?」
大抵の女なら女苑に「なにかあった?」と言われたら、その日の辛かった出来事を赤裸々に話すもんだが、このクイーンだけは違う。他の愛嬌のある売女どもが売女になるためにそうしているのと違って、この女は売女になるべくして生まれついたような、正真正銘の売女だった。
「なにかあったって?」クイーンはタバコを呼吸器みたいに吸いながら目をむいた。「ふざけないでよ、あんな客!」
「だから、なにがあったんだ?」女苑はイラついていることを悟られないように、声を落とした。「話してくれないと、なにもわから……」
「あんな毛深いのはいや!」
「……」
「まるでゴリラみたいだったんだから!」
「でも、おまえを買えるほどの金は持ってたんだろ?」女苑は少しだけ抗議することにした。このまま鬱憤を溜め込み続けていたら、いずれこの女をぶん殴ってしまうかもしれない。ポン引きとしては正しいのだろうが。「ちょっとは我慢してもらわないと困るよ。毛ぐらいはさ」
クイーンはぷいとそっぽを向いてしまう。こんな女がいちばん稼いでくるというのだから困る。
けど、まあ。と女苑は思う。下手に懐かれるよりはマシかもな。こいつはわかりやすくていい。あの金髪のような女の方がなにを考えているかわかりにくくてやりにくい。
売女になるために生まれついた女で、ちょっと毛深いのが問題だとほざくような女なら、やるべきことは目に見えている。で、可及的速やかに行動に移そうと服を脱ぎ始めたのだが、いきなり部屋のドアが蹴破られて思わず飛び上がってしまった。
部屋に入り込んできたのは三人の男衆だったが、目を引いたのは真っ先に入り込んできたやつだった。
「こいつよ、こいつ!」クイーンが先頭のやつを指差して喚いた。「ね、ゴリラみたいでしょ!」
──ゴリラっぽいっていうか……
「ウッホッホ!」
──ゴリラじゃねえか!
「このアバズレですかい?」
後ろにいたのがゴリラに確認を取る。どういう意思表示なのかさっぱりだったが、ゴリラはでかい胸をパシンと叩いた。
「やい、このアマ。やってくれたねえ」男がこっちに目を向ける。「ゴリラさん、あんたとエッチできなくて傷ついちゃったんだよね」
「ゴリラさんはなあ、意外とセンチなんだよ!」
「ウッホッホ!」
「うっせえんだよ!」
考えるより先に手が出ていた。というより、考えながらゴリラ以外のやつらを潰した。考えるべきことはなにもなかった。幻想郷にどうしてゴリラがいるのか、ゴリラがどうして人間の女とヤりたがるのか、ひとつわかったのは、ゴリラなんかに発情されたら、どんな女だって自分に自信なんか持てなくなるってことだ。あとでクイーンをたっぷり愛してやろうと、ゴリラの取り巻きを叩きのめしながら決めた。
「ウホホ……」床に倒れている取り巻きを踏みつけにしていたら、背後から抱きすくめられてしまった。
「わたしに触るんじゃねえ!」
が、さすがはゴリラであった。女苑もかなりの力持ちだが、ゴリラが相手では水をあけられる。振りほどこうにも、完全に腕を固められている。
「女苑ママ!」クイーンが手当たり次第にものを投げまくる。「離せ、女苑ママを離しなさいよ!」
「くそ……やめろ、匂いを嗅ぐなーっ!」
いっそ舌を噛み切って死のうかと思い始めたころ、いきなりゴリラの拘束が解けた。地面に放り出された女苑は、一瞬、状況を見失ったが、すぐに立ち上がってゴリラに視線を動かした。
「ウホーッ!」
ゴリラが両手で頭を押さえながら悶絶していた。頭から湯気のようなものが出ている。なにかわからないが、とにかくチャンスであることには違いなさそうだ。
「うおおおおおおっ!」
女苑はベッドに飛び、そこからゴリラの頭より高い位置に飛んで、野郎の頭にジルコニアの指輪がハマってる方の拳を打ち下ろした。ゴリラが白目を剥き、背後の家具を破壊しながらきりきりまいをしてぶっ倒れた。
「女苑ママ、すごーい!」
クイーンに抱きつかれても、まったく状況が読み込めなかった。解決したのかもわからない。多くの謎が提示されているいま、いちばんというわけでもないが、気になるのは、どうしていきなり拘束が解かれたかだった。
気絶しているゴリラの頭をよく観察してみる。なにか白い粒々が付着していた。フケじゃなければ、それは塩に違いなかった。
床の上を見回してみると、ゴリラの足元に塩の容器が転がっていた。女苑はクイーンに目配せした。
「それをぶつけたら、そいつが苦しみだしたのよ」クイーンは得意げに語った。「ねえ、もう帰っていいかしら」
女苑は曖昧に頷いた。クイーンがそそくさと退出した。考えるべきことは多いような気がするが、そうでもないような気もする。だが、少なくともクイーンの安全くらいは考えてやるべきだったと、女苑は後に後悔することになる。
──とりあえず……
女苑は窓の外の景色を眺めた。雪はさらに強くなっていた。
女苑は昏睡しているゴリラを部屋から引き摺りだし、ベッドに上った。
──一眠りするか……
5
目の前に置かれた美味そうなカツ丼に籠絡されるのは時間の問題だった。目が覚めてからなにも食っていないし、喉も乾いていた。
「白状したら食ってもいいんだぞ」河城にとり警官が優しげに女苑の肩を揉んだ。「別に人間を殺したからって責めてるんじゃない。妖怪や神様が人間を殺すのはふつうのことだからな」
「だから、わたしは……」
「ただし、ニトロイトでは別だ!」自分で言ってて恥ずかしくないのかという街の名前を強調する。「見ての通り、ニトロイトは治安が悪い。喧嘩なんか序の口で、万引き、強盗、強姦……正直、我々の手には負えない」
「話を聞け!」
「だからこそ!」にとり・ザ・ポリスメンが指をさす。「河童の目に入った悪事は絶対に許すことなどでき……あ、おい!勝手に食うなって!」
カツ丼を平らげると、女苑はお茶を要求した。にとりが渋々お茶を淹れに行った。爪楊枝で歯を掃除しながら、ここに来るまでのことを思い出す……というか、目が覚めたら留置所にぶち込まれていたのだ。
こんな街にも法はあって、河童の気まぐれで法は変わった。にとりは工場にいるとき以外はもっぱら「ニトロイト警察」に勤めていて、街の浄化に努めているというが、彼女のデスクの前にはいつもドーナツの箱が置いてあった。さっきのカツ丼にしたってそうだが、幻想郷は外の世界の文化のおさがりで構成されているようなものだな、と思わずにはいられない。
ある種の外の世界からの文化的支配から脱却したいという思いもあってニトロイトは作られたはずなのに、これじゃ本末転倒だ。
「ほらよ」取り調べ室に戻ってきたにとりがお茶を置いてくれた。「カツ丼代とお茶代、あとで払えよ」
「おまえんとこのアパート、水回りが終わってんだけどさあ」お茶を啜りながら、女苑は悪態をついた。「おまえがわたしに迷惑料を払いやがれ」
「え、マジ?」にとりはプライドをズタズタに引き裂かれたような表情を浮かべた。「いや、えーと……まあ、いまはその話はいいよ」
「じゃあ、もうなにも話すことはないな?」
「待てって」立ち上がろうとする女苑を、しかしにとりは制した。「おまえには人間殺しの容疑がかかってるんだぞ」
女苑はため息を吐いた。「あのなあ、なんで自分とこの女を殺さなきゃいけないんだ?クイーンはわたしの稼ぎ頭だったんだぞ」
女苑がゴリラと対峙したあと、クイーンが何者かに殺された。路傍で頭から血を流して倒れているところを発見されたのだ。
何者か、だと?決まってる。あのゴリラか、その仲間に違いない。だけど、ゴリラに殺されたなんて、どう上手く説明したって薬物中毒者と思われるに違いない。実際、この街の人口の二割ほどは薬物に脳味噌を馬鹿にされてるのだ。
「まあ、そうだよな」パイプチェアに腰掛けながらにとりは呟いた。「おまえが犯人じゃないなんて、こっちもわかってる」
「じゃあこの茶番はなんなんだ?」女苑は肩を竦めた。「この街に警察を裁けるやつはいないのか?おまえみたいな悪徳警官を裁けるやつはよ!」
にとりはしばらく思案するように項垂れたり天井を見上げたりした。言うべきこととそうでないことを選別しているみたいだったが、帰るぞ、と女苑が冷たく言い放つと、喋ることを決心した。
「警察の上層部が悪いやつと繋がってるかもしれん」
女苑の表情が固まった。が、すぐに感情を取り戻し、お茶を一口啜った。
「上層部って、おまえは違うのかよ?」
にとりは力なく首を振った。
「河童の中にもいいやつと悪いやつがいる。神様だってそうだろ?」
女苑は鼻で笑い、自分がどの種族にカテゴライズされるべきか一瞬考えてから言葉を継いだ。「いい河童は募金活動でもしてんのか?」
「たしかにわたし達は金にがめつい。けどな、金がすべてだとは思っちゃいないぜ」にとりは胸ポケからハッピー・ストライクなるタバコのパックを取り出し、一服してから語った。「まあ、そんなもんだろ?この世には金より大事なもんがたしかにある」
女苑はまた鼻で笑ったが、口から出てきたのは肯定的な意見だった。
「そんなにはないけどな」
十分だ、とばかりににとりは頷いた。
「わたし達のやることに笑顔でお金を払ってくれる人たちを見ると、妙に嬉しくなるんだ。たぶん、金より大事なもんってそういうものだぜ」
「そんな話には絆されないぞ」女苑もタバコに火をつけた。あらゆる綺麗事を焼き捨てるかのように。「わたしはだれも殺してない」
「まあ、聞け……河童ってのは、つまり、金以外の理由でも働けるんだよ。でもな、そうじゃないやつもいる。悪い河童さ」
「そいつらがだれと繋がってるってんだよ?」
「ヤクザだよ」
「どのヤクザだよ?」女苑は幻想郷でヤクザと呼ばれてもおかしくなさそうなやつらを指折り数えた。「わたしが知ってるだけでも、ヤクザっぽいやつはこんくらいいるぞ」
「ちゃんと自分も勘定に入れてるか、それ」自分で言ったくだらない皮肉を吹き飛ばすように、にとりは煙を吐いた。「ニトロイト警察は発足当初から悪い河童に任せっきりで、わたしはここじゃただの下っぱなんだ。で、偉いやつらは、どういうわけか人間殺しの犯人をあんたにしたがってる」
「なるほどね……」タバコをおしまいまで吸うと、二本目に取り掛かろうとした。「クイーンを殺したのはヤクザで、そのヤクザが警察と繋がってるってことか」
にとりは灰皿に灰を捨て、悲しげな目で見つめ返した。
とりとめもなく立ち上がり、窓にかかるブラインドを指で弄ぶ。外はまだ雪が降っている。昼間と比べて横降りになっているので、風も強いだろう。が、取り調べ室で日を跨ぐつもりなど毛頭ない女苑は、パイプチェアに戻ると脈絡もなく尋ねた。
「どうすりゃ帰れんの?」
にとりは虚を突かれたように一瞬固まったが、すぐにニヒルな笑みを浮かべた。
「わかるだろ?」
「幾ら?」
「財布ごと置いてけ」
女苑は財布を取り出して、無造作にテーブルの上に投げ捨てた。鰐革のいいやつで、中には札が百枚くらい入っている。
「安いもんだな」大した嫌悪も示さずに女苑は喋った。「人の命がひとつ奪われてるってのに、これっぽっちで帰れるのかよ」
にとりが驚いたように目を剥いた。
「ポン引きが言うセリフかー?それ」
「……」
「性を売るのも命を売るのも、わたしには大した違いはないように思えるがね」
そうなのかい、クイーン?女苑は心の中で語りかけた。売女の常套句として「体は売っても魂までは売らない」みたいなのがあるが、クイーンは一度もそんなことは口走らなかった。
女苑は思った。もしも売女の心配が魂まで奪い取られてしまうということだけなら、体を売るのは思ったほど大したことじゃないのかもしれないな。
肺が凍りつくほどの冷たい夜に放り出された女苑は、警察署の前でしばらく佇んだ。入り口とリードで繋がれたペットのように。どこへ行ったらいいかわからなかった。家へ帰るつもりでワニ革の財布をくれてやったつもりなのに、気がつけばクイーンを殺した、正体もわからないヤクザに復讐するつもりでいた。
──そんなことして、なんになる?
第一に、ヤクザ相手に喧嘩を売って太刀打ちできる気がしない。女苑はこの界隈じゃ腕っぷしの立つポン引きとして名を馳せている。そんな自分の女として、クイーンは売女のクイーンとして雷名を轟かせていた。そんな女を殺したってことは、相手は相当にイカれた連中か、自分より強いやつらってことになる。
第二に、別にあの女にそこまで情を抱いていたわけではない。殺されたからなんだと言うのだ?クイーンはたしかにクイーンだったけれど、それは売女の中での話だ。探せば幾らだって代わりはいる。
いつまでも過去に拘っていたら先には進めないし、そんなものに拘り続けていたら、体を売り物になんてできない。女苑は売女ではないが、未来に生きられる人々は、いつだって過去のことを踏み台くらいにしか思っちゃいない。
「そうだろ、クイーン……?」
女苑はひとりごち、通りかかったコンビニで酒とつまみを買い、雪の中をとぼとぼとアパートへ帰った。
『アーリー・タイムズ②』
6
吉弔八千慧はうんざりしていた。飯の食い方が汚いのは、まあ勘弁してやらないでもない。このスラムみたいな場所にも似合ってることだし、自分たちがヤクザであることを悟られないカモフラにもなってるかもしれない。思われてせいぜいチンピラだ。チンピラならこの街に腐るほどいる。
毎夜のいびきも、百歩譲って許してやろう。最初のうちはノイローゼになりそうなほどやかましいと感じていたが、犯罪者と暮らしているうちに情が湧いてくるみたいに、だんだんといびきにも愛着が湧いてきた。いい耳栓を買ったからかもしれない。うちの工場でも耳栓を生産するべきかと、一時期は本当に悩んだものだ。
ただ、我慢ならないのは……
「八千慧、それ食わんの?貰うぞ!」
「……」
こっちは少食で食うのがもとより遅く、それを勝手に判断して勝手におかずをぶん取って勝手に食うのも、自制は難儀だがキレないこともない。しかし、名前を呼ばれるのだけは我慢ならなかった。驪駒早鬼に名前を呼ばれるのだけは。
吉弔は持っていたフォークを逆手に持ち替え、テーブルに置かれている驪駒の右手に突き立てた。血は出ないが、命のようなものが溢れ出てくる。彼女らは既に死んでいるのだが、どくどくと流れるそれを血と呼ぶ以外に相応しい表現が見つからない。
驪駒は手に突き刺さったフォークを見つめ、引き抜くでもなく、片方の手で皿からパンを取って食った。これで少しでも痛がるそぶりを見せたらかわいいものなのに、と吉弔は思う。
「名前で呼ぶなと言ってるでしょう」声の調子だけはいつもと同じく平静に、眼圧だけは倍増しに、と言った感じに吉弔は睨みつけた。「何度言ったらわかるんです、え?」
吉弔の言葉に耳を貸さずに、驪駒はうっとりと自分の手から溢れてくるものを眺めていた。吉弔には、驪駒の考えてることがわからなかった。なにも考えていないのかもしれないけれど。
驪駒の代わりに突き立てたフォークを抜いてやると、血液の代替品のようなものが石油のように湧き出てくる。それがさらに吉弔の神経を逆撫でした。傷つけてるのはこちら側なのに、並々と溢れ出る生命力を自慢されているような気分になったのだ。
──神経質になっている……
吉弔はウイスキーを口に運んだ。驪駒から湧き出る血が、真っ白なテーブルクロスを赤く染め上げてゆくが、そんなことは彼女らも彼女ら以外の客も気に留めなかった。
「いい飲みっぷりだな」グラスを置くと、驪駒が言った。「なにか嫌なことでもあったか?」
驪駒の発する言葉のひとつひとつが吉弔をイライラさせる。「おまえのせいですよ」
「ふうん」
食事中にウイスキーなんか飲むのは酒の飲み方を知らない阿呆だけだが、その阿呆にいまは成り下がっていたかった。近くを通りかかったやる気のないウエイトレスにおかわりを注文し、驪駒は食べ終えたパスタの皿を差し出して「替え玉」を注文した。吉弔は、驪駒の行動には一切目を瞑ることにした。
「例の件はどうなってます?」と言ってから、この言い方じゃ驪駒には伝わらないな、と言い直した。「ほら、ポン引きをうちらに引き込む話」
店員と揉めてた驪駒が吉弔に顔を向けた。「ん?ああ、上手くやってるよ」
「どうやってるんです?」
「あのポン引きのところの女にうちの組員を送った」
「……」
既にあまりいい予感はしなかったが、吉弔は目線で話を促した。意図が伝わらなかったのか、驪駒は黙ってしまった。
「……だれを送ったんです?ていうか、なにしに?」
驪駒が恥ずかしそうに顔を伏せた。「そりゃ、なにしにって……決まってんじゃん」
キマってんのは貴様の頭だろ、と言いたくなるのをグッと堪える。それにしても、へえ、あなたにも恥じらいってものがあったんですね!
「そしたら?」ある種のワクワク感が吉弔の体を支配し始めていた。酒が回ってきたのかもしれない。「だれを送ったんでしたっけ?」
「ゴリラ霊だよ」
吉弔がとうとう破顔した。
「人間の女とヤらせるためにゴリラを送ったって?へええ!」
「でも、ヤれなかったみたいね」
「そうでしょうね、そりゃね」ウイスキーで喉を鳴らす。足りなくなってきた脳内物質の生産に拍車をかけるには、ジョッキが必要だった。「で?」
「女を殺しちまったらしい」
吉弔から表情が消し飛んだ。
「まあ、でも安心してよ。ちゃんとサツどもに『そのポン引きを犯人にしとけ』って釘を刺しておいたから」
吉弔はおもむろに立ち上がり「上手くやれてないじゃねえか、このトンマ!」
さっきと同じところにナイフを突き刺す。ナイフは貫通し、テーブルに突き立った。驪駒がまた沈黙し、刺さったところを、生命の湧き出るその一点をじっと睨みつける。
「え?そもそも依神女苑を我々の下に引き込むって言う簡単な仕事でしたよね、だから貴様に任せたんですよ。聞いてんですか、おら!」突き立てたナイフを右に左にと捻る。生命力の象徴はとめどなく溢れてくる。「そいつを!犯人にして!どうすんだっこの駄馬!」
気が付けば、驪駒がこっちを見ていた。とても優しげな笑みを浮かべながら。尊敬すら混じっていたと言える。吉弔はその意味ありげで非常にムカつく笑みに、驪駒の生命力と同じくらい溢れる憎悪を持って睨み返した。
「あっ」
驪駒がナイフを握ってる吉弔の細腕を毟り取った。血が打ち上げ花火のように線を空に引いた。
それから、渾身の力を込めて吉弔の頭から生える角を掴み、別のテーブルめがけてぶん投げた。テーブルやら人やらをなぎ倒しながら、吉弔は壁までぶっ飛んだ。
声が出せないほどの衝撃に、吉弔の意識が過去に飛んだ。走馬灯というやつかもしれない。死んでても見れるんだ、なんて呑気なことを思いながら、吉弔は夢境に遊んだ。
ニトロイトの噂を持ち込んできたのは、他でもない驪駒だった。
埴安神袿姫を叩きのめしたときの戦勝ムードがまだ抜けきっておらず、吉弔率いる鬼傑組と、驪駒率いる勁牙組の間でさえ、どことなく呑気な雰囲気が漂っていた。
ニトロイトを踏み台に地上進出を目指そう……驪駒は意気揚々と吉弔に語ったが、吉弔の頭の中には、驪駒の「失脚」の二文字しか頭になかった。おまえがニトロイトを踏み台にするなら、わたしはその街と貴様の両方を踏み台にして、畜生界最強の座に収まってやる。
意識が戻る。霞んだ目で見やると、驪駒が発情した馬さながらの必死さで、こっちに突進してくるところだった。弾丸のような蹴りをかろうじて頭をよじって避けると、後ろの壁を突き破った。
「おっ⁉︎」足が壁に挟まれて抜けなくなったのか、片足がお留守のまま驪駒はぼっ立ちになった。
「驪駒ァ!」壁に突き刺さった驪駒の強靭な脚を手すりにして立ち上がると、酔っ払いのような足取りで驪駒の首を手にかける。
なにかを期待しているような驪駒の笑みと荒い息。いったい、なにに興奮してるんだ、この駄馬は?駄馬と呼ばれたのがよかったのか?
──どうすればいい……?
この手に力を込めたところで驪駒を落とせるとは思えないし、落とせたとして、それが驪駒の望むところなら、こんなやつの希望を叶えてやるのも癪だ。
「わ……」だったら、やることはひとつしかない。「わたしが悪かったです……」
吉弔は驪駒の首から手を離した。すると、吉弔への興味が急激に冷めたみたいに、驪駒は席に戻って行った。
──なんなんだ、あいつ……
吉弔はタバコに火をつけ、一服してから席に戻った。
「なあ、八千慧」この際、名前を呼ばれることも許しちまおうかという気になっていた。「わたし達、上手くやっていけそうだな?」
「……」
「まあ、任せとけよ」テンガロンハットをかぶり直す。「女苑は確実に勁牙組の下に引き入れてやるさ」
「さりげなく勁牙組で独り占めにしようとするな。分け前はうちと同じだぞ」
吉弔は近くを通りかかった勇気あるウエイトレスにウイスキーを瓶ごと持ってこいと申しつけた。ウエイトレスの怯えた目つきを見て、少しだけ落ち着きを取り戻す。
「……本当に大丈夫ですか?」
「タバコくれ」訝しみながらも、吉弔は言われた通りにした。火をつけ、どこか遠くを見ながら驪駒は言った。「ま、和を以て貴しとなすってむかしから言うだろ?仲良くやっていこうよ」
おおよそヤクザの発する言葉ではないなと吉弔は思った。いや、正確には驪駒の発言ではないな、と。むしろヤクザなら言いそうだ。『和』という部分を強調して、そこにヤクザ的な意味を刷り込みながら。
メンソールに咳き込む驪駒を見るにつけても、こんなやつとはとっとと縁を切りたいと思わずにはいられない吉弔だった。
『アーリー・タイムズ③』
7
昨日から降り続けている雪は、夜を越してさらに勢いを増したみたいだった。窓の外に広がる冷たい世界を眺めながら、女苑は缶ビールのプルタブを開けた。雪の降る音さえ聞こえそうなほどの静寂が、部屋の中を満たしている。
クイーンが殺され、警察から釈放された女苑は、コンビニで酒とつまみを買ったあと、いちゃもんをつけてきたチンピラを叩きのめしてから家に帰った。女苑の遅い帰宅に文句の一つや二つくらいと言った態度で臨んだ紫苑が、妹の寂しげなオーラを目の当たりにして口を閉じた。
それから、部屋の掃除をした。
流しに溜まった食器を洗い、そこら中に湧いてる害虫を抹殺し、あまつさえ燃えるゴミと燃えないゴミをしっかりと分別するという丁寧さまで見せつけられた紫苑は、思わず姉としての在り方を改めなくてはと決心してしまった。
どうしたの?紫苑は尋ねた。姉としての当然の心配だった。
女苑はなにも言わず、ニヤリと笑い、コンビニの袋からビールを二缶取り出し、二缶とも開けた。紫苑は困惑しながらも一本を手に取り、女苑の持っていたビール缶と合わせた。アルミのぶつかる音が、まるで仏具のりんのように短く残響した。
ビールを飲み干すと、女苑はとっとと床に入ってしまった。姉としてなにか声をかけ
らなければならないと紫苑は考えていたが、苦手な炭酸を飲み干すのに苦心してそれどころではなかった。
十五分はかけて薄くなったビールを飲み干すと、体が熱くなり、副作用で気も大きくなってきた。そうすると、姉の気遣いを無視して寝に入ってしまった妹の存在が途端にムカつき、愛おしくなってくるのだった。
「ねえ、女苑?お姉ちゃんになにがあったか話してごらん?」
姉に背を向けて横になっていた女苑は、断固として目を閉じ、決して開くことはなかった。
「やい、女苑!」と、いきなりキレる紫苑。「わたしはおまえのお姉ちゃんなんだぞ!そっちがその気なら、こっちにだって考えがあるからな!」
それから、紫苑は部屋の隅で一晩中泣いていたのだけれど、女苑が彼女を振り返ることはなかった。
夜が明け、日が高く登り、また沈みかけても、女苑はずっと窓から雪景色を眺めるばかりで、なにも喋らなかった。女苑の態度は凍りついてしまったかのように変わらないが、紫苑の姉としての悲しみは、外で降る雪の強さと比例するように増した。
と、丁寧な掃除によっていまや完全に役割を取り戻したちゃぶ台の上で、女苑の携帯電話が震え、クソを垂れ流した。が、どれだけムカつくヒップホップでも、女苑を窓辺から動かすことは叶わなかった。
「携帯、鳴ってるよ」紫苑がラップの合間を縫うように口走った。「出ないの?」
女苑はビールを味噌汁でも飲むみたいに啜った。それがなんらかの意思表示であることは明白だが、どういう意味を持っているのか理解するのは骨が折れそうだ。
「出ちゃうからね」と、紫苑が携帯を手に取っても、女苑の関心は窓の外以外に向かない。「勝手に出ちゃうからね!」
蓋を開き、通話ボタンを押す。と、なにかの拍子にスピーカーモードになってしまったのか、びゅう、びゅうという風の音が大音量で耳朶を打った。
「もしもし?」ちゃぶ台の上に携帯を置いた紫苑が誰何する。「だれですか?」
電波が不快な周波数を運んできた。
『ウッホッホ!』
アルミの潰れる音が鳴った。
見やると、女苑が手に持っていた缶がプレス機にでもかけたみたいにぺちゃんこになっていた。さっきまでの儚さはどこへやら、みるみる殺気を帯びていく女苑に、紫苑は狼狽した。
「女苑?」という紫苑の呼びかけは当然のように無視された。
「てめえ、あのときのゴリラだな?」女苑の声は、いきなり怒気を含んでいた。「てめえがわたしのところの女を殺したんだな?」
紫苑は携帯電話と女苑を交互に見やった。ウホウホ言ってる通話相手も気になるし、女苑の「わたしのところの女」という発言も気になった。それに「殺した」?
「答えやがれ!」女苑の迫力に、いろんな疑問が吹き飛ぶ。とにかく、昨日から続く女苑の奇妙な態度は、この電話の相手が原因のようだ。「さっさと答えやがれ、この脳みそチビ助め!」
『ウホホ!』と、朝笑うような声。『ウホウホ』
「上等だよ、この野郎」
「言ってることわかるの?」
紫苑の問いかけは、怒りに支配されている女苑の耳には届かなかった。
と、ゴリラの声が遠ざかった。
「……たすけて、女苑ママ!」
若い女の声。だれの声かはわからないが、女苑が手引きして体を売らせている女には違いなかった。女は自分のいる場所を告げ、通話はそこで切られた。
女苑は携帯に拳を叩きつけた。粉々に砕け散り、内容物をぶちまけた携帯電話は、ちゃんとした知識さえあれば、パーツを分別して売ったら小遣いくらいなら稼げそうだった。
「ねえ、いまのだれなの?」怯えきった目で紫苑は尋ねた。「なんでなんにも喋ってくれないの?」
女苑は深呼吸をし、使い物にならなくなった携帯電話を一瞥し、後悔と怒りの混じった舌打ちを鳴らした。
「姉さんを危険な目に遭わせたくないから」実の姉でなくても百パーセント嘘だとわかる口ぶりだった。
「わたしだって女苑を危険な目に遭わせたくない」紫苑は負けじと言った。
「ハッ!」
「なによ?」
「わたしを危険な目に遭わせたくないなら、姉さんになにができるっていうの?」
「それは……」
「姉さんのその気持ちは嘘じゃないかもしれない」女苑はとっくにブーツに手をかけていた。「でも、結局なにもやらないなら、そんな気持ちは初めから存在しないのと同じなのよ」
紫苑は二の句を継げなかった。
女苑はブーツを履き終え、立ち上がり、玄関のドアノブに手をかけた。
「用事が済んだら」振り返らずに女苑は言った。「美味しいもの買って帰るから」
「女苑……」
「行ってくるよ」少しだけ開いたドアの隙間へ、体を滑り込ませるように外へ消えてく。
「女苑!」ドアが閉まる前に声を張り上げた。「じゃあ、コンビニのスイーツ買ってきて!」
閉まったドアの向こう側から、だれかが転ぶ音がした。
紫苑は玄関の鍵を施錠し、万年床に戻って、エアコンの暖房をつけた。それから、考えるでもなく、女苑のことを思い浮かべたりした。
よくできた妹だと思う。出来損ないの姉をちゃんと養ってくれるという意味で、女苑は本当によくやってくれてる。たまに愚痴さえ聞いてやれば、基本的につっけんどんだけど、そこがチャームポイントのかわいい妹だ。
でも、やることなすことが最低だ。甘言で相手を誑かしては金をせしめ、恐喝で相手をビビらせては金をせしめ、果てはひとつの世界を巻き込んだ異変で金をせしめ、おまけに女に体を売らせて金をせしめてる。
姉としては、止めてやるべきなのだろう。ただ、貧乏神としては自分を養ってくれる妹になにも言うべきではないのかもしれない。
一度だけ、自分の立場を忘れて女苑に言ってみたことがある。「ちゃんとした方法で金を稼げ」と。いまでも忘れられない。女苑がこう返したのを。
「ちゃんとした方法なんて、この世に存在しないんだよ。ちゃんとした目的はあってもね」
たまに考える。女苑が傷ついているとき。自分が傷ついているとき。女苑が酒を飲んでるとき。女苑の愚痴を聞いてるとき。女苑の「最低な手段」に自分も乗っかっているとき。
「ちゃんとした目的って、なんなの……?」
紫苑は冷蔵庫を開け、缶ビールをひとつ取り出した。ニトワイザー。ニトロイトでいちばんポピュラーなビール。細い指で苦労してプルタブを開け、気休め程度に炭酸が少し抜けるのを待って、口に含んだ。以前、ビールの炭酸が胃の中で弾けた衝撃で、内臓を損傷して病院に担ぎ込まれたことがある。体質的に飲むべきじゃないのは、紫苑も重々承知していた。
だけど、街に出てみれば、みんなシンナーやクスリをやってる。あれはもう、体質的に飲んじゃダメとかそういう問題じゃない。だというのにみんなやってるのは、やらずにはいられない理由があるからだ。紫苑にとってのビールは、ニトロイトの住民にとってのドラッグなのだ。
口の中で弾ける炭酸。胃の位置が体の外からわかるほど熱くなると、横にならずにはいられなかった。よだれ染みのついた枕に頭を乗せると、優しく微睡んだ。目蓋が重力に逆らえずに落ちる。一切妥協のない暗闇の中に浮かんだのは、先ほど、家を出て行く直前の女苑の背中だった。
たまらなく妹のことが愛おしくなってくる。ふつふつと胸の中で育ってゆく優しさや愛情の副作用として、いまの自分ならなんでもできるという錯覚に陥っていく。
「わたしにも言ってくれればいいのに」熱い息を吐き出しながら、紫苑は言葉を紡いだ。「体を売れって、どうして言ってくれないの……」
と、唐突にインターフォンが鳴った。この街に自分たちの家を知ってる知り合いはいないが、週に二、三回はインターフォンが鳴る。大抵は酔っ払って自分の居場所を見失ってるアル中か、クスリで脳みそを溶かしたジャンキーだ。普段なら無視するのだが、紫苑は布団から立ち上がった。女苑が出かけるときはいつも鍵を持っていくというのを、慣れないビールのせいで忘れてしまっていた。
「女苑!」と、玄関のドアを開けた。
知らない女が立っていた。
自分の意思とは無関係に視界が暗転し、重力から解放される。
寒空の下に晒されても、意識が飛んでくのをどうしようもなかった。
8
うんざりだ。雪の中を息を切らして走る。一瞥の価値もないゴミみたいなイルミネーションをやり過ごしながら、「うんざり」という言葉が実体を持ったようなやつらの間を縫う。普段着が工場の作業着のやつらが、女苑の体、或いは女苑の斡旋してくれる女の体目当てににじり寄ってくる。相手をしてやる暇などないが、ないがしろにして稼ぎ口を失うのも避けたい。とびきり愛嬌のある笑顔で「急いでるんで」という旨の発言でエロ親父どもを遠ざける。聞き分けのないやつには暴力も厭わない。
ああ、うんざり。水商売の売女が生きようが死のうがどうだっていいはずなのに、どうして自分は走っているんだ?クイーンほど稼いでくれるなら走る意味もあるだろうが、ゴリラに拐われたのはバーゲン品ほどの価値しかない安い女だ。なにがわたしを走らせる?
「くそっ、疲れた!」積もりかけた雪に足を取られつつも、女苑は走った。「寒いし!」
ようやく目的地に辿り着いたときには、感情まで凍りついていた。が、憎きゴリラが降り頻る雪の中から視界に現れると、怒りの種火がポッと灯った。
指定された広場は、普段ならストリート・ギャングどもが聴くに耐えないヒップホップを垂れ流しながら踊っているが、この雪の中ではさすがにそんなやつはいなかった。彼らが常日頃から嘯いている「スピリット」がどうのこうのという信念も大したことねえな。息を整えながら、悠然と待ち構えるゴリラに一歩ずつ近づく。その右腕には、金髪が収まっていた。
「女苑ママ!」
金髪が踏み出そうとするも、ゴリラの膂力の前にはなす術がない。そのゴリラは、金髪に顔を近づけ荒い鼻息を浴びせている。
「頭の中、F・U・C・Kの四文字で埋まっちゃってる感じ?」軽口を叩けるくらいクールでいられるのもいまのうちだ。「ま、わたしの頭ん中も『復讐』の二文字しかないけどな」
「ウホホ?」
「クイーンを殺したの、おまえだろ?」
腕の中の金髪が、ゴリラをキッと睨みつけた。売女と売女は馬が合わないものだけど、クイーンはそこのところも常識からかけ離れていた。クイーンは慕われていたのだ。
「あんたが姐さんを……!」金髪の目に涙が浮かんだ。「ママ、こんなのやっつけちゃってよ!」
「どうでもいい」
広場の中央にでんと構えるポプラの木のイルミネーションだけが光源の世界で、金髪だけが驚きの表情を作っていた。
「ゴリラになに言ったって仕方ないわな」
女苑はタバコに火をつけたが、一際強い風が吹いて火をさらってしまった。舌打ちをし、タバコを捨てた。
「やるか」
言葉が通じたか、或いは漲る敵意を感じ取ったか、ゴリラが金髪を離れたところに投げ捨てた。そこからゴリラが戦闘態勢を取るまで、女苑は待たなかった。女苑はここに来るまでの間に、利き手の指にモノホンのダイヤの指輪をはめていた。
躊躇いなく顔面にダイヤをめり込ませる。荒れた地面を耕すように、右で一発。会心の手応えを感じたが、入念の左ストレートを出し惜しみしたりしなかった。
人生は独りよがりなものだ。みんな、自分の都合のいいように事実をねじ曲げたり解釈したりしている。ダイヤ越しに感じた0.4カラット分の手応えも、女苑が勝手に感じたに過ぎない。
顔面にめり込んでいる女苑の、腕っぷしからは想像もできない細腕をゴリラは掴んだ。抵抗もむなしく、女苑は宙ぶらりんの状態になった。女苑は何度もゴリラの胸板を蹴ったが、地に足のつかない状況ではなんの効果も発揮しなかった。
──へえ……
絶体絶命のピンチの最中、女苑が思ったのは、なんとも呑気なことだった。
──ゴリラにも表情ってあるんだな……
トラックに轢かれたようなインパクトが腹から全身に駆け巡り、女苑は宇宙の果てまでぶっ飛ばされた。
9
「……あいつら、なにしてるんです?」
吉弔が尋ねると、半ば興奮気味に驪駒は答えた。
「やっぱさ、親交を深めるには拳からだと思うんだ」
驪駒の喋ってることは、時折吉弔の理解を超えるが、それはいつも通りのことだった。
「わかるだろ?」
まあ、実際のところはわからないでもない。理屈としては。
イルミネーションに彩られたポプラの樹の下で、吉弔と驪駒は殴り合うゴリラと女苑を眺めていた。ゴリラと女苑が殴り合ってさえいなければ、吉弔と驪駒はクリスマスに浮かれたピュアなカップルにでも見えたかもしれない。
だけど、実際はそうじゃない。
ここのところ、驪駒のいびきが変調を来していた。ただいびきの音がでかいだけならまだいいのだが、最近の驪駒は「ヒヒーン」だの「パカラッパカラッ」だの、馬を連想させるようないびきをしやがる。それが気になって仕方がない。音量の問題じゃないから、耳栓も意味がない。
ノイローゼの崖っぷちにまで追い詰められた吉弔は、驪駒が出かけてるタイミングで仮眠を取るようにしている。今日も吉弔は、睡眠薬をウイスキーで流し込んでいた。
ようやく微睡んだところで、驪駒が帰ってきやがった。
「おい、吉弔!いいもの見せてやるよ!」
いいものだと?寝ぼけ眼を擦りながら、吉弔は身を起こした。この世でいちばんいいものは、貴様の死ぬ瞬間だよ。
半ば強制的に連れてこられ、見せられているのがこの光景だ。
「殴り合いから芽生える友情……たまらないね」
「ふうん、そうなんですか」吉弔はギュッと拳を握りしめた。「じゃあ、わたし達も試してみます?殺す気で殴り合って友情が芽生えるかどうかねっ!」
腕力では黒駒に敵うはずのない吉弔だったが、殴りかからずにはいられなかった。案の定、軽くいなされて雪の上に転んだ。
──惨めだ……
いったい、どこで間違えてしまったのだろう?土の混じった雪を握りしめながら、吉弔は思わず泣きそうになった。決まってる。こんな街に驪駒と一緒に来たこと自体が間違いだったのだ。
街並みは油染みやゴミだらけで汚いわ、工場は騒音でやかましいわ、チンピラはところ構わずヒップホップを垂れ流すわ、売女は至るところで体を売ってるわ、ブルーカラーに売女と勘違いされるわ、驪駒はいちいち絡んでくるわ!
「もうやだあ……」気がつけばポロポロと涙が溢れていた。「畜生界に帰りたい……」
「吉弔」地面に突っ伏す吉弔の肩を、驪駒は優しく抱いてやった。「わたし達は殴り合う必要もないくらい親密な関係だろ?」
「……」
なんなんだ、こいつは?吉弔は呆れや怒りを通り越して、恐怖を感じつつあった。なんでこいつはヤクザなんかやってるんだ?敵対する組織の組長とすら仲良くなれるんなら、こいつなら世界をひとつにすることだって不可能じゃないんじゃないか?
吉弔の体から温かいものが湧いてきた。それは、遠い昔に忘れてしまったものだった。優しさ、思いやり、友情、恋や愛。
売女にとって重要なのは、客に好かれることではない。いかに自分が相手を好きになるかだと言う。吉弔は売女ではないが、友好な人間関係(吉弔は人間ではないが)を築くにおいて、これはひとつの真理なのではないかと吉弔は思った。
驪駒は信じられないほどの馬鹿だ。馬鹿って言葉が驪駒に相応しいことさえ許せなかった。馬と鹿、だと?これじゃあ驪駒と鹿が付き合っているみたいではないか!
けど、と吉弔は驪駒の手を取った。相手のことを好きになってみる。たぶん、いがみ合い殺し合いのヤクザの時代はもう終わったのだ。これからはヤクザも手を取り合う時代だ。
二人は横並びになって、女苑とゴリラの戦いを眺めていた。二人の周りの雪だけ赤く染まっている。向こうもそろそろわかり合うときだ。
「おお、そうだ」と、驪駒が口火を切った。
「なんです?」
「あれ、やっといたぞ」
「あれ?」
「交渉に使えるからポン引きの身内をさらっとけって話だったろ」
「……え?」
「おまえが言ったんだぞ」驪駒は葉巻に火をつけた。「ポン引きの身内を拐っとけって」
「ちょっと、ちょっと待ってください」吉弔は頭の中で話を整理し、ゴリラと戦う女を指差した。「いや、それならなんであいつらを戦わせてるんですか?身内を拐うなら、あんな茶番は必要ないじゃないですか」
「はあ?」驪駒が馬鹿を見るような目で吉弔を見た。「おまえ、殴り合いで友情が芽生えるとか、わたしが本気で言ってると思ってたのか?」
「……」
「ゴリラ霊なら簡単に倒せると思ったんだけど、あいつが善戦してるだけだよ。本気にしてたの?え?」
吉弔は口の中でなにかもごもごと言ったが、驪駒が決定的な一言を言うと、一気に頭脳が明晰化し、なにをすべきか瞬時に判断した。
「馬鹿だな、おまえ!」
吉弔は、腰からサタデーナイト・スペシャルを引き抜くと、驪駒へ銃口を向けて三回引き金を絞った。
0
1
乾いた破裂音に気を割いたのがいけなかった。
ちらりと視線を横にやった瞬間、女苑の体は遥か後方へ発射された。地面すれすれをなにもかも置き去りにするスピードでぶっ飛ぶ。ベンチにぶつかるまで女苑は浮いていた。背中を思い切り打ちつけた女苑は、吐き気を伴う苦しみに襲われた。
「女苑ママ!」と、金髪の不愉快な悲鳴。「い、いまの音、銃声じゃ……」
込み上げてくるものを嚥下しながら、女苑は立ち上がった。お気に入りのブランドものの服はとっくにズタボロで、ツインにまとめていた髪は片方のロールが解け、髪の毛の中には割れたグラサンの破片が混じっている。
口の中に溜まった血を吐き捨て、顔を叩いて気合を入れた。霞んでいた視界が少しだけ明瞭になったが、ゴリラのやつがどこにもいなかった。
ポプラの方に目を走らせると、ゴリラを視界に捉えることができた。野郎は女苑そっちのけで、いつの間にいたのやら、頭に奇っ怪な角を生やし、甲羅を背負った尻尾つきの女に猛然と向かっていくところだった。
女の足下には、また別の女が倒れていて、周りには黒い羽が散乱していた。黒い羽は倒れている女に生えた翼から抜け落ちたものらしい。
「ウホホホーッ!」
女苑と殴り合っているときは驚くほど冷静だったゴリラが、怒りを露わにして角女に襲いかかる。が、それよりも速く角女が銃口を向け、引き金を絞った。一発、二発、三発。体から血液が噴出するたびに、ゴリラの動きが緩慢になった。
──なにが起きてる……?
「ゴリラごときに、わたしを殺せると思いましたか?」
角女がまた引き金を引くと、ゴリラの巨体が弾け飛び、地面とキスをした。
びっこを引いて女苑が近づくと、角女が女苑に一瞥をくれた。拳銃を持っているからといって、自分がこの場を支配しているんだという態度が気に食わなかった。
「依神女苑……」角女はゆっくりと銃口を女苑に向けた。「わたしは吉弔八千慧。鬼傑組の長です」
「銃口を向けられながら自己紹介されるのは初めてだな」女苑は余裕ぶって笑ったが、どうしても虚勢を消せなかった。「あんたが河童の警察と繋がってるってヤクザか?」
吉弔は力なく首を振った。それが違うという意味なのか、答えるつもりはないという意思表示なのかはわからなかった。
ため息ひとつ分の間の後、吉弔が口火を切った。
「あなたの女を殺したのはわたしじゃありません」吉弔の口調は穏やかなものだったが、銃は依然としてこちらを向いている。「すべてそこの馬鹿女がやったことです」
吉弔が顎でさす方に、女苑は目を向けた。黒翼を生やした女が血を噴いて倒れている。
「じゃあ、このゴリラもそいつの部下か?」
吉弔は頷くと、今度は銃を倒れている驪駒に向けた。彼女自身、その鉄塊の持つ底知れぬ力に振り回されているみたいだった。
「単刀直入に言います」吉弔の視線は銃口と同じところを向いていた。「あなた、わたしの組の……」
吉弔が言い終わる前に、女苑は飛びかかっていた。ヤクザをなめていたとしか言いようがない。吉弔は視線を動かさないまま、拳を振り上げて襲いかかる女苑を銃床でぶん殴った。もんどり打って地面に倒れる女苑。
「あなたはこの駄馬のように馬鹿ではないはずだ」力を振り絞って立ち上がろうとする女苑に、再び銃口を向ける。「それとも、たかが商売道具をひとつ壊されただけで、ものごとの本質を見失うような低脳なんですか?」
なにを言われても体に力が入らなかった。
「本質、だと?」女苑は口の中に溜まったドロッとした血を吐き捨てた。「ヤクザがなんの本質を語るってんだ?」
「喧嘩ですよ」吉弔は女苑に向けていた銃口をスライドさせた。「あらゆる意味で敵わない相手に、ツッパる意味なんかないでしょう?」
銃口は、金髪の方に向いていた。
「あ、おい……」
「分不相応に振る舞えば、必ず代償が付き纏うことになる」
銃弾は無慈悲に発射され、無遠慮に金髪の体内をかき回し、無愛想に退出していった。
雪の上に血のアートを描き殴って、金髪は声も出せないまま地面にくず折れた。
反射的に体が動きそうになったが、動くべき方向を定められずにいた。吉弔をぶっ飛ばすべきか、それとも──
「依神女苑」放心状態だった女苑を、吉弔の声が引き戻す。「もう一度言います。わたしの下につきなさい」
「一介のポン引きに頼らなきゃいけないほど、ヤクザもやりくりに困ってるのかよ?」
吉弔はなにも言わなかった。とっとと女苑を屈服させたくてうずうずしている、という感じだ。その証拠に、引き金にかかった人差し指がぷるぷる震えている。それが寒さが原因じゃないのなら、自分の命もあと少しで終わりだな、と女苑は思った。
とびきり気の利いた辞世の句を考え始めた、そのときだった。
「ウッホー!」
「なにっ⁉︎」
虫の息だったはずのゴリラが息を吹き返し、立ち上がると同時に吉弔に突進した。一瞬、狼狽した吉弔だったが、すぐにゴリラに向けて弾丸を撃ち切るまで発砲した。
頭が半分吹き飛んだゴリラは今度こそ事切れたが、吉弔はそんなことに気を留めなかった。吉弔は弾の入っていない拳銃を捨てると、さっきまでそこにいたはずの女苑の気配を悟るのに集中した。
勝敗はすぐに決した。
崩れ落ちるゴリラの背後から影が飛び出した。同時に吉弔が後ろへジャンプしたが、背後には忌々しいポプラのクリスマスツリー。
逃げ場を失った吉弔の角を思い切り掴むと、女苑はダイヤモンドの指輪をはめた方の拳を振り上げた。
「くたばりやがれ、マザー・ファッカー!」
ハンマーでぶん殴られたような衝撃が吉弔を襲った。目眩、次いで吐き気。確認するまでもなく、頭が割れているとわかった。
血で染まった視界の中で、女苑がもう一度拳を振り上げるのが見えた。二度目はない。もしも血で滑って手が角をすっぽ抜けなかったら、既に死んでいる吉弔はさらに死ぬことになっただろう。
振り上げた拳の行き場所をなくした女苑は盛大に転び、今度こそ立ち上がれなかった。
「くそ……」頭を抑えながら、吉弔は女苑と距離を取った。「後悔しなさい、依神女苑……わたしに喧嘩を売ったことを……」
陰気な捨て台詞を吐き、吉弔は覚束ない足取りで退場した。
酸鼻な光景だった。撃ち殺された女二人と、ゴリラが一匹。身に付けていたものは尽くダメになった。とはいえ、失ったものと言えばそれくらいだ。自分の売女がひとりくたばったくらいで、ゴリラと黒翼の女に関しては知らない。
雪は祝福のように降り続けている。このままだと凍え死ぬかもわからないが、強大な力を持つ、それも拳銃を持ったヤクザに一矢報いることができたのが、女苑に諦めにも似た達成感を味わわせていた。死ぬ理由なんてないし死にたくもないが、死ぬなら死ぬで受け入れることができた。
と、体をチクチクしたものが触れた。それは暖かったが、チクチクしていた。そのチクチク具合が寒さに凍えているよりマシとは到底思えなかった。
「痛えんだよ!」
体を起こしてチクチクしたものを払い除けた。チクチクしたものはゴリラだった。
「おまえ……」
ゴリラにはまだ息があった。脳味噌を半分欠いているのに。ゴリラは口をパクパクさせた。空気を吸いたいのでなければ、なにか言いたいのだ。
ゴリラは先っちょのない人差し指で、倒れている黒翼の女を指した。女苑はそっちへ視線をやった。
黒翼の女はまだ生きていた。
「なんだ?」女苑はゴリラの口元に耳を近づけた。「なにが言いたいんだ?」
ゴリラが言った。
「ウ……ホホ……」
「……」
今度こそ完全にゴリラが死んだ。そう思っては蘇ってきたゴリラだったが、女苑には確信めいたものがあった。
ゴリラの体からなにかが抜けていく。女苑はそれを魂だと思った。魂は風に乗り、夜空へ溶けて行った。きっと、あのゴリラはとっくのむかしに死んでいたのだ。でなきゃ、ここまで執念深い理由の説明がつかない。
ゴリラの言ってることは最後までわからなかったが、伝えたいことはわかっていた。きっと、あの黒翼の女を助けてやってくれと伝えたかったのだ。
──知ったこっちゃないね……
血の混じった唾を吐き捨て、酔っ払いのような足取りでなんとか立ち上がると、ゴリラや金髪や黒翼の女を素通りしようとした。
できなかった。
考えれば考えるほど、あの吉弔とかいうヤクザを逃したのは痛手だった。ちゃんととどめをさせなかったばかりに、女苑はこれから命を狙われることになる。あのゴリラが示していたように、ヤクザというのは執念深いので、街を出たくらいでは逃げ仰せないだろう。
「……くそ!」
女苑は振り返り、黒翼の女の方へ寄った。女に意識はなかったが、口から白い息を吐いている。撃たれてからかなりの時間が経っているはずだが、タフな女だ。
女を背負って歩き始める。
なにかを踏みつけた。
見やると、降り積もる雪の中に沈んだ金髪の死体だった。踏んづけてしまったのは、自分を慕っていた金髪の死体だった。その目は悲しみとも驚きともわからない感情に見開かれていて。
女苑はくさくさした気持ちで、
「悪かったよ」
そして、また歩き出した。
『アーリー・タイムズ④』
1
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驪駒は夢を見ていた。夢の中で、驪駒は馬になっていて、背中にはだれかが乗っていた。
驪駒の目の前で、馬と馬がやっている。種馬の方が目隠しをされている。驪駒と背中の人は黙ってそれを眺めていた。
やがて、ことが済むと、飼育員がやってきて目隠しを外した。すると、種馬は発狂し、体をそこら中に打ち付けながら、嗎くというよりは悲鳴をあげながらのたうち回った。
「あの馬は親子だったんだ」背中の人が妙に懐かしい声で言った。「おまえにあれが耐えられるかな」
発狂する種馬を眺めて、飼育員は声を立てて笑った。それから、目隠しを持って驪駒の方へ近づく。
驪駒は逃げようとするが、体はどこにも縛られていないのに、どこへも行けない。声を出して訴えようとするが、声はついさっき聞いた悲鳴にしかならない。
目に布を被されたところで、覚醒した。
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女が目を覚ますまでに、女苑は家の周りを四周半回った。が、どこにも紫苑がいないとわかると、階段を登って玄関のドアを蹴り破った。トイレのドアと合わせて、これで二千万円分の請求書が河童から来ることになる。
部屋の中を凍風が入り込み、紫苑の布団で寝かせていた女が豪快なくしゃみを一発し、部屋の中を見回した。
女苑は、いまだ状況を飲み込めていない様子の女の肩を掴み、引っ張った。
「やい、こら。姉さんをどこへやりやがった?」
女はボーッとしたまま、体に巻かれた包帯を不思議そうに眺めたり指でなぞったりした。「手当てしてくれたの?」
「しらばっくれんなよ、てめえらが姉さんを拉致ったんだろ!」
「ああ、そうか。八千慧が……」女は傷痕を指でいじくり回した。
「姉さんをどこへやったんだよ!」
「依神……」
「なんだよ?」
「なにか食わせてくれ」
絶句した。人様の身内を拉致っておきながら、なにか食わせてくれ、だと?ヤクザってのは、どこまでパンピーから搾取すれば気が済むんだ?
「姉さんを返せ!」女苑は、一瞬女を殴りそうになったが、怪我を考慮してその辺の壁を蹴った。「姉さんの居場所を教えたら食わせてやる」
「事務所だ。わたしと吉弔の」飯の力とは大したものだった。「それにしても、うーん……吉弔のやつ、あんなもんを持っていたとはね」
女苑は新しいコートを羽織ると、ドアのなくなった玄関へ向かった。
「ひとりで行く気か?」と、女。
「おまえが助太刀してくれるのかよ?」
「まあ、わたしも撃たれたしな」女は立ち上がり、それから一息ついた。「ゴリラ霊も死んだのね」
「霊?」
女苑は首を傾げたが、すぐに自分なりに納得した。あのゴリラの執念深さは、たしかに霊的ななにかに取り憑かれていてもおかしくはない。
「八千慧には……」はあ、と大きなため息をつく。「大きな貸しができたな」
「返して貰いたいなら、とっとと事務所まで案内しやがれ」女苑はちらちら外を仰ぎ見た。「来ないならひとりで行く。ひとりで吉弔をぶっ殺して、その後はおまえだよ!」
「まあ、落ち着けって」
「落ち着け、だあ⁉︎」女苑は壁を蹴った。これ以上は部屋の温度を下げたくなかったので、力は加減した。「こっちは唯一の身内をヤクザに拐われてんだぞ!」
「そんなカッカッしてたら勝てる喧嘩も勝てないぞ」女は近くに落ちていたタバコを拾い、咥え、火をつけ、むせた。「くそ、またメンソールだよ」
女苑は冷静になろうとしていた。が、姉の安否が焦燥に火をつける。「てめえは勝てる喧嘩しかしない腰抜けのヤクザなのか、お⁉︎」
「愛のためなんだ」
「……」
そのあまりの突飛さに、女苑は鳩が豆鉄砲を食ったような面になった。なんで言ったんだ、いま、こいつは。あい?あいって、愛のことか?なんでこのタイミングで、愛?
それにしても、ええ?ヤクザが「愛」だって?冷静にならずにはいられない。ヤクザが愛を云々抜かすなんて、木の葉が沈んで石が流れるようなものだ。
「おまえの姉を拐ったのも、敵対してる吉弔に協力を仰いで地上に来たのも、愛のためなのよ」
愛がある、と言った女の顔は誇らしげだった。そりゃそうだろうな、と女苑は思った。愛がいちばん大事だと信じてるやつには、ほかになにもなくったって愛があるんだから。
馬鹿な話だ。だけど、もしかしたらこの女は馬鹿なのかもしれない。馬鹿なやつが馬鹿なことを抜かすと、そこに不思議と一抹の真実味が生まれる。だれだって愛のために本気で生きてるやつを嫌いになんかなれない。
女苑は冷蔵庫からあまりものの惣菜を取って、女の前に出してやった。女は総菜を見、それから女苑を見た。女苑が頷き返すと、女はそれを貪った。
「依神女苑」女苑は名乗った。「あんたは?」
「驪駒早鬼」驪駒と名乗った女は、口から野菜の屑をボロボロ落とした。「勁牙組の組長だ」
驪駒・ザ・イケイケ組長は大きなゲップをし、再び部屋の中を見回した。驪駒の視線を、女苑も追った。もともと汚かった部屋は、紫苑を拉致られてキレた女苑のせいで、黙示録級の大惨事になっていた。
「地上に会いたい人がいてさ」訊いてもないことを、驪駒は勝手に話し始めた。「その人に会うために、この街を足がかりにして勢力を広げようとしたんだ」
「そのためにあの吉弔を利用していたんだな」女苑は吉弔の顔を思い浮かべた。狡猾で残忍で、自分の女を殺したときの笑みを。「それで、裏切られた」
「途中まではうまくやってたんだけど」驪駒は苦々しそうにタバコを吸った。「なんか、いきなりキレたんだよ。あいつ、たまにいきなりキレんだよ」
「ただの仲違いかよ」女苑が鼻で笑う。「ヤクザってのは、ただのお遊びグループなのかい」
「なんだと!」
「で、愛の使者の驪駒さんはどうするつもりなんだ?吉弔にやられっぱなしでいいのか?」
驪駒はしばし思案顔になったが、すぐにその顔に理解の光がさした。その表情に、邪魔者の存在を消してやろうと決定したときのような邪悪さはなく、解けなかった難問にすっかり合点が行ったときのような爽やかで無垢な笑みが張り付いていた。
「まあ、やるしかないわな」
「だな」女苑は冷蔵庫の脇に置いてあるウイスキーの瓶を取ってきて開けた。「どうする?」
「酒は傷の治りを遅くするぞ」タバコの灰を灰皿の上でタップし、「わたしにもくれ」
「あいつは拳銃を持ってるだろ?」
瓶口を舐め、驪駒は舌打ちをした。
「くそ、こいつも吉弔がいつも飲んでるやつだ。ああ、いつの間にあんなもの懐に隠してたんだろうな?」
「ヤクザなら拳銃くらい持ってるもんだろ?」
「わたしは徒手空拳でやってきた」
女苑は確信した。こいつは馬鹿だ。これで思い知ったに違いない。徒手空拳じゃ拳銃にはとても敵わないってことを。
──けど、まあ……
「二人なら、行けちゃう?」
女苑が言うと、当然だろ?と言うように驪駒が笑った。
「わたしは吉弔みたいに頭を使うのが苦手なんでね。やるなら真正面からドーンとぶつかるのがわたし流さ」
ウイスキーの瓶が驪駒の手から女苑に渡った。「拳銃相手に真正面から突っ込んで死んだやつを見たことがあるぜ」
「だれだ?」
女苑は酒で唇を濡らした。「あのゴリラだよ」
「あいつはうちの幹部のひとりだったんだ」
「あんたのことをとてもよく慕っていたみたいだったしね」
少し寂しげな表情を浮かべてから、驪駒は言った。「でもまあ、二人だし?」
「やれちゃうってか?」
いざとなったらこのアホなヤクザを囮にしてやろうと言う抜き差しならない目を伏せながら、女苑は笑った。驪駒も笑った。
「わたし達、うまくやっていけそうだな」
ヤクザの言う「うまくやっていけそう」ほど信用ならない言葉もないが、女苑は頷いてやった。いままで生きてきて酸いも甘いも舐め尽くしてきたけど、こんな純粋無垢な笑顔で「うまくやっていけそう」なんて言うやつに打算なんかあるはずがない。
ヤクザになりたくてヤクザになるやつなんて、実はそんなにいないのだろう。売女になりたくてなるやつだって、クイーンのようなビッチを除けばいない。自分だってそうだ。疫病神なんかやってられない。けど、そういう風に生まれついてしまった。それならどうすればいい?なりたくもないものになってしまったら、せいぜいへっちゃらなふりをして生きていくことくらいしかできないか?
差し当たっては、それくらいのことしかできない。それに、いまはそんなことを考える時間じゃない。
「和を以て貴しとなす、だ」と、驪駒が自分を賢く見せるための虎の子を出した。
「なに、あんた、聖徳太子のファン?」女苑は嘲笑した。「わたしもファンだったよ。あいつの顔が印刷された紙をたくさん集めてたんだ」
「それ、くれよ」
「もうない」
「くそ」
割と本気でしょんぼりしている驪駒を見るにつけても、申し訳なくなってくる。この世には、どうしてそんなものが好きなのかと尋ねたくなるようなものを好いているやつが、たしかにいる。
いたたまれない空気をどうにかしようと、女苑は立ち上がった。
「行くぞ、吉弔のところに」
頭の中で聖徳太子の情婦になる想像をしていそうな驪駒が、吹っ切れたように床を蹴って立ち上がる。
「ああ。吉弔を倒して、この街をわたしのものにすりゃあ……」驪駒は両手で顔をパチンと叩いた。「よっしゃ、やってやるぞ!」
女苑の体は痣だらけで、まともに動くところなんか──普段と比べて──ひとつもない。片や驪駒の体は穴だらけで、普段のスピードとパワーで働けば、たちまち全身から血を噴き出して死んでしまうだろう。おまけに相手は鉄砲を持っていて、こっちは武器もなにもない。
関係ない。女苑には唯一の肉親がいて、驪駒には懐かしき憧憬の人がいる。それだけで、二人にとって動ける理由になった。
「おい、前から思ってたんだけどさ、そんな服で寒くないの?」
驪駒が女苑の服装を指摘すると、女苑はすでに勝ち誇ったように笑い、断言した。
「ノースリーブは最強なんだよ」
2
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驪駒早鬼を撃ち殺し、ゴリラを射殺し、金髪の売女の脳味噌をふっ飛ばしたときも、吉弔八千慧は至って冷静だった。驪駒早鬼に銃弾を浴びせるときも「三発だけ撃とう」と決めて引き金を引いた。本当に冷静じゃなかったら、驪駒に「馬鹿」と言われて三発じゃ済まない。
女苑に頭を割られたときも冷静だった。頭から血が流れたせいかもしれない。吉弔は決して自分の実力を驕らず、冷静沈着に身を引いた。
それからは疾風怒涛だった。
まず、街中のチンピラに招集をかけた。驪駒の目を掻い潜り、吉弔が能力を使って従えたチンピラだ。どいつもこいつもクスリやシンナーや吉弔の能力のせいで虚な目をしているが、喧嘩ってのは数だ。満身創痍の女苑なら、わざわざ自分が出向く必要はないだろう。
それから、畜生界で留守番をしている組員どもにも召集をかけた。こちらは場所が離れているから即戦力と言うわけにはいかないが、保険にはなる。
それから、警察への根回し。ニトロイト警察はすでに吉弔の手の内に収まっているが、念には念のため。女苑を見つけたら自分の前に連れて来い、と吉弔は命じた。金のためならなんでもやる河童どもだ。最初から逆らう気力なんか持ち合わせていない。
そして、最後は銃の手入れをした。ひとつひとつ、丁寧に。サタデーナイト・スペシャルとは粗悪な拳銃の総称だ。どれもニトロイトで出回っているもので、あまりいい噂は聞かない。これも入念に手を入れておくに越したことはない。
一通りやることを終えた吉弔は、事務所のソファで「ふう」と一息吐いた。それから、頭を抱えてふさぎ込んでしまった。
──やってしまった!
吉弔にとって驪駒の失脚は夢にまで見た出来事ではあるが、なにも自分の手を汚す必要はなかったし、いまである必要もなかった。畜生界の巨大な組織のひとつ、その長を殺してしまったとなれば、勁牙組の残党との戦争は免れない。いや、いずれは戦争も辞さない覚悟ではあったが、それは数ある選択肢のうちのひとつであり、戦争を起こさないならそれに越したことはなかったのだ!
──どうする……?
考えがまとまらないのは、なにも考えることが多すぎるから、というわけじゃない。さっきから「お腹減った」だの「帰りたい」だの、やかましいのが同じ空間にいるからだ。
「うるさいっ!」声の方に思わず叫んだ。「ええ?ヤクザに拉致られて、よくそんなに呑気でいられるものですね。死にたいんですか?」
「なにも食べなきゃ、どのみち死んじゃうし……」女苑の姉、紫苑は腹の虫が喋っているような声で言った。「言ってみるだけ、変わるかもしれないじゃない?」
吉弔はまた頭を抱えた。この世はどれだけ悲しみに満ちていると言うのか?ヤクザに拉致られてまで考えることが飯の心配だなんて、こんな街を自分のものにしたところで、価値なんかなんにもないんじゃないか?
頭がズキズキ痛むので、なにも考えないようにした。やるべきことはやった。問題は現在進行形で、先のことを考えるのはいま起きてることを片付けてからにしよう。吉弔がいま望むこと、それは依神女苑の死、或いは屈服だけだった。
紫苑が耄碌したババアのように「腹が減った」と宣うたびに手入れしたばかりの拳銃を試してみたくなるが、吉弔はどうにか溢れ出る衝動を抑え込んだ。こいつは女苑を屈服させるための切り札だ。吉弔は、その能力が示
すように、だれかを屈服させるのを至上の歓びとしている。殺すのは妥協に過ぎないし、かなり後悔を伴う妥協になる。ときにはいるのだ。死ぬ直前まで誇りを失わない、みたいな時代錯誤も甚だしい馬鹿が。
吉弔はくしゃくしゃのパックを取り出し、一本を咥え、火をつけた。メンソールのスッキリした香りが、幾分か思考や感情を整然とさせる。そうすると、いまの状況が大してヤバくもないように思えてくる。
なんて言ったって、驪駒はもういないのだ!あの目の上のたんこぶ、飛んで火にいる夏の虫、足手まといで煙たい存在の驪駒がいない。これはつまり、将来の成功を約束されたようなものではないか!
途端に気分がよくなってくる。自分が嫌いなやつが自分にとっていいことをなにかひとつだけできることとすれば、それはとっととこの世からおさらばしてもらうことだけだ。
吉弔は紫苑の手を縛る縄を、修学旅行のお土産感覚で部屋の隅に置かれていた長ドスで切ってやった。
「さっきは怒鳴ってすみませんでした」まるで邪気のない笑みで、吉弔は心からそう言った。「あっちの部屋にある冷蔵庫の中身を好きなだけ漁ってきていいですよ、犬のようにね」
紫苑は吉弔の豹変っぷりを異常とは一切思わず、目を輝かせた。「いいんですか⁉︎」
もちろん、死んだ祖父母の客人を案内するように慇懃に頭を下げた。どうせその冷蔵庫の中身は捨てるところだったしね。
やるべきことが見えてくると、吉弔は頓着しなかった。指をパチンと鳴らすと、すぐに側近のカワウソ霊が音も立てずに入室した。
「カワウソ、いまから依神女苑を叩きに行きます」
「は、はあ……しかし」
カワウソは神経質に部屋を見回したり、なにかひとり言を呟いたりした。
「どうしたんです?」普段なら小言の一言でも言ってやるところだが、いまの吉弔は気分がよかった。「なにか言い難いことが?」
「そ、それが、その……」カワウソは視線を吉弔から逸らしながら、訥々と言った。「女苑の方から事務所まで向かってきているらしくて」
吉弔はさほど驚かなかった。想定済みだ。姉を奪われた女苑が、怪我の治りも待たずに攻め込んでくるのは。
「チンピラどもに、もう一度伝えておきなさい。女苑は生け捕りにして、わたしの前へ連れて来させよ、と」
「あの……」
「なんです?」
「驪駒も来ているみたいです」
「……」
吉弔は無言で拳銃をカワウソに向けた。
「つまらない冗談ですね?カワウソ」机を蹴って椅子から立ち上がると、吉弔は銃を向けたままカワウソに詰め寄った。「驪駒がなんですって、ええ⁉︎」
「だ、だから、その……」吉弔の剣幕にほとんど涙目になりながら、カワウソは訴えた。「驪駒が、驪駒が生きてたんですぅ!」
一瞬、引き金を引いてやろうかと思った。そんなことをしたって意味がない。が、意味がないからやめたと言うと、それも違う。
驪駒が生きている。
弾を無駄にするべきではない。
もはや冷静さなど、驪駒を殺す上では邪魔なものでしかなかった。
3
1
一筋縄ではいかないことは理解していたが、吉弔に辿り着くのは、予想を遥かに超えて面倒だった。群がるチンピラどもは脳味噌なんかあってないようなものだから簡単に倒せるが、数で来られると果てしなく面倒くさい。
「相手は吉弔ひとりじゃなかったのかよ⁉︎」クソにたかるハエのように寄ってくるチンピラを蹴散らしながら、女苑は怒鳴った。「こんなにいるなんて聞いてないぞ!」
敵から奪った鉄パイプで道を切り拓く驪駒が叫び返した。「これくらい、どうってことないだろ!」
吉弔の事務所までは、まだまだ道を何度も曲がらなくてはならないと言う。ふつうに歩けば二十分かそこらの道のりで、二人は足止めを食らっていた。
体が本調子ではない。女苑はゴリラとやり合ったときの傷が、驪駒は吉弔に撃たれた傷が、明らかに身体能力に失調を来していた。
それでも走った。チンピラを殴るたび、吉弔への恨みが晴れていくような気がした。その程度の復讐心なのかもしれない。女苑は思った。女を殺され、稼ぎを減らされ、そんでもって、チンピラどもをぶちのめすだけで気持ちが晴れてくなら、いま、自分を動かしているものはなんなんだ?ここいらに妥協点がありそうで、足を止めてしまってもいいような気さえしてくる。
だけど、走る。身も世もない連中をぶちのめしながら。やがて、殴ること自体が楽しくなってくる。この調子で行けば、殴られることさえ楽しくなってくるだろう。
快楽と苦痛の中で意識が混濁し始めたころ、風を切る音が聞こえた。細胞のひとつひとつが危険信号を発する。それに牽引されるように目を走らせる。迫ってきているのは重たそうなチェーンで、食らえば立ち上がれなさそうな一撃。
と、またなにかが目の前で風を切った。吉弔との戦いのこともあって、弾丸が飛んできたのかと思った。
見やると、驪駒が自分の代わりにチェーンを食らっていた。
「依神ぃ!」チェーンを引きちぎりながら、驪駒は口を動かした。「今夜のおまえは、間違いなく愛の使者だな!」
「は、はあ?」
「金のためだけじゃ、こんなに動けないだろ?」驪駒は女苑に喋らせなかった。「行けよ!こいつらはわたしが引き受けるから、おまえは、はやく姉に会いに行ってやれ!」
忙しなく動き続ける、混迷極まる現実に脳味噌が追いつかない。敵はいまも鉄パイプやチェーンを持って、ひっきりなしに襲いかかってくる。中にはラジカセを持ってるやつもいる。
愛の使者、か。悪くない。驪駒の横を通り過ぎ、女苑は雪の上を、限りなく楽しげな笑みを浮かべながら軽やかに走った。クソみたいなヒップホップを切り裂くような気高い嘶きが、背中を押してくれた。
ポン引きが、随分と出世したもんじゃないか!
『アーリー・タイムズ⑤』
天から見放されたような薄汚い雑居ビルの三階に、驪駒と吉弔の事務所はあった。吉弔の側近と思われる、少なくともチンピラよりは殴り甲斐のありそうなやつらが、ビルの警護に当たっていた。驪駒が辣腕を振るってるおかげで、追手が来る気配もない。
最初からそうするつもりだったから、女苑は敵の前に出ることに頓着しなかった。吉弔の側近──全員カワウソに似ている──が彼女の前に立ち塞がった。が、それだけで襲っては来ない。
西部劇に出てくるタンブルウィードのようにレジ袋が風に転がされてくる。それを皮切りに、女苑は口火を切った。
「おまえら、霊なんだって?」警戒を続けるカワウソどもを一睨する。「かかってこないってことは、霊のくせに命に執着があるみたいだな」
カワウソどもは仲間内で目配せをしたり、コソコソとなにか喋ったりした。おまえが言え、いいや、おまえが言え、と責任の押し付け合いをしているみたいだった。
「お、おまえが女苑だな」たったいま決められたようなリーダーが、小さな口を動かした。「入れ。組長が中で待ってる」
互いの腹の内を探るような間があった。
女苑はビルの三階を見上げた。吉弔や紫苑らしい人影は見受けられなかった。女苑は入り口に向かった。
「組長御自ら会ってくれるとは光栄ね」通り過ぎ様にいちばん近くにいたカワウソの鼻っ面をぶん殴った。「今度こんな舐めた態度取ったら、ただじゃ済まねえからなぁ」
今度はないけどな、女苑は郵便受けの並ぶエントランスを通り、奥の非常階段で三階まで登った。
驪駒のと思わしききったない字で「勁牙組&鬼傑組事務所」と書かれた看板がドアの前に出ていた。それを見て、幾分か気分が和んだ。
ドアノブに手をかける。あらゆる展開を予想する。ドアを開いた瞬間に撃たれる、入った瞬間に横からドスで刺される。ドアノブの捻り具合が爆弾かなんかと連動してて、開いた瞬間にボカン──搦手こそ最強を信条とする吉弔のことだ。どんな策を張り巡らせていてもおかしくない。
結局は考えても無駄だと言うことだ。女苑は静かにドアノブを捻り、風呂を覗こうとする変態みたいにそっとドアを開けた。
いきなり、ボカン、というようなことにはならなかった。銃声が鳴るようなこともない。
吉弔はたしかにそこにいたが、女苑が想像していたような殺気は感じられなかった。
だというのに、動けない。吉弔の視線は女苑を捉えて離さない。女苑は思わず目を逸らしたくなったが、勝負は既に始まっている。少しでも精神的優位に立たなければならない。
「驪駒は?」
朝露が地面に弾けたような声で、吉弔は尋ねた。おまえなんざ論外、てな侮蔑の目は、しかし、しっかりと女苑に向けられている。
「さあね」女苑は肩を竦めた。「足手まといだから置いてきた」
テーブルの上に散らばった食べ物のカスや容器。よく手入れされたマホガニーの机。申し訳程度に置かれた観葉植物。壁にかけられた額縁に入れられてるのが「十七条の憲法」でなかったら、一般的なヤクザの事務所のイメージとそうかけ離れてはいなかった。実際に足を踏み入れてみると、どこか落ち着くレイアウトですらある。
女苑のすぐ側をなにかが通り過ぎていく。遅れて、破裂音。左に纏めた髪が解け、何本か宙に舞った。
立ち上る硝煙を息で吹き消すようなキザな真似は、吉弔はやらなかった。
「驪駒が足手まとい?」
女苑はいま、三つの殺気に絡め取られていた。吉弔の双眸に、自分の脳天を狙うどこまでも暗い銃口。
「あなた如きにわたしを倒せるはずがない。……そうか、驪駒が囮になったのですね」
「いつもの搦手はどうした?」軽口を叩きながらも、女苑の両手は頭の上に行きそうになっていた。「鬼傑組の組長は搦手が得意だって評判なんだろ?わたし如きには必要ないってか?そのチャチな拳銃でわたしを殺せるか試してみろよ」
挑発に乗って少しでも熱くなって照準を逸らしてくれれば、と思ったのだが、吉弔は憧れたくなるくらいクールだった。それが気に食わない。
「姉さんを返せ」
露骨に雰囲気の変わった女苑にも、吉弔の感情のメーターは微動だにしない。が、女苑を捉えて離さなかった瞳が、少しだけ左に動いた。そこには別室へ繋がるドアがあった。
「そこだな?」
女苑はドアに向かって足を踏み出した。
と、また銃声。
体に穴が空いていないか確かめずにはいられない。どこも痛くないし、どこも熱くなかった。
「勘違いをするな」吉弔の眉間にシワが寄る。「おまえの姉はもういない」
「……そのドアの向こう側を改めさせろよ」
吉弔の眉間に寄っていたシワが解れる。それから、ため息と一緒にいろんなものを吐き出そうとした。
「あなたはポン引きでしたね」
「……あ?」
「ポン引きが街中の女を手込めにしているのに、家族だけ特別扱いって言うのは、ちょっと不公平だと思いませんか?」
「なにを……」胸の中にふつふつと湧き上がっていた嫌悪感が、水風船のように膨れ上がった。「おまえ、まさか!」
「あんな痩せた女でも、商品的な価値はある」そこで吉弔は、初めて笑みを見せたのだった。「せいぜいバーゲン品程度の価値ですがね」
獣のように女苑は突進した。
恍惚の表情を浮かべながら、吉弔は引き金を引いた。
体の一点が弾け、女苑は後ずさる。
どうしても足が前に出なかった。
「姉さんを……てめえ」気炎と血液が口の中で奔流し、迸った。「ちくしょう……姉さんの体を売りやがって……ああ、くそ」
膝をつく。腹に客人のように居座る異物感、熱、痛みは、女苑から恨みや殺意を着実に削いでゆく。
エクスタシーに達したような表情で、吉弔は女苑を見下ろした。
「どうです?身内を売られた挙句、体に穴が空いた気分は……」
最悪だった。意識が遠のく。重力が何倍にもなったかのように体が重く、立ち上がるどころか、吉弔を睨みつけるために面を上げることさえ叶わない。
「このままだとあなたは死んでしまう」
血の混じった唾を嫌いなやつに吐きかけられる機会なんて滅多にないのに、すべて床に溢れてしまうのが勿体なくて仕方がない。
「大好きなお姉さんにも会えなくなってしまう」
吉弔の声が、催眠音声のように脳内に浸透してゆく。記憶のドアをノックするように、優しく響き渡る。
「取引……いえ、これは命令です」
吉弔の声が、姉の声とオーバーラップする。
「わたしに忠誠を誓いなさい」
答えは『決められていた』。
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売られた喧嘩を買わずにはいられない驪駒が、チンピラをひとりひとり丁重にもてなしてから事務所に辿り着いたのは、女苑を送り出してから二十分ほど経ったころだった。
ドアを蹴破る前から血の匂いがしていたが、蹴破ってからはより濃くなった。
吉弔がソファで寛いでいたが、それよりも注目に値したのが、真っ赤なカーペットの上からでもわかるほどに広がった血の染みと、吉弔の横に座っている、血の気の失せた顔色をした女苑だった。
「やい、吉弔」壁に手をかけ、荒い呼吸を整えながら、驪駒は言葉を紡いだ。「こんなに事務所を汚しやがって」
世間話でもするふうに、吉弔は顔を向けずに答えた。「お互い様でしょ?」
「わたしがいつ事務所を汚したってんだ?」
馬鹿か本気かわからない質問には答えないようにした。「どうして生きてるんです?」
驪駒は自分の体をあらため、「おまえが甘かったから」
「ですね」
「珍しく素直だな」
「次は上手くやりますよ」
「次は」と短い言葉を紡ぎ出す間に、驪駒は瞬時に距離を詰めた。「ない!」
驪駒の蹴りは、吉弔には届かなかった。
代わりに、女苑のダイヤモンドの指輪が驪駒の腹にめり込んでいた。
「お、おまえ……?」予想だにしなかった攻撃に、驪駒は現実を受け止めることができなかった。「な、なにやってんの……?」
「彼女はわたしに忠誠を誓ってくれました」女苑の代わりに、吉弔が答えた。「初めからこうすればよかった。初めから、わたしが女苑に……」
ここに来るまでの傷が堪えたのか、驪駒は床の上に蹲った。
至福の光景──夢にまで見た、驪駒が自分の前に傅くのを見て、吉弔は身も世もないほど笑い、それから怒りや後悔で顔を歪めた。
「貴様さえいなければ!」吉弔は手に持っていた銃で驪駒の頭を殴りつけた。「初めから、貴様さえいなければ、相手にするのはあの傲慢なだけの無能饕餮だけでよかったのに!こんな街に来ることもなかったのに!」
驪駒はなすがままにされていた。
女苑が傍でなにか呟いている。「姉さんを守らなきゃ」「姉さんに会いたい」
奇跡が起きそうな気配はない。驪駒の傷がいきなり完治するとか、女苑が前触れなく正気に戻るとか、吉弔がいきなり血を噴いて倒れるとか。そんな奇跡は、だれの目に見ても起こりそうになかった。
死ぬのか、と驪駒は思った。死ぬんだろうな。一度経験したことがある分、その分だけ恐怖は和らいでいた。
──けど、なあ……
「女苑、驪駒にとどめを刺しなさい」
──このまま突っ走ってたら、また会えると思ったんだけどな……
現実が音を立てて崩れ始める。机が倒れ、ソファが吹っ飛び、女苑が壁まで突き飛ばされた。
吉弔がなにか喚き立てたが、驪駒の耳にはもう聞こえなかった。
目蓋の裏に愛しい人の姿はなく、ただ宇宙のような闇が広がっているだけだった。
5
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後頭部の鈍い痛みで、女苑は我に帰った。血や疲れで霞んでいる目を擦ると、どう考えても記憶と合致しない惨状が広がっていた。テーブルやソファが倒れ、家具に紛れるように驪駒も倒れている。
入り口の方には、ビシッとした制服を着込んだ連中が、手に手にリボルバーを構えて立っていた。
「いきなり入ってきて、なんです?」吉弔の手からは拳銃が消えていた。「我々はなにもやましいことなどしてませんよ」
「ニトロイト警察だ!」河城にとり・ザ・ポリスメンは吉弔に銃口を向けながら声を張り上げた。「なにもやましいことはしてない、だとぉ?白々しいんだよ!」
言うが早いが、魔法のように拳銃を手に取り出した吉弔は、警察どもに向けて早撃ちを披露した。何人かが近くの遮蔽物に隠れ、何人かが凶弾に斃れた。
女苑は身を潜め、的にならないように終始することに決めた。さすがの吉弔も、銃を持った多勢が相手じゃ終わりだ。
応戦するポリスメンの攻撃を交わすためにマホガニーの影に隠れた吉弔・ビリー・ザ・キッド。幾つもの弾丸がマホガニーを削り、抉った。
「吉弔を追い詰めろーっ!」河城にとりが指揮を取る。「机を囲め!」
河童どもが統率の取れた動きでマホガニーの周辺に集まった。終わりだな、吉弔──そう思ったのも束の間、河童どもが断末魔を挙げながらドミノのように斃れてゆく。
規則的にばら撒かれる銃声は、吉弔の得物がさっきまでと比較にならない性能をしていることを表していた。女苑は遮蔽物から少しだけ頭を出して、吉弔が持っているものを確認した。
──サブ・マシンガン!
「退却、退却ー!」役立たずの警官どもは、逃げるのに足枷になりそうなものを放り捨てながら事務所を出て行った。「応援を呼べーっ!」
警官が捌けると、こめかみから血を流した吉弔がサブ・マシンガンの弾倉を入れ替える。女苑は必死に息を潜めていたのだが、間が悪かったのか月の満ち欠けが原因なのか、吉弔と目が合ってしまった。
吉弔は近くに落ちていた、警官どもが置いていったリボルバーを蹴飛ばした。弾かれたリボルバーは、別室のドアの前で止まった。
マシンガンを構えながら、有無を言わさぬ語気で吉弔は言った。
「依神女苑。わたしに協力しなさい」
吉弔の声には、さっきまでのような抗い難い魅力のようなものが欠けていた。動こうにも、女苑は動けなかった。
いや、動かなかった。
「はやくここから逃げなくては……わたしに協力しろと言っているのです!」
「そ……」女苑は笑った。吉弔に見せた笑顔の中で、いままででいちばんいいやつを見せてやった。「その必要はないみたいだぜ」
「なにを……」
ハッとして吉弔が振り返る。
音が鳴る前には、ケリがついていた。しかるべき軌道を通り、吉弔の腰の辺りを貫通して出て行った弾丸は、壁にかけられた『十七条の憲法』の第六条の部分に直撃した。
「依神……」血と言葉の区別がつかなくなったみたいに、吉弔の声は精細に欠けた。「し、しお、ん、か……」
血の海に沈む河童、吉弔、そして女苑。立っていたのは、最後まで立っていたのは、リボルバーを手に持って震える紫苑だけだった。
「じょ、女苑……」紫苑の手からリボルバーがこぼれ落ちた。「わ、わたし……お腹いっぱいになったら、眠っちゃってて……音がたくさんして、目が覚めたら吉弔さんが……」
女苑は優しく微笑んでやった。それはもう、聖母のように、祝福のように優しい笑みを振り撒いてやった。それから、体に鞭打って立ち上がると、紫苑を抱きしめた。骨が折れるくらい、強く。
「き、吉弔さんが女苑を……撃とうとしてたみたいだったから……わたし、彼女にごはんを食べさせて貰って……」
「姉さん」
「な、なに?」
女苑は、懐からフィルムに包まれたぐちゃぐちゃの物体を取り出した。
「なに、これ?」
「コンビニのスイーツ」女苑は照れ臭そうに笑った。「食後のデザートに、どーよ?」
事態の終息を告げる慌ただしい足音が、事務所の外から聞こえてきた。
『アーリー・タイムズ⑥』
エピローグ
「……飯はちゃんと食べてる?」強化アクリル板の向こう側で、紫苑が頷いた。「声を聞かせてよ、姉さん」
「うん、うん」紫苑は受話器を持ち直した。「ちゃんと食べてるよ」
「そっか」河城にとり・看守の方をちらりと見る。「もうすぐここを出られるから、待っててよ、姉さん」
「それはおまえの態度次第だがな」にとりが茶化すように言った。「金次第でもあるぞ!」
女苑はにとりに鬼のような一瞥をくれ、すぐに紫苑に向き直った。
「……そんで、まだ見舞いには行ってんの?」
紫苑は頷いたあと、すぐに「うん」と答えた。
「やめとけよ、あいつのせいでたいへんな目に遭わされたんだぞ」
にとりが同調するように頷く。出て行け、という意味合いを込めて女苑はひと睨みした。
「ヤクザなんかにかかずらってるといいことないよ」
「でも、ごはんを食べさせてもらったから」
紫苑がそう言うたびに、女苑は罪悪感を覚えるのだった。
紫苑を救出したあと、吉弔と驪駒と女苑は一連の暴力主犯格として、吉弔は銃刀法違反(そんなものがこの世界にあったなんて!)も罪状に追加され、全員が逮捕された。比較的に傷の浅い女苑は病院で治療を受けた後に拘置所にぶち込まれ、傷の深い吉弔と驪駒は入院してからぶち込まれる手筈になっている。警察の中でも、河城にとりに知られざる戦いがあったのだ。
それをいいことに、紫苑は吉弔の見舞いに、毎日欠かさずに通っているというのだ。我が姉ながら、正気を疑わずにはいられなかった。飯を食わせてもらった?それがなんだ。吉弔がなにを考えていたか知らないが、どうせ姉さんのことも道具くらいにしか思っていないに違いない。
ため息をひとつ吐き、女苑は受話器を持つ手に力を込めた。
「姉さん」重たい沈黙を、回線が運んでくる。「もう吉弔に会うのはやめて」
「でも……」
「職には貴賤がある」遮るように女苑は喋った。「ポン引きなんて商売は卑しいし、体を売るやつはどうしようもない。ヤクザなんてのはもっと録でもないんだよ。仕事っていうのは金を稼ぐ手段でね、こんな仕事に手を出してるやつらはね、金のためならなんでもやるやつらってことだよ。姉さんをそんなやつらの近くに置いときたくないし、わたしもポン引きなんてやめるから」
「女苑」
「なに?」
「わたし、働いてないから……」
「……」
「だからね、どんな手段でもお金を稼ぐ人は偉いなって思うんだ。どんな最低な手段でもね」
こういうことに限って、紫苑が頑固になるということを、他でもない女苑がいちばん知っていた。
どうにか紫苑をやり込めないかと思案しているうちに、時間が過ぎて行った。河城にとりが申し訳なさそうに女苑の肩を叩いた。
「面会、終わりだよ」
複雑な表情を浮かべながら立ち去る女苑を、紫苑は朗らかに見送った。なにも心配することはない、と。
「さてと」紫苑も立ち上がった。「空き缶でも拾って、売りに行きますか」
ニトロイト総合病院、B棟、二階の病室に吉弔と驪駒は入院していた。だれかの不幸が自分に取り憑いたとしか思えない。どうしてこの馬鹿女と同じ病室なんだ?ほかの病室が埋まっているようには見えなかったし、なにか大いなる力が働いているようにしか思えなかった。
「それにしても、傑作だなあ!」ついこの間に殺し合った間柄とは思えないほど、驪駒は人懐っこく喋りかけた。「おまえが依神紫苑の存在を忘れてるなんてな、え?」
ベッドから動くことのできない吉弔は、顔だけを驪駒の方から逸らした。
「最後は見てないけど、紫苑に撃たれたんだろ?慢心してるからだぞ、この馬鹿」
「ぶっ殺すぞ、てめえ!」とは言ってみるものの、立ち上がれないのでどうしようもない。「くそ、怪我が治ったら真っ先に……」
「まあまあ、お互いに目的は達成できなかったんだしさ、痛み分けといこうや」
「貴様なんかと分かち合うくらいなら、ひとりで引っ被ってやった方がマシだ」
「面白いこと言うね」
どうしようもないくらい退屈な時間が流れる。特に驪駒にとっては、体を動かせない時間というのは苦痛で仕方がなかった。
「なあ」
「……なんです?」
「ここから逃げちゃわない?」
「はあ?」吉弔は驪駒の方を見た。「わたし、動けないんですけど?」
「背負ってやるよ」
馬鹿馬鹿しい、と吉弔はまたそっぽを向いた。「逃げるならひとりで逃げなさい」
「ひとりだと自信がないんだよ。こんな体だし」
「わたしを背負ったらもっとキツくなると思いますが?」
「十七条の憲法、第十七条」驪駒は誇らしげに語った。「夫れ事は獨り斷むべからず必ず衆と與に論ふべし!」
「……」
「わたしの愛する人の教えだ」
どいつもこいつも、愛だとか恩だとか抜かしやがる。そんな一銭の得にもならないもののために動いて、なんになる?結局、世の中を動かしてるのは金だ。
まあ、けど、しかし。
世の中は金だと言うのは不文律だとしても、今回はそいつらに負けたようなものだ。金や物質ではない、形のないものたちに。たまに上回るのかもしれない、愛や恨みが、金を。
そこのところをしっかりと受け止めなければ、きっと、これからも驪駒を出し抜くことなんてできないのだろう。
「いいですよ」
「え?」
「あなたひとりだったら、絶対に無事には逃げられない」驪駒の方に顔を向け、吉弔は微笑した。「でも、二人なら……ね」
「ああ」驪駒も応じるように微笑んだ。「二人なら、な」
ベッドから飛び降りると、驪駒は吉弔を抱え上げた。
「は⁉︎ちょ、ちょっと!作戦会議は⁉︎」
「待ってろよ」窓から差し込む西日を眺めながら、驪駒は高らかに愛する人の名を叫んだ。「いつか絶対に会いに行くからな!」
「話を聞けっ!」
どこか遠くにある廟で、名高い仙人がくしゃみをした。
1
寒さに震えながら目を覚ますと、女苑はもそもそと体を起こした。二日酔いに霞む目を擦りながら、欠伸を噛み殺し、部屋の中を睥睨する。世界中の悪意を凝縮したような悪臭は隣から漂ってきていた。親父の屁で目覚めるのとどっこいどっこいの、最悪な目覚めだった。
姉の呑気な寝顔に蹴りを入れてやりたい衝動は、眠っている細胞を活気付けるのに一役買ったが、そうはしなかった。この浮世でも五本の指に入るほどの不幸な存在を、これ以上貶めてやる理由が見つからなかったし、余分な体力を使いたくもなかったし、なにより体の節々が痛んだ。姉の体を跨ぎながら、自由気ままに入り乱れる自分の髪を一つに束ねる。たったそれだけのことで、肩がズキズキと痛む。
部屋の綺麗さに比例して精神状態の良し悪しも決まると言うが、この部屋にもその言葉が当てはまるなら、女苑のメンタルはミキサーでかき混ぜたみたいにぐちゃぐちゃになっていることになる。台風でも通ったような荒れ具合だ。食い散らかした惣菜のプラスチック容器、炭酸水のペットボトルにウイスキーの瓶、酎ハイの空き缶は組み立てれば車くらいなら作れそうなほどの量で、足の踏み場もないという言い回しがあるが、この部屋に関して言えば空き缶の上こそが足の踏み場だった。見てるだけで胸焼けしそうだ。
ゴミを蹴散らしながら、シンクの前を通り過ぎる。以前、蛇口を捻ったら赤い水が出てきたことがある、曰くつきの流し台だ。それ以来、それまでも吝嗇していたわけではないが、ミネラルウォーターを買うようにしている。
冷蔵庫の中を改めるも、命の水はどこにもない。部屋を詳しく検める気力もなければ、このクソ寒い中をわざわざ出かけて買いに行くのも我慢ならない。
シンクに戻った女苑は蛇口を捻った。一見して毒が混じってるようには見えないが、罠とは罠らしく見えないものだ。少し前に、水道水を飲んだら脳味噌をアメーバだかなんだかに食われて死んだ人間のニュースを見たことがある。
が、それは外の世界の話で、さらに言えば海外の話だ。ここは幻想郷で、自然が豊かで、さらに言えばこのアパートは河童が建てて、水道だってやつらが引いてきたはずだ。だからと言って赤い水のことをぜんぶ忘れてやることはできないが、河童どもが水に関して不手際を起こすとは思えない。なにせ、河童だし。
懸念としては──女苑は振り返り、だらしなく体を伸ばして眠る姉を睨んだ。ギネスに登録されてたっておかしくないほどの不幸体質な姉と暮らしているということ。同じ服を着続けると臭いが移るように、あの姉の不幸体質が自分に移っていたとしてもおかしくはない。むしろ、そういう風に出来ているのだから。
意を決して蛇口を捻る。出てきたのは透明な水。どこからどう見てもまっさらな水。ちょいと気の利いた器に入れてやれば、健康や体形に悩んでる中高年に高く売りつけてやれそうな、綺麗で澄んだ水。
一瞬、悩んだ。喉の渇きは限界を迎えていた。シンクの底を叩きつける水の柱にむしゃぶりつくと、景気よく喉を鳴らした。
それからしばらく、腹や喉に異変が出ないか待ってみる。脳味噌はさっきからグラグラしているが、それがこの水の影響なのか、昨日の酒が原因なのかははっきりしなかった。
五分経ってもなんの影響がないとわかると、女苑は自分の布団の方に取って返し、枕もとにお守りのように置いてあるタバコを拾い、またぞろゴミの上を歩いて、外に出、柵に肘をかけてタバコに火をつけようとした。寒風が何度も吹き抜け、火が何度も消えた。
行き交う人はどいつもこいつも年を越せそうにないし、越したって意味なんかないように見える。ここに来る前はどこに身を隠してたんだ?と言いたくなるような風体のやつばかりだ。
華やかな人里では決してお目にかかれないような連中が、この街じゃ幅をきかせている。河童どもが余ってる土地に工場を建てようってんで、幻想郷じゃほとんど人も妖怪も寄り付かない妖怪の山の西の方を更地にし、バカスカ工場を建てまくった。で、今度は人手が足りないってんで、人を呼びまくった。金が回ると、河童どもは調子に乗って工場以外にもさまざまな事業に手を出し始めた。やがて人が集まり、単なる工場地帯だったこの場所は街のように発展した。
「モータウン、ね」女苑はタバコをふかしたり、体を手で擦ったりした。「幻想郷で車が走るのは、外の世界で車が空を飛ぶ頃かな」
ひとりごち、タバコをおしまいまで吸い、部屋に戻ろうとしたところで、猛烈な腹痛に襲われた。他のすべての内臓が腸の中に収まってしまったかのような激痛だった。声も出せなかった。なんとかドアを開ける。嫌な予感は、紫苑が布団から姿を消しているのが始まりだった。
「姉さん、くそ……」トイレのドアをガンガン叩き、痛む腹を抑えて声を張り上げた。「姉さん、ちょっと!」
返事がない。
冷静になって、ドアに耳を押し当ててみる。
微かな寝息が中から聞こえてきた。
──姉さんめっ!それから、河童めっ!
このアパートを借りるにあたって、河童から「備品などを故意に壊したら一千万円支払う」旨の同意書にサインさせられたが、そんなことは知ったことか!女苑は二、三歩後退し、渾身の力でドアを蹴破った。
「んがっ⁉︎」
引き剥がされたドアは便座に座っていた紫苑の頭に直撃した。動かなくなった紫苑を引っ張り出し、女苑はトイレに縋るように座った。
──河豚は食いたし命は惜しし、じゃあやっていけないってことね……
そんなことを考えながら、幾らかかっても構わないから浄水器を取り付けようと、女苑は決心した。
2
話は一月ほど前に遡る。
姉の紫苑とちょっとしたいざこざがあった。女苑にとってはクソ忌々しい比那名居天子絡みの案件で。要はそいつのせいで女苑が紫苑にないがしろにされたということなのだが、天子は紫苑のこともないがしろにした。故郷に帰るときが来たのだ。だれかのヒモになる以外生きる術を持たない紫苑は、泣く泣く女苑に縋りつくも「今更わたしに頼るとはどういう了見だ」と一蹴した。が、女苑にとっても紫苑は唯一無二の肉親なので、幻想郷に住む他の姉を持つ者たちのようには冷たくはなれなかった。
そこで、二人が現在住んでいる、河童が妖怪の山の西側──河童のリーダー、河城にとりの名を取って「ニトロイト」と呼ばれる──の工場が人手を欲していることを教えてやった。面接にまで付き添ってやった。あとは姉さん次第さ、女苑は姉に申し渡した。行き着くところまで行き着いたやつが集まるような場所だし、姉さんでも務まるだろ。
が、結果は散々だった。紫苑からしてみれば普通に働いているだけなのに、機械は壊れるわ、他の作業員を殺しかけるわ、製品は欠陥だらけになるわで、とてもではないが仕事にならなかった。そのせいで紫苑は工場内でも孤立し、女苑の「姉さんでも務まるだろ」という言葉を思い出しては枕を涙で濡らし、ついには精神を病み、二週間もしないうちに女苑に泣きついたのだった。
女苑からしてみれば、実姉の情けなさを疎んじるよりも先に、なんやかんや心配していたというのもあって、頼られたことへの嬉しさが勝った。女苑も姉がいなくて寂しかったのだ。二本ある歯ブラシや、二人分の食器や布団を眺めては姉の存在を思い出さずにはいられなかった。そんな精神状態でいたときに、渦中の人から「わたしには女苑が必要なの」などと言われれば、今までの一切合切を水に流してやろうという気にもなる。
それとは別として、ニトロイトに興味があるというのもほんとうだった。女苑にとって退屈は貧乏と同じくらい耐え難いもので、とどのつまり、寺や人里で暮らすのに飽き飽きしていた。ニトロイトという名前には、かつて二人が暮らしていた外の世界の街のような、先進的な響きが満ちていた。
「けど、実際はどうだ?」天井で気怠げに回るファンを眺めながら、女苑は独り言を喋った。「どっちを向いても、どうしようもねえやつばっかさ」
どうしようもねえ場所には、どうしようもねえやつが集まる。ニトロイトにしたって、すぐれた作家ならば迫真のプロレタリアート小説を書けそうな界隈だ。だけど、どうしようもねえもの同士がかけ合わさると、どういうわけかそこに凄みや、殺傷力と言ったものが備わる。日に日に増してくるこの街への嫌悪感にはほとほとうんざりさせられていたが、女苑が出て行かない理由の一つは、そういった世の中を支配する一抹の真実味に魅力を感じているからだ。
「女苑も手伝ってよー」細い腰を曲げながら、紫苑は散乱している空き缶を拾い集めていた。「朝から部屋の掃除なんかしたくないよお」
「じゃあ、昼になったらやんの?」
女苑は顔だけをそちらに向けて言った。紫苑が顔を逸らした。
「働いてんのはわたしなんだから、口答えせずにちゃんとやれ」
紫苑はまた聞くに値しないことをぶつくさ言いながら、ほとんどは女苑が空にした缶を拾い集める。
働いてる、か。女苑は乾いた唇を舌で舐めた。紫苑から「あれが仕事だって言うの?」的なことを言われたら一も二もなくブチ切れてやるところだが、自分自身、胸を張っていまやってることをだれかに話せるかと訊かれたら、絶対に首を横に振る。職に貴賤がないなんて馬鹿も休み休み言え。春をひさぐやつらは卑しいし、子供を拐かすやつなんてもっと卑しい。職に貴賤がないってことは、つまり金のためならなんでもやるってことだ。
女苑が思い出したように言った。紫苑は缶拾いに集中して聞こえていなかったらしい。
「缶、いつものところに持ってってよ」女苑は繰り返し言った。
真冬だと言うのに汗をかいている紫苑が女苑の方に顔を向けた。心底嫌そうな表情を浮かべている。
「これだけ集めて、幾らになるのよ?」ゴミ袋の中の缶を指差しながら紫苑は言った。
「金は少しでもあった方がいいだろ」
「でも……」反論の材料を探すように、紫苑は目をあちこちへ向けた。「外、雪降ってるよ」
女苑は窓の外に目を向けた。紫苑の言う通りだった。
「昔さ、姉さんと外の世界で暮らしてたときさ」女苑は近くに落ちていたコートを着込みながら喋った。「冬なのにかき氷が食いたいつって、かき氷を出す店を探し回ったことがあるじゃん」
女苑の言いたいことをなんとなく理解した顔で、紫苑は応えた。「あれは狂気的だったね」
「でさ、ほとほと諦めかけてたときに、雪が降ってきたろ?」
紫苑はじっとりした目で女苑を見つめた。
勿体をつけたのがいけなかった。携帯電話がニトロイトで流行りの曲を鳴らした。意味を差っ引いた言葉の羅列と、排泄音のような重低音。初めて店で聴いたときも耳障りだと思ったものだが、携帯の着信音に設定(若者にはウケがいいので設定している)してからは殺意すら覚える。女苑は、相手を確認せずに通話ボタンを押した。
「もしも……」
「ちょっと、女苑ママ⁉︎」
不快な周波数が耳に滑り込んでくる。女苑は通話口から顔を離して、紫苑に見せつけるようにため息を吐いた。
「どうしたの?」なるべく甘い声音で尋ねる。
「さっきの客、最悪だったんだけど!」
鼓膜に深刻なダメージを与えそうな声量で、電話の向こうの相手は愚痴を喋り倒した。ここには書けないようなことを客にされたらしい。女苑は話半分にしか聞かなかった。この手の話は日がな聞いていて、最初のうちは楽しくないでもなかったが、いまじゃ着信音のヒップホップほどに辟易させられる。
そうか、わかったよ。女苑が真摯に対応すると、相手は金の話をいくつか持ち出し、鼻持ちならないことを言った。それでも女苑は「愛してるよ」などと囁いた。そうしなければならないなりの理由があるのだが、紫苑の侮蔑の目が気に食わない。
「後で行くから、まってて」女苑は通話を切り上げ、紫苑をキッと睨みつけた。「なによ。なに見てんだ、この野郎」
「たいへんだね」
女苑は舌打ちをした。
この街を出られないもう一つの理由に会いに行かなければならない。
「行くの?」
紫苑が尋ねると、女苑は頭から余計なことを振り落としたいとばかりに何度も頷いた。
「じゃあ、これ」
空き缶が詰まったゴミ袋を差し出される。
「なに?」
「外行くんなら、ついでにこれも行ってきてよ」
「……」
「おねがい」
少し思考した間のあとに、女苑はゴミ袋を受け取った。
「その代わり、今日の晩飯は姉さんが作ってよ」
面倒ごとを引き受けてくれたからか、紫苑は嫌な顔ひとつせずに頷いた。それを認めると、女苑は履くのに恐ろしく手間のかかるブーツに足を収めてゆく。
「そんな格好で寒くないの?タンクトップなんかで」
「タンクトップじゃないわ!ノースリーブってんだよ。いいんだよ、コートも着るし」
「でもぉ……」
「いいか」ブーツを履き終え、立ち上がってから女苑は言った。「いい女はいつだってノースリーブなんだよ」
外に出ると、凍えるように寒い風が吹いてきた。女苑はへっちゃらなふりをして白い息を吐き、階段の方へ歩いた。
「女苑!」と、見送ってくれていた紫苑が呼びかけた。「缶を忘れてるよ!」
「あっ!」
振り返った刹那、足を滑らせた女苑は階段に尻をしこたま打ちつけ、焦って急いで立ち上がろうとしては二転三転した。コートや自慢のノースリーブがびっしょり濡れた。ようやく落ち着いたころには、立ち上がるどころか、今日という一日への関心を無くしていた。
「じょ、女苑……」
それでも、なんとか立ち上がろうとして、また滑って柵で脇腹を打った。柵が壊れなかったのは不幸中の幸いかもしれない。
「大丈夫?」
女苑はなにも言わずにゴミ袋をひったくり、確固たる足取りで階段を降りて行った。
クリスマスまであと一週間もなかった。
3
季節が移ろうことで見える景色が変わるように、いま見ている惨めな光景もまた、春が来れば違った見え方をするかもしれない。ダンボールに身を包む浮浪者や、その浮浪者を踏みつけにする若者や、その若者に軽蔑の眼差しを向けるブルーカラーを眺めながら、取り止めもなくそんなことを考えた。
それから、だれかれ構わず声をかける女。石を投げれば娼婦に当たるような界隈だ。女どもがなにを考えているのか、さっぱりわかりゃしない。金を持ってそうなやつに声をかけるなら、その行動は至極真っ当なものとして受け入れられるが、あからさまに金を持ってなさそうなガキや落伍者相手にまで声をかけるのは、いったいどういう理由があるんだ?この世を回してんのは金だけじゃないってことか?
女苑にしたって、声をかけられまくる。この界隈で「女苑ママ」のことを知らない女はいない。
──女苑ママ、ねえ……
愛想をウイルスのように振り撒きながら、女は女苑ママ、女苑ママ、と彼女に付き纏ってくる。いまも、女苑は一人の女に付き纏われていた。名前は忘れた。このアコギな商売をやっていくのに、女の名前を覚える必要はなかった。
「ねえ、ママぁ」女苑に追いすがる金髪の女は、シンナーで歯が溶けかけていた。
「やめろ、そのママっていうの」女苑は振り返らずに言った。「わたしはおまえなんか産んだ覚えはないぞ」
「でも、ママはママだしぃ」
「なんでついてくるんだ?」女苑は凍った地面に足を取られないよう、しっかりとした足取りで振り返った。「金ならもう貰っただろ」
金髪が足を止め、口元に指を置き、歪な歯を見せて笑った。
「だって、女の子のポン引きなんて珍しいしぃ」
凍りつくような息を吐きながら、女苑はまた前を向いて歩き出した。
なにをするにしたって、金が必要だ。ニトロイトは刺激的な遊び場に困らない。この街で金のかからない遊びと言ったら性行為くらいのもので、女苑はそこに目をつけた。女が性を売るのは人類史始まって以来の不変の理だ。女苑はニトロイトに来たばかりの人間、妖怪、果ては妖精を、さながらアイドルを発掘する敏腕プロデューサーのように甘言で誘惑し、客をつけ、金を稼がせた。一晩、四十分で三万。そのうちの二万を女苑がいただく。不平を漏らす女はいなかった。
シノギは上々、しかし、困ったことがある。それは、女苑が商品である女に気に入られてしまったこと。男のポン引きと言えば、女のことを本当に商品かなにかとしか思ってないやつばかりで、客を斡旋することと金のこと以外に考えてることはない。
その点は女苑も同じはずだったのだが、どういうわけか、自分では上手くやっているはずなのに、すべてが裏目に出てしまう。どこでも嫌われるはずの自分という存在が、ニトロイトでは好かれてしまっていた。木の葉が沈み、石が流れるような事態が現実に起こっているのだ。
居心地の悪さを感じ、街を出ようと考え始めた頃には、もう遅かった。この街には女苑なしでは生きていけない女が増えすぎていた。
──だから、なんだってんだ……?
歯の溶けた女、薬物に脳味噌を誑かされた女、酒に溺れる女、そんなのがどうなろうが、自分となにか関係があるのか?
──くそったれ……
「ねえ、女苑ママ。わたしね、旧都で生まれたの。知ってる?地底にあるんだよ」
女苑はなにも言わずに歩き続けた。この手の女の不幸話には、もううんざりしていた。借金やら貧乏やら虐待やらなんやら、その上に「性的」とつくことも少なくない。この金髪にしたって大した違いはなかった。親がどっちとも薬物中毒で、おまけにスワッピングにたいへんハマっていたという。
「地上に新しく街ができるって聞いて、変われるかなって出てきたんだけどね。ここも、旧都と大した違いはなかったな」
金髪は少し間を開けた。女苑の反応を確かめたかったのかもしれない。
「女苑ママがいてくれて、ほんとによかったぁ」
「やい、コラ」女苑は振り返り、金髪の胸ぐらを掴んだ。「勘違いすんなよ、わたしはおまえのことなんかぜんぜん気にかけてないんだからな」
どれだけ凄んでみても、金髪はヘラヘラ笑った。その顔を見るにつけても、普段なら一発食らわせてやりたいという気持ちになるはずだった。
女苑は手を離し、また歩き出した。
「おい、本当にわたしのことを慕ってるんだったら」尚もついてくる金髪に女苑は言った。「とっとと金を稼いでこいよ」
足音がひとつになった。
「あはあ、りょうかぁい」
それから、金髪の気配がなくなった。
雨が降ろうが雪が降ろうが槍が降ってようが稼がせてやる。
女苑はタバコに火をつけようとしたが、目的地のホテルが目の前だったのでやめ、中に入るかというところでやっぱり火をつけた。これから起こるであろう面倒な事態の対処に、気分転換は必要なプロセスだった。
4
「遅いよ、女苑ママ!」
部屋に入るなり、ビールの缶が飛んできた。軽くかわすと、女苑はベットの上で次のビールを開けようとする娼婦に近づく。
「荒れてるな」この部屋に来るまでに整えていた声音で女苑は喋った。「なにかあった?」
大抵の女なら女苑に「なにかあった?」と言われたら、その日の辛かった出来事を赤裸々に話すもんだが、このクイーンだけは違う。他の愛嬌のある売女どもが売女になるためにそうしているのと違って、この女は売女になるべくして生まれついたような、正真正銘の売女だった。
「なにかあったって?」クイーンはタバコを呼吸器みたいに吸いながら目をむいた。「ふざけないでよ、あんな客!」
「だから、なにがあったんだ?」女苑はイラついていることを悟られないように、声を落とした。「話してくれないと、なにもわから……」
「あんな毛深いのはいや!」
「……」
「まるでゴリラみたいだったんだから!」
「でも、おまえを買えるほどの金は持ってたんだろ?」女苑は少しだけ抗議することにした。このまま鬱憤を溜め込み続けていたら、いずれこの女をぶん殴ってしまうかもしれない。ポン引きとしては正しいのだろうが。「ちょっとは我慢してもらわないと困るよ。毛ぐらいはさ」
クイーンはぷいとそっぽを向いてしまう。こんな女がいちばん稼いでくるというのだから困る。
けど、まあ。と女苑は思う。下手に懐かれるよりはマシかもな。こいつはわかりやすくていい。あの金髪のような女の方がなにを考えているかわかりにくくてやりにくい。
売女になるために生まれついた女で、ちょっと毛深いのが問題だとほざくような女なら、やるべきことは目に見えている。で、可及的速やかに行動に移そうと服を脱ぎ始めたのだが、いきなり部屋のドアが蹴破られて思わず飛び上がってしまった。
部屋に入り込んできたのは三人の男衆だったが、目を引いたのは真っ先に入り込んできたやつだった。
「こいつよ、こいつ!」クイーンが先頭のやつを指差して喚いた。「ね、ゴリラみたいでしょ!」
──ゴリラっぽいっていうか……
「ウッホッホ!」
──ゴリラじゃねえか!
「このアバズレですかい?」
後ろにいたのがゴリラに確認を取る。どういう意思表示なのかさっぱりだったが、ゴリラはでかい胸をパシンと叩いた。
「やい、このアマ。やってくれたねえ」男がこっちに目を向ける。「ゴリラさん、あんたとエッチできなくて傷ついちゃったんだよね」
「ゴリラさんはなあ、意外とセンチなんだよ!」
「ウッホッホ!」
「うっせえんだよ!」
考えるより先に手が出ていた。というより、考えながらゴリラ以外のやつらを潰した。考えるべきことはなにもなかった。幻想郷にどうしてゴリラがいるのか、ゴリラがどうして人間の女とヤりたがるのか、ひとつわかったのは、ゴリラなんかに発情されたら、どんな女だって自分に自信なんか持てなくなるってことだ。あとでクイーンをたっぷり愛してやろうと、ゴリラの取り巻きを叩きのめしながら決めた。
「ウホホ……」床に倒れている取り巻きを踏みつけにしていたら、背後から抱きすくめられてしまった。
「わたしに触るんじゃねえ!」
が、さすがはゴリラであった。女苑もかなりの力持ちだが、ゴリラが相手では水をあけられる。振りほどこうにも、完全に腕を固められている。
「女苑ママ!」クイーンが手当たり次第にものを投げまくる。「離せ、女苑ママを離しなさいよ!」
「くそ……やめろ、匂いを嗅ぐなーっ!」
いっそ舌を噛み切って死のうかと思い始めたころ、いきなりゴリラの拘束が解けた。地面に放り出された女苑は、一瞬、状況を見失ったが、すぐに立ち上がってゴリラに視線を動かした。
「ウホーッ!」
ゴリラが両手で頭を押さえながら悶絶していた。頭から湯気のようなものが出ている。なにかわからないが、とにかくチャンスであることには違いなさそうだ。
「うおおおおおおっ!」
女苑はベッドに飛び、そこからゴリラの頭より高い位置に飛んで、野郎の頭にジルコニアの指輪がハマってる方の拳を打ち下ろした。ゴリラが白目を剥き、背後の家具を破壊しながらきりきりまいをしてぶっ倒れた。
「女苑ママ、すごーい!」
クイーンに抱きつかれても、まったく状況が読み込めなかった。解決したのかもわからない。多くの謎が提示されているいま、いちばんというわけでもないが、気になるのは、どうしていきなり拘束が解かれたかだった。
気絶しているゴリラの頭をよく観察してみる。なにか白い粒々が付着していた。フケじゃなければ、それは塩に違いなかった。
床の上を見回してみると、ゴリラの足元に塩の容器が転がっていた。女苑はクイーンに目配せした。
「それをぶつけたら、そいつが苦しみだしたのよ」クイーンは得意げに語った。「ねえ、もう帰っていいかしら」
女苑は曖昧に頷いた。クイーンがそそくさと退出した。考えるべきことは多いような気がするが、そうでもないような気もする。だが、少なくともクイーンの安全くらいは考えてやるべきだったと、女苑は後に後悔することになる。
──とりあえず……
女苑は窓の外の景色を眺めた。雪はさらに強くなっていた。
女苑は昏睡しているゴリラを部屋から引き摺りだし、ベッドに上った。
──一眠りするか……
5
目の前に置かれた美味そうなカツ丼に籠絡されるのは時間の問題だった。目が覚めてからなにも食っていないし、喉も乾いていた。
「白状したら食ってもいいんだぞ」河城にとり警官が優しげに女苑の肩を揉んだ。「別に人間を殺したからって責めてるんじゃない。妖怪や神様が人間を殺すのはふつうのことだからな」
「だから、わたしは……」
「ただし、ニトロイトでは別だ!」自分で言ってて恥ずかしくないのかという街の名前を強調する。「見ての通り、ニトロイトは治安が悪い。喧嘩なんか序の口で、万引き、強盗、強姦……正直、我々の手には負えない」
「話を聞け!」
「だからこそ!」にとり・ザ・ポリスメンが指をさす。「河童の目に入った悪事は絶対に許すことなどでき……あ、おい!勝手に食うなって!」
カツ丼を平らげると、女苑はお茶を要求した。にとりが渋々お茶を淹れに行った。爪楊枝で歯を掃除しながら、ここに来るまでのことを思い出す……というか、目が覚めたら留置所にぶち込まれていたのだ。
こんな街にも法はあって、河童の気まぐれで法は変わった。にとりは工場にいるとき以外はもっぱら「ニトロイト警察」に勤めていて、街の浄化に努めているというが、彼女のデスクの前にはいつもドーナツの箱が置いてあった。さっきのカツ丼にしたってそうだが、幻想郷は外の世界の文化のおさがりで構成されているようなものだな、と思わずにはいられない。
ある種の外の世界からの文化的支配から脱却したいという思いもあってニトロイトは作られたはずなのに、これじゃ本末転倒だ。
「ほらよ」取り調べ室に戻ってきたにとりがお茶を置いてくれた。「カツ丼代とお茶代、あとで払えよ」
「おまえんとこのアパート、水回りが終わってんだけどさあ」お茶を啜りながら、女苑は悪態をついた。「おまえがわたしに迷惑料を払いやがれ」
「え、マジ?」にとりはプライドをズタズタに引き裂かれたような表情を浮かべた。「いや、えーと……まあ、いまはその話はいいよ」
「じゃあ、もうなにも話すことはないな?」
「待てって」立ち上がろうとする女苑を、しかしにとりは制した。「おまえには人間殺しの容疑がかかってるんだぞ」
女苑はため息を吐いた。「あのなあ、なんで自分とこの女を殺さなきゃいけないんだ?クイーンはわたしの稼ぎ頭だったんだぞ」
女苑がゴリラと対峙したあと、クイーンが何者かに殺された。路傍で頭から血を流して倒れているところを発見されたのだ。
何者か、だと?決まってる。あのゴリラか、その仲間に違いない。だけど、ゴリラに殺されたなんて、どう上手く説明したって薬物中毒者と思われるに違いない。実際、この街の人口の二割ほどは薬物に脳味噌を馬鹿にされてるのだ。
「まあ、そうだよな」パイプチェアに腰掛けながらにとりは呟いた。「おまえが犯人じゃないなんて、こっちもわかってる」
「じゃあこの茶番はなんなんだ?」女苑は肩を竦めた。「この街に警察を裁けるやつはいないのか?おまえみたいな悪徳警官を裁けるやつはよ!」
にとりはしばらく思案するように項垂れたり天井を見上げたりした。言うべきこととそうでないことを選別しているみたいだったが、帰るぞ、と女苑が冷たく言い放つと、喋ることを決心した。
「警察の上層部が悪いやつと繋がってるかもしれん」
女苑の表情が固まった。が、すぐに感情を取り戻し、お茶を一口啜った。
「上層部って、おまえは違うのかよ?」
にとりは力なく首を振った。
「河童の中にもいいやつと悪いやつがいる。神様だってそうだろ?」
女苑は鼻で笑い、自分がどの種族にカテゴライズされるべきか一瞬考えてから言葉を継いだ。「いい河童は募金活動でもしてんのか?」
「たしかにわたし達は金にがめつい。けどな、金がすべてだとは思っちゃいないぜ」にとりは胸ポケからハッピー・ストライクなるタバコのパックを取り出し、一服してから語った。「まあ、そんなもんだろ?この世には金より大事なもんがたしかにある」
女苑はまた鼻で笑ったが、口から出てきたのは肯定的な意見だった。
「そんなにはないけどな」
十分だ、とばかりににとりは頷いた。
「わたし達のやることに笑顔でお金を払ってくれる人たちを見ると、妙に嬉しくなるんだ。たぶん、金より大事なもんってそういうものだぜ」
「そんな話には絆されないぞ」女苑もタバコに火をつけた。あらゆる綺麗事を焼き捨てるかのように。「わたしはだれも殺してない」
「まあ、聞け……河童ってのは、つまり、金以外の理由でも働けるんだよ。でもな、そうじゃないやつもいる。悪い河童さ」
「そいつらがだれと繋がってるってんだよ?」
「ヤクザだよ」
「どのヤクザだよ?」女苑は幻想郷でヤクザと呼ばれてもおかしくなさそうなやつらを指折り数えた。「わたしが知ってるだけでも、ヤクザっぽいやつはこんくらいいるぞ」
「ちゃんと自分も勘定に入れてるか、それ」自分で言ったくだらない皮肉を吹き飛ばすように、にとりは煙を吐いた。「ニトロイト警察は発足当初から悪い河童に任せっきりで、わたしはここじゃただの下っぱなんだ。で、偉いやつらは、どういうわけか人間殺しの犯人をあんたにしたがってる」
「なるほどね……」タバコをおしまいまで吸うと、二本目に取り掛かろうとした。「クイーンを殺したのはヤクザで、そのヤクザが警察と繋がってるってことか」
にとりは灰皿に灰を捨て、悲しげな目で見つめ返した。
とりとめもなく立ち上がり、窓にかかるブラインドを指で弄ぶ。外はまだ雪が降っている。昼間と比べて横降りになっているので、風も強いだろう。が、取り調べ室で日を跨ぐつもりなど毛頭ない女苑は、パイプチェアに戻ると脈絡もなく尋ねた。
「どうすりゃ帰れんの?」
にとりは虚を突かれたように一瞬固まったが、すぐにニヒルな笑みを浮かべた。
「わかるだろ?」
「幾ら?」
「財布ごと置いてけ」
女苑は財布を取り出して、無造作にテーブルの上に投げ捨てた。鰐革のいいやつで、中には札が百枚くらい入っている。
「安いもんだな」大した嫌悪も示さずに女苑は喋った。「人の命がひとつ奪われてるってのに、これっぽっちで帰れるのかよ」
にとりが驚いたように目を剥いた。
「ポン引きが言うセリフかー?それ」
「……」
「性を売るのも命を売るのも、わたしには大した違いはないように思えるがね」
そうなのかい、クイーン?女苑は心の中で語りかけた。売女の常套句として「体は売っても魂までは売らない」みたいなのがあるが、クイーンは一度もそんなことは口走らなかった。
女苑は思った。もしも売女の心配が魂まで奪い取られてしまうということだけなら、体を売るのは思ったほど大したことじゃないのかもしれないな。
肺が凍りつくほどの冷たい夜に放り出された女苑は、警察署の前でしばらく佇んだ。入り口とリードで繋がれたペットのように。どこへ行ったらいいかわからなかった。家へ帰るつもりでワニ革の財布をくれてやったつもりなのに、気がつけばクイーンを殺した、正体もわからないヤクザに復讐するつもりでいた。
──そんなことして、なんになる?
第一に、ヤクザ相手に喧嘩を売って太刀打ちできる気がしない。女苑はこの界隈じゃ腕っぷしの立つポン引きとして名を馳せている。そんな自分の女として、クイーンは売女のクイーンとして雷名を轟かせていた。そんな女を殺したってことは、相手は相当にイカれた連中か、自分より強いやつらってことになる。
第二に、別にあの女にそこまで情を抱いていたわけではない。殺されたからなんだと言うのだ?クイーンはたしかにクイーンだったけれど、それは売女の中での話だ。探せば幾らだって代わりはいる。
いつまでも過去に拘っていたら先には進めないし、そんなものに拘り続けていたら、体を売り物になんてできない。女苑は売女ではないが、未来に生きられる人々は、いつだって過去のことを踏み台くらいにしか思っちゃいない。
「そうだろ、クイーン……?」
女苑はひとりごち、通りかかったコンビニで酒とつまみを買い、雪の中をとぼとぼとアパートへ帰った。
『アーリー・タイムズ②』
6
吉弔八千慧はうんざりしていた。飯の食い方が汚いのは、まあ勘弁してやらないでもない。このスラムみたいな場所にも似合ってることだし、自分たちがヤクザであることを悟られないカモフラにもなってるかもしれない。思われてせいぜいチンピラだ。チンピラならこの街に腐るほどいる。
毎夜のいびきも、百歩譲って許してやろう。最初のうちはノイローゼになりそうなほどやかましいと感じていたが、犯罪者と暮らしているうちに情が湧いてくるみたいに、だんだんといびきにも愛着が湧いてきた。いい耳栓を買ったからかもしれない。うちの工場でも耳栓を生産するべきかと、一時期は本当に悩んだものだ。
ただ、我慢ならないのは……
「八千慧、それ食わんの?貰うぞ!」
「……」
こっちは少食で食うのがもとより遅く、それを勝手に判断して勝手におかずをぶん取って勝手に食うのも、自制は難儀だがキレないこともない。しかし、名前を呼ばれるのだけは我慢ならなかった。驪駒早鬼に名前を呼ばれるのだけは。
吉弔は持っていたフォークを逆手に持ち替え、テーブルに置かれている驪駒の右手に突き立てた。血は出ないが、命のようなものが溢れ出てくる。彼女らは既に死んでいるのだが、どくどくと流れるそれを血と呼ぶ以外に相応しい表現が見つからない。
驪駒は手に突き刺さったフォークを見つめ、引き抜くでもなく、片方の手で皿からパンを取って食った。これで少しでも痛がるそぶりを見せたらかわいいものなのに、と吉弔は思う。
「名前で呼ぶなと言ってるでしょう」声の調子だけはいつもと同じく平静に、眼圧だけは倍増しに、と言った感じに吉弔は睨みつけた。「何度言ったらわかるんです、え?」
吉弔の言葉に耳を貸さずに、驪駒はうっとりと自分の手から溢れてくるものを眺めていた。吉弔には、驪駒の考えてることがわからなかった。なにも考えていないのかもしれないけれど。
驪駒の代わりに突き立てたフォークを抜いてやると、血液の代替品のようなものが石油のように湧き出てくる。それがさらに吉弔の神経を逆撫でした。傷つけてるのはこちら側なのに、並々と溢れ出る生命力を自慢されているような気分になったのだ。
──神経質になっている……
吉弔はウイスキーを口に運んだ。驪駒から湧き出る血が、真っ白なテーブルクロスを赤く染め上げてゆくが、そんなことは彼女らも彼女ら以外の客も気に留めなかった。
「いい飲みっぷりだな」グラスを置くと、驪駒が言った。「なにか嫌なことでもあったか?」
驪駒の発する言葉のひとつひとつが吉弔をイライラさせる。「おまえのせいですよ」
「ふうん」
食事中にウイスキーなんか飲むのは酒の飲み方を知らない阿呆だけだが、その阿呆にいまは成り下がっていたかった。近くを通りかかったやる気のないウエイトレスにおかわりを注文し、驪駒は食べ終えたパスタの皿を差し出して「替え玉」を注文した。吉弔は、驪駒の行動には一切目を瞑ることにした。
「例の件はどうなってます?」と言ってから、この言い方じゃ驪駒には伝わらないな、と言い直した。「ほら、ポン引きをうちらに引き込む話」
店員と揉めてた驪駒が吉弔に顔を向けた。「ん?ああ、上手くやってるよ」
「どうやってるんです?」
「あのポン引きのところの女にうちの組員を送った」
「……」
既にあまりいい予感はしなかったが、吉弔は目線で話を促した。意図が伝わらなかったのか、驪駒は黙ってしまった。
「……だれを送ったんです?ていうか、なにしに?」
驪駒が恥ずかしそうに顔を伏せた。「そりゃ、なにしにって……決まってんじゃん」
キマってんのは貴様の頭だろ、と言いたくなるのをグッと堪える。それにしても、へえ、あなたにも恥じらいってものがあったんですね!
「そしたら?」ある種のワクワク感が吉弔の体を支配し始めていた。酒が回ってきたのかもしれない。「だれを送ったんでしたっけ?」
「ゴリラ霊だよ」
吉弔がとうとう破顔した。
「人間の女とヤらせるためにゴリラを送ったって?へええ!」
「でも、ヤれなかったみたいね」
「そうでしょうね、そりゃね」ウイスキーで喉を鳴らす。足りなくなってきた脳内物質の生産に拍車をかけるには、ジョッキが必要だった。「で?」
「女を殺しちまったらしい」
吉弔から表情が消し飛んだ。
「まあ、でも安心してよ。ちゃんとサツどもに『そのポン引きを犯人にしとけ』って釘を刺しておいたから」
吉弔はおもむろに立ち上がり「上手くやれてないじゃねえか、このトンマ!」
さっきと同じところにナイフを突き刺す。ナイフは貫通し、テーブルに突き立った。驪駒がまた沈黙し、刺さったところを、生命の湧き出るその一点をじっと睨みつける。
「え?そもそも依神女苑を我々の下に引き込むって言う簡単な仕事でしたよね、だから貴様に任せたんですよ。聞いてんですか、おら!」突き立てたナイフを右に左にと捻る。生命力の象徴はとめどなく溢れてくる。「そいつを!犯人にして!どうすんだっこの駄馬!」
気が付けば、驪駒がこっちを見ていた。とても優しげな笑みを浮かべながら。尊敬すら混じっていたと言える。吉弔はその意味ありげで非常にムカつく笑みに、驪駒の生命力と同じくらい溢れる憎悪を持って睨み返した。
「あっ」
驪駒がナイフを握ってる吉弔の細腕を毟り取った。血が打ち上げ花火のように線を空に引いた。
それから、渾身の力を込めて吉弔の頭から生える角を掴み、別のテーブルめがけてぶん投げた。テーブルやら人やらをなぎ倒しながら、吉弔は壁までぶっ飛んだ。
声が出せないほどの衝撃に、吉弔の意識が過去に飛んだ。走馬灯というやつかもしれない。死んでても見れるんだ、なんて呑気なことを思いながら、吉弔は夢境に遊んだ。
ニトロイトの噂を持ち込んできたのは、他でもない驪駒だった。
埴安神袿姫を叩きのめしたときの戦勝ムードがまだ抜けきっておらず、吉弔率いる鬼傑組と、驪駒率いる勁牙組の間でさえ、どことなく呑気な雰囲気が漂っていた。
ニトロイトを踏み台に地上進出を目指そう……驪駒は意気揚々と吉弔に語ったが、吉弔の頭の中には、驪駒の「失脚」の二文字しか頭になかった。おまえがニトロイトを踏み台にするなら、わたしはその街と貴様の両方を踏み台にして、畜生界最強の座に収まってやる。
意識が戻る。霞んだ目で見やると、驪駒が発情した馬さながらの必死さで、こっちに突進してくるところだった。弾丸のような蹴りをかろうじて頭をよじって避けると、後ろの壁を突き破った。
「おっ⁉︎」足が壁に挟まれて抜けなくなったのか、片足がお留守のまま驪駒はぼっ立ちになった。
「驪駒ァ!」壁に突き刺さった驪駒の強靭な脚を手すりにして立ち上がると、酔っ払いのような足取りで驪駒の首を手にかける。
なにかを期待しているような驪駒の笑みと荒い息。いったい、なにに興奮してるんだ、この駄馬は?駄馬と呼ばれたのがよかったのか?
──どうすればいい……?
この手に力を込めたところで驪駒を落とせるとは思えないし、落とせたとして、それが驪駒の望むところなら、こんなやつの希望を叶えてやるのも癪だ。
「わ……」だったら、やることはひとつしかない。「わたしが悪かったです……」
吉弔は驪駒の首から手を離した。すると、吉弔への興味が急激に冷めたみたいに、驪駒は席に戻って行った。
──なんなんだ、あいつ……
吉弔はタバコに火をつけ、一服してから席に戻った。
「なあ、八千慧」この際、名前を呼ばれることも許しちまおうかという気になっていた。「わたし達、上手くやっていけそうだな?」
「……」
「まあ、任せとけよ」テンガロンハットをかぶり直す。「女苑は確実に勁牙組の下に引き入れてやるさ」
「さりげなく勁牙組で独り占めにしようとするな。分け前はうちと同じだぞ」
吉弔は近くを通りかかった勇気あるウエイトレスにウイスキーを瓶ごと持ってこいと申しつけた。ウエイトレスの怯えた目つきを見て、少しだけ落ち着きを取り戻す。
「……本当に大丈夫ですか?」
「タバコくれ」訝しみながらも、吉弔は言われた通りにした。火をつけ、どこか遠くを見ながら驪駒は言った。「ま、和を以て貴しとなすってむかしから言うだろ?仲良くやっていこうよ」
おおよそヤクザの発する言葉ではないなと吉弔は思った。いや、正確には驪駒の発言ではないな、と。むしろヤクザなら言いそうだ。『和』という部分を強調して、そこにヤクザ的な意味を刷り込みながら。
メンソールに咳き込む驪駒を見るにつけても、こんなやつとはとっとと縁を切りたいと思わずにはいられない吉弔だった。
『アーリー・タイムズ③』
7
昨日から降り続けている雪は、夜を越してさらに勢いを増したみたいだった。窓の外に広がる冷たい世界を眺めながら、女苑は缶ビールのプルタブを開けた。雪の降る音さえ聞こえそうなほどの静寂が、部屋の中を満たしている。
クイーンが殺され、警察から釈放された女苑は、コンビニで酒とつまみを買ったあと、いちゃもんをつけてきたチンピラを叩きのめしてから家に帰った。女苑の遅い帰宅に文句の一つや二つくらいと言った態度で臨んだ紫苑が、妹の寂しげなオーラを目の当たりにして口を閉じた。
それから、部屋の掃除をした。
流しに溜まった食器を洗い、そこら中に湧いてる害虫を抹殺し、あまつさえ燃えるゴミと燃えないゴミをしっかりと分別するという丁寧さまで見せつけられた紫苑は、思わず姉としての在り方を改めなくてはと決心してしまった。
どうしたの?紫苑は尋ねた。姉としての当然の心配だった。
女苑はなにも言わず、ニヤリと笑い、コンビニの袋からビールを二缶取り出し、二缶とも開けた。紫苑は困惑しながらも一本を手に取り、女苑の持っていたビール缶と合わせた。アルミのぶつかる音が、まるで仏具のりんのように短く残響した。
ビールを飲み干すと、女苑はとっとと床に入ってしまった。姉としてなにか声をかけ
らなければならないと紫苑は考えていたが、苦手な炭酸を飲み干すのに苦心してそれどころではなかった。
十五分はかけて薄くなったビールを飲み干すと、体が熱くなり、副作用で気も大きくなってきた。そうすると、姉の気遣いを無視して寝に入ってしまった妹の存在が途端にムカつき、愛おしくなってくるのだった。
「ねえ、女苑?お姉ちゃんになにがあったか話してごらん?」
姉に背を向けて横になっていた女苑は、断固として目を閉じ、決して開くことはなかった。
「やい、女苑!」と、いきなりキレる紫苑。「わたしはおまえのお姉ちゃんなんだぞ!そっちがその気なら、こっちにだって考えがあるからな!」
それから、紫苑は部屋の隅で一晩中泣いていたのだけれど、女苑が彼女を振り返ることはなかった。
夜が明け、日が高く登り、また沈みかけても、女苑はずっと窓から雪景色を眺めるばかりで、なにも喋らなかった。女苑の態度は凍りついてしまったかのように変わらないが、紫苑の姉としての悲しみは、外で降る雪の強さと比例するように増した。
と、丁寧な掃除によっていまや完全に役割を取り戻したちゃぶ台の上で、女苑の携帯電話が震え、クソを垂れ流した。が、どれだけムカつくヒップホップでも、女苑を窓辺から動かすことは叶わなかった。
「携帯、鳴ってるよ」紫苑がラップの合間を縫うように口走った。「出ないの?」
女苑はビールを味噌汁でも飲むみたいに啜った。それがなんらかの意思表示であることは明白だが、どういう意味を持っているのか理解するのは骨が折れそうだ。
「出ちゃうからね」と、紫苑が携帯を手に取っても、女苑の関心は窓の外以外に向かない。「勝手に出ちゃうからね!」
蓋を開き、通話ボタンを押す。と、なにかの拍子にスピーカーモードになってしまったのか、びゅう、びゅうという風の音が大音量で耳朶を打った。
「もしもし?」ちゃぶ台の上に携帯を置いた紫苑が誰何する。「だれですか?」
電波が不快な周波数を運んできた。
『ウッホッホ!』
アルミの潰れる音が鳴った。
見やると、女苑が手に持っていた缶がプレス機にでもかけたみたいにぺちゃんこになっていた。さっきまでの儚さはどこへやら、みるみる殺気を帯びていく女苑に、紫苑は狼狽した。
「女苑?」という紫苑の呼びかけは当然のように無視された。
「てめえ、あのときのゴリラだな?」女苑の声は、いきなり怒気を含んでいた。「てめえがわたしのところの女を殺したんだな?」
紫苑は携帯電話と女苑を交互に見やった。ウホウホ言ってる通話相手も気になるし、女苑の「わたしのところの女」という発言も気になった。それに「殺した」?
「答えやがれ!」女苑の迫力に、いろんな疑問が吹き飛ぶ。とにかく、昨日から続く女苑の奇妙な態度は、この電話の相手が原因のようだ。「さっさと答えやがれ、この脳みそチビ助め!」
『ウホホ!』と、朝笑うような声。『ウホウホ』
「上等だよ、この野郎」
「言ってることわかるの?」
紫苑の問いかけは、怒りに支配されている女苑の耳には届かなかった。
と、ゴリラの声が遠ざかった。
「……たすけて、女苑ママ!」
若い女の声。だれの声かはわからないが、女苑が手引きして体を売らせている女には違いなかった。女は自分のいる場所を告げ、通話はそこで切られた。
女苑は携帯に拳を叩きつけた。粉々に砕け散り、内容物をぶちまけた携帯電話は、ちゃんとした知識さえあれば、パーツを分別して売ったら小遣いくらいなら稼げそうだった。
「ねえ、いまのだれなの?」怯えきった目で紫苑は尋ねた。「なんでなんにも喋ってくれないの?」
女苑は深呼吸をし、使い物にならなくなった携帯電話を一瞥し、後悔と怒りの混じった舌打ちを鳴らした。
「姉さんを危険な目に遭わせたくないから」実の姉でなくても百パーセント嘘だとわかる口ぶりだった。
「わたしだって女苑を危険な目に遭わせたくない」紫苑は負けじと言った。
「ハッ!」
「なによ?」
「わたしを危険な目に遭わせたくないなら、姉さんになにができるっていうの?」
「それは……」
「姉さんのその気持ちは嘘じゃないかもしれない」女苑はとっくにブーツに手をかけていた。「でも、結局なにもやらないなら、そんな気持ちは初めから存在しないのと同じなのよ」
紫苑は二の句を継げなかった。
女苑はブーツを履き終え、立ち上がり、玄関のドアノブに手をかけた。
「用事が済んだら」振り返らずに女苑は言った。「美味しいもの買って帰るから」
「女苑……」
「行ってくるよ」少しだけ開いたドアの隙間へ、体を滑り込ませるように外へ消えてく。
「女苑!」ドアが閉まる前に声を張り上げた。「じゃあ、コンビニのスイーツ買ってきて!」
閉まったドアの向こう側から、だれかが転ぶ音がした。
紫苑は玄関の鍵を施錠し、万年床に戻って、エアコンの暖房をつけた。それから、考えるでもなく、女苑のことを思い浮かべたりした。
よくできた妹だと思う。出来損ないの姉をちゃんと養ってくれるという意味で、女苑は本当によくやってくれてる。たまに愚痴さえ聞いてやれば、基本的につっけんどんだけど、そこがチャームポイントのかわいい妹だ。
でも、やることなすことが最低だ。甘言で相手を誑かしては金をせしめ、恐喝で相手をビビらせては金をせしめ、果てはひとつの世界を巻き込んだ異変で金をせしめ、おまけに女に体を売らせて金をせしめてる。
姉としては、止めてやるべきなのだろう。ただ、貧乏神としては自分を養ってくれる妹になにも言うべきではないのかもしれない。
一度だけ、自分の立場を忘れて女苑に言ってみたことがある。「ちゃんとした方法で金を稼げ」と。いまでも忘れられない。女苑がこう返したのを。
「ちゃんとした方法なんて、この世に存在しないんだよ。ちゃんとした目的はあってもね」
たまに考える。女苑が傷ついているとき。自分が傷ついているとき。女苑が酒を飲んでるとき。女苑の愚痴を聞いてるとき。女苑の「最低な手段」に自分も乗っかっているとき。
「ちゃんとした目的って、なんなの……?」
紫苑は冷蔵庫を開け、缶ビールをひとつ取り出した。ニトワイザー。ニトロイトでいちばんポピュラーなビール。細い指で苦労してプルタブを開け、気休め程度に炭酸が少し抜けるのを待って、口に含んだ。以前、ビールの炭酸が胃の中で弾けた衝撃で、内臓を損傷して病院に担ぎ込まれたことがある。体質的に飲むべきじゃないのは、紫苑も重々承知していた。
だけど、街に出てみれば、みんなシンナーやクスリをやってる。あれはもう、体質的に飲んじゃダメとかそういう問題じゃない。だというのにみんなやってるのは、やらずにはいられない理由があるからだ。紫苑にとってのビールは、ニトロイトの住民にとってのドラッグなのだ。
口の中で弾ける炭酸。胃の位置が体の外からわかるほど熱くなると、横にならずにはいられなかった。よだれ染みのついた枕に頭を乗せると、優しく微睡んだ。目蓋が重力に逆らえずに落ちる。一切妥協のない暗闇の中に浮かんだのは、先ほど、家を出て行く直前の女苑の背中だった。
たまらなく妹のことが愛おしくなってくる。ふつふつと胸の中で育ってゆく優しさや愛情の副作用として、いまの自分ならなんでもできるという錯覚に陥っていく。
「わたしにも言ってくれればいいのに」熱い息を吐き出しながら、紫苑は言葉を紡いだ。「体を売れって、どうして言ってくれないの……」
と、唐突にインターフォンが鳴った。この街に自分たちの家を知ってる知り合いはいないが、週に二、三回はインターフォンが鳴る。大抵は酔っ払って自分の居場所を見失ってるアル中か、クスリで脳みそを溶かしたジャンキーだ。普段なら無視するのだが、紫苑は布団から立ち上がった。女苑が出かけるときはいつも鍵を持っていくというのを、慣れないビールのせいで忘れてしまっていた。
「女苑!」と、玄関のドアを開けた。
知らない女が立っていた。
自分の意思とは無関係に視界が暗転し、重力から解放される。
寒空の下に晒されても、意識が飛んでくのをどうしようもなかった。
8
うんざりだ。雪の中を息を切らして走る。一瞥の価値もないゴミみたいなイルミネーションをやり過ごしながら、「うんざり」という言葉が実体を持ったようなやつらの間を縫う。普段着が工場の作業着のやつらが、女苑の体、或いは女苑の斡旋してくれる女の体目当てににじり寄ってくる。相手をしてやる暇などないが、ないがしろにして稼ぎ口を失うのも避けたい。とびきり愛嬌のある笑顔で「急いでるんで」という旨の発言でエロ親父どもを遠ざける。聞き分けのないやつには暴力も厭わない。
ああ、うんざり。水商売の売女が生きようが死のうがどうだっていいはずなのに、どうして自分は走っているんだ?クイーンほど稼いでくれるなら走る意味もあるだろうが、ゴリラに拐われたのはバーゲン品ほどの価値しかない安い女だ。なにがわたしを走らせる?
「くそっ、疲れた!」積もりかけた雪に足を取られつつも、女苑は走った。「寒いし!」
ようやく目的地に辿り着いたときには、感情まで凍りついていた。が、憎きゴリラが降り頻る雪の中から視界に現れると、怒りの種火がポッと灯った。
指定された広場は、普段ならストリート・ギャングどもが聴くに耐えないヒップホップを垂れ流しながら踊っているが、この雪の中ではさすがにそんなやつはいなかった。彼らが常日頃から嘯いている「スピリット」がどうのこうのという信念も大したことねえな。息を整えながら、悠然と待ち構えるゴリラに一歩ずつ近づく。その右腕には、金髪が収まっていた。
「女苑ママ!」
金髪が踏み出そうとするも、ゴリラの膂力の前にはなす術がない。そのゴリラは、金髪に顔を近づけ荒い鼻息を浴びせている。
「頭の中、F・U・C・Kの四文字で埋まっちゃってる感じ?」軽口を叩けるくらいクールでいられるのもいまのうちだ。「ま、わたしの頭ん中も『復讐』の二文字しかないけどな」
「ウホホ?」
「クイーンを殺したの、おまえだろ?」
腕の中の金髪が、ゴリラをキッと睨みつけた。売女と売女は馬が合わないものだけど、クイーンはそこのところも常識からかけ離れていた。クイーンは慕われていたのだ。
「あんたが姐さんを……!」金髪の目に涙が浮かんだ。「ママ、こんなのやっつけちゃってよ!」
「どうでもいい」
広場の中央にでんと構えるポプラの木のイルミネーションだけが光源の世界で、金髪だけが驚きの表情を作っていた。
「ゴリラになに言ったって仕方ないわな」
女苑はタバコに火をつけたが、一際強い風が吹いて火をさらってしまった。舌打ちをし、タバコを捨てた。
「やるか」
言葉が通じたか、或いは漲る敵意を感じ取ったか、ゴリラが金髪を離れたところに投げ捨てた。そこからゴリラが戦闘態勢を取るまで、女苑は待たなかった。女苑はここに来るまでの間に、利き手の指にモノホンのダイヤの指輪をはめていた。
躊躇いなく顔面にダイヤをめり込ませる。荒れた地面を耕すように、右で一発。会心の手応えを感じたが、入念の左ストレートを出し惜しみしたりしなかった。
人生は独りよがりなものだ。みんな、自分の都合のいいように事実をねじ曲げたり解釈したりしている。ダイヤ越しに感じた0.4カラット分の手応えも、女苑が勝手に感じたに過ぎない。
顔面にめり込んでいる女苑の、腕っぷしからは想像もできない細腕をゴリラは掴んだ。抵抗もむなしく、女苑は宙ぶらりんの状態になった。女苑は何度もゴリラの胸板を蹴ったが、地に足のつかない状況ではなんの効果も発揮しなかった。
──へえ……
絶体絶命のピンチの最中、女苑が思ったのは、なんとも呑気なことだった。
──ゴリラにも表情ってあるんだな……
トラックに轢かれたようなインパクトが腹から全身に駆け巡り、女苑は宇宙の果てまでぶっ飛ばされた。
9
「……あいつら、なにしてるんです?」
吉弔が尋ねると、半ば興奮気味に驪駒は答えた。
「やっぱさ、親交を深めるには拳からだと思うんだ」
驪駒の喋ってることは、時折吉弔の理解を超えるが、それはいつも通りのことだった。
「わかるだろ?」
まあ、実際のところはわからないでもない。理屈としては。
イルミネーションに彩られたポプラの樹の下で、吉弔と驪駒は殴り合うゴリラと女苑を眺めていた。ゴリラと女苑が殴り合ってさえいなければ、吉弔と驪駒はクリスマスに浮かれたピュアなカップルにでも見えたかもしれない。
だけど、実際はそうじゃない。
ここのところ、驪駒のいびきが変調を来していた。ただいびきの音がでかいだけならまだいいのだが、最近の驪駒は「ヒヒーン」だの「パカラッパカラッ」だの、馬を連想させるようないびきをしやがる。それが気になって仕方がない。音量の問題じゃないから、耳栓も意味がない。
ノイローゼの崖っぷちにまで追い詰められた吉弔は、驪駒が出かけてるタイミングで仮眠を取るようにしている。今日も吉弔は、睡眠薬をウイスキーで流し込んでいた。
ようやく微睡んだところで、驪駒が帰ってきやがった。
「おい、吉弔!いいもの見せてやるよ!」
いいものだと?寝ぼけ眼を擦りながら、吉弔は身を起こした。この世でいちばんいいものは、貴様の死ぬ瞬間だよ。
半ば強制的に連れてこられ、見せられているのがこの光景だ。
「殴り合いから芽生える友情……たまらないね」
「ふうん、そうなんですか」吉弔はギュッと拳を握りしめた。「じゃあ、わたし達も試してみます?殺す気で殴り合って友情が芽生えるかどうかねっ!」
腕力では黒駒に敵うはずのない吉弔だったが、殴りかからずにはいられなかった。案の定、軽くいなされて雪の上に転んだ。
──惨めだ……
いったい、どこで間違えてしまったのだろう?土の混じった雪を握りしめながら、吉弔は思わず泣きそうになった。決まってる。こんな街に驪駒と一緒に来たこと自体が間違いだったのだ。
街並みは油染みやゴミだらけで汚いわ、工場は騒音でやかましいわ、チンピラはところ構わずヒップホップを垂れ流すわ、売女は至るところで体を売ってるわ、ブルーカラーに売女と勘違いされるわ、驪駒はいちいち絡んでくるわ!
「もうやだあ……」気がつけばポロポロと涙が溢れていた。「畜生界に帰りたい……」
「吉弔」地面に突っ伏す吉弔の肩を、驪駒は優しく抱いてやった。「わたし達は殴り合う必要もないくらい親密な関係だろ?」
「……」
なんなんだ、こいつは?吉弔は呆れや怒りを通り越して、恐怖を感じつつあった。なんでこいつはヤクザなんかやってるんだ?敵対する組織の組長とすら仲良くなれるんなら、こいつなら世界をひとつにすることだって不可能じゃないんじゃないか?
吉弔の体から温かいものが湧いてきた。それは、遠い昔に忘れてしまったものだった。優しさ、思いやり、友情、恋や愛。
売女にとって重要なのは、客に好かれることではない。いかに自分が相手を好きになるかだと言う。吉弔は売女ではないが、友好な人間関係(吉弔は人間ではないが)を築くにおいて、これはひとつの真理なのではないかと吉弔は思った。
驪駒は信じられないほどの馬鹿だ。馬鹿って言葉が驪駒に相応しいことさえ許せなかった。馬と鹿、だと?これじゃあ驪駒と鹿が付き合っているみたいではないか!
けど、と吉弔は驪駒の手を取った。相手のことを好きになってみる。たぶん、いがみ合い殺し合いのヤクザの時代はもう終わったのだ。これからはヤクザも手を取り合う時代だ。
二人は横並びになって、女苑とゴリラの戦いを眺めていた。二人の周りの雪だけ赤く染まっている。向こうもそろそろわかり合うときだ。
「おお、そうだ」と、驪駒が口火を切った。
「なんです?」
「あれ、やっといたぞ」
「あれ?」
「交渉に使えるからポン引きの身内をさらっとけって話だったろ」
「……え?」
「おまえが言ったんだぞ」驪駒は葉巻に火をつけた。「ポン引きの身内を拐っとけって」
「ちょっと、ちょっと待ってください」吉弔は頭の中で話を整理し、ゴリラと戦う女を指差した。「いや、それならなんであいつらを戦わせてるんですか?身内を拐うなら、あんな茶番は必要ないじゃないですか」
「はあ?」驪駒が馬鹿を見るような目で吉弔を見た。「おまえ、殴り合いで友情が芽生えるとか、わたしが本気で言ってると思ってたのか?」
「……」
「ゴリラ霊なら簡単に倒せると思ったんだけど、あいつが善戦してるだけだよ。本気にしてたの?え?」
吉弔は口の中でなにかもごもごと言ったが、驪駒が決定的な一言を言うと、一気に頭脳が明晰化し、なにをすべきか瞬時に判断した。
「馬鹿だな、おまえ!」
吉弔は、腰からサタデーナイト・スペシャルを引き抜くと、驪駒へ銃口を向けて三回引き金を絞った。
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乾いた破裂音に気を割いたのがいけなかった。
ちらりと視線を横にやった瞬間、女苑の体は遥か後方へ発射された。地面すれすれをなにもかも置き去りにするスピードでぶっ飛ぶ。ベンチにぶつかるまで女苑は浮いていた。背中を思い切り打ちつけた女苑は、吐き気を伴う苦しみに襲われた。
「女苑ママ!」と、金髪の不愉快な悲鳴。「い、いまの音、銃声じゃ……」
込み上げてくるものを嚥下しながら、女苑は立ち上がった。お気に入りのブランドものの服はとっくにズタボロで、ツインにまとめていた髪は片方のロールが解け、髪の毛の中には割れたグラサンの破片が混じっている。
口の中に溜まった血を吐き捨て、顔を叩いて気合を入れた。霞んでいた視界が少しだけ明瞭になったが、ゴリラのやつがどこにもいなかった。
ポプラの方に目を走らせると、ゴリラを視界に捉えることができた。野郎は女苑そっちのけで、いつの間にいたのやら、頭に奇っ怪な角を生やし、甲羅を背負った尻尾つきの女に猛然と向かっていくところだった。
女の足下には、また別の女が倒れていて、周りには黒い羽が散乱していた。黒い羽は倒れている女に生えた翼から抜け落ちたものらしい。
「ウホホホーッ!」
女苑と殴り合っているときは驚くほど冷静だったゴリラが、怒りを露わにして角女に襲いかかる。が、それよりも速く角女が銃口を向け、引き金を絞った。一発、二発、三発。体から血液が噴出するたびに、ゴリラの動きが緩慢になった。
──なにが起きてる……?
「ゴリラごときに、わたしを殺せると思いましたか?」
角女がまた引き金を引くと、ゴリラの巨体が弾け飛び、地面とキスをした。
びっこを引いて女苑が近づくと、角女が女苑に一瞥をくれた。拳銃を持っているからといって、自分がこの場を支配しているんだという態度が気に食わなかった。
「依神女苑……」角女はゆっくりと銃口を女苑に向けた。「わたしは吉弔八千慧。鬼傑組の長です」
「銃口を向けられながら自己紹介されるのは初めてだな」女苑は余裕ぶって笑ったが、どうしても虚勢を消せなかった。「あんたが河童の警察と繋がってるってヤクザか?」
吉弔は力なく首を振った。それが違うという意味なのか、答えるつもりはないという意思表示なのかはわからなかった。
ため息ひとつ分の間の後、吉弔が口火を切った。
「あなたの女を殺したのはわたしじゃありません」吉弔の口調は穏やかなものだったが、銃は依然としてこちらを向いている。「すべてそこの馬鹿女がやったことです」
吉弔が顎でさす方に、女苑は目を向けた。黒翼を生やした女が血を噴いて倒れている。
「じゃあ、このゴリラもそいつの部下か?」
吉弔は頷くと、今度は銃を倒れている驪駒に向けた。彼女自身、その鉄塊の持つ底知れぬ力に振り回されているみたいだった。
「単刀直入に言います」吉弔の視線は銃口と同じところを向いていた。「あなた、わたしの組の……」
吉弔が言い終わる前に、女苑は飛びかかっていた。ヤクザをなめていたとしか言いようがない。吉弔は視線を動かさないまま、拳を振り上げて襲いかかる女苑を銃床でぶん殴った。もんどり打って地面に倒れる女苑。
「あなたはこの駄馬のように馬鹿ではないはずだ」力を振り絞って立ち上がろうとする女苑に、再び銃口を向ける。「それとも、たかが商売道具をひとつ壊されただけで、ものごとの本質を見失うような低脳なんですか?」
なにを言われても体に力が入らなかった。
「本質、だと?」女苑は口の中に溜まったドロッとした血を吐き捨てた。「ヤクザがなんの本質を語るってんだ?」
「喧嘩ですよ」吉弔は女苑に向けていた銃口をスライドさせた。「あらゆる意味で敵わない相手に、ツッパる意味なんかないでしょう?」
銃口は、金髪の方に向いていた。
「あ、おい……」
「分不相応に振る舞えば、必ず代償が付き纏うことになる」
銃弾は無慈悲に発射され、無遠慮に金髪の体内をかき回し、無愛想に退出していった。
雪の上に血のアートを描き殴って、金髪は声も出せないまま地面にくず折れた。
反射的に体が動きそうになったが、動くべき方向を定められずにいた。吉弔をぶっ飛ばすべきか、それとも──
「依神女苑」放心状態だった女苑を、吉弔の声が引き戻す。「もう一度言います。わたしの下につきなさい」
「一介のポン引きに頼らなきゃいけないほど、ヤクザもやりくりに困ってるのかよ?」
吉弔はなにも言わなかった。とっとと女苑を屈服させたくてうずうずしている、という感じだ。その証拠に、引き金にかかった人差し指がぷるぷる震えている。それが寒さが原因じゃないのなら、自分の命もあと少しで終わりだな、と女苑は思った。
とびきり気の利いた辞世の句を考え始めた、そのときだった。
「ウッホー!」
「なにっ⁉︎」
虫の息だったはずのゴリラが息を吹き返し、立ち上がると同時に吉弔に突進した。一瞬、狼狽した吉弔だったが、すぐにゴリラに向けて弾丸を撃ち切るまで発砲した。
頭が半分吹き飛んだゴリラは今度こそ事切れたが、吉弔はそんなことに気を留めなかった。吉弔は弾の入っていない拳銃を捨てると、さっきまでそこにいたはずの女苑の気配を悟るのに集中した。
勝敗はすぐに決した。
崩れ落ちるゴリラの背後から影が飛び出した。同時に吉弔が後ろへジャンプしたが、背後には忌々しいポプラのクリスマスツリー。
逃げ場を失った吉弔の角を思い切り掴むと、女苑はダイヤモンドの指輪をはめた方の拳を振り上げた。
「くたばりやがれ、マザー・ファッカー!」
ハンマーでぶん殴られたような衝撃が吉弔を襲った。目眩、次いで吐き気。確認するまでもなく、頭が割れているとわかった。
血で染まった視界の中で、女苑がもう一度拳を振り上げるのが見えた。二度目はない。もしも血で滑って手が角をすっぽ抜けなかったら、既に死んでいる吉弔はさらに死ぬことになっただろう。
振り上げた拳の行き場所をなくした女苑は盛大に転び、今度こそ立ち上がれなかった。
「くそ……」頭を抑えながら、吉弔は女苑と距離を取った。「後悔しなさい、依神女苑……わたしに喧嘩を売ったことを……」
陰気な捨て台詞を吐き、吉弔は覚束ない足取りで退場した。
酸鼻な光景だった。撃ち殺された女二人と、ゴリラが一匹。身に付けていたものは尽くダメになった。とはいえ、失ったものと言えばそれくらいだ。自分の売女がひとりくたばったくらいで、ゴリラと黒翼の女に関しては知らない。
雪は祝福のように降り続けている。このままだと凍え死ぬかもわからないが、強大な力を持つ、それも拳銃を持ったヤクザに一矢報いることができたのが、女苑に諦めにも似た達成感を味わわせていた。死ぬ理由なんてないし死にたくもないが、死ぬなら死ぬで受け入れることができた。
と、体をチクチクしたものが触れた。それは暖かったが、チクチクしていた。そのチクチク具合が寒さに凍えているよりマシとは到底思えなかった。
「痛えんだよ!」
体を起こしてチクチクしたものを払い除けた。チクチクしたものはゴリラだった。
「おまえ……」
ゴリラにはまだ息があった。脳味噌を半分欠いているのに。ゴリラは口をパクパクさせた。空気を吸いたいのでなければ、なにか言いたいのだ。
ゴリラは先っちょのない人差し指で、倒れている黒翼の女を指した。女苑はそっちへ視線をやった。
黒翼の女はまだ生きていた。
「なんだ?」女苑はゴリラの口元に耳を近づけた。「なにが言いたいんだ?」
ゴリラが言った。
「ウ……ホホ……」
「……」
今度こそ完全にゴリラが死んだ。そう思っては蘇ってきたゴリラだったが、女苑には確信めいたものがあった。
ゴリラの体からなにかが抜けていく。女苑はそれを魂だと思った。魂は風に乗り、夜空へ溶けて行った。きっと、あのゴリラはとっくのむかしに死んでいたのだ。でなきゃ、ここまで執念深い理由の説明がつかない。
ゴリラの言ってることは最後までわからなかったが、伝えたいことはわかっていた。きっと、あの黒翼の女を助けてやってくれと伝えたかったのだ。
──知ったこっちゃないね……
血の混じった唾を吐き捨て、酔っ払いのような足取りでなんとか立ち上がると、ゴリラや金髪や黒翼の女を素通りしようとした。
できなかった。
考えれば考えるほど、あの吉弔とかいうヤクザを逃したのは痛手だった。ちゃんととどめをさせなかったばかりに、女苑はこれから命を狙われることになる。あのゴリラが示していたように、ヤクザというのは執念深いので、街を出たくらいでは逃げ仰せないだろう。
「……くそ!」
女苑は振り返り、黒翼の女の方へ寄った。女に意識はなかったが、口から白い息を吐いている。撃たれてからかなりの時間が経っているはずだが、タフな女だ。
女を背負って歩き始める。
なにかを踏みつけた。
見やると、降り積もる雪の中に沈んだ金髪の死体だった。踏んづけてしまったのは、自分を慕っていた金髪の死体だった。その目は悲しみとも驚きともわからない感情に見開かれていて。
女苑はくさくさした気持ちで、
「悪かったよ」
そして、また歩き出した。
『アーリー・タイムズ④』
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驪駒は夢を見ていた。夢の中で、驪駒は馬になっていて、背中にはだれかが乗っていた。
驪駒の目の前で、馬と馬がやっている。種馬の方が目隠しをされている。驪駒と背中の人は黙ってそれを眺めていた。
やがて、ことが済むと、飼育員がやってきて目隠しを外した。すると、種馬は発狂し、体をそこら中に打ち付けながら、嗎くというよりは悲鳴をあげながらのたうち回った。
「あの馬は親子だったんだ」背中の人が妙に懐かしい声で言った。「おまえにあれが耐えられるかな」
発狂する種馬を眺めて、飼育員は声を立てて笑った。それから、目隠しを持って驪駒の方へ近づく。
驪駒は逃げようとするが、体はどこにも縛られていないのに、どこへも行けない。声を出して訴えようとするが、声はついさっき聞いた悲鳴にしかならない。
目に布を被されたところで、覚醒した。
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女が目を覚ますまでに、女苑は家の周りを四周半回った。が、どこにも紫苑がいないとわかると、階段を登って玄関のドアを蹴り破った。トイレのドアと合わせて、これで二千万円分の請求書が河童から来ることになる。
部屋の中を凍風が入り込み、紫苑の布団で寝かせていた女が豪快なくしゃみを一発し、部屋の中を見回した。
女苑は、いまだ状況を飲み込めていない様子の女の肩を掴み、引っ張った。
「やい、こら。姉さんをどこへやりやがった?」
女はボーッとしたまま、体に巻かれた包帯を不思議そうに眺めたり指でなぞったりした。「手当てしてくれたの?」
「しらばっくれんなよ、てめえらが姉さんを拉致ったんだろ!」
「ああ、そうか。八千慧が……」女は傷痕を指でいじくり回した。
「姉さんをどこへやったんだよ!」
「依神……」
「なんだよ?」
「なにか食わせてくれ」
絶句した。人様の身内を拉致っておきながら、なにか食わせてくれ、だと?ヤクザってのは、どこまでパンピーから搾取すれば気が済むんだ?
「姉さんを返せ!」女苑は、一瞬女を殴りそうになったが、怪我を考慮してその辺の壁を蹴った。「姉さんの居場所を教えたら食わせてやる」
「事務所だ。わたしと吉弔の」飯の力とは大したものだった。「それにしても、うーん……吉弔のやつ、あんなもんを持っていたとはね」
女苑は新しいコートを羽織ると、ドアのなくなった玄関へ向かった。
「ひとりで行く気か?」と、女。
「おまえが助太刀してくれるのかよ?」
「まあ、わたしも撃たれたしな」女は立ち上がり、それから一息ついた。「ゴリラ霊も死んだのね」
「霊?」
女苑は首を傾げたが、すぐに自分なりに納得した。あのゴリラの執念深さは、たしかに霊的ななにかに取り憑かれていてもおかしくはない。
「八千慧には……」はあ、と大きなため息をつく。「大きな貸しができたな」
「返して貰いたいなら、とっとと事務所まで案内しやがれ」女苑はちらちら外を仰ぎ見た。「来ないならひとりで行く。ひとりで吉弔をぶっ殺して、その後はおまえだよ!」
「まあ、落ち着けって」
「落ち着け、だあ⁉︎」女苑は壁を蹴った。これ以上は部屋の温度を下げたくなかったので、力は加減した。「こっちは唯一の身内をヤクザに拐われてんだぞ!」
「そんなカッカッしてたら勝てる喧嘩も勝てないぞ」女は近くに落ちていたタバコを拾い、咥え、火をつけ、むせた。「くそ、またメンソールだよ」
女苑は冷静になろうとしていた。が、姉の安否が焦燥に火をつける。「てめえは勝てる喧嘩しかしない腰抜けのヤクザなのか、お⁉︎」
「愛のためなんだ」
「……」
そのあまりの突飛さに、女苑は鳩が豆鉄砲を食ったような面になった。なんで言ったんだ、いま、こいつは。あい?あいって、愛のことか?なんでこのタイミングで、愛?
それにしても、ええ?ヤクザが「愛」だって?冷静にならずにはいられない。ヤクザが愛を云々抜かすなんて、木の葉が沈んで石が流れるようなものだ。
「おまえの姉を拐ったのも、敵対してる吉弔に協力を仰いで地上に来たのも、愛のためなのよ」
愛がある、と言った女の顔は誇らしげだった。そりゃそうだろうな、と女苑は思った。愛がいちばん大事だと信じてるやつには、ほかになにもなくったって愛があるんだから。
馬鹿な話だ。だけど、もしかしたらこの女は馬鹿なのかもしれない。馬鹿なやつが馬鹿なことを抜かすと、そこに不思議と一抹の真実味が生まれる。だれだって愛のために本気で生きてるやつを嫌いになんかなれない。
女苑は冷蔵庫からあまりものの惣菜を取って、女の前に出してやった。女は総菜を見、それから女苑を見た。女苑が頷き返すと、女はそれを貪った。
「依神女苑」女苑は名乗った。「あんたは?」
「驪駒早鬼」驪駒と名乗った女は、口から野菜の屑をボロボロ落とした。「勁牙組の組長だ」
驪駒・ザ・イケイケ組長は大きなゲップをし、再び部屋の中を見回した。驪駒の視線を、女苑も追った。もともと汚かった部屋は、紫苑を拉致られてキレた女苑のせいで、黙示録級の大惨事になっていた。
「地上に会いたい人がいてさ」訊いてもないことを、驪駒は勝手に話し始めた。「その人に会うために、この街を足がかりにして勢力を広げようとしたんだ」
「そのためにあの吉弔を利用していたんだな」女苑は吉弔の顔を思い浮かべた。狡猾で残忍で、自分の女を殺したときの笑みを。「それで、裏切られた」
「途中まではうまくやってたんだけど」驪駒は苦々しそうにタバコを吸った。「なんか、いきなりキレたんだよ。あいつ、たまにいきなりキレんだよ」
「ただの仲違いかよ」女苑が鼻で笑う。「ヤクザってのは、ただのお遊びグループなのかい」
「なんだと!」
「で、愛の使者の驪駒さんはどうするつもりなんだ?吉弔にやられっぱなしでいいのか?」
驪駒はしばし思案顔になったが、すぐにその顔に理解の光がさした。その表情に、邪魔者の存在を消してやろうと決定したときのような邪悪さはなく、解けなかった難問にすっかり合点が行ったときのような爽やかで無垢な笑みが張り付いていた。
「まあ、やるしかないわな」
「だな」女苑は冷蔵庫の脇に置いてあるウイスキーの瓶を取ってきて開けた。「どうする?」
「酒は傷の治りを遅くするぞ」タバコの灰を灰皿の上でタップし、「わたしにもくれ」
「あいつは拳銃を持ってるだろ?」
瓶口を舐め、驪駒は舌打ちをした。
「くそ、こいつも吉弔がいつも飲んでるやつだ。ああ、いつの間にあんなもの懐に隠してたんだろうな?」
「ヤクザなら拳銃くらい持ってるもんだろ?」
「わたしは徒手空拳でやってきた」
女苑は確信した。こいつは馬鹿だ。これで思い知ったに違いない。徒手空拳じゃ拳銃にはとても敵わないってことを。
──けど、まあ……
「二人なら、行けちゃう?」
女苑が言うと、当然だろ?と言うように驪駒が笑った。
「わたしは吉弔みたいに頭を使うのが苦手なんでね。やるなら真正面からドーンとぶつかるのがわたし流さ」
ウイスキーの瓶が驪駒の手から女苑に渡った。「拳銃相手に真正面から突っ込んで死んだやつを見たことがあるぜ」
「だれだ?」
女苑は酒で唇を濡らした。「あのゴリラだよ」
「あいつはうちの幹部のひとりだったんだ」
「あんたのことをとてもよく慕っていたみたいだったしね」
少し寂しげな表情を浮かべてから、驪駒は言った。「でもまあ、二人だし?」
「やれちゃうってか?」
いざとなったらこのアホなヤクザを囮にしてやろうと言う抜き差しならない目を伏せながら、女苑は笑った。驪駒も笑った。
「わたし達、うまくやっていけそうだな」
ヤクザの言う「うまくやっていけそう」ほど信用ならない言葉もないが、女苑は頷いてやった。いままで生きてきて酸いも甘いも舐め尽くしてきたけど、こんな純粋無垢な笑顔で「うまくやっていけそう」なんて言うやつに打算なんかあるはずがない。
ヤクザになりたくてヤクザになるやつなんて、実はそんなにいないのだろう。売女になりたくてなるやつだって、クイーンのようなビッチを除けばいない。自分だってそうだ。疫病神なんかやってられない。けど、そういう風に生まれついてしまった。それならどうすればいい?なりたくもないものになってしまったら、せいぜいへっちゃらなふりをして生きていくことくらいしかできないか?
差し当たっては、それくらいのことしかできない。それに、いまはそんなことを考える時間じゃない。
「和を以て貴しとなす、だ」と、驪駒が自分を賢く見せるための虎の子を出した。
「なに、あんた、聖徳太子のファン?」女苑は嘲笑した。「わたしもファンだったよ。あいつの顔が印刷された紙をたくさん集めてたんだ」
「それ、くれよ」
「もうない」
「くそ」
割と本気でしょんぼりしている驪駒を見るにつけても、申し訳なくなってくる。この世には、どうしてそんなものが好きなのかと尋ねたくなるようなものを好いているやつが、たしかにいる。
いたたまれない空気をどうにかしようと、女苑は立ち上がった。
「行くぞ、吉弔のところに」
頭の中で聖徳太子の情婦になる想像をしていそうな驪駒が、吹っ切れたように床を蹴って立ち上がる。
「ああ。吉弔を倒して、この街をわたしのものにすりゃあ……」驪駒は両手で顔をパチンと叩いた。「よっしゃ、やってやるぞ!」
女苑の体は痣だらけで、まともに動くところなんか──普段と比べて──ひとつもない。片や驪駒の体は穴だらけで、普段のスピードとパワーで働けば、たちまち全身から血を噴き出して死んでしまうだろう。おまけに相手は鉄砲を持っていて、こっちは武器もなにもない。
関係ない。女苑には唯一の肉親がいて、驪駒には懐かしき憧憬の人がいる。それだけで、二人にとって動ける理由になった。
「おい、前から思ってたんだけどさ、そんな服で寒くないの?」
驪駒が女苑の服装を指摘すると、女苑はすでに勝ち誇ったように笑い、断言した。
「ノースリーブは最強なんだよ」
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驪駒早鬼を撃ち殺し、ゴリラを射殺し、金髪の売女の脳味噌をふっ飛ばしたときも、吉弔八千慧は至って冷静だった。驪駒早鬼に銃弾を浴びせるときも「三発だけ撃とう」と決めて引き金を引いた。本当に冷静じゃなかったら、驪駒に「馬鹿」と言われて三発じゃ済まない。
女苑に頭を割られたときも冷静だった。頭から血が流れたせいかもしれない。吉弔は決して自分の実力を驕らず、冷静沈着に身を引いた。
それからは疾風怒涛だった。
まず、街中のチンピラに招集をかけた。驪駒の目を掻い潜り、吉弔が能力を使って従えたチンピラだ。どいつもこいつもクスリやシンナーや吉弔の能力のせいで虚な目をしているが、喧嘩ってのは数だ。満身創痍の女苑なら、わざわざ自分が出向く必要はないだろう。
それから、畜生界で留守番をしている組員どもにも召集をかけた。こちらは場所が離れているから即戦力と言うわけにはいかないが、保険にはなる。
それから、警察への根回し。ニトロイト警察はすでに吉弔の手の内に収まっているが、念には念のため。女苑を見つけたら自分の前に連れて来い、と吉弔は命じた。金のためならなんでもやる河童どもだ。最初から逆らう気力なんか持ち合わせていない。
そして、最後は銃の手入れをした。ひとつひとつ、丁寧に。サタデーナイト・スペシャルとは粗悪な拳銃の総称だ。どれもニトロイトで出回っているもので、あまりいい噂は聞かない。これも入念に手を入れておくに越したことはない。
一通りやることを終えた吉弔は、事務所のソファで「ふう」と一息吐いた。それから、頭を抱えてふさぎ込んでしまった。
──やってしまった!
吉弔にとって驪駒の失脚は夢にまで見た出来事ではあるが、なにも自分の手を汚す必要はなかったし、いまである必要もなかった。畜生界の巨大な組織のひとつ、その長を殺してしまったとなれば、勁牙組の残党との戦争は免れない。いや、いずれは戦争も辞さない覚悟ではあったが、それは数ある選択肢のうちのひとつであり、戦争を起こさないならそれに越したことはなかったのだ!
──どうする……?
考えがまとまらないのは、なにも考えることが多すぎるから、というわけじゃない。さっきから「お腹減った」だの「帰りたい」だの、やかましいのが同じ空間にいるからだ。
「うるさいっ!」声の方に思わず叫んだ。「ええ?ヤクザに拉致られて、よくそんなに呑気でいられるものですね。死にたいんですか?」
「なにも食べなきゃ、どのみち死んじゃうし……」女苑の姉、紫苑は腹の虫が喋っているような声で言った。「言ってみるだけ、変わるかもしれないじゃない?」
吉弔はまた頭を抱えた。この世はどれだけ悲しみに満ちていると言うのか?ヤクザに拉致られてまで考えることが飯の心配だなんて、こんな街を自分のものにしたところで、価値なんかなんにもないんじゃないか?
頭がズキズキ痛むので、なにも考えないようにした。やるべきことはやった。問題は現在進行形で、先のことを考えるのはいま起きてることを片付けてからにしよう。吉弔がいま望むこと、それは依神女苑の死、或いは屈服だけだった。
紫苑が耄碌したババアのように「腹が減った」と宣うたびに手入れしたばかりの拳銃を試してみたくなるが、吉弔はどうにか溢れ出る衝動を抑え込んだ。こいつは女苑を屈服させるための切り札だ。吉弔は、その能力が示
すように、だれかを屈服させるのを至上の歓びとしている。殺すのは妥協に過ぎないし、かなり後悔を伴う妥協になる。ときにはいるのだ。死ぬ直前まで誇りを失わない、みたいな時代錯誤も甚だしい馬鹿が。
吉弔はくしゃくしゃのパックを取り出し、一本を咥え、火をつけた。メンソールのスッキリした香りが、幾分か思考や感情を整然とさせる。そうすると、いまの状況が大してヤバくもないように思えてくる。
なんて言ったって、驪駒はもういないのだ!あの目の上のたんこぶ、飛んで火にいる夏の虫、足手まといで煙たい存在の驪駒がいない。これはつまり、将来の成功を約束されたようなものではないか!
途端に気分がよくなってくる。自分が嫌いなやつが自分にとっていいことをなにかひとつだけできることとすれば、それはとっととこの世からおさらばしてもらうことだけだ。
吉弔は紫苑の手を縛る縄を、修学旅行のお土産感覚で部屋の隅に置かれていた長ドスで切ってやった。
「さっきは怒鳴ってすみませんでした」まるで邪気のない笑みで、吉弔は心からそう言った。「あっちの部屋にある冷蔵庫の中身を好きなだけ漁ってきていいですよ、犬のようにね」
紫苑は吉弔の豹変っぷりを異常とは一切思わず、目を輝かせた。「いいんですか⁉︎」
もちろん、死んだ祖父母の客人を案内するように慇懃に頭を下げた。どうせその冷蔵庫の中身は捨てるところだったしね。
やるべきことが見えてくると、吉弔は頓着しなかった。指をパチンと鳴らすと、すぐに側近のカワウソ霊が音も立てずに入室した。
「カワウソ、いまから依神女苑を叩きに行きます」
「は、はあ……しかし」
カワウソは神経質に部屋を見回したり、なにかひとり言を呟いたりした。
「どうしたんです?」普段なら小言の一言でも言ってやるところだが、いまの吉弔は気分がよかった。「なにか言い難いことが?」
「そ、それが、その……」カワウソは視線を吉弔から逸らしながら、訥々と言った。「女苑の方から事務所まで向かってきているらしくて」
吉弔はさほど驚かなかった。想定済みだ。姉を奪われた女苑が、怪我の治りも待たずに攻め込んでくるのは。
「チンピラどもに、もう一度伝えておきなさい。女苑は生け捕りにして、わたしの前へ連れて来させよ、と」
「あの……」
「なんです?」
「驪駒も来ているみたいです」
「……」
吉弔は無言で拳銃をカワウソに向けた。
「つまらない冗談ですね?カワウソ」机を蹴って椅子から立ち上がると、吉弔は銃を向けたままカワウソに詰め寄った。「驪駒がなんですって、ええ⁉︎」
「だ、だから、その……」吉弔の剣幕にほとんど涙目になりながら、カワウソは訴えた。「驪駒が、驪駒が生きてたんですぅ!」
一瞬、引き金を引いてやろうかと思った。そんなことをしたって意味がない。が、意味がないからやめたと言うと、それも違う。
驪駒が生きている。
弾を無駄にするべきではない。
もはや冷静さなど、驪駒を殺す上では邪魔なものでしかなかった。
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1
一筋縄ではいかないことは理解していたが、吉弔に辿り着くのは、予想を遥かに超えて面倒だった。群がるチンピラどもは脳味噌なんかあってないようなものだから簡単に倒せるが、数で来られると果てしなく面倒くさい。
「相手は吉弔ひとりじゃなかったのかよ⁉︎」クソにたかるハエのように寄ってくるチンピラを蹴散らしながら、女苑は怒鳴った。「こんなにいるなんて聞いてないぞ!」
敵から奪った鉄パイプで道を切り拓く驪駒が叫び返した。「これくらい、どうってことないだろ!」
吉弔の事務所までは、まだまだ道を何度も曲がらなくてはならないと言う。ふつうに歩けば二十分かそこらの道のりで、二人は足止めを食らっていた。
体が本調子ではない。女苑はゴリラとやり合ったときの傷が、驪駒は吉弔に撃たれた傷が、明らかに身体能力に失調を来していた。
それでも走った。チンピラを殴るたび、吉弔への恨みが晴れていくような気がした。その程度の復讐心なのかもしれない。女苑は思った。女を殺され、稼ぎを減らされ、そんでもって、チンピラどもをぶちのめすだけで気持ちが晴れてくなら、いま、自分を動かしているものはなんなんだ?ここいらに妥協点がありそうで、足を止めてしまってもいいような気さえしてくる。
だけど、走る。身も世もない連中をぶちのめしながら。やがて、殴ること自体が楽しくなってくる。この調子で行けば、殴られることさえ楽しくなってくるだろう。
快楽と苦痛の中で意識が混濁し始めたころ、風を切る音が聞こえた。細胞のひとつひとつが危険信号を発する。それに牽引されるように目を走らせる。迫ってきているのは重たそうなチェーンで、食らえば立ち上がれなさそうな一撃。
と、またなにかが目の前で風を切った。吉弔との戦いのこともあって、弾丸が飛んできたのかと思った。
見やると、驪駒が自分の代わりにチェーンを食らっていた。
「依神ぃ!」チェーンを引きちぎりながら、驪駒は口を動かした。「今夜のおまえは、間違いなく愛の使者だな!」
「は、はあ?」
「金のためだけじゃ、こんなに動けないだろ?」驪駒は女苑に喋らせなかった。「行けよ!こいつらはわたしが引き受けるから、おまえは、はやく姉に会いに行ってやれ!」
忙しなく動き続ける、混迷極まる現実に脳味噌が追いつかない。敵はいまも鉄パイプやチェーンを持って、ひっきりなしに襲いかかってくる。中にはラジカセを持ってるやつもいる。
愛の使者、か。悪くない。驪駒の横を通り過ぎ、女苑は雪の上を、限りなく楽しげな笑みを浮かべながら軽やかに走った。クソみたいなヒップホップを切り裂くような気高い嘶きが、背中を押してくれた。
ポン引きが、随分と出世したもんじゃないか!
『アーリー・タイムズ⑤』
天から見放されたような薄汚い雑居ビルの三階に、驪駒と吉弔の事務所はあった。吉弔の側近と思われる、少なくともチンピラよりは殴り甲斐のありそうなやつらが、ビルの警護に当たっていた。驪駒が辣腕を振るってるおかげで、追手が来る気配もない。
最初からそうするつもりだったから、女苑は敵の前に出ることに頓着しなかった。吉弔の側近──全員カワウソに似ている──が彼女の前に立ち塞がった。が、それだけで襲っては来ない。
西部劇に出てくるタンブルウィードのようにレジ袋が風に転がされてくる。それを皮切りに、女苑は口火を切った。
「おまえら、霊なんだって?」警戒を続けるカワウソどもを一睨する。「かかってこないってことは、霊のくせに命に執着があるみたいだな」
カワウソどもは仲間内で目配せをしたり、コソコソとなにか喋ったりした。おまえが言え、いいや、おまえが言え、と責任の押し付け合いをしているみたいだった。
「お、おまえが女苑だな」たったいま決められたようなリーダーが、小さな口を動かした。「入れ。組長が中で待ってる」
互いの腹の内を探るような間があった。
女苑はビルの三階を見上げた。吉弔や紫苑らしい人影は見受けられなかった。女苑は入り口に向かった。
「組長御自ら会ってくれるとは光栄ね」通り過ぎ様にいちばん近くにいたカワウソの鼻っ面をぶん殴った。「今度こんな舐めた態度取ったら、ただじゃ済まねえからなぁ」
今度はないけどな、女苑は郵便受けの並ぶエントランスを通り、奥の非常階段で三階まで登った。
驪駒のと思わしききったない字で「勁牙組&鬼傑組事務所」と書かれた看板がドアの前に出ていた。それを見て、幾分か気分が和んだ。
ドアノブに手をかける。あらゆる展開を予想する。ドアを開いた瞬間に撃たれる、入った瞬間に横からドスで刺される。ドアノブの捻り具合が爆弾かなんかと連動してて、開いた瞬間にボカン──搦手こそ最強を信条とする吉弔のことだ。どんな策を張り巡らせていてもおかしくない。
結局は考えても無駄だと言うことだ。女苑は静かにドアノブを捻り、風呂を覗こうとする変態みたいにそっとドアを開けた。
いきなり、ボカン、というようなことにはならなかった。銃声が鳴るようなこともない。
吉弔はたしかにそこにいたが、女苑が想像していたような殺気は感じられなかった。
だというのに、動けない。吉弔の視線は女苑を捉えて離さない。女苑は思わず目を逸らしたくなったが、勝負は既に始まっている。少しでも精神的優位に立たなければならない。
「驪駒は?」
朝露が地面に弾けたような声で、吉弔は尋ねた。おまえなんざ論外、てな侮蔑の目は、しかし、しっかりと女苑に向けられている。
「さあね」女苑は肩を竦めた。「足手まといだから置いてきた」
テーブルの上に散らばった食べ物のカスや容器。よく手入れされたマホガニーの机。申し訳程度に置かれた観葉植物。壁にかけられた額縁に入れられてるのが「十七条の憲法」でなかったら、一般的なヤクザの事務所のイメージとそうかけ離れてはいなかった。実際に足を踏み入れてみると、どこか落ち着くレイアウトですらある。
女苑のすぐ側をなにかが通り過ぎていく。遅れて、破裂音。左に纏めた髪が解け、何本か宙に舞った。
立ち上る硝煙を息で吹き消すようなキザな真似は、吉弔はやらなかった。
「驪駒が足手まとい?」
女苑はいま、三つの殺気に絡め取られていた。吉弔の双眸に、自分の脳天を狙うどこまでも暗い銃口。
「あなた如きにわたしを倒せるはずがない。……そうか、驪駒が囮になったのですね」
「いつもの搦手はどうした?」軽口を叩きながらも、女苑の両手は頭の上に行きそうになっていた。「鬼傑組の組長は搦手が得意だって評判なんだろ?わたし如きには必要ないってか?そのチャチな拳銃でわたしを殺せるか試してみろよ」
挑発に乗って少しでも熱くなって照準を逸らしてくれれば、と思ったのだが、吉弔は憧れたくなるくらいクールだった。それが気に食わない。
「姉さんを返せ」
露骨に雰囲気の変わった女苑にも、吉弔の感情のメーターは微動だにしない。が、女苑を捉えて離さなかった瞳が、少しだけ左に動いた。そこには別室へ繋がるドアがあった。
「そこだな?」
女苑はドアに向かって足を踏み出した。
と、また銃声。
体に穴が空いていないか確かめずにはいられない。どこも痛くないし、どこも熱くなかった。
「勘違いをするな」吉弔の眉間にシワが寄る。「おまえの姉はもういない」
「……そのドアの向こう側を改めさせろよ」
吉弔の眉間に寄っていたシワが解れる。それから、ため息と一緒にいろんなものを吐き出そうとした。
「あなたはポン引きでしたね」
「……あ?」
「ポン引きが街中の女を手込めにしているのに、家族だけ特別扱いって言うのは、ちょっと不公平だと思いませんか?」
「なにを……」胸の中にふつふつと湧き上がっていた嫌悪感が、水風船のように膨れ上がった。「おまえ、まさか!」
「あんな痩せた女でも、商品的な価値はある」そこで吉弔は、初めて笑みを見せたのだった。「せいぜいバーゲン品程度の価値ですがね」
獣のように女苑は突進した。
恍惚の表情を浮かべながら、吉弔は引き金を引いた。
体の一点が弾け、女苑は後ずさる。
どうしても足が前に出なかった。
「姉さんを……てめえ」気炎と血液が口の中で奔流し、迸った。「ちくしょう……姉さんの体を売りやがって……ああ、くそ」
膝をつく。腹に客人のように居座る異物感、熱、痛みは、女苑から恨みや殺意を着実に削いでゆく。
エクスタシーに達したような表情で、吉弔は女苑を見下ろした。
「どうです?身内を売られた挙句、体に穴が空いた気分は……」
最悪だった。意識が遠のく。重力が何倍にもなったかのように体が重く、立ち上がるどころか、吉弔を睨みつけるために面を上げることさえ叶わない。
「このままだとあなたは死んでしまう」
血の混じった唾を嫌いなやつに吐きかけられる機会なんて滅多にないのに、すべて床に溢れてしまうのが勿体なくて仕方がない。
「大好きなお姉さんにも会えなくなってしまう」
吉弔の声が、催眠音声のように脳内に浸透してゆく。記憶のドアをノックするように、優しく響き渡る。
「取引……いえ、これは命令です」
吉弔の声が、姉の声とオーバーラップする。
「わたしに忠誠を誓いなさい」
答えは『決められていた』。
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売られた喧嘩を買わずにはいられない驪駒が、チンピラをひとりひとり丁重にもてなしてから事務所に辿り着いたのは、女苑を送り出してから二十分ほど経ったころだった。
ドアを蹴破る前から血の匂いがしていたが、蹴破ってからはより濃くなった。
吉弔がソファで寛いでいたが、それよりも注目に値したのが、真っ赤なカーペットの上からでもわかるほどに広がった血の染みと、吉弔の横に座っている、血の気の失せた顔色をした女苑だった。
「やい、吉弔」壁に手をかけ、荒い呼吸を整えながら、驪駒は言葉を紡いだ。「こんなに事務所を汚しやがって」
世間話でもするふうに、吉弔は顔を向けずに答えた。「お互い様でしょ?」
「わたしがいつ事務所を汚したってんだ?」
馬鹿か本気かわからない質問には答えないようにした。「どうして生きてるんです?」
驪駒は自分の体をあらため、「おまえが甘かったから」
「ですね」
「珍しく素直だな」
「次は上手くやりますよ」
「次は」と短い言葉を紡ぎ出す間に、驪駒は瞬時に距離を詰めた。「ない!」
驪駒の蹴りは、吉弔には届かなかった。
代わりに、女苑のダイヤモンドの指輪が驪駒の腹にめり込んでいた。
「お、おまえ……?」予想だにしなかった攻撃に、驪駒は現実を受け止めることができなかった。「な、なにやってんの……?」
「彼女はわたしに忠誠を誓ってくれました」女苑の代わりに、吉弔が答えた。「初めからこうすればよかった。初めから、わたしが女苑に……」
ここに来るまでの傷が堪えたのか、驪駒は床の上に蹲った。
至福の光景──夢にまで見た、驪駒が自分の前に傅くのを見て、吉弔は身も世もないほど笑い、それから怒りや後悔で顔を歪めた。
「貴様さえいなければ!」吉弔は手に持っていた銃で驪駒の頭を殴りつけた。「初めから、貴様さえいなければ、相手にするのはあの傲慢なだけの無能饕餮だけでよかったのに!こんな街に来ることもなかったのに!」
驪駒はなすがままにされていた。
女苑が傍でなにか呟いている。「姉さんを守らなきゃ」「姉さんに会いたい」
奇跡が起きそうな気配はない。驪駒の傷がいきなり完治するとか、女苑が前触れなく正気に戻るとか、吉弔がいきなり血を噴いて倒れるとか。そんな奇跡は、だれの目に見ても起こりそうになかった。
死ぬのか、と驪駒は思った。死ぬんだろうな。一度経験したことがある分、その分だけ恐怖は和らいでいた。
──けど、なあ……
「女苑、驪駒にとどめを刺しなさい」
──このまま突っ走ってたら、また会えると思ったんだけどな……
現実が音を立てて崩れ始める。机が倒れ、ソファが吹っ飛び、女苑が壁まで突き飛ばされた。
吉弔がなにか喚き立てたが、驪駒の耳にはもう聞こえなかった。
目蓋の裏に愛しい人の姿はなく、ただ宇宙のような闇が広がっているだけだった。
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後頭部の鈍い痛みで、女苑は我に帰った。血や疲れで霞んでいる目を擦ると、どう考えても記憶と合致しない惨状が広がっていた。テーブルやソファが倒れ、家具に紛れるように驪駒も倒れている。
入り口の方には、ビシッとした制服を着込んだ連中が、手に手にリボルバーを構えて立っていた。
「いきなり入ってきて、なんです?」吉弔の手からは拳銃が消えていた。「我々はなにもやましいことなどしてませんよ」
「ニトロイト警察だ!」河城にとり・ザ・ポリスメンは吉弔に銃口を向けながら声を張り上げた。「なにもやましいことはしてない、だとぉ?白々しいんだよ!」
言うが早いが、魔法のように拳銃を手に取り出した吉弔は、警察どもに向けて早撃ちを披露した。何人かが近くの遮蔽物に隠れ、何人かが凶弾に斃れた。
女苑は身を潜め、的にならないように終始することに決めた。さすがの吉弔も、銃を持った多勢が相手じゃ終わりだ。
応戦するポリスメンの攻撃を交わすためにマホガニーの影に隠れた吉弔・ビリー・ザ・キッド。幾つもの弾丸がマホガニーを削り、抉った。
「吉弔を追い詰めろーっ!」河城にとりが指揮を取る。「机を囲め!」
河童どもが統率の取れた動きでマホガニーの周辺に集まった。終わりだな、吉弔──そう思ったのも束の間、河童どもが断末魔を挙げながらドミノのように斃れてゆく。
規則的にばら撒かれる銃声は、吉弔の得物がさっきまでと比較にならない性能をしていることを表していた。女苑は遮蔽物から少しだけ頭を出して、吉弔が持っているものを確認した。
──サブ・マシンガン!
「退却、退却ー!」役立たずの警官どもは、逃げるのに足枷になりそうなものを放り捨てながら事務所を出て行った。「応援を呼べーっ!」
警官が捌けると、こめかみから血を流した吉弔がサブ・マシンガンの弾倉を入れ替える。女苑は必死に息を潜めていたのだが、間が悪かったのか月の満ち欠けが原因なのか、吉弔と目が合ってしまった。
吉弔は近くに落ちていた、警官どもが置いていったリボルバーを蹴飛ばした。弾かれたリボルバーは、別室のドアの前で止まった。
マシンガンを構えながら、有無を言わさぬ語気で吉弔は言った。
「依神女苑。わたしに協力しなさい」
吉弔の声には、さっきまでのような抗い難い魅力のようなものが欠けていた。動こうにも、女苑は動けなかった。
いや、動かなかった。
「はやくここから逃げなくては……わたしに協力しろと言っているのです!」
「そ……」女苑は笑った。吉弔に見せた笑顔の中で、いままででいちばんいいやつを見せてやった。「その必要はないみたいだぜ」
「なにを……」
ハッとして吉弔が振り返る。
音が鳴る前には、ケリがついていた。しかるべき軌道を通り、吉弔の腰の辺りを貫通して出て行った弾丸は、壁にかけられた『十七条の憲法』の第六条の部分に直撃した。
「依神……」血と言葉の区別がつかなくなったみたいに、吉弔の声は精細に欠けた。「し、しお、ん、か……」
血の海に沈む河童、吉弔、そして女苑。立っていたのは、最後まで立っていたのは、リボルバーを手に持って震える紫苑だけだった。
「じょ、女苑……」紫苑の手からリボルバーがこぼれ落ちた。「わ、わたし……お腹いっぱいになったら、眠っちゃってて……音がたくさんして、目が覚めたら吉弔さんが……」
女苑は優しく微笑んでやった。それはもう、聖母のように、祝福のように優しい笑みを振り撒いてやった。それから、体に鞭打って立ち上がると、紫苑を抱きしめた。骨が折れるくらい、強く。
「き、吉弔さんが女苑を……撃とうとしてたみたいだったから……わたし、彼女にごはんを食べさせて貰って……」
「姉さん」
「な、なに?」
女苑は、懐からフィルムに包まれたぐちゃぐちゃの物体を取り出した。
「なに、これ?」
「コンビニのスイーツ」女苑は照れ臭そうに笑った。「食後のデザートに、どーよ?」
事態の終息を告げる慌ただしい足音が、事務所の外から聞こえてきた。
『アーリー・タイムズ⑥』
エピローグ
「……飯はちゃんと食べてる?」強化アクリル板の向こう側で、紫苑が頷いた。「声を聞かせてよ、姉さん」
「うん、うん」紫苑は受話器を持ち直した。「ちゃんと食べてるよ」
「そっか」河城にとり・看守の方をちらりと見る。「もうすぐここを出られるから、待っててよ、姉さん」
「それはおまえの態度次第だがな」にとりが茶化すように言った。「金次第でもあるぞ!」
女苑はにとりに鬼のような一瞥をくれ、すぐに紫苑に向き直った。
「……そんで、まだ見舞いには行ってんの?」
紫苑は頷いたあと、すぐに「うん」と答えた。
「やめとけよ、あいつのせいでたいへんな目に遭わされたんだぞ」
にとりが同調するように頷く。出て行け、という意味合いを込めて女苑はひと睨みした。
「ヤクザなんかにかかずらってるといいことないよ」
「でも、ごはんを食べさせてもらったから」
紫苑がそう言うたびに、女苑は罪悪感を覚えるのだった。
紫苑を救出したあと、吉弔と驪駒と女苑は一連の暴力主犯格として、吉弔は銃刀法違反(そんなものがこの世界にあったなんて!)も罪状に追加され、全員が逮捕された。比較的に傷の浅い女苑は病院で治療を受けた後に拘置所にぶち込まれ、傷の深い吉弔と驪駒は入院してからぶち込まれる手筈になっている。警察の中でも、河城にとりに知られざる戦いがあったのだ。
それをいいことに、紫苑は吉弔の見舞いに、毎日欠かさずに通っているというのだ。我が姉ながら、正気を疑わずにはいられなかった。飯を食わせてもらった?それがなんだ。吉弔がなにを考えていたか知らないが、どうせ姉さんのことも道具くらいにしか思っていないに違いない。
ため息をひとつ吐き、女苑は受話器を持つ手に力を込めた。
「姉さん」重たい沈黙を、回線が運んでくる。「もう吉弔に会うのはやめて」
「でも……」
「職には貴賤がある」遮るように女苑は喋った。「ポン引きなんて商売は卑しいし、体を売るやつはどうしようもない。ヤクザなんてのはもっと録でもないんだよ。仕事っていうのは金を稼ぐ手段でね、こんな仕事に手を出してるやつらはね、金のためならなんでもやるやつらってことだよ。姉さんをそんなやつらの近くに置いときたくないし、わたしもポン引きなんてやめるから」
「女苑」
「なに?」
「わたし、働いてないから……」
「……」
「だからね、どんな手段でもお金を稼ぐ人は偉いなって思うんだ。どんな最低な手段でもね」
こういうことに限って、紫苑が頑固になるということを、他でもない女苑がいちばん知っていた。
どうにか紫苑をやり込めないかと思案しているうちに、時間が過ぎて行った。河城にとりが申し訳なさそうに女苑の肩を叩いた。
「面会、終わりだよ」
複雑な表情を浮かべながら立ち去る女苑を、紫苑は朗らかに見送った。なにも心配することはない、と。
「さてと」紫苑も立ち上がった。「空き缶でも拾って、売りに行きますか」
ニトロイト総合病院、B棟、二階の病室に吉弔と驪駒は入院していた。だれかの不幸が自分に取り憑いたとしか思えない。どうしてこの馬鹿女と同じ病室なんだ?ほかの病室が埋まっているようには見えなかったし、なにか大いなる力が働いているようにしか思えなかった。
「それにしても、傑作だなあ!」ついこの間に殺し合った間柄とは思えないほど、驪駒は人懐っこく喋りかけた。「おまえが依神紫苑の存在を忘れてるなんてな、え?」
ベッドから動くことのできない吉弔は、顔だけを驪駒の方から逸らした。
「最後は見てないけど、紫苑に撃たれたんだろ?慢心してるからだぞ、この馬鹿」
「ぶっ殺すぞ、てめえ!」とは言ってみるものの、立ち上がれないのでどうしようもない。「くそ、怪我が治ったら真っ先に……」
「まあまあ、お互いに目的は達成できなかったんだしさ、痛み分けといこうや」
「貴様なんかと分かち合うくらいなら、ひとりで引っ被ってやった方がマシだ」
「面白いこと言うね」
どうしようもないくらい退屈な時間が流れる。特に驪駒にとっては、体を動かせない時間というのは苦痛で仕方がなかった。
「なあ」
「……なんです?」
「ここから逃げちゃわない?」
「はあ?」吉弔は驪駒の方を見た。「わたし、動けないんですけど?」
「背負ってやるよ」
馬鹿馬鹿しい、と吉弔はまたそっぽを向いた。「逃げるならひとりで逃げなさい」
「ひとりだと自信がないんだよ。こんな体だし」
「わたしを背負ったらもっとキツくなると思いますが?」
「十七条の憲法、第十七条」驪駒は誇らしげに語った。「夫れ事は獨り斷むべからず必ず衆と與に論ふべし!」
「……」
「わたしの愛する人の教えだ」
どいつもこいつも、愛だとか恩だとか抜かしやがる。そんな一銭の得にもならないもののために動いて、なんになる?結局、世の中を動かしてるのは金だ。
まあ、けど、しかし。
世の中は金だと言うのは不文律だとしても、今回はそいつらに負けたようなものだ。金や物質ではない、形のないものたちに。たまに上回るのかもしれない、愛や恨みが、金を。
そこのところをしっかりと受け止めなければ、きっと、これからも驪駒を出し抜くことなんてできないのだろう。
「いいですよ」
「え?」
「あなたひとりだったら、絶対に無事には逃げられない」驪駒の方に顔を向け、吉弔は微笑した。「でも、二人なら……ね」
「ああ」驪駒も応じるように微笑んだ。「二人なら、な」
ベッドから飛び降りると、驪駒は吉弔を抱え上げた。
「は⁉︎ちょ、ちょっと!作戦会議は⁉︎」
「待ってろよ」窓から差し込む西日を眺めながら、驪駒は高らかに愛する人の名を叫んだ。「いつか絶対に会いに行くからな!」
「話を聞けっ!」
どこか遠くにある廟で、名高い仙人がくしゃみをした。
面白かったです!
あまりにもマッポーめいた世界にも確かに愛が存在していました